2月5日(土)付けの『毎日新聞』さん、「今週の本棚」欄。

堀江敏幸・評 『写文集 我が愛する詩人の伝記』=室生犀星・文、濱谷浩・写真 詩人たちの横顔を捉えた卓抜な批評

001 室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』は、一九五八年一月から十二月にかけて『婦人公論』に同題で連載された文章をまとめたものである。犀星没後六〇年として編まれた本書が写文集と題されているのは、初出時に犀星の散文に寄り添っていた濱谷浩の写真を呼び寄せているからだ。じつは写真の方も『詩のふるさと』として、犀星の本と同時に世に出ていた。
 濱谷浩の写真は、その清潔な構図と節度のある抒情(じょじょう)をもって、輪郭のない犀星の散文をみごとに支えている。詩人たちのゆかりの土地を訪ねて切り取ってきた鮮やかな映像と選ばれた詩との相乗効果で、収められた十二篇は文学紀行にもなっている。  北原白秋と柳河、高村光太郎と阿多多羅山・阿武隈川、萩原朔太郎と前橋、釈迢空と能登半島、堀辰雄と軽井沢・追分、立原道造と軽井沢、津村信夫と戸隠山、山村暮鳥と大洗、百田宗治と大阪、千家元麿と出雲、島崎藤村と馬籠・千曲川、そして作者犀星と金沢。濱谷浩の写真と並べると、詩の言葉に、書き手が触れた土地や人肌から発せられる気のようなものが含まれていることに気づかされる。
  しかし本書の真の魅力は、独特の律動を持った犀星の、手びねりの文章にある。純真で遠慮のない子どもとずる賢い大人が共存しているまなざしで捉えられた詩人たちの横顔は、いったんゆがみ、しばらくすると元にもどってあたらしい真実となり、知らぬ間に卓抜な批評として読者の心に焼き付けられるのだ。
 たとえば師の白秋が、詩誌『朱欒(ザムボア)』に投稿された犀星の詩について、十年後に酒の席でその原稿の字のひどく拙かったことを「ひときわ真面目な顔付」で指摘し、ではどうして採用してくれたのかと問われると、「字は字になっていないが詩は詩になっていたからだ」と答えた話。白秋の慧眼(けいがん)は犀星の文学の根を簡潔に言い当て、犀星はその現場の空気を逃さず、ぎゅっと拳に包む。白秋は犀星を「故郷の郷という字も碌(ろく)にかけない男だ」と評しているのだが、最もよく知られた犀星の詩「小景異情」の、遠きにありて思うものとしてのふるさとは、漢字が書けない男だから生まれたのだとつい言いたくなる陽性の逸話だ。
 犀星とおなじく白秋の雑誌の投稿者として親友となった萩原朔太郎との関係も控えておきたい。「私がたちの悪い女で始終萩原を追っかけ廻(まわ)していて、萩原もずるずるに引きずられているところがあった」。酒を飲み、口論して別れた晩の犀星は恋人に振られたように黙して「何処(どこ)に行ってもおちつきがなかった」という。理に立つ男と理を拒む男の、隔たりがあるからこその愛憎が、危うい譬(たと)えの中で小説の一場面になる。
 高村光太郎を智恵子に照らした一節にも、残酷な性愛の匂いがある。「かれが死ぬまで、智恵子の肉体がかれのお腹(なか)のうえにあって、かれの胃と腸をあたためていた」。「かれ」を無造作に繰り返すこんな寸評に触れると、光太郎の詩にはやわらかい腹部があって、大きな手がその上で見えない言葉の卵を包んでいるとしか思えなくなってくるだろう。その卵を孵化(ふか)させるのが詩の器だとすれば、愛する知友について四苦八苦しながら、字になっていない字で綴(つづ)っていた犀星こそ、真正の詩人と呼ばれるべきかもしれない。

写文集 我が愛する詩人の伝記』の書評、先月には和合亮一氏のそれが、『産経新聞』さんに掲載されましたが、今度は堀江敏幸氏の評。同書、錚々たる方々の歓心を買っているようです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

東京より毎日新聞出版部の三井良尚といふ人来訪、土方定一氏の紹介状持参、「日本の詩歌」総論執筆の件。結局承諾。


昭和27年(1952)1月15日の日記より 光太郎70歳

002『日本の詩歌』は、毎日新聞社から昭和29年(1954)4月に刊行されました。

その年1月の『毎日新聞』に連載された光太郎の評論「日本詩歌の特質」(日記にある「総論」でしょう)を巻頭に置き、その他、「日本の詩歌の系譜」(吉田精一)、「現代詩概観」(三好達治)、「近代短歌」(木俣修)、「近代俳句」(加藤楸邨)から成ります。
 
光太郎が編者となっていますが、実務は毎日新聞社図書編集部でした。

どうした事情があったのか不明ですが、依頼から執筆、刊行までけっこうなタイムラグがありました。