昨日の『上毛新聞』さんから。

古道保全へ調査 赤城、榛名で日本山岳会 歴史や価値、成果公開

 日本山岳会群馬支部(根井康雄支部長)は、赤城山と榛名山で使われていた古道を調査し、インターネット上で公開する。同会が創立120周年を迎える2025年に向け、21年度から全国規模で始めた山岳古道調査プロジェクトの一環。古くから山岳信仰の対象とされてきた両山を歴史や文化、地理的側面から調べ、古道の保全につなげる。結果は今年夏にもウェブ公開し、観光や教育など他分野で活用してもらう。
 同会によると、40年ほど前に文化庁が手掛けた「歴史の道」事業が古道調査として知られるが、対象は平地の街道が中心だった。各地で個人や団体による調査が行われてきたものの、全国の多くの山岳古道を調べるのは初とみられる。
 調査対象の古道については、既に赤城山や榛名山などを含む全国59カ所を選定済みで、3月末までに120カ所を決める。調査が終わった古道から順次、道の成り立ちや変遷、文化的価値などをウェブサイトで公開し、最終的には書籍化も予定する。
 本県では同支部が21年6月、古道調査のモデルを示すため、全国の他地域に先んじて赤城山での調査を開始した。21年度内に赤城、榛名の両山とも、山頂へ向かう6ルートを調べる。赤城山は前橋市のほか、渋川や桐生、沼田の各市から、榛名山は高崎市を中心に渋川市、東吾妻町から登るルートを想定する。
 22年度以降は、戊辰(ぼしん)戦争で官軍が通ったとされる尾瀬を越えて福島県へと続く会津街道、中之条町の四万温泉から新潟県へと抜ける古道などを調査対象とする。
 赤城、榛名の古道はいずれも麓から山頂近くの神社に向かっており、山岳信仰と密接に関係するのが特徴。山ごもりを通じて悟りを得る修験道を実践する山伏も通ったとされる。戦後も利用されていたというが、高度経済成長期に自動車が普及したことで使われなくなった。
 赤城山の古道では、三夜沢赤城神社の北側に櫃石(ひついし)という巨大な石があり、古墳時代に祭祀(さいし)場として使われるなど信仰の名残がある。赤城山を愛した文人の高村光太郎や志賀直哉らも、古道を利用した可能性があることから、山岳信仰や歴史、文化的な価値にも光を当てる。
 現地調査では、古い文献や地図の情報を基に、スマートフォンで得られる衛星利用測位システム(GPS)データ、コンパスと照らし合わせながら古道を見極めている。道の形がはっきりしない場所も多いため、植物の生え方、地形、石積みといったかすかな痕跡を考慮に入れ、総合的に判断しているという。
 根井支部長は「古道調査を通じていにしえの人々の思いを掘り起こし、貴重な歴史的遺産として後世に伝えていきたい」と話している。
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光太郎の名を挙げて下さいました。

光太郎は赤城山を非常に愛し、生涯に何度も訪れています。明治37年(1904)には、5月から6月にかけてと、7月から8月にかけての2回、計40日ほどを赤城に過ごしています。この際には親友だった水野葉舟も同行していました。また、あとから合流した与謝野鉄幹ら新詩社同人のガイド役も買って出ています。
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その2年後、明治39年(1906)から、約3年半の欧米留学。帰国直後の同42年(1909)にも赤城山に登りました。

また、昭和4年(1929)にも、草野心平、高田博厚らを引き連れて登っています。この時同行した詩人の岡本潤の回想に拠れば、光太郎は下駄履きで登っていったとのこと。ちなみに前橋駅で落ち合った萩原朔太郎は登らなかったそうです。そして確認できている限り、最後の赤城行は昭和6年(1931)。この際には父・光雲も一緒でした。
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それら赤城行の際に拠点としたのが、猪谷旅館。ここが実家の猪谷六合雄は日本スキー界の草分けで、さらに子息の千春氏は光太郎が歿した昭和31年(1956)、コルチナ・ダンペッツォ五輪で、日本人初の冬季五輪メダリストとなりました。
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こちらが猪谷旅館。当方手持ちの古絵葉書です。

『上毛新聞』さんで「赤城山を愛した文人の高村光太郎や志賀直哉らも、古道を利用した可能性がある」としているのは、おそらく明治37年(1904)のことでしょう。約40日の滞在で、周辺をかなりくまなく歩いたようです。この際に光太郎が描いたスケッチ帖が、光太郎歿後になって『赤城画帖』の題で龍星閣から刊行され、それを見ると、いかにも古道、というような場所でのスケッチも含まれています。
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また、明治38年(1905)3月の『明星』には、赤城山を舞台にし、『伊勢物語』を下敷きにして歌物語風に構成した連作短歌「毒うつぎ」を発表しましたし、翌月に同じ『明星』に載った戯曲「青年画家」も、ヒロインは赤城山出身の女性という設定です。

地元で土地勘のある方々が読めば、『赤城画帖』、「毒うつぎ」とも、「ああ、この場所だ」というのがよく分かるような気がします。

下記は猪谷旅館発行の地図。おそらく細い線で書かれているのが「古道」なのではないでしょうか。
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光太郎もこの手の地図を懐に、赤城の山々を歩いたのでしょう。

ちなみに赤城山中には氷室があったそうで、光太郎はそこの番人だった「大さん」という不思議な老人と意気投合したとのことです。

上記地図は、高村光太郎研究会員・佐藤浩美氏著『光太郎と赤城―その若き日の哀歓―』(平成18年=2006、三恵社)から採らせていただきました。佐藤氏、さらに続編とも言うべき『忘れえぬ赤城―水野葉舟、そして光太郎その後―』(平成23年=2011、同)も書かれていて、この地と光太郎の関連を知るには好個の書です。
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今回の日本山岳会さんの調査により、さらに詳しく光太郎の足取り等が明らかになるといいのですが……。

【折々のことば・光太郎】

晴れる、前の田の刈入はじまり。


昭和26年(1951)10月7日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、稲刈りは10月初旬なのですね。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部は早場米が中心で、8月末には稲刈りです。