2022年、令和4年となりました。
001
個人としては、当方、喪中ですので、個人の皆様への年賀状は欠礼させていただきましたが、法人、団体様へは、こちらも公人として上記をお送りいたしました。画像は光太郎、東京美術学校在学中の彫刻で、「虎の首」。上野動物園(または浅草花やしき)に通って作ったものです。

動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。象、獅子、虎、熊、猪、鷲、鶴などが常連であつたが、虎には油断するとよく尿をひつかけられた。人をめがけて放尿する癖が虎にはある。
(「モデルいろいろ」昭和30年=1955)


ところで、昨年は『智恵子抄』発刊80周年でしたが、今年はその辺り、どんなものだろうと思って調べてみました。

130年前 明治25年(1892) 光太郎10歳(数え年。以下同じ) 一家が今も髙村家の続く本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木)に引っ越しました。

120年前 明治35年(1902) 光太郎20歳 雑誌『百虹』に、現在知られている最も古い詩「なやみ」が掲載されました。

110年前 明治45年/大正元年(1912) 光太郎30歳 この年はいろいろありました。まず、実家にほど近い駒込林町25番地に、光太郎アトリエが竣工しました。続いて、前年に知り合った智恵子への最初の詩「N――女史に」(のち「人に」と改題)を書きました。その智恵子と、銚子犬吠埼で愛を誓い合ったのもこの年。そして秋には岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会を結成、第一回展に油絵を出品しました。

100年前 大正11年(1922) 光太郎40歳 眼を病み、医師から彫刻も執筆も読書も禁じられました。

90年前 昭和7年(1932) 光太郎50歳 心を病んでいた智恵子が自殺未遂……。一命は取り留めました。

80年前 昭和17年(1942) 光太郎60歳 前年の『智恵子抄』に続く第三詩集『大いなる日に』を刊行しました。戦時中ということで、全篇、翼賛詩です。

70年前 昭和27年(1952) 光太郎70歳 生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を後に、中野桃園町の貸しアトリエに移りました。

ちなみに「来年の話をすると鬼が笑う」と申しますが、来年、2023年は、光太郎生誕140年に当たります。ちょっと中途半端な周年ですが、関係の方々、今から来年に向け、生誕140周年記念のなにがしかを企画していただきたいものです。協力は惜しみません。

というわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝ラジオで年賀ハカキ放送をきく。一日ラジオをかける。 雑煮、抹茶、 元村長さん宅から餅少々もらふ。


昭和27年(1952)1月1日の日記より 光太郎70歳

上にも書きました通り、70年前の今日、光太郎70歳の元日です。