本日も新刊紹介です。

近代を彫刻/超克する

2021年10月27日 小田原のどか著 講談社 定価1,300円+税

〈思想的課題〉としての彫刻を語りたい。 

街角の彫像から見えてくる、もう一つの日本近現代史、ジェンダーの問題、公共というもの……。
都市に建立され続け、時に破壊され引き倒される中で、彫刻は何を映すのか。
注目の彫刻家・批評家が放つ画期的な論考。
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目次
 1章 空の台座
  1 彫刻という困難  2 彫刻が可視化するもの  3 記念碑としての彫像
  4 彫刻のはじまり  5 空の台座と女性像
 2章 拒絶される彫刻
  1 破壊される彫像  2 光太郎とロダン  3 《風雪の群像》
  4 《サン・チャイルド》  5 長崎の《母子像》
 3章 彫刻を語る
  1 「彫刻」となったレーニン  2 《わだつみの声》
  3 「もう一つの東京裁判」  4 彫刻の立つ地点
 あとがき
 註  


彫刻の実作のかたわら、一貫して銅像などの公共空間に置かれた「公共彫刻」について考察を発表されている、小田原のどか氏の近著です。元は雑誌『群像』さんの今年1月号、4月号、6月号に載ったものを加筆修正、だそうです。実は6月号の時点で気づいたのですが、いずれ単行本化されるだろうと予測していまして、その通りでした。

また、「1章 空の台座」(「空」は「そら」ではなく「から」です。)は、平成30年(2018)に刊行された、小田原氏を含む10数名の皆さんによる、『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(トポフィル)中の「空の台座――公共空間の女性裸体像をめぐって」を大幅に改稿したもの、とのこと。

光太郎について、「2章 拒絶される彫刻」中に「2 光太郎とロダン」という項が設けられています。また、他にアメリカの彫刻家・ボーグラムや本郷新との関わりや、大熊氏広の「大村益次郎像」、三条京阪駅前の「高山彦九郎皇居望拝之像」(作者:戦前、渡辺長男・戦後、伊藤五百亀)などを紹介する中でも、光太郎に触れられています。

ただ残念なのは、「2 光太郎とロダン」中、事実と反する記述があること。「光太郎が屋外に残した彫刻は、東京藝術大学内の《高村光雲像》と、遺作である十和田湖の《乙女の像》のみである。」という部分です。他に3点、光太郎が屋外設置の公共彫刻を手掛けたことが確認できています。

まず、光太郎クレジットのものとしては、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた「赤星朝暉胸像」(昭和10年=1935)。それから「監督・高村光雲 原型・高村光太郎」という扱いで宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」(大正14年=1925)。そして完全に光雲の代作のようですが、岐阜県恵那郡岩村町の「浅見与一右衛門像」(大正7年=1918)。下の画像、左から順に、赤星、青沼、浅見です。
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ただ、残念ながら、3点とも戦時の金属供出にあい、現存しません。赤星像と浅見像は、それぞれ武石弘三郎と永井浩によるいわば「後釜」が戦後に設置され直し、青沼像は残された台座に作者不明のレリーフが嵌め込まれた形で残っています。
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上の画像、左が青沼像、右は浅沼像の台座です。浅沼像のほうは、少し離れた場所に新たな像が設置され、元の台座は台座のまま残っています。もっとも、これらの写真を撮りに行ったのも十数年前なので、現在どうなっているか不明なのですが……。

こういった、金属供出などによって、台座のみが残された件についての考察が、『近代を彫刻/超克する』中の「1章 空の台座」です。

小田原氏、来月末から青森市の国際芸術センター青森さんを会場に、個展を行うそうです。「いよいよ、高村光太郎の彫刻と自作が並びます。」とのことです。コロナ禍のため動きが取れず、昨年、藝大さんで開催された「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」も観に行けず、青森空港の巨大ステンドグラス「青の森へ」や、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022」もまだ拝見していませんので、この機会に、と思っております。

さて、『近代を彫刻/超克する』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

松下英麿氏に起こされる。特級白鶴二本かついでくる、よみうり賞の祝の由、ビール四本のみて夕方まで選集、てんらん会の打合。五時辞去。


昭和26年(1951)5月22日の日記より 光太郎69歳

0c2e0e33松下英麿氏」は、中央公論社の編集者。光太郎とは戦前からの付き合いで、貴重な光太郎回想も複数残しています。「よみうり賞」は、詩集『典型』による第二回読売文学賞の受賞、「選集」はこの年10月に同社から刊行が始まった『高村光太郎選集』(草野心平編)、「てんらん会」は、翌月、銀座の資生堂画廊で開催された「智恵子紙絵展覧会」です。ちなみにこの時から光太郎の考えで「紙絵」の語が使われるようになりました。主催が同社と創元社でした。

例によって、日本酒をもらうとその銘柄を記録しています。この日は「白鶴」。いわゆる灘の銘酒で、現在も販売されていますね。