作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。

「時事通信」さん配信記事から。

瀬戸内寂聴さん死去、99歳 純文学から伝記、大衆小説まで 

無題 私小説から伝記、歴史物まで幅広く手掛け、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市の病院で死去した。99歳だった。葬儀は近親者で行う。後日、東京都内でお別れの会を開く予定。
 1922年、徳島市生まれ。東京女子大在学中に結婚。北京に滞在したが、46年に引き揚げ後、夫の教え子と恋愛関係になり協議離婚した。前後して小説を書き始め、丹羽文雄主宰「文学者」の同人に。57年に新潮社同人雑誌賞を受賞し、初の短編集「白い手袋の記憶」を刊行した。
 続けて発表した短編「花芯」で人妻の不倫を描き、「子宮作家」と呼ばれるなど物議を醸した結果、文芸誌からの執筆依頼が数年途絶えた。その間も雑誌に発表した作品が人気を集め、流行作家に。純文学と大衆小説のジャンルをまたいで活躍し、61年に伝記小説「田村俊子」で田村俊子賞、63年には「夏の終り」で女流文学賞を受賞した。
 明治・大正期の女性解放運動に共感し、伊藤野枝らを題材に「美は乱調にあり」などの伝記小説を次々と発表した。古典文学にも造詣が深く、70歳になる92年から「源氏物語」の現代語訳に取り組み、98年に全10巻を完成。京都府宇治市の源氏物語ミュージアムの名誉館長も務めた。
 多忙を極める中で出家への思いを募らせ、岩手県平泉町の中尊寺で73年に得度(出家)した。旧名「晴美」から法名「寂聴」に改名し、執筆を続けながら、京都市の「寂庵」を拠点に法話活動を展開。岩手県二戸市の天台寺住職も兼ね、孤独や病、家族などに悩む人々に寄り添った。
 政治・社会運動にも関わり、91年の湾岸戦争や2001年の米同時多発テロの際は断食により反戦を訴えた。東日本大震災後も現地の慰問や脱原発運動などに奔走した。
 著書は、谷崎潤一郎賞の「花に問え」、芸術選奨文部大臣賞の「白道」、野間文芸賞の「場所」、泉鏡花文学賞の「風景」のほか、エッセーや対談集など多数。06年に文化勲章を受章した。
 14年に背骨の圧迫骨折、胆のうがん摘出を経験したが、その後回復し、17年に作家としての来歴や闘病を題材にした長編小説「いのち」を刊行するなど、晩年まで精力的に文学活動を続けた。

当方、伝記小説のジャンルで、いろいろ参考にさせていただきました。光太郎智恵子を中心に据えた作品は書かれませんでしたが、その周辺人物たちを描いたもの。
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最近に読んだのは、一番右の『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』(昭和59年=1984)。白秋を主人公とした映画「この道」公開記念に出た文庫の新装版で読みました。中央が『田村俊子』(昭和36年=1961)。上記画像はやはり文庫版ですが、寂聴さんと交流の深かった横尾忠則さんの表紙が鮮烈です。智恵子と最も親しかった作家の田村俊子が主人公です。右は『青鞜』(昭和59年=1984)。平塚らいてうを中心に、尾竹紅吉、伊藤野枝ら『青鞜』メンバーの群像。智恵子も登場します。上記文庫版の表紙でもモチーフになっている、『青鞜』創刊号の表紙のくだり。
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ちなみに当方手持ちの『青鞜』。これも文庫版ですが、寂聴さんサイン入りです。当方が書いてもらったわけではなく、古書店で購入したもので、真筆かどうかよくわかりませんが。
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002これら三冊、いずれも厚冊で、改めて読み返してはいませんが、平成24年(2012)に発行された雑誌『いろは』に載った、瀬戸内さんと森まゆみさんの対談を読み返してみました。題して「青鞜の女たち」。

田村俊子やらいてう、そしてやはり寂聴さんが伝記小説で描かれた岡本かの子(『かの子撩乱』昭和40年=1965)、伊藤野枝(『美は乱調にあり』同)などにも触れられています。野枝あたりと較べれば、らいてうはまだまだ優等生、的なご発言もあったりで、寂聴さんの一種の豪快さも改めて感じました。

『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』でメインだった江口章子なども含め、三浦環や管野須賀子、金子文子など、強烈な女性たちを多く描いてこられた瀬戸内さん。御自身も彼女たちに負けず劣らず、ですね。ぜひ森さんあたりに伝記小説『瀬戸内寂聴』を書いていただきたいものです。

改めて、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午后佐藤隆房氏、宮澤政次郎氏、〃老母同道来訪。熊谷さん運転と見ゆ、もらひものいろいろ。

昭和26年(1951)5月6日の日記より 光太郎69歳

宮澤政次郎氏」は賢治の父、「老母」はその妻・イチです。光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋に移った後も、花巻町中心街に出ると、ほぼ必ず宮沢家に顔を出していましたが、政次郎夫妻が太田村の山小屋を訪れたのは、この時が初めてでした。

自動車が通れる道が光太郎の山小屋から1㌔弱の山口小学校までしか通じておらず、明治7年(1874)生まれの政次郎は足を悪くしていたため、無理だったわけです。

この時期、山小屋の増築工事もあり、道も整備され、この日は佐藤隆房家のダットサンで、政次郎夫妻が念願の光太郎山小屋訪問を果たしました。下記がこの日撮られた写真で、左からイチ、政次郎、光太郎です。

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