一昨日、また都内に出ておりまして、2件、用を済ませて参りました。

まず向かったのは、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さん。
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展覧会等の観覧ではなく、アートライブラリで調べ物です。以前、こちらでは、古い美術雑誌で『高村光太郎全集』に収録されていない光太郎の文章を発掘したりしたのですが、やはり『高村光太郎全集』に漏れている書簡が収蔵されているという情報を得まして、調べに行った次第です。書簡などの一点物がここにあるというのは存じませんで、盲点でした。
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具体的には、昨年寄贈された「難波田龍起関係資料」の中に、それが含まれていました。難波田は明治38年(1905)生まれの画家で、大正2年(1913)、少年時代に本郷区駒込林町の光太郎アトリエ裏に移り住み、光太郎に親炙、美術と詩作も光太郎の影響で始めたという人物です。

難波田宛の書簡は、『高村光太郎』全集に18通収録されていますが、リストを見ると、他に3通。うち1通は書簡とは言えず、昭和17年(1942)に開催された難波田の個展の目録に寄せた「難波田龍起の作品について」という文章(『高村光太郎全集』第6巻所収)の原稿だけが封筒にボンと入っていました。

封筒、といえば、昭和13年(1938)11月8日付けのもの。こちらは前月に亡くなった智恵子の会葬御礼的なもので、印刷でした。おそらく多数の人物に同一のものが送られたようで、『高村光太郎全集』には、光太郎の親友だった水野葉舟に送られたものが掲載されています。最後の宛名だけ異なりますが、同じものでした。

そして、葉書。昭和17年(1942)2月24日付けのもので、こちらは完全に『高村光太郎』全集に漏れていたもので、これを確認できただけでも収穫がありました。

内容的には、駒込林町のアトリエに来てくれたのに、留守にしていて申し訳なかった、別封で新刊の評論集『造型美論』を送ったよ、といったものでした。留守にしていた理由というのが、「文芸会館の会合」。具体的に何を指すのか不明ですが、この月に日本少国民文化協会が結成されていますので、それに関わるかもしれません。それに伴い幼少年誌が統合され、光太郎も寄稿した『少国民の友』や『日本少女』といった雑誌が生まれました。また、翌月には同会主催の講演会で光太郎が演壇に立ち、詩「或る講演会で読んだ言葉」として発表しています。

また、光太郎が議員を務めていた大政翼賛会中央協力会議の件にも触れられ、いかにも戦時、という内容でした。

驚いたのは、難波田と連れだって光太郎の留守宅を訪れたのが、中込友美であったことでした。中込に関しては、先月の『東京新聞』さんに大きく取り上げられ、このブログでもご紹介しました。詩作のかたわら、社会福祉にも高い関心を持ち、戦後は戦災孤児のための施設を運営したりした人物です。今回見つけた葉書の中にも「中込さんの厚生美術制作団の構想と実行との力に期待します」という一節があり、戦時中からそういう活動に携わっていたのか、と思いました。

『高村光太郎全集』に3箇所しか出て来ない中込の名を、このところ立て続けに眼にし、不思議な感覚でした。まるで中込の魂に導かれてそうなったような……。

そう思っておりましたところ、昨日、智恵子もかつて所属していた太平洋美術会の坂本富江さんから封書。「『東京新聞』さんにこんな記事が載ってましたよ」ということで。
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10月10日の記事を読んでの感想的なものですね。これも中込の魂の導きか、と思いました(笑)。

MOMATさんのアートライブラリ、まだまだ何かありそうだと思いますので、さらに調査を継続しようと思っております。

さて、竹橋を後に、続いて入谷に。次なる目的地は、入谷駅からほど近い「いりや画廊」さんです。こちらでは彫刻家の吉村貴子さんの個展「雲魂UNKON」が開催中。
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吉村さん、光太郎にも興味をお持ちで、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する論考等も書かれています。そんな関係でご案内をいただき、これは参上せねば、というわけで馳せ参じました。

「雲根」とは、元々中国の古典に出て来る言葉で「岩石」の意です。日本でも江戸時代に「弄石家」と云われる趣味人の間で広く使われていたそうです。吉村さんの修士論文が、その弄石家で『雲根志』という書物を著した江戸時代の木内石亭という人物に関してのもので、こちらは帰りの車中で興味深く拝読いたしました。

実際に吉村さんとお会いするのは初めてでしたが、いろいろお話を伺う中で、維新後に西洋から入ってきた石彫とは別の系列で、元々日本には石彫文化があり、吉村さん御自身も実作でその流れを汲む、ということなのかと理解しました。
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石の作品の素材は花崗岩だそうですが、割って、彫って、削って、磨いて、ということで、凄い労力なのでしょう。下の画像は吉村さんのフェイスブックから。
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ちなみに光太郎も、数は少ないのですが、石彫を手掛けています。現存が確認できていない作品で、大正6年(1917)、実業家・図師民嘉の子息・尚武に依頼された「婦人像」(仮題)。写真のみ確認できています。詳しくはこちら
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吉村さん、石以外に、ガラスの作品も。
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ガラスでありながら、やはり岩石感があふれていますが。

多くの作品で、中央に丸い穴が開けられています。「これ、どういう意図ですか?」とお聞きしたところ、この穴から裏側に入ってまた表に戻ってくる、表裏一体、循環、「雲根」の原義「雲は石より生ずるによりて、石を雲根と云ふ」みたいな……。なるほど、と思いました。今流行りの「SDGs」を連想させられました。

こちらは11月13日(土)まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヱン豆は小鳥が皆たべてしまふ。

昭和26年(1951)4月26日の日記より 光太郎69歳

ヱン豆」は「えんどう」、サヤエンドウでしょうか。とあるテレビ番組で、アナウンサーの方が光太郎書簡を読む中で、「えんまめ」と読んでいて吹き出しましたが(笑)。

鳥さんたちは非常に賢く、人間が畑やプランターなどに種子などを埋めるのを見て理解しており、人がいなくなったら速攻で掘って食べるそうです。