まず、信州から開催中の企画展示情報を。

昭和ノスタルジー展

期 日 : 2021年9月18日(土)~12月28日(火)
会 場 : 朝日美術館 長野県東筑摩郡朝日村大字古見1308
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般200円 高校・大学生100円 小中学生50円

あの頃に思いを馳せて…

朝日美術館収蔵品より懐かしい昭和の時代にいざなう品々をご紹介します。

オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレンなど外国映画の主演女優たちが表紙を飾った『キネマ旬報』74点を初公開するほか、国鉄時代のディスカバー・ジャパン(個人旅行拡大キャンペーン)のため入江泰吉(写真家)らが撮影した迫力ある仏像写真を使った「奈良 大和路」ポスターなどを展示します。 

また、『智恵子抄』や『道程』を著した詩人で彫刻家の高村光太郎研究の第一人者として知られ、2020年に逝去された文芸評論家の北川太一氏が研究の傍らに取り組んだ版画作品16点もご紹介します。

このほか、昭和の時代から活躍されていた作家の絵画・彫刻・書もご覧いただけます。

どうぞノスタルジックな雰囲気をじっくり味わってください。
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当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生が、ご生前、趣味として取り組まれていた版画が展示されています。
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公式サイトにて紹介されているこちらの版画、今年4月刊行の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の表紙を飾った作品ですね。

かつて安曇野の碌山美術館さんにお勤めだった千田敬一氏が、北川先生とご懇意で、現在も朝日美術館さんにいらっしゃるのでは、と思われます(違っていたらごめんなさい)。同館では、平成18年(2006)に「北川太一の世界」展として、やはり先生の版画、書などを根幹とした企画展をなさって下さいました。
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もう15年経ったか、と、感慨深いものがあります。

北川先生の版画といえば、当会で会報的に発行している『光太郎資料』。こちらの表紙も北川先生作の木版を写したものです。そもそも北川先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として年2回発行しております。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第二十回 音楽・映画・舞台芸術(その二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、昭和期のものを集成しました。001
 書簡 太田花子宛 昭和2年(1927)
 アンケート 本年(昭和三年)の計画・希望など
  昭和3年(1928)
 詩 カジノ・フオリイはいいな 昭和5年(1930)
 散文 藻汐帖所感 昭和6年(1931)
 書簡 新井克輔宛 昭和25年(1950)
 雑纂 高村光太郎氏の話 昭和25年(1950)
 書簡 野末亀治宛 昭和27年(1952)頃


・光太郎回想・訪問記  座談会三人の智恵子 水谷八重子 原節子 新珠三千代 武智鉄二
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、光太郎の歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、「智恵子抄」二次創作が相次いで行われ、その関係者による座談会です。昭和32年(1957)6月1日『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。

司会は武智鉄二。新作能「智恵子抄」の演出を手掛けました。「三人の智恵子」は、初代水谷八重子さん、原節子さん、そして新珠三千代さん。それぞれ、新派の舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた方々です。

・光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/聖徳太子御像に就いて 
光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、明治36年(1903)、雑誌『応用美術』第二巻第二十七号所収の「牙彫の趣味」、大正10年(1921)、雑誌『建築図案工芸』第七巻第五号所収の「聖徳太子御像に就いて」。聖徳太子像についてはこちら

昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 草津温泉(群馬県)
確認できている限り、光太郎は三回、草津を訪れています。その辺りの経緯をまとめました。右下の写真は、昭和8年(1933)、最後の草津訪問の際に泊まった望雲閣(建物は建て替わりましたが現存するホテルです)。心を病んだ智恵子の療養のためでした。
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・音楽・レコードに見る光太郎  「鳩」箕作秋吉
詩「鳩」は、明治44年(1911)の作。もともと歌曲の歌詞として作られたものではありませんが、作曲家・箕作秋吉が、昭和7年(1932)にこの詩に作曲し、翌年刊行の『世界音楽全集 第三十九巻 日本新歌曲集』(箕作秋吉編 春秋社)に発表しています。現在確認できている限り、光太郎詩に曲が付けられて発表された最も古い例で、そのあたりをまとめました。
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・高村光太郎初出索引(年代順)

・編集後記


B5判、全47ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(37集以降のバックナンバーも)。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大村次信氏夫妻及服飾学院生徒15,6人ほど来訪 院長さん宅洋間にて談話。ひる頃まで、

昭和26年1月21日の日記より 光太郎69歳

滞在していた花巻病院長・佐藤隆房宅でのことです。

大村次信は、盛岡で現在も続く「オームラ洋裁教室」の創始者。「女啄木」と呼ばれた歌人・西塔幸子の弟です。