一昨日は、都内文京区千駄木の、旧安田楠雄邸にて開催された「語りと講話 高村光太郎作 智恵子抄」で、講師を務めさせていただきました。

午後1時からと4時からの2回公演でしたが、その合間等に、会場周辺をぶらぶら散歩。ご来場いただいた方々に、この地が光太郎智恵子、そして光雲らのゆかりの地であることから、当方作成の「光太郎智恵子光雲関連マップ」をお配りしました。ところが、自分自身、ゆかりのスポットとして挙げておきながらそこに行ったことがないという場所もありまして、時間もあったので歩いた次第です。

こちらがマップの「千駄木版」。地図上の番号は、だいたいの位置です。
千駄木マップ
まず、午後1時の部の始まる前、会場の旧安田邸から100㍍程の、光太郎アトリエ跡に。「光太郎先生、智恵子さん、これからお二人のお話をさせていただきますよ」という意味で。
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現在は一般の方の住宅となっており、当時を偲ぶよすがは文京区教育委員会さんの設置したこの案内板しかありませんが。

ここに昭和20年(1945)の空襲で焼失するまで、これが建っていたわけです。
アトリエ
その後、午後1時の部終了後、須藤公園へ。この周辺は光太郎詩「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)の舞台とされています。光太郎が詩に謳った頃には、まだ公園として整備されていませんでした。
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道すがら、戦災に遭わなかったと見られる建造物がいろいろありまして、古建築好きの当方、テンションが上がりました(笑)。
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この一角、元々お屋敷町でしたので、さもありなん、です。

それにしても、旧安田邸や、隣接する光太郎実家(旧髙村光雲邸)もそうですが、空襲の被害を免れた家もあれば、光太郎アトリエや、団子坂の観潮楼(森鷗外邸)のように、焼失してしまったところもあり、紙一重の差だったんだなぁと思いました。

歴史に「たられば」は禁物ですが、もし光太郎アトリエも燃えずに残っていたら、光太郎もわざわざ花巻まで疎開することもなかったでしょうし、その後の光太郎の人生も大きく変わったように思われます。

ちなみにマップは裏表両面印刷になっておりまして、もう片面には「広域版」ということで、千駄木を中心に半径3㌔㍍ほどの広域バージョンも作りました。ご参考までに。
広域マップ
これ以上広げて、浅草や日本橋、神田方面等まで入れますと、さらにゆかりの場所が倍増して、説明を書ききれませんので、この範囲でやめておきました。

さて、昨日、愛車に積んで置いた機材やら展示した資料やらの荷物を下ろしたところ、紙包みが。安田邸スタッフの方に「聴きにいらした方から差し入れだそうです」と渡されたものでした。開けてみると……
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どなたか存じませんが、ありがとうございました。この場をお借りして(自分のサイトですが(笑))御礼申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

学校までの往復の雪みちもかたまりて歩きよくなれり。 兎や狐の足あと此頃ふえる。


昭和24年(1949)1月21日の日記より 光太郎67歳

この年の日記は、翌日以降、翌年12月30日までの、約2年間分の現存が確認できていません。そのため、昭和24年(1949)、25年(1950)と、光太郎の細かな行動で不明の部分が多くあり、残念です。

光太郎自身が処分したとも考えにくく、誰かが持ち出してしまったのかという気もします。どこかにひっそりと残っていないものでしょうか。