開催期日が迫ってきたので、さて、紹介しよう、とすると、実は申込期限が過ぎていたということが往々にしてあります。これからは開催期日ではなく申込期日でメモしておこうと思いました。

で、今回もそのケースですが、とりあえず。まだキャパに余裕があるかもしれませんし……。

9月田端ひととき講座 平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~

期 日 : 2021年9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館ホール 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 午後1時開演(0時30分開場)
料 金 : 無料(事前申し込み)

田端で新婦人協会を創設するなど、女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてう。本年はらいてう没後50年の節目を迎えたことから、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、戦前までの活動について、同館研究員が講義をおこなう。講座参加者たちは、女性の社会参加や社会的地位の向上を目指して尽力した、らいてうの軌跡を知ることができる。

明治時代、産業革命とともに女性の社会進出が進んだ一方、その地位は一向に低いままであった。平塚らいてうは女性解放運動が活発になり始めた明治末期に、女性による女性のための文芸雑誌『青鞜』を創刊し、女性が抑圧されて輝けない状況をなげき、「元始女性は太陽であった」と女性の本来あるべき姿を訴えた。

1918年(大正7年)、平塚らいてうは田端へ転入し、自宅を事務所として市川房枝らと新婦人協会を創設。彼女たちは田端を拠点に婦人運動に尽力し、女性の政治活動を禁じていた「治安警察法第5条」の一部改正を実現させ、女性の政治活動の自由を獲得するという偉業を成し遂げた。同協会は女性の政治的権利獲得に成功した戦前唯一の団体であり、その活動の拠点となった田端は、女性運動の聖地と言える。らいてうの田端時代は、朝も昼も夜もなく働き、家庭を顧みられない生活と自身で語るほど、人生で最も忙しい日々となった。

本年は、日本の女性運動の草分け的存在である平塚らいてうの没後50年の節目となる。本講座では、青鞜から新婦人協会時代までを中心とした軌跡を辿り、その活動を同館研究員が紹介する。参加者たちは、女性の社会参加や社会的地位の向上を目指して尽力したらいてうの若き日の活躍を知るとともに、その信条に思いを馳せることができる。

また、同館常設展示スペースでは「平塚らいてう没後50年特別展 ~らいてうの軌跡~」が開催中。らいてうが田端で過ごした時代を中心に、女性たちの力で創刊した文芸雑誌『青鞜』から、女性運動を展開した新婦人協会までの軌跡を辿り、らいてうの家庭生活を交えながら紹介している。9月19日(日曜日)まで。
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明治末、日本女子大学校における智恵子の1年先輩にしてテニス仲間でもあった平塚らいてう。卒業後、雑誌『青鞜』を立ち上げ、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼しました。

そのらいてうの軌跡を追う講座ということで、おそらく智恵子にも言及されるのではないかと存じます。

また、解説にあるように、ミニ展示では「平塚らいてう没後50年特別展~らいてうの軌跡~」、メイン展示が「心豊かな田端の芸術家たち」。

先述の通り、申込期限が過ぎてしまっていますが、ご希望の方、とりあえずフライヤー画像一番下の問い合わせ先までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后八森氏の義父君地主久太郎氏来訪。ヰスキー2本等もらふ。標札2枚を書き進ぜる。「道程」署名。


昭和23年(1948)11月4日の日記より 光太郎66歳

「八森氏」は八森虎太郎。北海道在住だった詩人・編集者です。その義父という「地主久太郎」なる人物については詳細不明ですが、翌日に書かれた八森宛の葉書には、八森から頼まれて、ウイスキー等を届けに来てくれたとのこと。八森が元々花巻出身なので、地主も花巻在住だったかもしれません。

「標札」は「表札」でしょうか。もしかすると、現在もどこかに現存しているか、あるいは現役で使われているかもしれませんね。「道程」はおそらく前年に札幌青磁社から刊行された復元版と思われます。