一昨日から始まっていました。

日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―

期 日 : 2023年8月22日(火)~10月9日(月・祝)
会 場 : 東京国立博物館 本館1階14室 東京都台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌火曜日
料 金 : 一般1,000円 大学生500円

日本人として初めてチベット・ネパールを訪れた僧河口慧海(1866~1945)の収集品は、その大半が甥の河口正氏によって東北大学に寄贈された後、姪の宮田恵美氏の相続分が昭和48年(1973)に当館に寄贈されました。チベット旅行の収集品のみならず、遺愛の品も含まれることが特徴ですが、平成11年(1999)の東洋館開館30周年記念特集「河口慧海将来品とラマ教美術」以来、まとまった公開の機会に恵まれませんでした。
今回、客員研究員田中公明氏や同石松日奈子氏等との再調査の知見を踏まえつつ、寄贈から50年を記念してあらためてその全容をご覧いただきます。
なお、寄贈品の一部である「西蔵服の河口慧海師肖像」は本館18室「近代の美術」にて9月12日から12月10日まで展示いたします。また、本館14室会場には、図書資料として第1回チベット旅行時の収集品を東京美術学校(現東京藝術大学)で展示した際に刊行された『河口慧海師将来西蔵品図録』(明治37年・1904)もあわせて展示いたします。
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河口慧海は、光雲・光太郎父子と交流がありました。大阪出身なのですが、髙村家に近い東京の本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。
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下記画像では、左が光雲、右が
慧海です。
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さて、今回の展示。

「企画展」や「特別展」という扱いではなく、常設展示的な「総合文化展」の一環。それでも第14室がまるまるそれにあてられ、慧海関連の25点の出品物が並んでいます。

その中に、光雲作の「檀木釈迦如来立像」(昭和3年=1928)と、光雲、それから光雲三男にして鋳金分野の人間国宝となった豊周の合作という扱いで、「誕生釈迦仏立像」(大正~昭和初期)。「檀木釈迦如来立像」の方は木彫と思われますし、「誕生釈迦仏立像」は鋳像でしょう。

ちなみにサムネイル的に使われている最上部の画像にある木彫の像は、昭和10年(1935)、藤岡光田作の「入蔵沙門(河口慧海立像)」。藤岡は光雲の弟子の一人です。

こりゃ、観に行かなきゃな、という感じでして、近いうちに行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先日叢書中の小生作の題名を申上げて置きましたが、其後病人の容態皆あしく、ちゑ子の外父が最近重態に陥り医者からは絶望を宣告され、毎日注射で過して居る次第、小生匆忙の日を暮し、原稿の整理もまだ出来てゐません、


昭和9年(1934)9月27日 井上康文宛書簡より 光太郎52歳

結局、光雲は約2週間後の10月10日、数え83年の生涯を終えました。胃潰瘍から進行した胃ガンでした。

まず、8月19日(土)、『東スポ(東京スポーツ)』さんの配信記事から。紙面にも載ったのでしょうか。

泉房穂氏 還暦迎え〝岸田政治〟にズバリ「異次元なんて言葉遊び」「まやかしだ」

000  元兵庫県明石市長の泉房穂氏が19日、自身の「X」(旧ツイッター)を更新し、自身の誕生日に〝決意表明〟を行った。
 この日X(旧ツイッター)で誕生日を祝う風船が飛んだことについて「日付が変わり『風船』がいっぱい上がってきた。素直に嬉しい」と喜ぶと「昨日までの60年間、自分なりには精一杯生きてきた。〝人生1周目〟が終わり、いよいよ今日から〝人生2周目〟が始まる。皆さん、これからも引き続き、よろしくお願いいたします」とつづった。
 また誕生日を祝うコメントが多く届けられていることに「皆さん、「『お誕生日おめでとう』と『お祝い』をしていただき、ありがとうございます」と感謝の気持ちを明かすと「『明石の街を、やさしくしてみせる』との10歳の誓いを、人生1周目をフルに使ってやってきた。今日から人生2周目。『国の政治も、やさしく変える』との60歳の誓い。さて、変えるまでに何年必要なんだろう…」と投稿。60歳という節目に新たな誓いを立てたようだ。
 さらに、〝やさしく変える〟と誓った「国の政治」について「私は日本に政治がないと思う。ほんとの政治をしてほしいと思う。みんなは驚いて総理を見る。今の総理を選んだのは、昔ながらの汚い派閥政治だ。異次元なんて言葉遊びも、やってるフリのまやかしだ。私は国民の負担を気にしながら思う。国民のために、官僚や業界の反対を押し切ってでも決断して実行するのがほんとの政治だと思う」と自身の見解を示すと、ユーザーから大きな反響が寄せられている。

問題のポスト(「ツイート」という語はマスク氏によって滅ぼされましたね)がこちら
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言わずもがなですが、『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)のリメイク。GB(グッジョブ)ですね(笑)。

しかし、『東スポ』さんに光太郎の名がなかったので、他の方から「東スポのこの記事書いた人、高村光太郎はおろか『智恵子抄』も読んだこともない、知らないんじゃないかと思ってしまった」という指摘。まさかそんなことはあるまい、とは思うのですが……。

泉氏も後追いのポストで……
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まぁ、以前には、歌手のサンプラザ中野くん氏が、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)オマージュで新社会人となる若者へのエールを送ったところ、氏のオリジナルだと思われて報道されたりネット上で絶賛されたりといったこともありましたが……。

ちなみに泉氏、もう1件「あどけない話」インスパイアを投稿なさいました。
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これもいいですね。

さて、とりとめのないこのブログ記事にオチを付けるため、智恵子の文章を。大正13年(1924)5月、雑誌『女性』に載った「総選挙に誰れを選ぶか?」の問いに対するアンケートの回答です。

もしあったら……リンカーンのやうな政治家を選びませう。日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。

もしあったら」は投票権。戦前には女性の参政権がありませんでしたので。

ところが、この後は消極的な内容。

しかしうまくその時までに、私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。

現代でもこのような考えでの棄権が多いのではないでしょうか。なんとかこの現状を変えていきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

小生は七日には参上出来るでせう。それまでに嘉納治五郎先生の肖像を作つてしまふつもりでゐます。

昭和9年(1934)7月3日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

大正期にはしっかりした意見を雑誌に寄せていた智恵子も、心を病んで九十九里浜に移り住んでいた母親と妹夫婦の元に預けられています。

嘉納治五郎先生」は、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範。「肖像」は光太郎の父・光雲の代作として光太郎が作ったレリーフです。光雲は実在の人物の肖像や、カービングではないモデリング制作を苦手としていましたので、同様の例がいくつもあります。
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左端は、髙村家に残っていた原形からブロンズに鋳造したもの。10年前の「生誕130年彫刻家高村光太郎展」の際にお借りして出品しました。

中央と右は当方が入手したもの。おそらく頒布(販売?)用に量産されたもので、あまりいい出来ではありません。いわゆる「抜きが甘い」状態です。素材もブロンズではなく、もっと軽い金属。裏面のラベルを見ると、ニセモノでないことはわかるのですが……。

2ヶ月近く経ってしまいましたが、新刊です。

ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界

2023年6月18日 佐藤広野編 コスミック出版 定価1,500円+税

 美しいイラストで彩られたガラスペンを愉しむためのなぞり書きBOOK
 
実際にインクで描かれた挿絵で鮮やかに彩られたページでお送りする、ガラスペンとインクを心ゆくまで愉しめる一冊です。宮沢賢治からアンデルセン童話まで、魅力的な文学を幅広く収録。後半ページには本文イラストを使用した&カードつき。切り離してお楽しみいただけます。
 
用紙が途中で変わる仕様となっており、さらっと、ざらっと、つるっと、3種類の用紙が愉しめます。
インク馴染みの良い、書き心地を重視した用紙をセレクトしました。
 
▽イラストレーター
惠/シーナケイ  定岡恵  ハコペン  模様デザイナーmaya
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目次
 本書の使い方
 第一章 星と夜空の文学
  銀河鉄道の夜 宮沢賢治
  夢十夜 夏目漱石
  あのときの王子くん アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
  星とピエロ 中原中也
  湖上 中原中也
  山月記 中島敦
  春夜 萩原朔太郎
 第二章 花と果実の文学
  一握の砂 石川啄木
  桜の樹の下には 梶井基次郎
  桜の森の満開の下 坂口安吾
  檸檬 梶井基次郎
  蜜柑 芥川龍之介
  或阿呆の一生 芥川龍之介
  たけくらべ 樋口一葉
 第三章 恋と罪の文学
  初恋 島崎藤村
  舞姫 森鷗外  
  女生徒 太宰治
  こころ 夏目漱石
  駆け込み訴え 太宰治
  蜜のあはれ 室生犀星
  人に 高村光太郎
  レモン哀歌 高村光太郎

  春琴抄 谷崎潤一郎
 第四章 海の向こうの文学
  赤ずきん グリム兄弟
  幸福の王子 オスカー・ワイルド
  はつ恋 イワン・ツルゲーネフ
  ロミオとジュリエット ウィリアム・シェークスピア
  人魚の姫 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
  不思議の国のアリス ルイス・キャロル
  白雪姫 グリム兄弟
 レター&カード 切り離し付録
 作家紹介


最近流行りのガラスペン――その名の通り、ペン先(多くは本体も)がガラスで出来ているペンです。毛細管現象を利用する漬ペンという意味では、万年筆と似ていますが、ペン先が金属ではなくガラスなので、独特の風合いが醸し出されます。日本発祥で意外と歴史は古く、明治35年(1902)に風鈴職人・佐々木定次郎が発明したとされています。

本書は有名な文学作品の一節を、ガラスペンでなぞって書いてみよう、というコンセプトで、上記作品が1~2ページずつ引用され、薄く印刷されています。ちなみにそのフォントもいろいろです。バックの枠的なイラスト部分も、4人の作家さんがガラスペンで描いたものとのこと。
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光太郎詩が二篇、「人に」(大正元年=1912)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。

X(旧ツィッター)上で、この手の文学作品等の一節(多くは青空文庫さんで公開されているもの)を様々な筆記具で書いて投稿する、という「#○○書写」というハッシュタグが存在し、時折、光太郎作品、光雲作品が取り上げられています。なかなかの力作もあり、「いいね」を押させていただいております。

「書道」とまではいかないのかもしれませんが、新しい「書字」の一つの潮流として、かなり定着しているようですし、こうした流れにも敏感な書家の石川九楊先生あたり、「#○○書写」論を展開していただきたいところです。

さて、『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさん少々ぼんやりしてゐましたがひどく悪くなくて喜びました。あの筆にはまつたく驚きました。かういふところは全く天才的だと思ひます。それだけまた頭のくるふ事もあるのだとおもはれます。ちゑさんの天才を十分に発揮する事ができたら素晴らしいでせう。


昭和9年(1934)7月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子を預かって貰っている、九十九里の智恵子実母宛。「あの筆にはまつたく驚きました」は、智恵子がまた絵でも描いたのかと思ったのですが、『高村光太郎全集』の解題に依れば、黒松の芽で筆を作ったのだそうです。それが驚くような出来だったということでしょう。

「ちゑさんの天才を十分に発揮する事」。まだこの時期の智恵子は有名な「紙絵」は作っていません。

新刊です。

父、高祖保の声を探して

2023年8月15日 宮部修著 思潮社 定価1,800円+税

昭和前期の抒情詩 いま ここに
 蛾は/あのやうに狂ほしく/とびこんでゆくではないか/みづからを灼く 火むらのただなかに/わたしは/みづからを灼く たたかひの/火むらのただなかへ とびこんでゆく/あゝ 一匹の蛾だ(「征旅」)
 「わたしは「征旅」の中に父の唯一の声を聞き出すことが出来た。これが本書の執筆動機なのだ。わたしはあえて「征旅」を父の辞世の詩と判定した。」(「おわりに」)

 堀口大學に『雪』の詩人と評され、ビルマに戦没した高祖保。その抒情詩の世界を元新聞記者の85歳の息子が精緻に辿る。出征直前の詩「征旅」に響く声とは――肉親ならではの渾身の評伝。
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目次
 はじめに
 第一章 詩人、高祖保の肖像
  幼年時代の苦悩
  ゆるぎない人間関係
  編集者魂
  詩の限界はどこまで広がるか
  エピグラフの効果
  詩と長歌の間に
  横書きの効果
 第二章 父の声
  第一詩集『希臘十字』 モダニズムにとりつかれて
  第二詩集『禽のゐる五分間写生』 詩に俳味をとりこむ
  第三詩集『雪』 「礼儀正しさ」
  第四詩集『夜のひきあけ』 戦火のもと誕生した生命
  追悼全詩集『高祖保詩集』収録の未刊詩集『独楽』 父の詩の新展開
  『独楽』の巻頭に突如、現れた詩「征旅」について
  辞世の詩 達観の八行、強烈なリズム
 おわりに
 年譜


高祖保(明治43年=1910~昭和20年=1945)は、岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)に生まれ、父の死後、9歳で母と共に母の実家のあった滋賀県彦根に移り住みました。旧制中学時代から詩作に親しみます。國學院大學師範部を卒業し、横浜で叔父の経営する貿易会社に入社、のち、社長となったものの、昭和19年(1944)に出征し、翌年にはビルマ(ミャンマー)で戦病死しています。

昭和初め、高祖の個人雑誌に近かったという『門』に、確光太郎は2回寄稿しています。

最初が創刊号(昭和3年=1928)に載った詩「その詩」。
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   その詩

その詩をよむと詩が書きたくなる。
その詩をよむとダイナモが唸り出す。
その詩は結局その詩の通りだ。
その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。
その詩は雑然と並んでもゐる。
その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。
その詩はただ奥の動きに貫かれてゐる。
その詩は精算以前の展開である。
その詩は気まぐれ無しの必至である。
その詩は生理的の機構を持つ。
その詩は滃然と空間を押し流れる。002
その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。
その詩は姿を破り姿を孕む。
その詩は電子の反撥親和だ。
その詩は眼前咫尺に生きる。
その詩は手きびしいが妙に親しい。
その詩は不思議に手にとれさうだ。
その詩は気がつくと歩道の石甃(いしただみ)にも書いてある。

昭和2、3年(1927、1928)頃が、光太郎の文筆が最も旺盛だった時期で、まさにその時期の作。光太郎の詩論的なものもよく表されています。高祖はこの詩を受けとって感激し、座右に近い形にしていたとのこと。

さらに、同誌終刊号(昭和5年=1930)には「詩そのもの」という散文も寄せています。こちらも散文詩のような趣で、いい文章です。

 ヸタミンは抽出出来る。生命そのものは抽出出来ない。生命はいつでも物質にインカルネイトする。詩そのものの抽出も亦不可能である。詩はいつでも素材にインカルネイトする。真の詩人は、いかなる素材、いかなる思想をも懼れない。詩が生命そのものの如き不可見であり又遍在である事を知るからである。第二流の筆技詩人のみ、詩の為に素材を懼れ、詩に求む可きは詩の抽出なりと思惟する。是れ生命とヸタミンとを倒錯する者に類する。

また、昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集に高祖があたりました。光太郎本人による同書の序文には「なほこの詩集の出版にあたつて一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。」と記されています。平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他が出品されています。
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さて、前置きが長くなりましたが、本書は高祖の子息・宮部修氏(おん年85だそうで)のご執筆。昨年、土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』が高祖の特集を組み、そちらに寄稿されていた、高祖の顕彰に当たられている清須浩光氏にいろいろご質問等させていただいたところ、清須氏から宮部氏に当方が紹介されたようで、宮部氏から直々に届きました。感謝に堪えません。

当方、高祖の詩は、手元にあるいくつかの詞華集や古雑誌(光太郎作品が掲載されているもの)にたまたま載っていた何篇かを読んだだけで、その全貌的なものは存じませんでした(光太郎オマージュの詩もあって微笑ましい感じでした)。で、本書にかなりの作品を掲載、また、宮部氏による的確な解説や考察が為され、その変遷の様も知ることができ、なるほど、こういう詩人だったか、と思った次第です。光太郎には書き得ない、透徹した美しい言葉を紡ぎ(ある種、難解な部分はあって、それは宮部氏もご指摘なさっていますが)、もっと広く世に知られるべき詩人だな、と存じました。

高祖は昭和20年(1945)、出征したビルマで戦病死。光太郎がいつその死を知ったか不明ですが、翌昭和21年(1946)には追悼文を書き、その死を惜しんでいます。その頃の光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋で独居中。当初は友人知己を呼んで岩手の山村に文化部落を作る、昭和の鷹峯だ、というような無邪気な夢想もあったのですが、徐々に自らの戦争責任への内省が進み、「わが詩をよみて人死に就けり」という心境に達します。その裏には、高祖ら、交流のあった人々の戦死を知ったことも大きく影響していたのではないかと思われます。

さらに本書では、光太郎以外に堀口大学、岩佐東一郎、田中冬二、井上多喜三郎、百田宗治らとの交流についても。光太郎も草野心平・尾崎喜八等の系統とは別に、これらの人々ともつながりがあって、そうした部分でも興味深く感じました。

といううわけで、ぜひ、ご購読下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんの健康は目に見えてよくなつたやうに見うけ、喜びました。身体がよくなれば自然と頭の方もよくなる事かと考へます。御看護の御苦労をお察し申上げます。皆様のお心づくしを忝い事に存じます。


昭和9年(1934)6月29日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心の病の療養のため智恵子を預けた九十九里の智恵子実母宛。「健康は目に見えてよくなつた」は結核性の疾患の方。残念ながら「身体がよくなれば自然と頭の方もよくなる事」は叶いませんでした。

花巻グルメ系、2件ご紹介します。

まず、光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として月イチで出店されているワンデイシェフの大食堂」さん。8月3日(木)が4回目のご出店でした。

メニュー的には、サーモンと彩り野菜のガレットロール、ローストビーフの温野菜添え、トマトと卵の炒め物、里芋のクルミかけ、オカワカメの酢の物、オクラのスープ、ごはん、お新香、ベイクドチーズケーキ、カフェドシトロン。これで1,000円だそうですから、安いものですね。
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用意なさった34食分、完売だったそうです。次回は9月13日(水)の予定とのこと。

同じくやつかの森LLCさんがメニュー考案にあたられ、
道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん内の「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。
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豆おこわ、揚げジャガイモと鶏肉の甘辛炒め、生節入り夕顔煮、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、わかめとミョウガの酢の物かぼちゃの花添え、白茄子とミニトマトのコンポート、お新香、それからメニューには印刷されていませんが、さつまいもの蒸しパンも。

「こうたろうカフェ」、「光太郎ランチ」ともども、かつて光太郎が作ったメニューを現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を使用したりして作られています。

毎月のメニューを考えるのも大変だと存じますが、末永く続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山であなた方がつまれた木の芽草の芽をめづらしくよみました。藤の芽、山吹の新葉が喰べられるといふ事ははじめて知りました。タラの芽は小生も大好きで今年も千葉の田舎でとつてもらつて喰べました。コゴメの葉も上州の山奥の「湯の小屋」といふ処で先年喰べて大変うまいものと思つた事があります。小生は山に住んだら不自由はしないと思つてゐますが、そんな想像は結局想像に過ぎないでせうか。


昭和9年(1934)5月18日 中込友美宛書簡より 光太郎52歳

中込友美は戦後、戦災孤児のために「久留米勤労補導学園」を創設した人物。この当時、信州松本在住だったようです。で、その地から送られた食べられる野草的な内容の書簡に対する返信です。

小生は山に住んだら不自由はしないと思つてゐますが、そんな想像は結局想像に過ぎないでせうか」。約10年後に、花巻郊外旧太田村の山小屋に住み、実際に山菜類を貴重な食料とすることになるとは思っていなかったことでしょう。

地方紙『福島民友』さんから。

日本人は星より月の文化 渡部潤一さん「季節ごと違い楽しんで」

000 国立天文台上席教授の渡部潤一さん(会津若松市出身)は17日、福島市で「日本人はいかに宇宙を愛(め)でてきたか」と題して講演し、日本人の宇宙への向き合い方について解説した。
 国際天文学連合(IAU)の「アジア太平洋地域の天文学に関する国際会議(APRIM)」が7~11日に郡山市で開催されたことを記念し、県文化振興財団が企画した。
 渡部さんは「日本は季節感が明瞭なため、方位や季節を知る目的で星を見る必要がなかった」とした上で「日本人は星よりも月の文化」と紹介。小説や短歌にも月が登場することに触れ「季節ごと、時間ごとの月の違いを楽しみ、積極的にめでてほしい」と語った。
 月への信仰にも触れ、江戸時代、旧暦23日と26日に人々が集まり、寝ずに月の出を待ち祈る「月待ち行事」が流行したと説明。県内にも行事を記念して造られた月待ち塔が数多く残るとし「オールナイトで大宴会したようだ。楽しみの一つだったのだろう」と思いを巡らせた。
 渡部さんは「県内は天文施設も充実しており、日新館天文台跡(会津若松市)などの貴重な史跡も残っている」と解説。詩人高村光太郎の詩集「智恵子抄」の「ほんとの空」を例に挙げ「福島にはほんとの夜空がある。月や星を見上げ、自由に思いをはせてほしい」と話した。

この講演会、福島県歴史資料館さんで開催中の企画展示「収蔵資料展 空を眺めて-江戸・明治時代の天文・大気現象など-」の関連行事だったとのこと。
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福島ご出身の渡部氏、昨年やはり福島市で開催された「写真展 138億光年宇宙の旅」(同氏ご監修)で「ほんとの空」の語を使って下さいましたし、郡山市ふれあい科学館さんで過去6回開催された「ふくしま 星・月の風景 フォトコンテスト “ほんとの空”のあるふくしまの星・月の風景をあなたの感性で捉えて下さい。」で審査員を務められたりもなさいました。

今後とも福島の「ほんとの空」の伝道師として、ご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんの病気はどうか気ながに御看護下さい。今度は二十一日に参上いたし一泊御厄介になつて二十二日に帰京したいと存じてゐます。薬もその時持参します。父の方は今の処かはりありません。


昭和9年(1934)5月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心の病の療養のため智恵子を預けた九十九里の智恵子実母宛。「」はホルモン剤の「オバホルモン」。ほとんど効果はなかったのではないかと思われますが……。「父の方」は、光太郎の父・光雲が胃潰瘍で帝大病院に入院していたことを指します。
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掲載日順にまず『毎日新聞』さん。俳人・坪内稔典氏による「季語刻々」という連載コラム、8月11日(金)掲載分です。

季語刻々 立山の秋に腰掛けかりんとう 鶴濱節子

「立山の秋に腰掛け」が雄大でいいなあ。かりんとうが実にうまそう。句集「始祖鳥」(2012年)から。この作者、私の近所に住むが、かつていっしょに立山に登った。俳句仲間に山好きがいて彼に先導されての登山だった。以来、節子さんは山ガールだ。「安達太良(あだたら)の智恵子の空へ登山道」も彼女の作。今日は山の日。

メインは立山連峰の句ですが、最後に智恵子のソウルマウンテン・安達太良山の句。言わずもがなですが、「ほんとの空」の語が使われた光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュですね。

続いて『山形新聞』さん。8月13日(日)の一面コラムです。

談話室

▼▽「新鮮なものになるとまったくうまい」。明治生まれの詩人・高村光太郎はこう綴(つづ)る。果物や野菜、肉魚ではなくビールの話である。注ぎたてのグラスをぐっと干す。酷暑で、夜ごと欲しくなるという方は多いだろう。▼▽いつ飲んでもうまいが最初の一杯の喉越しは格別だ。高村は一口目の感動を「いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」と記す。そんな爽快感を大勢で味わえるイベントが先日、山形市で開かれた。山形一小旧校舎が会場の「ビアナイト」だ。▼▽こだわりグルメの店もあったが、この日の主役は県内にある複数の醸造所が手がけるクラフトビール。中には県の花・紅花を使った山形らしさ満開の地ビールもあった。若い人のビール離れが言われているが、会場では友人同士や会社の同僚といった感じの若者が多かった。▼▽大量生産とは異なる個性的な味や香りがクラフトビールの魅力だろう。加えて多彩なラベルが目を引く。「取りあえずビール」ではない楽しさがいい。高村は1、2本でやめておくのが良さそうとも書いている。味わいを追求するには度を超えないこと。助言は今に通じる。

引用元は昭和11年(1936)に雑誌『ホーム・ライフ』に発表された随筆「ビールの味」。以前も抜粋でご紹介しましたが、再掲します。

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。(略)何でもさうだがビールも器物で味が違ふ。錫の蓋のついたいはゆるシユタインで飲むとコクが出る。薄手の大きいギヤマンもよし、キリコもいい。いつも無色透明なのがいい。一番飲み心地のいいコツプの大きさは四分の一リツトルくらゐであらう。ビールはうまいが、本当の味は一二本で止めて置く所にあり相だ。(略)
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全文を読みたい方は、令和3年(2021)、平凡社さん刊行のアンソロジー『作家と酒』をどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子は一時よくなりかけたのに最近の陽気のせゐか又々逆戻りして、いろいろ手を尽したが医者と相談の上やむを得ず片貝の田舎にゐる妹の家の母親にあづける事になり、一昨日送つて来ました。小生の三年間に亘る看護も力無いものでした。鳥の啼くまねや唄をうたふまねをしてゐるちゑ子を後に残して帰つて来る時は流石の小生も涙を流した。


昭和9年(1934)5月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎52歳

昨日ご紹介した書簡と前後してしまいました。

九十九里浜に預けられた智恵子、その当日から「千鳥と遊ぶ智恵子」だったとは驚きです。

『朝日新聞』さん岩手版、8月10日(木)掲載の記事です。

(賢治を語る 没後90年)湯あみや自炊、昔の風情を 大沢温泉・高田貞一社長/岩手県

 花巻市の山あいにある秘湯「大沢温泉」は、北東北の詩人・宮沢賢治が通い詰めた温泉としても有名だ。賢治と温泉の関わりについて、同温泉の高田貞一社長(67)に聞いた。

――大沢温泉の歴史は?
 今から約1200年前、征夷大将軍だった坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)軍の毒矢に負傷した際、現在の大沢温泉のお湯につかったところ、ほどなく傷が癒えた、と伝えられています。
――映画化された門井慶喜さんの直木賞受賞作「銀河鉄道の父」にも、大沢温泉が出てきます。
 賢治は少年のころ、信仰心のあつい父に連れられて、仏教会の講習会場だった大沢温泉に何度も足を運んでいます。学生時代は悪ふざけをして、湯をくみ上げる水車を止めてしまい、風呂場が大騒ぎになったという逸話も残っています。花巻農学校の教師時代には、生徒たちを引き連れて湯あみにも来ていたようです。
 また、賢治の死後になりますが、詩人の高村光太郎も1945年、空襲で東京のアトリエを焼失し、賢治の親類を頼って花巻に疎開しています。以後7年間、花巻を愛し、大沢温泉を「本当の温泉の味がする」と言って喜んで頂きました。
――温泉が賢治の作品にも影響したと思いますか?
 それはどうでしょうね。ただ、賢治の作品は岩手の大自然や生活などを題材にしたものが多いです。大沢温泉は山あいにあり、豊かな自然に恵まれています。あるいはそういうこともあったかもしれません。
――賢治の写真は今も、昔ながらの雰囲気が味わえる「湯治屋」に飾られています。
 宮沢家から頂いた集合写真はパンフレットに使わせて頂いたり、館内に飾らせて頂いたりしています。
 約200年前の建物で、賢治ゆかりの自炊部がある「湯治屋」も、賢治の時代から徐々に変わってきています。例えばトイレなどは水洗になり、自炊部で自分で料理して食事を取っている人は全体の1~2割程度。多くの方が館内の食堂でご飯を食べていらっしゃいます。
 かやぶきの屋根を含め、古い建物を維持していくのは大変ですが、賢治が通った場所でもあり、「昔ながらの雰囲気が好きだ」というお客さんもたくさんいるので、今後も維持していきたいと考えています。

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上記集合写真、明治39年(1906)の撮影だそうです。豊沢川にかかる「曲り橋」の上と思われます。手前のガス燈(?)が何ともいい感じです。
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というわけで、賢治や光太郎の息吹が今も確かに感じられる大沢温泉さん、花巻にお泊まりの際にはぜひご利用下さい。

【折々のことば・光太郎】

先程申すのを忘れましたが、ボール紙の菓子折の中にちゑさんのよく喰べるアツプルパイがありますから出して下さい。出さないと二三日で腐ります。今日は乗合が無くてタクシで来ました。


昭和9年5月12日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

千葉九十九里に移り住んでいた母と妹夫婦の元に預けた智恵子を見舞っての帰り、途中の大網停車場から。現代ならスマホで電話をかけるか、LINEを送るか、という内容ですね。「乗合」は乗合馬車かと思われます。

山形県米沢市の上杉博物館さんで開催中の企画展「今泉篤男と美術」につき、NHKさんのローカルニュースで紹介されました。

米沢出身の美術評論家 今泉篤男氏 論評と美術作品の特別展

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東京国立近代美術館の創設にも携わった米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏の作家の思いなどをくんだ論評と美術作品をあわせて展示する特別展が米沢市で開かれています。
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米沢市出身の美術評論家・今泉篤男氏は、美術作品に込められた作家の思いなどをくんだ評論が昭和20年代に高く評価され、東京国立近代美術館で現在の副館長にあたる次長を初めて務めたほか、京都国立近代美術館の初代館長も務めました。
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米沢市の上杉博物館で開かれている特別展では、美術誌に掲載された今泉氏の論評と作品をセットにしたものなど、およそ50点が展示されています。
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このうち、彫刻家・高村光太郎氏の木彫りの作品「鯰」について、今泉氏は「高村光太郎の作品にはなにか東洋の骨格、東洋の詩精神を感じられる」などと評価しています。
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また、美術作品の評論を活動を軸にしていた今泉氏が青年時代に描いた絵画、「監獄の外郭」も展示されています。
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米沢市上杉博物館の遠藤友紀学芸員は「今泉氏は地元の米沢であまり知名度は高くないが、美術にまつわる非常に大きな仕事をした人物でこれを機会にぜひ身近に感じてほしい」と話していました。
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この特別展は、今月20日まで開かれています。
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光太郎木彫「鯰」(大正15年=1926)、目玉の出品物の一つということで、大きく取り上げて下さいました。ありがたし。

竹橋の東京国立近代美術館さんからの借り受けで、同館でのコレクション展に時折出品されるのですが、常に出ているわけではありませんし、他館に貸し出される例もそうそうないものです。

もうすぐ閉幕ですが、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。
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【折々のことば・光太郎】

節子さんによんでもらつて下さい。 真亀といふところが大変よいところなので安心しました。何といふ美しい松林でせう、あの松の間から来るきれいな空気を吸ふとどんな病気でもなほつてしまひませう。そしておいしい新らしい食物。よくたべてよく休んでください。智恵さん、智恵さん。


昭和9年(1934)5月9日
 高村智恵子宛書簡より
光太郎52歳

心の病の療養のため、智恵子は九十九里浜真亀海岸に移り住んでいた智恵子の母・セン、妹・セツ(節子)夫妻の元に預けられました。

その智恵子宛で送られたはがき。現存が確認できている最後の智恵子宛書簡です。もはや文字を読むことも叶わなくなった智恵子のため、「節子さんによんでもらつて下さい」としています。

末尾の「智恵さん、智恵さん。」には、光太郎の万感の思いが込められているように感じます。

新聞記事から2件ご紹介します。

まず『宮崎日日新聞』さん、一昨日の一面コラム。

くろしお    コメ愛着

 1924年5月、医学留学の途中でドイツのミュンヘンにいた歌人斎藤茂吉は「夕ひとり日本飯くふ」の詞(ことば)書きを添えて歌を詠んでいる。「イタリアの米を炊(かし)ぎてひとり食ふこのたそがれの塩のいろはや」。
 連日の洋食に飽き、ようやく手に入れたコメ。しかし「?(か)みあてし砂さびしくぞおもふ」と続けて詠んでおり味や食感は日本と少し違ったのではないか。「コメを選んだ日本の歴史」(原田信男著)によると、望郷のさびしさはコメによってさらに増幅したようだ。
 また米国を経てロンドン・パリに留学した経験を持つ詩人の高村光太郎は肉食を謳歌(おうか)した。しかし56歳となった1939年「米のめしの歌」という詩で「米のめしくひ 味噌汁食べて、われらが鍛えた土性骨(どしょうぼね)。われらのいのち 米のめし」とうたい、コメを絶賛している。
 確かに今も外国を旅した人から「苦労したのは食事。日本のコメが恋しかった」という話はよく聞く。パンや肉食を好む人も年齢を重ねてコメ食になったという話も珍しくない。長年培われた食習慣は食の志向を決定づける。食が多様化した現在も日本人のコメへの愛着は信仰に近いといえそうだ。
 ただ2022年度の食料自給率がカロリーベースで前年度と同じ38%、生産額ベースで5ポイント低下の58%と聞くと、コメを中心とする日本の食が危ういと心配する。先進国では最低水準。輸入に頼らず食を守るには本県のような生産基盤の強化が求められよう。

引用されている「米のめしの歌」は、光太郎生前には活字になったことが確認できていない作品です。『高村光太郎全集』には、残された草稿から採録されました。
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   米のめしの歌004

      一
  茶わんもつのは  ひだりの手。
  箸をもつのは   みぎの手。
  米のめしくひ   味噌汁たべて、
  われらが鍛へた  土性骨。
  低きに居り    高きに住む。
  われらのいのち  米のめし。

      二
  朝日出るのは   野のひがし。
  夕日しづむは   山のにし。
  田植 草とり   稲こきをへて、
  りつぱに仕上げた 倉の米。
  粒々なほ     辛苦のあと。
  われらのいのち  米のめし。

      三
  秤もつのは    みぎの手。
  枡をもつのは   ひだりの手。
  神代ながらの   瑞穂の国は、
  八千万石     民の汗。
  たのむに足り   くへど飽かぬ。
  われらのいのち  米のめし。

草稿の欄外には、「国民歌第二試作」の文字が見えます。「国民歌」は、「文部省撰定日本国民歌」。日中戦争がすでに激化していた昭和13年(1938)、当時の文部省が「日本国民歌運動」の展開を開始しました。

これに先立つ昭和11年(1936)には、日本放送協会大阪中央放送局がラジオ番組「国民歌謡」の放送を開始しており、光太郎作詞の「歩くうた」(昭和15年=1940)も後にラインナップに組み込まれ、ヒットします。国としても同様の運動に本腰を入れ始めたのでしょう。文部省社会教育局による「日本国民歌運動」の主旨は、次のようなものでした。

 文部省に於きましては今般日本国民歌六篇を制定して之を公にすることになりました。我国に於ては現在遺憾乍ら国民の各層を通じて唱和すべき国民の歌と称すべきものが乏しいのでありまして、一段と国民的意識を振起す可き此の国運の大躍進期に際しては殊に其の思ひを深くするのであります。国民歌は一切の国民生活の基調をなす清純雄渾な国民的感情の表現でなければなりません。かゝる歌曲こそ国民の心を一に融和せしめその情操を高め志気を鼓舞するものであります。此度予定せられたる六篇はかゝる趣旨に基き我が国伝統の精神、理想、風物、生活等に取材して制作せられたるものでありまして之に携られた作詞家、作曲家の努力により何れも私共の希望を満たすものを得ました事は喜びに堪へぬ処であります。之が国民の凡てに唱和せられるに至る事を願ふ次第であります。尚文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもりでありますが、之が我が国の音楽文化を向上し、国民的情操の涵養に資する所とならば幸せあります。
  (『青年と教育』第四巻第三号 昭和14年(1939)3月)
 
携られた作詞家」の一人、斎藤茂吉が昭和13年(1938)12月2日に書いた日記には、以下の記述があります。

文部省ノ池崎参与官ノ所ニ行クト、「国民歌」ノ歌詞ヲ作ツテクレ、北原白秋、佐藤春夫、高村光太郎、茅野雅子、土岐善麿ノ諸君と一シヨ也。

おそらく光太郎にもほぼ同じ頃に依頼があったものと考えていいでしょう。これに応え、光太郎はおそらく二篇の詩を書き上げ、光太郎と組むことになった相棒の作曲家・箕作秋吉に送りました。一篇は「こどもの報告」。そしてもう一篇が「米のめしの歌」です。

このうち、「こどもの報告」の方が採用され、箕作が作曲。楽譜が出版されたり、レコード化されたりしました。
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    こどもの報告

      一
  めがさめる、とびおきる。
  晴れても降つても、一二三。
  朝のつめたい水のきよさよ。
  こゝろも、からだも、はつらつ。
  お父さまお早うございます。
  お母さまお早うございます。
  みんなもお早う。
  テテチー テテチー
  テタテ チト テタタ ター
  かしこきあたりを直立遙拝。
  それからご飯だ、ああうれし。
  かうしてぼくらのその日がはじまる。
  その日がはじまる。

      二001
  日がくれる、戸をしめる。
  勝つても負けても、ジヤンケンポン。
  夜のたのしいうちのまとゐよ。
  こゝろも、からだも、のびのび。
  お父さまおやすみなさいませ。
  お母さまおやすみなさいませ。
  みんなもおやすみ。
  タタタタ  タテタテ チー
       チテチテ  タテタト ター
  お国のまもりへ直立敬礼。
  それからお寝まき、ああらくだ。
  かうしてぼくらのその日がをはるよ。
  その日がをはるよ。

で、「米のめしの歌」の方はボツ。先述の文部省の趣意では「文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもり」とあったのが、「こどもの報告」を含む第一弾がどれも不評だったためではないかと推定されます。

太平洋戦争開戦前から、既にこうした翼賛詩を書いていた光太郎ですが、まだ真珠湾攻撃以前は国民の心を荒廃から救う、的な意図がメインでした。

『読売新聞』さんから。このところ、同紙では「わたしが見た戦争 戦争投書アーカイブ」として、戦前戦後の投書欄に載った読者投稿を時折再掲しています。下記は6月に紙面に掲載されたようですが、最近、ネット上にもアップされました。終戦翌月の投稿ですね。

進駐軍から貰った煙草の包装に魅入られる…日米の力の差痛感(1945年9月)

 道案内をしてやった進駐軍の兵士からアメリカ煙草を貰った。家に帰って秋窓の灯の下でその外装を眺めている中、次第に私はその豪奢な色彩に魅入られ、何か永い間の飢涸が醫されてゆくような感慨に浸った。それから改めて復員の友人に貰った「ほまれ」の袋をとり出し、これとそれとを引きくらべながら、ここにも懸絶する日米物力の差を見て、今さら愁然たる吐息をついた。
   忘れもせぬ昭和十六年十二月八日。その日開催された中央協力会議の席上で、詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言し「健康や精神生活は身辺日常の美の力に培れることを看過すべからず。この美を欠くとき人心は荒廃する」と、いみじくも喝破されたのであったが、やんぬる哉、この提案は、美の何たるかを解せる官僚共によって、全面的な実現を封じられてしまった。
 「無用の用」を抹殺し、美を蔑ろにした結果は、戦時中、恐るべき人心の荒廃となって覿面に現われ、今なほ満目の焦土はこの世の飢餓地獄と化しつつある。この痛烈な現実的証跡を省るなら、せめて専売局よ、殺伐たる「みのり」の袋に色彩を点ぜよ。せめて運輸省よ、客車を明るうして標語ならぬ本格的美術ポスターを掲げてくれ。然らずんば、煙草の外装ひとつからも無批判的な外国文化心酔の傾向が、不幸な劣等感を助長しつつ、やがて滔々と始まるであろうかも知れぬのである。(1945年9月30日)

「中央協力会議」は、大政翼賛会の主催で、地方代表、各界代表の議員を選定、それらを一堂に集め、とりあえず下意上達の姿勢を見せ、国民の士気を高揚しようと始めたものです。光太郎も各界代表の議員(岸田国士の推薦で就任)として、昭和15年(1940)12月の臨時協力会議、翌年の第一回会議に出席し、発言しています。しかし、投稿にある昭和16年(1941)12月8日の第二回会議は、ちょうど開戦の日と重なったため、議員が集められたものの、それどころではなく流会となりました。

したがって、投稿の「詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言」は実際には行われなかったのですが、そのあたりの経緯は戦中戦後の混乱期なので、投稿者もわからなかったのでしょう。実際には行われなかった提言ですが、会議に先立ち、こんな提言をするというのは報道されており、投稿者はそれを読んだのだと思われます。

工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す

 国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない、しかも戦ひが長期になれば人心がともすれば荒廃するからこれを緩和し同時に工場に働く産業戦士の頭を精神的な方向に向けるために美術家を総動員して大工場の食堂、休憩室、合宿所、病院などの設計に合理的な美を与へるばかりでなく壁面彫刻や■■をどしどし活用すべきである、一方いまのやうな時局は絵だけかいてゐてよいのだらうかとの美術家たちの気迷ひを一掃して明確な方向を示すことにもなると考へてゐる

昭和16年(1941)12月5日の『大阪毎日新聞』から採りました。「■」は活字が潰れ、判読不可能でした。

やがて太平洋戦争の敗色が濃厚となるにつれ、「国民の心を荒廃から救う」的な光太郎の意図は、変容していきます。すなわち、「滅私奉公」→「尽忠報国」→「挙国一致」→「七生報国」。

下記は大戦末期の、特攻隊を讃美する詩。『高村光太郎全集』では、やはり初出掲載誌不詳で残された草稿から採録していましたが、数年前、初出誌『陸軍画報』第13巻第2号(昭和20年=1945 2月1日)を入手しました。
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同誌、「特輯・全軍特攻」と銘打ち、特攻各隊の戦果や、散華した隊員達の遺詠なども載せています。
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粛然とした気持にさせられます。しかし、彼らを無条件に「英霊」と讃えるのでもなく、逆に「犬死に」とディスるのでもなく、こうした悲劇がくり返されることの無いように、と考えて行動していくのが、現代に生きる我々の使命なのではないかと存じます。

【折々のことば・光太郎】

昨日午后二時に無事帰宅しました。今度はいろいろ御世話様に相成り御礼の申様もありません、斎藤さん御夫婦にも何卒よろしくお伝へ下さい。 長い間ちゑ子を中心に生活してゐたため、今ちゑ子の居ない此の家に居るとまるで空家に居るやうな気がします。病気のちゑ子がふびんでなりません。どうぞよろしく御看護願ひ上げます。


昭和9年(1934)5月9日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子、もはや自宅での看護は不可能、と、千葉九十九里浜に移り住んでいた智恵子の母・センの元に預けます。智恵子がかつて「空が無い」と評した東京ではなく、自然豊かな九十九里浜で、母親や妹夫妻(斎藤さん御夫婦)に囲まれて暮らすことで、恢復を願ったのでしょう。

シニカルな見方をすれば、智恵子を棄てた、とも云えるかも知れませんが、そこまでは云いたくないところです。

先月から始まっていたのですが、気づきませんでした。会期が長く設定されているのが救いです。

谷澤紗和子個展「彼方の手に触れる。」

期 日 : 2023年7月8日(土)~9月2日(土)
会 場 : See Saw gallery + hibit 愛知県名古屋市瑞穂区密柑山町2-29
時 間 : [水・木] 12:00 - 17:00 / [金・土] 12:00 - 19:00
休 館 : [日・月・火] 8月13日(日)から8月22日(火)
料 金 : 無料

ヒヤシンスをモチーフにした切り紙シリーズや、高村智恵子へのオマージュの新作などを発表します。 是非ご予定ください。
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以前から智恵子紙絵等のオマージュ作品を制作、発表なさっている谷澤紗和子氏の個展。今回も智恵子作品からインスパイアされた作が複数出ています。同展のイメージ画像として使われている上記の切り絵作品も、智恵子油絵「ヒヤシンス」が象られています。
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また、智恵子が太平洋画会研究所に通っていた明治40年(1907)頃のデッサンも。

『中日新聞』さんに紹介記事が載り、そちらの画像で確認いたしました。

<ミニ美術> 谷澤紗和子個展「彼方の手に触れる。」(See Saw gallery + hibit)

 「はいけい ちえこ さま」と名付けられた切り紙のシリーズは、戦前に活動した洋画家で紙絵作家、高村智恵子へのオマージュという。智恵子が画業の初期に取り組んだという男性ヌードの素描のイメージと、食べものをモチーフにした紙絵を模写して切り紙にし、組み合わせている=写真。
 詩人・高村光太郎の妻として、長らく彼の代表作「智恵子抄」を通して語られてきた智恵子。新作の「彼方の手に触れる。」シリーズでも、智恵子の残したヒヤシンスの油彩画を、切り紙に仕立てた。智恵子の創作を追体験する作家の営みは、近代美術史の潮流の中でともに「こぼれ落ちてきた」女性の存在、そして切り紙をはじめとした「手仕事」にも光を当ててくれる。
 1982年大阪府生まれ。京都市立芸術大学大学院修了。(宮崎正嗣)
展覧会は名古屋市瑞穂区密柑山町2のSee Saw gallery + hibit(シーソーギャラリー)で9月2日まで開催中。
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男性像の背後は、下記画像のバナナを描いた智恵子紙絵がモチーフです。
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昨日から画廊がお盆休みに入ってしまいましたが、8月23日(水)から再開とのこと。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子儀一時は殆ど精神喪失して癡呆状態にまで陥りましたが療養と看護をつづけ居りますうち幾分か快方に向ひ、最近にては昔やつて居りました機織りを又始める程になりました、かういふ機械的の仕事は出来るやうになりましたが、まだ意識と智能の全部を取りもどすところまではまゐりません、 おてがみの事を話しましたらあなたの事をよくおぼえて居りました、


昭和9年(1934)3月20日 秋広朝子宛書簡より 光太郎52歳

この年に入ると、智恵子の心の病が一時、機織りが出来るまで快方に向かいました。しかし、それも長くは続きませんでしたが。

秋広は日本女子大学校での智恵子の同窓。家庭の事情で中退しましたが、一時、学生寮で智恵子と同室でした。

宮城レポートの最終回です。

8月10日(木)、2泊した女川町を後に、千葉の自宅兼事務所に戻る前、松島町に立ち寄りました。

松島湾。
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目的地は瑞巌寺さん。こちらの宝物館で、先月から「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催されています。一関さんには、10年前の連翹忌の集いでアクションペインティングをお願いいたしました。
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まずは本堂に礼拝。
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さらに庫裡へ。
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こちらには、光太郎の父・光雲の手になる彩色聖観音像が納められています。
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元々は、昭和2年(1927)に宮城電鉄が松島まで延伸された際、無事故等を祈願して同社が発願。当初は瑞巌寺さんではなく、松島海岸駅近くのお堂に納められていましたが、その後、こちらへ移されました。当方、こちらを拝観するのは3回目でしたが、何度観ても神々しいお姿です。

続いて宝物殿。こちらで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催中です。
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フライヤーには先述の聖観音像。その作品も展示されていました。下記は一関さんサイトより。
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その他、花鳥風月、伊達政宗公などなど。
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ロビーに展示されていた七夕飾りのみ、撮影可でした。
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こちらは10月1日(日)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

以上、宮城レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

いつてみたいのは年来の事ですが、去年の夏以来ちゑ子の病気がわるくて此頃では小生一日も外出する事不可能になりました、 ちゑ子の恢復するまでは小生禁足の状態です、


昭和8年(1933)12月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎51歳

釧路在住の詩人・更科からの北海道に来ませんかという誘いに対しての返答です。年が明けると智恵子の病状も少し快方に向かいますが、この頃はかなりひどかったようです。

宮城レポートの2回目です。

8月9日(水)、第32回女川光太郎祭が行われ、その様子は昨日レポートいたしましたが、そちらが始まる前、さらに午前中の光太郎文学碑への献花と午後の式典の間などに、会場周辺をうろうろしました。

見ておこうと思ったのは、光太郎文学碑の精神を受け継ぎ、「100円募金」で建てられた「いのちの石碑」。避難の際の目印となるよう、東日本大震災の津波到達地点より高い場所に設置され続け、一昨年、予定の全21基がすべて完成しました。

以前にも拝見したのですが、港の東、山祇神社さん境内に建てられた碑。
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この碑を発案した、震災当時の中学生たちが作った碑ごとに異なる俳句、それから全碑共通の避難マニュアル的な文章などが刻まれています。これも全碑共通の右肩が上がったシルエットは町内の遺跡から発掘された鎌倉時代の板碑をモチーフとし、供養塔の意味合いも込められているとのこと。

1号碑が建てられたのは、平成25年(2013)。
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女川光太郎祭会場のまちなか交流館さんや、光太郎文学碑と隣接する震災遺構・旧女川交番などに設置されたパネルに、その際の様子が記されています。

それから毎年のように少しずつ碑が建てられ続け、最後の一基が建ったのが一昨年。その最後の碑は、新設された女川小中学校内に設置され、まちなか交流館さんからも見えました。
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高台に建てられたそれは、まるで町中心街を見守る守護神のようにも見えました。これからも、その役割を果たし続けてほしいものです。

8月10日(木)、女川町を後に、松島町に向かいました。そのあたりは、明日。

【折々のことば・光太郎】

今ちゑ子は殆ど癡呆状態をつづけてゐます、此は体質に潜んでゐた精神病の素質が出て来たのではないかと心配してゐます、遺伝梅毒の懸念を持つて血液検査をしてもらひましたところ此方は痕跡無しといふ事です、 年齢上の更年期に来る強い神経衰弱かとも思ひますがそれにしては少し度が強過ぎます、

昭和8年(1933)11月6日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

8月から9月にかけ、東北と北関東の温泉廻りをした後、智恵子の心の病状は却って悪化していました。そこで脳梅毒の検査をしてもらったところ陰性だったとのこと。わざわざ陽性だったものを陰性だったと虚偽の記述をしないでしょうから、これは真実でしょう。

しかし、ネット上などではまことしやかに「智恵子は脳梅毒だった、若い頃の光太郎が女遊びにうつつをぬかしていたせいだ」と、エビデンスも明記せず面白おかしく書いている輩が多く、閉口しています。

2泊3日の旅で、宮城県に行って参りました。レポートいたします。

8月8日(火)、自宅兼事務所から愛車を北に向け、出発。途中、石巻のお寿司屋さんで2年半ぶりにがっつり寿司を食べ、牡鹿郡女川町へ。
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こちらも2年半ぶりに、トレーラーハウスのホテル・エルファロさんに宿泊。
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翌8月9日(水)が、第32回女川光太郎祭でした。昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月三陸沿岸を旅した中で、女川にも立ち寄ったということで、平成4年(1992)から光太郎を顕彰するために開催されているイベントです。コロナ禍のため、4年ぶりの通常開催となりました。

午前10時、平成3年(1991)に建立され、翌年からの女川光太郎祭開催のきっかけとなった、光太郎文学碑へ献花。
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平成23年(2011)の東日本大震災ではこの碑も倒壊し、碑の建立に奔走された貝(佐々木廣)氏も津波に呑まれて亡くなりました。

震災後、約10年間、倒れたままの状態でしたが、令和2年(2020)には再建。しかし、碑面には津波の傷跡が生々しく残っています。
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刻まれている短歌(海にして……)と詩「霧の中の決意」は、光太郎の筆跡を使いましたが、紀行文「三陸廻り」は光太郎の自筆稿がが残っていなかったので、当会顧問であらせられた北川太一先生が書かれました。
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その北川先生も、碑の再建を見ることなく亡くなられました。

そこで、光太郎本人、貝(佐々木)廣氏、北川先生と、それぞれに思いを馳せながら、献花させていただきました。

ちなみに碑と同じ敷地内には、津波で横倒しになった旧女川交番が震災遺構として保存されています。
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そちらの説明パネルには、かつての女川町を描いた貝(佐々木)廣氏のスケッチも。
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さて、午後2時、文学碑近くのまちなか交流館さんで、式典。
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前座として当方の記念講演。コロナ禍前から、光太郎の生涯を少しずつご紹介していたのですが、今回は最晩年の話をさせていただきました。

続いて主催の女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶。さらに先程の献花の様子を動画で投影いたしました。
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メインアクトは、町内外の方々による、光太郎詩文の朗読。
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ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏を務められ、北川先生が高校教諭でいらした頃の教え子の方も朗読をなさいました。
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オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクション演奏。
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須田善明町長、そして貝(佐々木)廣氏の奥様・英子さんのご挨拶。
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仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さっています。

 4年ぶりに光太郎祭 朗読や生演奏、ファンらがしのぶ 宮城・女川

 戦前に宮城県女川町で紀行文や詩を残した詩人の彫刻家高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館であった。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、4年ぶりの開催。県内外からファンら約30人が参加した。
 県内や秋田県、東京の中学生から大人まで10人が朗読。ギターの生演奏に合わせ、二本松市出身の妻智恵子への愛をうたった「レモンの哀歌」や「あどけない話」などを感情を込めて披露した。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演し、作家太宰治の実兄で青森県知事だった津島文治が光太郎に制作を依頼したという彫像「乙女の像」について解説。「制作時、肺結核になったが、助手の力を借りて完成させた。多くの人に愛される作家として最期を迎えた」と話した。
 光太郎は1931年に女川を訪れ、数々の詩歌などを残した。光太郎祭は地元有志らが92年から開催している。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「毎年8月9日に集い、先人の思いをつないでいきたい」と語った。
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無事閉会し、近くの中華料理店で打ち上げ。
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志を同じゅうする人々が集えることのありがたさを噛みしめました。4月の連翹忌碌山忌などもそうでしたが。

こちらの催しも、末永く続くことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、


昭和8年(1933)9月29日 宮沢清六宛書簡より 光太郎51歳

生前に一度だけ会った、しかしその才能を高く評価していた宮沢賢治が没したのは9月21日。光太郎の13歳年下でしたので、数え38歳での早世でした。

その2年前、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯に来るということで、賢治は光太郎に花巻へも立ち寄って、再会したいと希望していましたが、それは果たせませんでした。おそらく光太郎は三陸への行き帰りも月に一便だけの東京~三陸間の汽船を使ったと思われ、その都合もあったのではないかと思われますし、光太郎の三陸旅行中に智恵子の心の病が顕在化し、早く帰ってこいと云う連絡でもあったのではないでしょうか。

女川光太郎祭を昨日無事に終え、千葉に帰る途中で松島瑞巌寺さんに立ち寄りました。
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光太郎の父・光雲作の木彫観音像を拝観、さらにそれを描かれた作品も含まれる墨画家・一関恵美さんの個展〈千貫之風 sengan no kaze〉を拝見。
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詳しくは帰りましてから。

昨夜から宮城県牡鹿郡女川町に来ております。
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『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を訪れたのが昭和6年(1931)。それを記念しての「女川光太郎祭」が、今日、4年ぶりに通常開催されます。
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詳しくは帰りましてから。

地方紙記事から3件。

まず、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム。

2023.8.4 みすず野

東京美術学校の草創期だから明治半ばだろう。岡倉天心校長が学生を飲みに誘う。集まったのは下村観山、菱田春草、横山大観...橋本雅邦先生もいた。後に名を成す大家の修業時代とはいえ、すごい顔ぶれの飲み会があったものだ(『作家と酒』平凡社)◆こちらは詩人の交流。草野心平は若い頃、屋台の焼き鳥屋を開く。素人商売だから翌日の酒を仕入れる金が残らない。心配して友達の高村光太郎がたびたび様子を見に来た。2人は―詩誌で心を通わせ合った―宮澤賢治の葬儀に駆け付け、遺稿の詰まったトランクの中から〈雨ニモマケズ〉の手帳を手に取る◆こうした逸話は―互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さにあらためて気付かせてくれる。同僚は自分を高みへと導く〝春草〟かもしれない。一別以来はがきも出していない友は〝賢治〟でなかろうか◆前掲書からもう一つ。村上春樹さんが〈小澤征爾さんがうちに遊びに見えたとき〉と書いている。マエストロは米国ビール〈ブルー・リボン〉を懐かしがり、くいくい飲んだ。ニューヨークでの助手時代は収入がほとんどなく、安い銘柄しか飲めなかったという。

一昨年発行のアンソロジー『作家と酒』から。ただ、「宮澤賢治の葬儀」は誤りで、正しくは没した翌年に新宿で開かれた追悼会ですが……。

互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さ」。そのとおりですね。

続いて『信濃毎日新聞』さん。

「震災を自分事に」 松川高ボランティア部、4年ぶり東日本大震災の被災地訪問 石巻市と女川町

 松川高校(松川町)ボランティア部の生徒7人が4日、東日本大震災で被災した宮城県沿岸部の石巻市と女川町を訪ねた。震災直後から続く被災地訪問は、新型コロナウイルス感染症の影響で途絶えていたため4年ぶり。被災地に寄り添う取り組みを次代につなげた。
 ボランティア部は町特産のリンゴを石巻市に届けたり、現地でがれきの撤去を手伝ったりしてきた。同市の避難所で咲いていたペチュニアの種を譲り受け、生徒や松川町民が育てて「お里帰り」させる取り組みもしている。
 この日は、子どもが中心となって建てた女川町の「女川いのちの石碑」を見学し、石巻市の「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に移動。解説員から地震や津波の規模、身を守るすべについて教わった。
 津波で児童74人、教職員10人が亡くなった石巻市の大川小学校跡地の震災遺構では、次女を失った大川伝承の会共同代表の鈴木典行さん(58)が当時の生々しい状況を説明。「津波の教訓は、逃げたら戻らないということ。戻ったら流される」と訴えた。
 松川高2年の関根諒さん(16)は東京電力福島第1原発事故を受け、4歳の時に福島県大熊町から駒ケ根市に移り住んだ。「東北には『戻る』というより『行く』という感覚。大川小で悲惨な話を聞き、震災を自分事として考えられた」と話した。部長の3年小田切彩風(あやか)さん(18)は「学んだことを後輩たちに伝えたい」と言葉に力を込めた。
 現地訪問は3~5日の日程。3日は宮城県内の小中学校や高校で児童生徒と交流した。5日は福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館を見学する。
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いのちの石碑」は、東日本大震災による大津波で甚大な被害を受けた宮城県女川町に建てられたもの。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として津波到達地点より高い場所に設置を続けました。かつて「100円募金」で建てられた女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われました。
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今日はその女川町に参ります。明日、光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」ですので。

同祭につき、仙台に本社を置く『河北新報』さん系の『石巻かほく』さんが予告記事を出して下さいました。

光太郎の思いに触れて 女川で祭り、4年ぶり 朗読や講演 9日

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第32回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日午後2時から、同町まちなか交流館ホールで開かれる。
 光太郎がのこした紀行文や詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れる。記念講演では高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎 その生の軌跡 最晩年」と題して講演する。朗読には同町を含む東北と東京から計10人が参加する予定。ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)、オペラ歌手本宮寛子さんの献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅の途中に女川を訪れ、数々の詩や散文などの作品をのこした。光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開いてきた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で2020年から中止が続き、4年ぶりの開催。誰でも参加できる。
 連絡先は事務局の佐々木さん090(6686)7811。

光太郎祭の通常開催は4年ぶり。当方は東日本大震災からちょうど10年だった一昨年の3.11に訪れて以来の女川です。長かったような、短かったような……。

【折々のことば・光太郎】

しばらく方々を歩いてゐましたが先日帰宅しました、 秋になりましたがお変りありませんか、

昭和8年9月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養のため、東北、北関東の温泉を約半月廻りました。

この葉書は塩原で撮った写真を絵葉書にし、送りました。確認できている限り、智恵子生前最後の写真です。
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最近、白黒写真をカラー化できるアプリ的なものが出回っており、やってみました。やっぱり雰囲気が少し変わりますね。しかし、AI、もうちょっとがんばれよ、という感じですが。

都内から写真展の情報です。

壊死するフウケイ/ Landscape of death

期 日 : 2023年8月8日(火)~8月20日(日)
会 場 : TOTEM POLE PHOTO GALLERY 東京都新宿区四谷4-22 第二富士川ビル1F
時 間 : 12:00~19:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

下総の牧の広野の暁の、空をばいそぐいそぐ水鳥 ー水野葉舟「滴瀝」より

 昭和の激動期に建設された、成田国際空港。政治的問題を抱えながらも、40年以上日本の玄関口としての役割を果たしてきた。現在、成田空港では新しい滑走路の建設が進んでいる。約1000haの建設用地(現在の空港敷地は1198ha)が買収される事で、空港の南東に広がる古くからの里山や明治以来の開墾地が失われてしまうのだ。 私は典型的な里山風景という表象をこの地に求め、失われる農村を撮影しようと試みた。しかし時すでに遅く、過疎化により、集落としての共同体は崩壊しかけ、農地は荒廃していた。聞くところによると、集落の殆どが空港拡張に賛成だと言う。 私は空港拡張に反対する立場ではないが、環境保護が叫ばれている昨今、更に自然に手を加え、大規模な人工物を建造するという事に関しては、一考の余地があるだろう。この風景たちは現代の縮図であり、状況の一部なのだと思う。

 展示では、新滑走路建設により失われる農村風景の写真を中心に、現場で録音されたフィールドレコーディング作品、映像作品の3点で構成される。フィールドレコーディングは写真撮影にちなんで「フォノトグラフィー」とも呼ばれ、今回は風景写真の延長として制作した。映像作品は、静止画では伝わり難い現地の動感を表現するために展示した。この3点をサウンドインスタレーションとして構成する事で現地の雰囲気が一層伝わるよう工夫した。

出典 水野葉舟著 歌集「滴歴」草木屋出版部, 1940
   のら社同人, 北井一夫他箸「壊死する風景―三里塚農民の生とことば」のら社, 1970

水野葉舟 ー 1883-1947 明治ー昭和時代の歌人、詩人、小説家。トルストイや高村光太郎の影響により、大正13年から三里塚駒井野で半農生活に入った。
のら社 ー 写真家北井一夫が主宰する出版社。北井一夫「三里塚」、木村伊兵衛「パリ」などを出版。
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光太郎の親友・水野葉舟の短歌が全体のイメージとして使われています。出典の歌集『滴瀝』(草木屋出版部 昭和15年=1940)は光太郎の装幀・題字です。
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大正12年(1923)の関東大震災後、光太郎は日本画家・山脇謙次郎のために千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)の宮内省三里塚御料牧場近くに開墾小屋を設計し、建ててやりました。結局、この地に定着できなかった山脇に代わり、親友の水野葉舟がこの小屋を譲り受け、さらに近くに家を建てて、昭和22年(1947)に没するまで、ここに住みました。光太郎もしばしば葉舟の元を訪れ、詩「春駒」(大正13年=1924)を書くなどしています。

その後、御料牧場は那須に移転、跡地に成田空港が建設されました。空港建設が決まった当初から、いわゆる「三里塚闘争」。用地取得を巡って強引に事を進めた政府に対し、地元農民等が黙っていませんでした。そして現在、拡幅工事。それが終われば倍する面積となります。もはやほとんど反対運動はないそうです。

そこで、まだ僅かに残っている、葉舟や光太郎が愛したこの地の里山や開墾地の風景を撮った写真展。タイトルの「壊死するフウケイ」は、闘争の歴史の中で出版された『壊死する風景―三里塚農民の生とことば』(のら社 昭和45年=1970)から。「壊死」、ドキリとさせられる言葉です。

成田空港を巡る問題は、実に複雑です。あれだけ騒いで開港したものの、結局、羽田の国際線機能が拡大され、何だったの? という部分もありますし……。開港したからには半端な形での運用を続けるな、という意見ももっともですし、さりとて風景を壊死させることが正しいのか、という考えも正論です。ちなみに当方自宅兼事務所は成田の隣町。これを書いている現在も、離着陸する飛行機の爆音が響いています。もはや慣れてしまって、まったく気になりませんが……。

というわけで、写真展「壊死するフウケイ/ Landscape of death」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

青根から土湯へまゐりました。土湯で一番静かな涼しい家に居ます。 もう二三日ここにゐるつもりでゐます


昭和8年9月2日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養の旅。「青根」は蔵王青根温泉。「土湯で一番静かな涼しい家」は、福島土湯温泉のさらに奥、一軒宿の不動湯温泉。平成25年(2013)に火災で焼失するまで、光太郎智恵子の泊まった部屋、光太郎が書いた宿帳が当時のまま残っていました。
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焼失後、焼け残った露天風呂を使って日帰り入浴施設として再開しましたが、コロナ禍のためでしょうか、令和3年(2021)から再び休業中です。

岡山から企画展情報です。

特別展「美をたどる 皇室と岡山~三の丸尚蔵館収蔵品より」後期展示

期 日 : 2023年8月8日(火)~8月27日(日)
会 場 : 岡山県立美術館 岡山県岡山市北区天神町8-48
時 間 : 午前9時~午後5時 8月26日(土曜日)は19時まで夜間開館
休 館 : 8月21日(月曜日)
料 金 : 一般 1,400円 65歳以上 1,300円 大学生 1,000円 
      高校生 800円 中学生以下 無料

 三の丸尚蔵館は、皇居の東御苑内において、皇室に代々受け継がれた絵画・書跡・工芸品などの美術品を収蔵管理・調査・公開する施設です。現在約9,800点におよぶ収蔵品は、皇室から国への御寄贈品、御遺贈品などからなり、古代から近現代までの各時代・さまざまな分野にわたる貴重な作品が数多く収められています。
 三の丸尚蔵館では令和元年度から新施設の建設工事が始まり、令和7年度の全館完成までの移行期間中に、より多くの方々に作品をご覧いただき、皇室と日本文化に親しんでいただきたいとの方針のもと、各地で展覧会が実施されています。
 このたび岡山県立美術館においては、やまと絵の最高峰とされる高階隆兼筆《春日権現験記絵》(国宝)をはじめ、横山大観による水墨風景画の逸品《秩父霊峯春暁》、極めて精緻な彫金による《神龍呈瑞》など、各時代・分野の名品をご紹介します。また、近代の洋画家・松岡壽、満谷国四郎、児島虎次郎、鹿子木孟郎や、人形作家・平田郷陽ら、岡山が輩出した作家たちによる皇室ゆかりの作品を一挙に展覧いたします。皇室の御慶事の記念品として作られてきた、趣向を凝らした手のひらサイズの菓子器・ボンボニエールも見どころのひとつです。
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前期展示は7月15日(土)に始まっていますが、8月8日(火)からの後期展示で、光太郎の父・光雲作の木彫「松樹鷹置物」(大正13年=1924)が展示されます。
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何度か拝見しましたが、像高約1メートル、なかなかの大作です。

出品目録は以下。
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逸品ぞろいですね。

ちなみに同様の趣旨、宮内庁三の丸尚蔵館さん蔵品の出開帳的な展示で、やはり光雲作の木彫「文使」(明治33年=1900)が出ている「皇室の名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~」が、秋田県立近代美術館さんで開催中です。

それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日久しぶりにて二本松万福寺にまゐりゑ子と一緒にお墓に香華を手向けました、役場へも一寸立寄りました、午后磐梯山下の川上温泉に投宿、無事、


昭和8年(1933)8月25日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

万福寺」は「満福寺」の誤記。智恵子実家の長沼家の菩提寺で、現在も長沼家墓所が残っています。

前日、本郷区役所に婚姻届を提出し、この日はまだ籍が残っていた油井村の長沼家の戸籍から智恵子を除籍した、ということでしょう。












新刊です。

三人書房

2023年7月28日 柳川一著 東京創元社 定価1,700円+税

 大正八年東京・本郷区駒込団子坂、平井太郎は弟二人とともに《三人書房》という古書店を開く。二年に満たない、わずかな期間で閉業を余儀なくされたが、店には松井須磨子の遺書らしい手紙をはじめ、奇妙な謎が次々と持ち込まれた──。同時代を生きた、宮沢賢治や宮武外骨、横山大観、高村光太郎たちとの交流と不可解な事件の数々を、若き日の平井太郎=江戸川乱歩の姿を通じて描く。第十八回ミステリーズ!新人賞受賞作「三人書房」を含む連作集。
 乱歩デビュー作「二銭銅貨」発表から百年の年に贈る、滋味深いミステリ。

目次
 「三人書房」
 「北の詩人からの手紙」
 「謎の娘師(むすめし)」
 「秘仏堂幻影」
 「光太郎の〈首〉」
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というわけで、若き日の江戸川乱歩の元に持ち込まれた謎の数々を、快刀乱麻を断つ如く(死語ですね(笑))、博覧強記頭脳明晰で行動力にも富む乱歩が次々と解決していく、という連作推理小説です。

全五話から成り、それぞれに語り手が交代。乱歩の友人だったり、弟たちだったり……。ちなみにタイトルの「三人書房」は、乱歩が二人の弟と共に一時期経営していた古書店の屋号です。

そして最終話「光太郎の〈首〉」では、光太郎が語り手。戦後の七年間、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で、光太郎がやはり乱歩によって真相の解明された昭和初期の奇妙な事件を回想するという形です。

奇妙な事件というのは、光太郎が作ったブロンズの胸像が依頼主の元から盗難に遭い、さらに無残に破壊されて見つかるということがたてつづけに起こり……というもの(架空の話ですが)。イタズラや怨恨や金目当てなどではなく、犯人には、光太郎彫刻を破壊しなければならない切羽詰まった事情があって……という設定ですが、詳しくはお買い求めの上、お楽しみ下さい。

ちなみに乱歩の代表作の一つ「D坂の殺人事件」の「D坂」は、かつて「三人書房」があり、さらに光太郎アトリエ兼住居にも近い団子坂です。『高村光太郎全集』には乱歩の名はありませんが、近くに住んでいた同士、顔を合わせたことくらいはあったでしょう。

その他、内容説明欄にある通り、宮澤賢治(第二話の章題にある「北の詩人」)、宮武外骨、横山大観らが登場。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたく存じました、又先日は届書の事にていろいろ御世話さまになりましたが、昨日区役所へ無事に届済みとなりました。今晩小生等は二本松へ出発いたします、お墓まゐりを致した上どこかの温泉にてしばらく静養いたしてまゐります、

昭和8年(1933)8月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

」は婚姻届。永らく事実婚だった光太郎智恵子でしたが、ついに届けを出しました。智恵子の心の病が昂進し、光太郎は結核。万が一、先に自分が死ぬことがあったら、法律上、妻ではない智恵子に相続の権利がないことを考慮し、正式な夫婦となりました。

光太郎自身には財産と呼べるものはほとんどなかったのですが、この頃まだ健在だった父・光雲が没すれば、相当額の遺産が入ることが予想され(実際、翌年に光雲が亡くなり、相続した遺産が後の智恵子のゼームス坂病院入院費用に宛てられます)、それをふいにしたくないという……。

ただし、夢幻界の住人となってしまっていた智恵子に、その意味が理解できたかどうか……。

どこかの温泉」は、巡った順に、裏磐梯川上温泉、蔵王青根温泉不動湯温泉塩原温泉でした。

7月31日(月)に放映のあったものの再放送です。

にほんごであそぼ「空」

地上波NHK Eテレ 2023年8月5日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご・漢字アニメ/空、偉人とダンス/この空は私たちの真上にある 究極のアートギャラリーなのである。(ラルフ・ワルド・エマーソン)、こどもスタジオ/空前絶後、
朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎、文楽/山のあなたの・・・、童謡「りすりす小りす」

【出演】南野巴那,高杉真宙,竹本織太夫,鶴澤清介,三世桐竹勘十郎,青柳美扇,おおたか静流,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

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「空」をテーマに、さまざまな切り口から日本語の面白さを探究。
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そんな中で、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)を、俳優の高杉真宙さんが朗読。
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実に爽やかでいい感じでした。

NHKプラスさんでも配信されています。ただし、ブラウザが限定されているようです。Microsoft Edgeには対応していないような……。

ところで、過日、同番組のスタッフ女史からレファレンス依頼がありました。8月8日(火)に撮影を行う回で、やはり光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)と、「道程」(大正3年=1914)の雑誌初出形バージョンを取り上げて下さるそうで、詩の読み方について。

「道程」の雑誌初出形バージョンは、全102行。あまりに長いのですべてではなく抜粋で、だそうです。「レモン哀歌」は以前にも使われましたが、こちらは初の試みということで、読み方はこれでいいのか、という確認でした。しかしなんとオンエアは10~11月の予定とのこと。かなり長いスパンで制作されているのですね。

ちなみに以前も書きましたが、時折、ネット上で102行バージョンが「「道程」の全文」という紹介の仕方をされていて、閉口しています。まるで詩集『道程』に収められた9行の形(光太郎自身がばっさり切り落としました)が実はまがいもので、みんな騙されているかのように「この長いのが「道程」の全文じゃ。どや、おどれら知らへんかったろ、教えたるわ、ボケ」みたいな(笑)。102行の形は「初出形」または「初出発表形」、9行の方は「最終形」あるいは「最終詩形」。「全文」という語は絶対に使わないでいただきたいものです。「それ、「全文」ちゃうねん、知ったかぶってドヤ顔こいとるんやあらへんで」という感じです。別に関西弁でなくてもいいのですが(笑)。

閑話休題。明日の再放送、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

又例の講座の「ヹルハアラン」が出来ました故ともかく別封で謹呈いたします、 説明を平叙法にした為め失敗しました、ヹルハアランの人物とその時代的意味を書けずにしまひました、


昭和8年(1933)8月14日 片山敏彦宛書簡より 光太郎51歳

例の講座の「ヹルハアラン」」は、この月発行の『岩波講座世界文学九 近代作家論』。光太郎によるベルギー詩人エミール・ヴェルハーレンの書き下ろし評伝「ヹルハアラン」を含む、6人の共著です。「」は、それに先立つ6月に同じ叢書の第七巻で光太郎単著の『現代の彫刻』が刊行されていたことに関わります。いずれもペーパーバックです。
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ヴェルハーレンは妻・マルトとの生活を謳った連作詩「時」三部作を発表しており、『智恵子抄』所収詩篇にも少なからず影響を及ぼしています。

4年ぶりの通常開催です。

女川光太郎祭

期 日 : 2023年8月9日(水)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月、三陸沿岸を旅しました。

そこで、偉人が訪れた町である、ということで、女川町に四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)、地元ご在住の貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力された、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。
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その後、同様の形式で女川光太郎祭が連綿と続きました。北川先生のご講演も毎年恒例となり、おみ足を悪くされ、外出が困難となった平成21年(2009)まで続けられました。

平成23年(2011)3月11日、東日本大震災。女川町は20㍍もの津波に襲われ、中心部は壊滅。その津波に呑まれ、貝(佐々木)氏も還らぬ人となりました。四基あった光太郎文学碑も二基は流失、メインの碑は倒壊し、永らく倒れたままとなりました。

その年は光太郎祭どころではないだろう、と思っていたのですが、津波の被害を免れた小学校を会場に開催。貝(佐々木)氏の奥様・英子さんが遺志を継がれてのことでした。

平成24年(2012)からは仮設住宅内コミュニティスペース仮設商店街内集会所などと会場を転々としつつも続き、北川先生もまた訪れられるようになり、さすがに以前のように長いご講演は無理となったものの、当方との対談形式や、短めのご講話といった形でお話下さいました。平成25年(2013)からは当方が講演をさせていただいておりました。

ところがコロナ禍。令和元年(2019)を最後に通常開催は見送られることとなり、関係者の方々による文学碑への献花のみが行われ続けました。この間に、倒壊した文学碑の復旧が済み、当方は東日本大震災10周年の令和3年(2021)3月11日、碑の拝見町主催の追悼式へ出席のため、行って参りました。
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そして、今年。女川光太郎祭、四年ぶりの通常開催となります。

午前10時から復旧した文学碑への献花。碑が倒れていた10年間は光太郎祭会場で碑の写真に献花していましたが、碑そのものへの献花となります。

午後2時からは碑近くのまちなか交流館さんで式典系。町内外の方々による光太郎詩文の朗読(「風にのる智恵子」「牛」「あどけない話」「レモン哀歌」「火星が出てゐる」「あの頃」「人に」「三陸廻り(抄)」)、おそらくアトラクション的に音楽演奏、それから当方の講演も復活します。今年は光太郎の最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、そして逝去あたりの話をさせていただきます。

ご興味のおありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子はどうも頭が悪くて一寸心配です、神経を痛めてゐるのでまづ気ながに療養する外ありません、年齢から来る症状かとも思ひます、


昭和8年(1933)7月5日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

昭和6年(1931)の光太郎三陸廻り中に、誰の目にも顕在化した智恵子の心の病。光太郎、この時点ではまだ更年期障害の昂進、程度の認識で居たようです。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻が施された祭車の出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2023年8月5日(土)・6日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8/5 午前10時 献石神楽朝御饌祭 午後5時30分 夕御饌祭
      8/6 午後5時30分 夕御饌祭 午後6時10分 斎火受渡・渡祭始式
         午後6時30分~午後11時30分ごろ 渡祭

 「日本一やかましい祭り」「天下の奇祭」として知られる、桑名市の春日神社を中心に行われる祭です。華麗な装飾を施した30数台の祭車に鉦や太鼓をつけ、それらを一斉に打ち鳴らす音が、見る者を圧倒させる勢いある勇壮な祭りで、桑名の夏の風物詩として、地元の方に昔から親しまれています。
 本楽では春日神社への巡行を行うため、旧東海道などを練り歩くその姿は荒々しく、勇敢さを感じると言われています。立川和四郎富重の彫刻や高村光雲作の飾り物をもつ歴史的にも価値の高い祭車もあり、各地区の住民は総出で参加し、一年一度の最大の娯楽行事ともなっています。2007(平成19)年3月7日に国の重要無形民俗文化財に指定され、2016(平成28)年12月1日には、「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録されました。
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光雲の手になる彫刻が施された祭車は「羽衣」。地区の名前でしょうか。
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他にも「太一丸」という団体?の祭車にも光雲工房作の彫刻が使われていますが、こちらは人手不足で最近出ていないようです。

同祭、昨年、BSイレブンさんで、祭りのハイライト「渡祭」の一部が生中継されました。メインの撮影場所は、春日神社(桑名宗社)さん。周辺を練り歩いた各祭車が、籤で決められた順番にここにやってきて、御神前で鉦や太鼓を打ち鳴らし、いわば演奏・演舞を奉納します。
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ちょうど放送が始まった時間、まさに「羽衣」の祭車の順番でした。
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光雲の手になる彫刻も、何となくわかりました。

ただ、これより後の順番だった祭車はしっかり彫刻などが映り、番組ゲストの小川雅生氏(桑名石取祭保存会研究員)による細かな解説もあって、「羽衣」も、もう少し後の登場だったらよかったのに、という感じではありました。
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ちなみにゲストはもうお一方、女優の大西礼芳さん。三重県のご出身だそうで。
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大西さん、光太郎と面識のあった村岡花子をモデルとした平成26年(2014)の朝ドラ「花子とアン」や、『青鞜』編集部を舞台とした演劇「私たちは何も知らない」にご出演されていた方です。

番組では、平成28年(2016)に同祭を含む日本全国33の山車祭りがユネスコ世界遺産に登録された件についても触れられていました。
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一度、拝見に伺いたいものです。お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草津へ来ましたがちゑ子は始めてです、お湯がよいのでからだにきき相談に思ひます、

昭和8年(1933)5月18日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の湯治のため、草津に。この際は現在も続く旅館「望雲」さんに宿泊しました。8月から9月にかけては、東北、栃木と複数の温泉めぐりに出かけ、そちらは有名ですが、草津行きの件はあまり取り上げられていません。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」の名で出店されているワンデイシェフの大食堂」さん。「一般の主婦(男性)やOL、学生、プロなどが日替わりでシェフになって、ランチを提供するレストラン」というコンセプトのレストランです。

7月27日(木)が3回目の出店だったそうで、画像等送って下さいました。メニュー的には、かつて光太郎が実際に使った食材や作った料理などの記録から、現代風にアレンジを施してのメニューとなっています。
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令和元年(2019)、福島県いわき市立草野心平記念文学館さんで開催された 「居酒屋「火の車」一日開店」の際にご一緒させていただいた、兵庫県ご在住の料理研究家・中野由貴さんが、当ブログをご覧になって足をお運びになり、フェイスブックでご紹介下さっています。インフルエンサー的な方のレポートは実に有り難いところです。

明後日、8月3日(木)にも「こうたろうカフェ」出店があるとのこと。次回メニューは「
サーモンのガレットロール・ローストビーフ・トマトと卵の炒め物・里芋のクルミかけ・お新香・ご飯・おくらのスープ・ベイクドチーズケーキ・コーヒー」だそうです。

紹介すべき事項がたまっていますので、もう1件、花巻関係で。

花巻高村光太郎記念館さんで開催中のテーマ展『山のスケッチ』につき、NHKのさんローカルニュースで取り上げられました。先月の放映でしたので、「来月」というのは今月のことです。

高村光太郎が疎開していた花巻で描いた植物などのスケッチ展

詩人で彫刻家の高村光太郎が、戦時中に疎開していた花巻市で描いた身近な植物などのスケッチの展示会が開かれています。
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高村光太郎は、昭和20年、62歳の時に空襲で東京のアトリエが焼け、宮沢賢治の弟の清六を頼って花巻に疎開して7年間を過ごしました。
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「山のスケッチ」と題された今回のテーマ展には、疎開中に光太郎が描いた身近な草花のスケッチなど7点が展示されています。
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このうち光太郎が湯治先の西鉛温泉で描いたスケッチは山菜の「ミズ」を描いたものです。
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昭和20年6月20日という日付けとともに「丈1尺5寸」などと観察した内容がつづられています。
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また白い6枚の花弁が優しいタッチで描かれた「チゴユリ」というスケッチや、光太郎が過ごした花巻の山口地区のかやぶき屋根の集落を描いた作品もあります。
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鹿児島県の奄美大島から観光で訪れたという男性は「光太郎さんの『道程』や『智恵子抄』の詩はよく知っていますが、スケッチは初めて見ました。小さな命を愛しながら過ごしていたのがわかりました」と話していました。
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高村光太郎のスケッチの展示は花巻市の高村光太郎記念館で来月31日まで開かれています。
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それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もう略 肉どりは出来ました故仕上げる前に一度見て下さい、今週中は午前午后宅に居ります、

昭和8年6月19日 岩波茂雄宛書簡より 光太郎51歳

岩波書店の社章として依頼を受けたメダル制作に関わります。
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モチーフはミレーの「種まく人」。

以前にも書きましたが、これはボツとなりました。新たにエッチングで描かれた社章は、作者が不明です。

紹介すべき事項が多すぎて、もう始まってしまっていますが、智恵子の故郷・福島二本松からのイベント情報です。

プレスリリースから。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/29(土)開幕! インスタ映えメニューが多数登場!

 富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2023年7月29日(土)~9月18日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。
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 今年で12年目を迎える本イベントは、光の天の川を中心に花や動物などをモチーフにしたイルミネーションが光り輝くあだたら高原リゾートの夏の風物詩です。今年の見どころは、ゲレンデに広がる光の天の川に、昨年好評だった「夏の大三角形」「カシオペア座」などに加え、「てんびん座」「さそり座」「いて座」といった夏の星座が新たに加わりスケールアップした星座のイルミネーションです。そのほか、「ADATARA LOVE」をテーマにした「ハートのオブジェ」や「光のひまわり回廊」など、夜の安達太良山を美しく彩ります。

また、期間中の特定日には、安達太良山の夜空に願いを込めてたくさんのスカイランタンを浮かべる参加型イベント「LEDスカイランタンフェスティバル」も開催。イルミネーションの輝きと相まって、世界でここだけの幻想的な光景が広がります。

 さらに、食堂「富士急レストハウス」では夏ならではのメニューが多数登場いたします。昼には、暑い日にぴったりのピリッと辛い「冷やし担々麺」や、かき氷がたっぷりのった「かき氷そば」、雪のようなふわふわ食感のあだたらスノーアイス」など、ひんやり冷たいメニューが充実。また、おやつにおすすめなのが「岳」の文字型をした「岳チュロス」。その新シリーズとして、今夏「空チュロス」が登場いたします。夜には、暗闇に光るかき氷や光るドリンクなど、イルミネーションを鑑賞しながらスイーツを味わえます。

 この夏は、標高1,700mと夏でも涼しく、日本百名山の一つに数えられる安達太良山の絶景と幻想的なイルミネーションの世界を楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

「あだたらイルミネーション」概要
 ・開催期間 2023年7月29日(土)~9月18日(月祝)  
  ※8月28日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
 ・営業時間 19:00~21:00  
  ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
 ・料金  入場料:中学生以上700円、小学生以下500円
  入場料とロープウェイ乗車料のセット:中学生以上1,500円、小学生以下1,000円
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■LEDスカイランタン【ほんとの空に願いをこめて】
 今年で3年目を迎える「LEDスカイランタンフェスティバル」がこの夏も皆様の期待にお応えし開催いたします。オレンジ、ピンク、グリーン、ブルー、レッドの5色のランタンが夜空に浮かび、ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。

・開催日 8月12日(土)、15日(火)、19日(土)、26日(土)、9月2日(土)、
     9日(土)、16日(土)、17日(日)
・時間 18:00受付開始、20:00ランタンリリース予定
・料金 4,000円(ランタン1基、イルミネーション入場料1名分含む)
・参加方法 各開催日前日までの予約申込み ※各日先着80名様限定
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■夏の爽やかメニューが多数登場!
 富士急レストハウスでは、暑い夏にぴったりのメニューを多数販売いたします。ピリッと辛い「冷やし担々麺」や、かき氷がたっぷりのった「かき氷そば」、雪のようなふわふわ食感の「あだたらスノーアイス」、「あだたらかき氷ソフト」、「あだたらソーダ」もご賞味いただけます。
 さらに、今春に販売開始した人気の文字型チュロス「岳チュロス」に、新たに「空チュロス」も仲間入り。青空や緑の木々をバックに撮影すれば、インスタ映えすること間違いなしです!
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■ロープウェイからの絶景、薬師岳パノラマパークからの雄大な景色を一望
 「日本百名山」の一つに数えられる安達太良山は、標高1,700mで夏でも涼しい環境で大自然を満喫できます。あだたら山ロープウェイに乗って約10分の空中散歩を楽しんだ後、山頂駅からは阿武隈山系や福島市街地を一望。さらに、散策道を10分程歩いたところにある「薬師岳パノラマパーク」では、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる、青く澄みきった空と絶景の大パノラマが楽しめるほか、山肌にはハートの形を発見することができ、見どころいっぱいです。
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■絶景露天風呂「あだたら山奥岳の湯」でリフレッシュ!
 標高約950mに位置する「あだたら山奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。

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個人的には「空チュロス」が非常に気になります(笑)。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子は追々よろしくなりましたが此頃お目にかかりたいやうに申して居ります。まだ頭が疲れて居る様子で外出が出来ませんので母上に勝手ながら一二泊のおつもりでおいで願へれば幸に存じます、


昭和8年(1933)5月11日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

前年の睡眠薬アダリン大量摂取による自殺未遂から身体的には恢復し、心の病の方も小康状態でした。智恵子の実家、二本松の長沼酒造は既に破産、一家はちりぢりになっており、母のセンはこの頃、世田谷に逼塞していました。「ほんとの空」を見ることが叶わなくなったのが、心の病の大きな要因の一つだったと思われます。

昨日は午後から横浜市に行っておりました。

メインの目的は「元井美智子自作自演コンサート2023」。港の見える丘公園内のイギリス館さんでの開催でした。
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そちらは18:30開演で、一旦、会場を通り過ぎ、当初予定通りすぐ近くでよく足を運ぶ神奈川近代文学館さんにまず行きました。
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ただし、展示室の方ではなく閲覧室に(だいたいいつもそうですが)。
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側溝に猫が二匹。最初「死んでるのか?」と思ったのですが、どうやらあまりの暑さに涼をとっているだけのようでした(笑)。
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国会図書館さんのデジタルデータリニューアル
でいろいろ新情報を得ましたが、同データの「館内限定閲覧」扱いのもののうち、何点かはこちらにも所蔵があるので、閲覧。さらにそれとは別個の光太郎について書かれた部分がある現代の書籍で、必要な箇所をコピーして参りました。

閲覧室の利用が17:00までで、その後、早めの夕食を摂りに中華街へ歩きました。考えてみると、コロナ禍が始まって以後、初めてでした。

再び港の見える丘公園へ歩いて戻り、イギリス館さんへ。まだ時間がありましたので、館内を拝観。
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外観の模型。こちらの建物、昭和12年(1937)の竣工だそうで、元は英国総領事の公邸でした。そのあたり、いかにも、という造作です。
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壁や天井など、お約束のコテコテ装飾等は施されていませんで、古建築好きとしてはちょっと物足りないなと思いつつも、却って質素な感じには好感が持てました。

さて、開演時間が迫り、一階ホールへ(ホールといっても、元は大広間)。
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何とまあ、観客は当方一人でした。

元々、あまり大々的に宣伝をなさっていたわけでもなく、また、申し込みがあったものの、この暑さで体調を崩されキャンセル、という方が複数いらしたそうで。

というわけで、なんとも贅沢な一人だけのコンサート(笑)。すぐ目の前で弾いて下さいましたし、至福のひとときとなりました。ただ、配信のための動画撮影はなさっていたので、純粋に当方だけのためというわけではありませんでしたが(笑)。
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まず、「智恵子抄より」。

オリジナルの曲にのせ、元井さんご自身が詩の朗読。「あどけない話」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」。あくまで「朗読」で、故・米川敏子氏作曲の歌として歌われる「千鳥と遊ぶ智恵子」や、故・小山清茂氏による節回しがつく語りという形式の「樹下の二人」などとは異なっていました。それがかえって自然な感じで良かったと思いました。

ちなみに琴で朗読、というと、故・清水脩氏が昭和34年(1959)に作曲、レコード化されています。しかし、こちらは朗読が主で琴は伴奏、という感じでした。レコードでは故・竹脇無我さんと栗原小巻さんが朗読をなさっていました。
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その点、元井さんのそれは、朗読と琴の一体感、不即不離感という意味では、実に良かったと思いました。

聴きながら、二本松の智恵子生家には智恵子が少女時代に使っていた琴があったっけな、と思い出しました。
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ただ、あまり熱心ではなかったようで、琴に関するこれといったエピソードは残っていませんが。

その後、「茶摘み」「夏は来ぬ」をオリジナルの編曲で。さらに、完全オリジナルの「青女」。「青女」とは、中国の古典に出て来る霜・雪を降らすという女神で、俳句の季語にも使われる語です。「季節外れですけど、猛暑の毎日なので、これを聴いて少しでも涼んでいただきたい」とのことでした。
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アルペジオの部分など、たしかに舞い散る粉雪のような感じ。なるほど、と思いました。

コンサートの前後、途中でもいろいろお話をさせていただきました。何しろ当方一人でしたので(笑)。琴に関する豆知識や、光太郎智恵子についても。元井さん、花巻郊外旧太田村の高村山荘、光太郎記念館にも行かれたそうで、「記念館の解説板を書いた者です」というと、目を丸くなされていました。ぜひ二本松の智恵子生家にも行って下さい的なお話(智恵子の琴の件は言い忘れてしまいましたが)、それから例によって連翹忌の御案内。来年の第68回連翹忌の集いにはいらしていただけるようです。

というわけで、以上、横浜レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

皆さまがおよろこび下さつたので私もこれほどうれしい事はないと思ひました、今度の制作であなたからうけた御親切は到底忘れる事が出来ません、


昭和8年(1933)4月23日 仁科節子宛書簡より 光太郎51歳

021今度の制作」は「成瀬仁蔵胸像」。智恵子の母校・日本女子大学校から制作依頼があったのが大正8年(1919)でした。その後、造っては毀しの繰り返しで、完成までに何と14年。そりゃまぁ「あなたからうけた御親切は到底忘れる事が出来ません」となりますね。

同像は現在も日本女子大学さんの成瀬記念講堂ステージ上に鎮座ましましています。昨日、横浜へ向かう途中、カーナビのテレビでNHK Eテレさんの「宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる (4)あまねく「いのち」を見つめて」が再放送されていて、拝見しながら行ったのですが、賢治の早世した妹・トシも同校卒業生ということで、この像がちらっと映りました。

テレビ放映情報2件ご紹介します。

まず、7月31日(月)の朝。

にほんごであそぼ「空」

地上波NHK Eテレ 2023年7月31日(月) 08:35~08:45 再放送 8月5日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご・漢字アニメ/空、偉人とダンス/この空は私たちの真上にある 究極のアートギャラリーなのである。(ラルフ・ワルド・エマーソン)、こどもスタジオ/空前絶後、朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎、文楽/山のあなたの・・・、童謡「りすりす小りす」

【出演】南野巴那,高杉真宙,竹本織太夫,鶴澤清介,三世 桐竹勘十郎,青柳美扇,おおたか静流,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)が取り上げられます。

ただ、番組説明欄の区切れ目がどこかよく分からない書き方です。おそらく「朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎」で、俳優の高杉真宙さんによる朗読ではないかと思うのですが……。もしかすると「「あどけない話」高村光太郎、文楽」かもしれません。というのも、今回も出演なさる人間国宝の桐竹勘十郎さんによる「あどけない話」も、以前に複数回ありましたので……。

もう1件、同日昼の放映。故・内田康夫氏原作の『「首の女」殺人事件』が原作です。

ドラマ・浅見光彦〜最終章〜▼第9話 草津・軽井沢編

BS-TBS 2023年7月31日(月) 12:59〜13:55

ベストセラー作家・内田康夫の大人気サスペンス小説「浅見光彦シリーズ」。光彦の2人の幼馴染・野沢光子(星野真里)と宮田治夫(吹越満)と久しぶりの再会を経て楽しい気分でいる頃、光子の父が殺害された…。

【出演】沢村一樹、風間杜夫、原沙知絵、黒田知永子、佐久間良子、
    星野真里、吹越満、 天野ひろゆき(キャイ〜ン)、鶴田忍、清水綋治

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平成21年(2009)に地上波TBSさんで連ドラの枠として放映された「浅見光彦〜最終章〜」の最終回。したがって2時間ドラマではありません。

何が「最終章」かというと、平成12年(2000)から2時間ドラマで浅見光彦役を演じられてきた沢村一樹さんの卒業、というコンセプトだったようです。ことによるとTBSさんでの「浅見光彦シリーズ」自体、これで満了、という予定だったのかもしれません。

しかし沢村さん、この後も平成23年(2011)から翌年にかけ、同じく地上波TBSさんの3本の2時間ドラマで浅見光彦役を演じられ、結局、何が「最終章」だったのかよくわかりません(笑)。さらにこの後、TBSさんの浅見光彦役は速水もこみちさんにバトンタッチされました。いろいろ大人の事情があったのでしょう。

で、「草津・軽井沢編」。光太郎彫刻の贋作にまつわる連続殺人事件を描いた『「首の女」殺人事件』を原作としています。
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途中には光太郎の人となり、詩の紹介も。
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同じ『「首の女」殺人事件』を映像化したフジテレビさん版(中村俊介さん主演)は、かなり原作に近く作られていたのですが、こちらでは大胆に変更。原作では事件の舞台は安達太良山、それから島根県でしたが、こちらでは草津と軽井沢が現場となり、ストーリーや登場人物の設定等も大幅に変えられています。

「浅見光彦〜最終章〜」として、平成22年(2010)にDVDボックスが発売されています。
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ちなみに第1話は「恐山・十和田湖・弘前編」。本編では映りませんでしたが、付録のメイキング映像には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が。
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本編でも取り上げていただきたかったのですが(笑)。

さて、それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

貴著詩集「瀧」及御てがみ忝くおうけとりしました。丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました為めお礼のてがみさへ遅れて失礼しました。詩集はもつとよく落ちついてから精読したいと思つてをりますから、その上何か申上げたいと存じます。

昭和7年(1932)11月 岡本弥太宛書簡より 光太郎50歳

岡本弥太は高知出身の詩人。戦後、光太郎が岡本の詩「白牡丹図」を揮毫した石碑が建立されました。

寸暇無き家事の状態」は心を病んだ智恵子の自殺未遂を指します。

この書簡、『高村光太郎全集』には『瀧批評集』という書籍からの転載で収録されていますが、同書の刊行年が「昭和一八年」と誤記されています。正しくは「昭和八年」です。

昨日開幕でした。

特別企画展 草野心平生誕120年「草野心平と中原中也」

期 日 : 2023年7月27日(木)~10月1日(日)
会 場 : 中原中也記念館 山口県山口市湯田温泉一丁目11-21
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日(8/14、9/18は開館) 8月29日(火) 9月19日(火) 9月26日(火)
料 金 : 【一般】 330円 【大学・高校専門学校の学生】220円 
      18歳以下、70歳以上無料

「蛙」をモチーフとした詩で知られ、2023年に生誕120年を迎えた詩人・草野心平。

1934年、詩人・草野心平と中原中也は、同人誌「歴程」の朗読会で出会い、以後交友を結びます。中也は心平らが発行した「歴程」の同人となり、また中也が詩集『山羊の歌』の装幀を高村光太郎に依頼する際、仲介したのが心平でした。中也にとって心平は個人的につきあいのある数少ない詩人の一人であり、また互いの詩を高く評価し合う、良き理解者でもありました。

本展では、いわき市立草野心平記念文学館協力のもと、二人の深い交友の軌跡と、心平の詩の魅力について紹介します。
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当会の祖・草野心平と中原中也。詩風から風貌まで(笑)、かなりタイプの違う感じも受けますが、それぞれに通底する詩魂といったものには、やはり共通する何かがあるようにも思えます。牽強付会のそしりを覚悟で云えば、光太郎から受け継いだDNA的な。

光太郎の中也評から。

 中原中也君の思ひがけない夭折を実になごり惜しく思ふ。私としては又たのもしい知己の一人を失つたわけだ。中原君とは生前数へる程しか会つてゐず、その多くはあわただしい酒席の間であつてしみじみ二人で話し交した事もなかつたが、その談笑のうちにも不思議に心は触れ合つた。中原君が突然「山羊の歌」の装幀をしてくれと申入れて来た時も、何だか約束事のやうな感じがして安心して引きうけた。(「夭折を惜しむ――中原中也のこと――」 昭和14年=1939 『歴程』第6号)

全文はこちら

ここでも触れられている『山羊の歌』の装幀は、心平が仲介したとのことで、そのあたりにまつわる展示もなされているのでしょう。

野々上慶一著『文圃堂こぼれ話 中原中也のことども』によれば、心平や光太郎が編集にあたり、やはり光太郎が装幀した『宮沢賢治全集』を見た中也が、ぜひ『山羊の歌』の装幀も光太郎に、と熱望したそうです。
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たしかにレイアウトや書体、赤と黒の効果的な使い方など、似ているといえば似ていますね。

それから、中也と心平といえば、この二人がタッグを組んで、太宰治・壇一雄のコンビと居酒屋で大乱闘を演じた事件も有名です。まるでスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組のような(笑)。

壇の『小説太宰治』から。

 「チェッ、だからおめえは」と中原の声が、肝に顫ふやうだつた。
 そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合つたのか、その発端のいきさつが、全くわからない。
 少なくとも私は、太宰の救援に立つて、中原の抑制に努めただらう。気がついてみると、私は草野心平氏の蓬髪を握つて掴みあってゐた。それから、ドウと倒れた。
 「おかめ」のガラス戸が、粉微塵に四散した事を覚えてゐる。いつの間にか太宰の姿は見えなかつた。私は「おかめ」から少し手前の路地の中で、大きな丸太を一本、手に持つてゐて、かまへてゐた。中原と心平氏が、やつてきたなら、一撃の下に脳天を割る。

きっかけは、酔った中原が太宰に執拗にからんだ、というだけの話なのですが(笑)。光太郎、この場に居合わせなかったのは幸いでした(笑)。

閑話休題、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】022

今夏は猛烈な厚さだつた上、ちゑ子が七月上旬から急病にかかつて一時危篤状態にまでなり、入院騒ぎをやつて、二ヶ月間まるで看病その他で仕事も出来ず、いろいろ遅れてしまひました、まだ今月一ぱいは極めて安静を要するので訪客には失敬してゐます、 除幕式を十一月にしていただき度たいのですが如何、鋳金出来、台がまだです。


昭和7年(1932)9月13日
 白瀧幾之助宛書簡より 光太郎50歳

急病」とありますが、実際には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂でした。

除幕式」云々は、現在、東京国立博物館黒田記念館さんに据えられている「黒田清輝胸像」関連です。

訃報を2件、亡くなった順に、ともに共同通信さんの配信記事から。

まずは僧侶にして教育評論家の無着成恭氏。

「山びこ学校」無着成恭さん死去 僧侶で教育評論家、96歳

000 中学生たちの生活記録集でベストセラーとなった「山びこ学校」の編者で、僧侶、教育評論家の無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが21日午前8時58分、敗血症性ショックのため死去した。96歳。山形市出身。自宅は千葉県多古町一鍬田292の福泉寺。葬儀・告別式は27日午前11時から福泉寺で。喪主は長男成融(せいゆう)氏。
 1948年に教師として赴任した山形県内の中学校で、生徒に生活の「なぜ」を考えさせる「生活つづり方運動」に取り組み、クラス文集をまとめた「山びこ学校」を51年に出版。大きな反響を呼び、映画化もされた。
 その後上京し、明星学園で教諭や教頭を務めた。64年からは、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者として長年出演。大分県国東市の泉福寺の住職も務めた。

無着氏,昭和57年(1982)に、明星学園さんの教壇に立たれていた頃の授業実践をまとめた『無着成恭の詩の授業』という書籍を刊行なさいました。
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ちなみに当方所蔵の同書、無着氏の署名本です。8章から成り、近現代の詩歌を扱った授業の実践記録で、8章のうちのひとつが「奪われた自由 高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥」。
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中学1年生に当たる「7年生」の授業で、生徒さんたちの発言や授業後に書いた感想文が、実に的を得ています。大学などの偉いセンセイたちがノルマに追われて「紀要」等に発表する「論文」などよりも(笑)。まぁ、無着氏の巧みな誘導があってのことではありますが。
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その他、実践記録は附されていませんが、巻末の「わたしの愛唱詩抄――この六年間に授業で扱った詩・作品」という項に、「冬が来た」「道程」。

国語教育に携わる人には、ぜひ読んでいただきたい書籍です。

訃報、もう1件。

作家の森村誠一さん死去、90歳 「人間の証明」「悪魔の飽食」

001 映画化されたベストセラー小説「人間の証明」や、ノンフィクション「悪魔の飽食」などで知られる作家の森村誠一(もりむら・せいいち)さんが24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。90歳。埼玉県出身。葬儀は家族葬で行う。後日お別れの会を開く予定。
 青山学院大を卒業後、大阪や東京のホテルに勤務する傍ら小説を書き、1969年に「高層の死角」で江戸川乱歩賞を受賞、本格的な作家活動に入った。73年に「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受け地歩を固めた。
 都心のホテルで起きた殺人事件を題材に人と人との絆を描いた代表作「人間の証明」(76年)が翌年映画化された。「野性の証明」(77年)も高倉健さん、薬師丸ひろ子さんの共演で大ヒット。映画と小説の相乗効果で一躍人気作家になった。「棟居刑事」シリーズ、「牛尾刑事・事件簿」シリーズなどテレビドラマ化された作品も多い。
 旧日本軍の「731部隊」を通して細菌兵器など戦争の暗部に迫ったノンフィクション「悪魔の飽食」も話題になった。

森村氏にも光太郎がらみのご著書があります。やはり昭和57年(1982)刊行の『新・人間の証明』。当方手持ちのものは昭和60年(1985)発行の角川文庫版です。
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昭和51年(1976)刊行で角川映画にもなった『人間の証明』で謎解き役だった棟居刑事が再登場、以後、「棟居刑事シリーズ」となっていく、いわば第2作です。ただし、内容が内容だけに「大人の事情」でしょう、映画化もテレビドラマ化もなされていません。

昭和56年(1981)に刊行されたノンフィクション『悪魔の飽食』を下敷きにし、旧日本軍の731部隊元隊員や家族などの関係者が次々と殺害され……という話です。

詳しいネタバレは避けますが、タクシー内で変死した(実は毒殺)最初の事件の被害者である中国人女性がレモンを持っていたという設定で、『智恵子抄』の「レモン哀歌」がらみの展開に。

やはり被害者の一人は実在の人物をモデルにしています。明治の末に智恵子が保養に訪れた福島県の原釜海岸で知り合い、その後姉弟のような文通をしていた鈴木謙二郎という当時の旧制米沢中学生です。小説では奥山謹二郎いう名ですが、原釜での智恵子とのエピソードなどはほとんどそのまま使われています。ここからは森村氏の創作で、奥山はその後、自分の娘を「智恵子」と名付けたり、物語の舞台となった1980年代には千駄木の光太郎智恵子旧居近くに一人住まいをしていたりと、初恋の相手であった智恵子の幻影を老人になっても抱き続けている、というわけです。

しかしその奥山老人は元731部隊員で、戦時中には旧満州でいろいろと……ということが明らかになり……。

『人間の証明』では、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?」という西条八十の「ぼくの帽子」が効果的に使われていましたが(ジョー山中さんが唄った角川映画のテーマソングはその英訳で「Mama, Do you remember…」)、『新……』では「レモン哀歌」。ただしレモンは731部隊でも意外な使われ方をしていて、美しいだけのモチーフではありません。そこで、現在も版を重ねているハルキ文庫版では、表紙にメスが刺さった無気味なレモンがあしらわれています。
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さて、『無着成恭の詩の授業』、森村氏の『新・人間の証明』、それぞれ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

目下妻の病気入院等にて寸暇無き次第です、


昭和7年(1932)7月25日 万造寺斉宛書簡より 光太郎50歳

智恵子、「病気入院」としていますが、実は睡眠薬アダリンを大量服用しての自殺未遂でした。7月15日朝に、智恵子が起きてこないことを不審に思った光太郎が発見しました。光太郎が気づくのが早かったため、一命はとりとめた智恵子ですが、この後、心の病は一進一退をくり返しつつ、しかしどんどん昂進していくことになります。

コロナ禍の最中にはそういうこともほとんどありませんでしたが、のんきにイベントに出かけ、さらにそのレポートを書いているうちに、書くべき事柄がたまってしまう、と、コロナ禍以前の状態が戻ってきています。

今週末のイベント等、2件、ご紹介します。

まずは邦楽系のコンサート。

元井美智子自作自演コンサート2023

期 日 : 2023年7月29日(土)
会 場 : 横浜市イギリス館 神奈川県横浜市中区山手町115-3
時 間 : 18:30~
料 金 : 2,500円

出 演 : 元井美智子(箏)
曲 目 : 智恵子抄より 青女 夏は来ぬ など

自作曲とアレンジ曲のプログラムでソロコンサートを開催します。あまりの暑さで外出をためらってしまう気候ですが、ぜひお越し下さい。よろしくお願いします。
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元井美智子さん。存じ上げない方ですが、通常の箏、十七絃、三味線などの演奏活動とレッスンをなさっている方だそうで。

プログラムに「智恵子抄より」とあります。SNSを拝見しましたところ、インスパイアを受けるため、今回のコンサートに先立ち花巻郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんにも行かれたそうで、ありがたいことです。

会場が港の見える丘公園内のイギリス館さん。すぐ近くには神奈川近代文学館さんがあり、閲覧室はよく利用させていただいております。今回もそちらでの調べものを兼ねて、行ってこようと思っております。

もう1件。同日開始で映画の上演情報です。

生誕110年記念 映画監督・中村登――女性讃歌の映画たち

期 日 : 2023年7月29日(土)~9月1日(金)
会 場 : 神保町シアター 東京都千代田区神田神保町1-23
料 金 : 一般 ¥1,300 シニア ¥1,100 学生 ¥900 U29ペア割引 ¥2,200
      毎週水曜ファン感謝デー どなた様も1000円均一
      毎月1日映画サービスデー どなた様も1000円均一

■中村登(なかむら・のぼる)略歴■
 1913年東京・下谷に生まれ、36年東京帝国大学文学部英文科を卒業後、松竹大船撮影所に助監督として入社。41年に文化映画『生活とリズム』の後、同年『結婚の理想』で劇映画の監督デビューを果たす。51年のオールスター映画『我が家は楽し』が評判になると、スター女優が主演した文芸作品を数多く手掛けるようになり、63年の川端康成原作『古都』や66年の有吉佐和子原作『紀ノ川』などが高く評価され、松竹の屋台骨を支える巨匠として活躍した。79年、紫綬褒章受章。81年、日中合作映画『未完の対局』を準備中に闘病生活に入り、死去。
 生誕100年を記念して、2013年『夜の片鱗』がヴェネチア国際映画祭で上映、翌年のベルリン国際映画祭では『我が家は楽し』『土砂降り』『夜の片鱗』が上映され、今なお再評価の熱が高まる映画監督のひとりである。

上演作品 全作品ともに監督:中村登
 1.『智恵子抄』 昭和42年 カラー 
   出演:岩下志麻、丹波哲郎、平幹二朗、岡田英次、南田洋子、中山仁
 2.『春を待つ人々』 昭和34年 カラー 
   出演:佐田啓二、有馬稲子、岡田茉莉子、高橋貞二、桑野みゆき、佐分利信
 3.『鏡の中の裸像』 昭和38年 カラー
   出演:桑野みゆき、倍賞千恵子、池部良、神山繁、川津祐介、山本圭
 4.『爽春』 昭和43年 カラー
   出演:岩下志麻、竹脇無我、生田悦子、森光子、山形勲、市川好郎
 5.『明日への盛装』 昭和34年 白黒
   出演:高千穂ひづる、大木実、石浜朗、芳村真理、杉田弘子、杉浦直樹
 6.『恋人』 昭和35年 カラー
   出演:桑野みゆき、山本豊三、岡田茉莉子、南原宏治、桂小金治、大泉滉
 7.『紀ノ川』 昭和41年 カラー
   出演:岩下志麻、司葉子、田村高廣、丹波哲郎、有川由紀、沢村貞子
 8.『わが恋わが歌』 昭和44年 カラー
   出演:中村勘三郎、岩下志麻、竹脇無我、八千草薫、中村賀津雄(嘉葎雄)、緒形拳
 9.『我が家は楽し』 〈英語字幕付き〉 昭和26年 白黒
   出演:山田五十鈴、高峰秀子、笠智衆、岸恵子、桜むつ子、佐田啓二
 10.『河口』 昭和36年 カラー
   出演:岡田茉莉子、滝沢修、杉浦直樹、田村高廣、東野英治郎、山村聰
 11.『結婚式・結婚式』 昭和38年 カラー
   出演:岡田茉莉子、岩下志麻、田中絹代、伊志井寛、榊ひろみ、川津祐介、佐田啓二
 12.『二十一歳の父』 昭和39年 カラー
   出演:山本圭、倍賞千恵子、勝呂誉、山形勲、鰐淵晴子、高橋幸治
 13.『女の橋』 昭和36年 カラー
   出演:瑳峨三智子、田村高廣、藤山寛美、山本豊三、柳永二郎、佐藤慶
 14.『夜の片鱗』 昭和39年 カラー
   出演:桑野みゆき、平幹二朗、園井啓介、木村功、千石規子、菅原文太
 15.『暖春』 昭和40年 カラー
   出演:森光子、岩下志麻、山形勲、太田博之、乙羽信子、倍賞千恵子、桑野みゆき
 16.『日も月も』 昭和44年 カラー
   出演:岩下志麻、久我美子、大空真弓、中山仁、石坂浩二、笠智衆
 17.『土砂降り』 〈英語字幕付き〉 昭和32年
   白黒 出演:佐田啓二、岡田茉莉子、桑野みゆき、沢村貞子、山村聰、日守新一
 18.『斑女』 昭和36年 カラー
   出演:岡田茉莉子、芳村真理、倍賞千恵子、佐々木功、沢村貞子、山村聰
 19.『ぜったい多数』 昭和40年 カラー
   出演:桑野みゆき、田村正和、伊藤孝雄、吉村実子、石立鉄男、早川保、倍賞千恵子
 20.『辻が花』 昭和47年 カラー
   出演:岩下志麻、佐野守、中村玉緒、山口崇、岡田英次、松坂慶子、笠智衆

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昭和42年(1967)公開、岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演の松竹映画「智恵子抄」がラインナップに入っています。7月29日(土)~8月4日(金)までの第1タームです。

5月にはラピュタ阿佐ヶ谷さんでの上映もありましたが、あまり取り上げられる機会の多くない作品です。重いテーマで、岩下さんの鬼気迫る演技が一つの見どころとなっています。

それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

雑誌“いづかし”拝受、大層頁数の多い立派な雑誌なので驚きました、これだけ編輯なさるのは一通りではなからうと思ひました、よき発展をいのります、 小生は九月まで海の旅に出かけます故しばらく失礼いたします、


昭和6年(1931)7月29日 中原綾子宛書簡より 光太郎49歳

『いづかし』は歌人・中原綾子主宰の雑誌。のちに昭和10年(1935)、心を病んだ智恵子を謳った初めての詩「人生遠視」も同誌に掲載されました。

海の旅」は『時事新報』に依頼されて紀行文「三陸廻り」を書くためのもの。8月9日に東京を発ち、石巻、女川、気仙沼、釜石、そして宮古までを1ヶ月かけてほぼ船で移動しました。おそらく東京-三陸間の行き帰りも、月に一度航行されていた直行便の船を使ったのではないかと思われます。この旅の間に、智恵子の心の病が誰の目にも明らかになるほど顕在化しました。

東京を発った8月9日を記念し、女川町ではこの日に「女川光太郎祭」が行われています。今年は令和元年(2019)以来、4年ぶりにコロナ禍前の規模で開催とのこと。詳細はまたのちほどご紹介します。

7月23日(日)、安曇野市の碌山美術館さんをあとに、愛車を南に向けました。目指すは松本市。

甲信方面はなぜか光太郎と交流のあった人物の記念館や、それらの人物の作品を収めた美術館等が多く、碌山美術館さんに行った際にはもう一つ、ハシゴして帰るのが昔からのルーティーンです。

今回訪れたのは、松本市のはずれ、のどかな田園地帯の一角にあるにある窪田空穂記念館さん。窪田空穂の生家のかたわらに建てられています。
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窪田は光太郎より6歳年上の明治10年(1877)生まれ。初期の『明星』に参加した歌人で、その頃から光太郎と交流がありました。そして光太郎がらみで最も多く取り上げられるのが、大正2年(1913)夏、上高地の清水屋旅館でたまたま同宿となったこと。この際には智恵子も後から光太郎を追いかけて上高地に現れ(しめしあわせていたのですが)、ここで二人は結婚の約束をしました。

窪田が下山するのと入れ違いに智恵子が登ってきて、窪田は智恵子を迎えに途中の岩魚止までやってきた光太郎と智恵子を目撃、帰京後、『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を匿名で寄稿した他、複数の回想でこの夏の上高地の様子や、その前後の『明星』時代の光太郎について書き残しています。

まずは生家。
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玄関には式台があり、なかなかの格式です。名家だったことがよくわかります。
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衝立の裏側は、何やら洋画風の絵。
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座敷の感じや、むき出しの梁(はり)など、古建築好きにはたまりません。
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縁側にはちょっと変わった七夕飾り。おそらくこの辺りは旧暦で実施するのでしょう。
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庭からの外観。
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戦時中、窪田が疎開的に帰って来て暮らしていたという離れ。
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道をはさんで反対側の記念館。
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撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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大正2年(1913)、光太郎と同宿だった上高地関連。光太郎の名も。
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右は昭和9年(1934)刊行の『日本アルプスへ・日本アルプス縦走記』に載った挿画。画家の茨木猪之吉が描いたもので、光太郎を含む、大正2年(1913)夏に同宿だった面々のカリカチュアです。
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馬面だった光太郎の特徴をよく捉えてはいますが、若干の悪意を感じますね(笑)。

展示はされていなかったのですが、こちらには上高地で光太郎が描いたスケッチが収蔵されているとのことです。ただし、「写真」とあるので複製と思われます。
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なかなかいい絵ですね。しかし、光太郎筆に間違いはなさそうですが、元ネタがよくわかりません。上高地からの下山後、10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で、岸田劉生らと開催した「生活社主催油絵展覧会」に出品されたペン画3点のうちの一つかとも思われますが。光太郎、この際には他に彫刻1点、上高地での油絵21点も出品しました。

拝見し終わって帰途に就きました。まだ午前中でしたが、日曜でしたので夕方近くになると中央道が大渋滞になるだろうと予測。それを避けるためです。それでも韮崎付近で工事プラス事故で渋滞、小仏トンネル入り口あたりでも自然渋滞。さほどではなかったので途中で昼食を摂っても4時間少しで帰り着きました。

以上、信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あなたのてがみを病院でよみました、面疔が急に出来て、診察してもらひにいつたら即刻無理に入院させられてしまひ重態扱ひなので一時閉口しましたが早い手当てがきいて間も無く快方に赴き、もう退院しました。

昭和6年(1931)7月7日 高田博厚宛書簡より 光太郎49歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中にも面疔を発症しています。

書簡はパリに渡った高田に宛てたもの。現在確認できている高田宛書簡二通のうちの一通です。現物は高田の作品を多数展示している安曇野市の豊科近代美術館さんで所蔵しています。

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