定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第26号が届きました。
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巻頭特集は「高3女子のリアルトーク「花巻えもい!!」」。高田博厚作の光太郎胸像(原型・昭和34年=1959)の建つ花巻北高校さんに通う、お二人の生徒さんによる若者目線での花巻紹介です。大人が見過ごしてしまう「良さ」の取り上げ方や、「田舎あるある」的な自虐ネタなど、楽しく読ませていただきました。
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光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされた連載「光太郎レシピ」は、「青菜のエチュベとサヤエンドウのポタージュ」。「エチュベ」はフランスの家庭料理だそうです。
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料理好きの方、ぜひどうぞ。

編集に協力されているやつかのもりLLCさんが、やはりメニュー作成に関わられている「光太郎ランチ」。昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日だけの限定販売です。

昨日販売分がこちら。
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彩りが初夏っぽい感じを受けますね。

こちらも末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

朝田頭さん奥さん来訪、昨夜余の夢を見て心配ゆゑ来りしとの事、弱つて田頭さんを余が訪ねし夢なりし由、元気故心配なきやう申述ぶ。濁酒三合程もらふ。

昭和22年(1947)12月24日の日記より 光太郎65歳

「田頭(たがしら)」は屋号で、旧太田村村長・高橋家です。光太郎、村民に愛されていたのがよくわかるエピソードですね。

妻が御朱印マニアでして、一緒に月一度ほどのペースで、少し離れたところにある寺社巡りをしております。ついでに当方も光太郎智恵子関連の踏査を兼ねるようにしています。

昨日は同じ千葉県内の松戸市へ。まず、妻の希望で「あじさい寺」の異名を持つ本土寺さんに参拝。その後、同じ松戸市の萬満寺さんへ。

先に萬満寺さんをレポートします。

JR常磐線各駅停車の馬橋駅にほど近い、住宅街にたたずむ古刹です。
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山門(左)と鐘楼(右)。
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山門をくぐった先にある仁王門。

こちらの仁王門に納められている鎌倉期の仁王像は、国指定重要文化財です。指定が大正5年(1916)、当時施行されていた古社寺保存法に基づく指定で、同法には「重要文化財」という枠はなく、「特別保護建造物」「国宝」の二本立てで、「国宝」の認定でした。戦後、現在の文化財保護法が制定され、「重要文化財」が新設されると、そちらに移行しています。こうした例は多く、旧古社寺保存法下での指定を「旧国宝」と称することもあるようです。

で、大正5年(1916)の旧国宝指定の際には、光太郎の父・光雲が関わっていたらしいのです。光雲は東京美術学校教授のかたわら、古社寺保存会委員、国宝保存会委員などを兼任しており、こうした指定に携わっていました。寺伝では、萬満寺さんの仁王像や、他の仏像を絶賛したそうで。

こちらが仁王像。まず向かって右側の阿形像。
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逆サイドの吽形像。
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鋼線入りのガラス越しですので、細かな部分は観察できませんでしたが、それでも全体のフォルムなど、非常にダイナミックに感じました。また、関東地方有数の古さを誇る仁王像ですので、重要文化財指定もうなずけます。伝・運慶作ということですが、これは古い仁王像に付きものでして、残念ながら信用できません。それにしても見事な作です。

驚いたことに、春と秋、それから正月三が日には仁王門のご開帳が行われ、参拝客が阿形像の股の下をくぐれるそうです。

寺伝では、大正8年(1919)に光雲とその高弟・米原雲海が、信濃善光寺さんの仁王像を制作した際、こちらの仁王像も参考にした、ということになっているようです。ただ、善光寺さんのそれとは、かなりポージングが違うのですが……。また、阿吽の配置も、善光寺さんは通常とは異なり、向かって左が阿形、右が吽形です。この配置は奈良東大寺さん南大門の金剛力士像に倣ったようです。ちなみにポージングということを問題にすると、東大寺さんのそれもまた、善光寺さんのそれとかなり異なっています。

それから、萬満寺さんには、松戸市の有形文化財に指定されている仏像が多数おわし、その中に中国明時代の鋳造魚籃(ぎょらん)観音像もいらっしゃるとのことでした。やはり光雲も魚籃観音像を複数彫っていますので、そちらも拝見できれば、と思っていたのですが、残念ながら萬満寺さん自体、この日は無人で、本堂の扉も閉ざされていました。コロナ禍のせいなのでしょうか。
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仁王門や山門の彫刻、龍の天井画など、いい感じでしたが。
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さて、こちらに行く前に参拝した、本土寺さん。
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鎌倉の明月院さんほどではありませんが、「あじさい寺」として有名です。
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広い境内に、色とりどりの紫陽花が満開でした。

妻がいただいた御朱印がこちら。
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左が通常のもの。右は季節限定あじさいバージョン(別途料金)だそうで(笑)。

この後参拝した萬満寺さんの御朱印もいただきたかったのですが、残念ながら昨日は無人。仁王像股くぐりのご縁日に、もう一度行ってみようかと思っております。

以上、千葉松戸レポートでした。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太詩碑「白牡丹図」を用紙に書く。二枚は弥太の署名入、一枚は署名無し。先方の選択にまかせるつもり。


昭和22年(1947)12月21日の日記より 光太郎65歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられる詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。

3件ご紹介します

にほんごであそぼ「祭りのかけごえ」

NHK Eテレ 2021年6月17日(木) 17:00~17:10(3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。)

今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
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6月3日(木)に放映のあった回の再放送です。

新コーナー「博士と助詞」で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が取り上げられました。
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「助詞」ということで、「に」が、次々と……
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なるほど、こうやって助詞による文脈全体の意味の違いを表そうと、そういう意図なのですね。しかし、「僕の前だけ道はない」は、ちょっと嫌ですね(笑)。

続いて、智恵子の故郷・福島二本松から。

ふるカフェ系 ハルさんの休日「福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」

NHK Eテレ 2021年6月17日(木) 22:30〜22:55 再放送6月20日(日) 18:3018:55

古い建物のカフェがあれば全国どこへでも。ふだんはうだつの上がらない青年・真田ハルは実は人気のカフェブロガー!ゆったり流れる時間、地元の人たちとの出会い、全国の“ふるカフェ”の魅力を描きます。

福島・二本松城の敷地の中に見つけた、ビックリな洋館カフェ。古代ギリシャの建築様式と装飾が見事な部屋に急角度の美しい屋根。おススメのスコーン片手に大満足のハル!

明治初期、戊辰戦争の激戦地と知られた二本松城。広い敷地の中に立つ、謎の洋館付き住宅のカフェ。入ってみれば古代ギリシャの建築と装飾が随所に散りばめられている。アカンサスなど見事な室内装飾と美しいギャンブレラ屋根、そしてドイツ壁。ヨーロッパ中のおしゃれな建築様式を活かしたこの建物、一体、誰が建てたのか?店主からの依頼で、ハルが洋館を調査。果たして、謎は解き明かされるのか?探偵ハルのカフェ探検はいかに?

【出演】渡部豪太
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こんなシャレオツなカフェが、二本松にあったのか? と思って調べたところ、今年3月オープンだそうで、存じませんでした。

その名も「8月カフェ」さんだそうです。「築100年」とのことで、ぴったり100年なら大正10年(1921)竣工ということになります。

場所的には、JR二本松駅から霞ヶ城方面へ続く「久保丁坂」の途中。平成28年(2016)に開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展の会場となった、二本松市歴史資料館さんのすぐ近くです。したがって、愛車で何度もこの道を通りましたが、こんな建物があったとは気づきませんでした。
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智恵子生家/智恵子記念館も近いといえば近いところです(歩くとなるとちょっとありますが)。大正10年(1921)というと、智恵子は光太郎と既に結婚し、東京駒込林町のアトリエ兼住居で暮らしていた時期ですが、光太郎曰く「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)ということでしたので、この建物を目にしていた可能性もあると思います。

また、上記地図で、2本東側の亀谷坂(竹田坂)には、智恵子の母・センの生まれた安斎家がありました。

今度、二本松に行く際には立ち寄ってみようと思います。

もう1件。

開運!なんでも鑑定団【武田信玄の秘宝&巨匠の聖徳太子像に超ド級鑑定額】

地上波テレビ東京 2021年6月20日(日) 12:5414:00

■先祖がもらった<武田信玄>謎の書…ナゼ家康印が?衝撃値■近代彫刻の巨匠作…<聖徳太子>像に超絶鑑定額■昼の司会…<石井亮次>のお宝&声優も仰天…おもちゃ大会■

日本近代彫刻の巨人のお宝が登場。富山で造り酒屋を営んでいた祖父は大の骨董好きで、家にはいつもたくさんの骨董品が飾られていた。小学校高学年の頃、祖母がこのお宝を見せてくれ、「これは将来譲るからね。これを大事にすればご利益に恵まれるよ」と言われた。その後、祖父母の家に行く度、このお宝に手を合わせていたところ、第一志望だった東京大学に現役合格し、就職活動でも希望していた日本銀行に就職することができた。将来このお宝を受け継ぐことになる孫が小学校高学年になったので、改めて価値を確かめたい。果して結果は!?


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【MC】今田耕司、福澤朗  【ゲスト】石井亮次
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】おもちゃ鑑定大会 
【出張なんでも鑑定団レポーター】原口あきまさ
【出張なんでも鑑定団コメンテーター】西村知美
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

初回放映は今年2月、その後、系列のBSテレ東さんで先月放映がありました。光太郎の父・光雲作の聖徳太子孝養像が出ます。
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ネタバレで申し訳ありませんが、鑑定価格は堂々の1,500万円。
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光雲を紹介するVが、素晴らしい出来でした。
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息子の光太郎にも触れて下さいました。
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関東地方ご在住で、まだ御覧になっていない方、ぜひどうぞ。

上記の「にほんごであそぼ」と「ふるカフェ系 ハルさんの休日」は、全国放映だと思いますので、皆ざま、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

正午に日影さしたるにより障子に日時計を改め記す。


昭和22年(1947)12月15日の日記より 光太郎65歳

日時計は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の、南側の障子に書かれていました。外側に紐で縛った石をつるし、その紐の影が障子に映る仕組みです。紐を吊す位置を前後させたりしながら、季節の変化に対応していたと思われます。
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昭和24年(1949)になって、電線が引かれ、ラジオを山小屋で聴けるようになるまで、この日時計がメインでした。

一昨日行われた、東京オリンピック聖火リレーの青森県(2日目)についての報道をご紹介します。

まず『朝日新聞』さん青森版。

聖火ようやく公道にお出まし 東北の沿岸駆ける 青森

 県内で行われている東京五輪の聖火リレーは、2日目の11日、69人のランナーの手で県南を巡った聖火が八戸市の館鼻漁港に届けられ、終了した。
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 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、1日目の全行程と2日目のむつ市、三沢市で公道での開催が中止となったため、県内で聖火ランナーが公道を走ったのは、十和田市、おいらせ町、階上町、十和田湖、八戸市のルートのみとなった。
 2日目の出発地点となった十和田市の市民交流プラザ「トワーレ」周辺には、真夏日となる暑さにもかかわらず、応援や見物に訪れた人々が多く集まり、関係者がコロナ対策のために「声を出さずに応援して」と呼びかけていた。
 午前10時13分、第1走者の金子春雄さん(70)が、トーチを手に走り始めると拍手がわき起こり、沿道の観客は手やタオルを振って応援した。中央公園の周囲2・7キロを回った聖火が十和田市現代美術館のアート広場に到着すると、市内の小学生ら約30人に拍手で迎えられた。
 聖火はその後、おいらせ町の百石高校~木内々小学校の2・5キロ、階上町の小舟渡漁港~「はしかみハマの駅あるでぃ~ば」の3・5キロ、十和田湖畔の乙女の像~観光交流センターの0・9キロを巡った。
 最終区間の八戸市では、ロンドン五輪の女子レスリング金メダリスト、小原日登美さん(40)が第1走者を務め、蕪嶋神社を出発した。最終走者は小原さんと同郷で、ロンドン五輪で同じ日に金メダルを獲得した伊調馨選手(36)。五輪4連覇を果たした伊調さんを一目見ようと、多くの人が沿道に訪れた。
 伊調さんは、沿道の市民に手を振りながらゆっくりと走った。子どもたちと家族4人で来た八戸市内に住む主婦長南愛さん(41)は「(活躍を)テレビで見て感動していたので興奮しました。コロナがなければ、もっと応援できた。でも聖火リレーを見て応援したくなりました」と話した。
 ゴール地点の館鼻漁港には、抽選で選ばれた人たちや関係者ら約700人が伊調さんを出迎え、2人が指導を受けたレスリング教室の子どもたちも伴走した。聖火皿に聖火を移した伊調さんは「感無量で、言葉にできない気持ち。楽しく走ることができました」と笑顔であいさつした。
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続いて『読売新聞』さん。

「スポーツ流鏑馬」の第一人者、ギリシャからつないだ聖火「めっちゃ気持ちよかった」

002 東京五輪の聖火リレーは、青森県内2日目の11日、十和田市から八戸市までの4市町を巡った。
 十和田湖の最終走者を務めた十和田乗馬倶楽部代表・上村鮎子さん(50)は走り終えると「晴れ渡ったロケーションで、たくさんの応援を受けて走れて、めっちゃ気持ちよかった」とすがすがしい表情を見せた。
 第2子の出産後の2000年から本格的に乗馬に取り組み、今は流鏑馬(やぶさめ)を競技化した「スポーツ流鏑馬」の第一人者として知られる。古代オリンピックもスポーツ流鏑馬も神事から発展しており、スポーツを通じて地域を明るく元気にしたいという自身の活動に通じるものを感じる。
 「ギリシャからつないできた聖火を次につないだ。その感動と経験を活動の糧にしたい」。東京五輪後は、2025年の大阪万博をスポーツ流鏑馬で盛り上げたいと考えている。これからも「人馬一体」で走り続けたい。

最後は、地方紙『東奥日報』さん。

歓喜のラン 一目でも/公道リレー 笑顔の出迎え

 東京五輪の聖火が青森県内に到着して2日目の11日、県南各地の公道を駆け巡ったランナーは熱い日差しを浴び、元気にトーチを掲げた。沿道の住民たちは集まり、大きな声援を送る一幕も。夏季五輪57年ぶりとなる一大イベントに気持ちを高ぶらせた。
 聖火リレーの最終区間となった八戸市の館鼻漁港周辺。一目見ようと沿道に多くの観客が訪れ、ランナーたちに熱い視線を送った。コース上では走者を先導するスポンサー企業の関連車が「最高の笑顔でランナーを迎えましょう」と呼び掛け。オリジナルの扇子やタオルなどを多くの観客に手渡した。
 最後の催しが行われるセレブレーション会場入り口は、五輪4大会連続金メダリストの伊調馨さん(36)の到着を見ようとする観客で混雑。午後7時40分ごろ、郷土が生んだヒロインが到着すると、沿道の盛り上がりは最高潮に達した。伊調さんと伴走した孫の応援に訪れたという同市の松田美雄さんは「この日をずっと楽しみにしていた」と感無量の様子。親子で沿道を訪れた同市白銀小6年の出貝朱(あや)さんは「二度とない貴重な場面だったし、ランナーが手を振ってくれてうれしかった」と笑顔だった。
 この日の出発点となった十和田市中心部。沿道に多くの市民が集まり、拍手や身ぶり手ぶりを交えてランナーを控えめに応援した。市民は間隔を空けて歩道に立ち、声を出さずに手を振ったり、スマートフォンのカメラでランナーを撮影したりしていた。
 前回の東京五輪が開かれた1964年に東京に就職、ブルーインパルスが青空に描いた五輪マークを見たという十和田市の米田正美さん(76)は、市街地コースの最終ランナーを迎えるイベントを観覧。「一生の思い出になる。このまま五輪をやってもらいたい」と喜んだ。
 十和田湖区間のコースでも、地元住民やランナーの家族らが応援に駆け付けた。聖火が近づいてくると大きく手を振って背中を後押しした。
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賛否両論はありましょうが、とりあえず……。

【折々のことば・光太郎】

朝弱つてゐた手桶が凍結でこはれ漏水甚しく使用できず 盥を手桶の代りに使ふ事にする

昭和22年(1947)12月14日の日記より 光太郎65歳

水は凍ると体積が膨張する、というわけですね。

昨日、東京オリンピックの聖火リレーの青森県(2日目)が開催されました。午後6時20分頃には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」前に到着。

NHKさんの、夕方のローカルニュースから。

青森県の聖火リレー2日間の行程をすべて終える

 青森県で行われている東京オリンピックの聖火リレーは2日目の11日,十和田市やおいらせ町などの公道でリレーが行われていて、まもなく県内最後の聖火リレーが八戸市で始まります。
 青森県の聖火リレー2日目の11日は、最初のランナーが午前10時すぎに十和田市をスタートしたあと、おいらせ町と階上町をめぐりました。
 おいらせ町では前回の東京オリンピックで聖火リレーの走者の伴走を務めた一戸実さんなどが笑顔で沿道に手を振りながら走っていました。
 聖火はこのあと再び十和田市内の十和田湖周辺をめぐり、まもなく午後7時ごろから八戸市で県内最後の聖火リレーが始まります。
 八戸市では、オリンピックのレスリングで金メダルを獲得した伊調馨選手や小原日登美さんも走ります。
 最後のランナーは午後7時半ごろに館鼻漁港にゴールして、県内での行程をすべて終え、聖火は次の北海道に引き継がれます。
 県の実行委員会は、聖火リレーを観覧する場合は大声を出さずに拍手で応援したり、マスクを着用したうえで密にならないよう間隔を保ったりして、新型コロナウイルスの感染対策を徹底するよう呼びかけています。
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動画投稿サイトYouTubeに上がっているオフィシャル動画から。


十和田湖は3:46頃から。

現地の関係者の方が撮影された画像。
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聖火到着を待つ間。沢田鶏舞倶楽部・保存会の皆さんによる「祈りの舞」。
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聖火到着。ここでの最終ランナー・十和田乗馬倶楽部の上村鮎子さんは、十和田市で受け継がれている桜流鏑馬を大きく育てた方で、十和田市のアクティビティの「顔」だそうです。
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サポートランナーである地元十和田湖中学校さんの生徒さんたちと。

司会の方のアナウンス。

乙女の像は十和田湖国立公園15周年記念として彫刻家で詩人の高村光太郎が、生涯最後に作り上げた大作です。この十和田湖の大自然に溶け込みながらも世界に向かって人間の美しさや愛、救済、命などを発信しており、平和と希望の象徴とされるオリンピック聖火と図らずも重なっています。オリンピック聖火リレーを通じて青森県が世界に誇る十和田湖の魅力を再発見、再認識していただきたいと考えております

いいですね。昨年、当方が校閲した文面です(笑)。

しかし、コロナ禍なかりせば、何の懸念もなくもっと大盛り上がりで実施できたのに、と思うと残念ですし、関係者の皆様もいろいろな配慮をせざるを得なくて大変だったでしょう。とりあえず、無事に終えることができ、喜ばしく存じます。

他の報道等でも「乙女の像」附近が報じられていましたら、明日、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

雪まだふつてゐる。二尺余つもる。屋根から雪がはみ出して来る。時々薄日がさしては又ふりしきる。風無し。しづかにふる雪、息をつめてふるやうに見える。
昭和22年(1947)12月13日の日記より 光太郎65歳

夜には三尺に達したそうです。

智恵子の故郷・福島二本松発のイベント情報です。

【オンライン】にほんまつで あなたのほんとうの「  」を見つけませんか?

日 程 : 2021/06/19(土)
時 間 : 13:30-15:00
場 所 : Web会議システム「Zoom」を使用します。
       Zoomの使い方につきましてはこちらの利用ガイドよりご覧下さい
料 金 : 無料
主 催 : 福島県二本松市
共 催 : 認定NPO法人ふるさと回帰支援センター

高村光太郎の妻、智恵子の出身地である福島県二本松市。「東京には空がない」「ほんとの空がみたい」という智恵子さんが想った、美しい風景が今も広がっています。

二本松市は、福島市、郡山市の間に位置する人口約55000人の都市で、安達太良山や温泉を楽しめる高原エリア、城下町の風情を残す便利な街中エリア、新規就農者も活躍している里山エリアの3つからなり、同じ市内でも様々な暮らし方が可能で、移住実績も堅調です。

今回は、元地域おこし協力隊でデザイナーの女性、テレワークで移住した子育て中の男性をゲストに迎え、移住のきっかけや、充実した暮らしについてインタビュー。当日は、キャンプ場より中継があるかもしれません。

オンラインセミナーで、ほんとうに叶えたい暮らしをみつけてみませんか?

詳細
◎二本松市移住PR動画の放映
◎先輩移住者フリートーク 「先輩移住者の話を聞いてみよう!」
【Uターン者】武藤琴美さん(ゆきしろ屋デザイナー・二本松市移住支援アンバサダー)
【子育て世代】丹治慶太さん (テレワーク勤務中)
◎二本松市の紹介など

※オンラインで質問等をお受けします。視聴のみの参加も可能です。
締め切り日 2021/06/15
お申し込み お申込みはこちらから
お問い合わせ 二本松市 秘書政策課 地方創生・新エネ推進係 電話:0243-24-7120
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似たような趣旨のイベントは以前もあり、このブログでご紹介しました。
 第1回二本松市田舎暮らし体験ツアー。(2019/6)
 智恵子の生家2階・智恵子紙絵特別公開/福島圏域合同移住セミナー。(2019/9)
ただ、コロナ禍前でしたので、その頃は実地に現地で農業体験をしたり、都内で相談会の形式で行ったり、さらにYouTube等でPR動画の公開がなされたりでした。


で、今回はZoom使用によるオンラインセミナー形式だそうで。

コロナ感染拡大で様々な「禍」が生じましたが、このようにオンライン形式でさまざまな事柄が為される体制が広まったのは、「災い転じて……」の例と言えるのではないでしょうか。ただ、何でもかんでも「オンライン」でも困りますが……。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

終日音も無く雪ふりつづく。細かきやはらかき雪、風なく静かにふりつむ。一尺余つもりたる上、尚夜に入りてもふる。明朝は相当の積雪量ならん。屋根の雪おろしせねばなるまじ。往来途絶える。


昭和22年(1947)12月12日の日記より 光太郎65歳

何気ない日記の記述ですが、詩的に感じます。のちの詩「典型」(昭和25年=1950)では、「小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。」と表しています。

都下小金井市の古書店・えびな書店さんの新蒐品目録が届きました。同店、以前にもご紹介しましたが、美術系が中心で、書籍も扱っていますが、どちらかというと肉筆などの一枚物に力を入れられています。
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今号では、光太郎の肉筆色紙表装済みが出ています。
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003短歌で、「熊いちこ奥上州の山そはにひとりたうへてわれ熊となる」と書いてあります。伝統的な書き方として、濁点は省略。したがって、「いちこ」が「いちご」、「山そは」で「山そば(山岨)」、「たうへて」は「たうべて(食うべて=「食べて」の意)」です。

大正13年(1924)10月、雑誌『明星』(第二期)の第5巻第5号に「工房より」の題で発表した50首のうちのひとつです。『明星』では「山そは」は「山峡(やまかい)」となっていますが、光太郎自らが校訂をしたとされている、昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集 現代俳句集』に再録した際に「山岨」と改訂されています。

この色紙が書かれたのも、おそらくそれほど離れた時期ではなく、大正末から昭和初め頃と推定されます。筆跡的にもその頃の特徴が表れていますし。

光太郎、明治末から戦時中にかけ、断続的に何度も上州の温泉地めぐりをしています。それもどちらかというと、人里近い温泉街は避け、山間の「秘湯」と言われるようなところを多く廻りました。『明星』にこの歌を発表した大正13年(1924)も、6月に奥上州の温泉地に行ったことが年譜に記されています。ただ、この際は具体的な行き先が不明です。

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。

それにしても、惚れ惚れするような筆跡ですね。戦後の花巻郊外旧太田村での、彫刻刀で彫り込むような書と違い、あまり気負いなく、さらさらっと書いているようにも見えますが、それでも文字の配置、改行の仕方など、独特の優れた空間認識が見て取れます。

ついでというと何ですが、もう1点。少し前、今年1月にネット上に出たものですが、札幌の古書店・弘南堂さんの目録から。
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弟子屈に住んでいた詩人の更科源蔵旧蔵の、寄せ書き帳。昭和2年(1927)作の連作詩「偶作十五篇」中の2篇が書かれています。上の方が「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」、下の頁は「急にしんとして 山の匂のしてくる人がある」。

おそらく上記の「熊いちご」と、そう離れていない時期の揮毫と思われます。この書もいつまでも眺めていられそうです。

「ここにこういう光太郎の書の優品があるよ」といった情報、御教示いただけると幸いです。ただ、偽物が多いのも事実で、悩ましいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

夜土間で紙に排便。外は雪にて出られず。排便はそのまま外に持ち出す。

昭和22年(1947)12月11日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、便所は別棟で、小屋の外にありました。積雪のひどいときには、こうせざるを得なかったわけですね。

光太郎の蟄居生活、よく、「気ままでのんびりした一人暮らし」、「戦争協力への反省をしていることをアピールするポーズ」的に評したものを見かけます。豪雪の夜、土間の片隅で紙に排便をしている老いた巨軀を想像すると、当方にはそういう表現はできませんね。

智恵子の故郷・福島二本松関連の新商品等を3件。

まずは地方紙『福島民友』さんの記事から。

もちもち食感!ざくざくいなり 福島県二本松市、道の駅安達で新発売

002 二本松市の道の駅安達「智恵子の里」を運営する市振興公社は、同道の駅下り線の道ナカ食堂で、オリジナルのレトルト商品「ざくざく炊き込みご飯の素」を使った「ざくざく炊き込みいなり」(130円)を新発売した。
 ざくざくは、慶事や祭事などで食べられる同市の郷土料理。ダイコンやニンジン、ゴボウといった野菜などをざくざくとさいの目に切り、煮干しなどのだしで煮た汁物。同道の駅では食堂で提供するほか、ざくざくを取り入れたカレーやうどんなども販売している。
 新商品は、ざくざくを食べやすい創作メニューにしてさらに周知するため開発された。鶏肉やゴボウ、シイタケ、ダイコン、ニンジン、高野豆腐入りの炊き込みご飯の素を、同市産のうるち米ともち米に混ぜて炊き込みのおこわを作り、県産の油揚げに包んだ。もちもちした食感が味わえ、甘めに煮た油揚げがアクセントとなっている。1個140グラムで食べ応えもある。
 問い合わせは同道の駅下り線(電話0243・24・9200)へ。

「ざくざく」。最近は二本松の郷土料理として、大々的にアピールされるようになりました。以前はそうでもなかったのですが、地元以外の方々が「これは!」という反応を示し、地元の皆さんもその価値を再発見した、ということなのではないかと、勝手に想像しております。違ったらごめんなさい(笑)。

で、レトルトの炊き込みご飯の素。美味しそうですね。平成25年(2013)の第8回大会で1位になった「なみえ焼きそば」、翌年の第9回大会で1位の「十和田バラ焼き」のように、B-1グランプリ出場を目指しては? と思うのですが……。

続いて、やはり『福島民友』さんから。

安達東高生が作りました、オリジナル「蜂蜜」3種 道の駅で販売

004 安達東高畜産専攻班の生徒は5月31日、二本松市・道の駅安達「智恵子の里」下り線内の二本松ベーカリーで、今春採取した蜂蜜で作ったオリジナル商品「あいさつ坂~はるのそよかぜ」の販売を始めた。
 販売したのはヤマザクラとリンゴ、フジの3種類。養蜂の生産実習に取り組む畜産専攻班の2、3年生17人が5月に巣箱から採蜜した。今年は開花が早く、販売も昨年より1カ月早い。糖度は80度ほどで例年通りのおいしさに仕上がったという。今後、栗やフジと、さまざまな花の蜜でできた「百花蜜」を生産する。
 安斎息吹さん、安斎彪賀さん、中村凛々香さん、今野駿仁さんの3年生4人がヤマザクラ30個、リンゴ36個、フジ42個を納品。店頭に立ち、自分たちで作った蜂蜜を来店客にPRした。安斎息吹さんは「蜂蜜は花によって特徴が異なる。いろんな味を楽しんでほしい」と話した。
 価格は90グラム入り486円。問い合わせは同道の駅下り線(電話0243・24・9200)へ。

こちらは新商品ではなく、以前から同校で取り組んでいたものですが、季節商品ということで、今年の分の出荷、というわけでしょう。高校さんでの取り組みということは、携わる生徒さんが毎年変わっていくわけですが、伝統として受け継いでいって欲しいものです。

最後に、「共同通信」さんの関連団体「47CLUB」さんでの新商品。「47」は「47都道府県」の「47」で、52紙の地方紙が加盟する「全国の地方新聞社厳選の名産・特産・ご当地グルメ」の通販サイトです。

マグカップ そら

003「ほんとうの空」安達太良の空の色をイメージしたスカイブルーがさわやかなマグカップです。毎日お使いいただきたい商品です。

産地(最終加工地) 福島県二本松市
内容量 重さ200g
サイズ/寸法/重量 径9.5cm / 高さ7.5cm / 容量200cc
販売期間・販売数 販売数 50個
贈答用包装

中国北宋時代の青磁は、「雨過天青」と言われる雨上がりの湿った空の青色を出そうとしたものだそうですが、青磁の青よりもこちらの青の方が、「ほんとの空」(「あどけない話」昭和3年=1928)の青に近いような気がします。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

物音一つせぬやうに世界しづまり返り、時〻軒の雪の落ちる音がするのみなり。コンロのヤカンに湯がわいて松風の音。 何もせず、コタツにあたり、何かをよみあさる。

昭和22年(1947)12月11日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、吹雪というわけではなかったようですが、前日からの雪が屋根に20㌢以上積もっていたとのこと。雪は音を吸収しますので、ほんとうに静かだったのでしょう。いやがうえにも「自省」を強いられる日々だったのではないかと思われます。

新型コロナに振り回されてしっまたのですね……。

明治末から大正にかけ、智恵子が所属した太平洋画会の後身の太平洋美術会さん。毎年、六本木の国立新美術館さんで大規模な展覧会を行っていましたが、昨年はコロナ禍のため中止。今年は5月12日(水)~24日(月)の会期で開催できるという方向で、作品の公募、審査、そして搬入、さらに会場での展示まで済んだそうなのですが、緊急事態宣言延長の際、公立美術館等への休業要請を解除するのしないののドタバタ(5/12から再開予定が一転して5/31まで休館延長)があり、それに巻き込まれてしまって開催できずだったとのこと。関係者の皆さんの落胆ぶりが目に浮かびます。

5/12~24、今にして思えば、ピンポイントでエアポケットの時期にあたってしまったわけで、残念としか言いようがありませんね。トーハクさんで鳴り物入りで始まった「鳥獣戯画展」も影響を受けましたが、こちらはもともと会期が長い設定だったので、今月に入ってから再開できました(ちなみに常設展の方では、光雲の「老猿」、それから珍しく光太郎木彫「鯰」と「魴鮄(ほうぼう)」も出ているそうです)。
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展示の一般公開は出来なかったものの、審査まで終了していたとのことで、今年の第116回太平洋展は実施した、ということにしたそうです。

図録も制作されていまして、先日、同会事務局よりご寄贈いただきました。多謝。
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同会には、智恵子に憧れて同会に加入された、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』のご著者・坂本富江さんがいらっしゃいます。坂本さん、同展にはおおむね智恵子の故郷・二本松やその近隣地域を描いた作品を出品なさっていますが、今回も三春町の滝桜と思われる作品などを出されていました。
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それから、図録の巻末に「太平洋美術館縁の物故作家」。以前の図録では、この項は抄録的な感じで、載っている名前も少なかったのですが、同会の歴史の検証が進んだようで、ボリュームアップしていました。そして、以前はなかった智恵子の名も。
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当会顧問だった故・北川太一先生制作の智恵子年譜に拠れば、智恵子は明治40年(1907)に日本女子大学校を卒業し、太平洋画会に通い始めたとなっていますが、同会の資料では明治38年(1905)加入となっています。学生時代から通っていたということも十分考えられます。また、北川先生制作の年譜では、大正7年(1918)の項で、智恵子が彫刻制作にトライし始めた的な記述があります。この年に同会の彫刻部に加わったというのは確かなようです。

智恵子以外にも、碌山荻原守衛をはじめ、光太郎とも縁のあった名前がずらり。「えっ、この人もか」という名前もありますが、あまり詳しく書くと「お前、そんなことも知らなかったのか?」と言われそうなので、書きません(笑)。

来年以降、旧に復することを願って已みません(「いません」ではありません。「やみません」です(笑))。

【折々のことば・光太郎】

星が出ると、オリオン、大犬等の壮観、 夜半くもる。


昭和22年(1947)12月8日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。都会でも冬の星空は他の季節に比べればきれいなものですので、おそらく本当に「壮観」としかいいようのないものだったのではないでしょうか。

開催の可否自体、未だ賛否両論というところで、なかなか大々的にはご紹介しにくいのですが、東京オリンピックの聖火リレーについて。

今月10日(木)、11日(金)の2日間、青森県で聖火リレーが実施されます。国内でコロナの「コ」の字もなかった一昨年12月に発表された、当初の計画案とはだいぶ変更になり、規模をかなり縮小しての実施のようです。

6月11日(金)には、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ十和田湖での開催。

『広報とわだ』今月号から。
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004午前中には十和田市役所付近の通称「官庁街通り」を進む「市街地コース」で実施され、おいらせ町、階上町を廻って、夕方から「十和田湖コース」。その後、八戸市にバトンタッチだそうです。

「十和田湖コース」、出発が十和田湖観光交流センターぷらっと。遊覧船の桟橋近くに平成26年(2014)にオープンした施設で、特産のヒメマスや、光太郎、大町桂月などについての展示が為されています(入場無料)。また、平成30年(2018)には、新たに「乙女の像」制作の際に光太郎が使用した彫刻用の巨大な回転台、青森ご出身の彫刻家・田村進氏(生前の光太郎をご存じです)制作の光太郎胸像が寄贈されました。手前味噌で恐縮ですが、内部の光太郎に関する説明パネルは当方の執筆です。そしてゴールが「乙女の像」。約0.9㌔㍍の道程です。

当初予定では、十和田湖でもミニセレブレーション(リレー走者を迎えるセレモニー)が計画されており、三村申吾青森県知事のごあいさつで、光太郎や「乙女の像」に触れられる予定でした(「これで間違ってないか」ということで、こちらにその原稿が回ってきまして、チェックさせていただきました)。また、詳細は未定でしたが、当方にも光太郎や「乙女の像」についてちらっと話をしてくれ、という依頼も。しかし、ミニセレブレーションは「市街地コース」のみ、それも関係者だけでの実施となったそうです。

同じ青森県内でも、むつ市や三沢市など10市町村では、リレーの実施が中止となったそうです。

NHKさんの5分間番組で、リレーの模様が報じられます。

聖火リレーデイリーハイライト「青森県 2日目」

NHK総合 2021年6月11日(金) 23:30〜23:35

東京2020五輪の開会式まで47都道府県を121日かけてつなぐ聖火リレー。その志あふれる走りや美しいコースの風景などその日のハイライトを5分にまとめて毎日紹介。

青森県2日目のコースはむつ市 十和田市 三沢市 おいらせ町 階上町 十和田市 八戸市。見どころは地域の人々の憩いの場であるむつ市の田名部川周辺、雄大で神秘的な自然が守られている十和田市の十和田湖など。音楽:カイト(嵐 作詞・作曲 米津玄師)。

【語り】林田理沙
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最初に書きましたように、開催の可否自体、未だ賛否両論というところで、なかなか大々的にはご紹介しにくいのですが、とりあえず……。

【折々のことば・光太郎】

葱、ハウレン草等皆雪に埋まる。 井戸のあたりの水は凍結。室内の水は朝凍り、昼間はとけきらずにゐる。


昭和22年(1947)12月5日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋での、三度目の冬。三度目とはいえ、その厳しさは変わりません。

まずは『北海道新聞』さん。一昨日の掲載でした。

卓上四季 土壇場の美

日本は建国以来、国運上の危機に不世出の大人物が現れるという。その一人が、土壇場に押し詰められたような推古天皇の時代の聖徳太子であると高村光太郎が「美の日本的源泉」に書いている▼とりわけ「日本美顕揚の御遺蹟は大和法隆寺に不滅の光を放つ」と称賛。金堂壁画は「大陸文化を摂取しながら日本独特の美の源泉を濁らしめず」と評価した。瀬戸際が浮き彫りにする人の真価だ▼それに比べて見苦しい身の処し方である。きのう議員辞職願が認められた菅原一秀前経済産業相のことだ。地元で祝儀などの名目で現金を配った疑いが報じられていた。東京地検特捜部は近く、公職選挙法違反の疑いで略式起訴する方針という▼起訴相当とした検察審査会の議決を受けた東京地検特捜部の再捜査期限が迫っていた。疑惑発覚から1年半余り。追い込まれた土壇場での辞職願だった▼菅原氏は「おわび申し上げる」というだけで説明は不十分と言わざるを得ない。国会の場で説明を尽くすべきだった▼本人は返上の意向だが、賞与にあたる期末手当の満額支給も批判の的に。過去の公選法違反事件で辞職が情状酌量による公民権停止の期間短縮につながった例もある。この期に及んでの辞職理由も説明が欠かせまい。土壇場の語源は江戸期の罪人が自らの墓穴を掘ってできる土盛り場にある。進退窮まる場面で遁走(とんそう)するようではあまりに醜い。

引用されている「美の日本的源泉」は、「日本美の源泉」の原題で、『婦人公論』の昭和17年7月号から12月号に連載された評論です。戦後、中央公論社刊の『高村光太郎選集』に収める際、光太郎の意志で改題されました。「青空文庫」さんに入っていますので、ぜひお読み下さい。引用箇所は、連載の第2回にあたる「法隆寺金堂の壁画」から採られています。
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書かれたのが戦時中、しかもミッドウェー海戦での大敗直後なので、「土壇場」の一語や、「危い、きはどい時機」、「其の禍」あたりにはそうした背景が反映されています。

コラムの後半部分で述べられている人物については、論評するのも馬鹿馬鹿しいほどなので、割愛します。一言だけ言わせていただければ、「コロナ禍」という「土壇場」、「危い、きはどい時機」に、いったい何を考えているんだか……ですね。

もう1件、光太郎には触れられていませんが、『福井新聞』さん。やはり一昨日です。

越山若水

小浜市出身の詩人で児童文学者の山本和夫さんは太平洋戦争の開戦と同時期に、ビルマ(現ミャンマー)に向かう。旧日本陸軍の報道班員で戦意高揚を求められながらも、持ち前のヒューマニズムにあふれる手記を著している▼報道班員には作家、画家らが選ばれ、同じ班員に坂井市三国町出身の小説家で詩人、高見順もいた。班員の手記をまとめ出版された「大東亜戦争 陸軍報道班員手記 ビルマ戡定(かんてい)戦」に、山本さんの「金のパゴダ」がある▼「ビルマ人の魂の故郷はパゴダである」と書き出す。パゴダは英語で仏塔のことだ。美しく輝く金の寺塔を眺めつづる。「私は戦争の破壊と悲惨のみを見に来たのでは決してない。私は日本人あるひは東洋の人の美しさを見に来てゐるのだ。私は次の時代に茂るであらう愛と平和の芽生えを見に来てゐるのだ」▼戦争末期には、朝ドラ「エール」の主人公だった古関裕而もビルマに派遣されており終戦後、自責の念にかられている。山本さんも同じく苦悩の末、児童文学の世界の扉を開く▼ミャンマーでは国軍によるクーデターから4カ月が過ぎたが、打開策は見えない。山本さんは戦後、自著の「燃える湖」で主人公の山村少尉に訴えさせている。「平和な日本を築いてくれ。おれはそういう時代がくるのを確信する」。没後25年の山本さんの願いがミャンマーにも届いてほしい。

山本和夫、光太郎と交流があり、山本の『武漢攻略戦記 山ゆかば』(昭和14年=1939)の題字を光太郎が揮毫していますし、山本が編んだアンソロジー『野戦詩集』(昭和16年=1941)に対する好意的な論評も書きました。こちらは『高村光太郎全集』解題では、当会の祖・草野心平主宰の雑誌『歴程』を初出としていますが、それ以前に『読売新聞』に発表され、『歴程』に転載されたことが判明しています。
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当方、寡聞にして戦後の山本の活動ぶりは存じませんでしたが、花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居した光太郎や、それからコラムにも名が出ている作曲家・古関裕而同様、悔恨の日々を送ったとのこと。失礼ながら、「山本和夫」、全国区では忘れられかけている名だと存じますが、故郷・福井で、顕彰の機運を高めていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日雪ふる。時々霏々としてふり、遠方がけむるやうに見える。一尺近くつもる。寒さ加はる。

昭和22年(1947)12月4日の日記より 光太郎65歳

12月あたまにして、既にこの状況。やはり厳しい暮らしでした。

過日ご紹介した日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵日本女子大学校でのテニス仲間だった智恵子に依頼した平塚らいてうの日記について、共同通信さんの配信記事。3日ほど前、複数の地方紙等に掲載されたようです。光太郎智恵子にも軽く触れて下さいました。

元祖「#わきまえない女」、その意外な素顔とは 平塚らいてう没後半世紀、遺族が日記公開

003 女性だけの手による日本初の文芸誌の創刊、大正時代に事実婚、与謝野晶子と母子の権利について論争を繰り広げ、戦後は米国政府幹部に直談判…。すべて、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)が実際に行ったことだ。中でも女性蔑視とは生涯闘い続けた元祖「#わきまえない女」は、5月で没後半世紀を迎えた。偏見やバッシングをものともせず、信念を貫く姿は、現代の私たちにとっても示唆に富む。最近公開された未公開日記とともに、歩みをたどった。遺族が語る彼女の素顔は、一般に思い描くイメージとは異なっていた。

▽授業ボイコット
 1886年、教育熱心な両親の元、東京で生まれた。東京女子高等師範学校付属高等女学校時代は、良妻賢母主義の教育に不満を持ち、級友と「海賊組」を結成。修身(道徳)の授業をボイコットしたこともあった。その後、17歳で日本女子大学校に進学。同窓生には、後に夫、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる長沼(高村)智恵子らがいた。
 英語や漢文、文学に関心を持つ勉強熱心な若者だったが、22歳の時に心中未遂騒動「塩原事件」を起こし、一躍有名になる。参加していた文学研究会の講師で、夏目漱石の弟子だった森田草平と家出し、栃木・那須の雪山にいたところを警察に保護されたのだ。スキャンダルとして大きく報じられ、バッシングにさらされた。
 1911年、女性だけの手による月刊の文芸誌「青鞜」を創刊し、家父長制など女性を抑圧する制度に抵抗した。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」には同世代の多くの女性から共感の声が寄せられた。ペンネーム「らいてう」を初めて使ったのもこの時。塩原事件の後、一時、傷心の時を過ごした長野県で親しみ、心引かれた鳥の「雷鳥」から名付けた。
 パートナーは5歳年下の画家、奥村博史で、14年に「共同生活」を公表した。古い封建的な結婚制度への反発から、入籍はせず、二児をもうけた。奥村は病弱で絵はあまり売れず、家計は、らいてうの原稿収入頼み。経済的な苦労は多かった。この頃、出産、育児への国の支援の在り方について、与謝野晶子らと激しい「母性保護論争」を繰り広げた。
 「経済力を得るまでは妊娠、出産を避けるべきで、母子への特別な支援は不要」とする与謝野に対し、らいてうは「安心して産み育てるため、国に支援を求めるのは当然」と反論した。論争は「どちらの意見も大切で、対立する必要は無い」と一段落したが、らいてうにとっては、女性をめぐる社会問題に改めて向き合うきっかけになった。
 20年には市川房枝らと女性の地位向上を目指す「新婦人協会」を設立し、婦人参政権運動を展開する。戦後は平和運動にも力を注いだ。国際民主婦人連盟の副会長も引き受け、国内外に原水爆禁止や軍縮を訴えた。71年5月24日、85歳で死去した。

004▽孫が見たらいてう
 一方、肉親から見たその姿は、世間一般の「らいてう」像とはだいぶ異なる。孫の奥村直史さん(76)=東京都=は13歳まで同居し、らいてうが亡くなるまで交流があった。「身長は約145センチで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」と振り返る。奥村さんは、孫の視点から長年らいてうを研究し、5月には「平塚らいてう その思想と孫から見た素顔」(平凡社)を出版した。
 忘れられないのは、戦後、奥村さんが小学生だったころの出来事だ。板と輪ゴムで手作りしたゴム鉄砲を家の応接間に置きっ放しにしていたところ、「こんなもの置いちゃだめ。私が嫌いなものなんだから」とひどいけんまくで怒られた。「感情を強く表に出す人ではなかったから、すごく驚いた。当時は武器や軍備について、相当、過敏になっていた。孫がそうしたものに興味を持つことが納得いかなかったのではないか」
 「『女性も主体的な存在』と主張し続け、押しつけられるのを何より嫌がった。もし、らいてうが今の時代に生きていたら、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗氏の発言についても、『明治、大正の時代から何も変わってない。困ったわね』とあきれ返ったと思う」

005▽目線は世界に
 戦後、平和問題に尽力したらいてう。先日、その思いがにじむ自筆の日記が初公開された。プライベートな記載も含まれている、との理由で長年、遺族が保管したままになっていたが、孫の奥村さんの代になり、「らいてうの生涯をたどる上で貴重な資料」との思いから、公開を決めた。
 日記は48~50年の日付で小ぶりのノートに手書きで書かれていた。日々の行動記録や暮らしの様子を淡々と記す中、50年4月13日には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思ひ悩む」との記載があった。
 当時、日本は連合国軍占領下。講和条約締結に向けて再軍備も議論されていたため、戦争反対の声を上げる必要性を感じていたとみられる。
 居ても立ってもいられなくなったらいてうは、知人の女性らに呼びかけ、同年6月26日、来日中の米国国務省顧問ダレスに「夫や息子を戦場に送り出すことを拒否する」などとする声明「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を連名で提出。当時、公職追放中だった市川房枝も全面的に協力した。
006 日記を解読した女性史研究者でNPO法人「平塚らいてうの会」会長の米田佐代子さんは、「らいてうの平和活動については『既存の政治勢力に同調した』との見方もあるが、政治的な対立に巻き込まれることなく、自ら考え、中立な立場で訴えようとしたことが日記から裏付けられた」と意義を強調する。
 声明公表日には「日本女性の意思表示を何としてもすべきだと思ひ、政治色なき何名かの婦人の賛助を得て」との記載もあった。
 日記の一部の複製は、長野県上田市にある資料館「らいてうの家」で今年10月下旬まで公開中だ。孫の奥村さんは「家に閉じこもりながらも、目線は世界に開いていた。日記を通じて、らいてうの生き方や平和への思いに関心を寄せてもらえたら」と願っている。

007当方もそう感じてこのブログに書きましたが、やはり「元祖「#わきまえない女」」ということで。そもそも、『青鞜』という雑誌名自体が、18世紀、イギリスのエリザベス・モンタギューのサロンに集まり、芸術や科学を自由に論じた女性たちが、一般的な黒いストッキングではなく、青いストッキングを穿いて「ブルー・ストッキング・ソサエティ」として世間を挑発したことに由来します(そちらが「元祖#わきまえない女」のような気もしますが)。そのエピソードが日本に紹介された当初は「紺足袋党」などと訳されていました。『青鞜』の「鞜」の字義は、厳密には「ストッキング」ではなく「くつ」なのですが、何しろ明治末、うまい漢字の当て方がなかったのでしょう。雑誌名が『青鞜』ではなく『紺足袋』にならなくて良かったと思います(笑)。

ちなみに現在のNPB北海道日本ハムファイターズさん。球団史をさかのぼると、戦後すぐ創設された球団「セネタース」に行きつきます。このセネタース、ユニフォームが青色だ008ったため、正式名称ではありませんが「青鞜セネタース」「青鞜軍」と表記される場合があったとのこと。ジャイアンツのみ現在でも「東京読売巨人軍」ですが、タイガースが「猛虎軍」、他にも「西鉄軍」、「金鯱軍」などの球団名があったそうです。「猛虎」対「青鞜」、どう考えても「猛虎」が勝つような気がします(笑)。しかし「セネタース」、かの青バットの大下弘選手が所属しており、決して弱小球団ではなかったようです。

閑話休題。らいてう没後50年のこの2021年、「#元祖わきまえない女」としての業績の数々、さらに注目されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

終日くもり、時々小雪。昨夜の積雪のとけざる上にふる。恐らく根雪とならん。

昭和22年(1947)12月3日の日記より 光太郎65歳

「根雪」。温暖な房総に暮らしている身には、無縁の単語です(笑)。

千葉県からコンサート情報です。

潮見佳世乃歌物語コンサート「智恵子抄・羽衣伝説」

期 日 : 2021年6月20日(日)
会 場 : 千葉市文化センター 6階・スタジオⅠ 千葉市中央区中央2-5-1
時 間 : 【昼の部】開場14:00/開演14:30(SOLD OUT)
      【夜の部】開場16:45/開演17:15
料 金 : 前売 4,000円 当日4,500円

出 演 : 潮見佳世乃(歌と語りと鳴り物) 
TATOO(ピアノ) 
      市川慎(箏) 小湊昭尚(尺八)


市制100周年を記念して、6月20日(日)千葉市文化センター6階 スタジオ1にて、歌物語コンサートを開催いたします。語ります物語は、千葉市の伝説「羽衣伝説」そして、高村光太郎の「智恵子抄」。歌物語で文学の名作・伝説を体感して下さい。どうかあたたかい応援をよろしくお願いいたします。只今チケット発売中です。

「歌物語」とは、父高岡良樹が創りだした、文学、演劇、音楽を融合させたこれまでにない芸能ジャンルです。琵琶法師や浄瑠璃など、物語を語る先人たちの伝統を引き継ぎながら、創作した物語に演劇的要素と音楽を取り入れ、奏でる音楽は、ジャズ、フォーク、ポップスなどを独自にアレンジしたもの。
ぜひ、この機会にご鑑賞ください。

※新型コロナウイルス感染拡大防止対策の為、定員数を減らし開催させていただきます。
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当方、潮見さんの「歌物語 智恵子抄」、2度拝聴しました。1度目は平成27年(2015)、都内大森のライブハウスで。2度目は今年3月、熱海の起雲閣さんで。どちらも素晴らしいものでした。

オリジナルの曲に乗せて、「智恵子抄」所収の詩10篇弱を、歌と語りで紡ぐという基本的な構成は変わらないのだと思いますが、今回はピアノに加え、箏や尺八と、和楽器を伴奏として演(や)られるそうです。箏は一般的な十三絃にプラスして十七絃も使ってみようか、というお話でした。当方、十七絃を使った演奏は一度、拝聴したことがありますが、単に音域が広いというだけでなく、低音域の響きがベースギターのようにしっかり支えていると感じました。

「智恵子抄」以外に「羽衣伝説」。静岡三保松原のそれが有名ですが、東京湾岸の千葉にもあったのですね。千葉県民でありながら存じませんでした(汗)。もっとも、「羽衣伝説」は日本国内だけでなく、西アジアのあたりが発祥らしく、ヨーロッパ、東南アジア、なんとアフリカや北米にもあります。そういった部分でも、非常にロマンを感じます。

新型コロナ感染症対策として、キャパを減らしての実施だそうで、既に昼の部は完売だそうですが(すみません、当方も昼の部で申し込みました(笑))、夜の部はまだ余裕があるようですし、昼の部もキャンセル等が出るかもしれません、上記リンクまでお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

終日雨、小雪、あられ等。時々鼠出る。 朝八時頃までねすごす。


昭和22年(1947)12月2日の日記より 光太郎65歳

「朝八時頃までねすごす」。「山中暦日なし」とはいいますが、光太郎、その日の日付がわからなくなることはあっても、体内時計の時間はかなり正確で、朝寝坊はめったにしませんでした。農閑期に入り、少し気が抜けていたようです(笑)。

昨日は、新潟県長岡市に行っておりました。当方、通過したことは何度かありますが、長岡で足を止めるのは初でした。

メインの目的地は、駒形十吉記念美術館さん。
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駒形十吉は長岡経済界の重鎮で、美術にも造詣が深く、そのコレクションを収めた美術館です。

こちらでは現在「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展が開催中。光太郎の書や写真(それも当方未見と思われるもの)が出ているというので、拝見に伺った次第です。
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書は昭和12年(1937)、この地で「高村光雲遺作木彫展観」が開催された時のものでした。同10年(1935)に歿した光雲の作品が長岡近辺に多数あり、駒形を含む美術愛好家の団体「風羅会」が主催となって、常盤楼という料亭を会場に、一日限定で行ったものです。「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展を報じた新聞記事から画像を採りました。
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書き下すと、「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」。同作は『高村光太郎全集』第11巻に掲載されていますが、そちらでは「父」「初夏」が漢字表記です。お話しさせていただいた同館学芸員さんによると、「風羅会」メンバーそれぞれに色紙を贈ったというので、表記の異同があったのでしょう。

光太郎写真は2種類展示されており、そのうち同じ記事に掲載されたのがこちら。
無題2
「高村光雲遺作木彫展観」の2年後、長岡を再訪した折の撮影です。場所はキャプションのとおり、長岡市郊外の悠久山公園にある蒼柴(あおし)神社さん。

もう1枚は、おそらく「高村光雲遺作木彫展観」の際、会場となった常盤楼の庭(?)で撮影された立ち姿の写真でした。

双方、撮影は松木喜之七。駒形と同じく「風羅会」メンバーで、光太郎に「鯉」の木彫を依頼した人物です。しかし「鯉」は完成せず、光太郎は代わりに「鯰」を贈りました。松木は写真撮影も趣味としていたそうです。

それから、「高村光雲遺作木彫展観」について報じた当時の地方紙『北越新報』の記事コピーも展示されていました。光太郎の談話が掲載されており、『高村光太郎全集』未収録のもので、驚愕しました。学芸員さんに頼み込んで、コピーを頂きました。来年4月発行の『高村光太郎研究』所収予定の当方の連載「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』遺漏作品の紹介)に全文を掲載します。

また、その記事には不鮮明ながら「高村光雲遺作木彫展観」会場内の写真も。これも初見で、興味深く拝見しました。

さらには展示のキャプションの中に、駒形の著書の中に光太郎に関する記述がなされているものがある、的な記載があり、帰ってから早速当該書籍を注文しました。

そんなこんなで、予想外の大収穫でした。

駒形十吉記念美術館さんに行く前、かつて常盤楼や松木喜之七宅のあったであろう辺りを廻りました。ところどころに古そうな建物も残ってはいましたが、明治・大正という感じではありませんでした。それもそのはず、この辺りが太平洋戦争時に空襲の被害が最もひどかったようでした。
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ちょうどその一角に、山本五十六記念館や、山本記念公園。山本五十六もこの地の出身で、駒形の兄は山本と同級だったそうです。美術館にも山本の書が複数展示されていました。ちなみに光太郎、戦時中の翼賛詩「提督戦死」(昭和18年=1943)、「山本元帥国葬」(同)などで山本を謳っています。

時間軸が行ったり来たりになりますが、駒形十吉記念美術館さん拝観のあと、長岡駅前から路線バスで悠久山に足を運びました。光太郎、昭和12年(1937)と同14年(1939)の2度の長岡来訪で、共にここを訪れています。
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小高い丘のような形状で、途中に蒼柴(あおし)神社さん。上記光太郎写真はここで撮影されています。
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例によってこの地の鎮護、自分のためには道中安全を祈願しました。

かたわらに「忠犬しろ神社」。長岡藩のお殿様の愛犬「しろ」が祀られていました。長岡と江戸を自主的に往復したという凄いわんこです。
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4月に17歳で逝ってしまった柴犬系雑種の愛犬を思い出し(決して「忠犬」ではありませんでしたが(笑))、「そっちにうちの犬が行ったので、よろしく」と手を合わせて参りました。

神社のさらに先、標高の高い所には、芝生の広場や小動物園、郷土資料館など。
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コロナ禍のためでしょうか、いずれも閉鎖中でした。

光太郎に「悠久山の一本欅」という随筆があります。2度目の長岡来訪のあとに書かれたもので、芝生広場のあたりで見事な欅の大木を見て、感動したという内容です。非常に目立つ独立樹だというので、探してみたのですが、それらしき木は見つかりませんでした。欅(と思われる木)は何本かあったのですが、光太郎の記述とは合いません。
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まぁ、それにしても、常盤楼のあった辺りもそうですが、80余年前、光太郎もここを歩いたのだ、と思うと、感慨深いものがありました。

この後、またバスで長岡駅まで戻り、帰路に就きました。長岡には、光太郎のブロンズを展示しているという菊盛記念美術館さんもあるのですが、そちらは割愛しました。

同じ新潟には、智恵子の足跡も残っていますし、智恵子の実家の長沼酒造を興した祖父の長沼次助は田上がルーツです。光太郎も長岡以外に赤倉や直江津、さらに佐渡にも足を運んでいます。いずれそうした関係の場所も、廻ってみたいと思っております。

以上、新潟レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

藤島宇内氏来訪。今日花巻着、関登久也氏宅に寄りて来りし由。十字屋よりバタ半斤。昭森社森谷氏よりサントリーヰスキー一本托されしとて持参。


昭和22年(1947)11月30日の日記より 光太郎65歳

藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』同人。のちに光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作(昭和27年=1952~同28年=1953)に際し、いろいろ骨折ってくれました。この日が戦時中以来の久闊でした。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第12号が届きました。
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当方の連載「連翹忌通信」が掲載されています。

そうそうネタがあるわけでもなく、これまでの光太郎智恵子らに関する新しい発見等で、このブログでご紹介してきたことを再編して書かせていただいております。ブログとPR誌と、どうも読者層も異なる部分があるようですので、それもありかな、と、勝手に決めております(笑)。

拙稿は、前号から継続で、光太郎塑像彫刻の代表作「手」(大正7年=1918)に関して。前号では、昨年発見しました、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に掲載された、光太郎の「手紙」という文章について。彫刻「手」制作時、リアルタイムで自作について述べた文章でした。

今号では、さらに同じく昨年、やはり「手」について書かれた、昭和2年3月1日発行の雑誌『随筆』第2巻第3号掲載の「手」という文章について書こうかとも思ったのですが、そちらは次号に回し、『白樺』での仲間だった有島武郎と「手」について書きました。有島は「手」を入手、自殺(大正12年=1923)直前にはそれをことのほか愛でていました。この「手」は、有島没後は親しかった秋田雨雀の手に渡り、さらに現在は竹橋の東京国立近代美術館さんに収められ、時折、常設展示で出ています(今日現在も)。有島と「手」について、くわしくはこちら

他に、光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、『とんぼ』に寄稿されたこともある、野澤俊之氏の追悼文が掲載されています。ご執筆は、野澤氏と親しかった、野澤一研究家の坂脇秀治氏です。

ご入用の方、文治堂さんのサイトまで。頒価500円だそうです。

【折々のことば・光太郎】

昨夜も雪、朝小雪時々日影さし、又吹雪のやうになる。 穴掘りむつかしく思はれるにつき阿部弘さんにハガキを書き、林檎苗移植は来年にのばしてくれるやうたのむ。

昭和22年(1947)11月27日の日記より 光太郎65歳

「阿部弘」は「阿部博」の誤りです。阿部は宮沢賢治の教え子で、花巻での林檎栽培普及に大きく貢献た人物です。光太郎の山小屋前に、林檎の苗を植えたらどうか、と、提言していました。

5月30日(日)、目黒の「反転する光」展会場を後に、南青山に向かいました。次なる目的地は、銕仙会能楽研修所さん。こちらで「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見・拝聴して参りました。


南青山ですので、瀟洒な建物が建ち並び、道行く人々も一様にシャレオツ、走る車もポルシェにアウディにフェラーリにBMW(笑)。その一角に突如、古風なたたずまい。しかし、さほど違和感はありません。
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この2階に能舞台。ここは異世界、という感じではありました。
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こちらがプログラム。
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基本、観世流シテ方の山本順之氏を中心に据えた構成で、氏が地謡(じうたい)の名手であらせられることから、謡がメイン。したがって、面を付けての能楽はありませんでした。

プログラムの最初が、いきなり「連吟 智恵子抄」。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」が元になっています。「新作能 智恵子抄」は、光太郎詩歌10篇から成っていました。「僕等」、「樹下の二人」、「あどけない話」、「人生遠視」、「風に乗る智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「山麓の二人」、「レモン哀歌」、「荒涼たる帰宅」、そして短歌「光太郎智恵子はたぐひなき……」。このうち、「風に乗る智恵子」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、短歌「光太郎智恵子はたぐひなき……」が、山本氏を中心とした5人の方々の連吟で演じられました。
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日本の古典芸能には、西洋音楽のようなハーモニーという概念がないため、西洋音楽風に言えばユニゾン。しかし、5人の声質は全く同一ではないため、それが合わさることで太い川(たとえば阿武隈川)の流れのような、あるいは寄せては返す波(まるで九十九里浜)のような、そんな感じでした。そして、最初から最後までトゥッティーではなく、要所要所はソロ。それが全体の流れに変化をもたらし、メリハリがきちんと付いています。また、皆さん、当然のように暗譜。以前、アマチュア音楽活動をしていた頃、楽譜を見ながらでなくては不安でしょうがなかった自分が恥ずかしくなります(笑)。

ちなみに5人のうちのお一人、清水寛二氏は、先月、江戸川区のタワーホール船堀さんで開催された「もやい展2021東京 3.11から10年 語り継ぐ命の連綿」のステージパフォーマンスの部でも、「智恵子抄」の朗誦をなさいました。
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上記画像は、以前に入手した西洋音楽の楽譜に当たるもの。素人の当方、これを見てもよくわからなかったのですが、実際に初めて聴いてみて、なるほど、そういうことかと得心しましたし、これは凄い、と感動しました。

また、プログラムと共に受付で頂いた資料には、「新作能 智恵子抄」についての解説がかなり詳しく載っており、興味深く拝読しました。
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さらに、第二部の山本氏と竹本幹夫氏(能楽研究者、早稲田大学名誉教授)の対談の中でも、「智恵子抄」に触れられ、そちらも「なるほど」でした。例えば、「新作能 智恵子抄」では、どちらかというとシテが智恵子、ワキが光太郎だったものが、抽出して演じられる舞囃子などの形式ではそれが逆転するとか。ダイジェスト版の舞囃子としてもあまり演じられる機会が多くなく、いい作品なのに残念と思って、今回のプログラムに入れられたとか。

ただ、解説に「能形式での再演はなく、すべて舞囃子、能舞という部分演奏形式で……」とあるのですが、手元の資料に拠りますと、平成9年(1997)7月24日、赤坂日枝神社で行われた「日枝神社薪能」の中で、「新作能 智恵子抄」全体が演じられたという記録があるのですが……。

他の演目は、やはり新作系で芥川龍之介の未発表詩に曲を付けた「相聞」(山本氏独吟)、後進の方々を交えた仕舞(面を付けない演舞)で古典作品の「嵐山」「西行櫻」「井筒」「天鼓」、闌曲(らんぎょく)「玉取」(山本氏独吟)。そして第二部が対談でした。

山本氏、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)のお生まれですので、御年82歳。失礼ながら、張りのある謡のお声も、ピタリと頭を動かさない舞の所作も、それを感じさせないものでした。さすが重要無形文化財保持者と思いました。

終演後、山本氏や清水氏とお話しさせていただこうかとも思ったのですが、意外と観客が多く、密の状態が怖いので、早々に失礼しました。

今後、できれば「智恵子抄」全10曲を聴いてみたいものですし、やはり「新作能 智恵子抄」として観てみたいとも思いました。そうした機会があることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

宮崎稔氏に千円小為替送り置きて買物に備ふ。油脂類を頼む。ラケットの値段を問合せる。フタバヤ指定。


昭和22年(1947)11月3日の日記より 光太郎65歳

「宮崎稔氏」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪で看護婦だった春子の夫。茨城取手在住で、岩手では入手出来にくいものなどを、このようにして送ってもらっていました。

で、唐突に「ラケツト」。調べたところ確かに「フタバヤ」というテニス用品メーカーがかつてあり、そこの製品のようです。なぜ岩手の山中で、数え65歳の光太郎がテニスラケットを必要としていたのかと思ったら、自分のためではなく、村の青年達に寄付するため、と、書簡に記載がありました。なぜ「フタバヤ指定」かは謎ですが。

さしもの光太郎でも「エア・ケイ」はできなかったでしょう(笑)。

昨日は、およそ1ヶ月ぶりに都内に出ておりました。

まずは目黒。現代アートのインスタレーション、毒山凡太朗氏の「反転する光」を拝見。
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会場は「LEE SAYA」さん。目黒不動さんのすぐ近く、元は一般の商店だったような建物を、ギャラリー的な展示スペースにしたといった感じでした。

毒山さんのインスタレーション拝見は、平成27年(2015)、いわき市で開催された「今日も きこえる」以来、2度目でした。

今夏開催される予定の、福島の帰還困難区域ツアープロジェクト「IGENE」のプロモーションを目的としており、福島出身の智恵子、その夫・光太郎が象徴的に使われています。
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富岡町の「夜の森」をあしらった「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」。このゲート、いろいろな意味で、原発事故の象徴として使われていますね。
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光太郎筆跡による青い文字は、LEDでしょうか、ネオンでしょうか、とにかく明滅するように出来ています。
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ちなみに、元ネタの光太郎筆跡はこちら。大正3年(1914)、詩集『道程』出版に際し、版元の抒情詩社に送られたものです。
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「夜の森」周辺、昨年には「帰還困難区域」から「特定復興特定復興再生拠点区域」に変更になりましたが、まだ海側には「帰還困難区域」が残っているようです。
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それにしても、ネット検索で上記の地図にたどりつくまでに、ものすごく苦労しました。古い情報がずっと残っていたり、せっかく見つけたと思ってアクセスしてもなかなかダウンロードされなかったり……。当方の検索の能力不足や古いPCを使い続けているためなのでしょうが、何だか「陰謀論」的に情報の隠蔽がなされているんじゃないかと、下衆の勘ぐりをしたくなりました。

結局、撤去されたゲートもあれば、新設されたゲートもあるようで、現状、どうなっているのかよくわかりません。そういった意味で、現状を知ってもらいたいと、帰還困難区域のツアープロジェクト「IGENE」ということなのかもしれません。

さて、他の作品。
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パンフにあるように「福島を代表する作家の高村智恵子に、ひとしおの思いを寄せる毒山が、「レモン哀歌(智恵子抄)」を手がかりに新作群を発表」というわけで、映像作品「Energy」及びオブジェ「Energy[capri]」。

パンフの表紙や公式サイトのサムネイル的にに使われている、花巻高村山荘脇の便所「月光殿」の透かし彫りをモチーフとした作品。
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今回のインスタレーション全体のタイトルと同じく、「反転する光/Reversing Light」と題されています。
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人里離れた山奥の薄暗いトイレの中から、「反転した光」の先に映る「反転した社会」を、彼はどのような思いで眺めていたのだろうか」。そういう思いからのネーミングだったのか、と、納得しました。

戦時中の「覆滅鬼畜米英」から、戦後の「明るい民主主義」と、180度「反転」した社会の中で、7年間の蟄居生活を送った光太郎。それでも「反転」した社会の先に、「光」を追い求めたのではないかと思われます。

未だに「原子力 明るい未来の エネルギー」と信じている(そこから脱却できない、または脱却したくない、あるいは脱却するわけにはいかない)人々の多い多い中、さらに「コロナ禍」という新たな災厄の中、どんな「反転」が、この後起こるのか、起こらないのか、いろいろと考えさせられる展示でした。

会期は6月20日(日)まで。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

当方、この後は表参道の銕仙会能楽研修所さんに移動。「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見して参りました。そちらは明日。

【折々のことば・光太郎】

夜コタツ、宮本百合子の「道標」(「展望」十月号)をよみかける。


昭和22年(1947)11月20日の日記より 光太郎65歳

作家・宮本百合子(明32=1899~昭26=1951)は、焼失した本郷区駒込林町25番地の光太郎アトリエ兼住居のすぐそば(同21番地)に住んでいました。

「道標」は、雑誌『展望』昭和22年(1947)10月号から同25年(1950)12月号まで連載された長編小説です。

3日程前の『岩手日報』さん。

【花巻】挑戦する人から刺激

 花巻支局に着任した初日、支局駐車場の前でキツネを見掛けた。JR花巻駅近くの市街地にもかかわらず、ひょっこり現れた野生動物。驚きと共に、これまでに出合ったことのない新たな土地だと再認識させられ心が躍った。
 県内で暮らした市町村は花巻市で5カ所目。温泉や食事に何度も訪れているが、勤務するのは初めて。周囲からは保守的な町と聞いていたが、着任間もなくから既存の施設や文化を生かして新たな挑戦をする人に出会い刺激を受けている。
 同市東和町では、空き店舗で多様な店が定期的に出店し起業家も育成するイベントが開催されている。発案者らは、今後も多様なアイデアで市内外から集客する計画だ。
 さらに中山間地で地元住民が運営するスーパーの開業、彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する女性たちによる起業など従来の考えに縛られない新しい動きが活発化している。
 宮沢賢治の作品に「雪渡り」という童話がある。キツネに対する古い考えを払拭(ふっしょく)するために、子ギツネが人間の子どもたちを啓発しようとする物語だ。
 伝統や文化が色濃く残る地が、どのように変わっていくのか-。作品に描かれた情景のような真っ白な気持ちで見つめていきたい。

花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんが紹介されています。合わせてこちらもご覧下さい。
「やつかの森LLC」さん。
光太郎の食卓再現。

それにしても、『岩手日報』さんの花巻支局、まさしく花巻駅に近く、大通りに面している場所ですが、令和の現代でも、あんな立地のところにキツネが現れるのか、と思いました。花巻、おそるべしですね(笑)。
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記事にもある宮沢賢治の童話に、キツネがよく登場しますが、花巻で生まれ育った賢治にとってはなじみ深い動物だったということなのでしょう。

光太郎が戦後の7年間を暮らした、郊外旧太田村の山小屋周辺は、光太郎がいた当時からキツネが生息していましたし、今も普通にいるようです。
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こちらは上記「やつかの森LLC」さんのサイトから。光太郎が暮らした山小屋近く、キツネだそうです。

光太郎詩にも、キツネがたびたび登場します。

部落の畑の尽きるあたり、/狐とマムシの巣だといはれる草場の中に/クリの古木にかこまれて/さういふおれの小屋がある。(「山口部落」昭23=1948)

金毛白尾の狐さへ/夕日にきらきら光りながら/小鳥をくはへて畑を通る。(「別天地」同)

また狐が畑を通る。/仲秋の月が明るく小さく南中する。(「月にぬれた手」昭25=1950)

変らないのはウグイス、キツツキ、/トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。/兎と狐の常連のほか、このごろではマムシの家族。(「山のともだち」昭27=1952)


当方、野生のキツネにお目にかかったことは、おそらくありません。ただ、生活圏内でタヌキはしょっちゅう見かけます。

一度、夜間に狭い道で車を走らせていたら、道の真ん中に亀の子ダワシのような形状、大きさのものが5、6個。「誰が何のために道のど真ん中にタワシを置いてんだ?」と思いつつ近づくと、タワシたちがむっくり起き上がり、道の端へとことこと移動。何と、子ダヌキの群れでした(笑)。

その他、愛犬の散歩中に出くわしたこともたびたび。

すると、2週間程前、自宅兼事務所の庭にも現れました。
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ただ、タヌキにしてはちょっとシュッとした体型で、あとになってから「もしかするとアナグマかも」とも思いました。目の周りが黒いのは共通していまし、また、完全にアナグマと思われるやつにも、一度、自宅兼事務所の近くで遭遇しましたし。どちらなのか、判断が付きませんでした。

いずれにしても、自宅兼事務所の敷地内で見たのは初めてでした。以前は柴犬系雑種の愛犬が庭にいたので、恐れて近づかなかったのかもしれません。愛犬は先月、17歳で逝ってしまいましたので……。

ちなみに自宅兼事務所周辺では、他にもイノシシ、野ウサギ、イタチ、それから一部で「幻の蛇」と言われているシロマダラと思われるヘビなどにでくわしました(笑)。

上記動物の画像、Facebookに上げたところ、智恵子の故郷・二本松在住の方から、うちの近くにもいるよ、的なコメントが寄せられました。すると、1週間程前、公益財団法人福島県観光物産交流協会さんの観光情報サイト「ふくしまの旅」に、智恵子生家にほど近い上川崎地区のタヌキ情報がアップされたりもしました。

光太郎や賢治が愛した、この手の野生動物が普通に歩いている自然環境、残していきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

初雪、昨夜より降り始め午前中はチラホラシ、午后やみ、日も出る。


昭和22年(1947)11月12日の日記より 光太郎65歳

11月中旬に初雪とは、これも花巻恐るべし、ですね(笑)。

NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」。「日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。」というコンセプトです。時折、光太郎詩を取り上げて下さっていますが、来週の放映でも。

にほんごであそぼ「祭りのかけごえ」

NHK Eテレ 2021年6月3日(木) 17:00~17:10(3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。)

今回は、阿波踊りの掛け声をご紹介します。ほかに、博士と助詞/僕の前に道はない「道程」高村光太郎、あいだのじいさん/砂糖と塩のあいだ、はんじえ/おむすび→ごぼう、名文を言ってみよう!/雨ニモマケズ、うた「しったかぶり」。
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「道程」(大正3年=1914)は、これまで、子役さんたちの朗読や、坂本龍一さん作曲の歌で取り上げられてきましたが、どんな感じになるのでしょうか。

ところで、同じ番組で少し前に当会の祖・草野心平の詩「誕生祭」に、尺八奏者の藤原道山さんが作曲した歌が取り上げられました。


7:27頃から。

この歌について、『山形新聞』さんが一面コラムで紹介しています。

談話室

▼▽〈びがんく/びがんく〉〈があんびやん/があんびやん〉―。NHK・Eテレの子ども向け番組でオノマトペだらけの一風変わった歌を耳にした。草野心平の詩「誕生祭」の後段にある擬音部に曲を付けたものだった。▼▽草野は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれるほど蛙の世界をテーマにした作品を作り続けた。この詩もその一つだ。金だらいのような月が昇る頃、生まれたことを祝う蛙たちの歓喜の合唱が水辺に響き渡る場面を表現したとされる。詩人は交錯する鳴き声を独特の感性で言葉に変換した。▼▽26日夜、3年ぶりに日本で皆既月食が観測された。夜空に目を凝らした方も多かろう。筆者も自宅近くの田中でその時を待った。薄い雲が広がり、おぼろな月影が食によるものかどうか判然としない時間が続いたが、雲が切れると田の水鏡にも赤銅色の月が小さく浮かんだ。▼▽〈蛙よ/口笛をふいて/寂しい月蝕(しょく)をよべ/花火をかこんで/青い冷や酒を傾けよう〉。草野はこんな詩も書いている。騒々しい蛙の声に囲まれての観測は約30分で終了。〈びがんく〉とも〈があんびやん〉とも聞こえなかったが、天体ショーを喜んでいるふうではあった。

ありがとうございます。

皆既月食の件にも触れられていますが、都内ではほぼ見えなかったようです。すると、Facebookやtwitterでは、「東京に空が無い」と、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)にかけた投稿が散見されました。喜んでいいのかどうか(笑)。

さて、「祭りのかけごえ」の回、ぜひご覧下さい。それにしても、「3月29日から放送時間が変わりました 木・金は夕方のみの放送となります。」だったのですね。以前は平日の毎朝夕、2回放送だったのですが。

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岩田豊蔵氏の息来訪。(自転車)、「雑草社」の看板の字を持参の朴の板に書く。草といふ字を間違へしにより、も一度削つて持参の事をたのむ。


昭和22年(1947)11月9日の日記より 光太郎65歳

「岩田豊蔵氏」は、宮沢賢治の妹・シゲの夫。アマチュア洋画グループ「雑草社」を結成し、光太郎にその看板の揮毫を頼みました。しかし、光太郎、「草」の字の最後の縦棒を「日」の部分から突き抜けさせてしまい、「また書くから削って消してきてくれ」。

翌年、もう一度書いたのですが、やはり「草」の字を書き誤りました。結局、「これはこれでおもしろい」と、開き直り(笑)。現物は現在、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

いわゆる「ゲシュタルト崩壊」を起こしたのではないかと思われます。




当会顧問であらせられ、昨年1月に亡くなった、故・北川太一先生最後の御著書『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』を前面に押し出すチラシが完成したそうで、版元の文治堂書店さんからメールでPDFファイルが添付されてきました。
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もう1冊、一昨年刊行の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』も紹介されています。

裏面下部が注文用紙となっており、「郵送かFAX又は電子メールでお送り下さい。◆本ご注文用紙でご注文の場合に限り、送料弊社負担とさせていただきます。」だそうです。上記画像、プリントアウトしてお使い下さい。電子メールの場合はスキャンするなりしてくれということでしょうか。

ついでに云うなら、「◉上記①②以外の書籍をご希望の場合は下記に書籍タイトル及び注文冊数をご記入の上、お送り下さい。」とのことです。それぞれ平成27年(2015)刊行の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』も、北川先生のご著書。この機会にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

途中紅葉の山々美し。山口山の雑木の紅葉殊にめざまし。早池峰も遠くかすんでゐる。

昭和22年(1947)11月4日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、片道4㌔㍍ほどの隣村の郵便局に歩いて行った際の記述です。「山口山」は、山小屋裏手の低山群の総称です。
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昨日もちらっとご紹介しましたが、都内北区の田端文士村記念館さんでの展示です。

心豊かな田端の芸術家たち

期 日 : 2021年6月1日(火)~9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日と水曜日が休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土・日曜日の場合は翌週火曜日が休館)
料 金 : 無料

田端は、明治中期より若い芸術家たちが集うようになり、やがて“芸術家村” を形成しました。「創作」と「生活」という二つの環境を共有した芸術家たちの間には、絵画・彫刻など、表現方法の枠を超え、豊かな交流が育まれていきます。
本展では、田端ゆかりの芸術家たちが生み出した作品の数々と、田端での暮らしぶりについてご紹介します。
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田端は、光太郎の住居兼アトリエのあった駒込林町にほど近く、光太郎や父・光雲らゆかりの人物が多数居住していました。そのうち、主に美術方面の人々の交友関係等に着目した展示のようです。

フライヤーの人物相関図にある人々と、光太郎等との関わりを簡略に記すと、以下の通り。

石井柏亭(明15=1882~昭33=1958)
画家。光太郎とは「パンの会」などで親しく交流。明治期、「地方色」のあり方を巡って光太郎と論争、光太郎が「日本初の印象派宣言」と言われる評論「緑色の太陽」(明43=1910)を書くきっかけを作りました。

石井鶴三(明20=1887~昭48=1973)
彫刻家。柏亭の弟。戦後、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れています。信州安曇野の碌山美術館開館に向け、光太郎の協力を仰ぎました。

小穴隆一(明27=1894~昭41=1966)
画家。どういったつながりがあったのか不明なのですが、光太郎から小穴あての書簡(昭和21年=1946)一通が、『高村光太郎全集』に収録されています。その時期、小穴も岩手に疎開していたようです。小穴は芥川龍之介著作の装幀で有名ですが、宮沢賢治著書の挿画も手がけており、あるいはそういった関係かもしれません。

小杉放菴(明14=1881~昭39=1964)
画家。彫刻も行い、大町桂月・武田千代三郎・小笠原耕一の「十和田の三恩人」顕彰のために作られた光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)」(昭27=1952)制作に先立ち、十和田湖に近い蔦沼の薬師堂の本尊薬師如来像(光太郎も拝観)、大町桂月像を制作しました。大正11年(1922)には、大町桂月に伴われて十和田湖周辺を歩いています。

村山槐多(明29=1896~大8=1919)
画家。光太郎はその特異な才能に注目し、「火だるま槐多」と称しました。

山本鼎(明15=1882~昭21=1946)
版画家。村山槐多の従兄。東京美術学校卒。新詩社、パンの会、琅玕洞などで光太郎と縁。母は光太郎の朋友・北原白秋の妹。

南薫造(明16=1883~昭25=1950)
画家。東京美術学校西洋画科卒。明治末、ロンドンで共に留学生仲間だった光太郎と親しく交わりました。

板谷波山(明5=1872~昭38=1963)
陶芸家。東京美術学校彫刻科卒。在学中、光雲に師事しました。

香取秀真(明7=1874~昭29=1954)
鋳金家。光太郎の実弟・豊周の師です。

香取正彦(明32=1899~昭63=1988)
鋳金家。秀真の子息。豊周の盟友。豊周と共に日本鋳金家協会を立ち上げました。

建畠大夢(明13=1880~昭17=1942)
彫刻家。京都市立美術工芸学校を経て東京美術学校彫刻科に編入し、光太郎と面識がありました。

建畠覚造(大8=1919~平18=2006)
彫刻家。大夢の長男。東京美術学校彫刻科卒。昭和47年(1972)、最後の高村光太郎賞を受賞しました。

とりあえず、人物相関図にある人々と光太郎一族の関わりで、思いつくのはこんなところです。精査すればまだあるかもしれませんが。

また、今回は造型美術方面の人々にスポットを当てているので、相関図にはありませんが、室生犀星、萩原朔太郎、平塚らいてうなども田端文士村の一員で、光太郎と関わった面々です。彼等は常設展示等で詳しく紹介されているのでしょう。

東京都の緊急事態宣言、どうも延長の方向だそうで、この展示もどうなるか未定ですが、一応、紹介しておきました。

【折々のことば・光太郎】

夕方弘さんタバコ葉持参、もらふ。


昭和22年(1947)11月2日の日記より 光太郎65歳

「弘さん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入植した青年。「タバコ」は配給でしょうか。あるいは「葉」とあるので、製品化されていない葉っぱでしょうか。そうだとすると違法行為ですが、戦後の混乱期、そういったことがあったかもしれません。

光太郎、喫煙を始めた年齢は早くありませんし(40代?)、最終的にはやめていますので大好きとかヘビースモーカーではありませんでした。それでもキセルやパイプに火を付けているところの写真が残っていたりします。

没後50年を迎えた平塚らいてう(智恵子の先輩)について、昨日のこのブログで、最近の報道、新聞複数紙の一面コラム等をご紹介しましたが、昨日、『山陽新聞』さんでも一面コラムでらいてうを取り上げました。

滴一滴

「わきまえない女」の先駆者だろう。平塚らいてうが、女性だけで作る日本初の文芸雑誌「青鞜(せいとう)」を立ち上げたのは25歳のとき。有名な創刊の辞は一晩で書き上げたものという▼〈元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のやうな蒼(あお)白い顔の月である〉▼110年前の明治期の終わり。控えめで自我を持たないことが女性の美徳とされた時代である。高らかに自立を呼び掛けて女性たちの共感を得たものの、猛烈な批判も浴びた。「社会の風紀を乱す」と雑誌が発禁処分になったこともある▼らいてうといえば、女性解放運動家で強い人というイメージだが、孫の奥村直史さんの著書を読むと印象が変わった。身長約145センチと小柄。物静かで、大きな声を出すのが苦手だったという▼そんな実像とは違い、残された文章はいま読んでも力強い。世の中を変えるためには沈黙していてはいけないと、声を上げる勇気を持ち続けた人なのだろう。女性参政権運動や平和運動に力を注ぎ、1971年5月24日、85歳で亡くなった。没後50年になる▼社会はどこまで変わったろうかと考えさせられる。コロナ禍で浮き彫りになったのは非正規雇用が多い女性の苦境である。沈黙していてはいけない問題が社会にはまだまだある。

当方、昨日のブログには「元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか」と書きましたが、やはりみなさん、同じように感じるのですね。

一面コラムといえば、遡って今月9日(「母の日」)の『毎日新聞』さん。らいてうがメインではありませんが。

余録

親しみやすいメロディーの「おたまじゃくしはカエルの子」。原曲は南北戦争の北軍愛唱歌「リパブリック賛歌」だ。「グローリー・グローリー・ハレルヤ」の歌詞に聞き覚えがある人も多いだろう。作詞した女性詩人、ジュリア・ウォード・ハウは米国で「母の日」を提唱した先駆者だ。戦争後、夫や子を二度と戦場に送らないと「母の日宣言」を発表した▲同時代に「母の日ワーククラブ」と名付けたボランティア組織で、乳児の死亡率低減や戦傷者救済に取り組んだ女性社会活動家がアン・ジャービスだ。その娘のアンナが「母の日」の創設者とされる。母の遺志を継いで政府を動かした。1914年にアンの命日(5月9日)に近い5月第2日曜が「母の日」と定められた▲イラク戦争で息子を亡くして米軍撤退を求め「反戦の母」と呼ばれたシンディ・シーハンさんは、平和を希求したハウ以来の女性の活動を「母の日の永続的な遺産」とたたえた▲日本の女性運動の草分けで、戦後は平和運動に取り組んだ平塚らいてうも「母こそ平和の力です」と訴えた。子を思う母の気持ちは世界共通だ▲だが、紛争地では今も受難が続く。軍事クーデターが起きたミャンマーでは多くの子どもが国軍の弾圧の犠牲になった。対テロ戦争の舞台となったアフガニスタンでは乳児が20人に1人の割合で命を落としている。実に日本の25倍だ▲日本は戦後、平和を享受してきた。コロナ禍の「母の日」。改めて平和の意義を考える機会にしてはどうだろう。

なるほど、という感じです。

らいてう没後50年と云えば、都内北区の田端文士村記念館さんで、以下のミニ展示が為される予定です。

平塚らいてう没後50年特別展~らいてうの軌跡~

期 日 : 2021年6月1日(火)~9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日と水曜日が休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土・日曜日の場合は翌週火曜日が休館)
料 金 : 無料

「原始女性は実に太陽であった」という、今も語り継がれる名文を残した平塚らいてうは、本年、没後50年の節目を迎えます。本展では、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、その社会的な活動から家庭的な一面までをご紹介します。
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同館、5月16日(日)には市民講座「平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~」を予定していましたが、コロナ禍のため中止。さらに現在、緊急事態宣言発令中ということで、休館しています。一応、6月1日(火)から再開となっていますが、宣言延長の場合にどうなるかはよくわかりません。

こちらはミニ展示。メインの展示は「心豊かな田端の芸術家たち」。光太郎、光雲らと関わった面々が多く取り上げられます。こちらの紹介は明日。

【折々のことば・光太郎】

朝霜白し。今日も上天気、一片の雲をも見ず、風なく小春日和。 フトン干。オサツ干。

昭和22年(1947)11月1日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、11月ともなると霜が降りるのですね。日中はおだやかだったようですが。

「オサツ」は「お札」ではありません(笑)。サツマイモです。乾燥イモを作るため、干していたのです。サツマイモは幼少時からの大好物でした。

日本初の女性だけによる雑誌『青鞜』を創刊し、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。智恵子と同じ日本女子大学校家政学部で一学年上、テニス仲間でもありました。

そのらいてう、昨日が忌日、しかも没後50年ということで、いろいろなところで取り上げられています。

まず『朝日新聞』さん。5月21日(金)の掲載でした。

没後50年の平塚らいてう、日記ににじむ平和への信念

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971)の未公開の日記が見つかり、一部を長野県上田市の資料館「らいてうの家」で公開している。女性が平和問題に積極的に声を上げるべきだ、との信念がうかがえる。24日で、らいてう没後50年となる。
 日記は48~50年の日付でノートに書かれ、らいてうの孫にあたる東京の男性が自宅で保管していた。主に文筆活動や生活についてつづられ、その一部のコピー数点を展示している。
 戦後の連合国軍占領下の50年4月13日には、「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思い悩む」と吐露。こうした意思は同年6月、女性の立場からいかなる戦争にも加担しないことを宣言した「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」の公表につながった。
 女性史研究で知られ、NPO法人「平塚らいてうの会」(東京)の米田佐代子会長(らいてうの家館長)によると、50年当時は講和条約の締結に向けて政治的な発言をする女性はほとんどいなかったという。「再軍備か非武装かの議論の分かれ道で、戦争でつらい体験をした女性こそが、戦争反対の声をあげる重要性を発信したかったのだろう。記述からは、1人でもんもんと考えていた様子が見て取れる」と読み解く。
 こうした大まかな経緯については、らいてうに関する書物で明らかになっているが、米田会長は「らいてうの直筆資料で裏付けられた意義は大きい」と指摘。7月11日に、米田会長がらいてうの家で資料の解説を予定している。
 らいてうの家は冬季閉鎖し、今年は4月24日にオープンした。毎週土、日、月曜の午前10時半~午後4時(夏季は午後5時まで)に開館。入館に500円程度の運営協力金を求めている。
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同じ件、共同通信さんは、既に先月、報じていました。

長野・上田市の記念館 らいてうの未公開日記を公開

 女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)の足跡をたどる記念館「らいてうの家」(長野県上田市)が冬季休館を終え、24日開館した。例年期間限定でオープンしている。らいてうの死去から5月で半世紀となる今年は、平和問題に対する考えをつづった未公開の日記の複製が初めて公開されており、注目を集めそうだ。 
 日記の50年4月13日の欄には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない〇〇(判読不能)だとこの数日しきりに思ひ悩む」と、平和問題に対して女性が声を上げる必要性を記していた。
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見出しだけ読んだ時点で、「『青鞜』創刊の頃の日記で、智恵子や光太郎に言及されているといいな」と思ったのですが、残念ながら戦後のものでした。それでも一級の資料ですが。

同じ共同通信さんで「平塚らいてう、没後50年 別姓先駆者、抑圧と闘う」という記事も出ているのですが、ネット上では閲覧できませんでした。

らいてうの女性問題に関する活動等についても、いろいろと。

『高知新聞』さん一面コラム。昨日の掲載です。

小社会 110年前の主張

 平塚らいてうは明治から昭和にかけ、女性解放運動で活躍した。特に「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」の評論はよく知られる。
 明治末期の1911年、女性のための文芸誌「青鞜(せいとう)」の創刊号に発刊の辞として掲載された。「今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼(あお)白い顔の月である」と続く。
 女性が男性に依存せざるを得ない、病んだ世と訴えたかったのだろう。ちょうど110年になる。成熟した国なら歴史的な主張になっていなければならないが、現実は衝撃的だ。いまの日本社会にもそのまま通用してしまう。
 世界経済フォーラムが公表する経済や教育などによる国際的な男女格差比較。日本は今春も先進国最低の120位だった。しかも、事態はより深刻になっているのではないか。コロナ禍で失業を余儀なくされた女性は男性よりもはるかに多いからだ。
 ドメスティックバイオレンス(DV)相談件数も昨年度急増し、過去最多になった。内閣府の有識者研究会は、コロナ禍で増える女性のDV被害や自殺への対策を早急に強化するよう政府に提言している。
 らいてうは主張の最後をこう締めくくった。「烈(はげ)しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である」。1世紀以上欲求しても遅々として改善しない格差。いま変える気がなければ、未来も変わらない教訓である。きょうはらいてうの没後50年。

『日本農業新聞』さん、同じく昨日の一面コラム。

四季 「元始、女性は太陽であった」

「元始、女性は太陽であった」と、平塚らいてうが人間としての女性の解放を唱えてから今年で110年、亡くなってからきょうで50年になる▽出産・育児を体験し「次世代を産み育てる労働には経済的裏付けがもてないという社会の現状に疑問」を抱いたと、孫の奥村直史さんが『平塚らいてう その思想と孫から見た素顔』につづる▽ これが、家庭労働に経済的価値を認め育児に国が報酬を、との主張につながった。新憲法下「育児の社会化」は進んだが、コロナ禍は子育て中の女性の雇用と収入の不安定さをあぶり出した▽農村はどうか。『農家女性の戦後史 日本農業新聞「 女の階段」の五十年』は、財布を握るしゅうとからミルク代をもらえず子どもの命を守るために「ミルク泥棒」をしたことや、臨月でも休めず稲刈りをしたその晩に出産したことなど「農家女性が抱える不条理さ」を記録。著者の姉歯曉駒沢大学教授は「 程度の差こそあれ、今もなお、女性たちを苦しめ続ける日本社会の宿痾(しゅくあ)そのもの」と記す▽らいてうは亡くなる年の正月、色紙にこう書いた。「命とくらしをまもる みんなのたたかいの中から 平和な未来が生まれる 新しい太陽がのぼる」。「みんな」に男は入っているか。自問する。

元祖「#わきまえない女」とでもいいましょうか、らいてうの提唱した様々な課題や提言は、現代まで連綿と受け継がれているような気がします。しかし、それが実現されているかというと、否、ですね。

五輪に関しても、元トップが女性蔑視発言で辞任し、鳴り物入りであとを継いだ女性新会長もすっかり影が薄く、さらに新会長の元のポストの後任も女性ですが、こちらは頓珍漢(「漢」は「おとこ」ですが(笑))。しかし、「だから女性は……」ではなく、個人の資質や体制の問題のように思われます。

らいてう没後50年を機に、こうした議論が高まることも期待したいものです。

【折々のことば・光太郎】

古代錦のやうな秋晴のケンランな完全な一日。風なく、空気うつとりとしづまる。山の紅葉さびて青天に映え、日光あたたかに草を色に染めてゐる。

昭和22年(1947)10月31日の日記より 光太郎65歳

何気ない自然の描写も実に詩的ですね。

昨日の関東は、およそ1週間ぶりに晴れました。既に近畿・東海までは入梅しており、先週の様子では、関東も実は梅雨入りしてるんじゃないの? と思っておりましたが、まだ梅雨の走りだったようでした。今日も晴れています。

久しぶりの好天に誘われて、昨日は自宅兼事務所から車で15分ほどの水郷佐原あやめパークに行って参りました。市立の水生植物園です。かつてはずばり「水生植物園」という名称でしたが、平成29年(2017)、園内の一部リニューアルと同時に改称されました。「佐原」は合併前の市名です。ときおり、テレビの旅番組系などでも「さはら」と平気で読んでいてムカッとしますが、「さわら」です。沙漠ではなく真逆の水郷地帯です(笑)。
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利根川が運んできた土砂が堆積して出来た大きな中州(地元民は「新島(しんしま)」または単に「島」と呼んでいます。もとは「十六島」とも呼ばれていました)にあり、広大な敷地内にハナショウブを中心とした花々が植えられています。ハナショウブの見頃はこれからで、今週末からは「あやめ祭り」と称し、様々なイベントも。そうなると入園者数も増加しますので、その前に行っておこうと思った次第です。600円→800円と、入園料金も上がりますし(笑)。

ちなみにハナショウブとアヤメは、似て非なる植物です。こちらではハナショウブが中心ですが、「ハナショウブパーク」ではわかりにくいので、「あやめパーク」なのでしょう。

早咲きのものは、既にいい感じに咲いていました。
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ハスやスイレン(この二つも、似て非なる植物です)も。
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さらに、こちらはそろそろ見頃が終わりという感じでしたが、薔薇。
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園内を周遊する舟廻りのサッパ舟(有料・500円)。「サッパ」は「笹の葉」の転訛です。舟の形状に由来します。
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001昨日、こちらを訪れたのは、何も花々を見るためだけではありませんでした。

話せば長いことながら、先週、旧市街の古書店さんに行ったところ(最近、店を閉めていることが多いのですが、前を通りかかったら久々に開いていましたので)、右の書籍があって、購入してきました。江戸川大学教授・鳥海宗一郎氏著『文学の旅・千葉県』(龍書房)。平成15年(2003)の刊行ですので、「古本」というほどの「古本」ではありません。

平成3年(1991)から同11年(1999)まで、『朝日新聞』さんの千葉版に連載されたものに加筆訂正、千葉県内の文学史跡がほぼほぼ網羅されています。光太郎智恵子に関しても、九十九里成田三里塚銚子犬吠埼と、三箇所で言及。その部分では、特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、光太郎と交流の深かった面々が、千葉にどんな足跡を残しているかをもっと知りたいと思い、大枚500円(笑)をはたいて購入しました。

すると、自宅兼事務所のある佐原の項で、光太郎と親しかった北原白秋の詩碑が、あやめパーク内に建っているという記述。地元でありながら、これは存じませんでした。元々手元に『北総の文学碑』という、佐原周辺限定で文学碑の数々を紹介した書籍もあったのですが、そちらには記述がありませんでした。

それもそのはず、『北総の文学碑』は昭和61年(1986)の刊行、白秋碑の建立はそのあとの平成2年(1990)でした。

というわけで、白秋詩碑。実は10年程前にもここを訪れていながら、その際には気づきませんでした(笑)。
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昭和4年(1929)刊行の詩集『海豹と雲』に収められた、「水村の春」という詩の一節が刻まれていました。下記の色を変えた部分です。先に書いておきますが「田螺」は「タニシ」です。念のため。

  水村の春 KIMG5050

  一
水車のまはる樋口に
窗障子あくる子のあり。
春はまだしか、芽麦に
はだら雪など光れり。

  二
春雨けぶる小がはに
板橋わたす里かや。
この田かの田の下萠え、
簑笠つけて早や鋤く。

  三
ひとむら萠えしなづなを
朝出て食(は)むや雌(め)の牛、
沼の田べりはわづかに
降りつぐもののにほへり。

  
かはづの啼くはころころ、
田螺の啼くはころろよ、
ころころ、ころろ、ころころ、
萠え来(こ)よ、春の下(した)ん田(だ)。

  五
蛙が啼くよ、沖田にKIMG5046
芽柳もなびくよ。
誰(た)ぞや、こぬかの小雨(こさめ)に
今朝あかあかと火を焚く。

  六
春はまだ浅き水田の
根芹は馬に食まれぬ。
ゆきかへりつつ、鋤きつつ、
ひと日は雨に暮れたり。

  七
ふたもと高い葉楊、
鍋底こする舟の子、
つん抜け土間の藁家は
燕の飛ぶにまかせぬ。

  八
夜明けの靄にめざめて、
渡るは雁か、くぐひか、
早や榜(こ)ぎいでよ、作舟、
沖田あたりは晴れうよ。

  九
耕作舟につむもの、
犂、鍬、黒の雌(め)の牛、
朝靄がくり棹さす002
娘のあかい細帯。

  十
せんだんの実もさみしや。
蓆機織る藁家は、
日がな日ぐらし音して、
日がな日ぐらし雨ふる。

  十一
藁すぐる子の目見(まみ)ゆゑ、
沼のあかりがしむかよ。
ときたま鳴けよ、鳰鳥、
昼間の月も渡るよ。

  十二
前ゆく蝶のつばさに
土のしめりはながれぬ。
まことに春は田の面の
末より野路(のぢ)ににほひぬ。

「青空文庫」さんから取らせていただきました。この詩は、「水郷の早春」という小題でまとめられた四篇のうちの一つでした。碑陰記には「水郷をうたつた白秋の長詩水村の春十六島の一節」とあります。白秋で「水郷」というと、故郷の福岡柳川が思い浮かびますが、「水郷の早春」中の「朝靄の中」には「ここは潮来の出はづれ、沼から沼へとかよふ水路だ。」というフレーズがあり、柳川ではなく、「ちばらぎ」の水郷であることは明白です。「潮来」は茨城県に属し、あやめパークのある佐原の新島地区と隣接、同じように水路が張り巡らされています。同じ水郷風景と云うことで、白秋も親近感を抱いたかも知れません。

また、『海豹と雲』には、「早春 香取神宮」という詩も収められていますが、「香取神宮」も佐原です。ちなみに香取神宮には、光太郎の彫刻のモデルを務めた歌人・今井邦子の歌碑、香取神宮の一の鳥居がある利根川河畔のかつての河岸(かし=船着き場)には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の歌碑が、それぞれ建てられています。

邦子や晶子の足跡があることは存じていましたが、白秋も佐原に来ていたんだ、と、それは存じませんで、汗顔の至りです。ただ、手元にある書籍や、ネット上の情報では、それがいつなのかはっきりしません。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

さて、「水郷佐原あやめパーク」、もうすぐ園内のハナショウブが満開となります。コロナ感染にはお気を付けつつ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003

草野君の詩集の為「蛙(かへる)」といふ題字を書く。


昭和22年(1947) 10月29日の日記より

翌年に刊行された『定本 蛙』のためのものです。

同じ蛙でも、白秋の手にかかれば「かはづの啼くはころころ」とかわいらしく、心平が謳えば「ぎゃわろ、ぎゃらろ、ぎゃわろろろろり」(笑)。面白いものです。

それにしても、この字もなかなか書けない凄い字だと思います。「蛙(かへる)」を三つ、絶妙のバランスで並べるこの感覚、脱帽です。心平の原稿の書き方にも影響されているかも知れませんが。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手県花巻市で起業された「やつかの森LLC」さんに関する報道。『岩手日報』さんには一週間程前に出ましたが、『岩手日日』さんで、一昨日報じられました。内容的にはかぶりますが、ご紹介します。

光太郎の食卓再現 顕彰合同会社やつかのもり 日記、書簡基にカレンダー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の顕彰活動などに取り組む花巻市轟木の合同会社やつかのもり(藤原正代表)は、「光太郎の食卓カレンダー」を作製した。カレンダーには光太郎の食卓を再現した写真、エピソード、食を通じた相関図を掲載。同社ではカレンダーが光太郎に親しみを持つきっかけになることを願う。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、 独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 同社は藤原代表(69)と地元の女性社員8人で組織。アカシアの天ぷら、 ショートケーキ、トマトケチャップを使った鍋など、カレンダーに掲載されている料理は光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した。
 光太郎は欧米への留学経験もあることから、オリーブオイル、オーストラリア産のチーズ、アンチョビなど当時の花巻としては珍しい食材も出てくる。光太郎に手作りジャムやケーキを届けた盛岡スコーレ高校の創立者である吉田幾世さんら、食を通じて交流した県人も紹介している。
 藤原代表は「当時の文献 を見ると高村光太郎は牛肉なども食べており、かなりの食通だったことが分かる。カレンダーで高村光太郎をより身近に感じてもらい、記念館などに足を運ぶ人が増えてくれれば」と期待する。
 カレンダーは5月始まりで、見開きA3判、税込み800円。作製した500部のうち、限定100部を販売。道の駅はなまき西南で購入できる。
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記事にある「光太郎の食卓カレンダー」は、花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されたもので、光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたもの。

『マチココ』さん連載に関しては、時折、当方にレファレンス依頼があり、その意味ではちょっとだけ関わらせていただいております。

少し前には「「醢」って何ですか?」。光太郎の日記に「醢」という文字があるそうで。
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調べてみましたところ、「醢」は「かい」と読み、「兎醢」で「とかい」と読むようです。訓読みでは「ししびしお」、「しおから」などと読むとのこと。中国料理系で、「醢」は魚肉、鶏肉、獣肉などを塩と麹に漬けて発酵させたものだそうです。元々は原材料名+「醢」と表記したそうで、日本の平安時代の文献にも「兎醢」「魚醢」「鹿醢」「宍醢」(宍=肉)などの語が見られるということです。どんな感じの料理なのか、今一つイメージが湧きにくいのですが……。塩辛に近いものなのでしょうか。身が兎肉で。

「魚醢」は「魚醤」とほぼ同義だそうで、「魚醤」は醤油のルーツの一つとされ、当方生活圏内の銚子市などでも販売されています。読み方は「ぎょしょう」ですが、「ひしお」と読む場合もあります。

ところで、当方、ワープロソフトは昭和のフロッピーディスクの頃から(笑)「一太郎」を使い続けています。文書作製の際の細かな設定等は「ワード」だと、やってやれないことはないのでしょうが、当方、そのスキルがありません。「一太郎」はかなり極めたので、ほぼお手の物です。最近のニュースでは、法案の作成ミスが、官公庁で「すでに民間では“過去の遺物”となった「一太郎」をまだ使っている」ことが原因だ、というのがありましたが。「一太郎」だろうが「ワード」だろうが、ミスは生じると思うのですが……。

したがって、当方の使っている日本語辞書は「ATOK」。別にジャストシステムさんを擁護する訳ではありませんが、明らかに日本語変換に関しては「IME」より数段上です。上記の「醢」も、「ATOK」では「ひしお」と入力して変換すれば、初期設定の時点で「醤醢」が出て来ます。「IME」では出来ませんでした(何か方法があるのかもしれませんが)。なぜか最も一般的でないであろう「醓」は出て来ます。
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まぁ、はっきり言うと、光太郎等、近代の文献の引用を行うためには、「IME」は使い物にならないという感じですね。一般の方々が普通の文書を作成する分には問題ないのでしょうが。

閑話休題、「光太郎の食卓カレンダー」、「やつかの森LLC」さんサイトから注文できます。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后サダミさんと同道及川善三氏来訪、茸狩の由。初対面、メーレー夫人の毛布を見らる。

昭和22年(1947)10月26日の日記より 光太郎65歳

「及川善三」は「及川全三」の誤りです。岩手にホームスパンを根付かせた及川の弟子の一人が、「サダミさん」こと駿河定見(光太郎の山小屋近くの住人)の姪、戸来サツ子でした。サツ子から、光太郎が所蔵するエセル・メレ作の毛布のことを聞いた及川が訪ねてきたというわけですね。

まずプレスリリースから。

​​明治の洋館で楽しむドリンクフェア「文学浪漫巡り」、6月1日より提供開始

~浪漫を味わうひとり時間 レトロなドリンクフェア~

明治の洋館でカフェ・レストラン・ホテル等を経営する株式会社長楽館(京都市東山区円山町、総支配人:吉田 重人)は、「デザートカフェ長楽館」にて2021年6月1日(火)より「Drink Fair ―文学浪漫巡りー」を開催いたします。

デザートカフェ長楽館は、1909年に建てられた京都市指定有形文化財である洋館「長楽館」の、それぞれ内装の異なる7種のお部屋で、スイーツや軽食、ドリンクを提供しております。

この度、建物と同じく明治時代に生まれた文豪の詩や小説の一節を添えて、夏にぴったりのドリンク5種をご用意しました。太宰治・宮沢賢治・吉井勇・高村光太郎・中原中也の5人の文豪の作品の一節から着想を得たドリンクです。

■背景
昨今のコロナ禍で、旅行の機会の減少、緊急事態宣言に伴う美術館や博物館などの休業により、非日常や歴史浪漫を楽しむ機会が減少する一方で、「ひとりで過ごす時間」は増加の傾向にあります。それを受けて、明治時代の調度品が飾られた洋館内のカフェで、ドリンク1杯から気軽に非日常や歴史浪漫を味わっていただきたいと考えました。

■フェア詳細ページ

■ドリンク紹介(メイン画像:上段左より順に)

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・コーヒーゼリーフロート ¥1,300
「愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。」 太宰治『思案の敗北』
長楽館オリジナルブレンドのアイスコーヒーとコーヒーゼリーにミルクを加えたバニラアイスのフロート。
・パイナップルソーダ ¥1,200
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』 宮沢賢治『やまなし』
生のパイナップルから絞った果汁を炭酸水で割った、パイナップルの果肉のはじけるソーダ。
・ストロベリー・ラ・テ ¥1,200
いのち短し、戀せよ、少女 吉井勇『ゴンドラの唄』
自家製のストロベリーベースにミルクを加え、甘酸っぱいフレッシュないちごを添えたラ・テ。
・シトラスジュレのゆずジュース ¥1,200
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた 高村光太郎『智恵子抄』
レモン・オレンジ・ライム・バジルを煮出したジュレと、ゆずとレモンのすっきり爽やかなジュースにバジルとミントを添えて。
・すももともものティーソーダ ¥1,200
アメリカの国旗とソーダ水とが恋し始める頃ですね 中原中也『初夏』
自家製のすももシロップと、桃のフレーバーティーのティーソーダ。すっきりしたヨーグルトクリームに、フレッシュな桃とピンクペッパーを添えて。

■開催概要
開催店舗:デザートカフェ長楽館
開催期間:2021年6月1日(火)~8月31日(火)
※定休日:6月9日(水)、7月7日(水)・26日(月)~30日(金)、8月25日(水)
営業時間:11:00~18:30(18:00L.O.)
※料金は税込金額です。別途サービス料10%を申し受けます。
※写真は一例です。食材の入荷状況により変更の可能性がございます。
※情勢により、営業時間の変更の可能性がございます。最新の営業時間・休業日はホームページをご確認ください。

■会社概要
商号            : 株式会社長楽館
所在地           : 〒605-0071 京都市東山区八坂鳥居前東入円山町 604
設立            : 1954年9月
事業内容          : レストラン、カフェ、ホテル、宴会場の運営及び結婚式・宴会の企画
煙草王と呼ばれた明治時代の実業家である村井吉兵衛の別邸「長楽館」(1909年竣工)は1986年に京都市有形文化財に指定されています。往時の洋館建築の造りをそのままに、カフェ・レストラン、バー、スイーツブティック、そして隣接する新館にホテルを設けています。
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長楽館の新型コロナウイルス感染症対策について:
 https://www.chourakukan.co.jp/news/post-11706.html
長楽館公式ホームページ:https://www.chourakukan.co.jp/ 

長楽館さん、当方は前を通ったことがあるだけで、入ったことはありません。知恩院さんや祇園さん(八坂神社さん)にほど近く、実に味のあるたたずまいです。光太郎が3年半に亘る欧米留学から帰朝した明治42年(1909)の竣工。昨年、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で取り上げられ、興味深く拝見しました。

そしてシャレオツなドリンク。
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この画像では、左から「すももともものティーソーダ/中原中也『初夏』」、「シトラスジュレのゆずジュース/高村光太郎『智恵子抄』」、「ストロベリー・ラ・テ/吉井勇『ゴンドラの歌』」、「コーヒーゼリーフロート/太宰治『思案の敗北』」、「パイナップルソーダ/宮沢賢治『やまなし』」。多少の無理くり感がぬぐえませんが(笑)、いずれもこの季節にぴったりですね。

「智恵子抄」からのインスパイアというドリンク類、これまでも各地で饗されてきました。「日本酒オリジナルカクテル「ほんとうの空」」(福島県)、「自家製レモンシロップのレモンスプマンテ」(東京都)、それからドリンクではありませんが「安達ハチミツと有機レモンのドレッシング」(福島県)。

今後もこうした取り組み、どんどん為されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

燈下の関係上、明るいうちに何でもしてしまふ事。


昭和22年(1947)10月24日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活、すでに丸2年となりましたが、この時点ではまだ山小屋に電気が通じていません。電線が引かれ、ランプ生活から解放されるのは昭和24年(1949)に入ってからです。

夏場はまだ日が長いのでよかったのでしょうが、10月末とも成ると日没が早まり、大変だったと思われます。

現代アートのインスタレーション情報です。

毒山凡太朗 「反転する光」

期 日 : 2021年5月22日(土)~6月20日(日)
会 場 : LEE SAYA 東京都目黒区下目黒3–14–2
時 間 : 12:00~19:00(日~17:00)
休 館 : 月、火、祝
料 金 : 無料
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毒山凡太朗(どくやま・ぼんたろう)は 1984年福島県に生まれ、2011年3月11日に発生した東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故をきっかけに、作家活動を開始し、「六本木クロッシング 2019:つないでみる(森美術館)」や「あいちトリエンナーレ2019 : 情の時代(四間道・円頓寺エリア、名古屋市)」をはじめ、国内外を問わず精力的に活動を続けてきました。

記憶に新しい昨年開催されたLEESAYAでの個展「SAKURA」では、時代によって「公共」のために利用されてきた桜のもつ、歴史的重層性と政治的多義性に焦点を当て、ナショナル・アイデンティティ、戦争、経済、五輪など様々なテーマに鋭くアプローチした作品群を発表し、大変ご好評をいただきました。

本展は今夏に行われる帰還困難区域ツアープロジェクト「IGENE」のプロモーションを目的とした展覧会です。毒山が作家活動を始めるきっかけとなった原発事故から、9年が経った昨年、初めて故郷・福島の帰還困難区域に入域しました。その経験から、いかにメディアや社会、自分自身がアップデートされていない情報で区域内や原発、福島について語っていたかを痛感し、ツアーの開催を決意しました。参加者と共に各所を巡り、現状についてより理解を深め、リアリティのある議論を交わしたいという作家の想いに弊廊も賛同し、ツアーのプロモーションを助成することといたしました。

展覧会ではツアー内容が垣間見える映像作品と、福島を代表する作家の高村智恵子に、ひとしおの思いを寄せる毒山が、「レモン哀歌(智恵子抄)」を手がかりに新作群を発表いたします。また、ツアーに関する詳細情報の案内や、チケット販売も行う予定です。

ツアーの内容から、公的な助成金などを得ることが難しいため、全て作家が自弁で行う予定です。一人でも多くのお客様にご賛同と温かいご支援を賜りたく、毒山凡太朗の「反転する光」を是非ともご高覧ください。
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毒山凡太朗さん。平成27年(2015)に、福島県いわき市で「毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会「今日も きこえる」」が開催された際、拝見に伺いまして、お会いしました。福島県田村市のご出身だそうですが、二本松市にお住まいだった時期もおありで、小学校は智恵子の母校・油井小学校さんに通われていたそうです。そこで、「福島を代表する作家の高村智恵子に、ひとしおの思いを寄せる」なのでしょう。

いわきの展覧会もそうでしたが、原発事故にさらされた福島への思いを、一貫して作品制作への一つの契機となさっていて、今回のインスタレーションも、今夏開催される帰還困難区域へのツアープロジェクト「IGENE」のプロモーションを兼ねているそうです。

イメージ画像に使われているのは、光太郎ファンにはおなじみの、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に作られた便所の壁に、光太郎自らが彫った明かり取りの穴。まさに「反転する光」ですね。

当方、来週末には「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」のため上京しますので、こちらも廻ってこようと思っております。コロナ感染にはお気を付けつつ、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝弘さん花巻から帰つて来て酢一升買つてきてくれる。「モロツコ」を見、昨夜一泊の由。今日の青年には「モロツコ」は大して面白くなきやうなり。Morocco1930


昭和22年(1947)10月21日の日記より 光太郎65歳

「弘さん」は、山小屋近くの開拓地に入植した青年です。光太郎に心酔し、光太郎もこの青年をかわいがり、時にはこのようにパシリにしていました(笑)。

「モロツコ」は「モロッコ」、昭和5年(1930)公開のアメリカ映画で、マレーネ・ディートリヒ、ゲーリー・クーパーらが出演していました。光太郎は前の週に花巻町に出て、当時あった映画館・文化劇場で観ています。

新刊ムックです。

& Premium特別編集 あの人の読書案内。

2021年6月1日 株式会社マガジンハウス 定価1,500円+税

菊池亜希子、皆川 明、河瀬直美、高山なおみ、綿矢りさ……あの人がもう一度読みたい本。絵本が教えてくれたこと、ときめくマンガ。全439冊、総勢144人が薦める読書ガイド。


本誌の創刊号からこれまでの「読書」にまつわるコンテンツから、本好き144人のおすすめを1冊にまとめました。もう一度読みたい小説やエッセイ、ときめきたいときに読み返すマンガ、思い出の絵本など、素敵な人生の道しるべとなる本が詰まった1冊です。

本誌は『&Premium』2019年10月号「あの人が、もう一度読みたい本」を中心に、2015年2月号「センスのいい人は、何が違う?」、2017年1月号「贈り物と、絵本」、2018年10月号「素敵な人になるために、どう生きるか」、2018年12月号「エレガンス、ということ」、2020年2月号「心と体が、あったまること」に掲載した読書企画を再編集・増補改訂したものです。
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目次

HER/HIS FAVORITE BOOKS あの人の愛読書。
 フグ田サザエ、ガブリエル・シャネル、マリリン・モンロー、 デヴィッド・ボウイ、
 ウォルト・ディズニー、樹木希林

LIBRARY of SENSE センスを磨く読書案内。
 細川亜衣、土岐麻子、渡辺有子、熊谷隆志、松浦美穂、寺尾紗穂、原川慎一郎、
 石塚元太良ほか

TO BE ELEGANT 私に、エレガンスを教えてくれた本。
 江南亜美子、西田尚美、木村綾子、石村由紀子ほか

Long-Sellers 世代を超えて読み継がれる、20世紀の良書。
 『夜と霧』『悲しき熱帯』『センス・オブ・ワンダー』ほか

Books That Inspired Me 私が、もう一度読みたい本。
 高山なおみ、綿矢りさ、皆川明、菊池亜希子、河瀨直美ほか

Reviews 名著を読み解く、読書感想文。
 塩川いづみ、中村佳穂、大森克己、轟木節子、外山惠理、ユザーン

BOOKS for a BETTER LIFE 7歳から45歳、そして人生最期。そのときに読みたい本。
 中野京子、鴻巣友季子、甲斐みのり、いか文庫、森岡督行、最果タヒ、河野通和、
 江南亜美子

Talking About “The" Books 「大人になった今だからわかる本」座談会
 宇多丸、しまおまほ、古川耕

Treasured Magazines 捨てられない雑誌。
 青柳文子、山崎まどか、平野紗季子、森本千絵ほか

Illustrated Cookbooks キッチンで読み返したい、料理の図鑑。
 戸木田直美、鈴木めぐみ

My Inspiring MANGA ときめきたいときに、このマンガを読み返します。
 栗山千明、松田青子、岩井俊二、星谷菜々、光浦靖子、山本浩未、渡辺ペコ、福田里香、
 宇垣美里、片桐仁、武田砂鉄、角田光代、植本一子ほか

MY FAVORITES 29人の、私の思い出の絵本。
 山戸結希、井出恭子、岡尾美代子、川内倫子、柚木麻子、さかざきちはる、安藤美冬、
 石川直樹ほか

Picture Books ぬくもりを感じる、いい絵本。
 末盛千枝子

絵本が教えてくれる大切なこと。
 穂村弘、星野概念、ひうらさとる、美村里江ほか

同じマガジンハウスさん刊行の雑誌『&Premium』に掲載された記事等を再編したものだそうで、雑誌本体が「衣、食、住、カルチャー、それぞれに自分なりの選び方がある大人の女性たちの為の雑誌。クオリティライフ誌・素敵に暮らしている人・上質なものを足していく・大人の女性のため。」というコンセプトなので、執筆者も大半は女性、薦められている「全439冊」も女性向けのものが多い感があります。もっとも、昨今はジェンダー的な部分で「女性向け」「男性用」といった区分には神経質に成らざるを得ませんが(笑)。

デザイナーの皆川明氏が、光太郎の『智恵子抄』(龍星閣新版・昭和26年=1951)、光太郎実弟・豊周の編集による智恵子の紙絵作品集『智恵子の紙絵』(社会思想社・昭和41年=1966)を取り上げて下さっています。
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皆川氏、平成25年(2013)に都内乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さん他で開催された、建築家の中村好文氏による、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を含むさまざまな「小屋」を取り上げた「中村好文展 小屋においでよ!」展に関わっていらっしゃいました。

関連行事として中村氏と皆川氏の対談「小屋から学ぶこと」が、巡回展の金沢21世紀美術館さんで行われましたし、展覧会とリンクして出版された『小屋から家へ』(TOTO出版)の中にもお二人の対談が収録され、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋も紹介されています。

中村 岩手県の花巻に、高村光太郎がひとり暮らしをしていた小屋が残っていて、それこそ粗末な小屋なんですけど、「人の暮らしの気配のようなもの」がひしひしと感じられます。必要最低限のものしかない暮らしぶりがとてもいさぎよく感じられ、「これでいいじゃないか、これで十分じゃないか」と納得してしまうのです。小屋の定義のひとつに、「すまいの原型が見えること」という項目を加えてもいいかもしれません。
皆川 その感じ、よくわかります。小屋の空間の中には最低限の必要なものだけが納まっているということで、余計にそういう気分になれそうな気がしますね。

『智恵子の紙絵』は、この手の書籍としては昭和32年(1957)に筑摩書房さんから出た『智恵子紙絵』(こちらも豊周の編集)に次ぐ初期のものです。

豊周による解説文から。

 智恵子という人が、このような工芸的なものについてどのくらい才能を持っているか、僕は全然知らなかった。兄にとっては、自分の最愛の人であり奥さんでもある人のものだから、惚れ込むのはあたりまえだが、僕には、はたして兄が評価するほど高く評価できるかどうか、絶対的な評価として、いったい兄がいうほど正当なものかどうかということに、一抹の不安があったのだ。(略)ところが、実物を見てこの不安は全く消え去った。日本にいままで例のないユニークさに、まず心を打たれた。(略)そこにあるものは非常にすぐれた工芸家の作品といっても、ちっともさしつかえないものだった。(略)実を言うと初めは、兄が少し手を入れているのではないかとさえ思った。(略)高村光太郎の最愛の妻であったというひとつの仮定を除いて、裸で放り出して見ても、絶対的価値は決して下がらないと思う。

ちなみに今日、5月20日は智恵子の誕生日です。

『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』に戻りますが、末盛千枝子さん、森本千絵さん、栗山千明さんなど、このブログで取り上げさせていただいてきた方々もご執筆。

さらに、宮沢賢治や武者小路実篤など、光太郎と関わった人々の作品も。
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また、絵本や漫画の項も充実しています。美術書、写真集の類も。

ただ、近代のものよりは、現代の書籍の紹介がメインです。そうした意味で、光太郎智恵子らに関わらない書籍はあまり読まない当方としては、インチキですけれど、それぞれの書評を読んで、それらを読んだ気にさせてくれるのでありがたく存じました(笑)。

それにしても、紙の書籍の衰退が叫ばれて久しく、電子書籍的なものの台頭にもめざましいものがありますが、まだまだ紙の書籍も健在、それが無くなることはないのだろうな、と思わせられました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

晴、フトン干、 文部省へ芸術院会員断りのハカキを書く。


昭和22年(1947)10月20日の日記より 光太郎65歳

この後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の昭和28年(1953)にも、芸術院会員への推薦を断っています。











昨日の『福島民報』さんから。

【にほんまつ検定】身近な産業に関心を

 二本松商工会議所は初のご当地検定「にほんまつ検定」の問題を募集している。歴史や文化だけでなく、会社自慢なども可能なのが特徴だ。子どもに古里への関心と郷土愛を高めてほしいとの願いを込めた。問題を通して地元の企業や産業の発信にもつながる。広がりを期待する。
 検定問題の応募は商工会議所の観光振興委員会が二十日まで受け付けている。歴史、文化・芸能、産業、食、観光、言葉、自然、地理、スポーツなどが対象でジャンルを問わない。四者択一の形式とする。応募作を基に委員会が問題を作成し、子どもが取り組みやすいよう「二本松の提灯祭り」などに合わせた検定実施を検討している。
 委員会は作問例を挙げている。「二本松市名誉市民ではない人は誰?(答え・高村光太郎)」「二本松市でお祭りの際などによく作られる郷土料理はどれ?(答え・ざくざく汁)」といったオーソドックスな問題から「二本松御苑は提灯祭りの時に毎年若宮地区で出店を出しているが、一番人気の商品は何か?(答え・デニッシュバー)」など地域の生活や出来事に密着した問題も募るとしている。
 松坂豪智委員長は「検定を受けた子どもが家庭で親に尋ねれば、親も調べるようになる。まず地元の人間が知ることが大切」と話す。提灯祭りの七町の太鼓台が奏でる多彩な祭りばやしの名前や特徴など、答えは学校の授業では分からない。古里に興味を持ち、地域の話題に詳しい子どもが鼻を高くできる問題になるだろう。
 商工会議所が実施するからには、家具や菓子など、二本松が誇る産業の問題も多く組み込んでほしい。名品の製法や匠の技は、日本が誇る「手わざ」に関心を持つきっかけになる。酒造業や醸造業に関する問題も、伝統産業や発酵文化への理解を深める。街に並ぶさまざまな店の自慢の一品なども面白い。
 ものづくり振興の観点からは、工業系の問題をぜひ入れたい。身近な工場でつくられる製品の特徴や、それらが県外・海外に輸出され多くの人の役に立っているのを知ることは、地元企業への就職意欲を高めるに違いない。工業に欠かせない数学の素養では、江戸・明治期に算術の問題図を記して市内の神社や寺に奉納された「算額」という歴史的な遺産があり、問題の素材になりそうだ。
 足元にある知識や素材を掘り起こし、毎年新しい検定問題を作っていけば、時代に合わせて長く魅力を放つ企画になるだろう。
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最初に見出しを見て、「おお、二本松でもご当地検定をやったのか」と思いましたが、さにあらず。これから実施するので、その問題募集だそうで。

そこで問題の例として光太郎の名。ありがとうございます(笑)。調べたところ、同市の名誉市民は、次の通りでした。光太郎の孫弟子にして、霞ヶ城の二本松少年隊像二本松駅前安達駅前の智恵子像などを作られた故・橋本堅太郎氏。女優・一色采子さんのお父さまにして、智恵子をモチーフにした絵も複数描かれた故・大山忠作画伯。そして、放射線医学の世界的権威、故・高橋信次氏。ちなみに福島出身の文化勲章受章者は5人。そのうち2人、大山画伯と高橋氏が二本松名誉市民ということで、二本松率が高いのは驚きです。余談ですが(笑)5人の中には当会の祖・草野心平も含まれます。

各地で、官民問わずご当地検定がいろいろ為されていますね。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で昨年実施された「はなまき通検定」では、光太郎がらみの問題が複数出題されました。また、実施後だいぶ経ってから気づいたので、このブログではご紹介していませんでしたが、群馬県のNPOが主催している「赤城山検定」でも、光太郎の名が、複数年、複数級(3級:入門編、2級:上級編、1級:達人編)の問題に散見されます。
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そして、平成30年(2018)、やはり二本松で開催された「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」。当方も問題作成にあたりました。

探せばもっといろいろあるのでしょう。

さて、「にほんまつ検定」、ぜひとも光太郎智恵子がらみの設問をお願いしたいところですね。続報が出ましたらまたご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

不在中、バケツの中に松茸入れてあり。 夕方サダミさん立寄り、ウエツコをもらふ。「御霊前へ」二包みお渡しす。(二百円)。 夜松茸ウエツコ油いため。中〻美味なり。

昭和22年(1947)10月15日の日記より 光太郎65歳

一週間程山小屋をあけて、花巻町中心街に滞在し、帰って来た時の記述です。松茸を置いて行ってくれた村人がいた、と、何とも気前のいいことで(笑)。「ウエツコ」は岩手の方言でシメジのことです。

昨日の『福島民友』さんから。

残雪踏みしめ頂へ、安達太良山で山開き 山頂でのイベントは中止

 二本松市などにまたがる安達太良山(1700メートル)は16日、山開きが行われた。県内外から詰め掛けた登山客が山頂を目指し、夏山シーズンの到来を告げる日本百名山の登山を楽しんだ。
 新型コロナウイルスの感染防止のため、昨年に続き山頂での行事は全て中止に。安全祈願祭は、山頂の代わりに奥岳登山口で行った。
 低気圧の影響であいにくの曇り空となり、詩集「智恵子抄」につづられた「ほんとの空」も顔をのぞかせなかったが、登山客は残雪を踏みしめるなどして山頂に到達。仲間と共に弁当を広げるなど思い思いに過ごし、山開きを満喫した。
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昨年に引き続き、コロナ感染対策として、山頂イベントが中止ということでしたので、スルーしようと思っていたのですが、「智恵子抄」、「ほんとの空」の語を使われてしまっては、紹介しないわけにはいきません(笑)。

続いて『福島民報』さん。それらの語は出てきませんが。

安達太良で山開き 新型コロナ受けイベントは中止

 日本百名山の一つ、安達太良山は十六日、山開きした。登山者が互いに間隔を空けながら山歩きを楽しんだ。
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため昨年に続いて規模を縮小し、ミズあだたらコンテストなど山頂での行事を中止した。二本松市などでつくる安達太良連盟による安全祈願祭があだたら高原スキー場ランデブーで行われた。
 七カ所の登山口のうち、メインの奥岳登山口からはマスク姿の登山者がロープウエーや徒歩で山頂を目指した。ショウジョウバカマの桃色のかれんな花やハクサンシャクナゲのつぼみを眺め、残雪を踏みしめながら一歩一歩登った。
 標高約千七百メートルの山頂付近は霧が流れ、雄大な景観は望めなかったが、登山者は歩く喜びを満喫した。福島市の会社員紺野徹也さん(58)は家族三人で登頂し「昨年も登ったが今年は雪解けが早い。山は風が通り、ソーシャルディスタンスも取れるのでいい」と話していた。
 山開きの記念ペナントは密を避けるため、前日から配布した。
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山頂でのイベントは中止となったものの、入山規制がかかっているわけではないので、登られた方は多かったようですね。

「屋外だから」と油断せず、楽しんでいただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】003

午前買物、モノゲンを見つけ買ふ、高価なれど(百匁一五〇円)品質よささう。悠文堂にて新約聖書を求める。


昭和22年(1947)10月14日の日記より
 光太郎65歳

「モノゲン、懐かしい!」と思ったら、ところがどっこい(死語ですね(笑))、いまだブランド名は存続していました。ただし、現行のものは液体洗剤のようですが。画像を見て「懐かしい!」と言えるのは、一定以上の年代の方でしょう。ただ、昭和20年代にこのヒツジのイラストがあったかどうかまでは調べていませんが。

悠文堂」は書店でしょうか。調べたのですが、わかりませんでした。

直接、光太郎智恵子らには関わりませんが……一昨日の『福井新聞』さん記事から。

東日本大震災の津波で流された旧JR女川駅を精密復元 福井県の模型作家

 福井県福井市在住のミニチュア模型作家タカマノブオ(本名高間信夫)さん(58)が、東日本大震災で津波により流された旧JR女川駅(宮城県女川町)の模型を制作し現地に贈った。被災者を元気づけようと、同町で模型展を開いたのが縁。高間さんは「町の玄関口である駅舎での楽しかった思い出を懐かしんで、笑顔になってもらえたら」と願いを込めている。
 高間さんは、アニメや映画に登場する建物の模型を制作する作家として活動している。
 福井地震から70年を迎えた2018年6月、当時の被害を伝える新聞記事を読み、東日本大震災の被災地で展示会を開こうと思い立った。地震や水害など災害に苦しんだ福井という街に住むだけに、東北地方の被害が人ごとでないと感じたという。「模型を見て、ほんのひとときでも笑顔になってもらいたい」との思いで今年3月、仙台市と女川町で模型展を開いた。
 女川町での開催へ協力を得ていた関係者から昨秋、「女川町にまつわる建物の模型を作ってほしい」との依頼を受けた。当初は「惨劇を今すぐにでも忘れたいと思う人もいるであろう中、模型を制作していいのか」と迷ったという。しかし「駅には誰もが楽しい思い出があるはず」と思い直し、旧女川駅の復元模型の制作を決めた。
 約1カ月間かけて図面を作り、今年1月から制作を開始。より正確に再現しようと連日、現地の人たちと連絡を取り意見を求めた。
 模型は45分の1の縮尺。土台は約60センチ四方で、駅舎の高さは22センチ。瓦屋根一つ一つなど駅舎の外観や内部が精密に作られているのはもちろん、駅の前に駐車するタクシーや駅舎内の自動販売機なども作り、当時と同じ位置に設置している。
 記憶をたどって懐かしんでもらおうと、震災前にSLホエール号がJR石巻線の小牛田―女川間を記念走行したことを表すプレートを、模型の背面下に備え付けた。
 完成した模型は今月初めに送り、13日に東北電力女川原発・地域総合事務所へ届いた。今後、同発電所や町内の行事などで展示される予定。
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画像と動画を見て、「おお、懐かしい!」と思いました。

平成3年(1991)に建立された光太郎文学碑を見るため、同6年(1994)頃、当時は高速道路等も未整備で、公共交通機関で女川に参りました。光太郎智恵子の足跡を辿る旅の一環で、栃木の那須や福島二本松を廻ったあとで、小牛田から女川行きの石巻線に飛び乗ったのがもう宵の口。ワンマンカーで料金後払い、いざ、女川駅に着いて支払おうとしたら、財布には万札しかなく、運転手さんに「えー、お釣りありませんよ」と言われました。「じゃ、そこらで崩してきます!」というわけで、一旦駅から出て細かいお金を作って支払った記憶があります。

その際に駆け下りた階段。
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「ああ、こんなだった」と、涙が出そうになりました。その夜は女川の旅館に飛び込みで一泊、翌朝、光太郎文学碑を拝見しました。

その他、駅の正面玄関など。
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こちらは現在の女川駅に掲示されている、震災前の写真です。
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記事にもあるとおり、タカマさん、これまでに仙台と女川で展示会を開催されたそうで、そちらはアニメ等に登場する建物だったとのことですが、そうなると、我が町のモニュメントを、というのは人情ですね。

震災から10年、もう、あの日々は戻ってきませんし、タカマさんもおっしゃるように「惨劇を今すぐにでも忘れたいと思う人」にとっては、辛い記憶を呼び覚まされるかもしれませんが、美しい回想、楽しい思い出も、きっと甦るはず。

今後のこの模型の有効活用を願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

夕方六時頃夕食にしてもらひ、食後すぐ出かけて清六さん方にゆき、清六さんの案内にて郡農会にゆく。「レコードコンサート」、会衆三、四十人。電圧低きためか、レコードの音あまり良からず。久しぶりにブランデンブルグをきく。

昭和22年(1947)10月13日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋を1週間程あけ、花巻町桜町の佐藤隆房邸に厄介になっていた時の記述です。

「清六さん」は賢治実弟の宮沢清六。「ブランデンブルグ」はJ・S・バッハの名曲ですね。光太郎はことのほかこの曲を好み、花巻郊外旧太田村の山小屋周辺を歩いている時に、幻聴でこの曲を聴いたというエピソードがありますし、後に詩「ブランデンブルグ」(昭和23年=1948発表)も書いています。

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