智恵子の故郷、福島二本松に聳える安達太良山の、あだたら高原スキー場から出されたプレスリリースです

「あだたら高原スキー場」12月26日(土)営業開始!「雪だるまカレー」や「ADTR(あだたら)丼」など、“ゲレンデ飯”が充実!

 富士急安達太良観光株式会社では、「あだたら高原スキー場」(福島県二本松市)の今シーズンの営業を、2020年12月26日(土)より開始いたします。

 あだたら高原スキー場は、最大傾斜28度の緩急ある「ベガコース」やスキー競技大会で使用される「アンドロメダコース」をはじめ、バリエーション豊かな7種類のコースがあり、ファミリーから上級者までお楽しみいただけます。また、ゲレンデには広々とした雪遊び広場や、ソリ遊びやチュービングが楽しめるキッズパークがあり、小さなお子さまでも安心して遊ぶことができます。そして、スキー・スノーボードを楽しんだ後は、安達太良山麓に広がるさわやかな高原の日帰り温泉施設「あだたら山 奥岳の湯」で、疲れた身体を癒すこともできます。

 本年は食事タイムもお楽しみいただけるよう、新たに4種類のメニューを販売いたします。がっつり食べたい方には、唐揚げやとんかつ、ハンバーグ、コロッケが豪華に盛られた総重量1kg超えの「ADTR(あだたら)丼(A:ありえないほど、D:でかい、T:とんでもない、R:量の丼)」や「ロコモコ丼」の他、お子さまにも満足していただけるよう、自分でデコレーションし世界に一つだけの雪だるまが作れる「雪だるまカレー」や、冷えた体を温める「マシュマロココア」などが登場いたします。

 さらに、お得にスキーやスノーボードをお楽しみいただけるよう、マイカーでお越しの方向けに、高速道路のETC利用料金が割引になる「ドラ割ウィンターパス2021」も実施いたします。

 また、年末年始には年越しそばを振る舞う他、リフト1日券が割引になる特別券のプレゼントや宝探し大会といったお楽しみイベントを開催いたします。さらに、毎週木曜日はレディースデー、毎週金曜日はシニアデー、毎月第3日曜日をスキー子供の日として、リフト1日券が割引になる感謝デーを設定しています。

 あだたら高原スキー場では、ご来場いただく全てのお客様に安心してお楽しみいただけるよう、感染症対策を徹底しております。この冬は、阿武隈の山々を見渡す抜群のロケーションと美しい樹林に囲まれた「あだたら高原スキー場」で、ウィンタースポーツをお楽しみください。
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今シーズンのトピックス
■小さなお子さまでも安心して楽しめるスキー場
(1)雪遊び広場
 長さ100m・幅30mの広々とした雪遊び広場は、雪山に登ったり、雪だるまを作ったり、気軽に雪あそびを楽しんでいただける無料のゲレンデです。一般ゲレンデから独立しているため、小さなお子さまでも安心して遊んでいただけます。
(2)キッズパーク
 スノーエスカレーターが設置されたキッズパークには、長さ50mのソリすべりコースと長さ50mのチュービングコースがあり、スノーアクティビティを楽しむことができます。
(3)スキーこどもの日
 1月、2月の第3日曜日を「スキーこどもの日」として設け、小学生以下のお子さまのリフト1日券が2,300円から1,000円になる他、雪の中に埋まった宝を探して賞品をゲットする宝探し大会も開催いたします。

■ゲレンデ飯で、お腹いっぱいに!
 ゲレンデで思いっきり遊んだ後は、富士急レストハウスであったかグルメをお楽しみください。今シーズンは、新メニューが4種類追加。唐揚げやとんかつ、ハンバーグ、コロッケが豪華にトッピングされた総重量1kg超えの「ADTR(あだたら)丼(A:ありえないほど、D:でかい、T:とんでもない、R:量の丼)」や「ロコモコ丼」の他、お子さま向けに、ライスの上に自分でトッピングをデコレーションし世界に一つだけの雪だるまが作れる「雪だるまカレー」、冷えた体を温める「マシュマロココア」を販売いたします。

■お得に楽しめる交通商品
「ドラ割ウィンターパス2021」
 首都圏、新潟、仙台エリアを対象に、スキー場までの高速道路をETCでご利用いただくと、利用料金が割引になる商品です。さらに、リフト1日券も割引になる優待特典も付いています。
<ご利用例>
東北自動車道 川口JCTからご利用の場合(普通車
東北自動車道 川口JCT ⇒ 東北自動車道 二本松IC ⇒ 東北自動車道 川口JCT
通常料金:10,030円 ⇒ ドラ割料金:8,700円
※通常料金より、1,330円お得。
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■年末年始イベント
 あだたら高原スキー場では、年末年始にかけて様々なイベントを実施いたします。
(1)年越しそばの振る舞い
 年明けに向けて、年越しそばを振る舞います。
 開催日:12月31日(木)
 時間:15:00~16:00
 参加方法:リフト1日券を定価でご購入いただいたお客様 ※先着200名
(2)お年玉プレゼント
 1日券が1,000円引きになる特別割引券をプレゼントいたします。
 開催日:1月1日(金祝)~3日(日)
 参加方法:リフト1日券を定価でご購入いただいたお客様
(3)宝探し大会
 雪の中を掘り起こして、素敵な賞品をゲット。
 開催日:1月1日(金祝)~3日(日)
 時間:13:30~
 参加料:無料
 対象:小学生以下のお子さま

2020-2021シーズンの営業概要
1.営業期間
 2020年12月26日(土)~ 2021年3月14日(日)※予定
2.定休日
 1/6(水)、12(火)、13(水)、2/24(水)、25(木)、3/2(火)、3(水)、9(火)、10(水)
3.営業時間
 平日9:00~16:00
 土日祝 8:30~16:30(12/30~1/4は土日祝で営業)
 ※詳細はHPをご確認ください。http://www.adatara-resort.com/ski/
4.料  金
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 ※大人は高校生以上、小人は3歳~小学生、シニアは50歳以上(要証明)が対象になります。
5.ゲレンデ
 ■コース数 7本
 A.アンドロメダ(中級)700m   斜度/最大 23°、平均 14°
 B.ヘラクレス(中級)700m    斜度/最大 23°、平均 17°
 C.シリウス(初~中級)700m   斜度/最大 28°、平均 18°
 D.ベガ(上級)700m       斜度/最大 28°、平均 20°
 E.アルタイル(初~上級)600m  斜度/最大 28°、平均 18°
 F.ジェミニ(初~中級)800m   斜度/最大 20°、平均 15°
 G.ペガサス(初級)450m     斜度/最大 18°、平均 13°
 ■リフト数 4基
 1.オレンジライン   クワッドリフト(4人乗り)/510m
 2.ブルーライン    ペアリフト/350m
 3.バイオレットライン ペアリフト/450m
 4.ゴールドライン   ペアリフト/760m
6.お問い合わせ
 福島県二本松市奥岳温泉 TEL:0243-24-2141
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​・感染症予防対策の取り組みについて
 「あだたら高原スキー場」では、「三密対策」と「お客様・スタッフの健康管理」の2つを軸に感染症予防対策を徹底しております。施設全体としては消毒液の設置や屋内施設の換気、リフト乗車時は間隔をあけてお並びいただき、グローブの着用を必須とさせていただきます。レストランでは飛沫感染防止用パネルの設置に加え、キャッシュレス決済を推奨といたします。
 また、全ての従業員は出退勤時に体温や健康状態のチェックを行い、37.5℃以上の発熱や体調不良が見受けられた場合出勤いたしません。また、全ての従業員は必ずマスクを着用し、施設に応じてフェイスシールドや使い捨てゴム手袋を着用させていただきます。

・大好評、絶景の露天風呂「あだたら山 奥岳の湯」も営業中!
 標高約950mに位置する「あだたら山 奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と詠ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。
【施設概要】
・所在地:福島県二本松市奥岳温泉
・営業日:年中無休※メンテナンス休業あり
・営業時間:10時00分~18時00分
・施設内容:収容可能人数80人(男女各40人)
      内湯(9㎡)、露天風呂(20㎡) ※男女別
・利用料金:大人650円/小人(4才~小学生)450円
・pH値:2.5(強酸性)
・泉質:単純酸性温泉
・適応症:神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性消化器病・冷え性・疲労回復健康増進
     慢性皮膚病
・アクセス
 車 /東京から東北自動車二本松IC(約150分)
    国道459号岳温泉経由・県道386号(約20分)
 鉄道/東京駅→郡山駅(東北新幹線約90分)
    郡山駅→二本松駅(東北本線約25分)
    二本松駅→岳温泉(福島交通バス約25分)
    岳温泉からタクシー約10分
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コロナ禍の中、「ぜひ足をお運び下さい」と、積極的にお薦めはしにくいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

午后、佐藤昌先生宅をいでて、佐藤隆房先生宅に移転す。離れの二階二間なり。

昭和20年(1945)9月10日の日記より 光太郎63歳

8月10日の花巻空襲で、疎開先の宮沢家を焼け出され、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に1ヶ月厄介になっていましたが、さらにそこから花巻病院長・佐藤隆房宅に移った記述です。

佐藤家では離れの二階を借り、すぐ近くを流れる豊沢川のせせらぎからの連想で、ここを「潺湲(せんかん)楼」と名付けました。ここでも約1ヶ月を過ごし、その後、郊外太田村に移ることになります。
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フェイスブックで広告が出ていまして……

レモン哀歌 ロングスリーブTシャツ

突っ込みどころ満載のワンフレーズシリーズです。

アイテム本体 ロングスリーブTシャツ 5.6オンス
素材・材質  綿100%(ミックスグレーのみ:綿90%・ポリエステル10%)

定価2,340円+税(一部カラーでは、発色をよくするために下地に白インクを用いるので価格が高くなります。)
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ロングスリーブTシャツの他に、パーカー、半袖Tシャツなども。また、「ガリリと噛んだ」レモン哀歌以外にも、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」シリーズも。
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こちらは「SUZURI」さんというサイトでの提供商品。少し前にご紹介したサコッシュなどもそのようですが、個人でデザインし、作成・販売が出来る「無料オリジナルグッズ」的なもののようです。

突っ込みどころ満載」、確かにその通りですね(笑)。突っ込まれる勇気のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后二時花巻病院の災害時に敢闘せし職員の表彰式に出席 昨日書きたる詩を朗読す。

昭和20年(1945)9月5日の日記より 光太郎63歳

災害」は8月10日の花巻空襲、「昨日書きたる詩」は「非常の時」です。

光太郎の疎開に一役買った佐藤隆房が院長を務めていた総合花巻病院では、医療従事者達が自らの危険を顧みず負傷者の救護に当たり、のちにその話を聞いた光太郎はその奮闘を讃え、詩「非常の時」を贈りました。今年、その内容がコロナ禍に立ち向かう医療従事者にかぶるということで、今年また注目を集めました。

新刊です

歌人番外列伝|異色歌人逍遥

2020年11月16日 塩川治子著 短歌研究社 定価2,500円+税

「この一集は塩川さんのウィットに富む眼差しにより、信濃はもとより日本の歴史、文化をより豊かに語り伝える才筆の一集である」(春日真木子・序)

他分野で名を成すとともに、独自の歌境を切り拓いた二十世紀の「番外歌人」たち。
歴史上の人物が残した歌を辿る「異色歌人逍遥」。
多くの文化人が集った軽井沢に居を構えて四十余年、数々の交流の思い出も交えつつ、歌集を繙いてゆく────
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目次003

序 春日真木子
【歌人番外列伝】
 一 回生の人──鶴見和子
 二 越しびと──片山廣子
 三 孤涯の人──小林昇
 四 琉球の女──久志富佐子
 五 不知火の人──石牟礼道子
 六 博士の面影──河上肇
 七 歌あらば──二人の死刑囚
 八 剣に代ふる──尾崎咢堂
 九 歌の孤立者──大熊信行
 十 白斧の人──高村光太郎
 十一 涙の歌人──堀口大学
 十二 夢のうたびと──福永武彦
 十三 政塵の人──井出一太郎004
 十四 科学者の憂い──湯川秀樹
 十五 土佐の女──大原富枝
 十六 理論と詩──石原純
 十七 ラケットをもった貴婦人──朝吹磯子
 十八 知の巨人の愛──加藤周一
 十九 ざんげ歌の哀しみ──小原保
 二十 実りのひとつ──宮沢賢治
 二十一 農民とともに──若月俊一
 二十二 太陽でありたかった女──平塚らいてう
 二十三 この世の外──大伴道子
 二十四 火の国の女──高群逸枝
 二十五 忍ぶ女ひと ──津田治子
 二十六 ロマンの人──中河与一
 二十七 叫ばむとして──宇佐見英治
 二十八 残夢──徳富蘇峰
 二十九 斜陽の女──太田静子005
 三十 草雲雀の人──立原道造
【異色歌人逍遥】
 一 紫式部
 二 源実朝
 三 樋口一葉
 四 只野真葛
 五 本居宣長
 六 高井鴻山
 七 賀茂真淵
 八 上田秋成
 九 道元
 十 良寛
あとがき

光太郎を始め、いわゆる専門の「歌人」ではない人々の短歌を紹介し、論評を加えています。元々雑誌『雅歌』に連載されていたもののようですが、存じませんでした。

光太郎の項は「白斧の人──高村光太郎」という小題。「白斧」は、昭和23年(1943)に刊行された光太郎歌集の題名です。上記目次脇にスペースが出来てしまったので画像を載せておきました。上は通常版、下は特製限定本(850部)です。特製限定本には光太郎の揮毫を写真製版したページが4ページ。一番下の画像がそのうちの1ページで、明治39年(1906)、留学のため渡米する船中で詠んだ「地を去りて七日十二支六宮のあひだにものの威を思ひ居り」が書かれています。

『白斧』という題名は、明治37年(1904)の『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛ですが、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しら)に涙ながれぬ」。

さて、「白斧の人──高村光太郎」。この「刻むべき……」に始まり、明治末から晩年までの20首ほどを取り上げつつ、光太郎の歩みを簡略に紹介しています。短歌はその名の通り短いので、それらを引きつつ生涯を俯瞰するというのは、紙幅もそれほど取らずにすむので、なるほどと思いました。これが詩ですとそうはいかないでしょう。

特に目新しいことは書かれていなかったのですが、ただ、引用されている短歌に、『高村光太郎全集』等にみあたらないものが1首。

いたづらに世にながらへて何かせむこの詩ひとつに如かずわが歌

というものですが、当方、存じませんでした。出典や初出掲載紙といった情報が書かれておらず、何かご存じの方はご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

午前六時24分花巻駅発盛岡行。細雨。


昭和20年(1945)8月25日の日記より 光太郎63歳

終戦からまだ10日ですが、早くも講演を頼まれ、初めて盛岡に行きました。この際に見た岩手山の印象が、詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に反映されているのではないかと思われます。

光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』。月2回の発行です。今月15日号で、8月にオープンした道の駅「はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」に関する記事が出ています

賢治さんのまちづくり 第93回 宮沢賢治と高村光太郎

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、宮沢賢治と深いつながりを持つ人物です。今回は二人の縁について紹介します。
 賢治の作品で生前に発刊されたのは詩『春と修羅』と童話『注文の多い料理店の』2作品。このうち『春と修羅』を詩人・草野心平から薦められた光太郎は、その世界観に魅了され、以降文通により賢治や心平と交流を深めました。光太郎は、賢治の死後も「賢治全集」の編集や装丁のほか、花南地区にある「雨ニモマケズ」詩碑の揮毫(きごう)などを行っています。
 昭和20(1945年)、東京の自宅兼アトリエを空襲で失った光太郎は、賢治の父・政次郎や弟の清六を頼って花巻の宮沢家に疎開しました。しかし疎開先の宮沢家も空襲で焼失。その後、光太郎は太田の小屋(高村山荘)で7年間過ごし、その間には地域の人々との交流もありました。
 道の駅はなまき西南は、高村山荘がある花巻西南地域に建てられ、8月7日にオープンしました。多くの人が立ち寄り、西南地域に新たなにぎわいを創出しています。
 一般公募により「賢治と光太郎の郷(さと)」という愛称が付けられた同施設。休憩スペースには、賢治と光太郎とのつながりが記されたパネルが展示されています。皆さんもぜひ立ち寄ってご覧ください。

【問い合わせ】本館賢治まちづくり課 (☎ 41-3890)
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また、今年一年の回顧的なページでも

▲道の駅「はなまき西南」がオープン

 西南地域に道の駅「はなまき西南」がオープンしました。同施設は道路利用者への安全で快適な道路環境を提供するほか、地域を支える拠点としての役割を担います。
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花巻方面にお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さい。

花巻といえば、昨夜、花巻高村光太郎記念館の方から届いたメールに、昨日の同館周辺の画像が添付されていました。
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すごいことになっていますね(笑)。80㌢ほど積もっているそうですし、雪の重みで倒れた木も一本あるとのこと。「きっと光太郎は喜んでいるでしょう」ということですが、「冬の詩人」と言われる光太郎、その通りかもしれません。

【折々のことば・光太郎】

松庵寺にて一枚起請文をもらふ。

昭和20年(1945)8月23日の日記より 光太郎63歳

004松庵寺」は花巻市街にある浄土宗の寺院です。ほぼ毎年、光太郎はこちらで智恵子や父・光雲の法要を営んでもらっていました。そうした縁から、今年はコロナ禍で中止となりましたが、4月2日には花巻としての連翹忌を開催して下さってもいます。

この年にはずばり「松庵寺」という題名の詩も書かれました。

   松庵寺

 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました


境内には、佐藤隆房の揮毫によるこの詩の碑も建っています。

光太郎の手元に残された控えの詩稿欄外のメモ書きによれば、執筆は「昭和二十年十月五日下書、二十二年六月清書」。ところが、この年の松庵寺での法要は日記によると10月10日。そこで『高村光太郎全集』のこの詩の解題では、「制作の日付には疑問が残る」となっています。

しかし、謳われている情景が10月10日の法要ではなく、上記の8月23日のことであれば、10月5日執筆でも矛盾はありません。ただ、そうなると詩の中の「秋の村雨ふりしきるあなたの命日」と一致しません。智恵子命日(レモンの日)は10月5日です。8月23日では月命日とかにもなりませんし……。

やはり光太郎が日付を書き間違えたということなのでしょうか。または下書きと清書の間で、かなりの変更があったのかもしれません。8月23日、10月10日双方の出来事を一篇にまとめてしまったというようなことも考えられます。


福岡に本社を置く『西日本新聞』さん、先週掲載された記事です

「焦らず、恐れず」ステイする気魄を コロナ禍で求められる極意とは

000 木と木の間に張ったベルトの上を悠々と渡っていく。曹洞宗僧侶の藤田一照(いっしょう)さん(66)は、ベルト渡りが日課のひとつ。緊張と弛緩(しかん)の絶妙なバランス感覚は宙に浮いているかのようだ。「うまく乗ろうと思わず、力みを抜いて、ただ乗せてもらう」ことが極意らしい。
      ×××
 一照さんが実践しているのは仏教で言う「不放逸(ふほういつ)」の状態。力まず、しかし意識が隅々まで行き渡っているこの自然体こそ坐禅(ざぜん)でも目指す姿勢で、仏教の智慧の形なのだという。
 「くつろぎながらも目覚めていて、その時々で何が起こっているかを認識する。この平常心こそ、今求められる感性であり、知性だと思います」
 感染症の拡大で先行きが見えない今、藤田さんはあらためて「動じない自分の軸と足元の確かさ」の必要性を、オンラインのトークも介して呼びかけている。
 一照さんは愛媛県で生まれ、東大大学院で発達心理学を研究中に禅の道に出合った。兵庫県の修行道場安泰寺で6年間修行し、33歳で渡米してマサチューセッツ州の禅堂で17年半、住持を務めた。帰国後は寺や檀家(だんか)は持たず、神奈川県葉山町で別荘の管理人をしながら坐禅を指南している。
 2013年に刊行した僧侶の山下良道さんとの共著「アップデートする仏教」(幻冬舎)は世に一石を投じた。葬式や法要に象徴される世俗化した仏教や、近年「マインドフルネス」として流行している自己啓発のための仏教を超えた、現代人にとって本当に意味のある仏教の形を探求している。コロナ禍は、その課題を切実にした。
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 戦後日本の仏教のもろさをあらわにしたのは、1990年代のオウム事件だった。極端な教義を説く教団が悩みや焦りを抱えた若者たちの受け皿になり、修行の名のもとに破壊行動に至った。当時修行中だった一照さんも衝撃を受けた。
 「一生懸命修行した結果がああなるのかと、すごくショックを受けました。僕らの世代が起こした事件で、他人ごとではなかった」
 ブッダが最後に残した有名な言葉がある。「怠らず修行を完成させなさい」。「怠らず」は原語のパーリ語では「アッパマダー」と表現し、「パマダー=酩酊(めいてい)状態」の否定語で、「目覚めている」を意味する。
 「一生懸命頑張るだけでなく、自分の行動に自覚的であること。攻撃的でも逃避でもないアッパマダー、つまり『不放逸』の態度こそ、ブッダが伝える修行の姿だったと思います」
 オウム事件の後、日本社会は一時宗教へのアレルギー反応を見せたが、東日本大震災では弔いのための宗教が求められた。今回のコロナ禍では法事や伝道、祭りなど各種行事が自粛に追い込まれ、宗教は事実上、不要不急と見なされている。一照さんは「コロナは医療や経済だけではなく、宗教問題」だと強調する。
 「身過ぎ世過ぎの問題だけでは済まされない。生きる意味を問い、人生の方向性が定まらないと、ただ生きているだけ。祭りなどエネルギーを発散し、神仏と交流するハレの場がなくなることも、じわりと影響を及ぼしてくるはずです」
      ×××
 今回の感染拡大で定着した「ステイホーム」という言葉にも、一照さんは生きる本質を見ている。仏教では「家」を「畢竟帰処(ひっきょうきしょ)」と呼び、最終的な拠(よ)り所(どころ)を指す。それは「本来の自己」であり、そこにステイする(居る)ためには生きる底力である「気魄(きはく)」が不可欠だという。
 一照さんは今年、高村光太郎の詩「道程」を何度も読み返した。
 <僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ 父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため>
 自然から気魄を授かり、前人未到の道を歩く覚悟に燃える詩に、一照さんは初心の心構えを読み取る。
 「感染症によってすべての人が未曽有の状況に投げ込まれている今、一人一人が柔軟でオープンな初心に戻り、『感じる知性』を磨いて自分の足で前に歩んでいく覚悟が必要です」
 焦らず、恐れず。不慣れで不確実で、不確定な毎日が続く今、一照さんのベルト渡りは一歩一歩が無心で、いつも新しい、「初心のススメ」なのだ。

確かにこういう時代こそ、耽美的、芸術至上的な詩より、ある意味無骨で述志的、しかしポジティブな光太郎の詩、と思います。

【折々のことば・光太郎】

太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。

昭和20年(1945)8月21日の日記より 光太郎63歳

この年秋から7年間を過ごす花巻郊外太田村山口地区に、初めて足を踏み入れた記述です。この時点で既に移住の決意は固く、山小屋を建てる場所もある程度決め、土地の所有者で、地区のまとめ役でもあった駿河重次郎宅に挨拶に行っています。

「校長先生」は、この時、宮沢家を焼け出された光太郎を住まわせてくれていた、元旧制花巻中学校長・佐藤昌です。

情報を得るのが遅れまして、もう会期も終盤ですが……。

コレクションの50年

期 日 : 2020年9月19日(土)~12月20日
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9時30分−17時
料 金 : 一般520(410)円 大学生300(260)円 ( )内20名以上の団体料金
      高校生以下、65歳以上、障害者、県内に在学中の外国人留学生無料

和歌山県立近代美術館は、1963年、和歌山城内に開館した和歌山県立美術館を前身として、1970年、和歌山県民文化会館1階に開館しました。「近代」を冠した国公立の美術館としては、日本で5番目の館となります。同会館で23年間の活動を続けたのち、1994年に現在の場所へ新築移転し、今年開館50年を迎えました。それを記念して開催する本展は、和歌山県立美術館時代に収蔵した作品83点を引き継ぎ、その後半世紀にわたる活動のなかで、約13000点の作品を収蔵するまでになった当館のコレクションの歩みを、選りすぐりの作品を通してたどります。当館のコレクションは、郷土の美術家を掘り起こすことから始まり、関西から日本、さらに世界へと目を広げるとともに、版画という専門分野の開拓から世界的なコンクールとなった和歌山版画ビエンナーレ展の開催を含め、地域を基礎とする活動を継続するなかで形づくられました。多くの人に支えられながら築かれたコレクションの豊かさを、改めてご覧いただきたいと思います。

そして会期後半からは「美術館を展示する 和歌山県立近代美術館のサステイナビリティ」を開催し、作品収集にとどまらない美術館活動を振り返ります。展覧会、教育普及など、幅広くもそれぞれが関連した多面的な美術館活動と、それらを支える地域とのつながりにも目を向け、これからの50年、さらに100年を見据えた美術館を考えるための機会といたします。
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001光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が出ています。若き日の佐藤が光太郎に依頼して描いてもらったもので、これを機に、佐藤は光太郎との交流を深めていきます。一時疎遠になったものの、光太郎晩年には最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作者として、佐藤が光太郎を推薦したことなどもあり、交流が復活しました。佐藤は当会の祖・草野心平ともども「連翹忌」の名付け親の一人ともなりました。

この絵を描いてもらった経緯、モデルを務めていた間の光太郎とのやりとりなどは、佐藤の『小説髙村光太郎像』(昭和31年=1956)に詳細が語られています。

光太郎が油彩で描いた自画像ではない他者の肖像画は5点ほどしか現存が確認出来ていません。そのうちの1点。貴重なものです。

ちなみに他の油絵による肖像画は以下。
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左は「松岡玉治郎像」(大正2年=1913)。松岡は上高地の案内人です。右は「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)。新潟佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女で、3歳で夭折した道子の肖像。こちらは写真から描かれました。
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親友だった水野葉舟の両親、水野勝興・実枝夫妻(大正6年=1917)。

005それから近所に住んでいた美術評論家・関如来の著書『五色の酒』(大正3年=1914)の口絵に使われた関の肖像画。キャンバスではなくスケッチ板に短時間で描かれたそうです。

こちらは当方、現物を見た記憶がありません。手元の書籍類にカラー画像も見当たらず、現存しているのかどうか不明です。ただ、サイズが「43×31.3㌢」と明記されていて、亡失作品であればそれも変な話ですし、どこかに現存しているのかも知れません。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

佐藤春夫像を含め、これらすべて大正前半の作です。この頃、光太郎が油絵の頒布会を行っていたことにも関わるのでしょう。

さて、和歌山の「コレクションの50年」。今週いっぱいですが、お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

佐藤勝治氏来訪、山口へ小屋を建つる事を依頼、


昭和20年(1945)8月15日の日記より 光太郎63歳

昨日ご紹介した玉音放送を聴いた件の前に、この一節があります。

佐藤勝治は花巻郊外太田村山口地区の山口分教場の教師でした。太田村移住は佐藤の薦めによるところが大きかったようですが、終戦と同時に、東京へは帰らないという決断をしていた点が興味深いところです。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第23号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊号以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で「光太郎レシピ」という連載が為されていますが、今号は「リンゴとサツマイモのケーキ」。
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意外と光太郎はスイーツ好きだったようで、戦前の文章にもそうした記述がありますし、今号で紹介されていますが、戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋で、ケーキを自作していたとのこと。昭和22年(1947)の日記には「午後シヨートケーキをつくりくふ。」の一文があります。あのぼろぼろの小屋でどうやって作っていたのか、ちょっと想像ができませんが(笑)。

山小屋でケーキといえば、以前にも書きましたが、昭和26年(1951)の日記には「昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。」の記述があります。数ある光太郎笑えるエピソードの中でもポイントの高いものの一つです(笑)。

リンゴに関しては、宮沢賢治の教え子で、花巻で林檎園を経営していた阿部博とのからみ。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。
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甘く酸っぱいリンゴの味と人生の甘酸との掛詞で、ザブトン一枚ものです(笑)。

また、光太郎は阿部に、即興で詠んだ「酔中吟」という詩も揮毫して贈りました。
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「たいしよ」は「大将」ですね。のちに阿部はこの書を石碑に刻み、リンゴ園の敷地に建立しました。
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昨年開催された市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で、花巻、北上の光太郎碑を案内して歩いたのですが、この碑も行程に入れていただきました。

こちらのリンゴ園では、この揮毫から文字を採ったリンゴジュース「阿部のたいしよ」を販売していたとのこと。『マチココ』さんの画像にも写っています。
リンゴジュースのラベル
現在はやめてしまったそうですが、ぜひ復刻していただきたいものです。

ちなみに『マチココ』さんの撮影、こちらのリンゴ園内にあるレストラン「わいんさっぷ」さんで行われたとのこと。
リンゴ園のカレー屋さん表札 阿部リンゴ園
牛すじカレー
牛スジカレーが人気だそうです。

また、花巻高村光太郎記念会さんから、こちらのリンゴも送っていただきました。
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まだ手を付けていません。それ以前にも、石鳥谷地区産のものを送っていただき、そちらを食べているところです。
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ちなみに特にこの時期、全国から色々なものが届きます。ありがたし。
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積んである一番下が阿部さんのリンゴ、その上が石鳥谷地区産のリンゴ、さらに昨日落手した十和田産の長芋(箱に光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が印刷されています)、右は愛媛から届いたミカンです。
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さて、『マチココ』さんに戻ります。

今号の特集は「看板」。
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花巻市街などの、どちらかというとレトロな、味のある看板が多数取り上げられています。何度か泊めていただいた在来線花巻駅前のかほる旅館さんのそれも。
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昨日、『朝日新聞』さんの先週の夕刊に掲載された「(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点」という記事をご紹介する中でも書きましたが、どんどん変貌していく「まち」。しかし、そこに刻みつけられた「記憶」、しっかり残していくことは大切なことだと思います。

【折々のことば・光太郎】

正午鳥谷崎神社々務所ニテ天皇陛下の玉音録音放送ヲキキ平和再建の詔書渙発を知る。

昭和20年(1945)8月15日の日記より 光太郎63歳

鳥谷崎神社、そしてその時の模様を綴った詩「一億の号泣」についてはこちら

12月7日(月)、『朝日新聞』さんの夕刊に掲載された記事をご紹介します。執筆された記者さんからちらっと電話取材を受けまして、掲載紙を送って下さいました。自宅兼事務所でも同紙を購読しているのですが、夕刊は契約していませんので、ありがたく存じました

品川区の大井町を紹介する、まるまる1ページとった大きな記事です。大井町といえばゼームス坂病院。智恵子終焉の地で、跡地には光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)を刻んだ碑が建っています。
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(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点

 交差点の歩道橋を、日傘を差した若い女が軽やかに渡っていく。らせん階段を下り、目の前のさびれた古道具屋の中へ。女はガラス製の舶来骨董(こっとう)「なみだ壺(つぼ)」を手に取り、自分の目元に近づけ、店主の中年男にほほ笑む――。
 1983年公開の映画「時代屋の女房」は、早世した夏目雅子の美しさと演技力が際立つ作品だ。原作者で、82年の直木賞に輝いた村松友視さん(80)は当時42歳。小説の舞台に、出版社員だった30歳前後の時に暮らした東京都品川区の大井町を選んだ。
 「隣の駅の大森がしゃれた屋敷街なら、大井町はパチンコ屋とか映画館とかが軒を連ねて雑然としていた。僕のアパートも、洋館風なのに壁一面が鏡張りの和室があって魑魅魍魎(ちみもうりょう)の棲家(すみか)の気配(笑)。物語の一つでも書かなきゃと思わせる街でした」
     *
 時代屋は、大井町駅から徒歩数分の「三ツ又」交差点に実在した古道具屋で、村松さんも通勤の際はその前を行き来していた。映画製作ではロケ現場になったが、しばらくして取り壊され、現在の駐車場になって久しい。
 一方、道を隔てた向かいにあり、映画にも映り込む「三ツ又地蔵尊」はいまも健在だ。小さな三角地帯には病魔や難産の「身代わり地蔵」がまつられ、通りすがりに拝む人々は多い。品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史さんは「三ツ又は、740年近い歴史を持つ池上本門寺の参拝客が行き交った『池上通り』など、さまざまな方面への交差点。地域の信仰の中心になっていたはず」と語る。
     *
 三ツ又から沿岸部へ向かって国道15号を越え、京浜急行線を過ぎると旧東海道にぶつかる。一番宿としてにぎわった品川宿から川崎へ向かう途中、現在の南大井にあるのが「鈴ケ森刑場跡」だ。1651(慶安4)年から約220年間に、膨大な罪人が処刑された。みせしめに残忍な刑が執行された一方、悲恋のヒロイン八百屋お七を題材とした歌舞伎など、芸術作品を生み出した場でもあった。
 村松さんも、刑場近くの土地に生きる人々の心情に迫る小説を書いた。1981年の直木賞候補作「泪(なみだ)橋」。刑場まで数百メートルの、立会川にかかる「浜川橋」の別名で、罪人はこの橋で、見送りに来た家族との今生の別れに涙した。
 小説は橋の近くで長年暮らす老人2人が、偽名の男女をかくまう物語。村松さんも大井町にいたころ、過激派の学生を1週間ほど泊めたことがある。追われる身となった人々に、理由も聞かず手を差し伸べる老人たちの「不思議なやさしさ」が描かれる。
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 ■刑場跡地、無縁仏が夢枕に
 江戸時代の死刑囚がはりつけや火あぶりなどに処せられた鈴ケ森刑場。その跡地は旧東海道と第一京浜が交わる三角地「大経寺」の境内にあり、史跡巡りの人気スポットだ。ただし敷地は大正期以降の国道建設で縮小、無縁仏が眠る一帯ならではの逸話が残る。
 1954年夏、第一京浜の拡幅工事の際、たくさんの人骨が出土した。作業員が形をとどめる二つの頭蓋骨(ずがいこつ)=写真=をその場に放っておくと、住職の妻の夢枕に2人の男が立ち、「暑いので水をかけて」と頼んできた。妻が応じた3日後、2人は再び夢にあらわれ、2羽の鳳凰(ほうおう)と化して天高く舞い上がったという。その後、頭蓋骨は手厚く回向され、一連の物語が広く伝えられたと当時の新聞は報じる。「そのころに、大きな供養が催されたと聞く。立ち寄られる際は、ぜひ手を合わせてお参りを」と現住職の狩野豊明さん(39)。
 ◆品川区立品川歴史館(03・3777・4060)には水琴窟がある。JR大森駅徒歩10分、大井町駅からバス「鹿島神社前」下車1分。開館状況はホームページで。
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 創作意欲をかき立てる街の力は、病んだ心にも作用したのだろうか。
 詩人で彫刻家だった高村光太郎の妻、智恵子は1935(昭和10)年2月に大井町駅北東のゼームス坂病院へ入院した。38年10月、肺結核により52歳で亡くなるまで、色紙を切り貼りする「紙絵」作りに没頭し、千点以上を残した。食事に出たアジの干物や病室に届いた果物などをモチーフにはさみで直接切り出し、完成すると見舞いにくる光太郎だけに見せた。
 智恵子は若き日、油絵に打ち込んだが、現存するのは3点。生家の破産などを経て自殺を図った40代半ば以降、統合失調症を悪化させていく。出身地の福島県二本松市で活動する市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一代表(70)は「病気で普通に暮らせなくなっても創作技術や美意識は衰えず、素晴らしい紙絵として実を結んだ。真の芸術家と仰ぐ光太郎に高く評価され、人生最大の喜びを感じていたはず」と語る。
 故郷から遠く離れた大井町で智恵子が逝った縁を後世に伝える碑が95年、地元住民で作る「品川郷土の会」の尽力で病院跡地に完成した。黒い御影石には光太郎が妻の臨終をうたった「レモン哀歌」が刻まれ、今も足元に黄色いレモンが供えられている。
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■昭和の姿、ジオラマで再現
 幼いころに綱渡りの曲芸を見た駅前広場、親に「行くな」と固く禁じられた闇市の跡、初めてドライカレーを食べた喫茶店――。
 品川区二葉1丁目に住む元学習塾経営者の石井彰英さん(65)が、生まれ育った大井町駅付近の昭和30~50年代をジオラマで再現したのは3年前のことだ=写真は夜の大井町駅前。それまでも神奈川の江ノ島電鉄沿線や北鎌倉駅周辺などを、趣味で製作してきた。大井町の再現に挑んだのは「今は治安が良くなり、便利で暮らしやすくなったが、あのころの猥雑(わいざつ)さが失われて面白みがなくなった」と思うからだ。そこで古い町並みの写真を集め、90代の人から直接話を聴き、参考にした。「懐かしんでもらうのと同時に、ジオラマの中に溶け込んで一緒に遊んでほしい」と臨場感あふれる動画を編集し、同世代の音楽仲間の協力を仰いでオリジナルの曲もつけた。ホームページ「大井町の語り部」の中で公開している(http://oikataribe.jpn.org/diorama別ウインドウで開きます)。
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一昨年、花卷高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に、光太郎が暮らした頃の花巻とその周辺のジオラマを作成された石井彰英氏についても書かれています。元々、花巻ジオラマをお願いしたのは、先に作成された大井町のジオラマでゼームス坂病院を取り上げて下さったいたためです。

どんどん変貌していく「まち」。しかし、そこに刻みつけられた「記憶」、しっかり残していくことは大切なことだと思います。そのために、こうした記事や、石井氏のジオラマなど、好個の取り組みかと存じます。

明日は花巻に関し、同様の内容で。

【折々のことば・光太郎】

宮沢邸焼けあとの壕より余のもの大半出る。リユツクもある。馬車にて桜の農家に持ちゆけり、蔵の火きえる。


昭和20年(1945)8月12日の日記より 光太郎63歳

花巻空襲から2日後です。「蔵」は疎開していた宮沢家の蔵です。「余のもの大半」の中には、先頃、花巻高村光太郎記念館さんで展示されたホームスパンの毛布なども含まれていました。在りし日の智恵子にせがまれて購入したもので、不思議な縁を感じます。

都内から展覧会情報です

PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-

期 日 : 2020年12月11日(金)~12月25日(金)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館陳列館 台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

18世紀以降、洋の東西を問わず、公共空間の彫像・彫刻は都市の近代化に付随するかたちで林立しました。そして第二次世界大戦後には、世界中で多くのパブリックアートが設置され、日本では裸体像のような公共彫刻の設置が相次いで起こります。
日本の公共彫刻の多くは指名制度によって設置されていますが、コンペティション形式である場合は、作家が作品をプレゼンテーションするための資料を制作します。提案が採用され実現する作品がある一方で、その他のアイデアは公開されることはありません。
本展では、そのような公共彫刻にまつわる裏側、作品の提案や実作に至るまでの過程に重きを置き、彫刻の制作段階そのものを焦点化します。彫刻とは最終的な形態を重要視する芸術であるように思われていますが、そこには、不採用になったコンペ案同様、無数の試行錯誤や思索が存在しています。
物質としての質量をもった彫刻を並べるだけではなく、ドローイング、マケット、CG、映像媒体など多様な表現による彫刻の道筋を見せること。あるいは、彫刻の公共性について別の角度から光を当てること。このような方法を通じて、いままではあまり意識されることのなかった、権力を受け止める装置としての彫刻のありようや、彫刻というメディアの永久設置について、現代から再点検することが本展の目的です。
この国で最初期の裸婦の公共彫刻である菊池一雄氏の「平和の群像」などマケット(東京藝大彫刻科アーカイブ蔵)を起点として、現代において放射状に拡がっていく「公共」と「彫刻」の可能性を多角的な角度から考察します。

アートディレクター = 小谷元彦   企画 = 小谷元彦/森 淳一
キュレーター = 小谷元彦      共同キュレーター = 小田原のどか
会場構成 = 小谷元彦/サイドコア

参加作家
会田 誠/青木野枝/井田大介/大森記詩/小谷元彦/小田原のどか/笠原恵実子/カタルシスの岸辺/
サイドコア/島田清夏/高嶺 格/椿 昇/戸谷成雄/豊嶋康子/西野 達/林 千歩/森 淳一/
菊池一雄/北村西望/本郷新
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そもそも彫刻とは何? 的な命題に対する一つの解答を提示しようとする試みのように思われます。

「共同キュレーター」として名前の挙げられている小田原のどかさん。一昨年刊行された『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』を編集なさったり、今年は雑誌『群像』の7月号に「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路を開く―」という文章を寄せられたりしています。

その小田原さんの出品作品。
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題して《ロダンの言葉/高村光太郎をなぞる》。ロダン、光太郎へのオマージュなのでしょう。モチーフはロダンのデッサン(下に置かれています)。昭和4年(1929)刊行の光太郎編訳『ロダンの言葉』普及版(叢文閣)のカバーにあしらわれました。カバー自体も画像に見えます。下の画像は当方手持ちの物。
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002光太郎、同じデッサンを、遡って明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使おうとしました。ところが同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁処分とされてしまいました。「おみよ」のモデルは、葉舟や光太郎が好んで足を運んだ上州赤城山の猪谷(いがや)旅館の女主人・猪谷ちよ(千代)です。ちよは日本初の冬季五輪メダリストで、アルペンスキーの猪谷千春の伯母に当たります。

閑話休題、その他、出品作家に菊池一雄、北村西望、本郷新と、物故彫刻家の名が並んでいますが、彼等のデッサンや試作などが並んでいるようです。
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上記は北村西望の《長崎「平和記念像」のためのデッサン》です。これも実は突っ込みどころの多い彫刻でして、上記『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』でも言及されています。

コロナ禍には充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后一時過より空襲、爆弾、焼夷弾。花巻町過半焼失。宮沢家も類焼。余は始め水かけ。後手まわり、仕事道具を壕に入れて、校長さん宅に避難、


昭和20年(1945)8月10日の日記より 光太郎63歳

終戦5日前、疎開先の花巻でも空襲に遭った記述です。昨年の『広報はなまき』に、この際に光太郎が使用した鳶口と鉄兜が紹介されています。

光太郎の疎開に一役買った佐藤隆房が院長を務めていた総合花巻病院では、医療従事者達が自らの危険を顧みず負傷者の救護に当たり、のちにその話を聞いた光太郎はその奮闘を讃え、詩「非常の時」を贈りました。今年、その内容がコロナ禍に立ち向かう医療従事者にかぶるということで、また注目を集めました。

「校長さん」は旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌。宮沢家が焼けてしまったため、約1ヶ月、花巻城址近くの自宅に光太郎を住まわせてくれました。

最近いただいた書籍、2点ご紹介します。

まず、文芸同人誌『青い花』第95号。詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様から。
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これまでも光太郎智恵子に関するエッセイや論考等を同誌にたびたび寄稿なさっていて、今号もエッセイ「巴里 パリ PARIS(三)」が掲載されています。
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昨年の6月、フランスに行かれたそうで、そのレポートです。明治41年(1908)から翌年にかけ、光太郎が暮らしたカンパーニュ・プルミエルのアトリエや、詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)に謳ったノートルダム大聖堂などが取り上げられています。

奥付がこちら。
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もう1冊、作曲家の仙道作三氏から『音響詩人 宮沢賢治』。氏は平成元年(1989)、オペラ「智恵子抄」なども作曲なさっています。
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音楽家の眼から見た賢治、というコンセプトで、特にコロナ禍の今こそ賢治作品だ、的な。光太郎智恵子にもちらっと触れて下さっています。
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装画はお嬢さんでパーカッショニストの仙道さおりさん。コロナ禍の今、ということでアマビエ様です。
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奥付はこちら。
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それぞれご入用の方、奥付画像をご参照の上、ご対応下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前、西鉛奥の部落からマタギが来る、熊の膽をかつた事のある人。熊の話などきく。

昭和20年(1945)8月3日の日記より 光太郎63歳

「西鉛」は、6月に滞在した西鉛温泉。その際に知り合ったマタギが、光太郎疎開先の宮沢家に訪ねてきたということでしょう。マタギや熊、そして鉛温泉は賢治の童話「なめとこ山の熊」にも登場します。

一週間後の8月10日には、花巻空襲。7月からたびたび空襲警報のサイレンが鳴ったことが日記に記されていますが、まだ呑気に構えていました。バッハの「ブランデンブルグ」レコード(賢治の遺品でしょうか)を聴いたり、賢治実弟の清六らと映画鑑賞に出かけたり……。

⼭形⼤学さん主催の⾼校⽣朗読コンクール。東北6県(青森・秋田・岩手・宮城・山形・福島)在住の高校生、または各県内の高校に在学中の高校生(高等専門学校生は1~3年生)を対象にしています。毎年、東北ゆかりの作家の作品を課題にし、宮沢賢治、井上ひさしなどに混じって、光太郎も取り上げられました。平成27年(2015)年開催の第8回で、課題は「智恵子抄」でした。予選、本選があり、本選はホールを使って大々的に行われていました。

今夏、「大学ジャーナル」さんというサイトに、今年度の第13回の応募案内が出ました。それによると久々に光太郎の「智恵子抄」が課題ということで、「おお、これはありがたい」と思ったものでした。

ところが、その後、いつまでたっても主催する山形大学さんのサイトには詳細な情報が出ませんで、「あ、こりゃ、コロナ禍で中止になったんだろうな」と思っておりました。

すると、今月に入って同大の学長定例記者会見が行われ、その中に「第13回⼭形⼤学⾼校⽣朗読コンクール審査結果発表」も含まれていました。「えっ、やったの?」という感じでした。
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「どういうことだ」と思っていたら、昨日、『毎日新聞』さんの山形版に関連記事が出ました。

山大高校生朗読コン 山形東・吉田さん2位「気持ち伝わるように」/山形

000 山形大は、東北6県の高校生の文化交流を目的に同大が開催している「山形大学高校生朗読コンクール」で、県立山形東高2年の吉田遥さんが、予選を通過した14人のうち、上位3人に与えられる学長賞で2位に輝いたと発表した。
 コンクールは2008年度に始まり、今年で13回目。東北にゆかりのある作家が課題文となる。今年は、高村光太郎とその妻智恵子(福島県出身)の出会いから恋愛時代や結婚、智恵子の発病から死へと続く物語の「智恵子抄」だった。 選考基準は、内容を理解しているかや話し方など。今年度は東北地方の23の高校から84人が応募した。
 記念品の盾と賞状を受け取った吉田さんは「2人の気持ちが聞いている人に伝わるように心がけた。今後も聞いていたいと思ってもらえる朗読をしていきたい」。同大の玉手英利学長は「テキストは同じだが一人一人違った色合いがある。多くの人に聞いてもらえたら」と話した。本選出場者の朗読は同大のユーチューブチャンネルで視聴できる。

そこで、YouTubeを拝見。
これを見てようやく腑に落ちました。例年のようにホールを使って大がかりにではなく、録音審査での実施だったそうで。上記のプレスリリースもよく読めば小さく書いてありました。
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課題文は「智恵子抄」中の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)の一節。詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の制作背景的な部分で、「あどけない話」自体も引用されている箇所でした。
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動画の最後は審査に当たられた山本陽史教授の講評的なご挨拶。
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曰く「東北は10年前の震災を乗り越えて来て、今年は世界中がコロナ禍で大変な思いをしている。そんな時に「言葉」の力で分断をくい止めて、皆さんが繋がっていけるよう……」なるほど、その通りですね。

また、こうした活動を通し、多くの方々に光太郎智恵子の世界がもっと広まっていってほしいものだと、いつもながらに思います。

【折々のことば・光太郎】

朝六時、詩碑に詣づ。

昭和20年(1945)8月1日の日記より 光太郎63歳

「詩碑」は花巻桜町に立つ宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑です。昭和11年(1936)、花巻からの依頼で光太郎が筆をふるい、同詩の後半部分を揮毫しました。除幕式の際には智恵子が入院中ということもあったのでしょう、光太郎は不参加。代わって当会の祖・草野心平が赴きました。

かつて自分が文字を書いた碑を初めて眼にしたその心境は、いかばかりだったのでしょうか。
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昨日、歌手の二代目コロムビア・ローズさんが8月に亡くなっていたというニュースが出ました。

真っ先に報じた『デイリースポーツ』さん

二代目コロムビア・ローズさん8月に死去していた…15年から闘病

008 「智恵子抄」「二十四の瞳」などのヒット曲を持ち、1964年の第15回NHK紅白歌合戦にも出場した、歌手の二代目コロムビア・ローズ(本名・宗紀子)さんが、今年8月16日に心不全のため神奈川県大和市内の病院で死去していたことが7日、分かった。78歳だった。米・ロサンゼルスを拠点に音楽活動を行っていたが、近年は体調を崩し帰国。入退院を繰り返していた。葬儀・告別式は、親族らによる密葬で執り行われた。
 昭和の音楽史の1ページを飾ったスター歌手が、また1人天国へと旅立った。
 関係者によると、米・ロサンゼルスを拠点に音楽活動を行っていた二代目コロムビア・ローズさんは、体調を崩したことから2015年夏に帰国。日本で闘病生活を送っていた。その後は入退院を繰り返していたが、今年8月16日に心不全のため、その生涯に幕を閉じたという。
 体調を崩す直前の2014年11月に日本で出演した「第41回日本歌手協会音楽祭」が、最後のステージとなった。その時はデビュー曲「白ばら紅ばら」、初代コロムビア・ローズと一緒に「東京のバスガール」を元気に歌唱した。
 二代目ローズさんは1942年4月29日生まれ。初代の引退により行われたオーディションで1位となり、62年8月に「白ばら紅ばら」でデビュー。同年11月に初代のヒット曲「東京のバスガール」をリリースし、初代の名を継ぐ人気スターとなった。64年には高村光太郎の詩集をモチーフにした「智恵子抄」が大ヒットし、同年のNHK紅白歌合戦に初出場。その後も文芸路線の「二十四の瞳」がヒットした。
 また歌手活動と平行し大学で児童心理学を学び、卒業後は海外に留学。その後はロサンゼルスに拠点を置き、音楽活動に加え後進の指導などを行っていた。年に数回来日しコンサートや「NHK歌謡コンサート」などの音楽番組に出演。なお、二代目ローズさんが最後に出演した14年のステージの模様は、21年元日のBSテレ東「日本歌手協会新春12時間歌謡祭」の中で追悼企画として放送される。

初代が追悼「年上の私よりも先に逝くだなんて…」

 二代目と長きにわたり親交があった初代コロムビア・ローズは「二代目を選ぶ時、一番声がきれいな子として選んだのが彼女でした。ロスにいた時も『お姉さま元気?』とよく電話をいただいた。先日もふと会いたいな~と思っていたのに、まさか10歳近く年上の私よりも先に逝くだなんて…。心が清らかでやさしい芸能人らしくない子。私より数倍しっかりした女性でした。本当にお疲れさま。ゆっくり休みなさいね」と話した。

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ローズさんというと真っ先に出てくる「智恵子抄」。昭和39年(1964)1月のリリースで、かなりのヒット曲となり、ローズさん、この年の紅白歌合戦にこの曲でご出演なさいました。作詞は智恵子の故郷・二本松にほど近い小野町ご出身の故・丘灯至夫氏、作曲は故・戸塚三博氏でした。
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翌年にはこのトリオで「二十四の瞳」をリリース。B面が「智恵子のふるさと」でした。
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平成11年(1999)には「智恵子抄」と「智恵子のふるさと」を一本にまとめたカセットテープも発売されました。
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「智恵子抄」のヒットを受け、昭和39年(1964)8月にはソノシートブックが発行されています。題して『智恵子のふるさとを訪ねて◆コロムビア・ローズ愛唱歌集◆』。ちなみに「智恵子抄」は二本松で、現在も防災無線の正午の音楽にも使われています。
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昭和30年代の二本松とその周辺の風景がふんだんに掲載されており、貴重な資料でもあります。
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当時は人手に渡っていた智恵子生家。二本松駅も。
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霞ヶ城址の智恵子抄詩碑。
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阿武隈河畔と岳温泉の鏡ヶ池。
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安達太良山。

「智恵子抄」のヒットにより、観光客増加に貢献ということで、ローズさん、丘氏、戸塚氏へ市から表彰がなされた場面も。
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大隣寺さんにある二本松少年隊の墓、そして昭和9年(1934)に智恵子が療養していた千葉九十九里浜も。

ローズさん、最近、テレビで見かけないとは思っていましたが、アメリカご在住ということで、時折帰国なさってコンサートテレビの歌謡番組などにご出演されるというスタイルだったため、まさか日本で闘病生活をなさっているとは思いませんでした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

午前北上川畔イギリス海岸といへる河原に千代田さんとゆく、焚火などす、


昭和20年(1945)7月3日の日記より 光太郎63歳

「イギリス海岸」は、宮沢賢治が名付けました。ここで亡き賢治を偲んだのでしょう。「千代田さん」は、光太郎同様に宮沢家に疎開していた編集者で、戦後には吉本隆明とも交流がありました。

光太郎の父・光雲の木彫が出ています

特集展示「福島美術館の優品」

期 日 : 2020年12月1日(火)~2021年1月31日(日)
会 場 : 仙台市博物館 宮城県仙台市青葉区川内26
時 間 : 9時00分から16時45分
休 館 : 月曜日(祝日・振替休日の場合は開館)
      祝日・振替休日の翌日(土曜日・日曜日、祝日の場合は開館)
      年末年始 12月28日(月)~1月4日(月)
料 金 : 一般・大学生 460円(360円)高校生 230円(180円)
      小・中学生 110円(90円) ( )内団体料金

仙台市若林区土樋(つちとい)にあった福島美術館(社会福祉法人共生福祉会運営)は、仙台で活躍した実業家・福島家が三代にわたり集めた約3,000点の美術工芸品を収蔵していました。
その内容は、伊達家ゆかりの文化財をはじめ、仙台四大(しだい)画家による絵画、さらに福島家が支援した近代の画家・書家の作品や、茶道具・香道具といった工芸品など多岐にわたります。
「街の小さな美術館」の愛称で親しまれてきた同館は平成30年に活動を休止し、文化財の多くが当館に寄託されました。
この特集展示では、福島美術館の資料の中から選りすぐりの優品を紹介します。
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仙台にかつてあった私立の福島美術館さん。当方も2度お邪魔しました。一昨年に閉館となり、所蔵品はどうなったのだろうと思っておりましたが、こちらに寄託されていたのですね。散逸しなかったのは幸いでした。

同館では、光雲作の木彫を2点所蔵されていました。

1点は光雲・光太郎父子と交流があった僧侶にしてチベット仏教学者の河口慧海にかかわる如来坐像。
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もう1点は、「聖観音像」。こちらは平成23年(2011)の東日本大震災まで、光雲作であるという認識がなく、神棚に置かれていていたそうです。それが震災で倒れ、初めて光雲作の銘が確認されたとのこと。そして神棚から「落ちなかった」ことで、一時、受験生に霊験あらたかという都市伝説が広まりました。

今回の展示では、「聖観音像」が出品されているそうです。

コロナ禍に充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】003 (2)

入湯。幽邃境也

昭和20年(1945)6月18日の日記より
 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢賢治実家に疎開してきて、翌日、肺炎のため41℃の高熱を発し、1ヶ月臥床。6月15日には床上げをし、この日から24日まで、予後を養うため花巻郊外西鉛温泉に滞在しました。

「幽邃」は「ゆうすい」。「景色などが奥深く静かなこと」といった意味です。西鉛温泉、当時は明治館改め秀清館という一軒宿で、明治22年(1889)の創業。この頃は、賢治の母の実家が経営していました。当時としては珍しい四階建ての日本家屋で、建築設計にも手を染めていた光太郎、その造作に感心しきりでした。

現在は西鉛温泉の呼称は廃され、少し離れた場所で新鉛温泉となっています。

テレビ番組の再放送情報です。

まず、NHK Eテレさんで昨日放映の「日曜美術館 いつもそこに“名画”があった」。次の日曜の夜に再放送があります

日曜美術館 いつもそこに“名画”があった

NHK Eテレ 2020年12月13日(日) 20時00分~20時45分

90年前に日本で初めて西洋画をいつでも見られる美術館として誕生した大原美術館。始まりは、「日本の芸術界のため」に、海外の絵を集め、見てもらいたいというある画家の思いだった。その思いを受け、地元の実業家・大原孫三郎と息子・總一郎らによってコレクションは拡充されてきた。番組では、とびっきりの名画にまつわる思い出をつづった人々の手記に注目。俳優・美村里江さんによる手記の朗読を交え、美術館の歩みを見つめる。

出演者 美村里江 大原美術館館長…高階秀爾
司会  小野正嗣 柴田祐規子

光太郎ブロンズ「腕」(大正7年=1918)を収蔵している、岡山県倉敷市の大原美術館さんの特集。
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残念ながら「腕」は紹介されませんでしたが、光太郎と関わるロダン、バーナード・リーチ、濱田庄司らの作品が取り上げられました。
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そうした作品の紹介以外にも、そもそもの同館の成り立ち、沿革、現在まで受け継がれている精神といったものに非常に感銘を受けました。

同館は、メセナ(企業等による文化芸術方面への社会貢献)のはしりとして、昭和5年(1930)に開館。元々は実業家・大原孫三郎が、支援していた画家・児島虎次郎の勧めで海外から交流した美術品コレクションから始まりました。
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戦時中には、その所蔵品も危機に見舞われました。
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この金属供出では、光太郎や光太郎の父・光雲の多くの作品が奇禍に遭いました。しかし同館は断固拒否。
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結果として、多くの人々に、戦時中も感動を与え続けます。
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当時の人々の回顧談等を朗読された、ゲストのミムラ改め美村里江さんも感心しきり。

そうした精神は現代にも受け継がれ、子供たちにも。
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詳しくは、こちら

これで光太郎の「腕」も取り上げられていたら、言うことはなかったのですが(笑)。

ちなみに明日、12月8日は太平洋戦争開戦の日です。今一度、「あの戦争とは何だったのか」を考え直す契機としても、ご覧になっていない方、ぜひご覧下さい。

逆に12月8日というと、毎年のように幼稚なネトウヨが、その前後の光太郎の胸中など何も考えず、光太郎の翼賛詩「十二月八日」や「鮮明な冬」(ともに昭和17年=1942発表)を持ち出し、涙を流してありがたがる風潮があって眉を顰めたくなります。

もう1件。初回放映は平成23年(2011)だった2時間ドラマの再放送です

おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査8 東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

テレビ朝日 2020年12月9日(水) 13時49分~15時43分

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田"という名字が気にかかり…

出演者
伊東四朗 羽田美智子 石井正則 小倉久寛 辺見えみり 山口美也子 木場勝己 小沢象 丸山厚人 菅原大吉 ほか

智恵子の故郷・二本松が事件に関わる舞台の一つという設定で、智恵子生家や安達太良山でロケが行われました。
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ヒロインにして主演の伊東四朗さん扮する鴨志田刑事の娘(実は秘密)役の羽田美智子さん、平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」にもご出演。また、昨年封切りの北原白秋を主人公とし、光太郎も登場した映画「この道」では与謝野晶子役をなさっていました。

こちらもご覧になっていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

朝高熱を発す(41°) 佐藤花巻病院長来診、肺炎と診断、臥床、看護婦来る

昭和20年(1945)5月17日の日記より 光太郎63歳

花巻疎開の翌日です。肺炎は結核性のもので、41°というと、生死の境を彷徨ったのではないかとも思われます。幸い、昨日も紹介した佐藤隆房医師らによる懸命の看護で、一命は取り留めましたが、この後1ヶ月は宮沢賢治実家で臥床、日記も付けられない状態でした。ことによると、この日の記述も恢復後に書かれたものかもしれません。

一昨日、昨日と、1泊2日で花巻、盛岡を廻っておりました。レポートいたします。

12月4日(金)、新幹線を新花巻駅で降り、迎えの車に乗って、まずは花巻市役所さんへ。市の主催で来年度に計画されているイベントや展示の打ち合わせを行いました。市民講座の講師、展示の監修等を仰せつかりまして、ありがたいかぎりです。

再び市の公用車に乗せていただき、花卷高村光太郎記念館さんへ。
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まだ積雪には至っていませんでしたが、気温はかなり低い状態でした。

こちらでは昨日から、花巻市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマとした共同企画展の一環、「光太郎と佐藤隆房」が始まっています。一昨日は内覧ということで、地元紙の取材も入っており、対応しました。
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光太郎の花巻疎開に尽力し、郊外旧太田村に移る前の1ヶ月程、光太郎を自宅離れに住まわせてくれ、その後も援助を惜しまなかった佐藤隆房元総合花巻病院長と光太郎の交流を紹介する展示です。
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隆房は光太郎歿後、財団法人高村記念会を設立、初代理事長となり、それは子息の故・進氏に引き継がれました。
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左上画像は光太郎が1ヶ月暮らした佐藤家離れの2階。ここを光太郎は「潺湲(せんかん)楼」と名付けました。「潺湲(せんかん)」は「水のせせらぎ」。すぐそばに豊沢川の清流があることに由来します。右画像は佐藤家を訪れた際に光太郎が愛用していたという椅子です。

佐藤が絵を描き、光太郎が賛を書いたものが四点。
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「天しろし」
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「ひかりをつゝむ」
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「孤坐」
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「人は野をおもひ山をおもふ」

いつもながらに味のある書です。

そのうちに地元紙に報道が出るはずですので、またその際にご紹介します。

花巻高村光太郎記念会として来年度に行う企画展示の打ち合わせ等を行い、こちらを後にしました。

その後、車で送っていただき、盛岡へ移動。こちらでは、「ゆかりの盛岡から高村光太郎を知る会」の会合。コロナ禍の為中止となりましたが、今年の5月に岩手県公会堂で、同会主催の講座「光太郎の食卓から」が開かれる予定で、当方も一役買うはずでした。下記は幻の要項です。
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この講座では、盛岡でイタリアンの「アッカトーネ」さん、さらに「光太郎山荘」ならぬ「敲太楼山荘」さんのオーナーソムリエ・松田宰氏にもお話をいただく予定でした。

そこで、この日は松田氏の料理に舌鼓を打ちつつ、会合。当初はお店で開催のはずでしたが、三密を避けるため、農林会館という建物の会議室で行いました。
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テイクアウト的なこういう状態でしたが、実に美味でした。

この日は中の橋地区のホテルブライトイン盛岡さん(アッカトーネさんの向かいです)に宿泊。昨日のブログにも同じ画像を使いましたが、翌朝、部屋の窓から取った岩手山。
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南隣は啄木・賢治青春館さん。
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北隣は盛岡てがみ舘さんの入っているプラザおでってさん。さらに道路を渡ると旧岩手銀行赤レンガ館さん。
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部屋で朝食を摂った後、ロビーで地元紙『盛岡タイムス』さんの取材を受けました。来年元日の同紙で、光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、そのためです。てがみ館さんで直筆原稿が常設展示されている光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)をメインとするとのことでした。その後、連れだっててがみ館さんへ。
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現在、盛岡とその周辺の古絵葉書などを中心とした「なつかしの盛岡」展が開催中です。光太郎も見た風景ということで、興味深く拝見しました。
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「岩手山の肩」原稿はこちら。
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006紙面は来年、送って下さるそうです。ちなみに紙面を送って下さる、と言えば、明日、12月7日(月)だかの『朝日新聞』さんの夕刊でも光太郎を大きく取り上げて下さるそうで、岩手行きの前に電話取材等に対応しました。品川のレモン哀歌詩碑などに関わるようです。やはり紙面を送って下さるそうで、そのうちにご紹介します。

その後、記者さんと別れ、当方は盛岡駅前の岩手県立図書館さんで調べ物。光太郎が題字を揮毫し、昭和二、三十年代に刊行されていた地方紙『花巻新報』を閲覧してきました。

当会発行の冊子『光太郎資料』で、光太郎が作詞、邦楽奏者の杵屋正邦が作曲し、昭和26年(1951)に花巻で日本舞踊を振り付けて上演された「初夢まりつきうた」について書いたのですが、まだ不分明な点が多く、その補完が主目的でした。すると、やはり当たりで、いろいろと分かりまして、次号の『光太郎資料』にその辺を書こうと思っております。

また、それ以外にも光太郎が昭和25年(1950)に花城農業高校(現・花巻農業高校)で行った講演の長い筆録も掲載されていたのを発見した他、『高村光太郎全集』未収の談話筆記等多数見つかりました。

コロナ禍のため、長時間の滞在が出来ないという制約があり、1時間あまりで撤収しましたが、他にも目星を付けている蔵書がありますので、またいずれ、と思っております。

というわけで、有意義な岩手紀行でした。

おまけ。東京駅から高速バスに乗り、千葉の自宅兼事務所最寄りのバス停・JR佐原駅で降りたところ、田舎の駅で普段はあり得ない人山の黒だかり、もとい黒山の人だかり。何事だ、と思ったら、JR東日本さんの超豪華寝台列車「TRAIN SUITE 四季島」が停車していました。そういえばちょっと前にこっちの方に来ると新聞で予告されてたっけ、と思いあたりました。
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赤いのはお出迎えでやって来た、千葉県のゆるキャラ・チーバくんです。ちょんまげは当地の偉人・伊能忠敬がらみですね。
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0001泊2日コースで、2名1室最高50万円、最低でも37万円。一人旅だとそれぞれ75万円と55万5千円に跳ね上がります。当方には一生無理でしょう(笑)。ちょっと前に、元宝塚の遼河はるひさんと、深夜ドラマ「妄想姉妹~文學という名のもとに~」 で智恵子役をなさった紺野まひるさんが2泊3日コースを体験乗車するというテレビ番組を拝見し、バーチャル体験はしましたが。

ちなみに現在の2泊3日コース、岩手も通るルートで運行されています。こちらは2名で55万円から75万円、1名だと82万5千円から112万5千円だそうで(笑)。

【折々のことば・光太郎】

花巻着(午前七時過) 宮沢家に入る、 雨、


昭和20年(1945)5月16日の日記より
光太郎63歳

4月13日の空襲で駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居を焼け出され、しばらくは近くにあった妹の婚家で過ごしていましたが、そこも他の被災者で手狭になり、宮沢賢治の実父・政次郎、実弟・清六、そして佐藤隆房等の誘いで花巻へ疎開。上野駅を発ったのが前日の夕方でした。光太郎が「TRAIN SUITE 四季島」などを見たら、腰を抜かすのではないでしょうか(笑)。

究極の雨男・光太郎、花巻に着いた時も雨でした。その魂を背負ってしまった当方も究極の雨男となり、昨日も関東に帰ってきたら雨でした(笑)。

昨日から岩手盛岡に来ております。
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昨日は花巻に立ち寄り、市役所、それから花巻高村光太郎記念館さんへ。同館で今日から始まる企画展示「光太郎と佐藤隆房」を内覧。
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市役所、それから盛岡に移動し、こちらのいろいろな団体さんと、来年度のイベントや展示等の打ち合わせ。

これから地元紙の取材を受けます。

詳細は帰りましてから。





盛岡ご在住の加藤千晴氏から、ご著書が届きました。題して『高村光太郎と共に』。B6判で40ページ程の冊子です。

加藤氏、光太郎と年齢の離れた従妹、加藤照さんのご子息で、ご自身も赤ちゃんの時に光太郎の膝の上によじ登ったという方です。平成28年(2016)の花卷高村祭では、記念講演をなさいました。照さんは満100歳を超えられているはずですが、まだお元気のようです。
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内容的には氏のフェイスブックへの投稿をまとめられたものだそうで、氏が以前に出された『光太郎と女神たち』とかぶる部分もありますが、親族のお立場から見ての光太郎像ということで、貴重なものです。

下記は扉ですが、こうした画像もふんだんに掲載されています。
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表紙画像の扇子には、光太郎の長姉にして狩野派の日本画を学び、しかし数え16歳で病没した咲(さく)の手になる絵が描かれています。

扉の画像は左上から、ニューヨーク滞在中の光太郎、ニューヨークからの光太郎絵葉書、咲、加藤氏のお祖母様(=光太郎の叔母)・中山ふゆ、智恵子。

ご興味のある方、加藤氏フェイスブックのリンクはこちら。ただ、公開設定がどうなっているのかよくわかりませんので、たどり着けないという場合はご寛恕の程。

【折々のことば・光太郎】009

小豆の入つた赤飯を喰ひて、はかなく幼き日を思ひ出したり。真に此の赤飯をappreciateし、心から感謝の意を以て膳に向ふ人は余の家に余の母あるのみならん。


明治43年(1910)9月15日の日記より
 光太郎28歳

「appreciate」は英語で「感謝」。家族の中で光太郎の母・わかだけは、一家の生活が貧しかった光太郎の幼少期から、食べられることへの感謝の意を常に持ち続けていたというわけでしょう。父・光雲や、生活が安定してから育った光太郎の弟妹達は、台所のやりくりにはあまり意識が向かなかったということなのかも知れません。

右は上記加藤氏御著掲載のわかの写真。前著『光太郎と女神たち』にも小さく載っていましたが、今度は大きめに掲載されています。他では見たことのない写真でした。

どうも光太郎の顔立ちは、光雲よりわかに似たように思われます。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さんのPR誌、第11号が届きました。
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これまでカタカナで「トンボ」だった題名が、ひらがなで「とんぼ」に変更。題字揮毫は堀津節子さん。月刊書道誌『不二』、『ペンの力』で手本を書かれているそうです。ご主人の故・堀津省二氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の教え子で、東大図書館さんにお勤めでした。当方が刊行を引き継がせていただいた『光太郎資料』の初期の頃、掲載記事の一部をご執筆なさったり、ガリ版印刷のガリ切りをなさったりした方です。

題字下の装画は、北川太一先生がご趣味として取り組まれていた版画。かつて先生は版画の個展も開かれていました。

内容的には、「特集 賢治童話と詩について」だそうで、宮沢賢治が大きく取り上げられています。
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賢治は光太郎とも交流があり、光太郎は戦時には宮沢家を頼って花巻に疎開した経緯もあり、北川先生のご子息・光彦氏は「宮沢賢治『雨ニモマケズ』と高村光太郎」という一文を寄せられています。
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さらに前号が北川先生追悼特集だったため、その感想等。
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当方も拙文「連翹忌通信」を連載させていただいております。ただ、当方は気まま勝手な内容で(笑)。今号は4月のこのブログでご紹介した、ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見について。美術史上、大変な発見ですので、少しでも機会があれば広めねば、と思ってこの件を書きました。
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ご入用の方は、文治堂書店さんまでご連絡下さい。一応、頒価500円+税ということになっています。

【折々のことば・光太郎】

日本の衣食住の今日の吾人の生活状態及心理状態に対して如何にも不合理なのを強く感じた。社会一般が皆不安定に見えるのも、日々此矛盾を各個人が忍んでゐるからだ。知らずに忍んでゐるのだ。人が物事を「間に合せて我慢」してゐる間は日本の真の文明は期し難い。


明治43年(1910)9月14日の日記より 光太郎28歳

いわゆる大逆事件での幸徳秋水や管野スガらの不当検挙、韓国併合などを念頭に置いての発言と思われますが、何だかコロナ禍の現代のことを言っているようにも読めます。

この年4月には、共に手を携えて日本に新しい彫刻を根付かせようと約していた、碌山荻原守衛が急逝したりもしています。

「智恵子抄」系の音楽情報を2件。

まずはテレビ放映情報です

無料 米津玄師 MV特集

エムオン!HD(CS 203ch) 2020年12月6日(日) 22時00分~23時30分

『米津玄師特集』…8月にリリースしたアルバム『STRAY SHEEP』が大ヒット記録している米津玄師。映画監督の是枝裕和がミュージックビデオの監督を務めた楽曲「カナリヤ」など、彼のミュージックビデオを放送!

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このブログでは、CS放送は基本的に紹介していないのですが、月に1度(第1日曜日前後)の無料放送の日の番組ですので、ご紹介します。

細かな曲目が挙げられていませんが、おそらく米津さん最大のヒット曲、「Lemon」もラインナップに入っていると思われます。2ヶ月程前の同様の放映ではそうでした。以前にも書きましたが、米津さんご自身、この曲は光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)へのオマージュ的な要素もあるとのこと。

MVはYouTube等でも視聴可能ですが、容易にDVDにダビングできるのがテレビ放映の長所。この手の音楽番組、愛車でドライブのお供に活躍しています。ただ、米津さんのものは、2ヶ月程前に録画したものの、ダビングの際にハイビジョンモードとかの余計な設定にしてしまったら、カーナビのDVDプレーヤーで再生出来ませんでした。今回は通常モードでやってみます。

もう1件、9月に発売されたCDをご紹介します

ハーモニカ~心に届く郷愁の音色~

2020年9月24日 コロムビア 税込定価9,900円

宮田東峰が率いてハーモニカの普及に尽力し貢献してきた歴史的バンドのミヤタ・ハーモニカ楽団による楽しい合奏と、長年にわたり“歌うハーモニカ”とも呼ばれ多方面で活躍しプロ活動を続けている達人、大石昌美による名演奏集。青春時代の懐かしい思い出を蘇えらせてくれる心のメロディー“全100曲”をお届けします。
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Disc1 古関裕而&古賀メロディー
 1 船頭可愛や / 大石昌美(ピアノ伴奏)
 2 高原列車は行く / 大石昌美(オーケストラ)
 3 長崎の鐘 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 4 君の名は / ミヤタ・ハーモニカ楽団002
 5 夢淡き東京 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 6 三日月娘 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 7 月のキャンプ / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 8 あこがれの郵便馬車 / 大石昌美(オーケストラ)
 9 雨のオランダ坂 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 10 フランチェスカの鐘 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 11 影を慕いて / 大石昌美(オーケストラ)
 12 丘を越えて / 大石昌美(オーケストラ)
 13 人生の並木路 / 大石昌美
 14 湯の町エレジー / 大石昌美(オーケストラ)
 15 誰か故郷を想わざる / 大石昌美(オーケストラ)
 16 新妻鏡 / 大石昌美(オーケストラ)
 17 青春日記 / 大石昌美
 18 男の純情 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 19 青い背広で / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 20 三百六十五夜 / 大石昌美(オーケストラ)
Disc2 日本の抒情メロディー
 1 荒城の月 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 2 真白き富士の根 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 3 出船 / 大石昌美(ピアノ伴奏)004
 4 青葉の笛 / 大石昌美(ピアノ伴奏)
 5 美しき天然 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 6 浜千鳥 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 7 浜辺の歌 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 8 宵待草 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 9 船頭小唄 / 大石昌美(ギター伴奏)
 10 山は夕焼け / 大石昌美(ギター伴奏)
 11 箱根八里 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 12 椰子の実 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 13 里の秋 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 14 紅葉 / 大石昌美(ピアノ伴奏)
 15 平城山(ならやま) / 大石昌美(ピアノ伴奏)
 16 みかんの花咲く丘 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 17 朧(おぼろ)月夜 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 18 十五夜お月さん / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 19 叱られて / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 20 月の砂漠 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
Disc3 懐かしのメロディー
 1 逢いたかったぜ / 大石昌美(ギター伴奏)
 2 高原の旅愁 / 大石昌美(オーケストラ)
 3 異国の丘 / 大石昌美(ギター伴奏)
 4 上海の花売娘 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 5 悲しき竹笛 / 大石昌美(オーケストラ)
 6 恋の曼珠沙華 / 大石昌美(ピアノ伴奏)
 7 リンゴの唄 / 大石昌美(ギター伴奏)
 8 純情二重奏 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 9 人妻椿 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 10 東京の屋根の下 / 大石昌美(ギター伴奏)
 11 別れの磯千鳥 / 大石昌美(ギター伴奏)
 12 一杯のコーヒーから / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 13 港シャンソン / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 14 別れのブルース / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 15 東京ラプソディ / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 16 東京ブギウギ / 大石昌美(ピアノ伴奏)
 17 旅の夜風 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 18 私は街の子 / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 19 ひばりの渡り鳥だよ / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 20 人生劇場 / 大石昌美(オーケストラ)
Disc4 思い出のメロディー
 1 青い山脈 / 大石昌美(オーケストラ)
 2 あざみの歌 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 3 山小舎の灯 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 4 雨に咲く花 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 5 哀愁波止場 / 大石昌美(オーケストラ)
 6 あの丘越えて / 大石昌美(オーケストラ)
 7 おんなの宿 / 大石昌美(オーケストラ)
 8 未練の涙 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 9 若い君 若い僕 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 10 ほんきかしら / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 11 津軽のふるさと / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 12 北帰行 / 大石昌美(ギター伴奏)
 13 愛の讃歌 / 大石昌美(ピアノ伴奏)
 14 智恵子抄 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 15 林檎の花咲く町 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 16 花咲く乙女たち / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 17 東京の人さようなら / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 18 新宿ブルース / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 19 絶唱 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 20 東京だョおっ母さん / 大石昌美
Disc5 青春のメロディー
 1 高校三年生 / 大石昌美(オーケストラ)
 2 若いふたり / 大石昌美(オーケストラ)
 3 アンコ椿は恋の花 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 4 十七才は一度だけ / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 5 女学生 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 6 涙の連絡船 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 7 学園広場 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 8 さよなら列車 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 9 青葉城恋唄 / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 10 なごり雪 / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 11 神田川 / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 12 岬めぐり / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 13 北国の春 / 大石昌美
 14 マリモの唄 / ミヤタ・ハーモニカ楽団
 15 襟裳岬 / 大石昌美(オーケストラ)
 16 贈る言葉 / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 17 時代 / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 18 少年時代 / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)
 19 酒よ / 大石昌美(ギター伴奏)
 20 乾杯 / 大石昌美(ピアノ・ギター伴奏)

作詞者・作曲者等明記されていませんが、「Disc4 思い出のメロディー」に「智恵子抄」。おそらく二代目コロムビア・ローズさんによる、丘灯至夫作詞、戸塚三博作曲の、昭和39年(1964)にヒットした「智恵子抄」でしょう。

「Disc1 古関裕而&古賀メロディー」。先週放映が終わったNHKさんの連続テレビ小説「エール」で取り上げられた楽曲が多く、タイムリーだなと感じました。

「エール」といえば、劇中でも使われ、最終回のスペシャルコンサートで薬師丸ひろ子さんが熱唱された「高原列車は行く」は、「智恵子抄」と同じ丘灯至夫の作詞です。残念ながらドラマには丘らしき人物は登場しませんでしたが。
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モデルになった「高原列車」は「磐梯急行電鉄(通称・沼尻鉄道)」だそうで、これは昭和8年(1933)、心を病んだ智恵子の療養のため、東北、北関東の温泉巡りをした折、磐梯山の川上温泉にも立ち寄り、その際に利用したと考えられます。
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ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

オルガンの低音部のEに故障を生じかけた。湿気を防ぐに由なき日本室にこんなものを置くのは、東京の動物園に河馬を放飼する様なものだ。

明治43年(1910)9月13日の日記より 光太郎28歳

音楽といえば、光太郎、オルガンやマンドリンの演奏はある程度出来たようですし、留学前にはヴァイオリンも習っていました(あまりものにならなかったようですが(笑))。「こんなものを置くのは」って、置いたのは自分だろ? と突っ込みたくなります(笑)。

注目すべきは「東京の動物園に河馬を放飼する様なもの」。のちの「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)に見られる発想がすでにここに記されています。

同じ年には「智恵子は東京に空が無いといふ」の、「あどけない話」が書かれており、駝鳥にとっての動物園=智恵子にとっての東京という構図も成り立つかもしれません。

情報を得るのが遅れ、その上、会期が短く、既に終わってしまいましたが、こういうイベントもあったんだな、ということで……

第46回福祉作品展

期 日 : 2020年11月27日(金)~29日(日)001
会 場 : 福島市アクティブシニアセンター・アオウゼ
       福島市曽根田町1−18 MAXふくしま4階
時 間 : 27日 午後1〜4時 28・29日 午前10時〜午後4時
料 金 : 無料

障がいのある方や児童生徒、高齢者の方々の絵画・書(習字)・手工芸などの作品を展示
児童・生徒の部身体障がい者の部知的障がい者の部精神障がい者の部高齢者の部

のうち、高齢者の部で福島市長賞に輝かれた作品がこちら。
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「智恵子抄」中の絶唱の一つ、「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節。福島のご当地作品とも言えましょう。通所型リハビリテーション施設に通われている方の書です。

昨日のこのブログでは、東京都美術館さんで開催中の第42回東京書作展についてレポートいたしました。そちらでご紹介したような、気鋭の書家の方々によるキレッキレの書も、もちろん素晴らしいと存じますが、こうした方のこうした作品を見て、画像ですが、それでも襟を正したくなります。

多くの方々に光太郎作品を愛し、取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

思ひの外の朝日を見た。顔を洗ふ時の水の手ざはりや濡れた肌へ吹きつける風に新らしい秋の気が充ちてゐて、長い間の夏に征服せられてゐた元気が急に踊り出した。

明治43年(1910)9月12日の日記より 光太郎28歳

若干、季節外れですがご寛恕の程。光太郎の「夏嫌い」は若い頃からのものでした。また、注意深く読むと、触覚でさまざまなことを感じ取っている点も見て取れます。これも後々までの光太郎の特徴でした。
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画像は千葉県北東部、今朝の朝日です。

昨日は上野の東京都美術館さんへ、第42回東京書作展を拝見に伺いました。
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右上は図録表紙です。

総評。
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今回は上位10点中7点が漢文系でしたが、その他3点が漢字仮名交じりで、すべて光太郎詩を書かれたものということで、実に驚きました。

まず最優秀に当たる「内閣総理大臣賞・東京書作展大賞」。中村若水さんという方で、光太郎詩「冬」(昭和15年=1940)の全文を書かれました。
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中村さんが会場にいらしていて、お話をさせていただきました。現在は川崎にお住まいだそうですが、元々は福島市のご出身、ご実家のそばには阿武隈川が流れ、ご自身、智恵子の母校である福島高等女学校の後身・福島女子高校(現・橘高校)さんを出られているとのこと。そこで、光太郎愛にあふれられているそうで、ありがたく存じました。

大書されている「精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、/一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。」という一節、さらにそれに続く「わたしは又無一物の目あたらしさと/すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、/雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう。」あたり、コロナ禍による閉塞感からの脱出といった願いをオーバーラップさせて書かれたそうです。

昨年の大賞を受賞された菊地雪渓氏もいらしていて、菊地氏が中村さんをご紹介くださり、3人でひとしきりこうした光太郎話に花を咲かせました。

菊地氏、昨年は第64回高村光太郎研究会で「光太郎の書について―普遍と寛容―」と題され、実演を交えながら光太郎自身の書の特徴などを語られました。また、連翹忌レモン忌にもご参加下さっています。中村さんもぜひこちらの世界に引きずり込みたいものです(笑)。

その菊池氏の書。昨年の大賞受賞者ということで、審査対象ではない「依嘱」作品です。
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書かれているのはやはり光太郎詩で「案内」(昭和25年=1950)。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺を亡き智恵子に案内するという内容の、意外とファンの多い詩です。

続いて「東京新聞賞」。まずは長谷部華京さんという方で、「上州川古「さくさん」風景」(昭和4年=1929)。
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さらに田川繍羽さんという方の「何をまだ指してゐるのだ」(昭和3年=1928)。
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ここまでは報道や菊地氏からのメール等で存じていましたが、これ以外にもやはり光太郎詩を題材にされた方が予想通り複数いらっしゃいました。やはりこのコロナ禍の中で、ポジティブな光太郎詩が書家の方々の琴線に触れたのでしょうか。

「特選」で、野嶋謳花さんという方。「冬の言葉」(昭和2年=1927)の全文です。
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さらに審査会員の方々の作。「失はれたるモナ・リザ」(明治43年=1910)の一節を、千葉凌虹さんという方。これは大正3年(1914)の第一詩集『道程』の冒頭を飾った詩です。
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同じく岩田青波さんという方が、「後庭のロダン」(大正14年=1925)の一節を。赤い紙が鮮烈ですね。
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それから、菊地氏と同じ「依嘱」出品で山口香風さん。長大な詩「落葉を浴びて立つ」(大正11年=1922)の一節です。
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そういえば、上野公園、ケヤキやイチョウの落葉がいい感じでした。
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コロナ禍なかりせば、台東区立中央図書館さんの企画展「上野公園~近代の歩み~」など、このあともゆっくり見て回りたかったのですが、やはり第三波のただ中ですので、残念ながら早々に撤収しました。

何らの軛もなく普通に歩ける日がはやく戻ることを切に願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

朝 味噌汁 昼、おから、晩 焼豆腐の煮附。

明治37年(1904)5月2日の日記より 光太郎22歳

戦後の日記にも、その日食べたものを記録していた光太郎ですが、その習慣は青年期から既にあったようです。ただ、さすがにこれだけでは無かったと思いますが(笑)。

下記は、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの市民講座で講師を務めさせていただいた際のレジュメから。
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地方紙『岩手日日』さんの一面コラム、一昨日掲載分です

日日草 2020年11月27日

海の幸、山の幸、そして豊かな自然に恵まれている本県。県民性はと言うと、口数は少なくとっつきにくい面があるが真面目で忍耐強く、物事に動じないといったイメージが強い。東北人に共通する気質だろう▼太平洋戦争下、詩人宮沢賢治の実家を頼って東京から花巻に疎開し、その後、周辺の山村に粗末な小屋を建てて7年間過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎も詩の中で「岩手の人沈深牛の如し」と寡黙で冷静沈着、思慮深い人柄を表明している▼クラスター(感染者集団)の発生で県内でも新型コロナウイルスの患者数は増加スピードを増し、緊張感が急速に高まっている。感染拡大に歯止めをかけるには「真面目」な県民性に頼る他ない▼マスクの着用、手指消毒、室内の換気に加えイベントの自粛や密閉、密集、密接の「3密」を回避する県民の行動、それに行政や医療関係者らの献身的な取り組み。見えない「敵」の封じ込めに官民一丸となった懸命の活動が続く▼1日の感染者数の最多更新が全国で相次ぎ、飲食店の時短営業や不要不急の外出自粛も呼びかけられるなど、感染は「第3波」の様相を呈している。1人ひとりが忍耐強く真面目に対策を講じる「岩手の人」で在り続けること。それが一日も早い収束への近道だろう。

まったくもって、感染拡大が止まらない状況ですね。昨日は全国で新たに2,600人超の感染が確認されたそうで……。下記グラフは昨日時点での全国の新規感染者数です。
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また、当方だけかも知れませんが、こうした状況に対し、以前より危機感が薄くなっているような気がします。『岩手日日』さんに引用されている「岩手の人」(昭和24年=1949)にあるように、「沈深牛の如し」でなくてはいけないのではないでしょうか。「岩手の人」、全文はこちら

【折々のことば・光太郎】

あゝ人生のはかなさよ。

明治37年(1904)4月17日の日記より 光太郎22歳

東京美術学校彫刻科の同級生だった山本筍一の見舞いに行っての感懐です。この前の部分には「いたくも痩せ衰へたる様とても恢復はむつかしかるべしとは誰が胸にも浮びし所なるべし。」とあり、そして他の用を済ませて帰宅したところ、「程なきに知らせありて山本君死去! あゝ。」。

山本は、どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。美学の講義を担当していた森鷗外には、けちょんけちょんに言われています。彫刻の技倆もはじめはまるで駄目で、同級生から小馬鹿にされていました。ところが、奈良へ修学旅行に行き、古仏の数々を目の当たりにして開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、若くして亡くなりました……。

コロナでは、相変わらず若年層の死亡はほとんどないようですが、高齢だから死んでいい、というわけでもありません。亡くなった方々の死を警鐘と捉えなければ、その方々も浮かばれませんね……。

市のサイト等に詳しい情報が出るのを待っていたのですが、まだのようで……。仕方なく見切り発車でわかっている範囲を紹介します。情報ソースは『広報はなまき』11月15日号です。

令和2年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~

市内五つの文化施設で「イーハトーブの先人たち」をテーマに共同企画展を開催します。
各施設を巡り、花巻ゆかりの先人や功績に触れてみませんか。

会期 12月5日(土)~ 令和3年1月  24 (日)

■入館料・休館日 施設によって異なります
※小中学生や、市内に在住または在学の高校生、富士大学生は「まなびキャンパスカード」や「学生証」の提示で無料。小学生と特別支援学校の児童・生徒1人につき保護者1人も無料になります。

■花巻新渡戸記念館
▽「猫塚家‐新田開発の先駆者‐」
 新田開発の先駆者として当地方の開発で活躍し、新渡戸家の新田開発の協力者でもあった猫塚家。代々受け継がれた資料から同家の業績を紹介します。
【会場】 同記念館(☎31-2120)

■萬鉄五郎記念美術館
▽「明治・大正・昭和前期のいわて近代美術館」
前衛絵画の萬鉄五郎や、西洋彫刻の長沼守敬(もりよし)、情緒的な表現で魅了する松本竣介。花巻にゆかりが深いこれらの表現者を中心に、明治期から昭和前期にかけて岩手の近代美術を形作った美術家を紹介し、その相関を検証します。
【会場】 同美術館(☎42-4402)

■花巻市博物館
▽「小野寺周徳‐花巻画人の先駆的存在‐」
医師と画人の二足のわらじを履きながらも、花巻画人の先駆者としてその名をはせた小野寺周徳。その生涯を振り返り、多彩な表現力を発揮した作品を紹介します。
【会場】 同博物館(☎32-1030)

■花巻市総合文化財センター
▽嶽妙泉寺(たけみょうせんじ)‐早池峰信仰に関わった人々‐」
江戸時代、盛岡城東の鎮山として重視された寺院「嶽妙泉寺」。早池峰山の信仰をたどり、それに関わった嶽妙泉寺の人々を紹介します。
【会場】 同センター(☎29-4567)

■高村光太郎記念館
▽「光太郎と佐藤隆房」
高村光太郎と佐藤隆房との生涯にわたる交流を各種資料で解説します。
【会場】 同記念館(☎28-3012)

スタンプラリー
共同企画展会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと次の協賛館のうち1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げます。
〇協賛館 宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷歴史民俗資料館、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館

バスツアー
 共同企画展の開催館5館をバスで巡ります。
 □期日 ①12月10日(木)②令和3年1月14日(木)
 □時間 午前9時~午後3時10分
 □集合場所 まなび学園
 □定員 各回20人(抽選)
 □参加料・入館料 無料(昼食代は自己負担)
 □申込期限 11月30日(月)
 □申し込み 本館生涯学習課(☎41-3588)
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高村光太郎記念館さんでは、「光太郎と佐藤隆房」。
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佐藤隆房は花巻病院院長にして宮沢賢治の主治医。光太郎の花巻疎開に骨折った一人でもあります。終戦後の一時期、旧太田村の山小屋に移る前の光太郎を自宅離れに住まわせてくれたりもしました。光太郎歿後は財団法人高村記念会を立ち上げ、彼の地での光太郎顕彰に尽力してくれました。

昨年のこの企画では、「光太郎からの手紙」ということで、主に佐藤に宛てた手紙が展示されましたが、今回はどんな感じなのか、当方、関わっていないので不明です。ただ、他の用件もあり、12月4日(金)、5日(土)と一泊で盛岡、花巻に行って参りますので、その際に拝見し、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

時候あたゝかし。上野権現前清水堂側の彼岸桜は早やちらほらと笑みそめて山は今が最も風情ある時なり。


明治37年(1904)4月2日の日記より 光太郎22歳

季節外れで済みません(笑)。昔から上野公園一帯は桜の名所でした。明日は上野の都美さんに東京書作展を拝見に伺います。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻にあり、光太郎や宮沢賢治もたびたび宿泊したゆかりの宿、大沢温泉さん。当方も花巻に宿泊する際は、真っ先にここに予約。取れなかった場合などに他を当たるという習慣になっています。

先月、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)に行った際にゲットしてきたパンフレット類から。
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すべて光太郎の名を挙げて下さっています。

その大沢温泉さんで、求人です

株式会社 大沢温泉山水閣フロント係 募集要項

募集要項
 仕事詳細
  *山水閣のフロント業に従事いたします。001
  <主な業務>
  ・お客様のお出迎え、受付、案内業務
  ・各種会議、研修会場のセッティング
  ・予約受付、会計清算業務
  ・その他 付随する業務
 職種 ホテル業務
 雇用形態 正社員
 勤務地(住所) 岩手県花巻市湯口字大沢181
 屋内の受動喫煙対策 あり(禁煙)
 特記事項 館内に喫煙場所あり
 勤務時間 変形労働時間制
  変形労働時間制の単位 1年単位
  就業時間1 7時30分〜19時00分
  就業時間2 9時00分〜20時30分
  就業時間3 8時00分〜19時00分
 最寄り駅 JR東北本線 花巻駅
 最寄り駅から就業場所までの交通手段 車 所要時間20分
 給与・年収 155,000円〜180,000円(月額)
 休日・休暇
  年間休日数 96日 週休二日制 シフト制。月7日の休日を基本とする。
  他に年公休12日有(繁忙期以外で、日程相談のうえ取得)
  6ヶ月経過後の年次有給休暇日数 10日
 資格
  (普通免許自動車免許:通勤用) 普通自動車運転免許 あれば尚可(AT限定可)
 スキル・経験 必要な経験・知識・技能等 不問
 企業の特徴
  豊沢川の渓流沿いに立地し、山水閣、自炊部、菊水館と三つの異なる施設からなる。
  大浴場が五つありお風呂巡りができる。宮沢賢治、高村光太郎ゆかりの温泉でもある。
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企業情報
 会社名 株式会社 大沢温泉
 本社所在地 岩手県花巻市湯口字大沢181
 設立日 昭和22年
 資本金 3,240万円
 代表者 役職 代表取締役社長 
 代表者名 高田 貞一
 従業員数 企業全体75人 うち女性40人 うちパート10人
 事業内容 温泉旅館業
 各種保険 雇用保険,労災保険,健康保険,厚生年金

その他・PR
 雇用期間 雇用期間の定めなし
 求人に関する特記事項 従業員食堂あり 1食@100円
 年齢 年齢制限あり 年齢制限範囲〜61歳
 年齢制限該当事由 定年を上限
 年齢制限の理由 定年年齢62歳の為労働基準法第61条の深夜業務
 備考 月平均労働日数 22.4日
 賞与 賞与制度の有無 あり007
 賞与(前年度実績)の有無 あり
 賞与(前年度実績)の回数 年2回
 賞与金額 計 1.50ヶ月分(前年度実績)
 利用可能託児施設 なし
 転勤の可能性の有無 なし
 再雇用制度 あり
 上限年齢 上限 65歳まで
 育児休業取得実績 なし008
 通勤手当 実費支給(上限あり)月額17,700円

応募方法
 選考プロセス 面接(予定1回)
 採用人数 1人
 募集理由 増員
 応募資格 不問

家庭やら何やらのしがらみが一切なければ、当方も応募するところですが……。


【折々のことば・光太郎】

天の奇巧を弄ぶこそいとをかしけれ。

明治37年(1904)3月31日の日記より 光太郎22歳

この年の3月31日は十二支十干の「甲子(きのえね)」。この日が雨だとその後長雨になり、晴れればそのまま晴天が続くという俗信があるそうで、その点についての記述です。

おおいなる自然現象の不思議、ひいては詩「道程」(大正3年=1914)にも謳われた「自然」への畏敬の念が既に読み取れます。

けっこう前に始まっていたのですが……

企画展「上野公園~近代の歩み~」

期 日 : 前期 2020年 9月18日(金曜日)~10月14日(水曜日)
      中期 2020年10月16日(金曜日)~11月18日(水曜日) 
      後期 2020年11月20日(金曜日)~12月13日(日曜日)
会 場 : 台東区立中央図書館 台東区西浅草3丁目25番16号
時 間 : 月~土 9:00〜20:00 日 9:00~17:00
休 館 : 第3木曜日
料 金 : 無料

上野の山は、江戸時代、天海により寛永寺が建てられ、将軍家の菩提寺がある桜や蓮の名所として、一大行楽地となりました。上野戦争を経て、日本初の公園になると、博物館、美術館などが建てられ、現在の文化施設が集まる地域として整備されていきました。

本企画展では郷土・資料調査室で所有する浮世絵・絵はがき・地図等の貴重資料を用いて、明治初期から昭和に至るまでの上野公園の歴史をご紹介します。
みなさまのご来場をお待ちしております。
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上野といえば、東京美術学校の教授と生徒だった、光雲・光太郎父子のホームグラウンドのひとつですね。

そこで、美校として依頼を受け、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」(明治31年=1898)が鎮座ましましています。
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遡って明治10年(1877)には、第一回内国勧業博覧会が上野で開催され、光雲は師匠・高村東雲の代作で白衣観音像を出品し、一等龍紋賞に輝きました。
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光太郎も生まれは下谷区西町三番地(現・台東区東上野)でした。

下って大正後期、光太郎は上野動物園に足繁く通い、「傷をなめる獅子」(大正14年=1925)、「苛察」(大正15年=1926)、「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)、など、連作詩「猛獣篇」所収の詩のいくつかをを構想します。
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そうした近代の上野を、当時の資料を基に紹介する展示、おもしろそうですね。

ちなみに当方、同館で平成29年(2017)に開催された同様の展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見しました。こうした取り組みに積極的である同館の意気やよしと存じます。

コロナ禍には充分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

赤貧の醍醐味、是れだ。赤貧を何も好むでは無いが、人間の徳操、品位といふものがいかなる場合に於いても維持せられ得るものだといふ事を実験したいのだ。

明治36年(1903)7月7日の日記より 光太郎21歳

セザンヌなどとも交流があり、若い頃は「赤貧洗うが如し」だったというフランスの作家、エミール・ゾラの伝記を読んでの感想です。

光太郎が生まれた頃は、廃仏毀釈の影響で、仏師であった光雲の注文仕事は激減。酉の市の熊手や洋傘の柄などを作って凌いでいたそうです。それが、明治20年(1887)には皇居造営に伴う内部彫刻の仕事を得、さらに2年後には岡倉天心の推挙で美校に奉職。このころから一家の生活は安定していきました。

しかし光太郎はのちに家督相続を放棄。智恵子と二人、赤貧というほどではないにせよ、豊かではない生活を続けます。

そうした中でも「貧すれば鈍する」とはならなかったわけで、見習いたいものです。

来年の丑年を前に、光太郎の父・光雲による牛の木彫が出品される(されている)企画展を2件ご紹介します。

まず、埼玉で来週からのもの

遠山記念館 コレクション展 2

期 日 : 2020年12月5日(土)~2021年1月24日(日)
会 場 : 遠山記念館 埼玉県比企郡川島町白井沼675
時 間 : 10:00〜16:30
休 館 : 月曜日 祝祭日の場合は開館、翌日休館
      年末年始(12月22日(火)~1月5日(火))
料 金 : 大人 800円(640円) 学生(高校・大学)600円(480円)
      ※中学生以下は無料  ( )内は20名以上の団体料金
      ※障害者手帳をお持ちの方は200円割引

遠山記念館の所蔵品の中から、狩野晴川院養信「源氏物語子の日図」、仁阿弥道八「黒楽銀彩猫手焙」をはじめとし、干支にちなんだ彫刻や小袖類など、新春を迎えるのにふさわしい美術品を展示します。

また大河ドラマの主人公である明智光秀が所持したと伝えられる、「青磁香炉 銘 浦千鳥」を公開します。
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光雲木彫は、ずばり「牛」。大正2年(1913)の作だそうですが、当方、見たことがありません。画像も初めて見ました。

遠山記念館さん、たまたま先月に行ったのですが、光雲作品も所蔵しているというのも存じませんでした。ぜひ見に行かねばと思っております。

木目の紋様が牛の筋肉のようで、見事な表現です。それから、おそらく台座から本体まで同じ材で繋がっている一木造りでしょう。

他に仁阿弥道八の陶製の猫や、香川勝慶の金工による鼠など、愛らしい作品群。猫は13番目に神様の所に行ったので、干支には入れてもらえなかったはずなのですが(笑)。
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ロビーには、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の「女」も展示されています。

もう1件、栃木から。上記の展覧会の情報を得て、「あ、そういえば、あそこでも出すかも」と思って調べたらそのとおりでした。というか、すでに始まっていました

第4回 佐野東石美術館開館40周年記念「木彫の美」

期 日 : 2020年10月19日(月)~12月20日(日)
会 場 : 佐野東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 大人 700円 ペアチケット 1,000円 小・中・高生 300円
      団体(15名以上)の団体料金 大人 400円 小・中・高生 150円
休 館 : 色が塗りつぶされている日が休館日です。

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初代館長菊池登の愛した木彫を中心に、二代館長菊池義明、三代館長菊池宏行の蒐集した三代にわたる木彫コレクションを一堂に展示いたします。近世の円空仏から近現代の高村光雲、石川光明、山崎朝雲、佐藤玄々(朝山)、平櫛田中、澤田政廣、圓鍔勝三、長谷川昂、橋本堅太郎、現在活躍中の神保雅など選りすぐりの作品をご覧いただけます。人と自然の共生の中で生まれた芸術、木彫の美をどうぞご高覧ください。

こちらで所蔵されていて、時折、出品されている「牧童」(大正9年=1920)が展示されています。
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一度拝見して参りましたが、これまた見事な作ですね。まさしく超絶技巧。

同館では光雲の盟友、直弟子、孫弟子らの作も所蔵しており、併せて見ることで近代木彫の系譜の一端を知ることが出来ます。

コロナ禍にはお気をつけつつ、それぞれぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

尚工風あるべし。

明治36年(1903)6月11日の日記より 光太郎21歳

「なおくふうあるべし」と読みます。「まだ工夫すべき点がある」といった意味で、数ヶ月取り組んできた自作の彫刻に対する評。適当なところで「ま、いいか」としない姿勢は、若い頃からのものでした。

レジ袋有料化に伴い、マイバッグ持参の習慣がついた方も多いのではないでしょうか。

そこでおそらく新製品と思われるバッグ系。もちろんここで紹介するので光太郎がらみです(笑)。

まずエコバッグ

文学作品エコバッグ 道程モチーフ

高村光太郎の詩集『道程』の一節、「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」をイメージしたデザインです🚶🏻‍♂️🛤 シンプルで使いやすさ抜群🌟

サイズは、縦33㎝×横28㎝。ファッション誌3冊程度が楽々入るサイズです📚 持ち手も肩にかけられる便利な長さ♪お値段は書店様によって異なりますが、約100円〜150円のお得な価格で多く販売いただいております!是非シリーズコンプしてください♡

発売元/文学の雑貨  
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「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」を英訳した「No way before me./A way behind me.」という文字がプリントされています。

他に、「ウォールデン 森の生活モチーフ」、「赤毛のアンモチーフ」、「銀河鉄道の夜モチーフ」、「ハムレットモチーフ」、「こころモチーフ」。それぞれかなりシャレオツですね。
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取り扱い店舗の一覧はこちら

続いて、一回り小さく、肩に斜めがけするタイプのサコッシュ

高村光太郎/智恵子抄/山麓の二人/わたしもうぢき駄目になる/サコッシュ

素材:綿100% キャンバス 280g/㎡
本体サイズ(mm) 300 × 230 紐の長さ(mm)  1,050 容量  0.7L
価格 ナチュラル/ライトグレー ¥2,530  ブラック ¥2,770
発売元/イニミニマニモ
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発売元のイニミニマニモさん、以前にもTシャツでご紹介していました。

その後も新商品を色々出されているようで、「山麓の二人」バージョン以外に「文学者ボックスロゴ 高村光太郎」バージョン、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る-座右の銘-」バージョンで、サコッシュ、トートバッグ、Tシャツ、パーカーなど、多くのラインナップが用意されています。中には持ち歩いたり身につけたりするにはちょっと勇気が要るかな、というものも(笑)。
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勇気のある方、ぜひお買い求め下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

仕事しつつ自ら己れを見るにいかにしても天才とは見がたきのみか器用ともゆるしがたし。是非もなき事なれど口惜しからでやは。さもあらばあれ、勉めて止まず、倦まず撓まずすゝみゆかば遂には彼岸に達し得ん。否達せしめからざるべからず。

明治36年(1903)4月11日の日記より 光太郎21歳

光太郎の自己に厳しい性分は若い頃から如実だったのですね。

ハードカバーの文庫化です

文字に美はありや。

2020年11月10日 伊集院静著 文藝春秋(文春文庫) 定価720円+税

文字に美しい、美しくないということが本当にあるのか――。
そんな疑問を抱いた著者が、「彼を超える書家はあらず」と言われた〝書聖〟王羲之に始まり、戦国武将や幕末の偉人、作家や芸人ら有名人から書道ロボットまで、国内外を問わず歴代の名筆をたどり、独自の視点で考察する。

取り上げた人物たち
王羲之 鑑真 空海 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 世阿弥 千利休 一休宗純 松尾芭蕉 宮本武蔵 大石内蔵助 水戸黄門 吉田松陰 高杉晋作 土方歳三 近藤勇 坂本龍馬 西郷隆盛 勝海舟 夏目漱石 正岡子規 谷崎潤一郎 永井荷風 井伏鱒二 太宰治 高村光太郎 古今亭志ん生 立川談志 ビートたけし ほか
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元版は平成30年(2018)に同社から刊行されています。
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さらに遡れば、元々は雑誌『文藝春秋』の連載で、光太郎の項「猛女と詩人の恋」は平成26年(2014)10月号に掲載されました。
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木彫「白文鳥」(昭和6年=1931)を収めるための袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌、詩「道程」(大正3年=1914)の草稿が取り上げられています。また、書論「書について」(昭和14年=1939)にも言及されています。

新刊書店で平積みになっています。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

今作りをるものは今の我にてともかくも作りをるものゝこれ亦一二週乃至一二ヶ月も立たば忽ち顧るにも堪へぬものとやなりもせん 此をおもへば我ながらあまりの甲斐なさに口惜しなどいふもおろかなる。


明治36年(1903)4月8日の日記より 光太郎21歳

伸び盛り、というわけですね。「今」の作品は「今」の精一杯のものとしながらも、少し経てばそれ以上のものが出来るはずだ、と、現状に満足しない姿勢には好感が持てます。

11月18日(水)、地方紙『岩手日日』さんの記事から

目指せ「はなまき通」 ご当地検定へ事前講習会【岩手】

 花巻観光協会主催のご当地検定「はなまき通検定」に向けた事前講習会は14日、花巻市交流会館で開かれた。受検申込者が観光ガイドを講師に花巻の民俗芸能やイベント、先人などに関して知識を深めた。
 2014年度以来、4回目となる今回の検定は45人が受検予定。希望者対象の事前講習会には午前、午後の部合わせて33人が受講を申し込み、うち午前の部は26人が参加した。
 初めに19年に211万人余りとなった観光客入り込み数、81万5700泊余りの宿泊客数の推移などを同協会職員が説明後、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長が講師となって講習を進めた。
 高橋会長は検定テキストを基に花巻の歴史や花巻八景、早池峰神楽や鹿(しし)踊り、わんこそばのほか、宮沢賢治や高村光太郎などの先人についても解説。特に賢治に関しては生い立ちから亡くなる当日の様子まで詩や童話の作品を交えて詳細に伝えた。
 改めて勉強するため検定に再挑戦するバスガイドの伊藤美雪さん(27)=北上市=は「ある程度分かっているつもりでも知らないことが多く、受講して良かった。最期まで自分のことより人のためを考えていた賢治さんの話には涙が出そうになった」と話した。
 今回の検定は「初級編」として12月5日に予定され、花巻市内を中心に近隣地域、県外からも受検する。4択式の50問を出題し、100点満点で80点以上が合格になる。
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はなまき通検定」、「2014年度以来、4回目となる」そうですが、存じませんでした。

実施要項等調べてみましたところ、以下の通りでした。すでに募集期間を過ぎていますが、こういうイベントもあるんだな、ということで。

『はなまき通検定』実施のお知らせ

◆はなまき通検定とは?
花巻に関する知識の深さを認定する検定試験です。この検定を通じて、花巻の良さを再認識していただくとともに、観光に従事する方だけではなく市民皆で観光客をおもてなしできるよう、花巻の知識を習得していただくことを目的に実施します。今回は初級編の検定となります。

◆はなまき通検定の概要
日時:令和2年12月5日(土)午前10時~午前10時50分(50分間)
場所:花巻市交流会館(岩手県花巻市葛3-183-1)
検定料:500円(検定当日に会場にてお支払い)
受験資格:年齢・住所等の制限なくどなたでも
定員:申込先着70名 

◆合格特典
合格者全員に合格証と合格記念ピンバッジを進呈いたします。

◆お申込みについて
お申込み期間:令和2年10月9日~令和2年10月23日(金)
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記事にあった「検定テキスト」、PDFファイルでリンクが貼られていました。全72ページ、かなりの分量で、内容的に多岐にわたっていますし、各項目の掘り下げもかなり深いと感じました。

光太郎の項も5ページにわたっていて、花巻とは直接関わらない部分まで詳述。たしかに、なぜ光太郎が花巻に住むことになったのか、その背景を知るためには必要なのかもしれません。下記画像、クリックで拡大します。

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その他の項目の中にも、光太郎の名がちょいちょい出ています。

しかし、これで「今回は初級編」だそうですから、「中級編」や「上級編」になったらどんだけ~? という感じですね(笑)。

全国の自治体の社会教育等担当の方、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

写真より制作することを考へれば実物を写生するなどわけも無く出来ざるべからざるやの感あり。

明治36年4月6日の日記より 光太郎21歳

五代目尾上菊五郎の肖像彫刻制作について。未だ「卵」ながら、彫刻家としての矜恃が感じられます。

3件ご紹介します。

掲載順に、まず、『読売新聞』さん。11月11日(水)の夕刊一面コラム

よみうり寸評

山本周五郎の短編に、こんな台詞(せりふ)が出てくる。<もし秋だったらどんなに悲しかったでしょう。……木や草が枯れて、夜なかに寒い風の音などが聞こえたら>(「落ち梅記」)◆青々と色づいていた草木から、その色が消えてゆく。晩秋の光景に悲しみや寂しさが増すことはあっても、元気づけられるという話はあまり聞かない◆数少ない例だろう。<秋に木の葉の落ちる時、その落ちたあとにすぐ春の用意がいとなまれ……>と高村光太郎は随筆に綴(つづ)った。よく知られる英詩の一節「冬来たりなば春遠からじ」よりさらに早く、秋の落葉に春の萌芽(ほうが)があるのだと気づかされる◆これも春の兆しと受け止められよう。新型コロナのワクチンを開発中の米大手製薬会社が、臨床試験参加者の9割超で効果が確認されたと発表した。ただし安全性などで不明な点も多く、日本で接種が始まる時期は見通せない◆実用化を待ちつつ、来たる冬をしっかり耐え抜く。その覚悟を当面は固めるしかないのだろう。思えば冬を経ずに来る春はない。

引用されているのは、随筆「山の春」(昭和26年=1951)の一節です。

続いて、定期購読している、日本古書通信社さん発行の月刊誌『日本古書通信』の11月号(11月15日発行)。巻末に掲載のコラムです

談話室

▼10月9、10日、GoToを利用して花巻と盛岡に車で行ってきた。二日で走行距離一〇四三キロ、66歳になるが疲れもせず、まだ体力あるなと自信が持てた。主な目的は花巻在太田の高村光太郎山荘と、宮沢賢治生家跡、渋民村の石川啄木記念館。山荘で、光太郎は終戦前から昭和27年まで約七年間を過ごした。伊藤信吉さんが古通豆本『亡命高村光太郎』に書かれたように、戦争の痛手から再生する厳しい試練を自らに課した時間と所だ。山荘での生活は、詩「雪白く積めり」に象徴的である。当時山荘を訪ねた人は多い。七十年前どのくらい時間がかかったのか。今は花巻中心街から車で30分だが、当時は山荘から小さな鉄道の駅二ツ堰まで徒歩四キロ歩き、鉄道で花巻まで20分。東京から花巻までは充分一日を要したろう。確かに亡命に相応しい遠隔の地であった。記録は多いが実感できた。
 渋民では、啄木の「やはらかに柳あをめる」の歌碑の前に立ちたかった。啄木の「ふるさとの山」は、岩手山か、対面する姫神山か。両山だという説もあるが、姫神山はきれいな稜線だが、迫力が違う。岩手山がふるさとの山であろうと実感した。


終戦前から昭和27年まで」は誤りで、正しくは「終戦直後から昭和27年まで」です。

『亡命高村光太郎』は、光太郎と交流のあった伊藤信吉著。同社でかつてシリーズとして刊行していた「こつう豆本」の一冊で、書き下ろしではなく、雑誌『国文学 解釈と鑑賞』や、『高村光太郎全集』の月報に初出の文章を再掲したものです。
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「豆本」というだけあって、タテ10㌢、ヨコ7.5㌢の可愛らしい本です。

最後に、『日本農業新聞』さんの一面コラム。昨日の掲載です

四季 日ごと色づく木々の葉に、秋の深まりを知る

照り映える紅葉に、八木重吉の詩「素朴な琴」が重なる▽「この明るさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美くしさに耐えかねて/琴はしずかに鳴りいだすだろう」。詩人の郷原宏は、この詩を「おそらく日本語で書かれた最も美しい四行詩である」と評した。宗教詩人にして自然詩人の重吉の悲しいまでに澄んだまなざしが、 そこにある▽高村光太郎は、重吉の詩集に「このきよい、心のしたたりのやうな詩はいかなる世代の中にあつても死なない」との一文を寄せた。秋が巡るたびに、重吉の詩に浸るのをささやかな喜びとする。井上靖の詩の一節も忘れ難い。「刻一刻秋は深まり、どこかで、謙譲といふ文字を少年が書いています」(「十月の詩」より)▽北国からはもう雪の便りが届く。同じく井上に次の詩句がある。「ひしゝと迫る晩秋の寂しさを、落葉をふんでゆく母の老の姿に感ずる」(「冬の来る日」)。こちらの方が実感に近いか。 はらはら舞い落ちる落ち葉の中でも、ひときわ優美なのはイチョウである。今度は、フランク永井の歌った「公園の手品師」が頭の中で流れ始める▽<秋がゆくんだ冬がくる 銀杏は手品師 老いたピエロ>。長い影を引き連れ、散歩の足が伸びる。

光太郎の引用部分は、昭和18年(1943)に書かれた「八木重吉詩集序」から。ただ、戦時ということもあり、この時点では刊行に至りませんでした。

早世した八木重吉と光太郎、直接出会ったことはなかったようですが、当会の祖・草野心平らを通じ、その詩業に触れていたようですし、八木の未亡人・登美子とは交流がありました。

昨日までは季節はずれの暖かさでしたが、今日からは一転して平年並みの気温となっていくようです。秋も深まりつつありますね。

画像は自宅兼事務所の庭の紅葉です。
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【折々のことば・光太郎】

山岸氏の侠気は厚く謝するところなり。彫塑の上のみならず、文学上にてもかゝる方面に知人あるは最も都合よきことなればうれしともうれし。


明治36年(1903)4月2日の日記より 光太郎21歳

「山岸氏」は山岸荷葉。先日も書きましたが、光太郎より7歳年上の作家です。光太郎が五代目尾上菊五郎の肖像彫刻を作るに際し、いろいろと骨折ってくれました。

人脈が広がってゆくのを喜ぶ光太郎。当方も常々それを感じています。

11月16日(月)、福島二本松から帰ったところ、注文した書籍が届いておりました。

井原市立田中美術館さんで開催中の特別展「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」図録です。
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題名の通り、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を中心に据えた展覧会ですが、親友ということで、光太郎ブロンズも展示されています。

代表作「手」。台東区の朝倉彫塑館さん所蔵のもので、数少ない光太郎生前の鋳造にして、台座も光太郎が自身で彫ったものです。
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光太郎が東京美術学校彫刻科を出た際の卒業制作「獅子吼」(明治35年=1902 東京藝術大学蔵)、父・光雲像を別として、初めてきちんと依頼されて造った肖像「園田孝吉像(大正4年=1915 碌山美術館蔵)」。
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横浜から逃げてきた水商売の少女をかくまい、代わりにモデルになってもらって造られた「裸婦坐像」(大正6年=1917 呉市美術館蔵)、「手」とほぼ同じ頃造られた「」(大正7年=1918 碌山美術館蔵)。
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造花を売り歩いて糊口をしのいでた元旗本の老人をモデルにした「老人の首」(大正14年=1925 東京国立博物館蔵)。東京美術学校での恩師を造った「黒田清輝胸像」(昭和7年=1932 東京藝術大学蔵)。
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その他、守衛はもちろん、「同時代の作家」ということで、ロダン、ブールデル、マイヨール、長尾杢太郎、中村不折、小山正太郎、柳敬助、齋藤与里、朝倉文夫、戸張孤雁、中村彝、鶴田吾郎、堀進二、中原悌二郎、石井鶴三、藤川勇造。それぞれの出品作画像と作品解説、略歴。

そして「生誕130年彫刻家高村光太郎」展でお世話になった同館学芸員・青木寛明氏による長文の解説「荻原守衛の生涯」が掲載されています。

届いた封筒を手にして「おっ」と思ったのですが、この手の図録には珍しい、コンパクトなA5サイズです。それで十分だな、と感じました。同館サイトに案内が出ていますが、現金書留で手配し、入手可能。定価1,000円+送料370円です。ぜひどうぞ。

また、展覧会としては今月29日(日)までの会期となっています。

【折々のことば・光太郎】

われの短歌に題して「馬盥」といふ。最もわが意を得たり。鉄幹先生のかゝる才は驚くべきものあり。

明治36年(1903)4月1日の日記より 光太郎21歳

自身の短歌が20首が掲載された雑誌『明星』を見ての感想です。20首の総題が「馬盥(ばだらい)」。日記に有る通り、与謝野鉄幹がその題を付けたとのこと。

「馬盥」は二種類の意味があり、まず字面通りに「馬を洗う大きな盥」、それから、それに似た大きな花器を指します。ここでは後者。20首中に「馬盥」の語は使われていないのですが、20首が「馬盥」に挿された花々のようだ、という連想から鉄幹が題したわけで、光太郎はそのセンスに感服しています。

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