昨日、「智恵子抄」系 のオンライン講座と音楽ライブをご紹介しましたので、「智恵子抄」つながりで。

まず、智恵子の故郷・福島県二本松市に隣接する大玉村、先月の『広報おおたま』さんから。

おおたまいどばた会議 with地域おこし協力隊 大玉村地域おこし協力隊の小川・遠藤による村民の方々とのトーク・セッション 大玉村が映し出す姿 第4回毛利良之さん(yy vineyard)「大玉村のテロワールを」

1.二拠点生活とワイン作り
 奥さんの故郷である大玉村に家を建てたのは2012年のこと。毛利さんにとって故郷と言える場所がなかったため、福島にいる親戚の存在は大きく、震災によって被害を被ってしまった福島への思いが強くなったのがきっかけだそうです。横浜との二拠点生活をしながら、自然豊かな大玉村で農作物を作る楽しさに触れ、もともと好きであったワインを2016年から大玉村で作り始めました。
2.OOtama blue誕生と苦悩
 ワインが初めてできたのは2022年。高村光太郎の「智恵子抄」に出てくる有名なフレーズの青い空からブランド名を「OOtama blue」と名付けたそうです。しかし、自然相手には思い通りにいかないことが多く、昨年はハクビシンに実を食べられ、今年は高温障害、病虫害により実が萎縮してしまったそうです。だからこそ、ワインができた時の喜びは大きく、たりがいを感じていると話しています。
3.これからのOOtama blue
 現在、約700本のブドウの木を育て、年間1000本のワインボトルを生産することを目標に励まれています。ワインは100%ブドウの果汁からできており、OOtama blueでは大玉村の土地の味(テロワール)ともいえます。OOtama blueが大玉村の特産品となり、大玉村の魅力をさらに幅広く伝えていきたい。そして、村民の方にも大玉村にはOOtama blueがあるよと言ってもらえるようになりたいと話しています。
対談を終えて
 毛利さんはよく大玉村が全国的に認知され、大玉村に住んでいることを誇りに思える人が多くなれるようにしたいと話されています。これまでNPOの活動で多くの地域と交流をし、「地域おこし」に関わっている大先輩である毛利さんの言葉には重みがあり、私は常に勉強させられてばっかりです。OOtama blueは桜が咲く頃に出来上がります。ぜひみなさんも生まれ育った大玉村のテロワールを感じてみてください。
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ワイナリーyy vineyardさんのサイトはこちら。「OOtama blue」についてはこちら。

もう1件、今度は万年筆です。「日本全国お取り寄せ手帖」さんというサイトから。

創業100年の老舗が福島の美しい星空を表現「ほんとの星空。「紡ぐ」万年筆」

 今回、編集長アッキーが気になったのは、万年筆などの筆記具を中心にノートや便箋、カードなど、ペンとノートのある暮らしを彩る福島の「文房具のお店 Pentonote」。まもなく創業100年という株式会社文化堂 代表取締役社長の中野義久氏に商品の人気の秘密を取材陣がうかがいました。

―会社の沿革を教えてください。
中野 創業は1926年、会社設立は1953年です。父が他界し、私が代表になったのは2010年11月ですが、就任して4ヶ月後に東日本大震災がありました。当時、建物の被害はあまりなかったのですが、去年の3月の地震で建物が被災し、現在取り壊して再建中です。2回の大きな地震には耐えましたが、3回目でとうとう駄目になってしまいました。
 再建にあたってクラウドファンディングを行いました。今、街中ではないところに仮店舗として営業しています。これまでは商店街に属していましたが、現在は郊外で営業しているため、わざわざ足を運んでもらう理由が必要でした。そこでベーグル屋を立ち上げ、ベーグル目的のお客さんが店舗にも来ていただくことを目指しました。ベーグルは2ヶ月前ぐらいからオンラインでも販売しています。

―創業から100年、会社として変わらない思いはございますか。
中野 老舗と言われますが、今の時代、商売として老舗が有利ということはありません。ただ、100年築いてきた信用はあります。その信用を伸ばしていくことは大事だと考えています。

―万年筆はどういった方が購入されていますか。
中野 50年くらい前は営業マンが万年筆を持ち歩いて販売することもあるくらいメジャーでしたが、今は万年筆を好きな人だけが使うようになりました。手書き離れが進んだ後に、あらためて手書きの良さが再認識され、ブームとまではいかないですが、万年筆が好きな人たちが増えています。購入される年代で多いのは30~40代の女性です。青やピンクなどたくさんの色のインクを出したことで興味を持っていただくことが増えました。

―今回発売された「ほんとの星空。「紡ぐ」万年筆」はどういった商品ですか。
中野 地元・福島の星空をイメージしています。吾妻山の浄土平からは「ほんとの星空。」が見えます。夜も終わり、朝が漂い始める頃、黒が薄まり青になっていく、その時の空のインクを作ってみようと思いできたのが「ほんとの星空。」です。福島の美しい景色を多くの方に届けたいという思いを込めました。低重心タイプで、重心が下にあるとその重さで力を入れないで書くことができるのも特徴です。万年筆は5万円ぐらいまでは小刻みに構造にグレードがあります。5万円を超えてくると、装飾へのこだわりで価格が変わってくるので、この商品の構造のグレードは最高級です。
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―どういった方に使っていただきたいですか。
中野 こちらはヘビーユーザー向けの商品です。普通の万年筆を使っていた人がよりよい書き心地を求めて購入されることを想定しています。

―今後のビジョン、展望などをお聞かせください。
中野 メーカーとしてオリジナル商品を作っていきたいと考えています。Webサイトやインスタを運営していると、オリジナル商品の強みを感じます。一方、福島へのこだわりはあまり考えておらず、文房具としての機能性とデザイン性、個性を重視した商品を構想中です。
 実店舗では、来年の5月に新しい建物が完成します。県庁通り商店街にあるので商店街のイベントや弊社のイベントができるよう、1階部分は半分ぐらいイベントスペースとして設けています。街や商店街の盛り上がりをイベントスペースを通じて、作っていければと思っています。
 ECに関しては、商品の使い方や詳しい説明など、お客様が知りたいことをブログ記事にしています。最近はYouTubeも始めたので、お客様の層を広げていきたいと考えています。

―貴重なお話をありがとうございました。

「ほんとの星空。「紡ぐ」万年筆」
価格:¥55,000(税込)
店名:文房具のお店 Pentonote
電話:024-573-1590(10:00~17:00 土日祝除く)
定休日:インターネットでのご注文は24時間365日受付
オンラインショップ:https://pentonotelife.com/

※紹介した商品・店舗情報はすべて、WEB掲載時の情報です。変更もしくは販売が終了していることもあります。

<Guest’s profile>
中野義久(株式会社文化堂 代表取締役)
1979年生まれ、福島県福島市出身。株式会社文化堂 代表取締役
県庁通商店街振興組合 理事長 株式会社建堂工業 代表取締役 趣味:ゴルフ・麻雀・筋トレ

サイトを覗いてみましたところ、万年筆以外にインクも「ほんとの星空。」ブランドで販売されていました。
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ワインといい、万年筆といい、なかなかシャレオツですね。こういったもののお好きな方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

一昨二十四日の午後は此の部落のおつさんはじめ青年達の慰労会があり、数十人の饗宴が田頭さんといふ家に開かれ、小生も招待せられてさされる盃を皆うけてのみ、いささか酒の手並をあらはしました。


昭和21年(1946)6月26日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んで初めての村民たちとの飲み会。欧米留学中や在京時の文壇画壇の仲間たちとのそれと異なる、単なる近所の人々との飲み会というのも、生涯初だったのではないかと思われます。





ネット上で見つけたイベント情報を2件。

まずはオンライン講座です。

心に響くオンライン朗読サロン(3回)

期 日 : 2024年1月26日(金)、2月9日(金)、3月1日(金)
主 催 : NHKカルチャー西宮ガーデンズ教室
方 式 : Zoomによるオンライン
時 間 : 各回とも13:30~15:00
料 金 : 8,910円

講 師 : 朗読家・神戸女学院大学非常勤講師 川邊暁美

ご自宅で安心!マスクを外してのびのび楽しみましょう♪

世界でたった一つのあなたの音色である「声」の表現力に磨きをかけ、美しい日本語をあなた自身の声で味わう、心豊かなひとときをご一緒しませんか。呼吸・発声・発音・の基本から思いの伝わる表現技術まで、朗読スキルも学んでいただきながら、様々なジャンルの文章表現を楽しんでいただきます。初めての方も経験者の方も、伸びやかに声を響かせて思い思いの音色を奏でましょう。

【各回の内容】
1/26 作品の息遣いを声で伝える『智恵子の紙絵』高村光太郎
2/9 声の5要素を自在に使う 作品に合わせた表現方法 『十三年』山川方夫
3/1 好きな作品をもちより発表会、講師から個別アドバイス
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『智恵子抄』は詩だけでなく、散文や短歌も収録されており、今回テキストとされるのは散文の「智恵子の切抜絵」(昭和14年=1939)と思われます。案内では「智恵子の紙絵」となっっていますが、「智恵子の切抜絵」ではイメージが湧きにくいということでしょうか。

もう1件、音楽ライブ情報です。

黄昏に旅情歌を歌う

期 日 : 2024年1月26日(金)
会 場 : ヤナカフェ西東京 東京都西東京市柳沢2-13-9
時 間 : 16:00~17:00
料 金 : 2,000円(ワンドリンク付)

出 演 : 岡雅子(テイチクエンタテインメント) 


美味しく香り高い珈琲 紅茶をマスターがご用意してお待ちしています。終了後はそのままお食事お酒、お茶をヤナカフェでどうぞ。

セットリスト
宗谷岬 銀色の道〜北上夜曲 岬めぐり 智恵子抄 案山子 津軽海峡・冬景色
東京の灯よいつまでも 椰子の実 愛媛・瀬戸内始まりの「ふるさと」 昴
アンコール 高校三年生
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「智恵子抄」がラインナップに入っていますが、おそらく智恵子の故郷・二本松にほど近い小野町出身の丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲で、二代目コロムビア・ローズさんが歌われた「智恵子抄」(昭和39年=1964)でしょう。リリースされてちょうど60周年ですね。

ただし、「ご予約満席」だそうです。それでもキャンセル等有るかもしれませんし、こういうイベントがあったという記録のためにもご紹介しておきます。

【折々のことば・光太郎】

たちまち雪が消えて春がいちめんに小屋のまはりにみちました。ゼンマイ、ワラビをはじめとして木の芽、草の芽、葉に先だつ木々の花、不思議な形態の美を持つ山草の花。目がまはるやうです。


昭和21年(1946)5月10日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

昨日ご紹介した書簡と前後しますが、花巻郊外旧太田村にようやくやってきた遅い春を心から喜んでいます。都会生活が長かった分、山村の春は新鮮に感じられたことでしょう。

過日、概要をお伝えした岩手県花巻市立の記念館さんが「イーハトーブの先人たち~」の統一テーマで行う企画展示「ぐるっと花巻再発見!」。今日開幕です。

高村光太郎記念館さんでは「光太郎からの手紙」と題し、光太郎が諸家に送った書簡12通を中心にした展示です。詳細な情報、展示風景の画像等が花巻市役所さんからもたらされましたのでご紹介します。

まずフライヤー。
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プレスリリースから。

・展示主旨および概要
 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻町へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎の消息を外部に知らせる手段は手紙が中心でした。
 光太郎からの手紙は事務連絡的なものから、日々の生活や心境を語るものまで多岐にわたります。特に、太田村山口集落への移住にかかわっては、建設準備から食生活、初めての越冬など日記のように詳細に記されています。
 この企画展では昭和20年の戦災による疎開直前から昭和31年に東京のアトリエで没するまでの間に、花巻の医師・佐藤隆房とやり取りされた手紙を中心に展示し、山居七年から最晩年に至る光太郎の足跡をたどります。
 また、女優の渡辺えり氏より寄贈された、渡辺正治宛に光太郎から差し出された葉書をあわせて展示します。(渡辺正治氏は渡辺えり氏の実父、令和4年5月逝去)

・展示の見どころ
昭和21年に渡辺正治宛に差し出された葉書は初公開の資料です。
展示室内には昭和20年から27年までの間に高村光太郎から佐藤隆房宛に差し出された手紙を中心に展示しており、『山居七年エピソードパネル』と併せて見ることで、手紙の内容の背景を詳しく知ることができます。

渡辺正治宛葉書 昭和21年11月30日付
佐藤隆房宛葉書 昭和20年10月18日付
昭和21年10月23日付
昭和21年11月6日付
昭和23年11月29日付
昭和23年12月28日付
昭和26年5月9日付
昭和27年7月19日付 2通
昭和27年10月29日付
佐藤雪江宛葉書(隆房の妻) 昭和22年5月11日付
加藤房子宛葉書(隆房の娘) 昭和24年2月19日付
資料合計12点

展示風景画像。
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展示ケースは使わず、額に入れた光太郎書簡を壁面に吊しての展示です。
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すべてペン書きと思われますが、独特の味わい深い筆跡は「書作品」としても一級のものといえるでしょう。

以前に開催された企画展示の使い回しかも知れませんが、それぞれの書簡と関連する事項の説明パネル。佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの抜粋です。
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古写真もパネルで。
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書簡の大半は、宮沢賢治の主治医にして、総合花巻病院長だった佐藤隆房に宛てたもの。佐藤は光太郎歿後には花巻に高村記念会を興し、初代理事長を永らく務めました。

佐藤に送った書簡は『高村光太郎全集』に66通収録されていますが、今回、それに含まれていないものも1通出ています。以前にも66通以外のもの(昭和31年=1956 3月27日付、確認できている光太郎生涯最後の書簡)が展示されたことがありました。今回のものはそれとはまた別の書簡です。『全集』所収の66通も大半は「岩手日報」に佐藤が発表したものからの採録で、いろいろ大人の事情があったようです。

他に佐藤の妻・雪江と息女の房子にあてたものが一通ずつ。そして渡辺えりさんの亡きお父さま、渡辺正治氏に宛てたものが一通。
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平成28年(2016)に寄贈を受けたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。「この手」というのは、『月刊絵手紙』さんの平成15年(2003)6月号通巻90号や、えりさんの舞台「月にぬれた手」の公式パンフレットに画像入りで紹介されたほか、平成24年(2012)にはえりさんが出演なさった「徹子の部屋」で御披露なさいましたので、「この手」です。当方は平成12年(2000)頃の連翹忌の集いで、正治氏が御持参下さったものを手に取って拝見しました。

会期は2月18日(日)まで。当方、来月中旬に伺う予定ですが、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

右の手掌手術の為下山、目下佐藤院長先生宅に滞在毎日病院に通ひつつあり。

昭和21年(1946)5月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り、生まれて初めての農作業にチャレンジし始めたところ、てのひらにできたマメが潰れてひどく化膿、佐藤隆房の執刀で手術を受けました。木彫の彫刻刀と農作業の鍬とでは、やはり勝手が違ったようです。

最近の新聞記事から2件。

まず1月17日(水)、『読売新聞』さん一面コラム。

編集手帳

高村光太郎には冬の詩が多くあり「冬の詩人」と呼ばれる。詩集「道程」のなかに収まる「冬が来た」は、〈刃物のような冬が来た〉という一節でしめくくられる◆人生を厳しい冬にたとえ、乗り越えていく光太郎の強い意志を示す詩だが、小欄には今はまぶしいだけに思えるところがある。〈刃物のような冬〉が、能登地震の被災地では人々が乗り越えられる程度を超えていよう◆雪が降り続いている。避難所では低体温症などの懸念がいっそう深刻になってきた。依然、孤立した集落に暮らす住民も多い。どうか立ち向かったりせずに、広域避難を急いでもらいたい◆輪島市ではきょう、中学生が同じ石川県の中南部に位置する白山市に集団避難する。小学生は年齢的に親元を離れにくいため、中学生のみが対象になった。被災地の教育を軌道に戻す呼びかけに約250人の生徒が応じた◆バスに乗る生徒たちに贈りたい一節が先の詩にある。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。気持ちを強く持って、刃物のような冬に打ち勝ってほしい。親やきょうだいを残して、さみしいだろうけれど。

昨夏のような酷暑でも困りますが、厳冬期のしかも雪国で難儀されている皆さんには、心よりお見舞い申し上げたく存じます。

もう1件、ネット上でみつけた記事です。米国ワシントン州のシアトルで刊行されている在外邦人向け邦字新聞の『北米報知』さん、1月16日(火)の掲載です。

龍と宝珠〜地球からの贈りもの〜宝石物語

 辰、竜、龍。年末年始がやってくるたび、干支とそれに当てはまる漢字が、日常で使用する該当の字とは違うことが疑問だった。十二時辰や十干十二支という暦や時間、方位などを表す物がベースになっていると知ったのは、いつの事だったか。
 そもそも辰(龍)は十二支の中で唯一の架空生物。考えてみると、西洋と東洋の龍に対する認識には差がある。西洋は羽があって火を噴いたりして悪者であることが多いに対し、東洋では基本的には水を司る神であり、うねる様に体躯を動かす。私が龍という存在を意識したのは、間違いなく「まんが日本昔ばなし」のオープニングの龍。龍に乗っていた子どもが何の昔話の主人公だったかは忘れてしまったが、子どもを乗せているぐらいだから「怖い」という印象ではなかった気がする。その後は世界的超人気アニメ「ドラゴンボール」の神龍。そして大人になった今の「推し」龍と言えば、浅草寺と略して呼ばれることが多いが、正式名に龍を冠する金龍山浅草寺で見られるさまざまな龍。今年の夏に経年劣化で剥がれてしまった本堂の川端龍子画「龍之図」、お水舎の天井画である東韶光による「墨絵の龍」と高村光雲作の龍神像。それに雷門の赤い大提灯の下の部分には彫刻された龍が。そのほかにも至る所に水の神である龍が潜んでいて、幾度とない火事に見舞われた浅草寺を守っている。因みに、日光東照宮の薬師堂の天井にいる「鳴き龍」もお薦め。雨の降った後などは龍がよく鳴くと言われている。
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▲東韶光画の天井絵「墨絵の龍」。光の位置によって見え方が変わる、迫力の龍

 龍のイメージの基となった蛇をモチーフにしたジュエリーはかなりデフォルメされた物から鱗まで詳細なデザインまで多種多様。それが龍となると一気に選択の幅が狭くなる。角、髭、爪など鋭利な部分が多いこともあり、模った物だと軽く凶器になる。ネットを見るとそういった凶器みたいなジュエリーもあるが、日常使いを考えるのであれば、龍のモチーフが彫られた程度の凹凸がせいぜいでは。龍に関連付くジュエリーというのは中々難しい。こじつけるとすれば、龍の持つ如意宝珠に因んだ物などはどうだろうか。
 宝珠は、本来は前足2本しかない黒龍が持っているものということだが、剥がれた浅草寺の龍も黒龍ではないので、あくまでも「基本的には」という事だろう。宝珠と言うと水晶を思い浮かべる人も多いだろうが、個人的に、数珠の進化系のようなパワーストーンを連ねたブレスレットなどは芸がないと思ってしまう。代わりに、ドーム型や円錐形にツルっとしているカボションカットなどのジュエリーはどうだろうか?
 宝石の多くは、ファセット(面)と呼ばれるカット面がいくつも施されている。たとえば、ラウンドのダイヤモンドは通常58面である。光の反射を効率よくするために面があるが、面の無いカボションカットはまた別の味わいがある。面を取ることで、より多く削ってしまう原石の部分を削減し、色の深みを引き出すのもカボションカットの長所と言えるだろう。さらには、アステリズムと呼ばれるスタールビーやスターサファイヤに見受けられる星状の線が出る現象。猫目石の名の如く、中央に黄金の光の筋が見えるようなシャトヤンシー現象。オパールやムーンストーンなどの、内側で光が反射して踊っているような、視覚的効果や現象なども引き出す。
 ブルガリが昨年晩秋にカボション・コレクションというシリーズを発表したが、これは地金でカボションカットを表現している。このコレクションが象徴するように、カボションカットの宝石の地位を押し上げたのは色の魔術師と呼ばれるブルガリだと言える。50年代以降、カボションカットの紫のアメシストと緑のペリドットの組み合わせたネックレスなど、それまでハイジュエリーとは分類されにくかった半貴石の地位を押し上げた張本人。
 宝珠の様な滑らかさと艶やかさ。見つめると吸い込まれそうなそれぞれの色の深みが堪能できるカボションカット。変革の年と言われる辰年に是非トライしてはいかがだろうか。

415939502_7132432230154910_7550647139489207099_nご執筆は宝石鑑定士の金子倫子氏。在米経験もおありだそうですが、現在は帰国されているとのこと。

画像は浅草寺さん本堂右手前にある手水舎の天上画。この下に光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が鎮座ましましています。

12年前の辰年の際にはそうでもなかったように記憶しているのですが、今年はやけにこの像があちこちで取り上げられているのが目に付きます。いいことです。右画像は光雲令曾孫にして写真家の髙村達氏撮影になるショット。すばらしい感じですね。

元々は本堂裏手にあった池の噴水に据えられていたもので、関東大震災の際にはこの池のおかげで浅草寺さんは焼失を免れたとのこと(その後、昭和20年(1945)の東京大空襲ではやられてしまいましたが)。地震にはご利益がありそうなので、近くに行った際には久しぶりに参拝し、鎮護国家を祈願して来ようかと存じます。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ゑんどう豆が芽を出しました。ささぎはまだ。今ゼンマイが盛んでワラビが出かかりました。ホロホロといふ花芽をとつてたべます。春日うらうらと山村をくゆらし林間に珍奇の花を人知れず咲かせてゐます。


昭和21年(1946)5月6日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村もようやく春本番。「ホロホロ」は「ウコギ」の方言のようです。

能登半島地震の被災地にも早く春が訪れて欲しいものですね。

光太郎第二の故郷、岩手花巻からの情報を2件。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチン花(フラワー)さん販売の豪華弁当「光太郎ランチ」。毎月15日の限定販売で、メニューは光太郎の日記などを元に、光太郎が作った料理や使った食材などを研究、現代風にアレンジし、彼の地で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの考案です。

今月15日分がこちら。
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小豆飯、ゆかりご飯、ブリの醤油麹焼き、豚肉のトマトケチャップ炒め、キャベツの煮浸し、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、干し柿入り甘酒ゼリー、大根の漬物だそうです。今月はご飯が2種類でボリューミーですね。しっかりデザートもついています。

もう1件、全く別件です。

昨年11月2日(木)、花巻高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎と吉田幾世」の関連行事としまして、同題の市民講座を当方が致しました。その動画が今月いっぱいYouTube上に上げられるそうです。
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会期中にあがるのかな、と思っていたのですが、このタイミングでの公開。まぁ担当各所もいろいろお忙しいと存じますので、いたしかたありますまい。

当方としては自分がべしゃっくっている動画はあまり見たくないのですが、テロップを付けていただき、誤字脱字等ないか確認してくれということでしたので拝見しました。もうちょっとしっかりしゃべれよ、という感じです。

三本に分割されています。リンクを貼り付けておきますのでよろしくお願い申し上げます。
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」①
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」②
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」③

【折々のことば・光太郎】

里から此の小屋に来るまでの道路に熊の出るやうな所はありませんが、小屋のあるところよりも奥へゆくと出るやうです。去秋茸取りの人達が逃げて帰つてきた事があります。小生猟師から熊膽を求めました。


昭和21年(1946)5月6日 喜田聿衛宛書簡より 光太郎64歳

昨年の花巻は熊の出没がものすごく、市街地でもたびたび目撃情報がありました。当方もレンタカー運転中にちらっと見かけたような気がしています。先週は隣接する北上市のショッピングセンターに冬眠しそこねたと思われる子熊が侵入とのことで、ニュースになりました。

花巻郊外旧太田村の山小屋付近、現在も熊が生息していますが、かえって光太郎がいた頃はあまり里には降りてこなかったようです。この頃の方が共存が図れていたということなのでしょうか。

先週土曜日、1月13日に地方紙『岩手日報』さんに出た記事です。

岩手とロダン“考える” 舟越保武 大理石に刻んだ哲学 高村光太郎 日本へ紹介 熱狂生む 陸前高田市立博物館「考える人」

004 「近代彫刻の父」と称されるフランスの彫刻家ロダン(1840~1917年)。昨秋から代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示公開され話題を呼んでいるが、さかのぼると本県とロダンには深いかかわりがあることが浮かび上がってくる。ロダンが広く日本で知られるようになったのは、花巻市ゆかりの高村光太郎(1883~1956年)の書籍がきっかけ。盛岡市出身の舟越保武(1912~2002年)は、多大な影響を受けて彫刻の道へと進んだ。考える人を間近に見られる今、その系譜と歴史をたどってみたい。
 日本にロダンの存在を広く知らしめたのは、光太郎が1916(大正5)年に翻訳・出版した「ロダンの言葉」だった。光太郎は08年にフランスへ行くなど、20代からロダンの雄弁な造形に傾倒。15年ごろから、ロダンの対話録を集めて翻訳を始めた。
 同書は刊行されると同時に、すさまじい熱量と引力を放った。とりわけ、「若き芸術家たちに(遺稿)」という部分ではメッセージ性が強い。
 「真実であれ、若き人々よ」「最も美しい主題は君たちの前にある」
 内容は芸術論だけでなく生き方や精神論にも及び、芸術を志す若者を中心に大ヒット。熱狂的なロダンブームを巻き起こした。000
 ロダンとの出会いで人生が変わった一人が舟越だ。盛岡中学を病気休学中だった1929(昭和4)年、兄健次郎が買ってくれた同書にのめり込んだ。
 初期の大理石作品には、ロダンの影響が顕著に見られる。フランス大使が購入した「女の顔」(1947年)は、美しい造形に荒々しい彫り跡を残す作り方がロダンに通じるという。
 県立美術館の藁谷(わらがい)収館長は「舟越の大理石への憧れは、まさにロダンの影響だろう。光太郎も舟越も見たままを写し取ることはせず、『奥行きで捉えよ』というロダンの哲学が垣間見える」と指摘する。
 国内がロダン一色だった昭和初期にかけ、多くの彫刻展は大仰で演劇的な身ぶりの作品が主流に。一方、同じ時期に本県は動的なロダンの作風とは対極とも言える潮流が生まれていた。
 象徴的なのが、盛岡市出身の堀江尚志(1897~1935年)の「少女座像」。左右対称で内省的な雰囲気が漂い、エジプト彫刻のような崇高さも感じさせる。
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 ロダンともう一人、舟越を彫刻の道へといざなった宮古市出身の吉川保正(1893~1984年)の作品にもうかがえる。舟越は31年、吉川の「自像」を見て、単純化された塊の内にある心(しん)の強さに「彫刻とはこういうものだ」と感動したという。
 舟越も戦後はカトリックの洗礼を経て、独自の道を歩み出す。ロダンがもたらした熱を浴びつつも、静けさの中に光を見いだすのは、岩手人の気質や風土ゆえだろうか。
 ロダンが本県の地を踏むことがあったなら、何を思い、感じ取っただろう。考える人を鑑賞しながら、思いをはせてはどうだろうか。
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心構え 生き方 若者の熱に 美術史家・髙橋幸次さん(東京)に聞く
 高村光太郎が「ロダンの言葉」を記した経緯と、日本に与えた影響は、いかなるものだったのか。ロダンに関する著書がある美術史家の髙橋幸次さん(東京都)に聞いた。
 -高村光太郎にとって、ロダンはどのような存在だったのか。
 「光太郎は、生命や思想、内面の感情まで表現するロダンの造形に衝撃を受けた。1905(明治38)年、カミーユ・モークレールの『ロダン』英訳を入手し熟読している。仏師の父光雲から彫刻を教え込まれたが、父への反発のばねになったのも、ロダンだったのではないだろうか」
 -「ロダンの言葉」は、どのようにして日本で受け入れられたのか。
 「明治から大正へ時代が変わって開放的になり、若者には『どう生きるか』という熱気が渦巻いていた。当時、芸術家は偉人であり、ロダンの説く心構えや生き方が求道精神や熱となり刺さったのだろう。さらに彫刻家を志す青年たちにとっては格別だったろう」
 -光太郎の文章の力も大きかったのでは。
 「光太郎は翻訳に関しては『文学ではない』との姿勢を崩さなかった。ことロダンにおいては芸術論や技術論であり、言葉と現実の事象が正確に対応している。文章もわかりやすく、口にしやすいものだった」
 -舟越保武の作品にロダンの影響は見られるか。
 「ロダンの男性像は筋肉が張っている。一方、舟越のは女性像に特徴的だが、静けさの中に軸と立ち上がる力がある。強さがなければ静かにもなれない。ロダンの造形手法の力強さを舟越流に取り入れていると感じられる」
 -岩手の作家に受け継がれている部分はあるか。
 「岩手の良さは、大都市と距離を保っているところ。また文化芸術性が歴史的にも豊かで、芸術面では表現がストレートでいて、決して素朴などではない。菅木志雄(現代美術家、盛岡市出身)もそうだ。先人たちが本当によいものを残してくれている」

日本に於けるロダン受容、そこに光太郎の果たした役割、そして岩手県の近代彫刻史と、実に示唆に富む内容ですね。

陸前高田市立博物館さんでの「考える人」展示というのは、収蔵する名古屋市博物館が大規模改修に伴い長期休館することから、東日本大震災を機に友好協定を結んだ陸前高田市に再来年秋まで無償で貸し出されているとのことです。

髙橋幸次氏には、連翹忌にもご参加いただくなど当方もいろいろお世話になっております。
 『花美術館 Vol.68 特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡』。
 『「ロダンの言葉」とは何か』。
 『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』。
 美術番組3つ。
 国立西洋美術館 《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』。
 小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事「音楽と巡るロダンの世界」。
 「日本大学芸術学部紀要」。
 <N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。

ロダンや光太郎、舟越や堀江、吉川のDNAを受け継ぎ、彫刻方面でさらなる新しい才能が岩手から生まれることを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

昨夜セキと一緒に三寸五分ばかりの蛔蟲が一匹が飛び出しました。


昭和21年(1946)5月4日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

蛔蟲」はカイチュウ。カタカナにするとピカチュウみたいでかわいらしい感じですが(笑)、とんでもありません。今の日本ではほとんど聞かなくなりましたが、人体に寄生する寄生虫の一種です。「三寸五分」、マジか? という感じです。

この際かどうか不明ですが、光太郎、「俺の栄養分をかすめ取りやがって!」と怒り心頭、口から出て来たカイチュウを噛みきってやろうとしたそうですが、堅くて無理だったとのこと。花巻郊外旧太田村での暮らし、こういう部分でも壮絶なものでした。

1月13日(土)、世田谷文学館さんにお邪魔しました。
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こちらで開催中の「コレクション展 衣裳は語る――映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」拝見のためです。
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会場内部は撮影禁止でした。

映画史上に残る数多くの映画で衣裳デザインを担当された故・柳生悦子氏の原画を中心とした展示で、約3,000点の寄贈を受けたうちの厳選されたものが並んでいました。
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お目当ては昭和42年(1967)封切りの松竹映画「智恵子抄」衣裳デザイン原画。光太郎役の丹波哲郎さんのものが1点、岩下志麻さん演じる智恵子のものが約30点。
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上記はX(旧・ツイッター)に上げられた同館のポスト(ツイート)です。それぞれにいろいろと書き込みがしてあり、こりゃ現物を見ないとしょうがないなと思って参じた次第です。

で、書き込みも細かく読んで参りました。映画の「原作」という位置づけになっている佐藤春夫の『小説智恵子抄』や、当会の祖・草野心平が書いた随筆の一節、それからそれぞれの衣裳に於ける注意事項等がびっしり。驚きました。

上記画像を事前に見て、そうだろうな、と思っていたのですが、左上から始まって右下まで、シーンの順に並んでいます。光太郎と出会う前の若き日の智恵子から、最晩年まで。当然と言えば当然ですが、結婚前の恋愛時代の衣裳は華やかなものが多く、結婚後、特に心を病んでからのそれはシックな感じに移っていきます。

驚いたのは、一番左下のエプロン。同一のものがあと2ヶ所でも描かれていますが。
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雑誌『婦人之友』第18巻第7号(大正13年=1924 7月)に掲載された「変つた形のエプロン二種」という記事に写真と型紙(尺貫法で書かれています)が載った、実際に智恵子が自作し着用していたエプロンほとんどそのままです。
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こういう形のエプロンが一般的だったわけではないようで、『婦人之友』には「高村光太郎氏の御宅に伺つたとき、手を拭きながら出ていらしつた夫人が、ほんとうに面白い前掛をかけてゐらつしやいました。」と書かれていますし、少し調べてみてもこういう形のエプロン画像は見かけません。

ということは、柳生氏、大正時代の『婦人之友』のこの記事を読まれたのだと思われます。舌を巻きました。

録画して置いた映画「智恵子抄」を見返してみましたところ、ちゃんとこのエプロンを着用しているシーンがありました。
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「いや、こういうエプロン、一般的に使われていたよ」というような情報、資料をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

他の映画等のデザイン原画も拝見。ジャンルが実に多岐に亘っているのに驚きました。「裸の大将」「若大将」「風林火山」「八つ墓村」「戦国自衛隊」「敦煌」などなど。

残念ながら図録は作成されておらず、このコレクションに特化した書籍がもしかしたらあるかな、と思ったのですがありませんでした。ぜひとも3,000点をカラーで収録し、出版していただきたいものです。

会期は3月31日(日)まで。同時開催で「江口寿史展 ノット・コンプリーテッド」も2月4日(日)まで開催されています。ぜひ足をお運びください。
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【折々のことば・光太郎】

毎日荒地を掘り起して畑を作つてゐます。実にその仕事が爽快で朝起きるが待ち遠しいやうです。

昭和21年(1946)4月23日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村で、数え64歳にして生まれて初めて本格的に農作業に取り組み始めました。嬉々として取り組んでいる様子がうかがえますね。

昨日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエに保存運動が起きている件をご紹介しました。

今日は逆の件を。先月5日、『朝日新聞』さん夕刊に出た記事です。

戦前のまま、時とまったアトリエ 老朽化、近く取り壊し 木彫家・三木宗策が使用

015 東京都北区の路地の奥に、木彫家、三木宗策(そうさく)(1891~1945)が使ったアトリエが残されている。戦前のアトリエが現存するのは珍しく、木彫の像を制作するための石膏(せっこう)原型も保存されていた。当時の息づかいが聞こえてきそうなアトリエだが、老朽化のため、近く取り壊されることが決まった。
 「まるでそこだけ時間が止まっているようでした。見上げた高い屋根裏と上の棚に並んだ石膏(せっこう)の原型から、70年のときを超えて作家の存在を感じました」
 福島県郡山市美術館の中山恵理学芸員は2015年初秋、アトリエに初めて入ったときの感動をそう話す。その年、地元出身だった三木の没後70年展を企画していた。準備が大詰めを迎えたころ、アトリエが現存することを親族から教えられた。

高さ6㍍の吹き抜け
 建物は木造2階建てで、北面の大きなガラス窓の木枠にはツタがからまり、年月を感じさせる。アトリエは約30平方㍍の床面から2階の屋根裏まで吹き抜けの空間構造で、最高部まで高さは 6㍍を超す。
 郡山市出身の三木は14歳で上京し、高村光雲門下の山本瑞雲(ずいうん)に学んだ。22歳で独立。代表作は、全体の高さが3㍍を超える燈明(とうみょう)寺(東京都江戸川区)の本尊・不動明王だ。45(昭和20)年11月、疎開先の郡山市で53歳で病死した。
 東京芸術大学の調査によると、アトリエの建築年代は大正末から昭和初めとされる。三木の次男で美術評論家・三木多聞(1929~2018)の著書「三木宗策の木彫」によると、三木は19(大正8)年までにこの地に転入し、その後、アトリエ付き住宅を建てたらしい。

大空襲の戦火も免れ
 アトリエは、23(大正12)年の関東大震災にも耐えたという話が遺族に伝わる。だが、確実なのは、45(昭和20)年4月13~14日、現在の豊島区、北区、荒川区にかけての米軍による「城北大空襲」の戦火を免れたことだ。
 戦後は子ども部屋や書架など遺族の生活空間として使われてきたという。次第にアトリエとしての存在も家族以外からは忘れられた。
 連絡を受けた中山学芸員ら彫刻関係者らは、残された石膏原型などを郡山市内の施設に運び出し、一時保管した。同美術館ではアトリエの記録や資料の調査をしたのち、所蔵先について検討するという。
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残った石膏原型50点
 いまのところ、アトリエに残された石膏原型約50点のうち、10点は現存する作品の原型、6点は写真だけが残る作品の原型だと確認された。所在不明だった木彫「傷つきたる鳥人」(40年)もみつかった。
 調査にかかわった彫刻家・修復家の藤曲隆哉さんによると、三木は、最初に粘土で塑像(そぞう)を制作したのち石膏原型をつくり、星取り機を用いて木彫の完成作をつくる手順で制作していたという。原型にいくつかの点(星)をうち、その点を星取り機で木に写し取り、空間上の点の位置関係を頼りに彫る。
 藤曲さんは「石膏原型は資料の域を超えることはない」としながらも、「作家本人の純粋な手が入っている。完成作品と原型を比較する価値はあると考えられる」と話している。

三木宗策は、記事にあるとおり、光太郎の父・光雲の孫弟子です。孫弟子ではありますが、光雲との合作もありました。

光雲とゆかりの深い、文京区の金龍山大圓寺さんに、昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけて七尊の木彫観音像が寄進され、そのうち五尊は光雲と山本瑞雲(光雲高弟にして宗策の直接の師)、二尊が光雲と宗策の合作という扱いでした。こうした場合、合作という条、メインに鑿を振るったのは瑞雲や宗策なのでは、と思われます。
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これら七観音は戦災で全て焼失、聖観音像のみ鋳銅されたものが大圓寺さん境内に露座でおわしますが、それぞれの胎内仏は現存します。七観音それぞれの開眼供養の際、胎内仏のコピーが鋳銅で造られ、檀家や寄進者に配付されました。像高10㌢弱の懐中仏です。そのうち「准胝(じゅんてい)観音」の鋳銅が花巻市に寄贈され、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで行われた企画展示「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」に出品されました。

その後、七観音すべてがセットで売りに出ているのを見つけ、購入しました。上記十一面観音、千手観音の懐中仏がこちら。
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この件はまた後日、ご紹介いたします。

その宗策の使っていたアトリエが取り壊されるということで、記事が出たのは先月初めでしたから、既に解体済みかもと思われます。

この記事で知ったのですが、宗策の次男が故・三木多聞氏。昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、光雲、光太郎に触れた論考をいろいろ書かれていました。かつて連翹忌にもご参加下さったそうです。
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お素人さんではない多聞氏が子息だったにもかかわらず、アトリエ保存という話にならなかったということを考えると、今回の取り壊しの件、仕方がないといえばそれまでなのかもしれません……。余人にはうかがい知れぬ事情等、いろいろあるでしょうし……。

そう考えると、昨日ご紹介した光太郎ゆかりの中野のアトリエ保存の件も、もちろんきちんと保存・活用が為されればそれに越したことはないのですが、なかなか難しいのかな、という感じですね……。

また詳しい情報が入りましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「北方風物」は先日拝受、小生の素描はインキで画きたるため印刷によく出なかつたものと見え甚だ生彩を欠いてすみませんでした。


昭和21年(1946)4月27日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、7年間の花巻郊外旧太田村の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。『北方風物』は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。
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一昨日の『東京新聞』さんに、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動についての記事が大きく出ました。

高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野  残したい 代表作「乙女の像」塑像も制作

014 「智恵子抄」「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエが中野区にある。所有者が昨年死去し、受け継いだ妻は「これ以上、個人での保存や活用は難しい」と頭を悩ます。専門家らは貴重な建物と評価し、保存の道を模索している。
 アトリエは中野駅から徒歩10分ほどの住宅街にたたずむ。施工主は大正から昭和にかけて活躍し、「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家中西利雄(1900~48年)。設計は近代日本建築運動を先導した建築家山口文象(1902~78年)。完成した1948年に利雄が死去したため、貸しアトリエとして使われ、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らが滞在した。
 建坪17坪のアトリエは、斜めの屋根が目を引く一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に縦3メートル、幅2・5メートルの大きな窓があるのが特徴だ。作品が見下ろせる2階部分は、楽団の演奏場所として造られた。外壁は現在は白いが、建築当時はすみれ色に塗られていた。
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 光太郎は38年に妻智恵子を失った後、終戦間際から岩手・花巻で過ごした。晩年上京し、52~56年にアトリエで生活し、亡くなった。アトリエ前を流れていた川(現在は暗渠(あんきょ)化)に咲くレンギョウを好み、棺(ひつぎ)にこの花がささげられたという逸話から、命日は「連翹(れんぎょう)忌」と命名され、第1回もこのアトリエで開かれた。光太郎の姪(めい)の娘にあたる櫻井美佐さん(60)は「光太郎をしのぶ建物は都内にここしか残っていない。この景色を見ていたと思うと不思議な感覚になる」と大伯父へ思いをはせる。
 アトリエは利雄の長男、利一郎さんが所有者として「自分の生きているうちは」と外壁にペンキを塗るなどして大切に維持してきたが、昨年1月に死去。相続した妻の文江さん(73)は建物の老朽化などから、一度は解体を決心した。
◆「貴重な建築」有志が保存模索
 昨年秋、利一郎さんと交友があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠(こうせい)さん(71)が「芸術的、歴史的に価値がある文化遺産」として保存を提案。有志で会を立ち上げ、クラウドファンディングなどを視野に活動を始めた。
 近代住宅史が専門の内田青蔵・神奈川大建築学部特任教授は建物について「戦前から戦後に活躍した山口文象による貴重な事例で、オリジナルが残っている。モダニズムを象徴する無駄のない空間を創る思想が現れた建物だ」と評価する。
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 歴史ある建物を調査する「伝統技法研究会」のメンバーで建築士の十川百合子さん(69)も調査に入り、「中野には棟方志功ら文化人が創作の場を構えた。中西利雄と山口文象が生み、地元に愛されてきた建築は貴重」とし、オリジナルを尊重しながら補強して保存する方法を提案。文江さんは区など公的な機関による対応を希望している。
 アトリエは非公開。保存・活用法の提案や問い合わせは曽我さん=電090(4422)1534、メールsogakousei@mva.biglobe.ne.jp=へ。
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記事にもある曽我貢誠氏制作の「アトリエ保存企画書」がこちら。
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曽我氏と関わりの深い文治堂書店さんのHPにPDFで掲載されています。7ページ目の「これからの主な予定」という項に関しては、まるで予定通りに進んでいないようですが……。

フライヤー的なものも。
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また、記事にあるとおり、アトリエの設計はモダニズム建築家の山口文象(この件、当方もアトリエ保存運動が起こるまでは存じませんでした)。山口は北鎌倉の宝庵さん、現在は新宿区立林芙美子記念館さんの一部として活用されている林芙美子邸などを手がけたそうです。そうした和風の建築は現存、活用されているものの、山口が設計したモダンスタイル木造住宅作品は、この中西利雄アトリエが現存する唯一のものだとのこと。『東京新聞』さん記事を受けて、都市プランナーの伊達美徳氏が書かれたブログにその辺りが解説されていますのでリンクを貼らせていただきます。

ついでですのでもう1件。『東京新聞』さん記事に、「彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエ」と紹介されていますが、その制作の模様がブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)制作の「美術映画 高村光太郎」(昭和28年=1953)と「美術家訪問 第7集」(昭和33年=1958)に含まれています。

昨年、アーティゾン美術館さんで開催された「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展でそれらの動画が会場で常時公開され、それを受けてYouTubeでもアップされましたので貼り付けておきます。当時のアトリエ内部の様子(1:47頃から)、ご覧下さい。


明日もこの件で。

【折々のことば・光太郎】

以前「婦人公論」に「日本美の源泉」といふのを六ヶ月つづいて書いたことがありましたが、若しやあの切抜を貴下が持つて居られたら暫く拝借願へないでせうか。来月あたりから此処で日本美について毎月一回づつ六ヶ月間講演をやらうかと考へてゐますが、あの原文をテキストにして述べたいと思つてゐます。禅の提唱のやうに、美を中心にして万般の事に亘つて語るつもりで居ます。

昭和21年(1946)4月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、移住当時はここに最高の文化部落を造る、といった意気込みがありまして、その一環でしょう。ことによるとこの地に光太郎を招いた分教場(講演会場)の教師・佐藤勝治が宮沢賢治の信奉者でしたので、その提案でかつての賢治の羅須地人協会的な実践を……という話になったのかも知れません。「日本美の源泉」についてはこちら

新刊です。

ロゴスと巻貝

2023年12月27日 小津夜景著 アノニマ・スタジオ刊 定価1,800円+税

注目の俳人、小津夜景さんが綴る人生と本の記憶
山本貴光さん(文筆家・ゲーム作家)推薦
 細切れに、駆け足で、何度でも、這うように、本がなくても、わからなくてもーー読書とはこんなにも自由なのですね、小津さん
 
注目の俳人小津夜景さんは、選び取る言葉の瑞々しさやその博識さが魅力。本書では、これまでの人生と本の記憶を、芳醇な言葉の群で紡ぎ合わせる。過去と現在、本と日常、本の読み方と人との交際など、ざっくばらんに綴った40篇。
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目次
 読書というもの014
 それは音楽から始まった
 握りしめたてのひらには
 あなたまかせ選書術
 風が吹けば、ひとたまりもない
 ラプソディ・イン・ユメハカレノヲ
 速読の風景
 図書館を始める
 毒キノコをめぐる研究
 事典の歩き方
 『智恵子抄』の影と光
 奇人たちの解放区
 音響計測者(フォノメトログラフィスト)の午後
 再読主義そして遅読派
 名文暮らし
 接続詞の効用
 恋とつるばら
 戦争と平和がもたらすもの
 全集についてわたしが語れる二、三の事柄
 アスタルテ書房の本棚
 ブラジルから来た遺骨拾い013
 残り香としての女たち
 文字の生態系
 明るい未来が待っている
 自伝的虚構という手法
 ゆったりのための獣道
 翻訳と意識
 空気愛好家の生活と意見
 わたしの日本語
 ブルバキ派の衣装哲学
 わたしは驢馬に乗って句集をうりにゆきたい
 そういえばの糸口
 月が地上にいたころ
 存在という名の軽い膜
 プリンキピア日和
 軽やかな人生
 料理は発明である
 クラゲの廃墟
 人間の終わる日
 本当に長い時間
 梨と桃の形をした日曜日のあとがき
 引用書籍一覧

小津夜景氏という方、寡聞にして存じませんでしたが、注目の女流俳人だとのことです。いわゆる結社等には所属しない立場でやられているそうで、へそ曲がりの当方としてはシンパシーを感じます(笑)。

その小沢氏のエッセイ集ですが、目次にある通り「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。『智恵子抄』との出会い、その後、そして現在の『智恵子抄』とご自身、といった感じです。

出会いは意外なところからだったそうです。氏が小学6年生の折、当時ファンだったチェッカーズさん関連の書籍を読まれていて、その中にあったメンバーの武内享氏のインタビューで武内氏が愛読書として『智恵子抄』をあげられていたこと。それを読んでいたかたわらにお母さまがいらしたそうで、

「ねえ、おかあさん」
「なに」
「高村光太郎の『智恵子抄』って知ってる?」
「本棚にあるわよ」
 なんと。


素晴らしいお母さまですね。ここで「誰、それ?」「聞いたことない」となっていたら、話は終わってしまったかもしれないわけで。

そして小6当時の小津氏も素晴らしい。「知らない漢字だらけ」であったにもかかわらず、「辞書を引き、一字一句を拾うようにして」読まれたそうです。そして「かくして『智恵子抄』は自分にとって特別な詩集となった」とのこと。

それにしてもチェッカーズのメンバーの方が『智恵子抄』を愛読書と答えて下さっていたことは存じませんでした。沢田研二さん山口百恵さんなど、芸能界にそういう方は結構いらっしゃいますが。それから小津氏のエッセイでこれも初めて知ったのですが、かの「ドラえもん」で、のび太のパパが若い頃、ママへのラブレターに『智恵子抄』所収の「郊外の人に」(大正元年=1912)を綴ったというエピソードがあったそうです。

しかし小津氏、こうも述べられています。

とはいえ、告白しておいたほうがいいだろう。こうまでして読みはしたものの、わたしは一度たりとも『智恵子抄』をいいと思ったことがないってことを。もっと率直にいえば大嫌いである。

「あ゛?」と思いました。ここから先、いわゆるジェンダー論者の方々のように、男尊女卑の権化光太郎、的なディスりが始まるのか? と。

しかしさにあらずでした。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを筆頭に、素晴らしい作品群であることは認めつつも、ある種の信用できなさが感じられる、というのです。

ある意味、妥当な見解と思われます。

「レモン哀歌」は宮沢賢治の「永訣の朝」などとの類似点が夙に指摘されてきました。光太郎は智恵子、賢治は妹のトシと、それぞれ最愛の大事な人を亡くした慟哭が謳われている点等々。しかし、そのスタンスはやはり異なりますね。「永訣の朝」はトシを失った悲しみがとにかくこれでもか、これでもかとダダ漏れになっている状態ですが、「レモン哀歌」は、それがいいか悪いかは別として、一つ高い次元からの視点で智恵子の最期を謳っているように感じます。「もっと泣けよ、喚けよ、智恵子が死んだんだぞ」と突っ込みたくなるような。

その理由としては、いろいろ考えられます。「レモン哀歌」執筆が智恵子の死の約4ヶ月後であること、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)10月5日まで、およそ五ヶ月も見舞いに行っていなかったことなどなど。

「レモン哀歌」自体も、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」と結ばれますが、執筆は2月。桜など咲いていません。これは雑誌『新女苑』への掲載が4月とわかっていたため、その季節に合わせて架空の桜を持ち出したという説があります。おそらくそれで正解でしょう。ただし、やがて4月には実際に「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置」いたのだとは思いますが……。

小津氏、そうしたある種のうさん臭さを、俳人としての優れた感性で敏感に感じ取られたのではないかと思われます。この手の批判的な読みは大歓迎ですね(って、当方は光太郎ではありませんが(笑))。逆に手放しで「類い希なる純愛の詩集」「日本文学史上に燦然と輝く相聞歌」などと評されると、興醒めです。といって、ジェンダー論者の方々のようにその背景もろくに調べずディスりまくりや、自分以外は全員バカだと思っているようなとにかく「批判」だけの自称・研究者などは論外ですが。

一昨日届いたばかりで、他の項はまだ斜め読み状態です。それでも、だいぶ生きづらさを抱えて歩んでこられた方なのだな、というのはわかりました。今日、公共交通機関に長く乗って上京しますので、その行き帰りに精読しようと存じます。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間のお茶のおかげで此頃は朝一杯の煎茶がのめるので爽快を感じます。


昭和21年(1946)4月19日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

戦後の物資不足の折、花巻郊外旧太田村に引っ込んだ光太郎を案じ、ほうぼうの友人知己がいろいろなものを送ってくれていました。茶は岩手県では産出されず、現在もそうですが、岩手の人々は食事の際に茶を飲むという習慣もないそうで、入手が困難。茶好きの光太郎は真壁からの茶を実に有り難く思ったようです。

清流出版さん発行の『月刊清流』。コンセプトは「すべての女性に贈るこころマガジン」だそうです。

その最新号、2024年2月号に「『智恵子抄』と智恵子」という記事が出ているというので、購入しました。
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智恵子の生涯のアウトライン紹介が主で、さらに『智恵子抄』から「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の全文が掲載されています。

015しかし、「私たちにさまざまなことを気づかせてくれる、奇数月連載安芸正宏さんの「こころのヒント」。偶数月の号では、近号からキーワードを選び、「こころのヒント」の味わいを深めたいと思います。」だそうで、昨年9月号に載った「こころのヒント 「おしゃれ」って何だと思いますか? 流行に左右されないスタイル」というエッセイで、やはり『智恵子抄』収録の「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)が紹介されたことを受け、では智恵子や「智恵子抄」を紹介しよう、ということのようでした。

そこで、昨年9月号も追加で注文し購入した次第です。

「安芸正宏」さんという方、どこにもプロフィールが載っていませんが、一般社団法人実践倫理宏正会の名誉会長・上廣榮治氏のペンネームのようです。版元の清流出版さんもその系統の出版社なのですね。

ちなみに『月刊清流』さん、2017年9月号でも「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」という記事を掲載して下さいました。

『月刊清流』さんは、書店での販売はおこなっておらず、公式サイトからオンラインで、それからAmazonさんでの取り扱いも最近始まったようです。

今号の目次はこちら。
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さて、明日はやはり『智恵子抄』がらみのエッセイの載った新刊書籍をご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

さすがに此の山の中にも春が来ました。まだ降雪も時にはありますがすぐに消え、日かげさす時は随分温かで暁天の朝靄うすむらさきに、黄セキレイの声やうぐひすの囀りもきこえはじめました。


昭和21年(1946)4月17日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移って初めての冬が終わりました。冬を愛した光太郎も、さすがにそこまで厳しい冬とは予想していなかったようで、春の訪れにほっとしている気配が見て取れます。

またしても始まってしまっている展覧会ですが……。

所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」

期 日 : 2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 北野美術館 長野市若穂綿内7963-2
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 700 円 / 高校・専門・大学生 500 円 / 中学生以下無料

冬の季節にふさわしい日本画作品を中心に、国内外作家による洋画、彫刻、工芸品などバラエティに富んだ約90点の作品をご覧ください。今回は作品の要所要所に、それぞれの画家たちのエピソード・乗り越えてきた困難や、切り開いてきた道、作品への意気込みなどを添えて展観します。
また、著名歌人や作家の短歌、俳句の短冊や、小林一茶の書画、館内茶室に江戸時代の女性俳人・加賀千代女の書画など、書跡作品も複数展示。文字からその人となりを想像してみるのも一興でしょう。
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案内文にその文字がなかったのでこれまで気づきませんでしたが、光太郎の父・光雲作の「仁王像」が出ています。

光雲で仁王といえば、同じ長野市の信州善光寺さんの仁王像が有名ですが、ポージング等異なります。仁王像も人気の図題で、光雲にも複数の作例が確認できています。
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北野美術館さん収蔵の作は、他の作例と共に平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。像高30センチあまりのものですが、なかなかの優品です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此の山の中もやうやく春が近くなりかけたところ、今日は又雪が降つて来ました。二寸ばかりつもつて今又日がさしてきました。


昭和21年(1946)4月15日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、4月半ばでも6㌢の積雪。北東北にお住まいの方にとっては「そんなもんだよ」でしょうが、南関東の人間にとっては「へー」ですね。

戦前戦後に光太郎と交流のあった岡山県豊田村(現・赤磐市)出身の詩人、永瀬清子を中心に据えた展示です。

永瀬清子展示室企画展「マンガで読む永瀬清子」

期 日 : 2023年12月8日(金)~2024年3月31日(日)
会 場 : 永瀬清子展示室 岡山県赤磐市松木621-1 赤磐市くまやまふれあいセンター2階
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

今春、永瀬清子の生涯がマンガになりました。永瀬清子が誕生し詩人を志す過程を中心に描いており、赤磐市立図書館などで読むことができます。この展示では、マンガを描くのに使われた資料とマンガ『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』とともに、永瀬清子の生涯を紹介します。
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案内文にあるとおり、昨年、永瀬の伝記マンガ『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』(シナリオ 和田静夫氏/マンガ 藤井敬士氏/赤磐市教育委員会発行)が刊行され、それを記念しての展示です。

マンガには光太郎も登場します。昭和9年(1934)、新宿のモナミで開催された宮沢賢治追悼会の場面、昭和15年(1940)に永瀬が自らの詩集『諸国の天女』序文を光太郎に依頼するシーンなど。

展示ではそのあたり、どういうふうに扱われているのか不明ですが、永瀬の年譜等展示されていれば、触れられていると思われます。

また、期間中の2月17日(土)には第25回朗読会「永瀬清子の詩の世界―貴方がたの島へ」も開催されます。
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007プログラムにはシンガーソングライター・沢知恵さんのコンサートも。永瀬は生前、ハンセン病療養施設への支援活動なども行っていましたが、沢さんも同様の活動に取り組んでいて、そうした関係でしょう。

余談になりますが、沢さんのお祖父様・金素雲の訳詩集『乳色の雲』(昭和15年=1940)には光太郎が挿画を寄せており、奇縁を感じました。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

四月十三日がまた廻りくるにつて、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬご助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮沢家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。

昭和21年4月9日 寺田弘宛書簡より 光太郎64歳

昨年のあの時」は、米軍の空襲により駒込林町のアトリエが灰燼に帰した昭和20年4月13日を指します。この際、寺田が真っ先に光太郎の元を訪れ、燃えさかるアトリエを茫然と見る光太郎の姿を回想に残しています。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等が統一テーマの元に行う共同企画展です。

令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館の3館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年1月20日(土)~2023年2月18日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館 テーマ「須美子工房~春を彩る貝雛の世界~」
 須美子工房の貝のお雛様は、日本古来の佳き風習を受け継ぎつつ、海と山の幸と日本の文化をつなぎ、「未来への希望をつなぐ」ものとなることを願い、「愛海雛(めぐみびな)」と名を付けました。故・西村須美子さんが製作した貝雛(かいびな)と、夫の故・文夫さんの書と併せて、貝雛の世界を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館 テーマ「師岡和彦 早池峰山伏神楽 写真展」
 山形県高畠町出身の師岡和彦(1926-2012)は、1982年、大迫町の岳神楽との出会いをきっかけに、早池峰山伏神楽に魅せられ、以後20年近くに亘り、早池峰山伏神楽を撮影し続けました。数年後には、岳神楽の流れを汲む東和町の石鳩岡神楽にも注目し、数多くの写真を残しています。本展では、師岡がファインダー越しに捉えた、早池峰山伏神楽の躍動する姿を中心に、大迫町、東和町の懐かしい情景を振り返ります。

高村光太郎記念館 テーマ「「光太郎からの手紙」
 昭和20年5月に花巻へ疎開した高村光太郎は、昭和27年10月に彫刻制作で帰京するまでの間に数多くの手紙のやり取りで自身の消息を伝えるだけでなく、文筆から彫刻まで様々な創作活動に関わるやりとりも行っていました。この企画展では光太郎からの手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。

協賛館
花巻博物館、花巻市総合文化財センター、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館
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 今回の開催館3館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館3館すべてといすれかの協賛館3館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。
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昨年度、コロナ禍がほぼ終息ということで2年ぶりに復活し、5館が参加して開催されました。どうしたわけか今年度は3館のみ、期間もあまり長くありませんが。

旧太田村の高村光太郎記念館さんでは、「光太郎からの手紙」。同館では一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんで購入したり寄贈を受けたりした光太郎の書簡を多数所蔵しています。種別としてもハガキあり封書あり巻紙に毛筆で書かれたものもありイラストの入ったものありと、バリエーションに富んでいます。それらは常設展示では出品しきれないため、この機会に、ということでしょう。

ペン書きのものであっても、光太郎の筆跡は実に味わい深く、「書」としての価値も高いものです。色紙や条幅などに気負って書いたものとはまた異なるリラックスして書かれたものである点にも面白味が感じられます。

また、送られた相手も多岐に亘っています。以前に伺った話ですと、女優・劇作家の渡辺えりさんのお父さま・故渡辺正治氏から平成28年(2016)に寄贈を受けたハガキなどもまだ展示していないので、機会があれば、というお話でした。
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おそらくこれも出るんではないかと思われますが、違ったらごめんなさい。

また詳しい情報が入りましたらご紹介します。厳冬期ということでなかなか大変ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

随分雪の多いところで昨日も終日降つてゐました。開墾が出来ないので何かがすべて遅れます。

昭和21年(1946)4月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

4月に入ってもまだ雪のため畑仕事にかかれなかったそうで、岩手、おそるべしですね。

1週間経ってしまいましたが、群馬県の地方紙『上毛新聞』さん、今年元日に掲載された一面コラムです。

三山春秋 詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは...

▼詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは1914(大正3)年。前橋駅で初めて顔を合わせた時、互いの印象は最悪だった。「肩を怒らし、粗野で荒々しい感じ」(朔太郎)、「何て気障(きざ)な虫酸(むしず)の走る男」(犀星)と語っている▼詩から想像していた風貌とのギャップに双方ともに落胆したが、およそひと月の滞在中に仲は深まる。犀星が上京すると今度は朔太郎が頻繁に会いに行き、一緒に高村光太郎の家を訪ねたり、上野公園へ出かけたりした▼互いの存在は創作の刺激になったのだろう。出会った頃は作品が評価されず暮らしも苦しかった犀星は才能を開花。「二魂一体」(犀星)と言うほどに、生涯の親友となった▼莫逆(ばくぎゃく)の友、心腹の友など友情にまつわる言葉は多い。その存在によって吉がもたらされることもあれば凶に転ぶこともある▼「益者三友損者三友」は論語の教えである。自分のためになる友は三通り、ためにならない友も三通りいる。前者は直言してくれる者、誠実な者、物事を深く知っている者であり、後者は不正直、不誠実、口先だけの者。大切にすべき人を説くこの思想は、江戸時代には広く庶民にも浸透していたという▼新しい年を迎えた。辰(たつ)年は変化の多い年とされる。それぞれの身にも小さな波、大きな波が寄せるかもしれない。行き詰まったとき頼りになるのは益者の友。相手にとっての自分も、そうありたい。

光太郎に朔太郎、犀星。年齢的には光太郎が最年長の明治16年(1883)の生まれ、次いで明治19年出生の(1886)の朔太郎(智恵子と同年です)、そして犀星が最も若く明治22年(1889)の生まれです。
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光太郎は朔太郎、犀星とはそれほど親しかったわけではありませんでしたが、「三山春秋」にあるとおり、二人が駒込林町のアトリエに揃って訪ねてきたことがあり、その件は犀星の随筆「天馬の脚」(昭和4年=1929)に述べられています。

それによれば犀星の光太郎評は「裏側へのびてゆく奥の深い人である。小説を書いてゐたら別の意味の志賀君のやうな人になつてゐたらう。物を研め考へることは当今の文人の比ではない。話をしてゐても気取らず平明で、それでゐてある程度まで他人を容れない冴えをもつてゐる。」「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」。そして帰り道、犀星が朔太郎に「かうして高村君を君と訪ねてかへると一寸若くなつたやうな気がするね。」すると「萩原も笑ひながら、いろいろな意味でねと言つた。

当方、朔太郎に関してはあまり詳しくないのですが、朔太郎もこの際の訪問記的なことを書いているのでしょうか。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

しかし犀星、光太郎歿後に書かれた『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)では、光太郎をディする方向に梶を切っていますが……。

光太郎にとっての「益者の友」といえるのは、同年生まれだった水野葉舟、そしてちょうど20歳下でしたが、当会の祖・草野心平でしょうか。
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無理くりですが、今日は「成人の日」。新成人の皆さんも、「益者の友」といえる友を得て、人生を豊かにしていっていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

フキノタウは三里塚の土の香りをなつかしいと思ひました。こちらでも此頃やうやく雪の下からフキノタウを発見しました。出はじめれば無限にあるわけです。 いただいたのは早速蕗味噌に作つて賞味します。


昭和21年(1946)4月1日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

光太郎もたびたび訪れた千葉三里塚に隠棲していた葉舟からフキノトウが送られ、その礼状の一節です。温暖な房総と雪深い花巻郊外旧太田村では、春の訪れが何ヶ月もずれます。当方も今月末に房総から花巻郊外旧太田村に足を運ぶ予定でいますが、その点のみが気の重いところです。

昨年12月22日(金)、『日本経済新聞』さんの記事から。

日本復帰70年 「奄美のガンジー」泉芳朗を語り継ぐ

 鹿児島県奄美地方で12月25日は特別な日だ。1946年のGHQ(連合国軍総司令部)の二・二宣言で、奄美を含む北緯30度以南の島々は米軍統治下におかれた。その後、奄美群島が悲願の日本復帰を果たしたのが70年前、53年のこの日だった。
 復帰運動の先頭に立ったのが泉芳朗(ほうろう)(1905〜59年)だ。ハンガー・ストライキを実施し、復帰を訴えた姿からインドのマハトマ・ガンジーになぞらえ「奄美のガンジー」と呼ばれている。
 私が代表を務める「泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会」では、功績を後世に伝えようと記念碑建立や出前授業を行っている。設立したのは私の父、豊春だ。泉先生の秘書を務め、復帰運動をそばで支えた。59年に泉先生が亡くなったあとは、奄美群島の各市町村が12月25日を日本復帰記念日に制定するよう奔走した。私も幼いころから話を聞かされ、実際にお目にかかったこともある。当時は親戚のおじさんだと思っていた。
 泉先生は、鹿児島県の徳之島出身。学校を卒業後、小学校で教員をする傍ら、詩作に打ち込んだ。28年に上京し、詩人の高村光太郎とも交友。再び島に戻った後は、教育者と詩人の二足のわらじで活動した。
 外国となった奄美は本土への渡航が制限され、黒糖や大島紬(つむぎ)など特産品の流通も禁止された。生活は苦しく、島民は密輸や密航に手を染めた。復帰を望む声が東京在住の奄美出身者らから広がり、51年2月には奄美で復帰協議会が結成される。議長に就任したのが教育者として信頼を集めていた泉先生だった。
 直後に始まった満14歳以上を対象とした請願署名には、実に島民の99.8%が名を連ねた。私の父の名前もそこに見られる。大規模な集会も開催され、取り締まる米兵との衝突も起きた。

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 51年8月に泉先生は名瀬市(現鹿児島県奄美市)の高千穂神社で5日間の断食を決行し、多くの島民が後に続いた。泉先生の詩「断食悲願」には強い決意がにじむ。〈膝を曲げ 頭を垂れて/奮然 五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう〉。詩の力は復帰運動を戦う島民の大きな力となり、うねりは一層大きくなった。
 しかし、すぐには実を結ばなかった。52年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され日本は主権を回復。北緯29度線以北の島々は復帰を果たしたが、奄美は依然、米軍統治下におかれた。この日は奄美では「痛恨の日」と呼ばれている。
 その翌日、泉先生は子供たちの前に日本国旗を示し、祖国の旗を覚えておくよう呼びかけた。そのことで米軍から注意を受けた際、一歩も譲らず説き伏せたという。父はよくその場面をあげ、胆力のすさまじさを語っていた。同年には名瀬市長に当選し「市政と復帰一如」をスローガンに精力的に活動する。教育者、詩人、政治家の3つの顔で、島民を鼓舞し続けた。
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 53年8月にダレス米国務長官が奄美を日本に返す用意があると発表した「ダレス声明」を経て、その日はやってきた。同年12月25日、奄美は歓喜に沸いた。泉先生は「皆さん、これで八年の苦難は達成して、きょう、この日の我々は、本当の日本人になったのであります」と挨拶し、万歳三唱した。島民はちょうちん行列で喜びあった。
 今年の復帰70周年の日にも、ちょうちん行列が予定され、当時の光景がよみがえるはずだ。奄美が米軍統治下にあったことを知らない世代も増えた。泉先生の功績とともに、先人たちの悲願の先に、今があることを伝えていきたい。
  
12月25日(月)に行われた奄美群島の米軍統治下からの日本復帰70周年記念式典に先立ち、復帰運動を主導した泉芳朗の功績を振り返るといったコンセプトの記事です。

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伊仙村(現伊仙町)出身で、戦後は名瀬市長も務めた泉ですが、戦前は教員を務めるかたわら詩人としても活動し、10年ほどは東京に在住していました。その頃光太郎とも親交を結び、光太郎も出席した座談会の司会を務めたり、自身の主宰する雑誌の題字を光太郎に揮毫して貰ったりした他、光太郎と同じ書籍や雑誌に寄稿することもしばしばでした。戦後も光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手から帰京した直後の昭和27年(1952)に、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問しています。くわしくはこちら

先月の奄美群島の日本復帰70周年。今一つ報道されなかったように感じています。九州の地方紙などでは改めて占領下を振り返る特集記事などが出ていましたが……。沖縄が永らく米軍統治の扱いだったことは歴史の教科書にも記載がありますが、小笠原諸島、そして奄美群島もそうであったことは忘れられつつあるように思われます。ウクライナの件など、世界的にも領土問題が顕在化しているこの時期、過去に学ぶ必要をひしひしと感じるのですが……。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ二通及「週刊朝日」二冊、珍しい新聞一束拝受、ありがたく存じました。 小屋の写真はよくうつつてゐると思ひました。談話の筆記は所々間違へたりしてゐます。ともかく、こんな小屋に独居自炊してゐると思つて下さい。人家からは三丁程離れた山腹で下に見える湧き水の水を汲んで炊事してゐます。勝手元の厨芥を夜兎が来てたべるやうです。鼠は夕方遠くからやつて来て小生の座辺へも平気で来ます。大切なローソクをかぢるのは閉口です。

昭和21年(1946)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

光太郎の元に送られた『週刊朝日』のうち、この年2月24日号(第48巻第7号)には、花巻郊外旧太田村の光太郎の暮らしぶりが紹介されました。この手の記事としては最も早い時期のものの一つです。
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題して「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」。故郷・山形に居た斎藤茂吉も紹介されています。

少し前にご紹介した佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』の中で、歴史作家の藤沢周平が同郷の茂吉に対し、戦後も皇国史観から抜け出せず、戦争協力への反省も行わなかったことを痛烈に批判したことが紹介されています。また佐高氏もこう書いています。

 光太郎より一つ年上だった茂吉は、一九四五年の四月に故郷に疎開し、大石田の名家の離れに住んだ。その時、茂吉六十三歳。妻子と離れての独居で病気をしたりもしているが、上下二部屋ずつある家で、光太郎の小屋とは比ぶべくもなかった。また、結城哀草果とか板垣家子夫とか、地元の歌の弟子が献身的に世話をしている。

光太郎も太田村の山小屋に入る前は、花巻町の佐藤隆房邸に厄介になっており、佐藤や宮沢賢治実弟の清六らが献身的に世話してくれていました。その生活を続けなかったところにも光太郎の偉さがあるというわけですね。

おそらく光太郎は登場しないとは思われますが……。

偉人の年収 How much? 歌人 与謝野晶子

NHK Eテレ 2024年1月8日(月) 19:30~20:00 

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる!今回は「情熱の歌人」与謝野晶子の素顔に迫ります。

愛の歌集「みだれ髪」で衝撃的にデビューした与謝野晶子。初めての収入は何に使った?夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意するため、晶子が始めたこととは?大正時代には男女の意識の変革を訴え、昭和になるとあることに打ち込んだ晶子。鉄幹死後の晩年の年収は?グローバルな視点でいまの私たちにも訴えかけてくる与謝野晶子の姿を今野浩喜が演じ、谷原章介、山崎怜奈と語り合う。

出演者 【司会】谷原章介 山崎怜奈 【出演】今野浩喜
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昨年からレギュラー放映されている番組で、上記番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」というコンセプトです。

何度か拝見しましたが、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市の偉人・伊能忠敬の回や、当方がある意味光太郎以上に尊敬する土方歳三の回などは、特に興味深いものでした。

毎回、再現V的な中で今野浩喜さんがそれぞれの偉人に扮し、スタジオのMC谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれるという作り。今回も今野さんが与謝野晶子を無理くり演じられます。
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晶子の夫・鉄幹与謝野寛は、本格的に文学的活動を始めた頃の光太郎の師。晶子も光太郎の姉貴分といった立ち位置でした。そこで「夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意」には光太郎も関わります。明治44年(1911)のことです。

その費用の捻出のため、晶子は自作の短歌百首を散らし書きした「百首屏風」を複数制作して販売しました。それ以外に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も作られました。下記は阪急グループの創始者・小林一三の旧蔵品。
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また、後から晶子も寛を追って渡欧しますが、その際、寛から晶子への指示は「あなた一人で来るのは無理だろうから光太郎君についてきてもらいなさい」。さすがに光太郎の随伴は実現しませんでしたが。

その後も与謝野夫妻と光太郎の交流は続き、不即不離の関係でした。現在確認できている光太郎生涯最後の短歌にも晶子が詠われました。

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め

昭和27年(1952)、彫刻家としての生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖に遊んだ際の詠です。「泛びて」は「うかびて」と読みます。寛は昭和10年(1935)、晶子も昭和17年(1942)、既に亡くなっているのですが。

そんなわけで、番組内でちらっとでも光太郎に触れられるとありがたいのですが……。ともあれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お約束してゐた「海にして」の揮毫、硯が凍って書けませんでしたが、この二三日時候ゆるみ、雪もとけはじめました位、今日悪筆をふるひましたので別封でお送りしました。


昭和21年(1946)3月25日 岡崎清一郎宛書簡より 光太郎64歳

「海にして」は明治39年(1906)、光太郎が渡米の折に船中で詠んだ短歌です。

海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと

光太郎自身は、「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」(「ある日の日記」雑誌『キング』第5巻第9号 昭和4年=1929)と書いています。

古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん最新号の2024年2月号
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巻頭特集が「骨董を楽しむ 再再訪K氏コレクション」全28ページ。「K氏」というのは、記事自体を執筆なさっている古美術愛好家・加瀬礼二氏という方のようです。

古陶磁が中心ですが、光太郎の父・光雲の作も2点。
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まず、鋳金にして量産したと思われるレリーフの原型「因陀羅大将」。おそらく石膏でしょう。裏面には見覚えのある光雲の筆跡で「大正六年一月二日 試作」と書かれています。因陀羅大将は薬師如来十二神将の一柱で、元々インドの土俗信仰の神だったものが仏教に取り入れられたものです。十二、というわけで他の神将ともども方角や年月日などの干支に割り振られ、因陀羅大将は「巳」の担当です。

もう一点、こちらはブロンズで「聖徳太子孝養立像」。
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何が「孝養」かというと、父・用明天皇の病気平癒を祈願するお姿、というわけです。こちらもある意味伝統的な図題で、聖徳太子信仰とともに昔から作られ続けてきたモチーフです。

光雲も好んだというか、注文されることが多かったようで、木彫による複数の作例が確認できています。令和3年(2021)にはテレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」に木彫の像が登場、1,500万円の鑑定額がつきました。
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人気の図題と言うことで、ブロンズに写されたものが販売されています。現代の鋳造であればさほどの値段にはなりませんが、光雲生前に、光太郎実弟にして光雲の三男・豊周が鋳造を手がけたものであれば、そこそこの値がつくものです。『小さな蕾』さん掲載のものは大正9年(1920)、豊周鋳造だそうで、まさにこのタイプのものですね。

ちなみに筆者の加瀬礼二氏、令和3年(2021)9月号の同誌にも「高村光雲 聖徳太子像」という記事を寄稿され、他のタイプのブロンズ聖徳太子像をご紹介下さいました。

というわけで、『小さな蕾』2月号、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨日は猛烈な吹雪で二丁も歩けないほどでした。もうもうとけむるやうな雪の粉が風景をまつたくかき消してしまひました。開墾にもまだ手がつきません。

昭和21年(1946)3月16日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる地吹雪というやつですね。前年秋から独居生活を始めた花巻郊外旧太田村、3月半ばでもこうなのか、と、新鮮な驚きだったようです。

昨秋から始まっている展示です。年末年始休館が明けて今日再開します。

コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事

期 日 : 2023年10月7日(土)~2024年3月31日(日)
会 場 : 世田谷文学館 東京都世田谷区南烏山1-10-10
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 毎週月曜日 1月8日(月・祝)、2月12日(月・祝)は開館、翌日休館
料 金 : 一般 200円 大学・高校生 150円 65歳以上・小中学生 100円

 1950年代から80年代まで、数々の映画で衣裳デザインを担当した柳生悦子(やぎゅう・えつこ 1929~2020)。舞台衣裳デザインの道を志していた柳生は東京美術学校在学中から映画美術監督・松山崇に師事、美術助手として映画制作に携わります。『ロマンス娘』(東宝 1956年)で映画衣裳を手がけるようになり、以降「三人娘」「若大将」「社長」「クレージー」ものなどの東宝の人気シリーズから音楽映画、文芸作品、時代劇、戦争、SF映画などあらゆるジャンルの映画衣裳デザイナーとして活躍していきます。85年の『Mishima』(日米合作映画・日本未公開)、88年の『敦煌』(大映・電通)まで作品数は100本以上に上ります。
 現在でこそ映像作品におけるコスチューム・デザインは作品を成り立たせる重要な要素として認識されていますが、柳生がキャリアをスタートした1950年代から60年代の映画界はモノクロからカラー、ワイド画面への転換期と軌を一にし、登場人物たちの色調やスタイルを全体バランスの中で考える専門職としての衣裳デザイナーの必要性がようやく認められはじめた時期でもありました。柳生は手さぐりの中で、映画全体と調和する「グッド・デザイン」とは何かを追求し続けました。
 世田谷文学館は柳生の生前、約3000点に及ぶデザイン画の寄贈を受けました。本展は、歳月を経てなお色彩鮮やかなデザイン画の数々を中心に構成し、映画衣裳デザイナーのパイオニア・柳生悦子の仕事をご紹介いたします。約400点の衣裳デザイン画を閲覧できるデジタル展示とともにお楽しみください。
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昨年末にX(旧ツイッター)世田谷文学館さんの公式アカウントに出た投稿で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」岩下志麻さんが演じられた智恵子役の衣裳に関する展示も為されているということを知った次第です。
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手許の資料とつつきあわせてみますと、何点かは「ああ、このシーンでの衣裳か」という感じでした。
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ちなみに光太郎役は丹波哲郎さんでした。
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改めてお着物をよく見てみますと、意外と凝った柄になっていますね。しかしそれが違和感を感じさせず、非常に自然です。柳生さんという方、存じませんでしたが、いい仕事をなさっていましたね。
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ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

苦しめる間は必ず進みます。これでもういいと思つた時はお仕舞です。


昭和21年(1946)3月19日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

なるほど。

元日には能登半島での大地震、昨日は羽田空港での事故と、大変な幕開けになってしまった2024年です。亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したく存じます。

こんな時こそ神仏のご加護にすがり、心落ちつけたいものです。今年は辰年ということで、龍神様。台東区の浅草寺さんお水舎に鎮座まします、光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が注目されています。

昨年12月28日(木)の『東京新聞』さん。「想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物」という記事で取り上げて下さいました。

想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物

008 来年の干支(えと)は「辰(たつ)」。龍(竜)とも解せられ、十二支の中では唯一、想像上の生き物だ。辰が干支の一つに選ばれた理由を探るとともに、龍が祀(まつ)られている都内の寺社を訪ねた。

◆干支の起源は天体 農耕始める目安に
 なぜ干支に辰(龍)が入ったか。ワニが転じて龍になったとか、インドの教典が起源など諸説あるが、天体からとられたと天文学者の新城(しんじょう)新蔵(1873~1938年)が説いている。新城は宇宙物理学を専門としたが、中国天文学の権威でもあり、戦前に京都帝国大学総長も務めた人物。
 新城は「東洋天文学史大綱」に「古代中国では農作業を行う暦に恒星の『大火』を用いた。大火とは、さそり座のアンタレス」「殷(いん)の時代は大火を『辰』と呼び、守護神扱いした」と記す。十二支を制定する際に5番目が辰となったのは「大火が五月の星だから」という。さそり座は夏の星座で、赤く目立つアンタレスは農耕を始めるのに良い目安になったと想像できる。
 今の時期は、夜空にアンタレスを見ることはできない。多摩六都科学館(西東京市)にお願いして世界最大級のプラネタリウムにさそり座を投影してもらった。南の空、天の川付近に輝く。「アンタレスはさそりの心臓あたり」と天文グループリーダーの齋藤正晴さん。
 中国の星座ではおとめ座、てんびん座、さそり座、いて座にかけての領域を四神獣の青龍に見立てており、辰の星があるから龍に置き換わっていったのではないだろうか。

◆田無神社に5龍神
 龍の神社といえば、西武新宿線・田無駅の近くにある田無神社(西東京市)だ。「鎌倉時代の創建以来、祭神の級津彦命(しなつひこのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)は龍神として祀っている」と賀陽(かや)智之宮司。現在は五行思想に基づいて本殿内に金龍、境内各所に黒龍、白龍、赤龍、青龍が配され、五龍神として信仰されている。
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    青梅街道に面した南側の一の鳥居をくぐると、すぐ右に赤龍がある。参道を進んで二の鳥居の西に白龍、本殿・拝殿の東に青龍、北参道わきには黒龍が置かれている。
   中国の神話にある四神獣は東が青龍、南が朱雀(すざく)、西が白虎(びゃっこ)、北が玄武だが、田無神社ではいずれも龍だ。金龍は拝観することはできないが、おみくじの入った置物には金龍もある。

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 本殿・拝殿には龍の彫刻が施されている。境内にはイチョウの木が立ち並び、参拝者の中には手を触れて祈る人も。神木「龍木」として親しまれているようだ。
 田無神社にはこんなエピソードもある。作家の五木寛之さんが早稲田大に入った1952年の春から夏にかけ、この神社の床下をねぐらにしていたというのだ。五木さんは「あちこちの神社にお世話になった」のだが「最も快適だったのは田無神社の床下である」と雑誌の随想に書いている。

◆金龍出現で松林1000株 浅草寺の山号に
 龍と縁の深い寺といえば浅草寺(台東区)。東京最古といわれているこの寺の山号は金龍山という。飛鳥時代の628年、隅田川から本尊の観音様が現れた時、金龍が天空から舞い降り、一夜で千株の松林ができあがったという縁起がある。春と秋に奉納される「金龍の舞」の由来だ。
  最初に龍がいるのは雷門。赤い大ちょうちんの底に木彫りの龍が施されている。雷門の南側には風神像と雷神像、北側には龍神像2体が奉安されている。門の正式名称は「風雷神門」だが、江戸時代後期にはすでに雷門と呼ばれるようになった。
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  仲見世を抜けて宝蔵門へ。「小舟町」と記された赤ちょうちんの底にも木彫りの龍がいる。本堂に向かう手前東側のお水舎(みずや)では高村光雲作の龍神像が立ち、足元では龍の口から水が注がれている。天井には東韶光(あずましょうこう)が描いた「墨絵の龍」がにらみをきかせる。
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 本堂の天井にも川端龍子の「龍之図」があったが今年7月に剝落してしまい、現在は高精細の複製画が掲示されている。

雑誌『家庭画報』さんの新春特大号でも。
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特集「辰年の開運祈願 龍神絶景を行く」の中の「あなたの町にも龍はいる!日本全国の社寺建築に息づく龍の傑作選」という記事です。

●浅草寺(東京都) 都内最古の寺院で神像を囲む8体の龍

約1400年前、今の隅田川で聖観世音菩薩の像が、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の投網にかかったことを由緒に持つ「浅草寺」。御水舎には明治から大正にかけて活躍した彫刻家・高村光雲作の龍神像を据え、その周りを8体の龍が囲む。天井にも「墨絵の龍」が描かれている。
浅草寺 住所:東京都台東区浅草2-3-1 TEL:03(3842)0181
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開運・招福にご利益のあるとされる龍神様。年明け早々の暗雲を祓っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

明日は小生の誕生日なので、取つて置いた少しばかりの小豆を煮て明朝は赤飯を祝ふつもりです。

昭和21年(1946)3月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

この項、慣例により光太郎の年齢は数え年で記載していますので食い違いますが、翌13日は満63歳の誕生日でした。日記によれば、朝のうちに近くの分教場の先生が用事で訪ねてきた以外は訪問者もなく、一人で祝う誕生日でした。

まずは昨日の能登半島を震源とする地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。

昨日の元旦は、例年通り九十九里浜に初日の出を拝みに行きました。以前は智恵子が療養していた現・九十九里町まで足を延ばしておりましたが、やはり少し遠いということもあり、ここ3年は隣町の旭市で拝観。同じ九十九里浜の一部ではあります。

旭市と言えば、平成23年(2011)の東日本大震災時には津波が発生、全壊家屋300戸以上、半壊も約1,000戸、確認されているだけで14名の尊い命が犠牲となり、2名の方はいまだ行方不明です。
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下の方の赤枠で囲まれている部分が、90年前に智恵子が療養し、週に一度は光太郎が訪れていた現・九十九里町です。当方自宅兼事務所のある香取市は右上の方。

午前6時過ぎ、旭市の海岸に到着。一昨日の大晦日は夜になっても雨がぱらついており、どうかと思っていたのですがまずまずの好天でした。
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右手に目をやると、かつて智恵子が居た九十九里町方面。
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昨年の正月飾り等を持参、それを焚き付けにして、あとは流木を集め、焚き火。令和6年(2024)の迎え火としました。
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波乗り初めのサーファーさんたち。小学生くらいの少年もいました。
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6時45分頃、水平線から太陽。
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10年以上九十九里浜で初日の出を拝んできましたが、いつも水平線上に雲がかかっていて、水平線から上る太陽を見たのは今年が初めてでした。

ちなみに左下は一昨年、右下は昨年の初日の出です。
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いつもこんなふうに雲の上から日が昇る、という感じだったのが、今年は水平線からのご来光で、驚きました。もっとも、やはり雲があっていったん隠れてしまいましたが。
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波打ち際に鳥がいて、智恵子の友達だった千鳥かと思ったので近づいてみましたが、どうやら鷗のようでした。

やがて雲の上に太陽。
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令和6年も光太郎智恵子の世界が盛り上がることを祈念し、手を合わせました。

それにしても、13年前にこの海が牙を剥いたことなどほぼほぼ忘れていましたが、昨日のニュース映像で改めて地震の恐ろしさを再認識しました。身を引き締めて今年1年を過ごそう、と思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

此処へ来てからお風呂にはまだ一度も入りません。しかし湯を沸して時々からだ拭きをやり、下着もとりかへて洗濯をちよいちよいやります。

昭和21年(1946)3月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で暮らし初めて約5ヶ月。小屋には風呂がありませんでした。のちに見かねた村人たちが風呂を作ってやりますが、大量の薪が必要で効率が悪く、結局あまり使いませんでした。その代わり、落ちついてからは大沢温泉さんなどに足繁く通うようになります。

2024年となりました。あけましておめでとうございます。
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個人としては喪中でして、個人の皆さんへの賀状は欠礼させていただきましたが、高村光太郎連翹忌運営委員会として法人各位には上記の賀状を送らせていただきました。
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画像は光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)、光太郎が手許に残した自筆原稿です。詩は以下の通り。

     
 
 一天の黒雲を咄嗟に破り、
 大洋の波を漏斗(じやうご)に吸ひあげ、
 あんたんたる熱帯の島かげに、
 ぎりぎりとまき起す水の柱を
 斜に光るは爪、
 縦につんざくは
 尾端の剣、
 眼を射る火花の
 一瞬、
 海底を干して、
 洞穴にへうへうの風をよび、
 気圧の鬱血に
 暴烈の針をさし、009
 たちまち見え、たちまち隠れ、
 天然の素中に
 清涼無敵の秩序を
 投げて
 天上する波、
 龍。


連作詩「猛獣篇」の一篇として書かれ、雑誌『草』第六号に掲載されました。

アナーキストやプロレタリア文学者達と近い位置にいた頃の作品だけに、世俗に馴れず、孤高の位置を保とうという意志を、天上に駆け上がる龍に託して謳いあげた一篇です。一時期の光太郎詩の真骨頂とも言えるでしょう。

さて、昨年は光太郎生誕140周年でしたが、令和6年(2024)はどんな「周年」かをご紹介します。

150年前 明治7年(1874) 光太郎生誕前 光太郎の父、光雲が11年の奉公を終え、「光雲」の名を許され独立しました。

130年前 明治27年(1894) 光太郎12歳 シカゴ万博で光雲の木彫「老猿」が優等賞を受賞しました。
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120年前 明治37年)(1904) 光太郎22歳 イギリスの美術雑誌『ステュデイオ』でロダンの「考える人」の写真を初めて見、衝撃を受けました。
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110年前 大正3年(1914) 光太郎32歳 10月、第一詩集『道程』を刊行しました。12月には長沼智恵子と上野精養軒にて結婚披露を行いました(入籍はずっと後、昭和8年=1933)。
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100年前 大正13年(1924) 光太郎42歳 連作詩「猛獣篇」の第一作「清廉」を書きました。

90年前 昭和9年(1934) 光太郎52歳 5月から12月、心を病んだ智恵子が九十九里浜に移っていた母・セン、妹・セツの元で療養生活を送りました。10月、父・光雲が没しました。同じ月、前年に没した宮沢賢治の作品を集めた文圃堂版『宮沢賢治全集』全三巻が刊行され、その装幀、編集にあたりました。
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80年前 昭和19年(1944) 光太郎62歳 光太郎の黒歴史、三種類刊行したうちの最後の翼賛詩集『記録』を刊行しました。

70年前 昭和29年(1954) 光太郎72歳 ブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)が「美術映画 高村光太郎」を制作、公開しました。
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特筆すべきは大正3年(1914)の、詩集『道程』刊行及び智恵子との結婚披露110周年でしょうか。110周年というのがちょっと半端ですが。ちょうど100周年ということであれば、連作詩「猛獣篇」。そのあたりにからむ企画展示等、どこかでやっていただければ幸いなのですが……。

さてさて、今年はどういうとしになりますやらですが、今年も変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

こちらはまだまつたく雪に埋れてゐます。木の芽もまだ堅く草木の冬眠はまださめません。


昭和21年(1946)3月3日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

立春を過ぎて1ヶ月ですが、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)はこういう状況でした。3月でこういう状況というのは予想していなかったようです。

早いもので、とうとう大晦日となってしまいました。

昨日まで、例年通り、今年1年の光太郎関連で主な出来事をご紹介して参りました。コロナ禍もほぼ終息ということもあり(未だ予断を許さぬ状況ではありますが)、多くの方々がそれぞれの分野で光太郎らを取り上げて下さり、ありがとうございました。

さて、こちらも例年通り、寄付等のご報告。

まず、皆様方からいただいた郵便物に貼られていた切手を、公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会さんにお送りしました。アジアやアフリカの保健医療協力のため役立てられています。今日に間に合うように先月送付いたしまして、先月分の「ご協力団体一覧」に当会の名を記していただいております。
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同様に、ベルマーク。こちらはベルマーク教育助成財団さんに送付。
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やはり11月分の「今月の寄贈者」に名を記して下さいました。
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少しでも光太郎のイメージアップにつながれば、という下心があるのですが(笑)。

さて、別件で、正月のテレビ番組から。

日本歌手協会新春12時間歌謡祭<第一部>

BSテレ東 2024年1月2日(火) 12:00~15:00

一挙12時間!全160曲放送! 第一部<お昼12時〜>

「東京ブギウギ」ミラクルひかる 「大阪ブギウギ」中村美律子 「買物ブギー」川中美幸 「東京の花売娘」大江裕 「アルプスの牧場」関大八 「さいざんす・マンボ」谷龍介 「こんなベッピン見たことない」小桜舞子/合田道人 「石狩エレジー」大川栄策 「お祭りマンボ」津吹みゆ 「黒百合の歌」上野さゆり 「雪の降る町を」新沼謙治 「ヴァイヤ・コン・ディオス(Vaya Con Dios)」香西かおり 「リンゴの花は咲いたけど」コロムビア ローズ 「智恵子抄」市川さよ子 「霧子のタンゴ」神穰ひろし 「ここに幸あり」大津美子 「お別れ公衆電話」富士きぬ子 「浪曲子守唄」一節太郎 「ギター仁義」北山たけし 「出世街道」畠山みどり 「東京五輪音頭」畠山みどり/北山たけし 「大利根無情」大林幸二 「夫婦春秋」金嶋昭夫 「長崎の女」北川裕二 「あの娘が泣いてる波止場」村木弾「お花ちゃん」南部姉妹 「ヘイ・ポーラ」田辺靖雄/九重佑三子 「雨の新宿」津山洋子・髙樹一郎 「みれん海峡」扇ひろ子 「美しい十代」三田明 「愛と死をみつめて」青山和子 「青春の城下町」梶光夫 「下町育ち」笹みどり 「君が好きだよ」しょうじ 「銀座ブルース」櫻井まり 「ベッドで煙草を吸わないで」弓純子 「経験」辺見マリ 「どうにもとまらない」山本リンダ 「それがあなたで本当に良かった」九重佑三子 「人生これから」宇山保夫 「女のひとり酒」石岡みどり 「夕顔」沢田亜矢子 「どうぞこのまま」丸山圭子 「バラが咲いた」マイク眞木 「花と小父さん」渚まゆみ 「みんな夢の中」髙田恭子 「愛のさざなみ」安倍理津子 「星のフラメンコ」松阪ゆうき 「東京⇔大阪」田辺靖雄

<司会>アグネス・チャン、川中美幸、香西かおり、伍代夏子、森口博子/合田道人
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「智恵子抄」がラインナップに入っており、てっきり令和2年(2020)に亡くなった二代目コロムビア・ローズさんの過去の映像が流れるのだろうと思い込んでおりましたところ、市川さよ子さんという方の歌唱でした。

調べてみましたところ、10月27日(金)に江戸川区総合文化センターさんで公開収録が行われたようで、小桜舞子さんという方のブログに市川さんが「智恵子抄」を歌われた由、記述がありました。「名曲を歌いつぐ」というコーナーの一環だったようで、二代目コロムビア・ローズさんが歌われた丘灯至夫氏作詞・戸塚三博氏作曲「智恵子抄」なのでしょう。
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さらに再放送系ですが。

にほんごであそぼ「朗読スペシャル(2)」

地上波NHK Eテレ 2024年1月4日(木) 15:35〜15:45

朗読(高杉真宙)/「三銃士」アレクサンドラ・デュマ、「旅情」萩原朔太郎、「あどけない話」高村光太郎、「鶏」山村暮鳥、朗読(津田健次郎)/「ロミオとジュリエット」シェイクスピア、「板極道」棟方志功、「達磨おくり」金子みすゞ、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,高杉真宙,藤原道山,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

初回放映が9月18日(月)でした。俳優の高杉真宙さんによる「あどけない話」朗読が含まれます。
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もう1件。直接、光太郎には関わりませんが、光太郎が終生敬愛し続けたロダン。

ねこのめ美じゅつかん 31歩め 「考える人」は何も考えていない!?

地上波NHK Eテレ 2024年1月4日(木) 08:25〜08:35  1月6日(土)  11:30~11:40

キャッチュアイの2匹が静岡県立美術館で目にしたのは「考える人」。実は、何も考えていなかったのではないかと言い出す弟子ネコにボスもびっくり!一体どういう事なのか?

19世紀フランスを代表する彫刻家、オーギュスト・ロダンの傑作「考える人」。その造形を見てリアルだなあと感想を漏らすボスネコに対し、弟子ネコはそうではなく、“無理している”からこそ迫力があるのだと語り出す。さらにはそもそも、「考えていない人」かも知れないと、ボスを混乱させ始める。「考える人」にこめられたヒミツに迫る。そして古川琴音の「画家のうた」ではドラクロワの気になる超有名絵画を取り上げる。

【声】カミナリ,【出演】古川琴音
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それぞれぜひご覧下さい。

それでは皆様、よいお年をお迎えください。

【折々のことば・光太郎】

小生山に居て物の値段をまるで知りませんが下駄などは恐らく莫大なお値段なのだらうし又、中々入手いたし難きものと推察、恐縮に堪へません。


昭和21年(1946)3月1日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎64歳

「山に居て物の値段をまるで知りません」。光太郎、仙人じみて来ましたね(笑)。

今年1年の振り返り、最後です。

10月2日(月)
『しんぶん赤旗』さんの歌人の寺井奈緒美氏の連載「くねくねTANKAロード」が「レモン哀歌 高村光太郎」でした。

10月5日(木)
当会より『光太郎資料』第60集を発行しました。
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10月5日(木)~11月19日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館 さんで「高村智恵子レモン祭」が開催され、生家二階部分の特別公開及びライトアップ、紙絵実物展示、紙絵制作体験など様々なコンテンツが用意されました。

10月5日(木)~11月30日(木)
岩手県花巻市の花巻高村光太郎記念館さんで「令和5年度高村光太郎記念館企画展 光太郎と吉田幾世」が開催されました。関連行事として11月2日(木)、当方による同題の市民講座が開催されました。
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10月6日(金)~11月28日(火)1ab34b95-s
鎌倉市の笛ギャラリーさんで「高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その10」展が開催されました。11月11日(土)には関連行事として朗読会が行われました。

10月7日(土)
札幌市資料館さんで「第31回 葦の会 朗読会」が開催され、佐藤春夫著『小説智恵子抄』の一節の朗読も為されました。

10月7日(土)~12月24日(日)
和歌山市の和歌山県立近代美術館さんで小企画展「原勝四郎と同時代の画家たち」が開催され、光太郎油彩画「佐藤春夫像」が展示されました。

10月9日(月)
福島県二本松市の市民交流センターさんで「智恵子講座2023」の第一回が開催されました。主催は智恵子のまち夢くらぶさん。講師は同会代表・熊谷健一氏。同じく熊谷氏による第二回、第三回が11月19日(日)、12月17日(日)、同じ会場で開催されました。
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10月12日(木)~12月17日(日)
愛媛県西条市の五百亀記念館さんで「開館10周年記念企画展 秋川雅史彫刻展~彫り奉らん~」が開催され、テノール歌手にして木彫にも取り組まれている秋川雅史氏作の楠正成像模刻の他、氏のコレクションから光雲木彫数点が展示されました。
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10月13日(金)
岩波書店さんから谷川俊太郎氏選『永瀬清子詩集』が岩波文庫の一冊として刊行されました。随所で光太郎に触れられています。

10月14日(土)~11月26日(日)
石川県金沢市の石川県立美術館さんと国立工芸館さんで「第38回国民文化祭 第23回全国障害者芸術・文化祭 いしかわ百万石文化祭2023 皇居三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室と石川-麗しき美の煌めき-」が開催され、光雲、山崎朝雲、由木尾雪雄の合作「萬歳楽置物」、光雲と竹内久一の合作「鶴亀置物」が展示されました。
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10月16日(月)~11月7日(火)
埼玉県東松山市の東松山市民文化センターさんで「彫刻家 高田博厚展2023」が開催され、光太郎に関わる展示も為されました。

10月17日(火)
東京都中野区のオルタナティブスペースRAFTさんで「くつろぎの朗読」が開催され、朗読家・出口佳代さんによる「智恵子抄」朗読がプログラムに入りました。
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10月19日(木)
東京都渋谷区のHakuju Hallさんで「Hakuju Hall 20周年記念 カウンターテナーの饗宴」が開催され、藤木大地氏による加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。

同日、株式会社ワークスさん発行、一般社団法人パズル検定協会さん監修の『別冊漢字館 Vol.112』が「特集 ある芸術家の愛と哀 高村光太郎」を組んで下さいました。
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10月25日(水)
千葉県立図書館さん3館(中央・西部・東部図書館)において「千葉県誕生150周年記念 房総文学カード 第2弾」の配付が開始されました。「高村光太郎 智恵子抄 九十九里エリア 九十九里町」がラインナップに入っていました。

10月27日(金)~11月15日(水)
東京都荒川区のギャラリーHIGURE17-15casさんで、「『消えないし、 』展 O JUN 船木美佳 ー戦時下資料ラボー」が開催されました。現代アート作家のO JUN氏、船木美佳氏による光太郎詩を含む翼賛詩歌をモチーフとしたものでした。11月14日(火)に船木氏の故郷・福岡に本社を置く『西日本新聞』さんで紹介されましたが、会期終了前日で、このブログではご紹介しませんでした。この場を借りて取り上げさせていただきます。
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10月29日(日)
岡山市の岡山シンフォニーホールさんで「岡山市民合唱団鷲羽 第50回記念定期演奏会」が開催され、上月明氏作曲「智恵子抄 三章」(岡山市民合唱団鷲羽 第50回定期演奏会記念作品)が演奏されました。
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10月29日(日)、11月26日(日)
富山県高岡市の市民大学たかおか学遊塾さんで市民講座「高村光太郎『智恵子抄』を語り合おう」が開催されました。講師は茶山千恵子氏でした。

10月31日(火)
愛知県名古屋市のメニコンHITOMIホールさんで「藤木大地カウンターテナー・リサイタル」が開催され、藤木大地氏による加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」が演奏されました。
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11月1日(水)
文藝春秋さん発行の月刊文芸誌『文學界』2023年11月号に近現代史研究者の辻田真佐憲氏による「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」という記事が載りました。

同日、岩手県花巻市の宮沢賢治イーハトーブ館さんでトークリレー「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」が開催されました。メインパネラーは宮沢賢治実弟・清六の令孫にして林風舎代表取締役の宮沢和樹氏、パネリストは生前の光太郎をご存じの皆さんなど、コーディネーターは当方でした。
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11月2日(木)
散文「智恵子の半生」の一節と詩「レモン哀歌」が課題文で録音審査による開催だった「第16回山形大学高校生朗読コンクール」の審査結果発表がありました。

11月4日(土)
東京都中央区の王子ホールさんで「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」公演があり、朝岡真木子氏作曲の「冬が来た」が初演されました。歌唱は福成紀美子氏、ピアノは朝岡氏でした。
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11月5日(日)
千葉県木更津市の木更津市中央公民館さんで「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」が開催され、光太郎についても触れられました。講師は渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)でした。

11月8日(水)
『毎日新聞』さんの連載「山は博物館」で「光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る」が掲載され、光太郎がメインで取り上げられました。
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11月12日(日)~11月20日(月)
京都市の複数の寺院を会場に「京都非公開文化財特別公開」が行われ、一念寺さんでは光太郎の書が展示されました。
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11月15日(水)~2024年1月14日(土)
東京都港区の大倉集古館さんで「大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉」展が開催され、光雲作の「大倉鶴彦翁夫妻像」が展示されました。

11月16日(木)
茨城県水戸市の水戸市立東部図書館さんで朗読会「あなたに贈る読みがたりーいい夫婦の日ー」が開催され、「あどけない話」の朗読がありました。
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11月23日(木)~11月30日(木)
大阪市の竹井事務所さんで「古美術上田 EXHIBITION」が開催され、光太郎ブロンズ「手」の展示即売が行われました。

11月24日(金)
作家の伊集院静氏が亡くなりました。平成30年(2018)に文藝春秋さんから刊行された『文字に美はありや』で光太郎の書について取り上げて下さった他、小説でも光太郎詩を引用したりなさっていました。

11月25日(土)
東京都文京区のアカデミー茗台さんで「第66回高村光太郎研究会」が開催されました。
研究発表は前田恭二氏「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」、北川光彦氏「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」、当方の「智恵子、新たな横顔」でした。

11月26日(日)
千葉市の千葉アートサロンさんで「潮見佳世乃 CD発売記念LIVE 歌物語×JAZZ」が開催されました。第1部が「歌物語 智恵子抄」でした。
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11月29日(水)
東京都渋谷区の渋谷区文化総合センター大和田伝承ホールさんで「弓田真理子ソプラノ・リサイタル~歌声をあなたのもとに~」が開催され、甲田潤氏作曲「冬の朝のめざめ《智恵子抄》より」が演奏されました。

12月1日(金)
メディア業界紙「文化通信」を発行する文化通信社が主催する「ふるさと新聞アワード」の第3回の受賞記事が決まり、『いわき民報』元日号掲載で光太郎にも触れられた「草野心平生誕120周年記念特集」が「ひと」(一部「もの」)部門で優秀賞を受賞、表彰式が行われました。

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12月4日(月)
東京都渋谷区の渋谷区文化総合センターさくらホールさんで「男声合唱のためのウルトラセブン 楽譜出版記念コンサート」が開催され、蒔田尚昊氏作曲「『智惠子抄』より あどけない話」がテノール歌手・加耒徹氏の歌唱で演奏されました。

12月6日(水)
山形県北村山郡大石田町の大石田町町民交流センター虹のプラザさんで「第3回読書会「声に出して読みたい日本語 part2」が開催され、光太郎詩「道程」が取り上げられました。
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12月10日(日)
文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第17号が発行されました。評論家の芹沢俊介氏の追悼文、文治堂さんから詩集も覆刻されている光太郎と交流のあった詩人・野澤一が暮らした甲州四尾連湖のレポート、当方の『連翹忌通信』などが載っています。

12月16日(土)
東京都台東区のやなか音楽ホールさんで「歌曲個展+5 ドイツロマン派の歌曲――残照の時――」の公演があり、根本卓也氏作曲「組曲『智恵子抄』(新作初演)」の演奏がありました。ご出演はソプラノ・坂口真由氏、バスバリトン・牧山亮氏、ピアノ・蓜島啓介氏でした。
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12月18日(月)
地上波NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 健康」の放映があり、俳優の津田健次郎さんによる「レモン哀歌」朗読がありました。再放送は12月21日(木)、12月23日(土)でした。

12月22日(金)~2024年2月12日(月)
石川県七尾市の石川県七尾美術館さんで「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」展が開催され、光雲作の「聖観音像」が出品されました。
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12月23日(土)
新潟市のゆいぽーとさんで市民講座「二葉アーツスクール2023 めだかの学校 高村光太郎にとっての新潟」が開催されました。講師は山浦武夫氏でした。

同日、光太郎第二の故郷・岩手県の地方紙『岩手日日』さんに以下の記事が載りました。

賢治没後90年・光太郎生誕140年 人間味伝わる話題を

 宮沢賢治没後90年の今年は取材を通じて知らなかった賢治の一面に触れた。今春公開の映画「銀河鉄道の父」は父政次郎とその家族を通じて賢治の人生を描いた物語。家業を継ぐのを拒否し謎の商売を始めようとしたり、宗教に生きると言って家出したりと人間味にあふれる賢治を、舞台あいさつに立った成島出監督は「天真爛漫(らんまん)」と表現した。
 命日に営まれる賢治祭では生前に録音してあった父政次郎の肉声を聴いた。イメージよりも少し高い声でとうとうとお経のことを説き、賢治の弟・清六の孫に当たる宮澤和樹さんは「こういうお父さんに育てられたからこそ賢治があると思う」と語った。
 清六を頼って花巻に疎開した詩人で彫刻家の高村光太郎も生誕140年の節目の年だった。サンタクロースに扮(ふん)して子供を喜ばせたり、訪ねてきた女学生に足を崩してくつろぐよう勧めたりする光太郎の思いやりにあふれたエピソードを生前親交のあった人たちが披露し、主催した太田地区振興会の平賀浩会長は「後世に語り継がれる一材料になれば」と願った。
 今も昔も変わることのない人間味を伝えられる話題を届けていきたい。


さらに同日、新宿区のK’s cinemaさんで、映画「火だるま槐多よ」が封切られました。タイトルは光太郎詩「村山槐多」から採られ、劇中でも抜粋して朗読されました。
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12月25日(月)
東洋館出版社さんから山本茂喜氏著/野宮レナ氏イラスト『大人もときめく国語教科書の名作ガイド』が刊行されました。第5章 「そんなにもあなたはレモンを待っていた~文豪もときめきがお好き~」中に「1 愛する人に捧げます/「レモン哀歌」」という項が含まれました。

また、この項でその都度ご紹介はしませんでしたが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチン花(フラワー)さん販売の豪華弁当「光太郎ランチ」。メニューは光太郎の日記などを元に、光太郎が作った料理や使った食材などを研究し、現代風にアレンジし、彼の地で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの考案です。令和2年(2020)からの毎月15日に限定販売、今年も継続されました。
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同じく花巻市のワンデイシェフの大食堂さんでは、やつかの森LLCさんによる「こうたろうカフェ」の出店も5回、なされました。こちらも光太郎が作った料理や使った食材などを研究し、現代風にアレンジした料理が振る舞われました。
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というわけで、いろいろあった1年でした。新型コロナウイルス感染症が感染症法上の位置づけで「5類感染症」に変更された影響もあり、さまざまなイベントやコンサート、企画展示等が旧に復した感があり、ありがたいところです。しかし、「高村光太郎? 誰、それ?」、「高村光雲? 知らんなぁ」、「高村智恵子? 聞いたことない」という状況になるとこうは行きませんので、そうならないよう来年以降も微力ながら努力いたします。ご協力の程、よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

雪はまだとけず、降雪も三日に一日位は降ります。雪をかいて道をつけると又忽ち埋れます。雪解は三月末でせう。


昭和21年(1946)2月28日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で暮らし始めた初めての冬。まだまだ物珍しいことが多かったようです。

今年1年の回顧、3回目です。

7月2日(日)
NHK Eテレさんで「日曜美術館「クォ・ヴァディス」の秘密〜シュルレアリスム画家北脇昇の戦争」の放映があり、光太郎の戦後の花巻郊外旧太田村での生活が紹介されました。
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7月7日(金)
東京都杉並区の座・高円寺さんで、「ろうどくdeおもてなし 🌟七夕公演🌟~会えば何かがはじまる~【夜公演】」が開催され、唐ひづる氏・葉月のりこ氏による「高村光太郎「智恵子抄」より『千鳥と遊ぶ智恵子』『僕等』『おそれ』」朗読劇がプログラムに入っていました。
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7月7日(金)~7月9日(日)
東京都中野区のBook Trade Cafe どうひんさんで「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」の公演がありました。光太郎智恵子を登場人物とした二人芝居でした。

7月8日(土)
福島県双葉郡川内村の村民体育センターさんで、当会の祖・草野心平を偲ぶ第58回天山祭りが開催されました。当方による記念講演「草野心平と高村光太郎 魂の交流」がありました。
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7月8日(土)~8月2日(水)
秋田県横手市の皇室の秋田県立近代美術館さんで「名宝と秋田~三の丸尚蔵館 収蔵品展~」前期展示が開催され、光雲の木彫「文使」が展示されました。

7月8日(土)~8月20日(日)
山形県米沢市の米沢市上杉博物館さんで「今泉篤男と美術 ひたすらに己の眼と言葉を信じ 美術評論家・美術館人として歩んだ生涯」展が開催され、光太郎木彫「鯰」が展示されました。
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7月8日(土)~9月2日(土)
名古屋市のSee Saw gallery + hibitさんで「谷澤紗和子個展 彼方の手に触れる。」が開催され、智恵子紙絵オマージュの作品が展示されました。

7月13日(木)~10月1日(日)
宮城県宮城郡松島町の瑞巌寺宝物館 さんで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催され、光雲作の「聖観音像」を描いた作品が展示されました。
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7月15日(土)
東京都文京区の宝生能楽堂さんで「第二回 掬月会」公演があり、テノール歌手の紀野洋孝氏、伴奏(箏)福田恭子氏による別宮貞雄作曲歌曲集《智恵子抄》より「晩餐」の演奏がありました。

7月19日(水)~11月5日(日)
東京都千代田区の半蔵門ミュージアムさんで「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展が開催され、光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」を描いた絵画が出品されました。
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7月21日(金)~9月10日(日)
長野県安曇野市の碌山美術館さんで「夏季特別企画 生誕140周年高村光太郎展」が開催され、同館所蔵の光太郎ブロンズ全て及び関連資料等が展示されました。

7月21日(金)
僧侶、教育評論家の無着成恭氏が亡くなりました。「奪われた自由 高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥」を含む『無着成恭の詩の授業』(昭和57年=1982)という御著書がおありでした。
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7月24日(月)
作家の森村誠一氏が亡くなりました。「レモン哀歌」をモチーフの一つとした『新・人間の証明』という御著書がおありでした。

7月27日(木)~10月1日(日)
山口県山口市の中原中也記念館さんで「特別企画展 草野心平生誕120年 草野心平と中原中也」展が開催され、光太郎に関わる資料も展示されました。
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7月28日(金)
東京創元社さんから柳川一氏著の小説『三人書房』が刊行されました。光太郎も登場します。

7月29日(土)
横浜市イギリス館さんで「元井美智子自作自演コンサート2023」が開催され、箏曲奏者・元井美智子氏による「智恵子抄より」がプログラムに入りました。
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7月31日(月)
NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」で俳優の高杉真宙氏による詩「あどけない話」の朗読が為されました。再放送が8月5日(土)、再編集されたものが9月18日(月)、9月21日(木)、9月23日(土)に放映されました。

8月1日(火)
埼玉県東松山市さんの『広報ひがしまつやま』の8/1号、イラストレーター・絵子猫さんによる連載「絵子猫さんのアイテム探し」で高田博厚作の光太郎胸像が取り上げられました。
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8月1日(火)~8月3日(木)
岩手県花巻市の生涯学園都市会館で「高村光太郎記念館夏休みワークショップ 紙絵をつくろう!」が開催されました。作品の展示は12/20(水)~1/21(日)、花巻高村光太郎記念館さんにおいてでした。

8月8日(火)~8月27日(日)
岡山市の岡山県立美術館さんで特別展「美をたどる 皇室と岡山~三の丸尚蔵館収蔵品より」後期展示が開催され、光雲作の木彫「松樹鷹置物」が展示されました。
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8月9日(水)
宮城県牡鹿郡女川町のまちなか交流館さんで、第32回女川光太郎祭が開催されました。コロナ禍を経ての4年ぶりの通常開催でした。

8月15日(火)
宮部修氏著『父、高祖保の声を探して』が思潮社さんから刊行されました。光太郎にも触れられています。
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8月21日(月)
講談社さんから安西水丸氏著『安西水丸が遺した最後の抒情漫画集 陽だまり』が刊行されました。表題作で光太郎詩がモチーフとして使われました。

8月22日(火)~10月9日(月)
東京都台東区の東京国立博物館さんで「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」展示があり、光雲作の「檀木釈迦如来立像」と、光雲と豊周の合作「誕生釈迦仏立像」が出品されました。
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8月24日(木)
岩手県立花巻南高等学校文芸部さんから『門 ⅩⅦ』が発行されました。2月に花巻で行われた宮沢和樹氏(賢治実弟清六令孫  林風舎代表取締役)と当方との公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」のレポート、旧太田村の高村山荘、高村光太郎記念館さん訪問記などが掲載されています。

8月31日(木)
絵手紙の普及に努めた書家の小池邦夫氏が亡くなりました。複数のご著書で光太郎書について言及された他、主宰されていた『月刊絵手紙』で、平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載を執筆なさいました。

9月1日(金)
亜紀書房さんから森まゆみ氏著『聞き書き・関東大震災』が刊行されました。光雲、光太郎に触れられています。
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9月1日(金)~9月27日(水)
千葉県富里市の富里市立図書館で「第47回千葉県移動美術館~読書へのいざない~」が開催され、光太郎ブロンズ「手」が展示されました。

9月2日(土)~10月15日(日)
東京都港区の泉屋博古館東京さんで「特集展示 住友コレクションの近代彫刻」が開催され、光雲木彫「楠木正成銅像頭部木型」が出品されました。

9月4日(月)
NHkさんのラジオ第2で「声でつづる昭和人物史〜賢治を語る1」のオンエアがあり、昭和25年録音の光太郎の肉声が流れました。

9月7日(木)
仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんの一面コラム「河北春秋」で、光太郎の短句「いくらまはされても針は天極をさす」「正直親切」がメインで取り上げられました。

同日、作曲家の西村朗氏が亡くなりました。平成20年(2008)、「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」を作曲され、広く歌われています。

9月9日(土)~11月19日(日)
東京都中央区のアーティゾン美術館さんで「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展が開催され、旧ブリヂストン美術館さん制作の『美術映画 高村光太郎』『美術家訪問 第7集』の光太郎が撮影された動画2本が上映されました。また、ブロンズ「手」の出品もありました。
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9月11日(月)
地上波NHK Eテレさんで「にほんごであそぼ 服装」の放映があり、俳優の津田健次郎さんによる「あなたはだんだんきれいになる」朗読がありました。再放送は9月14日(木)、9月16日(土)でした。

9月15日(金)
 岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』、9月15日号に、連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が、「いいトコ発見! 地域おこし協力隊」という記事では同隊員・森川沙紀さんによる『The Onsen of Hanamaki 花巻温泉』が、それぞれ取り上げられました。
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9月16日(土)~10月9日(月)
横浜市の横浜市民ギャラリーさんで「新・今日の作家展2023 ここにいる―Voice of Place」が開催され、現代アート作家・来田広大氏による映像作品《東京には空がない (Rooftop Drawing)》が出展されました。

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北海道小樽市の似鳥美術館さんでトピック展「岸田劉生とその時代」が開催され、光太郎ブロンズ「十和田湖畔の裸婦像のための手」と書が2点展示されました。

9月30日(土)
澤正宏氏編『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻がクロスカルチャー出版から刊行されました。光太郎にも触れられています。

9月30日(土)~12月17日(日)
新潟県長岡市の駒形十吉記念美術館さんで「2023年第3回展 茶の湯を楽しむ-併設展 墨の魅力」が開催され、光太郎書「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」が展示されました。

数多くの方々がそれぞれの分野で光太郎智恵子、光雲を取り上げて下さり、いつもながらに感謝感激雨あられです。

明日はこの項最終回、10月から今月までを取り上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夕小正月用のお酒一升配給あり、コタツで晩酌、狐の声をききながら鼠と遊びました。耳づくは此処でもボロスケボオボオとなきます。


昭和21年(1946)2月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での独居生活、冬場は訪れる人も少なく、ことに夜間はまったくの一人。その点は気楽ではあったとは思われますが。

今年1年を振り返る企画、今日は4,5,6月分です。

4月2日(日)
千代田区の日比谷松本楼さんで第67回連翹忌の集いを開催いたしました。コロナ禍を経て4年ぶりの開催となりました。
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同日、高村光太郎研究会から『高村光太郎研究』第44号が、高村光太郎連翹忌運営委員会から『光太郎資料』第59集がそれぞれ発行されました。
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同日、NHK Eテレさんの「日曜美術館」で「重要文化財の秘密 知られざる日本近代美術史」の放映があり、光雲作の「老猿」が取り上げられました。再放送が4月23日(日)でした。
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4月5日(水)
大阪府豊中市の文化芸術センターさんで「Raffiné 春の音楽祭 in Osaka~心に響く名曲の調べ~」が開催されました。詩人の宮尾壽里子さんによる自作の「智恵子抄より~光太郎 智恵子へのオマージュ」朗読がプログラムに入りました。
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4月9日(日)
マルチアーティスト・井上涼氏が『毎日小学生新聞』さんに連載されている漫画「井上涼の美術でござる」が「高村光雲の巻」でした。

4月15日(土)
BSフジさんの「アートフルワールド 〜たぶん、すばらしき芸術の世界〜」の第47回「いま会いに行ける銅像」の放映があり、光雲作の「西郷隆盛像」「楠正成像」に触れられました。再放送が4月29日(土)でした。
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4月20日(木)~5月15日(月) 
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「山口山の木工展」が開催されました。 木工房さとうのさとうつかさ氏による光太郎をモチーフとした木工作品等が展示されました。
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4月21日(金)~4月23日(日)
東京都中央区の銀座大黒屋ギャラリーさんで「志村ふくみ・志村洋子 作品展示販売会 五月のウナ電」が開催され、光太郎詩「五月のウナ電」をモチーフとした染色作品が出品されました。京都展が5月19日(金)~5月21日(日)でした。

4月22日(土)
碌山美術館さんから同館編『三つの碌山館-荻原守衛顕彰110年のあゆみ-』が刊行されました。随所で光太郎に触れられています。
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4月22日(土)~6月11日(日)
長野県諏訪市のサンリツ服部美術館さんで「近代・モダン 新しい時代の絵画をもとめて」展が開催され、光雲作の木彫「鍾馗像」が展示されました。

4月23日(日) 
神戸市の神戸文化ホールさんで「合唱コンクール課題曲コンサート2023~藤木大地を迎えて~」で、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」がテノール歌手・藤木大地さんの歌唱で演奏されました。
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4月23日(日)~6月30日(金)
千葉県旭市の千葉県立東部図書館さんで資料展示「高村光太郎 生誕140周年」が行われ、光太郎著書、関連書籍等の展示が行われました。関連行事的に当方の市民講座「高村光太郎・智恵子と房総」が6月25日(日)に行われました。
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4月27日(木)~5月21日(日)
福島県二本松市の智恵子生家/智恵子記念館さんで「高村智恵子生誕祭」が開催され、生家二階部分の特別公開、紙絵実物展示、紙絵制作体験などが行われました。

4月29日(土)~5月4日(木)
千葉県松戸市の戸定が丘歴史公園内『松雲亭』で「千葉県150周年記念 文学で千葉を旅するカフェ」が開催され、「智恵子抄」朗読等が行われました。
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4月30日(日)
徳間書店さんから時代小説作家・山田風太郎の名著を漫画化した『追読 人間臨終図巻 芸術家編』が刊行されました。サメマチオ氏画。光太郎の項を含みます。

5月1日(月)
詩人の平田好輝氏が亡くなりました。氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌にもたびたびご参加下さいました。

同日、三重県の紀北民俗研究会さんから『奥熊野の民俗』№16が発行されました。太田豊治氏による「詩人 東正佳さんを知る」で、光太郎に触れられています。
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5月14日(日)~5月23日(火) 
東京都杉並区のラピュタ阿佐ヶ谷さんで「昭和の銀幕に輝くヒロイン 第105弾 岩下志麻」が開催され、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」もラインナップに入りました。

5月20日(土)
東京都目黒区の中目黒GTプラザホールさんで「東京インターアーツ目黒 第20回記念公演 和草(にこぐさ)コンサート」が開催され、故・中島はる氏作曲の、ピアノと箏、尺八の伴奏による独唱歌曲「智恵子抄」全4曲がプログラムに入っていました。
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5月27日(土)
岩手日報社さんから『北の文学 第86号』が発行されました。小説部門の優秀作に選ばれた瀬緒瀧世(せお・たきよ)さんの「fantome(ファントーメ)」に光太郎が登場しました。

6月3日(土)
兵庫県西宮市の兵庫県立芸術文化センターさんで「初夏にうたう ~日本歌曲の夕べ~」が開催され、新井俊稀氏の歌唱で「あどけない話」(野村朗氏作曲)が演奏されました。
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6月10日(土)
文治堂書店さんからPR誌『とんぼ』第16号が発行されました。中西利一郎氏追悼文、当方の連載「連翹忌通信」などが掲載されました。

6月16日(金)~6月18日(日)
兵庫県尼崎市の武庫川KCスタジオ公演さんで「武庫川KCスタジオ オープニングプログラム EVKK6月『売り言葉』」の公演がありました。野田秀樹氏作の智恵子を主人公とした一人芝居でした。
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6月17日(土)
東京都武蔵野市の三鷹古典サロン裕泉堂さんで「憧れ本読書会 #29 高村光太郎『智恵子抄』」が開催されました。講師は吉田裕子氏でした。

6月17日(土)~8月31日(木)
岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんで「テーマ展『山のスケッチ』」が開催されました。
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6月20日(火)
岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センターさんから『賢治学+ (第3集) 』が発行されました。中里まき子氏、エリック・ブノワ氏「講演録「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」」が収められています。

6月21日(水)
高村光太郎研究会にご所属されていた西浦基(にしうら・はじむ)氏が亡くなりました。『雨男 高村光太郎』(平成21年=2009 東京図書出版会)、『高村光太郎小考集』(平成30年=2018 牧歌舎)と、2冊のご著書がおありでした。

6月24日(土)
東京都練馬区の光が丘美術館さんで「齊藤恵ソロコンサート にほんのうた」が開催され、別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」全曲の演奏がありました。
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同日、名古屋市の熱田文化小劇場さんで「歌とピアノとヴァイオリン ~そよ風にのせて vol.17~」が開催され、朝岡真木子氏作曲「組曲 智恵子抄」がプログラムに入りました。

6月25日(日)
福村出版さんから立元幸治氏著『デュオする名言、響き合うメッセージ 墓碑を歩き、人と出会う、言葉と出会う』が刊行されました。「僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]」という項を含みます。
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6月30日(金)
河出書房新社さんからfd652e74健太郎氏著河出新書『自称詞〈僕〉の歴史』が刊行されました。「高村光太郎の〈僕〉」という項を含みます。

6月(日不明)
千葉銀行さんが展開するシニア世代向け会員制サービス「ひまわり倶楽部」の会報的な『ひまわり倶楽部』2023年6月号に劇作家・女優の渡辺えりさんによる「さんぶの里紀行」が掲載され、九十九里浜の智恵子抄詩碑などが紹介されました。

5月8日(月)から新型コロナウイルス感染症は、感染症法上の位置づけが「5類感染症」に変更され、まだまだ予断は許しませんが、各種イベント等はコロナ禍前の水準に近く開催されるようになりました。それに伴って連翹忌の集いも再開し、美術館さん/文学館さんでの企画展示等、各種コンサートや朗読会等も行われ、有り難いかぎりでした。

明日は7~9月を振り返ります。

【折々のことば・光太郎】

何しろ文化の仕事はせつかちには出来ません。気永に、落ちついて、しつかり、たゆまずやる外ありません。


昭和21年(1946)2月16日 島貫太吉宛書簡より 光太郎64歳

戦後の混乱期の中での発言ですが、コロナ禍を経た現代にも通じる内容ですね。

今年も残すところ1週間足らずとなりました。毎年恒例の1年間回顧を始めます。まずは1~3月、と、その前に、昨年のこの項で洩れていた、昨年末の件から。

2022年12月19日(月)
角川書店さんから青柳碧人氏著短編小説集『名探偵の生まれる夜 大正謎百景』が刊行されました。「姉さま人形八景」で光太郎智恵子が登場します。
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2022年12月30日(金)
朝日新聞出版さんから平田オリザ氏著『名著入門 日本近代文学50選』が刊行されました。「第五章 戦争と向き合う文学者たち」中に「『智恵子抄』高村光太郎」を含みます。

さて、ここから今年。

1月4日(水)~2月5日(日)
金沢市の石川県立美術館さんで「かねは雄弁に語りき 石川県立美術館の金属コレクション」が開催され、光太郎実弟・豊周の鋳金「朱銅三筋文花入」が展示されました。
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1月5日(木)~3月30日(木)
堺市立美原図書館さんで「伊東静雄没後70年記念展示 手紙にみる伊東静雄」が開催されました。光太郎から伊東宛の書簡(複製)が展示されました。

1月6日(金)~4月2日(日)
愛知県小牧市のメナード美術館さんで「メナード美術館開館35周年記念展 所蔵企画 35アーティストvol.Ⅱ」が開催され、光太郎木彫「栄螺」と「鯰」が出品されました。
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1月7日(土) 
青土社さんから鳥居万由実氏著『「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-』が刊行されました。「自己と他者が出会う場所――高村光太郎」という章を含みます。

1月7日(土)~2月28日(火)
千代田区の日比谷図書文化館さんで「龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―」が開催され、『智恵子抄』に関わる展示も為されました。
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1月16日(月)
明治7年(1874)創業で、光太郎智恵子が大正元年(1912)に滞在した千葉県銚子市犬吠埼の老舗宿「ぎょうけい館」(旧・暁鶏館)が廃業しました。

1月19日(木)
思潮社さん創業者にして評論家の小田久郎氏が亡くなりました。平成7年(1995)、『戦後詩壇私史』で光太郎に触れて下さっていました。

1月20日(金)~1月22日(日)
東京都八王子市の東京造形大学さんで「ZOKEI展 東京造形大学卒業研究・卒業制作展/ 東京造形大学大学院修士論文・修士制作展」が開催されました。長田ひかり氏の作品が「智恵子抄」オマージュの「白い病室」でした。
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1月20日(金)~2月19日(日)
那覇市の沖縄県立博物館・美術館さんで「美ら島おきなわ文化祭2022関連特別展 宮内庁三の丸尚蔵館収蔵品展 皇室の美と沖縄ゆかりの品々」が開催され、光雲と山崎朝雲の合作「萬歳楽置物」が展示されました。
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1月21日(土)~1月31日(火)
鎌倉市の鎌倉芸術館さんで「没後35年 高田博厚展」が開催され、光太郎胸像を含む高田のブロンズ彫刻等が展示されました。

1月25日(水)
宮沢賢治研究家の天沢退二郎氏が亡くなりました。光太郎に言及した著書等もおありでした。

1月26日(木)
光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエを所有する中西家当主・中西利一郎氏が亡くなりました。最晩年の光太郎について多くの証言を残して下さいました。

2月5日(日)
横浜能楽堂で「企画公演 能役者 鵜澤久」が開催されました。「舞囃子 智恵子抄」がプログラムに入りました。
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同日、農文協さんからコーラ小林さん・編 中島陽子さん・絵の絵本『イチからつくる コーラ』が刊行されました。光太郎詩「狂者の詩」に触れられています。

2月8日(水)
平凡社さんから和田博文氏著『日本人美術家のパリ 1878-1942』が刊行されました。「高村光太郎「根付の国」と、欧米の日本美術」という章を含みます。
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2月11日(土・祝)〜4月9日(日)
岐阜県現代陶芸美術館さんで「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」展が開催され、光雲木彫「白衣観音像」が出品されました。巡回が以下の通りでした。
 長野県立美術館 2023年4月22日(土)〜6月18日(日)
 あべのハルカス美術館 2023年7月1日(土)〜9月3日(日)
 三井記念美術館 2023年9月12日(火)~11月26日(日)
 富山県水墨美術館 2023年12月8日(金)〜2024年2月4日(日)
 山口県立美術館(予定) 2024年9月12日(木)~11月10日(日)
 山梨県立美術館(予定) 2024年11月20日(水)~2025年1月30日(木)

2月14日(火)
花巻市のなはんプラザにおいて公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」が行われました。対談者は宮沢賢治実弟・清六の令孫にして林風舎代表取締役の宮沢和樹氏と当方でした。
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2月16日(木)
横浜市の横浜みなとみらいホールで「藤木大地&みなとみらいクインテット マチネ」公演があり、加藤昌則氏作曲「レモン哀歌」がプログラムに入りました。新潟公演が5月3日(水)、奈良公演が5月21日(日)でした。

2月18日(土)
兵庫県姫路市の御国野公民館で市民講座「高村光太郎 智恵子抄を中心に」が開催されました。講師は元賢明女子学院短期大学教授・森本穫氏でした。
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2月18日(土)~4月25日(火)
山梨県南巨摩郡身延町の身延山久遠寺霊宝館さんで「身延山霊宝展」が開催され、光雲木彫「聖観音菩薩像」が展示されました。

2月19日(日) 
NHK BS8Kさんで「興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心」の放映があり、光太郎にも触れられました。BSプレミアムでの再放送が3月28日(火)、7月23日(日)、11月14日(火)に行われました。
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2月21日(火)~6月12日(月)
盛岡市の盛岡てがみ館さんで「第67回企画展 いわての芸術家の手紙」が開催され、光太郎書簡も展示されました。
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2月23日(木)
新宿区の 東京オペラシティリサイタルホールさんで「紀野洋孝テノール・リサイタル」が開催され、別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智惠子抄(改訂新版)」が演奏されました。3月6日(月)には大分市のiichiko音の泉ホールで大分公演がありました。

2月27日(月)
小学館さんから井上涼+NHK びじゅチューン!制作班さん編『びじゅチューン!DVD BOOK 7』が刊行されました。光雲作木彫「老猿」をテーマとした「老猿は主役じゃなくても」を含みます。
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3月1日(水)~6月4日(日)
福井市の福井県ふるさと文学館さんで「コレクション展 新収蔵 津村節子展 津村節子という生き方」が開催され、小説『智恵子飛ぶ』関連の展示もなされました。

3月4日(土)
京都市のCaffe flookさんにおいて「東日本大震災復興支援ライブ 琵琶もの語り」が開催された。筑前琵琶奏者・宇佐美周子氏による光太郎詩「雪白く積めり」が演目に入っていました。
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3月5日(日)
岡山市天神山文化プラザさんで「佐々木英代の日本のうた講座【最終話】第30話 岡山の作曲家と歌手の選んだ名曲編」の公演があり、テノール歌手の松本敏雄氏が青木省三作曲の「智恵子抄三章」を演奏しました。

3月13日(月)
大阪市の大槻能楽堂さんで「至高の華 ~舞と語り~」公演があり、「舞踊詩劇 智恵子抄」が演目に入れられました。出演は梅若実桜雪さん、藤間勘十郎さん、高橋惠子さん他でした。
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同日、日本郵便株式会社東北支社さんが「オリジナル フレーム切手 高村光太郎と花巻」の販売を開始しました。光太郎生誕140年の誕生日に併せての発売でした。

3月14日(火)
札幌市の岩本珈琲さんで「マンスリー朗読ライブ VOL.26 智恵子抄を語る」公演がありました。出演は石橋玲さん(朗読)、つくねさん(音楽)でした。
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3月15日(水)
花巻市の有限事業組合machi R&Eさんから地域情報誌『花巻散歩マチココ』第34号が発行されました。平成29年(2019)4月以来続いていた連載「光太郎レシピ」が今号を以て最終回となりました。

3月17日(金)~5月14日(日)
千代田区の東京国立近代美術館さんで「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」展が開催され、光雲作の「老猿」が展示されました。
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3月20日(月)~4月6日(木)
東京都中央区のギャラリーせいほうさんで「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」展が開催され、光太郎のブロンズが数点出品されました。

3月21日(火)
東京都中央区の王子ホールさんで「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」が開催されました。朝岡さん作曲の「組曲〈智惠子抄〉」より「千鳥と遊ぶ智恵子」「値ひがたき智恵子」がメゾソプラノ歌手・清水邦子さんの歌唱、朝岡さんのピアノで演奏されました。
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同日、ムジカフエンテさんからCD「清水邦子が歌う 組曲『智惠子抄』」がリリースされました。メゾソプラノ歌手・清水邦子さんの歌唱、朝岡さんのピアノで録音されています。映画監督の水谷俊之氏、それから当方がライナーノートを書かせていただきました。

3月22日(水)
集英社さんから佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』が刊行されました。「藤沢周平の斎藤茂吉批判」という項で、光太郎に触れられました。
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同日、評論家の芹沢俊介氏が亡くなりました。昭和57年(1982)には、筑摩書房さんから『高村光太郎』という書籍を刊行なさっています。

3月23日(木)
女優の奈良岡朋子さんが亡くなりました。昭和50年(1975)にラジオの文化放送さんで放送された「青春劇場 日本抒情名詩集」で、「智恵子抄」から数編の朗読をなさった他、「智恵子抄」をモチーフの一つとした映画「こころの山脈」(昭和40年=1965)にご出演なさいました。
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3月24日(金)
岡山県赤磐市教育委員会さんから光太郎も登場する『マンガふるさとの偉人 詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』が刊行されました。シナリオ・和田静夫氏、マンガ・藤井敬士氏でした。

3月28日(火)
作曲家の坂本龍一氏が亡くなりました。NHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」番組内でくりかえし使われた光太郎作詞「道程」を作曲、演奏なさいました。
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3月31日(金)~5月7日(日)
東京都台東区の東京藝術大学大学美術館さんで「買上展 藝大コレクション展2023」が開催され、光太郎のブロンズ「獅子吼」、光太郎実弟・豊周の鋳金作品が出品されました。
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3月(日付不明)
花巻市さんから『The Onsen of Hanamaki 花巻温泉』が刊行されました。市の地域おこし協力隊で活動されている森川沙紀氏の手になるもので、光太郎が亡くなる2ヶ月前の昭和31年(1956)に語った談話筆記「花巻温泉」の全文と、その英訳が載せられています。

当方の勝手な判断で、主要な事項(と思われるもの)のみ紹介させていただいております。「この頃、こんなイベントもあったよ」「光太郎について書かれているこの本の紹介が無いぞ」というようなことがありましたら、コメント欄等から御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

書きたい詩はたくさんありながら夜間が使へないので遅々としてはかどりません。

昭和21年(1946)2月15日 水原宏宛書簡より 光太郎64歳

前年秋から暮らし始めた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。昭和24年(1949)、見かねた村人たちが電線を引っ張ってあげるまで電気が通じていませんでした。

新春を彩るにふさわしい企画展です。

開館記念展 皇室のみやび 第2期 近代皇室を彩る技と美

期 日 : 2024年1月4日(木)~3月3日(日)
      前期:1月4日(木)―2月4日(日) 後期:2月6日(火)―3月3日(日)
会 場 : 皇居三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-8 皇居東御苑内
時 間 : 午前9時30分〜午後5時
休 館 : 月曜日(ただし月曜が祝日または休日の場合は開館し、翌平日休館)
料 金 : 一般1,000円、大学生500円

本展は、今年11月に開館30年を迎える三の丸尚蔵館が、令和という新たな時代に、装いを新たに「皇居三の丸尚蔵館」として開館することを記念して開催するものです。約8か月にわたって開催する本展では、「皇室のみやび」をテーマに、当館を代表する多種多彩な収蔵品を4期に分けて展示します。これらは、いずれも皇室に受け継がれてきた貴重な品々ばかりです。長い歴史と伝統の中で培われてきた皇室と文化の関わり、そしてその美に触れていただければ幸いです。

※出品作品は全て国(皇居三の丸尚蔵館収蔵)の作品です。

皇居三の丸尚蔵館の収蔵作品には、明治時代以降に宮中において室内装飾として使用された美術工芸品類が含まれています。なかでも、明治22 年(1889)に大日本帝国憲法発布式が行われた場所でもある明治宮殿を飾った作品は、当時の著名な作家が最高の技術を凝らしたものです。第2期では、それらの作品とともに御即位や大婚25 年(銀婚式)など皇室の御慶事を契機として制作された作品、さらに明治・大正・昭和の三代の天皇皇后にゆかりのある品々をご紹介します。

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今秋リニューアルオープンした皇居三の丸尚蔵館さんの開館記念展。第1期の「三の丸尚蔵館の国宝」が既に先月から始まっており、年明けから第2期「近代皇室を彩る技と美」期間に入ります。
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光太郎の父・光雲の木彫、絶対になにがしかは出品されるだろうと予想し、何が出るかなといろいろ調べていたのですが詳細が分からずやきもきしていたところ、昨日になって詳細が発表されました。

それによると光雲作は「猿置物」(大正12年=1923)。昭和天皇の弟の秩父宮殿下から、母親の貞明皇后陛下に献上されたもので「三番叟」とも称されます。
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第2期の中でさらに前期(1月4日(木)―2月4日(日))、後期(2月6日(火)―3月3日(日))に分かれ、前期のみの展示だそうです。

他の目玉の展示品は川合玉堂の「昭和度 悠紀地方風俗歌屏風」、横山大観で「日出処日本」、海野勝珉による「蘭陵王置物」(重要文化財)など。いずれも新春らしく吉祥感あふれる作です。

出品目録がこちら。
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観覧には予約が必要ですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の冬籠ももう半分通り越して残り惜しいやうな、又春が待たれるやうないろいろの気がします。今年は暖冬に属してゐるやうで零下二〇度の日は一朝だけでした。吹雪のひどいのも一晩だけ。幸に健康でゐます。


昭和21年(1946)2月7日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

マイナス20℃の日があっても暖冬ですか……。岩手県、おそるべしです。

昨日は約1ヶ月ぶり、おそらく今年最後の上京をしておりました。レポートいたします。

まずは虎ノ門の大倉集古館さん。
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こちらでは先月から「大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉」が開催中です。
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基本、大倉財閥創業者の大倉喜八郎・喜七郎父子の本人たち、それから交流のあったさまざまな人々の書が中心の展示でした。

しかし、受付カウンター脇、展示ナンバー1が光太郎の父・光雲作の木彫「大倉鶴彦翁夫妻像」(昭和2年=1927)。「鶴彦」は喜八郎の号です。

残念ながら撮影禁止。さらに発行されていた図録にも画像が載っていませんでした。特別展示的な扱いなのでしょうか。下記は過去の他の展覧会の図録から。
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像高約50センチ。実に緻密な作りです。二人の着物に大倉家の家紋までうっすら彫り込んであるのには舌を巻きました。また、座布団など、まさに座布団としか思えません。

この像を拝見するのは20数年ぶり2度目。初回は他の光雲作品数十点と共に見たため、この像だけの印象というのがあまり残っておらず、その意味ではいい機会でした。

生きている人物の肖像をやや苦手としていた光雲が、喜八郎の顔の部分は光太郎に塑像で原型を作らせ、それを元に木彫に写すという、何度か行われた手法で作られているため、出品目録では光雲・光太郎の合作ということになっています。

光太郎の喜八郎原型はこちら。粘土を焼いてテラコッタにし、さらにそこからブロンズに写され、同型の物は全国に存在します。左上と下がテラコッタ、右上はブロンズです。テラコッタは左耳の部分が欠けてしまいました。
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ロダン風の荒々しい光太郎の原型も、光雲が木に写すと柔和な感じに。光太郎はそれが気に入らなくて八つ当たりみたいな詩「似顔」(昭和6年=1931)も書きましたが、記念像として注文主がいる作品ではしかたありますまい。

ところで、夫人の方は光太郎が原型を作ったという記録が見あたりません。どうなっていたのでしょうか。詳しい方、御教示いただければ幸いです。

その他、出品目録は以下の通り。残念ながら他に直接光雲、光太郎に関わる展示品はありませんでした。それでもなかなかの優品揃いでしたが。
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その後、新宿へ。

JR新宿駅東南口を出てすぐのK’s cinemaさんで一昨日封切られた映画「火だるま槐多よ」を拝見。
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「槐多」は光太郎と交流のあった画家、村山槐多。タイトルの「火だるま」は光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用です。赤い絵の具「ガランス」を愛した槐多を「火」として表した光太郎、それほど深い関わりではありませんでしたが、鋭く本質を見抜いていたことがうかがえます。

といっても、槐多の伝記映画ではなく、槐多の絵、それから槐多は詩も書いていましたので、その詩と、まぁいわば槐多ワールドを映画で表現するといった趣。ある意味、現代アートのインスタレーションに近い感じでした。槐多本人がこの映画を観たら、「美しい」と言ったような気はします。

したがって、ストーリーはあるものの、緻密な伏線が張られて山あり谷あり、ラストに向けて伏線が回収されてどんでん返しが複数回、最後に大団円、というタイプの作りではありません。困ってしまった映画評論家のセンセイは「映像美を楽しもう」的な評でごまかしています(笑)。

公式パンフ(1,000円)。佐藤寿保監督と、佐野史郎さんら主要キャストの皆さんのサイン入りでした。
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光太郎詩「村山槐多」の全文も収録されています。
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映画の中では抜粋で引用されていました。

また、槐多に惚れ込んだ窪島誠一郎氏の文章も掲載されています。当方、窪島氏が設立し槐多の作品を多数展示していた信濃デッサン館さんを訪れたことが複数回ありますが、その後、同館閉鎖後、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルされてからはまだ行っていません。すぐ近くに亡父の実家があるのですが、交流もほぼ無くなってしまいまして……。いずれ近いうちに、とは思っております。

映画「火だるま槐多よ」、K’s cinemaさんでは1月12日(金)までの上映、その他、年明け早々には大阪や槐多と縁の深い長野で封切られますし、順次全国で公開されます。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜は猛烈な吹雪で小屋の中へも吹き込みました。今日は吹雪はやみ、細雪がちらちらしてゐます。


昭和21年(1946)2月4日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。屋根は杉皮葺きで天井板は張らず、壁は粗壁、窓は障子。吹雪の際には寝ている布団にもうっすら雪が積もる程でした。

来年の話ではありますが、もう2週間足らず後ですので……。

モンデンモモ ニューイヤーコンサート2024

期 日 : 2024年1月5日(金)
会 場 : 紅葉丘文化センター 東京都府中市紅葉丘2丁目1番地
時 間 : 15:00頃
料 金 : 無料(当日午前中から整理券配付のようです)

歌い始めがどんなふう?ってすごくその年を表しますね 来年2024年の歌い初めはこんな風〜 いつもミュージカルやお芝居のお稽古にお世話になっている地元の文化センターからオファーいただきました 各ジャンルの作品精一杯お届けしてみますね

出演
 歌 お話 モンデンモモ   ピアノ おのゆみ

予定曲目
 愛の賛歌 アヴェマリア オペラ夕鶴より さよならのアリア みだれ髪 レモン哀歌
 百万本のバラ さよならはダンスの後に 天城越え ラ・クンパルシータ 私はマリア
 古代への旅 他 

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「智恵子抄」をはじめ、光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのコンサートです。

「レモン哀歌」がプログラムに入っています。平成6年(1994)にリリースされたCD「REQUIEM」に収録されていた曲ですから、もう30年歌い継がれていることになりますね。

最近は鳥取やら島根やら、あちらの方での活動が中心となりつつあるようですが、ご自宅は東京都府中市で、そちらでの開催です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

砥石の凍結の危険のため彫刻も大工仕事も出来ないのが残念です。


昭和21年(1946)2月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

厳寒期にはマイナス20℃にもなる花巻郊外旧太田村の山小屋。砥石は水で濡らして使用するため、その水がしみ込んで凍結すると膨張し、砥石自体が割れてしまいます。

直接、光太郎智恵子には関わりませんが、花巻高村光太郎記念館さんで始まった展示です。

小学生紙絵作品展

期 日 : 2023年12月20日(水)~1月21日(土)
会 場 : 高村光太郎記念館 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(木)~1月3日(火)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金
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8月に行われた「高村光太郎記念館夏休みワークショップ 紙絵をつくろう!」で制作された、花巻市内の小学校児童の皆さんによる紙絵の展示です。

市役所の方から展示風景の画像を頂きました。
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10月に智恵子の故郷・福島二本松で開催された「第28回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」と連動しての企画でした。
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展示作品のほとんどはそちらに応募されたそうです。そのうち、上の画像3枚目の右下、「きつね」の紙絵が入賞していました。
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光太郎記念館の周辺など普通にキツネが歩いており、おそらく実物を見た記憶で作られたものでしょう。下の画像は今年の2月、当方が記念館近くで撮ったキツネの足跡です。
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光太郎も書簡に記していました。
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10月に二本松で入賞作品展があり、その後、作品が返却されて花巻で展示、というわけですね。二本松での展示風景はこちら。
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こういった企画を含め、さらに花巻市さんと二本松市さん、光太郎智恵子つながりでのさまざまな交流がさらになされていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の干柿の小包昨日到着、感謝いたします。小包の板箱二つに割れて届きましたが中身は傷ついて居りません。多分原型のままと存じます。早速賞味いたしましたが、お言葉の通り、自然の甘味無類にて、此の醇乎たる味の美は名状し難い高さがあります、


昭和21年(1946)1月22日 三輪吉次郎宛書簡より 光太郎64歳

三輪吉次郎は山形在住だった詩人。当方、以前に光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)内部に入れていただいた際、三輪から送られた木箱を目にしました。ラベルが貼ってあり、三輪の名が記されていたのです。この時のものか、その後も同様に食料などを送った際のものかは判然としませんでしたが。現在もそのまま山荘内部にあると思われます。

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