001当会で会報的に発行しております冊子『光太郎資料』の第57集が完成しました。今日あたりから関係各位に順次発送いたします。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集まで不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、現在は4月2日の光太郎忌日・連翹忌、10月5日の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第二十一回 「婦人」その1
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている項目です。今号では「婦人」をキーワードに、明治から昭和戦前期のものをを集成しました。婦人雑誌に寄せた散文、婦人問題に大きく関わった広岡浅子に関する書簡、ミスコンの審査評座談会等です。
 散文 美術家の眼より見たる婦人のスタイル 明治43年2月1日発行『婦人くらぶ』
  光太郎の婦人雑誌への、確認出来ている限り最初の寄稿です。
 書簡 大正8年(1919)1月16日 小橋三四子宛
 雑纂 (日本の婦人の) 大正10年(1921)5月26日『読売新聞』
 散文 帽子に応用したアイリツシユレース 大正13年4月1日『婦人之友』
 座談 現代女性美を語る 各専門家の見た美人の標準 昭和4年8月7日『アサヒグラフ』
  朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」の審査員による座談会。
  光太郎以外に藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、藤懸静也(美術史学者)、
  杉田直樹(医学博士)、西成甫(にしせいほ)(解剖学者)、村山知義(劇作家)、
  鏑木清方(画家)が審査員でした。
  写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。
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 書簡 昭和15年(1940)1月12日 資生堂ビル内 花椿社 篠原眞男宛
  資生堂さんのPR誌『花椿』に関わる書簡です。

・光太郎回想・訪問記  「雨ニモマケズ」の発見――モナミの賢治追悼会――  永瀬清子
 賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)2月16日、光太郎も出席して新宿モナミで開催され、「雨ニモマケズ」が「発見」されたという宮沢賢治追悼会を中心とした回想文です。
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・光雲談話筆記集成 
  和合の徳 『太元老僧懐古録』より 
   現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されている、光雲原型の懐中仏に関わります。
  高橋鳳雲の話
   光雲の師匠・髙村東雲のさらに師匠、髙橋鳳雲について。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第二十一回  那須温泉(栃木県)
 大正14年(1925)9月、母・わかを喪った傷心を癒やすために訪れた那須温泉について。 
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・音楽・レコードに見る光太郎  第二十一回 ぼろぼろな駝鳥 橋本国彦
 昭和8年(1933)、光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」に、作曲家の橋本国彦が曲を付けた歌曲について。

・高村光太郎初出索引(年代順)
 現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では大正4年(1915)から同9年(1920)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(見本的にこの号のみ欲しいという方は、一金500円)。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号 〇一九(ゼロイチキュウ)店(019)当座 0782139

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝角川書店主来訪、「昭和文学全集」企画の由、承諾。ひる辞去。


昭和27年(1952)9月28日の日記より 光太郎70歳

『昭和文学全集』、翌年刊行の第22集が「高村光太郎集/萩原朔太郎集」、さらに昭和29年(1954)刊行の第47集は、100余名の詩を集めたアンソロジー「昭和詩集」で、光太郎が100余名の著作者代表としてクレジットされました。

昨日は光太郎忌日・連翹忌。かつて日比谷松本楼さんで開催していた集いは、コロナ禍のため、3年連続の中止と致しましたが、それに代わり、皆様方を代表して当方が都立染井霊園の光太郎奥津城に墓参して参りました。

ここ数年、4月2日は平日だったのですが、昨日は土曜日。そこで、霊園の駐車場はいっぱいで、仕方なく少し離れた有料駐車場に愛車を駐めて、霊園まで歩いて戻りました。
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この地はソメイヨシノ発祥の地、さらに今年は昨年あたりと比べると開花の時期が遅かったため、満開の状態でしたので、花見的に訪れている方も多いようでした。
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髙村家墓所。以前にもお見かけしたのですが、近くにお住まいの方々のようで、ご高齢の方々のグループがお参りなさっていました。さらに草むしり等なさってくださっていました。
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当方も香華を手向けて参りました。花は、自宅兼事務所の庭に咲く、66年前に光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の「子孫」です。
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「先祖」の連翹は、昭和31年(1956)4月4日、青山斎場で行われた光太郎葬儀の際、愛用のビールのコップに一枝挿され、供えられました。
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毎年のように書いていますが、来年こそは、日比谷松本楼さんでの集いを復活させ、皆様方と久闊を叙し、共に光太郎やゆかりの方々を偲びたいものです。そうかと思うと、またぞろコロナ感染者数、無気味にじわりと増加中とのこと……。やれやれ……といった感じです。

染井霊園を後に、文京区の浄心寺さんに愛車を向けました。一昨年来、ルーティーンとなっておりますが、一昨年一月に亡くなった、当会顧問であらせられた、北川太一先生の墓参のためです。
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浄心寺さん、別名を「桜寺」といいます。ただ、ソメイヨシノではなく、もう少し早く咲く種類の桜がメインです。昨年はほぼ散ってしまっていましたが、今年はまだ咲き残っていました。

散った花びらは絨毯のようでした。
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この少し前くらいだったと思うのですが、光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋敷地内の光太郎詩碑(地下に光太郎の遺髯が埋納されています)では、地元の方々(生前の光太郎をご存じの方も含まれます)が手を合わせてくださいました。

現地からの画像がこちら。
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以前ですとこの後、午後には花巻市中心部の光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さんで連翹忌法要でしたが、そちらもこの3年間、コロナ禍のため執り行われていません。

本当に、来年こそは、と、願わざるを得ませんでした。

この後、上野の東京藝術大学大学美術館さんにて、「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」を拝観いたしましたが、また後ほどレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

弘さんの犬かへり去らず、夜に至る、


昭和27年(1952)9月20日の日記より 光太郎70歳

「弘さん」は、光太郎の山小屋近くの開拓地に入植した青年。この日、光太郎の山小屋を訪れ、光太郎に頼まれていた卵を届けて帰りましたが、その飼い犬がなぜか飼い主について帰らず居座ったとのこと。微笑ましいエピソードですね。

本日、4月2日(土)は、第66回連翹忌です。宿痾の肺結核のため光太郎が歿したのは、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分。東京は季節外れの大雪でした。翌年に第1回の連翹忌の集いが、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエで開催されました。そこから数えて、今年は66回目の忌日です。

光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催を続けていた連翹忌の集いは、平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、一昨年の第64回、昨年の第65回とコロナ禍のため、それぞれ中止。今年こそはと思っていたのですが、結局、コロナ感染収まらず、またしても中止といたしました。来年以降もどうなることやら……と思っております。安心して皆様にお集まりいただける状況にならない限り、再開は不可能と存じますので……。

昨年の今日のこのブログでは、当会の祖・草野心平の「終焉日記」をご紹介しました。昭和31年4月1日(日)、4月2日(月)の、光太郎最期の様子が記されています。

今年は、同じく心平が、4月3日(火)の『朝日新聞』に寄せた詩をご紹介します。

   高村光太郎死す

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをかぶつて淡い灯をうけ夜は更けます。
 フラスコの中であわだつ酸素。002

   「そろそろ死に近づいているんだね。」
   それからしばらくして。
   「アダリンを飲もう。」

 ガラス窓の曇りをこすると。
 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。

 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April Snow の夜に。

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智恵子さんの裸像」は、生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに寄贈されています。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている、66年前、中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。それから、ついでに、というと語弊がありますが、染井霊園と遠くない文京区の
浄心寺さんに、当会顧問であらせられた北川太一先生のお墓にも参らせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎、そして北川先生をご存じの方は、北川先生に、思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

十時頃高橋雅郎氏来る、一緒に太田診療所の婦人会へゆく。男性女性十五六人集まり、御馳走になる、夕方五時頃タキシにて送られかへる、


昭和27年(1952)9月14日の日記より 光太郎70歳

高橋雅郎氏」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の元村長。この日の集まりは、「乙女の像」制作のため、約1ヶ月後に帰京する光太郎の壮行会的な意味合いもありました。おそらくこの日の集まりと思われる、光太郎と村人たちの会話の記録が残っていたのが見つかり、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には間に合いませんでしたが、その後、北川先生と当方の共編で刊行した『光太郎遺珠』に掲載しました。
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3月29日(火)、『朝日新聞』さんの大阪版夕刊から。大阪で開催中の、現代アート作家・谷澤紗和子さんの個展「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」展評です。

女性と芸術「甘い気分」で何が悪い 「智恵子に捧げる」谷澤紗和子個展 ジェンダーロールへの批判 作品に

  切り紙による平面作品やインスタレーションなどを手がける美術家・谷澤紗和子は近年、ジェンダーへの関心を作品に取り込んできた。大阪市西区のstudio Jで開催中の個展では、明治~昭和期の洋画家・紙絵作家、高村智恵子をオマージュしたシリーズを発表している。
 和紙の切り紙作品「Emotionally Sweet Mood」は、3点しか現存しない智恵子の油彩画のひとつ「花(ヒヤシンス)」をモチーフとする。タイトルは、智恵子の夫で彫刻家・詩人の高村光太郎のエッセーから引用した。彼は妻の死後、彼女が若い頃に描いた絵画について「幾分(いくぶん)情調本位な甘い気分のものではなかったか」とつづっている。
 「ネガティブな言い回し。だけど、甘くて何か悪いの?」と問う谷澤は、その言葉をむしろ肯定的なものとして逆手に取った。自身の作品によってではなく、夫の代表作「智恵子抄」のヒロインとして有名になった智恵子。その存在は、男性の陰で正当に評価されなかった無数の女性芸術家たちとオーバーラップする。
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 精神を病んだ智恵子は死の間際、病床で無数の紙絵作品を生み出した。智恵子の紙絵を題材にした谷澤の連作では、「I am so sweet!」という宣言と並んで、「NO」の文字があしらわれている。オノ・ヨーコの「天井の絵/イエス(YES)・ペインティング」から着想された「NO」は、現代社会においてもなお、女性やマイノリティーが奪われがちな言葉だ。
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 マティスの切り絵紙「ブルーヌード」を再解釈した「Pink nude」シリーズも、女性を排除してきた芸術の歴史をあぶり出す点で、智恵子のシリーズに通じる。理想的な女性像の全身に生えているのは、トゲのような「ムダ毛」。女の身体を縛るルッキズムに怒り、かつ笑い飛ばすかのようだ。
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 「Pink nude #2」では、もう一つのモチーフとしてアニメのセーラームーンの変身シーンが重なる。衣服が消えた瞬間、光の中で裸のシルエットと化した美少女戦士の、全身を覆うムダ毛。それは性的搾取の告発か、既存のジェンダーロールを脱ぎ捨てて戦う者たちへのエールか。
 「そこは見る人によって解釈が分かれるような、両義性がある方がいい」と谷澤。ヌードを覆うのはブルーではなく、赤やピンクの複雑なまだら模様。一義的には捉えきれない「甘い気分」で武装する戦闘服のようだ。
 4月9日までの水~土曜。


なかなか深く突っ込んだ評で、感心させられました。まず、フライヤーにも使われた「Emotionally Sweet Mood」について。元になった作品は、智恵子の故郷・二本松の智恵子記念館さんで展示されている「ヒヤシンス」(大正初期と推定)。
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よく見ると、全体のフォルムは、智恵子の元絵と左右反転の状態になっています。それがまたキモなのでしょう。それから、鉢の部分に顔があしらわれています。

こうした智恵子の油彩画が、光太郎曰く「甘い気分」。引用元は詩集『智恵子抄』にも収められた随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)です。

卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかつたかと思はれる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまつて私には見せなかつた。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかつた。私と一緒になつてからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰つた時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではつひにまだ本格的に画くまでに至らなかつた。

本来「情調本意」ですが、「情調」では分かりにくいので、個展のタイトルは「情緒」となさったようです。

ところで、余談ですが、記事では「3点しか現存しない智恵子の油彩画のひとつ」とありますが、正しくは「3点しか現存が確認されていない智恵子の油彩画のひとつ」とすべきですね。まだ広く知られていない智恵子の油彩画が、新たに見つかる可能性も皆無ではありませんので。細かい話ですが。

同じことは光太郎の彫刻などにも言えます。昭和20年(1945)の空襲で、住居兼アトリエと共に焼失したと推定される彫刻がかなりありますが、それも「推定される」であって、「焼失」と断言はできません。それらを「焼失」または「現存せず」と断言している「論文」等をよく見かけますが、「焼け落ちるところを見たのか?」と突っ込みたくなります。

閑話休題。

「Pink nude #2」と題された作品。最初に画像で拝見した時、てっきり智恵子の紙絵からのインスパイアかな、と思ったのですが、元ネタはマティスの切り紙絵だったのですね。
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当方が何故智恵子紙絵からのインスパイアだと思ったのかといいますと、記事で「ムダ毛」と書かれいてるトゲトグの表現から。ぱっと見、「蟹か」と思いまして、下記の智恵子紙絵との関連が頭に浮かびました。智恵子が台紙に使ったのは、切り開いた封筒です。
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一昨日まで上野の森美術館さんで開催されていて、谷澤さんが佳作賞を受賞された「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」に出品された下記の作品は、まさに上記の紙絵がモチーフですね。
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ここから居なくなった蟹が、大阪の「Pink nude #2」に現れたのか、と思ったわけです。

智恵子紙絵の制作現場を目撃した殆ど唯一の人物、ゼームス坂病院で智恵子の付き添い看護に当たった姪の宮崎春子の回想。

 こうして、毎日の食膳を賑わすものを次々とつくられた。珍しいものがつけば、それを紙絵にしないうちは箸をつけないので、たいてい食事時間はおくれてしまうのであつた。
 ある日、千葉県九十九里の親戚から蟹をたくさん頂いたとき、四、五十匹を大盆にのせて伯母にみせたところ、顔を輝かして大喜びされ、中でもみごとな一匹をとられた。その夜は十一時ごろまで一心につくられ、蟹を食べ終つたのは、十二時をすぎ、そばにいた私は居眠りをしてしまつた。こうして紙絵は一枚一枚と大切に押入へしまわれて、伯父さまのおいでになられた時だけお見せするのであつた。
(「紙絵のおもいで」昭和34年=1959)

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画像は昭和30年(1955)、問題の紙絵を見る春子です。

このエピソードが頭に残っていたので、「蟹か」と思ったのですが、トゲトゲはムダ毛、元ネタはマチスだったそうで……。さらに「美少女戦士セーラームーン」までからむか、と驚きました。ちなみに光太郎とマティス、面識がありましたし、書簡のやりとりもありました。

さて、「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」、4月9日(土)までの開催です。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

九時20分の電車で花巻駅、郵便局、銀行にて金を出す、買物いろいろ、 太田屋にて中食、タキシにて山に帰る、


昭和27年(1952)9月10日の日記より 光太郎70歳

花巻町中心街と思われる「太田屋」という飲食店、詳細が分かりません。のちに女将が、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れたりもしていたのですが。「あそこにあったこういう店だ」等、ご存じの方は御教示いただけると幸いです。

昨日、NHKさんのラジオ第1で全国放送されている「マイあさ!」という番組の5時台で、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の「光太郎ランチ」が取り上げられました。
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「マイあさだより」という、スタジオと全国のレポーターとを電話で繋ぎ、地域の話題を紹介してもらうコーナーで、花巻のローカルFM「えふえむ花巻」のパーソナリティーを務められている味園史湖さんのリポート。味園さん、先日、やはりNHKさんで岩手・宮城・福島三県を対象に放送されていた「ゴジだっちゃ!」という番組でも、「光太郎ランチ」をご紹介下さいましたが、今回は全国放送でした。

聞き手は田中孝宜アナウンサー、久保田明菜アナウンサーのお二人。
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田中 味園さん、今朝はどんな話題ですか?
味園 はい、あのー、今日はお弁当の話題なんですけど、暖かくなってきて、あのー、もう少ししたらお弁当持って出かけるというのもいい季節になってきますよね。
田中 そうですねー。
味園 今日は私の地元、岩手県内陸部、花巻の道の駅で販売されているユニークなお弁当の話題です。
田中 ほう。
味園 花巻にゆかりのある、詩人・彫刻家の名前がついたお弁当なんですけれども、花巻ゆかりといいますと、詩人で作家の宮沢賢治を思い浮かべるかもしれません。
田中 うん、うん。
味園 が、賢治ではありません。
久保田 はい。
味園 お弁当の名前は「光太郎ランチ」といいます。「光(ひかり)」に「太郎」です。あの、詩人で彫刻家の高村光太郎が食べていたものを再現して詰め合わせたお弁当なんですね。
田中 ほう。
久保田 へー、高村光太郎、花巻にゆかりがあるんですか?
味園 そうなんです。高村光太郎は終戦の前後に七年ほど、花巻に疎開していた時期がありました。で、地元の人々とも交流を持っていました。花巻には、当時、光太郎が住んでいた高村山荘ですとか、高村光太郎記念館があります。その光太郎ゆかりのエリアに、令和2年8月に「道の駅はなまき西南」が誕生しました。
田中 うん。
味園 そこで、月に一回販売されているのが「光太郎ランチ」というわけなんですね。
田中 ほう。
味園 光太郎が食べていたものを、日記に残していまして……
田中 はい、はい、はい。
味園 その日記を元に、光太郎が食べていたものを詰め合わせたお弁当なんです。
田中 なるほど。え、高村光太郎って、どんなものを食べていたんですか?
久保田 フフフ。
味園 気になりますよね?
久保田 うん、うん、うん。
味園 えー、例えば今月15日に販売されたメニューを見てみます。お写真、届いてますかね?
久保田 はい、番組のツイッターにも載せています。

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味園 はい。茶殻ご飯、そば粉のチーズ蒸しパン、焼き鮭、イカの煮つけ、粉ふき芋、きんぴらごぼう、白菜と葱の酢味噌和え……。まだあります。煮豆に塩麹入りの卵焼き……。
田中 ほうほう。
味園 おさつ芋餅、お新香。お総菜など11種類入って税込み800円で販売しています。
久保田 これは一日のメニューでなくて、いろいろ詰め合わせているんでしょうけど、お魚に野菜に、こう、調理方法もバラエティー豊かですね。
味園 そうですね、はい。毎月メニューは変わります。おかずの種類も多くて、彩りも鮮やか、でも、それだけではありません。お弁当を購入しますと、レジで素敵な箸袋とお品書きを渡されるんですね。
田中 ほう。
味園 添えられたA5の紙に、先ほどのお弁当の内容が書かれたお品書きと、光太郎の日記から抜粋された文などが掲載されています。
久保田 あ、今、写真にもそのA5サイズで添えられている、あの、紙も番組のツイッターに載せてあります。
味園 はい。例えば昭和21年3月13日、ちなみに3月13日、光太郎の誕生日なんですけれども、一部紹介しますと、「雪がちらつく」……「朝食、小豆のご飯を」ですね「粥にする」。
田中 ほー。
味園 「終日読み物、雑誌新聞類」……「今日、東京より来たりしチーズをはじめて開ける、オーストラリア製なり」。
田中 へー。
味園 ……ですとか、昭和23年の誕生日には「今朝霧が立ちこめ、春を思わしむ」、「良き小麦粉にてパンを蒸す、よく出来たり」など。こういうものを見ると、お弁当がさらに楽しめますよね。
久保田 うん、うん。
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田中 ほう……でも、何か、どんな天気だったかも分かりますし、それを食べた、何か状況が見えてくるような気がしますね。
味園 そうですね。何だか光太郎の当時の息遣いが感じられるような気がしますよね。
田中 そうそう、そうですね。
味園 戦後とは言っても、光太郎は色んな人との交流がありまして、珍しい食材を使っていたり、そば粉のパンケーキを自分で焼いたりと、日記やお弁当から、グルメな食事、自炊の様子が伝わってきます。添えられた箸袋や献立表からも、このランチに携わっている地元のスタッフの皆さんの温かい気持ちが感じられるんですが、ま、ちなみに箸袋と献立表は、地元で光太郎をこよなく愛するグループの皆さんがいらっしゃいまして、光太郎のことにとても詳しい方たちなんですが、ボランティアで協力して作ってくれているということなんですね。
久保田 ふーん。
味園 毎月15日のみ、限定10食、毎回売り切れる人気のお弁当ですが、事前に別途注文することも可能とのことです。
久保田 じゃあ、今も光太郎は地元で愛されているわけですね。
味園 そうですね。光太郎は地域の方たちとの交流を大切にしていたようですけれど、このランチを販売する「道の駅はなまき西南」も、いろんな形で地域の方々との交流を大事にしています。地元の農産物を購入出来る産直、飲食店、広いコミュニティースペースなどがありまして、人々が集える場所にもなっています。で、他にも大事な役割がありまして、地域の高齢者への食事の配達をしているんですね。
久保田 うん、うん、うん、うん。
味園 道の駅で地元の女性グループが日々、内容を変えたお弁当とお総菜を作って販売していまして、お弁当を希望する地元の高齢者に届けています。
田中 はー、道の駅になかなか行けない高齢者ともつながりを作っていると言うことなんですね?
味園 そうですね。お弁当を配達することで、会話を交わして元気で過ごしているか、「見守り」にもなっているというわけですね。
久保田 ふーん。
味園 この道の駅には地元の児童生徒が作った四季折々の飾り、絵などが飾られたり、秋には地域の方が作った案山子(かかし)がずらっと並んだりと、人々の交流の様子が、あちこちに感じられるんですけれども、もしかしたら、光太郎もこんな風に、岩手の四季の移り変わりを、地元の人たちと共に楽しんでいたかもしれません。
田中 そうですね、うん。
味園 あのー、地元ゆかりの光太郎ランチを地元産の食材で提供していることもありまして、この道の駅は、いろんな所の道の駅の一つではなくて、高村光太郎がこの地域に住んで、その息吹が感じられる道の駅にもなっているのではないかな、と感じます。
田中 はい。
久保田 そうですね。味園さん、ありがとうございました。
田中 ありがとうございました。
久保田 岩手県花巻市から、味園史湖さんでした。


話題となっている道の駅は、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。「光太郎ランチ」を販売しているのは、テナントの「ミレットキッチン花(フラワー)」さん。メニューの考案や、番組で紹介された光太郎日記抜粋などには「やつかの森LLC」さんが当たられています。本当に頭の下がる思いです。

この話題の際にはいつも書いていますが、「光太郎ランチ」、末永く愛されて欲しいものです。

ちなみに今回の放送分、4月6日(水)まで、NHKさんの聴き逃し配信「らじる★らじる」で聴取可能です。

【折々のことば・光太郎】

七時おきる、 猪熊氏と植村鷹千代氏の対談をきく、ラジオ、


昭和27年(1952)9月7日の日記より 光太郎70歳

光太郎もNHKさんのラジオ放送、よく聴いていました。「猪熊氏」は新制作派の画家・猪熊弦一郎でしょう。光太郎とは旧知の仲でした。「植村鷹千代」は美術評論家です。

芸能関係で2件。

まずは3月27日(日)の『サンケイスポーツ』さん。

伊藤健太郎、1年5カ月前の事故「死ぬまで背負っていく」 ファン500人の前で約束 今の目標は地上波ドラマ復帰

 俳優、伊藤健太郎(24)が26日、東京都内で自身初のファンミーティングを開催し、約500人と交流した。2020年10月に自動車運転死傷行為処罰法違反などの疑いで逮捕され、不起訴処分となったが、本紙の取材に「事故のことは死ぬまで背負っていく」と真摯に表明。6月3日に主演映画「冬薔薇(ふゆそうび)」(阪本順治監督)の公開を控え、今後は「地上波ドラマに戻りたい」と前向きに目標を掲げた。
 ファンの温かい拍手に迎えられ、緊張気味だった伊藤の表情が和らぐ。事故から1年5カ月。ステージを360度囲んだ客席を見渡し、感謝の思いがあふれた。
 「こんなにたくさんの方々に来ていただけるとは…。支え続けてくださり、本当にありがとうございます」
 昨年6月に初めてファンクラブを開設。恩返しのために初開催した2部制のファンミーティングでは、主演ドラマ「東京ラブストーリー」の告白シーンをファン相手に再現し、「皆さんに向けて読むのにぴったり」と高村光太郎が妻への愛を歌った詩集「智恵子抄」を朗読。主演映画「冬薔薇」でメガホンを執った阪本監督らゲストとのトークでも盛り上げた。
 1時間強の時間はあっという間に過ぎ、〝再会〟に涙するファンも。伊藤は「これからも温かく、時には厳しく見守っていただけたら。お芝居している姿をたくさん見せられるように頑張っていきます」と約束した。
 昨年10月に主演舞台「SOULFUL SOUL」で俳優業に復帰。「冬薔薇」ではろくでなしな男役で新たな顔を見せ、本紙の取材に「自分が主演だと違う見え方がするけど作品として見てもらえたら」と願った。
 14歳でモデルとして芸能界に入り、14年にフジテレビ系「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」で俳優デビュー。「バイトをしたことがなく、この世界しか知らない。1年間休んだ間、生業にできる他の職業を探したけど見つからなかった」と役者として生涯を全うする覚悟が決まった。
 20年公開の主演映画「十二単衣を着た悪魔」は平安時代にタイムスリップする内容だが、「僕は未来に行きたい。40年後もこの仕事をやれているのか気になる。過去に戻って事故をなかったことにしたいとは思わない」と全てを背負って前を向く。
 「地上波ドラマでスタートした役者人生。簡単ではないけど、戻れるように取り組みたい」。恩返しの〝第2の役者人生〟を地に足をつけて歩んでいく。
◆阪本監督がエール「また次の仕事へ」
 阪本監督は「『事故でけがをさせた人たちとは、ずっとつながっていてください』と(伊藤に)言っている」と明かし、「また次の仕事へ向かってほしい」とエール。伊藤はミュージックビデオに出演した「丁寧な暮らし」を歌うラッパー、gbもゲストに迎え、「作品に愛を持って取り組む姿に学ぶべきものがたくさんある」と刺激を受けていた。
■伊藤 健太郎(いとう・けんたろう)
 1997(平成9)年6月30日生まれ、24歳。東京都出身。2017年に映画「デメキン」で初主演。18年に日本テレビ系「今日から俺は!!」でブレークし、役名の「健太郎」から本名に改名した。19年に「コーヒーが冷めないうちに」で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。179センチ。
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光太郎も、順風満帆とは決して言えず、つまづきの多い生涯でした。自分がつまづいて転ぶだけならまだしも、他者を巻き込むことも多く……。ある種のモラハラといわれても仕方がないような態度で、妻・智恵子を追い込んでしまったのは事実ですし、戦時中にはプロパガンダ的に戦意高揚の詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に追いやりました。しかし、その都度、それを反省し、再び立ち上がりました。

伊藤さんの今後にも期待したいところです。

続いて、Yahoo!さんのニュースサイトから。

『となりのチカラ』松本潤のまっすぐな“告白”が胸に刺さる 10分間の見事な長ゼリフ

 松本潤が主演を務める『となりのチカラ』(テレビ朝日系)第8話は最終回前のセミファイナル。注目は前回、灯(上戸彩)から出された宿題にチカラ(松本潤)がどのような答えを出すのか。そして、オンエア前から話題になっていた松本による、10分に及ぶ問題に対する長ゼリフである。
  改めてだが、灯が出した中越家についての課題は、「灯は仕事を辞めていいのか」「愛理(鎌田英怜奈)を怒鳴ったり叩いたりしていいのか」「高太郎(大平洋介)を塾に行かせていもいいのか」の3つ。テーブルを囲み、チカラは高太郎に、愛理に、灯にゆっくりと自分が出した答えを語りかけていく。
 テストの点数が低く、学校でも「バカ」とイジメられている高太郎。彼の取り柄はポジティブな性格と自分のことが好きなことだ。「お前にもそのうち好きなものがきっとできる。それについてもっともっと知りたくなる。そしたら自然と勉強したくなるんだ、人間は」ーー知りたいと思う知的好奇心は、子供を机に向かわせる一番の原動力である。そのことをきっかけに、きっと高太郎を好きと言ってくれる人は増えるはず。チカラや灯、愛理が高太郎を好きなように。そうチカラは高太郎に伝える。
 そのひねくれた性格から将来つらい目に遭うじゃないかと心配な愛理。彼女の数字で表現する口癖をチカラは「嘘をつきたくないからだもんな」と肯定する。「いつも正直でいて、誰に対しても分け隔てなくしたいっていうお前の意思だもんな」と話す性格は、灯とそっくりだ。チカラは高太郎と愛理に対して両膝をついて、2人と同じ目線になって話している。そして、共通しているのは子供多たちの名前の由来を明かしていることだ。高太郎は『道程』を書いた詩人・高村光太郎から、愛理はチカラの好きなレゲエで用いられる掛け声「アイリー!」から。光太郎ではなく間違えて高太郎にしてしまったこと、「アイリー!」が「最高に楽しい」を意味する言葉であることをプラスに転換しながら、ありったけの愛を注いでいく。
 そして、ラストは灯の仕事について。チカラが出した「したいようにすればいいと思う」は、灯のリアクションの通りに少々人任せに聞こえるかもしれないが、それは灯がすでにこれからの道を決断していることをチカラが察しているからだ。今の灯に足りないのは背中をポンッと押してくれる愛する人の言葉。いつも全力投球な灯にチカラは「そんなあなたを僕は大好きです。心から尊敬してます。一生そばにいたいです」とまっすぐな愛を涙ながらに伝える。それは前回、灯の実家であと一歩勇気が出ず口に出せなかった言葉でもあった。
 中越家の課題はこれで一旦の解決となったが、チカラにはまだ4つ目の問題が残されていた。それはマンションの住人、つまりはお隣さんたちの数々の問題だ。これまで散々人の家の問題に首を突っ込んできたチカラだったが、彼が出した結論は「もう何もしない」というまさかの発想。第8話はトラブルメイカーと噂されていた小日向(藤本隆宏)のボヤ騒ぎでラストを迎える。
 最終回は多くがまだ手つかずの住人の問題にチカラが向き合うのかが見どころとなる。第8話にて清江(風吹ジュン)がチカラに向けて言った「あなたに会えて良かった」という感謝の一言。現実から目を背けるチカラのヒントになるのは、きっとこの言葉だ。

当方、このドラマは拝見していませんでしたが、番組公式サイト内に、見逃し配信の項があり、視聴してみました。

問題の(別に問題があるわけではありませんが(笑))シーンは番組終盤。

チカラ そうだ、お前の名前は「高村光太郎」っていう有名な人から採ったんだ。パパが大好きな「道程」っていう詩を書いた人で……。
高太郎 「どうてい」?
チカラ あ、変な想像するな。「道のり」って意味だ。でも、「高村光太郎」は「光る」っていう字に「太郎」なのに、うっかりして「高い」っていう字にしちゃったんだ。「高村」の「高」に引っ張られてさ……。へへ、バカだろ、パパ?
高太郎 うん。
チカラ でも、こんなパパでも、ママと結婚できたんだ。だから、心配するな。これからきっと、高太郎のことを「バカ」って言う人より、お前を「好き」って言う人がどんどん増えてくる。今だって、パパはお前が大好きだし、ママも愛理も大好きだから。

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光太郎から名前を採ったという設定。やはり光太郎詩の持つポジティブ性ということで、光太郎なのでしょう。萩原朔太郎から採って「昨太郎」では成りたちません(朔太郎ファンの皆さん、すみません(笑))。

それにしても、「高太郎」。そう誤植されるケースが実際にかなりあるのには閉口します。ついでに言うと、「幸太郎」や「千恵子」「知恵子」なども。最も呆れたのは「高山光太郎」でしたが(笑)。
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閑話休題。

こうしたイベントやドラマ等で、「『智恵子抄』って何?」「高村光太郎って誰?」とならないよう、今後も啓発・顕彰を続けていこうと思いました。皆様方もご協力よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

藤根村の高橋峰次郎といふ人来訪、観音堂への揮毫依頼

昭和27年(1952)9月3日の日記より 光太郎70歳

藤根村」は現在の北上市。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の近くです。「高橋峰次郎」は正しくは「高橋峯次郎」。詳しくはこちら

このところ、光太郎よりも光太郎の父・光雲がらみの情報を多く紹介しています。それだけ光雲作品の出る展覧会等が開催されているということで、やはり光雲人気、衰えないのだなと感じています。

今日も光雲作品の出る展覧会を2件。

まずは光雲が奉職し、光太郎も通った東京美術学校の後身・東京藝術大学大学美術館さんでの展覧会。

藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑

期 日 : 2022年4月2日(土)~5月8日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日 ※ ただし、5月2日(月)は開館
料 金 : 一般440円(330円)、大学生110円(60円)、高校生以下及び18歳未満は無料

東京藝術大学は、前身である東京美術学校の設立から135年の長きにわたって作品や資料の収集につとめてきました。その内容は古美術から現在の学生制作品まで多岐に及びます。当館では、この多彩なコレクションを広く公開する機会として、毎年藝大コレクション展を開催しています。
2022年の藝コレは、「春の名品探訪」と題して約3万件の所蔵品の中から選りすぐった名品を中心に展示します。さらに今回は、天平の美術に思いを馳せた特集展示も見どころとなっています。
8世紀奈良の天平美術は、国際色豊かな唐の影響を受けつつ鎮護国家思想のもとに花開き、後代にも大きな影響を与えました。著しい損傷を被りながらも威風を伝えている《月光菩薩坐像》は、天平彫刻を代表する仏像のひとつです。また今回の展示では所蔵する乾漆仏像の断片や東大寺法華堂天蓋残欠に新たな光を当てています。最新の研究成果により南都仏師たちの技法が解き明かされます。
そして特集の白眉は、《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》(重要文化財)です。今回の展示では、厨子とその内側四方に描かれた合計7面全て、さらに吉祥天像(模刻)によって立体的な展示を試みます。鎌倉時代に制作されたこの名品にも、天平の面影を見ることができます。

特集展示以外もみどころはたくさんあります。
まず《小野雪見御幸絵巻》(重要文化財)、狩野常信《鳳凰図屏風》などの古美術。
さらに藝大コレクション展では約 10 年ぶりの出品となる長原孝太郎《入道雲》、初公開の白川一郎《不空羂索観音》といった近代洋画の逸品、そして狩野芳崖《悲母観音》(重要文化財)や橋本雅邦《白雲紅樹》(重要文化財)などの近代日本画の名品も展示されます。
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皇室ゆかりの品も展示されます。《綵観》は、日本画・彫刻・工芸の各界を代表する当時の帝室技芸員とその候補者、東京美術学校教授らにより制作されました。橋本雅邦、高村光雲、川端玉章、濤川惣助など総勢18名の非常に豪華なメンバーによる合作で、木製のつづら折りになる小屏風には、それぞれの技法や画題で製作された花鳥風月が配されています。絵画、木彫、鋳金、七宝、牙彫(象牙)、蒔絵、陶芸など技法もさまざまで、1面ごとに作者の個性が楽しめます。
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綵観」、平成29年に同館で開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」 でも出品され、その際に拝見しました。

明治38年(1905)に制作されたもので、木製の枠(縦33.3㌢ 横24.1㌢)を画帖に見立てて日本画、木彫、牙彫、金工、蒔絵などの作品を配し、8面を繋いで屏風の形に仕立てたものです。2人で1面という箇所もあり、表裏で18人の作家が腕を揮っています。光雲以外には野口小蘋、橋本雅邦、海野勝珉、香川勝廣、川之辺一朝、白山松哉、加藤陶寿、濤川惣助、竹内久一、石川光明、大島如雲、宮川香山(二代)、山田宗美、安藤重兵衛、佐竹永湖、荒木寛畝、川端玉章。帝室技芸員を含む、当代一流の作家たちです。

光雲は木彫で狆のレリーフを作りました。題して「猗子」。
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他にも狩野芳崖《悲母観音》(重要文化財)や、奈良県マスコットキャラクター「せんとくん」を生み出し、現在、奈良県立美術館館長を務める籔内佐斗司氏制作の鹿をイメージした面など、見どころの多い展示となっているようです。

もう1件、埼玉です。

近代木彫・工芸逸品展

期 日 : 2022年3月30日(水)~4月5日(火)
会 場 : そごう大宮店 7階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は午後5時閉場
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

木の息吹を感じる木彫作品から人気作家の陶芸品まで時代とジャンルを超えた匠の逸品をご紹介いたします。
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光雲作の「聖徳太子像」が出ます。像高17.3㌢の小品ですが精緻ですね。ただ、光雲単独の作なのか、工房作なのか不明です。

それぞれ、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十一時過孟彦来訪、村長さん清水さん、鯉淵学園の助手、生徒等4名も同道、夕方6時半まで、

昭和27年(1952)8月9日の日記より 光太郎70歳

「孟彦」は光雲四男・光太郎実弟で、藤岡家に養子に入った藤岡孟彦。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されている光雲作の「鈿女命」は、光雲没後に孟彦が形見分けに貰ったものです。

孟彦の回想から。

 27年の文化祭に、亡兄高村光太郎に来講して貰った。これには少しいきさつがある。兄は終戦近く罹災し東京を引揚げ知人を頼って岩手県花巻市に移ったが、ここでの戦火に会い稗貫郡太田村の山口という山村に引込んだ。以来8年をそこで農耕にいそしみつゝ送っていた。私も同様関西で勤め先と仮寓を焼払われ暫く音信が絶えたが鯉渕に来て東北地方に近くなったのを幸いに、一度こちらから訪ねたいし、学園にも来て貰いたく思い、23年の秋、着任早々手紙を出した。その返事にはかねてから望んでいたような山林生活をして愉快にやっているとあって安心した。その後訪ねる機会もなく、空しく月日は流れて行く。26年9月ごろ思い切って講演に来て貰えないか頼んでみた。一体私は、生れつき兄にも遠慮する方なのである。これも早速返事があり前年(25年)冬以来神経痛が全治しないので用心している。無理をしてよそへ講演に行ってから悪化した経験がある。全治すれば出かけるとあったので実はこの秋の文化祭に来てもらう心組みでいた私は少なからず失望した。ところがその翌27年8月特研生が私と西村君の引率の下に仙台、盛岡へ見学旅行に出掛けることになったので、この機会を外してはと思い8月?日盛岡で解散後、花巻に戻り途中一泊して翌日太田村山口の山小屋に辿りつき兄と久し振りに会う事が出来たのは実に嬉しかった。西村君の他に8期生の中込、日野原二君も同行した。さて、この時耳寄りの話を聞いた。というのは、兄は仕事のために10月、半年程滞在の予定で上京するというのである。この会見とその前後談を書くと、とても面白いのであるが関係がないから省く。
(『鯉淵学園通信』第38号 昭和32年=1957 6月)


省かないでほしかったのですが、学園の通信ではしかたがありますまい。

光太郎の鯉淵学園での講演は、11月に実現しました。その筆録は翌年1月発行の『農業茨城』第5巻第1号に「芸術と農業」の題で掲載されています。

信州善光寺さん、今年は御開帳です。数え七年に一度ということで、本来は昨年の予定でしたが、コロナ禍のため一年延期されました。4月3日(日)~6月29日(水)の予定だそうです。

そこで、御開帳に合わせ、昨日ご紹介した長野県立美術館さんの企画展「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」が開催されるわけです。

また、日本郵政さんでは、御開帳記念ということで、 ご当地フレーム切手「七年に一度の盛儀 善光寺御開帳」を発売しました。信越支社さんのプレスリリースから。

オリジナルフレーム切手「七年に一度の盛儀 善光寺御開帳」の販売開始

日本郵便株式会社信越支社(長野県長野市、支社長 菊地 元)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。このオリジナル フレーム切手は、下記の郵便局(一部の簡易郵便局は除く)で限定販売します。

商品名 七年に一度の盛儀 善光寺御開帳
販売/受付開始日 2022年3月25日(金)
販売/受付開始日(Web) 2022年3月25日(金)午前 0時15分
申込受付数 14,000シート
販売郵便局 長野県の全郵便局(440局) ※一部の簡易郵便局は除きます。
商品内容 フレーム切手 1シート 84円切手×5枚
商品属性 店頭販売商品
販売単位 シート単位で販売します。
販売価格(税込) 1シート 1,000円
 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

切手デザイン
善光寺御開帳は、本堂に安置される秘仏の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」の分身として鎌倉時代に造られた前立本尊(まえだちほんぞん)を、数えで7 年に一度開扉(かいひ)する盛儀(せいぎ)です。本商品は、善光寺御開帳の魅力を盛り込んだデザインとしています。
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光太郎の父・光雲と、その高弟米原雲海による仁王像(大正8年=1919)、それを納める仁王門もデザインされています。
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基本、長野県内の郵便局さんでの販売ですが、日本郵政さんのサイト内の「郵便局のネットショップ」から通販も可(会員登録が必要ですが)。早速注文しました。

善光寺さん御開帳のフレーム切手、前々回(平成21年=2009)、前回(平成27年=2015)の際にも発行されました。それぞれ、仁王門の写真があしらわれた切手も含まれていまして、タイミングを失っていたので、このブログではご紹介していませんでしたが、入手しました。

前々回(平成21年=2009)のもの。当時の封筒の郵便料金は80円だったのですね。
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前回(平成27年=2015)のものはこちら。82円バージョンです。
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上記2点は入手しておりましたが、今回、改めて調べてみますと、前回(平成27年=2015)にはハガキ用の52円バージョンもありました。
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こちらは未入手でして、探してみます。

それにしても、こういう光太郎智恵子・光雲がらみの郵便関係(切手・はがきなど)、コツコツ集めているうちに、ミニ展示ができるくらい溜まってきました。ご要望があれば貸し出しいたしますので、お声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐるうち山口部落の老婆といふ人、青年をつれてきて何かをたのむ、言葉まるで分らず、断りてかへす、


昭和27年(1952)8月1日の日記より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も丸7年が経とうとしていた時期で、かなり彼の地の方言等にも通じていた光太郎ですが、時にはこういうこともあったようで……。訪ねてきた老婆がたまたま言語不明瞭だったのかも知れませんが……。

長野県から企画展情報です。

善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から

期 日 : 2022年4月2日(土)~6月26日(日)
会 場 : 長野県立美術館 長野市箱清水1-4-4(善光寺東隣)
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 水曜日
料 金 : 一般・大学生500円、高校生以下無料

善光寺御開帳に合わせ、高村光雲から始まった、東京藝術大学による善光寺の仏像の保存修復に関わる研究について、様々な角度から紹介する展覧会を開催します。

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大正7年(1918)、信濃善光寺さんの仁王門が再建されました。明治24年(1891)の大火で焼失したものです。翌大正8年(1919)には、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の手になる仁王像、さらに三面大黒天像、三宝荒神像が納められました。
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開眼100周年ということで、平成31年(2019)から、東京藝術大学さんによる、像の本格調査が始まりました。その結果、それまで明らかにされていなかった事実がいろいろと判明していますし、文化財指定、仁王門の改修などもありました。

善光寺仁王像 初の本格調査。 第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」。
信州善光寺仁王像関連。 第14回善光寺サミット。 信州善光寺仁王門屋根改修銅板寄進。
「善光寺仁王門の改修工事」他。 信州善光寺仁王門工事見学会。 
善光寺仁王門、国登録有形文化財に。

それらの成果を踏まえての企画展のようです。

会場の長野県立美術館さんは、善光寺さんのすぐ隣。併せて仁王門自体もご覧下さい。当方も時間を見つけて行ってきたいと思っております。

【折々のことば・光太郎】

九時頃豊周、細君、珊子さん三人来訪、山水閣の番頭さんがついてくる。昨夜山水閣に一泊、今朝車で山口校まで来りし由、


昭和27年(1952)7月31日の日記より 光太郎70歳

「豊周」は、光雲三男にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光太郎の実弟です。後に鋳金分野の人間国宝となりました。

その豊周の回想。

 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。


この直前にはこんな記述も。

 山の生活について、直接知っていることはあまりないが、あのプラスの面とマイナスの面はやはり考えなければいけない。洋行以外長く東京を離れたことのない兄が、七年間もあそこに住んだこと自体は、極めて特殊な体験である。水がいいとか、野菜が新しいとかは、田舎にゆけばみんなそうで、当たり前のことだけれど、なんといっても山の中にいるのだから、ものの考えが純粋になる。東京のように朝に晩に酔っぱらいが訪問することもないし、来るのは花巻、盛岡あたりの文学青年や、農家の人たちばかりだから、その点やっぱり良かったと思う。健康についてはマイナス。勿論彫刻が出来なかったことは特別大きなマイナスだが、その代り、兄の書はここで一進歩を遂げた。
 丁度あの時十和田の像の話がもち上って、それで東京に帰れるようになったのは、僕には自然の摂理が、うまく兄を導いたような感じがするのだ。もしあの話が起らずに、もうすこしあそこにとどまっていたら、必ず動けなくなっていただろう。


東京にいた頃、「朝に晩に」「訪問」した「酔っぱらい」は、当会の祖・草野心平などでしょう(笑)。それはともかく、なかなか鋭い見方ですね。

昨日、開幕でした

春のライトアップ2022

期 間 : 2022年3月25日(金)~4月5日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑、国宝三門周辺、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂、大鐘楼
料 金 : 大人600円(高校生以上) 小人300円(小・中学生)

友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「国宝三門」、除夜の鐘で有名な「大鐘楼」など境内各所をライトアップします。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。
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みどころ
友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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大鐘楼(春期初公開)
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『根を培う』

 正座じゃないといけないの?手の合わせ方が分からない。仏教は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。気さくなお坊さんたちが皆さまを温かくお出迎えいたします。お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験がございます。日常から離れた心静かなひとときをお坊さんと味わってみませんか?
開始時間:18:00〜/18:45〜/19:30〜/20:15〜(各回お話15~20分、木魚念仏体験5分程度)
状況により時間が変更になる場合がございます。堂内間隔を保つため、人数制限を行う場合がございます。知恩院七不思議のひとつ「大杓子」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!
(無くなり次第終了)
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御影堂プライベートツアー
 国宝御影堂の通常非公開部をご案内いたします。御影堂の荘厳な雰囲気に浸りながら、特別な時間をゆっくりとお過ごしください。
 日程:毎夜
 開始時間:18:15~/19:00~/19:45~/20:30~
 所要時間:45~50分程度
 定員:各回25名様まで
 料金:お1人様1,000円(小・中学生500円)
 別途ライトアップ拝観料が必要です。
 当日プライベートツアーの受付(御影堂前)にて現金でお支払いください。

月かげプレミアムツアー
 ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大鐘楼柵内の通常非公開部もご案内!1時間半たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:3/25(金) 26(土) 27(日) 30(水) 4/2(土) 3(日)
 開始時間:18:00~/19:30~
 所要時間:1時間半程度
 定員:各回15名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。

「補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像」は、明治25年(1892)、東京美術学校として依頼を受け、光太郎の父・光雲が主任となって制作されました。鋳造は岡崎雪声、原型は東京藝術大学さんに収蔵されています。
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京都では、清水三年坂美術館さんで、光雲作の木彫が14点出ている「明治・大正時代の木彫」展も開催中です。併せて足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

21日朝山野の山百合一せいに咲きはじめる、壮観、


昭和27年(1952)7月26日の日記より 光太郎70歳

遡ること10年ほど前、まだ駒込林町のアトリエ兼住居にいた昭和16年(1941)、詩人の宮崎稔に宛てたはがきには、以下の記述がありました。

昨日は山百合の花たくさんお届け下され御厚志まことにありがたく存じました、早速父と智恵子との写真に供へましたが殆と部屋一ぱいにひろがり、実に壮観をきはめ、家の中に芳香みなぎり、山野の気満ちて、近頃これほど爽快に思つた事はありません、智恵子は殊に百合花が好きなので大喜びでせう。

ZOOMによるオンライン講座です。

若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む

オンライン会議アプリzoomを使用したリモート講座が新しくできました!

ゼミという名のとおり、若松と参加者とが共に学びを深めて参ります。
名著を取り上げるのはもちろん、若松がどうしても取り上げてみたいマニアックな本、本だけに限らずにテーマ(詩、哲学)なども取り上げて、「読む」こと「書く」ことを深めていく講座です。
中には1年以上かけて、同じ本をじっくり学んでゆくような講座も予定しています。
少人数制の参加型ゼミ講座と、テキストを読み解いたりテーマ毎に講義を受けるグループ講座をご用意しています。
お好きなテーマ、参加スタイルを選んでご参加ください。

オンラインですので、遠方の方や直接教室にこられない方もご参加頂けます。
ご自身のなかにある、うちなる言葉に出会える講座です。
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 高村光太郎訳の『ロダンの言葉』は、ある時期、画家や彫刻家だけでなく、文学、音楽を含む世界においても、ある種の啓示の書として読まれました。彫刻という「かたち」のなかに潜むコトバを語るロダンに美と叡知の地平を指し示す羅針盤のようなものを感じたのです。
 今日、ロダンはすでに不朽の名を歴史に刻んでいますが、彼は多くの誤解と中傷を受けながら、自らの芸術を深化させてきました。この本には、かたちを変えた詩の極意が語られています。
 言葉を超えたコトバとどのような関係をつむぐことができるのか、ロダンの言葉に導かれながら、皆さんと考えてみたいと思います。 (講師:若松英輔)

【講座の種類】グループ講座(連続)
【最低催行人数】10名
【時間数】1時間40分(内休憩10分)
【受講料】4,400円(税込)
【課題】あり(+1,650円)・なしが選べます
【テキスト】高村光太郎訳 高田博厚編『ロダンの言葉抄』(岩波文庫)
【申込み期限】講座の前営業日9:00まで(コンビニ決済の方は、期限までにお支払いまでお済ませ下さい)
001※「読むと書く」会員様のみご参加頂けます。 会員証をお持ちでない方は、事前にアンケート・課題などがございますので、4営業日前までに初めての方はお申し込み下さい。

【日程】
 ■第一回 2022年3月30日(水)19:20-21:00

 ■第二回 2022年4月27日(水)19:20-21:00

 ■第三回 2022年5月25日(水)19:20-21:00


主宰は詩人の若松英輔氏。これまでに、NHKさんのラジオ講座で光太郎に触れてくださったり、評論集『詩と出会う 詩と生きる』(令和元年=2019 NHK出版)、詩集『美しいとき』などで、光太郎に触れてくださっています。

メインで取り上げられるのは、光太郎訳の『ロダンの言葉抄』。光太郎歿後の昭和35年(1960)、それぞれ光太郎に私淑した彫刻家の菊池一雄と高田博厚の共編で、岩波文庫の一冊として刊行されました。現在でも版を重ねているようです。

「抄」ではない元版『ロダンの言葉』は大正5年(1916)に北原白秋の実弟・北原鉄雄の阿蘭陀書房から、『続ロダンの言葉』は同9年(1920)に叢文閣から刊行されました。それぞれ、それまでに『白樺』などの雑誌に断続的に発表していたものをまとめたものです。のちに叢文閣では2冊セットの普及版も刊行しています。

光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝となった豊周の『定本光太郎回想』から。

 この頃「ロダンの言葉」を訳しはじめたのは、兄にとっても、僕たちにとっても、今考えると全く画期的な大きな仕事だったと思う。
 雑誌にのった時は読まなかったけれど、本になってからは僕も繰返して愛読した。あの訳には実に苦心していて、ロダンの言葉を訳しながら兄の文体が出来上がっているようなところもあるし、芸術に対する考え方も決って来ているところが見え、また採用した訳語も的確で、「動勢」とか「返相」とか兄の造った言葉で今でも使われているものが沢山ある。そんな意味で、あれは兄には本当に大事な本だった。
 それだけに、他の学校は知らないが、上野の美術学校では、みなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的ではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の生き方の根本で人々の心を動かした。新芸術の洪水で何かを求めながら、もやもやとして掴めなかったものがあの本によって焦点を合わされ、はっきり見えて来て、「ははあ」と肯ずくことが一頁毎にある。ロダンという一人の優れた芸術家の言葉に導かれて、人々は自分の生を考える。そういう点で、あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている。
 この本が、そんなに広く受入れられた原因の一つは、あの本の形式にもあるので、兄の読んだ種種な書物からの集積だから、自然にそうなったのだけれど、文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。この短かくて頭にはっきり全文が入るような形式が読者の感動をどんなに助けているかわからない。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。

若い学生」には、佐藤忠良、舟越保武、本郷新といった、光太郎のDNAを受け継ぐ彫刻家も含まれ、実際、彼らもその影響の大きさを語っています。佐藤と舟越の対談から。

佐藤 『ロダンの言葉』というのは君も聖書のようにして読んだし、僕も同じだったね。高村さんにあれだけの翻訳が出来たというのは、当時高村さんがいい仕事をしてたから深く読み、訳せた証拠だと思う。
舟越 そうだろうな。
佐藤 本郷さんも老人の漁夫を作ったり青年を作ったりあたりはいい文章を書いている。君もそうだと思うけど、『ロダンの言葉』を興奮して読んだわけだけど、自分が仕事を積み重ねて幾らかでも成長してから読んでみると、学生の時とはまったく違うところに感動していたりする。学生時代に読み過ごしていたところに本当の意味があった、ということがわかって、そこで、ああ、高村さんはやっぱりいい仕事してた時なんだな、と思えてくる。
(『対談 彫刻家の眼』昭和58年=1983 講談社)


さて、その『ロダンの言葉』を、若松氏がどのように評するのか、興味深いところです。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

哲夫さんキチジといふ魚持参、ビール1本のむ、


昭和27年(1952)7月24日の日記より 光太郎70歳

哲夫さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの村人、「キチジ」は主にオホーツク海などで獲れる魚です。調理法が書かれていませんが、刺身、或いは焼き魚にして一杯、というのもいい感じだったでしょう。
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BSテレビの再放送情報、放映順に2件ご紹介します。

ゆるっと山歩に行こう▽登山を始めたい方必見!絶景やグルメも堪能!

BS朝日 2022年3月26日(土) 14:55〜15:54

登山初心者の女優・酒井美紀と、ゴリ(ガレッジセール)が、山のスペシャリストと共に山頂を目指す!景色はもちろん、山での歩き方や服装など登山初心者に向けた情報も満載。

酒井美紀(女優)が登るのは、福島県にある安達太良山(あだたらやま)。「日本百名山」に選ばれている標高1700mの美しい山で、中高年の方でも登りやすい、登山初心者にはうってつけの山!一方、ガレッジセールのゴリが登るのは、山梨県にある標高1785mの三ツ峠山。通常は3時間程度で登山が可能で、麓には宿泊も可能な温泉付きの施設もあり、登山初心者に人気の山。さあ、ゆるっと山歩(さんぽ)してみよう!

出演者 酒井美紀、ゴリ(ガレッジセール)、栗山祐哉(上級登山インストラクター)、鈴木優香(山岳収集家)、吉野時男(グルメハイカー)、北村春夏(歴史ハイカー)

初回放映は昨年11月でした。
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前後半2本立てで、前半の登山挑戦者は、女優の酒井美紀さん。
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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)に謳われた、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山に挑みます。

安達太良山が選ばれたのには理由(わけ)があり……。
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そうなると、安達太良山は…………。
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なるほど。

さらに山岳ガイドさんもご同行。
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「山岳収集家」という肩書きを、当方、初めて目にし、「?」と思いましたが……。
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だ、そうです。

出発地点は、奥岳登山口。ここから歩いて山頂まで登っても、朝出れば夕方には帰り着けるのですが、「登山初心者」ということで、ロープウェイで一気に8合目まで。
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すると、山頂駅からはおよそ1時間半。ただ、コロナ禍前の山開きの日は大混雑でしたし、雪融け水で登山道が泥の河と化している箇所も多く、もう少し時間がかかる状態でした。

さて、山頂駅のすぐ近くで……。
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光太郎智恵子、ばっちり紹介してくださいました。多謝。

ただし、この日は……。
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その後、山頂付近で山グルメを堪能し……。
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いよいよ登頂。ドローン空撮なども効果的に使っていました。
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さらに足を伸ばして、沼の平。
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番組後半、ガレッジセール・ゴリさんの山梨県三ツ峠山編(こちらは「登山初心者」といいつつ、けっこう過酷でした)をはさみ……。
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最後に、再び酒井さん。後日譚として、「山岳収集」の伏線が回収されて、番組終了。
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もう1件、同じ日の放映です。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2022年3月26日(土) 19:30〜19:55

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一 ナレーター:服部潤
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こちら、初回放映は昨年7月でした。その後、くり返し再放送がありましたが、初回放映を含め、すべて深夜から未明のオンエアでした。で、今回、初めてゴールデンタイムでの放映です。

じつは公式サイトで全編見られてしまうのですが、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などの「美景」、テレビの大画面で観るのをお薦めします。ちなみにこの番組、3月6日(日)オンエアの最新作は、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市(それなりの観光地ですので)及び、光太郎智恵子ゆかりの銚子犬吠埼(光太郎智恵子にはふれられませんでしたが)でした。そちらも公式サイトからご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后「森英介之墓」等揮毫。


昭和27年(1952)7月22日の日記より 光太郎70歳

森英介」(大6=1917~昭26=1951)は米沢出身の詩人。生前に刊行された(正確にはぎりぎり間に合わず亡くなりましたが)唯一の詩集『火の聖女』には、光太郎が序文を寄せています。この詩集は活字工として働いていた森が自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、森はその直後に胃穿孔で急逝してしまいました。
 
墓標の文字を遺族から依頼された光太郎は、哀惜の意を込めて正面に刻まれた「森英介之墓」、向かって左側面の「智応院正行日重居士」(戒名)を揮毫しました。
 
当方、20数年前、開通間もない山形新幹線に乗って、米沢までこの墓標を見に行きました。市内相生町の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいましたが、今もそのまま残っているのではないかと思います。おそらく地元の方も光太郎の文字がここにあるというのは、ほとんどご存じないのではないでしょうか。
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本日開幕。都内から、現代の作家さんによる木彫の個展です。

齊藤秀樹 木彫展~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~

期 日 : 2022年3月23日(水)~3月29日(火)
会 場 : 西武池袋本店 6階(中央B7)=アート・ギャラリー
      東京都豊島区南池袋1-28-1
時 間 : [月~土]10:00~21:00[日]10:00~20:00 最終日のみ16:00まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~
人が生活するエリアで見られる生き物を、実物大で木彫作品にしています。
制作する多くの生き物は自分が飼ったことがあったり、捕まえたことがある生き物ばかりです。触れることができる生き物に特に興味があります。
触れることができない自然の生き物との距離感にも興味があり、その緊張感を作品にすることもあります。
人と生き物との関係性は良いことばかりではなく、考えさせられることも少なくありません。
急速に変化し続けている自然の姿を、彫刻作品という形で表していければと思います。
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齊藤氏、大阪芸術大学美術学科彫刻科卒だそうで、現代アートという括りよりも、伝統的な木彫を継承されているという感じでしょうか。これまでも、動物をモチーフにした木彫を多く手がけられているようです。

今回の出品作のいろいろ。
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彩色が効果的ですね。

さらに、光太郎の父・光雲作品へのオマージュということで、[矮鶏」。
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楠を使った一木彫りだそうです。即売会も兼ね、価格は55万円也、だそうで。

元になった光雲作品は、「矮鶏置物」(明治22年=1889)。宮内庁三の丸尚蔵館さんに所蔵されています。
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ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夜ヘルシンキのオリムピツク開会式の実況をラジオできく、


昭和27年(1952)7月19日の日記より 光太郎70歳

この前年、昭和26年(1951)には第二次大戦のサンフランシスコ講和条約調印、27年に入って4月に同条約の発効。GHQによる占領体制が解かれます。こうした日本の国際社会への復帰の流れの中で、昭和11年(1936)のベルリンオリンピック以来、日本選手団が16年ぶりに参加しました。

日本人メダリストとしては、レスリングで石井庄八選手が金メダルを獲得しています。占領下では「武道は軍国主義の推進につながる」というGHQの指導で、柔道が弾圧を受けていました。そのため、石井選手もそうですが、レスリングに転向した柔道家も多かったと聞きます。現在に至るまで、日本のアマレスが一定のレベルを保っている背景にはこんな事情もあるのです。

その他、現代でも日本のお家芸的な競泳や体操で、銀・銅メダリストが輩出。この日以降も光太郎はラジオ中継をよく聴いており、現在の我々と同じように、日本選手の活躍に一喜一憂していたのかもしれませんね。

新刊コミックスです。

ミカコ72歳 1

2022年3月5日 新久千映著 株式会社コアミックス 定価580円+税

72歳のミカコさんは夫を亡くしたばかり。今後は夫と暮らした家にこだわって一人暮らしをするつもり。心配な子や孫にスマホを持たされたところ、死んだおじいさんのアカウントと偶然繋がってしまい…。 読めば老後も悪くない、人生100年時代のおひとり様術(ライフハック)!
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『コミックゼノン』という月刊青年漫画誌に、昨年から連載されているもので、第1話などはWeb上で無料公開されています。

上記解説文にもありますが、夫を亡くした広島在住ミカコさんがスマホデビュー。すると、亡き夫のLINEアカウントがまだ残っており、既読にならないことを承知で、日記代わりにいろいろ書き込みをするように……という展開です。

第5話「気づかなかった自分が情けないわ」が、『智恵子抄』がらみの内容になっています。

ミカコさん、亡夫の蔵書を処分しようと、古書店さんに来てもらいます。ミカコさん自身は、あまり読書に縁がないようで……。
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意外にいい本が多くあることに驚く店主。すると、崩れた本の山から、ミカコさんが目をとめたのが……。

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紙絵と詩 智恵子抄』(昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫)。ミカコさん、あるページに釘付けになります。
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そして……
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そのココロは……
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おそらく半世紀程も前でしょう、ミカコさんが亡夫から貰った手紙の文面が、そのままそこに載っていたというわけで(笑)。

ちなみにそれは詩「人類の泉」(大正2年=1913)だったようです。

   人類の泉

 世界がわかわかしい緑になつて008
 青い雨がまた降つて来ます
 この雨の音が
 むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
 いつも私を堪らなくおびやかすのです
 そして私のいきり立つ魂は
 私を乗り超え私を脱(のが)れて
 づんづんと私を作つてゆくのです
 いま死んで いま生れるのです
 二時が三時になり
 青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに
 今日もこの魂の加速度を
 自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
 そして極度の静寂をたもつて
 ぢつと坐つてゐました
 自然と涙が流れ
 抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
 あなたは本当に私の半身です
 あなたが一番たしかに私の信を握り
 あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
 おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
 私の生(いのち)を根から見てくれるのは
 私を全部に解してくれるのは
 ただあなたです
 私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です
 私の正しさは草木の正しさです
 ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
 もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
 あなたは海水の流動する力をもつてゐます
 あなたが私にある事は
 微笑が私にある事です
 あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
 そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
 私は今生きてゐる社会で
 もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
 もう共に手を取る友達はありません
 ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
 私はこの孤独を悲しまなくなりました
 此は自然であり 又必然であるのですから
 そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
 けれども
 私にあなたが無いとしたら――
 ああ それは想像も出来ません
 想像するのも愚かです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
 私は人から離れて孤独になりながら
 あなたを通じて再び人類の生きた気息(きそく)に接します
 ヒユウマニテイの中に活躍します
 すべてから脱却して
 ただあなたに向ふのです
 深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
 あなたは私の為めに生れたのだ
 私にはあなたがある
 あなたがある あなたがある

そこで、サブタイトルが「気づかなかった自分が情けないわ」。しかしミカコさん、これを機に、読書にも興味を持つように……。

その他にも、日々の何気ない出来事や、その時々の思いを、亡夫のアカウントに書き続けるミカコさん。それに気付き、はじめは認知症にでもなったかと心配していた娘や孫、職場(ミカコさんは医療事務の仕事をしています)の同僚たちも、「それもありか」と思うようになり、さらに少なからず影響を受けるようになり……という感じです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

美校にて生徒に一言話す、校長や教員諸氏に今度の仕事の事を話し、十月東京行きを告げる、 うなぎ屋にて一同より御馳走になり、バスにて花巻、タキシにて小屋、

昭和27年(1952)7月9日の日記より 光太郎70歳

美校」は岩手県立美術工芸学校。「校長」は森口多里、「教員諸氏」には深沢省三・紅子夫妻舟越保武佐々木一郎らがいました。「今度の仕事」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。

他の日の日記等でほとんど見かけたことがなく、おやっと思ったのが「バスにて花巻」の記述。当時、盛岡~花巻間の路線バスがあったのですね。

新刊刊行物、2件ご紹介します。

まず、小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの在庫目録『書架』138号。軸装された光太郎の書が写真入りで紹介されています。
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おそらく色紙で、書かれているのは大正3年(1914)の詩「晩餐」の一節。

   晩餐

 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)からアトリエの光太郎智恵子
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

詩は大正3年(1914)のものですが、色紙が書かれたのは、字体などの特徴からおそらく戦後と思われます。30年以上も前の詩からの引用ということになりますが、この詩は詩集『智恵子抄』に収められたもので、戦後に智恵子抄の復刊が相次ぎましたから、そうした際に読み返していて記憶に残っていたのでしょう。他にも「晩餐」の一節、あるいは少しだけの異同がある句を揮毫した書が複数、戦後期に書かれています。

GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。
朝日新聞 読書欄/読売新聞 読売俳壇。

それにしてもえびな書店さん、このところ、毎号のように目録に光太郎作品が載っています。中にはかつて他店で扱っていたものもありますが、そうでないものも多く、どういう入手ルートをお持ちなのか、まぁそのあたりは企業秘密なのでしょうが……。

131号(令和2年=2020) 132号(同) 135号(令和3年=2021) 136号(同) 137号(同)

で、それぞれ、それほど不当な高価格になっていません。今回のものは35万円。正直に言うと、「これ、安すぎないか?」という感じです。当方には手が出ませんが(笑)。

収まるべきところに収まって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山にかへらんとして又盛岡に行くことにして汽車にて盛岡、菊屋に泊る、 下村海南の講演を公会堂できく、 夜民子の家にて天ぷら夕食、


昭和27年(1952)7月8日の日記より 光太郎70歳

銀行やら郵便局やらの用事で、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から花巻町中心街に出た後の記述です。

04a3454a-s菊屋」は現在の北ホテルさん、光太郎の盛岡での定宿でした。「下村海南」は官僚、新聞経営者、政治家、歌人。光太郎とは旧い知り合いでした。昭和17年(1942)の雑誌『知性』には、光太郎、下村、笠間杲雄(外交官)、岸本誠二郎(経済学者)での座談会「大東亜文化建設の課題」が収録されています。

民子」は、盛岡の「天よし」という飲み屋のマダム。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。彼女に贈った光太郎の書も存在します。曰く「うつくし かぐはし ほほゑまし」。民子のことでしょう。民子が長唄の免状を手にした祝いということでした。

昨日は、千葉県佐倉市に行っておりました。自宅兼事務所のある香取市から、車で高速を使って1時間弱、佐倉市立美術館さんがメインの目的地でした。

光太郎智恵子らに直接関わらないので、これまで紹介しませんでしたが、こちらでは、現在、「フランソワ・ポンポン展―動物を愛した彫刻家」が開催中です。同展、昨年から京都、名古屋、群馬と巡回し、こちらで四館め、さらに来月には山梨で開催予定です。

フランソワ・ポンポン展―動物を愛した彫刻家

期 日 : 2022年2月3日(木)~3月29日(火)
会 場 : 佐倉市立美術館 千葉県佐倉市新町210
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)
料 金 : 一般800(640)円、大学・高校生600円(480)円、中・小学生400(320)円
      ( )内は前売り及び団体料金


19世紀末から20世紀初頭にフランスで活躍した彫刻家フランソワ・ポンポン(1855‐1933)。
ロダンのアトリエなどで下彫り職人として経験を積み、51歳で動物彫刻家に転向し、シンプルな形となめらかな表面をもつ 《シロクマ》や《フクロウ》、《ペリカン》などを生み出しました。
日本初の回顧展となる本展では、最初期の人物から洗練された最晩年の動物彫刻まで、旧ブルゴーニュ地方のディジョン美術館や出身地ソーリューのポンポン美術館、 また国内でポンポンの彫刻と資料を多数所蔵する群馬県立舘林美術館から彫刻、スケッチなど、約90点を出品します。
あわせて、ポンポンに影響を受けたとされる佐倉ゆかりの金工家・津田信夫(つだ・しのぶ 1875‐1946)の当館所蔵品もご紹介します。
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ポンポンは、解説にある通り、ロダンに師事した彫刻家で、ロダンの工房の長も務めた人物です。のちに独立し「アニマリエ」と呼ばれる動物彫刻家として名を馳せました。

光太郎のポンポン評。

 狂信的な「ぢか彫り」運動もやがて此が常識になると騒ぐのが滑稽になつて漸く退潮したが、その中から相当な作家と良い伝統とを残した功があつた。
 フランソワ ポンポン(François Pompon; 1855-)此好々爺は長年サロンに出品してゐたが六十七歳まで人に認められず、「ぢか彫り」運動の気運から一九二一年ベルナアルに推奨されて急に大家となつた動物彫刻家だ。此のブルゴオニユ出の半仙人は此技法を以前から実行して居り、異常な動物愛から鳥獣魚介に人間以上の崇高性と優美性とを与へる。細部を悉く棄てて量(ヴオリウム)だけで表現する。彼の巨大な「白熊」の悠久の美は人を全く新らしい世界に導く。「俺の彫刻は見るよりも撫でてくれ」といつでもいふ。今は光栄に囲まれてゐるが相変らず汚いアトリエでのんきに仕事してゐる。作品は無数。(「現代の彫刻」昭和8年=1933)


 一九三〇年となると、動物彫刻家のポンポンも、曾ての新人オルロフ夫人も、エルナンデエも、もう大家の列に並び、後からはもつと若い、まだ未来の分らない彫刻家が続出しては来るが、あらゆる昨日の尖端的な新運動も時がたつと却つてひどく古くさく、間ぬけになつて来て、今では人がむしろ折衷派に多く活路を見出してゐる状態である。(同)

ぢか彫り」は「ダイレクト・カーヴィング」。星取り機などを使わず、大理石や木といった素材を直接削ったり切ったりしていく制作方法です。西欧では一般的ではありませんでした。第一次大戦前後、急進派と目された一部の若手が、プリミティブなアフリカの民俗彫刻などからヒントを得、塑像技法(モデリング)を全く排除して展開しました。ポンポンもこの系統に連なるということですね。ただし、ポンポンは元々ロダンにモデリングを学びましたし、カーヴィングでなければ駄目、という立場ではありませんでした。実際、展示の中にポンポンの使った道具類の写真がありましたが、星取り機もありました。

また、平成29年(2017)、テレビ東京さん系列で放映された「美の巨人たち」で、代表作「シロクマ」が取り上げられましたが、その際、ポンポンが動物園に足繁く通い、スケッチを描く代わりに粘土を持参し、いわば立体スケッチを行っていたというくだりもありました。

さて、佐倉市立美術館さん。城下町佐倉市の旧市街的な一角にあり、大正時代に建てられた旧川崎銀行佐倉支店(千葉県指定有形文化財)の建物を使っています。いい活用法ですね。
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入ってすぐ、受付カウンターより前のエントランスホール的なところに、ポンポンのアトリエの写真。光太郎が「汚いアトリエ」と書いていた、それでしょうか(笑)。
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キャプションを見て、「ありゃま!」と思いました。
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「カンパーニュ=プルミエール通り3番地」。明治41年(1908)から翌年にかけ、光太郎は同じカンパーニュ=プルミエール通りの17番地にアトリエを構えていましたので、近くですね。ただ、ポンポンがこのアトリエをいつからいつまで使っていたのか、光太郎と同時期だったのか否か、当方、寡聞にして存じません。詳しい方、御教示いただけると幸いです。

昨日は、妻も見てみたいといっていたので連れて行きまして、2人分チケットを購入し、展覧会場へ。出品作品の大半は群馬県立館林美術館さんからの借りうけでした。
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当方、ポンポンの作品は、単体で見たことはあったものの、まとめて目にするのは初めてで(それもそのはず、今回の巡回展が日本初のポンポン展だそうで)、興味深く拝見させていただきました。


初期の人物塑像などもありましたが、やはりポンポンをポンポンたらしめた動物彫刻に、より目が行きました。先述の「美の巨人たち」の影響もありましたし。

特に代表作の「シロクマ」。

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オルセーにあるほぼ実物大のそれではなく、雛形的な小さなものでしたが、それでもいいものだと思いました。

「美の巨人たち」の受け売りですが、上半身は歩いていて方向転換する直前。シロクマは方向を転換する直前は立ち止まって、頭をふっと高く上げる習性があるそうで、その瞬間です。ところが下半身は、立ち止まった際には揃っているはずの後ろ脚をそう作らず、歩いている時の形で前後に開いています。しかし、それが不自然に見えません。ポンポンは、二つの瞬間を一つの彫刻に閉じこめた、というわけで、その方がよりシロクマの本質が表せる、とのこと。

「美の巨人たち」では、ポンポンの師・ロダンの「考える人」も、右の肘を左の膝に置くという、通常ではありえないポージングを採っていることに関連づけて紹介していました。あながち牽強付会とも言えないでしょう。

先述の光太郎評「「白熊」の悠久の美は人を全く新らしい世界に導く」というのもうなずけました。

ポンポンの作品以外に、参考出品という扱いで佐倉出身の鋳金家・津田信夫の作品が4点出ており、再び「ありゃま!」(笑)。津田は、光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝となった豊周の師です。そして津田はポンポンからも影響を受けていたとのこと。そういえばそうだった、と、この件は忘れていました。

同展拝見後、近くの麻賀多神社さんへ。御朱印マニアの妻のためです(笑)。
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こちらは佐倉藩総鎮守だそうで。

花手水、最近、流行りですね。
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参拝後、妻が御朱印を書いていただいているのを待つ間、境内をぶらぶら。

そこで三たび「ありゃま!」(笑)。こんな石碑と案内板がありました。
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香取秀真。先述の津田信夫と並び、日本の鋳金分野の泰斗です。香取が佐倉に隣接する印西の出身というのは記憶していましたが、この神社の養子になったというのは存じませんでした。

さらに四度目の「ありゃま!」がありました(笑)。

駐めていた車に戻る途中、佐倉市立体育館さんの前に、銅像が。
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「誰だ? これ」と思って見てみると、「西村勝三翁像」。

戦時中に金属供出で失われてしまいましたが、明治39年(1906)、光太郎の父・光雲が、東京向島にあった西村家の別邸に西村の銅像を作っています。
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こちらの像の建立は昭和59年(1984)ということで、現代の作家のものですが、そういえば西村も佐倉出身だったっけ、というわけで「ありゃま!」した。

さて、「フランソワ・ポンポン展―動物を愛した彫刻家」。佐倉では3月29日(火)まで、その後、4月16日(土)から6月12日(日)まで甲府の山梨県立美術館さんに巡回です。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ひる、照井欣平太氏、ハーモニカの人と同道来訪、立ち話、拓本を見る、

昭和27年(1952)7月6日の日記より 光太郎70歳

照井欣平太氏」は、花巻で椎茸栽培を大規模に行っていた農家。光太郎歿後の昭和35年(1960)には、光太郎からの書簡2通を拡大して刻んだ石碑を自宅農園敷地内に建立しました。当方、30年程前にお邪魔して碑を拝見し、お話を伺いました。

ハーモニカの人」は新井克輔氏。かつて連翹忌にご参加下さり、ハーモニカ演奏を披露いただくのが常でした。

お二人ともご存命なのかどうか……。

3月17日(木)、田町の日本建築学会図書館さんをあとに、上野に向かいました。目指すは上野の森美術館さん。こちらでは現代アートの「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」が開催中です。ちなみに周囲では早咲きの桜がちらほら、というところでした。
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会場に入ってすぐ、VOCA佳作賞に輝いた谷澤紗和子さんの作品「はいけい ちえこ さま」。
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思ったより大きな作品でした。

上段中央の作品。智恵子の紙絵がモチーフです。折り紙を折りたたんでハサミで切り込みを入れ、広げて出来るシンメトリーの作品。この手の作品の中では有名なものの一つです。
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単に智恵子紙絵の模作ではなく、中央に小さな顔が配されていました。それから、他の作品もすべてそうですが、フレームは旧い家屋から採った廃材だそうで。中には金具がそのままついているものもありました。古い家制度の象徴、といったところなのだろうと思いましたが、はたして後ほど購入した図録に載っていた審査員諸氏の選評にもそのように書いてありました。

上段右の作品は、雑誌『青鞜』明治45年(1912)第2巻第1号から第3号にかけて使われた、智恵子筆の表紙絵を元にしています。かつてはスズランと言われていましたが、福島県立美術館さんの学芸員をなさっている堀宜雄氏のご指摘ではスズランではなくアマドコロ。当方もその通りだと思っております。
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下段中央の作品。やはり智恵子の紙絵が元ネタで、元々の作品は封筒を分解して開いて台紙とし、赤い蟹の紙絵が貼られています。その蟹が「NO」の文字に。何に対してのNOなのでしょうか。ある意味、モラハラに近かった光太郎に? 世間一般の智恵子評に? 智恵子自身が智恵子自身の作品世界に? いろいろ考えさせられました。
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下段左の作品。これも智恵子紙絵を元にしたと思われますが、これについてはどの紙絵をあしらったのか、よくわかりませんでした。そしてやはり紙絵模作だけでなく、文字。大正15年(1926)4月の雑誌『婦人の友』に載った智恵子のアンケート回答「新時代の女性に望む資格のいろいろ」の一節です。

 あなた御自身、如何なる方向、如何なる境遇、如何なる場合に処するにも、たゞ一つ内なるこゑ、たましひに聞くことをお忘れにならないやう。この一事(いちじ)さへ確かならあらゆる事にあなたを大胆にお放ちなさい。
 それは最も旧く最も新しい、生長への唯一の人間の道と信じます故。
 限りのない細部に就てはのぞみきれませぬ。

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このあたりがオマージュの難しさで、審査員諸氏、こういう文章の中の一節をここに持ってきているんだ、というのがわかって審査されているのかどうか……。あるいは会期中にこの作品を見る観客のうち果たして何人がそうだと分かるのか……。別に批判している訳ではないのですが……。

そこで誰にでも分かるように、ということでしょうか、谷澤さんから智恵子への手紙が配された作品が2点。

下段右の作品。はじめ、元になった智恵子の紙絵が何だったかわからなかったのですが、どうもこれも有名な柘榴の紙絵でした。
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網状にかぶせられているのが、谷澤さんから智恵子へのメッセージです。ある意味、超絶技巧、一枚の紙から切り出したもののようです。
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そして上段左の作品、切り出したこの文字を他の紙の上に置き、金色の塗料を吹きつけています。それが箱の包装紙の模様。事前に見ていた公式サイトの小さな画像では、このあたりが全く分かりませんで、実際に見て舌を巻きました。
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ちなみに元ネタとなった智恵子の紙絵は、光太郎からの見舞い品である千疋屋さんの包装紙がそのまま使われており、千疋屋さんのロゴまで分かるものです。

先ほどもちらっと触れた、図録に掲載された審査員諸氏の選評。
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出品一覧。
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申し訳ありませんが、このブログでは、他の出品作に触れる余裕がありません。他に光太郎智恵子、光雲からのインスパイア作品等はなかったようですし。

さて、「VOCA展」。次回が30回目だそうで、同展メインスポンサーである日比谷の第一生命さんで回顧展的な展示も為されています。

VOCA 30 Years Story / Tokyo

期 日 : 2022年3月11日(金)~11月30日(水)
会 場 : 第一生命ロビー 
       東京都千代田区有楽町1-13-1 第一生命保険株式会社 日比谷本社ビル1F
時 間 : 8:00~20:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

VOCA展の30周年を前に、第一生命が所蔵するこれまでのVOCA賞作品を一堂に会し紹介いたします。
(一部の作品は展示されない期間があります。2022年VOCA賞作品は4月以降に展示します。)
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これまでの大賞(VOCA賞)作品のほとんどが出ているそうです。フライヤー裏面には、昨年のVOCA賞受賞作《上野山コスモロジー》。光雲の木彫代表作「老猿」もモチーフに使われています。
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ところで、どうでもいいのですが、会場の第一生命さん本社ビル、階上の本社では、当方の息子が働いております(笑)。この手のメセナとは全然関係のない部署だそうですが(笑)。

閑話休題、上野の森美術館さんは3月30日(水)まで。コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

(協定書、28年8月完成、百萬円今年、28年1月百萬円、完成時百萬円、据付迄作者負担、台の工事は県負担、)


昭和27年(1952)7月5日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する、発注元の青森県との協定書の要旨です。ギャラが合計300万円。当時の物価としては、例えばこの年11月の大卒国家公務員六級職の初任給が7,650円、やはりこの年に刊行された中央公論社版『高村光太郎選集』第二巻(B6判上製函入り374ページ)の定価が380円でした。

昨日は久々に都内に出ておりました。昨秋以来、感染予防の観点から都内は通過するだけにとどめていたのですが、そろそろ新規感染者数も減少傾向にあり、短時間ならいいかな、という判断でした(都内在住・在勤の方には失礼かも知れませんが)。

まず向かったのは、田町の日本建築学会図書館さん。建築会館さんの中に、建築博物館などとともに併設されています。
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こちらはその名の通り、建築専門の書籍や雑誌等を数多く収蔵していて、国会図書館さんにないものも数多くあります。

お目当ては大正時代の雑誌『建築之日本』。この中に、光太郎が文章を寄稿しており、それが筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に洩れているものらしいので、閲覧に伺った次第です。

数年前に『建築之日本』への寄稿、同館に収蔵があること、ともに情報を得ていたのですが、同館の利用規程は、日本建築学会さんか土木学会さんの会員というのが基本で、会員外が利用したければ正会員の紹介状が必要、ということで、困っておりました。

ところが捨てる神あれば拾う神ありでした。一昨年の11月、智恵子の故郷・福島二本松で開催され、当方が講師を務めさせていただいた「智恵子講座2020」をお聴きくださった方の中に、建築のお仕事をなさっている方がいらっしゃいました。そこで、「かくかくしかじかの事情で困っている」とお話ししたところ、後日、日本建築学会さんの会員の方をご紹介下さり、紹介状を書いていただくことができたのです。

しかし、またコロナ感染拡大で同館も休館になったり、再開後も第6波で都内へ出るのも自粛したりしているうちに、月日が経ってしまっていました。

さて、昨日。過日ご紹介した上野の森美術館さんでの「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」拝見も兼ねて(そちらは明日、レポートします)上京。まず、日本建築学会図書館さんに伺った次第です。

009目指す『建築之日本』。合本の状態で、開架の棚に収められていました。よく行く国会図書館さんやら各地の文学館さんやらだと、資料は書庫から出してもらうのが常ですので、意外といえば意外でした。

光太郎の文章が載っているのは、大正5年(1916)10月の第1巻第5号。実は、他の号と併せて4冊セットになって、とある古書店さんが売りに出しているのですが、その価格、52,800円。100年以上前の、国会図書館さんにも所蔵のない珍しい雑誌なので、むべなるかな、ですが、手が出ませんでした。当該号のみで1万いくらなら、購入していたかも知れませんが……。そんなことを思いつつ、頁を繰りまして、見つけました。題して「書斎の構造」。3ページにわたって掲載されていました。他の文章ではあまり見かけないのですが、執筆者名の上に「彫刻家」とわざわざ記してあります。
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「◎広さ」、「◎床」、「◎光線」、「◎調度」の4項目で構成され、書斎とはこうあるべき、という論が展開されています。書斎に限らず建築全般にも筆が及び、茶の湯の精神とあるべき建築との関連を「無駄を省く」という観点から関連づけていたりし、いかにも光太郎らしいと感じました。

さらに興味深かったのは、アトリエに関しての記述。戦災で焼失した駒込林町のアトリエについて、「三間に四間半」と記されていました。これは既に知られていた光太郎自筆の図面と完全に一致しました。このアトリエ兼住居、光太郎自身の設計です。
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グリッドが記されていて、「一コマ三尺四方」ということですので、2コマで一間となります。で、アトリエ部分は縦6コマ、横9コマ、まさに「三間に四間半」ですね。畳数で言うと27畳ということになります。

ちなみに書斎もこの位の広さが好ましい的な記述があるのですが、実際の書斎は図にあるように6畳でした(どうでもいいのですが、当方の書斎は4畳半です(笑))。さすがに27畳の空間を二つ、というわけにはいかなかったのでしょう。全体は3階建てでしたが、アトリエ部分は1、2階吹き抜けでしたし、3階部分は切妻屋根の関係で狭くなっています。
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前後の号に光太郎の寄稿がないかも確認しましたが、ありませんでした。

「書斎の構造」全文は、先の話になりますが、来年4月刊行予定の『高村光太郎研究』第44号にてご紹介します。この珍しい雑誌を保存してくださっていた日本建築学会図書館さん、さらに閲覧のための紹介状の件でお骨折り下さった方々に、改めて御礼申し上げます。

ちなみに『高村光太郎研究』。今年4月発行予定の第43号には、建築にご造詣の深い安藤仁隆氏による駒込林町アトリエ、それから智恵子が昭和9年(1934)に療養していた九十九里浜の田村別荘について、建築の観点から論じた論考が載る予定です。原稿を拝見しまして、まさしく瞠目しました。またその件についてはのちほどご紹介します。

それにしても、光太郎の書き残したもの、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、そのかなりの部分を見つけられ、『高村光太郎全集』に収めてくださいましたが、この手のマニアックな雑誌への寄稿が少なくなく、未だにその全貌が掴めていません。『建築之日本』同様、本当に限られた業界関係者向けの雑誌への寄稿として『薬店経営』という雑誌に載った散文?「清くして苦きもの」(昭和16年=1941頃)、静岡で発行されていた少部数の同人誌『太陽花』に載ったホイットマン訳詩「栗色の顔をした野の若者よ」(昭和2年=1927)など……。

今後もその発掘に力を注ぎますが、ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。

「ご協力お願いいたします」ついでに早速ですが、昨日発見した「書斎の構造」の中に「かのフロレンスクビツチのやうに、只必要な石を組み立てたのみで、それに窓が明いてゐるばかりの建築」という一節があり、「フロレンスクビツチ」の意味が解りません。旧仮名遣いやらの関連、あるいは誤植でもあるのかで、現代では別の表記がされるのが一般的な単語なのかと思われますが、光太郎と違って、建築にそれほど詳しくない当方にはお手上げです。おわかりの方、御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

藤島宇内氏来訪、東京中野の中西利雄氏アトリエが借りられる由、尚青森県との協定書二通に捺印、藤島氏は今夜青森にゆき、県庁の捺印を受け、一通小生の保監の由、

昭和27年(1952)7月3日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の関係です。結局、光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエを借りられることになったことが語られています。この建築は、現存しています。








少し前はネタ不足で困っていたのですが、このところ、逆に紹介すべき事項が多く、それはそれで困っています。嬉しい悲鳴ですが。新刊書籍等も取り上げるべきなのですが、そちらは後回しにし、今日は岩手発の情報を、3件まとめてお届けします。

まず、光太郎第二の故郷ともいうべき、花巻から。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで、毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。今月分の画像等を、メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから送っていただきました。
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そば粉のパンは以前にも入っていましたが、今回はチーズ入りだそうで、チーズ大好きの当方としては涎が出ます(笑)。先月先々月も使われて好評だったという塩麹入り卵焼きが、引き続き入れられました。イチゴの赤が彩りを添えていますね。

先月分に関してですが、NHKさんのローカルラジオ番組で取り上げられました。仙台放送局さんから岩手、宮城、福島の三県に向けて、平日の夕方5時05分から6時まで放送されていた情報番組で、「ゴジだっちゃ!」(3月11日(金)で最終回だったようですが)。
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「だっちゃ通信」というコーナーがあって、各地の情報提供者から耳寄りな情報を届けてもらうというコンセプトのようでした。3月2日(水)の同コーナーは、花巻のローカルFM「えふえむ花巻」のパーソナリティーを務められている味園史湖さんのリポート。

聞き手はメインパーソナリティーの杉尾宗紀アナウンサーと、水曜日担当パーソナリティーの名雪祥代さん。名雪さんは本職のアナウンサーではなく、サックスプレイヤーだそうです。

味園 今日はユニークなお弁当の話をしたいと思います。花巻市にゆかりのある、有名な彫刻家・詩人の名前がついたお弁当なんですが。
杉尾 花巻といえば、宮沢賢治じゃないんですか?
味園 うん、思いますよね。ところがですね、お弁当の名前は「光太郎ランチ」っていうんですね。
杉尾 「光太郎ランチ」?
味園 フフフ、はい、あの、実は詩人で彫刻家の高村光太郎の日記を元に、光太郎が食べたものを再現して詰め合わせたというお弁当なんですね。
名雪 へー。
杉尾 高村光太郎って、花巻の、ゆかりがあるんですか?
味園 あるんです、はい。実はその宮沢賢治とのご縁で、あのー、花巻に疎開していた時期があるんですよ、七年ほど。
名雪 へー。
杉尾 ほー、七年間も。
味園 そうなんですよ。はい、で、ま、その光太郎ゆかりの、あの、ランチ、毎月15日にですね、限定10食だけ販売しております。
杉尾 何と。いや、高村光太郎っていえば、安達太良山で、福島のつながりがあるっていう、そう思い浮かぶんですが。
味園 そうですよね、はい、花巻にも。
杉尾 岩手にもね、つながりがあるんだね。
味園 そうなんです、そうなんです。
名雪 へー。
味園 で、先月、2月15日、私、張り切って何と買いに行ってきたんです。
杉尾 限定10食を。
味園 はーい、そうなんです。たぶん一番乗りだとおもうんですけど。
名雪 さすが、気合い入れて、すごい。
味園 その日のメニューが、ちらし寿司、スルメ入りの焼きパン、これ、シンプルなホットケーキにちょっとスルメが入っているような感じ。
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名雪 へー。
味園 で、あと、鮫の煮つけ、これ、白身魚ですね。煮込みハンバーグの光太郎風、切り干し大根の酢の物に、塩麹入りの卵焼き。めちゃくちゃおいしかったです。
杉尾 ほあー。
味園 あと、お新香。結構入ってて、税込み800円なんですね。
名雪 あらー。
杉尾 これ、あの、味園さんから、あの、画像をですね、送っていただいたんですけど、手許にあるんですが、これ、ちょっと、800円はいいですねー。
名雪 リーズナブルですねー。
味園 見えないですよね、800円。
杉尾 見えない、見えない。
名雪 うんうん。
杉尾 これ、倍ぐらいの値段で売っても……。
味園 スタッフの人が、今、聴いていたら、嬉しくて泣いてるかも。フフフ。
名雪 これを、高村光太郎の日記を元に作られたっていうことなんですか?
味園 はい。日記に、あの、食べたもの、作ったものをですね、記していまして。そこから掘り起こして、メニューを組み合わせて、毎月ですね。あのー、違ったメニューを出してるんですね。
名雪 おもしろー。
杉尾 高村光太郎が煮込みハンバーグとか、なんか、焼きパンとか、食べてたってことですか?
味園 そうです、そうです。
杉尾 ほあー。
味園 あの、実際、あの、御自分で料理される方だったんで、けっこうハイカラな料理も作られて、そうなんんです。で、今回もですね、このランチだけじゃなくてですね、箸袋に「2月の光太郎ランチ」っていう文字と、黄色い福寿草の絵が印刷されていて……。
杉尾 ほんとだ。すごくきれい、オシャレ。
名雪 かわいい
味園 そうなんです。
杉尾 あと、ネコヤナギの絵が、ちょっとね。
味園 そうなんです、そうなんです。
杉尾 隅に、ちょっとあしらってあって。
味園 それ以外にも、昭和21年の光太郎の日記などからちょっと抜粋して、「今日は終日雪が降っていて人が来なかった」とか、「周りの雪の景色が美しくてまた珍しい」とかですね。そういう、あのー、ランチを食べるだけじゃなくて、当時の光太郎の暮らしの雰囲気とか。
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杉尾 あー。
味園 あの、献立表、こういう丁寧なものを作った人たち、お弁当作った人たちの思いまで、あの、伝えられてくるような、あったかいお弁当なんですよねー
名雪 思いを馳せながら食べることが出来て、幸せですねー。
味園 ちなみにこの毎月15日販売というのが、あの、光太郎が東京上野を出発したのが昭和20年の5月15日だったそうで、この15日をとって、毎月15日に販売しているんですけど。
杉尾 なるほど。
味園 今でもですね、高村山荘という、光太郎が住んでいた場所とか、高村光太郎記念館って、この道の駅のそばにあるんですが。
杉尾 記念館もあるんですね。
味園 そうなんです。この道の駅が「道の駅はなまき西南」、「西」に「南」で「はなまき西南」という場所なんですが、令和2年8月に誕生しまして、ま、あのー、産直とか地元の焼肉店とか、コンビニエンスストアとか、コミュニティースペースもあるんですが、実はあの、地域の高齢者の方々への食事の配達という役割もね。
杉尾 あー、大事ですね。
味園 で、お弁当を作って、宅配するだけじゃなくって、この道の駅でも買える、そのお弁当の一つが「光太郎ランチ」ということなんですね。
名雪 へー、なんかいっぱいアイディア詰まってるんですね、みなさんのね。
杉尾 ねー。
味園 ほんとにあの、光太郎と地域の交流が色んな形で残ってまして、地元の中学校で歌われている歌の中に、光太郎の言葉、「心はいつでも新しく、毎日何かしら発見する」っていう歌詞が……で、言葉が入っている書も伝わっていたりというふうに地域とのつながりが、今でも色々と感じられる、そういう場所の道の駅なんですけれども。今までたくさんある道の駅の一つじゃなくて、高村光太郎がこの地域に住んで、その息吹が感じられる道の駅、そういう場所で、毎月一回、15日の11時頃から、この光太郎ランチ、限定10食、販売されてるんですけど、毎月売り切れるほど人気なんですが、事前に別途注文出来るそうなので。
名雪 おお。
味園 まあ、あのー、これからお出かけにいい季節ですからね、はい。あのー、この岩手県花巻市の「道の駅はなまき西南」、東北自動車道花巻南インターチェンジから、車で7分。はい、高村光太郎記念館まで車で8分という場所にあります。
杉尾 はい、お問い合わせ電話番号、お願いします。
味園 はーい。「道の駅はなまき西南」、電話は0198-29-5522、0198-29-5522番です。
名雪 はい、お腹のすいちゃうような、いいお話でしたね。フフフ、ありがとうございました。
杉尾 ありがとうございました。
味園 ありがとうございました。

この放送の影響があったらしく、今月分は、何と、販売開始から5分で完売したそうです。

NHKさん、全国的にも広めていただきたいものです。

続いて、ラジオの中でも触れられている高村光太郎記念館さんがらみ。現在開催中の企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の関係で、花巻市さんのサイトから。

令和3年度高村光太郎記念館講座「光雲と東雲の彫刻とその系譜」の収録映像を期間限定で配信します

令和4年3月6日(日曜)に収録した令和3年度高村光太郎記念館講座の映像をYouTubeで期間限定配信いたします。
※新型コロナウイルス感染拡大の影響により、観客を集めての講座は中止としました。
配信期間:令和4年3月31日(木曜)まで
下記リンクからぜひご覧ください。
収録映像をご覧になった方は、アンケートにご協力をお願いいたします。
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どうも自分で自分の動画を見る気になりませんし、「ぜひご覧下さい」とも言いにくいのですが……。本来ならしっかり見て反省し、次に生かさなければならないのでしょうが……。

最後に、一昨日の『岩手日報』さん一面コラム。

風土計 2022.3.15

高村光太郎は新聞記者に敬意を払っていたらしい。「記者殿」と、敬称で呼んだ詩がある。〈…事件にぶつけるからだからは/火花となつて記事が飛ぶ。/どこへでも入りこみ/どんな壁の奥でも見ぬく。〉▼〈対象に上下なく、/冒険は日常茶飯。/紙と鉛筆とカメラとテープと、/あとはアキレス筋の羽ばたく翼。〉(「記者図」)。どんな所にも行って、壁の奥を見抜く記者に憧れを抱いていたのかも知れない▼どこへでも入り込むのが記者の使命とはいえ、同業者として胸をえぐられることが起きた。ウクライナ首都近郊で、米国人ジャーナリストがロシア軍の銃撃で亡くなった。避難民の取材に当たっていたという▼今、この時もウクライナでは多くの記者が活動している。彼らによって、暮らしの場が戦場に変わったむごさが白日の下にさらされる。いつ銃弾降り注ぐか分からぬ中、目の前の理不尽を記録しているに違いない▼〈…「記者殿」は超積極の世界に生きて/時代をつくり、時代をこえ、/刻々無限未来の暗黒を破る。〉。 光太郎の詩は、危険を顧みず伝える記者へのエールに聞こえる▼侵略政権は、声高に「フェイクニュース」だと宣伝する。だが壁の奥を見抜く眼力と、カメラが切り取る真実の前では無力だろう。ペンの強さを示し、「未来の暗黒を破る」戦いでもある。

引用されている詩「記者図」は、光太郎最晩年の昭和29年1月11日に書かれ、14日の『新聞協会報』に掲載されました。

   記者図001

 「記者殿」は今でも「記者殿」。
 時間の密度はますます濃く、
 空間は不平等にちぢみ上り、
 事件にぶつけるからだからは
 火花となつて記事が飛ぶ。
 どこへでも入りこみ
 どんな壁の奥でも見ぬく。
 対象に上下なく、
 冒険は日常茶飯。
 紙と鉛筆とカメラとテープと、
 あとはアキレス筋の羽ばたく翼。
 紅顔、白髪、
 「記者殿」は超積極の世界に生きて
 時代をつくり、時代をこえ、
 刻々無限未来の暗黒を破る。


『新聞協会報』は、おそらく新聞記者向けの業界紙のようなものでしょうから、読者は新聞関係者ということで、多分に「ヨイショ」が入っているように思われます。そうと分かっていても、これを読んだ当時の新聞関係者たち、決して悪い気はしなかったでしょう。「風土計」にあるように「光太郎の詩は、危険を顧みず伝える記者へのエールに聞こえる」というのもうなずけます。

いったいに、光太郎の詩には、様々な分野で活動する人々への、エール的な要素を持つものが少なくありません。

戦後の詩でいえば、医療関係者へのエールということで、コロナ禍の中、再び注目を集めた「非常の時」(昭和20年=1945)、花巻の商工会からの依頼で作った「初夢まりつきうた」(昭和25年=1950)、開拓農家をたたえる「開拓十周年」(昭和30年=1955)、すべての岩手県民に向けた「岩手の人」(昭和23年=1948)など。こうした傾向は、戦前から既にありました。

しかし、そのエールが戦時中にはプロパガンダとして使われ、厖大な光太郎の翼賛詩を読んだ前途有為な多くの若者が死地に赴いたわけで、功罪相半ば、いや、差し引き「罪」の方が大きいでしょう。その点は光太郎自身もいたいほどわかっていて、だからこそ七年間も郊外の寒村で蟄居生活を送ったのだと思います。

それにしても、ジャーナリストが巻き込まれているウクライナ危機……。なぜ、満州国やらベトナムやらアフガンやらの教訓が往かされないのでしょうか……。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉より花巻駅、タキシにて買物、やぶまで、 やぶにて中食、タキシにて山口まで、 小屋まで運転手にルツクを運んでもらふ、 小屋無事、スルガさんに挨拶にゆく、

昭和27年(1952)6月22日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための現地下見から帰りました。小屋を出たのが14日ですから、1週間以上ぶりでした。

福島発の情報を2件ご紹介します。共に『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)がらみで。

まずは、富士急行さんのプレスリリースから。

今だけの“残雪の安達太良山”を堪能「あだたら山ロープウェイ」臨時営業 3/19(土)~4/10(日)の土日祝日実施!スノーシュートレッキングもお得に楽しめる!

 あだたら高原リゾート(福島県二本松市)では、2022年4月16日(土)からのグリーンシーズン営業開始に先立ち、3月19日(土)から4月10日(日)の土日祝日限定で、「あだたら山ロープウェイ」の臨時営業を実施いたします。
 今年の冬は積雪が多かったおかげで、標高1,350mのロープウェイ山頂駅から続く薬師岳付近にはまだ1m近く雪が残っており、澄んだ空気の中、残雪の美しい安達太良山や一面に広がる雪景色を堪能することができます。
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また、臨時営業にあわせて、「安達太良山・オリジナルピンバッチ」を各日先着10名様にプレゼントいたします。このピンバッチは、日本百名山である安達太良山とシャクナゲをモチーフにしており、レストハウス(売店)でしか購入できないオリジナルグッズです。
 さらに、ロープウェイの臨時営業にあわせ、あだたら高原スキー場に併設するスノーシューコースで静寂な森林の雪道を散策し、野うさぎやキツネなどの小動物の足跡を探すスノーシュートレッキングと絶景露天風呂が人気の「あだたら山奥岳の湯」入浴券がセットになったプランを通常より最大で1,150 円もお得にお楽しみいただけます。
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 この春は、あだたら高原リゾートで、この時期にしか見ることができない残雪の美しい安達太良山をぜひお楽しみください。

「あだたら山ロープウェイ」臨時営業概要
■営業日 3 月19 日(土)、20 日(日)、21 日(月祝)、26 日(土)、27 日(日)
      4 月2 日(土)、3 日(日)、9 日(土)、10 日(日)
■営業時間 8:30~16:30(上り最終15:50、下り最終16:20)
税込料金 大人(中学生以上)片道 1,050 円 往復 1,750 円
     小人(4才以上~小学生以下)片道 800 円 往復 1,350 円
■安達太良山のオリジナルピンバッチをプレゼント
臨時営業期間中、各日先着10 名様に安達太良山とシャクナゲがあしらわれたオリジナルピンバッジをプレゼントいたします。
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スノーシュートレッキング概要
■営業日
3 月19 日(土)、20 日(日)、21 日(月・祝)、26 日(土)、27 日(日)
4 月2 日(土)、3 日(日)、9 日(土)、10 日(日)
※あだたら山ロープウェイの臨時営業日と同様です。
※融雪が進み、積雪状況により営業できない場合があります。
■営業時間 10:00~15:00
■コース 全長約1km(ゆっくり歩いて60 分~90 分程度)
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■料金
スノーシュー+ブーツ+ポール+「あだたら山奥岳の湯」入浴券付
大人(中学生以上) 通常価格3,650 円を → 特別価格2,500 円
小人(小学生以下) 通常価格2,950 円を → 特別価格2,000 円
※金額は税込です。
※帽子、手袋、サングラスなどはご自身でご用意ください。
※トレッキングガイド(有料・事前予約制)が必要な場合には、別途ご相談ください。
■お問合せ 富士急安達太良観光株式会社 TEL:0243-24-2141

大好評、絶景の露天風呂「あだたら山奥岳の湯」も営業中!
標高約950mに位置する「あだたら山 奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と詠ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5 の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。
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【施設概要】
所 在 地:福島県二本松市奥岳温泉
営 業 日:年中無休 ※メンテナンス休業あり
営業時間:10時00分~18時00分
施設内容:収容可能人数80人(男女各40人)
内湯(9㎡)、露天風呂(20㎡) ※男女別
利用料金:大人 650円 /小人(4才~小学生)450円
p H 値:2.5(強酸性)
泉 質:単純酸性温泉
適 応 症:神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性
消化器病・冷え性・疲労回復・慢性皮膚病

通常、4月から運行開始の「あだたら山ロープウェイ」が、今年は一足早く臨時運行を始めるそうです。残雪の中での「ほんとの空」、登山口での温泉露天風呂も乙なものでしょう。

もう1件、音楽イベントです。

第15回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会 - 感動の歌声 響け、ほんとうの空に。 -

期 日 : 2022年3月18日(金)~21日(月・祝)
      3月18日(金)中学校部門 3月19日(土)高等学校部門
      3月20日(日)小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月21日(月・祝)各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第15回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。

 なお、今大会は規模を縮小し、感染拡大防止策を講じながら開催する予定ですが、今後の新型コロナウイルス感染症の感染状況によっては、大会の中止又は内容を変更する場合があります。
※外国人審査員の招聘、海外団体の募集、特別企画(スペシャルコンサート)、プレコンサート、交流会等は実施しません。

 新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、次のとおり開催することとしますのでお知らせします。
・一般入場券は販売しません。客席へ入場できるのは、当日出演する団体で出演者入場券をお持ちの方のみとします。
・大会の様子を御覧になれるライブ配信チケットを販売中です。視聴手続きは、「チケット販売」を御覧ください。
・3月21日の本選のみ表彰式を開催します。また、表彰式の模様はYouTubeで無料配信します。詳細は「チケット販売」を御覧ください。
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「合唱王国」との称され、各種コンクールで上位入賞を果たす団体が実に多い福島県で、毎年開催されている声楽アンサンブルコンテスト全国大会。やはり「あどけない話」からのインスパイアで、「ほんとうの空」の語を冠して下さっています。

一昨年はコロナ禍のため完全に中止昨年は復活しましたが、一般客の会場入場は無く、オンライン配信での公開でした。今年も同様の方式となるようです。

コロナ第6波も徐々にピークアウトしつつあり、各種イベントもかなり再開の傾向ですが、まだまだ予断を許しません。少しでも早く、旧に復することを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

21日浅虫より汽車、花巻着、花巻温泉に一泊、


昭和27年(1952)6月21日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見から帰りました。ただ、すぐには蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋には戻らず、花巻温泉で旅の疲れを癒やしています。どれだけ温泉好きなんだ? という感じですが(笑)。

掲載日順に、まず『毎日新聞』さん長野版。先日も触れた光太郎の親友・碌山荻原守衛とその支援者・相馬黒光について。光太郎にも触れてくださいました。

山は博物館 黒光が越えた保福寺峠 碌山との愛と苦悩の始まり

 パンや菓子の製造販売で知られる中村屋(東京都新宿区)を起こした女性、相馬黒光(こっこう)(本名・りょう、1876~1955年)は1897年3月、長野県東穂高村(現安曇野市)に嫁ぐため、東京方面から保福寺峠(1345メートル)を越えた。行く手に見えたのは壁のような北アルプス。後の苦難を暗示した。悩める黒光と言われる彫刻「女」(国指定重要文化財)を生んだ荻原碌山(ろくざん)(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)との出会いの入り口でもあった。
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 仙台生まれの黒光は、先進的な教育に取り組んでいた東京の明治女学校を卒業すると、縁談があった養蚕家・愛蔵と結婚。その村に碌山がいた。黒光が持ってきた長尾杢太郎の「亀戸風景」で油絵に目覚めた。木が立ち並ぶ川べりに牛1頭が立つ美しい絵だ。
 黒光の随筆などによると、「相馬家には湧き水があって、私が野菜洗いや洗濯に出てゆくので、碌山は心惹(ひ)かれたのか、よくきてスケッチをしていた」と振り返った。碌山は1899年5月の日記に「良子の君と対談数刻(アア、才智ある婦女子の会話は実に嬉(うれ)しき)」と親近感を表している。画家修業のため99年10月東京へ。1901年3月に渡米した。
 一方、利発な黒光は田舎暮らしを「長話にふける村の人にお茶を出したり、この沈滞、人間の自滅に至るみち」と思った。「田園生活の実世相は私を幻滅に導きました。農民が素朴と見えるのは外形にのみ眼(め)を止めるからで、生活が質素というよりみじめで、野生の姿。不倫も、草の伸びる如(ごと)く野獣の生ける如く存在し、心を暗くしました」。やがて体を壊し、夫婦で01年9月、東京に移り住んだ。本郷のパン屋「中村屋」を買い上げ、そのままの名前で開業した。
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 碌山の大きな転機は04年5月に訪れた。パリでオーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」を見て、モデルをかたどるだけではない精神性に圧倒された。彫刻に転じ、07年にロダンの教えも受けた。安曇野市にある碌山美術館の学芸員、武井敏さん(48)は「碌山の作品は07年後半から劇的に変わる。モチーフの内面からにじみ出るものを感じられるようになった」と話す。
  碌山は08年3月、7年ぶりに帰国。中村屋の新宿支店近くにアトリエを構え、制作に励んだ。芸術仲間の高村光太郎は、伝習に縛られた日本の彫刻界で「(西洋の)彫刻界の大勢やロダンの意義を説き、愚蒙(ぐもう)状態に光明を放射した。現代日本の彫刻は荻原守衛からはじまった」と評価した。
 このころ黒光は「自分の悩みをじっと押さえ、悶々(もんもん)の裡(うち)にありました」。武井さんによると、夫の不倫が原因が原因で、黒光は「碌山は私に同情するようになり、性が違う者同士ですから生じた愛情に互いに苦しむようになりました。手をたずさえて走ることは訳はない。しかし家庭は事情があり、どうやらこうやら壊さないで、主人をも許してきた」と明かしている。
 武井さんは「黒光はその間、愛蔵の子供(四男と三女)を宿した。碌山は戸惑い、嫉妬したのではないか」と話す。碌山は光太郎ら友人への手紙で「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「見(み)っともない敗(まけ)をとっている。無為の人間となるかも知れぬ」「僕は惨めだ。僕は失ってしまった。―いやまだ失っていないが―」と書き送った。
 苦しみの中、09年に女性の絶望を表した「デスペア」を制作。10年3月には絶作となる「女」が完成した。黒光の子供は顔を見て「かあさんだ」と叫んだ。別のモデルがいるが、誰もが紛れもなく黒光と感じた。
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 翌月、30歳の碌山は中村屋で雑談中に血をはいた。黒光は「やがて大喀血(かっけつ)した(2日後の)同時刻が来ると、碌山は軽く噎(む)せた。また、大量の喀血があった。数分の後には呼吸が止まった」と記す。1カ月近く前、次男を亡くしたばかりで「再度の打撃は私を狂死させるばかり。信州へ行く碌山の柩(ひつぎ)にすがって狂態を演じ、(自室で)泣きつづけました」。
 アトリエには「女」が残った。「生々しい土のまま、女性の悩みを象徴しておりました。高い所に面を向けて繋縛(けいばく)から脱しようともがくような表情。肢体は地上より離れ得ず、両の手を後方にまわしたなやましげな姿体は、私自身だと直覚されるものがありました」

 「重畳として連なる山」
 1902年に東京から鉄道がつながるまで、安曇野やその南の松本に入るには、長野県の上田駅で降り、西側に連なる標高1500メートル前後の山のどこかの峠を、徒歩や馬で越えた。その一つが保福寺峠。さらに西の北アルプスの眺望が良く、社会活動家の木下尚江は1886年に松本から初めて東京に出た時を「保福寺峠に立ちて故(ふる)さとの山の偉大をはじめて見たり」と振り返った。
 近代登山初期の日本に足跡を残したイギリス人、ウォルター・ウェストンも91年に通り、「雪しまの山稜(さんりょう)や崇高な峰々が、落日に映えた空を背景に、輪郭も鮮やかにそびえている。日本のマッターホルン槍ケ岳や優美な常念岳、どっしりした乗鞍岳が特徴ある横顔を示している」と描写した。峠にはウェストンの「日本アルプス絶賛の地」の石碑がある。
 97年に越えた相馬黒光の感慨は逆で「人生行路難を暗示する如く、重畳として連なる高山大嶽(たいがく)ばかり。行く手を遮るように身構え、身がすくむようでした」と回顧した。山で隔絶された安曇野の暮らしは「ただ平穏無事、とり巻くのは退屈。太陽が昇る。保福寺峠が東にある。峠を越えて出ることはないのか、毎朝思う」と嘆いた。
 1964年に周辺4町村による林道が完成。67年に県道になり、現在は舗装した車道が走っている。
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いつも思うのですが、守衛と黒光、我らが光太郎智恵子とはまた違った、しかしある部分では共通する哀しい愛の物語を紡いだんだな、と感じます。

明日以降も紹介すべき事項が溜まっていますので、もう1件。一昨日の『世界日報』さんの一面コラム。一昨日が誕生日だった光太郎に触れてくださいました。

【上昇気流】小中学校の国語の教科書で文学作品の魅力に開眼した

 小中学校の国語の教科書で文学作品の魅力に開眼した。と書くと気恥ずかしいが、気流子が読書をするきっかけは、そうだった。学校の授業は、その意味で多くの作家と作品を教えてくれた▼夏目漱石や芥川龍之介などだが、逆に森鴎外などはその文章になじめずに長い間読むのを敬遠していた。文章の魅力を理解するには、時間が必要だったのだろうと今では思う▼俳句や短歌、詩の世界を開いてくれたのも、教科書だった。特に、春を詠んだ三好達治の「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ」と始まる「甃(いし)のうへ」は典雅な古文調の言葉がリズミカルな響きで心に染みた。桜の開花時期には、この詩が絵画のように浮かんでくる教科書の詩には、教訓的と感じたものもある。例えば、高村光太郎の「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という言葉に始まる短い詩「道程」▼教訓的に感じたのは、その一節がよく教室の壁に額装されて掛けられていたためである。青年の野心に満ちた宣言のような詩は、青少年には共感しやすい。「道程」の原詩は100行を超えるものだったが、それを縮めたのが現在の詩。元の詩を読むと、自然という宇宙の理(ことわり)と超えなければならない彫刻の大家だった父との葛藤がつづられているのが分かる▼最近、ウクライナの「人道回廊」という言葉に触れて「道程」が思い浮かんだ。光太郎は、1883(明治16)年のきょうが誕生日である。

「人道回廊」と「道程」を結びつけるあたり、なるほど、という感じです。

触れられている「「道程」の原詩」はこちら。大正3年(1914)3月の雑誌『美の廃墟』に発表された初出形です。同じ年の10月、詩集『道程』に収めるにあたってばっさりと削り、現在流布している9行の形に改変されました。何度も書きましたが、ネット上などで初出形を「ほとんど知られていない「道程」の全文」などと紹介する記事が多く、辟易しています。「全文」ではなく「初出形」もしくは「原型」、あるいは『世界日報』さんにあるように「原詩」です。しかも「全文」と誤って書く輩に限って、「お前ら、知らなかったろ? 教えてやるわ」的なドヤ顔が浮かぶ書き方です(笑)。そのわりに引用部分が誤字脱字だらけだったり、勝手なところで連を分けたり。こういうのを「有害情報」と云います。

「有害情報」と言えば、各種SNS上で、一昨日、「今日は高村光太郎の誕生日」的な書き込みが多数。特に誤りもなくそう書いていただくのは有り難いのですが、中には光太郎と父・光雲を混同し、光雲の代表作「老猿」の画像を添えているものなども(これは一昨日に限らず、ですが)。一般の方々の認知度はそういうものなのでしょうか……。

ところで今年の誕生日で、光太郎は生誕139年となりました。で、これも以前に書きましたが、来年は生誕140年。ちょっと半端ですが、一応区切りのいい周年です。関係の方々、生誕140周年記念のなにがしか、できれば美術館さん・文学館さん等での大規模な企画展等を計画していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

酸か湯より車にて青森県庁ににて知事にあふ、 中食、 後浅虫温泉行、東奥館、 夕方又青森、坂井家にて晩餐招待、あいさつす。民謡をきく、 後浅虫まで、

昭和27年(1952)6月20日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見を終え、青森市へ。仕掛け人の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)と面会しました。

「浅虫温泉」については、こちら

下記は光太郎が泊まった「東奥館」の、当方手持ち古絵葉書。残念ながら建物は現存しません。
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現代アートの展覧会を2件。

まず、上野から。既に先週から始まっています。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─

期 日 : 2022年3月11日(金)~3月30日(水)
会 場 : 上野の森美術館 東京都台東区上野公園1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般800円/大学生500円/高校生以下無料

VOCA展では全国の美術館学芸員、研究者などに40才以下の若手作家の推薦を依頼し、その作家が平面作品の新作を出品するという方式により、全国各地から未知の優れた才能を紹介していきます。

2021.12.20 VOCA展2022選考会が行われ、出品作家33人(組)による作品の中から各受賞者が決定しました。

VOCA賞 川内理香子さん  VOCA奨励賞 鎌田友介さん 近藤亜樹さん
VOCA佳作賞 谷澤紗和子さん、堀江栞さん  大原美術館賞 小森紀綱さん
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受賞作のうち、谷澤紗和子さんという方の作品が、智恵子紙作品(紙絵、雑誌『青鞜』表紙絵)からのインスパイアとなっています。題して「はいけい ちえこ さま」。

谷澤さんのツイートから。

VOCA展2022にて、VOCA佳作賞をいただきました。
出品作の「はいけい ちえこ さま」は、高村智恵子さんへのオマージュ作品として制作しました。
この数年の、私の推し活の成果を作品に込めました。作品プランを実現することが出来て、感無量です。ぜひたくさんの方に観て頂きたいです。
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谷澤さんの作品と、元ネタとなった智恵子作品を並べると、こんな感じですね。

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最後の蟹が「NO」の文字になっているあたり、一筋縄のオマージュではないな、という感じます。

ちなみに昨年の「VOCA展」では、光太郎の父・光雲の木彫「老猿」もモチーフにした作品が出ていました。光雲、光太郎、智恵子、意外と現代作家の皆さんの創作意欲も刺激しているようで。

谷澤さん、同じく智恵子作品オマージュを含む個展も開催されます。

Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -

期 日 : 2022年3月19日(土)~4月9日(土)
会 場 : studio J 大阪市西区北堀江3-12-3
時 間 : 12:00~18:00
休 館 : 月曜、火曜、日曜、祝日休館
料 金 : 無料

studio Jに於ける3月からの展覧会としまして、谷澤紗和子個展「Emotionally Sweet Mood-情緒本位な甘い気分-」を開催致します。タイトルは、詩人の高村光太郎によるエッセイ「智恵子の半生」の中で、高村智恵子の油彩画について語った部分からの抜粋です。
 
谷澤は「妄想力の拡張」をテーマに、生と死、愛、痛み、などの広大な妄想/想像力が解放されることを目指し、そのための装置として作品を創っており、VOCA展2022では佳作賞に選出されました。

今回の個展では、画家/紙絵作家の高村智恵子へのオマージュに加え、女性像をテーマにした新作の切り紙作品を発表します。時節柄、何かと不安定ではありますが皆様のお越しをお待ちしております。
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360429フライヤーに使われている作品は、現存が確認出来ている智恵子油絵3点のうちの一つ、二本松市智恵子記念館さん蔵の「ヒヤシンス」をモチーフにしたものですね。

当方、上野の「VOCA展」の方は、今週、拝見に伺おうと思っています。まだまだ新規感染者数は激減とまでは行きませんが、コロナ禍もピークは過ぎたようで、そろそろ感染の総本山たる都内にも出ても大丈夫かな、と思っております(昨秋以来、都内はほぼ通過するだけにしておりました)。その他、国会図書館さんなどにも行く用事がありますので。

感染対策には十分お気をつけつつ、皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

休屋より車にて青森道を走り、酸か湯につく、 入浴、植物園見物、 菊池氏東京にかへる、松下氏もかへる、酸か湯の大湯めづらし。


昭和27年(1952)6月19日の日記より 光太郎70歳

智恵子の顔を持つ、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見中です。十和田湖をあとに、青森市へ向かう途中、酸ヶ湯温泉に一泊しました。

「菊池氏」は彫刻家の菊池一雄。健康に不安を抱えていた光太郎が、像の制作不能となった場合のピンチヒッターとして指名していました。「松下氏」は中央公論社の編集者・松下英麿です。

昨日は京阪に行っておりました。レポートいたします。

「京阪」と言いつつ、「阪」→「京」の順で、まずは新たにオープンした、大阪中之島美術館さん。こちらでは、オープニング記念の「Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―」展が開催中。光太郎の父・光雲の木彫「砥草刈」(大正3年=1914)が出ていると云うことで、拝見に伺った次第でした。
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右上は堂島川から見た同館。ビルの谷間の黒い箱状の建物です。
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エントランス前に据えられた、現代アート作家・ヤノベケンジさんの《SHIP'S CAT(Muse)》の前に、テレビ局クルーと思われる皆さん。

ヤノベさんと言えば、智恵子の故郷・福島二本松名物「二本松の菊人形2017」にも猫のオブジェを出品されていました。蛇足ながら、テレビと言えば、先日、とある番組で中之島美術館さんを取り上げた際、アナウンサー氏がヤノベさんを「ヤベノさん」と云っており、呆れました(笑)。

さて、館内に入り、案内の方の指示に従って、当日券の券売機に。12時前に着いたのですが、案内の方は「午後1時からの入場となります」。「まぁ、券だけ買っておいて、昼めし喰って時間をつぶすか」と思いました。ところが、券売機のパネルをタッチすると、午後1時から、そして午後2時からの分も既に完売。1番早くて午後3時からでした。事前にネットでの予約も可能でしたが、「当日券も販売しています」というので、当日券でいいだろ、と思ったのが甘かったのですね。同館、鳴り物入りの開館でしたし、メディアにも随分取り上げられましたから。

遺憾ながら、結局断念し、それでもショップで図録を購入しました。下記が光雲の木彫「砥草刈」。いずれ見られる機会があるでしょう。
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その後、京阪電車の淀屋橋駅から一路、京都へ。

祇園四条駅で下車、八坂神社さんに参拝し、清水方面へ歩きました。

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昨年、「明治の洋館で楽しむドリンクフェア「文学浪漫巡り」~浪漫を味わうひとり時間 レトロなドリンクフェア~」を開催し、『智恵子抄』をイメージして作られた「シトラスジュレのゆずジュース」をメニューに入れてくださった、長楽館さん。
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同フェア、終わっていましたし、日帰りの先を急ぐ旅ですので、外観を撮影したのみでした。
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途中、いかにも京の都、という風情を堪能しつつ、最終目的地、清水三年坂美術館さんへ。
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同館では、3月5日(土)から企画展示「明治・大正時代の木彫」が開催されており、やはり光雲の木彫が十数点出ているということでしたので、こちらがメインの目的でした。
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フライヤーの表に大きく画像が出ているのは、光雲ではなく、光雲と東京美術学校で同僚だった石川光明の作品です。裏面には光雲の「月宮殿」(大正7年=1918)。

出品目録。
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今回、図録は発行されませんでしたが、平成23年(2011)に同館で行われた企画展「高村光雲と石川光明」と、出品作品がかなり重複していて、ショップではその際の図録の残りが勧められていました。オンラインでも入手可です。

光雲作品は14点。「高村光雲と石川光明」の際には伺えませんでして、大半は初見の作品、さらに画像でも見たことのない作品もあったため、文字通り息を呑んで拝見しました。通常の丸彫りだけでなく、レリーフ、香合や菓子鉢などの器もあり、その意味ではバリエーションに富んでいましたし。しかも、それぞれ作の出来や保存状態もいいものばかりでした。

同展、5月29日(日)までと長めの設定です。コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

また、同じく光雲の木彫ということで、花巻高村光太郎記念館さんでの「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」もよろしく。

【折々のことば・光太郎】33990

湖を渡りて休屋にゆく、観光ホテルに一泊、 和井内にゆき、ヒメマスのふか場見物、発荷峠、 夕方、 此日アトリエは東京に求むる事を相談の結果きめる、


昭和27年(1952)6月18日の日記より
 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見中です。七年の蟄居生活を経て、ついに帰京を決断しました。ただしこの時点では、像の完成後にはまた花巻郊外旧太田村の山小屋に帰るつもりでいました。

画像はこの日、同行した詩人の藤島宇内が撮った湖上でのショット。翌年、角川書店刊行の『昭和文学全集22 高村光太郎 萩原朔太郎』の月報に載ったものです。














東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連、昨日でいったん終わるつもりでしたが、3.11当日の昨日も関連報道がありまして、予定を変更してそちらをご紹介します。

まず、『新潟日報』さん。

[座標軸]いのちの石碑 千年後のために伝えたい

 波は、こんなに高い場所にまで届くものなのか。
 11年前の東日本大震災で15メートルもの大津波にのまれた宮城県女川町を昨年3月、歩いた。
 震災直後に中学生になった女川町の子どもたちが「千年先の人々の命を守りたい」と発案して募金を集め建立した「女川いのちの石碑」を巡るためだ。
 碑は町内に21ある浜で津波到達地点より上に建てる計画で、訪れた時には20基が設置されていた。
 高台にある碑にはそれぞれ、異なる句が刻んであった。
 〈ただいまと/聞きたい声が/聞こえない〉〈逢いたくて/でも会えなくて/逢いたくて〉
 奪われた命への悲しさ、悔しさを胸に詠んだものなのだろう。
 碑の前で震災の日を頭に描こうとしたが、石碑から臨む海はどこも思っていた以上に遠く、静かで、なかなか像を結ばなかった。
 緊迫したあの日を想起させたのは、全ての碑に共通して刻まれていた避難を迫る一文だ。
 「大きな地震が起きたら、この石碑より上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」
 計画の最後となる21基目の碑は昨年11月に完成した。そこには、〈夢だけは/壊せなかった/大震災〉と、8年前に設置された1基目の碑と同じ句が刻まれた。
 千年先の命を守る。その夢は、あの日の教訓を永遠に伝え継ぐことで実現させたい。

続いて、兵庫県を放送対象地域とするラジオ関西さん。

《東日本大震災11年》「月のスマイル~夢だけは 壊せなかった 大震災」 手作り絵はがきに込めたぬくもりと愛の書

 東日本大震災から11年。1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災を経験した元教師が、自ら描いた「月のスマイル」の挿絵に書とコラボレーションした絵はがきを作成、その売り上げを被災地の復興支援活動に寄付する。
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 大阪教育大学附属特別支援学校(旧・大阪教育大学附属養護学校)の教諭として31年間勤務した大島昇さん(71・大阪市大正区)は、20年ほど前に書家・川合翠石さん(49・大阪市阿倍野区)と出会う。
 川合さんは書家・榊莫山さんの晩年の弟子。近畿大学文芸学部芸術学科を卒業し、奈良教育大学大学院修士課程を修了。
 川合さんの一筆一筆の癒しの書は、素朴な画にフレーズを添える独自の書の世界を開き、親しみやすさと柔らかい語り口で多くのメディアに登場、「バクザン先生」と親しまれた榊莫山さんを思わせる。
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 「大島さんの月のスマイルには、優しさが一枚一枚にこもっている」と話す川合さんは、その絵に合う素朴な言葉を書で表現している。
 温かみのある絵に文字が加わることで、大きなメッセージになる。時に勇気づけ、時に和ませる。東日本大震災への思いを忘れないためにも、20年近くの親交のある、川合さんに書と絵画のコラボ絵はがきを作ることを提案、快諾を得て作成した。
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 書の世界は、従来の古典的なものから素朴なものまで幅広く、このようなスタイルは公募展ならば規定外、型破りとされるが、川合さんは墨の濃淡も考えながら、一枚一枚に優しさを込めた書を添えた。こうした取り組みは「大島さんとでなければ、出来なかった企画だった」と話す。
 やり直しが効かない直筆でのコラボレーション。楽しみながらコラボは続く。
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 大島さんは阪神・淡路大震災の被災地、兵庫県西宮市内の重度障がい者福祉施設の避難所へ、毎週末にカートやリュックに水や菓子などを詰め込んで届けた。その施設では、大島さんの恩師の小児科ドクターが泊まり込んでいた。そこで「この震災の記憶を決して忘れないようにしないとね」と話していたことが忘れられないという。
 その言葉を胸に、自分自身で何かできることはないかと思いついたのが、「月のスマイル」を描くことだった。鎮魂の祈りを込めて、1日1枚のペースで阪神・淡路大震災の犠牲者の数と同じ6434枚を、10センチ四方の和紙に約10年で描きあげた。
 大島さんが定年退職を控えた2011年3月11日に東日本大震災が起きた。退職後にボランティアの誘いを受けた宮城県石巻市の学校での炊き出しに出向いた。避難所となった施設での炊き出しを通して、被災地で懸命に生きる人々の姿を見て逆にエネルギーをもらったと振り返る。
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 そして阪神・淡路大震災と同様に、東日本大震災も忘れまいと自分の心に留め、「月のスマイル」の絵はがきを描いた。犠牲者、行方不明者(※)を上回る計1万9000人分を描き上げたのが2019年の夏だった。
 しかし、新型コロナウイルスの猛威は被災地と大島さんとの距離を遠ざけた。震災から9年経った2020年以降は、訪れることができなくなり、震災10年を迎えた昨年、宮城県女川町の支援学校や小、中学校、福祉事業所、「つながる図書館」などに、「月のスマイル」の絵はがきすべてを寄贈した。
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 大島さんは「関西から『忘れないよ!』というメッセージを送りたい、この絵と書を見てほっこりしてもらえたら」その一心だった。
 作成にあたり、印刷以外は専門業者を介さず、一からの手作り。絵はがき用に書きあげた百数十枚の作品の中から、川合さんと選んだ。そして昨年秋に1万5000枚(15枚組×1000セット)が完成した。
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 大島さんが震災直後に訪れた宮城県女川町では2013年11月に「女川いのちの石碑プロジェクト」がスタート。その最後となる21基目の石碑除幕式(2021年11月)に合わせて、コラボ絵はがきを届けることができた。
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 絵はがきは大島さん・川合さんらの友人や知人の購入協力で多くのカンパとなり、増刷もできた。ささやかな取り組みが実を結んでゆく。大島さんは「心温かい方々との良き出逢いと協力に、心から感謝するとともに、これからも活動を継続していきたい」と話す。
 震災から11年を迎え、大島さんらは多くの人に「月のスマイル」の絵はがきを手に取ってもらえるようになってもらいたいとの思いから、その売り上げを「頒布協力金」の収益として、「女川いのちの石碑プロジェクト」をはじめ支援学校や福祉事業所などに贈るという。

 ※2021年3月11日の震災10年を前に公表した警察庁の統計では死者1万5899人、行方不明者2526人 計1万8425人
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  【東日本大震災・チャリティー絵はがき「月のスマイル」】

〇金額 1セット15枚組・1500円で頒布(税込み金額 ※送料は別途必要) 
〇申し込み方法 希望セット数と送付先を nobo224@amigo.zaq.jp(大島昇さん)まで。折り返し、ゆうちょ銀行の払込用紙「いのちの石碑プロジェクト応援し隊」振込用紙を送付する。
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中越地震が起こった新潟、阪神・淡路大震災に見舞われた兵庫、やはりそれぞれ大地震の被災地ということで、東日本大震災で大きな被害を受けた地域へのシンパシーが深いのでしょう。他の地域の方々が冷たい、というわけではないのですが。

昨日もご紹介しました通り、今上陛下も高いご関心を寄せられている活動ですが、まだまだ全国的な認知度はそう高くないと思われます。また何か動きがありましたら、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

快晴、 朝薬師堂に参詣、小杉未醒作の薬師を見る、 蔦沼にゆく。 九時過車にて一同オイラセをさかのほり、子の口に至る、モニユマン建設地点を見る、 宇樽部に来り、東湖館入、 後小憩後舟にて十和田湖を一周、東湖館に帰着、夜談話、 (宇樽部泊)

昭和27年6月17日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。

子の口」は、十和田湖から奥入瀬川が流れ出す地点。元々、像はここに建設予定でした。その後、横槍が入り、現在の休屋地区に変更になっています。「宇樽部」は、子の口と休屋の中間の集落。「東湖館」についてはこちら。この夜、関係者一同の前で、モニュメント制作を引き受けることを公言、さらにプライベートで「智恵子を作ろう」と呟いたと云います。

3.11当日となりました。11年前と同じような、穏やかな朝です。あの日の朝も、また穏やかな一日が過ぎていくものだと信じて疑わなかったのですが……。

東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、とりあえず最後です。

昨日までと少し違った切り口で、3月6日(日)の『朝日新聞』さん。

(わたしと震災のあいだに 東日本大震災11年:1)いつか、語れるのかな 家族も家も無事 だから苦しくて それでも

 紺色の制服を着ているのは、私とあと数人しかいなかった。
 2011年4月。宮城県女川(おながわ)町にある女川第一中学(現女川中)の入学式。1カ月前の地震で体育館は壊れ、紅白の幕を張った図書室に約60人の新入生が集っていた。
 ほとんどはパーカやセーターなどの私服姿だ。着るはずだった制服は、家ごと津波で流された。部屋からあふれた上級生は、廊下で校歌を歌った。
 新入生だった阿部由季さん(23)は、自分が制服を着てきたことを悔やんだ。「なんで気づけなかったんだ。私だけ家があることを自慢してるみたい」
 東日本大震災で女川町は9割の住宅が全壊などの被害に遭い、800人以上が犠牲になった。
 5月の大型連休明け。窓を閉めても腐った魚のようながれきの臭いが漂う。放課後、学年主任の教諭に尋ねられた。「震災の前後で家族の人数に変化はありますか」。町役場は流され、住民に関する書類も失われた。学校が家庭の被災状況をつかむ調査だった。
 「先生、すみません」
 声が少し震えた。
 「家族は全員無事でした。家も被害がない。みんなに申し訳ないです」
 涙がほおをつたった。
 その数週間後、生徒たちの俳句が廊下に張り出された。
 「逢(あ)いたくて でも会えなくて 逢いたくて」
 「ただいまと 聞きたい声が 聞こえない」
 自分は震災を簡単に語ってはいけない、と思った。

 16年8月、数台のテレビカメラに囲まれ、次々と質問される。「今はどんな思いですか?」「震災当時を振り返ってどうですか?」
 高校3年になった阿部さんが答えた。「将来の災害に備え、命を救えるようになってほしいです」
 中学2年から同級生たちと女川町に「いのちの石碑」を21基つくる活動を始めた。つらい経験をした友人も活動に参加しているのに、頑張らないわけにはいかないから。碑には「この石碑よりも上に逃げて下さい」と刻んだ。
 阿部さんは何度も取材に応じた。でも、事前に考えた内容にとどめ、自分の思いは口にしない。
 笑顔で話すのは失礼だと思い、眉間に力が入る。家族も家も無事だった自分が「被災者ぶっている」。そんな思いが心に居座り、苦しかった。
 高校を卒業して、教育に携わる仕事に就いた。子どもたちに震災のことを話したいと思っていたが、踏み出せないままだった。

 昨年11月、最後の21基目の碑が完成した。集まった報道陣に中学の同級生たちがそれぞれの思いを語ったが、阿部さんはそこでも発言を控えた。
 自分以外の7人は津波で自宅や家族を失っている。「私の話はやっぱり薄っぺらいから」
 ただ、震災直後と違うこともある。活動をともにしてきた友人たちがいる。
 その一人が鈴木智博さん(22)。震災で母や祖父母を亡くしている。数年前の3月11日に集まったとき、彼は「今日は法事で来るのがけっこう大変だったよ」とさりげなく言った。
 「ごめんね、気がつかなかった」。集まる日を決めた阿部さんは謝った。でも同時に、ずっと家族の話題を避けていた彼が「大変」と正直に伝えてくれたことが、うれしくもあった。
 震災体験は人によって違う。失っていない私は、悲しみを本当のところでは分からないし、震災を語れない。そんな気持はまだ消えない。それでも、お互いを受け入れあえる友人がいることに支えられている。
 コロナ禍が終息したら、そろった石碑の前で友人たちと語り部活動を始める。
 「私は自宅も家族も無事でした」。女川を訪れてくれた人に語れる日が来るのかな、と思う。

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読んで切なくなりました。「あなたが負い目を感じる必要はないんだよ」と云いたくもなりました。「震災で家族を亡くした友人がいる」というだけで、辛いことです。女川町の友人を亡くしている当方としては、そう思います。

続いて、『産経新聞』さんのニュースサイト。紙面に載ったかどうか、不明ですが。

震災11年 陛下見守られる「記憶の襷」 女川中卒業生が描く夢

 「バトンズ・オブ・メモリー(記憶の襷(たすき))」。天皇陛下が昨年、国際会合で紹介された東日本大震災の津波碑が、宮城県女川町にある。千年に1度といわれた災害で死者・行方不明者が800人を超えた同町で、悲劇を繰り返さないため、震災当時の子供たちが夢見た「1000年後の命を守る」21基の石碑。昨年11月には最後の1基が完成したが、成年となった子供たちは新たな夢を描き始めている。
 「石碑は、過去の災害を知るうえで役立つだけではなく、未来の人々の命を守るため、災害の記憶と教訓を未来へと繋いでいく『記憶の襷』でもあるのです」。昨年6月、各国首脳ら約500人が参加してオンラインで開催された「国連水と災害に関する特別会合」。陛下は1枚のスライドを示しながら、英語でこう、語りかけられた。
 スライドに映されたのは、震災直後の平成23年4月に女川第一中(現・女川中)に入学した生徒ら。社会科の授業で津波対策案を立て、町内にある21の全ての浜に避難の目印となる石碑を建てようと、募金活動を実施。半年間で1千万円を集め、25年11月に1基目を建立した。現在も卒業生ら十数人が石碑建立や教科書作り、体験の伝承などの活動を続けている。
 陛下はライフワークとして過去の災害の記録や石碑を研究しており、女川の石碑についても熱心に資料を集められていたという。ご研究を支える広木謙三・政策研究大学院大教授(62)は「『記憶の襷』というお言葉のとおり、過去に学び未来に生かすということは、陛下が大切にされてきたメッセージ。特に、若い世代の人たちがそうした活動に継続的に取り組んでいることに、関心を持たれたのではないか」と話す。
 「21基目が、できたんですね」。広木教授は昨年11月、陛下からこう、言葉をかけられたという。
  
 「自分たちの活動が、陛下のところにまで届いていたんだなあって。でも、まだ、これからなんです」
 10年以上活動を続けてきた女川第一中の卒業生の一人、伊藤唯(ゆい)さん(23)=横浜市=は今、新たな一歩を踏み出そうとしている。最近、その「準備」として始めたことがある。
 《3月11日…教室で卒業式の準備をしていた時に地震が起きて、机の下に潜った…真っ黒な津波を見て言葉を失う…みんなで歌を歌って気持ちを紛らわした》
《4月12日…私服での入学式…「愛するふるさとが、大震災で大変なことになった。社会科として何ができるか。小学校で学んだことを生かして考えてみよう」…最初の授業の先生の言葉》
 スマートフォンのメモアプリに、びっしりと書き込んだ震災以降の記録。「自分の体験を、きちんと伝えられるように」と2月から書き始めた。でも、「一気には書けない」。
 毎年3月が近づくと、体調を崩す。当時の光景がフラッシュバックする。眠れない。昨年10月、東京などで最大震度5強を観測した地震でも大きな衝撃を受けた。それでも、「自分の言葉で伝えていけたら、伝わり方も変わるんじゃないか」とメモに向かう。震災と向き合う「怖さ」が「なくなってしまうことのほうが怖い」。活動を通じて、そう思うようになった。
 最後の石碑が完成した昨年、集まった同級生らは、「ここがスタートライン」と口をそろえた。活動について話し合う年末恒例の「合宿」にも、多くのメンバーが参加。「石碑を世界文化遺産に」「新しい教科書を作りたい」…。新たな夢、やるべきことが「山のように」出てきた。
 「石碑を設置して終わりじゃない。千年先に、あの石碑を使って一人でも多くの命を救えていたら、その瞬間に、自分たちの夢が本当にかなう」。1基目の石碑が建ったあの日のように、皆で描いた夢は必ず実現できると、信じている。
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第5回国連水と災害に関する特別会合」についてはこちら

11年が経ち、この手の報道は激減するのでは、と心配していたのですが、杞憂でした。マスコミの皆さんの「この手の報道を激減させてはいけない」という気概を感じます。ありがたし。

【折々のことば・光太郎】

古間木駅下車、副知事等出迎、車にて蔦温泉まで、三本木を通る、 大町桂月墓に詣づ、 (蔦温泉泊)〈(浴)〉


昭和27年(1952)6月16日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見です。もっとも、この時点ではまだ青森県からの依頼を受けるか否か、決めかねていましたが。「古間木駅」は、現在の三沢駅です。

もともとこのモニュメントが、十和田湖の国立公園指定15周年、さらに十和田湖の景勝美を広く世に紹介した大町桂月ら、功労者の顕彰碑というコンセプトだったため、桂月が移り住んだ蔦温泉に立ち寄りました。

昨日に続き、東日本大震災で甚大な被害を受けた、光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連です。

『毎日新聞』さん。3月6日(日)の一面トップでした。かつて数年間、女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読をなさった鈴木智博さんに迫ります。

宮城・女川、津波到達点の石碑 1000年後の命を守る

013 波は穏やかに打ち寄せていた。東日本大震災から10年以上が過ぎた宮城県女川町。多くの漁船が行き交い、カキなどの養殖が行われている女川湾を見下ろす高台に2021年11月21日、1基の石碑が完成した。碑にはこう刻まれている。「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」。碑の周りには20代の若者たちの姿があった。
 震災の教訓として、町内の沿岸部21カ所の「浜」と呼ばれる集落の津波到達点に石碑を建てる――。こう計画したのは、震災直後に中学生になった鈴木智博さん(22)をはじめとする仲間たち。11月に完成した碑が目標とした21基目。「1000年後の命を守る」。この誓いを、ともに被災した同級生たちと次世代に受け継ごうとしている。
 小学校の卒業を間近に控えた「あの日」の朝も、いつもと同じように母の智子さん(当時38歳)に見送られた。「行ってらっしゃい」という母の声は今も耳に残っている。
 小学3年だった妹と一緒にバス停まで走った。生まれ育った尾浦地区の当時の人口は約200人。ほとんどの家が漁を営んでいた。
 教室で卒業式の準備をしていた午後2時46分。突然「ドン」と突き上げるような揺れに襲われた。机の下に隠れたが、激しく動く机を押さえることができなかった。避難した校庭の地面はひび割れ、しばらくすると雪が降り始めた。体がぬれないよう、頭上に大きなブルーシートをかぶせられ、その下で膝を抱えて寒さをこらえていた。
 「津波が来たぞ!」。約50分後、大人の叫び声が校庭に響いた。より高台にある総合体育館に向かって走った。背後から地鳴りのような音に加え、流された建物がぶつかり合うごう音が聞こえ、同級生らの悲鳴と混じり合った。
 たどり着いた体育館で、毛布を体に巻いて過ごした。友人たちには次々と家族が訪れたが、自分の家族は姿を見せなかった。体育館の中はいつしか、家族単位と見られる固まりが増えてきた。「尾浦の方は家が残っているらしい」。そんな大人たちの会話が聞こえたが、不安は消えなかった。 父の高利さん(55)が体育館に現れたのは、震災から数日後だった。異臭が漂うがれきの中を歩き、尾浦地区の寺に身を寄せた。そこで、高利さんから、智子さんと祖父母の3人が「どこにもいないんだ」と知らされた。「どこかに逃げていてほしい」心の中で何度も祈ったが現実は非情で、3人は遺体で見つかった。
 古里の被害は甚大だった。住民約1万人の8%以上が津波の犠牲となり、6511棟あった建物の約65%が地震で全壊するか、津波で流された。自宅を失った鈴木さんは親類のいる仙台市に避難。さらに奈良県の親類宅に移った。女川町に戻るのは、再び雪がちらつき始める約9カ月後のことになる。

◇中学生が建立を計画
鈴木さんが進学するはずだった町立女川中学校(当時は女川第一中学校)は4月12日に再開し、入学式を行った。校舎は女川湾を望む高台にあり、被害を免れた。生徒の半数以上は各地の避難所から臨時のスクールバスで通った。
 未曽有の災害で教師たちも混乱を極めた。1年生の学年主任になった阿部一彦さん(55)も悲惨な出来事を経験した生徒とどう向き合うか悩んでいた。入学式から2日後にあった最初の授業は鮮明に覚えている。教室の窓は全てカーテンが閉められていた。壊滅的な被害を受けた町を見ないようにするためだった。 授業の冒頭に「今の女川にできることを考えてみよう」と切り出したが、生徒の反応は薄かった。「被災した町の様子も見せずに、どうやって古里のことを考えさせられるんだ」。思い切ってカーテンを開けた。3階の窓からは、がれきが広がる町の中心部と、遺体を捜す大人たちの姿が見えた。すると生徒たちも一斉に立ち上がり、窓から変わり果てた古里を見下ろした。
 「見せてはいけなかったかもしれない」。阿部さんは再びカーテンを閉めてから後悔したが、生徒たちは机に向かい「女川にできること」を書き始めていた。「漁業を復興しよう」「観光の町だけど、今は観光どころじゃない」……。10代の子どもたちなりに考えた未来への思いが並んだ。「前を向こうとする生徒のために、私も何かやらなければいけない」。阿部さんは生徒たちと、次のいけない」。阿部さんは生徒たちと、次の津波対策を考えていこうと決めた。
 授業の一環として生徒たちは町を歩き、津波の到達点を確認していった。震災から8カ月が経過した11年11月。津波の到達点に石碑を建設して避難路を整備することなど、三つの「対策案」をまとめた。
 1カ月後、鈴木さんが避難先から女川町に戻ってきた。久しぶりに会った同級生たちが石碑の建設を計画していると知って驚き、同時に否定的な考えが頭を占めた。「そんなこと、中学生にできるわけがない」
 だが、鈴木さんたちは、時に涙して被災体験を友人らと語り合い「いのちの石碑」を建てる活動に踏み出していく。
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さらに3面に続き。

宮城・女川、津波到達点の石碑 10年かけて21基完成 次世代に活動語り継ぐ

011 巨大津波が襲った宮城県女川町で育った鈴木智博さん(22)には三つの古里の姿が目に浮かぶ。一つ目は、もう正確には思い出すことができない震災前の町。二つ目は、鮮明に脳裏に焼き付いている津波が押し流した町。そして復興計画が進み、生まれ変わった今の町――。
 鈴木さんは2011年12月、避難先の奈良県から女川町に戻ってきた。更地が広がっているだけだった。
 中学校での友人たちは自然に受け入れてくれた。「プリントが配られる度に、お前の机の中に入れるの大変だったんだぞ」。自分の存在を忘れずにいてくれた同級生の言葉がうれしかった。仮設住宅での暮らしだったが、同級生は誰もが同じような境遇。「避難先では、被災していない地域とのギャップを感じていました。でも、女川に帰ってきて、普通の中学生に戻れたような気がしました」
 それでも同級生が取り組んでいた津波対策を考える授業には積極的に関わる気になれなかった。母と祖父母の3人を奪った津波のことを思い出したくはなかったし「対策を作っても無駄だ」とも感じていたからだ。震災をテーマにした作文には自分の体験や家族については何も書かなかった。

◇被災経験作文に
転機は2年生の12年7月、仙台市などで開かれた「世界防災閣僚会議」に参加したことだ。開会式では、親族を亡くした同級生が代表して演台に立ち、家族を失う悲しさや防災の大切さを訴えた。 会議から約10日後の放課後。鈴木さんは、学年主任だった阿部一彦さん(55)の前で切り出した。「先生、俺も書いてみます」。どうして嫌がっていた作文を書こうと決めたのか、はっきりとは思い出せない。経験を人に伝えたいと思う一方で、被災の記憶が曖昧になっていくことにモヤモヤした気持ちを抱えていた。「文章にしたらすっきりするかな」。そう考えたのかもしれない。
 作文は全校集会で披露することになり、一晩で書き上げた。震災があった日の朝のこと、県外へ避難したこと、家族への思い……。気持ちが整理されたわけではなかったが「自分の中で一つの区切りにはなったかも」。全校集会の後、生徒たちは津波対策案の実現に向けて実行委員会を作ることを決めた。同級生の中で唯一親を亡くしながら、被災と向き合おうとした鈴木さんを友人が委員長に推薦した。鈴木さんは「お飾りみたいなものだろうと思っていたんですよ」と、重責を引き受けた当時を振り返り、笑みを浮かべる。
 中学生が始めた小さな活動は、徐々に町を巻き込んで本格化していった。女川町は沿岸部に漁業を営む「浜」と呼ばれる集落が点在し、いずれも津波の被害を受けた。避難を促す石碑は、津波が襲った21カ所の浜の全てに建てるべきだ。そう考えた鈴木さんたちは、12年11月に町長や町議会にも石碑建立を提案した。 ただ、鈴木さんは口にしなかったが「大人は自分たちに授業として津波対策を考えさせたいだけだ。結局、石碑なんて建たないんだろう」と冷めていた。建設資金が1000万円と聞いた時は気が遠くなった。
 それでも費用を募金で集めることを決め、13年2月、町内の仮設商店街や旅館、水産会社に頼んで募金箱を置かせてもらった。3年生の時に修学旅行で訪ねた東京では、企業や大学を訪ね、協力を呼び掛けた。
 後ろ向きな気持ちが少しずつ変わっていった。津波対策を訴えると、子どもの話だと聞き流さずに真剣に耳を傾けてくれる大人たちがいた。全国から寄付も相次ぎ、わずか半年で1000万円が集まった。「本当に石碑を建てられるかもしれない」。計画は現実味を帯びてきた。
 石碑に刻む言葉は「自分たちと同じ思いをする人が二度と出ないように」と生徒が知恵を出し合って考えた。石碑の形は町内にある鎌倉時代の供養塔を参考に、上部の右側が高くなるデザインにした。津波で命を奪われた大切な人たちへの追悼の思いも込めたいと、鈴木さんが提案した。
 最初の石碑は同年11月23日、女川中学校の敷地内に完成した。鈴木さんが「無理だ」と否定してから約2年。「自分たちの活動が形になった」。達成感がこみ上げた。ただ、町の復興は始まったばかりで、高台造成が終わらずに石碑が建てられない集落も多かった。「成人式までに全ての石碑を建てよう」。それがみんなの次の目標になった。
 生徒たちは、津波で壊れた建物を震災遺構として後世に残すことも町に提案した。実は、鈴木さんは「津波を思い出すから見たくない。残したところで本当に震災のことが伝わるのか」と反対していた。だが戦争の悲惨さを広島から世界に発信する原爆ドームを思い、意見をのみ込んだ。生徒たちは13年10月に須田善明町長と面会。町は程なく、津波で横倒しになった旧女川交番を保存する方針を決めた。須田町長は「子どもたちの思いを確認した上での決断だった」と明かす。

◇見守った保護者
 これらの活動は、当初から賛同者ばかりだったわけではない。「悲しい思い出を直視させていいのか」「(親が)止めなければだめじゃないか」。そうした声が渦巻く中、活動を見守る「支える会」の代表になった保護者の一人、山下由希子さん(53)は「子どもたちを信じましょう」と周囲の説得を続けた。山下さんは津波で友人を亡くし、自宅を流された。生活を立て直すことに精いっぱいだった時、未来を語る息子たちの姿に励まされた。石碑を建てられる場所も探し、地権者らと交渉した。子どもたちにはばれない ように、こっそりと。
 鈴木さんたちが14年に中学を卒業すると活動は休日が中心となった。集まれる機会が減っても活動を続けたのは、そこが同じ境遇の仲間たちがいつも同じように出迎えてくれる「居場所」だったからだ。
 その年の5月、鈴木さんの古里、尾浦地区に石碑が完成した。この頃から、鈴木さんは各地で中学生らに向けた講演を頼まれることが増えた。震災を知らない子どもたちは真剣なまなざしで被災体験に聴き入ってくれた。大学生になると、石碑や震災遺構を案内する町の語り部ガイドも引き受けるように。19年には町の追悼式で遺族代表としてマイクの前に立った。人見知りな性格を自覚している。「昔の自分からしたら信じられない。でも石碑を建てる活動があったから、震災と向き合うことができた」
 21基目の石碑は、21年11月21日に完成した。場所は、新しく建てられた女川小・中学校の前。除幕式が開かれた高台からは復興した女川の町と、太陽の光を反射する女川湾がよく見えた。
 その3日前、鈴木さんは自分たちが学んだ旧校舎の敷地内に建てた1基目の石碑の前で、修学旅行で訪れた中学生約100人に体験を語っていた。今だからこそ必ず口にする言葉がある。「中学生や高校生までは誰かに守ってもらう立場だったと思います。でも、皆さんが大人になったら、自分が誰かを守らなければいけない立場になる。その時に、震災のことを思い出してほしい。今ここで聞いた話を伝えてほしい」
 中学生の頃は被災体験を隠すものだと思っていた。「どんなに頑張っても、石碑が建っても、震災を『良かったこと』にすることはできない。震災のマイナスは大きすぎる」と考えていたからだ。でも活動を支えてくれた多くの出会いを経て「この経験を少しでもプラスの方向に変えていきたい」と思えるようになった。
 この春、社会人になる。震災前の女川の姿は薄れてきたが、1000年後の命を守る。「次の目標は私たちが活動した意味を下の世代に語り継いでいくこと。残りはまだ990年もあるんです」

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11年が経とうとし、記憶の風化が懸念されていますが、その中でこれだけ長い記事を、一面トップ、さらに三面と2ページにわたり掲載して下さった『毎日新聞』さんの英断に、敬意を表します。

明日は同じく「いのちの石碑」関連、違った切り口での報道を。

【折々のことば・光太郎】

花巻カジ町シバタにてレインコオトを求む、やぶにて中食ビール、 花巻温泉に行き、マドロスパイプ、モモヤマ等、 鎌田女史にあふ、一緒に花巻駅七時の電車で(志戸平温泉泊)


昭和27年(1952)6月15日の日記より 光太郎70歳

翌日、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖方面に向かいます。「やぶ」は宮沢賢治もよく通った「やぶ屋」さん。「モモヤマ」は「桃山」、現在も販売されている刻み煙草の銘柄です。花巻温泉や大沢温泉に泊まることが多かった光太郎ですが、この日は大沢温泉の近く、志戸平温泉に宿泊しました。翌日からの長旅に向けて、英気を養おうとしたのでしょう。

十和田湖で撮られた写真には、この日購入したレインコートと思われるものを着た光太郎が写っています。
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今年も3.11が近づいて参りました。

宮城県女川町。昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を訪れたことを記念し、平成3年(1991)に竣工した光太郎文学碑の建立に奔走し、その後の女川光太郎祭運営に尽力した貝(佐々木)廣さんが、津波に呑まれて亡くなって、もう11年か、という感じです。

震災後、津波の際の避難の目印として、町内の高台に建てられ続けてきた「いのちの石碑」。光太郎文学碑の建設費用が募金でまかなわれたことに倣い、当時の中学生たちが全国に呼びかけ、浄財が集まりました。震災から10年だった昨年には、当初計画の21基が完成しています。

先月15日の『河北新報』さん。仙台市の尚絅(しょうけい)学院中学校さんの生徒さんたちによる「尚絅新聞」というコーナーで、「いのちの石碑」を訪れた際のレポート等が。

1000年後の命を守りたい 宮城・女川 震災教訓刻んだ「いのちの石碑」 実行委・鈴木さん 「1000万円 募金集め建立」

 「1000年後の命を守っていくための活動です」
 旧女川中の敷地内に建てられた「いのちの石碑」を前に鈴木智博さん(22)は実行委の取り組みを語りました。震災当時は小学6年生。直後に入学した女川中の同級生らとともに、2012年秋ごろから津波の脅威を伝える石碑を建設しようと活動を始めました。
 提示された1000万円の建設費用は、修学旅行先の東京など、各地で100円募金を呼び掛け、約半年かけて集めました。
 13年11月、1基目が完成。女川町内の全21行政区に、順次石碑が設置されました。石碑には、「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」という言葉を入れました。
 さらに、女川中の生徒が考えた俳句も添えられています。「夢だけは壊せなかった大震災」「ただいまと聞きたい声が聞こえない」など全21基にそれぞれ句が彫ってあります。どれも震災を経験して感じた率直な気持ちが込められています。
 実行委では、震災の記憶を後世に伝えるための「命の教科書」の制作など、さまざまな活動にも取り組んでいます。
 長い間、海と共に暮らしてきた女川の人にとって、海はなくてはならない存在。津波が街を襲っても、再び海の見える街をつくろうと決断しました。鈴木さんたちの活動は、これから増えていく震災を知らない世代に、自分の命を自分で守る大切さを伝える役割も担っているのです。
 最後の1基は21年11月23日に完成しましたが、「1000年先の命も守る」という思いを持つ鈴木さんたちにとっては、たった1%を過ぎただけ。鈴木さんは、「大きな津波が来たとしても、被害を受ける人を一人でも少なくしたい。そして、残りの990年、みんなで命を守っていきたい」と強く語りました。
 今回、鈴木さんにお話を聞いて、いのちの石碑の存在をもっとたくさんの人に知ってもらい、命を守るために何ができるかを考えていきたいと思いました。
【2年生 佐藤ひかり・鳥飼日和・藤枝慎之輔】

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記事にある鈴木智博さん。かつて、毎年8月9日(光太郎が昭和6年=1931に、「三陸廻り」執筆のため東京を発った日)に行われていた(一昨年、昨年はコロナ禍のため中止)光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」に複数回参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさいました。

最近はこのように県内外から訪れる人々に、「いのちの石碑」のあらましを伝える語り部としても活動されています。今年1月の栃木県那須町の広報誌『広報那須』から。
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昨秋行われた、那須中央中学校さんの修学旅行に関わります。この際も鈴木さんがご講演なさいました。

鈴木さん、今月初めと思われますが、NHKさんのローカル番組にもご出演。

未来への証言/女川町 鈴木 智博さん

鈴木 智博(すずき・ともひろ)さん(22)※年齢や情報は取材時点
女川町在住。震災の津波で母と祖父母の3人を亡くした。中学生の時から同級生とともに未来の人たちへのメッセージを記した「女川いのちの石碑」を建てる活動を始め、令和3年11月に当初の目標であった21基目が完成した。子どもたちに震災の教訓を伝える教科書作りや、震災遺構を残す活動も行っている。
(聞き手・構成:丹沢研二アナウンサー 令和3年12月22日取材)
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小学校卒業間近 津波が町を襲った
丹沢)つらい記憶を思い出すことにもなるので、話したくないことは話したくないと言ってくださいね。震災当時は小学校6年生?
鈴木)小学校6年生ですね。卒業式の練習が終わって教室に戻って反省会とかをしていた時間でした。
すごい覚えているのが、黒板の横に天井からちょっと低いくらいの戸棚が置いてあって、その上にブラウン管のテレビが置いてあったんですね。それが地震の揺れで目の前にバーンと落ちてきてグチャグチャになって、机の下には隠れていたんですけど机ごと揺れて動いて、という状況でした。その後はいったんみんなで校庭まで急いで避難しました。3月で雪もちらほら降っていたのですごい寒くて、でも着のみ着のまま避難してきました。先生が、余震もあったんですけど学校の中に戻って、上着を取ってベランダからポンポン投げてくれて、それを拾って自分のを着たのを覚えています。
丹沢)津波が来たときはどんな状況でしたか?
鈴木)地域の人たちが下からどんどん避難してきて「津波が来る」って誰かが言いました。僕自身は見てはいないんですけど「すごい勢いで波が来る」って言うので、そこからもっと上の方の、山の上の総合体育館に避難しました。最初の夜はクラスの友達同士で集まっていたんですけど、次の日とか、ちょっと経ってくると家族の人が迎えに来たり一緒に避難したりしていましたね。そこにどれぐらいいたのかな。1週間までいないと思うんですけど。
丹沢)家族の安否は分からなかった?
鈴木)全然分からなかったです。当時避難所で、よく遊びに行っていた家の人に混ぜてもらって一緒に毛布みたいなのに入らせてもらっていたんですけど、人づてに尾浦の方ではうちのお父さんは何とか大丈夫そうだと、船回してるっていうのはちらっと聞いて、それ以外は全く分からない。妹2人いて、上の方は小学生だったんで一緒に避難して分かっていたんですけど、当時保育所にいた下の妹の方は全然分からないという状況でした。
丹沢)分かったのはいつぐらいですか?
鈴木)お父さんが女川町内から外れた浜だったので、何日か経った後に同じ浜の近所の人が迎えに来てくれて、その時に下の妹は保育所の先生が避難させたって一緒に来て、そのあと自分の浜に帰ってから、お母さんとおじいさんおばあさんがいないんだっていうのを聞かされました。
丹沢)どこで亡くなったとか詳しいことが分かったのは?
鈴木)最初おじいさんだったんですけど、それが大体5月6月ぐらいだったかな、確か。7月まで仙台市の方に避難していて、そこから奈良県に行くんですけど、7月までにおじいさんとお母さんは何とか見つかりました。その後におばあさん。おばあさんだけ見つからなくて、DNA鑑定で分かったという状態でした。

父と子ども、家族4人の生活に
鈴木)最初女川のお寺で3月末ぐらいまで、そのあと仙台の伯母さんの所に避難して、そのあと奈良県にお母さんの実家のおじいさんおばあさんがいるんですけど、そこに避難しました。
丹沢)転々としながら。女川に戻ったのはいつぐらいですか?
鈴木)2011年の12月末ぐらいかな。冬休みに入る時に転校して、こっちに帰って来て仮設住宅に入って、1月から女川の第一中学校に通い始めました。中学校高校で大体5年弱ぐらい仮設住宅に4人で住んでいたんですけど、お父さん、仕事は毎日朝も早い中で、朝ご飯、夕ご飯、高校の時はお弁当も作ってもらって。本当に感謝しています。
丹沢)当時お父さんは漁に出て、カキの養殖とか…。
鈴木)メロウド漁も行っていました。朝はいなかったですね。たぶん何か出来たやつをチンしたりしていたのかな、高校の時は。今だと自分でぱっと作れるんですけど。お弁当買ってあることが多かったかな。
丹沢)その中で長男だったらまだ3歳だった妹のお世話とか…。
鈴木)そうですね。妹と遊ぶからっていうので家事からは逃げていましたね。(笑)

家族を失った悲しみは…
丹沢)お母さんやおじいさんおばあさんが亡くなった悲しみを家族で受け入れていくのも大変だったんじゃないですか?
鈴木)たぶん…。最初の方はそんな暇もなかったのかなと思いますね。毎日大変すぎてあまり覚えていないんですよ。妹2人の方が覚えているかなって思うんですけど、それどころじゃないぐらい毎日毎日何かしなきゃならなかったので、やっと今になって少しずつって感じじゃないかなと思います。
丹沢)今になって?10年経って…。
鈴木)本当に。そんな暇がないくらい、毎日大変だったかなと思いますね。
丹沢)今思い出すことはあります?
鈴木)そうですね。たとえば卒業式とか成人式とか。もしかしたらその先の結婚式とかあるかもしれない中で、そういう時にたぶん思い出すんだろうなというのはありますね。お父さんが言っていたのは、「見せたかった」じゃないですけど、卒業式とかそういう締めの時にいないのは思う所があるみたいです。

1000年後の命のために石碑を建てる
智博さんは中学生時代から同級生らとともに石碑を建てる活動を始めた。「1000年後の命を守るために」を合言葉に、津波の到達点より上の高台などに設置されている。写真は2013年11月23日、1基目の石碑の除幕式の時のもの
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鈴木)石碑は、2011年4月に津波で大変なことになってしまった故郷のためにどういうことが出来るかみんなで考えたいという授業を最初にしたらしいんですけど(※当時智博さんは仙台の中学校に通っていてた)、急にこっちに帰ってきたら「石碑を立てたい」とか色々聞いて、「無理だろうな」って。どうせ中学生が言っているだけで、計画させて「よく出来ました」で終わりなんだろうなって何となく思っていたんですけど、1年生の最後の方に、当時の僕は何を思ったか分からないんですけど、社会科の先生に「作文を書きます」って言ったんですよ。内容が震災の記憶というか体験について。「誰か書く人いれば教えてね」と言われて「僕書きます」って言っちゃったんですよ。そこから中心っていうか関わるようになってきて。僕の始まりはそんな感じでした。

中学校1年生だった智博さんの作文。智博さんたちが作った「女川いのちの教科書」に掲載されている。
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丹沢)作文を見た周りの人たちが「こういう思いがあるなら」ということで巻き込んでいったんですか?
鈴木)作文を書いたあとに、委員会みたいなのを作ろうという話があった時に勝手に名前が載っていたんです。当時「津波対策実行委員会」って名前だったんですけど、そこに入れられていて、「実家が漁師だから海のことにも詳しいだろう」って委員長に祭り上げられて、そこから中学校の間は一応まとめ役としてやっていました。

中学生が1000万円の資金を集める
丹沢)石碑を建てるとなったらお金とか色々なことが出てくるでしょう?
鈴木)一番はやっぱりそこで、まず協力してくれる石屋さんがなかったんですよ。最初の頃。丸森の石屋さんに何とか紹介していただいて、行ったら「石は寄付させていただきます」と。本当に有難い話なんですけど、「設置費と工事費、あと彫るお金は何とかしてほしいです」と言われて、どれぐらいなのかなと思っていたら、「1000万かかる」って言われたんですよ。
丹沢)中学生で…。
鈴木)いやこれはどうしようって思って、でもせっかくやってきたんだし、お金がないから募金して集めるしかないよねって。中学2年生の秋、冬ぐらいかな、最初100円募金で色んなお店に募金箱を置かせていただいて女川の町内で募金活動していました。そのあと東京に修学旅行で4月に行った時に、まあ大人になってからでも東京は行けるだろうし、中学生の時、この活動をやっている時にしかできないことをしたいねということで、文部科学省とか電通とかジブラルタ生命とかユネスコとかそういう所にお邪魔して発表して募金活動させてもらいました。2013年の夏に目標の金額達成して11月に第1基、第2基の披露ということでつながりました。
丹沢)すごい!中学生が1000万。
鈴木)そうなんですよ!本当にまさかと自分たちもびっくりしたんですけど、何より先生方とか、よく来て取材していた方とかが、もう「まさか」って感じで本当にびっくりしていました。

自分と同じ思いはしてほしくないから
丹沢)気が付いたら委員長になっていたという状態で。そういうことを頑張るのはすごくはっきりした意志がないとできないんじゃないかと思うんですけど…。
鈴木)はっきりした意志があるかと言われたらそれは自分でもよくわかっていない所はあるんですけど、でも、地元のために何かしたいなっていう気持ちと、自分みたいな被害というか、同じ思いをしてほしくないって思いは中学校の時から今もあると思います。僕だけじゃないんですけど、みんなそういう気持ちで、何とか今もやっているのかなという気がしています。
よく「建って良かったね」「これで終わりだね」って言われるんですけど、建てて終わりではなくて、100年後だろうが200年後だろうが1000年後だろうが、それがあるからこそ一人でも多くの人の命を救えたら、その時にやっと建てて良かったなというのを思うと思うんですよ。
ゴール的には、一人でも多くの人の命が次に災害が起きた時に助かればって思いでやっています。
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「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」
「逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」などと刻まれている。

“夢だけは 壊せなかった 大震災”
石碑にはそれぞれ五七五のメッセージが刻まれている。1基目と21基目のメッセージは「夢だけは 壊せなかった 大震災」
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丹沢)「夢だけは壊せなかった大震災」あの言葉は誰が考えたんですか?
鈴木)あれは同級生です。僕ではないんですけど、当時中学生だった僕らの1個2個上の世代の人たちが国語の授業で、俳句の短い言葉で自分の思いを吐き出そうという中で出来た俳句で、これはいいなって思うのを自分たちが選んで載せています。あの「夢だけは壊せなかった大震災」もその一つで、第1基と最後の石碑の両方で同じやつが刻まれています。
丹沢)ちょっと難しい質問かもしれないですけど、夢ってなんですか?
鈴木)笑。難しいですね。
丹沢)智博君にとっての。
鈴木)そうですね。なんでしょうね。昔から「自分はこうしたい」というのはあんまりないんですけど、何かしらの形で人のために貢献できるような活動ができればなあって思っていた所があったので、それがこういう防災の活動に近いのかなっていうのはあります。これを自分が嫌になるまで、とりあえず死ぬまで続けていきたいなって。自分も続けられるようにですけど、下にもちゃんと受け継いでいけるような、そういう活動をしていきたいなっていうのが、夢ですかね。

あの甚大な被害、そして残された人々の思い、決して風化させてはならない、と、改めて思います。明日もこの項、続けます。

【折々のことば・光太郎】

晴、 かたづけ、洗濯、毛皮収納、


昭和27年(1952)6月13日の日記より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋。さすがに6月ともなれば、マタギから買い求めた分厚いカモシカの毛皮も不要となったようです。
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既に始まってしまっていますが、光太郎の書作品が出ている展示即売会の情報です。

【書畫のあるくらし】Exhibition of Calligraphic works

期 日 : 2022年3月3日(木)~3月12日(土)
会 場 : しぶや黒田陶苑京橋店 魯卿あん 東京都中央区京橋2-9-9 ASビルディング1F
時 間 : 11:00~18:00
料 金 : 無料

しぶや黒田陶苑では年間40回以上の展示会を開催しており、その大半は陶芸に関する展示会です。勿論、陶芸の優品を皆様にご紹介したいという思いは第一にございますが、同時に陶芸専門ではなく、美術商としてジャンルや分野を横断して様々な美術品を取り合わせることで、より魅力的な生活をご提案出来ればと常々考えております。

「書畫のあるくらし」。
絵画や書軸などの作品は小品であっても一点で大きく場の印象を変える事が出来ます。今回の展示会ではそんな書画と陶芸作品を取り合わせた展示を行っております。

主な出品作品(ご紹介しております中には、ご売約戴いている作品もございます)
徳岡神泉 水仙/TOKUOKA Shinsen Scroll“Narcissus”
北大路魯山人 唐津湯碗絵/KITAOJI Rosanjin “Karatsu Yunomi”, Framed
福田平八郎  「水」芥表紙絵/FUKUDA Heihachiro “Water”, Framed
石黒宗麿 画賛/ISHIGURO Munemaro Scroll, Painting with poem
松田正平 明恵上人歌/MATSUDA Shohei Calligraphy, a poem of Buddist Myoe
河井寛次郎 画賛/KAWAI Kanjiro Painting with poem, Framed

高村光太郎 平等施一切/TAKAMURA Kotaro  Scroll, a word of Shandao, the Buddhist.
彫刻家、高村光太郎先生。教科書で『道程』『智恵子抄』などの詩作に親しんだという方も多いかも知れませんが、能書家としてもその名を知られています。一筆一筆、情緒に流されるのではなく、思慮深くその筆を進めています。彫刻家として書を造形作品と同等の強度を持ったものとして捉えていたのかもしれません。
 願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国 善導大師『観無量寿経疏』より
念仏の功徳を、すべての人々と平等に分かち合い、共に仏を求める心をおこし、極楽浄土へと生まれたい、という仏書からの言葉の一部を書いたもの。その実直な線は真摯に安寧を祈る姿を思い起させます。昭和廿二年(二十二年)とあることから1947年、先生が64歳の頃に書かれたものと分かります。
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この書に関しては他に類例がなく、当方も初めて画像を拝見し、驚いたと同時にほれぼれしました。特に「等」の字。崩しのルールに則っているような、いないような……これは書けそうで、なかなか書けません。また、「施」と「切」との間の「一」の、長すぎず、短すぎずの実に微妙なバランス、それから「切」の字の「刀」の部分の左払いを始める位置、やはり長さなど、心憎いばかりです。

昭和22年(1947)1月2日の日記に、この書に関する記述があります。

午前午后書初を書いてゐる。寺神戸氏よりもらひし紙に「清浄光明」、「平等施一切」、二枚つつ書く、在家勤行集中の文句。

書初」は、送りがなが省略されていまして「書き初め」です。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋では(あるいは東京在住時からそうしていたのかも知れませんが)、毎年、1月2日に書き初めを行うのが光太郎のルーティーンでした。

寺神戸氏」は寺神戸誠一、茨城出身の小説家です。前年の10月に、寺神戸から半切の紙を贈られたことも日記に記されていますし、この年の寺神戸宛書簡には、書を送ったことがしたためられています。どうもこの寺神戸に贈られた物が出て来たのかな、という感じです。

しぶや黒田陶苑さん、茶道具が中心ですが、茶掛けという意味もあるのでしょう、書画も広く扱われていて、平成26年(2014)にも光太郎の書を出されていました。

今回の「平等施一切」は、60万円とのこと。妥当な金額、いや、少しお買い得価格かな、という感じも。これが入札形式だと、最終落札価格はもっと上のように思えます。

収まるべき所に収まって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉より鎌田専務来訪、酒二升、ビール3本、べん当等もらふ、用件は金田一氏の詩碑の英訳をしてくれとの事、ともかく承諾、


昭和27年(1952)6月12日の日記より 光太郎70歳

金田一氏の詩碑」は、昭和25年(1950)、花巻温泉に建立された「金田一国士頌碑」。光太郎詩「金田一国士頌」が刻まれています。碑文の揮毫は光太郎ではありませんが。

一昨日、昨日と1泊2日で、光太郎第二の故郷とも云うべき、岩手花巻に行っておりました。

メインの目的は、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の拝見、及び、その関連行事として当初予定されていた当方の講座が、コロナ禍のためリモート配信ということになり、その収録のためでした。

今回は妻を連れて参りました。同居していた妻の母が昨年暮れに亡くなり、それまで数年間、介護で大変だったので、その慰労を兼ねて、ゆっくり温泉に浸かってもらおうということで。

1日目、3月5日(土)。正午近くに東北新幹線新花巻駅に到着。まったく雪もなく、拍子抜けでした。レンタカーを借り、市街地へ。昼食はマルカン大食堂さんでいただきました。マルカンさんの1階で、以前にご紹介した、光太郎にも触れられているという泉沢善雄氏著『わんこそば : その歴史と文化』を販売しているそうなので、そちらにしたわけです。ところが、同書、残念ながら売り切れ。

それなら、と、行ってみた、やはり同書を販売しているという近くの「賢治の広場」さんにも行ってみましたが、そちらでも完売とのこと。すると、驚いたことに、たまたま「賢治の広場」さんに泉沢氏ご本人がいらっしゃり、お話をさせていただきました。元々そんなに売れると思わず、少部数しか作らなかったと言うようなお話、それから、国会図書館さんに納めたとおっしゃるので、そちらで見て欲しい的な。千葉の自宅兼事務所に帰ってから調べましたところ、確かに国会図書館さんに納本されていました。近いうちに拝見に行こうと思います。

その後、御朱印マニアでもある妻のため、2箇所の社寺を廻りました。

まず、在来線東北本線花巻駅近くの花巻神社さん。
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つづいて、石神町の身照寺さん。
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こちらは宮澤賢治の菩提寺です。
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御朱印を書いていただいている間、賢治の墓と、宮沢家のそれとにお参り。気持としては光太郎の代参のつもりで。光太郎を花巻に招いた政次郎(賢治の父)に、「ありがとうございました」的な。

この頃から、雨が降り始めました。宿泊した大沢温泉山水閣さんに着き、そのまま雨か、と思っていたら雪に変わり、翌朝は……。
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15㌢ぐらいは積もっていました。

この日、午前中は妻と別行動。

妻は観光タクシー「どんぐりとやまねこ号」(正確に言うと、午前コースの「どんぐり号」)。


通常は、上記動画にあるようなクラシックカーなのですが、この日は大雪のため、ごく普通のワゴン車だったそうです。普段の車輌は積雪が多いと賢治記念館さんへの急な坂が登れないとのことで。勧めた当方としても、ちょっとがっかりでした。

当方は、レンタカーで花巻高村光太郎記念館さんへ。途中、風も強く、ところどころで地吹雪でした。
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隣接する高村山荘。光太郎が戦後の七年間、蟄居生活を送った山小屋です。
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早速、企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」を拝見。
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メインである、光太郎の父・光雲作の「鈿女命」。
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光雲四男にして光太郎実弟、藤岡家に養子に行った植物学者・藤岡孟彦が光雲の形見分けとして受け継いだものです。一昨年にも展示されましたが、そちらが短期間だったと言うこともあり、今回、期間を長めに設定しての再展示。ただ、一昨年には展示された光太郎箱書き揮毫の共箱は、今回は出品されていませんでした。

さらに最近寄贈された、鋳造の懐中仏「准胝(じゅんてい)観音像」。
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元々、都内文京区の金龍山大圓寺さんに納められた、光雲とその高弟の山本瑞雲、三木宗策の手になる観音像(戦災で焼失)の胎内仏として作られたものの鋳造コピーで、寄進者や檀家に配られたものです。そのあたりの経緯を記した『仰高』という書籍、焼け残った胎内仏の写真が掲載された『木彫 髙村光雲』(光雲令孫の故・髙村規氏撮影の写真集)をお貸しし、一緒に展示していただきました。

最近寄贈された、光太郎の葉書と関係資料。
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それから、光雲の師匠・髙村東雲の孫にして、光雲に手ほどきを受けた晴雲改め三代東雲作の聖観音像。この地で蟄居生活を送っていた光太郎に贈られたものです。
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こちらは十数年ぶりに拝見。箱書きは初見でした。

同様に、光雲の系譜ということで、花巻出身で山本瑞雲に師事した佐藤瑞圭などに関するパネル展示。
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光太郎も足を運んだ清水寺さんに瑞圭の作が複数納められていて、市の方に調べていただきました。

光雲が主任となり、東京美術学校として制作を請け負った、上野公園の西郷隆盛像、皇居前広場の楠木正成像を描いた錦絵。こちらも当方からの貸与品です。
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この展示室内で、リモート配信用の当方の講座を収録しました。約1時間、光雲や東雲、その系譜、光太郎と花巻といった話を思いつくままにだらだらと(笑)。当方、各種市民講座等で場数は踏んでいますので、そうやって喋るのにはあまり抵抗はないのですが、さりとて自信があるという訳でもなく、毎回、あんなのでよかったのかな、と思います(笑)。編集後、花巻市さんの方で配信予定です。

記念館さんに着いた頃はそんなでもなかったのですが、収録終了後、外に出ますと猛吹雪でした。
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ホワイトアウトに近い場所もあり、レンタカーを慎重に運転しつつ、新花巻駅へ。「どんぐり号」で高村山荘、光太郎記念館(妻が来た時には当方がべしゃくっていた真っ最中だったそうで)、賢治記念館を廻っていた妻と合流し、昼食を摂って帰途に就きました。

企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、5月15日(日)までと、長めの設定です。コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻駅より大沢温泉行、山水閣に泊る、新緑美しく、温泉浴心地よし、 マツサージ、よく休む、

昭和27年(1952)6月10日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見と云うことで、翌週から5泊6日で十和田湖方面に出かけます。そのための鋭気を養う目的もあったのでしょうか、大沢温泉さんに1泊しました。

昨日から、一泊二日の日程で光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。

花巻、昨日は☔でしたが、今日は吹雪です。
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昨日は主に市街地をぶらぶら、大沢温泉♨さんに宿泊。今日は光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、市民講座のリモート収録に臨みました。同館で開催中の企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の関連行事で、同展も拝見しました。

詳しくは帰りましてからレポート致します。


一昨日の『岩手日日』さんから。

「馬面電車」廃線50年 最終運行時の写真や新聞記事展示

 花巻市でかつて運行されていた花巻電鉄が全路線廃線になってから、今年で50年目を迎えた。同市中北万丁目の菅原唯夫さん(72)は、「花巻電鉄を思い出してもらおう」と、同市椚ノ目のデイサービスセンターグリーンホーム落合に花巻電鉄の写真や廃線を知らせる当時の新聞記事を展示している。同施設には花巻電鉄に乗車経験がある利用者が多くおり、地域住民の足として親しまれた「馬面(うまづら)電車」の思い出話に花を咲かせている。
 花巻電鉄は1915(大正4)年に開業。72年に廃線になるまで市民や温泉客の足として親しまれ、花巻ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)も買い物や静養先の温泉に向かう移動手段として利用していたという。
 菅原さんは、花巻に残る貴重な文化遺産を紹介する「Act21」を主宰。花巻電鉄の関係者から譲り受けた写真などの資料を保管し、これまでにも花巻電鉄に関する展示会を開催している。
 施設内に並べているのは写真と新聞記事など約60点。写真では最終運行日の様子や旧市内の路線を走る花巻電鉄、当時の切符、解体される車両、電車内の人々など花巻電鉄の歴史を今に伝えている。同施設では今月末ごろまで展示する予定。
 利用者(93)は「鉛温泉に行く時によく乗っていたので、とても懐かしい。電車が坂道を登らなくて、乗客で押したことを覚えている」と当時を思い返していた。
 菅原さんは「70歳以上なら乗ったことのある人は多いはず。花巻電鉄の記憶を残していかなければいけない。施設の展示が終わったら、材木町公園などでも展示して市民に歴史を伝えていきたい」と話している。
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かつて花巻を走っていた花巻電鉄。記事に有る通り、光太郎もよく乗車していました。2路線あったうち、鉛温泉さん、大沢温泉さんなど花巻南温泉峡へ向かっていた軌道線(鉛線)は、昭和44年(1969)に廃線、花巻温泉郷方面への鉄道線(温泉線)は同47年(1972)2月に廃線となりました。

菅原唯夫さんは、花巻電鉄の歴史などについて造詣が深く、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際にお力添えいただきましたし、BSテレ東さん(当時はBSジャパン)で放映された「空から日本を見てみよう+ 岩手県花巻温泉~遠野」などにもご出演なさっています。

また、当方が存じ上げている限り、平成27年(2015)と、鉛線廃線50周年の令和元年(2019)にも、今回と同様の写真展を開催なさいました。

今後とも、ハート花巻だけでなくぜひ色々なところで開催を続けていただきたいものです(光太郎にからめて(笑))。

ところで、今日から当方、花巻に行って参ります。メインの目的は、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の拝見。及びその関連行事として当初予定されていた当方の講座が、コロナ禍のためリモート配信ということになり、その収録のためです。で、今回は妻を連れて参ります。同居していた妻の母が昨年暮れに亡くなり、それまで数年間、介護で大変だったので、その慰労を兼ねてです。

妻は隠れ鉄子でして、材木町公園に静態保存されている花巻電鉄の馬面電車車輌(もろに光太郎が乗ったもの)を見せてやろうと思っております。もっとも、妻の「鉄分」は、「しなの鉄道さんの「ろくもん」に乗りたい!」とか「「ななつ星in九州」っていいよね」とかの種別なので、興味を示すかどうか怪しいところですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

七時45分のラジオ朝の放送に豊周の声をきく、録音はよし。


昭和27年6月8日の日記より 光太郎70歳

「豊周」は、光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ髙村豊周です。のちに鋳金分野の人間国宝となりました。この時期は金沢美術工芸学校教授を務めるかたわら、日展惨事などの任にもあたっていました。おそらくラジオはこの年開かれた豊周の第一回個展に関わるのではないかと推測されます。

昭和20年(1945)に信州へ疎開した豊周一家を見送って以来、光太郎は豊周には会っていませんでした。久々にラジオを通して聴いた弟の声は、どのような感懐をもたらしたでしょうか。

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