先週、修学旅行系の報道としてもご紹介しましたが、東日本大震災の津波で、甚大な被害を受けた宮城県女川町。当時の女川第一中学校の生徒の皆さんの発案で、町内の各浜、21箇所に津波の際の避難の目安となるランドマークとして「いのちの石碑」が設置され続けてきました。最初の企画の段階で、かつて女川港の光太郎文学碑が募金で費用をまかなって建てられたことに倣い、「いのちの石碑」も募金活動で資金を集めるということになりました。その意味では、光太郎文学碑の精神を受け継ぐプロジェクトです。

昨日、その「いのちの石碑」、当初予定の最後の1基が除幕されました。

最後の1基ということで、全国的に報道がなされました。自宅兼事務所で購読している『朝日新聞』さんも社会面で報じて下さいましたし、共同通信さんが記事を配信したため、全国の地方紙の多くがとりあげたようです。それら新聞報道は明日ご紹介いたします。

今日は、テレビのニュースから。

まず、NHKさん。

震災伝える“いのちの石碑” 最後の1基が完成 宮城 女川町

 東日本大震災の記憶や教訓を1000年先まで伝えようと、宮城県女川町の当時の子どもたちが、10年かけて町内の20か所余りに建ててきた“いのちの石碑”の最後の1基が完成し、披露されました。
 宮城県女川町は東日本大震災で最大で高さ14.8メートルの津波に襲われ、町民の8%に当たる800人以上が亡くなりました。
 震災の年に地元の中学校に入学した生徒たちは、1年生の社会の授業で震災について話し合い、1000年先まで震災の記憶や教訓を伝えようと、町内21か所の津波の最高到達点の付近に“女川いのちの石碑”を建てることを計画しました。
 3年生になった頃には募金活動でおよそ1000万円を集め、女川中学校の敷地内に最初の石碑を完成させました。
 石材会社の協力も得てその後も建立を進め、計画からおよそ10年たった21日、最後の21基目が完成して披露されました。
 除幕式には、活動の中心となった卒業生7人のほか多くの支援者が集まり、カウントダウンとともに石碑の幕を下ろしました。
 石碑にはすべて、当時の生徒が考えた五七五のメッセージが刻まれていて、21日に披露された石碑には、8年前に最初に建てた物と同じ「夢だけは壊せなかった 大震災」と書かれていました。
 当時、鉱物学者になりたいという夢を持っていた生徒が詠んだもので、集めていた石を家ごと流されても自分の夢を持ち続けた気持ちが表されています。
 これまで建てられた石碑は、国土地理院の自然災害伝承碑に登録され、県外の中学校が修学旅行で訪れるなど、伝承の拠点になっているということです。
 “女川いのちの石碑”を建てる活動の中心メンバーの1人、鈴木智博さん(22)は、「家族を亡くした僕のような経験をしてほしくないので、今後も石碑を通して、震災を伝える活動をしていきたい」と語っています。
 鈴木さんは、小学6年生のときに起きた東日本大震災で母親と祖父母を亡くしました。一時は仙台市や奈良県に避難していましたが、その後、女川に戻り中学校の社会の授業をきっかけにこの活動を始めました。
 現在は鈴木さんや同級生10人ほどで活動を続けています。大学生になってからは月に1回程度、修学旅行生や観光客を石碑まで案内し、震災の教訓を伝えてきました。
 また、子どもたちが災害から命を守る方法を学べるようにと、「いのちの教科書」というハンドブックも製作しました。今後は、この「教科書」を全国の小学校や中学校に届け、防災の大切さを伝えたいとしています。
 石碑を建てる活動が完了し、鈴木さんは「10年活動を続けてきて、目標が達成したことはすごくうれしいです。1000年先の人にも家族を亡くした僕のような経験をしてほしくないので、建てて終わりではなく、今後は石碑を通して震災を伝えるほか、教科書をいろんな人に届けるための活動を続けていきたいです」と話していました。
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ANN系、全国放送。

震災の教訓を後世に 「いのちの石碑」21基目が完成

 東日本大震災の教訓を後世に伝えようと宮城県女川町の当時の中学生たちが考えた「いのちの石碑」の21基目が完成し、21日に披露されました。
 2011年、震災直後に女川中学校に入学した生徒たちは「1000年後の命を守る」を合言葉に町内21カ所の高台に津波避難を呼び掛けるため石碑の建設を進める取り組みを始め、建設費用およそ1000万円を募金や寄付で集めました。
 1基目の建設から8年、当初目標としていた21基の最後となる石碑が完成し、設置されました。
 21基すべてに「もし、大きな地震が来たらこの石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください」と刻まれています。
 女川中学校の卒業生・鈴木智博さん(22):「終わりではなく、これをどんどん次の世代につないでいくのが今後の自分たちの活動のひとつになっていくので頑張っていきたい」
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JNN系、tbc東北放送さん。

女川いのちの石碑 目標の21基目完成

 女川町出身の若者たちが震災の教訓を語り継ごうと町内に建立を進めていた石碑は目標としていた21基全てが完成しました。
 女川小中学校で行われた21基目の披露式には、石碑を建立した「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーや町の関係者らが出席しました。
 この石碑は震災直後に入学した当時の女川中の生徒らが震災の教訓を後世に伝えようと町内21の浜の津波到達点よりも高い場所に建立を続けてきたものです。在校中に募金で資金を集めて卒業後も活動を続け、震災発生から10年あまりで目標の21基を立て終えました。
会のメンバーは今後も石碑を活用した語り部活動などで震災の教訓を伝えていきます。
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FNN系、仙台放送さん。

「この石碑よりも上に逃げて」女川いのちの石碑 目標の21基目がついに完成 <宮城県> 

 女川町で東日本大震災の発生直後から中学校の生徒たちが進めていた、津波の到達地点に石碑を建てる活動で21日、目標だった21基目の石碑が完成しました。
 21日女川小中学校の横に建てられたのは、21基目の「女川いのちの石碑」です。
この石碑は、震災の発生直後に中学生になった女川町の子どもたちが「千年後の命を守る」を合言葉に建てられたものです。
 町内21カ所にある浜の津波の到達地点に、石碑を建てることが目標で、資金の1000万円は、募金で集めました。
 石碑には「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上に逃げてください」「家に戻ろうとしている人がいれば、絶対に引き止めてください」などと刻まれています。
 活動を続けてきた伊藤唯さん
 「ここまでやってきた活動は、絶対に無駄にならないですし、これからの活動につながるような第一歩を踏めたと思う」
 活動を続けてきたメンバーは、今後も、いのちを守る取り組みを続けていきたいとしています。
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ある意味、驚いたのが、この活動に取り組んできた若者たちが、「これで終わりでなく、第一歩」的なコメントをしていることでした。これまでの10年ほどの活動でも、様々な困難があったはずなのですが……。頼もしい限りです。

明日は同じ件で、新聞各社の報道等をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

二時間ばかり大気浴、今日心地よし、


昭和26年(1951)5月30日の日記より 光太郎69歳

宿痾の肺結核による肋間神経痛も少し治まり、この日は調子が良かったようです。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺で、マイナスイオンを満喫したとのこと。

昨日の午前中、情報検索をしておりますと、ツィッター上に、「NHKさんで放映中の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」の次週予告で、光太郎作詞の戦時歌謡「歩くうた」が流れた」という書き込みが複数ありました。

当方、拝見しておりませんで、驚いて、12:45からの再放送を見てみたところ、たしかにそのとおりでした。
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3人のヒロイン(上白石萌音さん・深津絵里さん・川栄李奈さん)が、母から娘へとバトンをつなぐ三世代100年のファミリーストーリー」ということで、現在、戦時中が描かれていますので、それもありかな、と、思いましたが、意外といえば意外でした。

「歩くうた」は、昭和15年(1940)、光太郎が作詞し、飯田信夫の作曲で「国民歌謡」として発表されました。飯田信夫は「隣組」なども手掛けた作曲家です。翌年には徳山璉(たまき)の歌唱でレコード化され、それなりにヒットしたようです。歌詞など詳しくはこちら
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確認できている限り、戦時中にレコードは4種類リリースされています。徳山歌唱のものが2種、合唱によるものが1種、歌のないインストゥルメンタルバージョンが1種。戦後も故・小沢昭一さんや佐川満男さん、藍川由美さんなどがカバーしていますし、ブラスバンド用に編曲されたCDなども出ています。

故・髙村規氏や、故・金田和枝さんなど、戦時中に少年少女だった方々の中には、この歌を歌いながら行進するように登下校した、という思い出をお持ちの方がいらっしゃいます。それにしても、令和の現代に、「次週予告」で10秒ほど流れただけで(「作詞・高村光太郎」というテロップなどありませんでした)、光太郎の「歩くうた」だ、とわかる方々が結構いらしたことに驚いております。まぁ、「何だ、あの曲は?」と、歌詞を手がかりにネットで検索された方もいらしたかもしれませんが。

ちなみに来週の「カムカムエヴリバディ」は、「学徒動員に応じて、稔(松村北斗)と勇(村上虹郎)は出征。安子(上白石萌音)は娘のるいを授かる。一方、戦況は悪化し本土への空襲が頻度を増す中で、岡山も大空襲を受け、市内の大半が焦土に。その後まもなくして終戦を迎える。空襲で家族を失い、悲しみに暮れる安子だったが、父の金太(甲本雅裕)に和菓子作りを教わり、焼け跡で和菓子を売り始める。そんな中、安子の元にさらなる訃報が届く。」だそうです。

「次週予告」だけでなく、本編でも「歩くうた」が流れるのでしょう。気をつけてみてみたいと思います。

それ以外に、光雲、光太郎智恵子がらみの番組も。

京都紅葉生中継2021 「古都を照らす希望の光〜曼殊院の紅葉を堪能!高島礼子」 

BS11イレブン 2021年11月23日(火) 19:03〜20:54 

夜の闇を照らし、希望の象徴とされる「光」。時に豊かな時間を過ごすために、時に孤独や不安と抗うように願いを込めて灯し続けられてきた古都の「光」「ともしび」をテーマに、ライトアップされた名所の紅葉とともに綴ります。メインスタジオは、京都洛北の「小さな桂離宮」曼殊院門跡。宮中の造形美を受け継ぐ格式高い門跡寺院の紅葉は、鮮やかな差し色となる名高い紅葉スポットとなっています。

今夜はそんな曼殊院門跡から生放送でお送りいたします。コロナ禍の今こそ自宅で楽しんでいただきたい京都の紅葉。ゲストには俳優の高島礼子さん、音楽ゲストには、ギタリストの押尾コータローさん、解説には国際日本文化研究センター井上章一所長をお迎えし、KBS京都・BS11の共同制作でお送りします。京都の紅葉と希望の「光」、そして、華麗なテクニックを駆使したギターの音色で彩る風雅な2時間をお楽しみください。

【メイン舞台】『曼殊院門跡』
洛北の一乗寺に築かれた格式高い門跡寺院で、伝教大師最澄が比叡山延暦寺に建立した道場が起源で、桂離宮を造営した八条宮智仁(としひと)親王の御子・良尚(りょうしょう)法親王が現在の地に造営して以来、宮中の造形美を受け継ぐ寺院として知られており、楓が茂る石段の上に立つ勅使門や、山際の紅葉が鮮やかな差し色となる枯山水庭園が名高い。

【中継先】
『知恩院』
(法然が開いた浄土宗の総本山。三門をはじめ御影堂など大伽藍を誇る。友禅染の始祖・宮崎友禅生誕300年を記念して造られた庭園「友禅苑」の池には、高村光雲作の聖観音菩薩立像が立ちライトアップに浮かびあがる)
『金戒光明寺』
(「くろだにさん」として親しまれる浄土宗発祥の地。幕末には京都守護職本陣が構えられた新選組ゆかりの寺としても有名。参道脇にたたずむ五劫思惟阿弥陀仏も人気)

出演者 高島礼子(俳優) 押尾コータロー(ギタリスト)
    井上章一(国際日本文化研究センター所長)
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生放送の番組だそうですが、現在、ライトアップ中の知恩院さんからの中継も入るとのこと。番組説明に光雲作の聖観音像に関する記述がありますので、そちらも取り上げられるのでしょう。

もう1件。

<BSフジサスペンス劇場>浅見光彦シリーズ22 「首の女」殺人事件 

BSフジ 2021年11月26日(金) 12:00〜13:58

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!

<出演者>
中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
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故・内田康夫氏原作の2時間ドラマで、初回放映は平成18年(2006)、その後、繰り返し再放送が為されています。光太郎彫刻の贋作を巡る殺人事件が描かれ、花巻の旧高村記念館、二本松の智恵子の生家などでもロケが行われました。かなり内田氏の原作に忠実に作られています。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方弘さん来て明夕六時ラジオでブランデンブルグ六番があるとの事、


昭和26年(1951)5月29日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で、ラジオ放送は光太郎にとって無聊をかこつ慰謝となっていました。「ブランデンブルグ」はバッハ作曲。光太郎は昭和23年(1948)に、「ブランデンブルグ」という詩を書いています。開拓団の弘青年、それを知っていて、光太郎に放送予定を教えてあげたのでしょう。

『毎日新聞』さん、月曜日の夕刊に、「美とあそぶ」という連載があります。各界で活躍する著名人の方々が、御自身の美術にまつわる体験等を、3週前後に分けて語られています。

11月8日(月)、15日(月)は、テノール歌手の秋川雅史さん。音楽活動のかたわら、木彫にも取り組まれていて、今年9月に開催された第105回記念二科展の彫刻部門で、見事、入選を果たされました。秋川さん、光太郎の父・光雲のファンだそうで、テレビ東京系「開運! なんでも鑑定団」に、光雲の真作を引っ提げてご出演なさったことも。二科展入選作も、光雲が主任となって制作された「楠木正成像」の模刻でした。

で、11月8日(月)の「美にあそぶ」は、その二科展入賞作について。

美とあそぶ 秋川雅史さん/1 これまでで一番の自信作

 2021年第105回記念「二科展」の「彫刻部門」に初めて出品し入選しました。入選できるか自信は半々。知人からは約100件の祝福メールが来て、06年に紅白歌合戦への出場が初めて決まった時以来の反響の大きさでした。
 作品は「木彫楠公(なんこう)像」。皇居前にある楠木正成の銅像をモチーフにしました。著名な彫刻家の高村光雲の写真集でこの銅像の存在を知り、形のかっこよさに魅了され、大きな目標になりました。
 音楽活動は新型コロナウイルスの感染拡大で制限され、年に70~80あったステージは8割以上なくなりました。昨年は半年間ゼロ、今年も3カ月間ゼロという時もありましたが、マイナス思考になってはいけないという気持ちでした。毎日、彫れる時間がたくさんでき、かなり集中できましたし、相当きあいも入りました。4~5年かかるところを3年で完成。これまでの作品で一番の力作で、自信作です。
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01815日(月)には、彫刻に手を染められたきっかけについて語られていました。公演で訪れられたドイツで購入した鷹の木彫を見ているうち、「自分でも作れそうだ」とお思いになったとのこと(それもすごい話ですが(笑))。その後、東急ハンズさんで買われた彫刻刀(笑)を使い、我流で始められたそうですが、我流では限界がある、と、仏師の関侊雲氏に師事なさったそうです。

関侊雲氏、「雲」の字が号に入っているので、光雲系かと思ったのですが、さにあらず、京都の松久朋琳の流れを汲むとのこと。そして、秋川さんが最初に作られたのが、右の「聖観音像」だそうです。見事ですね。

このあたり、『婦人公論』さんのサイトでも紹介されています。誌面への掲載はなかったようなのですが。

今後とも、ご本業の音楽、そして彫刻と、ご活躍を続けていっていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃朝日新聞の記者盛岡よりくる。小屋建築の記事らし。写真とつてゆく。

昭和26年(1951)5月27日の日記より 光太郎69歳

小屋建築」は、この頃行われていた山小屋の増築工事です。

主要紙の古い記事も、可能な限り調査しているのですが、この記事は未見です。気をつけて調査してみます。

東日本大震災による大津波で、甚大な被害を受けた宮城県女川町。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として、津波到達地点より高い場所に「いのちの石碑」の設置を続けています。かつて「100円募金」で建てられた、女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われています。

その取り組みは多方面で注目され、高校生になった発案者の若者たちが、国連の防災会議で発表を行ったり、天皇陛下も「第5回国連水と災害に関する特別会合」で紹介されたり、「自然災害伝承碑」という新たな地図記号が制定される契機になったりしています。

その「いのちの石碑」関連で、昨日のNHKさんのローカルニュースから。

「いのちの石碑」 震災遺族が修学旅行生に語り部 女川町

 女川町で東日本大震災の記憶や教訓を記した石碑を建てる活動を続けている女川中学校の卒業生が、修学旅行で訪れた県外の中学生に語り部を行い、助け合うことの大切さを伝えました。
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 語り部を行ったのは、震災当時、小学6年生で、県内の大学に通っている鈴木智博さん(22)です。震災で母親と祖父母を亡くしています。
 鈴木さんたち女川中学校の卒業生は、1000年先まで震災の記憶を伝えようと、町内の、津波が到達した場所付近の合わせて21か所に「いのちの石碑」を建てる活動を続けています。
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 18日は、町に最大で14.8メートルの津波が来て、町民の8%以上が犠牲になったことなどを体験談を交えて語りました。
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 その後、旧女川中学校にある最初に建てた「いのちの石碑」まで案内し、「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再びあわせたくない」などと書かれた碑文を読みました。
そして、石碑には亡くなった方への慰霊や鎮魂の思いも込められていることや、非常時に助け合うためにふだんから人と人との絆を強くすることが大事なことなどを伝えました。
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 話を聞いた女子生徒は、「石碑を見て、思いが大事に刻まれているなと感じました。自分の地域でも地震が起こったとき、近所の人と一緒に逃げられるようにしたいです」と話していました。
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 鈴木さんは、「今の中学生は震災当時の記憶があまりないと思うので、自分の話を聞いて今後、災害があった時に自分の命を守れるように行動してほしいです。きょう聞いたことを周りの人にも話してほしいと思います」と話していました。
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 今月21日には、最後の21か所目の「いのちの石碑」が披露されるということです。

修学旅行で訪れたのは、栃木県の中学生でした。『下野新聞』さんから。

大震災の教訓 現地で体感へ 那須の小中3校、東北に修学旅行

【那須】新型コロナウイルスの感染状況が落ち着いたことを受け、町内の公立5小中学校は今月、修学旅行を実施する。このうち3校の行き先は東北地方で、震災遺構見学や全町避難した小学生との交流などが予定されている。町は2年前から防災教育に力を入れてきたため、関係者は「多くのことを学んでほしい」と期待している。
 那須中央中3年生は18日、昨年からオンライン交流を重ねてきた宮城県女川町を訪れ、震災時の津波到達点の目印「いのちの石碑」を見学。石碑建立に携わり、現地で語り部活動を続ける大学生の鈴木智博(すずきともひろ)さんに話を聞く。
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修学旅行というと、関東からは京都・奈良、関東以外からは東京というのが定番のような気がしますが、コロナ禍の影響もあり、だいぶ様変わりしているようですね。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手・花巻でも受け入れに力を入れているようですし、「東北」としての修学旅行ガイドでも光太郎ゆかりの地が取り上げられたりしています。

かなり前から、単なる物見遊山ではなく、体験型の取り組みなどが取り入れられてはいる(「いのちの石碑」発案者の若者たちは、中学校時代の修学旅行先でも募金への呼びかけを行っていました)ようですが、そういった部分で、光太郎智恵子ゆかりの地がもっと注目されてほしいものです。

さて、「いのちの石碑」。NHKさんの報道の最後にも触れられていましたが、明後日、当初計画で最後の一基の除幕が行われるそうです。来週には、そちらの報道もご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

五月廿六日はじめて時鳥の声をきく。この夜夜鷹なきはじめる。廿七日も八時頃よりなく。

昭和26年(1951)5月27日の日記より 光太郎69歳

時鳥」は「ホトトギス」。都会の人はご存じないかも知れませんが、田舎では夏の到来の象徴です。当方自宅兼事務所周辺もかなりの田舎(笑)、初夏の朝はあちこちで「テッペンカケタカ」の大合唱です。
夜鷹」(ヨタカ)についてはこちら

まず、頂き物。詩人の間島康子氏から近著が届きました。

ハユラコ hajurako 間島康子随想集

2021年11月15日 間島康子著 樹海社 定価2,500円+税

しずかにゆったりと 紡ぎ出される言葉が 森をとおる風に運ばれるように 優しくひっそりと ひかえめに しかし 確乎とした意志をもって 読む人のこころに届けられる。
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目次
 つながる
  つながる 一瞬にして 春を歩く 冬の旅 ちいさな子のいる風景
 霧の中に
  霧の中に つゆ 蛙の子 六月の花 山羊のいる風景 少年の功徳
 部屋
  部屋 母の領域 秋から冬へ・メタセコイアの道を通って 冬から春へ・糸を引く
  その日まで 終わる家
 ハユラコ
  ハユラコ hajurako 行くところ 海辺の町 近景 微笑 細い家
 桜追想
  桜追想 ふるさとあれこれ みすゞの町 智恵子の空 国境の島にて
 あとがき
 初出一覧

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著者の間島氏、様々な詩誌、文芸誌の同人であらせられ、光太郎智恵子について書かれた玉稿の載った『群系』という文芸誌を以前にも下さいましたし、平成30年(2018)には、第63回高村光太郎研究会でご発表もされました。

詩誌『駅』に連載されたエッセイの単行本化ということです。表題作の「ハユラコ hajurako」は、フィンランド語で「物理的に適切な人と人との距離」の意だそうで、昨今の「ソーシャルディスタンス」の話かと思ったところ、その項はコロナ禍前の平成30年(2018)のご執筆で、コロナとは無関係でした。「あとがき」では、そのあたりにふれられていますが。

終末近くに「智恵子の空」という一篇。平成25年(2013)のご執筆で、この年、千葉市美術館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展を御覧になったあと訪れた、智恵子の故郷・福島二本松のレポート的な内容です。

版元の樹海社さんという書肆、浜松在の自費出版系のようですが、ウェブサイトが見つかりません。奥付画像を載せておきますので、ご入用の方、そちらをご参考になさってください。

「智恵子」、「福島」ということで、もう1件。

二本松の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶさんが主催した「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」について、地元紙に続いて『読売新聞』さんも報じて下さいました。

智恵子抄総選挙 「レモン哀歌」1位に

 詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子への思いをつづった詩集「智恵子抄」のうち、最も心に残った作品を決める「総選挙」の結果が発表され、「レモン哀歌」が1位に輝いた。
 二本松市の団体「智恵子のまち夢くらぶ」の主催で、「智恵子抄」出版から今年で80年となるのを記念して実施した。4月から10月まで、郵便はがきや市内に設けた投票箱と用紙での投票を呼びかけたところ、全国から584票が集まった。
 1位の「レモン哀歌」は140票を獲得。智恵子の最期を詠んだ作品で、光太郎は詩集に「私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに 此こ の世を去つた」と記している。
 応募者からは同作品について「2人がとても愛し合っていたことが伝わってきて感動した」「幼少期から祖母に聞かされ、今でも時々思い出すほど好き」などのコメントが寄せられた。
 2位は「あどけない話」、3位は「樹下の二人」だった。
 同団体代表の熊谷健一さん(71)は「若い人も含め、予想以上にたくさんの応募があって驚いた。光太郎と智恵子の純愛を知る人が少しずつ増えているように感じられてうれしい」と話している。
 総選挙の結果は、同団体が今月開催予定の第2回全国「智恵子抄」朗読大会で発表するはずだった。だが、新型コロナウイルスの影響で大会は中止に。その代わり、「智恵子抄」出版80周年記念文集を来月に発行し、その中に結果も収録することにしている。文集は二本松市内の小中高校、図書館に無償で寄贈する。
  順位 作品名     票数 
  1  レモン哀歌   140
  2  あどけない話  127
  3  樹下の二人   112
  4  人に      66 
  5  風にのる智恵子 18 

「智恵子抄」。末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

よさの晶子のうた一首つくる、廿九日の会に電報で送らんかと思ふ。


昭和26年(1951)5月25日の日記より 光太郎69歳

廿九日の会」は、与謝野晶子没後十周年記念講演会。電報で送られた短歌は、

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ

のち、この年7月の雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。

日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

朗読CDのニューリリースです。

朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 坊ちゃん/耳なし芳一・雪女/詩集「生きる」

2021年11月3日 ハピネット・メディアマーケティング 定価2,200円(税込み)

人気・実力派声優による声の演技プロの技による朗読を堪能!日本近現代の名作小説や詩を、人気・実力ともに兼ね備えた豪華声優人たちの朗読で味わうシリーズ第二期スタート!教科書で読んだことがある、長く愛され続ける日本の名作文学を厳選収録。本作の朗読用に書き下ろされたオリジナルあらすじ台本。花を添えるのは、人気・実力を兼ね備える、ベテランから新進気鋭の若手まで、バラエティに富んだ豪華声優陣! 1巻に3作の作品を収録しました。

坊ちゃん/夏目漱石          朗読:白井悠介
耳なし芳一・雪女/小泉八雲 朗読:浅沼晋太郎
詩集「生きる」/中原中也・高村光太郎・萩原朔太郎 朗読:豊永利行
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トラック3「詩集「生きる」」の中に、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(同)が含まれています。他には中原中也で「生い立ちの歌」、「汚れつちまつた悲しみに」、「頑是ない歌」、萩原朔太郎の「帰郷」、室生犀星による「第二の故郷」、山村暮鳥が「自分はいまこそ言はう」、そして宮沢賢治「風がおもてで呼んでゐる」、「雨ニモマケズ」。

朗読なさっているのは、声優の豊永利行さん。さすがにプロの声優さんだけあって、いい感じです。あまり気負わず、意外と淡々と読んでいるようにも聞こえますが、それが却って耳に心地よく感じました。

最近、YouTubeなどで光太郎詩等の朗読が続々アップされていますが、「さぁ皆さん! 私の朗読で心を洗われて下さい!」とでも云わんばかりに、妙な抑揚ををこれでもかこれでもかこれでもかとつけまくるものが多く、辟易しています。また、朗読以前にまずは漢字の読み方を勉強しなさい、と、云いたくなるものも……。もちろん、これはいい、と思えるものもあるのですが……。こういうと何ですが、YouTubeなどは厳しい校閲を経なくても、誰でも手軽にアップロードできてしまうので、玉石混淆(それも「石」の比率が高い状態)ですね。

その点、このCDはそういうこともなく、きちんと作られていて感心しました。

「朗読喫茶 噺の籠 ~あらすじで聴く文学全集~ 」というシリーズで、今年2月から順次発行されはじめ、今月は3枚が出まして、そのうちの1枚です。バラ売りになっており、助かります。他のCDが不要、というわけではないのですが……。

ちなみにシリーズの他の作品は以下の通りです。

第1巻
 銀河鉄道の夜 (宮沢賢治) 朗読:斉藤壮馬000
 走れメロス (太宰治) 朗読:下野紘
 吾輩は猫である (夏目漱石) 朗読:杉田智和
第2巻
 風立ちぬ (堀辰雄) 朗読:伊東健人
 野菊の墓 (伊藤左千夫) 朗読:松岡禎丞
 舞姫 (森鴎外) 朗読:鈴木達央
第3巻
 山月記 (中島敦) 朗読:八代拓
 御伽草子 (太宰治) 朗読:蒼井翔太
 杜子春・蜘蛛の糸 (芥川龍之介) 朗読:井上和彦
第4巻
 檸檬 (梶井基次郎) 朗読:福山潤
 人間失格 (太宰治) 朗読:緑川光
 桜の森の満開の下 (坂口安吾) 朗読:津田健次郎
第5巻
 蒲団 (田山花袋) 朗読:寺島惇太
 春琴抄 (谷崎潤一郎) 朗読:石川界人
 こころ (夏目漱石) 朗読:古川慎
第6巻
 人間椅子 (江戸川乱歩) 朗読:石田彰
 注文の多い料理店 (宮沢賢治) 朗読:中島ヨシキ
 羅生門 (芥川龍之介) 朗読:森川智之
第7巻
 D坂の殺人事件(江戸川乱歩) 朗読:榎木淳弥
 河童(芥川龍之介) 朗読:武内駿輔
 セロ弾きのゴーシュ(宮沢賢治)
  朗読:斉藤壮馬
第8巻
 斜陽(太宰治) 朗読:日野聡
 五重塔(幸田露伴) 朗読:寺島拓篤
 武蔵野(国木田独歩) 朗読:入野自由
第9巻
  痴人の愛(谷崎潤一郎) 朗読:吉野裕行
 墨東綺譚(永井荷風) 朗読:三木眞一郎
 破戒(島崎藤村) 朗読:天﨑滉平
第10巻
 よだかの星(宮沢賢治) 朗読:伊東健人
 天守物語(泉鏡花) 朗読:置鮎龍太郎
 十三夜(樋口一葉) 朗読:佐藤拓也
第11巻
 藪の中(芥川龍之介) 朗読:内山昂輝
 あにいもうと(室生犀星) 朗読:江口拓也
 高瀬舟(森鷗外) 朗読:田丸篤志

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前湯口小学校の二年生等大勢先生に引率されて山に遠足にくる、先生等立ちよる。

昭和26年(1951)5月24日の日記より 光太郎69歳

湯口小学校さん、当時の行政区分としては、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に隣接する湯口村です。現在も同じ校名で存続しています。光太郎の山小屋まで、およそ5㌔㍍。往復10㌔となると、2年生にはちょっときつかったような気もしますが……。

本日も新刊紹介です。

近代を彫刻/超克する

2021年10月27日 小田原のどか著 講談社 定価1,300円+税

〈思想的課題〉としての彫刻を語りたい。 

街角の彫像から見えてくる、もう一つの日本近現代史、ジェンダーの問題、公共というもの……。
都市に建立され続け、時に破壊され引き倒される中で、彫刻は何を映すのか。
注目の彫刻家・批評家が放つ画期的な論考。
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目次
 1章 空の台座
  1 彫刻という困難  2 彫刻が可視化するもの  3 記念碑としての彫像
  4 彫刻のはじまり  5 空の台座と女性像
 2章 拒絶される彫刻
  1 破壊される彫像  2 光太郎とロダン  3 《風雪の群像》
  4 《サン・チャイルド》  5 長崎の《母子像》
 3章 彫刻を語る
  1 「彫刻」となったレーニン  2 《わだつみの声》
  3 「もう一つの東京裁判」  4 彫刻の立つ地点
 あとがき
 註  


彫刻の実作のかたわら、一貫して銅像などの公共空間に置かれた「公共彫刻」について考察を発表されている、小田原のどか氏の近著です。元は雑誌『群像』さんの今年1月号、4月号、6月号に載ったものを加筆修正、だそうです。実は6月号の時点で気づいたのですが、いずれ単行本化されるだろうと予測していまして、その通りでした。

また、「1章 空の台座」(「空」は「そら」ではなく「から」です。)は、平成30年(2018)に刊行された、小田原氏を含む10数名の皆さんによる、『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』(トポフィル)中の「空の台座――公共空間の女性裸体像をめぐって」を大幅に改稿したもの、とのこと。

光太郎について、「2章 拒絶される彫刻」中に「2 光太郎とロダン」という項が設けられています。また、他にアメリカの彫刻家・ボーグラムや本郷新との関わりや、大熊氏広の「大村益次郎像」、三条京阪駅前の「高山彦九郎皇居望拝之像」(作者:戦前、渡辺長男・戦後、伊藤五百亀)などを紹介する中でも、光太郎に触れられています。

ただ残念なのは、「2 光太郎とロダン」中、事実と反する記述があること。「光太郎が屋外に残した彫刻は、東京藝術大学内の《高村光雲像》と、遺作である十和田湖の《乙女の像》のみである。」という部分です。他に3点、光太郎が屋外設置の公共彫刻を手掛けたことが確認できています。

まず、光太郎クレジットのものとしては、千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられた「赤星朝暉胸像」(昭和10年=1935)。それから「監督・高村光雲 原型・高村光太郎」という扱いで宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)に建てられた「青沼彦治像」(大正14年=1925)。そして完全に光雲の代作のようですが、岐阜県恵那郡岩村町の「浅見与一右衛門像」(大正7年=1918)。下の画像、左から順に、赤星、青沼、浅見です。
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ただ、残念ながら、3点とも戦時の金属供出にあい、現存しません。赤星像と浅見像は、それぞれ武石弘三郎と永井浩によるいわば「後釜」が戦後に設置され直し、青沼像は残された台座に作者不明のレリーフが嵌め込まれた形で残っています。
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上の画像、左が青沼像、右は浅沼像の台座です。浅沼像のほうは、少し離れた場所に新たな像が設置され、元の台座は台座のまま残っています。もっとも、これらの写真を撮りに行ったのも十数年前なので、現在どうなっているか不明なのですが……。

こういった、金属供出などによって、台座のみが残された件についての考察が、『近代を彫刻/超克する』中の「1章 空の台座」です。

小田原氏、来月末から青森市の国際芸術センター青森さんを会場に、個展を行うそうです。「いよいよ、高村光太郎の彫刻と自作が並びます。」とのことです。コロナ禍のため動きが取れず、昨年、藝大さんで開催された「PUBLIC DEVICE -彫刻の象徴性と恒久性-」も観に行けず、青森空港の巨大ステンドグラス「青の森へ」や、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022」もまだ拝見していませんので、この機会に、と思っております。

さて、『近代を彫刻/超克する』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

松下英麿氏に起こされる。特級白鶴二本かついでくる、よみうり賞の祝の由、ビール四本のみて夕方まで選集、てんらん会の打合。五時辞去。


昭和26年(1951)5月22日の日記より 光太郎69歳

0c2e0e33松下英麿氏」は、中央公論社の編集者。光太郎とは戦前からの付き合いで、貴重な光太郎回想も複数残しています。「よみうり賞」は、詩集『典型』による第二回読売文学賞の受賞、「選集」はこの年10月に同社から刊行が始まった『高村光太郎選集』(草野心平編)、「てんらん会」は、翌月、銀座の資生堂画廊で開催された「智恵子紙絵展覧会」です。ちなみにこの時から光太郎の考えで「紙絵」の語が使われるようになりました。主催が同社と創元社でした。

例によって、日本酒をもらうとその銘柄を記録しています。この日は「白鶴」。いわゆる灘の銘酒で、現在も販売されていますね。

いわゆるアンソロジーです。

作家と酒 

2021年9月22日 平凡社編集部編 平凡社 定価1,900円+税

酒呑みへ捧ぐ、作家と酒をめぐる44編! 昭和の文豪や現代の人気作家によるエッセイ、詩、漫画、写真資料を収録。ほろ酔い、泥酔、二日酔い……そして今宵も酒を呑む。
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目次
1 酒呑みの流儀
 正しい酒の呑み方七箇条/おいしいお酒、ありがとう 杉浦日向子  
 二十年来の酒 立原正秋 
 或一頁 林芙美子 
 ビールの歌 火野葦平 
 酒と小鳥 若山牧水 
 ビールの味 高村光太郎 
 あたしは御飯が好きなんだ! 新井素子 
 酒のエッセイについて 二分法的に 丸谷才一 
2 酒の悪癖
 酒徒交伝 永井龍男 
 失敗 小林秀雄 
 酒は旅の代用にならないという話 吉田健一
 一品大盛りの味─尾道のママカリ 種村季弘
 更年期の酒 田辺聖子
 やけ酒 サトウハチロー
 『バカは死んでもバカなのだ赤塚不二夫対談集』より 赤塚不二夫×野坂昭如
 ビール会社征伐 夢野久作
3 わたしの酒遍歴
 ホワイト・オン・ザ・スノー 中上健次
 音痴の酒甕 石牟礼道子
 酒の楽しみ 金井美恵子
 eについて 田村隆一
 先生の偉さ/酒 横山大観
 酒のうまさ 岡本太郎
 私は酒がやめられない 古川緑波
 ビールに操を捧げた夏だった 夢枕獏
 妻に似ている 川上弘美
4 酒は相棒
 ブルー・リボン・ビールのある光景 村上春樹
 薯焼酎 伊丹十三
 サントリー禍 檀一雄
 香水を飲む 開高健
 人生がバラ色に見えるとき 石井好子 
 パタンと死ねたら最高! 高田渡 
 風色の一夜 山田風太郎×中島らも 
 冷蔵庫マイ・ラブ 尾瀬あきら 
 『4コマ ちびまる子ちゃん』より さくらももこ
 こういう時だからこそ出来るだけ街で飲み歩かなければ 坪内祐三  
 焼酎歌 山尾三省
5 酒場の人間模様
 未練 内田百閒 
 カフヱーにて 中原中也
 三鞭酒 宮本百合子 
 星新一のサービス酒 筒井康隆 
 とりあえずビールでいいのか 赤瀬川原平 
 「火の車」盛衰記 草野心平 
 水曜日の男、今泉さんの豊かなおひげ 金井真紀 
 終電車 たむらしげる 

光太郎作品は、随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)。「私はビールをのめば相当にのむが何もビールが特別に好きなわけではない」としつつ、明治末の欧米留学で初めて知ったビールの味など、さまざまな体験や蘊蓄が語られます。

光太郎とビールといえば、いろいろと武勇伝には事欠かないのでしょうが、当方は、この文章が書かれてからだいぶ後のこと、昭和26年(1951)12月7日のエピソードを思い起こします。

まずその日の日記から。

午前東京より横田正治、佐藤文治といふ二人の青年学徒来訪、 そのうち草野心平氏来訪、昨夜関登久也氏宅泊りの由、いろいろのもらひもの、ヰロリで暫時談話、 後洋服をあらためて一緒に出かけ、花巻伊藤屋にて四人でビール等、草野氏と共にタキシで台温泉松田家にゆき一泊、ビール等〈(あんま)〉

横田正治」は、正しくは「横田正知」。のち、宮沢賢治や若山牧水らについての書籍を執筆しています。「伊藤屋」は、JR東北本線花巻駅前に健在です。

下の画像は、この日、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、花巻電鉄の駅までの道中で撮られたもので、横田の撮影です。
003
その後の台温泉での思い出は、光太郎歿後すぐに刊行された『旅行の手帖』に載った「花巻温泉」という談話筆記に描かれています。「松田家」は「松田屋」の誤りです。松田屋旅館さんも健在です。

 以前に草野心平と一緒に台を訪れたことがあるが、隣でさわぐ、階下じゃ唄う、向うで踊るという次第で、一晩中寝られない。そこでこっちも二人で飲み出した。二人の強いのを知って、帖場からお客なんか呑み倒しちまう、という屈強な女中が送り込まれたのに張合った。たちまち何十本と立ちならんだ。まったくいい気になって呑もうものなら、大変なことになるところだ。

古き良き時代、という感じですね(笑)。ただ、松田屋さんに泊まったのはこの時だけではないので、違う日のことかもしれません。

その草野の書いた「「火の車」盛衰記」も、『作家と酒』に載っており、光太郎も心平が経営していた居酒屋「火の車」常連だったため、光太郎の名が出て来るかと期待したのですが、残念ながらそれはありませんでした。

さて、何はともあれ、『作家と酒』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃土門拳来訪、助手二人同道、今夜横手市の平源にゆき、明日秋田市にゆく由。写真撮影。三時頃辞去。元気なり。


昭和26年(1951)5月21日の日記より 光太郎69歳

この日のことも、後にエッセイで述懐しています。翌年の『岩手日報』に載った「芸術についての断想」から。

いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。(略)カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。

光太郎、土門の仏像写真などは高く評価していましたが、自分が撮影されるのは嫌いでした。そういう意味では、上記の横田撮影のものなど、非常に貴重なショットです。



今朝の『朝日新聞』さんには、大きく広告が出ていました。
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残照の頂 続・山女日記 

2021年11月10日 湊かなえ著 幻冬舎 定価1,500円+税

「通過したつらい日々は、つらかったと認めればいい。たいへんだったと口に出せばいい。そこを乗り越えた自分を素直にねぎらえばいい。そこから、次の目的地を探せばいい。」(武奈ヶ岳・安達太良山 より)

日々の思いを噛み締めながら、一歩一歩、山を登る女たち。山頂から見える景色は、これから行くべき道を教えてくれる。

後立山連峰 亡き夫に対して後悔を抱く女性と、人生の選択に迷いが生じる会社員。
北アルプス表銀座 失踪した仲間と、ともに登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。
立山・剱岳 娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。
武奈ヶ岳・安達太良山 コロナ禍、三〇年ぶりの登山をかつての山仲間と報告し合う女性たち。
003
NHK BSプレミアムさんで放映中の「プレミアムドラマ山女日記3」の原作、ということですが、読んで驚きました。ドラマは工藤夕貴さん演じる山岳ガイド・立花柚月を主人公としていますが、こちらには柚月は登場しません。

4篇のオムニバスがそれぞれ独立しており、登場人物の一部とそれぞれの設定や、描かれるエピソードの一部がドラマでもアレンジされて使われている、という形です。

「続」ではない方の『山女日記』を読んでいないのですが、そちらには「立花柚月」が登場します。ただ、やはりドラマとは設定が異なっているようです。結局、ドラマは柚月を主人公、というより狂言回しにできるよう、脱サラした山岳ガイドと変更し、小説各話のエピソードも、設定を変えながらちりばめているようです。

で、「武奈ヶ岳・安達太良山」。ドラマでは小林綾子さん演じる英子は柚月のOL時代の同僚で、夫の実家である和菓子店を立て直すために、二本松に移り住んだという設定になっていますが、小説の英子は、京都の和菓子店の娘。急逝した兄に替わって、店を継いだということになっています。そして英子が登るのは安達太良山ではなく、滋賀県の武奈ヶ岳。山頂で自分の店の菓子を、そうとは知らない見知らぬ登山者から、これが山頂でのとっておきのルーティーン、的におすそわけとして差し出され、涙ぐむなどのエピソードは、ドラマと同一でした。

では、安達太良山は、というと、英子の旧友の久美が登ります。その中では、「智恵子抄」がらみの話になっていました。ちなみに久美は、福島浜通りに夫と開いたペンションが、東日本大震災の津波で全壊、という設定でした。英子と久美は、それぞれに手紙でそれぞれの登山を報告し会う、往復書簡の形になっています。

帯文にあるとおり、「ここは、再生の場所――。」小説もドラマも、各話の登場人物が、日々の暮らしの中で抱え込んだ重い荷物を、山に捨ててくる(以前も書きましたが、比喩です)という構図は変わりません。そういう意味では、非常にポジティブです。

また、オムニバスですので、どこから読み始めてもOK。当方もまず「武奈ヶ岳・安達太良山」を読み、巻頭に返って「後立山連峰」を読了、現在「北アルプス表銀座」を読んでいるところです。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃起きた時花巻より花巻新報の平野氏来訪、まりつきうたを舞踊にするとの事、

昭和26年(1951)5月20日の日記より 光太郎69歳

016まりつきうた」は、「初夢まりつきうた」。確認できている限り、光太郎がはじめから歌曲等の歌詞として作詞したと思われる最後の作品で、この年1月7日の『花巻新報』に発表されました。

邦楽奏者の杵屋正邦により作曲され、レコード化もされましたが、さらに振りを付けて舞踊にする、ということで、平野なる人物が報告に来たという訳です。

5月28日付の『花巻新報』から。

本社では彫刻家、詩人高村光太郎翁が、本誌新年号のために寄稿された花巻商人“初夢まりつき唄”の舞踊化を図り計画中のところ、水木歌盛さんの協力を得て日本舞踊の泰斗栗島すみ子(水木歌紅)振付、杵屋正邦作曲が完成したので 来たる六月十六日(土曜日)昼及び夜の二回に亘り発表会を開催する予定である、尚当日は高村翁を招待して講演会を開く予定(入場無料)

栗島すみ子、ビッグネームが出てきましたね。

4件ほどご紹介します。

まず、もう今夜のオンエアです。

にっぽんトレッキング100 SP「歩いてしか行けない絶景の秘湯2021」

NHK BSプレミアム 2021年11月13日(土) 19:30〜21:00

歩いてしか行くことのできない秘湯を大特集!安達太良山では「温泉の道」をたどり渓谷の野湯へ。妙高山では絶景!滝見風呂。屈斜路湖では歩いてもいけない?浜辺の野湯へ。

福島・安達太良山には東西異なる絶景の秘湯が。東では8kmの「温泉の道」をたどると15の源泉&紅葉の絶景温泉!さらに西には「渓谷の野湯」が。新潟・妙高山では「地獄」と呼ばれる2つの源泉へ。そ待っているのは、これぞ極楽!滝見露天風呂!日本一のカルデラ湖、北海道・屈斜路湖。その周辺には火山が織りなす不思議な絶景の数々。そして「歩いてもいけない」謎の秘湯へ!紅葉真っ盛り、山々の絶景とともにお届けする。

【出演】仲川希良,松尾諭,青山草太,【語り】渡部紗弓,小西政親
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智恵子の故郷・福島二本松に聳え、「ほんとの空」があると智恵子が言った安達太良山周辺の温泉が、いろいろ紹介されるようです。「東では8kmの「温泉の道」をたどると15の源泉&紅葉の絶景温泉!さらに西には「渓谷の野湯」」。どこのことを指しているんだろう? という感じなのですが。

もう1件、やはり登山系の番組で、安達太良山。

ゆるっと山歩(さんぽ)に行こう ▽登山を始めたい方必見!絶景やグルメも堪能!

BS朝日 2021年11月20日(土) 13:00〜14:00

登山初心者の女優・酒井美紀と、ゴリ(ガレッジセール)が、山のスペシャリストと共に山頂を目指す!景色はもちろん、山での歩き方や服装など登山初心者に向けた情報も満載。

酒井美紀(女優)が登るのは、福島県にある安達太良山(あだたらやま)。「日本百名山」に選ばれている標高1700mの美しい山で、中高年の方でも登りやすい、登山初心者にはうってつけの山!一方、ガレッジセールのゴリが登るのは、山梨県にある標高1785mの三ツ峠山。通常は3時間程度で登山が可能で、麓には宿泊も可能な温泉付きの施設もあり、登山初心者に人気の山。さあ、ゆるっと山歩(さんぽ)してみよう!

出演者 酒井美紀、ゴリ(ガレッジセール)、栗山祐哉(上級登山インストラクター)、鈴木優香(山岳収集家)、吉野時男(グルメハイカー)、北村春夏(歴史ハイカー)
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それぞれ、「ほんとの空」、「智恵子抄」、話の枕にでもそういった紹介がなされてほしいものです。

「智恵子抄」、といえば……。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2021年11月15日(月) 17:58〜18:54

2020年、星になった名歌手の皆さんの懐かしい名曲とともに想い出の貴重映像を一挙公開!梓みちよ、弘田三枝子、宮城まり子、ウイリー沖山、守屋浩、小松政夫(他)

楽曲
「こんにちは赤ちゃん」梓みちよ 「いつもの小道で」梓みちよ・田辺靖雄 「モン・巴里」眞帆志ぶき 「ガード下の靴みがき」宮城まり子 「幸せは樹のように」宮城まり子・ねむの木学園のこどもたち 「ブルー・シャトウ」ジャッキー吉川とブルーコメッツ 「悪魔がにくい」セルスターズ(菊谷英二) 「秋葉の火祭り」野澤一馬 「山の人気者」ウイリー沖山 「子供ぢゃないの」弘田三枝子 「人形の家」弘田三枝子 「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ 「東京のバスガール」初代&二代目コロムビア・ローズ 「僕は泣いちっち」守屋浩 「しらけ鳥音頭」小松政夫 「親父の名字で生きてます」小松政夫

<司会>合田道人

おそらく今年1月14日(木)に放映された回の再放送です。
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さらに、ちょっと毛色の違う番組も。

プレミアムカフェ(1)松本明慶(2013年)(2)里中満智子(2001年)

NHK BSプレミアム 2021年11月16日(火) 09:00〜10:58 再放送 11月17日(水) 00:45〜02:45

(1)旅のチカラ ミケランジェロの街で仏を刻む〜松本明慶・イタリア〜(2013年)仏師・松本明慶さんが、ミケランジェロの代表作・ピエタと向き合うためイタリアへ。(2)世界 わが心の旅 フランス ロダンが愛したハナコに会いたい 漫画家 里中満智子(2001年)近代彫刻の巨匠ロダンのモデルになった「ハナコ」は、女優としてパリやロンドンの舞台で活躍した。里中満智子さんが、ハナコの足跡を追う。

出演者 (1)【出演】松本明慶,【語り】渡邊あゆみ,(2)【出演】里中満智子,【語り】秋吉久美子,【スタジオゲスト】横浜美術大学学長…宮津大輔,【スタジオキャスター】渡邊あゆみ
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光太郎が敬愛したロダンのモデルを務めた唯一の日本人、太田花子。日本人女優の嚆矢の一人で、明治末から大正にかけ欧米各地で公演を行い、ジャポニスムブームを背景に現地では非常に好評を博しました。しかし、日本では目立った活動を行わなかったこともあり、ほぼほぼ忘れられかけている存在です。

昭和2年(1927)、ロダンの評伝を書き下ろしで刊行するに際し、光太郎が岐阜にいた花子のもとを訪れてインタビューも行っています。平成30年(2018)には、岐阜県図書館さんで「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」展が開催され、光太郎から花子に宛てた書簡や名刺なども展示されました。

その花子を取り上げた番組。初回放映が平成13年(2001)にあったそうですが、当方、寡聞にして存じませんでした。その後、平成26年(2014)にテレビ大阪さんが制作した、「ニッポン無名偉人伝~彫刻家・ロダン唯一のモデルになった国際派 日本人女優」という番組は拝見しましたが。

ご出演は里中満智子さんだそうです。里中さんと花子といえば、平成12年(2000)に、花子の故郷・岐阜県さんが県として刊行した『マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優』(澤田助太郎原案 大石エリー作画)で、「里中満智子構成」とクレジットされています。そういう関係もあっての番組起用だったのかもしれません。
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光太郎の花子訪問についても触れていただきたいものですが……。

ついでというと何ですが、もう1件。

NHKさんで放映中の大河ドラマ「青天を衝け」。選集の放映回から、吉沢亮さん演じる主人公・渋沢栄一が立ち上げた東京商法会議所のメンバーの一人として、大倉喜八郎が登場しています。キャストは岡部たかしさん。今後も準レギュラー的に出演が続くと思われます。
018
大倉は、のちの大正末、光太郎の父・光雲に夫婦での肖像彫刻制作を依頼しました。光雲は肖像制作をやや苦手としており、こういった場合には、光太郎が粘土で原型を作り、光雲はそれを見て木彫にするというケースが多くありました。
021
左が光太郎の原型からブロンズに鋳造したもの、右が光雲の木彫です。

後に昭和6年(1936)になって、光太郎はこの彫刻の制作風景を詩にしています。題して「似顔」。

   似顔022

 わたくしはかしこまつてスケツチする
 わたくしの前にあるのは一箇の生物
 九十一歳の鯰は奇觀であり美である
 鯰は金口を吸ふ
 ――世の中の評判などはかまひません
 心配なのは国家の前途です
 まことにそれが気がかりぢや
 写生などしてゐる美術家は駄目です
 似顔は似なくてもよろしい
 えらい人物といふ事が分ればな
 うむ――うむ(と口が六寸ぐらゐに伸びるのだ)
 もうよろしいか
 仏さまがお前さんには出来ないのか
 それは腕が足らんからぢや
 写生はいけません
 気韻生動といふ事を知つてゐるかね
 かふいふ狂歌が今朝出來ましたわい――
 わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て
 一片の弧線をも見落とさないやうに写生する
 このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全実歴を記録する
 九十一歳の鯰よ
 わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

当時、思想的には左がかった部分もあった光太郎、ある意味、俗物っぽかった大倉に対し、容赦がありませんね。

なお「青天を衝け」には、今後、智恵子の母校・日本女子大学校を設立し、やはり光太郎が肖像彫刻を作った成瀬仁蔵も登場するのではないかと思われます。

各番組、それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

五月十四日よりカツコーの声をきく。それ以後連日鳴く、


昭和26年(1951) 5月19日の日記より 光太郎69歳

光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、深山幽谷、というほどの場所ではないのですが、やはり標高が高いという影響でしょうか。

作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。

「時事通信」さん配信記事から。

瀬戸内寂聴さん死去、99歳 純文学から伝記、大衆小説まで 

無題 私小説から伝記、歴史物まで幅広く手掛け、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市の病院で死去した。99歳だった。葬儀は近親者で行う。後日、東京都内でお別れの会を開く予定。
 1922年、徳島市生まれ。東京女子大在学中に結婚。北京に滞在したが、46年に引き揚げ後、夫の教え子と恋愛関係になり協議離婚した。前後して小説を書き始め、丹羽文雄主宰「文学者」の同人に。57年に新潮社同人雑誌賞を受賞し、初の短編集「白い手袋の記憶」を刊行した。
 続けて発表した短編「花芯」で人妻の不倫を描き、「子宮作家」と呼ばれるなど物議を醸した結果、文芸誌からの執筆依頼が数年途絶えた。その間も雑誌に発表した作品が人気を集め、流行作家に。純文学と大衆小説のジャンルをまたいで活躍し、61年に伝記小説「田村俊子」で田村俊子賞、63年には「夏の終り」で女流文学賞を受賞した。
 明治・大正期の女性解放運動に共感し、伊藤野枝らを題材に「美は乱調にあり」などの伝記小説を次々と発表した。古典文学にも造詣が深く、70歳になる92年から「源氏物語」の現代語訳に取り組み、98年に全10巻を完成。京都府宇治市の源氏物語ミュージアムの名誉館長も務めた。
 多忙を極める中で出家への思いを募らせ、岩手県平泉町の中尊寺で73年に得度(出家)した。旧名「晴美」から法名「寂聴」に改名し、執筆を続けながら、京都市の「寂庵」を拠点に法話活動を展開。岩手県二戸市の天台寺住職も兼ね、孤独や病、家族などに悩む人々に寄り添った。
 政治・社会運動にも関わり、91年の湾岸戦争や2001年の米同時多発テロの際は断食により反戦を訴えた。東日本大震災後も現地の慰問や脱原発運動などに奔走した。
 著書は、谷崎潤一郎賞の「花に問え」、芸術選奨文部大臣賞の「白道」、野間文芸賞の「場所」、泉鏡花文学賞の「風景」のほか、エッセーや対談集など多数。06年に文化勲章を受章した。
 14年に背骨の圧迫骨折、胆のうがん摘出を経験したが、その後回復し、17年に作家としての来歴や闘病を題材にした長編小説「いのち」を刊行するなど、晩年まで精力的に文学活動を続けた。

当方、伝記小説のジャンルで、いろいろ参考にさせていただきました。光太郎智恵子を中心に据えた作品は書かれませんでしたが、その周辺人物たちを描いたもの。
無題2
最近に読んだのは、一番右の『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』(昭和59年=1984)。白秋を主人公とした映画「この道」公開記念に出た文庫の新装版で読みました。中央が『田村俊子』(昭和36年=1961)。上記画像はやはり文庫版ですが、寂聴さんと交流の深かった横尾忠則さんの表紙が鮮烈です。智恵子と最も親しかった作家の田村俊子が主人公です。右は『青鞜』(昭和59年=1984)。平塚らいてうを中心に、尾竹紅吉、伊藤野枝ら『青鞜』メンバーの群像。智恵子も登場します。上記文庫版の表紙でもモチーフになっている、『青鞜』創刊号の表紙のくだり。
005  003
ちなみに当方手持ちの『青鞜』。これも文庫版ですが、寂聴さんサイン入りです。当方が書いてもらったわけではなく、古書店で購入したもので、真筆かどうかよくわかりませんが。
001
002これら三冊、いずれも厚冊で、改めて読み返してはいませんが、平成24年(2012)に発行された雑誌『いろは』に載った、瀬戸内さんと森まゆみさんの対談を読み返してみました。題して「青鞜の女たち」。

田村俊子やらいてう、そしてやはり寂聴さんが伝記小説で描かれた岡本かの子(『かの子撩乱』昭和40年=1965)、伊藤野枝(『美は乱調にあり』同)などにも触れられています。野枝あたりと較べれば、らいてうはまだまだ優等生、的なご発言もあったりで、寂聴さんの一種の豪快さも改めて感じました。

『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』でメインだった江口章子なども含め、三浦環や管野須賀子、金子文子など、強烈な女性たちを多く描いてこられた瀬戸内さん。御自身も彼女たちに負けず劣らず、ですね。ぜひ森さんあたりに伝記小説『瀬戸内寂聴』を書いていただきたいものです。

改めて、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午后佐藤隆房氏、宮澤政次郎氏、〃老母同道来訪。熊谷さん運転と見ゆ、もらひものいろいろ。

昭和26年(1951)5月6日の日記より 光太郎69歳

宮澤政次郎氏」は賢治の父、「老母」はその妻・イチです。光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋に移った後も、花巻町中心街に出ると、ほぼ必ず宮沢家に顔を出していましたが、政次郎夫妻が太田村の山小屋を訪れたのは、この時が初めてでした。

自動車が通れる道が光太郎の山小屋から1㌔弱の山口小学校までしか通じておらず、明治7年(1874)生まれの政次郎は足を悪くしていたため、無理だったわけです。

この時期、山小屋の増築工事もあり、道も整備され、この日は佐藤隆房家のダットサンで、政次郎夫妻が念願の光太郎山小屋訪問を果たしました。下記がこの日撮られた写真で、左からイチ、政次郎、光太郎です。

015

『智恵子抄』発刊80周年を記念して、智恵子の故郷・福島二本松の智恵子顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」さんが投票を募っていた「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」。このほど、その結果が発表されました。

地方紙『福島民報』さん。

「智恵子抄」収録作のファン投票1位は「レモン哀歌」 出版80周年企画 福島県二本松市

 詩集「智恵子抄」の出版80周年を記念して全国のファンが好きな作品に投票する「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」は8日、福島県二本松市の市民交流センターで開票され、「レモン哀歌」が1位となった。2位は「あどけない話」、3位は「樹下の二人」だった。
 「智恵子抄」は1941(昭和16)年に出版された。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子への愛をつづった。顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ」は80周年に当たり、「東日本大震災から10年、新型コロナウイルス禍の今こそ、2人の純愛の意味を問いたい」と総選挙を企画した。福島民報社などの後援。
 「智恵子抄」「智恵子抄その後」に収録された36作品を投票候補として4月から10月まで募集。県内はじめ東北、関東、近畿、中国地方など全国から584票の投票があり、地元の安達高は全校生が参加した。
 最多得票の「レモン哀歌」は「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で」―と、智恵子の最期をうたう。命のはかなさと輝き、深い愛、生きる意味を伝えてくれるなどの言葉が投票者から寄せられた。
 「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。」で始まる「あどけない話」には、「二本松に嫁いで結婚祝いに『智恵子抄』をいただき、ほんとの空を見上げた日を思い出す」と思い出を記す人もあった。
 「樹下の二人」には「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」と繰り返す言葉の響きが美しい、二本松が誇る景色の中で愛を育んだ2人の姿が浮かぶ、などの声が寄せられた。
 夢くらぶの熊谷健一代表は「どの作品も素晴らしいが、『レモン哀歌』には2人の純愛が象徴的に表れ、皆さんの心に響いたのではないか」と語った。投票結果は近く発刊予定の「『智恵子抄』出版80周年記念文集」に掲載する。投票者の中から抽選で120人に龍星閣刊の「智恵子抄」を贈る。
 上位10作品は次の通り。
(1)レモン哀歌140票(2)あどけない話127票(3)樹下の二人112票(4)人に66票(5)風にのる智恵子18票(6)僕等9票、千鳥と遊ぶ智恵子9票、亡き人に9票(9)深夜の雪8票、あなたはだんだんきれいになる8票
004
同じく『福島民友』さん。

「レモン哀歌」1位 詩集「智恵子抄」出版80周年で総選挙

 二本松市出身の洋画家高村智恵子と、彫刻家で詩人の夫光太郎の顕彰活動に取り組む智恵子のまち夢くらぶ(二本松市)は8日、詩集「智恵子抄」の出版80周年を記念した「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」の開票結果を発表し、1位には「レモン哀歌」が輝いた。
 総選挙では、智恵子抄と「智恵子抄その後」から選んだ36の候補作品で、一番好きな詩1編を投票してもらった。4月2日~10月31日に投票を受け付け、県内を中心に全国から584票が投じられた。県内では安達高の全校生徒も投票した。
 8日には、熊谷健一代表らが同市で開票作業を行った。候補36編のうち30編に投票があり、最愛の智恵子が亡くなる時のことを歌った1位のレモン哀歌が140票を獲得した。2位は「あどけない話」(127票)、3位は「樹下の二人」(112票)だった。また候補外の「もしも智恵子が」にも2票投票があった。
記念文集に結果掲載 投票結果は、夢くらぶが編集する智恵子抄出版80周年記念文集に掲載される。また、両詩集を出版した龍星閣の協力で、投票者のうち抽選で決めた120人に「智恵子抄」が贈られる。
 総選挙は、光太郎が智恵子への思いをつづった智恵子抄を後世に引き継ぎ、2人の人生や生き方を再認識してもらうのが狙い。二本松市、市教委、福島民友新聞社などの後援。
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「レモン哀歌」(昭和14年=1939)が1位。ちょっと意外でした。福島の団体が主催し、やはり福島の皆さんが多く投票しただろうということで、安達太良山を詠み込んだ「あどけない話」(昭和3年=1928)や、さらに阿武隈川も出てくる「樹下の二人」(大正12年=1923)が本命◎、対抗○だと思っていました。「レモン哀歌」は、『智恵子抄』冒頭の「人に(いやなんです)」(大正元年=1912)とともに、3,4番手▲△と予想していました。

ところが蓋を開けてみると、「レモン哀歌」が13票差で1位。鼻差の勝利、というところでしょうか。昨今のレモンブームも追い風になったかも知れません。

5位以下、まあ、妥当かなという気がしました。ただ、個人的には、智恵子没後の「梅酒」(昭和15年=1940)―死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は―や、『智恵子抄その後』から「案内」(昭和24年=1949)―三畳あれば寝られますね。これが水屋。これが井戸。―などがもっと得票するかと思っていましたが。

ところで、先月初め頃でしたか、「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表からお手紙を頂いた際には、「投票数がぜんぜん少なくて……」的なお話でした。しかし、最終的には結構な投票数となっていて、「ほう」と思ったのですが、記事を読むと、地元の安達高校さんのご協力があったそうで、なるほど、考えたな、と感じました。こういう際に学校さんにお願いするというのも一つの手ですね。同様の企画を考えてらっしゃる皆さん、ご参考までに。

さて、記事にあるように「総選挙は、光太郎が智恵子への思いをつづった智恵子抄を後世に引き継ぎ、2人の人生や生き方を再認識してもらうのが狙い。」80周年を機に、そういう方向で進んでいってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

胸痛弱まりたれども、まだ全癒せず。呼吸の度に痛むやうな事はなくなりたれど、異常感覚まだつよし。

昭和26年(1951)5月5日の日記より 光太郎69歳

少し快方に向かったようですが、宿痾の肺結核(おそらく智恵子と同根)は、確実に光太郎の身体を蝕んでいました。

全国紙の地方版から2件、ご紹介します。

まず、『毎日新聞』さんの富山版。現在、富山県水墨美術館さんで開催中の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関してです。

3人の巨匠が究極の書、表現 県水墨美術館 /富山

 近代日本美術界の巨匠、熊谷守一(1880~1977)、高村光太郎(1883~1956)、中川一政(1893~1991)の3人による書に焦点を当てた展覧会「画壇の三筆」展が11月28日まで、富山市五福の県水墨美術館で開かれている。
 高村は晩年「書は最後の芸術である」と語り、彫刻だけでなく書の中にも東洋の美を追求した。熊谷、中川の画家2人も、絵画作品と同じく味わいのある書を生み出したことで知られ、特に中川は富山名物ますずしのパッケージデザインと題字を手がけたことでも有名。
 会場では、同時代を生きた3人の芸術家の書と彫刻、絵画、陶芸作品計約100点を展示。熊谷の「南無阿弥陀仏」は幼くして病死した娘を思って書かれたものといい、子を思う気持ちが胸を打つ一枚。中川の「正念場」は97歳の時の書。生涯、美を追い求めた執念が伝わる。
 同美術館では「3人が到達した究極の表現世界を見てほしい」と話す。観覧料一般1200円、大学生1000円。月曜休館。会期中、3人の映画や映像上映もある。問い合わせは同館(076・431・3719)。

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会期は今月28日(日)まで。後期に入り、一部作品の展示替えが行われています。光太郎に関しては、駒場の日本近代文学館さん所蔵のものを入れ替えたり、前期から展示されている書画帖『有機無機帖』のページを替えたりしています。まだ行かれていない方も、前期に行かれた方も、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに画像の一番右、確認できている限り、「智恵子抄」の詩句を大書した唯一の作品(色紙や書籍の見返しに揮毫したものは複数確認できていますが)です。「わがこころは今大風の如く君に向へり」、詩「郊外の人に」(大正元年=1912)の冒頭部分です。今回の展覧会のフライヤーにも画像がサムネイル的に使われました。

山形県天童市の出羽桜美術館さんの所蔵で、コレクション展的な際に展示されています。当方も現地で観て参りました。これまで、各地で開催されてきた光太郎展てきなもので展示されたことはなかったと思っていましたが、昭和51年(1976)、かつて銀座にあった東京セントラル美術館で開催された「高村光太郎――その愛と美――没後20周年」展の際に出品されていたことをつきとめました。図録には画像が載っていなかったのですが、出品目録に掲載されていました。

同館の収蔵品を集めた、出羽桜酒造さんの三代目・中野清次郎は詩も書いており、同郷の詩人真壁仁と親しかったそうです。真壁は光太郎とも親しく(戦時中には智恵子紙絵の3分の1を預かり、戦災から守りました)、その真壁を通じてこの書を書いてもらったらしいとわかりました。それが昭和25年(1950)で、この年の光太郎日記は大半が失われており、もし残っていれば関連する記述があっただろうにと残念に思っております。

続いて、『朝日新聞』さんの岩手版。

没後100年、原敬ってどんなひと?

004 【岩手】「平民宰相」「初の本格的政党内閣」などと語られることの多い原敬(盛岡市出身、1856~1921)。その死から4日で100年を迎え、大慈寺(同市)で追悼会(え)が開かれた。原はどのような人物だったのか。原敬記念館の学芸員、田崎農巳(あつみ)さん(46)は「現実主義が重要な特質」と説明する。(唐沢俊介)
 「退屈だと思う」。田崎さんはそう語り、赤茶けた史料を指し示した。原が行った演説の速記録だ。「政策の説明に時間を割くため、面白みに欠ける」という。
 田崎さんは、原は目先の利益や甘い言葉を操る「大衆迎合」とは異なる現実主義者、リアリストで、「公利」を追求していたとみる。「官僚組織や新聞社で仕事をする中で身につけた知識と経験で、この国に必要なことを見極め、着実に実行しようとした」
 例えば、外交ではそれまでの強硬路線から、世界的な潮流であった協調路線へ転換した。「これは日本の大陸進出を警戒する欧米列強をむやみに刺激しないようにするためです。日記にも『将来恐ルヘキハ此国』と記し、原は特にアメリカとは戦争をしてはいけないと考えていました」
 原は普通選挙法に否定的だったとされている。しかし、「それは間違い」と田崎さんは指摘する。「彼は普通選挙法に反対していません。日記にも徐々に進めていくと書いてあります」
 田崎さんは、原が問題にしたのは国民の政治的成熟度だったと考える。「『世論(せいろん)』と『輿論(よろん)』を明確に区別していました。前者は、他者に依存した言論、つまり『誰それが言っているから』という理由で決めた意見。後者は自ら学び、組み立てた意見。『輿論』を主張できる国民の増加に合わせて普通選挙権を認めていくというのが原の考えでした」。ここにも現実主義が貫かれている。
 原の生涯をたどっていると、ある詩を思い出すと田崎さんは言う。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」の一節だ。
 高村は岩手県人を牛にたとえ、「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひにその成すべきを成す」と表現した。「歩みは遅いのですが、着実に前へ進み、結果を出す。原は置かれた場所で、自分にできることを懸命に取り組んできました」。戊辰戦争で敗れた「賊軍」側でありながら、実績を重ね、総理大臣にまで上りつめた。
 次の一歩を踏み出そうとした原だったが、1921年11月4日、道半ばで18歳青年の凶刃に倒れた。65歳だった。
 原敬の墓所がある大慈寺で4日、第101回忌追悼会があった。約140人が参列し、原の功績をしのんだ。
 原敬100回忌記念事業実行委員会が主催。委員長である谷藤裕明・盛岡市長(71)らが追悼の言葉を述べた。読経や焼香のほか、盛岡市立大慈寺小学校の校歌奉納があった。コロナ禍のため、児童の歌う映像が堂内で流された。
 原敬のひ孫で京都市在住の岩谷千寿子さん(69)も参列し、「原敬から何事にもチャレンジする精神を学び取ってほしい」と語った。
 1856年、岩手郡本宮村(当時)の盛岡藩士の家に生まれる。15歳で上京した後、司法省法学校に入学し、26歳で外務省に入省。天津領事やパリ公使館書記官として勤務した。辞職後、大阪毎日新聞の社長に就任した。
 1900年、立憲政友会に入党。同党の総裁に就き、18年に第19代内閣総理大臣になった。21年11月4日、東京駅で暗殺された。脅迫状も届いていたが、「運を天に任せる」として、警備を厚くすることはなかった。葬儀は大慈寺で行われ、約3万人が参列したという。
 離婚歴がある。1人目の妻・貞子とはうまくいかず離縁。2人目の妻・浅と再婚する。2人の間に子どもはおらず、養子・貢(みつぎ)を迎える。子煩悩な一面を持ち、息子と2人で出かけた際、「家では浅に怒られてしまうから」と2人前の汁粉を注文し、どちらも子どもに食べさせた。愛妻家で、字が読めない浅に新聞の講談読物を毎晩、読んで聞かせていたという。
005
「岩手の人」(昭和23年=1948執筆)。地元岩手では、有り難がられ、現代でも折に触れて引用される詩です。特に今年は丑年だということもあり、牛に触れられている部分がよく取り上げられました。
014
 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。015
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

なるほど、原敬も典型的な「岩手の人」だったのかもしれませんね。

【折々のことば・光太郎】

盛岡生活学校の生徒さん20名ほど吉田幾世さんに引率されて来訪、学校にて話することにし、ひる前山口小学区にゆく。お弁当を一緒にくひ、雑談、後さんびかの合唱をきく。

昭和26年(1951)5月5日の日記より 光太郎69歳

盛岡生活学校」(現・盛岡スコーレ高等学校さん)は、光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた仲間が集まり、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。同校では光太郎の薦めでホームスパン製作や果実ジュース作りをカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

吉田幾世さん」は、同校の創立者で、初め、羽仁夫妻の依頼で光太郎の元を訪れ、のち、このように生徒さん達を連れて訪問したりもしていました。

吉田の回想から。弁当を食べた場所が一致しませんが、おそらく記憶違いでしょう。

 又、桜の花の咲く頃、先生の山荘に遠足したクラスもある。戦後の食料不足の中で配給された食品を持ちよって皆でサンドイッチをつくり、それを工芸で習った夾纈(きょうけち)染めの和紙に包んだお揃いのお弁当をもって行った。その一つを先生にもお上げして、山荘の横の草原へ円陣を作ってご一緒に頂いた。先生は「おいしい、おいしい」と喜んで召上がり、皆に歌を歌ってちょうだい、と所望された。次々と出る合唱を、先生は目をつぶってたのしそうに聞いて下さった。
(吉田幾世『忘れ得ぬ人々――学園の礎を築いてくださった方々――』平成6年=1994 学校法人向中野学園生活教育研究所)

その際の写真。不鮮明ですが。
016

まずは『福井新聞』さんの記事から。

日本の地名を込めた詩集発刊 「後世伝える」福井の詩人・金田久璋さん発起人、142人が作品

005 地名は土地の風土や歴史、文化を色濃く映すとされる。市町村合併やほ場整備によって古来の地名が失われゆく中、津々浦々の地名が入った詩のアンソロジー「日本の地名詩集―地名に織り込まれた風土・文化・歴史」が発刊された。日本地名研究所(川崎市)所長の民俗学者で詩人の金田久璋さん(78)=福井県美浜町=が発起人となり、福井県の13人を含む全国142人の詩人が作品を寄せた。
 山や谷、川、田畑など土地の形状に由来する地名は多く、田の神や山の神を敬う自然崇拝の習俗に関わる地名もある。日本人の名字の8割方は地名にちなむといわれる。
 「地名は歴史や文化、民俗、地理学のインデックス(索引)で、地域風土のアイデンティティー」と金田さん。自由な感性で詩に織り込まれた地名を「“現代の歌枕”の形で後世に伝えたい」と考え、地名詩集を発案。沖縄・奄美から北海道まで地域別に章立てして編集した。
 福井県関係では、妙金島や坂東島など九頭竜川沿いの地名を少年期の思い出と交錯させた黒田不二夫さんの「紫の稜線」、父の転勤などで住まいを転々とした先の地名や最寄りの駅名を連ねて人生の履歴書とした千葉晃弘さんの「住所」、JR北鯖江駅に行き交う人の哀歓をつづった上坂千枝美さんの「夕暮れのタウントレイン」など、地名や駅名を人生模様と重ねた詩が並ぶ。
 朝倉氏一族の盛衰に思いをはせた渡辺本爾さんの「一乗谷に在りし」、漁師町の暮らしや「ぼてさん」の商いを描いた龍野篤朗さんの「四か浦の道」、三株田や千株田、楔(くさび)田など農耕に由来する土地の呼び名を織り交ぜた山田清吉さんの「だんだんたんぼ」からは歴史や地勢、人の営みが目に浮かぶ。
 岩手の五輪峠の風景をつづった宮沢賢治の詩や、戦禍から立ち上がる沖縄の姿を描いた山之口貘の詩をはじめ、高村光太郎や谷川俊太郎、西脇順三郎ら日本を代表する詩人の作品も収録。古里やゆかりの地の地名がふんだんに盛り込まれている。
 金田さんは「詩作において地名は記憶に残るトポス(主題)。集まった詩は実に多彩で、地名の豊穣(じょう)さを示している。地名に親しみ、長く伝えるためにぜひ読んでほしい」と話す。
 金田さんと共に編者を務めた出版社コールサック社代表で詩人の鈴木比佐雄さんは後書きで「地名を入れた詩作は、地名に秘められた先祖や民衆の歴史と文化の深層を呼び起こす」と述べている。
 216ページ。コールサック社刊、1980円。

続いて『毎日新聞』さん福井版。

日本地名研究所所長 金田久璋さん(78) 類似に着目、民俗学で活用 /福井

無題 地域での信仰の代表的な聖地とされるおおい町大島の「ニソの杜(もり)」などを調査、研究してきた民俗学者であり、詩人でもある。特に地名は、民衆の信仰をひもとくかぎとなることが多く、注目し続けてきた。
 そんな中、142人の詩人による地名にまつわる詩の編者を務めた「日本の地名詩集――地名に織り込まれた風土・文化・歴史」(コールサック社)が9月、出版された。「詩の世界は曖昧模糊(あいまいもこ)となりやすいが、具体的な地名が出てくることによって、ひとつの作品としてリアリティーが出てくる。地名に寄せる思いも表れてくる」と話す。
 この詩集には、宮沢賢治、高村光太郎、谷川俊太郎らの作品を盛り込んだほか、北陸の詩人らが九頭竜川、一乗谷(以上福井県)、手取湖、男川、女川(以上石川県)、刀利(とうり)(富山県)など地元の地名を読み込んだ詩も掲載した。
 金田さんは研究で、「田の神」を祭る石川・奥能登の「アエノコト」と福井・越前平野の「アイノコト」は、越前側を先行事例として共通性を見いだした。饗之事神田(あえのことしんでん)という関連の地名が越前町にあったことや、この地名と同じ文字が朝倉氏の文書にも出てくることから、どちらも民俗学者の柳田国男氏が考えたように酒食でもてなす饗応(きょうおう)の行事であることを裏付けた。
 金田さんは9歳で父を亡くし、高校卒業後すぐに家族を支えるため就職した。その中で、周囲が認める民俗学の実績を積んできた。民俗学で重要なのは、伝承者から証言を得たり、資料を入手したりする「採訪(さいほう)」という。「私の場合、郵便局で働き、接客するなど人間関係で苦労してもまれ、まず先にあいさつをすることなど、コミュニケーション能力が身についた。大事なのは、伝承者のお年寄りに、相づちをうつなどして話を引き出すこと。いかにいい恩師や友人らと出会えるかも大切なことで、自分は恵まれた」と振り返る。
 詩など文学の世界と民俗学は関連すると考えている。「詩は、比喩などダブルイメージを大切にする。まったく結びつかないように見えるものを結びつける 。民俗学で論文を書くときは、文学的なことは極力、排除するが、詩を書くことで、一見すると無関係な二つのものに類似や法則を見いだす『類化性能』が養われると思う。普通の人が関心がなかったことに着目し、気付かなかったことに気付くことがとても大事なのです」と民俗学の研究に臨む姿勢を語った。
人物略歴 金田久璋さん. 美浜町生まれ・在住。敦賀高卒業後、郵政職員。民俗学者の谷川健一氏に師事。国立歴史民俗博物館共同研究員、日本国際文化研究センター共同研究員など歴任。著書に「森の神々と民俗」など。2019年5月から日本地名研究所所長。


というわけで、光太郎作品を含むアンソロジー『日本の地名詩集――地名に織り込まれた風土・文化・歴史』。版元のコールサック社さんから刊行されている雑誌『コールサック』に、広告が大きく出ていました。
001

日本の地名詩集――地名に織り込まれた風土・文化・歴史

2021年8月25日 金田久璋・鈴木比佐雄編 コールサック社 定価1,980円(税込)

地名にはその地域の風土・文化・歴史や古代からの重層的な世界を喚起させる重要な役割がある。詩人はこだわりのある場所から「地霊」又は「地の精霊」(ゲニウス・ロキ)を感受してそれを手掛かりに実は魅力的な詩を生み出す。(略)故郷にまつわる地名の様々な記憶や伝承や山里の暮らしなどは、その土地や場所で生きるものたちにとって、地域社会を持続するための真の智恵の宝庫になりうるはずだ。(鈴木比佐雄 解説文より)無題2

目次
第一章 沖縄・奄美の地名  第二章 九州の地名
第三章 中国・四国の地名  第四章 関西の地名
第五章 中部の地名     第六章 関東の地名
第七章 東北・北海道の地名


光太郎詩は、「第七章 東北・北海道の地名」中に、「樹下の二人」(大正12年=1923)が掲載されています。「あれが阿多多羅山、/あの光るのが阿武隈川。」のリフレインで、確かに「地名」が詠み込まれていますね。

上記新聞記事にもあるように、単に詩集としてのみでなく、民俗学的なアプローチもなされているようです。

興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】002

午后藤島宇内氏来訪、ラジオ機をかついでくる。創元社よりのもの。食品いろいろもらふ。尚出版の事もきく。

昭和26年(1951)5月4日の日記より
 光太郎69歳

藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』などに依った詩人です。翌年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に際しては、青森県とのパイプ役の一人となり、さらに光太郎上京後には、中野のアトリエに足繁く通って、身の回りの世話等をしてくれました。

光太郎のこの前後の創元社との関わりは、2点ほど。前年に『現代詩講座』の一部を執筆した他、この年9月には選詩集『高村光太郎詩集』を心平の編集で出版しています。

かつぐほど大きかったらしいラジオ、それらの稿料、印税的な意味合いだったのでしょうか。パシリにされた(笑)藤島に同情します。

智恵子の故郷、福島二本松ご在住の詩人・木戸多美子氏から、文芸誌『ウルトラ』第17号をいただきました。
001 002
発行人は、和合亮一氏だそうです。
004
木戸氏の作品として、安達太良山を謳った詩「呪縛 そして解放」、さらに二本松で開催されている「智恵子講座」講師も務められた、澤正宏氏の詩などが載っています。ちなみに木戸氏も「智恵子講座」講師をなさっています。

後半、ふたたび木戸氏。「百千倍のアトムその充填――智恵子抄を離れて――」という文章も寄稿なさっていました。書き出しの部分を読んで、「どひゃー」。

木戸氏が、福島市の北、宮城県との県境に位置する伊達郡国見町にある「奥山邸」という、国の登録有形文化財に指定されているお屋敷に行かれた際のことでした。現在も奥山家の方が居住されていて、通常は非公開なのですが、木戸氏、屋内を見学なさり、その中で、智恵子が写っている写真を御覧になったとのこと。奥山家の先々代の奥様と智恵子が「同級生」だったというお話を聞かされたそうです。

写真の裏書きが「明治三十五年」。この年(1902年)、智恵子は福島高等女学校在学中でした。早速、手元にある同校の同窓会誌(大正8年=1919)を調べてみましたところ、智恵子の「同級生」には該当する人物が見あたりませんでしたが、一学年下に「奥山ミキ」の名が。旧姓・池田となっており、「奥山」は結婚後の苗字です。住所も「伊達郡藤田町」と記されており、藤田町は現在の国見町であることもわかりました。
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智恵子の高等女学校時代の写真は、二本松市教育委員会さん発行の『アルバム高村智恵子――その愛と美の軌跡――』に収められている7葉ほど(それも、おそらくその時期だろうというものを含め)。ただ、『ウルトラ』にはその写真は掲載されて居らず、こういう写真があったよ、という記述のみ。しかし、集合写真だそうですが、その説明を読むと、これまでの7葉には該当しない写真と思われ、だから「どひゃー」だったわけです。何とかして現物を見たいものだと思いましたし、もしそれ以外に智恵子からの書簡なども残っているとしたら、大ニュースになります(智恵子書簡は60通余りしか確認できていません)。

ちなみに同じ明治35年(1902)の智恵子は、こんな感じでした。
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最近、こういう新情報が続々寄せられてくるようになり、有り難い限りです。今朝も、別の方からメールで凄い情報をいただきました。生前の智恵子を御存じの方が、まだ千葉の九十九里でご存命で、少しお話を伺ってきた、というのです。こりゃ、当方もお話を伺いに行かねば、と画策しております。

木戸氏の文章に戻ります。奥山邸の話の後、智恵子が残した文筆作品、「無題録」(大正3年=1914)、「病間雑記」(大正12年=1923)、「画室の冬」(昭和2年=1927)等についての論考などが続き、全体で5頁。興味深く拝読いたしました。

ご入用の方、最上部画像に発行元「ウルトラの会」さんのアドレスが載っています。そちらまでご連絡を。

【折々のことば・光太郎】

朝校長さん来る、先日の香奠の返しらしく、ブドウ酒、カルピス等三本もらふ。

昭和26年(1951)5月3日の日記より 光太郎69歳

校長さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長・浅沼政規。光太郎の貴重な回想を数多く残しました。当時、児童だった子息の隆氏はご健在で、今も光太郎の語り部を務められています。

カルピスは大正8年(1919)には発売されていますので、光太郎が飲んでいてもおかしくはありませんが、どうも光太郎とカルピス、今一つイメージ的につながりません(笑)。

うっかりしていたら、始まっていました。

秋のライトアップ二〇二一

期 間 : 2021年11月5日(金)~11月28日(日)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門回廊、友禅苑、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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主な見どころ

国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。
間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。

国宝 三門
元和7(1621)年、徳川秀忠公が建立した 高さ24m、幅50mの日本最大級の木造二重門。悟りの境地に到る「空門」「無相門」「無願門」(三解脱門)を 表すことから三門といいます。※回廊公開は3年ぶり

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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聖観音菩薩像、明治25年(1892)の作で、東京美術学校として依頼を受け、光太郎の父・光雲が主任となって制作されたたものです。木造原型は美校の後身・東京藝術大学さんに収蔵されています。

関連行事として、法話「聞いてみよう! お坊さんのはなし」、御影堂プライベートツアー、フォトコンテスト、限定御朱印授与等が企画されています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐるうちよみうり記者来訪、よみうり文学賞に内定の由にて感想筆記。ごく簡単にのべる、

昭和26年5月2日の日記より 光太郎69歳

015前年に始まった読売文学賞の詩歌俳句賞。第一回は当会の祖・草野心平が蛙の詩で受賞しました(他に斎藤茂吉が『ともしび』で)が、それに続く第二回を光太郎が受賞しました。

受賞作は前年に刊行された詩集『典型』。自らの半生を顧みた連作詩「暗愚小伝」20篇を含み、選詩集的なものを除き光太郎生前最後の詩集です。光太郎と共に会津八一も『会津八一全歌集』で受賞しています。

この日、光太郎の語った内容は以下の通り。5月14日の『読売新聞』に掲載されました。『高村光太郎全集』には漏れていたものです。

 典型に文学賞がでるというのは意外だ。典型そのものがよいというのではないだろう。長く詩を書いているから、また年をとつてもまだやつているからという意味ではないだろうか。いずれにしてもまあいらないと断るのはワザとらしくていやだから素直にもらう。
 あの詩集の内容を考えると一つの告白といつたもので文学賞をもらうようなものではなかつた。だから感想といわれても困る。それに年も年だから賞をもらつても感激するということもない。若いときならうれしいものだつたけど――かえつて悪いような気がするというのが本当のところだ。


光太郎、賞金五万円は山小屋近くの山口小学校や地元青年会などにそっくり寄付してしまいました。

一昨日、また都内に出ておりまして、2件、用を済ませて参りました。

まず向かったのは、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さん。
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展覧会等の観覧ではなく、アートライブラリで調べ物です。以前、こちらでは、古い美術雑誌で『高村光太郎全集』に収録されていない光太郎の文章を発掘したりしたのですが、やはり『高村光太郎全集』に漏れている書簡が収蔵されているという情報を得まして、調べに行った次第です。書簡などの一点物がここにあるというのは存じませんで、盲点でした。
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具体的には、昨年寄贈された「難波田龍起関係資料」の中に、それが含まれていました。難波田は明治38年(1905)生まれの画家で、大正2年(1913)、少年時代に本郷区駒込林町の光太郎アトリエ裏に移り住み、光太郎に親炙、美術と詩作も光太郎の影響で始めたという人物です。

難波田宛の書簡は、『高村光太郎』全集に18通収録されていますが、リストを見ると、他に3通。うち1通は書簡とは言えず、昭和17年(1942)に開催された難波田の個展の目録に寄せた「難波田龍起の作品について」という文章(『高村光太郎全集』第6巻所収)の原稿だけが封筒にボンと入っていました。

封筒、といえば、昭和13年(1938)11月8日付けのもの。こちらは前月に亡くなった智恵子の会葬御礼的なもので、印刷でした。おそらく多数の人物に同一のものが送られたようで、『高村光太郎全集』には、光太郎の親友だった水野葉舟に送られたものが掲載されています。最後の宛名だけ異なりますが、同じものでした。

そして、葉書。昭和17年(1942)2月24日付けのもので、こちらは完全に『高村光太郎』全集に漏れていたもので、これを確認できただけでも収穫がありました。

内容的には、駒込林町のアトリエに来てくれたのに、留守にしていて申し訳なかった、別封で新刊の評論集『造型美論』を送ったよ、といったものでした。留守にしていた理由というのが、「文芸会館の会合」。具体的に何を指すのか不明ですが、この月に日本少国民文化協会が結成されていますので、それに関わるかもしれません。それに伴い幼少年誌が統合され、光太郎も寄稿した『少国民の友』や『日本少女』といった雑誌が生まれました。また、翌月には同会主催の講演会で光太郎が演壇に立ち、詩「或る講演会で読んだ言葉」として発表しています。

また、光太郎が議員を務めていた大政翼賛会中央協力会議の件にも触れられ、いかにも戦時、という内容でした。

驚いたのは、難波田と連れだって光太郎の留守宅を訪れたのが、中込友美であったことでした。中込に関しては、先月の『東京新聞』さんに大きく取り上げられ、このブログでもご紹介しました。詩作のかたわら、社会福祉にも高い関心を持ち、戦後は戦災孤児のための施設を運営したりした人物です。今回見つけた葉書の中にも「中込さんの厚生美術制作団の構想と実行との力に期待します」という一節があり、戦時中からそういう活動に携わっていたのか、と思いました。

『高村光太郎全集』に3箇所しか出て来ない中込の名を、このところ立て続けに眼にし、不思議な感覚でした。まるで中込の魂に導かれてそうなったような……。

そう思っておりましたところ、昨日、智恵子もかつて所属していた太平洋美術会の坂本富江さんから封書。「『東京新聞』さんにこんな記事が載ってましたよ」ということで。
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10月10日の記事を読んでの感想的なものですね。これも中込の魂の導きか、と思いました(笑)。

MOMATさんのアートライブラリ、まだまだ何かありそうだと思いますので、さらに調査を継続しようと思っております。

さて、竹橋を後に、続いて入谷に。次なる目的地は、入谷駅からほど近い「いりや画廊」さんです。こちらでは彫刻家の吉村貴子さんの個展「雲魂UNKON」が開催中。
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吉村さん、光太郎にも興味をお持ちで、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関する論考等も書かれています。そんな関係でご案内をいただき、これは参上せねば、というわけで馳せ参じました。

「雲根」とは、元々中国の古典に出て来る言葉で「岩石」の意です。日本でも江戸時代に「弄石家」と云われる趣味人の間で広く使われていたそうです。吉村さんの修士論文が、その弄石家で『雲根志』という書物を著した江戸時代の木内石亭という人物に関してのもので、こちらは帰りの車中で興味深く拝読いたしました。

実際に吉村さんとお会いするのは初めてでしたが、いろいろお話を伺う中で、維新後に西洋から入ってきた石彫とは別の系列で、元々日本には石彫文化があり、吉村さん御自身も実作でその流れを汲む、ということなのかと理解しました。
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石の作品の素材は花崗岩だそうですが、割って、彫って、削って、磨いて、ということで、凄い労力なのでしょう。下の画像は吉村さんのフェイスブックから。
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ちなみに光太郎も、数は少ないのですが、石彫を手掛けています。現存が確認できていない作品で、大正6年(1917)、実業家・図師民嘉の子息・尚武に依頼された「婦人像」(仮題)。写真のみ確認できています。詳しくはこちら
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吉村さん、石以外に、ガラスの作品も。
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ガラスでありながら、やはり岩石感があふれていますが。

多くの作品で、中央に丸い穴が開けられています。「これ、どういう意図ですか?」とお聞きしたところ、この穴から裏側に入ってまた表に戻ってくる、表裏一体、循環、「雲根」の原義「雲は石より生ずるによりて、石を雲根と云ふ」みたいな……。なるほど、と思いました。今流行りの「SDGs」を連想させられました。

こちらは11月13日(土)まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヱン豆は小鳥が皆たべてしまふ。

昭和26年(1951)4月26日の日記より 光太郎69歳

ヱン豆」は「えんどう」、サヤエンドウでしょうか。とあるテレビ番組で、アナウンサーの方が光太郎書簡を読む中で、「えんまめ」と読んでいて吹き出しましたが(笑)。

鳥さんたちは非常に賢く、人間が畑やプランターなどに種子などを埋めるのを見て理解しており、人がいなくなったら速攻で掘って食べるそうです。

まず、新刊の小説です。

非愛の海

2021年10月6日 野樹優著 つむぎ書房 定価1,600円+税

反体制という青春があった。 此の国で人を愛するのは偽善で堕落だ。いや腐敗だ。俺たちはインテリではなかったのかと見せかけの自由に苛立つ戦後生まれのかれらが為そうとした希望のテロルとは何か。そして令和のこの時、孫世代が運命のように過酷な現実と出会う。これほど知性の愛を問いかけた文学はあったろうか。反抗は学問なのだ、と孤絶の闇を噛む愛の幻想(かげろう)。
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作者の野樹優氏、「小野寺聰」名義で演劇公演の脚本、演出などもなさっています。小野寺氏というのがご本名なのだと思われます。

一昨年、渋谷で公演のあった「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」の脚本、演出をされていて、終演後には当方自宅兼事務所までお電話を下さいました。そして今回、御著をお送り下さったという訳で、恐縮しております。

物語は、戦後の混乱期、昭和40年代(と思われる時期)、現代を舞台としています。このうち、昭和40年代(と思われる時期)に、ノンセクト(死語ですね(笑))の左翼学生たちが、旧華族の令嬢を誘拐し、身代金ではなく、天皇が自らの戦争責任を表明することを要求する、というくだりがあります。それが上記の「見せかけの自由に苛立つ戦後生まれのかれらが為そうとした希望のテロル」です。誘拐、といっても、誘拐された後の令嬢が、彼らの計画に共鳴し、「共犯者」となることを提案したりと、一筋縄ではいかないのですが……。

その左翼学生たちと令嬢の会話の中に、ちらっと光太郎智恵子。
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あり余る過剰な才能を、光太郎との生活の中で発揮しきれず、心を病んでしまった智恵子。同様に、あり余る過剰な才能を、閉塞する時代の中で発揮しきれなかった学生たち(主人公的な学生は、詩や映画などの方面でその一部を発揮してはいましたが)。結局は挫折してゆくことになっていきます。

新刊紹介ついでにもう一冊。

4月にフランスで刊行された仏訳『智恵子抄』、『Poèmes à Chieko』。その後、紀伊國屋さんで注文可となり、取り寄せてもらいました。
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当方、仏語はほぼほぼお手上げですが、何と、見開きで光太郎の原詩が日本語で載っており、こりゃいいや、という感じでした。
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詩の選択は、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)が底本となっており、戦後の詩篇も含まれています。散文「智恵子の半生」も。しかし、「智恵子の半生」と、それから冒頭20頁ほど、光太郎智恵子の簡略な評伝となっているようですが、そちらは仏語のみでした。散文「九十九里浜の初夏」、同じく「智恵子の切抜絵」は割愛されていました。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

藤間さんの為短文をかく。

昭和26年(1951)4月19日の日記より 光太郎69歳

「藤間さん」は舞踊家の藤間節子(のち、黛節子)。

「智恵子抄」の二次創作として光太郎が唯一許し、光太郎生前に実際に上演されたたのが、藤間による舞踊化のみでした。昭和24年(1949)と翌年のことでした。
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その後の「智恵子抄」がらみでない公演のパンフレットにも、光太郎は短文を寄せ、日記にあるのもそのうちの一篇「山より」です。

光太郎智恵子に関わるテレビ番組の再放送情報を、2件。

放映順に、まずは7月19日(月)に初回放映があったものです。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2021年11月7日(日)  03:00~03:30 

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一 ナレーター:服部潤
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十和田湖と奥入瀬渓流が扱われ、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も。
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春先のロケだそうですが、ひんやりとした空気感が感じられました。

続いて、ドラマです。10月31日(日)に本放送がありました。

プレミアムドラマ山女日記3 「あどけない空・安達太良山」

NHK BSプレミアム 2021年11月7日(日) 16:15~17:05

会社勤めを辞め、北アルプス山麓で登山ガイドとして成長を続ける独身女性・柚月。彼女の元には今日も人生の苦悩を抱えた様々な依頼客が訪れる―。人気山岳ドラマのシーズン3。

柚月(工藤夕貴)の元に、会社員時代に親友だった向井英子(小林綾子)から帽子の制作依頼が届く。柚月はうれしくて、仕上げた帽子を手に英子が夫の宏治(湯江タケユキ)と暮らす福島の二本松を訪れる。宏治は震災で傾いた老舗和菓子店を営む両親を助けるため会社を辞めて英子と息子を連れて実家にUターンしていた。久々の再会に胸を躍らせて和菓子店を訪れた柚月。しかし、待ち受けていたのは英子のひどく冷たい態度だった。

【出演】工藤夕貴 若村麻由美 中村俊介 本仮屋ユイカ 湯江タケユキ 高橋長英 小林綾子 田中健
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今回の主な舞台は、智恵子故郷の二本松に聳える安達太良山。

その前に、二本松市街でもロケが為されました。
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主人公の登山ガイド・柚月(工藤夕貴さん)の、昔の親友・英子(小林綾子さん)が、夫の実家の老舗羊羹屋「玉福屋」で働いているという設定です。
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「玉嶋屋さんじゃん!」と叫んでしまいました。玉嶋屋さんは実在の老舗羊羹屋さんです。CGか何かで看板や暖簾などを合成しているのか、ロケのために付け替えたのか。羊羹作りのシーンなども、実際の店内を使っているようでした。

ドラマの「玉福屋」は、東日本大震災で経営が厳しくなり、英子の一家が都内からUターンして手伝っているという設定でした。ただし、英子の夫の宏治(湯江タケユキさん)は、より収入を得るため、実家の羊羹屋ではなく、土木業についています。店は宏治の父(高橋長英さん)と、英子で製造販売を切り盛り。宏治はそのことに負い目を感じています。宏治の母は認知症で施設通い、宏治たちの一人息子は小学校を不登校気味……。

そんなこんなで、英子も屈託を抱え、店まで会いに来た柚月につい冷淡な対応を取ってしまいます。さすがに悪いと思ったのか、長野に帰ろうとする柚月を二本松駅で呼び止め……。
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右下に停まった「玉福屋」の軽ワゴンの前、「智恵子抄」詩碑が映っています。

英子の悩みを聞こうとする柚月、二本松霞ヶ城に英子を連れ出し……。
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故・橋本堅太郎氏作の二本松少年隊像。

二人は天守台まで登って……。
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深田久弥の『日本百名山』を、ほぼ暗記している柚月、同書にも取り上げられている光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節を口ずさみます。

英子の悩みの概要を聞いた柚月、二本松にもう一泊することにし、翌日、英子を安達太良山登山に誘います。「行ってこい」と、実はいい人の義父に後を押され、英子は初めての安達太良山登山。これまで、そういう余裕もなかったようでした。
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ロープウェイを使うコースではなく、あえて奥岳登山口からくろがね小屋を経て、歩いて山頂まで。苦労しつつも、たまたま行き会った大阪のおばちゃん登山者(お約束で「飴ちゃん」をくれます)などにも励まされ、登頂成功。

そして山頂のシーンで、改めて「あどけない話」。
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それぞれに悩みを抱える宏治や息子の姿も。
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いろいろ苦しい状況に、「自分が頑張らなきゃ」と、自らを追い込んでいた英子、もっと周りに頼ろうと気づきます。
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下山はロープウェイを使うルートで、山頂駅近くのこの場所も。
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めでたしめでたし。

ただし、毎回ゲスト出演者に関しては、一話完結で「めでたしめでたし」ですが、柚月とその周辺はそうではないようで、次回以降に引っ張られます。これもお約束ですね(笑)。

御覧になっていない方、ぜひどうぞ。

ちなみに、安達太良山、明日、11月5日(金)、やはりNHK BSプレミアムさんで再放送がある「新日本風土記 お風呂の旅」でも、くろがね小屋が取り上げられます。残念ながら光太郎智恵子、ほんとの空、といった話にはなりませんが。

【折々のことば・光太郎】

夜胸をむす。むしてる時は快し、


昭和26年(1951)4月17日の日記より 光太郎69歳

むす」は「蒸す」。具体的にどうやっていたのかよく分からないのですが、宿痾の結核性の肋間神経痛治療のため、蒸していたとのこと。お湯に浸した蒸しタオル等を当てていたのかもしれません。

4件ご紹介します。

まず、『神戸新聞』さん一面コラム。10月29日(金)の掲載でした。

正平調

いつか読んだ五行歌を覚えている。〈藤井寺球場の/汲(く)み取り式の女子トイレ/壁一面の落書きを忘れない/「おまえら悔しいないんか/日本一になりとうないんか」と〉(大西直子)◆「藤井寺」「汲み取り」に時代がしのばれるが、「悔しいないんか」の心は関西のプロ野球チームをひいきとする現代のファンにも通じよう。今年もあかん、もう応援なんかやめやめ、とぼやきまくって幾星霜◆オリックスが「がんばろうKOBE」を掲げて連覇して以来、実に25年ぶりにパ・リーグを制した。かつて藤井寺を本拠としていた近鉄との統合以降でも初めてである。いくら雌伏とはいえ、ずいぶん長かった◆24年間で最下位9度を数え、「神戸から大阪に行ったから弱いんや」と本拠移転への恨み節が聞かれたこともあった。涙でしょっぱい歓喜の味わいは、信じて待ち続けた方たちにとって格別の美味であったろう◆丑(うし)年にちなみ、年明けのこの欄でも紹介した高村光太郎の詩「牛」をあらためて読む。〈牛はのろのろと歩く〉はご愛嬌(あいきょう)として、これから日本一を目指す令和の猛牛戦士とファンのみなさんに、次の一節を贈りたい。〈(牛は)自分の仕事をしてゐる/生命(いのち)をくだいて力を出す/牛の力は強い〉◆念ずれば、扉は開く。

パ・リーグを制したオリックスバファローズがらみで、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)。「年明けのこの欄」は、1月4日(月)の掲載分でした。

セ、パ共に、上位3チームによるCSは、11月6日(土)開幕。個人的には、いろいろご縁のある東北を本拠地とする、東北楽天ゴールデンイーグルスに下剋上していってほしいのですが(笑)。

続いて『朝日新聞』さん。おそらく九州の地方版に載ったものと思われます。

鹿児島高校が銀賞「舞台で『愛』を伝えられた」 全日本合唱コン

 第74回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門が30日、大分市のiichiko総合文化センターであり、九州支部代表としてBグループ(33人以上)に出場した鹿児島は銀賞を受賞した。
 出場5回目の鹿児島が自由曲に選んだのは、高村光太郎作詩、西村朗作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」。絶望に差し込む光のような愛を歌うよう心がけた。副顧問で国語を教える石川美由紀教諭の指導で、光太郎の作品も学んだ。顧問の片倉淳教諭は、「詩を読んで曲をつけた作曲者の気持ちが表現できた」と話した。
 部長の福留ゆう菜さん(3年)は、「『愛』を歌で表現するのが難しかった。同じ『ちえこ』でも、呼びかけなのか、いとおしさを込めているのか、発音一つで違ってくる。舞台で『愛』を伝えられたと思う」と笑顔を見せた。
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10月30日(土)、31日(日)に大分で開催された、全日本合唱コンクール全国大会 中学校・高等学校部門。唯一、光太郎詩をテキストにした曲を自由曲に選んで下さった、九州代表・鹿児島高等学校音楽部さんが、見事に銀賞をゲット。おめでとうございます。

絶望に差し込む光のような愛を歌うよう心がけた」「同じ『ちえこ』でも、呼びかけなのか、いとおしさを込めているのか、発音一つで違ってくる」、まさしくその通りです。こういう点を自分たちなりに一生懸命考えて表現しようとすることで、いい演奏につながったのでしょう。

次は、やはり一面コラムで、『中日新聞』さん。一昨日の掲載分です。

中日春秋

閻魔(えんま)大王のところには「浄玻璃(じょうはり)の鏡」というのがある。人のそれまでの善悪の行いを映すそうだ。なにも大王のもとまで行かずとも人にはそれぞれ浄玻璃の鏡の役をする顔がある−と述べたのは、多くの顔を見つめ深く思索した詩人、彫刻家の高村光太郎である▼<顔ほど正直な看板はない…精神の高低から、叡智(えいち)の明暗から、何から何まで顔に書かれる>(随筆『顔』)。顔とは看板のように雄弁に語るものであり、ごまかしはきかないと。「選挙の顔」にも、当てはまりそうである▼ひと月前、看板を岸田総裁の顔にかけ替え、衆院選に臨んだ自民党は政権を維持した。古い看板のままならば、ひどい結果もあったはずで、危機に底力を見せたと言えそうだ。半面、議席は伸び悩んだ。新しい顔に書かれた、ごまかせない何かを読んだ有権者も、少なくなかったのではないか▼人の話をよく聞く耳があると言い、弱者にやさしそうな経済政策を口にしていた。なのに選挙戦になると、新しい顔にあったはずの独自の色は薄れていった▼<浄玻璃にきまりの悪い図が写り>。閻魔様の御前を詠んだらしい古川柳。さして変わらないと有権者が首をひねる、自民党にはきまりの悪い図が伸び悩みの一因を物語っているのではないか▼破顔一笑の民意とはなっていない。失望の色を浮かべた人々を思い浮かべよと結果には書かれていよう。

引用されているのは、大正13年(1924)のエッセイ「顔」。「青空文庫」さんで全文が公開中です。短いものですので、ぜひお読み下さい。

肖像彫刻や油絵の肖像画、自画像、時にカリカチュアを多く手掛けた光太郎ならではの感じ方ですね。そこにさきの衆議院選挙をからめて、と、上手い構成です。

破顔一笑の民意とはなっていない。失望の色を浮かべた人々を思い浮かべよと結果には書かれていよう」。こういう言説を「負け犬の遠吠え」と捉えるか、「民主主義の根本たる少数意見の尊重」とするか、今後に注視したいものです。

最後に、新聞ではないのですが、智恵子の故郷、福島県二本松市の広報誌『広報にほんまつ』。

また改めて詳しくご紹介しますが、同市の観光大使を務められている女優の一色采子さん(お父さまの故・大山忠作画伯が二本松ご出身)が智恵子役を務められる舞台の案内が掲載されています。
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こちらの舞台、先行して銀座でも公演が行われます。当方、ちょっとだけお手伝いさせていただいておりまして、銀座公演の方を拝見に行く予定です。

ちなみに光太郎役は、横内正さん。一色さんとは、かつてシェークスピア劇などでご一緒されていました。当方、「水戸黄門」の「格さん」のイメージが強いのですが。

この件、先述の通り、また後ほど詳しくご紹介します。また、一部の方々には、采子姉御からの至上命令で(笑)、ご案内をお送りしますので、よろしく。

【折々のことば・光太郎】

夕方棟上。大工さんのりとをあげ、余餅まき。子供等ひろふ。


昭和26年(1951)4月15日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の増築に関してです。餅まきをする光太郎、それを拾う村の子供たち、微笑ましい光景です。

10月31日(日)、六本木の国立新美術館さんで、第8回日本美術展覧会(日展)を拝見した後、初台へ。駅からほど近い住宅街の中にある、代々木能舞台さんで「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」を拝聴して参りました。
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代々木能舞台さん、場所が場所だけに、6月に「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝聴しに行った南青山の銕仙会能楽研修所さんのように、屋内に能舞台がしつらえてあるものとばかり思いこんでいました。しかし、さにあらず。客席は屋内でしたが、舞台は庭に。なるほど、これなら登録有形文化財指定もうなずけるな、と思いました。この日は光太郎がらみのイベントの通例で雨でしたが、画面中央の軒から雨だれがしたたり落ちている状態で、それはそれで趣がありました。
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こういう空間構成ですので、換気はばっちりです。寒いくらいでした。
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さて、午後1:30開演。二部構成で、第一部は「和編鐘で奏でる日本の音風景 日本の詩と季節の音風景」。万葉集や夏目漱石、石川啄木、与謝野晶子らの短歌、俳句を、河崎卓也さんが朗唱。その合間に、ゆきねさんの和編鐘と、田中泉代賀さんの十七絃によるオリジナル曲。

和編鐘というのは、当方、初めて聴きました。西洋音楽のチューブラーベルに近いのかな、という感じでしたが、チューブラーベルが2オクターブ未満であるのに対し、和編鐘は3オクターブ(やりようによっては、もっと増やせるかもしれません)。音色としては、とにかく残響が長いので、不思議な感じでした。ペダルを踏みっぱなしにしてピアノでコード演奏をするような。音量もかなりあり、半屋外のこの日の舞台でも、その意味では問題ありませんでした。逆に、かなりの音量でありながら、耳に優しい響きだとも感じました。その響きに誘われたのか、かなりの音量にもかかわらず、隣に座っていた老人男性は、いびきをかいてねていました(笑)。

第二部が、メインの「智恵子抄 愛はすべてをつつむ」。
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河崎さんが、「智恵子抄」所収の詩四篇と、それが書かれた前後の光太郎智恵子についての解説。詩の朗読中、ゆきねさんは、和編鐘ではなく、手持ちの鈴などを邪魔にならない程度に鳴らし、それもまたいい感じでした。

合間にやはり和編鐘によるオリジナル曲。こちらでは、箏はなく和編鐘のみでした。マリンバやビブラフォンのように、4本、または6本というわけにはいかないようで、マレットは2本でしたが、それでも速い動きで残響を生かした分散和音、トレモロ……。音量が大きいだけに、間違うと悲惨なことになりそうでしたが、さすがにそういう場面はありませんでした。

メロディー的にも、「智恵子抄」の感傷的な感覚、ある種のノスタルジー、そして胸が張り裂けそうな光太郎の思いなどが、しっかりと表現されていました。

終演後。
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「智恵子抄」、今回が初演だそうですが、これでお蔵入りとなることなく、再演、再々演、さらに曲目を増やし、箏なり笛なりとの合奏……と、発展させて行っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる青年集配人くる、菊岡久利氏より余の十四歳頃のシシ合彫を送りくる。箱書の事、

昭和26年(1951)4月13日の日記より 光太郎69歳


詩人・菊岡久利の回想から。

僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。
(略)
当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。
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右上の画像、左端に「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」の署名。この年、下谷高等小学校を卒業した数え十四歳の光太郎は、東京美術学校の予備校として同窓生たちが作った共立美術学館予備科に入学、中学の課程を学んでいます(翌年には東京美術学校に入学)。その頃の懐かしい作品が、なぜか鎌倉からひょっこり現れ、入手した菊岡が光太郎に鑑定を依頼、まちがいなく自作だということで、新たに裏書きをしてくれたというわけです。

五十五年 青いぶだうが まだあをい」。菊岡は「詩」と書いていますが、これは俳句と言っていいと思います。筑摩書房『高村光太郎全集』にはなぜか脱漏している句です。

昨日は都内2箇所を廻っておりました。廻った順にレポートいたします。

まず、六本木の国立新美術館さん。
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こちらでは、第8回日本美術展覧会(通称・日展)が開催中。
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日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門に分かれており、そのうち第5科・書部門で、光太郎詩文を書いた作品が入選し、展示されているという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

第5科は3階でした。
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確認した限り、3点、光太郎詩文を書いて下さった作品が。展示番号順にご紹介します。

まず、照井皓月さんという方の作品。光太郎詩「鯉を彫る」(昭和11年=1936)の一節です。
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この方、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻ご在住だそうです。

続いて、篠原挙秋さんという方で、「智恵子の半生より」。『智恵子抄』にも収録された随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。
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日展さんでは、こういう巻紙の形での出品がありなのですね。
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それから、冨本琇瑩さんという方。「新入選」とありました。初の入選ということでしょうか。作品題は「智恵子抄より」。
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こちらも巻紙で、「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)が書かれています。
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KIMG5458おそらく、光太郎詩文が書かれた作品は、この3点でした(もし見落としがあったらすみません)。

雅号では分かりにくいのですが、お三方とも女性の方でした(出品名簿に本名が書かれていました)。

「男性らしく雄渾壮大」、「女性らしく繊細優美」などと書くと、昨今は「ステレオタイプのとらえ方はジェンダー差別に他ならん!」とお叱りを受けそうですが、やはり厳然としてそういう部分はあると思いますし、3点の書からは、たおやかな女性らしさを感じました。

ところで、日展さん、入選者の名簿等に、作品名も併せて公開なさっています。これはいい試みだと存じます。「誰が」というのはもちろんですが、「何を」というのも重要な要素でしょう。当方など、光太郎詩文を書かれた作品が出ているので観に行こう、という気になりましたし。

同じことは、音楽の演奏会等(コンクール等も含め)にも言えるような気がします。やはり「誰(どの団体)が」は、もちろん必須ですが、「どんな曲を」も非常に大切だと思います。「この曲が演奏されるんなら、聴きに行こう」というニーズが結構あるような気がしますが、どうも主催者側はそう考えず、「誰(どの団体)」ばかり前面に出すケースが少なくありません。

閑話休題。日展さん、今月21日までの会期です。ぜひ足をお運びください。

007ちなみに会場の国立新美術館さん、「エヴァンゲリオン」シリーズなどで有名な庵野秀明氏の「庵野秀明展」も開催中で、混み合っています。ご注意下さい。

【折々のことば・光太郎】

随筆集校閲、朱筆入れ、

   昭和26年4月8日の日記より 光太郎69歳

「随筆集」は、この年6月に、『智恵子抄』と同じ龍星閣から刊行された『独居自炊』。若干の加筆訂正がありますが、ほぼほぼ戦時中の『美について』(昭和16年=1941)、『某月某日』(昭和18年=1943)からの再編です。

本日も新刊紹介です。

高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡 回想録『分水嶺』補遺

2021年10月30日 髙橋純編訳 吉夏社 定価2,600円+税

残されていた「師弟」の交流記録1931‐44。1931年より長くパリに暮らした彫刻家・高田と、彼に信頼を置いていたロラン。新発見となる、当時の二人が交わした23通に及ぶ往復書簡に見る「師弟」の記録。ナチス・ドイツ支配下のフランスに留まり、在仏新聞記者協会の役職にもあった日本人彫刻家による希有な時代の証言、さらに後年綴られた高田回想録『分水嶺』を補完するものでもある。高田のパリ時代、「ロランによる小林多喜二虐殺抗議文」を巡る論考なども収載。

目次
編訳者まえがき
序 発見された二十三通の手紙
高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡
付論 多喜二とロマン・ロラン―高田博厚が伝えた「幻の抗議文」について
付録 ロマン・ロランの日記抜粋
   ロマン・ロランに届いた一通の日本語の手紙
   レオンドゥーベル友の会の「趣意書」   
   「世界最小新聞社社長」――新聞記者高田の回想
   高田博厚「ロマン・ロラン」(一九三六年執筆)
年譜
解説――高田博厚の「詩と真実」

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高田博厚は、明治末に早世した碌山荻原守衛を除けば、光太郎が唯一高く評価した同時代の邦人彫刻家です。光太郎は、高田の無名時代からその才能をいち早く見抜き、渡仏のための援助等も惜しみませんでした。

高田も、光太郎の影響で絵画から彫刻に転じ、光太郎の援助もあって渡仏、時代に翻弄されつつも、世界的に名声を得るに至りました。

そして、ロマン・ロラン。光太郎も早くからロランを敬愛し、大正2年(1913)には、日本で最初の『ジャン・クリストフ』の訳を発表しました。また、同11年(1922)から翌年にかけ、戯曲『リリユリ』を翻訳、同13年(1924)には単行本として上梓しています。

そして1大正15年(1926)、片山敏彦、尾崎喜八、さらに高田らと共に「ロマン・ロラン友の会」を結成しました。唯一確認できている、光太郎と高田が一緒に写った写真も、「ロマン・ロラン友の会」でのものです。後列左から二人目が光太郎、前列一番右に高田。前列中央は、フランスの作家、シャルル・ヴィルドラック夫妻です。
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高田は昭和6年(1931)の渡仏後、ロランと実際に会い、驚くべきことに、ロランは自らの胸像制作をまだ無名だった高田に依頼します。それまでフランスのどの彫刻家に対しても、その申し入れを断り続けていたのに、です。

そして昭和6年(1931)からロランが歿する昭和19年(1944)まで、二人の間で書簡のやりとりも為されました。その往復書簡が、パリのフランス国立図書館の「ロマン・ロラン寄贈資料庫」に保管されており、訳者・髙橋氏がそれを確認、この書籍で初公開なさったというわけです。ロランから高田宛の書簡は、おそらくロラン夫人が夫の没後、ロランの書いた物を散逸させないため、高田から譲り受けたのであろうとのことでした。

残念ながら、二人の往復書簡の中には光太郎の名は出て来ませんが(「序 発見された二十三通の手紙」では、光太郎にも言及されています)、二人の偉大な芸術家の魂の交流の様子は、興味深く拝読させていただきました。

ぜひお買い求め下さい。

高田博厚というと、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「彫刻プロムナード」が整備されている埼玉県東松山市で、毎年、高田の彫刻展が開催されています。今年の展示は10月28日(木)からでした。
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こちらもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

澤田伊四郎氏来訪、食パン沢山、其他食品いろいろもらふ。今夜学校へ泊る由、尚100,000円もらふ。小屋増築についてスルガさん、院長さん等と相談して東京へかへる由。

昭和26年(1951)4月2日の日記より 光太郎69歳

澤田伊四郎氏」は、出版社・龍星閣主。戦前に詩集『智恵子抄』を出版し、戦時の休業から社業を再開した昭和25年(1950)には、詩文集『智恵子抄その後』、翌26年(1951)1月には、『智恵子抄』の戦後新版を出版しました。明確な印税制を採って居らず、「100,000円」は、これらに対する「御礼」として支払われたものです。

それでも尚、光太郎の取り分が足りないということで、小屋の増築費用も龍星閣で持つことになりました。

本日も新刊紹介です。

孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり

2021年9月30日 谷川渥著 月曜社 定価2,600円+税

覗き見る想像力ーー西洋美術の視覚的イメージに触発された日本近代文学の巨匠たちの作品から、〈見ること〉の諸相を、分析する。夏目漱石、高村光太郎、村山槐多、森鷗外、芥川龍之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫、萩原朔太郎、江戸川乱歩、夢野久作、川端康成、横光利一などの作品から、文学を美学から照射する試み。

目次
まえがき
【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学(1:夏目漱石、2:高村光太郎、3:村山槐多)/森鴎外の『花子』
【Ⅱ】日本近代文学とデカダンス/「表現」をめぐる断章
【Ⅲ】孤独な窃視者の夢想――江戸川乱歩と萩原朔太郎/夢野久作のエロ・グロ・ナンセンス/谷崎潤一郎――女の図像学/映画『狂った一頁』と新感覚派――覚書
あとがき
001
「【Ⅰ】レオナルド・ダ・ヴィンチと日本近代文学」の中で、光太郎の項が設けられています。この章全体は「レオナルド・ダ・ヴィンチという存在が日本近代文学にどのような影を落としているかという一点に焦点を絞って外観を試み」るもので、他に夏目漱石村山槐多が取り上げられています。

光太郎の項では、大正3年(1914)刊行の第一詩集『道程』冒頭に置かれた詩「失はれたるモナ・リザ」(明治44年=1911)に着目されています。

  失はれたるモナ・リザ002

モナ・リザは歩み去れり
かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
「よき人になれかし」と
とほく、はかなく、かなしげに
また、凱旋の将軍の夫人が偸見(ぬすみみ)の如き
冷かにしてあたたかなる
銀の如き顫音を加へて
しづやかに、つつましやかに
モナ・リザは歩み去れり

モナ・リザは歩み去れり
深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
はれやかに解かれたれ
ながく画堂の壁に閉ぢられたる
額ぶちこそは除かれたれ
敬虔の涙をたたへて
画布(トワアル)にむかひたる
迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
ああ、画家こそははかなけれ
モナ・リザは歩み去れり006

モナ・リザは歩み去れり
心弱く、痛ましけれど
手に権謀の力つよき
昼みれば淡緑に
夜みれば真紅(しんく)なる
かのアレキサンドルの青玉(せいぎよく)の如き
モナ・リザは歩み去れり

モリ・リザは歩み去れり003
我が魂を脅し
我が生の燃焼に油をそそぎし
モナ・リザの唇はなほ微笑せり
ねたましきかな
モナ・リザは涙をながさず
ただ東洋の真珠の如き
うるみある淡碧(うすあを)の歯をみせて微笑せり
額ぶちを離れたる
モナ・リザは歩み去れり

モナ・リザは歩み去れり
かつてその不可思議に心をののき
逃亡を企てし我なれど
ああ、あやしきかな
歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
消えなば、いかに悲しからむ
ああ、記念すべき霜月しもつきの末の日よ
モナ・リザは歩み去れり

「モナ・リザ」は、欧米留学からの帰朝後、まだ智恵子と出会う前に、光太郎が通っていた吉原の遊郭・河内楼の娼妓、若太夫です。

『孤独な窃視者の夢想』では、「この「モナ・リザ」は、吉原河内楼の娼妓「若太夫」のことだと一般に指摘されている。」とあります。「一般に指摘」ではなく、光太郎自身がそう書いているのですが……。

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)
 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。
(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)

上の方に『新よし原細見』(明治42年=1909)の画像を載せておきましたが、若太夫は本名・真野しま、名古屋の出身でした。「細見」でサバ読みがなされていなければ、光太郎と出会った明治43年(1910)当時、23歳だったことになります。

木村荘太の名が出て来ますが、木村荘太(艸太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。昭和25年(1950)には、自伝的小説『魔の宴』を刊行し、光太郎、若太夫との三角関係にも触れています。

結局、若太夫は光太郎より木村を選びますが、木村とてはなから本気の付き合いではありませんでした。若太夫は吉原大火(明治44年=1911、映画「吉原炎上」で描かれました)の後、年季が明けて郷里に帰り、以後、消息不明。当方、写真がないかと探してはいるのですが、なかなか見つかりません。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。

『孤独な窃視者の夢想』では触れられていませんが、光太郎にはもう一遍、モナ・リザ=若太夫をモチーフにした詩があります。やはり明治44年(1911)に書かれた「地上のモナ・リザ」。

  地上のモナ・リザ008

モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
世の人々のみにくさよ
モナ・リザは山青く水白き
かの夢のごときロムバルヂアの背景に
やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
ただ半身をのみあらはせかし
思慮ふかき古への画聖もかくは描きたりき
現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

われはモナ・リザを恐る
地上に放たれ
ちまたに語り
汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
モナ・リザの不可思議は007
仮象に入りて美しく輝き
咫尺に現じて痛ましく貴し
選択の運命はすでにすでに世を棄てたり
余は今もただ頭をたれて
モナ・リザの美しき力を夢む
モナ・リザよ、モナ・リザよ
モナ・リザは永しへに地を歩むことなかれ

のちに智恵子と出会った後、縁談が持ち上がっていると語った(らしい)智恵子に向けて「チシアンの画いた絵が/鶴巻町へ買物に出るのです」(「人に」)と書いたのを彷彿させられます。ちなみにこの一節、大正元年(1912)雑誌初出時(題名も「N――女史に」でした)では「チシアンの画いた画が/鶴巻町へ買喰ひに出るのです」でした。

ところで、若太夫。光太郎は「モナ・リザ」以外にも、古典の名作になぞらえていました。昭和25年(1950)に書かれたアンケート回答「私の好きな顔 古今東西の美術品の中より」

ゴヤのマハ
この顔は若太夫にも似て居り、又この眼をもすこしまろくすれば、智恵子にも似て居る。


ゴヤの「マハ」にはいろいろなバージョンがあり、具体的にどれを指しているのか不明ですが……。「モナ・リザ」にも「マハ」にも似ていたという若太夫。先ほども書きましたが、ぜひ写真を見てみたいものです。情報をお持ちの方は御教示いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

水沢より女性二人来る、成人の日の礼といふ、樋口氏より抹茶十匁、羊かん一折、成人の有志より日本酒一升(天瓢)もらふ、写真などとり、辞去。


昭和26年(1951)4月1日の日記より 光太郎69歳

「成人の日」については、この10月6日(水)10月9日(土)のこのコーナーをご参照下さい。

天瓢」は、岩手銘醸さんで現在も造り続けられている地酒です。光太郎、市販の日本酒を貰うと、ほぼほぼ必ずといっていいくらい、その銘柄を記録しています。なぜなのでしょうか?

本日も、新刊紹介です。

思想をよむ、人をよむ、時代をよむ。 書ほどやさしいものはない

2021年8月30日 石川九楊著 ミネルヴァ書房 定価2,500円+税

あんな書こんな書、珍書奇書

西郷隆盛、副島種臣、徳川綱吉、大塩平八郎、九代目市川團十郎、平塚らいてう、南方熊楠、岡本かの子など書からすべてをよみとおす。

一画一画、一字一字の書の背景には、その人物の思想や生きた時代が宿る。王羲之、顔真卿、副島種臣、そしてこれまであまり取り上げられることのなかった西郷隆盛、大塩平八郎、岡本かの子に至るまで、一話一話読み切りで、古今東アジアの書を巡り、人と思想、時代を読み解く一冊。
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目次
序 書ほどやさしいものはない
Ⅰ 一月一書、季節を楽しむ
   一月 歳(王羲之「蘭亭叙・八柱第一本」) 
   二月 雪(伝嵯峨天皇「李嶠雑詠残巻」)
   三月 陽(褚遂良「雁塔聖教序」)
   四月 花(副島種臣「杜甫曲江対酒詩句」)
   五月 風(良寛「夢左一覺後彷彿」)
   六月 雨(副島種臣「帰雲飛雨」)
   七月 水(藤原佐理「詩懐紙」)
   八月 遊(藤原行成「白氏詩巻」)
   九月 雲(池大雅「徐文長詩四種」)
   十月 恋(「紙撚切道済集」)
   十一月 清(松花堂昭乗「長恨歌」)
   十二月 酒(伝醍醐天皇「白楽天詩句」)
Ⅱ タテ画、ヨコ画、十字選
   瘦せたところも肥えたところもある描線
   点画の成立
   筆あそび(書)の発生
   石刻文字、「十」字八態
   刻字の虚像
   篆刻の文字から――星光のごとく、光芒のごとく
   権威を写し込んだ「政治文字」
   余計な力を加えず、世界を横切っていく
   呪符か、祝符か
   無意識層まで法華経
   名刀の「十」字
   一幅の水墨画
   古典的(アルカイック)な書法
   自身の哲学を裏切る書
   彫刻的筆画
   革命家の書
   明治新政府と時代への否定と逆転
   「十」字の原風景
   幾何学的、建築的、書的美学の集積
   印刷活字のモデル
   女手(ひらがな)書法の漢字
   左右対称を超える多析法の美学
   書の近代の誕生
   右から左の「十」字
   硬筆の書きぶりから生まれた「十」字
   文学の文体(スタイル)がのぞける
Ⅲ 一人一書、浮世ばなし
   人の短を言わず、己の長を説かず――空海
   天に則り私を去る――夏目漱石
   一日作さざれば一日食わず――西田幾多郎
   過ては則ち改むるに憚ることなかれ――徳川綱吉
   独立自尊新世紀を迎う――福澤諭吉
   簡素――島崎藤村
   敬天愛人――西郷隆盛
   災難に逢う時には災難に逢うがよく候――良寛
   徳は孤ならず――志賀直哉
   為政清明――大久保利通
   やみがたくして道はゆくなり――高村光太郎
   仰天有始――岡倉天心
   無――白隠慧鶴
   桃花細逐楊花落(とうかさいちくようかおち)――副島種臣
   敏於事而慎於言(ことにびんにしてげんをつつしむ)――犬養毅
   伝国之辞――上杉鷹山
   六十一歳自画自賛像――本居宣長
   無限生成――平塚らいてう
   荀子識語――大塩平八郎
   白楽天詩句――伝醍醐天皇
   寸松庵色紙――筆者不詳
   虹いくたび――川端康成
   神島建立歌碑表面自筆草稿――南方熊楠
   日本美術院院歌――横山大観
   井上馨宛書状――九代目市川團十郎
Ⅳ 珍書奇書、あんな書こんな書
   「古今和歌集」の背景――伝醍醐天皇「白楽天詩句」
   縮織か絞染を思わせる――円珍書状
   連綿がひらがなを生んだ――虚空蔵菩薩念誦次第紙背仮名文書
   天平時代の落書――写経生楽書
   ガリ版文字のような――金農「昔邪之廬詩」
   蛇のような、ツチノコのような――空海「崔子玉座右銘」
   一筆書きの書――呉説「王安石蘇軾三詩巻」
   狂草の逸品――許友「七絶二首」
   骨書きの書――宋・徽宗「夏日詩」
   日本墨蹟のはじまり、やぶれがぶれ――一休「漁父」
   輪舞曲(ロンド)を踊ろう――解縉「文語」
   こんな字、書いてみました。――空海「崔子玉座右銘」
   聖草・韮、雉の舞い――雑書体・鳥毛篆書屛風
   体は金文、心は草書――傅山「七絶十二屛」
   集字聖教序に瓜二つ――唐招提寺木額字
   無法と無茶、そして狂――一休宗純「靈山徹翁和尚示榮衒徒法語」
   逆入法成立以前の「古文」書法――王樹「易経謙卦」・傅山「七絶十二屛」
   巨大な構想――副島種臣「杜甫曲江対酒詩句」(上)
   巨大な構想――副島種臣「杜甫曲江対酒詩句」(下)
   書くことの楽しさ――居延出土習字簡
   上へ・下へ・伸ばして伸ばす――張旭「自言帖」
   「右ハライ」こそ書の始まり――嵩山太室石闕銘
   消えた文字の謎を解く――掛字と掛筆(上)「寸松庵色紙」
   溶ける文字、溶ける筆画――掛字と掛筆(下)「香紙切」
あとがき
人名・事項索引

書家の石川九楊氏の新著です。

これまでも数々の御著書の中で、光太郎の書をかなり好意的に評して下さっていた石川氏、今回もそうしてくださいまして、有り難いかぎりです。

まず「Ⅱ タテ画、ヨコ画、十字選」。古今の書作品(中には「作品」とも言い難い個人的な筆跡なども含みますが)中の「十」の一文字にこだわり、いわゆる能書家と言われるような人々、特徴的な書で有名な人々が、どのように「十」の字を書いているのか、といった考察です。

光太郎に関しては、詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されている詩「荒涼たる帰宅」の手控え原稿から。「十月の深夜のがらんどうなアトリエ」の「十」。
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石川氏曰く、

 高村の筆跡は全般にガリ版の文字のように明快で、歯切れがよく、韻(ひび)きが高い。
 『智恵子抄』の完結を意味するこの詩の「十」はその一例、ヨコ画は一点のゆるみもなく緊張をもって長くなり、タテ画は起筆部に力をこめて、ヨコ画のちょうど中央を交叉する。「スー・カリ」という規則正しい音が、何とも快い。
 近代の作家や詩人のような書字の崩れ、新聞記者のような角のとれた丸文字化などとは無縁、隔絶している。彫刻家。高村の持つペンは鑿(のみ)。


なるほど。

それからもう一箇所、「Ⅲ 一人一書、浮世ばなし」中の「やみがたくして道はゆくなり――高村光太郎」。こちらは、光太郎書の代表作の一つ、「吾山に……」の短歌を書いた絹本を俎上にのせています。
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この中で、三行目の「つ」と「の」が、石川氏のお気に入り。

「川(つ)」字の第一筆相当部は、まず、木の表面に薄く斜めに彫刻刀を「スイ」と入れる。その後は、刀の角(かど)で、軽く筋をつけるように終筆部を切り込む。
 そして最終第三筆相当部では力を入れまた抜くリズムを繰り返しながら「グイ・グイ・グイ」と削り込み、最後に「ハラリ」と切り落とす。
 つづく「の」の字の「グリ・グリ・グリ・グリ」と螺旋(らせん)状に深く彫り込む様が圧巻。この二字をなぞるだけで、この作品は書というより彫刻であり、それはすなわち高村光太郎が詩人である以上に彫刻家であったことがはっきり見えてくる。


何だか、長嶋茂雄さんの「球がこうスッと来るだろ。そこをグゥーッと構えて腰をガッとする。あとはバァッといってガーンだ。シャーッときてググッとなったらシュッと振ってバーンだ。」のような感じもしますが(笑)。

ちなみに問題の「吾山に……」の書、現在、富山県水墨美術館さんで開催中の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示中です。

さて、『思想をよむ、人をよむ、時代をよむ。 書ほどやさしいものはない』、ぜひお買い上げ下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日は山口小学校の卒業式なれど出席せず、まだ出かけられぬ状態にあり、昨年は出かけて祝辞をのべ、又式後御馳走になりたる事を記憶す、


昭和26年(1951)3月24日の日記より 光太郎69歳

以前にも書きましたが、この年のこの時期が、七年間の花巻郊外旧太田村の山小屋蟄居生活で、最も体調が悪かった時期でした。

コロナ禍も収束に向かいつつあり、さらに芸術の秋、ということで、さまざまなイベントが多く、このブログもそちら方面の紹介に紙幅(紙ではありませんが(笑))を費やして参りました。その分、新刊書籍の紹介が後回しになってまいりましたが、今日からしばらくそのあたりを。

まずは小説です。

明治画鬼草紙

2021年8月15日 伊原勇一著 文芸社 定価800円+税

画鬼と呼ばれた奇想の絵師が四つの怪事件に遭遇。歴史上の人物も巻きこんで、物語は意想外の展開に! 第21回歴史浪漫文学賞・創作部門優秀賞受賞者の渾身作!

本書を彩る様々な登場人物──山岡鉄舟、柴田是真、高村光雲、夜嵐お絹、月岡芳年、中村仲蔵、新門辰五郎、三河町半七、仮名垣魯文、落合芳幾、山田浅右衛門、雲井龍雄、万亭応賀、梅亭金鵞、三遊亭円朝、豊原国周


目次
第一話 御用盗始末  第二話 彰義隊異聞  第三話 牛鍋屋因果  第四話 母子像縁起
混沌(あるいは渾沌)の絵師・河鍋暁斎――あとがきに代えて

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奇想の画家・河鍋暁斎を主人公、というより狂言回しとしたもので、幕末から明治初年の江戸・東京が舞台です。

「第二話 彰義隊異聞」に、若き日の光雲が登場します(ちょい役ですが)。

その他、歴史上の実在の人物(山岡鉄舟など)や、過去の名作に登場した架空の人物(半七親分ほか)などが入り乱れ、あやなす人間模様。ストーリーも、記録に残る実際の出来事や、三遊亭円朝の怪談噺などを下敷きに、虚実取り混ぜて展開されています。

光雲に関しては、元ネタは『光雲懐古談』(昭和4年=1929)中の「上野戦争当時のことなど」。慶応4年(1868)、上野寛永寺に立て籠もった彰義隊と薩長東征軍との戦いのさなか、師匠・東雲の元で年季奉公中の光雲が、砲弾銃弾の飛び交う下を、逃げ遅れているであろう師匠の兄弟弟子のもとに向かったことが記されています。『明治画鬼草紙』では、その途中で暁斎たちと出会う、というシーンが描かれていますが、これは著者の伊原氏の創作のようです。

ちなみに『光雲懐古談』は、復刊された各種の版を含め、索引が付いて居らず、暁斎について言及されている箇所があるかどうか、当方、記憶にありません。ただ、光太郎の回想によれば、光雲は暁斎の絵を高く評価していたようです。

雅邦先生は学校の始めからその後も始終一緒だつたから、時々事がある度に往来してゐて、父は雅邦さんを大変尊敬してゐたけれど、個人的には非常に親しいという程ではなかつた。寧ろ川端玉章先生の方が親しかつたが、それにしても仕事が違ふので大したつきあいといふのでもなかつた。却て工芸家の方に大島如雲さんなどとのつきあひがあつた。是真さんとは往来があつたかどうか私は記憶にないが、父は是真さんの絵を殊にその意匠をひどく買つてゐた。洒落のうまいところなど好きなのである。だから是真さんのものからヒントを得て作つた彫刻は沢山ある。河鍋暁斎の絵も好きであつた。父は自分では全然絵が描けないから、絵が描ければとよく言つて居り、私には絵を習へとよく言つたものだ。
(「回想録」昭和20年=1945)

また、光太郎自身も、明治中期以降になってからのいわゆる大家(たいか)の人々よりも、江戸期から活躍している暁斎らの方に高い芸術性を感じると書いています。

さて、『明治画鬼草紙』、『東京新聞』さんに書評、というか刊行を報じる記事が出ていました。

江戸の浮世絵師テーマに小説執筆 さいたま市・伊原勇一さん 3冊目で初文学賞

無題 埼玉県内で公立高の国語教諭として長年勤め、早期退職後は小説執筆に専念していたさいたま市見沼区の伊原勇一さん(67)が、江戸期の浮世絵師を描いた三冊目の時代小説で文学賞を受賞した。完成まで足掛け五年ほど費やし、受賞後も加筆したという力作だ。「浮世絵師へのリスペクトを込めた。優れた人物がいたことを知り、見直してほしい」と喜びを語る。(前田朋子)
 今年三月、歴史浪漫文学賞(主催・郁朋社、歴史文学振興会)の創作部門優秀賞を受賞したのは「春信あけぼの冊子(そうし)」(出版に際し「鈴木春信あけぼの冊子」と改題)。これまでの二作同様、江戸期の浮世絵師が主人公ながら、今で言う「パパ活」や児童虐待、ストーカーのような現代にも通じる問題をちりばめた連作小説集だ。
 県立大宮東高などで教壇に立った伊原さんは、大学で絵入りの娯楽本「黄表紙(きびょうし)」を卒論に選ぶなど、江戸期の文化に造詣が深かった。市立浦和南高に在職時、学校での市民講座で講師をした際、歌川国芳を題材に選んだことを機に浮世絵への興味が募り、研究を開始。版画技術の高さへの興味に加え、四十歳前後から歴史の表舞台に躍り出る絵師は前半生に謎が多く、創作意欲をそそった。
 浮世絵師の小説一作目で国芳、次に喜多川歌麿を取り上げ、三作目は満を持して浮世絵の創始者と言われる鈴木春信(生年不詳〜一七七〇年)を主役に据えた。春信が画業の傍ら長屋の大家だった史実を使い、店子(たなこ)が春信に相談事を持ち込むなどして物語が展開する。実際に親交のあった平賀源内や、当時の美人として有名だった笠森お仙らも登場する。
 これとは別に、同じく浮世絵師の河鍋暁斎(一八三一〜八九年)の半生を描く長編「明治画鬼草紙」も刊行を控える。のんびりしたペースで進む「あけぼの冊子」と比べ、「画鬼草紙」は波瀾(はらん)万丈で話が次々に展開。伊原さんは「山田風太郎さんの明治ものが好きな方におすすめ」と話す。
 いずれも資料は最大五万冊あったという蔵書でほぼ賄い、足りない部分は東京・神田の古書店で必要な資料に奇跡的に出合えた。「これは私に書けと言ってるのだと感じましたね」と伊原さんは笑う。今後は近代落語の祖・三遊亭円朝や明治の郵便制度に着目した作品を執筆予定。「私にとって、書くことは生きること。読み終えて『楽しかった、勉強になった』と思ってもらえる作品を書き続けられたら」と意気盛んだ。
 問い合わせは、「鈴木春信あけぼの冊子」は郁朋社=電03(3234)8923、「明治画鬼草紙」は文芸社=電03(5369)3060=へ。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

中央公論社の選集の事結局承諾。六巻。300頁300円程度5000部一割。二分は草野君に。

昭和26年(1951)3月22日の日記より 光太郎69歳

選集」は、この年9月から刊行が始まった『高村光太郎選集』。編集実務には当会の祖・草野心平があたりました。

都下東久留米市関連で2件、いずれも『東京新聞』さんに載った記事から。

まずは地元コミュニティFMさんと市立図書館さんのコラボ企画だそうで。

「思い出の1冊」エピソード70点に共感 地元FM局が募り、東久留米の図書館展示

 東久留米市立ひばりが丘図書館とコミュニティーFM局「TOKYO854くるめラ」の共同企画展「あなたの本の思い出、教えてください」が、同館で開かれている。くるめラリスナーらの「思い出の一冊」を、寄せられたエピソードと共に展示。長年、親しまれてきた絵本や児童書、小説が並び、来館者は「私もこの本好きだったな」と自身の思い出を語り合っている。
◆利用者と双方向
 図書館の展示は、館側がテーマに沿った本を選ぶことが一般的だが、佐々木吾一館長は「利用者と双方向でつながれる企画をしたかった」という。エピソード募集はくるめラの番組内の「図書館へ行こう」のコーナーなどで呼び掛け、九月上旬からの一カ月で約七十件が集まった。
 絵本のエピソードは、読み聞かせをした親や、してもらった子どもからも届いた。今は社会人になった息子に「よるくま」(酒井駒子、偕成社)を毎晩、読み聞かせた応募者は「最後の一文『おやすみ』を合唱してから眠っていたのを息子は覚えているかなあ」と記した。「わたしのワンピース」(西巻茅子、こぐま社)を挙げた女性は「この絵本を読むときの母の声が優しかったので好きになりました」とつづった。
◆大人になっても読む
 ミヒャエル・エンデの「モモ」やモンゴメリの「赤毛のアン」については、子どものころ出合い、大人になっても読み続けているといった声が寄せられた。高村光太郎の「智恵子抄」や沢木耕太郎の「深夜特急」なども挙がった。
 佐々木館長は「たくさんの人が共鳴できる、すてきなエピソードが集まった」と話す。展示中の本も借りられる。貸し出し中は本の題とエピソードのみ掲示される。十一月九日まで。
 くるめラでは今月二十八日午前十一時十五分から、特番を放送して数通のエピソードを紹介する。
 金曜休館。問い合わせは同館=電042(463)3996=へ。
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『智恵子抄』をご推薦下さった方、ありがとうございます!

というわけで、展示の詳細はこちら。

TOKYO854 くるめラ・ひばりが丘図書館共同企画 『あなたの本の思い出、教えてください』

期 日 : 2021年10月9日(土)~11月9日(火)
       東京都東久留米市ひばりが丘団地185 南部地域センター2階
時 間 : 午前9時~午後7時
休 館 : 毎週金曜日
料 金 : 無料

読書から得られる様々な思いは、決して色褪せることはありません。

お子さんがまだ小さい頃に、膝の上で読み聞かせた絵本たち。多感な青春時代に巡り会い、心を揺さぶられた本。心が少し疲れてしまった時に、そっと励ましの言葉をくれた本。

そんな思い出がいっぱい詰まった一冊を、エピソードと共に教えてもらえませんか。

みなさまの素敵な記憶と共に、思い出の一冊をひばりが丘図書館の展示企画内でご紹介させていただきます。もちろん匿名(ペンネーム・ラジオネーム)で賜ります!
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ラジオ番組の方は、こんな感じです。

特番 あなたの本の思い出、教えてください

TOKYO854 くるめラ 2021年10月28日(木) 午前11時15分~11時54分

みなさまから寄せられた本の思い出エピソードをいくつかピックアップしてご紹介する特別番組が決定しました!企画展と併せてお楽しみください。

聴取可能な区域(小平、清瀬、東久留米他)にお住まいの方、ぜひどうぞ。

もう1件、『東京新聞』さんから。

10月10日(日)に載った(系列の『中日新聞』さんには10月20日(水)に載ったようです)「こちら特報部」というコーナーの大きな記事に、光太郎の名が。ただし、光太郎は添え物だったので、これまで紹介してきませんでしたが、やはり東久留米関連ですので、ここでついでに(というと何ですが)ご紹介します。

ただ、あまりに長いので全文は引用しません。下記画像、クリックしてご覧下さい。
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戦後、戦災孤児のための施設として存在していた「久留米勤労補導学園」についてのものです。

ここの施設長だった、中込友美という人物が、詩人でもあり、光太郎と交流があったため、光太郎の名が記事に出ています。下記画像、前列中央が中込、施設の子供たちと撮影されたショットです。
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中込は、戦前には詩誌『河』や『はなかご』などに拠った詩人でしたが、詩人としてはほとんど無名だったようです。

当方手元に、光太郎を含む多数の詩人の作品を収録したアンソロジー的な書籍が100冊ばかりあり、収録されている詩人の名はすべてデータ化しましたが、検索をかけてみると、中込の詩が載っているものは1冊のみでした。昭和13年(1938)、詩報発行所から刊行の『新日本詩鑑 第一輯』。ここに中込の詩が2篇採録されていました。
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もっとも、当時のアンソロジー全てに光太郎作品が載ったわけでもないので、当方の手元にないものに中込作品がもっと載っている可能性もありますが……。

『高村光太郎全集』には、3箇所、中込の名が出て来ます。

まず、中込宛の書簡が1通。昭和9年(1934)のもの。智恵子にも触れられています。
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それから、昭和19年(1944)の『日本読書新聞』に載ったアンケート「読書会に薦める」。

さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。

ただ、太平洋戦争末期の世の中全体が無茶苦茶な状況でしたので、出版の方もいい加減。どこかで誤植が生じたようで、書名やカッコの位置がめちゃめちゃです。
誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行売価一圓四六銭)
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行売価一圓四六銭)

あとは、詩人の川崎芳太郎に送った書簡に、中込の名がちらっと。こちらは昭和3年(1928)でした。ということは、意外と長い付き合いだったというのが分かります。

中込には、思想家の江渡狄嶺に関する著作もあり、江渡は光太郎とも親しかったため、そのあたりの人脈なのかな、という気がします。

それにしても、『東京新聞』さんの記事、興味深く拝読しました。しかし、もう現地の東久留米でも、当時のことはほとんど忘れられているようで、残念です。

そういう意味では、こういう記事は大きな価値のあるものだと思います。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃集配人今年はじめてくる。お年玉進呈(200円)


昭和26年(1951)3月8日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、住み始めた当初は、郵便配達夫は、1㌔弱離れた山口分教場(のち山口小学校)までしか届けに来てくれませんでしたが、のちには光太郎の山小屋まで、直接来てくれるようになりました。しかし、それも雪深い時期は無理だったようでした。





智恵子の故郷に聳え、光太郎が詩「あどけない話」(昭和3年=1928)に謳った安達太良山。このブログ、このところ、紹介すべきネタが大杉多すぎで、今日は安達太良山関連、一気にご紹介します。

まずはテレビドラマです。

プレミアムドラマ山女日記3 「あどけない空・安達太良山」

NHK BSプレミアム 2021年10月31日(日) 22:00〜22:50 再放送11月7日(日) 16:15~17:05

【出演】工藤夕貴 若村麻由美 中村俊介 本仮屋ユイカ 湯江タケユキ 高橋長英 小林綾子 田中健

会社勤めを辞め、北アルプス山麓で登山ガイドとして成長を続ける独身女性・柚月。彼女の元には今日も人生の苦悩を抱えた様々な依頼客が訪れる―。人気山岳ドラマのシーズン3。
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第3話としての詳しいあらすじが発表されていませんが、予告編から。

毎回、なにがしかの屈託を抱えた人々が、登山ガイド・立花柚月(工藤夕貴さん)の案内で山を登り、背負った荷物を山に置いてくる(比喩表現です。本当にザイルやらアイゼンやらをぶちまけてくるわけではありません(笑))という展開です。

第1話は、登山ガイドを目指す女子大生(中田乃愛さん)と、それに反対するシングルマザーの母親(高島礼子さん)が白馬岳に。第2話は、熟年離婚を考える妻(市毛良枝さん)と、ワガママな夫(石丸謙二郎さん)で、雨飾山へ。

そして第3話の安達太良山。ゲストは小林綾子さん、高野長英さんなど。
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安達太良山はもちろん、岳温泉さん、二本松市街でもロケを敢行。
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ゲストの登場人物は、一話完結で心の荷物を山に置いてきますが、レギュラー陣はそうはいかないようで、それぞれにやはりいろいろ抱え込んでいます。まぁ、全6話の中で徐々に解決していくのでしょう。

主人公・立花柚月。喫茶店マスターのお父さん(田中健さん)と、亡くなったお母さん(朝加真由美さん)を巡ってギクシャク。
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柚月の元カレ(中村俊介さん)。偶然、柚月と再会したものの……。
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柚月の暮らす村で、新たに当選した女性村長(若村麻由美さん)。柚月のお父さんと、その昔……。
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原作は湊かなえさんの小説『残照の頂 続・山女日記』(幻冬舎・11月刊行)だそうで、いかにも湊さんらしい人間ドラマですね。

ぜひご覧下さい。

続いて、地元紙『福島民報』さん、10月17日(日)の記事。

【アウトドア キャンプ 自然と生きる】地元誇る「ほんとの空」 安達太良山(二本松、郡山、猪苗代、大玉)

011 彫刻家で詩人高村光太郎の詩集「智恵子抄」で詠まれた「ほんとの空」が広がった。二本松、郡山、猪苗代、大玉四市町村にまたがる安達太良山(1700メートル)は日本百名山の一つ。気軽に登山を楽しめる山として多くの人に愛されている。豊かな自然を抱く安達太良山を訪ねた。
 二本松市の奥岳登山口に、あだたら高原リゾート「あだたら山ロープウェイ」の山麓駅があり、登山の基点となっている。山麓駅から乗車し、約10分で八合目の薬師岳直下の山頂駅に到着した。近くのパノラマパークから安達太良山の山頂を眺めたが、小雨が降り、もやがかかっていて山頂は見えなかった。
 登山道を歩き出す。緩やかな傾斜が続く。途中、ヤマウルシなどが真っ赤に色づき、季節の移ろいを感じる。歩き続けると、次第に空が明るくなってきた。気温も上がってくる。やがて周囲の木々は低木が目立ち始める。山頂に近づくと、道が岩場になる。慎重に登り続けて山頂に到着した。登り始めてから1時間半程度だった。
 到着してから、しばらくすると晴れ間になり、眼下に雲海が広がった。乳首山と呼ばれる岩峰の頂上からは四方が見渡せる。青い空と幻想的な雲海、山肌の紅葉の景色に登山客は見とれていた。
 日本最古の歌集万葉集には安達太良山に関する歌が三首詠まれている。「安太多良の嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)のありつつも吾は到らむ寝処(ねど)な去りそね」など、いずれも男女の愛に関する歌だ。生命力にあふれる様子が、雄大な山のたたずまいと重なる。
 一緒に登った地元の登山ガイドの渡辺茂雄さん(48)は「ロープウエーを使えば初心者でも登山が楽しめる。秋の紅葉は見事で、四季折々で美しい表情を見せてくれる」と魅力を語る。古代から親しまれている山は、これからも地元の誇りであり続ける。

■なすびのお薦めポイント 初心者も楽しめる
 紅葉の季節は見事な景色が広がります。山頂から眺めた雲海は最高のご褒美でした。比較的緩やかなので、初心者でも楽しむことができます。
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なすび」はタレントのなすびさん。福島ご出身で、エベレスト登頂のご経験もおありです。そのため、安達太良山の山開きイベントなどにゲストとして招かれることが。

記事にあるとおり、ちょうど今頃、紅葉が美しいのでしょう。

最後に、「ほんとの空献立」。二本松市の智恵子が生まれ育った旧安達町地区。こちらは安達学校給食センターさんが調理等に当たられているようですが、月イチくらいのペースなのでしょうか、小学校の児童さんたちのリクエストを取り入れた「ほんとの空献立」が饗されています。先月は、川崎小学校さん考案の「ほんとの空献立」でした。

10月19日(火)は、智恵子の母校・油井小学校さんの児童の皆さん考案の「油井小 ほんとの空献立」だったとのことで、同校のサイトに写真が掲載されていました。
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残念ながら、品目の名前が書かれていなかったのですが、美味しそうですね。

今後とも継続してほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

晴れ、くもり、温、雪とけはじめる、


昭和26年(1951)2月27日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、根雪の溶け始めが2月末。やはり、過酷な環境ですね。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ、青森十和田湖畔休屋地区で、「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe 2021-2022 第1章 光の紅葉物語」が開幕しました。

まず地方紙『東奥日報』さん記事。

十和田湖畔、色めく秋の演出 ライトアップイベント開幕 11月23日まで

 十和田湖畔を光で彩る「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe(フェスタ・ルーチェ)2021−2022」が21日、休屋地区の十和田神社周辺を主会場に開幕した。訪れた観光客らが、幻想的にライトアップされた参道沿いの紅葉を楽しんだ。
 十和田神社の鳥居や本殿、乙女の像を巡る約1キロのルートを、大小のボール型照明や投光器などで自然の色合いを生かしながら演出する。午後5時20分、鳥居前で関係者らが点灯式を行い、湖畔のにぎわい復活に期待を寄せた。
 八戸市から訪れた佐々木睦美さん(34)は「近場で楽しめるイベント。真冬のイルミネーションとはちょっと違って、光に温かみも感じた」、友人の大館知世さん(35)は「赤くライトアップされた木の間から月が見えて幻想的だった」と話し、約1時間の散策を満喫していた。
 フェスタはこれまでの「十和田湖冬物語」のリニューアルイベントで、同物語実行委員会(中村秀行実行委員長)が主催し前年度から開催。本年度は秋の第1章と冬の第2章に分けて行う。第1章は11月23日までで、時間は午後5時半〜同9時。新型コロナウイルス感染対策のため、1日の入場者数を制限する。
 チケットなど問い合わせは実行委事務局の十和田奥入瀬観光機構(電話0176-24-3006)へ。
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続いて『デーリー東北』さん。

紅葉、光で美しく/十和田湖フェスタルーチェ開幕

008 光の祭典「カミのすむ山 十和田湖 FeStA LuCe(フェスタルーチェ)2021―2022」(十和田湖冬物語実行委員会主催)が21日、湖畔の十和田神社周辺で開幕した。11月23日までを第1章の「光の紅葉物語」とし、赤や黄色に染まる木々を幻想的にライトアップしている。
 フェスタルーチェは従来の雪祭り・十和田湖冬物語をリニューアルしたイベントで、昨年度初めて開催。今季は2章立てで、12月4日~来年2月20日は「光の冬物語」に衣替えする。
 神社本殿や周辺約1キロの参道が色とりどりの光で照らされ、会場に流れる音楽と共に神秘的な世界を作り出している。紅葉は色付き始めで、今後さらに見応えが増しそうだ。
 時間は午後5時半~9時。入場には新型コロナウイルスワクチンの接種済証や検査の陰性証明が必要となる。

主催の十和田奥入瀬観光機構の方から、画像を頂きました。

まず点灯式。右はその後の十和田神社さん境内の様子。
DSC_2181 点灯式3 IMG_8809
この奥に、ライトアップされた「乙女の像」。
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いい感じですね。

記事にあるように、11月23日(火)までが紅葉シーズンに合わせての「光の紅葉物語」、仕切り直して12月から来年2月までは、雪景色の中での「光の冬物語」だそうです。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

目覚めて時計午后三時なるに驚きおきる、昨夜三時にねたり、


昭和26年(1951)2月22日の日記より 光太郎69歳

この時期、実に体調が悪かったというのが、こういうところにも表れているような気がします。12時間も爆睡してしまったわけで……。

都内から、ちょっと変わった演奏会の情報です。

和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ

期 日 : 2021年10月31日(日)
会 場 : 代々木能舞台 東京都渋谷区代々木4-36-14
時 間 : 開場13:00 開演13:30
料 金 : 前売り4,000円 当日4,500円

出 演 : ゆきね(和編鐘) 河崎卓也(朗読) 田中泉代賀(箏)
演 目 :
 第一部 和編鐘で奏でる日本の音風景「日本の詩と季節の音風景」
   一、水の源 二、春ざわめく 三、音紋様 四、時つもりゆく 五、呂律の調べ
 第二部 智恵子抄「愛はすべてをつつむ」
   一、僕等 二、樹下の二人 三、千鳥と遊ぶ智恵子 四、レモン哀歌 五、亡き人に

今なぜ智恵子抄なのか?
 今、人を愛するという私たちが持つ自然な情動が、己の「いのち」を守るという生存のため、他人の命を脅かさないため、大きな枷をはめられています。しかしだからこそ、私たちは心の触れ合いという愛の形と、深い愛情から生まれた心の絆が、大きな安らぎと幸福、そして強さをもたらしてくれることを、智恵子と光太郎の詩に見いだすことができるのです。私の若き日の愛読書であった智恵子抄。今も愛することの凄さと、尊さを教えてくれます。
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「和編鐘」というのは、中国2400年前の祭器、編鐘(へんしょう)を日本的にアレンジしたものだそうで、枠に逆さに吊り下げた銅合金製の39個の鐘(3オクターヴ)を、マレット等で叩いて音を鳴らすものだとのこと。

今回演奏されるゆきね氏が、現在の形に確立されたそうです。


幻想的な中にも、郷愁を誘う響きですね。

この調べに乗せての「智恵子抄」。さらに箏曲演奏も入るようで。いったいどういう感じになるのか、楽しみです(当方、チケット購入いたしました)。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「せんてつ」の鈴木氏松雲閣の女中八重樫さんと同道来訪、詩稿のこと、林檎等もらふ、これはねながら話す。


昭和26年(1951)2月21日の日記より 光太郎69歳

001せんてつ」は当時の国鉄の仙台鉄道管理局が発行していた社内誌のようなもの。「鈴木氏」はその編集に当たっていた鈴木肆郎。光太郎に詩の執筆依頼にやって来ましたが、これは断られ、代わりに旧作を転載することは了承を得たようです。

八重樫さん」は八重樫マサ。光太郎がたびたび泊まった花巻温泉松雲閣の仲居さんでした。松雲閣の宿泊客等を、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に案内する役目をたびたび務めました。

その労苦に応え、光太郎は八重樫に書の揮毫を贈ったりもしています。

左端が八重樫、右の二人は、仙台ご在住の佐久間晟氏、すゑ子氏ご夫妻。この年11月の撮影です。晟氏は前田夕暮門下の歌人で、その後、宮城県歌人協会の会長も務められました。すゑ子夫人も歌人。お二人とも歌誌「地中海」同人で、光太郎訪問の貴重な回想を書かれました。


合唱系の情報を2件。

まずはコロナ禍のため、昨年は中止となり、2年ぶりの開催となる全日本合唱コンクール全国大会。

第74回全日本合唱コンクール全国大会 中学校・高等学校部門

期 日 : 2021年10月30日(土) 高等学校部門 Aグループ/高等学校部門Bグループ
        〃   31日(日) 中学校部門混声合唱の部/中学校部門同声合唱の部
      それぞれライブ配信あり
会 場 : iichiko総合文化センター iichikoグランシアタ 大分県大分市高砂町2番33号
時 間 : 両日とも9:45開演
料 金 : 両日とも2,300円 ライブ配信1,500円
主 催 : 全日本合唱連盟

「全国大会の歌声」が再びホールに帰ってきます。第74回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)は30、31日、大分市での中学校・高校部門で幕を開けます。コロナ禍で昨年の大会が中止となり、2年ぶりの開催。今年は新たに、オンラインによるライブ配信も実施します。
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010高等学校部門Bグループ(33人以上の大編成)で、九州代表として出場される鹿児島高等学校音楽部さんが、西村朗氏作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」を自由曲で演奏されます。

こちらは「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」全3曲中の1曲です。鹿児島高等学校音楽部さんは、平成30年(2018)の第71回大会でも、同じ組曲中の「レモン哀歌」で出場なさいました。

「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」は、平成20年(2008)、関西合唱団さんの依嘱で作曲され、初演が行われました。楽譜は全音楽譜出版社さんから刊行されています。その中に作曲者・西村朗氏の解説があり、今回演奏される「千鳥と遊ぶ智恵子」に関しては、「海辺の風光の中での夢幻的な魂の孤独。異界からの千鳥の声と智恵子の遠景。」と書かれています。

楽譜を見ると、ポリフォニーの部分がほぼなく、あまり昨今のコンクール向きでは無いような気もします。ただ、西村氏が「異界からの千鳥の声」とする「ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」の三回目の部分だけは、四声の掛け合いと複雑なピアノがポリフォニックに絡み合う構成になっています。それが徐々にまたホモホニー的に統合されていくあたり、展開の妙ですね。

鹿児島高等学校音楽部さんには、「もう天然の向うに行つてしまつた智恵子」と、愛別離苦の涙を流す光太郎の世界観を、しっかりと表現していただきたいものです。

もう1件、合唱のオンライン合同演奏会だそうで。

第5回 ガッSHOW TV!!

期 日 : 2021年10月24日(日)
時 間 : 20:00~
配信URL: 
Mu Project / ムウ・プロジェクト - YouTube
料 金 : 無料

「ガッテレ」は、東京で活躍する男声合唱団「Mu Project」様が主催する〝オンライン合唱祭〟です。
出演団体が過去の演奏、もしくは新規に録画した演奏を提供し、それらを一つの番組として、YouTube上で配信されます。
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都内の合唱団CANTUS ANIMAEさんが、安藤寛子氏作曲の「智恵子の手紙」でご出演。この曲は、タイトル通り、昭和6年(1931)7月29日消印の、智恵子が母・センに送った手紙を中心にしたその前後の「智恵子の手紙」をテキストとしています。平成28年(2016)、晴海の第一生命ホールさんで開催されたCANTUS ANIMAEさんの第20回演奏会で初演されました。

当方、拝聴に伺いまして、オーソドックスな合唱曲を想像していたところ、完全に裏切られました(いい意味で)。まるでオペラの一幕のようなステージでした。

その際のパンフレットから。
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おそらくこの時の演奏の模様が配信されるのだと思われます。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

忠也さんホツキ貝持参、三馬印十一文半ゴム靴進呈、余には小さすぎるもの。

昭和26年(1951)2月13日の日記より 光太郎69歳

忠也さん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの住人。「三馬印」は、現在も「株式会社ミツウマ」として健在の長靴等のメーカーです。

十一文半」は、約29㌢。それが「小さすぎる」というのですから、笑えます。若い頃の自己紹介的な文章では、自分の足のサイズを「十三文半」と書いていました。約34㌢です。

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