またしても紹介すべき事項が山積して参りましたので複数件まとめてご紹介します。無理くりですが「オンライン系」というくくりで。

まずは動画投稿サイトYouTubeさんに今月初めにアップされた動画。名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏作曲の「連作歌曲「智恵子抄」〜その愛と死と〜」です。


初演は平成25年(2013)ですから、もう10年以上経ちますね。その後、野村氏プロデュースで楽譜やCDが発売されたり、氏の地元・名古屋都内、智恵子の故郷・二本松などでの演奏会で取り上げられたりしました。さらにバリトン歌手の新井俊稀氏ドイツをはじめ各地で演奏なさったり、CD化されたりなさっています。

YouTube上ではこれまでも各曲ごとの動画はありましたが、今月、全曲まとめてのアップ。演奏は野村氏プロデュースの演奏会等でいつも担当されるお二人、森山孝光氏(バリトン)、康子氏(ピアノ)御夫妻です。

野村氏のお言葉。

 彫刻家で詩人の高村光太郎は、詩集「智恵子抄」で愛する妻、智恵子を詠い、「永遠の愛の姿」と賞賛されました。しかし、本当の愛は、智恵子を失った後に結実しました。
 智恵子を亡くした後の光太郎は、終戦後、岩手県花巻市郊外の山小屋にたった一人で篭って、7年もの間隠棲するのですが、心に智恵子を住まわせ、毎日智恵子に話しかける日々であったことが、詩「案内」に語られています。
 だんだんと智恵子の心が壊れていく様を悲しく見守る光太郎を表現した第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、「東京に空がないと言う」という有名な詩句を含む第2曲「あどけない話」、智恵子が病没する瞬間を描いた悲痛な絶唱、第3曲「レモン哀歌」、その後の歳月を表現した短いピアノの第4曲「間奏曲」、心に住む智恵子に話しかける晩年の光太郎を描いた第5曲「案内」の5曲を、連作歌曲「智恵子抄」として皆様にお届けいたします。
 特に、「案内」の最後の場面で、「智恵さん」と2度、歌われる部分に、私は自分の全ての想いを託しました。1度目はもう手の届かない智恵子に、2度目は心に住む智恵子に、万感を込めて呼びかけるのです。
 私はある日、この作品の録音を持って、光太郎が暮らした山小屋「高村山荘」にでかけました。山荘の裏山を登ると、光太郎が「見晴し」と称した小高い展望台があり、まさに「案内」の中で「智恵さん」と呼びかける、その場所でした。静かな晩夏の真昼。「智恵さーん、智恵さーん」と歌われる呼びかけは山麓にこだまし、やがて天にのぼっていくように思われました。
 願わくば、この作品に出会われた皆様の心にも、なにものか熱いものが届かんことを! 切に!

もう1件、というか2件というか、美術系のオンライン講座です。

知っておきたい!日本の美術 ~高村光雲「老猿」/~高村光太郎「手」

主 催 : NHKカルチャー梅田教室
配 信 : 2024年2月6日(火)~4月7日(日)
時 間 : 90分
講 師 : 大阪国際大学教授 村田 隆志
料 金 : 2,750円(税込み)

 本講座は録画済の動画を視聴する講座です。 
 美しい自然と四季折々の美に恵まれた日本は、長い歴史の中で多くの美術品を伝えてきました。特に、大阪を中心とする関西圏は古来文化の中心地だったために、多くの作品が伝えられています。この講座では、日本が世界に誇る「これだけは知っておきたい」日本美術の名品をご紹介しながら、鑑賞ポイントもお知らせします。
 「感動」は心を若く保つ、最良の方法です。日本美術の名品に大いに感動してください。
 この講座は、自宅でパソコンやタブレット、スマホなどで受講していただくオンライン講座です。Zoomを使ったもので、ご受講に不安がある方は、お問い合わせ下さい。

光太郎の父・光雲作の「老猿」篇と、光太郎の代表作「手」篇で2件です。
005
「手」篇、なぜかサムネイル画像が光太郎ではなく川合玉堂の絵になっているのですが……。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「日本の山水」忝拝受しました。装幀が大変よいのと版画が美しいので、たのしく拝見いたしました。近頃もらつた本の中で一番美しい、注意の行届いた本と思ひました。

昭和21年(1946)9月22日 井上康文宛書簡より 光太郎64歳

『日本の山水』は冨岳本社から刊行された光太郎詩を含むアンソロジー。恩地孝四郎の装幀で、畦地梅太郎、前川千帆らの木版画が挿画として使われています。
006
終戦から1年経ち、ようやくこうした出版も再び可能になったわけで、光太郎も喜んでいます。

光太郎の父・高村光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」関連で2件。

まずは今日から5日間限定で開催の展示です。

出張!江戸東京博物館

期 日 : 2024年2月21日(水)~2月25日(日)
会 場 : 東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室
      東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が江戸東京博物館に足を運んでくださいました。
 開館から約30年経過した現在、大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館の予定です。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。
 本展では、第4公募展示室のロビー階と1階のフロアで、常設展示室の一部をまとめた展示をご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。
 また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。
 本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。
000
002
というわけで、現在改修工事中の江戸東京博物館さんから、展示品の出開帳。三の丸尚蔵館さんなどでも行っていた手法ですね。

かつての常設展からの出品と、会場が上野ですので「特集展示「上野の山」をめぐる」の二本立てのようで、後者の方で、西郷隆盛像を描いた錦絵が展示されます。
001
楊斎延一が明治32年(1899)に描いた「上野山王台西郷隆盛銅像」。

平成30年(2018)、東京藝術大学大学美術館で開催された「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展」の際、ミュージアムショップでこちらをあしらったクリアファイルが2種類販売されていて、ゲットいたしました。
004
006
005
ちなみに今回はこの絵を含む「入場者特典カード」が10種類作られ、無料配付されるそうです。ただし、日替わりで2種類ずつ、選べないとのことですが。
007
錦絵の展示がもう1点、藤山種芳が描いた「上野山王台故西郷隆盛翁銅像」。こちらも明治32年(1899)です。
003
他にも展示されるかもしれません。

当方もこの手の錦絵を何点か所持しておりまして、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。

ところで西郷隆盛像、テレビ番組でも取り上げられます。

カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」

地上波NHK総合 2024年2月25日(日) 04:15〜04:18

100年の間に震災と戦争によって2度焼け野原となり、そこから不死鳥のようによみがえった都市・東京。NHKは、東京を撮影した白黒フィルムを世界中から収集、現実にできるだけ近い色彩の復元に挑んだ。色を取り戻した東京は、どんな表情を見せるのか。今回は上野にしぼって、激動の歩みを、初公開フルカラー映像でたどる。

語り 塚原愛アナウンサー


平成26年(2014)に、やはり地上波NHK総合さんで放映された特番「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」から、都内の区域ごとに細切れにして放映され続けている番組の上野編です。昨年末にも放映があって拝見。西郷隆盛像が二つの時期で取り上げられました。

最初は大正12年(1923)の関東大震災。同じ動画は昨年放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」でも使われていて、これは予想していました。
008
ところがこれだけでなく、なんと戦時中の動画も。昭和18年(1943)、早稲田大学海軍予備学生壮行会が西郷像の前で開催され、その際に撮影されたものでした。
009
010
011
この手の動画だと、国立競技場で行われた雨中の出陣学徒壮行会のものが有名でよく使われますが、西郷像の前でこんな催しがあったというのは存じませんでした。
013
つくづくこういう時代に戻してはいかんな、と思いました。こういう時代に戻したくて仕方のない輩が政権を握っている国ですが……。

館外展示「出張!江戸東京博物館」/カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」、それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の論難はすべて快くうけるつもりです。壺井さんのはよみましたが小田切さんのはまだ見ません。時間が一切を裁断するでせう。

昭和21年(1946)9月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

「壺井さん」は壺井繁治、「小田切さん」は小田切秀雄。ともに戦時中の光太郎の翼賛詩等を痛烈に批判しました。それに対し、弁解めいたことは言わないよ、と、こういうところが光太郎です。
014
しかし、戦時中、特高に逮捕されていた小田切はともかく、自らも翼賛詩を書いていながら戦後になるとそれを無かったかの如く批判に転じた壺井は、まさに「おまいう」。そういう点などを後に糾弾され、詩壇からは葬られて行く感じです。

参加者募集型の朗読系イベント情報を2件。

まずは和歌山県から。

和み朗読サロン

期 日 : 2024年2月22日(木)
会 場 : カルチャーべルーム 和歌山市杉ノ馬場1-44ベルネットビル2F
時 間 : 14時40分~15時30分
料 金 : 1,500円

高村光太郎の「智恵子抄」を朗読します。和み朗読教室は、和み楽しく学べる教室です。朗読がはじめてという方、大歓迎! 聞き参加可能です。 高村光太郎の世界を一緒に感じてみませんか?
000
「和み朗読教室」という団体さんがいろいろワークショップをなさっている中の一環のようです。ただし、朗読してみたいという方の参加申し込みは先週〆切りでした。それでもまだ空きがあるかもしれませんし、聞くだけの参加も可能とのことです。

もう1件、都内からこちらは朗読者とスタッフの募集。

4/19(金)上野水上音楽堂でイベント開催決定!出演者・スタッフ大募集!朗読の祭典を一緒に作りませんか?

募集要項
【ソロ部門】
 ・出演時の朗読時間は8分程度
 ・オーディション参加費:2,000円

【群読部門】
 ・2~4名のチームでお申し込みください
 ・出演時の朗読時間は15分程度
 ・オーディション参加費:4,000円

 ※オーディション参加者(チームメンバー)は、合否に関わらず当日イベントの入場無料!
 ※出演決定者には、当日スタッフとして簡単なお手伝いもお願いいたします。

【当日スタッフのみでの参加者】
 ・イベントを楽しみながら一緒に盛り上げてくださる方を募集します!
  (応募フォームからお申し込みください)
 ・入場無料でイベントをお楽しみいただけます。交通費支給(上限3,000円)。

応募方法
 ②このポストをいいね&リポスト
 ③課題3作品から1作品選んで朗読を録音
 ④応募フォームよりお申し込み&課題音源投稿
 ⑤お申し込みから1週間以内に参加費をお振込みください
【銀行口座】
 GMOあおぞらネット銀行(金融機関コード:0310) 支店名 法人営業部(支店コード:101)
 普通 1507296 口座名義 朗読らいおん合同会社 ロウドクライオン(ド

課題・審査基準
【課題】
 ①「月夜とめがね」小川未明(指定の抜粋部分)
 ②「走れメロス」太宰治(指定の抜粋部分)
 ③「人類の泉」高村光太郎
   (群読部門はチーム全員で群読してください)

【審査基準】
 ・本番を想定し朗読が聴こえる最低限の声量
 ・テーマ「いのち」への思いが伝わる読み
 ・ステージでの朗読経験の有無は問いません

【注意事項】
 ・課題音源は.wav形式または.mp3形式にてご提出下さい。
 ・本番で読む作品は青空文庫掲載作品に限ります。「いのち」というテーマから、
  ご自身(チームメンバー)の自由なイメージで2次審査開始時までに選書して下さい。
 ・出演者には、イベントで選書の理由についてインタビューします。
001
本番は4月だそうですが、その参加者募集ということです。課題三作品に『智恵子抄』所収の光太郎詩「人類の泉」(大正2年=1913)が入っています。群読でやるというのも面白そうですね。

我こそは、と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

まつたく毎日訪問客に責められてゐます。一昨日一人、昨日一人、今日四人といふやうなわけです。そして一日中の一番よい時間を取られるのであとは何も出来ません。夜は早くねて朝四時頃起き、朝食を早くすませて、九時前に一仕事する外ありません。今さうやつてゐます。 一聯の長い詩が出来さうです。

昭和21年(1946)9月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村。光太郎は隠棲のつもりでも、光太郎を慕う人々が放っておいてくれないという状況、結局、厳寒期を除いてずっと続きました。

「一聯の長い詩」は、翌年の雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」でしょう。

昨年、コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を4年ぶりに開催いたしましたが、今年も下記の通り実行できる運びとなりました。お誘い合わせの上、ご参加下さい。


日 時  令和6年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線 京浜東北線 有楽町駅  地下鉄日比谷線 千代田線 三田線 日比谷駅下車
002
会 費  12,000円(含食事代金)
           諸物価異常高騰の折、申し訳ありませんが改訂させていただきました。

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替
  「払込取扱票」にて郵便局よりお願いいたします。
   ATM、窓口にて取り扱い可能です。申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。
001
  ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(土)までにご連絡頂ければ、
  後日、返金いたします。

  参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
  事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

  複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
  参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

  ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

配布物について
  会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
  4月1日(月) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
  残部は欠席の方等にお送りいたします。公序良俗に反するものでなければ
  特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
  当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
  書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

  当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いを
  お願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。
  当方、午後3時頃には会場入りしております。
000
着席ビュッフェ形式で行います。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

作品は殆ど失ひましたが小生の内に生きてゐる彫刻はやがて姿をあらはして来るでせう。山に来てから準備はしてゐますがまだ資材が整はないので彫刻の仕事はちつとも進みません。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んでほぼ1年。まだこの時期は山小屋で彫刻制作をするつもりだったようです。しかし、その後、自らの戦争責任を悔悟する中で、自らへの最大の罰として、彫刻制作を封印するに至ります。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんで、書道展「東京書作展選抜作家展2024」を拝観。書家の菊地雪渓氏からご案内を頂いていたのですが、最終日前日となってしまいました。
PXL_20240217_013546192 PXL_20240217_013907536

PXL_20240217_015424015
002001
004003
その菊地氏の作。
PXL_20240217_014558500 PXL_20240217_014606525
杜甫の漢詩を書かれたものだそうで。相変わらず雄渾な筆遣いです。

この手の書道展、必ずといっていいほど、光太郎詩文を題材に書かれる方がいらっしゃり、今回も存じ上げない方でしたが、2点。ありがたし。

詩としての光太郎代表作の一つ、「道程」(大正3年=1914)。
PXL_20240217_014352659 PXL_20240217_014359650
詩「潮を吹く鯨」(昭和12年=1937)。こちらは大幅でした。
PXL_20240217_014906835 PXL_20240217_014935448.MP
PXL_20240217_014914940 PXL_20240217_014924366
昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため船で訪れた三陸海岸での体験を元にした詩です。
無題
昭和14年(1939)、河出書房刊行の『現代詩集』に掲載されましたが、それが初出かどうか不明です。

その他、以前に光太郎詩文を書かれた皆さんの作なども拝見。眼福でした。

六本木を後に、中野に向かいました。次なる目的地は西武新宿線沼袋駅近くの新井区民活動センターさん。
PXL_20240217_033736204
光太郎終焉の地・旧中野桃園町の貸しアトリエの保存運動が起きており、その会合に呼ばれて参上いたしました。
PXL_20240217_232722004
戦後、水彩画家の中西利雄が建てたものの中西が急死し、貸しアトリエとなっていた建造物で、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)にここに入りました。像の完成後はまた花巻郊外旧太田村に帰るつもりで、実際に像の除幕後に一時帰村したのですが、健康状態がもはや山村での独居自炊に耐えられず、結局は再々上京、ここで亡くなりました。

利雄の子息・利一郎氏が昨年亡くなり、なるべくご遺族の負担にならないようにするにはどうすれば……というわけで、利一郎氏と交流の深かった文治堂書店さん社主・勝畑耕一氏、日本詩人クラブの曽我貢誠氏らが中心となって始まりました。文治堂書店さんサイト内に企画書リンクが貼ってあります。

お二人以外に他に利一郎氏と親しかった方、建築家の方、中野たてもの応援団の方などがご参加。
PXL_20240217_051825080
PXL_20240217_052251272
やはり利一郎氏と親しく、アトリエにも足を運ばれた渡辺えりさんも。
PXL_20240217_061534205.MP
現状の報告と、今後、どうすれば八方丸く収まるのかについての意見交換など。

会場の使用時刻を過ぎてからは近くの喫茶店に移り、そちらでも。
PXL_20240217_080650877.MP
こういった件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールが以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

来月にも会合を持つこととなりました。また追ってご報告いたします。

【折々のことば・光太郎】

まつたくあなたの言はれる通り、戦争中は彫刻を護るために詩が安全弁乃至防壁になり過ぎたと思ひます。決していい加減ではなかつたのですが。この事はいまに書かうと思つてゐます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

翌年に雑誌『展望』へ発表した、幼少期から戦後までの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」全20篇の構想にかかっており、それを指すと思われます。

今週、花巻に行って参りましたが、現地で仕入れたりした情報等を。

まず、コンサート系です。

VALENTINE CONCERT 朗読と音楽で楽しむお茶時間 高村光太郎『智恵子抄』より

期 日 : 2024年2月23日(金)
会 場 : 喫茶店 ココ・タベルバ・ラパン 岩手県花巻市若葉町3丁目14-30
時 間 : 13:00 開場 13:30 開演
料 金 : 1,500円(1ドリンク・お菓子付き)

出 演 : 朗読 牧野幹  フルート 牧野詩織  ピアノ 菅原千恵子

2/23(金祝)ココ・タベルバ・ラパンにて、VALENTINE CONCERTがあります💕

ラパンのレジ前でおなじみ!「やつかのもり」さんのお菓子や、とりあえずココ・クレバで読み聞かせをしてくださっている牧野幹さんも登場します✨

牧野詩織さんのフルートと菅原千恵子さんのピアノも楽しみです~🎶
005
朗読をなさる牧野幹さんという方、「光太郎を知る会」のメンバーのお一人で、フライヤーを直接いただきました。フルートの牧野詩織さんという方は、お嬢さんだそうです。

もう1件、テレビ放映情報を。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #99

BSよしもと(無料) 2024年2月21日(水) 19:00~19:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は岩手県花巻市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!? マルカンビル大食堂、高村光太郎記念館 ほか

【出演者】又吉直樹(ピース)、せきしろ(構成作家) ほか
004
盛岡の回だったかを1度拝見したことがあるのですが、毎回東北でロケが行われているというのは存じませんでした。

で、今回は花巻市。調べてみたところ、花巻は2回目だそうです。最初は昨年8月の第74回で、宮沢賢治記念館さん、光太郎もよく行ったやぶ屋さんなどを廻られたとのこと。気づきませんでした。
008 009
006 007
で、今回は郊外旧太田村の高村光太郎記念館さん。
000
それから隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った山小屋)。
001
そしてマルカンさん。
002 003
マルカンさんはともかく、光太郎記念館はなかなか全国放映の番組で取り上げられることが少ないので、ぜひご覧下さい。

ところでこの番組、又吉直樹氏と構成作家のせきしろ氏が自由律俳句を詠むという文学的テイストの番組です。そこで文学館系もよくロケ地になっています。ということは、今後、二本松の智恵子生家/智恵子記念館さん、十和田湖畔の観光交流センターぷらっとさんなどにも行っていただきたいものです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生もあなたのsituationの好転の一日も早く来るやうに此所で祈ります。意識せられなくともさういふ時こそあなたの内部を豊饒にし、逞しくする何事かがあなたに加へられてゐるのだと思ひます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

福永武彦は小説家・詩人・仏文学者。この頃、北海道帯広で英語教師をしていた福永は、結核に罹患したことが元で、最初の妻・原條あき子との間で不和が生じていました。そのあたりを愚痴ったと思われる福永からの書簡への返信の一節です。

岩手レポート2回目です。

2月12日(月)、郊外旧太田村の高村光太郎記念館/高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんを廻り、再びレンタカーを市街に向けました。

次なる目的地は南万丁目地区の「わいんさっぷ」さん。
PXL_20240212_054313382
以前はカレー屋さんとして営業なさっていましたが、現在は閉店されているとのこと。こちらはリンゴ園の一角です。
PXL_20240212_075728621
リンゴ園を開かれたのが、故・阿部博氏。花巻農学校での宮沢賢治の教え子で、宮沢家を通じて光太郎とも知り合い、交流を重ねました。おそらく光太郎もここに足を運んでいます。
001
子息の阿部弥之氏は、宮沢賢治花巻市民の会会長、宮沢賢治学会副代表などを歴任された方。光太郎についても花巻高等看護専門学校さんで特別講義をなさいました。昨年10月には、宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」の際にパネラーのお一人として登壇されています。当方はコーディネーターでした。

その阿部氏を中心に、花巻とその近隣の方々で「光太郎を知る会」という会を結成、花巻に疎開してからの光太郎日記を会員の皆さんで読み合わせしたりといった活動をなさっているそうです。他にもいろいろと光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCの方、花巻南高校文芸部さんの顧問の先生などもメンバーです。

で、そちらの会に招かれまして、参上した次第です。
PXL_20240212_073524271
会員の皆さんが日頃から疑問に思われていることを挙げてもらい、当方が質問に答えたりといった形で進めました。

印象的だったのは、光太郎の花巻及び郊外旧太田村での足かけ8年、特に太田村での戦後のまる7年の位置づけに関して。リアルタイムでは当会の祖・草野心平らがとにかく早くその生活を切り上げて帰京するように繰り返し催促していました。光太郎実弟の豊周も光太郎の世話をしてくれた人々に感謝しつつも、特に彫刻の部分で空白となったこの時期が惜しいとか、光太郎の寿命を縮めた年月だったかもしれないとか回想に残しています。地元の皆さんにとってはそれが悔しい、というわけで。

なるほど、そういう見方もあるか、という感じでした。で、当方の返しは、「光太郎が戦争責任を含め、自分を見つめ直すためにどうしても必要な時間だった」。光太郎は繰り返し「脱却」という言葉を使いましたが、1年やそこらでは「ほんとに「脱却」できたのかよ、早すぎるだろ」という感じです。やはり7年という長さに重みを感じざるを得ません。豊周の言い分ももっともですが。

閉会後、リンゴ園の敷地内にある光太郎碑を拝見。
PXL_20240212_075805380
昭和62年(1987)に建立されたもので、光太郎が故・博氏に贈った「酔中吟」という即興詩が刻まれています。
PXL_20240212_075825252 PXL_20240212_075819441.MP
PXL_20240212_075838361 PXL_20240212_075901074
 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう呼んだわけですね。

当方、こちらの拝見は3度目でした。最初は平成の初め頃。その際は一面識もなかった阿部氏のご自宅に突撃訪問し、案内していただきました。2度目は花巻市さん主催の市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で講師を務めさせていただいた際。それももう5年前になるか、という感じでした。

その後、定宿の大沢温泉さんへ。
PXL_20240212_082257885
着いてすぐ、真夜中、さらに翌早朝と、3回、温泉を愉しみました。

2月13日(火)となり、大沢温泉さんから午前7時30分頃出立しました。午前11時に花巻市役所近くでやつかの森LLCの皆さんとお会いする約束でしたが、それまでどうしようかというところで、ふと思い立ち、レンタカーを東に向けました。目指すは沿岸の釜石市。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため船で訪れた街です。それを記念して平成7年(1995)には「三陸廻り」の釜石を訪れての一節を刻んだ文学碑が建立されました。建立された頃拝見に伺ったのですが、その後御無沙汰しており、いずれまたと思っておりました。
kireiniosamaru fbb9bbf0
平成31年(2019)には花巻-釜石間の東北横断自動車道が全線開通し、概算で1時間ちょっとで着けそうだな、というわけで、その通り午前9時頃に到着しました。
PXL_20240212_234644689
釜石駅。

NHKさんの「あまちゃん」で一躍有名になった三陸鉄道、通称「三鉄」さん(「あまちゃん」では「北鉄」)。
PXL_20240212_235515312.MP
光太郎碑は市街地の只越町というところにあったはずで、そちらに向かいました。約30年前には意外とすぐに見つけられました。しかし、街の様子が一変していて、戸惑いました。まぁ、何もなくても30年経てばいろいろ変わるでしょうし、何と言っても平成23年(2011)の東日本大震災がありましたから。その爪痕を物語るもろもろ。
PXL_20240213_000059268
PXL_20240213_000114610
青いプレートは津波がここまで来たよという目印です。
PXL_20240212_235636046 PXL_20240213_002307819
午前11時には花巻に戻らねばならず、30分程探し、石川啄木の歌碑などは見つかったのですが、結局、光太郎碑は発見できずでした。もしかすると津波で流されたり、損壊したので撤去されたりしたのかもしれません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

というわけで、午前11時、花巻に戻ってやつかの森LLCの皆さんと会食。その席上、6月にはまたイベントを開きたいというようなお話がありました。詳細が出ましたらまたご紹介します。

以上、岩手レポートを終わりますが、明日以降も地元で仕入れてきた花巻ネタ等を取り上げます。

【折々のことば・光太郎】

身のまはりの品など可笑しい程簡単ですが不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由です。電燈なくランプとローソクです。


昭和21年(1946)9月13日 西岡文子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村での7年間、まさに「不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由」。禅問答のようですが(笑)。

2月12日(月)、13日(火)と1泊2日で光太郎第二の故郷・岩手花巻方面に行っておりました。レポートいたします。

1日目。あちら方面に行く際には、ほぼほぼ毎回これに乗る東北新幹線やまびこ53号で北へ。特に急ぐ場合でもなければ全席指定のはやぶさ号は使いません。

途中、智恵子の故郷・福島二本松を通りますが、この日は智恵子の愛した安達太良山の上に拡がる「ほんとの空」が実にみごとでした。
PXL_20240212_010845721
正午前、新花巻駅着。花巻在住の方々のSNS等で情報を得てはいましたが、ほんとうに雪が全くなく、驚きでした。この日のためにワークマンさんで防水のブーツを購入して履いていったのですが(笑)。
PXL_20240212_030606345
右上画像はこの日の夕刻、宿で見たその日の『岩手日報』さん。除雪に当たられている業者さん、この冬は商売あがったりだそうで。まあ、安全面等を考えれば積雪が少ないのも悪くはないのかもしれませんが、農業面等で春以降の水不足が心配という声も多く聞かれました。

新花巻駅の観光案内的なスペースでは、花巻東高さん出身の菊池雄星投手、大谷翔平選手にまつわるコーナーがリニューアルされていました。
PXL_20240212_025959498
PXL_20240212_030009762
PXL_20240212_025923049 PXL_20240212_025936815
駅前でレンタカーを借り受け、市内西部、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。市街地からだらだらと長い坂を上り続けてたどりつく奥羽山脈山麓ですので、さすがにこちらでは雪が見られました。
PXL_20240212_035321805
令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として開催されている「光太郎からの手紙」を拝見。今回の展示では、当方、読めないという字を読んであげた程度であまり関わりませんでしたが。
PXL_20240212_025923049 PXL_20240212_025923049
PXL_20240212_040036462
PXL_20240212_040022060
劇作家・女優の渡辺えりさんのお父さま、故・渡辺正治氏に宛てた葉書。宮沢賢治にも触れられています。
PXL_20240212_040101958.MP
PXL_20240212_040043200.MP
平成28年(2016)に寄贈されたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。当方、20年ぶりくらいに現物を拝見しました。

その他は、光太郎の花巻疎開やその後の生活などに支援を惜しまなかった、総合花巻病院長・佐藤隆房とその家族に宛てたもの。
PXL_20240212_040022060
PXL_20240212_040310191
PXL_20240212_040332247
PXL_20240212_040224905
PXL_20240212_040212828.MP
佐藤編著の『高村光太郎山居七年』(初版 昭和37年=1962 筑摩書房/新版 平成27年=2015 花巻高村光太郎記念会)から関連する一節を抜き出したり、当時の写真をパネルにしたりで並べて展示。

フライヤーに画像が使われていた光太郎愛用の矢立は、常設展示コーナーに。
PXL_20240212_040554908.MP 361c8570-s
ロビーに戻ると、こんなものが。
PXL_20240212_041036176
昨年、同館で開催された企画展「山口山の木工展」で作品が展示された、奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作なさっているさとうつかさ氏の新作と思われます。素晴らしい。

記念館さんを後に、隣接する高村山荘(光太郎が暮らした山小屋)へ。
PXL_20240212_041710814
多い年ですと1㍍以上の積雪で、この時期には山荘に近づくこともできないのですが、今年はこんな感じで。

山小屋内部の光太郎遺影に「また来ました」と合掌。
PXL_20240212_041903697.MP
さらに山小屋裏手の智恵子展望台に。この季節に展望台に登れるというのは通常ではありえません。ある意味、そら恐ろしく感じました。
PXL_20240212_042328267
展望台からの眺望。これだと例年の3月末から4月初めの感じです。
PXL_20240212_042352901
展望台下の「雪白く積めり」詩碑。
PXL_20240212_042907931
PXL_20240212_042919091
PXL_20240212_042930869
ここも雪はかすかに「積めり」状態でした。

その後、車で10分程の、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
PXL_20240212_052143805
産直等のコーナー。光太郎肖像画も掲げられています。
PXL_20240212_052200650
無料休憩所、図書コーナーを兼ねたインフォメーションスペース。
PXL_20240212_051808098
その一角で、主に地元の方々によると思われる写真展が開催されていました。
PXL_20240212_044707132
PXL_20240212_044653682
PXL_20240212_044641651
光太郎がらみの写真も出品、ありがたく存じました。

光太郎がよく足を運んだ旧山口小学校跡地。
PXL_20240212_044719719
光太郎が歩いた道。
PXL_20240212_044745648
PXL_20240212_044749035
この後、市街地に戻りましたが、長くなりましたので、続きは明日。

【折々のことば・光太郎】

旧盆を過ぎると自然界は急に変つてくるやうです。夏の土用までが生成の盛季であとは成熟期に入るやうです。足並揃へてゐた草木が今は銘々がそれぞれが自分流の歩き方をはじめた感じがします。昨夜の明月は山中特に冴え渡つて凄いほどでした。万籟死してただ蟲の声ばかりでした。


昭和21年(1946)9月11日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

前年5月まで東京暮らしだった光太郎、花巻郊外旧太田村に移ってことさら自然の季節による推移には敏感となりました。今年のような異常な暖冬の様子を見たら、何と言ったでしょうか。

花巻より帰って参りましたが、そちらのレポートの前に、テレビ番組の再放送情報を。

まずは一昨日、初回放映があった「にほんごであそぼ」

にほんごであそぼ 道

地上波NHK Eテレ 2024年2月15日(木) 15:35〜15:45 2月17日(土)  07:00〜07:10

書道で学ぶにほんご・名文たかし・ぐうたらちんたら/道、朗読(津田健次郎)・こどもスタジオ/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、偉人とダンス/結局のところ、間違った道でも、いつもどこかには通じているものなのだ。(ジョージ・バーナード・ショー)、うた「道程」

【出演】南野巴那 津田健次郎 齋藤孝 青柳美扇 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃
014 015
016 017
018 021
続いて、今日の午後です。2時間ドラマの再放送。

おかしな刑事8 居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査!東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

地上波テレビ朝日 2024年2月14日(水) 13:55〜15:50

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…

◇出演者 伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、
     木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか
000
初回放映時(平成23年=2011)のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。事件関係者の一人が、智恵子の故郷・二本松出身という設定で、安達太良山、岳温泉、智恵子生家などでのロケが敢行されました。

もう1件。

偉人の年収 How much? 選 歌人 与謝野晶子

地上波NHK Eテレ 2024年2月17日(土) 20:00~20:30

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる!今回は「情熱の歌人」与謝野晶子の素顔に迫ります。

愛の歌集「みだれ髪」で衝撃的にデビューした与謝野晶子。初めての収入は何に使った?夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意するため、晶子が始めたこととは?大正時代には男女の意識の変革を訴え、昭和になるとあることに打ち込んだ晶子。鉄幹死後の晩年の年収は?グローバルな視点でいまの私たちにも訴えかけてくる与謝野晶子の姿を今野浩喜が演じ、谷原章介、山崎怜奈と語り合う。

出演者 【司会】谷原章介,山崎怜奈,【出演】今野浩喜
003
初回放映は先月8日でした。光太郎の姉貴分・与謝野晶子ということで、ひょっとすると光太郎に触れられるかな、と思って拝見したのですが、残念ながら触れられず。それでもなかなか見応えがございました。
005
006
007
008
光太郎には触れられませんでしたが、光太郎が終生敬愛し続けたロダン。
009
さらに、晶子が現代語訳をした『源氏物語』については、光太郎とも交流の深かった堀口大学、佐藤春夫の評。
010
光太郎も与謝野夫妻の雑誌『冬柏』に「所感-与謝野晶子『新新訳源氏物語』-」(昭和14年=1939)という一文を寄せているのですが。

それから、拝見していて「ありゃま」。コメンテーターとして、神奈川大学さんの講師・小清水裕子氏がビデオ出演なさいました。同氏、当会主催の連翹忌の集いにも複数回ご参加下さっています。
004
それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

検閲済みの印など捺されておハガキが届きました。小生のハガキも時々捺印されてゆくでせう。


昭和21年(1946)9月11日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

GHQの指導でしょうか、私信まで検閲対象だったわけで。戦時中でも一般人のそれは対象にはなっていなかったと思うのですが。それもこれも敗戦国だから仕方がなかったのですが、こんな時代に逆戻りすることがあってはなりませんね。

昨日から一泊二日で光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。

市街地は全く雪がありませんでした。
1000002107
1000002132
1000002113
さすがに光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺には積雪が有りましたが、例年より全然少ない状態。

隣接する高村光太郎記念館さんで、令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として開催されている「光太郎からの手紙」を拝見。
10000021301000002127
その後、道の駅はなまき西南さん、市街地のリンゴ園などを訪問。地元で光太郎顕彰にあたられている方々とお会いして参りました。
1000002147
1000002149
宿泊は例によって大沢温泉さん。
1000002159
今日もこれからいろいろと廻ります。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

先週封切りの映画「風よ あらしよ 劇場版」に関し、新聞等で告知などが為されていましたのでご紹介します。

『神奈川新聞』さん。

映画批評 「風よ あらしよ 劇場版」

 2022年にNHKで放送されたドラマの劇場版。吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の原作小説からほとばしる、100年前の女性解放運動家・伊藤野枝の熱量を、吉高由里子(写真)が見事に演じ切った。
 1923年、関東大震災後の混乱に乗じて何人もの社会活動家が殺された。野枝もその一人で、パートナーで無政府主義者の大杉栄(永山瑛太)と、わずか6歳だった大杉のおいと共に陸軍憲兵隊に連行され殺害された。遺体は無残にも古井戸に投げ込まれ、その暴挙が発覚したのは死後何日もたってのことだった。世にいう甘粕事件だ。
 その生涯は常に声を上げ続けたものだった。「元始、女性は実に太陽であった」と宣言した平塚らいてう(松下奈緒)に感銘を受け、青鞜社に入社。「新しい女」の自覚を胸に、女性の地位向上を訴えた。自分が見て、聞いたことを自分の言葉で書き、世間に見向きをされない時も諦めなかった。
 事件当時、野枝は28歳の若さ。男尊女卑の風潮が色濃い中で、「女だから」というだけで自由に生きられない世の中に、幼い頃から疑問を抱き続けた野枝。どんなに無念だったろうか。
 今の世に野枝が生きていたら、と思わずにいられない。女性の人生における選択は格段に増えた。だが、野枝が訴えた「誰もが自由に生きられる社会」は実現しているだろうか。大きな問いを突き付けられた。
演出/柳川強 製作/日本、2時間7分
000
『毎日新聞』さん。

「風よ あらしよ 劇場版」 惨殺された女性解放運動家、伊藤野枝の生涯

 毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。
 大正時代に因習や社会情勢に異議を申し立て、大杉栄とともに惨殺された女性解放運動家、伊藤野枝の生涯を描く。2022年にNHK BSで放送されたドラマを再編集した。
 貧しい農家で育った野枝(吉高由里子)は平塚らいてうが主宰する雑誌「青鞜」に参加、「婦人解放」を唱える。やがて元教師の夫、辻潤(稲垣吾郎)と別れ、無政府主義者の大杉(永山瑛太)と暮らし始める。
 波乱に満ちた生涯を物語に詰め込むのに、きゅうきゅうとした感は否めないが、平塚やダダイストの辻、大杉ら、野枝に影響を与えた人物、野枝の自由への渇望や思想形成の過程をきっちり押さえた。大杉の奔放な女性関係なども描き、距離を置いて人物にフォーカスした演出にも好感。当時の社会規範や権力の暴走を明確にすることで、今に通じるエッセンスも際立った。何度か取り上げられた題材だが、野枝の内面を分かりやすく描写するなど、より知ってもらいたいという意図も明白。芯の強い野枝を吉高が精緻に演じた。原作は村山由佳の同名小説。柳川強が演出。2時間7分。東京・新宿ピカデリー、大阪・シネ・リーブル梅田ほか。

ここに注目
 人間としての懊悩(おうのう)や葛藤のドラマを期待すると拍子抜けだが、歴史上の人物の生涯を分かりやすくまとめ、入門編としては好適。「女性であるというだけで我慢を強いられ搾取される」という野枝の主張は、現代にそのまま響く。当時としては過激な思想を貫いた強さに、改めて驚かされる。

『週刊実話』さん。

やくみつる☆シネマ小言主義~『風よ あらしよ 劇場版』/2月9日(金)より全国順次公開

原作/村山由佳『風よ あらしよ』(集英社文庫刊)
出演/吉高由里子、永山瑛太、松下奈緒、美波、玉置玲央、山田真歩、朝加真由美、山下容莉枝、渡辺哲、栗田桃子、高畑こと美、金井勇太、芹澤興人、前原滉、池津祥子、音尾琢真、石橋蓮司、稲垣吾郎
製作・配給/太秦

 男尊女卑の風潮が色濃い大正時代。福岡の田舎の貧しい家で育った伊藤野枝(吉高由里子)は親が決めた結婚を拒み、逃げるように上京する。
 その後、平塚らいてう(松下奈緒)の「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受けた野枝は、手紙を送り、女流文学集団「青鞜社」に参加。当初、詩歌が中心だったが、いつしか伊藤が中心となり、社会矛盾に異議を唱える婦人解放運動団体へと発展していく。
 2014年に放映されたNHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』のヒロインである翻訳者、今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主役・紫式部、そして、女性解放運動家・伊藤野枝を描いた本作。すべて吉高由里子主演です。
 垢抜けないフツーの女の子が、さまざまな出会いを通して自身のアカデミックな才能を開花させていく物語がこれで3作揃った感があり、吉高由里子と言えば「反骨心あふれる女性の半生」が代名詞になる可能性がありますね。
 自分は不勉強で伊藤野枝という女性解放運動家を知りませんでした。彼女は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽だった」という言葉に感銘を受け、「青鞜社」に入って「女はこうあるべきだ」という因習に真正面から立ち向かいます。
 日本を代表する無政府主義者、大杉栄のことは、教科書的な知識として知っていました。しかし、大杉栄のパートナーだった伊藤野枝まで大杉とともに、あらぬ疑いで憲兵に捕まり、28歳の若さで惨殺されていたことに衝撃を受けました。
 この事件が起きたのはちょうど100年前のことです。

吉高由里子の熱演は確かだが…
 パンフレットにあった原作者の村山由佳さんの言葉には『(声をあげれば)世界は、変わる。かつて野枝たちが身をもって証明したのに、100年の間に元に戻ってしまっただけだ』とありました。
 当時に比べたら女性の社会進出ははるかに進んだでしょう。けれども、いまだに性加害があったりと、100年経っても女性の地位はまだこんなレベルかと伊藤野枝は失望するだろうか。あるいは、ここまで進んだかと肯定的に捉えるのか。
 一周回った今、伊藤野枝が現代のこの社会をどう思うだろうかと自問自答したくなる映画です。
 さて、本作の評価を一身に背負っているのは主演の吉高由里子に間違いないと思うのですが、実は自分が星1つ減じてしまったのもその点。彼女を起用した意図は理解できます。
 この華奢な体のどこにそんな反骨パワーが潜んでいたのかと、観客に感じさせようという人選でしょう。
 本作の見どころの一つに、民衆を前に「女性の不平等」について演説するシーンがあります。懸命に声を張り上げているのですが、この声のトーンで、聴衆の1人だった革命家の大杉栄に衝撃を与えられるのかと、どうしても思ってしまうんですよ。
 「線の細さ」と「アナーキーな言動」とのギャップを強調すればするほど、映像としての無理感が否めないのではないか。吉高由里子が熱演なだけに、痛し痒しですね。

やくみつる
漫画家。新聞・雑誌に数多くの連載を持つ他、TV等のコメンテーターとしてもマルチに活躍。

辛口の部分もありますが、やくさん、概ね好意的な評ですね。

Youtube上に予告編もありました。


ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

しかし生命の信念は死とは別個の心事です。人悉く死す。しかも生命の感宇宙に充満せり。

昭和21年(1946)9月11日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

共通の知人であった詩人の逸見猶吉が、関東軍報道隊員として派遣されていた満州から復員できずに客死したという報に対しての返信の一節です。逸見は亡くなったけれど、我々の心に生き続けるよ、というところでしょうか。

同様に、関東大震災直後のドサクサで抹殺された野枝の残したメッセージ、今も現代の我々に語りかけてくれているわけですね。

PXL_20240209_233655421昨日は車で10分程のところにある隣町の映画館で映画「風よ あらしよ 劇場版」を拝見して参りました。

元々、NHK BSプレミアムさんで一昨年に放映された全3回のドラマを再編したもので、オンエアを拝見しましたし、録画も保存してあるのですが、大スクリーンで見るのもいいだろうと思い、拝見した次第です。やはりテレビ画面で見るのとでは大違いでした。

智恵子と入れ替わりの時期に青鞜社に入り、智恵子の先輩にして主幹だった平塚らいてう(松下奈緒さん)から『青鞜』を引き継ぐ伊藤野枝(吉高由里子さん)を主人公とし、光太郎と交流のあった辻潤(稲垣吾郎さん)や大杉栄(永山瑛太さん)らとのからみで、その激動の半生を描く映画です。原作は令和2年(2020)に刊行された村山由佳氏の長編小説『風よ あらしよ』
002
003
004
原作にある光太郎智恵子登場シーンは残念ながら割愛されています。

公式パンフをゲット。通常の映画ですと公式パンフはB5版くらいでカラフルな表紙のリーフレット、30ページ前後という感じですが、今回のものは一見して映画パンフに見えません。四六判の通常の書籍のようなスタイルです。頁数も66ページあります。そこで最初、売店ですぐに見つけられませんでした(笑)。ちなみに定価1,000円(税込)です。
005
目次
 ディレクターズメッセージ 柳川強
 序説
 物語
 インタビュー 吉高由里子 伊藤野枝を演じて、1から10のこと
 登場人物
 無政府の事実 伊藤野枝
 伊藤野枝略年譜
 スタッフ
 わたしたちが人の「弱さ」にいまどうやって立ち向かうのか、問いかける作品 田中ひかる
 伊藤野枝のアジテーション ブレイディみかこ
 伊藤野枝のまなざしの先には 加藤陽子
 戦いと恋と 大杉豊
 原作者・村山由佳の言葉


執筆陣も豪華ですね。ブレイディみかこ氏は野枝と同郷、大杉豊氏は筑波大学教授にして大杉栄の令甥です。さらに野枝自身の文章「無政府の事実」(大正10年=1921)も掲載されています。

大河ドラマ「光る君へ」で紫式部役を熱演されている吉高由里子さんへのインタビューも読み応えがありました。「辻さんもらいてうさんも同じパターンなんですけど、憧れから野枝が押しかけて、付き合っているうちに、野枝のエネルギーと気持に火がついて、そのうちに野枝のすごい行動力で、2人を追い越しちゃって、という部分があって、それに対しては2人とも悔しかったんだろうなと思います」など、的確に捉えられています。

実際、追い越されてしまった二人、辻潤と平塚らいてう、稲垣吾郎さんと松下奈緒さんのそうした場面での演技は素晴らしいものでした。

そして公式パンフ大トリに掲載されている原作者・村山由佳氏の言葉が特に刺さりました。曰く「あれから百年が経った。私たちはすっかり牙を抜かれてしまった。選挙へ行こうと口にする人に対して、たかが一票では世界は変わらないと嗤う。戦争を止めようと声をあげる人に向かって、現地に行って叫ばなければ意味がないと嘲る。(略)意味なら、ある。世界は、変わる。かつて野枝たちが身をもって証明してくれたのに、百年の間に多くのことが元に戻ってしまっただけだ。」。

百年」は、関東大震災直後のドサクサで、野枝と大杉、そして大杉の甥の橘宗一少年が憲兵大尉・甘粕正彦らによって虐殺されてから100年です。

以前にもご紹介しましたが、この事件を受けて智恵子は2ヶ月後の雑誌『婦人之友』に次の一文を寄せました。
8777bb84
この言葉も染みます。

100年後の我々が歴史に何を学ぶか、考えさせられる映画です。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今「宮沢賢治文庫」の装幀をやつてゐますがこれが又ひどくむつかしくて案をかへる事十三、四回、試作二十五、六枚に及びました。明日はきめてしまふつもりです。

昭和21年(1946)9月7日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

「宮沢賢治文庫」は、賢治実弟の清六と共に編んだ日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』。
7dc6e8a2
当方手持ちの全6巻は、現在、花巻の高村光太郎記念館にて展示中です。

1年以上前の刊行ですが、つい最近入手しました。

世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか

2022年11月16日 鈴木宣弘著 講談社(講談社+α新書) 定価900円+税

いまそこに迫る世界食糧危機、そして最初に飢えるのは日本、国民の6割が餓死するという衝撃の予測……アメリカも中国も助けてくれない。国産農業を再興し、安全な国民生活を維持するための具体的施策とは?
001
目次002
 まえがき
 序章 「クワトロ・ショック」が日本を襲う
  「飢餓」が現実になる日
  「大惨事が迫っている」国際機関の警告
  コロナで止まった「種・エサ・ヒナ」
  ウクライナ戦争で破壊された「シードバンク」
  世界で起こっている「食料・肥料争奪戦」
  「バイオ燃料」が引き起こした食糧危機
  一日三食「イモ」の時代がやってくる
  日本には「食料安全保障」が存在しない
  「市場戦争」と「自己責任」が食糧危機を招いた
  なぜ「食料増産」をしないのか
 第一章 世界を襲う「食の10大リスク」
  穀倉地帯を直撃した「ウクライナ戦争」
  国力低下の日本を直撃「中国の爆買い」
  人手不足を悪化させた「コロナショック」
  もはや当たり前になった「異常気象」
  「原油価格高騰」で農家がつぶれる
  世界の食を牛耳る「多国籍企業」
  食を軽視する「経産省・財務省」 
  「今だけ、カネだけ、自分だけ」の「新自由主義者」が農業を破壊する
  「農業生産の限界」が近付いている
 第二章 最初に飢えるのは日本
  日本の食料自給率はなぜ下がったのか
  コメ中心の食を壊滅させた「洋食推進運動」
  食料は武器であり、標的は日本
  コメ中心の食生活がもたらす「10のメリット」
  有事にはだれも助けてくれない
  「食料はお金で買える」時代は終わった
  「食料の収益性」を挙げても危機は回避できない
  「食料自給率を上げたい人人はバカ」の問題点
 第三章 日本人が知らない「危険な輸入食品」
  台湾で「アメリカ産豚肉の輸入反対デモ」が起きたワケ
  「成長ホルモン牛肉」の処分地にされる日本
  「輸入小麦は危険」の理由
  「日米レモン戦争」とポストハーベスト農業の真実
  ポテトチップスに使われる「遺伝子組み換えジャガイモ」
  輸入食品の危険性は報じられない
  世界を震撼させた「モンサントペーパー」
  「遺伝子組み換え表示」が実際に無理になったワケ
  表示の無効化に負けなかったアメリカの消費者
 第四章 食料危機は「人災」で起こる
  世界中で「土」が失われている
  化学肥料農業を脅かす「リン枯渇問題」と「窒素問題」
  農薬が効かない「耐性雑草」の恐ろしさ
  世界に広がる「デッドゾーン」
  多国籍企業が推進する「第二の緑の革命」
  「アメリカだけが利益を得られる仕組み」が食料危機をもたらす
  「牛乳余り問題」という人災
  「買いたくても買えない」人には人道的支援を
  あってはならない「酪農家の連鎖倒産」
 第五章 農業再興戦略
  「日本の農業は過保護」というウソ
  日本農業の「三つの虚構」
  農業の大規模化はムリ
  有機農業で中国にも遅れをとる
  「農業への補助金」実は大したコストではない
  「みどりの食料システム改革」
  「GAFAの農業参入」という悪夢
  「三方よし」こそ真の農業
  給食で有機作物を
  「ローカルフード法」は日本を変えるか
  日本のお金が「中抜き」される理由
  「ミュニシパリズム」とは何か
  「新しい食料システム」の取り組み
  「有機農業&自然農法」は普及できるか
 あとがき

著者の鈴木宣弘氏は東京大学大学院農学生命科学研究科教授。食糧問題に関する提言をされる中で、光太郎の言葉を引用されています。当方が最初に気づいたのは一昨年3月の地方紙『長周新聞』さんに載った「【緊急寄稿】日本は独立国たりえているか―ウクライナ危機が突きつける食料問題」という記事で、光太郎最晩年の詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)の一節、「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」が引用されていました。その後(その前からも)、鈴木氏、ことあるごとにこの一節を紹介されています。そして今回ご紹介する『世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか』でも。

それにしても目次を見ただけでもショッキングな言葉が並んでいますね。しかし、陰謀論者の強引な牽強付会とは一線を画し、きちんとしたエビデンスに基づいて理路整然と論が展開しています。

こういう問題についつい目を背けがちなのは、国民はバカでいてほしいと願う、壺の大好きな為政者たちの思う壺なのかも知れません。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

貴下に頂いた南瓜も成り、真壁さんにいただいた帯紫茄子も種子から育てて大成績をあげ、既に毎朝新鮮なのを賞味して居ります。


昭和21年(1946)9月5日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村でまがりなりにも三畝の畑を開墾し、野菜類はほぼ自給していた光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。
2ee9900b img_16

ネタ不足となってきまして、では「自分でネタを作ってしまえ」と(笑)、いわゆる「漢字ナンクロ」を自分で作ってみました。

きっかけは昨年10月に発行された漢字ナンクロの専門誌『別冊漢字館 Vol.112』。「特集 ある芸術家の愛と哀 高村光太郎」というわけで、昨年生誕140周年だった光太郎にちなむ漢字ナンクロを3問掲載して下さいました。

それを実際に解いてみて、さらに他の光太郎にからまない問題も一通り解き、すると、ふと思いました。「これなら俺にも作れるんじゃね?」(笑)。

で、出来たのが下記です。

まずは昭和3年(1928)の光太郎詩「あどけない□」。「□」は問題の一部ですので「□」です。
000
空欄になっている10文字の漢字を埋めて下さい。光太郎智恵子ファンの皆様には簡単ですね(笑)。

その同じ番号の漢字を下記に埋め、残り34文字も考えて下さい。
001
判った漢字は下記のチェックリストにも埋めていきましょう。
002
そして「9」、「12」、「24」……と埋めていくと、光太郎智恵子に関わる単語(固有名詞ですが)が現れます。

014最近はこの手のアプリもあって、それだと選択肢があってPCやスマホ上でピッピッピと選んで埋めていける感じなのですが、このサイトはそういうテクノロジーに対応していませんので、すみませんが、上記3枚の画像をプリントアウトし、鉛筆片手にチャレンジして下さい(笑)。

「簡単に作れるだろう」と高をくくっていたら、そうでもありませんでした。単純にマス目に熟語等を埋めるだけなら意外に簡単なのですが、それでは問題として成立しません。問題として成立させるためのルールというか縛りというか、いろいろハードルがありまして。

その1、一つの漢字を複数回使う。「11」~「44」は最低2回、使っています。1回しか出てこない文字は問題にせず、ヒントを兼ねて最初に埋めておくというルールです。「1」~「10」には1回しか出てこないものもありますが、最初の「あどけない□」の詩の中にも使われているので、そこは勘弁して下さい(笑)。

その2、常用漢字以外は避ける。今日の記事、下の方に出てくる「瀝」などというような漢字は使っていませんので、御安心を(笑)。

その3、黒マスが上下左右に隣り合っていてはいけない。これは通常のクロスワードパズルなどでも同じですね。ただ、アプリではこのルールは適用されていませんし、紙版でも「スケルトン」というタイプの問題だとそうではないのですが。

その4、最初に埋めておく漢字が上下左右に隣り合っていてはいけない。これはかなり高いハードルでした。そのために次のその5との兼ね合いが難しゅうございました。

その5、一般的ではない語は避ける。苦言を呈させていただければ専門誌やアプリではこの点のハードルが低く設定されています。物書きの端くれの当方も「こんな言葉知らねーよ」というのがけっこう使われていまして。そこで、そういう文句が出ないようにと考えて作りました。しかし、一度完成したところで妻に解いてもらったところ、「こんな言葉知らねーよ」が続出(笑)。駄目出しをくらったのは「城代家老」「紫禁城」「大本営」などなど。「この程度の言葉知らんのか」と言うと後が怖いので(笑)それはぐっと飲み込み、その周辺の部分は変えました。それでもまだ無理くり感のある語はどうしても残っています。すみません。

013その6、全ての白マスがつながっていなくてはならない。二度目に完成した後、見直してみたら、左下5分の1くらいの部分が黒マスに遮断され、孤島になっていました。右のような感じで。このルールはマストではないのかな、とも思ったのですが、やはり美しくないので変えました。

そんなこんなで三度目の正直(笑)。明日から世間的には三連休と言うことで、多少はお時間おありのことと存じます。ぜひチャレンジしてみて下さい。

ただし、誠に申し訳ありませんが、正解した方の中から抽選で××名様に……とはいきませんのでよろしく(笑)。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ二枚届き、本当に安心しました。 滴瀝をまだ書かない事に気づきました。今日明日にも書きます。

昭和21年(1946)8月30日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

「滴瀝」は光太郎の親友で、この頃病床にあった水野葉舟の歌集。その題字の揮毫を頼まれていました。戦前の昭和15年(1940)に出た版の題字も光太郎が書きました。
015

「めぐみネット 共同通信アグリラボ」というサイトに出ていた記事です。共同通信さんの関係なので、全国の地方紙いくつかには掲載されたのではないでしょうか。ご執筆は日本離島センター専務理事・小島愛之助氏。 

よんななエコノミー 震災からの復興と離島振興 宮城県女川町

013 元日に能登半島地震が起きると、宮城県女川町は6日、備蓄していたアルファ米や野菜ジュース、ポリタンク、非常用飲料水袋など生活物資を被災した石川県志賀町に提供し、その3日後には副町長ら職員4人を現地に派遣した。女川町は、東日本大震災の復興支援で志賀町から2015年度に事務員、19年度に保健師の派遣を受けており、同じ被災地として手を携えていこうとしている。
 その東日本大震災によって女川町も壊滅的な被害を受けたが、「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。START! ONAGAWA」をスローガンに、急ピッチで復興まちづくりを行ってきた。その効果もあって、女川駅や駅前商店街(シーパルピア女川)を中心として、かつてのにぎわいが戻ってきている。また、大震災の被害を千年後まで伝え、命を守りたいという思いから、町内21カ所には「いのちの石碑」が建っている。この石碑は、大震災の年に中学校に入学した子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、建設資金の調達や石碑のデザインなどを行ったものである。
 女川町には、人口が50人足らずの江島と約90人の出島の二つの有人離島があるが、このうち出島を今回は紹介したい。出島は、女川町の沿岸から一番近いところで300メートルほどしか離れていない。そのため、本土と島を結ぶ全長364メートルの橋を建設する出島架橋の整備事業が17年からスタートし、昨年11月に橋の中央部分が設置された。今後、道路の整備などが進められ、ことし12月に開通する予定である。
 出島への交通アクセスは、シーパル女川汽船の「しまなぎ」で女川港から20分。出島架橋が開通すれば、女川の市街地から車で15分に短縮されるという。時間・距離の短縮はもちろんのこと、病気やけがなどの緊急時にすぐ搬送できないという問題が解消し、住民の安心な生活につながるという点も大きい。一大漁業基地であり、釣り客のメッカでもある島と本土が陸路でつながることで、島の産業が継続的に営まれていくというメリットも多大である。
 出島には縄文時代の配石遺構があり、「出島ストーンサークル探検ツアー」の実施主体となっている「一般社団法人 女川未来会議出島プロジェクト」は、架橋後の町施設の管理をはじめとして、島の観光など各種事業の発展と創出に関わる支援を行うことにあるという。
 同プロジェクトの代表理事を務める高野信さんは福島県郡山市出身の元教員。定年後に教員時代の上司の故郷である出島に半ば移住した。架橋の効果も相まって、離島観光が女川町の復興に大きく寄与することを期待したい。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れ詩文を残したゆかりの町として「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。東日本大震災では甚大な被害でしたが、その後、記事にあるとおり、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、10年以上かけて町内の海岸沿いの高台等に全21基の「いのちの石碑」が建てられました。
015
そういう女川町さんですので他人事ではないと、能登半島地震に被災地に対しての素早い支援。記事は先月のものですので「6日」とあるのは地震発生から5日後の1月6日(土)です。素晴らしい。

その背景には、東日本大震災の折に、今回大きな被害のあった志賀町さんから支援を受けていたお返し的な要素もあるとのこと。まさに「情けは人のためならず」。ちなみにこのことわざ、「他人に情けをかけるとそのひとが甘えてしまって結局はその人のためにならないから控えるべきだ」という意味だと誤用されることが多いそうですが、正しくは「常日頃から他人に情けをかけておけば、いざ自分が困った時にそれが返ってくる」という意味ですね。だからといってそれを期待して「常日頃から他人に情けをかけておこう」というのでもなく、逆に考えれば「常日頃から他人に反感を買いまくっている輩はいざという時にも助けてもらえないよ」ということになるのかもしれません。

その他にも東日本大震災の被災地から、今回の能登半島地震の被災地への支援が続々という報道をよく目にします。まだまだこの国も捨てたもんじゃないなと思う今日この頃です。

記事内容に戻りまして、女川町の友人離島の一つ、出島(いずしま)。こちらには女川光太郎祭を主催されている「女川光太郎の会」の須田勘太郎会長がお住まいです。一度渡ってみようと思いつつなかなか果たせないでいるのですが、記事にある今年開通するという橋が完成すればすぐに行ける感じになりますね。ちなみに出島にも「いのちの石碑」が建立されています。
014
3.11もあと1ヶ月ほど。13年経ちますが、福島の原発周辺など、いまだに復興の進まない地域もありますし、その後も今回の能登半島や熊本など地震の被害は後を絶ちません。それでもその都度、過去の教訓を生かしてやっていくしかないのだろうなと思います。

【折々のことば・光太郎】

どうか十分に治療を尽してください。牛乳などは三里塚の事だからたくさんあるのだらうと思つてゐますが、あびる程のんでください。日本には以前から牛乳が少くて一般人の健康にかなり影響してゐたと思ひます。岩手地方はすべて酪農にするといいと考へてゐます。


昭和21年(1946)8月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

千葉成田の三里塚に居た親友・水野葉舟宛書簡から。葉舟は結核性の肋膜炎で翌年には没します。光太郎、この頃から食と健康に関する発言が目立つようになります。家庭菜園に毛が生えた程度とはいえ、まがりなりにも農業に従事するようになったことが大きいのでしょう。

終戦直後の昭和20年(1945)秋から、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した昭和27年(1952)秋まで、光太郎がまる7年間暮らした、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。主にその当時を紹介する高村光太郎記念館さんも隣接し、ぜひ皆様に足をお運びいただきたいスポットです。

しかし、いかんせん交通の便がよろしくありません。昔は市の中心街から路線バスが通じていましたが廃線。通常のタクシーですと片道数千円。当方はほぼほぼ毎回(来週もですが)レンタカーです。

そこで、花巻市の老舗タクシー会社、文化タクシーさんが「どんぐりとやまねこ号」という最大9人乗りのジャンボタクシーを運行して下さっています。現在は高村山荘や宮沢賢治記念館さんもコースに入った「どんぐり号」が午前中、南部杜氏伝承館・酒匠館さん、宮沢賢治童話村さんなどを廻る「やまねこ号」が午後、その2コースを「どんぐりとやまねこ号」として1日で運行されています。
014
以前、妻と二人で花巻に行った際は、午前中に当方が高村光太郎記念館さんで市民講座講師、その間に妻が「どんぐり号」を利用という荒技(笑)もやりました。

さて、同じ文化タクシーさんで最近、「観光ジャンボタクシー 花巻市周遊 高村光太郎ゆかりの地コース」を設定して下さいました。車両は「どんぐりとやまねこ号」と同じレトロジャンボタクシーで、高村山荘・高村光太郎記念館さん及び近くの音羽山清水寺(光太郎もたびたび訪れた古刹)のみを廻るコースです。
015
013
発着場所は東北本線花巻駅、東北新幹線新花巻駅、さらに花巻空港も選べるそうで。所要時間は約1時間30分となっていますが、出発時間も含めかなり融通が利くようです。また、予約が重なった場合には通常のワゴン車での対応となる感じでしょう。料金は1台借り切って15,600円だそうで、1人2人での使用だと割高ですが、大人数でなら元は取れそうです。また、他にも色々なコースが設定されています。

グループで行かれるという方、ぜひ利用をご検討下さい。

【折々のことば・光太郎】

冬は雪にこそ埋れて居れ、身神の充実はさは夏の比ではありません。アトリエを建てて冬期凍結の虞なく彫刻の出来る日をひたすら待望いたして居ります。フランスあたりなら、きつと請求すれば政府で建ててくれるに違ひないのですが、此の国の有様ではやむを得ません。


昭和21年(1946)8月22日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

結局、後に自ら戦争責任への処罰として彫刻制作は封印するのですが、移住1年目のこの頃はまだ太田村にアトリエ建設という夢は捨てていなかったようです。

テレビ放映の情報です。

まず、新作。

にほんごであそぼ 道

地上波NHK Eテレ 2024年2月12日(月) 8:35~8:45 
再放送 2月15日(木) 15:35〜15:45 2月17日(土)  07:00〜07:10


書道で学ぶにほんご・名文たかし・ぐうたらちんたら/道、朗読(津田健次郎)・こどもスタジオ/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、偉人とダンス/結局のところ、間違った道でも、いつもどこかには通じているものなのだ。(ジョージ・バーナード・ショー)、うた「道程」

【出演】南野巴那 津田健次郎 齋藤孝 青柳美扇 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃
8ed62101-s
これまでも繰り返し光太郎詩を取り上げてきて下さった「にほんごであそぼ」。今回は「道程」で、現在流布している詩集『道程』(大正3年=1914 10月)収録の9行のものではなく、雑誌『美の廃墟』に発表(同年3月)された初出の102行バージョン。さすがに長いので抜粋ですが。

昨年、スタッフさんから読み方等のレファレンス依頼があり、その際には「2024年1月放映予定」と伺ったのですが1月中に無く、「お蔵入りか?」と思ったところ、2月に入ってのオンエアとなりました。

さらに「うた「道程」」。おそらく故・坂本龍一氏作曲の番組オリジナル曲と思われます。

続いて再放送系。

びじゅチューン!「指揮者が手」

地上波NHK Eテレ 2024年2月6日(火) 17:30〜17:35 2月9日(金) 23:50〜23:55

古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

16ba1b63-s
初回放映は平成30年(2018)。その後、繰り返し再放送されてきましたし、令和2年(2020)発売の『びじゅチューン! DVDBOOK 5』にも収録されています。笑えます(笑)。

もう1件。

花ふぶき女スリ三姉妹のみちのく温泉デラックス無銭ツアー

BS松竹東急 2024年2月10日(土) 08:00〜10:00

逮捕も覚悟で一世一代の大仕事! 先祖代々のスリ一家に育った三姉妹、美恵・佳恵・沙恵は父譲りの妙技でスリを働いていた。そんな三人が、温泉とスリの旅にみちのくへ向かう。三人を見張る老刑事堀田もその後を追った。旅先で沙恵は松岡というエリート風の青年に出会い一目惚れ。その彼が会社の重要書類を盗まれて困っていると知り、沙恵たち三人は、川田たち三人のスリグループから、書類を取り返そうとするが…。

【公開・放送年】1988年
【出演者】叶和貴子、美保純、宮下順子、佐野浅夫、美木良介、八名信夫、宮尾すすむ、
     ビートきよし(ツービート)、猪野修平、美角友亮、不破万作 ほか


初回放映が昭和63年(1988)、地上波テレビ朝日さん系列での「火曜スーパーワイド」枠でした。光太郎第二の故郷・岩手県花巻市が主な舞台で、ストーリーとは直接の関わりはありませんが、郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)、光太郎が碑文を揮毫した桜町の宮沢賢治詩碑などでのロケが行われました。
PXL_20240205_001751646 PXL_20240205_001814108
PXL_20240205_001841573.MP PXL_20240205_001945958
それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日は宮崎稔さんに託されて林檎、瓜などたくさんお届けくだされ、早速井戸の中につるし置きて、翌日宮崎さんや丁度来訪せられた佐藤昌先生等と一緒に賞味いたしました。『旭』と申しますが、早成林檎の爽味うれしく、一句試みました。  秋晴れて林檎一万枝にあり  まことに貴家の林檎園は壮観であります。


昭和21年(1946)8月22日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎64歳

佐藤雪江は花巻病院長・佐藤隆房夫人。佐藤家でも林檎園を持っていたのですね。まったく花巻のリンゴは美味です。来週にはまた行って参りますので、ゲットして来ます。

俳句は戦後、十句ほど確認できているうちの一句です。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像」ライトアップも為されているはずの「第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう」が先週金曜に開幕し、その模様が報じられています。

ATV青森テレビさん。

冬空に200発の花火や名物「かまくらバー」も!「十和田湖冬物語」が開幕

013
冬の十和田湖をイルミネーションや花火で彩る「十和田湖冬物語」が、2日に開幕し、訪れた人たちが、幻想的な世界を楽しみました。
014
十和田湖冬物語は十和田湖休屋地区の特設会場で始まりました。イルミネーションで色鮮やかに飾り付けられた会場では大きな「かまくら」を使ったバーが登場。訪れた人たちはお酒を飲んだり、肉まんや串焼きといった温かい食べ物を食べたりして楽しんでいました。
015
また午後7時半を迎えると、冬の澄んだ夜空に200発の花火が打ち上げられました。
016
※訪れた人は「きれいでした。よかったです見に来て。」「花火、音楽と一緒に上がってきれいでした」「雪があっての花火ですごいきれいでした」
017
十和田湖冬物語は2月25日まで毎週火曜日と水曜日を除いて開催され、イベント期間中の週末にはステージイベントも行われます。
018
RAB青森放送さん。

十和田湖冬物語 開幕 毎日 冬空に花火

021
冬の十和田湖が満喫できる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
022
023
会場の十和田湖畔休屋地区では4年ぶりにコロナ禍前に戻して、地元の食を味わえる雪灯り横丁やスノーパークが設置されました。
026
024
雪不足が心配されましたが名物のかまくらバーもお目見えしました。

また今月25日までの期間中、午後7時30分から毎日打ち上げられる花火が冬空に大輪の花を咲かせて訪れた人たちが冬の十和田湖を楽しんでいました。
025

地方紙『デイリー東北』さん。

澄んだ夜空に光の大輪 「十和田湖冬物語」開幕

 十和田八幡平国立公園の十和田湖畔休屋地区で2日、厳寒期の自然の魅力に触れる「十和田湖冬物語」が開幕した。雪が舞う夜空に光の大輪が咲き、来場者が見入っていた。25日まで。
 冬期の誘客促進などを目的に、実行委員会(中村秀行委員長)が主催して26回目。期間中は火、水曜を除き、午後7時半から花火約200発を打ち上げる。1玉7千円のメッセージ花火もある。
 会場の多目的広場は入場無料。新型コロナウイルスの5類移行を経て、飲食を提供する屋台村が4年ぶりに復活した。酒類を扱うかまくらバーを含め、地元業者ら7店舗が出店し、家族連れや訪日客らでにぎわいを見せた。
 初日は十和田市無形文化財の「晴山獅子舞」も披露された。週末には青森、岩手、秋田3県の芸能パフォーマンスが行われる。
 東京都から夫婦で訪れた主婦服部博子さん(68)は「澄んだ空の冬花火は華やかできれい。思い出の一つになった」と喜んでいた。
027
会場の十和田湖畔休屋地区、半端ない寒さですが、その寒さを吹き飛ばす熱気に溢れていることと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

あのいただいた和紙は実に珍重です。秋には障子をすつかり新しくします。ワラビ糊をつくつて張るつもりです。 貴下手植えの萩は今年花を持つかどうか分りませんが、勢は盛んです。

昭和21年(1946)8月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

前年5月の花巻疎開の折には光太郎を花巻まで送りとどけた宮崎が、久しぶりに茨城から光太郎に会いに来ました。障子紙や萩の苗は手土産。花巻町中心街の宮沢賢治実家や花巻病院長・佐藤隆房から託されたものかもしれませんが。

この書簡には萩の葉のイラストが描かれていました。
001

映画の公開情報です。

風よ あらしよ 劇場版

公 開 : 2024年2月9日(金)~ 全国順次公開
上 映 : 新宿ピカデリーほか
出 演 : 吉高由里子(伊藤野枝) 永山瑛太(大杉栄) 松下奈緒(平塚らいてう)
      美波(神近市子) 玉置玲央(村木源次郎) 山田真歩(堀保子)
      朝加真由美(辻美津) 山下容莉枝(渡辺八代) 栗田桃子(保持研
      高畑こと美(尾竹紅吉) 福田ユミ(中野初) 成田瑛基(奥村博史)
      金井勇太(和田久太郎) 芹澤興人(久板卯之助) 永瀬ゆずな(大杉魔子)
      音尾琢真(甘粕正彦) 石橋蓮司(渡辺政太郎) 稲垣吾郎(辻潤)ほか
演 出 : 柳川強
脚 本 : 矢島弘一
音 楽 : 梶浦由記

 関東大震災後の混乱のさなか、ひとりの女性が憲兵に虐殺された。女性解放運動家の伊藤野枝。貧しい家で育った野枝は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受け、結婚をせず上京。自由を渇望し、バイタリティ溢れる情熱で「青鞜社」に参加すると、結婚制度や社会道徳に異議を申し立てていく。伊藤野枝を演じたのは吉高由里子。平塚らいてうに松下奈緒。また野枝の第一の夫、ダダイスト・辻潤を稲垣吾郎が、また後のパートナーとなる無政府主義者・大杉栄を永山瑛太が演じる。吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の評伝小説『風よ あらしよ』を原作に、向田邦子賞受賞の矢島弘一が脚本を担当する。本作の演出を務めた柳川強は「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子の波乱万丈の人生を描いたNHK連続テレビ小説「花子とアン」のディレクターも務めており、本ドラマでも主演を演じきった吉高由里子とは9年ぶりのタッグを組んだ。ひとりの女性の短くも激しい生涯から100年経ったいま――なにがかわり、なにが残されているのか。

 「女は、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」事が正しく美しいとされた大正時代。男尊女卑の風潮が色濃い世の中に反旗を翻し、喝采した女性たちは社会に異を唱え始めた。
 物語の主人公は、福岡の片田舎で育った伊藤野枝。貧しい家を支えるための結婚を蹴り上京する。平塚らいてうの言葉に感銘を受け手紙を送ったところ、青鞜社に入ることに。青鞜社は当初、詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放運動に発展していく。野枝の文才を見出した第一の夫、辻潤との別れ、生涯のパートナーとなる無政府主義の大杉栄との出会い、波乱万丈の人生をさらに開花させようとした矢先に関東大震災が起こる。そして混乱のさなか、理不尽な暴力が彼女を襲うこととなる……。
013
令和2年(2020)に刊行された村山由佳氏の長編小説『風よ あらしよ』を原作に、一昨年、NHK BSプレミアムさん(当時)で放映された全3回のドラマを再編、「劇場版」として公開するものです。

村山氏の原作には登場する光太郎と智恵子、残念ながら登場しませんが、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)が重要なモチーフとして繰り返し使われています。
015
016
014
松下奈緒さん扮する平塚らいてうや、永山瑛太さんの大杉栄はじめ、登場人物の中には光太郎智恵子と交流のあった人々も多数。
017
主役の伊藤野枝を演じられたのは、今年の大河ドラマ「光る君へ」で「まひろ」こと紫式部を熱演されている吉高由里子さん。吉高さんといえば、当方、光太郎とも面識のあったと思われる村岡花子を演じられた「花子とアン」の印象が非常に強いのですが、紫式部、伊藤野枝、村岡花子と、時代背景は違えど、共通する情熱やしたたかさを持ったある種たくましくもたおやかな部分もあり、なおかつ悪く云えば生意気な女性のイメージですね。吉高さんはこうした女性を演じられたら一級品ということでしょう。

ちなみに「光る君へ」で、大河史上、一、二を争うゲス野郎ともいえる藤原道兼を演じられている玉置玲央さん、「風よ あらしよ」では逆に大杉率いるアナーキスト一派の「良心」ともいうべき村木源次郎役です。当初は「源兄(げんにい)」と呼ばれ、子供たちにも慕われていた村木ですが、大杉・野枝夫妻の没後には大杉の「ああいう奴がほんもののテロリストになる」という予言の通りになっていきます。時間軸としてそのあたりまでは描かれないのですが。

というわけで、「風よ あらしよ 劇場版」、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

本当に辻潤と四人で一度でものまなかつたのが心残りです。辻潤の江戸ツ子気質の性根から来てゐる行動の末々を本当に分つてゐる人は少ないでせう。


昭和21年(1946)8月1日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

光太郎は野枝の最初の夫、辻潤とも交流がありました。

大正13年(1924)刊行の陶山篤太郎詩集『銅牌』の序文を光太郎が書き、英訳を辻が手がけています。また、昭和14年(1939)に刊行された西山勇太郎詩集『低人雜記』では、光太郎が題字を、辻が序文を担当しました。後の西山宛の光太郎書簡には辻の名が頻出します。また、昭和29年(1954)に刊行された『辻潤集』全二巻の編集委員には、光太郎も名を連ねました。

西山は辻と交流の深かった詩人です。光太郎はこの頃、西山の主宰していた雑誌に、戦時中に餓死した辻の追悼文を依頼され、乗り気だったのですが、結局実現しなかったようです。それが書かれていればもう少し詳しく辻と光太郎の関係性が分かったところですが。

「四人」は光太郎、辻、西山、もう一人はおそらく西山や光太郎と親しかった風間光作と思われます。

ちなみに辻潤、「風よ あらしよ」では稲垣吾郎さん。登場当初はりりしく颯爽としていましたが、次第にダメ男ぶりを遺憾なく発揮していきます。
021

光太郎智恵子と交流のあった画家・津田青楓の評伝です。

津田青楓 近代日本を生き抜いた画家

2023年12月5日 大塚信一著 作品社 定価2,700円+税

洋画・日本画・書の作家、図案家・装幀家、俳人・歌人・随筆家――明治・大正・昭和の激動の時代を必死に生き抜いた多面的な芸術家の生き方を描く、初の本格的評伝!

 明治・大正・昭和と、正に日本近代を必死に生き抜いたのが津田青楓であった。彼が逆境の中でどのように自らの道を開拓していったか、日本近代の激動の歴史に翻弄されつつもそれらといかに対峙していったか、その軌跡はまことに類稀れなものである。芸術は彼にそのための手段を与えた。彼は存分にそれらを活用して、可能な全てのことを行い、時に挫折し、時には成功したのであった。
 私は、津田青楓という一人の芸術家の生き方を辿ることによって、日本近代の光と影に新しい景色を加えることができれば、と願っている。
(本書「プロローグ」より)
001
目次002
 プロローグ
 第一章 京都に生まれて――芸術家の誕生
 第二章 軍隊と戦争の体験
 第三章 結婚と留学
 第四章 漱石との親交
 第五章 続・漱石との親交
 第六章 三重吉と寅彦
 第七章 苦悩する青楓
 第八章 開花する才能
 第九章 河上肇との交流
 第一〇章 続・河上肇との交流、そして挫折?
 第一一章 日本画家としての成熟
 第一二章 青楓にとっての良寛
 エピローグ
 あとがき
 作品図版一覧/人名索引


『朝日新聞』さんの広告で見つけ、購入しました。「初の本格評伝」とあり、言われてみれば津田の評伝って見たことないな、というわけで。

津田は光太郎より3歳年長の明治13年(1880)生まれ。光太郎とは留学仲間で、津田は明治40年(1907)から同43年(1910)にかけ、農商務省の海外実業練習生としてパリに。一方の光太郎は明治41年(1908)にロンドンからパリに移り、そこで知り合ったと考えられます。

光太郎、そして津田も俳句が好きだったようで、光太郎は明治42年(1909)、留学の最後に約1ヶ月旅したイタリア各地からパリの津田宛にせっせと絵葉書を送りましたが、そこには旅の吟がびっしり。現在確認できている光太郎の俳句100句あまりのうち、半分以上がそれです。光太郎から津田宛の書簡はかなり散逸してしまっており、『高村光太郎全集』完結後にもその中の1枚が見つかったり、両者帰国後の明治44年(1911)、光太郎が神田淡路町に開いた画廊「琅玕洞」をたたんで北海道に渡る旨を知らせる葉書が見つかったりもしています。他の書簡もまだどこかに人知れず眠っているような気がします。
無題 d20e7047
琅玕洞では津田の個展も開いています。光太郎は自分の画廊の展評を『読売新聞』に寄稿しました。題して「津田青楓君へ-琅玕洞展覧会所見-」(明治44年=1911)。その中で「友人といふので口の利き易い所から、感じた儘を無遠慮に書いた」とし、確かに歯に衣着せぬ評をしています。曰く「少し失望したよ。君が思ひの外、油絵具にこき使はれてゐるからさ」「君のいつもの熱は何処へ行つたのだらう。あべこべに顔料に追はれて居る様に見えるのは、製作時に於ける此の熱の不足から来たのぢやないかと思はれる」など。たとえ親しい間柄でも、このあたり、光太郎は妥協しませんでした。

津田は智恵子とも交流がありました。

おそらく明治43年(1910)のことと思われますが、後に津田が書いた『老画家の一生』という書籍(昭和38年=1963)に次の記述があります。

 亀吉の陋屋にも、人の出入りが次第に多くなつた。
 目白駅に通じる大通りには、成瀬仁蔵といふ人の創立した女子大学があつた。自然画好きの女学生もやつてきた。
 近所にはアメリカ帰りの柳敬助といふ画家がゐた。その奥さんは女子大出身で、後には柳君の家庭とも往来するやうになつた。
 巴里時代知り合ひだつた斎藤与里君も、程近い処に住んでゐたので、散歩の行きか帰りにしばしば訪れた。その横町の足袋屋の二階には相馬御風君がゐた。彼は早稲田出で、当時『早稲田文学』の編輯をやつてゐた。
 亀吉の町内に小川未明君がゐた。彼は東北出身で、言葉に特別な訛りがあつた。我儘で短気者だつた。
 往来してゐる者はすべて地方出身の野武士で、亀吉のやうな京都そだちはあたりに居なかつた。
 すこしあとになつてからのことかもしれないが、長沼智恵子(後の高村光太郎氏夫人)といふ、女子大の生徒もきた。家では教へなかつた。彼女が画架を据ゑて描いてゐる所へ行つて助言したり、雑司ヶ谷にある彼女の住居へも出かけて行つたことがある。彼女は艶といふか色つぽいといふか、いつも裾の方に長襦袢の赤いものを少しのぞかせて、ぞろぞろ歩きだつた。カチカチの女子大には珍らしい存在だつた。


「亀吉」は本名「亀治郎」の津田自身です。

また、同じ頃の回想で、津田の最初の妻でやはり画家の山脇敏子もこう書いています。

 その頃夫の友人で色々の人々と交際していた。先ず女の人では青鞜社の物集和子、平塚雷鳥、杉本正生、長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)、文士では寺田寅彦、鈴木三重吉、内田百閒、小宮豊隆、森田草平、小川未明、茅野蕭々、滝田樗蔭、島中健作、秋山光夫、阿部次郎、安倍能成、それと先生の夏目漱石の諸氏が私の記憶に残つている。

そして再び津田。昭和23年(1948)に発行された『漱石と十弟子』の一節で、「美代子」という仮名になっていますが、やはり智恵子が登場。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

最後の智恵子のせりふは、智恵子評伝や二次創作などの中でよく使われるものです。当方も使いました(笑)。

そんな津田の「初の本格的評伝」だそうで、まだ精読していないのですが、おいおい読んでいきたいと存じます。ただ、光太郎に関わる箇所をざっと見たのみでも誤植などが目立つのが残念ですが……。

ともあれ、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

資材不足には小生も閉口してゐます。絵具が無くなつてはお困りでせうが当分は鉛筆だけでも勉強する外ありません。小生もまだ彫刻には本当に取りかかれずにゐますが、野山のものを写生しながらますます自然の美の深さにうたれます。

昭和21年(1946)8月2日 小林治良宛書簡より 光太郎64歳

戦後になっても物資不足がすぐ解消したわけではなく、特に画家は絵の具の入手に困難を極めていたようです。

評論家の東浩紀氏主宰の雑誌『ゲンロン』。昨秋刊行された第15集『ゲンロン15』に、光太郎がらみの論考が掲載されているという情報を得まして、慌てて購入しました。

ゲンロン15

2023年10月20日 東浩紀編集 株式会社ゲンロン 定価2,300円+税

『訂正可能性の哲学』にもつながる消費とリゾートをめぐる東浩紀の論考、アジアを代表する若手哲学者ユク・ホイ氏へのインタビュー、川上未映子氏によるエッセイ、原一男氏・大島新氏・石戸諭氏による鼎談など、豪華内容を収録。

001
【目次】
 [巻頭論文]東浩紀|哲学とはなにか、あるいは客的-裏方的二重体について
 [ゲンロンの目]川上未映子|春に思っていたこと
 [座談会]原一男+大島新+石戸諭|
ドキュメンタリーはエンターテインメントでなければならない
 [特別寄稿]三宅陽一郎|異世界転生とマルチバースと未来のコンテンツ
 [エッセイ]宮﨑裕助|脱構築のトリセツ──脱構築入門(の彼方へ)の一歩
 [ゲンロンの目]山内志朗|〈セカイ系〉に捧げられた花束 中世ラテン哲学のすすめ
 [インタビュー]ユク・ホイ 聞き手=東浩紀 訳=伊勢康平|
「わたしは自分の問いに忠実でありたい」ポストモダンとアジアと哲学をめぐる対話
 [連載]ユク・ホイ 訳=伊勢康平|
共存の言葉について 惑星的なものにかんする覚書 第2回
 [連載]石田英敬|詩とアルコールと革命と 飛び魚と毒薬 第1回 + 第2回
 [連載]イ・アレックス・テックァン 訳=鍵谷怜|
ベルクソンとアフリカ 理論と冷戦 第5回
 [連載]田中功起|見ないこと、見損なうこと、あるいはインフラストラクチュア
 3月1日から9月2日 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 第16回
 [連載]上田洋子|演劇に自由はあるのか、あるいは可視化される孤独の問題
 ロシア語で旅する世界 第12回
 [論考]能勢陽子|失われた抒情と穴が開いたレンコン状の月―梅津庸一の近年の作品
 [エッセイ]川原伸晃|園芸とは超越の飼い慣らしである
 [創作」猿場つかさ|海にたゆたう一文字に 第6回SF新人賞受賞作 [解題]大森望
 [コラム]山森みか|イスラエルの日常、ときどき非日常
#10 「産めよ」「育てよ」「つがいになれ」
 [コラム]辻田真佐憲|国威発揚の回顧と展望 #5 近鉄から逃れられない
 [コラム]福冨渉|タイ現代文学ノート #8 変わる南の島
 [コラムマンガ]まつい|島暮らしのザラシ #4
 ネコデウス15
 寄稿者一覧
 English Contents and Abstracts

光太郎に触れて下さった論考は、愛知県豊田市美術館学芸員の能勢陽子氏による「失われた抒情と穴が開いたレンコン状の月―梅津庸一の近年の作品」。

メインは一昨年に都内で開催された現代アート作家・梅津庸一氏の展覧会「緑色の太陽とレンコン状の月」などの紹介です。そこから梅津氏も注目した光太郎の評論「緑色の太陽」(明治44年=1911)における「個」と「国家」などとの関係、さらに戦時中に翼賛詩文を書きまくった光太郎の変節、戦後の花巻郊外旧太田村での大いなる悔恨等にも拡がっていきます。そこに同時代の黒田清輝や夏目漱石、岸田劉生、「民芸」運動などにも言及されています。

目次の通り、他にも色々と充実の内容です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩もたくさん書いてゐます。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

たくさん書いてゐます」と言いつつ、この時期の発表が確認できている詩は、『週刊少国民』に「雲」、『新岩手日報』で「絶壁のもと」の2篇だけです。おそらく、翌年7月の『展望』に載った20篇から成る連作詩「暗愚小伝」を指しているのではないかと思います。幼少年期から始まり、戦時中の愚行を含め、自己の半生を振り返り、自らの戦争責任を省察した連作です。






まず、新刊書籍の紹介を。2ヶ月ほど経ってしまっていますが。歌集です。

燃える花

2023年11月15日 沢本ひろみ著 文芸社 定価1,000円+税

「古と今は変はりて変はらざり 逢瀬の後は後朝のメール」「『レモン哀歌』の一語一語は哀しみと愛の重さで胸にしたたる」「軒借りて過ぐるを待ちぬ時の雨 嵯峨の紅葉は濡れまさりつつ」──鋭い感性と溢れる思いで読んだ短歌の数々を、〈黎明〉〈友〉〈初恋〉〈京の旅〉〈母〉〈愛〉など、カテゴライズしてまとめた。短歌による自分史ともいえる、素の作者が詰まった一冊。

著者プロフィール
本名・宮崎裕巳。東京都出身。早稲田大学教育学部卒業。都立高校の国語科教師として長年勤務し、後、私立高校でも教鞭を執る。2021年11月より「塔」短歌会に所属。東京都在住。
001
目次
 黎明
  自然/音楽/文学/日本舞踊/房総にて/蓼科にて/諸々
 友
 初恋―初夏の陽―
 ヨーロッパ旅行
  パリ/グラナダ/アテネ/ドイツ
 京の旅
 恋―触れられぬ背―
 歌舞伎
  鷺娘/吉野山/梅川忠兵衛/紅葉狩/船弁慶/市川海老蔵丈/歌舞伎見物
 母
 愛 ―燃える花―
 後書き


内容説明欄に「『レモン哀歌』の一語一語は哀しみと愛の重さで胸にしたたる」と、光太郎がらみの歌が一首引かれていますが、これ以外にも二首、光太郎や智恵子抄からのインスパイアが。ありがたし。

「後書き」から。

 私が短歌に心を惹かれたのは、高校生の時です。現代文の授業で近代の短歌を学習し、その時初めて与謝野晶子や若山牧水、石川啄木などの歌と出会いました。目を瞠るような思いで読んだのをよく覚えています。五七五七七という制限された枠組みの中に秘めている豊かな世界に魅了されました。
 同じ頃に詩や小説にも目が啓き、様々な文学に親しんで過ごす内に、少しずつ歌を作り始めたのは、自然な成り行きであったかもしれません。


その後社会人となられ、一時期短歌の世界から離れられていたのが、ふとまた作歌を始められたとのこと。ところがいわゆる「現代短歌」にはある種の違和感を感じられているそうです。

 現代の歌はことごとく写実的な日常詠でなくてはならないのか。それ以外の歌は受け入れられないのか。私は悩みました。
 そんな私の中に、かつて心を躍らせて読んだ明治の歌人達の歌が甦りました。「哀しい」「さびしい」「恋しい」等の語をためらわずに用い、時には自分の感情をたたきつけるように直截に表現した歌。(略)多彩な人々が、自由に個性的に詠んだ歌の世界は、私に小さな勇気をくれました。
 
そこで、時代遅れかもしれないスタイルで、切実な思いやらを自分らしく自由に言葉にすることを心がけているとのことです。

腑に落ちました。いいな、と思える歌が多く、なぜそう感じたかというと、当方もよく眼にする「明治の歌人達の歌」に範を採られているからなのですね。

ちなみに与謝野夫妻の『明星』が本格的な文学活動の出発点だった光太郎も、生涯に1、000首近い短歌を詠んでいます。詩と異なり、手控えの原稿に残すことをしなかったので、未知のものも続々見つかり続けています。高村光太郎研究会さんから4月発行予定の『高村光太郎研究』に、昨年新たに見つけたもの三首を紹介する予定です。

さて、取り上げるべき事項がまた山積して参りまして、『智恵子抄』がらみで近々開催される朗読会の件もご紹介しておきます。

大人のための朗読会

期 日 : 2024年2月4日(日)
会 場 : 佐野市立図書館 栃木県佐野市大蔵町2977
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎作「レモン哀歌 他」、森鴎外作「高瀬舟」、太宰治作「貨幣」の朗読を行います。
GC_AGPfbwAATM5P
もう1件、『毎日新聞』さんの京都版に、舞鶴市での朗読会の案内も出ていました。ただしこちらはネットで調べてもそれ以上の情報が出て来ませんで……。

第140回かざはな朗読会 

2月2日(金)13時半、舞鶴市溝尻の市勤労者福祉センター。舞鶴今昔物語より「消えた温泉」など、宮沢賢治作「雪渡り」、高村光太郎作「智恵子抄」より。参加無料。主催は朗読愛好会かざはな。

以上、よろしくお願いします。

【折々のことば・光太郎】

痩せてバツタのやうな此の部落の子供達は見かけよりも健康で、元気で、毎日午前十時半の体操の時間には角力やリレー競争で運動会のやうな騒ぎです。分教場の生徒(尋常科)男女合せて三十八名、皆性質のよい、素直な、ハキハキした子供達です。これで田植や草刈には一ぱしの役をつとめて居ます。小生の小屋へもよく野菜や漬物などを持つて農家から使ひに来ます。「コレ、ケル」といひます。「コレヲ進上」といふ意味です。


昭和21年(1946)7月17日 和田豊彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、山小屋近くの山口分教場の子供たちについて。戦後となりましたが、教育基本法はまだ施行前で「尋常科」の呼称が残っていたのでしょう。和田は光太郎もたびたび寄稿した『週刊少国民』の編集に当たっており、送られてくる同誌を子供たちに貸してやって……という話の流れです。

新聞記事から、またまた紹介すべき事項が溜まってまいりましたので、2件まとめて。

まずは『毎日新聞』さん。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友にして、この国で初めて光太郎を正面から捉えた評論集を刊行した、故・吉本隆明氏がらみです。

エッセー『隆明だもの』刊行 漫画家・ハルノ宵子さん 人間・吉本隆明、衝撃の実像

012 漫画家のハルノ宵子、といえば戦後を代表する思想家・吉本隆明(たかあき)の長女、多子(さわこ)さんのペンネームだが、その人が昨年末にエッセー『隆明(りゅうめい)だもの』(晶文社)を出した。驚くのは、これが知られざる吉本家の内情を明かした一種の暴露本なのである。
 「あとがき」で「吉本主義者の方々の、幻想粉砕してますね」と自ら評し、帯に「吉本家は、薄氷を踏むような“家族”だった」ともある。つづられる吉本と妻の和子(ともに2012年死去)の夫妻間の激しい葛藤、この両親と、著者および妹で作家の吉本ばななさんとの親子間の複雑な心理劇は、全共闘世代の「教祖」といわれ、絶大な影響力を持った吉本の実像として確かにショッキングだ。
  晩年に取材する機会を持った記者もそうだが、吉本と関わった多くの人々が、論争的な著作からすると意外な親しみやすい人柄にひかれた。今でいう「略奪愛」で結ばれた妻と、2人の娘に恵まれた家庭は、はた目には仲むつまじいものとしか見えなかった。
 ところが、本書によると吉本自身が「だいたい10年に1度」「不安定で、攻撃的なサイクル」に入る人であり、和子は「家族皆が振り回された」激しい性格だったという。「父(吉本)が10年に1度位荒れるのも、外的な要因に加えて、家がまた緊張と譲歩を強いられ、無条件に癒しをもたらす場ではなかった」からだとも書いてある。
013 この点について聞くと、ハルノさんは「家では母がすごい力を持っていましたからね。洗濯や料理も進んでやった父ですが、母の気持ちを真っ向から受け止めたり、包容したりする力はない人でした。母は心を支えてほしかったのだと思いますが」よと話す。
 本書は、刊行継続中の『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の月報に掲載された文章を軸に、ばななさんとの姉妹対談、編集者によるインタビューで構成されている。対談でもハルノさんは「本当いうと、彼(吉本)は結婚すべき人格ではないような気がするんですよね。つまり、妻を支えてとか、そういう意味ではまったく期待できないですね」と手厳しく語っている。
 ハルノさんは1980年代に漫画家としてデビューするものの、妹が独立すると、母が体調を崩したこともあり、やがて家事や、多忙な父のマネジャー役を引き受けざるを得なくなった。しばしば両親の争いの板挟みにもなった。対談でも母の「怖さ」が繰り返し話題になるが、何かにつけてハルノさんを頼りにした母との関係は「共依存だった」とも表現する。
 あまりに個性的な 家族の中で一人、犠牲を強いられたともいえるが、本のトーンは決して暗くない。ユーモアを含んだ柔らかい文体や自作のイラストの効果もあるが、著者の冷静な批評的まなざしに負うところが大きい。そこに自然な愛情や敬意もにじみ出る。「結果的に、家に縛られているうちに面白いものを見せてもらったということになりますかね。状況を楽しむしかなかったですから」と笑顔で語る。
014 父母の葛藤は「一つの家の中に2人の表現者がいる難しさ」だったのではないかという。もともと小説を書いていて結婚後に筆を断った和子は、晩年に俳句を始めている。この見方は、詩人・彫刻家の高村光太郎が画家の智恵子と築いた家庭内の男女の緊張に注目した吉本の評論『高村光太郎』(57年)を思い起こさせ、興味深い。
 他にも、吉本が96年に伊豆の海で遊泳中に溺れた事件を境に「眼(め)も脚も急激に悪くなって」いく様子など、家族でなければ知り得ない生々しい証言は多い。亡くなる4、5カ月前、自宅で大きな音がしたので確かめると、既に視力や運動能力が衰えた身なのに外出の服装をして「玄関の石のたたきに父が転がっていた」という場面に、胸をつかれる読者もいるだろう。
 書名のいわれを尋ねると、「(書家・詩人の相田みつをの)『にんげんだもの』から」。なるほど「ヨシモトリュウメイも一人の人間だった」ということか。吉本の等身大の姿を語ってやまないこの本は、今後の「吉本伝」作家にとって必読の、また頼もしい文献となるに違いない。


『隆明だもの』、店頭で手にとって立ち読みしたのですが、直接光太郎智恵子に触れている部分は見あたりませんでした。まぁ立ち読みであって精読はしていませんから見落としがあるかも知れませんが。

しかし吉本氏夫妻の関係性が光太郎智恵子のそれを彷彿とさせられる、という記者氏の感想。なるほどと思いました。夫婦同業の苦労は、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子氏などもたびたび言及されており(夫は故・吉村昭氏)、その仕事内容がクリエイティブであればあるほど、そうした傾向が強くなるんだろうなと思います。

続いて『山形新聞』さん。彼の地ご出身で、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった劇作家・女優の渡辺えりさんの連載エッセイです。

渡辺えりのちょっとブレーク (224)希望の年を願って

 新しい年が明けた。しかし、能登半島地震の被害はすさまじく、羽田の飛行機事故も痛ましく、波乱の年明けとなった。山形の皆さまは大丈夫だったでしょうか?
 高齢者の避難が困難な現実を目の当たりにし、日頃からご近所の様子などが分かるよう、交流を欠かさないことが大切だと感じた。私が子ども時代の山形市村木沢を思い出す。毎日、いろり端で青菜漬けをつまみながら緑茶をすすり、よもやま話に花を咲かせていた年配の方たちの笑顔が浮かぶ。避難の際の高齢者の保護を考えなくてはいけない。
 年末はロックライブで叫び、31日の大みそかは新宿・京王プラザホテルの宿泊客限定コンサートでシャンソンを歌った。そして今月は、私が演劇の舞台を創作して50年になる記念に劇中歌の中からえりすぐった20曲をレコーディングしている。年末年始は「歌」の仕事が続いた。
 また、うれしいニュースがある。今年5月に山形公演が決まったことだ。コロナ禍に書いた2人芝居を大幅に直し、高畑淳子さんと共演する。昨年の2本立て公演「ガラスの動物園」「消えなさいローラ」と同様に私が演出する。今回は作品も私が書く。コントラバスとバンドネオンの生演奏に加え、歌も披露する。1時間40分の短い作品だ。高畑さんと私は同じ年。ジャンルの違う演劇を続けてきた2人が、ユーモアたっぷりにさまざまな人生を演じる。山形市のやまぎん県民ホールで上演するので、ぜひいらしてください。
 そして今、人形劇「星の王子さま」の脚本を執筆している。結城座という江戸時代から続く人形劇の劇団の新作を依頼された。結城座さんとのコラボは今回で3作目。今年9月の公演だが、オリジナルの人形も制作するため、1月末が締め切りなのだ。
 私ならではの「星の王子さま」を作ろうと考えている。あまりに有名な作品だが、平和を願いながら星空の中で行方不明となったサンテグジュペリの精神を大切に脚色していくつもりだ。
 コロナ禍で中止になっていた学校公演も始まる。山形でも上演させていただきたい作品だ。高村光太郎もファンだった結城座。人形を使いながら、せりふをしゃべる技術の高さを見てほしい。世界にない手法の人形劇だ。
 2月4日は、天童市民文化会館でコンサート「世界は日の出を待っている~渡辺えり 平和への歌声」を開催する。地元で長年活躍しているビッグバンドからの依頼で歌う。「世界は日の出を待っている」は、関東大震災が起きた1923(大正12)年に作られた曲で、春の訪れとともに世界平和を祈っている。同市制施行65周年記念のコンサートとなる。「久しぶりに温泉に入れるのでは?」と期待している。
 そして、仕事で年末年始に会えなかった母ちゃんとも会えるはず。5月17日は父の命日。山形公演の準備で命日に故郷に帰れるのも、皆さまのおかげと父の愛情だと思っている。
 山形の皆さまにとって今年が光に満ちた希望の年でありますように。お互いに持ちつ持たれつ、支え合って生きていきましょう。今年もよろしくお願いします。(俳優・劇作家、山形市出身)
015
あいかわらずバイタリティーにあふれていらっしゃいます(笑)。

今年は「江戸糸あやつり人形芝居 結城座」さんとのお仕事もなさるそうで、「高村光太郎もファンだった結城座」とのご紹介。

ファンだったかどうか当方は存じませんが、確かに光太郎、詩の中で座長の九代目結城孫三郎を登場させています。昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表した「のつぽの奴は黙つてゐる」。特異な詩です。

    のつぽの奴は黙つてゐる

『舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割かた持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちやあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の余興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
ステユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。

何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。

詩は昭和5年(1930)の作ですが、語られている場面はそれより2年前の昭和3年(1928)4月16日、東京会館で開催された、父・光雲の喜寿記念祝賀会です。

昨年、雑誌『美術新論』第3巻第5号(昭和3年=1928 5月)にその際の写真が掲載されているのを見つけ、智恵子も写っていたことに仰天しました。結婚後の智恵子が写った写真は10葉たらずしか確認できていませんでしたので。
017
018
2週間ほど後に、渡辺さんとお会いする予定がありますので、結城座さんのお話を伺っておこうと思います。

明日以降、これも溜まってしまった新刊書籍等を紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家にとつては何といつても彫刻材を入手した時ほど心からうれしい事はありません。実に愉快に存じます。


昭和21年(1946)7月29日 東正巳宛書簡より 光太郎64歳

東正巳は三重県在住だった詩人、編集者。光太郎は東を通じて西村之雄という人物から椿の木材を入手し、その礼状の一節です。しかし、結局、花巻郊外旧太田村での7年間で、作品として発表した彫刻は一点も作られませんでした。

一昨日の『東京新聞』さん、社説欄に光太郎の名が。

<社説>週のはじめに考える 「おまかせ」が過ぎると012

 正直、「回っていない方」にはあまり明るくないのですが、白木のカウンターでいただくような高級な寿司(すし)店でよく採用されているのが、「おまかせ」という注文の仕方です。注文といっても、おまかせですから、どんな寿司が、どんな順番で出てくるかは寿司職人の胸一つ。旬を考え、ネタを吟味し、客の食べるペースにも気を配って「はい、トロです」などと順次、供してくれる仕組みです。
 こうした「おまかせ」を創始したのは、戦前戦後と東京で活躍した藤本繁蔵という寿司職人だといいます。何年か前のNHKの特集番組で初めて知ったのですが、白木のカウンターの採用も、この人を嚆矢(こうし)とするとか。高級寿司店ばかりを渡り歩いて「天才」の名をほしいままにし、多くの著名人らの舌もとりこにした伝説の職人だったようです。
◆「自分で決める」から解放
 その「おまかせ」は寿司を出す順番、いわば構成の妙も含めて職人の力量が問われるわけですが、味覚も食材の知識も覚束(おぼつか)ない者にとっての“利点”は「自分で決める」からの解放かもしれません。「こんなものを頼んだら季節外れだと笑われないか?」などとびくつかずにすみますから、心穏やかに、職人が技を凝らした一貫一貫を味わえるというものです。
 寿司だけでなく、和洋中どの料理にもある「コース」も同じ。いちいち何を、どんな順番で注文するか自分で決めなくてよい。それが客をして「コース」を選ばせる理由の一つではないでしょうか。
 考えてみると、外食に限らず、私たちは暮らしのいろんな場面で「おまかせ」に浸っています。極端なことを言えば、自動ドアだってそうですが、デジタル時代の当節はなおさら。リポートなどの作成で頼りにする人も増えているらしい生成AI(人工知能)こそ、「おまかせ」の極致でしょう。
 もっと身近なところでは、例えば道案内です。特に地理的に詳しくない場所に行く時など、経路の選択は、ほぼ全面的にスマホなどの地図アプリに「おまかせ」という人が今や多数派かと。代表詩の『道程』で<僕の前に道はない>とうたった高村光太郎は、既に目の前の画面にある道を従順に進む<僕>たちを見て、さて、泉下で何を思っているでしょう。
◆まれに見る「選挙イヤー」
 道の選択といえば、今年、2024年は、まれに見る「選挙イヤー」です。台湾総統選は今月、既に終わりましたが、2月にインドネシア大統領選、3月にロシア大統領選があり、4月には韓国、4~5月にはインドで総選挙が予定されています。そして11月には米大統領選が。結果いかんでは、動揺が世界中に及ぶでしょう。
 そして、わが国でも今年は、衆院の解散・総選挙の可能性が高いとみられています。派閥パーティーの裏金問題で大揺れ、岸田内閣の支持率も急落する中、自民党は9月末で任期満了の総裁選を前倒しし、「党の顔」をすげ替えた上で総選挙に臨むのではないか-といった観測も飛び交っています。
 その場合、懸念されることの一つが、低投票率。ただでさえ衆院選は過去4回連続で60%に届かなかったのに、裏金問題などで増大した政治不信がさらに足を引っ張る恐れがあります。でも、国の進む道を左右する大事な選択の機会です。ここは、さすがに「おまかせ」はまずい。寿司でいうなら、自分の胃袋とよくよく相談し、本当に自分が食べたいネタを自分で決めなくてはなりません。
 「政治的無関心」とは、日本や世界の命運を誰かに「おまかせ」にすることでしょう。確かに、政治的な出来事をフォローし、考えを深めるのは面倒といえば面倒です。でも、恐れるのは、その面倒を省き「おまかせ」に慣れきってしまううちに、自分で考え、自分で決めるという回路が錆(さ)びついてしまわないか、という点です。
◆錆びつく思考回路、記憶
 元日に発生した能登半島地震でもそうでしたが、災害時には携帯電話が使えなくなることが少なくない。しかし、やっと公衆電話をみつけ、いざかけようとしたら、家族や友人の電話番号を覚えていないことにはたと気づく…というのは、いかにも現代人に起こりそうなことでしょう。そう。電話番号の記憶をスマホに「おまかせ」にするうち、私たちの記憶は錆びついてしまうのです。
 さて正月も暮れていきますが、年始につきものの「福袋」こそ、「おまかせ」の典型でしたね。中身が分からない点がみそですが、あれは価格より価値の高い商品が入っているのが前提で、だからこその「福」のはず。でも選挙の場合は違います。「おまかせ」の袋から「福」が出てくることはまずないと考えるべきでしょう。

何が出てくるかのワクワク感や、ルーティンにこだわっていては得られない意外性といったものを楽しみたいのなら「おまかせ」も悪くはないと思います。また、いろいろ考えて組み合わせるのが面倒だったり、お店の人に手間をかけるのが申し訳ないと思ったりの場合。例えば当方、コンサート等によく持参するのですが、アレンジフラワーやら花束やら。また、お菓子の詰め合わせなどもそうでしょう。既成のものを頼んでしまった方が自分にとっても、お店にとっても、圧倒的に楽ですね。

しかし、後半にあるとおり、政治の世界での「おまかせ」は駄目ですね。ところがそれがまかり通っているのが現状でしょう。「「○○党」という字しか書けない」と公言し、思考停止に陥っている輩の何と多いことか。

それにしても、最後の方に挙げられたスマホの電話帳の例にはドキリとさせられました。といって、今さら紙のアドレス帳というわけにもなかなかいきませんし……。

たしかにこうした現代人のライフスタイル、泉下の光太郎はどう見るかと考えさせられますね。

【折々のことば・光太郎】

御帰還後も御無事でお過ごしの事と存じます、ますます御元気で進んでください。小生東北の山間で頗る元気に健康にやつて居ります。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

大木は大正2年(1913)生まれの詩人。光太郎は戦時中の昭和18年(1943)、大木の第三詩集『故郷』の序文を頼まれて書いています。

この時期の「帰還」はイコール「復員」だろうと思って調べたところ、やはりそうでした。何と召集されたのは結婚3ヶ月後だったそうでした。

大木や、当会の祖・草野心平などは無事だったクチですが、光太郎と交流があった文学者たちの中には、高祖保など戦場の露と消えた人々も。そういう報せも届き始めていたと思われます。

昨日は茨城県北茨城市の天心記念五浦美術館さんにお邪魔しておりました。
PXL_20240128_022500058
こちらで開催中の「天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道」展拝観のためです。
PXL_20240128_030144577
PXL_20240128_030159896
PXL_20240128_030210070
先月開幕し、気にはなっていたのですが、最近になって光太郎の父・光雲関連の出品物があるということを知り、馳せ参じた次第です。
004
005
新納忠之介(明治2年=1869~昭和29年=1954)は、東京美術学校で光雲に学び、卒業後は3年ほど母校の教壇に立った後、岡倉天心の美術学校事件に連袂辞職、奈良で日本美術院第二部の院長に就任し、仏像修理のスペシャリストとして活躍しました。

新納の子孫から関連資料2,000点あまりが寄贈され、その中から主に奈良の仏像修復に関わるものなどが展示されています。

ちなみに今回展示されては居ませんが、寄贈資料の中には光太郎から新納宛の『高村光太郎全集』未収録葉書が一通、さらに光雲(20通ほど)、光太郎実弟・豊周(1通)から新納宛の書簡が含まれており、一昨年の夏に閲覧に伺いました。

今回展示されている光雲関連のうち、メインは「「日本木彫の技術」木寄法 第参図」。大正15年(1926)のもの。美校で光雲が仏像の寄せ木造りの手法を講義する際に使ったと思われる青写真です。
PXL_20240128_023132836
PXL_20240128_023152812 PXL_20240128_023145658.MP
PXL_20240128_023205183 PXL_20240128_023211587.MP
PXL_20240128_023309679
PXL_20240128_023315173
PXL_20240128_023325803
大正15年(1926)といえば、新納は既に奈良に移っていますが、後進の指導にでも使うためでしょうか、譲り受けたと推定されます。

光雲作の仏像等も、大きなものは寄せ木造りで出来ており、代表例の一つが信州善光寺さんの仁王像。そういえば、そちらの制作に当たって奈良東大寺さんの金剛力士像も参考にされていまして、その調査には新納も協力、髙村家には新納から送られた金剛力士像の資料も現存し、一昨年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」などで展示されました。

寄せ木造りといえば、明治中頃の「楠公銅像」木型もそうでしょう。制作は美校総出で行われ、新納も参加しました。そこでその際の集合写真も出ていました。
PXL_20240128_023228856.MP
PXL_20240128_023301030
あちこちで見かける写真ですが、新納も写っているとは存じませんでした。
PXL_20240128_023256951
PXL_20240128_023244855
その他、やはり集合写真類で光雲が写っているものが数葉。常設展的な「岡倉天心記念室」での展示にもそれがありました。
006
007
さて、企画展詳細。

天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道

期 日 : 2023年12月9日(月)~2024年2月12日(月・振休)
会 場 : 茨城県天心記念五浦美術館 茨城県北茨城市大津町椿2083
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般320(260)円/満70歳以上160(130)円/高大生210(150)円/小中生150(100)円
      ※( )内は、20名以上の団体料金

 新納忠之介(にいろちゅうのすけ)(1869-1954)は、東京美術学校を優秀な成績で卒業し、岡倉天心の強い勧めにより、文化財の修理に生涯を捧げた人物です。明治31(1898)年、岡倉天心が創設した日本美術院に参加後、多くの仏像修理に携わり、天心の推進した文化財保護行政の一翼を担いました。また、天心没後には、日本美術院の国宝修理部門が「美術院」と改称して独立し、新納はその中心を担いました。
 それまで確立した修理法が無かった仏像修理において、新納は試行錯誤を重ね、現状維持を基本とする新たな修理法を確立させました。その技術は今日まで引き継がれています。
 本展覧会では、修理図面や研究ノート、書簡といった新納忠之介旧蔵資料の他、新納が模刻した仏像等の彫刻作品も展示します。これらの品を通して、天心の目指す文化財保存の道をひたすらに歩んだ新納の業績を紹介します。
001
002
003
ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑のものいろいろ作って食べてゐます。こちらでも米の欠配がありましたが、東京よりはまだいいでせう。山には何かしらたべるものがあります。小生健康。

昭和21年(1946)7月28日 蔵石徳太郎宛書簡より 光太郎64歳

蔵石は、前年の空襲で全焼してしまった本郷区駒込林町25番地の光太郎自宅兼アトリエの隣人の植木屋でした。アトリエ地所は蔵石からの借地でした。

光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

新春特別展 新春工芸名品展

期 日 : 2024年1月5日(金)~3月9日(土)
会 場 : 敦井美術館 新潟市中央区東⼤通1-2-23 北陸ビル1F
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 日曜・祝日
料 金 : 一般500円 大高生300円 中小生200円 団体割引・20名以上

新春を寿ぎ、吉祥文の工芸作品を中心に、干支や富士山などお正月にふさわしい絵画を展示いたします。
無題2
無題3
光雲の作品は「木彫 ちゃぼ」。同館サイトの「収蔵作品」に画像がありました。
無題
宮内庁三の丸尚蔵館さん収蔵のものとよく似ています。ただし三の丸尚蔵館さんのものは雌雄のつがいですが、こちらは雄鶏単体。明治22年(1889)の作で、一般人から注文を受けて制作したものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その辺りの経緯、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。

無題4
もう一つ、別の「矮鶏」があったとは存じませんでした。光雲の場合、同一図題の木彫を複数制作することはよくあるのですが。

それにしても敦井美術館さんの出品目録に「明治22年(1889)」とあり、これは三の丸尚蔵館さん収蔵のものと同じ年です。『光雲懐古談』には同じ年にもう一体彫ったという記述はなく、どういうことなのかな、という感じです。画像で見る限り間違いなさそうなものなのですが……。

他の出品物、彫刻では光雲高弟の一人・山崎朝雲の「大黒天」、日本画では横山大観や前田青邨、洋画で梅原龍三郎、陶芸には宮川香山、富本憲吉などビッグネームが並んでいます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昼間は九十度以上にのぼる日もたまにありますが、夜は七十度位に下がります。蚊が夜は少いので蚊帳はつりません。蚊えぶしだけでねます。


昭和21年(1946)7月27日 椛沢ふみ子書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の夏。「九十度」「七十度」は華氏ですね。現在一般的な摂氏に直すとそれぞれ33℃、21℃ほどです。

昨日はふと時間が出来まして、隣町の成田市に行っておりました。細かく言うと、市の南部、成田空港を擁する三里塚地区。かつて宮内庁の旧御料牧場があった場所です。関東大震災後、そこからほど近い場所に第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。

御料牧場の跡地の一角に整備された三里塚記念公園に、「春駒」を刻んだ詩碑が昭和52年(1977)に建立されていまして、何度も拝見に伺ったのですが、最近になってその近くに別のオブジェがあることを知りました。

それがこちら。
PXL_20240126_045601477
空港関連施設の高いコンクリート壁、100㍍ほどにわたって描かれた壁画。地元の方々の手になるもののようです。

その1枚目が、「春駒」。隣町に住んでいながらこういうものがあったというのを全く存じませんで、汗顔の至りでした。
PXL_20240126_045504483
PXL_20240126_045525811 PXL_20240126_045525811
PXL_20240126_045514834 PXL_20240126_045514834
先述の詩碑にも使われた光太郎自筆原稿を写したものです。

これが1枚目で、このあと、「むかしの三里塚」ということで戦前からの御料牧場が描かれた壁画がずらっと。まさに光太郎も目にした風景です。
PXL_20240126_045446764
PXL_20240126_045440082
PXL_20240126_045433656
PXL_20240126_045421743.MP
PXL_20240126_045414763
PXL_20240126_045406504
PXL_20240126_045354475
PXL_20240126_045346175
PXL_20240126_045338720
PXL_20240126_045332176
PXL_20240126_045320470
PXL_20240126_045224491
PXL_20240126_045214531
PXL_20240126_045205477
この後は現代の三里塚を描いた作品など。そちらは割愛させていただきます。

いつ頃描かれたものか明記はされていないのですが、近くの小学校を描いた絵のキャプションに「平成四年四月、七〇〇名、二一学級の児童が学んでいます」とあるので、その頃と思われます。

近くまで来ましたので、「春駒」詩碑も久しぶりに拝見。一昨年、やはり近くの三里塚コミュニティセンターさんで開催された「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展」を観に行った時は、上記画像の貴賓館が改修工事中で詩碑のある一角にも立ち入れませんでした。
PXL_20240126_050149757
すっかり冬枯れて箒になっていますが、並木はパリ時代に光太郎が愛したマロニエです。

以前は詩碑まで勝手に行けたのですが、今は敷地内の御料牧場記念館さんの方にお願いして柵を開けていただくようになっていました。ちなみにやはり同じ敷地内のやんごとなき方々のための防空壕も同じ扱いです。
PXL_20240126_050907872
貴賓館。改修工事もすっかり終わっているようで。

ここの庭のような一角に、葉舟の歌碑(左)と「春駒」詩碑(右)が並んで(といっても少し離れていますが)立っています。
PXL_20240126_050842278
葉舟歌碑には短歌「我はもよ野にみそぎすとしもふさのあら牧に来て土を耕す」が刻まれています。昭和29年(1954)、元々光太郎が揮毫する予定で一度は承諾したのですが、健康状態がすぐれず、代わりに窪田空穂が筆を揮いました。

そして「春駒」詩碑。
PXL_20240126_050646401
PXL_20240126_050705088
ブロンズパネル制作は西大由、光太郎実弟にして鋳金家だった豊周の弟子筋です。花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの「雪白く積めり」詩碑パネルも西の手になるものでした。

碑陰記の筆跡は当会の祖・草野心平。
PXL_20240126_050723224
何度も訪れた場所ですが、昭和52年(1977)の除幕の際にはここに西や当会顧問であらせられた故・北川太一先生、葉舟子息にして光太郎とも交流のあった元総務庁長官の故・水野清氏なども列席されたのだな(心平は欠席)と思うと、感慨深いものがありました。
001
このあたり、昔から桜の名所です。その頃にぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

肋膜だつたとは驚きました。十分によく治してしまつて下さい。此頃は若い人のかかる病気に年輩の者もかかるやうです。脂とタンパクの不足の為かも知れません。

昭和21年(1946)7月15日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の光太郎から三里塚の葉舟へ。光太郎が山村での独居自炊を決心した陰には、親友の葉舟が開墾生活を送っていたことの影響も考えられます。他にも辺境で活動していた友人知己は少なからずいましたが。

その葉舟、約半年後に肋膜炎でこの世を去ります。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)」の立つ、青森県十和田市からイベントの復活情報です。

第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう

期 日 : 2024年2月2日(金)~2月25日(日)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

 1998年度に十和田湖畔で誕生したイベント「十和田湖冬物語」が、今年で26回の開催を迎えました。
 今年は屋台村「雪灯り横丁」が4年ぶりに復活します。また、毎年好評の「冬花火」や、県境を跨ぐエリアの特徴を活かした冬の国境まつりなど、冬の十和田湖をお楽しみいただけるコンテンツをご用意しております。
 その他にも、冬ならではのアクティビティや、期間限定の食魅力などが追加される予定です。詳細が決まり次第、公式HPにて公開いたします。
 当イベントを通して、閑散期の集客を促進し、観光施設やサービスの利用増加に繋げて、地域を盛り上げていきたいと考えております。
012
016
冬花火 19:30打ち上げ(音楽と花火ショープログラム5分程度)
厳しい冬の澄み切った夜空だからこその「冬花火」。木曜〜月曜まで、音楽と花火がシンクロした花火ショーが行われます。
013
雪灯り横丁 17:00~20:00
コロナの規制がなくなり屋台村「雪灯り横丁」が4年ぶりに復活します!わいわい楽しい屋台料理をお召し上がりください。
014
冬の国境まつり
青森・秋田・岩手の北東北三県の芸能のパフォーマンスを毎週末開催。
015
スノーアクティビティの充実
好評の滑り台やスノーランプなどのほか、雪でつくった特別観覧シート、連携事業者によるバナナボートなど。
017
このイベント、平成10(1998)年度に始まり、永らく湖畔休屋地区での屋台村を中心としたイベントでした。当方、平成25(2013)年度平成29(2017)年度と、2回、お邪魔いたしました。その後、スタイルが変わり、令和2(2020)年度と翌令和3(2021)年度はイルミネーションが中心に。当方、2度目の際に行って参りました。それぞれ「乙女の像」のライトアップが為されていました。

そのままイルミネーション系のイベントとして続くのかな、と思っておりましたところ、昨年度はウォーキングのイベントがあった程度で「あらら……」という感じでしたが、今年度、また屋台村を中心とした昔のスタイルに戻して実施とのこと。「乙女の像」のライトアップもまた為されるやの情報も得ております。

JRさんのバスが八戸から、そおれとは別に十和田市街から「十和田湖アクセスバス」というのも出ているそうです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

一昨日は東京でよく食べに行つたトンカツヤの主人がだしぬけに訪ねてきたので驚きました。秋田の温泉に行つたかへりとの事。コーヒーとサツカリンをもらつて久しぶりにカフエノワールを賞味しました。


昭和21年(1946)7月12日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

終戦からおよそ1年、世の中もだんだん落ち着いてくると、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に昔の知り合いがぽつりぽつり訪れるようになりました。

「トンカツヤ」は三河島の「東方亭」。光太郎戦前からの行きつけの店でした。そこの長女・明子は医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりしました。
018

新聞各紙から2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手の『岩手日報』さんから。1月13日(土)に出た「岩手とロダン“考える”」という記事を受けてのコラムです。

展望台 高村光太郎のアイドル

 「知らないグループが増えたな~」
 大みそかのNHK紅白歌合戦。ここ最近、冒頭のつぶやきの方が恒例となりつつある。そんなワタシでも注目したのは、音楽ユニットYOASOBI(ヨアソビ)の大ヒット曲「アイドル」だった。
 子どもから大人まではまるキャッチーで中毒性のある曲調。ビルボードのグローバルチャート(米国を除く)で日本語曲として初めて1位を獲得するなど、とにかく世の中を席巻した。
 時をさかのぼること100年前、同じく日本中を席巻したのがフランスの彫刻家ロダンだった。ブームの火付け役となったのが、花巻市ゆかりの高村光太郎。本県では花巻へ疎開した後の山小屋(高村山荘)暮らしのイメージが強く、最初は結びつかなかった。だが興味を持ち調べると、面白い話がいくつもあった。
 20代からロダンの造形に傾倒した光太郎、1908(明治41)年にはフランスのロダン邸を訪ねた。本人は不在で夫人に待たせてもらったが、部屋にある素描にすら参ってしまい、逃げるように帰ったという。
 光太郎は帰国後、知りたいロダンの秘密、これこそ私なりの愛、とばかりに対話録の翻訳に取りかかり、16(大正5)年に「ロダンの言葉」として出版。光太郎にとって、まさにロダンは完璧で究極のアイドルだったのだろう。
 現在、ロダンの代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示中。台座を含めると高さ3㍍を超え、想像よりも大きい。誰も彼もとりこにした造形の美しさを、ぜひ間近で見てほしい。


光太郎がロダン邸を訪れたのは確認できている限り2回ありました。最初は明治40年(1907)11月、当時ロンドンにいた光太郎がパリの荻原守衛の元を訪れ、パリ郊外ムードンのロダン邸を一緒に訪れました。しかし、ロダンは留守。妻のローズ・ブーレはパリ市内のアトリエに廻るよう勧めましたが、光太郎がロンドンに帰る時間の都合であきらめたと、守衛からロダン宛の書簡に記されています。

2度目は年月日がはっきりしません。ロンドンを引き払ってパリに移り(明治41年=1908 6月10日)、帰国の途に就く(明治42年=1909 5月)までの約1年の間であることは間違いありませんが。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」(昭和26年=1951)に次の一節があります。

 ロダンには熱中していたけれど、やはり訪問する気にはなれなかつた。訪問客が多くて困るだろうということも察しられたし、それを無理おしして出かけてゆく神経の太さもなかつた。アトリエの外を通つたり、展覧会でも遠くからロダンの姿を見かけるといつた程度だつた。ある日曜日、有島、山下などの諸君の発意で、多勢でロダンのムードンのアトリエに行つてみようということになつて、僕もついて行つたが、ロダンは留守だつた。奥さんがロダンの部屋に案内してくれた。扇の地紙の形をした大きな机があつて、要のところに椅子がある。僕はロダンの椅子に腰かけ、床の上にうず高く積み重ねてあるたくさんのデツサンをあかず見た。一枚一枚台紙に貼つて整理されている無数のデツサンを次々に見ていると、実に威圧される感じだつた。庭に出ると、ちようど白い布をグルグル巻いてバルザツクの像が立つていた。布でつつんであつても、大きな量塊の感じが強く出ていて、今でもそれが印象にのこつている。

「有島」は有島生馬、「山下」は山下新太郎です。展覧会でせっかく姿を見かけたロダンにも声をかけずじまい。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあったのですが、それよりも「自分はまだ何者でもない」という気後れのようなものが先に立っていたのではないでしょうか。

もう1件、過日、ちらっとご紹介した岡山出身の詩人・永瀬清子のからみで、『毎日新聞』さんの岡山版から。

 日々の暮らし つむぐ言葉 赤磐出身の詩人、永瀬清子 来月17日 無料朗読会 ピアノの弾き語りも /岡山

012 岡山県赤磐市は、市出身の詩人で「現代詩の母」ともいわれる永瀬清子(1906~95年)を広く知ってもらおうと2月17日、市くまやまふれあいセンター(同市松木)で朗読会「永瀬清子の詩の世界~貴方がたの島へ」を開く。
 永瀬は2歳までを現赤磐市で、その後は父親の転勤や結婚のため金沢や名古屋、東京で過ごした。学生時代に始めた詩作は結婚後も続け、昭和初期には高村光太郎や宮本百合子らに認められるなど、当時随一の女性詩人の一人となった。
 45年、戦況の悪化に伴い帰郷し、農業をしながら結婚生活や子育て、古里を詩に詠んだ。後進の指導にも情熱を傾けた。
 朗読会は赤磐市が毎年、永瀬の誕生日で命日でもある2月17日前後に開いている。副題「貴方がたの島へ」は、岡山県瀬戸内市・長島にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」に通い、約40年間にわたって詩を指導した永瀬が入所者への思いをつづった詩の題名。
 当日は市民による詩の朗読などのほか、シンガー・ソングライターの沢知恵(ともえ)さん(52)による「永瀬清子とハンセン病療養所」と題したピアノの弾き語りコンサートもある。
 沢さんは音楽活動の傍ら、永瀬と同じように長年、瀬戸内のハンセン病療養所に通っている。2014年に岡山市に移住し、岡山大大学院でハンセン病療養所の音楽文化を研究した。永瀬の詩に曲をつけた楽曲や、ハンセン病患者の隔離の歴史に関する著書もある。 主催者の一つで「赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会」の担当者は「多感な青春時代、結婚の戸惑い、子育ての悩みなどそれぞれの人生のステージで、自分の気持ちを代弁してくれているように感じられる永瀬の詩の魅力を知って欲しい」と話している。
 午後1時半~4時。入場無料だが、事前申し込みが必要(先着順)。問い合わせ・申し込みは市教委熊山分室(086・995・1360)


いつもながらに赤磐市さんの永瀬清子顕彰の取り組みには頭が下がります。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今胡瓜が伸びるさかり、ゑん豆、いんげんは実をつけ、トマトは蕾、茄子も蕾、南瓜は成長の途中、葱は仮植、稗は雑草のやうに繁つてゐます。時無大根や山東菜などは既に賞味、とりたての美味に感嘆しました。ジヤガが秋にどの位とれるかたのしみです。


昭和21年(1946)7月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住し、生まれて初めて取り組んだ農作業も、そこそこ成果を上げているようです。行き当たりばったりや思いつきなどではなく、文献等でしっかり研究し、さらに村民に謙虚に教えを請うてちゃんと計画を立てるという姿勢が成功の要因でした。数年後に近くの開拓地に入植した元軍人はまったくの我流を押し通そうとし、村人の忠告に一切耳を傾けず、結局、うまくいかずに撤退しました。

当時の光太郎が書いた「農事メモ」というノートが残っています。
002
001

新刊です。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻

2023年11月30日 小田原のどか著 制度社青土社 定価4,200円+税

破壊される瞬間に、彫刻はもっとも光り輝く
彫刻を「思想的課題」と自らに任じ、日本近現代の政治・歴史・教育・芸術そしてジェンダーを再審に付す。問い質されるは、社会の「共同想起」としての彫像。公共空間に立つ為政者の銅像が、なぜ革命・政変時に民衆の手で引き倒される無残な運命に出遭うのか――。画期的かつ根源的な思索の書。
001
目次
 プロローグ
 1部 彫刻をめぐって
  1.彫刻という名前
  2.われ記念碑を建立せり――「水俣メモリアル」を再考する
  3.彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく
  4.不可視の記念碑
  5.モニュメント・マスト・フォール?――BLMにおける彫像削除をめぐって
  6.彫刻とはなにか――「あいちトリエンナーレ2019」が示した分断をめぐって
  7.女性裸体像はいつまで裸であらねばならないのか?
  8.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか?
  9.箱(キューブ)をひらく――ジャコメッティの彫刻とコレクション/
キューレイション/エキシビジョン
  10・三島由紀夫への手紙
 2部 固有の場所から
  1.爆心地の矢印[長崎]――矢形標柱はなにを示したか
  2.この国の彫刻のために[長崎]
  3.彫刻を見よ[東京]――公共空間の女性裸体像をめぐって
  4.拒絶から公共彫刻への問いをひらく[福島]
ヤノベケンジ《サン・チャイルド》撤去をめぐって
  5.被爆者なき後に[広島]――広島平和記念資料館
  6.“私はあなたの「アイヌ」ではない”[白老]――ウポポイ(民族共生象徴空間)
  7.「過去」との絶え間ない対話のために[韓国]――《平和の女子像》をめぐって
  8.旧多摩聖蹟記念館[東京]――台座の消失と彫刻/彫塑のための建築
 3部 時代との共鳴
  1.ウェブ版「美術手帖」ファイル
   1.ナガサキのあとに彫刻は作れるのか――「森淳一 山影」
   2.共産主義と資本主義の裂け目で――
The Nature Rules 自然国家:Dreaming of Earth Projects
   3.彫刻という困難――小谷元彦「Tulpa-Here is me」
   4.なぜ女性の大彫刻家は現れないのか? Ⅱ――青木野枝「霧と山」
   5.私たちは何を学べるのか?――「表現の不自由展・その後」評
   6.公共建築から芸術祭へ――到達/切断地点としての「ファーレ立川」
   7.美術史という「語り」を再考する――コレクション特集ジャコメッティと Ⅱ
   8.名の召喚――柳幸典展
   9.「傷ついた風景の向こう」に見えるもの――
DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに
   10.帰宅困難と自宅待機――Do'nt follow the Wind
   11.コロナ禍は美術館に何をもたらすか?
――『ラディカル・ミュゼオロジー』『美術館の不都合な真実』を手がかりに
   12.女性器が「選ばれない」世界で――遠藤麻衣×百瀬文 新水晶宮
   13.「歌う」から「語る」へ――彼女たちは歌う Listen to Her Song
   14.「個」と「公」を仲立ちし、たぐり寄せる。――加藤翼「Supersturing Secrets」
   15.マテリアル・マテリアリズム・マテリアリスト
――カタルシスの岸辺「光光DEPO」
   16.相次ぐ告発、美術業界の変化のただ中で――居場所はどこにある?
  2.「東京新聞」ファイル
   1.彼女たちは歌う
   2.アイヌの美しき手仕事
   3.性差(ジェンダー)の日本史
   4.石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか
   5.小泉明郎+オヤマアツキ「王の二つの身体」
   6.シアターコモンズ/第13回恵比寿映像祭/TPAM
   7.アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド――建築・デザインの神話
   8.女が5人集まれば皿が割れる
   9.膠を旅する――表現をつなぐ文化の源流
   10.白川昌生展 ここが地獄か、天国か。
   11.山城千佳子リフレーミング
   12.ロニ・ホーン――水の中にあなたを見るとき、あなたの中に水を感じる?
   13.Vira Video!――久保田成子展
   14.イミグレーション・ミュージアム・東京多国籍美術展
  3.ぐるぐるキョロキョロ展覧会記――『芸術新潮』ファイル
   1.コレクションを活かす/隠す
   2.越境者を照らす光――ヤン・ヴォーーヴ・ンヤ
   3.“世界初”の国際芸術祭は新たな基準となるか
――ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOW――光の破片を捕まえる」
   4.選べない私を選ぶ
――鴻池朋子 ちゅうがえり ジャムセッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子
   5.名品という視座を味わう――もうひとつの江戸絵画大津絵
   6.排除と収奪の日本史――性差(ジェンダー)の日本史
   7.サイレンスを見つめる――ミヒャエル・ボレマンス マーク・マング
――ダブル・サイエンス
   8.希代のプロモーターの原点を知る――式場隆三郎「脳室反射鏡」
   9.幻視者(ヴィジョナリー)が問いかけるもの
――平成美術:うかかたと瓦礫1989-2019
   10.どっちだと思う?――アネケ・ヒューマン&クミ・ヒロイ、
潮田登久子、片山真理、春木麻衣子、細倉真弓、そして、あなたの視点
   11.時の可能性と対峙する――3.11とアーティスト:10年目の想像
   12.歴史の編み目をくぐり抜ける――
ホーツーニェンヴォイス・オブ・ヴォイド――虚無の声
   13.風穴を開け、空気を入れ換える
――SIDE CORE presents EVERY DAY HOLIDAY SQUAD soloexbition"underpressure"
   14.差異に宿るエナジー――アナザーエナジー展:挑戦し続ける力
――世界の女性アーティスト一六人
   15.破滅と熱狂、その先に――加藤翼 縄張りと鳥
   16.残/遺されたものを見る――Walls & Bridges 世界にふれる 世界を生きる
   17.むき出しの写真と対峙する――
ユージン・スミスとアイリーンスミスが見たMINAMATA
   18.背後の戦争画――3.11とアーティスト小早川秋声 旅する画家の鎮魂歌
   19.「3.11から一〇年」の影に
――せんだいメディアテーク開館二〇周年展 ナラティブの修復
   20.開かれた「フェミニズム」へ向かって
――ぎこちない会話への対応策――第三波フェミニズムの視点で
   21.地球を感知する場――池内晶子あるいは、地のちからをあつめて
   22.「人類よ消滅しよう」――生誕一〇〇年 松澤宥
   23.稀有な複数性の発露 Chim↑Pom展
   24.未然の迷宮――森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
   25.版画に宿る抵抗の精神――彫刻刀が刻む戦後日本
   26.見ること、極限の問い――ゲルハルト・リヒター展
   27.交差点としての美術展――アーティスト支援プログラム
 あとがき


目次を書き写すだけで疲れました(笑)。

彫刻等の実作のかたわら、この手の文筆活動を盛んに行われている小田原のどか氏の評論集です。目次にあるとおり、あちこちに発表されたものの集成で、雑誌『群像』2020年7月号に載った「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎からの回路をひらく」他、ところどころで光太郎に触れて下さっています。

先週末、『朝日新聞』さんに書評が出ました。

モニュメント原論 思想的課題としての彫刻 小田原のどか〈著〉 平和プロパガンダと女性裸体像

 この国には街や公演の随所で女性の裸体像が立っている。なぜ「裸の女」なのか。本書によると、日本の公共空間に「平和」を冠するその第一号がお目見えしたのは1951年のこと。東京・三宅坂に「平和の群像」と題された三体の彫刻が設置された。同じ台座には、戦時中には軍閥の力の象徴として「寺内元帥騎馬像」が置かれていた。
 ところが戦時中の物資不足で騎馬像が金属回収されると台座だけが残される。そこに戦後、当時の電通社長、吉田秀雄の指針で「軍服を脱ぎ捨てた『三美神』」を建立し、新生日本の平和と自由を「広告宣伝とタイアップの彫刻」により広く演出したのだ。著者はそこに連合国軍総司令部(GHQ)が関与した可能性についても触れている。
 街中に氾濫(はんらん)する女性の裸体像は、この平和の宣伝戦略(プロパガンダ)が行き届いた結果だった。だが、そのことで起源は忘れられる。「彼女」たちは「無言」で「立つなら幾千年でも黙って立ってろ」(高村光太郎)と命じられるしかなかった。しかし忘れてはならない。先の騎馬像の作者は現在、長崎の「平和公園」にそびえる「平和祈念像」と同じ彫刻家、北村西望で、筋骨隆々な裸体の巨人像は力の顕現そのものに見える。先に新生日本と書いたが「ここに『新しさ』はない。むしろ、分かつことのできない戦時との連続性がある」――そう著者は書き「戦後日本の彫刻を考えるうえで、長崎は最も重要な場所」と断言する。
 戦後、日本に「自由と平和」をもたらしたのは、歴史的に言えば「敗戦と占領」にほかならない。ゆえに著者はこの国に氾濫する女性裸体像を「戦後民主主義のレーニン像」と名付ける。そしていつか、それらが引き倒される時が来るかもしれないことに思いを馳(は)せ、長崎に、広島に、水俣にあるモニュメントに「無言」ではなく「応答」しようとし、あえてこれらの「彫刻を見よ」と呼びかけるのだ。
評・椹木野衣 美術評論家・多摩美術大学教授

近年、公共の場に設置された彫刻作品についての論考等がちょっとした流行りになっていますが、平瀬礼太氏などともに、小田原氏もその急先鋒のお一人ですね。

彫刻の場合、同じく昔からある美術作品でも、絵画との大きな相違点の一つがこの辺りにあるような気がしています。絵画でも戦時中の藤田嗣治らの戦争画、戦後も各地に設置された巨大壁画的なもの、或いは大きくないものでもバンクシーの作品群など、プロパガンダ性、メッセージ性を色濃く持つものも存在しますが、3Dの表現である彫刻の方がそうした性格を色濃く持たざるを得ないと感じています。「屋外」ということも大きいと思われます。肖像画が屋外に出ることはめったにありませんが、肖像彫刻は銅像として乱立していますし。

とにもかくにも、ご興味おありの方、お買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

右掌の切開手術をうけに花巻病院長邸に起居。六月末やうやく全治、十日程前に帰つて来ました。右手で文字が書けるやうになつたのも昨今です。畑が遅れ、今大多忙です。


昭和21年(1946)7月7日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村で、生まれて初めての本格的な農作業を始めたところ、掌にできたマメが潰れて化膿し、手術まで受ける羽目になりましたが、ようやく完治。

しかしそのため5月16日から7月16日まで、まるまる2ヶ月、日記は書きませんでした。この間(またはやはり日記が欠けている9月21日~10月9日)に昨年国の重要文化財に指定された花巻市御田屋町にある「旧菊池家住宅西洋館」を訪れたのではないかと推定されます。

購入しようかするまいか迷ったのですが、結局、買ってしまいました。帯に光太郎の名を印刷されてしまいましたので(笑)。

大作家でも口はすべる 文豪の本音・失言・暴言集

2024年1月22日 彩図社文芸部編 彩図社 定価1,300円+税

 本書は、作家たちの本音や失言、暴言を集めたアンソロジーです。名作を生み出し、歴史に名を残した作家といえども、言葉選びを誤ることもしばしば。むしろ、必要以上に周囲を巻き込み、世間を騒がす問題に発展することもありました。
 師匠である佐藤春夫や井伏鱒二を作品内で皮肉って、大叱責を受けた太宰治。こき下ろした作家の弟子から決闘を申し込まれた、坂口安吾。雑誌の後記で、原稿料や各号の売れ行き、もうけの有無まで公開し続けた菊池寛。新聞社入社にあたり、教師時代の不満を新聞紙面にぶちまけた夏目漱石。「好きな人の夫になれないなら豚になる」と友人に漏らした、若き日の谷崎潤一郎……。
 収録したのは、明治から昭和にかけて活躍した、誰もが知る大作家の逸話。問題発言を含む随筆や手紙、日記、知人らの回想文などから、作家たちの言動を探りました。大作家による、人間味あふれるぶっ飛び発言の数々。楽しんで読んでいただけると、うれしく思います。
001
[目次]
 はじめに
 第一章 口がすべって大目玉をくらう
  一、佐藤春夫を皮肉って大目玉をくらう太宰治
  二、井伏鱒二を怒らせて平身低頭の太宰治
  三、兄を呆れさせて恐縮する太宰治
 第二章 酒が入ってうっかり失言
  一、酔ってついつい暴言が出る中原中也
  二、坂口安吾の破天荒な飲みっぷり
  三、酒癖が悪すぎて顰蹙を買いまくる漱石の弟子
  四、高村光太郎、酔ったせいか森鷗外を怒らせる
 第三章 原稿をめぐるいざこざ
  一、編集者と作家の攻防
  二、文芸の商業化に苦言を呈する佐藤春夫
  三、作家兼編集者たちの驚きの言動
 第四章 愚痴や文句が喧嘩に発展
  一、漱石の愚痴と癇癪
  二、夏目漱石対自然主義作家たち
  三、同業者をこき下ろす作家たち
  四、菊池寛に企画をパクられたと怒る北原白秋
 第五章 性愛がらみの問題発言
  一、谷崎潤一郎の自由過ぎる性愛
  二、軽はずみな発言を連発する芥川龍之介
  三、遊びのつもりが痛い目に合う石川啄木
 引用出典・参考文献

解説が長々書いてあるわけではなく、作家本人の作を抜粋で並べたいわゆるアンソロジーです。

光太郎に関しては、大正6年(1917)の「軍服着せれば鷗外だ事件」。明治30年代(1900年前後)、光太郎が東京美術学校在学中に美学の講師として同校の教壇に立ち、その頃から権威的な態度に反発心を抱いていた鷗外のことを、鷗外の居ない酒の席で茶化したというものです。いつの時代にもそういうことをチクる奴はいるもので、それが鷗外の耳に入り、鷗外激怒(笑)、光太郎を呼びつけて説教という流れです。

引用されているのはこの件に触れた、鷗外の「観潮楼閑話」二篇と、昭和13年(1938)に光太郎が川路柳虹と行った対談「鷗外先生の思出」の一節です。

一昨年、文京区立森鷗外記念館さんで開催された特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」の際には、鷗外に呼びつけられる前に光太郎が鷗外に宛てた新発見の書簡が展示されました。これも収録されていれば完璧でしたが、さすがにそこまでは手が廻らなかったようです。

他の「文豪」たちのクズっぷりもなかなか笑えます。そうかと思うと「いやいや、この発言はもっともだ」というものもあったりです。人間味溢れるこうしたエピソードに触れることで、彼らがより身近に感じられるのではないでしょうか。

ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

草野心平君が歴程社といふ書房を始め、小生の「猛獣篇」を一冊として出したいといつて来ました。これは草野君のこと故承諾する気です。


昭和21年(1946)7月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

中国から無事帰還した当会の祖・草野心平。早速、出版に情熱を燃やしていました。連作詩「猛獣篇」を一冊にまとめるという構想は戦前からありましたし、この書簡にあるように戦後にも持ち上がったのですが、結局実現したのは光太郎存命中ではなく、没後の昭和37年(1962)でした。

↑このページのトップヘ