書道関係のシンポジウム、オンラインでの開催です。

近代書壇の誕生―東アジア三地域の比較から―

期 日 : 2021年8月21日(土)
時 間 : 10時~16時30分 Zoomによるオンライン開催
料 金 : 無料
問 合 : 筑波大学芸術系 菅野智明研究室 TEL/FAX 029-853-2715

この度、近代東アジア書壇研究プロジェクト(代表者 菅野智明)では、下記の要領にて国際シンポジウム「近代書壇の誕生―東アジア三地域の比較から―」を開催いたします。
奮ってご参加ください。

書壇と称される書家たちのつながりは、それぞれの書家たちが結成・所属した種々の組織・団体を基盤とするところがあります。近代になると、書家たちは多岐にわたる組織・団体を活発に設立させますが、その動向は日本のみならず朝鮮や中国にも顕著で、地域によって独自色がうかがわれます。

このシンポジウムは、2018年に開催いたしましたシンポジウム「近代東アジアの書壇」の続弾として企画したもので、国立故宮博物院(台北市)の陳建志氏、国立中央博物館(ソウル市)の金昇翼氏の基調講演に加え、プロジェクトメンバー5名の研究発表と討議で構成いたしました。

今回は、前回のシンポジウムを踏まえつつ、近代に誕生した書壇そのものの研究に加え、それを生み出す背景にも留意しつつ、日本・朝鮮・中国の三地域における書壇形成のあり方を眺望しようと思います。

発表には日本語・韓国語・中国語それぞれの通訳があります。

プログラム:
研究発表 10時~12時
① 清末民初における書画社団の規約について 髙橋佑太(筑波大学准教授)
② 近代日本人書家の朝鮮書芸との邂逅 金貴粉(津田塾大学研究員)
③ 大阪市立美術館蔵「天発神讖碑」の一考察 下田章平(相模女子大学准教授)
④ 大字仮名表現における安東聖空と正筆会の役割 髙橋利郎(大東文化大学教授)
⑤ 中村不折と高村光太郎に見る六朝書道 矢野千載(盛岡大学教授)

基調講演 13時~15時
① 曾熙と向燊(1905-1929) 陳建志 氏(国立故宮博物院助理研究員)
② 韓国近代書画壇の形成と書画家たちの実相 金昇翼 氏(国立中央博物館学芸研究士)

討議 15時15分~16時30分
司会 菅野智明(筑波大学教授) 
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主催は筑波大学内の「近代東アジア書壇研究プロジェクト」さん。以前は同大の東京キャンパスにて、対面式での開催でした。

「中村不折と高村光太郎に見る六朝書道」を発表される盛岡大学の矢野氏は、ご自身も書家であらせられ、いつも達筆のお手紙を頂戴し、悪筆で鳴らす当方としては常に恐縮しております。

矢野氏、以前にも同会主催のシンポジウムで、光太郎書についての発表をなさいました。平成27年(2015)の国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」では「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」、平成30年(2018)にはシンポジウム「近代東アジアの書壇」で「高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―」。後者は、当方、拝聴に伺いました

今回は、「中村不折と高村光太郎に見る六朝書道」。矢野氏、今年4月、高村光太郎研究会発行の『高村光太郎研究』第42号に「高村光太郎と中村不折の書道観―明治・大正の六朝書道を中心として―」という論文を発表されており、興味深く拝読致しました。

「六朝書道」は、中国の六朝時代(3世紀~6世紀)の、主に石碑に彫られた楷書を範とするもので、日本では飛鳥時代に伝来し、一時、影響があった後、明治になって再び脚光を浴びた書体です。

日下部鳴鶴、巖谷一六らの書家がまずこの魅力に飛びつき、少し遅れて中村不折。不折は慶応2年(1866)、江戸に生まれた画家です。幼少期に維新の混乱を避けるため信州に移住、明治21年(1888)、23歳で再上京、小山正太郎の不同舎に入門します。後輩には光太郎の親友・荻原守衛がいました。その後、正岡子規と出会い、子規の紹介で新聞の挿絵を描いたり、子規と共に日清戦争に従軍し、森鷗外と知遇を得たりしています。ちなみに守衛や鷗外の墓碑銘、守衛のパトロンだった新宿中村屋さんのロゴなども、不折の書(やはり六朝風)です。

その後、島崎藤村『若菜集』、夏目漱石『吾輩は猫である』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀、挿画に腕を揮いました。前後してフランスに留学(明治34年=1901)、光太郎も学んだアカデミー・ジュリアンに通ったり、ロダンを訪問し署名入りのデッサンをもらったり、荻原守衛と行き来したりしています。帰国は同38年(1905)で、翌年から欧米留学に出る光太郎とはすれ違いでした。
 
帰国した年から太平洋画会会員、講師格となり、日本女子大学校を卒業して同40年(1907)頃に同会へ通い始めた智恵子の指導にも当たりました。その際、比較的有名なエピソードがあります。人体を描くのにエメラルドグリーンの絵の具を多用していた智恵子に、中村が「不健康色は慎むように」と言ったというのです。しかし智恵子は中村に反発するように、さらにエメラルドグリーンの量を増していったとのこと。ただ、当時のエメラルドグリーンは非常に毒性の強い成分が含まれ、そのために不折は智恵子を諫めたのではないかとする説もあります。

さて、光太郎。不折と直接の面識があったかどうか、当方は存じません。ただ、自身も書をたしなんだ光太郎、不折らの「六朝書」には眉を顰めていたようです。

世上では六朝書が大いに説かれ出して、私も井上霊山とかいふ人の六朝書に関する本を案内にして神田の古本屋で碑碣拓本の複製本を買つたりした。六朝書の主唱者中村不折や碧梧桐の書にはさつぱり感心せず、守田宝丹に類する俗字と思つてゐた。不折はあの千篇一律の字を看板や、書物の背や、幅や、雲盤や、屏風や、到るところに書き散らしたので、鼻についてうんざりした。
(「書についての漫談」昭和30年=1955)


井上霊山」は書家、「碧梧桐」は俳人の河東碧梧桐、「守田宝丹」は現在も続く薬舗・守田治兵衛商店の創業者にして書画もよくした人物(「宝丹」は主力商品の名にも用いられています)。

 漢魏六朝の碑碣の美はまことに深淵のように怖ろしく、又実にゆたかに意匠の妙を尽してゐる。しかし其は筆跡の忠実な翻刻といふよりも、筆と刀との合作と見るべきものがなかなか多く、当時の石工の技能はよほど進んでゐたものと見え、石工も亦立派な書家の一部であり、丁度日本の浮世絵に於ける木版師のやうな位置を持つてゐたものであらう。それゆゑ、古拓をただ徒に肉筆で模し、殊に其の欠磨のあとの感じまで、ぶるぶる書きに書くやうになつては却て俗臭堪へがたいものになる。今日所謂六朝風の書家の多くの書が看板字だけの気品しか持たないのは、もともと模すべからざるものを模し、毛筆の自性を殺してひたすら効果ばかりをねらふ態度の卑さから来るのである。さういふ書を書くものの書などを見ると、ばかばかしい程無神経な俗書であるのが常である。最も高雅なものから最も低俗なものが生れるのは、仏の側に生臭坊主がゐるのと同じ通理だ。かかる古碑碣の美はただ眼福として朝夕之に親しみ、書の淵源を探る途として之を究めるのがいいのである。
(「書について」昭和14年=1939)

古拓をただ徒に肉筆で模し、殊に其の欠磨のあとの感じまで、ぶるぶる書きに書く」というのが、矢野氏に拠れば、不折の書を指しているのではないかとのことでした。おそらく、今回の発表でもこうしたお話が、作例などと共に紹介されるのではないかと思われます。

ところで、今回のシンポジウム、「近くなったら紹介しよう」と思っておりましたところ、8月14日(土)が申し込み締め切りでした。申し訳ありません。ただ、どうしても、という方、上記の問い合わせ先までご連絡してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

伊藤昭氏又帰つて来て切符を紛失、学校に落ちてゐぬかと探し居るとの事。金持たぬ様子なので切符代300円持つていつてもらふ。


昭和23年(1948)8月5日の日記より 光太郎66歳

昨日のこの項でご紹介した、福島二本松で「智恵子の里レモン会」を立ち上げた故・伊藤昭氏。やっちまいました(笑)。安達駅から往復で買った乗車券の復路分を失くしたそうで、泊めて貰った山口小学校でも結局見つからず、光太郎に借金して帰ったそうです。福島に戻ってからすぐに為替を送って返済したとのこと。当方も気をつけようと思いました(笑)。

今年刊行され、このブログでご紹介した書籍の書評で、新聞各紙に載ったもののうち、光太郎、光雲の名を出して下さったものをご紹介します。

まず、手前味噌で恐縮ですが、『読売新聞』さんから。

[記者が選ぶ]7月25日 遺稿「デクノバウ」と「暗愚」・追悼/回想文集 北川太一著、小山弘明・監修、曽我貢誠・構成

001 昨年1月に死去した、高村光太郎研究の第一人者である著者の遺稿が中心の本。著者は、光太郎が宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」に遭遇してから、一連の詩「暗愚小伝」を生み出すに至るまでのエピソードを紹介した上で、前者について、「反語詩」として読むべきではないかという大胆な解釈を述べる。また、前者後者ともに対象は自身ではなく、人間そのものだったという見解も示す。
 70年にわたり、光太郎と賢治を詳細に調べてきた著者の思いが伝わる。著者ゆかりの人々の追悼、回想文も収められている。(文治堂書店、1650円)

当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』

『毎日新聞』さん及び系列の地方紙さんで、いち早く
書評を出して頂きましたが、『読売』さんでもご紹介下さいました。

続いて、『産経新聞』さん。筑摩書房さん刊行の『日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇』について。

『日本回帰と文化人 昭和戦前期の理想と悲劇』長山靖生著 「危険思想」に至る必然性

002 自国に愛着をもつのは当たり前のことではない。改正教育基本法に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とわざわざ書き込まれたのも、放っておいても涵養(かんよう)されるものではないからだ。この自国への愛着のもち方について、若い世代や学校教育に物足りなさを感じる読者も少なくないだろう。
 けれども、愛着のような穏やかで自足的な肯定感情は、豊かで平和な時代にのみ訪れる僥倖(ぎょうこう)なのかもしれない。本書を読むと、国がまだ貧しく欧米列強の脅威と人種差別に対峙(たいじ)していた明治から昭和戦前期にかけて、自国への想(おも)いはもっと複雑に屈折した「痛み」に近い感情に支えられていたことが分かる。
 封建遺制を切り捨てて西洋文化を貪欲に摂取することで近代化を実現した日本にとって、アイデンティティー不安は宿痾(しゅくあ)だった。その症状は、高等教育まで受けて輸入文物で教養を身に付けた文化人に深刻かつ多種多様な形であらわれる。日本回帰とは症候群の名称である。
 日本回帰は明治からさまざまに反復されてきたが、昭和期の戦時体制に棹(さお)さす役割を果たしたことから、思想的に危険な落とし穴とみなされるようになった。しかしそれを一方的に断罪するだけでは、近代日本の宿痾は放置されたままだ。著者は文化人の日本回帰を「私たちの問題」として引き受ける。
 日本浪曼(ろうまん)派の保田与重郎が体現した根源的な敗北の美学にも、新感覚派の横光利一や中河与一が時代との思想的格闘の末にたどり着いた日本主義にも、それぞれに「痛み」をともなう必然性があった。さらに北原白秋や萩原朔太郎、三好達治、高村光太郎らが戦争賛美の詩を量産したのも、共感力が異常に高い詩人が国民とともにあろうとした必然的な帰結なのだ。
 筆者は文学表現としての日本回帰を受け入れたうえで「政治的社会的判断を曇らせない賢明さ」を持つべきだという。この賢明さは政治指導者には不可欠だろう。昭和の戦争が経済的・軍事的な合理性を逸脱した文学的な戦争だったとしても、その責任は文学にはない。現代の政治も合理性のなさを文学表現で糊塗(こと)してはいないか。これもまた「私たちの問題」だ。(筑摩選書・1870円)

同紙に掲載されたにしては、それほど偏っていない論調です。光太郎の時代の「日本回帰」が「必然的な帰結」とするのを肯んずるには吝かではありませんが、「なのだ」ではなく「なのだった」であるべきですね。現代に於いての、歪んだ「日本回帰」を許してはいけないと思います。

さらに『東京新聞』さん。祥伝社さん刊行の小説『博覧男爵』が扱われていました。

博覧男爵 志川節子著 ◆世界目指した「博物館の父」 [評]和田博文(東京女子大副学長)

000 ペリーの黒船が浦賀に来航したのは一八五三年。上野の動物園の開園は八二年。幕末から明治初期の三十年間は、激動の時代だった。修好通商条約、尊王攘夷(じょうい)、明治維新、戊辰戦争、西南戦争などの政治史や外交史は、本書では後景に退けられる。その代わりに前景化されるのは、「博物館の父」と呼ばれた田中芳男の歩みである。
 飯田城下近くの村の、ゆかりある屋敷の天井に掲げられていた五大州・五大洋の世界地図は、田中が目指すべき場所という、象徴的な意味を担っていた。名古屋に赴いて伊藤圭介門下となり蘭学や本草学と向き合う。江戸では蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕するが、時代は蘭語から英語に移ろうとしていた。身体の移動は、田中をより広い世界へ誘っていく。
 六七年のパリ万博で出品するため、田中は伊豆などで虫捕りをした。それは単なる昆虫採集ではない。洋書から知識を得るだけの一方通行が、異文化間の交流へと変化する。大河ドラマの主人公、渋沢栄一が加わった使節団の一員として渡仏。航路の寄港地では、植民地の現実を目の当たりにした。都市改造中のパリで、田中は驚愕(きょうがく)する。展観本館は鉄骨とガラスを使用し、エレベーターまで備えていた。
 田中が最も関心を抱いたのは、ジャルダン・デ・プラント(パリ植物園)である。国立自然史博物館や動物園や植物園が、広い敷地内に併設されていた。博物という言葉は、広く物を知るという意味を含んでいる。大政奉還の翌日に帰国した田中は、博物学を基礎とする総合施設を作りたいと願う。大英博物館やサウスケンジントン博物館を目標にする、町田久成や佐野常民の考え方と、その思いは少しずつ共振していく。
 田中の伝記はすでに刊行されている。美術博物館が田中芳男展を催したこともある。しかし時代の激動を背景に、人を配置し動かすことで成立する臨場感は、小説でなければ味わえないだろう。満六歳でアメリカに留学した津田梅子や、若き日の高村光雲(光太郎の父)も、さりげなく登場する。近代誕生のドラマを実感させてくれる一冊である。
(祥伝社・1980円)

以前にも書きましたが、やはり「若き日の」渋沢栄一も、さりげなく登場しています。NHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」を併せてご覧下さい。

最後に『中日新聞』さん。こちらは左右社さんから出た『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』について。

大波小波 明るさは滅びの姿

 百年前の一九二〇年代に何があったのか。和暦では大正九年から昭和四年。一八年に第一次世界大戦が終わり一転恐慌を迎えた。二三年関東大震災、二八年には関東軍による張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件、左翼への弾圧も強まる。民本主義や抒情的な大正ロマンも、昭和の幕開けと同時に暗い時代へと転換する。表面的には震災復興と近代的都市として変貌する東京、都市生活を背景とした前衛的な文化やエログロナンセンスが跋扈(ばっこ)し、文学では既成を排した前衛的なモダニズムが登場。だがその後の軍靴が確実に聞こえる時勢でもあった。
 岡本勝人(かつひと)『1920年代の東京』(左右社)が先般出た。高村光太郎、横光利一、堀辰雄らの二〇年代を照射した労作だ。コミットメントとは翼賛や異論を唱えるだけではない。意識的な無頓着という関わり方もあることを同書は示唆する。
 明から暗への転換は現代に酷似する。五輪開催強行で陽気な時代を装ってはいるが、長引くコロナの陰で庶民は泣く。三〇年代を経て戦禍の最中の四三年に出た太宰治『右大臣実朝』には、「明るさは滅びの姿であろうか」と有名な言葉が書かれる。コミットの形式を問わず、いま時代を感受する文学はどこにあるのか。二〇二一年八月に思う。

それぞれの書籍、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方七時頃になつてから福島油井村の伊藤昭氏来訪。


昭和23年(1948)8月4日の日記より 光太郎66歳

故・伊藤昭氏は昭和3年(1928)、智恵子生家にほど近い、福島県安達郡油井村(現・二本松市)の生まれ。のちに智恵子の顕彰団体「智恵子の里レモン会」を立ち上げ、初代会長を務められました。

この頃は油井村青年会の文化部長で、光太郎にぜひ油井村で講演をお願いしたい、ということで花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れました。

氏の回想から。

 高村山荘に着いたのは午後七時ころ、「君もこんな所まで、無茶な」と先生からあきれられたような言葉をいただきました。
 先生は前日の無理な作業がたたりコップに半分ほどの喀血があり、其の上面疔ができて体調をくずされており「今夜は長話ができないので明日改めて来てほしい。その後の油井村の話をぜひ聞きたい」といわれた。その夜は分教場の高橋先生のお世話になり泊めて頂き、翌日うかがうと「今日はだいぶ気分がよい」と話を切り出された。講師依頼の件は「喀血後でもあるし、ヤミ屋が乗る列車には乗りたくない」ということで達せられなかったが、長沼家没落にまつわる話、鞍石山の「樹下の二人」のエピソード、はては私達青年会への指針なども話して頂いた。
 「芸術や音楽は特定の人のものでない大衆のものである」当時始まったラジオでの教養番組のことや売り出し中だった、岡本太郎さんのことまで熱心に話されたのを今でも覚えている。


岡本太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校の西洋画科で、藤田嗣治、望月桂らとともに、同級生でした。

先月16日に始まった、花巻高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎の三陸廻り」について、8月12日(木)の地方紙『岩手日日』さんが報じて下さいました。

浮かぶ往時の情景 高村記念館 光太郎三陸紀行を紹介

000 花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が、三陸沿岸各地を旅して執筆した紀行文「三陸廻(めぐ)り」にまつわる資料を紹介する企画展が、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。
 一旅行者として、各地の自然や様子、旅で感じたことなどをありのままにつづった文章をパネル展示しているほか、関連資料も並べ、光太郎の多才さや当時の三陸の姿を知ることができる。30日まで。
 「三陸廻り」は、かつて存在した日刊紙「時事新報」から光太郎が依頼を受け、1931(昭和6)年8月上旬から約1ヵ月かけ宮城県石巻市から岩手県宮古市までを船旅し、執筆。同年10月3~27日に、同市に全10回掲載された。文量は1回原稿4~5枚ほどで、挿絵も光太郎が描いた。
 会場では、各回の文章と挿絵(複製)を、現在の各地の様子を撮影した写真とともに紹介。補足資料として、石巻市街全図(1931年)や三陸沿岸市街絵はがき、三陸汽船航路図絵(1940年)、初公開となる「汽車ぎらい宿屋ぎらい」(1946年)の直筆原稿もある。
 第1回「石巻」では、「日和山(ひよりやま)は河口を扼(やく)する昔からの物見台である。松と桜とに装われた此小丘陵の突端に立つと、眼下にひろく、さすがに争われない北上川の人工的河口が甚だ怪奇なガニ股をひろげている」などと記され、どの回も風景が浮かび上がってくるように表現されている。
 第3回「金華山」では、父光雲(1852~1934年)と金華山とのつながりにも触れている。
 花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐企画担当は「光太郎が花巻に疎開するより前に岩手に来ていたことはあまり知られていない。旅行記には趣深い表現や鋭い視点での感想も残され、光太郎の才能の豊かさを感じ取っていただけるのではないか」と来館を呼びかけている。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入場料は一般350円、高校・学生250円、小学生150円。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

この記事が出たのが3日前。ところが、昨日、記事にもある高橋氏から連絡があり、「今日から今月いっぱい臨時休館」とのこと。

「はぁ?」と思い、市のHPで確認してみたところ、以下の通りでした。

新型コロナウイルス感染拡大による市関連施設の利用制限ガイドライン 岩手緊急事態宣言の発令に伴い、8月14日から8月31日まで、市関連施設の利用制限を「レベル4」で運用します(8月13日更新)

 本ガイドラインでは、感染拡大状況に応じた市関連施設の利用制限を示しています。(8月13日掲載)
 県では、県内における新型コロナウイルス感染症が拡大していることに鑑み、新たな感染を強力に抑え込むため、8月12日に「岩手緊急事態宣言」を発令しました。
 市では、同宣言の発令に伴い、8月14日から8月31日まで、市関連施設の利用制限を「レベル4」で運用することとしましたのでお知らせします。
 なお、今後の感染状況によっては、期間の延長、ガイドラインの変更や、施設によってはガイドラインと異なる利用制限をすることもありますのでご了承願います。

レベル1 市内・県内の感染者は無い状況が続いた場合
 レベル1へ移行す目安としては、市内・県内の感染者は0が続き、首都圏等で感染が少ない場合)

レベル2 市内・県内の感染者は減少している場合
 レベル2へ移行する目安としては、市内の感染者は0が続き、県内の感染者は一ケタ以下が続き、首都圏等で感染が減少している場合

レベル3 市内で感染拡大の恐れがある場合 県内で感染拡大の恐れがある場合 市内において感染が若干あり、県内において感染が減少していない、または二ケタ以上の感染者がある場合
 県内または隣接県において感染が拡大し、市内においても感染が拡大する可能性が高いと判断される場合には、スポーツ施設について、岩手県内規模での開催に限ること、または大会の中止を依頼することもある

 レベル4【現在適用しているレベル】
 緊急事態宣言が岩手県に発令された場合 県内・市内で感染が拡大している場合 市内で感染者が連続して発生している場合
 詳しくは、添付ファイルをご覧ください。

で、「レベル4」が発令され、花巻高村光太郎記念館、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、宮沢賢治童話村など、すべて31日(火)まで休館だそうです。
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元々、企画展「光太郎の三陸廻り」は30日(月)までの予定でしたが、休館回復後、会期を延長するのか、それともこのまま終了とするのか、そのあたりは未定とのことでした。

あちら方面へお出かけの予定のある方、ご注意下さい。

まだ始まって一ヶ月足らずですので、休館回復後の会期延長を希望しますが、どうなりますことやら……。第一、31日(火)で「レベル4」が解除されるかどうかも不透明ですし……。

これだけ感染拡大が続く中、花巻市の決定は、ある意味、「英断」と言えるのかも知れませんが、それにしても、「いつまでこの状態が続くんだ」と思わざるを得ませんね……。

【折々のことば・光太郎】

右鼻孔に出来た腫物面疔になる虞あり、ズルフアミン剤が欲しと思ふ。


昭和23年(1948)8月3日の日記より 光太郎66歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で、進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。

この後、光太郎、大事には至りませんでしたが、10日ほど腫れが引かず、閉口したようです。

智恵子の生家にほど近い、福島県二本松市の道の駅安達「智恵子の里」さん上り線物産コーナーにて、「レモンコーナー」が設置されているそうです。

twitterの投稿から。

上り線物産コーナーではレモンコーナー展開中🍋🍋

当駅の愛称「智恵子の里」の由来となっている高村智恵子の夫高村光太郎が詠んだ『智恵子抄』(「レモン哀歌」)にちなんだオリジナル商品を販売してますが、特にレモンは暑い夏にピッタリですよ\(*ˊᗜˋ*)/
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オリジナル商品」について調べました。

まず、『レモンライスの素』🍋540円(税込み).。
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ベーコンのコクと玉ねぎの甘さに、レモンの爽やかさがプラスされてサッパリしたお味に✨ 人気酒造さんの日本酒 桜福姫の酒粕を使用した酒塩入りなので旨味も増してます!(※お酒の味はしません)
炊きたてご飯(3合用)に混ぜるだけで簡単調理♪ ピラフのような味わいです。上下線のお土産屋さん(物産コーナー&銘産コーナー)で販売しています。

だそうです。

地方紙『福島民報』さんにも紹介されました。
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続いて、『れもん餡まん』110円(税込み)🍋。
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二本松市内の菓子処 勝田屋さんにお願いして作っていただきました。バターの風味のふんわり生地と爽やかれもん餡の相性がいいんです! 爽やかなれもん餡は暑い夏でも美味しくいだけます。ぜひお試し下さい。上下線のお土産屋さんで販売しています。

とのことでした。

その他、一番上の画像には、以前にご紹介した「安達ハチミツと有機レモンのドレッシング」が写っています。さらに「レモンあまざけ」「塩レモンとザーサイ」「レモン冷やし中華」なども。

あちら方面にお住まいの方、行かれる方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

オクステールにゑん豆とササギとを入れ葱とニンニクとにて味をつけ、塩、コシヨーでつくる。味が十分といへず。予期よりも脂肪少し。まづくはなし。

昭和23年(1948)8月1日の日記より 光太郎66歳

前日に貰った牛の尾を煮込み、その他の具材を入れて味付け。思ったよりうまく出来なかったようですが、山中のあの小屋でオックステールスープを作ろうとする熱意には脱帽です。
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昨日お伝えした、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ宮城県女川町の「いのちの石碑」新設の件、後追いでの報道と、当方が見落としていた報道がありましたので、ご紹介します。

ローカルTV局・ミヤギテレビさん。

宮城 女川いのちの石碑20基完成

 津波から避難する目印にと、女川町の当時の中学生が各浜の高台に建てたいのちの石碑。今月20基目までの石碑が完成し披露式が行われました。
 女川町の小乗地区と横浦地区では、今月8日地元住民や女川中学校の卒業生が参加し披露式が行われました。
 いのちの石碑は、当時の中学生が震災の悲しみを繰り返さないために、女川町の21の浜の津波到達地点より高い場所に避難の目印となる石碑を建てる取り組みです。設置の費用1000万円は募金で集め、今回で20基目まで完成しました。
 最後となる21基目の石碑は今年11月に女川小・中学校の近くの高台に設置する予定です。
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続いて地方紙『石巻日日新聞』さん。

千年後の命を守るために 女川の石碑 20基目除幕 11月に残る1基披露

 多くの被害をもたらした東日本大震災の津波の教訓を後世に伝え、千年先の命を守ろうと、女川町立女川中学校の卒業生が設置に取り組んできた「女川いのちの石碑」は8日、19、20基目が除幕された。町内に21ある浜全てに建立する計画。残る1基は小学校併設の新しい中学校敷地内に建て、11月21日に披露する予定。
 19基目は小乗浜、20基目は横浦に建立。いずれも新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、地域への披露式が1年延期されていた。このうち横浦は高台の防災集団移転団地に建立。地域住民や須田善明町長のほか、卒業生のうち4人が海の見える団地内の公園に集まり、石碑を覆った白い布を下ろした。
 4人のうち伊藤唯さん(23)は「町や地元の人に支えられて20基目まで来た」と10年を振り返り、阿部由季さん(23)は「震災を伝えていくのに役立ってほしい」と期待。残り1基となる中、鈴木智博さん(22)は「建てて終わりではなくこれからがスタート」と見据え、山下脩さん(22)も「仕事の合間を縫って語り継ぐことをしてけたら」と話した。
 取り組みを進めたのは、震災翌月に女川第一中(後に女川中)に入学した1年生。社会科の授業をきっかけに津波被害を最小限にする3つの対策(①互いに絆を深める②高台に避難できる町づくり③記録に残す)を考え、その一つとして津波が到達した地点よりも高い場所に石碑を建てることにした。
 2年生の3学期に募金を開始し、半年余りで1千万円が集まり、その年の11月に最初の2基が完成した。石碑は統一した形で台座を含めた高さは2メートル、幅1メートル、重さ2トン。碑文に3つの対策を刻み、津波が来た時の避難や笑顔あふれる未来の町への願いを記してある。
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最後に、やはり地方紙『石巻かほく』さん。

「いのちの石碑」19、20基目 小乗、横浦地区に完成 女川

 東日本大震災の教訓を後世に伝えるため、女川町女川中の卒業生らが町内21カ所に建立を進めている「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗、横浦の両地区に完成した。披露式が8日、現地で行われた。
 小乗地区では、卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約20人が参加した。メンバーが碑文に込めた思いや、各浜で津波到達点より高い場所に建てたことなどを説明した。参加者は石碑を前に震災当時やこれまでの生活を振り返った。
 石碑は高さ約2・3メートル、幅約1・2メートル。「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などのメッセージや「黒津波 女川の景色 消しさった」といった当時の生徒が考えた俳句が石碑ごとに刻まれている。
 小乗地区の阿部求行政区長(73)は「若者が地域の未来を思って行動してくれている。石碑の意味をしっかり理解し、住民同士で支え合いたい」と話した。
 横浦地区にはメッセージの他に「今ここに 生きててくれた ありがとう」と俳句が記されている。区長の木村初雄さん(72)は「震災を経験した私たちが風化させないように協力しなければいけない」と気持ちを新たにした。
 石碑の建立は2013年に始まり、19、20基目は19年11月に完成した。翌年に披露式を行う予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期していた。
 「いのちを守る会」の阿部由季会長(23)は「石碑を建て終えてからがスタートだと思っている。教科書の作成や講演会の実施など発信に力を入れていく」と抱負を語った。
 21基目は、昨夏新設された女川小中に建てられ、11月21日に披露式を行う予定。各石碑には住民が感じた震災の教訓などを見られるようにしたQRコードを刻むことも検討されている。
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最後に書いてあるQRコードの件。実現して欲しいものです。石碑類、建てて建てっぱなしになることが少なからずあるのですが、「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーの皆さんは、定期的に碑の清掃等にも取り組まれていますし、さらにQRコードの追刻も活動を進化・深化させる上で効果的と存じます。

まったく、頭の下がる思いです。

【折々のことば・光太郎】

牛尾をオツクステールにする。


昭和23年(1948)7月31日の日記より 光太郎66歳

「オツクステール」はスープです。現代では高級なメニューとしてもてはやされていますが、当時の日本では牛の尾は捨てるもの、というのが常識でした。欧米留学の経験もあった光太郎は、捨てられる牛の尾があると、貰って、自家製のスープにしていました。

この日入手したのは、分娩の際、死んでしまったという牛の尾。近くの開拓地に住む青年が届けてくれました。

昨日ご紹介した、宮城県女川町の光太郎文学碑に倣い、費用を募金でまかなった「いのちの石碑」。東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、建立が進んでいます。

全21基中の19・20基目が除幕されたということで、報道されました。

テレビ局のローカルニュースから。まず、OX仙台放送さん。

“強い地震が来たら石碑より上へ逃げて”女川町「いのちの石碑」 中学卒業生が震災の教訓を刻む

 女川町では震災の教訓を石碑に刻んで後世に伝える、「女川いのちの石碑」が新たに2つ完成し8日、除幕式が開かれました。
 この活動は2011年に入学した女川中学校の卒業生たちが、震災の教訓を後世に残そうと町内21の浜に石碑を建てているものです。
 女川町小乗地区で行われた8日の除幕式には、女川中学校の5人の卒業生などおよそ20人が集まり、19基目の石碑が披露されました。
石碑には「地震が来たらこの石碑より上へ逃げてください」などとメッセージが刻まれています。
 小乗地区住民「地域の方々が仲良く支え合って歩んでいただければと」
 また午後からは、女川町横浦地区で20基目の石碑が披露されました。
 女川中学校卒業生 山下脩さん「最終的には夢としては千年後まで語り継いでいければなと思っています」
 「いのちの石碑」最後の21基目は、11月に女川小・中学校に建てられる予定です。
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続いてtbc東北放送さん。

 「いのちの石碑」最後1つを残し完成 宮城・女川町

 宮城県女川町出身の若者たちが震災の教訓を語り継ごうと町内21の浜に建立を進めている石碑が20基まで完成しました。
 女川町の小乗地区では、石碑の披露式が行われ、建立した若者たちや住民が参加しました。この石碑は、女川中学校の卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」が建立を続けているものです。町内21の浜の津波到達地点よりも高い場所に石碑を建てる計画で、8日は、19基目の小乗地区と20基目の横浦地区の2つがお披露目されました。会では、最後となる21基目の石碑を女川小中学校に建立し、今年11月21日に披露する予定です。
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さらに、NHKさん。

女川町いのちの石碑 20基目が完成

 東日本大震災の教訓を伝えようと当時、中学生だった人たちの呼びかけで、女川町の沿岸の地区に建てられることになった石碑のうち20基目が完成し、披露されました。
 女川町では、震災当時、中学生だった人たちが、津波の教訓を後世に伝えようと「女川1000年後のいのちを守る会」を立ち上げ、沿岸にある21の地区に石碑をつくる活動を続けています。
大きな被害を受けた横浦地区では、震災後、新たに造成された高台の住宅地に20基目となる石碑が建てられました。
 8日は、大学生や社会人になったメンバー4人と地元の人たちが集まって、全員で石碑の幕を引きました。
 石碑は高さおよそ2メートル、幅およそ1メートルで、「今ここに生きてくれててありがとう」といったことばが刻まれています。
 そして、メンバーの1人の伊藤唯さんが「大きな地震が来たら石碑よりも高い場所に逃げて、家に戻ろうとする人がいたら引き止めてください」と呼びかけました。
 残る1基の石碑は、ことし11月に完成する予定です。
 「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さんは、「21基の石碑を建てて終わりではなく、震災の教訓を伝え続けたい」と話していました。
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それから、KHB東日本放送さん。

東日本大震災の教訓を後世に いのちの石碑 19・20基目 宮城・女川町で披露

 震災の教訓を後世に伝えようと宮城県女川町で、当時の中学生が設置した石碑の披露式が行われました。
 この石碑は、女川中学校の卒業生が、津波で被災した町内21カ所に建設を目指しているもので、8日は19基目と20基目がお披露目されました。
 新型コロナの影響で、1年遅れての公開となりましたが、今年11月には、最後の1基が女川小中学校に設置されます。
 女川1000年後のいのちを守る会・鈴木智博さん
「これを建てて終わりじゃなくて、伝えていくのがこれからの使命なのかなと考えています」
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新聞でも報道されています。仙台に本社を置く『河北新報』さん。

女川中生の思いつないで20基目 避難誘導の「いのちの石碑」

 東日本大震災の教訓を未来に伝え残そうと、宮城県女川町女川中の卒業生らが町内に建立している「女川いのちの石碑」の19、20基目が小乗(このり)、横浦両地区にそれぞれ完成し、8日に現地で披露式があった。
 卒業生でつくる「女川1000年後のいのちを守る会」のメンバーと地元住民ら約30人が参加した。石碑を除幕した後、メンバーが碑文に込めた思いを説明。住民らは、震災当日の出来事を振り返りながらメンバーと語り合った。
 小乗地区行政区長の阿部求さん(73)は「当時の子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、本当に頑張った。石碑を見て地域で支え合って歩みたい」と話した。
 2基の披露式は新型コロナウイルスの影響で1年延期して開いた。月1回の伝承活動も昨春以降、自粛が続く。守る会の伊藤唯さん(23)は「石碑を建てて終わりではなく、これがスタートだと思って活動したい」と意欲を語った。
 いのちの石碑は2011年4月に女川中に入学した生徒らが企画。「地震が来たらこの碑より上へ逃げて」と避難を促すため、町内各浜の津波到達地点より高い場所に建てている。建立は13年11月に始まり、最後の21基目は昨夏新設された女川小中学校に建て、11月21日に披露式を開く予定。
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この活動、今年6月には、オンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、一昨年にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。

今秋には最後の碑が、新たに開校した女川小・中学校に建てられるそうで、今後とも、この活動を見守っていきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉貸別荘の儀は訪問者殺到を恐れて中止にせんかと相談す。


昭和23年(1948)7月24日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、マイナス20度にもなり、メートル単位で雪が積もる厳冬期だけでも、花巻温泉に新設された貸別荘を借りてはどうか、という話があり、光太郎もその気になりかけたのですが、結局、そうすると、交通の便が悪くないため訪問客が多くなりそうだと危惧し、取りやめにしました。

8月9日(月)、地元の皆さん限定で行われた第30回女川光太郎祭について、仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さいました。

「三陸廻り」90年に敬意 高村光太郎文学碑に献花

 戦前に宮城県女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのび、町内の「女川光太郎の会」が9日、町海岸広場内の文学碑に献花した。碑は東日本大震災で被災して昨夏に再建を果たし、会員らが建立からの30年間に思いを巡らせた。
 光太郎は1931年に石巻から金華山、女川、気仙沼、釜石、宮古までを旅し、紀行文「三陸廻(めぐ)り」を著した。光太郎が石巻に向かって東京を出発した日から今月9日で丸90年を迎え、町民5人が光太郎の詩や紀行文を刻んだ文学碑に花を手向けた。
 碑は震災の津波で亡くなった町内の画家貝広さん=当時(64)=が中心となって91年に3基を建てた。1口100円の募金活動で建設費を募り、約10年がかりで完成させた。
 女川港の水揚げ場を詠んだ「よしきり鮫(ざめ)」を記した詩碑が震災の津波で流出。主碑が倒れ、詩碑1基が残った。貝さんの思いを継いだ会員らが残った2基の再建を町に要望。町が護岸工事を終えた海岸広場に昨年8月ごろ、設置した。
 毎年8月9日に光太郎の詩を朗読する「光太郎祭」は、新型コロナウイルスの影響で昨年から献花のみ実施している。92年に始まり、今年で30回目を迎えた。
 光太郎の会の須田勘太郎会長(81)は「多くの方の支えで碑を再建できた。貝さんら先人の思いをつなぎ、これからも祭りを続けたい」と語った。
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昨年に引き続き、今年も一般の方の参加はなく、女川光太郎の会の皆さんによる、光太郎文学碑への献花のみ行われました。来年こそは、旧に復してほしいものです。

明日も女川系のネタを。

【折々のことば・光太郎】

夜蚊帳つり今夏はじめて


昭和23年(1948)7月22日の日記より 光太郎66歳

「蚊帳(かや)」。風流といえば風流ですね。

6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」を放映して下さっている、地上波日本テレビ系「心に刻む風景」。オリンピック中継のため1週延期となりましたが、最終回の放映が明日夜です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子⑥ 岩手県花巻市…「智恵子は死んでよみがへりわたくしの肉に宿ってここに生き  かくの如き山川草木(さんせんそうもく)にまみれてよろこぶ」。

地上波日本テレビ 2021年8月11日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#6 舞台(高村山荘)

昭和20年、ここで光太郎は自給自足の生活を始める。智恵子抄発表後、しばらくは智恵子を詩に書くこともなく過ごしたがこの場所に来てから、智恵子に関する詩を再び書き始めた(智恵子抄その後)。智恵子との思い出を胸に、ここで新たな創作を生み出す。


ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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#5は7月28日(水)、「栃木県塩原温泉」でした。
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塩原温泉の柏屋旅館さん。
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この宿に入る前、福島二本松の智恵子実家の菩提寺・満福寺さんで智恵子祖父母らの墓に参り、その足で裏磐梯川上温泉に向かい、以後、宮城蔵王の青根温泉を経て、再び福島に戻り、土湯温泉の旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。いったいに、どこの温泉地でも中心街から離れた静かな宿を選んでいます。

そして湯治旅行の最後が塩原だったわけです。
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下の画像は二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたもので、現存が確認できている智恵子最後の写真(その後、翌年に九十九里で撮った写真もあったらしいのですが、当方、未見)です。
那須
番組では、ほぼこの写真が撮られた地点でロケ。
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いいですね。

そして、明日の放映が光太郎智恵子篇最終回、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)がメインです。視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

入れちがひに鈴木喜緑なりとて青年来訪、埼玉杉戸から来訪。詩の事や其他談話。詩稿を見る事は断る。来訪しても無駄といふハガキを出したもの届かぬうちに来たの也。

昭和23年(1948)7月18日の日記より 光太郎66歳

鈴木喜緑は大正14年(1925)、東京生まれ。のちに吉本隆明等と共に「荒地」同人となる詩人でしたが、この時点ではまったくの無名でした。

一昨日、昨日と、みちのくの光太郎智恵子ゆかりの地、十和田湖と安達太良山でランタン打ち上げイベントが行われました。その報道をご紹介します。

まず十和田湖。「第56回十和田湖湖水まつり」の一環としての「スカイランタン」。『東奥日報』さん。

夜空にランタン、幻想の輝き/十和田湖

 十和田湖畔休屋で7日夜、湖水まつり(同実行委主催)が開かれた。オレンジや青の光がともったスカイランタン1130個が浮かび上がり、来場者が幻想的な輝きに見入った。イベントは昨年に続き2回目。ランタンは縦約60センチ、横約35センチで、発光ダイオード(LED)を内蔵。「AOMORIバルーン集団ねじりんご」と共同で製作した。
 来場者は会場内の各所にそれぞれ陣取り、ランタンが飛び去らないように取り付けた20メートルのひもを使って、思い思いの高さでランタンを夜空に浮かべた。フィナーレには約5分間、花火が上がり、花火とスカイランタンの光が夜空を彩った。
 家族と会場を訪れた青森県十和田市の美容師・佐々木美由紀さん(27)は「ランタンには家族が健康でいてほしいという願いを込めた。子どもたちも『きれい』と言って楽しんでくれた」と話した。
 会場にはフードコートが設けられ、かき氷などを食べながらゆったりと過ごす人も見られた。遊覧船による約50分のナイトクルーズも行われた。
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『デーリー東北』さん。

夜空に浮かぶ明かりに願い込め 十和田湖湖水まつり開幕

 十和田湖湖水まつりが7日、十和田市の休屋地区で開幕した。夜には市民の願いが書き込まれた1131個のスカイランタンが打ち上げられ、参加者が夜空に広がるオレンジとブルーの柔らかな明かりに、新型コロナウイルスの早期収束などの願いを込めた。
 ランタンの打ち上げは、昨年から実施しており、今年は新たに湖上から眺める遊覧船ナイトクルーズや花火のショーも行った。
 この日は、参加者が、午後8時半の合図で一斉にランタンを夜空に放った。
 十和田市東二番町の主婦福田麻衣さん(39)は「家族が仲良く元気に暮らせることを願った」、長女の莉子ちゃん(5)も「映画みたいできれい。また見たい」と満足げな様子だった。
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『北鹿新聞』さん。

湖上彩る花火とランタン 十和田湖 湖水まつり 「コロナ収束」の願いも

 小坂町と青森県十和田市にまたがる十和田湖畔で7、8日の両日、十和田湖湖水まつり(実行委主催)が開かれた。観光客らはスカイランタンと花火の共演を楽しんでいた。
 夏の十和田湖の活性化を目的に行われており、今年で56回目。新型コロナウイルス感染症対策で入場者を制限し開催した。
 7日夜、参加者はヘリウムガスを浮力とし、発光ダイオード(LED)ランプを内蔵した「スカイランタン」を購入。ランタンに願い事を書き、ひもをつけて午後8時30分に一斉に空に上げた。
 オレンジ色や青色の1131個のランタンが夜空に輝く中、200発の花火が音楽に合わせて打ち上げられた。入場した観光客、約2400人は幻想的に漂うランタンと十和田湖の水面に反射して輝く花火に「きれい」などと歓声を上げて楽しんでいた。
 同時刻に行われた「十和田湖遊覧船ナイトクルーズ」では観光客が湖上から花火を楽しんでいた。
 このほか、午後5時から同9時まで焼きそばなど5店の飲食店ブースが出店した。
 親子で訪れた青森県南部町の30代の女性は「ランタンにコロナ収束の願いを書いて飛ばした。今年初めての素晴らしい花火だった」と笑顔で話した。
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続いて、安達太良山。『福島民報』さん。

福島・二本松の夜空にランタン舞う 願い事託しフェス

 ランタンに願い事を託して夜空に放つ「LEDスカイランタンフェスティバル」は7日、福島県二本松市のあだたら高原リゾートで始まった。9月19日まで計8回実施する。
 赤、青、緑、ピンク、オレンジの5色の発光ダイオード(LED)を入れたランタンに、参加者が願い事を書いた短冊を結んで空に放した。開催中の「あだたらイルミネーション」と合わせて幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 今後は14、21、28、9月4、11、18、19の各日に催す。午後6時に受け付けを開始し、同8時にランタンを空に放つ予定。参加料は3500円(税込み)。前日までに要予約。問い合わせは富士急安達太良観光へ。
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記事にあるとおり、安達太良山では来月中旬までの土曜日と、9月19日(日)に開催されます。コロナ感染にはお気を付けつつ、コロナ収束の願いを込め、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太の除幕式は今日午後の由。

昭和23年(1948)7月17日の日記より 光太郎66歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられた詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。
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千葉県で、「ちばアート祭2021」というアートフェスティバルが開催されています。
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現代アートのインスタレーションと、一般の方々から公募した「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」がメインです。

このうち、「「ちば文化資産」絵画・写真公募作品展」は、平成30年(2018)に選定された111件の「次世代に残したいと思う『ちば文化資産』」をテーマとした絵画・写真・Instagramの作品を募集したものです。

111件中には、「高村光太郎の「智恵子抄」の一節「九十九里浜の初夏」等多くの文学作品の舞台」というキャッチフレーズで、「九十九里浜の景観」も選定されましたし、光太郎智恵子の名は説明に使われませんでしたが、銚子犬吠埼などのゆかりの地が他にも含まれています。

ちなみにインスタレーションの方も、ちば文化資産インスパイアということになっているようです。

千葉県立美術館さんでは、8月3日(火)~15日(日)の日程で、絵画・写真応募作品の原則全てが展示されています(Instagram部門は受賞作品のみの展示)。ちなみに同館で同時開催中の「名品3 ―巨匠の眼と手―」では、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)が出ているようです。

美術館にほど近い千葉ポートタワーさんでは、8月16日(月)~9月5日(日)に、応募作品のうち、受賞作品24点を展示とのこと。また、オンラインでも開催されています。
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ぜひ御覧頂き、千葉県の魅力に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

畑の事いろいろやつてゐる、さかんにブヨにくはれる。ひどくはれる。


昭和23年(1948)7月15日の日記より 光太郎66歳

「ブヨ」。標準語だと思っていましたが、どうも関東方言のようで、学術的には「ブユ」と言うのが正しいようです。蚊と同じく、吸血のために刺すそうですが、問答無用で襲来してくるという感じですね(笑)。当方も、かつていきなり刺されてひどい目に遭いました。

北海道から書道展の情報です。

『毎日新聞』さん北海道版の記事。

書家土井さん初個展 深川で15日まで大作並ぶ /北海道

 毎日書道展で活動する若手書家、土井伸盈(しんえい)さん(39)の初めての個展「挑戦。―ここから」が、深川市1の9の「アートホール東洲館」で開かれている。15日まで。
 土井さんは浦臼町出身。 道教育大札幌校で故・辻井京雲さんから書を学び、毎日書道展会員、創玄書道会二科審査会員。 将来を期待される若手書家の1人で、札幌市の北海高で書道を指導している。
 会場には、原民喜の詩「原爆小景より」の2連作、高村光太郎の詩「牛」のほか、歌手の中島みゆきさんの「異国」の歌詞の一部を書いた大作など、漢字と近代詩文書を織り交ぜた迫力ある作品が並んだ。
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展覧会詳細は以下の通り。

第一回 土井伸盈 書の個展 挑戦。――ここから

期 日 : 2021年8月3日(火)~15日(日)
会 場 : アートホール東洲館 北海道深川市1条9番19号 深川市経済センター2階
時 間 : 10:00~18:00 最終日は16:00まで
休 館 : 8月10日(火)
料 金 : 無料
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お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

食事の時八時過取手町の石材商藤巻佐平さんといふ人の名刺を持つてその娘さん来訪。昨夜花巻にとまりし由。いつぞや書いた中村氏の墓の文字を石材の都合で、縮小して書いてくれといふ。紙持参。食事を終りて直ちに書く。故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓と二行に並べて書く。九時過辞去。

昭和23年(1948)7月3日の日記より 光太郎66歳
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永らくこの墓石の所在地が不明でしたが、今年2月、偶然に見つけました

書もよくした光太郎に、墓石の文字揮毫が依頼された例は他にも複数あります。

昭和26年(1951)に亡くなった、山形出身の詩人・森英介の墓石。こちらは米沢市相生町の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいます。正面に「森英介之墓」、向かって左側面に「智応院正行日重居士」(戒名)と刻まれた文字の揮毫が光太郎です。

昭和25年(1950)には、郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートの中に以下の記述があります。
佐野悌一氏へ墓の文字封入テカミ(「佐野修三墓」二枚)

この年の日記は失われており、名前の出てくる二人の素性、どういった事情なのか、墓の所在地など、一切不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

ハードカバーの文庫化です。

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2021年8月1日 末盛千枝子著 新潮社(新潮文庫) 定価825円(税込)

それでも、人生は生きるに値する。彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、高村光太郎に「千枝子」と名付けられる。大学を卒業後、絵本の編集者となり、皇后美智子様の講演録『橋をかける』を出版。だが、華々しい成功の陰には、幾多の悲しみがあった。夫の突然死、息子の難病と障害、そして移住した岩手での震災……。どんな困難に遭っても、運命から逃げずに歩み続ける、強くしなやかな自伝エッセイ。

目次000
 人生は生きるに値する――まえがきにかえて
 千枝子という名前
 卒業五十年
 父の葉書
 母、その師その友、そして家族
 IBBYと私
 私たちの幸せ――皇后美智子様のこと
 最初の夫、末盛憲彦のこと
 絵本のこと、ブックフェアのこと
 再婚しないはずだったのに
 逝きし君ら
 出会いの痕跡
 文庫版あとがき
 解説 山根基世

元版は、平成28年(2016)に同社からハードカバーで刊行されています。さらに遡れば、同社のPR誌『波』での連載(平成26年=2014)が最初でした。

著者の末盛さん、光太郎に私淑した彫刻家・舟越保武のご息女で、案内文にある通り、光太郎によって「千枝子」と名付けられました。舟越が命名を依頼したところ、光太郎は「女の子の名前は「ちえこ」しか思い浮かばないが、智恵子のように悲しい人生では困るから、字を替えましょう」と言ったとのことで。

その辺りの経緯や、名付け親である光太郎との盛岡での再会、平成27年(2015)に、盛岡の少年刑務所さんで開催された「高村光太郎祭」でご講演をなさった話などが、光太郎に関わる部分です。

それ以外に、絵本編集者としての日々、当時の皇后美智子さまとの交流、ご家族とのドラマ、そして東日本大震災についてなど、さまざまな方向に筆が進んでいます。

ハードカバー刊行直後、PR誌『波』に、中江有里さんによる書評が載りました。題して「朝ドラのヒロインのような人生」。それが共感を呼んだようで、過日の新聞広告でもそうしたキャッチコピーが使われていました。
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当方、中江さんより早く「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」とこのブログに書きました(笑)。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃学校にて児童給食の粉ミルクをとかした牛乳の御馳走になる。脱脂粉乳の由なるが、味よろし。


昭和23年(1948)7月2日の日記より 光太郎66歳

脱脂粉乳。GHQの支援により、日本の学校給食に供されるようになって、地方によっては1970年代前半まで出されていたそうですが、当方、その頃入学した都内の小学校では既に瓶の牛乳でしたので、飲んだことがありません。

現在製造されているものは品質も向上、味や匂い等向上しているそうですが、この時代のそれは、不味いものの代名詞とまで言われていたものだったそうです。しかし、光太郎は「味よろし」とのコメントを残しています。

新刊、といっても3ヶ月経ってしまいましたが……。

日本回帰と文化人─昭和戦前期の理想と悲劇

2021年4月15日 長山靖生著 筑摩書房(ちくま選書) 定価1,700円+税

西洋文化を旺盛に摂取しつつ繁栄を遂げてきた近代日本は、昭和期に入ると急速に「日本回帰」へと旋回する。そのうねりのなかで文学者や思想家たちもまた、ときにそうした運動の主導者となっていった。和辻による日本古典美の称揚、保田らの「日本浪曼派」、北原白秋や斎藤茂吉の戦争詩歌、そして三木の東亜協同体論や京都学派の「世界史の哲学」―。戦後タブー視されがちであったこれらの作品を、当時の時代状況や彼らの内的論理に注目しつつ読み解き、「日本的なもの」の核心に迫る意欲作。
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目次
 はじめに――危機の時代における心理と思考002
 第一章 西洋憧憬と日本への思慕
  欧化への抵抗――佐田介石の内外対比論
  政教社の国粋主義
  陸羯南──日本主義と国民の自由
  岡倉天心──「アジアは一つ」の真意
  新渡戸稲造──『武士道』の日本人
  国家社会主義という第三の道
  水戸学、ファシズム、皇国史観──錯綜する国家観
 第二章 文学者たちの「日本回帰」
  プロレタリア文学から文芸復興へ
  保田与重郎と「日本浪曼派」──敗北の美学
  永井荷風──無関心という抵抗
  谷崎潤一郎──政府に睨まれた日本礼賛
  堀辰雄──柔和で毅然とした抵抗精神
  横光利一──反転する西洋憧憬
  太宰治──アイロニーが世界を包むとき
  坂口安吾──日本文化称揚の欺瞞性
 第三章 戦意高揚する詩人たち
  近代詩歌と軍歌──日本軍歌の哀調
  日清戦争──与謝野鉄幹、正岡子規
  日露戦争の記憶──夏目漱石、森鷗外、与謝野夫妻
  北原白秋──南蛮趣味から戦争礼賛へ003
  萩原朔太郎──故郷との和解を夢見て
  三好達治──死にゆく同胞への供物
  高村光太郎──軍神を讃えねばならぬ
  折口信夫、斎藤茂吉──国亡ぶを歌う
 第四章 日本文化観の模索
  国策としての「国民精神文化」
  和辻哲郎──世界文化史への架橋
  大川周明──アジア主義のジレンマ
  中河与一──モダニズムから第三世界共闘ロマンへ
  九鬼周造──「いき」という諦念
  阿部次郎──人格主義から見た日本文化
 第五章 日本精神と変質する科学主義
  イデオロギーとしての日本精神
  進化論と優生思想──加藤弘之、丘浅次郎、永井潜
  愛国化する「科学」──中山忠直の日本学
  生気説への接近──小酒井光次と哲学者たち
  有機体としての国家──西田幾多郎の「安心」
 第六章 大東亜戦争は王道楽土の夢を見るか
  西田幾多郎──修正案としての「世界新秩序の原理」
  田辺元──飛躍的想像力と国家構想
  三木清──回避努力と妥協的協力
  京都学派──「近代の超克」と「世界史的立場」
 終章 それぞれの戦後
  死んだ者、生き残った者
  三木清の戦後獄中死
  占領期検閲と横光利一
  東京裁判を免訴された大川周明
  「日本の悲劇」を課題化した和辻哲郎
  亀井勝一郎が戦後改稿に込めた思い
  保田与重郎の孤独、中河与一の硬直
  「近代の超克」の清算としての『本居宣長』
 あとがき
 主要参考文献
 人名索引

著者の長山氏、「なぜ日本は、幕末維新の危機を乗り越えて曲がりなりにも近代化を成功させたにもかかわらず、昭和十六(一九四一)年に無謀な戦争へと突入していったのか」という命題を解決するべく、当時の文化人達の様相を列伝体的に展開していきます。

従って、光太郎に直接触れている部分はあまり多くない(上記目次の色を変えた部分)のですが、幕末から明治、大正を経て、十五年戦争という「流れ」の中で捉えることによって、その立ち位置がより明瞭にされている部分があるかな、という感じでした。

そして「以前から日本国内に積みあがっていた近代的発展の矛盾の飽和の現れ」として、太平洋戦争を定義し、「閉塞状況に置かれた人間は変化を希求」、「国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚される」というわけで、文学者達は「それぞれに自分が得意とする手法で、時代の要請に合った物語を、自己のアイデンティティを投影しながら描いてみせた」としています。

光太郎に関しては、まず、「第三章 戦意高揚する詩人たち」で、戦時中の翼賛詩を引きつつ、次のように評しています。

痛ましいばかりの体制協力ぶりだが、それでも高村光太郎は品性を重んじ、詩文の美を湛えている。彼の目には死地に赴く人々の決意、虜囚の辱めを受けずに自決して果てる人々の姿勢は、とても高潔なものと映っていたのだろう。おそらくそれは正直な感慨だったのだと思う。戦地に赴いて死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるだろうか。讃えねばならぬ。彼等の尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。

当方の手元に、光太郎のそれを含む、多数の詩人達による翼賛詩を集めたアンソロジーが30冊ばかりあります。それらを繙くと、確かに相対的評価として、光太郎詩は他の詩人の作と較べて「詩文の美を湛えている」部分が多く見受けられます。しかし、やはり相対的に、光太郎自身が他の時期に書いた詩と比較した場合、一度は捨てた文語に戻り(それも虚仮威し的な漢文訓読調)、結局は異口同音の繰り返しに堕しているなど、高い評価は与えられません。この時期の詩こそ光太郎詩の真髄だと、涙を流してありがたがる愚物が居て閉口しているのですが……。

戦地に赴いて死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるだろうか。讃えねばならぬ。彼等の尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。」という考え、それはそれで正しいのかも知れません。ですが、前途有為な多くの若者を死地に送り出す状況を作りだした軍部や政府、そしてそれを肯んじる国全体の風潮への批判が無くなれば、危険な思想と言わざるを得ないと思います。

000さらに、「終章 それぞれの戦後」中の「死んだ者、生き残った者」という項で、昭和22年(1947)の連作詩「暗愚小伝」構想中に生まれ、結局、自らボツにした「わが詩をよみて人死に就けり」が紹介されています。

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

長山氏、「そうした後悔慚愧の想いもまた、詩になってしまうのが詩人の業というものだった」と評しています。言い得て妙、ですね。

それにしても、この章では、他の文学者達の「戦後」についていろいろ紹介されていますが、とんでもない輩がずいぶんいたのがよく分かります。終戦と共に突然「民主主義者」に180度ころっと変わった者、変わる事を良しとせず、しかし頑なに翼賛思想に拘り続けた者、そして何も出来ずにポンコツになった者……。そう考えると、岩手の山村に7年間もの蟄居生活を自らに強いた光太郎、やはり偉かったと言わざるを得ないような気がするのですが、身贔屓が過ぎるでしょうか。

ところで、残念ながら、事実誤認もありました。谷崎潤一郎や堀辰雄を「戦時下でも翼賛活動をしなかった」としている点です。

谷崎は、昭和17年(1942)に開催された「大東亜文学者大会」で、がっつり「閉会の辞」を述べていますし、堀も同年に展開された「愛国百人一首」運動で、揮毫の筆をふるっています。まぁ、確かに両者とも、光太郎ほどには積極的な翼賛協力はしなかったのでしょうが……。

明日は広島原爆投下の日、9日は同じく長崎、そして15日は終戦記念日。戦後76年ですね。「国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚される」ことのないよう、歴史に学びたいと存じます。

【折々のことば・光太郎】001

朝九時過池田克己氏、八森虎太郎氏同道、再び来訪。一昨夜大沢温泉に一泊、昨夜は花巻に宿泊の由。昨日宮沢家にゆかれし由。 中食を此処でくふ。余も飯盒飯ののこり。 午后ライカによる撮影いろいろ。室内やら畑でやら。

昭和23年(1948)6月30日の日記より
 光太郎66歳

池田克己は、この年、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼しています。

「ライカ」云々は、翌年の『小説新潮』グラビアに載った、池田撮影の光太郎ポートレートに関わると思われます。

その後、池田は昭和28年(1953)、数え42歳で急逝。光太郎は弔電に「ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト」(我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと)の短歌をしたためました。

光太郎生涯最後の大作「乙女の像」の立つ、青森県十和田湖畔でのイベント情報です。

第56回十和田湖湖水まつり

期 日  : 2021年8月7日(土) 8日(日)
会 場  : 十和田湖畔休屋地区
問合せ  : 十和田湖観光交流センターぷらっと 0176-75-1531

①願い事を書いたスカイランタンを大空へ (Sold out)
願いを込めた2,000個の「スカイランタン」が、十和田湖の夜空へ浮かび上がる!
参加費 ¥3,000/個
1個につき2名まで入場可能。未就学児は入場無料。
スカイランタンはヘリウムガスを浮力とし、LEDランプを内蔵、細い糸付きでリリースし、イベント終了後お持ち帰りいただけます。

②十和田湖遊覧船ナイトクルーズ
大人¥2,000/人  小学生¥1,000/人 小学生未満は無料。(Sold out)
桟橋より出発し、幻想的なスカイランタンと花火を湖から望むことが
できる50分のナイトクルーズ。キラキラ光る氷のドリンク付き。
スカイランタンの打ち上げはできません。遊覧のみ。

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17:00受付開始!
入場受付にて、検温・手指消毒・マスク着用をお願いします。ご協力頂いたお客様には チェック済みシールをお渡しします。マスクにお貼りください。WEBチケットまたは紙チケットをご提示ください!

スカイランタンチケットをご購入のお客様へは『スカイランタン引換券』を、ナイトクルーズご乗船のお客様へは『キラキラドリンク引換券』をお渡しします。太陽広場には出店が登場します。屋台フードでお祭りムードを味わいましょう!夕焼けの十和田湖を眺めたり湖畔の散策もおすすめです。

スカイランタンチケットをご購入のお客様は、「十和田湖観光交流センターぷらっと」にて スカイランタンの引換が出来ます。是非スカイランタンには願い事を書いてみてください。ペンをご用意しています!

19:30スカイランタン引換終了
スカイランタンチケットをご購入のお客様は、17:00~19:30までの間に引換をお願いします。

19:40乗船開始
ナイトクルーズご乗船のお客様へは20:00までにご乗船ください。20:10出航~21:00着岸です。 スカイランタンが湖面に映る様子や、花火を湖から眺める事の出来る50分間のクルーズです。船内ではキラキラ光るドリンクを1杯プレゼント! お食事のご用意は ございませんのでご注意下さい。

20:30スカイランタンリリース
皆さまの願いがこもったスカイランタンが夜空と湖面を彩ります。幻想的な世界をお楽しみ下さい。

20:50フィナーレの花火打上
音楽に合わせて約4分間の打上花火がフィナーレを飾ります。

21:00終了
お気をつけてお帰りください。

一昨年の第54回までは、花火大会がメインで、「乙女の像」ライトアップもなされていたのですが、コロナ禍の影響もあり、昨年の第55回から実施方法が、チケット制でランタン打ち上げをメインとする方法に変更となりました。昨年の様子はこちら

また、昨年は無くなった花火の打ち上げが、今年はフィナーレの4分間限定ですが、復活するそうです。

既にチケットは完売だそうですが、キャンセル等あるかもしれません。公式サイトよりご確認下さい。

【折々のことば・光太郎】

尚坂上の地所村の基本財産たる地面を今処分してゐるので希望せずやとの事。村人に分配中、一坪三円程度との事。一緒に行つてみる。坂上の平坦部が欲しい旨のべる。金の都合がつけばそれだけ申し込むつもり。後の余の美術館をつくるつもりのところ。

昭和23年(1948)6月27日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山林が売りに出たそうで……。興味深いのは、「余の美術館をつくるつもり」という構想があったこと。結局、土地の購入も、個人美術館建設も実現しませんでしたが。

昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために、三陸一帯を約1ヵ月、主に船で移動した光太郎。宮城県の女川にも立ち寄ったということで、それを記念して平成3年(1991)に光太郎文学碑が建立され、翌年からは光太郎が三陸に向けて東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。

女川光太郎祭は、残念ながら、昨年に引き続きコロナ禍で中止となりましたが、町立の女川つながる図書館さんで、光太郎に関する展示をなさって下さいます
期 日 : 2021年8月7日(土)~8月13日(金)
会 場 : 女川つながる図書館 女川町生涯学習センター内 
          宮城県牡鹿郡女川町女川浜字女川178番地 KK-8街区1画地
時 間 : 平日 10:00~20:00  土日祝 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

光太郎と啄木の短歌・詩・評論を通して、作品に流れる人間観や人生観を知っていただくような展示を行います。
◇図書館の館内を巡りながら、特別展の展示を楽しみつつ観ることができます!!
◇高村光太郎と石川啄木を、わかりやすく知ることができます。
◇入館者に手作りの記念品を差し上げます。
※新型コロナ感染症予防のため、マスクの着用・こまめな消毒、三密の回避のご注意をお願いいたします。
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この手の展示で光太郎に触れて下さるのが、毎年この時期の恒例となっていて、今年で3回目です。
女川つながる図書館特別展「詩人・彫刻家高村光太郎と女川 ~えにしをつなごう~」。
宮城レポート その2 女川町内各所。
女川つながる図書館特別展「詩人・光太郎と賢治 ~えにしをめぐる~」。


初回の一昨年は光太郎がピンで、昨年は光太郎と交流のあった、同じくみちのくゆかりの宮沢賢治とからめての企画でした。そして今年は、やはりみちのく出身で、光太郎と交流のあった石川啄木とのタイアップです。

会場が特設される訳ではなく、図書館内の書架の上だったり、カウンターの前のちょっとしたスペースだったりを使ってのミニ展示ですが、こういう取り組みを行うことも、大切なことだと思います。

来年以降も継続していただきたいものですし、来年こそは女川光太郎祭の復活も切に祈念する次第です。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃石井鶴三、笹村草家人、有賀剛、千葉金右衛門、旭谷正治郎の五氏来訪。炉辺に招ず。昨夜花巻クルミ旅館泊の由。鶴三氏とは四五年ぶりの面会。他の人は皆初対面。


昭和23年(1948)6月20日の日記より 光太郎66歳

石井鶴三は彫刻家。光太郎と明治期から親しかった画家・石井柏亭の実弟です。笹村草家人も彫刻家で、この後、信州安曇野の碌山美術館建設に奔走、光太郎にも協力を要請しました。

001有賀剛は笹村の友人で、神田小川町の汁粉屋主人。光太郎は2日後には有賀のために複数の書を揮毫しています。そのうち1枚は「悠ゝ無一物満喫荒涼美」。前年に作った連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」の一節、「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」を漢文風にアレンジしたものです。

千葉金右衛門は秋田扇田町(現・比内町扇田)の酒造家。旭谷正治郎は同じく秋田横手出身の画商です。平成27年(2015)には、旭谷宛の光太郎書簡などが展示された「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」が、横手市の雄物川郷土資料館さんで開催されました。

都内から演劇公演の情報です。

第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭 青鞜の女たち

期 日 : 2021年8月7日(土)
会 場 : たましんRISURUホール(立川市市民会館)小ホール
       東京都立川市錦町3-3-20
時 間 : 13:00開演 / 16:00開演
料 金 : (全席自由)1,000円

「元始 女性は太陽であった。」明治44年、日本初の女性の手による女性のための雑誌「青鞜」が発刊された。中心となった人物は、フェミニスト 平塚雷鳥。雑誌は与謝野晶子、松井須磨子、田村俊子らを巻き込み華々しく創刊するが...。欧米ではフェミニズムが叫ばれていた時代、日本ではいまだ良妻賢母の道しかなかった。そんな時代に彼女たちは何を感じ、何を考え立ち上がったのか。社会の風に逆らいながらも強く光り輝く女性たちの物語。

町田市文化事業の一環として町田市こども創造キャンパス「ひなた村」で17年間に亘り開催された演劇教室(講師:高垣葵氏)の卒業生を中心に結成されている市民劇団です。小学生から70代の幅広い年齢の役者が所属しています。劇団員募集中!!
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多摩地区の劇団7団体による「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」の一環です。

初演は今年4月。当方、拝見して参りましたが、『青鞜』に集った多士済々の女性たちを軸に、それぞれの女性に関わった男性たちをからめ、総勢20数名のキャストで、様々な愛憎劇が展開されました。主人公の平塚らいてうと「若いツバメ」奥村博史、与謝野鉄幹・晶子に山川登美子の三角関係、松井須磨子には島村抱月、岡本かの子&一平、神近市子及び伊藤野枝と大杉栄のこちらも三角関係、そしてわれらが光太郎智恵子……。
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コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

猫二匹此頃小屋の近くに出没。魚の骨のすてたのをねらふらし。尚畑仕事中、小屋の中に一匹入り居たり。鼠退治によからんか。


昭和23年(1948)6月17日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋付近。熊や狐などの珍しめの動物も現れましたが、野良猫もやって来たそうで(笑)。

ちなみに下記はわが家の猫です(笑)。
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都内からコレクション展情報です。光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

藝大コレクション展 2021 I 期 雅楽特集を中心に

期 日 : 2021年7月22日(木)~8月22日(日)
会 場 : 東京藝術大学 大学美術館 台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日、8月10日(火) ※ただし、8月9日(月)は開館
料 金 : 一般440円(330円) 大学生110円(60円) 高校生以下及び18歳未満は無料
       ( )は20名以上の団体料金

今年の藝大コレクション展では、竹内久一《伎芸天》、《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》、小倉遊亀《径》をはじめとする名品を紹介するとともに、特集として本学が所蔵する「雅楽に関連する作品」にも焦点を当てます。
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昨年4月から5月にかけて開催予定で、コロナ禍のため中止となった「御即位記念特別展 雅楽の美」展の流れを汲む展示かと思われます。

光雲作品は、木彫の「蘭陵王」(明治37年=1904)。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
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「蘭陵王」は雅楽の演目の一つで、中国北斉(6世紀)の蘭陵王・高長恭の故事にちなみます。長恭は、出陣に当たって、常に自らの美しい顔を勇壮な面で隠して兵を率い、連戦連勝を誇ったとのこと。そこで、この作品も、面が外れるように作ってあります。残念ながら、掲げた右手の先が欠けているなど、保存状態が芳しくないのですが、それにしても見事な作といえましょう。像高30㌢ほどです。

当方、平成14年(2002)に茨城県立近代美術館他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際に拝見しましたが、その後、見ていません。

他に、竹内久一の彩色木彫「伎芸天」、小倉遊亀の代表作の一つ「径」などが展示されている「あの名品に会える!」も同時開催。
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コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

外の板を外し、小マヰの張紙をとる。鼠が巣をつくり居り、中から蛇が出てくる。横にしまのある蛇。名を知らず。


昭和23年(1948)6月16日の日記より 光太郎66歳

光太郎、日記の余白にサラサラッと蛇の姿をスケッチしていました。
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蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、奥羽山脈の麓で、湿気が多く、蛇には天国でした。

ちなみに当方自宅兼事務所も低山の麓。やはり近辺で蛇をよく見かけます。3日ほど前に、裏山へ登る坂道で撮った画像。子供の蛇でした。
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山口県から企画展情報です。

特別企画展「書物の在る処――中也詩集とブックデザイン」

期 日 : 2021年7月29日(木)~9月26日(日)
会 場 : 中原中也記念館 山口県山口市湯田温泉一丁目11-21
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日(祝祭日の場合は翌日) 毎月最終火曜日
料 金 : 【一般】 330円 【大学・高校専門学校の学生】220円 
      18歳以下、70歳以上無料

詩集には美しくデザインされた本が数多くあります。詩人たちは詩集を通じて自らの作品世界を表現するために、装幀にさまざまな工夫を凝らしてきました。
中原中也の詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』、3冊のランボー翻訳詩集もまた、高村光太郎、青山二郎、秋朱之介(あきしゅのすけ)らといった、個性豊かな装幀家、出版人の手によってかたちづくられました。それらの佇まいには中也と装幀家それぞれの思いが映し出されています。
本展では、中也と装幀家たちとの関わりや彼らの美意識、そして大正から昭和初期にかけて出版された詩集のブックデザインを紹介します。
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関連行事等

特別コーナー「中也の詩集をいま作るなら……」
昭和初期に出版された中原中也の2冊の詩集『山羊の歌』と『在りし日の歌』。これらが現代に出版されるなら、どのような装幀の詩集になるでしょうか?現代に生きる装幀家、詩人、アーティストが中也の詩の世界を新たな視点で捉え、今なお色あせることのないその魅力と現代性を、“詩集”という形によって表現し、その作品を展示します。
【参加メンバー】岡本啓(詩人)、カニエ・ナハ(詩人、ブックデザイナー)、佐野裕哉(グラフィックデザイナー)、ゾエ・シェレンバウム(アーティスト)、鈴木啓二朗(アーティスト)、秦博志(資料修復家)[50音順、敬称略]

オンライン座談会「中也詩集を装幀して」
8月7日(土)13:30~15:30
「中也の詩集をいま作るなら……」の参加メンバーのうち4名が、中也の詩集を装幀してみて感じたことや制作の裏話、ブックデザインについて思うことなどを語ります。要予約

オンラインワークショップ「青山二郎の装幀術にまなんでみる」
8月22日(日)13:30~15:30(予定)
講師 カニエ・ナハ(詩人、ブックデザイナー)
定員 15名程度(要申込・先着順)
対象年齢 小学生以上(低学年は保護者等にサポートがあると好ましい)
用意するもの ハサミ、糊、ペン(筆ペン)等
開催方法 Zoomを利用してオンラインで開催


元々、昨年開催されるはずだったようですが、あはりコロナ禍で延期となったとのこと。

自著をはじめ、生涯にかなりの数の装幀を手がけた光太郎。中也の『山羊の歌』(昭和9年=1934)のそれも光太郎です。
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もちろん題字の揮毫も光太郎。美しい、という感じの書体ではありませんが、光太郎にしか書けない味わい深い文字です。

そこで、キャプションにあるように、中也は「高村さんのような字が好きなんだ、あれはいい字だよ」と語ったとのこと。当方に言わせれば、中也は中也で、実に「いい字」を書いていたのですが……。
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『山羊の歌』をはじめ、中也著書の装幀に的を絞った企画展。関連行事等も充実しています。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

富蔵さんが、余のアトリエ建築につき骨折りたい意見ある由をきかせる。木材なども今買つた方が後よりもやすからんといふ。考へて置く事にする。大体は今とりかかる気の無き旨答へておく。


昭和23年(1948)6月15日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋。村人たちや花巻町の人々が、再三、光太郎にアトリエを建ててあげようとしました。しかし、当の光太郎は、なかなか乗り気になりません。やはり戦時中の翼賛活動を恥じての「自己流謫」中、ということで、きちんとした彫刻制作は封印する、という厳罰を自らに課していたためです。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松からの情報です。

プレスリリースから。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/31(土)開幕! 今年で開催10周年!カラフルなインスタ映えメニューも多数登場!

 富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2021年7月31日(土)~9月20日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。

 今年で10年目を迎える本イベントは、光の天の川を中心に花や動物などをモチーフにした様々なイルミネーションが楽しめる夏の風物詩です。60万球にパワーアップした今年は、「光の天の川」が過去最多の8色になって光り輝くほか、虹色の「光のアーチ」やたくさんのひまわりが壁に飾り付けられた「光のサンフラワー」などフォトジェニックなスポットが新たに登場し、安達太良山の斜面を彩ります。また、暗闇に光るかき氷や、光る氷ドリンクといった光るメニューも登場し、イベントを盛り上げます。

 さらに、期間中の特定日には、あだたら高原の夜空に願いを込めてたくさんのスカイランタンを浮かべる参加型のイベント「LEDスカイランタンフェスティバル」も開催。イルミネーションの輝きと相まって、ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。

 また、夜だけではなく昼から来ても楽しめる「あだたら高原リゾート」では、夏限定の爽やかなメニューが多数登場。梅の酸味がアクセントの「梅とチキンのさっぱり冷やしうどん」や岳温泉名物の温泉たまご「とろんたま」と納豆、オクラ、みょうががトッピングされた「とろんたま入り 冷やしネバトロうどん・そば」のほか、高村光太郎の『智恵子抄』で謳われた「ほんとの空」をイメージした「あだたらソーダ」や「あだたらかき氷ソフト」はインスタ映え間違いなしです。
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 あだたら高原リゾートでは、ご来場いただく全てのお客様に安心してお楽しみいただけるよう、感染症対策を徹底しております。この夏は、阿武隈の山々を見渡す絶景の大パノラマと幻想的なイルミネーションの世界を楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

【「あだたらイルミネーション」概要】
・開催期間
 2021年7月31日(土)~9月20日(月祝)
 ※8月30日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
・営業時間
 19:00~21:00
 ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
・料金
 入場料:中学生以上500円、小学生以下300円
 入場料とロープウェイ乗車料のセット:中学生以上1,300円、小学生以下800円
・特設サイト
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■ LEDスカイランタンフェスティバル開催!
 昨年初開催し大好評をいただいたイベント「LEDスカイランタンフェスティバル」が今年の夏パワーアップして開催。オレンジ、ピンク、グリーン、ブルー、レッドの5色のランタンが登場。ここでしか見られない幻想的で美しい光景が広がります。
・開催日
 8月7日(土)、14日(土)、21日(土)、28日(土)、
 9月4日(土)、11日(土)、18日(土)、19日(日)
・時間
 18:00受付開始、20:00ランタンリリース予定
・料金
 3,500円(ランタン1基、イルミネーション入場料1名分含む)
・参加方法
 各開催日前日までの予約申込み
 ※各日先着100名様限定
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というわけで、盛りだくさんの内容となっています。

スカイランタンフェスティバル、昨年は秋口に行われましたが、好評につき、回数が倍増しました。こちらは「ほんとの空に願いをこめて」のサブタイトルが付いています。

「ほんとの空」をイメージした「あだたらソーダ」や「あだたらかき氷ソフト」、この季節、毎日でも賞味したいものです(笑)。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

キヤベツにたかる蟲にD・D・T・をまく。

昭和23年(1948)6月10日の日記より 光太郎66歳

「DDT」は「ジクロロジフェニルトリクロロエタン」、日本では現在使用禁止となっている強力な殺虫剤です。

当方の年代ですと、かつてそういうものが使われていた、という知識はありますが、現物は見たことがありません。若い世代の皆さんには、「何のことやら?」でしょう。

農薬以外に、シラミ等の駆除にも用いられ、終戦直後などは、子供たちが頭からぶっかけられた、などということもあったようです。

『福島民報』さんの記事で、智恵子の故郷、福島二本松からの情報です。

周遊観光タクシーが20日から半額 来年2月末まで 福島県二本松市

 夏の観光シーズンに合わせ、福島県二本松市内の名所を巡る「にほんまつ周遊観光タクシー」が20日から通常の半額で利用できる。二本松地区ハイヤータクシー経営者協議会の企画で来年2月末まで。
 JR二本松駅と岳温泉発着で市内を巡る15コースを想定している。4人乗りの小型の場合、二本松駅発着で霞ケ城公園、智恵子の生家、市内各蔵元を巡る「ほろ酔いコース」は、通常1万円が5000円に、岳温泉発二本松駅着で東北サファリパーク、霞ケ城公園、安達ケ原などを巡るルートは通常1万2000円が6000円になる。
 問い合わせ、予約はタクシーを運行する昭和タクシーか、丸やタクシーへ。

二本松市さんのサイトに、パンフレットが出ています。
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昨年も同様のキャンペーンを打っていましたが、好評につき、今年も実施、というところでしょうか。現地では、路線バスも無くはないのですが、やはり玄関横付けで廻れるタクシーの方が楽でしょう。

公共交通機関を利用してあちら方面に行かれる際には、ぜひご利用下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる前藤島宇内氏の「谷間より」といふ題簽を二枚書き封書にする。


昭和23年(1948)6月8日の日記より 光太郎66歳

藤島宇内は、当会の祖・草野心平の『歴程』に拠った詩人です。『歴程』同人の中では、戦後、いち早く光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れています。

その後も、昭和27年(1952)になって、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の際には、青森県とのパイプ役の一人となり、さらに光太郎上京後には、中野のアトリエに足繁く通い、身の回りの世話等をしてくれました。
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情報を得るのが遅れまして、始まっていますが……。

皇室の名宝 ―皇室と九州を結ぶ美―

期 日 : 2021年7月20日(火)~8月29日(日)
会 場 : 九州国立博物館 福岡県太宰府市石坂4 - 7 - 2
時 間 : 9時30分〜17時00分
休 館 : 月曜日  ただし8月9日(月)8月16日(月)は開館。8月10日(火)は休館
料 金 : 一般 2,000円 高大生1,200円 小中生800円

 天皇陛下の御即位にともない、新たな時代を迎えました。新たな御代(みよ)をことほぎ、新元号「令和」ゆかりの地、太宰府において、皇室の名宝をご紹介する展覧会を開催いたします。

 本展は、宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する皇室のコレクションの中から、皇室の御慶事(ごけいじ)に際して九州各地から献上された品々や、各時代の日本美術の名品をとおして、皇室の文化継承、皇室と九州の深いつながりをご紹介します。時代を越えて皇室が守り伝えてきた貴重なコレクションが、九州の地でまとまって公開される初めての機会です。
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関連行事

①記念対談「やきもの王国・九州と近代の皇室」(終了)
日時:令和3年7月24日(土)13時30分〜15時30分
出演:沈壽官 氏(沈壽官窯十五代・陶芸家)、岡本隆志 氏(宮内庁三の丸尚蔵館・主任研究官)

②記念講演会「美を伝えゆく―《動植綵絵》と《春日権現験記絵》の修理をとおして」
日時:令和3年8月8日(日)13時30分〜15時00分
講師:太田彩 氏(宮内庁三の丸尚蔵館・首席研究官)

③特別展リレー講座
日時:令和3年8月1日(日) 会場:九州国立博物館1階ミュージアムホール
[13時30分〜14時10分]「九州と帝室技芸員」
  望月規史(九州国立博物館主任研究員)
[14時20分〜15時00分]「皇室と九州・沖縄をむすぶ美」
  原田あゆみ(九州国立博物館文化財課長)
定員:140名(*変更する場合があります)
*聴講無料、ただし本展観覧券もしくはQRチケット画面の提示が必要
[申込み方法]往復はがき、もしくは下記サイトで受付。
ご希望のイベント名、郵便番号、住所、希望者全員の氏名(ふりがな)、電話番号、人数(1通につき最大2名まで受付可)を明記の上、下記宛にお申し込みください。

④公開イベント 「さかなクンと一緒にむかしの海を探検だ!」(終了)
日時:令和3年7月25日(日)第1回 11時00分~11時45分・ 第2回 14時00分~14時45分
出演:さかなクン



光太郎の父、光雲の手になる作が2点、出ています。

まず、宮内庁三の丸尚蔵館さん所収の大きな木彫「松樹鷹置物」(大正13年=1924)。
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そしてブロンズの「萬歳楽置物」(大正5年=1916)。こちらは木彫原型が、光雲と、その高弟の山崎朝雲の作、螺鈿の施された台座部分の制作者は、由木尾雪雄という蒔絵師です。大礼(即位式)に際して貴族院から大正天皇に献上されました。

それぞれ拝見したことがありますが、共に逸品です。

その他、奈良時代から昭和までの、まさしく「名宝」がずらり。出品目録はこちらです。特に、今月、国の文化審議会から国宝指定の答申があった、「蒙古襲来絵詞」(13世紀)、伊藤若冲の「動植綵絵」など、タイムリーな作も出品されています。
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011ちなみに同時に答申された、高階隆兼の「絹本著色春日権現験記絵」、小野道風の「屏風土代 保延六年十月廿二日藤原定信奥書」も、今回の九州国立博物館さんで展示されています。

これまで、こうした皇室所蔵の作は、慣例的に、文化財指定の対象外とされてきたところがありましたが、今回の答申から、そのタブーが取り払われました。

そうなると、光雲の「松樹鷹」なども、やがては、国宝とまではいかなくとも、重要文化財指定くらいは受けてもおかしくありません。

ただ、三の丸尚蔵館さんの収蔵品は1万点近くを数え、そのうち国宝や重要文化財級は約2,500点といわれていますので、少しずつ、ということになるのでしょう。

さて、コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝佐藤弘さん、配給の作業衣を届けてくれる。新製品にて大きさよろしく、品もわろくなし。250円にては安価也。


昭和23年(1948)6月3日の日記より 光太郎66歳

「佐藤弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入植していた青年です。当時、開拓者には配給が多く、しかし、配給といっても無料ではありませんでした。そこで佐藤は買いきれないものを光太郎に廻していたようです。

当該の「作業衣」、これかな、と。
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6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」を放映して下さっている、地上波日本テレビ系「心に刻む風景」。第5回の放映が明日夜です。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子⑤ 栃木県塩原温泉…最後の旅 泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する

地上波日本テレビ 2021年7月28日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#5 舞台(栃木 塩原温泉)
昭和8年、統合失調症を患った智恵子のために柏屋旅館に滞在。
智恵子を少しでも癒そうと自然の中に連れ出し、優しく寄り添う。
しかしこれが2人にとって最後の旅になってしまう。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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昭和8年(1933)8月24日から、9月初旬にかけての、光太郎智恵子最後の二人旅。

8月23日、光太郎は心を病んだ智恵子と初めて正式に結婚。その届けを本郷区役所に提出しました。この時光太郎、数え51歳、智恵子は同じく48歳。光太郎にしてみれば、万が一、自分の方が先に逝くことになってしまったら(実際、光太郎も既に結核に罹患していました)、事実婚だった智恵子は何も相続できないので、その関係です。

24日に東京を発ち、翌25日には、福島二本松の智恵子実家の菩提寺・満福寺さんで墓参、その足で裏磐梯川上温泉に向かいました。
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その裏磐梯での思い出を、約5年後、詩にしたのが、「山麓の二人」。

  山麓の二人那須

 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡いて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたくしは黙つて妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたくしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。

この詩の一節が、明日の放映のキーセンテンスとして使われます。

二人はその後、宮城蔵王の青根温泉を経て、9月1日には再び福島に戻り、土湯温泉の旅館街から山奥に入った不動湯に宿泊しました。この旅館は平成25年(2013)に火災焼失、現在は焼け残った露天風呂を使い、日帰り入浴施設として再オープンしています。

そして、9月4日、この旅最後の宿泊地、塩原温泉。右上の画像は、二人が投宿していた柏屋旅館近くの鹿股川の渓谷で撮られたもので、現存が確認できている智恵子最後の写真(その後、翌年に九十九里で撮った写真もあったらしいのですが、当方、未見)です。

番組では、塩原の映像を中心に、この光太郎智恵子最後の旅をふりかえるとのこと。全6回の構成の中で、最も悲しい回となりそうです。

先週、7月21日(水)の放映は、真逆の内容で「幸せのひととき」。光太郎智恵子がお気に入りだった、日比谷松本楼さんが舞台でした。
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記録に残っている、光太郎智恵子の日比谷松本楼さん来店は、明治45年(1912)の7月。先々週放映の犬吠埼篇より前でしたが、その後も訪れただろう、ということで。
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引用されたのは、詩「人類の泉」(大正2年=1913)の一節。
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毎年4月2日、連翹忌の集いの会場として使わせていただいている日比谷松本楼さん。昨年と今年は、コロナ禍のため中止と致しましたが、ワクチン接種もそれなりに進んでいますので、来春には、またここで皆様にお目にかかれると信じております。

さて、明日の塩原温泉篇、オリンピック中継の合間に(笑)ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヨタカの声しきりにきこえる。


昭和23年(1948)5月28日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、ヨタカも生息していたのですね。そういえば、やはり花巻の宮沢賢治の童話に「よだかの星」(大正10年=1921頃)がありますね。


当方、見たことも、啼き声を聞いたことも無いように思います。

ちなみに賢治が没したのは、光太郎智恵子が塩原から東京に帰ってすぐの9月21日。光太郎は智恵子を置いて駆けつけることも出来ず、当会の祖・草野心平に金を握らせ、派遣しました。

昨日は、千葉県印西市に行っておりました。お世話になっています、書家の菊地雪渓氏が、書道塾を開設なさったということで、そのお祝い的な。

菊地氏、たびたび光太郎詩を題材にされた作品を書かれ、各種展覧会で入賞なさったりしています。

第38回日本教育書道藝術院同人書作展
第40回東京書作展
第42回東京書作展

また、そうした作品を、連翹忌レモン忌にお持ち下さったり、書家の眼から見た光太郎書について高村光太郎研究会で発表されたりなさっています。その発表は活字にもなさいましたが、慧眼、と唸らされるものでした。

菊地氏、築80数年という古民家を借りられ、書道塾を始められたということで、これは行かざぁなるめい、と、参上した次第です。HPはこちら

印西市も意外と広く、都心に近い千葉ニュータウンなどがある区域ではなく、北部の利根川に近い木下(きおろし)方面で、江戸時代には利根川水運の木下河岸(きおろしがし)が栄えた地域。したがって、後で紹介しますが、レトロな建物も多く残っています。
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元は医院だったという建物だそうですが、実にいい感じです。

部屋の間仕切りの戸は、障子紙でなく磨りガラス。昭和初期としてはモダンです。桟に施された地紋も手が込んでいます。

伝統的な「麻の葉」が多い感じでした。
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菱紋や、工字紋、井桁紋の変形的な紋様も。
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古建築好きにはたまりません(笑)。

ちなみにこの手の地紋は、光太郎も少年時代から木彫の修業の一環で、毎日のように木の板に彫っていました。光太郎曰く、声楽家の発声練習のようなもの、だそうで。昭和17年(1947)刊行の評論集『造型美論』中の「木彫地紋の意義」には、実際に光太郎が彫った地紋の拓本が図版として掲載されています。
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ダミーのマントルピース。当方の祖父(職業軍人でした)宅にもありました。これもモダンな邸宅のお約束です。
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教室として使われている部屋は、こんな感じ。
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内閣総理大臣賞に輝かれた作品が展示されていました。
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菊地氏と、あれこれお話をさせていただきました。

その際に頂いた、書道塾のパンフレット等。
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京扇子の白竹堂さんと組まれて、扇面揮毫の販売もされているそうです。智恵子の遺した言葉「世の中の習慣なんて……」を書かれたものもラインナップに。残念ながら、昨日の段階では品切れということでゲットできませんでしたが(笑)。
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菊地氏、今後も光太郎詩文に取り組まれるそうで、さらなるご健筆を祈念いたしつつ、帰途に就きました。

ところで、書道塾さんに伺う前、約束の時間に遅れちゃ行けないと思って、少し早めに自宅兼事務所を出たところ、早く着きすぎてしまったので、ほど近い場所の古建築を見て廻りました。

現役の蕎麦屋、「柏屋」さん。
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現在は単に車庫として使われているらしい建物。
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昔は医院だった建物。いかにもです。
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醸造業の蔵元的な。
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KIMG5252国指定天然記念物の「木下貝層」を切り出して作った石灯籠。約12万年前、このあたりが内海だった頃の名残です。

その他、開館日ではなかったので割愛しましたが、蔵を改装して作られた「吉岡まちかど博物館」さん、古民家カフェの「町家カフェむさしや改めShimiya」さんなど、古建築好き必見のスポットも数多く遺っています。

印西書道塾さんと併せ、ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに書道塾さんでは、7月31日(土)に以下のイベントを企画されているそうです。

【 題目 書に触れる 】
日時:7/31(土)
対象:大人(高校生以上)10:00~12:00
   児童(中学生以下)14:00~16:00
会費:無料
予約:要(電話にてご予約ください)
電話:0476-33-6382
人数:先着8名様
道具:不要(こちらでご用意します)
内容:主に漢字について、その発祥から現在にいたるまでの流れに従って、気楽に座談会形式でお話しします。最後に実際に筆を持って中国の故事や日本の俳句などお好きなものを書いてみましょう。書道に触れる良い機会と思います。どうぞお気軽にご参加下さい。


【折々のことば・光太郎】

武者小路さんに返事、新しき村展覧会への出品はどうか分からぬ旨。


昭和23年(1948)5月26日の日記より 光太郎66歳

この葉書が、調布市武者小路実篤記念館さんに現存しています。

おてがみいただきました。あの変な詩を快くうけ入れて下さつた事を感謝してゐます。雑誌からもらつた金は大いに助かりました。
新しい村三十年記念展覧会に出品の事まだ何ともお答へ出来ません。穣さん御承知の通りの光線メチヤメチヤな小屋なのでまだ本格的な彫刻は始めません。やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎないので、東京の展覧会に送るのはどうかと思つてゐますが、いづれ来月□手紙で申上げる事にいたします。今日は茄子の移植をやります。

あの変な詩」は、この年、武者小路が主幹となって発刊された雑誌『心』に掲載された「人体飢餓」と思われます。「□手紙」の「」は染みのため判読不能でした。

メインは、この年秋に神田共立講堂で開催された「新しき村三十周年を祝う会」に関する内容です。「穣さん」は武者小路の三女・辰子の夫で後に和光大学名誉教授を務めた武者小路穣(みのる)。この当時、日本読書購買利用組合(のち日本読書組合と改称)に勤務、光太郎が編集に当たった『宮澤賢治文庫』の出版に携わっていました。

やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事」に関しては、そうして作られたものの現存は確認できていません。

同じ日の日記に「阿部さんの魚板彫刻は南部の鮭にきめたり」とありますが、前後に関連する記述が無く、「阿部さん」も誰だか分かりません。おそらく、親しかった林檎農家の阿部博かな、という気もするのですが。

情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

新刊です。といっても、2ヶ月ほど経ってしまいましたが。

博覧男爵

2021年5月20日 志川節子著 祥伝社 定価1,800円+税

日本に始めて博物館を創り、知の文明開化を成し遂げた挑戦者!

幕末の巴里(パリ)万博で欧米文化の底力を痛感し、武力に頼らないに日本の未来を開拓する男がいた!

日(ひ)の本(もと)にも博物館や動物園のような知の蓄積を揃えたい!

黒船の圧力おびただしい幕末。信州飯田で生まれ育った田中芳男は、巴里(パリ)で行なわれる万国博覧会に幕府の一員として参加する機会を得た。その衝撃は大きく、諸外国に比して近代文化での著しい遅れを痛感する。軍事や産業を中心に明治維新が進む中、日の本が真の文明国になるためには、フランス随一の植物園ジャルダン・デ・プラントのような知の蓄積を創りたい。「己れに与えられた場で、為すべきことをまっとうする」ことを信条とする芳男は、同じ志を持つ町田久成や大久保利通らと挑戦し続け、現代の東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いていく……。
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田中芳男(天保9年=1838~大正5年=1916)は、元々、信州飯田の医師の家に生まれ、本草学を修めました。その後、興味の対象が広がる中で、幕府の蕃書調所に出仕、博物学者として名を成します。

慶応3年(1867)のパリ万博に出張し、彼の地の文化施設、物産等を実地に見て、日本を文化先進国とする大望を抱いて帰国。幕府の瓦解や戊辰戦争、西南戦争など、様々な苦難を乗り越え、日本でも各種の博覧会を開催、そして東京帝室博物館(現・東京国立博物館)などを造り上げました。「政治や軍事、産業の面ばかりに目が向きがちだが、文化面での開化なくして真の文明国とはいえない」という信念が、そこにありました。

その功績が認められ、晩年の大正4年(19815)、男爵位に列せられたため、タイトルが「博覧男爵」となっています。

物語の終盤近く、明治10年(1877)、第一回内国勧業博覧会が上野で開催されるという場面で、出品者を募る中、田中が光太郎の父・光雲の師匠であった高村東雲の工房を訪れるシーンがあります。

「博覧会」と言われても、東雲はじめ、何のことだか分からないという人が殆どでした。そこで田中は、「何も特別なものではなく、普段作っているようなものを出品してくれればいい」と、東雲に告げます。すると東雲、「それでは弟子の光雲に作らせましょう」。田中が「それは困る」と言うと、東雲は「いや、この者の技倆は保証します」。

このあたりのやりとりは、作者・志川さんの創作かな、という気がしますが、いずれにせよ、光雲は東雲の名で白衣観音像を制作し、出品。見事、一等龍門賞に輝きました。

ところで、慶応3年(1867)のパリ万博といえば、かの渋沢栄一(当時・篤太夫)も、徳川慶喜の実弟・徳川昭武の随員として参加しています。そこで、本書でも、ちらっと渋沢が登場しています。

また、渋沢を主人公とするNHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」、7月11日(日)の放映がまさにパリ万博の模様でした。
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キャストとして、田中の名はクレジットされていませんでしたが、上の画像の武士団の一人が田中、という感じですかね。

それにしても、現在、双子パンダの誕生に湧く上野動物園さんや、光太郎の母校・東京美術学校(現・東京藝術大学さん)などを含めた上野一帯の各文化施設が、どういう経緯で整備されていったのかなど、非常に興味深く拝読いたしました。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時学校増築上棟式に列席。つついて校庭にて宴会。拡声器など使つて唄つたり踊つたり。歌のうまき人数人あり。五時頃けへる。折詰やお祝の餅をもちかへる。

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「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても500メートルほど離れていますが)の、山口小学校。この年4月、分教場から小学校に昇格しました。

それにしても、のどかですね(笑)。しかし、光太郎が帰った後、「会計に関する事のもつれ」で、村の顔役同士の乱闘騒ぎが起きたそうで(笑)。

今月16日、今年度の重要無形文化財保持者(人間国宝)認定の答申がありました。

「共同通信」さん。

人間国宝に新たに4人、琉球舞踊初認定 文楽勘十郎さんも

 文化審議会は16日、重要無形文化財保持者(人間国宝)に、琉球舞踊立方の宮城幸子さん(87)=那覇市=と志田房子さん(84)=東京都練馬区=ら4人を認定するよう萩生田光一文部科学相に答申した。琉球舞踊の分野からの人間国宝は初めて。
 他の2人は人形浄瑠璃文楽の人形遣いの桐竹勘十郎さん(68)=大阪市=と茶の湯釜の角谷勇圭さん(78)=大阪府東大阪市。政府は秋にも答申通り告示し、人間国宝は計114人となる。
 琉球舞踊は2009年に国の重要無形文化財に指定されたが、その技術を体得した個人を認定する人間国宝はいなかった。今回踊り手の「立方」2人が選ばれた。
 勘十郎さんの父は人間国宝の故宮永豊さん。勘十郎の名は父から継いだ。同じく人間国宝で女形遣いとして定評があった吉田簑助さんに師事し、立役(男役)が得意な父からも学んだことで役柄を広げた。伝統工芸の茶の湯釜は、保持者の死去で09年に解除されて以来となる。角谷さんは父も茶の湯釜の人間国宝だった。
 文化審はこのほか、指定済みの重要無形文化財の保持者団体構成員として、一中節保存会(東京・港)の1人の追加認定も求めた。一中節は三味線音楽の一種。

今回、認定のための答申があった4名の方のうち、文楽の桐竹勘十郎さん。NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」に準レギュラーとして時折出演され、文学作品の一節等を人形を遣いながら演じられています。

光太郎詩も、複数回。『智恵子抄』から、「人に」(大正元年=1912)と「あどけない話」(昭和3年=1928)。
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『日本経済新聞』さん。

「常に新しいことを」文楽・桐竹勘十郎さん人間国宝に

 「師匠からは電話で『おめでとう』と5回。大変うれしかった」人形浄瑠璃文楽の人形遣い桐竹勘十郎さんは認定を受けた喜びとともに、今年4月に引退した人間国宝の師匠吉田簑助さんへの思い、感謝の言葉を繰り返した。「その後、師匠の奥様から『現役の時に一緒になりたかったな』とおっしゃっていたとうかがいました」
 1953年、大阪生まれ。父は立役を中心に遣い豪快な芸風で鳴らした、二代目勘十郎さん。14歳の時、人形遣いになりたいと話すと父は屈指の女形遣いである弟弟子、簑助さんへの入門を指示した。父と師匠、2人の人間国宝の芸を継ぎ、立役、女形問わず命を吹き込む表現力、チャリ(笑いを誘う滑稽な演技)も我が物とする芸域の広さが高く評価される。
 54年間、芸を磨いてきた日々を「役、人形、文楽自体を好きになることが上達への一番の近道だった」と振り返る。「若い人たちにもそう伝えている。これからは後進の指導・育成を第一に。もっともっと力を入れていきたい」。次代への継承を担う責任と覚悟も新たにする。
 若い頃から他ジャンルとの交流や子供向けテレビ番組への出演、文楽では珍しい新作の執筆など魅力発信にも積極的に取り組んできた。今後も「文楽の未来のために(多くの人に)見に来て、喜んでいただける新作は必要だと思う」。「常に何か新しいことをやりたい。もうこれは性分。そのために健康で長く続けたい」とさらなる活躍を誓う。
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関西テレビさん。

人形浄瑠璃 文楽 桐竹勘十郎さん人間国宝に認定へ

 人形浄瑠璃文楽の桐竹勘十郎さんが国の重要無形文化財「人間国宝」に認定されることになりました。
 桐竹勘十郎さん(68)は、女方・立役を問わず抜きん出た表現力を持つ人形遣いで文楽の上演に欠かせない存在です。
 後進の育成にも尽力するなど業績が評価され秋にも「人間国宝」に認定されることになりました。
【桐竹勘十郎さん】
「日に日に身が引き締まるといいますか、これはえらいことになったなという感じです」
 師匠で人間国宝の吉田簑助さんは今年4月に引退したばかりでした。
【桐竹勘十郎さん】
 「おめでとうおめでとうおめでとう、ずっとおめでとうを言ってくれはったんです。それがものすごく嬉しかったんです」
 勘十郎さんは8月3日まで大阪の国立文楽劇場の公演に出演しています。
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今後とも、さらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

朝のみそ汁にハウレン草、山東菜を入れる。山東菜相当に育ち、間引にして汁に丁度よし。
昭和23年(1948)5月16日の日記より 光太郎66歳

「山東菜」は、白菜の仲間だそうです。育ちすぎるのを間引いて、汁の実にする、かしこいですね。

7月18日(日)の『東京新聞』さん。現代教育行政研究会代表・前川喜平氏によるコラムで、光太郎の父・光雲と、光太郎について触れられていました。

本音のコラム 楠木正成の亡霊

 二〇二一年防衛白書が公表された。台湾情勢の安定が日本の安全保障にとって重要との記述が盛り込まれたが、このような記述は専守防衛の原則を逸脱している。 
 だが、僕がまず違和感を持ったのは、その表紙が皇居外苑の楠木正成像を描いた墨絵だったことだ。高村光雲と弟子が造ったこの銅像は確かに傑作だが、なぜそれが防衛白書の表紙なのか。 戦前の皇国史観において、楠木正成は天皇に忠義を尽くした忠臣と称(たた)えられた。七生滅賊(七回生き返って朝敵を滅ぼす)は正成が残した言葉だ。
 高村光太郎が敗戦後に書いた「楠公銅像」という詩がある。楠木像の木型を天皇にご覧に入れたとき剱(つるぎ)の楔(くさび)を一本打ち忘れたため、風が吹くたび劔が揺れた。「もしそれが落ちたら切腹と父は決心していたとあとできいた」「 父は命をささげていたのだ。 人知れず私はあとで涙を流した」この詩は父光雲の忠義を賛美しているのではない。それに感動した自分を深く反省しているのだ。
 光太郎は「典型」という詩で自らを「三代を貫く特殊国の特殊の倫理に鍛えられ」た「愚劣の典型」と呼んだ。 楠木正成に象徴される忠君愛国の倫理を捨て、その倫理に染まっていた愚劣な自己と決別したのである。私たちは光太郎の精神的転回を追体験すべきだ。 楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。 

001右が問題の『防衛白書』表紙です。前川氏のコラムを読む前に、この表紙を目にしましたが、やはり当方も強烈な違和感を感じました。最初に見たのはツィッターででした。ネトウヨが「素晴らしい! 七生報国の精神の顕現だ!」と大絶賛していたのです。

前川氏もおっしゃる通り、光雲が主任となって造られた楠木正成像、この時代の銅像としての出来は群を抜いています。また、楠木正成という人物が、ある種の「英傑」であったであろうことを肯んずるにも吝かではありません。また、西元祐貴氏による雄渾な墨絵も確かに素晴らしいと思います。

しかし、なぜ、『防衛白書』に楠木正成なのか、ですね。どうも、本当は東郷平八郎なり、山本五十六なりを持ってきたかったものの、そうもいかないので、仕方がないから楠木正成、というふうに感じられます。深読みしすぎでしょうか?

さて、前川氏が引かれている光太郎詩「楠公銅像」(昭和22年=1947)、以下の通りです。

    楠公銅像002


 ――まづ無事にすんだ。――
 父はさういつたきりだつた。
 楠公銅像の木型(きがた)を見せよといふ
 陛下の御言葉が伝へられて、
 美術学校は大騒ぎした。
 万端の支度をととのへて
 木型はほぐされ運搬され、
 二重橋内に組み立てられた。
 父はその主任である。
 陛下はつかつかと庭に出られ、
 木型のまはりをまはられた。
 かぶとの鍬形の剣の楔が一本、
 打ち忘れられてゐた為に、
 風のふくたび剣がゆれる。000
 もしそれが落ちたら切腹と
 父は決心してゐたとあとできいた。
 茶の間の火鉢の前でなんとなく
 多きを語らなかつた父の顔に、
 安心の喜びばかりでない
 浮かないもののあつたのは、
 その九死一生の思が残つてゐたのだ。
 父は命をささげてゐるのだ。
 人知れず私はあとで涙を流した。

光太郎が、戦時中の翼賛活動を推進したことを恥じ、戦後になって蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれました。自らの半生を振り返って書かれた20篇から成る連作詩「暗愚小伝」中の1篇です。

「暗愚小伝」全体は、翼賛活動の積極的推進に関わった自らの「暗愚」を表出するものですが、「楠公銅像」を含む幼少年期を振り返った「家」の項7篇は、そうした意識は薄いと思います。のちに「天皇あやふし」と思うに到った愚劣な自己が、どのように形成されたのか、――吉本隆明の指摘する「骨がらみ」の問題――という自己分析の側面が強いと思われます。

いずれにせよ、前川氏の箴言どおり、「楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。」ですね。

【折々のことば・光太郎】

朝のみそ汁にアイコを入れる。この山菜美味。


昭和23年(1948)5月15日の日記より 光太郎66歳

「アイコ」は俗称で、正式には「ミヤマイラクサ」。光太郎が蟄居していた岩手のお隣、秋田では「山菜の女王」と呼ばれ、珍重されているそうです。






当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の書評が、『毎日新聞』さん及び系列の地方紙に掲載されました。

『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」』=北川太一・著、小山弘明ほか監修 (文治堂書店・1650円)

000 北川太一は1925年生まれ。長く高校の定時制教員を務める傍ら、高村光太郎(1883~1956年)の全集編纂(へんさん)、研究、顕彰に努めた。旧制東京府立化学工業学校で同学年だった吉本隆明が評論『高村光太郎』(決定版、66年)で北川への信頼、畏敬(いけい)を記すなど、知る人ぞ知る存在である。2020年1月に94歳で没した。死の前年に書かれた遺稿に親交のあった人々の文章を加え、「追悼/回想文集」を兼ねる。
 遺稿の表題は、宮沢賢治(1896~1933年)の「雨ニモマケズ」中にある「デクノボー(木偶の坊)」と、光太郎が戦後に書いた詩「暗愚小伝」の「暗愚」を指す。どちらも複雑な自己規定を語る言葉だが、北川はこれらをキーワードとして両者の関わりを掘り下げている。
 光太郎が早くから賢治を高く評価したことは知られているが、著者は、ほぼすれ違いに終わった二人の交渉、戦後の光太郎が賢治とのゆかりで岩手県花巻近郊に送った流謫(るたく)の過程を丹念にたどる。その上で「雨ニモマケズ」の「反語」性という大胆な仮説を提示しつつ、デクノボーから暗愚への一筋の連なりを見いだす。生の意味を問う魂の軌跡。


「監修」を頼まれ、まぁ、結局、集まった原稿(原稿の選定は版元の文治堂書店さん)に、おかしなところはないかのチェックをし、手直し。さらに30ページほどで解説のような文章「「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一」を書かせていただきました。

最も悩んだのは、タイトルの「デクノバウ」。

元々、賢治が昭和6年(1931)、手帳に記した段階では「デクノボー」となっていました。
001
ではなぜ、北川先生が「デクノバウ」としたのかというと、光太郎が、賢治没後の昭和13年(1938)に、雑誌『婦人之友』に発表した散文「宮沢賢治の詩」で、「デクノバウ」と表記しているためです。

光太郎は、

此の詩人の死後、小さな古い手帖の中に書き残された言葉があつた。その人となりを知るに最も好適なので此処に採録して置く。

とし、この後、「雨ニモマケズ」全文を記しています。その中で、該当箇所が「デクノバウ」となっているのです。光太郎、この時、手帳そのものを見ながら筆写したわけではなく、既に活字になっていたものから引き写したと思われます。ちなみに歴史的仮名遣いでは「木偶の坊」は確かに「デクノバウ」となります。おそらく賢治は「木偶の坊」という漢字表記を思い浮かべることなく、発音通りに「デクノボー」と書いたのではないでしょうか。

そして北川先生も、光太郎の「宮沢賢治の詩」を最初に引いていらして、そのため、「デクノバウ」とされているのです。

そこで、賢治が書いた通りに「デクノボー」と直すか、正しい表記の「デクノバウ」で行くか悩んだのですが、結局は「デクノバウ」のままとしました。

まだそう言う声は聞こえてこないのですが、もし、「賢治は「デクノボー」と書いてるぞ、「デクノバウ」とはなんだ、けしからぁん」的なご意見がありましたら、そういう経緯で「デクノバウ」としていますので、よろしくお願いします。はっきり言うと、コアな賢治ファンの中には、狂信的ともいえる人が少なくなく、すみませんが、辟易することがあります。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、ぜひお買い求め下さい。また、他の書評欄等でもぜひ紹介していただきたいものだと存じます。

【折々のことば・光太郎】

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳新らし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。


昭和23年(1948)5月11日の日記より 光太郎66歳

この時期、たてつづけに三回、花巻南温泉峡・鉛温泉さんに宿泊しています。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、4㌔㍍ほど歩いて、当時走っていた花巻電鉄の二ツ堰駅まで行けば、意外と楽に行けたことも大きかったでしょう。

三十一号室」は現存し、当方も一度、泊めていただきました。

都内からコンサート情報です。

林光ソングをうたい継ぐ(5)~ほんとうの空へ(1990年代)

期 日 : 2021年7月24日(土)
会 場 : トッパンホール 東京都文京区水道1-3-3
時 間 : 開場 14:00 開演 14:30
料 金 : 前売4,000円(全席指定) 当日4,500円

出 演 : 竹田恵子(歌) 井口真由子(pf)

曲 目 : 林 光(詩:宮沢賢治):序詞《注文の多い料理店》より
      林 光(詩:宮沢賢治):すきとおるものが一列
      林 光(詩:与謝野晶子):初夏
      林 光(詩:まどみちお):ハコベのはな
      林 光(詩:林 光):月の船の歌《万葉集》による
      林 光(詩:佐藤 信):ほんとうの空へ
       他

今回のコンサートの副題は、「ほんとうの空へ」。「フェイクの時代」だからこそ、「ほんとう」が気になります。それはどこからやって来るのでしょうか。「正しさ」をめぐる言葉のバトルとは違って、もっと底の底にある感情の出どころ。そこには「ほんとうのたべもの」の賢治がいます。まど・みちおや与謝野晶子、そして万葉集やこどもたち。
感染予防の対策には万全を期すつもりです。2回のワクチン接種もコンサート前に終える予定でいます。今回はYouTubeの配信もありませんので、ぜひ会場に足をお運びいただければ幸いです。
落ち着かない日々が続きますが、どうぞご自愛の上、当日お目にかかれることを心より願っています。
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竹田恵子さんという方、故・林光氏の歌曲を歌い継がれることも、活動の柱となさっているようで、その一環としてのコンサートです。

副題が「ほんとうの空へ」ということですが、同名の曲がプログラムに入っています。これは、平成7年(1955)に福島県で開催された、第50回国民体育大会(国体)の際に「ふくしま国体讃歌」として作曲され、開会式で、福島県内の高校生による合唱、福島県警察音楽隊によって演奏された曲です。


上の動画で、6:35頃から、バックに流れているのがそうでしょう。林氏というと、ちょっと難解な現代音楽、というイメージが当方にはあるのですが、こちらはこういう機会での音楽だけあって、素直なメロディーラインのようです。

国体自体のキャッチフレーズも「友よ ほんとうの空に とべ!」でした。

言わずもがなではありますが「ほんとうの空」の語は、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイア。本来「ほんとの空」ですが、時折、「う」の入った形で二次使用されています。特に東日本大震災、それに伴う福島第一原発の事故後、福島の復興の合い言葉として、一人歩きを始めた感がありますが、福島国体は平成7年(1995)。こうした例の最も早いものの一つではないかと思われます。

コンサートでは、他に、光太郎と交流のあった宮沢賢治や与謝野晶子の作品に曲を付けたものも演奏されるそうです。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午後一時より横湯橋渡初式に出かける。三時頃に漸く式はじまる。それまで草原で休みゐたり。
昭和23年(1948)5月22日の日記より 光太郎66歳

「横湯橋」は「おうゆばし」と読み、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から南に1㌔あまりの、現在は県道37号線(花巻平泉線)の寒沢川にかかる橋です。

地上波日本テレビさん系で放映されている5分間番組「心に刻む風景」。6月30日(水)から、全6回(毎週水曜夜)で「高村光太郎・智恵子」が放映されていますが、明日、第4回の放映があります。

心に刻む風景 高村光太郎・智恵子④ 東京都千代田区…幸せのひととき あなたは本当に私の半身(はんしん)です 私を全部に解(かい)してくれるのはただあなたです

地上波日本テレビ 2021年7月21日(水) 21:54〜22:00

歴史に名を残す人物の誕生の地や活躍の舞台、終の棲家などを訪ねます。今も残る建物や風景から彼らの人生が浮かび上がってきます。

#4 舞台(日比谷松本楼)
松本楼は智恵子と光太郎のお気に入りの店。彫刻家・詩人・画家として活動をしていた光太郎だったが
まだ世間に認められておらず、生活は豊ではなかった時代。
当時は贅沢だったこの店で、大好きなアイスクリームを食べるのが二人の幸せなひとときだった。

ナレーション 日本テレビアナウンサー辻岡義堂
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光太郎の命日である毎年4月2日(昨年と今年はコロナ禍のため中止)、連翹忌の集いを開催させていただいている日比谷松本楼さんでのロケがメインです。

先週、7月14日(水)の放映は「千葉県犬吠埼…運命の再会」でした。
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光太郎智恵子が連れ立って歩いた、君ヶ浜から見る犬吠埼灯台
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まず、光太郎が宿泊し、のちに智恵子が追ってきて泊まった、暁鶏館(現・ぎょうけい館)。
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当初、「智恵子には親の決めた婚約者がいた。しかし、智恵子はその結婚を断り光太郎の元にやってくる。」というニュアンスの一節が入っていましたが、カットしてもらいました。最近の研究で、「智恵子の縁談の相手」とされていた二本松の寺田医師は、既に結婚して子供までいたことがわかっています。

しかし、智恵子が光太郎に「縁談が持ち上がっている」と言ったことは確実なようです。そこで、「いやなんです あなたのいつてしまふのが」。
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寺田医師以外の男性との縁談があったかも知れませんし、もしかすると、煮え切らない光太郎に対し、智恵子がありもしない縁談をでっちあげて、その気持ちを確かめようとしたのかも知れません。真相は闇の中です。

いずれにしても、この犬吠埼での再会を機に、
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というわけで。

明日の放映は、先述の通り、日比谷松本楼さんがメインです。光太郎智恵子が犬吠埼で再会したのは、大正元年(1912)の8月末か9月の頭ですが、その前、大正改元直前の7月に、日比谷松本楼さんで、「氷菓」を二人で食べています。その際の様子は、9月に発表された詩「涙」に描かれています。

したがって、それだけ取り出せば、犬吠埼での再会と時間軸が逆転しますが、その後も日比谷松本楼さんを二人で訪れたことがあっただろう、というコンセプトで、第4回に持ってきたようです。

視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

花巻行にきめ、焼パンをリユツクに入れて出かける。 サンマータイム十一寺四十三分電車にのる。

昭和23年(1948)5月10日の日記より 光太郎66歳

夏期に時計の針を1時間進める「サマータイム」。EU加盟国では今年限りで廃止、という報道が為されていましたが、その後、どうなったのでしょうか。

日本でも、昭和23年(1948)から導入されましたが、結局、定着することなく4年間で廃止となりました。そうかと思うと、平成30年(2018)頃には、今回の東京五輪に向けて、再び日本でもサマータイムを、という声が上がりました。あっという間にポシャりましたね(笑)。

7月17日(土)の『朝日新聞』さんの読書面。劇作家・平田オリザ氏による連載「古典百名山+plus 平田オリザが読む」で、光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。

古典百名山+plus 平田オリザが読む:105 高村光太郎『智恵子抄』 妻亡き後の絶望と諦念

006 晩年の代表作『典型』の名の通り、高村光太郎は、まさに近代日本のある種の典型のような人物だった。
 上野の西郷像を作った高村光雲を父にもち、若くから将来を嘱望され一九○六年、二三歳で渡米、三年間を米国、欧州で過ごす。帰国後は日本社会や日本の美術界の閉鎖性に反感を持ち、放蕩(ほうとう)の生活を送る。しかし三一歳で長沼智恵子と結婚、これを機に生活も健全なものとなり、同年、詩集『道程』を発表して一躍文壇に名前をはせた。その後の二十数年は、本業の彫塑(ちょうそ)を中心に活動する。
 智恵子の死の三年後の一九四一年『智恵子抄』を刊行、ベストセラーとなる。一方、心の空白を埋めるかのように国粋主義、戦争賛美の詩を書き始めた。さらに戦後は、敬愛した宮沢賢治の故郷花巻に蟄居(ちっきょ)し、悔恨と反省の詩を書き続ける。
007 二一世紀を生きる私たちが、高村の変遷を「西洋かぶれが急にネトウヨになった」と笑うことはたやすい。しかし彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのままではないか。あるいは、近代日本文学の変遷そのままと言っても過言ではない。
 若くして海外を見た高村にとって、西洋は巨大な壁であった。パリのノートルダム大聖堂の荘厳さと、自分の小ささを描いた長編詩「雨にうたるるカテドラル」を発表したのは、帰国から十年以上経った一九二一年。第一次世界大戦が終わり、日本全体が大国の仲間入りをしたと浮かれていた時代である。
 「智恵子は見えないものを見、聞(きこ)えないものを聞く」(「値〈あ〉ひがたき智恵子」より)
 高村は、あくまで理性の人であった。彼は自分が宮沢賢治にはなれないことを自覚していたし、まして精神を病んだ智恵子のようになれないことも分かっていた。『智恵子抄』が美しいのは、その絶望が全編を貫いているからだ。しかしその絶望と諦念(ていねん)は半面、彼を戦争詩へと向かわせた。人間はかくも弱い。

平田氏、光太郎を主人公とした演劇「暗愚小伝」(昭和59年=1984)を書かれ、最近ですと平成26年(2014)から翌年にかけ、再演されました。また、平成30年(2018)に上演された「日本文学盛衰史」にも光太郎を登場させています。

氏の御祖父は、詩人の平田内蔵吉(明治34年=1901~昭和20年=1945)。光太郎とも面識はあったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』に、内蔵吉の名は一度だけ出て来ます。昭和20年(1945)7月16日、疎開先の花巻宮沢邸から、やはり詩人の小森盛に送った葉書に、「倉橋さんの轢死とか、照井さんの爆死とか、平田内蔵吉さんの玉砕とか、さういふ事が平時の事となつて来ました」とあります。

倉橋さん」は詩人の倉橋弥一。昭和20年(1945)6月、酒に酔って電車に轢かれて亡くなりました。「照井さん」は照井瓔三(栄三)。声楽家・朗読家で、ラジオで光太郎詩の朗読にもあたりました。やはり昭和20年(1945)、5月の空襲により、東京で亡くなっています。そして「平田内蔵吉さんの玉砕」。内蔵吉は沖縄戦線に投入されていました。

光太郎も4月に駒込林町のアトリエ兼住居を焼かれ、命の危険にさらされました。友人知己が次々と不慮の死を遂げる中で、花巻とても安全ではなく、実際、翌月には花巻空襲で宮沢家も全焼。光太郎、再び命からがらの目に遭います。

そうした光太郎の、『智恵子抄』をめぐる精神史。「まさに近代日本のある種の典型のような人物」、「彼の生涯はまさに、十九世紀末に産声を上げた近代日本が歩んできた道程そのまま」というオリザ氏の評。うなずけますね。明治末には、西洋近代思潮の洗礼を受け、大正末から昭和初期にはプロレタリア文学やアナーキズムに近い位置に身を置き、しかし、戦時には一転して日本回帰。戦後はそれに対する悔恨と反省……。多くの日本人の辿った途を、極端に体現したのが光太郎、というわけです。

その背景に、愛妻・智恵子。智恵子と共に手を携え、芸術三昧の道を歩こうとしたものの、その智恵子は志半ばで心を病み、逝ってしまいました。その空虚感にするりと入り込んだ翼賛思想。あるいは、自らの芸術精進の姿勢が、智恵子を追い詰めたという認識から、積極的に真逆の道を歩ませたのかもしれません。

人間はかくも弱い」。刺さる一言ですね。

【折々のことば・光太郎】

午后三時頃開墾の方より前の畑を斜に横切りて、狐らしきもの黒き餌を口にくはへて山の方へ走りゆくを見る。金茶色、尾長くひく。セッター位の大きさにて甚だ派手なり。


昭和23年(1948)5月7日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、現代でも、キツネが闊歩しているそうです。

4月に『読売新聞』さんが報じて下さいました、「「智恵子抄」総選挙」の件。7月10日(土)に『福島民報』さんにも記事が出ましたのでご紹介します。

詩集「智恵子抄」で一番好きな作品は? 福島・二本松市で総選挙

 詩集「智恵子抄」の出版80周年を記念して、心に響く一番好きな作品を選んで投票する「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」が行われている。主催する福島県二本松市の智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一代表は「智恵子抄を改めて、じっくり味わってほしい」と参加を呼び掛けている。
 「智恵子抄」は1941(昭和16)年に出版された。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子への愛をうたった。智恵子の故郷二本松の情景が浮かぶ「樹下の二人」「あどけない話」をはじめ、かけがえのない存在を慈しむ思いに満ちた作品の数々は、今も多くの人の心を打つ。
 智恵子のまち夢くらぶは80周年に当たり「東日本大震災から10年、コロナ禍の今こそ、二人の純愛の意味を問いたい」と総選挙を企画した。投票候補は「智恵子抄」と、1950年に出版された詩集「智恵子抄その後」に収録された36作品。
 投票ははがきに(1)一番好きな作品名(2)その理由(100文字以内)(3)氏名(4)住所(5)電話番号(6)年齢―を書いて郵便番号969―1404 二本松市油井字漆原町36 智恵子の生家記念館宛てに郵送する。抽選で80人に記念品を贈る。JR二本松駅近くの市民交流センターには専用の用紙と投票箱があり、直接投票できる。
 投票期間は10月31日まで、1人1回。結果は11月21日に市内で開く第2回全国「智恵子抄」朗読大会で発表する予定。問い合わせは智恵子のまち夢くらぶの熊谷代表 電話090(7075)6743へ。
 投票候補は次の通り。
 「人に」「或る夜のこころ」「おそれ」「或る宵」「郊外の人に」「冬の朝のめざめ」「深夜の雪」「人類の泉」「僕等」「愛の嘆美」「晩餐」「樹下の二人」「狂奔する牛」「鯰」「夜の二人」「あなたはだんだんきれいになる」「あどけない話」「同棲同類」「美の監禁に手渡す者」「人生遠視」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「値いがたき智恵子」「山麓の二人」「或る日の記」「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」「亡き人に」「梅酒」「うた六首」「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」
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美術館さんや文学館さん等での企画展示などもそうですが、始まったところで報道していただいて人寄せになり、しばらく間を置いてまた報道が出ると、一旦落ち込んだ人出が回復するということがよくあります。そうした意味では、この時期に地元紙で報道して下さるのも有り難いことです。

その詩を選ぶ理由を100字以内、というのが少し面倒だと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、ぜひ、投票、よろしくお願い申し上げます。〆切りは10月31日(日)だそうです。

【折々のことば・光太郎】

午后、部落の保健婦の人来りてビタミンBの注射をしてくれる。一日二本位づつつづけてするといいとの事。明日より学校へ行くついでに開拓団事務所(学校前)に立寄る事にする。そこに毎日出張して居らるる由。

昭和23年(1948)5月1日の日記より 光太郎66歳

光太郎、のちには自ら注射を打つようになり、愛用の注射器は遺品として、花巻高村光太郎記念館さんに展示されています。

ビタミン注射、現代でも疲労回復、滋養強壮などの目的で行われているのですね。存じませんでした。

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