昨日は神奈川県平塚市、それから東京都荒川区に行っておりました。ネタがない時には分割して書くところですが、紹介すべきネタが溜まっており、一気にレポートします。

まず、平塚市美術館さん。こちらでは、光太郎の父・光雲の木彫二点が出ている「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」が開催されています。
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「写実」をテーマに、光雲ら近代の作家たちがどのように「写実」に取り組んだのか、その後「抽象」に押されて一段下に見られるようになった「写実」の系譜が、現代作家さんたちにどのように受け継がれ、されにどうエボリューションされてきているのか(メチエの部分、精神性といった方向で)というコンセプトで、「なるほど」という感じでした。

「彫刻」と「絵画」の二本立てで、「彫刻」パートでは、松本喜三郎と安本亀八の生人形にはじまり(「彫刻」の項に入れるのは一つの冒険ですね)、光雲やその高弟・平櫛田中、それから富山高岡系のそれほどメジャーではない金工作家の作など。そしてそれぞれにその系譜に連なると思われる現代作家さんたちの作品、という構成です。「絵画」では「写実」の祖として高橋由一(もう何人か出していただけるとなおよかったのですが)。あとは現代作家さんたちでした。
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フライヤー表に使われている安本亀八の「相撲生人形」は、分解したパーツの状態で出品(5月10日(火)からの後期展示では組み立てて展示するそうで)。西洋彫刻の「写実」が本格的に入ってくる前に、既に日本には独自の「写実」があったことが象徴されていました。

ちなみに初代の孫に当たる三代安本亀八の生き人形が、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市の大祭の山車に複数据えられています。

そして西洋の写実を取り入れた光雲、という位置づけで、光雲作品が2点。明治36年(1903)制作の「魚籃観音」。三重県津市教育委員会さんの所蔵です。それから大正13年(1924)制作の「寿老舞」。
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共に20数年ぶりに拝見。どちらもほれぼれするような作でした。

「魚籃観音」の手に提げた魚籠(びく)、それから衣の袂(たもと)や裾など、一木から彫り出されているわけで、光太郎などはこうした超絶技巧にあまり価値を認めていなかったようですが、こうした部分の凄みが光雲作の人気が衰えない一つの要因であることは確かでしょう。もちろん、全体のフォルムの優美さなどもそうですが。

「寿老舞」は、開会前に問い合わせたところ、「個人蔵」と御教示いただきましたが、もしかするとテノール歌手・秋川雅史さんの所蔵で、平成31年(2019)、テレビ東京さんの「開運! なんでも鑑定団」に出たものかな、と思っておりましたら、まさにその通りでした。

最近流行りの図録を兼ねた書籍(ISBNコード付き)を帰りがけに購入。
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昨日は公共交通機関を使っての移動でしたので、電車内等で熟読いたしました。ただ、版元がやる気があるのか無いのか、公式サイトが一年以上更新されていないようで、この書籍の情報がヒットしません(アマゾンさん等では出て来ますが)。余計なお世話かも知れませんが……。内容的には各地のキュレーターさんの寄稿、秋川さんと現代作家さんたちとの対談など、非常に読みごたえがあるものでした。

巻末に同展の巡回情報が出ていました。以下の通りです。

・足利市立美術館 会期:2022年6月12日(日)~7月21日(木
・高岡市美術館  会期:2022年7月29日(金)~8月31日(水)
・ふくやま美術館 会期:2022年9月23日(金・祝)~11月20日(日)
・新潟市美術館  会期:2022年11月29日(火)~2023年1月29日(日)
・久留米市美術館 会期:2023年2月11日(土)〜4月2日(日)

お近くの会場にぜひ足をお運びください。

その後、同時開催の「けずる絵、ひっかく絵」展も拝見しました。こちらも近代の井上三綱、鳥海青児と現代作家さんたち。

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フェイスブックで友達申請してきて下さった方の作品も出ており、興味深く拝見しました。

神奈川を後に、都内荒川区へ。日暮里サニーホールさんで朗読公演「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」を拝聴して参りました。
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光太郎智恵子にも触れられた『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』などを刊行されている詩人の宮尾壽里子さん。文芸同人誌『第四次 青い花』同人でもあらせられ、同誌に光太郎智恵子がらみの文章もよく寄稿されています。

朗読にもあたられていて、平成31年(2019)の第63回連翹忌の集いでは、お仲間の方々とご一緒に「智恵子抄」朗読をご披露下さいました。その前年には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で最優秀賞。その他、都内などでくり返し「智恵子抄」関連の朗読公演などをなさっています。その都度、内容・構成等も少しずつ変えられ、「今日はこんな風にやるか」という感じです。

昨日は、光太郎詩の朗読はまるまる一篇読まれたのは冒頭の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)のみで、智恵子の詩「無題録」(大正3年=1914)、昭和7年(1932)の智恵子から母・セン宛て書簡、それ以外はト書き的にやられ、朗読というより一人芝居のような趣向でした。

以前にもコラボされた、Yoshi氏による電子ピアノ(伝・カッチーニ作「アヴェ・マリア」)がバックに流れ、いやが上にも漂う悲壮感、寂寞の思い……。いい感じでした。
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終演後、宮尾さん、それから宮尾さんも加盟されているという日本詩人クラブさんの理事の方々と会食及び打ち合わせ。先の話ですが、12月に行われる会合で、宮尾さん他による「智恵子抄」系の朗読と、さらに当方に講演をして欲しいというオファーでした。一般には非公開かも知れませんが、詳細が出ましたらまたご紹介します。

というわけで、充実した一日でした。と言いつつ、2日休んでまた明後日からは信州方面に出かける予定ですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

創元社秋山孝男氏毛利氏来訪、天上の炎文庫版承諾、


昭和27年(1952)10月21日の日記より 光太郎70歳

『天上の炎』は、光太郎が敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。元版は大正14年(1925)に新しき村出版部から刊行されましたが、約30年ぶりの復刊です。

昭和30年(1955)には新潮文庫のラインナップにも入りました。創元文庫版、新潮文庫版、共に同一の金子光晴による解説文が付されています。
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令和2年(2020)、光太郎が戦後の七年間を過ごした花巻郊外旧太田村に建設された「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんでのネタを2件、ご紹介します。

まず、道の駅内のテナント、ミレットキッチン花(フラワー)」さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。光太郎の日記や書簡、周辺人物の回想文などから、光太郎が作った料理を現代風にアレンジして詰め合わせたものです。

今月販売分がこちら。
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内容は、ヨモギご飯、カレーチャーハン、豆腐ステーキ蕗味噌、大根と鯖の醤油煮、のびるの酢味噌がけ、じゃが芋バター炒め、塩麹卵焼き、抹茶白玉小豆添え、お新香だそうです。

NHKさんがローカルラジオ番組「ゴジだっちゃ!」、さらに全国放送のラジオ番組「マイあさ!」で紹介して下さったためか、今月は事前の予約注文が多く入ったそうです。ありがたいことです。

さらに4月22日が「道の駅の日」だそうで、この前後、全国の道の駅で関連イベント等が行われるところがあるとのこと。道の駅はなまき西南さんでは、4月16日(土)、4月17日(日)に、キッチンカーや屋台等がずらっと出て、賑やかに販売会が行われたそうです。

「光太郎ランチ」のメニュー考案にあたられているやつかの森LLCさんもご出店。画像を送って下さいました。
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メインは、パン好きな光太郎をイメージして、こぶし苑銀の鳩さんに特注した「ホットドック、ナポリタンドック、焼きそばドッグ」、加工組合さんに加入している仲間による「あんこ餅、きなこ餅、ごま餅」、タカハシ菓子工房さん「チョコ、アーモンドスフレ、セサミ、パルミエ」などのクッキーなどを販売したそうです。

土曜日は強風でお客さんも多くなかったそうですが、日曜日は好天に恵まれ、用意した品々、あっというまに完売とのこと。お買い求めいただいた方には、光太郎の日記を抜粋しハガキ大にプリントしたものも配布されたそうです。

同じくやつかのもりLLCさんから、光太郎が七年間の蟄居生活を送っていた山小屋(高村山荘)周辺の画像も頂いております。

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上から、水芭蕉、カタクリ、辛夷(コブシ)、キクザキイチゲ。岩手はこれから春本番、という感じですね。

残念ながら、5月15日(日)に予定されていた高村祭は、コロナ禍明けやらぬため、3年連続の中止となりましたが、東北新幹線も復旧したことですし、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方より小坂氏と「火の車」行、又草野氏を加へて林家、東方亭を訪ふ、


昭和27年(1952)10月19日の日記より 光太郎70歳

小坂氏」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための助手・小坂圭二。「火の車」は、当会の祖、草野心平が経営していた怪しい居酒屋(笑)です。「林家」「東方亭」は、共に、戦前から光太郎が通っていた店で、三河島にありました。

花巻郊外旧太田村の山小屋生活では、飲み歩くこともままならなかったわけで、その反動が一気に出ているような気がします。

2件ご紹介します。

まずは、諏訪・上伊那地域で発行されている『長野日報』さん。少し前ですが、4月5日(火)の一面コラム。

八面観 2022年4月5日付

 星の数はどれほどある?。ものの本によると太陽系を含む銀河系には太陽のような恒星が1千億~2千億あると推定され、全宇宙にはこうした銀河が1千億個はある。つまり星の数は1千億個の1千億倍以上…読んでいて目がくらんだ▼江戸時代の僧で歌人良寛さんの歌が浮かぶ。〈淡雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち) またその中に沫雪ぞ降る〉。三千大千世界とは仏教の世界観で、須弥山を中心とした一つの世界を千倍し、また千倍し、さらに千倍した広大無辺の宇宙を表すという▼無数にあっても見上げる空の星はまばらで、夜は暗い。途方もない空間の広がりを考えると、宇宙を測る物差しはスケールが違う。そんなことを思わせる報道が1月にあった。直径1キロの小惑星が地球に約200万キロメートルの距離まで最接近したというニュースである▼200万キロと聞いてもピンとこないが、地球と月の距離の5倍以上離れていると聞くとそれほど近いとも思えない。宇宙的な尺度からすると軒先をかすめるような近さなのか、地球に衝突する可能性もある「潜在的に危険な小惑星」に分類されると聞いてただ驚く▼トンガ沖での海底火山噴火があったころで、自然と向き合う人間の尊さを思い、高村光太郎の詩「火星が出てゐる」を読んだ。〈おれは思ふ、人間が天然の一片であり得る事を。おれは感ずる、人間が無に等しいが故に大である事を〉

詩「火星が出てゐる」(大正15年=1926作)、全文はこちら

続いて『週刊長野』さん。『信濃毎日新聞』さんと提携し、土曜日に折り込まれているタウン紙のようです。長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」について。

県立美術館「善光寺と高村光雲」展 仁王像の制作過程紹介

 県立美術館で「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が開かれています。大正時代に高村光雲らが手掛けた善光寺仁王門の仁王像の制作過程などを紹介しています。
 現在ある仁王門は1918(大正7)年に再建。仁王像と裏側に安置されている三宝荒神、三面大黒天の計4像は、依頼を受けた高村光雲と弟子の米原雲海が作りました。
 光雲らは、粘土の原型から石こう像を作り、そこから実物より小ぶりな木造のひな形を制作。それを3〜4倍に拡大して高さ6メートルある仁王像などにしました。学芸課長の霜田英子さんは「当時最先端の西洋の塑像の技術と、伝統的な寄せ木造りの技法を融合して作られた」と話します。
 会場には、善光寺史料館が所蔵する4像のひな形=写真上、制作工程を伝える光雲の制作日誌やスケッチなどを展示しています。
  ほかに仏像制作の技術革新について、東京芸術大の研究室による最新の研究成果も紹介。会場内では、AR(拡張現実)技術を使い、スマートフォンなどでQRコードを読み取ると仁王像の3D画像データ=写真=が見られるようにしています。
 水曜日(5月4日除く)と5月6日(金)は休館。観覧料は一般500円、高校生以下または18歳未満無料。
 関連企画として「善光寺如来絵伝」などの絵解き(口演・小林玲子さん)が4月16日、5月14日、6月4日の土曜日14時から行われる予定です。
 (問)同館☎︎232・0052
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当方、今週末には拝見に伺います。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夜新潮社座談会にて星ヶ岡茶寮、草野心平氏、三好達治氏、新潮社平野健一氏と談話、夜八時頃かへる、


昭和27年(1952)10月18日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために帰京し、初めての座談会でした。12月1日発行の雑誌『新潮』第49巻第12号に掲載され、のち、文治堂書店刊『高村光太郎資料』第三集(昭和47年=1972)に収められています。同書でちょうど40ページの長い座談でした。

お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第42号が届きました。多謝。いわずもながなですが、同館は光太郎の親友だった碌山荻原守衛(明治12年=1879~明治43年=1910)の個人美術館です。
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年刊で、毎号数十ページの濃密な内容となっています。
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今号の巻頭には、新たに寄贈されたという「宮内氏像」(明治42年=1909)。作品自体は以前から知られていたものですが、これはブロンズに鋳造されたのが守衛の生前というのが貴重だというわけです。意外といえば意外でしたが、同館に収蔵されているものを含め、現存するほとんどの碌山ブロンズ作品は、守衛没後の鋳造だそうです。生前に鋳造されたと確認出来ているものは、「北条虎吉像」(明治42年=1909)に一つ、そして今回の「宮内氏像」と、2点だけだとのことでした。

結局、数え32歳で亡くなり、生前には「巨匠」「大家」という地位を得られなかったことが大きいのでしょう。ただ、守衛は亡くなる前、明治41年(1908)と翌年の文展に「北条虎吉像」以外に「女の胴」、「坑夫」、「文覚」、「労働者」を出品しており、それらの出品形態はどうだったのかな、と、疑問に感じました。粘土原型のままだったのか、石膏に取ったものだったのか、鋳造されていたのか、ということです。来週末には現地に赴きますので、訊いてこようと思っております。

光太郎のブロンズ彫刻についても、光太郎生前の鋳造と確認出来ているものは、そう多くありません。現在、全国の美術館さん等で展示されているものの多くは、没後の鋳造です。代表作の「手」にしてもそうで、生前鋳造と確認出来ているものは、竹橋の国立近代美術館さん蔵のもの(有島武郎旧蔵品)、谷中の朝倉彫塑館さん蔵のもの、そして髙村家に一つと、三点のみです。

もっとも、光太郎ブロンズは、最初から多数の人々に頒布される目的で、まとまった数が鋳造されたものも存在します。生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式で関係者に配られた「大町桂月メダル」(小品ではありますが、完成品としては、これが光太郎最後の彫刻です。「乙女の像」を「絶作」、「最後の作品」とする記述が目立ちますが、誤りです)、さらに遡って、昭和12年(1937)作の「日本水先人協会記念牌」(こちらは当方も一つ入手しました)なども。
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それにしても小品ですし、ものすごく大量に鋳造されたわけでもありませんが。

閑話休題。『碌山美術館報』では、同館学芸員の武井敏氏による「《宮内氏像》について」、さらに同じく武井氏の「荻原守衛のロダン訪問」など、興味深い考察が満載でした。光太郎についても随所で触れて下さっています。リンクを貼っておきましたので、お読み下さい。

その「宮内氏像」の特別展示が、同館で4月22日(金)から始まります。4月22日といえば守衛の忌日・碌山忌。コロナ禍前は懇親会等も行われていましたが、そちらは今年もありません。ただ、守衛墓参と、「宮内氏像」特別展示の関連行事を兼ねた講演会「宮内良助の人生と《宮内氏像》の旅」が行われます。講師は「宮内氏像」モデルの宮内良助令曾孫・郡司美枝氏。

長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」も拝見したいので、併せて行って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏小坂氏来訪、 回転台しん棒中、小型届く、払、


昭和27年(1952)10月15日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエに、彫刻用回転台の部品が届けられました。おそらく、平成30年(2018)、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」さんに寄贈された、戦時中の高射砲の台座を改造した大きな回転台のものと思われます。手配をしたのは助手を務めた小坂圭二でした。

新刊です。

吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために

2022年4月30日 河出書房新社編集部編 河出書房新社 定価1,800円+税

没後10年、揺れ動く時代に対峙し続けた吉本隆明の著作を、今どう読むか。吉本が見ていたものを私たちは見落としていないだろうか。これからも読み続けるための入門書。
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目次・収録作品
【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる
【入門】 安藤礼二 時代との対峙、その「敗北」から今を考える
【特別寄稿】 ハルノ宵子 いつも途上
【論考】
 小田原のどか 吉本隆明と〈彫刻の問題〉
 綿野恵太 宮沢賢治と高村光太郎の自然史 
 平山周吉 吉本隆明は「試行」のままに
 瀬尾育生 「異神」について
 友常勉 ゾンビとセトラー国家、そして日本資本主義論争――『共同幻想論』の読み方
【吉本隆明アンソロジー】
 〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年
 〈小説〉坂の上、坂の下/ヘンミ・スーパーの挿話/順をぢの第三台場/手の挿話
  解題:樋口良澄 物語を書く吉本隆明 
【吉本論コレクション】
 埴谷雄高/谷川雁/村上一郎/竹内好/鮎川信夫/鶴見俊輔
【吉本隆明ブックガイド】安藤礼二
吉本隆明略年譜

わが国で初めてのまとまった光太郎論『高村光太郎』(昭和32年=1957)を書いた吉本隆明。当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは、戦前の東京府立化学工業学校、戦後の東京工業大学で共に学び、光太郎や宮沢賢治について語りあい、その後、数十年にわたって光太郎顕彰・研究を共にした仲でした。
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画像は昭和60年(1985)の書道雑誌『墨』から。左から故・疋田寛吉氏、吉本、石川九楊氏、北川先生。座談会「光太郎書をめぐって」の際のショットです。

北川先生の書かれた回想(すべて『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』文治堂書店 平成31年=2019所収)から。

 隆明さんは書いている。「北川太一とわたしは、いわば高村光太郎の資料の探索については、草分けの存在であった」と。僕たちの卒業した深川の都立化学工業というのは不思議な学校だった。近くにはまだ広い草原や水溜まりや溝川があって、腹の紅いイモリやダボハゼや大きな鮒さえが泳いでいた。僕は落ち零れの第二本科、四組の昆虫少年で、本科の隆明さんと話す機会は殆どなかったが、しかし僕のクラスにもニイチェを説く安田三郎とか、オウム事件の頃の日弁連会長土屋公献とか、「ファウスト」を無理やり読ませた加藤進康とか変わった連中が沢山いた。加藤は後に工大で隆明さんが演出した太宰治の「春の枯葉」を演じたりした。しかし多くは町工場や手わざで生きる職人の子弟で、卒業したのは太平洋戦争が始まった昭和十六年十二月、それぞれの道にバラバラになったけれど、その頃僕らが同じように引かれたのは、高村光太郎や宮沢賢治だった。隆明さんの家は月島の舟大工、僕は日本橋の屋根屋の次男坊。ことに高村さんに引かれたのは、そんな下町の職人の血だったかも知れない。
(「隆明さんへの感謝」平成19年=2007)
 
 光太郎の詩集「道程改訂版」が世におくられたのも昭和一五年、たぐい稀な愛の詩集として『智恵子抄』が出たのはその翌年。戦争詩とともに、どれも僕等を夢中にさせた。太平洋戦争が始まり、繰上げ卒業で、進学組の吉本は米沢高等工業に、就職組の僕は学費を稼ぎながら東京物理学校の夜学生になって、それぞれの時間を紡いだ。進行する民族戦争に、どちらも死を覚悟した愛国青年だった。戦い終わり、海軍技術科士官として飛行予科練習生たちといのちをかけた南四国から帰ったあと、工業大学進学を選んだ時、すでに吉本は大学にいた。そして二人ともアトリエを焼かれて花巻郊外に孤座しているという高村光太郎が、いま何を考えているか、そればかりが気になった。光太郎がここに至った道を明らかにしない限り、これから何ができようかと思いつめた。そしていつのまにか、僕は重い荷物を負った定時制高校の生徒の中に埋没し、吉本は渦巻く自分の想念の生み出し手になっていた。
(「吉本と光太郎」平成26年=2014)

 志願した海軍生活は一年足らずで終わり、改めて入学した工業大学で吉本や加藤に再会したのは昭和二十一年のことだった。大学の池のほとりで、今は岩手の山奥に独り棲む光太郎について暗くなるまで語り合った記憶がある。(略)工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に「高村光太郎ノート」を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書を取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
(「死なない吉本」平成24年=2012)


引用が長くなりましたが、吉本思索史原点の一つが、光太郎、そして戦争だったということがよく分かります。

さて、『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』。

安藤礼二氏による「【吉本隆明ブックガイド】」では、昭和32年(1957)の『高村光太郎』が紹介され、綿野恵太氏の「宮沢賢治と高村光太郎の自然史」は題名の通り、吉本が光太郎をどうとらえていたか、その一端が語られています。また、「【巻頭対談】 鹿島茂×小峰ひずみ 吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」、「〈ロングインタビュー〉×加藤典洋×高橋源一郎×瀬尾育生 詩と思想の60年」でも、「高村光太郎」がキーワードの一つに。さらに彫刻家・小田原のどか氏は「吉本隆明と〈彫刻の問題〉」で、『高村光太郎』、それから春秋社版『高村光太郎選集』別巻として刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973)のために書かれた「彫刻のわからなさ」を軸に、彫刻実作者の観点から、吉本を論じています。

版元案内文には「入門書」とありますが、どうしてどうして、実に読みごたえのある書籍です。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜あたたかくねる、 アトリエで初めてめざめる。


昭和27年10月14日の日記から 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエで迎えた初めての朝でした。10月半ばといえば、それまで7年を過ごしてきた花巻郊外旧太田村の山小屋ではもう寒い時期ですが、東京では「あたたかくねる」だったのですね。

昨日は福島県三春町に行っておりました。光太郎智恵子ゆかりの地ではないのですが、この地に咲く「三春滝桜」が満開とのことで、妻が見たいと云っていたものですから……。

一昨日、このブログで智恵子の故郷・二本松の桜の名所についてご紹介しました。三春町は郡山の東隣で、二本松ともそう遠くないのですが、他の雑事もあり時間的に余裕が無く、二本松へは行きませんでした。いずれ二本松の桜の名所も廻りたいと思っております。

こいつは自宅兼事務所でお留守番(笑)。
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ひる頃、現地に到着しました。平日、さらに昨日は小雨模様でしたが、それなりに多くの方々が観桜に訪れていました。これが週末とかで天気も良ければ、芋の子を洗うような状態だったかもしれません。
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青空がバックだと、なお映えたのでしょうが……。それでも推定樹齢1,000年超という生命力の凄さ、この木を守り続ける地元の皆さんのご努力などなど、感じ入りました。

それから、この木だけがずどんとあるのではなく、周辺一帯にもたくさんの桜。その中でひときわの巨木が滝桜、というわけです。
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当方の大好きな古民家も多く、いい感じでした。
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さらに云うなら、常磐自動車道で関東平野が尽きて山間部に入る茨城県の日立市あたりから、いわきジャンクションを経ての磐越道と、沿線はほぼ山桜が咲き続けている状態でした。

助手席の妻が撮った画像。
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山全体が若葉の新緑と桜のピンクによって、パッチワークのように(陳腐な常套句ですみません(笑))なっている箇所もありました。このルートはしょっちゅう通っていたのですが、4月のこの時期に走ったのは、もしかすると初めてだったようです。これまで、この沿線にこんなに桜の木が生えていたとは気づいていませんでした。

さて、桜と云えば、光太郎にずばり「さくら」という詩があります。

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 吉野の山の山ざくら
 山いちめんにらんまんと
 呼吸(いき)するやうに咲きにほふ
 この気高さよ 尊さよ

 春の日あびて山ざくら
 ただ一心に 一斉に
 堂堂と咲く 咲いて散る
 このいさぎよさ きれいさよ

 顕花部被子類双子葉門
 離弁花区薔薇科桜属
 世界にまたとない種属
 日本の国花 山ざくら

 ぼくらの胸に花と咲く
 大和心のはげしさを
 姿にみせる山ざくら
 この凛凜しさよ 親しさよ


初出は昭和16年(1941)4月の雑誌『家の光』。「こども」欄に掲載されました。その際の題名は「ぼくらの花、桜」でしたが、昭和18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められた際、「さくら」と解題され、詩句も一部、変更されました。ちなみに「顕花部被子類双子葉門/離弁花区薔薇科桜属」には「けんくわぶひしるゐさうしえふもん/りべんくわくいばらくわさくらぞく」とルビが振られています。旧仮名遣いでは却ってわかりにくいところですが……。

昭和16年4月といえば、太平洋戦争はまだ始まっていませんが、昭和12年(1937)からの日中戦争は既に泥沼化していた時期です。その時代背景がぷんぷん臭いますね。「大和心のはげしさ」は云うまでもなく、「世界にまたとない」とか「日本の国花」とか……。そして「堂堂と咲く 咲いて散る/このいさぎよさ きれいさよ」。

昭和16年4月では、まだ特攻作戦は始まっていませんが、有名な軍歌「同期の桜」の元となった、西条八十の詩「二輪の桜」はすでに世に出ており、「花と散る」的な発想はもう一般的だったのかもしれません。

こういう詩こそ光太郎詩の真髄だ、大和魂の顕現だ、皇国臣民の鑑だと、涙を流して有り難がるアナクロニストが現代にも少なからず居て閉口しています。

一昨日オンエアされたNHK青森さんのローカル番組「あっぷるワイド」(18:10~19:00)の中で、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の成り立ち等を取り上げて下さいましたが、光太郎の戦争責任についても言及されました。ウクライナ危機にもからめ、「戦争」、「平和」といったキーワードから、像に込めた光太郎の思いなどを掘りさげるというコンセプトだったため、ビデオ出演した当方も、需めに応じてその当たりを詳しく語らせていただきました。すると早速、幼稚なネトウヨが「けしからん」とSNS上で噛みついてきましたが(笑)。

そんなこんなで、桜と戦争的な連想が浮かんだわけです。桜には何の罪もありませんが……。

さて、昨日の帰途、サービスエリアでなみえ焼きそばを購入。当方も妻も好物です。
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少し前にはコロナ禍で工場がストップしていて入荷されていませんでした。少しでも復興支援になればと存じます。

こんなものも買ってしまいました。金属のプレートのついたストラップ。「ペア」と書いてあり、どういうことかと思ったら、刳り抜いた方と刳り抜かれた方と、雌型と雄型の関係ですね。本来、自分の名前の一字とかを購入するものなのでしょうが、光太郎の「光」の字のものを買いました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の別棟の便所「月光殿」に彫られた「光」一字を彷彿とさせられまして(笑)。
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まだ間引き運転ですが、東北新幹線も全線復旧。東北方面、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時半藤島氏来り、共に中野の中西氏宅に車、津島知事アトリエに来る、映画やラジオの人来り、草野君他皆と一緒に撮影、又座談、

昭和27年(1952)10月13日の日記より 光太郎70歳

「乙女の像」制作のため7年半ぶりに帰京、千駄木の実家に泊まって、朝には空襲で焼け落ちた自分のアトリエがあった場所を見ましたが、午後には像の制作のために借りた貸しアトリエに入りました。ここで起居することにし、結局はここが光太郎終焉の地となりました。

仙台に本社を置く『河北新報』さん主催のオンラインイベント「3.11大震災メモリアルトーク 想いと未来を語る2022」、3月11日(金)に開催されライブ配信されましたが、その後、編集作業を経てのアーカイブ配信が始まりました。
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司会は山寺宏一さん。宮城県塩竃市のご出身で、3.11大震災直後から、復興支援や募金活動に参画なさっています。
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そうした関係をいろいろなさっている中で、当ブログでは、平成30年(2018)封切りの映画「一陽来復 Life Goes On」(当方友人が出演しています)のナレーション、その前年には女川町を舞台にした「アニメドキュメント 女川中バスケ部 5人の夏」にご出演などの件をすでにご紹介しております。

ゲストは音楽家・かの香織さん、プロレスラーの新崎人生さん、「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さん。
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かのさん、新崎さん、それぞれの被災地支援レポートの後、「いのちの石碑」活動の紹介。震災直後に当時の女川一中に入学した鈴木さんたちの発案により、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けたものです。昨秋には当初予定の全21基が完成しています。
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鈴木さん、中高生の時には「女川光太郎祭」にもご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさって下さいました。
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石碑以外にも、鈴木さんたちが手がけた「女川いのちの教科書」の紹介も。
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かのさんや新崎さんの取り組みにしてもそうですが、本当に頭が下がります。

動画、貼り付けておきます。


「いのちの石碑」については59:40頃からです。

【折々のことば・光太郎】

晴、朝近所を散歩、25番地を見る、
 

昭和27年(1952)10月13日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半ぶりに帰京し、千駄木の実家に一泊した翌朝です。「25番地」はかつて智恵子と暮らしたアトリエ兼住居のあった跡地。何気に書いてありますが、感慨深かったようで……。光太郎令甥・故髙村規氏の回想から。

 「規、明日の朝学校へ行く前に、ちょっと自分ちのアトリエの焼け跡へ連れてってくれないか」って言われて、「そういうのはおやすいご用ですよ」って言って。
 僕は、疎開先から帰って来てから次の日の朝すぐにアトリエの焼け跡へ見に行ったことがあるんですよね。地面から立ち上がりの階段がそのまま残ってましたけど、ずーっと周辺が板囲いしてあったんです。板囲いの隙間から中を覗いて見ましたらね、一体は焼け野原ですけれど、この一角だけ畑になってなかったんですよ。あの頃は、人の土地でも何でも自分で勝手に耕して種蒔いて、さやいんげんでも何でもできれば、自分のものになっちゃったんですからね。まわりは全部畑になっていましたが、光太郎のアトリエの一角だけは板囲いはしてありましたけれども、焼け跡のまんまだったんです。(略)石膏のかけらや本の焼け残りなんかがあったもんだから畑にしたくてもならなかったんですね。
(略)
 それで、光太郎を連れてここへ行ったんですね。そしたらやっぱりまだ板囲いなんですよ。でも木の節目やなんか外れたところがぽつぽつ穴があいてるもんですから、光太郎は自分が二十四年間も智恵子さんと一緒にいた場所だし、二人で一所懸命新しい芸術のために努力した場所ですからやっぱり懐かしさも一入なんでしょうね、隙間から中を丹念に一ヶ所一ヶ所見て歩いてるんですよ。こっちは学校へも遅れそうになっちゃうけどそんなことはまあいいやと思って。鼻が潰れそうになるくらいむきになって中を覗いているんですね。(略)近くにいた近所のおかみさんだったかな、だんだん不思議そうな顔し出したんです。「誰かが土地を覗いてる」っていうふうに思ったんでしょうね。おかみさんが光太郎に何か言ったら光太郎が気の毒だなと思って。そこへ飛んでいってその奥さん連中に「あの人はね、高村光太郎っていって僕の伯父さんで、昔ここにあったアトリエに住んでて、『智恵子抄』で有名な智恵子さんと一緒にここにいた人で、今東京へ帰ってきてね、懐かしくて一所懸命自分の住んでた所を丹念に見てるんだから好きなようにさせといて」と言いました。

光太郎、さらに板の隙間から中に入りました。

 光太郎は亡くなった智恵子さんを抱いて上がったこの階段を上がったり下りたりしてましたよ、何べんも何べんも。

千葉の自宅兼事務所周辺では、桜はもう終わってしまっていますが、東北では今が盛り、あるいはこれからのようですね。

智恵子の故郷・福島二本松。このところ「桜の街」としてもPRに力を入れており、令和元年(2019)には「2019全国さくらシンポジウム」の会場となり、その際のテーマ「ほんとの空にさくら舞う」を、その後も使い続けています。

今月の『広報にほんまつ』。
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実際、桜の名所や名木が多く、それらの紹介。

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智恵子生家/智恵子記念館を含む智恵子の杜公園もピックアップされています。
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さらに、桜がらみのイベント案内等。
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智恵子生家/智恵子記念館も廻る市内循環臨時バス「春さがし号」についても。乗降自由のフリーパスがワンコインだそうで、お得ですね。
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月末には、恒例となっている、智恵子生家の、通常非公開の2階部分(智恵子居室を含みます)特別公開も始まりますが、そちらはまた後ほど詳しくご紹介します。

福島には桜の名所が他にも多く、二本松とそう遠くない三春の滝桜を妻が見たいというので、明日、行って参ります。ただ、二本松まで足を伸ばす時間的余裕がありませんが……。

【折々のことば・光太郎】

朝九時四十五分上野着、 新聞社のフラッシ、佐藤春夫草野心平他関係者一同出迎、 地下にて生ビール、天神下すし榮にてすし、155番地にゆく、 夜すき焼にて夕食、 155番地2階にてねる、


昭和27年(1952)10月12日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半ぶりに帰京しました。「天神下すし榮」は「上野鮨 榮」さん。そのうち行ってみようと思います。「155番地」は、千駄木の光太郎実家。昭和20年(1945)の空襲被害を免れました。指呼の距離にあった光太郎アトリエ兼住居(25番地)は全焼しましたが。

光太郎実弟にして「155番地」を受け継いだ、鋳金分野人間国宝の豊周の回想から。

008 どんな恰好で帰ってくるかな、と思いながら、僕達は常磐線のホームに出迎えに行った。ことによると三等で帰って来はしないかと想像していたのだが、いざ着いてみると、悠々と、いばって二等車に腰掛けている。服装は例の山の服で、山小屋で使っていた汚い長靴をはいている。この頃は東京ではもう身なりも整っていた頃だから、これはやはり目に立った。山にいるとうまく調和しているのに、常磐線からホームに降り立った兄は、東京の空気となじまない、いかにも不諧調な感じで、おかしかった。
 出迎えの人も沢山いて、いきなりビールを飲みに行こう、などという話になってしまったので、僕達は一足先に家に帰ることにした。
「じゃあ、あとで待っているから、一通り済んだら、車で帰って来て下さい。」
と頼んで置いて別れて来たが、駅の地下道なんかから始めて、方々を飲み廻って来たらしい。兄はいい機嫌で帰って来た。この頃はもう健康をそこねていた筈だが、気の張りもあってか、いかにも健康そうに見えた。
 家に落着いた兄とどんな話をしたか、いまは、はっきり憶えていないが、恐らくとりとめもないことだったろう。家に戦前から働いていた婆やがその時まだ居て、
「先生、お帰りなさいまし。」
と挨拶すると、兄は、
「あんた、ずっといてくれたか。そうか、よく居てくれたな。おばさんがいるとは思わなかった。じゃあ、おばさんにお小遣をやろう。」
と実に喜んで、お小遣を五千円出した。この婆やは二十年も家にいて、すこしも東京風になじまず、純朴な女で、心から兄のことを心配していたから、涙をぽろぽろこぼしていた。
「先生無事でよかった。山の中の奥の奥の方にいるなんて、いつもみんなから聞いて、心配してたんですよ。」
そんな老人の話を、
「そうかい、そうかい。」
と言って聞いていた。
 兄の山からのみやげ物は、干からびて真黒になった木の子とちぢくれた山菜とだった。


ちなみに「乙女の像」といえば、今日、NHK青森さんのローカル番組「あっぷるワイド」(18:10~19:00)の中で、「乙女の像」が詳しく取り上げられます。十和田で像の文化的価値等を伝えで下さっているボランティアガイドさん、花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋等が取り上げられます。当方もビデオ出演。先月末にわざわざ八戸支局さんから千葉の自宅兼事務所まで、ディレクター氏、カメラさん、音声さんがお三方で取材にいらっしゃいました。

ウクライナ危機にもからめ、「戦争」、「平和」といったキーワードから、像に込めた光太郎の思いなどを掘りさげるそうです。視聴可能な地域にお住まいの方、ぜひご覧下さい。
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現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の図録、というか、展示内容等を解説した冊子が届きました。
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A5判で22ページ、無料で配布中とのことです。

編集は当方ではありませんが、執筆はほとんど当方です。といっても、新たに書き下ろした部分はあまりなく、今回の企画展示及び一昨年に開催された「高村光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」の際の展示解説パネル、双方の関連行事としての市民講座で語った内容を文字起こししていただいたものに手を入れた感じです。
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巻頭の「ご挨拶」的なページは書き下ろしましたが。

内容的には光雲と光太郎、それぞれの歩み、おのおのが目指したもの、共通する点、相違点等々で9ページ、展示の目玉である光雲作「鈿女命」像について2ページ、やはり光雲作の文京区の金龍山大圓寺さんに納められた「准胝(じゅんてい)観音像」の胎内仏のコピーとして寄進者や檀家に配付された懐中仏について1ページ、花巻高村光太郎記念会さん所蔵の、光雲の師・髙村東雲の孫・晴雲(三代東雲)作の聖観音像について1ページ。

さらに彼の地の光太郎ゆかりの寺院、音羽山清水寺さん、法音山昌歓寺さんに関わる光太郎日記・書簡からの抜粋で1ページ。それから英文学者の長沼重隆に送った葉書も新たに寄贈され、展示されていますので、その解説と、やはり光太郎日記・書簡からの抜粋及び散文「ホイツトマンの「草の葉」が出た」(昭和4年=1929)全文。

最後に今回の展示の目録。
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100円くらいで販売しても売れるんではないかな、と思うのですが、無料で配布中だそうです。気前のいいことで(笑)。

ご入用の方、花巻高村光太郎記念館さんまで、お問い合わせ下さい。送っていただけるかどうかは不明ですが。

合わせて企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、5月15日(日)までの開催です。地震により不通となっている東北新幹線も、当初予定より早く、明後日には全線復旧だそうですので。

【折々のことば・光太郎】

夕方停車場前瀬川氏宅にゆき、発車まで休む、 夜十一時42分停車場、見送人多し、汽車は駐留軍用のもの、しん台車、 汽車ゆれる、


昭和27年(1952)10月11日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半を過ごした岩手を後にしました。およそ1年後には、短期間、また花巻に戻るのですが。

都内から演奏会情報です。

11回 21世紀合唱音楽祭

期 日 : 2022年4月19日(火)
会 場 : 渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール 東京都渋谷区桜丘町23-21
時 間 : 開演18:30(開場18:00)
料 金 : 4,000円(全席自由・税込)

出演/曲目
 指揮 鈴木与志一  合唱 クロスロード・アカデミー・コア
 ピアノ 服部真由子

 浅井和夫 朗読と女声合唱のための無言歌「杜の声」(詩/浅井和夫)
 泉田輝子 カンタータ “アヴェ・マリア” 
  ~3人の独唱者(ソプラノ,メゾ ソプラノ,アルト),
  女声合唱とピアノの為の~《初演》
 田丸彩和子 混声合唱のための 「ヴォルガの少女」 (詩/木下宣子)《初演》
 久行敏彦 夢見る人~混声合唱とピアノのための交聲詩~《初演》
 安藤由布樹
  女声合唱組曲 青鞜の女たち(ショパンのエチュードに基づくパラフレーズ) 《初演》
   元始女性は太陽であった(詩/平塚らいてう)
   山の動く日来たる(詩/与謝野晶子)
   樹下の二人(高村智恵子のつぶやき)
   君死にたまふことなかれ(詩/与謝野晶子、原曲/吉田隆子、編曲/安藤由布樹)
   ふけよ荒れよ嵐よ風よ(詩/伊藤野枝)
  カンタータ この灯を永遠に 2021年改訂版 (詩、脚本/安藤由布樹) 《改訂初演》
   ソプラノ独唱:新南田ゆり バリトン独唱:春日保人
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安藤由布樹氏による「女声合唱組曲 青鞜の女たち(ショパンのエチュードに基づくパラフレーズ) 」。平塚らいてう、与謝野晶子、伊藤野枝、そして智恵子……。「濃い」ですね(笑)。

合唱としては初演だそうですが、調べてみましたところ、Youtubeに女性二重唱での演奏がありました。


こちらは「元始女性は太陽であった(詩/平塚らいてう)」と「山の動く日来たる(詩/与謝野晶子)」。昨年、同じ会場で開催された「第27回日本現代音楽展」の録音のようです。

これはぜひ、楽譜も出版していただきたいものだと思いました。

ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃花巻新報の平野さん車にて迎にくる、 藤島さん東京よりくる、 精養軒にて午后三時頃より送別会30人ほど、後車にて大沢温泉、客多し、


昭和27年(1952)10月10日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための約7年半ぶりの帰京前日です。

都内から朗読系公演の情報です。

My Favorite Story ~美しき詩の世界~

期 日 : 2022年4月19日(火)
会 場 : 日暮里サニーホール・コンサートサロン 東京都荒川区東日暮里5-50-5
時 間 : 18:00開場 18:30開演
料 金 : 2,500円(全席自由・税込)

プログラム ※出演順ではありません。
 岩井奈美<朗読>  ジャン・コクトー 「オペラ」より 抜粋
 倉地ひとみ<朗読> ギョーム・アポリネール 
  ミラボー橋 クロチルド 犬サフラン マリー わかれ
 宮尾壽里子<朗読> 電子ピアノ:Yoshi 
  高村光太郎・高村智恵子 翻案構成 宮尾壽里子
  「智恵子抄」より抜粋 光太郎.智恵子へのオード
 桜さゆり<朗読・ピアノ> 室生犀星 「愛の詩集」より 抜粋
 優木ももか Yuuki Momoca<ハープ弾き語り>
  ファン・ラモン・ヒメネス 「プラテーロとわたし」より 子守娘
 島映子 Shima Eiko<朗読> 
  大岡信 石の囁きを聴く~安田侃に~ 詩 名づけ得ぬものへの讃歌
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光太郎智恵子にも触れられた『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』などを刊行されている詩人の宮尾壽里子さん。

朗読にもあたられていて、平成31年(2019)の第63回連翹忌の集いでは、お仲間の方々とご一緒に「智恵子抄」朗読をご披露下さいました。その前年には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で最優秀賞。その他、都内などでくり返し「智恵子抄」関連の朗読公演などをなさっています。

また、文芸同人誌『第四次 青い花』同人でもあらせられ、今回のチケットと共に昨年暮れに発行された第97号をご送付下さいました。
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他の同人の方による『詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer』書評、そして光太郎智恵子にも触れられた宮尾さんのエッセイ「東京・TOKYO・とうきょう」等が掲載されています。ご入用の方、奥付画像を載せましたのでそちらまで。

「My Favorite Story ~美しき詩の世界~」、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

かたづけを終る、あとの事をスルガ重次郎翁にたのむ。カギは同翁にあづける、

昭和27年(1952)10月9日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための帰京に関連します。翌10日、7年間暮らした花巻郊外旧太田村の山小屋を後にし、花巻町中心街で壮行会、その夜は大沢温泉に宿泊、東京に向けて夜汽車に乗ったのは、11日のことでした。

スルガ重次郎翁」は、光太郎に山小屋の土地を提供してくれた、太田村の顔役です。
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当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究』の第43号が届きました。
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巻頭に2本の論考。いずれも千葉県教育庁にご勤務の、安藤仁隆氏によるものです。安藤氏、建築に造詣が深く、それぞれ建築に関する内容で、1本目は「光太郎・智恵子が暮らした旧居アトリエの建築について」。明治45年(1912)、光太郎自身の設計により竣工した、旧本郷区駒込林町25番地(現・文京区千駄木)のアトリエ兼住居(昭和20年=1945、空襲により焼失)の建築が徹底的に解剖されています。
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何とまぁ、光太郎本人が書き残した図面、当時の写真、周辺人物の回想等から、完璧な図面を再現されました。
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これまでも、簡略な図面は再現されてはいたのですが、あくまで簡略なもので、今回のものはレベチですね。

さらに、外観も。現代のコンピュータでは、ここまでできてしまうんだ、と舌を巻きました。
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これまで、アトリエ外観の写真は、上のほうに載せた画像(尾崎喜八撮影)を含め、南東側から撮ったものしか確認されておらず、他の方向から見るとこうだった、というのが手に取るように分かります。

さらに、光太郎によるこの設計、英国風の影響が色濃い、というご指摘。実際の建築の写真と比較すると、これもうなずかされます。
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光太郎、イギリスには明治40年(1907)から翌年にかけ、約1年滞在しましたが、こののちに移り住んだパリと比べ、美術の部分では、あまり影響を受けることはなかったと回想しています。ところが、人々のライフスタイルという面では、伝統ある英国ということで、好ましいものと感じていました。そこで、帰国後に設計したアトリエ兼住居にも、英国風の要素を多く取り入れたと思われます。

安藤氏の論考、2本目は「智恵子抄ゆかりの「田村別荘」(その変遷と間取りについて)」。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養のため滞在した、千葉九十九里にあった家屋についてです。こちらは移築が繰り返され、最終的には平成11年(1999)に取り壊されてしまい、今は見ることが出来ません。

氏の亡父が、彼の地に今もある伊勢化学工業に勤務されており、移築にも関わられたそうで、移築後に住まわれた方とも交流があったとのこと。そこで、その方への聞き取り調査などを元に(一度、当方も同行させていただきました)、「田村別荘」の竣工から取り壊しまでをまとめられています。登記簿や昔の航空写真等も丹念に調べられ、こちらも凄いものだと驚愕しました。

元々は、大正9年(1920)に東京本郷区の田村豊蔵という人物が建てた家屋で、福島の智恵子の実家の破産後、智恵子の妹のセツ一家、そして智恵子の母・センが、昭和8年(1933)に移り住みました。そして翌年には智恵子が預けられています。
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その後、セツ一家が転居、所有者が何度か変わって、場所的にも移築され、昭和46年(1971)には地元の観光組合に譲渡されて、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていました。しかし、前述の通り、平成11年(1999)に取り壊されています。

重要なのは、昭和30年(1955)、大規模な改築が行われたこと。これにより、間取りも大きく変わり、「智恵子抄ゆかりの家」として保存されていた時期は、智恵子が暮らしていた頃とは似て非なる家屋だったというわけです。ただ、改築の際に、元々の部材等がかなり再利用されたようですが。

安藤氏、ここでも聞き取り調査等を元に、元々智恵子が暮らしていた頃の図面を起こされています。
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先述の駒込林町アトリエにしてもそうですが、こうすることで、光太郎智恵子の息吹的なものが、また違った角度から感じられますね。

安藤氏の論考2本の後に、当方の連載。

まずは「光太郎遺珠」。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)後に見つかった光太郎の文筆作品等を、年に一度ご紹介するものです。ただ、昨年の『高村光太郎研究』は、当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼号ということで、広く稿を募り、「光太郎遺珠」および後述の「高村光太郎歿後年譜」はカット。そこで、2年分の発見を載せてあります。

短歌が4首。昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品させていただいた、新発見の木彫「蝉」を収める袋(智恵子手縫いと推定)にしたためられていたものが1首、そして、東京美術学校で同窓だった彫刻家・今戸精司の死去に伴い、弔文的に贈ったものが三首。

散文が七編。ブロンズ彫刻の代表作、「手」(大正7年=1918)について語った「手紙」(大正8年=1919)と「」(昭和2年=1927)、彫刻家・毛利教武の彫刻頒布会パンフレットに寄せた「毛利君を紹介す」(大正8年=1919)、詩人・童謡作詞家の平木二六について述べた「藻汐帖所感」(昭和6年=1931)、さらに「リルケ全集について」(昭和18年=1943)、「賢治詩碑除幕式に於いて」(昭和25年=1950)、「(花巻の人は)」(昭和27年=1952)。談話筆記として「高村光太郎先生説話」(昭和27年=1952)。

雑纂という扱いにしましたが、新聞に載ったインタビューで、昭和12年(1937)、『北越新報』に載った新潟長岡での「高村光雲遺作展観」の観覧感想、昭和26年(1951)、『花巻新報』に載った、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋増築と、交流のあった写真家・内村皓一に関するもの。

書簡が13通。明治42年(1909)、欧米留学の最後に訪れたイタリアから、実弟の道利に宛てた絵葉書などを含みます。

それから、「高村光太郎歿後年譜」。これも一昨年、昨年の2年分で、このブログでご紹介してきたさまざまなイベントや刊行物等をまとめてあります。

ご入用の方、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。頒価1,000円だそうです。ちなみに「光太郎遺珠」作成にご協力いただいた方には、当方よりのちほどお送りします。その分を手配中でして。

【折々のことば・光太郎】

小屋片づけをしてゐる、 田頭さん夫人に婦人之友七年間の全部を進呈、


昭和27年(1952)10月8日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの帰京に向けての片付けです。ただ、像の完成後にはまた太田村に戻るつもりで居ましたし、実際、翌年にごく短期間戻りました。しかし、結局は宿痾の肺結核が、山小屋生活を続けることを許しませんでした。

青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文が、18ページにわたり掲載されています。
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題して「故旧哀傷・北川太一 」。中村氏による「忘れられぬ人々」という連載の第6回です。

中村氏は弁護士でもあらせられ、はじめに、弁護士として手がけられた「智恵子抄裁判」の件が語られています。

「智恵子抄裁判」、ご存じない方のために概略を記しますと、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行された『智恵子抄』の著作者は誰か、ということが争われた裁判です。「そんなん、光太郎に決まってるじゃないか」とお思いの方が多いことと存じますが、ことはそう簡単ではありません。

そもそもは、光太郎歿後の昭和40年(1965)、龍星閣主の故・澤田伊四郎氏が、『智恵子抄』は自分が編集したものだとして、当時の文部省に著作権登録をしたことに端を発します。それを不服とした光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった髙村豊周が、その登録抹消を求めて、翌年、訴訟を起こしたのです。

澤田氏が著作権登録をした一番の目的は、当時、龍星閣に何の断りもなく、他社が(それも数多くの)「××版『智恵子抄』」的な書籍を続々と刊行したことに対する抗議でした。『智恵子抄』は龍星閣のものだ、というその主張、これはこれで正当なものなのでは、と、当方は思います。確かに、『智恵子抄』の最初の構想はは光太郎自身ではなく、澤田氏が持ち込んだ企画でした。そのあたり、少し前に書きましたので、こちらをご参照下さい。ただ、その後のプロセスとして、自分の名での著作権登録、というのは無理があったといわざるを得ません。

最初に澤田氏が光太郎に渡した『智恵子抄』の「内容順序表」が、実際に刊行された『智恵子抄』と比べると、かなり抜けが多いこと、刊行後の詩句の改訂等も光太郎自身の裁量がなければ不可能なことなどから、結局は澤田氏の著作権登録は取り消されるという判決になりました。

下記が最高裁による判決文です。
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この裁判、原告の豊周はほどなく亡くなり、豊周遺族が原告の地位を継承しましたが、たとえ豊周が存命だったとしても、こうした係争に関わる専門知識があった訳でもなく、また、日本文芸家協会の後押し(中村氏の弁護人選任もそうでした)もありましたが、それでもこうした裁判の前例はほとんどなく、髙村家の弁護にあたった中村氏、かなり苦労されたそうです。むべなるかな、ですね。

そこで、中村氏が意見を求めたのが、北川先生でした。北川先生、『智恵子抄』の成立、収録作品の選択からその後の改版の際の改訂等に付き、中村氏に事細かにレクチャーされ、その結果、『智恵子抄』の著作者は光太郎、という判決を勝ち得たとのことでした。

中村氏、そうした中での北川先生との関わり、さらに後半では、軍隊時代や戦後の定時制高校教師時代の北川先生、ガリ版刷りの『光太郎資料』(当方が引き継がせていただいております)などに触れられ、溢れ出る愛惜の思いを語られています。

ただ、残念ながら、「智恵子抄裁判」の部分で、古い話になってきましたので仕方がないのかも知れませんが、『智恵子抄』詩句の改訂等につき、事実誤認及び少なからずの誤植がありまして、これをそのまま論文等の典拠とされると非常に危険ですので、一応、指摘しておきます。

まず、詩「人類の泉」(大正2年=1913)について。

誤 「ピオニエ」というルビ  → 正 「ピオニエエ」というルビ

続いて詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)。

誤 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプリの林に熱を病めり
正 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプラアの林に熱を病めり

誤 同じ作品の第二一行の「こころよ、こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、読点を付したままになっている。
正 同じ作品の第二一行の「こころよ こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、一字空けたままになっている。

さらに、詩「冬の朝のめざめ」(執筆・大正元年=1912 発表・大正2年=1913)について。

誤 第二八行に 愛の頌歌(ほめうた)をうたふたり を 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり と改めていることである。

初版でも「愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり」となっていますので、この前後は丸々削除する必要があります。

そうした点は差っ引いても、一読に値する文章ですので、ぜひお買い求め下さい。

また、中村氏、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻(平成8年=1996)の月報にも「回想の『智恵子抄』裁判」という一文を寄せられています。こちらもぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡から学生2名来る、写真撮影、


昭和27年10月7日の日記より 光太郎70歳

学生2名」のうちのお一人が、のち、宮城県母子愛護病院(現・宮城県済生会こどもクリニック)の院長になられた熊谷一郎氏だったそうで、熊谷氏、平成4年(1992)の『河北新報』さんに、その際の回想文を寄せられています。
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同じような例として、のちに国語学者となられた宮地裕氏が、やはり学生時代の昭和22年(1947)に光太郎の山小屋を訪ね、熊谷氏同様、平成に入ってから回想文を書かれました。そちらは光村図書さんの中学校用国語科教科書に、かつて掲載されていました。

福島出身の日本画家・齋正機氏。地元紙『福島民報』さんに、平成30年(2018)から「福島鉄道物語」というエッセイを連載されています。昨年12月までの37回分が一冊にまとめられ、出版されました。

福島鉄道物語

2022年4月1日 齋正機 福島民報社 税込定価1,800円

福島民報の連載企画「福島鉄道物語」は2018(平成30)年11月にスタート。本書には2021(令和3)年12月掲載の第37回までを収録しています。  福島市出身の日本画家・齋正機さんが古里ふくしまを中心に美しい風景と人々の生活に溶け込んだ鉄道を柔らかなタッチの日本画と心温まるエッセーで語り掛けます。作品には東北線、奥羽線、只見線、常磐線、東北新幹線、福島交通飯坂線、阿武隈急行など福島県民に密着した路線と車両が登場します。
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令和2年(2020)9月20日掲載分が「ほんとの空」。智恵子に触れられています。東京出身の亡友と、「ほんとの空」はどこにある、と、お互いに譲らなかったという思い出が語られています。

版元の『福島民報』さん記事。

日本画家斎正機さんの随筆集「福島鉄道物語」4月1日発売 民報社から書籍化

 福島市出身の日本画家斎正機さんによる随筆集「福島鉄道物語」が福島民報社から書籍化され、4月1日に発売される。福島民報に掲載している同名の連載をまとめた。古里を走る鉄道の車両と雄大な風景を描写した日本画、優しく語り掛けるようなエッセーを収めている。
 2018(平成30)年11月の連載初回「夕日の飯坂線」から昨年12月の第37回「縁側天国」までを収録した。花モモが満開の中を走る阿武隈急行、雪景色に映えるJR只見線など、福島県民の暮らしに密着した風景を描いた日本画に、昭和の記憶を見つめた懐かしさを感じさせる文章が添えてある。随所に斎さんのスケッチが描かれている。
 A5判、208ページ。税込み1800円。福島県内の各書店、福島民報社本社・郡山本社・各支社支局、福島民報販売店などで扱う。4月2日に福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開幕する「斎正機展2022『福島今昔物語』」会場でも販売する。
 問い合わせは福島民報社出版部へ。
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記事にあるとおり、文章だけでなく、氏の描かれた絵がふんだんに盛り込まれ、それぞれ非常に温かみのある絵で、心が洗われる感じです。

また、エッセイも秀逸。氏は東京藝術大学さんに入学する際、何と4浪もなさった苦労人で、しかしそのご苦労もユーモアたっぷりに、それでいて哀感もしっかり描かれ、読んでいて応援したくなりましたし、4浪の末とうとう合格、という部分では嬉しくなりました(笑)。

氏のお父さまは旧国鉄の機関士をなさっていたそうで、「正機」の「機」は「機関車」の「機」とのこと。そこで、幼い頃からの(氏は昭和41年=1966生まれ)、お父さまや鉄道にまつわるエピソードが多いのですが、それも「キハ何型がどうこう」といった鉄オタ的な文脈ではなく、あくまでほのぼとした回想が中心です。

Amazonさん等でも取り扱いがあります。ぜひお買い求めを。

この出版とコラボし、氏の個展が福島市で開催されています。このブログで取り上げるべき事項が溜まっており、一気にご紹介します。

絵と映像とエッセイで綴る 齋正機展2022 『福島今昔物語』

期 日 : 2022年4月2日(土)~5月8日(日)
会 場 : とうほう・みんなの文化センター  福島県福島市春日町5-54
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 4月11日(月)、25日(月)
料 金 : 一般 1,200円 中高生 600円 小学生以下無料

福島市出身の日本画家・齋正機の作品展。郷土「ふくしま」への想いあふれる珠玉の作品およそ90点に加え、特別映像の上映など様々な角度から齋さんの魅力に迫ります。
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主催の『福島民報』さん記事。

斎正機さんの作品展 2日に開幕 会場準備整う 福島県文化センター

 福島県福島市出身の日本画家斎正機さんの作品展「斎正機展2022『福島今昔物語』―絵と映像とエッセイで綴(つづ)る―」は2日、市内のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開幕する。1日は会場の準備が整った。
 福島民報社、福島テレビ、ラジオ福島の主催。福島民報創刊130周年記念事業。県文化振興財団の共催。東邦銀行、福島交通、斎正機後援会、斎さんの母校・福島東高の同窓会の特別協力。
 富岡町の桜を描いた最新作や、福島民報で連載している「福島鉄道物語」の掲載原画など絵画約90点を展示する。花モモが咲き誇る桃源郷のような世界や夕焼けの中を走る鉄道を描いた作品、子を思う親の愛情がにじむ一作など、郷土への愛着にあふれた絵画が並ぶ。
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作品イメージした庭が登場 福島市で開催中の斎正機作品展の会場

 福島市のとうほう・みんなの文化センター(県文化センター)で開かれている福島市出身の日本画家斎正機さんの作品展「斎正機展2022『福島今昔物語』―絵と映像とエッセイで綴(つづ)る―」の会場に、斎さんの作品をイメージした庭が展示され、来場者の目を引いている。
 県造園建設業協会が企画した。斎さんの作品「穏ヤカナ午後ノ鶴ヶ城」に描かれている会津若松市の鶴ケ城から着想を得て、同協会の青年部が施工した。
 石や砂利、人工芝の他、シャクナゲ、アセビ、サツキといった植物を配置し、温かな雰囲気を表現している。
 10日午前11時からと午後2時から、会場で斎さんによるギャラリートークを催す。午前、午後ともトーク後に斎さんのサイン会を開く。書籍「福島鉄道物語」(福島民報社刊)の購入者を対象にする。
 物販コーナーでは8日まで、斎さんがサインを直筆した書籍「福島鉄道物語」を1日20冊限定で販売する。
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同じく主催に名を連ねるFTV福島テレビさん。

【展覧会】福島市出身の日本画家・齋正機さんの作品展示

福島市出身の日本画家、齋正機さんの展覧会がきょう(4月2日)から福島市で始まった。とうほう・みんなの文化センターで始まった「福島今昔物語」。
福島の花や田園風景、雪景色といった四季折々の景色や、電車から見える風景など約90点の作品が展示されている。
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報告:松山理穂「額縁いっぱいに夜の森の満開の桜が咲き誇っています。ここにいるだけでお花見気分を味わえます」
こちらは富岡町のサクラの名所・夜の森。
齋さんが実際に現地を訪れ、町の人がサクラを愛でる様子を見て制作した。
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訪れた人「懐かしい風景が繊細なタッチで描かれているので、心がほっこりする」
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齋正機さん「気持ちが緩やかになる、そういう風景を福島は持っている。福島の風景の魅力っていうのを再確認していただければ画家冥利に尽きます」
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この展覧会は来月8日まで。
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ちなみに最後の画像に映っている作品は「ふくしま物語~桃源郷59の願い~」と題されたものです(縦1.8メートル、横6メートル)。「59」は、現在の福島県の市町村の数。下部に配された桜一つ一つの形が、59の市町村の形になっているそうで。

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当方、ほぼ1年前、箱根の成川美術館さんで開催された氏の個展拝見して参りました。日本画でありながら、パステル画のような温かみのある画風で、福テレさんのニュースにあるように、やはり「心がほっこり」いたしました。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

盛岡より菊池暁輝氏等6人はかり来訪、肉、芋の子など持参してコンロにて煮て草上にて会食、夕方にいたる、

昭和27年(1952)10月5日の日記より 光太郎70歳

菊池暁輝氏」は宮沢賢治の顕彰を行っていた人物です。

東北各地で江戸時代から行われていたという「芋煮会」ですね。コロナ禍前には、テレビなどでもアウトドアブームに乗ってよく紹介されていました。

ただ、この日は智恵子忌日。光太郎としては、前日に賢治実弟の清六から贈られた香でも焚いて、静かに智恵子を偲んで過ごしたかったのではなかったのかと思われます。訪れた面々は智恵子忌日と云うことを知ってか知らずか……。

本日も光太郎の父・髙村光雲作品の出る展覧会情報です。

まず、神奈川県から。

市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと

期 日 : 2022年4月9日(土)~6月5日(日)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
時 間 : 9時30分 ~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般900円/高大生500円

幕末から明治初めに流行った生人形の迫真の技は、当時の日本人はもとより、来日した西洋人にも大きな衝撃を与えました。明治20年代に滞日した人類学者シュトラッツは「解剖学の知識もなしに強い迫真性をもって模写することができる」生人形師の力量に感嘆しました。また、彼は、生人形が理想化も図式化もされず、ありのままの姿であることにも着目しています。

高村光雲も幼い時に松本喜三郎の生人形の見世物を見ています。後年、彼は西洋由来ではない写実を気付かせた存在として、松本喜三郎をはじめとする生人形師を敬慕しています。

ここで重要なのは、写実表現はそもそもこの国にあったということです。遡れば江戸期の自在置物、さらには鎌倉時代の仏像に行きつきます。写実は洋の東西を問わず追求されてきたと見るべきでしょう。日本は近代化する過程において西洋由来の新たな写実表現を受容しました。これは既存の写実の方法や感性を新たに上書きする、もしくは書き替える作業であったことと思われます。

今また写実ブームが到来しています。現代の作家が手がけた作品にも先祖返り的な要素が見受けられます。これは旧来の伝統的な写実が息づいている証です。連綿と続く写実の流れが、いわば間欠泉の様に、息吹となって彼らの作品を介して噴出しているのです。また、彼らの作品の中には近代的なものと土着的なものが拮抗し、新たな写実を模索している姿勢も見出せます。このような傾向は、高橋由一まで遡ることができます。

本展は、松本喜三郎らの生人形、高橋由一の油彩画を導入部として、現代の絵画と彫刻における写実表現を検証するものです。西洋の文脈のみではとらえきれない日本の「写実」が如何なるものなのか、またどのように生まれたのか、その手がかりを探ります。

出品作家作品
【序章】松本喜三郎、安本亀八、高橋由一、室江吉兵衛、室江宗智、高村光雲、関義平、須賀松園(初代)、平櫛田中
【彫刻】佐藤洋二、前原冬樹、若宮隆志、小谷元彦、橋本雅也、満田晴穂、中谷ミチコ、本郷真也、上原浩子、七搦綾乃
【絵画】本田健、深堀隆介、水野暁、安藤正子、秋山泉、牧田愛、横山奈美
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近代の巨匠たちから現代作家の皆さんの作まで、幅広く展示するようです。メインはフライヤーにも使われている、生(いき)人形。

フライヤーの作品は安本亀八ですが、喜八と並ぶ松本喜三郎(喜三郎作も複数展示されます)について、案内文に「高村光雲も幼い時に松本喜三郎の生人形の見世物を見ています。後年、彼は西洋由来ではない写実を気付かせた存在として、松本喜三郎をはじめとする生人形師を敬慕しています。」とあります。出典は『光雲懐古談』(昭和4年=1929)。まず、安政年間、江戸で初めて喜三郎の生人形が見世物小屋に出た際のことが語られています。喜三郎は肥後の出身でした。

曰く「江戸の人形師は申すに不及(およばず)、彫刻師でも惣(すべ)て製作品として多少関係のある人が見て皆驚いた。どうして斯(こ)んなものが出来るだらうと云つた位。」「それが評判なことは湯や髪結床(かみどこ)のやうな人の集る所で、此人形の噂の無い所は無い。どうだ見たかといふやうなもので、見て驚いて迚(とて)も叶はぬといふのが一般の評でありました。

何がそれほど凄いのかというと、「其時分人形の困難なのは裸体である。人形は多くは手頭を拵へて人形の胴組をして着物を被(き)せる、足に足袋を穿かせるといふことで余程迯(に)げが出来る。裸体のものは継目が無い。全身作らねばならぬ。余程困難だ。其の困難な製作を意地にやつたので、皮肉に人のやらぬことをやつた。」というわけです。ご覧になる方、ここが一つのポイントですので、よろしく。

この他にも、その後評判になった喜三郎の作品を数多く紹介し、その手間のかけ方(毛髪を一本ずつ植える、植えた髪を自身で結う、衣服も自分で仕立てて着せる、など)を細かく解説し、「実に見事な出来で、結構過ぎて凄い。」「到底他の工人の及ぶ所では御座いません。」等々、手放しで絶賛しています。

光雲は、喜三郎本人とも面識があり、その思い出も語られています。光雲がまだ修行中だった頃、師匠・髙村東雲の元に、喜三郎が製作の参考にしたいということで、仏像を借りに来ました。すると東雲は、自分の師匠・髙橋鳳雲のさらに師匠・幸慶の十一面観音像を寺院から借りられるよう手配してあげます。そうして出来た張り子の観音像を見て、「さう申すと可笑(をか)しいが、康慶(註・「幸慶」の誤り)さんの十一面様よりも余程是は良い出来だ。」。

そして喜三郎本人を「是丈の作者でありますから定めし立派な人物で、非常な権式で、如何にも先生らしい人と何人も想像いたしませうが、私は面会致し実に案外に思ひました。至つて背の低い田舎風の老人で、着物は綿服、羽織は鉄色の極く短いので、千種色股引を穿き、口数の少ない人で、一見田舎風の老人が江戸の青物市場へ野菜の仕切を集めに来たやうな風俗で御座いました。」と回想しています。

さて、その光雲の作も2点、展示されるそうです。

まず、明治36年(1903)制作の「魚籃観音」。三重県津市教育委員会さんの所蔵です。それから大正13年(1924)制作の「寿老舞」。
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「魚籃観音」は、最近ですと平成30年(2018)から翌年にかけ、全国巡回のあった「華ひらく皇室文化 明治150年記念 明治宮廷を彩る技と美」に展示されましたが、当方が拝見に伺った東京展では出品されず、残念に思っておりました。それ以前に拝見したことはありましたが。

「寿老舞」は「個人蔵」とのこと。上記画像のものではないかも知れません。もし上記画像のものであれば、テノール歌手・秋川雅史さんの所蔵で、平成31年(2019)、テレビ東京さんの「開運! なんでも鑑定団」に出たものです。

再来週に拝見に伺う予定ですので、確かめて参ります。また、巡回があるようなのですが、情報が不足しています。そのあたりも調べてきます。

もう1件、ご紹介いたします(また、このブログで取り上げるべき事項が溜まって来てしまいましたので)。島根県益田市からの情報です。

雪舟等楊 終焉の物語 ~室町から令和へ~

期 日 : 2022年4月16日(土)~6月26日(日)
会 場 : 益田市立雪舟の郷記念館 島根県益田市乙吉町イ1149
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週火曜(5/3㊋㊗は開館)、5月9日(月)、5月11日(水)
料 金 : 一般300(240)円/小中高100(80)円
      ※( )内20名以上団体料金及び各種割引料金

室町時代の画聖・雪舟等楊は、その生涯のうち何度も益田を訪れ、東光寺(現・大喜庵)で終焉を迎えたと伝えられています。雪舟没後から現代に至るまで、時代によって数々の雪舟顕彰活動が行われてきました。本展では、世紀を超えて継承されてきた雪舟に関する絵画、遺跡など幅広く紹介します。

同時開催 特別企画 あの日せっしゅうになった!part2

益田市雪舟顕彰会は昭和 55 年第三次同会結成以来、市内の幼児を対象に「絵の好きな子どもを育てる幼児の絵画展」を開催しています。今回は平成 23 年から令和 2 年までの“雪舟特別賞”受賞作品を展示します。子どもらしい色彩豊かで自由な表現をお楽しみください。
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フライヤーに使われているのが、光雲作の「雪舟禅師像」(大正15年=1926)。市の指定文化財だそうです。こちらは同館で常設展示されているものとばかり思っていましたが、そうなのかも知れませんし、そうでないのかも知れません。
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左上画像は平成12年(2000)、茨城県立近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」の際のもの、右上は当方手持ちの戦前と思われる古絵葉書です。戦前から地元の宝として珍重されていたことが分かります。

絵画と彫刻、分野は違えど同じ造型作家として、大先輩へのリスペクトが感じられる作ですね。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

飛田先生清六さんより托されたりとて線香、両関を届けらる、明日の智恵子命日のため、

昭和27年10月4日の日記より 光太郎70歳

「飛田先生」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校教員、「清六さん」は賢治実弟の宮沢清六です。

戦後の光太郎、毎年10月には花巻町中心街の松庵寺さんなどで、光雲や母・わか、そして智恵子の法要を行ってもらっていましたが、この年は一週間後に帰京(生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため)を控え、ルーティーンを崩したようです。

それを知った清六が、わざわざ線香と酒を届けてくれました。ありがたいことです。

このところ、光太郎の父・光雲の作品が展示されている企画展示が各地で相次いで開催されています。それらを報じた報道等をご紹介します。

最初に、長野県立美術館さんの「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」。地元紙『信濃毎日』さんが主催に名を連ねており、詳しく報道してくださっています。

まず、開幕直前、内覧会を受けての報道。

仁王像の迫力、AR技術で実感 企画展「善光寺さんと高村光雲」、2日から県立美術館で

 県立美術館(長野市)で2日、善光寺(同)の御開帳を記念した企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が始まる。善光寺の仏像調査を重ね、修復にも携わってきた東京芸術大(東京都)の取り組みや、同大前身の東京美術学校で教えた彫刻家高村光雲(1852~1934年)の関わりを紹介。AR(拡張現実)技術で表現した仁王門の仁王像も見ることができる。
 大正時代に制作された仁王像や三面大黒天像、三宝荒神像などについて、同大大学院の保存修復彫刻研究室が行った近年の調査内容をパネルなどで紹介。それぞれひな型を作ってから当時の最新技術を用いて3~4倍の大きさの像を作る技法などを伝えている。制作に関わった高村光雲の画帳なども並ぶ。
 制作技法を解明するため、同研究室は仁王像の3D(3次元)計測も実施。展示ではこのデータを活用し、会場に掲示したQRコードをスマートフォンで読み取ると、画面に仁王像が立体的に再現され、迫力のあるたたずまいを実感できる。
 1日、同館で関係者向けの内覧会が開かれ、霜田英子学芸員(56)は「善光寺の仏像を巡る制作技術の継承と解明は連綿と続いてきた。善光寺の仏像を身近に感じてもらう機会にしたい」と話した。
 6月26日まで。毎週水曜は休館(5月4日は開館、同6日は休館)。一般、大学生500円、高校生以下・18歳未満は無料。
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さらに開幕後の報道。

仏師・光雲と西洋彫刻の技術、関係性を解説 長野県立美術館で記念展「善光寺さんと高村光雲」始まる

 県立美術館(長野市)で2日、善光寺(同)の御開帳を記念した企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)が始まった。彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが仁王門の金剛力士像などを制作するために作ったひな型を、東京芸術大(東京都)の調査研究などと合わせて紹介している。
 仁王門の金剛力士像や三面大黒天像、三宝荒神像は光雲や弟子の米原雲海(1869~1925年)らが大正時代に制作。展示では明治期に伝わった西洋彫刻の技法で、ひな型から3~4倍の大きさの像を作る「星取り法」が用いられたことを解説している。仏像の調査、修復を手掛けた東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の研究も紹介。AR(拡張現実)技術で表現した金剛力士像はスマートフォンで見られる。
 この日の開会式には関係者約20人が出席。同研究室の岡田靖准教授は「善光寺の各仏像を通じ、日本古来の仏師であった光雲が西洋芸術を柔軟に受容して制作した歴史を感じてほしい」と述べた。将来に向けた保存につながる研究の重要性にも触れた。
 6月26日まで。毎週水曜は休館(5月4日は開館、同6日は休館)。一般、大学生500円、高校生以下と18歳未満は無料。
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同展、善光寺史料館さんに収蔵されている、仁王像、三面大黒天像、三宝荒神像の各原型の他、光雲令曾孫の写真家・髙村達氏が、2月に都内で開催なさった「髙村達写真展 髙村光雲の仕事」に出品された写真も展示されています。

御開帳に行かれる方、ぜひこちらにも足をお運び下さい。

続いて、NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。一昨日の放映で、京都清水三年坂美術館さんで開催中の「明治・大正時代の木彫」展が取り上げられました。
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トップが光雲作のレリーフ「江口の遊君図額」(明治32年=1899)。
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ただ、残念ながら現地ロケはなく、画像を提供してもらっての紹介でした。他に13点、光雲作品が出ていますが、そちらは映りませんでした。

光雲以外に、光雲の盟友・石川光明の木彫、それから超絶技巧の自在置物が取り上げられました。
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こちらは5月29日(日)までの会期です。

最後に、花巻高村光太郎記念館さん。2月に始まった「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」につき、先月末に『岩手日報』さんが報じて下さいました。

光雲の木彫像「鈿女命」公開 花巻・高村光太郎記念館

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、光太郎の父で彫刻家の光雲(1852~1934年)が制作した木彫像「鈿女命(うずめのみこと)」を公開している。
 日本神話の「天鈿女命」が題材。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸にこもり世界が暗闇になったとき、岩戸の前で踊りを披露した天鈿女命の姿を表現している。揺れる服のしわや、しなやかな指先などが繊細に作られている。
 公開は5月15日まで。午前8時半~午後4時半。入場料は一般350円、高校・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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会期は5月15日(日)まで。先月の地震の被害を受けた東北新幹線、仙台以北は復旧しましたし、郡山-仙台間も20日頃には復旧の見通しだそうです。

上記三展以外に、上野の東京藝術大学大学美術館さんで開催されている「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」でも、光雲作品、というか、光雲と橋本雅邦、濤川惣助ら18名の合作「綵観」(明治38年=1905)が展示中です。

4月2日(土)の連翹忌当日、光太郎、そして当会顧問であらせられた北川太一先生の墓参の帰り、立ち寄って拝見して参りました。
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あくまで「天平」がメインで、「綵観」は、「ついでに出しました」感がにじみ出ていましたが(笑)、いいものでした。

珍しく写真撮影も可でした。ただ、作品保護のためでしょう、照明がかなり落とされていて、明瞭に撮影出来ませんでした。光雲木彫作品「猗子」は上の画像、右から二面めです。その下の画像は裏面になります。
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さらに今後、今月中に光雲木彫の出る展覧会が、確認出来ている限り各地であと二つ、始まる予定です。何だかここに来て、光雲人気がまた高まっているのかな、という感じです。また追ってご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

朝教材社の人、外山卯三郎氏の名刺を持ちて来訪、出版物の推薦文をかき与へる、

昭和27年(1952)10月4日の日記より 光太郎70歳

外山卯三郎」は美術評論家。「出版物」は、外山が刊行に関わった『児童の図画教育』。推薦文自体は草稿が残っていて、そこから採録したものが『高村光太郎全集』に掲載されていますが、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

001当会で会報的に発行しております冊子『光太郎資料』の第57集が完成しました。今日あたりから関係各位に順次発送いたします。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集まで不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、現在は4月2日の光太郎忌日・連翹忌、10月5日の智恵子忌日・レモンの日に合わせて年2回発行しております。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第二十一回 「婦人」その1
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている項目です。今号では「婦人」をキーワードに、明治から昭和戦前期のものをを集成しました。婦人雑誌に寄せた散文、婦人問題に大きく関わった広岡浅子に関する書簡、ミスコンの審査評座談会等です。
 散文 美術家の眼より見たる婦人のスタイル 明治43年2月1日発行『婦人くらぶ』
  光太郎の婦人雑誌への、確認出来ている限り最初の寄稿です。
 書簡 大正8年(1919)1月16日 小橋三四子宛
 雑纂 (日本の婦人の) 大正10年(1921)5月26日『読売新聞』
 散文 帽子に応用したアイリツシユレース 大正13年4月1日『婦人之友』
 座談 現代女性美を語る 各専門家の見た美人の標準 昭和4年8月7日『アサヒグラフ』
  朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」の審査員による座談会。
  光太郎以外に藤島武二、柳田国男、朝倉文夫、藤懸静也(美術史学者)、
  杉田直樹(医学博士)、西成甫(にしせいほ)(解剖学者)、村山知義(劇作家)、
  鏑木清方(画家)が審査員でした。
  写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。
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 書簡 昭和15年(1940)1月12日 資生堂ビル内 花椿社 篠原眞男宛
  資生堂さんのPR誌『花椿』に関わる書簡です。

・光太郎回想・訪問記  「雨ニモマケズ」の発見――モナミの賢治追悼会――  永瀬清子
 賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)2月16日、光太郎も出席して新宿モナミで開催され、「雨ニモマケズ」が「発見」されたという宮沢賢治追悼会を中心とした回想文です。
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・光雲談話筆記集成 
  和合の徳 『太元老僧懐古録』より 
   現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されている、光雲原型の懐中仏に関わります。
  高橋鳳雲の話
   光雲の師匠・髙村東雲のさらに師匠、髙橋鳳雲について。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第二十一回  那須温泉(栃木県)
 大正14年(1925)9月、母・わかを喪った傷心を癒やすために訪れた那須温泉について。 
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・音楽・レコードに見る光太郎  第二十一回 ぼろぼろな駝鳥 橋本国彦
 昭和8年(1933)、光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」に、作曲家の橋本国彦が曲を付けた歌曲について。

・高村光太郎初出索引(年代順)
 現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では大正4年(1915)から同9年(1920)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(見本的にこの号のみ欲しいという方は、一金500円)。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

他金融機関からの振り込み用口座番号 〇一九(ゼロイチキュウ)店(019)当座 0782139

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

朝角川書店主来訪、「昭和文学全集」企画の由、承諾。ひる辞去。


昭和27年(1952)9月28日の日記より 光太郎70歳

『昭和文学全集』、翌年刊行の第22集が「高村光太郎集/萩原朔太郎集」、さらに昭和29年(1954)刊行の第47集は、100余名の詩を集めたアンソロジー「昭和詩集」で、光太郎が100余名の著作者代表としてクレジットされました。

昨日は光太郎忌日・連翹忌。かつて日比谷松本楼さんで開催していた集いは、コロナ禍のため、3年連続の中止と致しましたが、それに代わり、皆様方を代表して当方が都立染井霊園の光太郎奥津城に墓参して参りました。

ここ数年、4月2日は平日だったのですが、昨日は土曜日。そこで、霊園の駐車場はいっぱいで、仕方なく少し離れた有料駐車場に愛車を駐めて、霊園まで歩いて戻りました。
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この地はソメイヨシノ発祥の地、さらに今年は昨年あたりと比べると開花の時期が遅かったため、満開の状態でしたので、花見的に訪れている方も多いようでした。
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髙村家墓所。以前にもお見かけしたのですが、近くにお住まいの方々のようで、ご高齢の方々のグループがお参りなさっていました。さらに草むしり等なさってくださっていました。
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当方も香華を手向けて参りました。花は、自宅兼事務所の庭に咲く、66年前に光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の「子孫」です。
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「先祖」の連翹は、昭和31年(1956)4月4日、青山斎場で行われた光太郎葬儀の際、愛用のビールのコップに一枝挿され、供えられました。
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毎年のように書いていますが、来年こそは、日比谷松本楼さんでの集いを復活させ、皆様方と久闊を叙し、共に光太郎やゆかりの方々を偲びたいものです。そうかと思うと、またぞろコロナ感染者数、無気味にじわりと増加中とのこと……。やれやれ……といった感じです。

染井霊園を後に、文京区の浄心寺さんに愛車を向けました。一昨年来、ルーティーンとなっておりますが、一昨年一月に亡くなった、当会顧問であらせられた、北川太一先生の墓参のためです。
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浄心寺さん、別名を「桜寺」といいます。ただ、ソメイヨシノではなく、もう少し早く咲く種類の桜がメインです。昨年はほぼ散ってしまっていましたが、今年はまだ咲き残っていました。

散った花びらは絨毯のようでした。
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この少し前くらいだったと思うのですが、光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋敷地内の光太郎詩碑(地下に光太郎の遺髯が埋納されています)では、地元の方々(生前の光太郎をご存じの方も含まれます)が手を合わせてくださいました。

現地からの画像がこちら。
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以前ですとこの後、午後には花巻市中心部の光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さんで連翹忌法要でしたが、そちらもこの3年間、コロナ禍のため執り行われていません。

本当に、来年こそは、と、願わざるを得ませんでした。

この後、上野の東京藝術大学大学美術館さんにて、「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」を拝観いたしましたが、また後ほどレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

弘さんの犬かへり去らず、夜に至る、


昭和27年(1952)9月20日の日記より 光太郎70歳

「弘さん」は、光太郎の山小屋近くの開拓地に入植した青年。この日、光太郎の山小屋を訪れ、光太郎に頼まれていた卵を届けて帰りましたが、その飼い犬がなぜか飼い主について帰らず居座ったとのこと。微笑ましいエピソードですね。

本日、4月2日(土)は、第66回連翹忌です。宿痾の肺結核のため光太郎が歿したのは、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分。東京は季節外れの大雪でした。翌年に第1回の連翹忌の集いが、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエで開催されました。そこから数えて、今年は66回目の忌日です。

光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催を続けていた連翹忌の集いは、平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、一昨年の第64回、昨年の第65回とコロナ禍のため、それぞれ中止。今年こそはと思っていたのですが、結局、コロナ感染収まらず、またしても中止といたしました。来年以降もどうなることやら……と思っております。安心して皆様にお集まりいただける状況にならない限り、再開は不可能と存じますので……。

昨年の今日のこのブログでは、当会の祖・草野心平の「終焉日記」をご紹介しました。昭和31年4月1日(日)、4月2日(月)の、光太郎最期の様子が記されています。

今年は、同じく心平が、4月3日(火)の『朝日新聞』に寄せた詩をご紹介します。

   高村光太郎死す

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをかぶつて淡い灯をうけ夜は更けます。
 フラスコの中であわだつ酸素。002

   「そろそろ死に近づいているんだね。」
   それからしばらくして。
   「アダリンを飲もう。」

 ガラス窓の曇りをこすると。
 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。

 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April Snow の夜に。

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智恵子さんの裸像」は、生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに寄贈されています。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている、66年前、中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。それから、ついでに、というと語弊がありますが、染井霊園と遠くない文京区の
浄心寺さんに、当会顧問であらせられた北川太一先生のお墓にも参らせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎、そして北川先生をご存じの方は、北川先生に、思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

十時頃高橋雅郎氏来る、一緒に太田診療所の婦人会へゆく。男性女性十五六人集まり、御馳走になる、夕方五時頃タキシにて送られかへる、


昭和27年(1952)9月14日の日記より 光太郎70歳

高橋雅郎氏」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の元村長。この日の集まりは、「乙女の像」制作のため、約1ヶ月後に帰京する光太郎の壮行会的な意味合いもありました。おそらくこの日の集まりと思われる、光太郎と村人たちの会話の記録が残っていたのが見つかり、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には間に合いませんでしたが、その後、北川先生と当方の共編で刊行した『光太郎遺珠』に掲載しました。
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3月29日(火)、『朝日新聞』さんの大阪版夕刊から。大阪で開催中の、現代アート作家・谷澤紗和子さんの個展「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」展評です。

女性と芸術「甘い気分」で何が悪い 「智恵子に捧げる」谷澤紗和子個展 ジェンダーロールへの批判 作品に

  切り紙による平面作品やインスタレーションなどを手がける美術家・谷澤紗和子は近年、ジェンダーへの関心を作品に取り込んできた。大阪市西区のstudio Jで開催中の個展では、明治~昭和期の洋画家・紙絵作家、高村智恵子をオマージュしたシリーズを発表している。
 和紙の切り紙作品「Emotionally Sweet Mood」は、3点しか現存しない智恵子の油彩画のひとつ「花(ヒヤシンス)」をモチーフとする。タイトルは、智恵子の夫で彫刻家・詩人の高村光太郎のエッセーから引用した。彼は妻の死後、彼女が若い頃に描いた絵画について「幾分(いくぶん)情調本位な甘い気分のものではなかったか」とつづっている。
 「ネガティブな言い回し。だけど、甘くて何か悪いの?」と問う谷澤は、その言葉をむしろ肯定的なものとして逆手に取った。自身の作品によってではなく、夫の代表作「智恵子抄」のヒロインとして有名になった智恵子。その存在は、男性の陰で正当に評価されなかった無数の女性芸術家たちとオーバーラップする。
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 精神を病んだ智恵子は死の間際、病床で無数の紙絵作品を生み出した。智恵子の紙絵を題材にした谷澤の連作では、「I am so sweet!」という宣言と並んで、「NO」の文字があしらわれている。オノ・ヨーコの「天井の絵/イエス(YES)・ペインティング」から着想された「NO」は、現代社会においてもなお、女性やマイノリティーが奪われがちな言葉だ。
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 マティスの切り絵紙「ブルーヌード」を再解釈した「Pink nude」シリーズも、女性を排除してきた芸術の歴史をあぶり出す点で、智恵子のシリーズに通じる。理想的な女性像の全身に生えているのは、トゲのような「ムダ毛」。女の身体を縛るルッキズムに怒り、かつ笑い飛ばすかのようだ。
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 「Pink nude #2」では、もう一つのモチーフとしてアニメのセーラームーンの変身シーンが重なる。衣服が消えた瞬間、光の中で裸のシルエットと化した美少女戦士の、全身を覆うムダ毛。それは性的搾取の告発か、既存のジェンダーロールを脱ぎ捨てて戦う者たちへのエールか。
 「そこは見る人によって解釈が分かれるような、両義性がある方がいい」と谷澤。ヌードを覆うのはブルーではなく、赤やピンクの複雑なまだら模様。一義的には捉えきれない「甘い気分」で武装する戦闘服のようだ。
 4月9日までの水~土曜。


なかなか深く突っ込んだ評で、感心させられました。まず、フライヤーにも使われた「Emotionally Sweet Mood」について。元になった作品は、智恵子の故郷・二本松の智恵子記念館さんで展示されている「ヒヤシンス」(大正初期と推定)。
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よく見ると、全体のフォルムは、智恵子の元絵と左右反転の状態になっています。それがまたキモなのでしょう。それから、鉢の部分に顔があしらわれています。

こうした智恵子の油彩画が、光太郎曰く「甘い気分」。引用元は詩集『智恵子抄』にも収められた随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)です。

卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかつたかと思はれる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまつて私には見せなかつた。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかつた。私と一緒になつてからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰つた時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではつひにまだ本格的に画くまでに至らなかつた。

本来「情調本意」ですが、「情調」では分かりにくいので、個展のタイトルは「情緒」となさったようです。

ところで、余談ですが、記事では「3点しか現存しない智恵子の油彩画のひとつ」とありますが、正しくは「3点しか現存が確認されていない智恵子の油彩画のひとつ」とすべきですね。まだ広く知られていない智恵子の油彩画が、新たに見つかる可能性も皆無ではありませんので。細かい話ですが。

同じことは光太郎の彫刻などにも言えます。昭和20年(1945)の空襲で、住居兼アトリエと共に焼失したと推定される彫刻がかなりありますが、それも「推定される」であって、「焼失」と断言はできません。それらを「焼失」または「現存せず」と断言している「論文」等をよく見かけますが、「焼け落ちるところを見たのか?」と突っ込みたくなります。

閑話休題。

「Pink nude #2」と題された作品。最初に画像で拝見した時、てっきり智恵子の紙絵からのインスパイアかな、と思ったのですが、元ネタはマティスの切り紙絵だったのですね。
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当方が何故智恵子紙絵からのインスパイアだと思ったのかといいますと、記事で「ムダ毛」と書かれいてるトゲトグの表現から。ぱっと見、「蟹か」と思いまして、下記の智恵子紙絵との関連が頭に浮かびました。智恵子が台紙に使ったのは、切り開いた封筒です。
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一昨日まで上野の森美術館さんで開催されていて、谷澤さんが佳作賞を受賞された「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」に出品された下記の作品は、まさに上記の紙絵がモチーフですね。
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ここから居なくなった蟹が、大阪の「Pink nude #2」に現れたのか、と思ったわけです。

智恵子紙絵の制作現場を目撃した殆ど唯一の人物、ゼームス坂病院で智恵子の付き添い看護に当たった姪の宮崎春子の回想。

 こうして、毎日の食膳を賑わすものを次々とつくられた。珍しいものがつけば、それを紙絵にしないうちは箸をつけないので、たいてい食事時間はおくれてしまうのであつた。
 ある日、千葉県九十九里の親戚から蟹をたくさん頂いたとき、四、五十匹を大盆にのせて伯母にみせたところ、顔を輝かして大喜びされ、中でもみごとな一匹をとられた。その夜は十一時ごろまで一心につくられ、蟹を食べ終つたのは、十二時をすぎ、そばにいた私は居眠りをしてしまつた。こうして紙絵は一枚一枚と大切に押入へしまわれて、伯父さまのおいでになられた時だけお見せするのであつた。
(「紙絵のおもいで」昭和34年=1959)

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画像は昭和30年(1955)、問題の紙絵を見る春子です。

このエピソードが頭に残っていたので、「蟹か」と思ったのですが、トゲトゲはムダ毛、元ネタはマチスだったそうで……。さらに「美少女戦士セーラームーン」までからむか、と驚きました。ちなみに光太郎とマティス、面識がありましたし、書簡のやりとりもありました。

さて、「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」、4月9日(土)までの開催です。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

九時20分の電車で花巻駅、郵便局、銀行にて金を出す、買物いろいろ、 太田屋にて中食、タキシにて山に帰る、


昭和27年(1952)9月10日の日記より 光太郎70歳

花巻町中心街と思われる「太田屋」という飲食店、詳細が分かりません。のちに女将が、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れたりもしていたのですが。「あそこにあったこういう店だ」等、ご存じの方は御教示いただけると幸いです。

昨日、NHKさんのラジオ第1で全国放送されている「マイあさ!」という番組の5時台で、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の「光太郎ランチ」が取り上げられました。
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「マイあさだより」という、スタジオと全国のレポーターとを電話で繋ぎ、地域の話題を紹介してもらうコーナーで、花巻のローカルFM「えふえむ花巻」のパーソナリティーを務められている味園史湖さんのリポート。味園さん、先日、やはりNHKさんで岩手・宮城・福島三県を対象に放送されていた「ゴジだっちゃ!」という番組でも、「光太郎ランチ」をご紹介下さいましたが、今回は全国放送でした。

聞き手は田中孝宜アナウンサー、久保田明菜アナウンサーのお二人。
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田中 味園さん、今朝はどんな話題ですか?
味園 はい、あのー、今日はお弁当の話題なんですけど、暖かくなってきて、あのー、もう少ししたらお弁当持って出かけるというのもいい季節になってきますよね。
田中 そうですねー。
味園 今日は私の地元、岩手県内陸部、花巻の道の駅で販売されているユニークなお弁当の話題です。
田中 ほう。
味園 花巻にゆかりのある、詩人・彫刻家の名前がついたお弁当なんですけれども、花巻ゆかりといいますと、詩人で作家の宮沢賢治を思い浮かべるかもしれません。
田中 うん、うん。
味園 が、賢治ではありません。
久保田 はい。
味園 お弁当の名前は「光太郎ランチ」といいます。「光(ひかり)」に「太郎」です。あの、詩人で彫刻家の高村光太郎が食べていたものを再現して詰め合わせたお弁当なんですね。
田中 ほう。
久保田 へー、高村光太郎、花巻にゆかりがあるんですか?
味園 そうなんです。高村光太郎は終戦の前後に七年ほど、花巻に疎開していた時期がありました。で、地元の人々とも交流を持っていました。花巻には、当時、光太郎が住んでいた高村山荘ですとか、高村光太郎記念館があります。その光太郎ゆかりのエリアに、令和2年8月に「道の駅はなまき西南」が誕生しました。
田中 うん。
味園 そこで、月に一回販売されているのが「光太郎ランチ」というわけなんですね。
田中 ほう。
味園 光太郎が食べていたものを、日記に残していまして……
田中 はい、はい、はい。
味園 その日記を元に、光太郎が食べていたものを詰め合わせたお弁当なんです。
田中 なるほど。え、高村光太郎って、どんなものを食べていたんですか?
久保田 フフフ。
味園 気になりますよね?
久保田 うん、うん、うん。
味園 えー、例えば今月15日に販売されたメニューを見てみます。お写真、届いてますかね?
久保田 はい、番組のツイッターにも載せています。

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味園 はい。茶殻ご飯、そば粉のチーズ蒸しパン、焼き鮭、イカの煮つけ、粉ふき芋、きんぴらごぼう、白菜と葱の酢味噌和え……。まだあります。煮豆に塩麹入りの卵焼き……。
田中 ほうほう。
味園 おさつ芋餅、お新香。お総菜など11種類入って税込み800円で販売しています。
久保田 これは一日のメニューでなくて、いろいろ詰め合わせているんでしょうけど、お魚に野菜に、こう、調理方法もバラエティー豊かですね。
味園 そうですね、はい。毎月メニューは変わります。おかずの種類も多くて、彩りも鮮やか、でも、それだけではありません。お弁当を購入しますと、レジで素敵な箸袋とお品書きを渡されるんですね。
田中 ほう。
味園 添えられたA5の紙に、先ほどのお弁当の内容が書かれたお品書きと、光太郎の日記から抜粋された文などが掲載されています。
久保田 あ、今、写真にもそのA5サイズで添えられている、あの、紙も番組のツイッターに載せてあります。
味園 はい。例えば昭和21年3月13日、ちなみに3月13日、光太郎の誕生日なんですけれども、一部紹介しますと、「雪がちらつく」……「朝食、小豆のご飯を」ですね「粥にする」。
田中 ほー。
味園 「終日読み物、雑誌新聞類」……「今日、東京より来たりしチーズをはじめて開ける、オーストラリア製なり」。
田中 へー。
味園 ……ですとか、昭和23年の誕生日には「今朝霧が立ちこめ、春を思わしむ」、「良き小麦粉にてパンを蒸す、よく出来たり」など。こういうものを見ると、お弁当がさらに楽しめますよね。
久保田 うん、うん。
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田中 ほう……でも、何か、どんな天気だったかも分かりますし、それを食べた、何か状況が見えてくるような気がしますね。
味園 そうですね。何だか光太郎の当時の息遣いが感じられるような気がしますよね。
田中 そうそう、そうですね。
味園 戦後とは言っても、光太郎は色んな人との交流がありまして、珍しい食材を使っていたり、そば粉のパンケーキを自分で焼いたりと、日記やお弁当から、グルメな食事、自炊の様子が伝わってきます。添えられた箸袋や献立表からも、このランチに携わっている地元のスタッフの皆さんの温かい気持ちが感じられるんですが、ま、ちなみに箸袋と献立表は、地元で光太郎をこよなく愛するグループの皆さんがいらっしゃいまして、光太郎のことにとても詳しい方たちなんですが、ボランティアで協力して作ってくれているということなんですね。
久保田 ふーん。
味園 毎月15日のみ、限定10食、毎回売り切れる人気のお弁当ですが、事前に別途注文することも可能とのことです。
久保田 じゃあ、今も光太郎は地元で愛されているわけですね。
味園 そうですね。光太郎は地域の方たちとの交流を大切にしていたようですけれど、このランチを販売する「道の駅はなまき西南」も、いろんな形で地域の方々との交流を大事にしています。地元の農産物を購入出来る産直、飲食店、広いコミュニティースペースなどがありまして、人々が集える場所にもなっています。で、他にも大事な役割がありまして、地域の高齢者への食事の配達をしているんですね。
久保田 うん、うん、うん、うん。
味園 道の駅で地元の女性グループが日々、内容を変えたお弁当とお総菜を作って販売していまして、お弁当を希望する地元の高齢者に届けています。
田中 はー、道の駅になかなか行けない高齢者ともつながりを作っていると言うことなんですね?
味園 そうですね。お弁当を配達することで、会話を交わして元気で過ごしているか、「見守り」にもなっているというわけですね。
久保田 ふーん。
味園 この道の駅には地元の児童生徒が作った四季折々の飾り、絵などが飾られたり、秋には地域の方が作った案山子(かかし)がずらっと並んだりと、人々の交流の様子が、あちこちに感じられるんですけれども、もしかしたら、光太郎もこんな風に、岩手の四季の移り変わりを、地元の人たちと共に楽しんでいたかもしれません。
田中 そうですね、うん。
味園 あのー、地元ゆかりの光太郎ランチを地元産の食材で提供していることもありまして、この道の駅は、いろんな所の道の駅の一つではなくて、高村光太郎がこの地域に住んで、その息吹が感じられる道の駅にもなっているのではないかな、と感じます。
田中 はい。
久保田 そうですね。味園さん、ありがとうございました。
田中 ありがとうございました。
久保田 岩手県花巻市から、味園史湖さんでした。


話題となっている道の駅は、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。「光太郎ランチ」を販売しているのは、テナントの「ミレットキッチン花(フラワー)」さん。メニューの考案や、番組で紹介された光太郎日記抜粋などには「やつかの森LLC」さんが当たられています。本当に頭の下がる思いです。

この話題の際にはいつも書いていますが、「光太郎ランチ」、末永く愛されて欲しいものです。

ちなみに今回の放送分、4月6日(水)まで、NHKさんの聴き逃し配信「らじる★らじる」で聴取可能です。

【折々のことば・光太郎】

七時おきる、 猪熊氏と植村鷹千代氏の対談をきく、ラジオ、


昭和27年(1952)9月7日の日記より 光太郎70歳

光太郎もNHKさんのラジオ放送、よく聴いていました。「猪熊氏」は新制作派の画家・猪熊弦一郎でしょう。光太郎とは旧知の仲でした。「植村鷹千代」は美術評論家です。

芸能関係で2件。

まずは3月27日(日)の『サンケイスポーツ』さん。

伊藤健太郎、1年5カ月前の事故「死ぬまで背負っていく」 ファン500人の前で約束 今の目標は地上波ドラマ復帰

 俳優、伊藤健太郎(24)が26日、東京都内で自身初のファンミーティングを開催し、約500人と交流した。2020年10月に自動車運転死傷行為処罰法違反などの疑いで逮捕され、不起訴処分となったが、本紙の取材に「事故のことは死ぬまで背負っていく」と真摯に表明。6月3日に主演映画「冬薔薇(ふゆそうび)」(阪本順治監督)の公開を控え、今後は「地上波ドラマに戻りたい」と前向きに目標を掲げた。
 ファンの温かい拍手に迎えられ、緊張気味だった伊藤の表情が和らぐ。事故から1年5カ月。ステージを360度囲んだ客席を見渡し、感謝の思いがあふれた。
 「こんなにたくさんの方々に来ていただけるとは…。支え続けてくださり、本当にありがとうございます」
 昨年6月に初めてファンクラブを開設。恩返しのために初開催した2部制のファンミーティングでは、主演ドラマ「東京ラブストーリー」の告白シーンをファン相手に再現し、「皆さんに向けて読むのにぴったり」と高村光太郎が妻への愛を歌った詩集「智恵子抄」を朗読。主演映画「冬薔薇」でメガホンを執った阪本監督らゲストとのトークでも盛り上げた。
 1時間強の時間はあっという間に過ぎ、〝再会〟に涙するファンも。伊藤は「これからも温かく、時には厳しく見守っていただけたら。お芝居している姿をたくさん見せられるように頑張っていきます」と約束した。
 昨年10月に主演舞台「SOULFUL SOUL」で俳優業に復帰。「冬薔薇」ではろくでなしな男役で新たな顔を見せ、本紙の取材に「自分が主演だと違う見え方がするけど作品として見てもらえたら」と願った。
 14歳でモデルとして芸能界に入り、14年にフジテレビ系「昼顔~平日午後3時の恋人たち~」で俳優デビュー。「バイトをしたことがなく、この世界しか知らない。1年間休んだ間、生業にできる他の職業を探したけど見つからなかった」と役者として生涯を全うする覚悟が決まった。
 20年公開の主演映画「十二単衣を着た悪魔」は平安時代にタイムスリップする内容だが、「僕は未来に行きたい。40年後もこの仕事をやれているのか気になる。過去に戻って事故をなかったことにしたいとは思わない」と全てを背負って前を向く。
 「地上波ドラマでスタートした役者人生。簡単ではないけど、戻れるように取り組みたい」。恩返しの〝第2の役者人生〟を地に足をつけて歩んでいく。
◆阪本監督がエール「また次の仕事へ」
 阪本監督は「『事故でけがをさせた人たちとは、ずっとつながっていてください』と(伊藤に)言っている」と明かし、「また次の仕事へ向かってほしい」とエール。伊藤はミュージックビデオに出演した「丁寧な暮らし」を歌うラッパー、gbもゲストに迎え、「作品に愛を持って取り組む姿に学ぶべきものがたくさんある」と刺激を受けていた。
■伊藤 健太郎(いとう・けんたろう)
 1997(平成9)年6月30日生まれ、24歳。東京都出身。2017年に映画「デメキン」で初主演。18年に日本テレビ系「今日から俺は!!」でブレークし、役名の「健太郎」から本名に改名した。19年に「コーヒーが冷めないうちに」で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。179センチ。
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光太郎も、順風満帆とは決して言えず、つまづきの多い生涯でした。自分がつまづいて転ぶだけならまだしも、他者を巻き込むことも多く……。ある種のモラハラといわれても仕方がないような態度で、妻・智恵子を追い込んでしまったのは事実ですし、戦時中にはプロパガンダ的に戦意高揚の詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に追いやりました。しかし、その都度、それを反省し、再び立ち上がりました。

伊藤さんの今後にも期待したいところです。

続いて、Yahoo!さんのニュースサイトから。

『となりのチカラ』松本潤のまっすぐな“告白”が胸に刺さる 10分間の見事な長ゼリフ

 松本潤が主演を務める『となりのチカラ』(テレビ朝日系)第8話は最終回前のセミファイナル。注目は前回、灯(上戸彩)から出された宿題にチカラ(松本潤)がどのような答えを出すのか。そして、オンエア前から話題になっていた松本による、10分に及ぶ問題に対する長ゼリフである。
  改めてだが、灯が出した中越家についての課題は、「灯は仕事を辞めていいのか」「愛理(鎌田英怜奈)を怒鳴ったり叩いたりしていいのか」「高太郎(大平洋介)を塾に行かせていもいいのか」の3つ。テーブルを囲み、チカラは高太郎に、愛理に、灯にゆっくりと自分が出した答えを語りかけていく。
 テストの点数が低く、学校でも「バカ」とイジメられている高太郎。彼の取り柄はポジティブな性格と自分のことが好きなことだ。「お前にもそのうち好きなものがきっとできる。それについてもっともっと知りたくなる。そしたら自然と勉強したくなるんだ、人間は」ーー知りたいと思う知的好奇心は、子供を机に向かわせる一番の原動力である。そのことをきっかけに、きっと高太郎を好きと言ってくれる人は増えるはず。チカラや灯、愛理が高太郎を好きなように。そうチカラは高太郎に伝える。
 そのひねくれた性格から将来つらい目に遭うじゃないかと心配な愛理。彼女の数字で表現する口癖をチカラは「嘘をつきたくないからだもんな」と肯定する。「いつも正直でいて、誰に対しても分け隔てなくしたいっていうお前の意思だもんな」と話す性格は、灯とそっくりだ。チカラは高太郎と愛理に対して両膝をついて、2人と同じ目線になって話している。そして、共通しているのは子供多たちの名前の由来を明かしていることだ。高太郎は『道程』を書いた詩人・高村光太郎から、愛理はチカラの好きなレゲエで用いられる掛け声「アイリー!」から。光太郎ではなく間違えて高太郎にしてしまったこと、「アイリー!」が「最高に楽しい」を意味する言葉であることをプラスに転換しながら、ありったけの愛を注いでいく。
 そして、ラストは灯の仕事について。チカラが出した「したいようにすればいいと思う」は、灯のリアクションの通りに少々人任せに聞こえるかもしれないが、それは灯がすでにこれからの道を決断していることをチカラが察しているからだ。今の灯に足りないのは背中をポンッと押してくれる愛する人の言葉。いつも全力投球な灯にチカラは「そんなあなたを僕は大好きです。心から尊敬してます。一生そばにいたいです」とまっすぐな愛を涙ながらに伝える。それは前回、灯の実家であと一歩勇気が出ず口に出せなかった言葉でもあった。
 中越家の課題はこれで一旦の解決となったが、チカラにはまだ4つ目の問題が残されていた。それはマンションの住人、つまりはお隣さんたちの数々の問題だ。これまで散々人の家の問題に首を突っ込んできたチカラだったが、彼が出した結論は「もう何もしない」というまさかの発想。第8話はトラブルメイカーと噂されていた小日向(藤本隆宏)のボヤ騒ぎでラストを迎える。
 最終回は多くがまだ手つかずの住人の問題にチカラが向き合うのかが見どころとなる。第8話にて清江(風吹ジュン)がチカラに向けて言った「あなたに会えて良かった」という感謝の一言。現実から目を背けるチカラのヒントになるのは、きっとこの言葉だ。

当方、このドラマは拝見していませんでしたが、番組公式サイト内に、見逃し配信の項があり、視聴してみました。

問題の(別に問題があるわけではありませんが(笑))シーンは番組終盤。

チカラ そうだ、お前の名前は「高村光太郎」っていう有名な人から採ったんだ。パパが大好きな「道程」っていう詩を書いた人で……。
高太郎 「どうてい」?
チカラ あ、変な想像するな。「道のり」って意味だ。でも、「高村光太郎」は「光る」っていう字に「太郎」なのに、うっかりして「高い」っていう字にしちゃったんだ。「高村」の「高」に引っ張られてさ……。へへ、バカだろ、パパ?
高太郎 うん。
チカラ でも、こんなパパでも、ママと結婚できたんだ。だから、心配するな。これからきっと、高太郎のことを「バカ」って言う人より、お前を「好き」って言う人がどんどん増えてくる。今だって、パパはお前が大好きだし、ママも愛理も大好きだから。

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光太郎から名前を採ったという設定。やはり光太郎詩の持つポジティブ性ということで、光太郎なのでしょう。萩原朔太郎から採って「昨太郎」では成りたちません(朔太郎ファンの皆さん、すみません(笑))。

それにしても、「高太郎」。そう誤植されるケースが実際にかなりあるのには閉口します。ついでに言うと、「幸太郎」や「千恵子」「知恵子」なども。最も呆れたのは「高山光太郎」でしたが(笑)。
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閑話休題。

こうしたイベントやドラマ等で、「『智恵子抄』って何?」「高村光太郎って誰?」とならないよう、今後も啓発・顕彰を続けていこうと思いました。皆様方もご協力よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

藤根村の高橋峰次郎といふ人来訪、観音堂への揮毫依頼

昭和27年(1952)9月3日の日記より 光太郎70歳

藤根村」は現在の北上市。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の近くです。「高橋峰次郎」は正しくは「高橋峯次郎」。詳しくはこちら

このところ、光太郎よりも光太郎の父・光雲がらみの情報を多く紹介しています。それだけ光雲作品の出る展覧会等が開催されているということで、やはり光雲人気、衰えないのだなと感じています。

今日も光雲作品の出る展覧会を2件。

まずは光雲が奉職し、光太郎も通った東京美術学校の後身・東京藝術大学大学美術館さんでの展覧会。

藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑

期 日 : 2022年4月2日(土)~5月8日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日 ※ ただし、5月2日(月)は開館
料 金 : 一般440円(330円)、大学生110円(60円)、高校生以下及び18歳未満は無料

東京藝術大学は、前身である東京美術学校の設立から135年の長きにわたって作品や資料の収集につとめてきました。その内容は古美術から現在の学生制作品まで多岐に及びます。当館では、この多彩なコレクションを広く公開する機会として、毎年藝大コレクション展を開催しています。
2022年の藝コレは、「春の名品探訪」と題して約3万件の所蔵品の中から選りすぐった名品を中心に展示します。さらに今回は、天平の美術に思いを馳せた特集展示も見どころとなっています。
8世紀奈良の天平美術は、国際色豊かな唐の影響を受けつつ鎮護国家思想のもとに花開き、後代にも大きな影響を与えました。著しい損傷を被りながらも威風を伝えている《月光菩薩坐像》は、天平彫刻を代表する仏像のひとつです。また今回の展示では所蔵する乾漆仏像の断片や東大寺法華堂天蓋残欠に新たな光を当てています。最新の研究成果により南都仏師たちの技法が解き明かされます。
そして特集の白眉は、《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》(重要文化財)です。今回の展示では、厨子とその内側四方に描かれた合計7面全て、さらに吉祥天像(模刻)によって立体的な展示を試みます。鎌倉時代に制作されたこの名品にも、天平の面影を見ることができます。

特集展示以外もみどころはたくさんあります。
まず《小野雪見御幸絵巻》(重要文化財)、狩野常信《鳳凰図屏風》などの古美術。
さらに藝大コレクション展では約 10 年ぶりの出品となる長原孝太郎《入道雲》、初公開の白川一郎《不空羂索観音》といった近代洋画の逸品、そして狩野芳崖《悲母観音》(重要文化財)や橋本雅邦《白雲紅樹》(重要文化財)などの近代日本画の名品も展示されます。
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皇室ゆかりの品も展示されます。《綵観》は、日本画・彫刻・工芸の各界を代表する当時の帝室技芸員とその候補者、東京美術学校教授らにより制作されました。橋本雅邦、高村光雲、川端玉章、濤川惣助など総勢18名の非常に豪華なメンバーによる合作で、木製のつづら折りになる小屏風には、それぞれの技法や画題で製作された花鳥風月が配されています。絵画、木彫、鋳金、七宝、牙彫(象牙)、蒔絵、陶芸など技法もさまざまで、1面ごとに作者の個性が楽しめます。
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綵観」、平成29年に同館で開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」 でも出品され、その際に拝見しました。

明治38年(1905)に制作されたもので、木製の枠(縦33.3㌢ 横24.1㌢)を画帖に見立てて日本画、木彫、牙彫、金工、蒔絵などの作品を配し、8面を繋いで屏風の形に仕立てたものです。2人で1面という箇所もあり、表裏で18人の作家が腕を揮っています。光雲以外には野口小蘋、橋本雅邦、海野勝珉、香川勝廣、川之辺一朝、白山松哉、加藤陶寿、濤川惣助、竹内久一、石川光明、大島如雲、宮川香山(二代)、山田宗美、安藤重兵衛、佐竹永湖、荒木寛畝、川端玉章。帝室技芸員を含む、当代一流の作家たちです。

光雲は木彫で狆のレリーフを作りました。題して「猗子」。
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他にも狩野芳崖《悲母観音》(重要文化財)や、奈良県マスコットキャラクター「せんとくん」を生み出し、現在、奈良県立美術館館長を務める籔内佐斗司氏制作の鹿をイメージした面など、見どころの多い展示となっているようです。

もう1件、埼玉です。

近代木彫・工芸逸品展

期 日 : 2022年3月30日(水)~4月5日(火)
会 場 : そごう大宮店 7階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は午後5時閉場
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

木の息吹を感じる木彫作品から人気作家の陶芸品まで時代とジャンルを超えた匠の逸品をご紹介いたします。
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光雲作の「聖徳太子像」が出ます。像高17.3㌢の小品ですが精緻ですね。ただ、光雲単独の作なのか、工房作なのか不明です。

それぞれ、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十一時過孟彦来訪、村長さん清水さん、鯉淵学園の助手、生徒等4名も同道、夕方6時半まで、

昭和27年(1952)8月9日の日記より 光太郎70歳

「孟彦」は光雲四男・光太郎実弟で、藤岡家に養子に入った藤岡孟彦。植物学を修め、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。現在、花巻高村光太郎記念館さんで展示されている光雲作の「鈿女命」は、光雲没後に孟彦が形見分けに貰ったものです。

孟彦の回想から。

 27年の文化祭に、亡兄高村光太郎に来講して貰った。これには少しいきさつがある。兄は終戦近く罹災し東京を引揚げ知人を頼って岩手県花巻市に移ったが、ここでの戦火に会い稗貫郡太田村の山口という山村に引込んだ。以来8年をそこで農耕にいそしみつゝ送っていた。私も同様関西で勤め先と仮寓を焼払われ暫く音信が絶えたが鯉渕に来て東北地方に近くなったのを幸いに、一度こちらから訪ねたいし、学園にも来て貰いたく思い、23年の秋、着任早々手紙を出した。その返事にはかねてから望んでいたような山林生活をして愉快にやっているとあって安心した。その後訪ねる機会もなく、空しく月日は流れて行く。26年9月ごろ思い切って講演に来て貰えないか頼んでみた。一体私は、生れつき兄にも遠慮する方なのである。これも早速返事があり前年(25年)冬以来神経痛が全治しないので用心している。無理をしてよそへ講演に行ってから悪化した経験がある。全治すれば出かけるとあったので実はこの秋の文化祭に来てもらう心組みでいた私は少なからず失望した。ところがその翌27年8月特研生が私と西村君の引率の下に仙台、盛岡へ見学旅行に出掛けることになったので、この機会を外してはと思い8月?日盛岡で解散後、花巻に戻り途中一泊して翌日太田村山口の山小屋に辿りつき兄と久し振りに会う事が出来たのは実に嬉しかった。西村君の他に8期生の中込、日野原二君も同行した。さて、この時耳寄りの話を聞いた。というのは、兄は仕事のために10月、半年程滞在の予定で上京するというのである。この会見とその前後談を書くと、とても面白いのであるが関係がないから省く。
(『鯉淵学園通信』第38号 昭和32年=1957 6月)


省かないでほしかったのですが、学園の通信ではしかたがありますまい。

光太郎の鯉淵学園での講演は、11月に実現しました。その筆録は翌年1月発行の『農業茨城』第5巻第1号に「芸術と農業」の題で掲載されています。

信州善光寺さん、今年は御開帳です。数え七年に一度ということで、本来は昨年の予定でしたが、コロナ禍のため一年延期されました。4月3日(日)~6月29日(水)の予定だそうです。

そこで、御開帳に合わせ、昨日ご紹介した長野県立美術館さんの企画展「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」が開催されるわけです。

また、日本郵政さんでは、御開帳記念ということで、 ご当地フレーム切手「七年に一度の盛儀 善光寺御開帳」を発売しました。信越支社さんのプレスリリースから。

オリジナルフレーム切手「七年に一度の盛儀 善光寺御開帳」の販売開始

日本郵便株式会社信越支社(長野県長野市、支社長 菊地 元)は、下記のオリジナル フレーム切手の販売を開始します。このオリジナル フレーム切手は、下記の郵便局(一部の簡易郵便局は除く)で限定販売します。

商品名 七年に一度の盛儀 善光寺御開帳
販売/受付開始日 2022年3月25日(金)
販売/受付開始日(Web) 2022年3月25日(金)午前 0時15分
申込受付数 14,000シート
販売郵便局 長野県の全郵便局(440局) ※一部の簡易郵便局は除きます。
商品内容 フレーム切手 1シート 84円切手×5枚
商品属性 店頭販売商品
販売単位 シート単位で販売します。
販売価格(税込) 1シート 1,000円
 「郵便局のネットショップ」でお取扱いする場合は、販売価格のほかに郵送料等が加算されます。

切手デザイン
善光寺御開帳は、本堂に安置される秘仏の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」の分身として鎌倉時代に造られた前立本尊(まえだちほんぞん)を、数えで7 年に一度開扉(かいひ)する盛儀(せいぎ)です。本商品は、善光寺御開帳の魅力を盛り込んだデザインとしています。
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光太郎の父・光雲と、その高弟米原雲海による仁王像(大正8年=1919)、それを納める仁王門もデザインされています。
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基本、長野県内の郵便局さんでの販売ですが、日本郵政さんのサイト内の「郵便局のネットショップ」から通販も可(会員登録が必要ですが)。早速注文しました。

善光寺さん御開帳のフレーム切手、前々回(平成21年=2009)、前回(平成27年=2015)の際にも発行されました。それぞれ、仁王門の写真があしらわれた切手も含まれていまして、タイミングを失っていたので、このブログではご紹介していませんでしたが、入手しました。

前々回(平成21年=2009)のもの。当時の封筒の郵便料金は80円だったのですね。
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前回(平成27年=2015)のものはこちら。82円バージョンです。
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上記2点は入手しておりましたが、今回、改めて調べてみますと、前回(平成27年=2015)にはハガキ用の52円バージョンもありました。
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こちらは未入手でして、探してみます。

それにしても、こういう光太郎智恵子・光雲がらみの郵便関係(切手・はがきなど)、コツコツ集めているうちに、ミニ展示ができるくらい溜まってきました。ご要望があれば貸し出しいたしますので、お声がけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐるうち山口部落の老婆といふ人、青年をつれてきて何かをたのむ、言葉まるで分らず、断りてかへす、


昭和27年(1952)8月1日の日記より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活も丸7年が経とうとしていた時期で、かなり彼の地の方言等にも通じていた光太郎ですが、時にはこういうこともあったようで……。訪ねてきた老婆がたまたま言語不明瞭だったのかも知れませんが……。

長野県から企画展情報です。

善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から

期 日 : 2022年4月2日(土)~6月26日(日)
会 場 : 長野県立美術館 長野市箱清水1-4-4(善光寺東隣)
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 水曜日
料 金 : 一般・大学生500円、高校生以下無料

善光寺御開帳に合わせ、高村光雲から始まった、東京藝術大学による善光寺の仏像の保存修復に関わる研究について、様々な角度から紹介する展覧会を開催します。

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大正7年(1918)、信濃善光寺さんの仁王門が再建されました。明治24年(1891)の大火で焼失したものです。翌大正8年(1919)には、光太郎の父・光雲と、その高弟・米原雲海の手になる仁王像、さらに三面大黒天像、三宝荒神像が納められました。
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開眼100周年ということで、平成31年(2019)から、東京藝術大学さんによる、像の本格調査が始まりました。その結果、それまで明らかにされていなかった事実がいろいろと判明していますし、文化財指定、仁王門の改修などもありました。

善光寺仁王像 初の本格調査。 第十六回長野灯明まつり 「共鳴する平和への祈り」。
信州善光寺仁王像関連。 第14回善光寺サミット。 信州善光寺仁王門屋根改修銅板寄進。
「善光寺仁王門の改修工事」他。 信州善光寺仁王門工事見学会。 
善光寺仁王門、国登録有形文化財に。

それらの成果を踏まえての企画展のようです。

会場の長野県立美術館さんは、善光寺さんのすぐ隣。併せて仁王門自体もご覧下さい。当方も時間を見つけて行ってきたいと思っております。

【折々のことば・光太郎】

九時頃豊周、細君、珊子さん三人来訪、山水閣の番頭さんがついてくる。昨夜山水閣に一泊、今朝車で山口校まで来りし由、


昭和27年(1952)7月31日の日記より 光太郎70歳

「豊周」は、光雲三男にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光太郎の実弟です。後に鋳金分野の人間国宝となりました。

その豊周の回想。

 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。


この直前にはこんな記述も。

 山の生活について、直接知っていることはあまりないが、あのプラスの面とマイナスの面はやはり考えなければいけない。洋行以外長く東京を離れたことのない兄が、七年間もあそこに住んだこと自体は、極めて特殊な体験である。水がいいとか、野菜が新しいとかは、田舎にゆけばみんなそうで、当たり前のことだけれど、なんといっても山の中にいるのだから、ものの考えが純粋になる。東京のように朝に晩に酔っぱらいが訪問することもないし、来るのは花巻、盛岡あたりの文学青年や、農家の人たちばかりだから、その点やっぱり良かったと思う。健康についてはマイナス。勿論彫刻が出来なかったことは特別大きなマイナスだが、その代り、兄の書はここで一進歩を遂げた。
 丁度あの時十和田の像の話がもち上って、それで東京に帰れるようになったのは、僕には自然の摂理が、うまく兄を導いたような感じがするのだ。もしあの話が起らずに、もうすこしあそこにとどまっていたら、必ず動けなくなっていただろう。


東京にいた頃、「朝に晩に」「訪問」した「酔っぱらい」は、当会の祖・草野心平などでしょう(笑)。それはともかく、なかなか鋭い見方ですね。

昨日、開幕でした

春のライトアップ2022

期 間 : 2022年3月25日(金)~4月5日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑、国宝三門周辺、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂、大鐘楼
料 金 : 大人600円(高校生以上) 小人300円(小・中学生)

友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「国宝三門」、除夜の鐘で有名な「大鐘楼」など境内各所をライトアップします。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。
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みどころ
友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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大鐘楼(春期初公開)
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『根を培う』

 正座じゃないといけないの?手の合わせ方が分からない。仏教は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。気さくなお坊さんたちが皆さまを温かくお出迎えいたします。お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験がございます。日常から離れた心静かなひとときをお坊さんと味わってみませんか?
開始時間:18:00〜/18:45〜/19:30〜/20:15〜(各回お話15~20分、木魚念仏体験5分程度)
状況により時間が変更になる場合がございます。堂内間隔を保つため、人数制限を行う場合がございます。知恩院七不思議のひとつ「大杓子」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!
(無くなり次第終了)
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御影堂プライベートツアー
 国宝御影堂の通常非公開部をご案内いたします。御影堂の荘厳な雰囲気に浸りながら、特別な時間をゆっくりとお過ごしください。
 日程:毎夜
 開始時間:18:15~/19:00~/19:45~/20:30~
 所要時間:45~50分程度
 定員:各回25名様まで
 料金:お1人様1,000円(小・中学生500円)
 別途ライトアップ拝観料が必要です。
 当日プライベートツアーの受付(御影堂前)にて現金でお支払いください。

月かげプレミアムツアー
 ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大鐘楼柵内の通常非公開部もご案内!1時間半たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:3/25(金) 26(土) 27(日) 30(水) 4/2(土) 3(日)
 開始時間:18:00~/19:30~
 所要時間:1時間半程度
 定員:各回15名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。

「補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像」は、明治25年(1892)、東京美術学校として依頼を受け、光太郎の父・光雲が主任となって制作されました。鋳造は岡崎雪声、原型は東京藝術大学さんに収蔵されています。
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京都では、清水三年坂美術館さんで、光雲作の木彫が14点出ている「明治・大正時代の木彫」展も開催中です。併せて足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

21日朝山野の山百合一せいに咲きはじめる、壮観、


昭和27年(1952)7月26日の日記より 光太郎70歳

遡ること10年ほど前、まだ駒込林町のアトリエ兼住居にいた昭和16年(1941)、詩人の宮崎稔に宛てたはがきには、以下の記述がありました。

昨日は山百合の花たくさんお届け下され御厚志まことにありがたく存じました、早速父と智恵子との写真に供へましたが殆と部屋一ぱいにひろがり、実に壮観をきはめ、家の中に芳香みなぎり、山野の気満ちて、近頃これほど爽快に思つた事はありません、智恵子は殊に百合花が好きなので大喜びでせう。

ZOOMによるオンライン講座です。

若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む

オンライン会議アプリzoomを使用したリモート講座が新しくできました!

ゼミという名のとおり、若松と参加者とが共に学びを深めて参ります。
名著を取り上げるのはもちろん、若松がどうしても取り上げてみたいマニアックな本、本だけに限らずにテーマ(詩、哲学)なども取り上げて、「読む」こと「書く」ことを深めていく講座です。
中には1年以上かけて、同じ本をじっくり学んでゆくような講座も予定しています。
少人数制の参加型ゼミ講座と、テキストを読み解いたりテーマ毎に講義を受けるグループ講座をご用意しています。
お好きなテーマ、参加スタイルを選んでご参加ください。

オンラインですので、遠方の方や直接教室にこられない方もご参加頂けます。
ご自身のなかにある、うちなる言葉に出会える講座です。
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 高村光太郎訳の『ロダンの言葉』は、ある時期、画家や彫刻家だけでなく、文学、音楽を含む世界においても、ある種の啓示の書として読まれました。彫刻という「かたち」のなかに潜むコトバを語るロダンに美と叡知の地平を指し示す羅針盤のようなものを感じたのです。
 今日、ロダンはすでに不朽の名を歴史に刻んでいますが、彼は多くの誤解と中傷を受けながら、自らの芸術を深化させてきました。この本には、かたちを変えた詩の極意が語られています。
 言葉を超えたコトバとどのような関係をつむぐことができるのか、ロダンの言葉に導かれながら、皆さんと考えてみたいと思います。 (講師:若松英輔)

【講座の種類】グループ講座(連続)
【最低催行人数】10名
【時間数】1時間40分(内休憩10分)
【受講料】4,400円(税込)
【課題】あり(+1,650円)・なしが選べます
【テキスト】高村光太郎訳 高田博厚編『ロダンの言葉抄』(岩波文庫)
【申込み期限】講座の前営業日9:00まで(コンビニ決済の方は、期限までにお支払いまでお済ませ下さい)
001※「読むと書く」会員様のみご参加頂けます。 会員証をお持ちでない方は、事前にアンケート・課題などがございますので、4営業日前までに初めての方はお申し込み下さい。

【日程】
 ■第一回 2022年3月30日(水)19:20-21:00

 ■第二回 2022年4月27日(水)19:20-21:00

 ■第三回 2022年5月25日(水)19:20-21:00


主宰は詩人の若松英輔氏。これまでに、NHKさんのラジオ講座で光太郎に触れてくださったり、評論集『詩と出会う 詩と生きる』(令和元年=2019 NHK出版)、詩集『美しいとき』などで、光太郎に触れてくださっています。

メインで取り上げられるのは、光太郎訳の『ロダンの言葉抄』。光太郎歿後の昭和35年(1960)、それぞれ光太郎に私淑した彫刻家の菊池一雄と高田博厚の共編で、岩波文庫の一冊として刊行されました。現在でも版を重ねているようです。

「抄」ではない元版『ロダンの言葉』は大正5年(1916)に北原白秋の実弟・北原鉄雄の阿蘭陀書房から、『続ロダンの言葉』は同9年(1920)に叢文閣から刊行されました。それぞれ、それまでに『白樺』などの雑誌に断続的に発表していたものをまとめたものです。のちに叢文閣では2冊セットの普及版も刊行しています。

光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝となった豊周の『定本光太郎回想』から。

 この頃「ロダンの言葉」を訳しはじめたのは、兄にとっても、僕たちにとっても、今考えると全く画期的な大きな仕事だったと思う。
 雑誌にのった時は読まなかったけれど、本になってからは僕も繰返して愛読した。あの訳には実に苦心していて、ロダンの言葉を訳しながら兄の文体が出来上がっているようなところもあるし、芸術に対する考え方も決って来ているところが見え、また採用した訳語も的確で、「動勢」とか「返相」とか兄の造った言葉で今でも使われているものが沢山ある。そんな意味で、あれは兄には本当に大事な本だった。
 それだけに、他の学校は知らないが、上野の美術学校では、みなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的ではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の生き方の根本で人々の心を動かした。新芸術の洪水で何かを求めながら、もやもやとして掴めなかったものがあの本によって焦点を合わされ、はっきり見えて来て、「ははあ」と肯ずくことが一頁毎にある。ロダンという一人の優れた芸術家の言葉に導かれて、人々は自分の生を考える。そういう点で、あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている。
 この本が、そんなに広く受入れられた原因の一つは、あの本の形式にもあるので、兄の読んだ種種な書物からの集積だから、自然にそうなったのだけれど、文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。この短かくて頭にはっきり全文が入るような形式が読者の感動をどんなに助けているかわからない。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。

若い学生」には、佐藤忠良、舟越保武、本郷新といった、光太郎のDNAを受け継ぐ彫刻家も含まれ、実際、彼らもその影響の大きさを語っています。佐藤と舟越の対談から。

佐藤 『ロダンの言葉』というのは君も聖書のようにして読んだし、僕も同じだったね。高村さんにあれだけの翻訳が出来たというのは、当時高村さんがいい仕事をしてたから深く読み、訳せた証拠だと思う。
舟越 そうだろうな。
佐藤 本郷さんも老人の漁夫を作ったり青年を作ったりあたりはいい文章を書いている。君もそうだと思うけど、『ロダンの言葉』を興奮して読んだわけだけど、自分が仕事を積み重ねて幾らかでも成長してから読んでみると、学生の時とはまったく違うところに感動していたりする。学生時代に読み過ごしていたところに本当の意味があった、ということがわかって、そこで、ああ、高村さんはやっぱりいい仕事してた時なんだな、と思えてくる。
(『対談 彫刻家の眼』昭和58年=1983 講談社)


さて、その『ロダンの言葉』を、若松氏がどのように評するのか、興味深いところです。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

哲夫さんキチジといふ魚持参、ビール1本のむ、


昭和27年(1952)7月24日の日記より 光太郎70歳

哲夫さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの村人、「キチジ」は主にオホーツク海などで獲れる魚です。調理法が書かれていませんが、刺身、或いは焼き魚にして一杯、というのもいい感じだったでしょう。
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BSテレビの再放送情報、放映順に2件ご紹介します。

ゆるっと山歩に行こう▽登山を始めたい方必見!絶景やグルメも堪能!

BS朝日 2022年3月26日(土) 14:55〜15:54

登山初心者の女優・酒井美紀と、ゴリ(ガレッジセール)が、山のスペシャリストと共に山頂を目指す!景色はもちろん、山での歩き方や服装など登山初心者に向けた情報も満載。

酒井美紀(女優)が登るのは、福島県にある安達太良山(あだたらやま)。「日本百名山」に選ばれている標高1700mの美しい山で、中高年の方でも登りやすい、登山初心者にはうってつけの山!一方、ガレッジセールのゴリが登るのは、山梨県にある標高1785mの三ツ峠山。通常は3時間程度で登山が可能で、麓には宿泊も可能な温泉付きの施設もあり、登山初心者に人気の山。さあ、ゆるっと山歩(さんぽ)してみよう!

出演者 酒井美紀、ゴリ(ガレッジセール)、栗山祐哉(上級登山インストラクター)、鈴木優香(山岳収集家)、吉野時男(グルメハイカー)、北村春夏(歴史ハイカー)

初回放映は昨年11月でした。
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前後半2本立てで、前半の登山挑戦者は、女優の酒井美紀さん。
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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)に謳われた、智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山に挑みます。

安達太良山が選ばれたのには理由(わけ)があり……。
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そうなると、安達太良山は…………。
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なるほど。

さらに山岳ガイドさんもご同行。
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「山岳収集家」という肩書きを、当方、初めて目にし、「?」と思いましたが……。
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だ、そうです。

出発地点は、奥岳登山口。ここから歩いて山頂まで登っても、朝出れば夕方には帰り着けるのですが、「登山初心者」ということで、ロープウェイで一気に8合目まで。
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すると、山頂駅からはおよそ1時間半。ただ、コロナ禍前の山開きの日は大混雑でしたし、雪融け水で登山道が泥の河と化している箇所も多く、もう少し時間がかかる状態でした。

さて、山頂駅のすぐ近くで……。
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光太郎智恵子、ばっちり紹介してくださいました。多謝。

ただし、この日は……。
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その後、山頂付近で山グルメを堪能し……。
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いよいよ登頂。ドローン空撮なども効果的に使っていました。
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さらに足を伸ばして、沼の平。
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番組後半、ガレッジセール・ゴリさんの山梨県三ツ峠山編(こちらは「登山初心者」といいつつ、けっこう過酷でした)をはさみ……。
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最後に、再び酒井さん。後日譚として、「山岳収集」の伏線が回収されて、番組終了。
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もう1件、同じ日の放映です。

ニッポン美景めぐり 十和田・奥入瀬

BSフジ 2022年3月26日(土) 19:30〜19:55

日本の美しい景観を求めて、俳優・和合真一がカメラ片手に日本各地をめぐる旅番組。
今回の旅先は、青森県の十和田市。十和田ビジターセンターで十和田湖の歴史を学ぶ。名産のひめます料理やご当地グルメを味わう。美しい景勝地、奥入瀬渓流を散策。大自然が生んだニッポンの美景をご紹介。

旅人:和合真一 ナレーター:服部潤
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こちら、初回放映は昨年7月でした。その後、くり返し再放送がありましたが、初回放映を含め、すべて深夜から未明のオンエアでした。で、今回、初めてゴールデンタイムでの放映です。

じつは公式サイトで全編見られてしまうのですが、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などの「美景」、テレビの大画面で観るのをお薦めします。ちなみにこの番組、3月6日(日)オンエアの最新作は、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市(それなりの観光地ですので)及び、光太郎智恵子ゆかりの銚子犬吠埼(光太郎智恵子にはふれられませんでしたが)でした。そちらも公式サイトからご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后「森英介之墓」等揮毫。


昭和27年(1952)7月22日の日記より 光太郎70歳

森英介」(大6=1917~昭26=1951)は米沢出身の詩人。生前に刊行された(正確にはぎりぎり間に合わず亡くなりましたが)唯一の詩集『火の聖女』には、光太郎が序文を寄せています。この詩集は活字工として働いていた森が自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、森はその直後に胃穿孔で急逝してしまいました。
 
墓標の文字を遺族から依頼された光太郎は、哀惜の意を込めて正面に刻まれた「森英介之墓」、向かって左側面の「智応院正行日重居士」(戒名)を揮毫しました。
 
当方、20数年前、開通間もない山形新幹線に乗って、米沢までこの墓標を見に行きました。市内相生町の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいましたが、今もそのまま残っているのではないかと思います。おそらく地元の方も光太郎の文字がここにあるというのは、ほとんどご存じないのではないでしょうか。
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本日開幕。都内から、現代の作家さんによる木彫の個展です。

齊藤秀樹 木彫展~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~

期 日 : 2022年3月23日(水)~3月29日(火)
会 場 : 西武池袋本店 6階(中央B7)=アート・ギャラリー
      東京都豊島区南池袋1-28-1
時 間 : [月~土]10:00~21:00[日]10:00~20:00 最終日のみ16:00まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~
人が生活するエリアで見られる生き物を、実物大で木彫作品にしています。
制作する多くの生き物は自分が飼ったことがあったり、捕まえたことがある生き物ばかりです。触れることができる生き物に特に興味があります。
触れることができない自然の生き物との距離感にも興味があり、その緊張感を作品にすることもあります。
人と生き物との関係性は良いことばかりではなく、考えさせられることも少なくありません。
急速に変化し続けている自然の姿を、彫刻作品という形で表していければと思います。
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齊藤氏、大阪芸術大学美術学科彫刻科卒だそうで、現代アートという括りよりも、伝統的な木彫を継承されているという感じでしょうか。これまでも、動物をモチーフにした木彫を多く手がけられているようです。

今回の出品作のいろいろ。
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彩色が効果的ですね。

さらに、光太郎の父・光雲作品へのオマージュということで、[矮鶏」。
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楠を使った一木彫りだそうです。即売会も兼ね、価格は55万円也、だそうで。

元になった光雲作品は、「矮鶏置物」(明治22年=1889)。宮内庁三の丸尚蔵館さんに所蔵されています。
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ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夜ヘルシンキのオリムピツク開会式の実況をラジオできく、


昭和27年(1952)7月19日の日記より 光太郎70歳

この前年、昭和26年(1951)には第二次大戦のサンフランシスコ講和条約調印、27年に入って4月に同条約の発効。GHQによる占領体制が解かれます。こうした日本の国際社会への復帰の流れの中で、昭和11年(1936)のベルリンオリンピック以来、日本選手団が16年ぶりに参加しました。

日本人メダリストとしては、レスリングで石井庄八選手が金メダルを獲得しています。占領下では「武道は軍国主義の推進につながる」というGHQの指導で、柔道が弾圧を受けていました。そのため、石井選手もそうですが、レスリングに転向した柔道家も多かったと聞きます。現在に至るまで、日本のアマレスが一定のレベルを保っている背景にはこんな事情もあるのです。

その他、現代でも日本のお家芸的な競泳や体操で、銀・銅メダリストが輩出。この日以降も光太郎はラジオ中継をよく聴いており、現在の我々と同じように、日本選手の活躍に一喜一憂していたのかもしれませんね。

新刊コミックスです。

ミカコ72歳 1

2022年3月5日 新久千映著 株式会社コアミックス 定価580円+税

72歳のミカコさんは夫を亡くしたばかり。今後は夫と暮らした家にこだわって一人暮らしをするつもり。心配な子や孫にスマホを持たされたところ、死んだおじいさんのアカウントと偶然繋がってしまい…。 読めば老後も悪くない、人生100年時代のおひとり様術(ライフハック)!
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『コミックゼノン』という月刊青年漫画誌に、昨年から連載されているもので、第1話などはWeb上で無料公開されています。

上記解説文にもありますが、夫を亡くした広島在住ミカコさんがスマホデビュー。すると、亡き夫のLINEアカウントがまだ残っており、既読にならないことを承知で、日記代わりにいろいろ書き込みをするように……という展開です。

第5話「気づかなかった自分が情けないわ」が、『智恵子抄』がらみの内容になっています。

ミカコさん、亡夫の蔵書を処分しようと、古書店さんに来てもらいます。ミカコさん自身は、あまり読書に縁がないようで……。
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意外にいい本が多くあることに驚く店主。すると、崩れた本の山から、ミカコさんが目をとめたのが……。

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紙絵と詩 智恵子抄』(昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫)。ミカコさん、あるページに釘付けになります。
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そして……
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そのココロは……
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おそらく半世紀程も前でしょう、ミカコさんが亡夫から貰った手紙の文面が、そのままそこに載っていたというわけで(笑)。

ちなみにそれは詩「人類の泉」(大正2年=1913)だったようです。

   人類の泉

 世界がわかわかしい緑になつて008
 青い雨がまた降つて来ます
 この雨の音が
 むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
 いつも私を堪らなくおびやかすのです
 そして私のいきり立つ魂は
 私を乗り超え私を脱(のが)れて
 づんづんと私を作つてゆくのです
 いま死んで いま生れるのです
 二時が三時になり
 青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに
 今日もこの魂の加速度を
 自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
 そして極度の静寂をたもつて
 ぢつと坐つてゐました
 自然と涙が流れ
 抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
 あなたは本当に私の半身です
 あなたが一番たしかに私の信を握り
 あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
 おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
 私の生(いのち)を根から見てくれるのは
 私を全部に解してくれるのは
 ただあなたです
 私は自分のゆく道の開路者(ピオニエエ)です
 私の正しさは草木の正しさです
 ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
 もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
 あなたは海水の流動する力をもつてゐます
 あなたが私にある事は
 微笑が私にある事です
 あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
 そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
 私は今生きてゐる社会で
 もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
 もう共に手を取る友達はありません
 ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
 私はこの孤独を悲しまなくなりました
 此は自然であり 又必然であるのですから
 そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
 けれども
 私にあなたが無いとしたら――
 ああ それは想像も出来ません
 想像するのも愚かです
 私にはあなたがある
 あなたがある
 そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
 私は人から離れて孤独になりながら
 あなたを通じて再び人類の生きた気息(きそく)に接します
 ヒユウマニテイの中に活躍します
 すべてから脱却して
 ただあなたに向ふのです
 深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
 あなたは私の為めに生れたのだ
 私にはあなたがある
 あなたがある あなたがある

そこで、サブタイトルが「気づかなかった自分が情けないわ」。しかしミカコさん、これを機に、読書にも興味を持つように……。

その他にも、日々の何気ない出来事や、その時々の思いを、亡夫のアカウントに書き続けるミカコさん。それに気付き、はじめは認知症にでもなったかと心配していた娘や孫、職場(ミカコさんは医療事務の仕事をしています)の同僚たちも、「それもありか」と思うようになり、さらに少なからず影響を受けるようになり……という感じです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

美校にて生徒に一言話す、校長や教員諸氏に今度の仕事の事を話し、十月東京行きを告げる、 うなぎ屋にて一同より御馳走になり、バスにて花巻、タキシにて小屋、

昭和27年(1952)7月9日の日記より 光太郎70歳

美校」は岩手県立美術工芸学校。「校長」は森口多里、「教員諸氏」には深沢省三・紅子夫妻舟越保武佐々木一郎らがいました。「今度の仕事」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作です。

他の日の日記等でほとんど見かけたことがなく、おやっと思ったのが「バスにて花巻」の記述。当時、盛岡~花巻間の路線バスがあったのですね。

新刊刊行物、2件ご紹介します。

まず、小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの在庫目録『書架』138号。軸装された光太郎の書が写真入りで紹介されています。
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おそらく色紙で、書かれているのは大正3年(1914)の詩「晩餐」の一節。

   晩餐

 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)からアトリエの光太郎智恵子
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

詩は大正3年(1914)のものですが、色紙が書かれたのは、字体などの特徴からおそらく戦後と思われます。30年以上も前の詩からの引用ということになりますが、この詩は詩集『智恵子抄』に収められたもので、戦後に智恵子抄の復刊が相次ぎましたから、そうした際に読み返していて記憶に残っていたのでしょう。他にも「晩餐」の一節、あるいは少しだけの異同がある句を揮毫した書が複数、戦後期に書かれています。

GWレポート その2 小坂町立総合博物館郷土館企画展「平成29年度新収蔵資料展」。
朝日新聞 読書欄/読売新聞 読売俳壇。

それにしてもえびな書店さん、このところ、毎号のように目録に光太郎作品が載っています。中にはかつて他店で扱っていたものもありますが、そうでないものも多く、どういう入手ルートをお持ちなのか、まぁそのあたりは企業秘密なのでしょうが……。

131号(令和2年=2020) 132号(同) 135号(令和3年=2021) 136号(同) 137号(同)

で、それぞれ、それほど不当な高価格になっていません。今回のものは35万円。正直に言うと、「これ、安すぎないか?」という感じです。当方には手が出ませんが(笑)。

収まるべきところに収まって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

山にかへらんとして又盛岡に行くことにして汽車にて盛岡、菊屋に泊る、 下村海南の講演を公会堂できく、 夜民子の家にて天ぷら夕食、


昭和27年(1952)7月8日の日記より 光太郎70歳

銀行やら郵便局やらの用事で、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から花巻町中心街に出た後の記述です。

04a3454a-s菊屋」は現在の北ホテルさん、光太郎の盛岡での定宿でした。「下村海南」は官僚、新聞経営者、政治家、歌人。光太郎とは旧い知り合いでした。昭和17年(1942)の雑誌『知性』には、光太郎、下村、笠間杲雄(外交官)、岸本誠二郎(経済学者)での座談会「大東亜文化建設の課題」が収録されています。

民子」は、盛岡の「天よし」という飲み屋のマダム。「天よし」の店名も光太郎の命名だったそうです。彼女に贈った光太郎の書も存在します。曰く「うつくし かぐはし ほほゑまし」。民子のことでしょう。民子が長唄の免状を手にした祝いということでした。

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