朝と夕方、愛犬(柴犬系雑種・9歳)の散歩をしています。やけに暑い日は涼を求め、雨の日は多少なりとも雨を避けるため、裏山を歩くことがあります。戦国時代には山城があったという小山で、舗装されていない山道があり、ちょっとした森林浴気分が味わえます。
 
裏山の一角にヤマユリが群生している場所が二カ所ほどあり、このところ満開です。香りも強烈です。
 
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さて、例によって……
 
【今日は何の日・光太郎】 7月19日

昭和16年(1941)の今日、詩「百合がにほふ」を書きました。
 
   百合がにほふ
   
どうでもよい事と
どうでもよくない事とある。002
あらぬ事にうろたへたり、
さし置きがたい事にうかつであつたり、
さういふ不明はよさう。
千載の見とほしによる事と
今が今のつとめとがある。
それとこれとのけぢめもつかず、
結局議論に終るのはよさう。
庭前の百合の花がにほつてくる。
私はその小さい芽からの成長を知つてゐる。
いかに営営たる毎日であつたかを知つてゐる。003
私は最低に生きよう。
そして最高をこひねがはう。
最高とはこの天然の格律に循つて、
千載の悠久の意味と、
今日の非常の意味とに目ざめた上、
われら民族のどうでもよくない一大事に
数ならぬ醜(しこ)のこの身をささげる事だ。
 
この年12月には太平洋戦争が勃発します。すでに中国との戦争は泥沼化しつつある時期。そういう時期であることをうかがわせる内容ですね。
 
さて、この詩は翌年4月に刊行された詩集『大いなる日に』に収録されており、また、草稿も残されているのでこういう詩だというのはわかっています。しかし初出掲載誌が不詳です。残された草稿の欄外には<「皇楯」へ>というメモが書かれています。『皇楯(みたて)』は軍人会館図書部刊行の雑誌。国会図書館には所蔵がなく、日本近代文学館や石川武美記念図書館(旧:お茶の水図書館)などに少部数の所蔵があり、調べてみましたがこの詩が載った号はありませんでした。おそらく昭和16年(1941)夏に刊行された号に載ったと思われます。
 
というわけで、この「百合がにほふ」の載った『皇楯』の情報を求めています。ご存じの方はご教示下さい。

追記 昭和16年(1941)9月1日発行の『皇楯』第2巻第9号に掲載を確認し、現物を入手しました。

現在、千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。そのポスターやチラシには光太郎の木彫「蟬」が使われています。
 
今回、「蟬」の木彫は3点展示されており、ポスター等に使われているのは、便宜上「蟬3」というナンバーが降られています。こちらは高村家の所有です。
 
他の「蟬」は買われて日本各地に散り、そ無題2のうち「蟬4」とナンバリングされているものは、新潟県佐渡島の渡邉家が購入しました。大正15年(1926)のことです。今でも渡邉家の方が大切に保存なさっていて、今回の企画展で久しぶりに公開されました。
 
大正時代の渡邉家のご当主は渡邉林平。「湖畔」と号し、与謝野鉄幹の『明星』や『スバル』に短歌を発表、その縁で光太郎と知り合いました。単に知り合っただけでなく、お互いに気が合ったようで、佐渡と東京と、離れていながらお互いの家を行き来したりもしていました。
 
そんな関係で、渡邉家にはこの「蟬」以外にも、光太郎筆の油絵(早世した湖畔の娘の肖像)や書幅、書簡なども多数残っています。ちなみに「蟬」は湖畔の弟で、出版社を経営していた芳松の発注です。それらは平成19年(2007)、新潟市会津八一記念館で開催された企画展「会津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」でまとめて公開されました。
 
さて、過日、湖畔の弟、芳松のご子息・和一郎氏から書籍を5冊もいただきました。『渡邉湖畔年譜』、『渡邉湖畔遺稿集』、『佐渡びとへの手紙 渡邉湖畔と文人たち』上中下の5冊です。和一郎氏、連翹忌にもご参加いただいておりますし、千葉展の初日・オープニングレセプションにもいらして下さいました。
 
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光太郎はもちろん、与謝野夫妻や会津八一などとの交流のようすが生き生きと描かれています。全て新潟での自費出版ということで、簡単に手に入るものではありません。ありがたい限りです。
 
特に「蟬」が再び日の目を見たときのくだり。芳松は早くに亡くなり、「蟬」や関連する書簡は久しく土蔵にしまい込まれていて、しまい込まれたことも忘れられていたとのこと。
 
同じような例は他にもいくつかあります。まだまだ日本のどこかに光太郎の彫刻も眠っているのかもしれません。

2020年追記 京都から5点めの「蝉」が見つかり、2020年、富山県水墨美術館さんでの企画展「画壇の三筆」にて展示されます。

さらに追記 同展、コロナ禍のため中止となりました。残念です。

2021年追記 同展、2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

 
【今日は何の日・光太郎】 7月18日

昭和51年(1976)の今日、6月から開催されていた東京セントラル美術館の「高村光太郎―その愛と美―」展が閉幕しました。
 
この時点ではまだ「蟬4」の存在は一般に知られていませんでした。

昨日までのブログで福島・川内村天山祭りについて書きましたが、川内村に行く前に、同じ福島の小野町にある「丘灯至夫(としお)記念館」さんに行きました。
 
川内村と同じく、磐越自動車道の小野ICで下り(川内村は、本来、常磐自動車道の常磐富岡ICで下りるのが早いのですが、原発事故のため常磐自動車道は事故から2年以上たった今も広野IC~常磐富岡IC間が通行止めです)、車で5分ほどの場所です。
 
「記念館」という名称ですが、正確には「小野町ふるさと文化の館」の一角で、町立図書館さんの二階です。
 
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故・丘灯至夫氏は小野町出身の作詞家。代表作は舟木一夫さんの歌う「高校三年生」。「あーかーいーゆうーひがー校舎をそーめーてー」です。メロディーがぱっと浮かぶ人はある程度の年齢でしょうね。ちなみにこの曲のリリースの時点では当方は生まれていません。したがって、当方としては同じ丘氏の作品でも、「ハクション大魔王」や「昆虫物語 みなしごハッチ」のテーマソングの方が身近に感じられます。これらも十分古いのですが(笑)。
 
さて、それ以外の丘氏の代表作に、二代目コロムビア・ローズさんが歌った「智恵子抄」があります。昭和39年(1964)のリリースで、ローズさんはこの年の「紅白歌合戦」にこの曲で出場しています。そのあたりは昨年、このブログに書きましたのでご参照下さい。


 
で、作詞の丘氏の記念館が出身地の小野町にできたわけです。落成は平成5年(1993)。丘氏はまだご存命でした。その後、小野町名誉町民となられたのが同13年(2001)、亡くなったのは同21年(2009)。そして翌年に展示スペースを増設して、記念館がリニューアルされました。
 
展示パネル類。やはりご当地ソングということで、「智恵子抄」が大きく扱われています。
 
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二本松出身の日本画家・大山忠作氏の描かれた安達太良山の絵との合作です。ちなみに大山氏も「智恵子抄」がらみの絵をたくさん描いていて、二本松駅前にはそれらを展示する大山忠作美術館ができています。
 
館内には丘氏の代表作がBGMとして流れていましたが、「智恵子抄」もしっかり流れていました。「東京の空 灰色の空 ほんとの空が見たいという……」。丘氏も、大山氏も既に空の上に行ってしまいました。昨日までこのブログで扱っていた草野心平も。そして、もちろん智恵子も。みなさん、空の上から福島を見守って下さっていることでしょう。しかし、その空が原発事故のために「ほんとの空」ではなくなってしまいました……。
 
話は飛びますが、もうすぐ参議院議員選挙。憲法改正やらTPPやらが取りざたされていますが、被災地復興が今ひとつ選挙の争点になっていないような気がします。かたや未だに福島第一原発では汚染水の処理がうまくいかない現状。福島の空の上から、丘氏や智恵子たちは、どんな思いでそれを見ているのでしょうか……。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月17日

昭和23年(1948)の今日、高知県香我美町(現・香南市)岸本で、光太郎が揮毫した岡本弥太詩碑「白牡丹図」が除幕されました。
 
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上記画像、20年近く前に高知まで行って撮ってきました。

そろそろ次のネタに行こうかと思っていましたが、ニュース検索を見ていたところ、先日の川内村天山祭りについて報道がありましたのでご紹介します。  

帰還2年目「天山祭り」 川内で開催、喜びかみしめ

 川内村名誉村民で「カエルの詩人」として知られる草野心平を顕彰する村恒例行事第48回「天山祭り」は13日、同村で開かれ、参加者が心平をしのぶとともに、原発事故前と同様に村で行事を行えることへの喜びをかみしめた。
 原発事故後、実行委主催の同祭り開催は昨年に続き2回目。同祭りは心平の蔵書が収蔵される「天山文庫」での開催が恒例だが、今回は雨天のため、いわなの郷体験交流館で開かれた。
 村民をはじめ、県内外から集まった心平ファンら約200人が来場。「高田島神楽舞」が村の伝統芸能の神楽舞、村婦人会が川内甚句などを披露した。
 心平自身による詩の朗読が収録されたCDも流され、参加者はあらためて心平の詩の魅力に触れた。
(2013年7月14日 福島民友ニュース)
 
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草野心平の業績 川内で学びたい●ひ孫のスペイン人来訪

 川内村で13日、詩人の草野心平(1903~88年)をしのぶ「天山祭り」が開かれ、心平のひ孫のスペイン人女性(31)が初めて出席した。会場に飾られた心平の写真に「おじいちゃんそっくりな顔」と語った。
 スペイン南部のセビリアに住むマリアデルカルメンさん。今年5月に来日した。祖母にあたる、心平の長男の妻が東京・神楽坂で開いているバーを「メリー草野」の名前で手伝っている。フラメンコダンサーだった、心平の長男の娘がスペイン人男性と結婚して生まれたのがメリーさんだ。
 来日は5回目だが、福島で原発事故が起き、「日本にいる親類たちが大丈夫なのか、ものすごい不安だった」という。心平の出身地であるいわき市と、心平ゆかりの川内村を間近で見て「不安は減ったが、まだ状況を理解できない」と話す。
 心平は、川内村の寺の住職の招きでモリアオガエルの平伏(へ・ぶす)沼を訪れたのがきっかけで、1年のうち数カ月を川内で過ごしていた。天山祭りは村民やファンとの交流行事として始まり、心平の死後も続き、今年で48回目。集まった約200人にメリーさんは紹介された。
 祭りでは心平の詩が朗読された。メリーさんは「母親から昔、『草野心平』について名前を聞かされたが、どんな人物かまでは知らなかった。これだけの人たちが今も集まるのに驚いた。心平の業績をこれから学んでいきたい」と語った。   (岡本進)
 
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メリーさん、この後、村内の小松屋旅館さんで開かれた懇親会にもご参加下さいました。どさくさに紛れて千葉市美術館の「彫刻家 高村光太郎展」のチラシを差し上げてきました。
 
記事の中で「おじいちゃん」とあるのは心平の長男・故草野雷(らい)氏。「長男の妻」とあるのは、草野智恵子さん。奇しくも「智恵子」さんです。智恵子さんもメリーさんともども今回川内にいらっしゃいました。
 
心平や、ついでに(笑)光太郎が国境を越えて世界の人々にもっと知られる橋渡しになっていただければと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月16日

岩手花巻で「花巻賢治子供の会」を主宰、賢治の童話劇を上演していた照井登久子が作成した光太郎点字詩集の表紙を揮毫しました。

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一昨日、福島県川内村の草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」に行って参りました。今日も川内村ネタで行きます。
 
もともと草野心平と川内村の縁は、蛙。蛙をモチーフにした詩をたくさん書いた心平が、樹上に産卵するというモリアオガエルに興味を持ち、その生息地である川内村を訪れたことに始まります。
 
先日の天山祭りでは、心平の肉声の録音による詩の朗読が流されました。宮沢賢治の「永訣の朝」「雨ニモマケズ」、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、そして心平自身の詩「ごびらっふの独白」。「蛙語」で書かれています。
 
  ごびらっふの独白 001

 

るてえる びる もれとりり がいく。

ぐう であとびん むはありんく るてえる。

けえる さみんだ げらげれんで。

くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。

なみかんた りんり。

なみかんたい りんり もろうふ ける げんげ しらすてえる。

けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。

きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。

じゅろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。 002

ぷう せりを てる。

ぼろびいろ てる。

ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりあ ろとうる

ける ありたぶりあ。

ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。

ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。

いい げるせいた。

でるけ ぷりむ かににん りんり。

おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。

びる さりを とうかんてりを。

いい びりやん げるせえた。

ばらあら ばらあ。
 
この詩は昭和23年(1948)に刊行された心平の詩集『定本蛙』に収められていますが、その扉は光太郎の揮毫です。
 
まず光太郎には書けない詩ですね。光太郎は自分にはない心平のこの種の才能を高く評価していました。
 
この詩には「日本語訳」もついています。003
 
幸福といふものはたわいなくつていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のやうな幸福につつまれてゐる。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあふたしかな存在をほのぼの意識し。 
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
侏羅紀の先祖がやつてくれた。
考へることをしないこと。
率直なこと。
夢をみること。
地上の動物の中でもつとも永い歴史をわれわれがもつてゐるといふことは 平凡であるが偉大である。
とおれは思ふ。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
言わば即ち天である。
美しい虹だ。
ばらあら ばらあ。
 
さて、一昨日。天山祭りとその後の懇親会の間が一時間以上空いていましたので、村有数のモリアオガエル繁殖地である平伏沼(へぶすぬま)に行ってみました。
 
蕭々と降る雨の中、村の中心部から7~8㎞はあったでしょうか、延々と続く山道を「ほんとにこの道でいいのかな」と思いつつ運転しました。これ以上車で行けない、というところに駐車し、熊でも出そうな森の中をさらに200㍍ほど歩きました。
 
やがて眼前に沼が。意外だったのは、沼といいつつ水が無いことです。
 
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木の下に発泡スチロールの容器が100個ほども置いてあるでしょうか。中を見ると……。
 
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これがモリアオガエルのオタマジャクシなんですね。心平の魂を受け継ぎ(笑)、元気に育ってほしいものです。
 
親ガエルは盛んに鳴いていましたが、その姿は見えませんでした。また、特徴的な樹上の卵胞も、それらしきものは見えましたが、よくわかりませんでした。雨も降っていましたし、もう日暮れが近づいていましたので。
 
モリアオガエルの繁殖地として国の天然記念物に指定されているのは、ここと、岩手県にもう一カ所だけだそうです。原発事故に右往左往する我々人間を見て、蛙たちは、そしてあの世の心平や光太郎は、どう思っているのでしょうか……。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月15日

昭和7年(1932)の今日、智恵子が大量の睡眠薬を服用しての自殺未遂がありました。
 

昨日は、第48回天山祭りにお招きいた002だき、福島川内村に行って参りました。川内には昨秋の心平忌日「かえる忌」でお邪魔しましたが、天山祭りへの参加は今回が初めてでした。
 
原発事故による全村避難は昨年解除され、帰村宣言が出されましたが、まだ帰れない村民の皆さんも多く、また、村へ向かう道路もまだ復旧工事中の箇所もありました。ただ、復興への歩みはゆっくりながらも進んでいるようです。
 
天山祭りとは、川内村名誉村民にして、隣接するいわき市出身の詩人・草野心平の遺徳を偲ぶ集いです。元々は心平が蔵書3,000冊を寄贈して出来た「天山文庫」、その落成記念に始まったもののようですが、生前の心平自身がこの祭りに参加、お酒やイワナ、山菜などに舌鼓を打ったとのこと。
 
心平没後はその遺徳を偲ぶ集いとなりましたが、堅苦しいものではなく、心平自身が参加していた当時と同じように、郷土芸能などの披露が続けられています。
 
昨日は福島浜通りは終日雨のため、本来の会場である天山文庫前でなく、少し離れた「いわなの郷体験交流館」という施設で行われました。参加者100名以上だったと思います。
 
話は変わりますが、光太郎は稀代の雨男。生前から何かあるときは必ず雨(冬場は雪)でした。亡くなった4月2日も、4月にも関わらず季節外れの大雪を降らせました。今もその神通力は健在。4月2日の連翹忌は雨が多いことで有名です(もちろん今年も)。
 
というわけで、昨日は当方が光太郎を連れて行ってしまったための雨かな、などと思っております。すみませんでした(笑)。
 
さて、昨日の式次第は以下の通りでした。
 
開祭の言葉(川内村教育長 秋本正氏)003
実行委員長挨拶(石井芳信氏)
村長挨拶(遠藤雄幸氏)
かわうち草野心平記念館館長挨拶(晒名昇氏)
来賓紹介
郷土芸能披露(高田島神楽舞)
献花
草野心平肉声CDによる朗読
詩の朗読(いわき市立草野心平記念文学館長 粟津則雄氏/『歴程』同人 松尾真由美氏)
鏡開き・献杯
懇親会
アトラクション
おひらき
 
その後、村内の小松屋旅館様で懇親会。心平のご遺族を含む30名ほどが集まり、それぞれに心平への思いなどを語りました。当方、生前の光太郎がお世話になった御礼等申し述べました。
 
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川内村では天山祭り以外にも、秋には心平の忌日の集いとして「かえる忌」が行われています。今年は10/26(土)の開催だそうです(当方、講演を依頼されました)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月14日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに電気冷蔵庫が届きました。
 
これも心平の配慮です。心平が筑摩書房にかけあって、未払いの印税をもぎとって来て(笑)購入しました。以下、心平著『わが光太郎』より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

昨年の今頃もブログに書きましたが、昨日から当方の暮らす千葉県香取市佐原地区で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
巨大な人形を冠した10台の山車(だし)が江戸風情の残る佐原の町を練り歩いています。
 
山車には精巧な木彫が施され、中には東京美術学校で光雲と同僚だった石川光明の家系が関わったものもあります。また、人形も地元では光雲が絶賛したという言い伝えも。
 
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祭りは日曜日までの3日間。その期間が忙しいという方は、通年で山車を観られる「山車会館」という施設もあります(月曜休館)。
 
江戸の職人技にご興味のおありの方、ぜひお越し下さい。
 
といいつつ、当方、昨日はあまりの暑さに観に行く気になれず、今日は福島川内村での草野心平を偲ぶ「第48回天山祭り」に行って参ります。明日、日曜は佐原の祭りを観に行こうと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月13日

明治43年の今日、光太郎の経営する画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、画家・柳敬助の個展が開幕しました。
 
柳敬助と光太郎が知り合ったのはニューヨーク。一説には荻原守衛を光太郎に紹介したのが柳とのこと。双方帰国後も交友が続き、柳の妻・八重は日本女子大学校の卒業生だったこともあり、智恵子を光太郎に紹介する橋渡しをしました。

千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」。おかげさまで好評をいただいているようです。
 
新聞各紙などでもご紹介くださっています。
 
『朝日新聞』さんのサイト【朝日新聞デジタル】で、「彫刻家・高村光太郎展」という記事が載っています。ただし、全文を見るには会員登録が必要です。
 
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また、『日本経済新聞』さんのサイトでは、「アートレビュー」というコーナーで「高村智恵子「くだものかご」」という記事が閲覧できます。
 
企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」では、智恵子の紙絵の本物が展示されており、それを受けての掲載ですね。
 
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高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。
 
「あなたはどう見ますか。」と問いかけていますが、『日経』さんではその答えを募集しています。
 
日本経済新聞朝刊「NIKKEI ART REVIEW」に読者の感想や専門家のひのひと言を掲載します。作品の感想は、〒100-8779 日本郵便銀局留め日本経済新聞社 生活情報部「アートレビュー」係、またはart-review@nex.nikkei.co.jpまで、名前、住所、職業、生年月日を記載の上、お寄せください。掲載者には図書カード2000円分を郵送します。応募締め切りは2013年7月22日到着分まで。
 
2000円めあてに当方も応募してみようと思っています(笑)。みなさんもいかがですか?
 
【今日は何の日・光太郎】 7月12日

明治22年(1889)の今日、光雲が東京美術学校教諭に昇進しました。
 
それまで「雇(やとい)」だったのが「教諭」に。さらに翌年には「教授」となり、同時に帝室技芸員にも任ぜられます。

昭和12年(1937)に作られた光太郎の詩に「わが大空」というものがあります。
 
  わが大空002
 
こころかろやかに みづみづしく
あかつきの小鳥のやうに
胸はばたき
身うちあたらしく力満つる時
かの大空をみれば
限りなく深きもの高きもの我を待つ
ああ大空 わが大空
 
こころなやましく いらだたしく
逃げまどふ狐のやうに
胸さわだち
身の置くところも無きおもひの時
かの大空をみれば
美しくひろきものつよきもの我を待つ
ああ大空 わが大空

昭和18年(1943)に刊行された光太郎の詩集『をぢさんの詩』に収録されていますし、光太郎が手元に残した草稿も現存するので、詩の内容はわかっていました。
 
草稿の欄外には「音楽学校へ 唱歌歌詞として」という書き込みがあり、東京音楽学校(現・東京芸大)に歌詞として提供したと読み取れます。しかし、長らく初出発表誌が不明で、結局は作曲されないままお蔵入りになったのかと思われていました。
 
ところが、一昨年、国立国会図書館の近代デジタルデータで公開された当時の音楽教科書(師範学校、高等女学校、実業女学校用)の中に、この「わが大空」の楽譜が掲載されていました。
 
しかし、現代では忘れ去られてしまった曲なわけです。
 
作曲は故・松本民之助。坂本龍一氏の師にあたり、子息の松本日之春氏も作曲家として活躍中です。当方、たまたま日之春氏のインストゥルメンタルのCDアルバムを持っています。エスニックサウンド的な不思議な曲が並んでいます。そして弟子が坂本龍一氏。するとやはり師匠も一筋縄ではいきません(笑)。
 
この「わが大空」も、これが本当に1930年代の作曲か、というような曲調です。他にも光太郎作詞の歌曲は複数あるのですが、大半は軍歌調の平易なメロディーです。ところがこの「わが大空」は現代音楽のはしり、といった感じです。
 
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4分の3拍子、♩=108という速めの指定で、一、二番とも変イ長調(A♭)で始まり、中間部でロ長調(B)に転調、再び変イ長調に戻って終わる構成になっています。
 
だいたい、変イ長調(A♭)というとフラット4つで演奏しにくいので、もう半音下げてト長調(G)にした方がずっと簡単です。転調してロ長調(B)に変わりますが、今度はシャープが5つ。これも半音下げれば変ロ長調(B♭)となりフラット2つで済みます。そうしないところに何らかのこだわりがあるのでしょうが、こだわる理由がよくわかりません。
 
まあ、歌う方は固定ドでなく移動ドで捉えるのがほとんどですので、キーが何であろうがそれほど影響はないのかもしれませんが、それにしてもダブルシャープも多用しており、楽譜が煩瑣です。
 
それ以外にも一、二番で旋律、リズムに違いもありますし、二部合唱で作られていて、二つのパートでかなりポリフォニック(リズムや歌詞の配置に違いがあること)になっていますし、和音の構成も一筋縄ではいかず、さらに各パートとも音域が広い作りになっています。
 
ピアノ伴奏は前奏と間奏の部分しか掲載されていませんが、それだけでも凝った作りになっているのがわかります。全体としてはどれほど凝った伴奏になっているのだろう、などと思ってしまいます。
 
というわけで、歌曲としてのクオリティーは非常に高いのですが、はっきりいうと、当時の師範学校、高等女学校、実業女学校の生徒が、この曲をしっかり合唱できたわけがありません。それほど難易度の高い曲です。そうした点が、この曲が忘れ去られてしまった原因の一つだろうと思われます。
 
昨日も書きましたが、楽譜は当方刊行の冊子『光太郎資料』の今秋発行号に掲載します。ご入用の方はご連絡下さい。
 
それから、この「わが大空」、レコード化された記録が見あたりません。もしその辺りの情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです。
 

【今日は何の日・光太郎】 7月11日001

昭和2年(1927)の今日、白根・草津・信州別所などを回った9日間の旅から帰りました。
 
以前のこのブログにも書きましたが、信州別所は当方父祖の地です。ここは「信州の鎌倉」ともいわれ、鎌倉時代の堂宇や仏像などが数多く残っています。特に珍しいのが安楽寺というお寺にある八角三重塔(国宝)。現存する近世以前の木造の塔で八角形になっているのはこれが唯一の例だそうです。
 
一見、四重に見えますが、一番下の屋根は裳階(もこし)という庇(ひさし)で、内部構造は三重です。
 
さて、光太郎、この旅の途上で購入したこの塔の絵葉書を、詩人の宮崎丈二に送っています。
 
御はがき忝く拝見、此間中からかけ違つてばかり居ておめにかかれずに居ます。
初夏の暑さで頭を悪くしたのと山恋しさに堪へないのとで三日から白根山方面の山を歩き、二三の温泉へも入浴して昨日かへりました。おかげで心身一新した感があり、此夏十分に働けさうです。いづれ又。
高村光太郎
 
父祖の地なので、子供の頃から何度も行った場所ですが、ここを光太郎も訪れたんだなと思うと感慨深いものがあります。

先週、隣町・成田でパソコンの楽譜作成ソフトを購入してきました。
 
当方が年2回刊行しています冊子『光太郎資料』の中に、光太郎作詞だったりする歌曲等を紹介する項があり、そのために必要だからです。
 
4月にそれまで使っていたデスクトップのパソコンが壊れ、新しく買い換えたのですが、楽譜作成ソフトなど標準装備されているわけもなく、壊れたパソコンにインストールしていたものをもう一度インストールしようとしたら、OSが異なるので不可。
 
話は変わりますが、デスクトップのパソコンが壊れたため、一部の方のメールアドレスがわからなくなっています。yahoo!さんのメールアドレスに送って下さっている方は大丈夫なのですが、NTTさんのメールアドレスに送っていただいている方で、最近、当方からメールが来ないな、という方、メールいただければ幸いです。
 
閑話休題。楽譜作成ソフトの話でした。この手のアプリケーションソフトはネットからダウンロードすればよい、とお考えの向きもいらっしゃるでしょうが、広く知られたメーカーのごく当たり前のソフトならともかく、特殊なアプリケーションとなると、ウイルス感染の危険性などが気になり、ダウンロードで入手する気になりません。結局買い直しました。
 
それにしても、入手するのに苦労しました。
 
以前使っていたソフトは地元の家電量販店で購入したので、今回も行けばあるだろうと思って行ってみたら売っていません。しかたなく、日を改めて地元より大きい成田の家電量販店2軒を回りましたが、やはりありません。そこでショッピングモールに入っている大きな楽器店に行って、ようやく見つけました。しかし、棚に並んでいる箱をレジに持って行くと「店には在庫がありませんので、メーカーさんから取り寄せになります」とのこと。
 
需要と供給のバランスという経済の原則が働いているのですね。都会ならともかく、地方ではこの手のものの需要がないのでしょう。まぁ、取り寄せ、といっても3日ほどで届いたのでよかったのですが。
 
早速、楽譜作成を始めました。以前使っていたデスクトップが壊れる前に作りかけていたデータが使えたので、助かりました。曲は昭和12年(1937)に作曲された光太郎作詞の二部合唱「わが大空」。松本民之助の作曲です。
 
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いろいろと面白い背景もあり、その辺りの解説を交えて当方刊行の冊子『光太郎資料』に掲載します。次号は10月初めに刊行予定です。
 
せっかくですので、明日はその解説の部分を換骨奪胎してブログに載せようと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月10日

大正11年(1922)の今日、『時事新報』に光太郎の書いた森鷗外の追悼文「頭の良い厳格な人―鷗外追悼―」が掲載されました。
 
鷗外は前日、9日に亡くなっています。数え61歳。6日には有名な遺言を認(したた)めました。曰く「余ハ石見人(いはみじん)森林太郎トシテ死セント欲ス」。「林太郎(りんたろう)」は本名です。遺言に従って、その墓標にはただ「森林太郎墓」とのみ刻まれました。

一昨日の千葉市美術館での講演会においで下さった宮城在住の朗読家・荒井真澄様から花巻のお土産をいただきました。先日、花巻に行かれたそうで、現地で手に入れられたものをお持ち下さいました。ありがたいことです。
 
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『花日和』夏号(2013/6)。花巻で発行されているタウン誌のようなものです。
 
この中に「シリーズ先人紀行 高村光太郎」3ページ掲載されています。
 
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5月に仮リニューアルオープンした高村光太郎記念館の紹介も。新聞を除き、きちんとした印刷物で紹介された先駆けではないかと思われます。
 
調べてみましたところ、花巻市役所のサイト内で紹介がありました。PDFで全文が読めます。ぜひご覧下さい。
 
光太郎以外にも宮澤賢治についても記述があります。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月9日

明治40年(1907)の今日、留学先のロンドンで、カーライル博物館を訪れました。
 
スコットランド出身の歴史家・評論家トーマス・カーライルの旧宅を一般公開していたもので、かの夏目漱石もイギリス留学中にここを訪れ、帰国後の明治38年(1905)に「カーライル博物館」という紀行文を発表しています。

千葉市美術館において開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事としての講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」、つつがなく終了しました。
 
ご来場下さった皆様、ありがとうございました。
 
150名定員のところ、140名ほどのお申し込みということで、抽選にはならず良かったと思いました。せっかくお申し込みいただいても抽選ハズレでは申し訳ありませんので……。
 
当方が把握しているだけでも、県内はもとより都内や神奈川、埼玉、さらには岩手、宮城、長野、愛知、大阪、兵庫など、遠方の皆様にもおいでいただきました。ありがとうございます。また、各地のお土産をいただき、恐縮でした。
 
花巻の記念会様からは、ご来場の皆様にまでお土産ということで、花巻で新たに作られたクリアファイルが配られました。太っ腹です(笑)。
 
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やはり高村光太郎記念会事務局長にして、晩年の光003太郎と親しく接せられた北川太一先生のお話がメインということで、脇で聞き手を務めつつもいいお話だな、と感じ入っておりました。
 
講演に先立って、昨夜、かつて平成11年(1999)に北川先生が雑誌『日本古書通信』に三回にわたって寄稿された「光太郎凝視五十年」上中下を読み返したのですが、改めて感動しました。昨日のお話でも触れられた戦時中や終戦直後の知識人が「高村光太郎」をどう捉えるか、というお話-先生の御同窓だった故・吉本隆明をはじめ-など、昨日のお話以上に詳しく描かれています(必要な方はご連絡下さい)。
 
さて、これで肩の荷が一つ下りましたが、企画展はまだまだ開催中です。今後も関連行事として、学芸係長さんによる市民美術講座「光太郎・そのあゆみ」(7/20(土)、8/10(土)-申し込み不要)などが予定されています。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月8日

昭和30年(1955)の今日、一時重篤に近かった結核が小康となり、4月から入院していた赤坂山王病院を退院しました。

一昨日、神田の古書会館に行ったついでに、千駄木の森鷗外記念館にも足を伸ばしました。
 
現在、同館では企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」を開催中です。その中の「ミニ企画」として「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」というコーナーが設けられています。
 
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鷗外はあくまで小説家ですが、若い頃にはドイツ留学中に触れたゲーテなどの詩を翻訳したり、千駄木団子坂上の自宅・観潮楼(光太郎アトリエは目と鼻の先です)で歌会を催したりするなど、詩歌にも親しんでいました。観潮楼歌会には、伊藤左千夫や石川啄木、そして光太郎も参加しています。
 
鷗外の作もなかなかのもので、朴訥な中にも厳めしさが漂う、まさに鷗外その人のような歌風です。そういった関連の展示物が並ぶ中に、ミニ企画・「駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」。以下、リーフレットから引用させていただきます(図録は刊行されていませんでした)。
 
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特に目新しいものは並んでいませんでしたが、光太郎から鷗外宛の葉書は肉筆ものですのでかなり貴重です。「おやっ」と思ったのは鉄幹与謝野寛から鷗外宛の書簡。明治42年に留学から戻った光太郎の帰朝歓迎会の案内で、与謝野寛が呼びかけたというのは存じませんでした。この会には招きに応じ、鷗外も参加しています。
 
ちなみに下の画像は展示されたものと同じ雑誌『スバル』明治42年10月号の裏表紙。たまたま当方の手元にも一冊在ります。光太郎の描いた戯画で、「観潮楼安置大威徳明王」と題されていますが、鷗外を茶化したものです。大威徳明王は不動明王と同じく五大明王の一人で、仏法を守護する闘神。たしかに鷗外のイメージにぴったりといえばそうですが、光太郎、大先輩をこんなふうにいじるとは、とんでもありませんね……(笑)。
 
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企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」(含「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」)は9月8日まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今日はいよいよ千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」です。当方はあくまでサブで、メインは北川太一先生ですので気楽ですが、頑張ります!
 
【今日は何の日・光太郎】 7月7日

明治37年(1904)の今日、この年2回目の赤城山登山ををしました。後に与謝野寛、伊上凡骨ら新詩社同人も赤城を訪れ、合流しています。

昨日、神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観に行って参りました。
 
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古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
 
昨日と今日が一般下見展観。実際に出品物を手に取ってみることができるのです。出品物の内容は目録に写真入りで掲載されているのですが、やはり手に取れるというところが魅力なので、行ってきました。
 
実は初めてでした。昨年は何だか忙しかったようで行きませんでしたし、その前までは平日に行くということは不可能でした。
 
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入り口のクロークでカバンを預け(出品物の盗難防止のため)、エレベータで文学関連の並んでいる4階へ。会場内は撮影禁止ですのでお見せできませんが、目録に載っている出品物が所狭しと並んでいました。
 
光太郎関連は、詩集『道程』初版や、草稿、識語署名入り献呈本、書簡などでした。そういったものは当方も持っているのですが、それでもやはり数十年前に光太郎が実際に手にしたものだと思うと、感慨ひとしおでした。また、毛筆の文字などは、写真ではよくわからない筆勢などが感じられ、やはり本物は違う、と思いました。
 
ちなみに文学関係の全ての出品物のうち、入札開始価格が最も高いのは石川啄木の書簡三通となぜか旧制盛岡中学の入学席次表のセット。600万円です。次いで中原中也から小林秀雄宛の書簡1通・400万円、夏目漱石の草稿11枚・280万円、正岡子規の書簡・250万円と続きます。ただし、入札開始価格なので、実際にはどうなるかわかりません。
 
また、今年は入札開始価格を設定せず、「ナリユキ」と記されているものがかなりありました。光太郎の署名本もそうなっています。これらは価値の判断が難しい、ということなのかなと思われます。
 
光太郎関連以外で個人的に最も興味深かったのは、価格としてはそれほどではないもの(といっても25万円)ですが、木村荘太の書簡でした。
 
木村荘太は光太郎と親しかった画家の木村荘八の兄で、明治末には智恵子と知り合う前の光太郎と、吉原の娼妓・若太夫を巡って恋敵となりました。その後、平塚らいてうから『青鞜』の編集を引き継いだ伊藤野枝(辻潤の妻、しかしアナーキスト・大杉栄と不倫恋愛中)に横恋慕(複雑な人間関係です)、そのあたりを戦後になって『魔の宴』という自伝小説に書いています。
 
木村の書簡は2通セットで、1通が伊藤野枝宛(恋文)、もう一通は大杉栄宛でした。「なんでこんなものが残っているんだ?」という感覚でした。ご存知の方はご存知の通り、大杉と野枝は大正12年(1923)、関東大震災のドサクサで、憲兵大尉・甘粕正彦に殺害されています。
 
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の恩師です。甘粕自身も東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治と親しかったりと、なんとも複雑な人間模様というか人間曼荼羅というか……。ついでに言うなら木村荘太は『魔の宴』刊行直後に成田山公園で縊死。その前から成田郊外の遠山村に住んでいたのですが、なんと近くには光太郎の親友だった作家の水野葉舟も移り住んでいました。あちこちでつながります。
 
さて、明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観。会場内には明治大正昭和の名だたる文豪にまつわるお宝が所狭しと並んでいました。それらの文豪達の相関図的なものを描いてみると、とんでもないことになるのでは、などと思いました。改めて明治大正昭和という時代の凄さを感じました。
 
さて、明日は千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、講演です。遠方からお越し下さる方もいらっしゃり、ありがたい限りです。お気を付けてお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月6日

昭和28年の今日、杉並の浴風園病院で診察を受け、正式に結核と診断されました。

岩手から入ったニュースです。 

詩人三田循司に光 詩歌文学館

 小説家の太宰治らと親交があった花巻市出身の詩人三田循司の書簡やノートなどの遺品が3日、親族から北上市本石町の日本現代詩歌文学館に寄贈された。同館は若くしての戦死が惜しまれた岩手の詩人の作品に光を当て、太宰をはじめとする文人との交友を物語る資料として保管し、研究に役立てる。

 三田は1917年生まれで、東京帝国大文学部に進学。友人の戸石泰一らと同人誌「芥」を創刊して詩を発表し、太宰を訪ねるようになる。太宰の紹介で評論家で詩作も著した山岸外史に師事。学徒動員で同大を繰り上げ卒業して出征し、1943年に戦死した。太宰には三田の記憶と死をつづった短編「散華」がある。

 寄贈したのは奥州市水沢区の佐々木比子さん(55)で、資料は段ボール箱2箱分のノートやはがきなど。佐々木さんの母で三田の妹綾子さん(85)が保管し、太宰生誕100年の2009年に同館で特別公開された物も含む。綾子さんが高齢になったことから、保存のために同館を頼った。

 三田は大卒後すぐに出征したために作品が少なく、ノートなどは貴重。三田の詩を評した太宰からのはがきには「文学でも人間でも『素朴な感動』を忘れてはいけません」という激励の言葉があり、太宰の側面の一つの前向きな人間性が感じられる。また「散華」の中でも触れられている三田の遺稿集出版の打ち合わせについて書かれたはがきもある。

 このほか三田の弟悊の遺品の一部も提供。花巻市とゆかりの深い詩人で彫刻家の高村光太郎や宮沢賢治の弟・清六さんからのはがきもあり、文人とのつながりの数々を示す。

 同館では09年の特別展示の際に一度資料の目録を作成しており、再度本格的に整理しての展示を計画している。佐々木さんは「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」と依頼。同館の豊泉豪上席主任学芸員は「三田は『散華』の主人公とも言え、本名で登場している。調べていけばこれまで知られていなかった側面も発見されるだろう」と話し、寄贈に感謝していた。
 
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三田循司・悊(せい)兄弟の遺品で、太宰や光太郎などに関するものが、北上市の日本現代詩歌文学館に寄贈された、という内容です。
 
一連の資料は平成21年(2009)に見つかり、地元では大きく報道され、日本現代詩歌文学館や盛岡市の啄木賢治青春館で公開されました。
 
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上記画像はその時の『岩手日報』さんの記事です。当方のコメントも載っています。
 
というわけで、新発見ではないのですが、一括して寄贈されたというところにニュースバリューがあります。これは考えてみれば、大変なことです。売れば売ったでかなりの金額になるものですから。特に太宰の書簡ということになると、その市場価格は光太郎のそれの比ではありません。太宰は短命だったため、残っている絶対数が少ないので。こういったものがわけのわからない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうそれっきりです。そうではなく、日本国民共有の文化遺産、という考え方にたどり着いてほしいものです。
 
そういうことを考えると、「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」というご遺族のコメントには本当に頭が下がります。
 
先週、花巻に行って、宮沢賢治の妹の婚家から出てきた光太郎書簡について調査して参りました。こちらも花巻の記念会に寄贈されたものです。これもすばらしいことです。
 
花巻の記念会では、こうした寄贈に頼るのではなく、かなり市場に出たものの購入も進めています。特に光太郎花巻時代の草稿など。ところが狙ったものが抽選やら先着順やらで手に入らないケースも多いとのこと。
 
あるべき場所にあるべきものがある、という状態が望ましいとつくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月5日

昭和15年(1940)の今日、河出書房から『芸術論第二巻 芸術方法論』が刊行されました。光太郎の評論「素材と造型」が収められています。
 
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【今日は何の日・光太郎】 7月4日無題1
 
昭和29年(1954)の今日、十和田湖畔の裸婦像のモデルを務めた藤井照子が結婚の報告に訪れました。
 
十和田湖畔の裸婦像。顔は智恵子の面影、とよくいわれますが、制作に際してはモデルを使っています。
 
は昭和28年(1953)10月21日、十和田湖での除幕式で撮影されたものです。
 
右が光太郎、左がモデルを務めた藤井照子。久しぶりの再会を喜ぶショットです。
 
というわけで……でもないのですが、今日は十和田湖ネタを。 
 
まず、ニュース検索で1件ヒットしましたのでご紹介します。 

「湖畔の乙女」13日に最後の合唱

 十和田市などの音楽愛好家らでつくる「湖畔の乙女」を歌い継ぐ会(五十嵐明子代表=東京在住)は13日、十和田湖畔休屋の乙女の像の前で「湖畔の乙女」「奥入瀬大滝の歌」(いずれも佐藤春夫作詞、長谷川芳美作曲)を歌う集いを開く。十和田湖を訪れる観光客のためにバスガイドによって歌われるなど、長年親しまれてきた歌を後世に残そうと、2004年に始まった集いは、10回目の区切りの今年が最後となる。

 二つの歌は、乙女の像の建立を祝い、彫刻家・高村光太郎の友人だった文豪・佐藤春夫が本県に2編の詩を寄託し、当時三本木高校の音楽教師だった長谷川芳美さん(故人)が曲をつけて誕生した。

 1953(昭和28)年の除幕式で同校の生徒らによって披露され、湖畔の乙女は10年後にレコード化も実現。東京・新宿の歌声喫茶で歌われるなど全国的な愛唱歌となった。

 集いは、二つの曲が本県に関わる音楽資料の保存活動を行っている県音楽資料保存協会に登録されたのを機に、長谷川さんの教え子らが中心となって始めた。十和田湖のシンボル・乙女の像は今年が建立60周年で、“還暦”に当たる。歌う集いも当初目標とした10年の節目を達成し、参加者の高齢化などを理由に今回を歌い納めにするという。

 同会事務局の藤田みつさん(80)=十和田市=は「よく10年間続けられたと思う。これからも歌い継がれることを祈りながら、湖に向かって歌声を響かせたい」と話す。

 集いの参加は申し込み先着45人で、8日締め切り。参加費はバス代などを含め千円。13日は十和田市役所前に午前8時45分に集合し、バス内で練習しながら現地に移動。午前11時から行われる「十和田湖湖水まつり」の開会式で合唱を披露する。

 申し込みは、はがきかファクスで、同会事務局の藤田さん方(郵便番号034―0031、十和田市東3の5の32、電話兼ファクス0176-23-2356)へ。同会は、会員有志合唱団と十和田フィルハーモニー管弦楽団の演奏で2曲を収録したCDを作製、1枚千円で販売している。


 
記事にあるとおり、「湖畔の乙女」の方は全国区の歌になりました。レコードは本間千代子さんの歌でリリースされています。
 
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活動されてきた皆様、お疲れ様でした。今後は地元のアマチュア合唱団などでレパートリーとして歌い継いでほしいものです。
 
 
十和田湖、といえば昨年6月にオンエアされたものの再放送ですが、テレビ放映も近々あります。  

「いい旅・夢気分「大人気!初夏の青森 新緑の奥入瀬と旬のご馳走」

2013年7月7日(日)  11時30分~12時30分 BSジャパン
 
今注目の観光地・青森へ!奥入瀬渓流では涼やかな新緑と水のせせらぎに癒されます。十和田湖畔の名湯は風情満点。レトロな街並みの弘前では話題の「奇跡のりんご」を紹介。

番組内容
緑の風を感じる青森の旅!奥入瀬渓流では涼やかな新緑が見ごろ。水のせせらぎに癒されます。十和田湖では人気のクルージング。船上からの景色は風情満点。夜は十和田湖温泉郷で宿泊。源泉かけ流しの名湯は価値あり。翌日は田舎館村へ。名物の田んぼアートは圧巻!洋館の町・弘前は異国情緒満点。話題の「奇跡のりんご」を使ったフレンチ、有名カフェや高級ホテルも注目のブナコの器作りにもチャレンジします。

出演者 川合俊一、松本明子、中島史恵  
   ナレーション  大和田伸也

裸婦像が紹介されるといいのですが。

閲覧数が15,000を超えました。ありがとうございます。
 
さて、千葉市立美術館では「彫刻家高村光太郎展」開催中ですが、千葉には市立でなく県立の美術館もあります。ただ、耐震改修工事のため、今年1月から再来年3月までの予定で閉館中です。
 
そこで、同美術館では収蔵作品のうち、主だったもので移動美術館を開催することになりました。例年も行っているそうですが、例年より多くの会場で行うとのこと。
 
光太郎の「手」も巡回します。「手」は現在開催中の千葉市美術館での企画展に出品されていますし、先頃仮オープンした花巻の高村光太郎記念館にも並んでいます。
 
ご存じない方のために書きますが、ブロンズの彫刻は同じ原型から作られたものが複数個存在する場合があります。「手」もそうです。国内に10点くらいはあるのではないでしょうか。このあたり、微妙な問題を含みますので余り詳しくは書けませんが、浮世絵でも初刷り、後刷りがあるように、ブロンズでも誰がいつどこから型を取ったか、という点で価値に差異ができます。
 
閑話休題。移動美術館、日程は以下の通りです。
 
7/6~21 栄会場 県立房総のむら
8/3~18 野田会場 県立関宿博物館
8/25~9/8 館山会場 県南総文化ホール
9/14~29 香取会場 県立中央博物館大利根分館
10/5~27 東金会場 東金文化会館
2014/1/31~2/16 銚子会場 銚子市市民センター
同2/22~3/19 大多喜会場 県立中央博物館大多喜城分館
 
ただし、会場ごとに作品の入れ替えがあるというので、「手」が全ての会場に並ぶかどうか不明です。
 
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【今日は何の日・光太郎】 7月3日

明治42年(1909)の今日、およそ3年半の留学の旅を終え、駒込林町の実家に戻りました。
 
パリからいったんロンドンに渡り、日本郵船の阿波丸に乗ったのが5/5、神戸に上陸したのが7/1です。神戸まで光雲が迎えに来ており、東京に向かう汽車の車中で、光太郎を中心に銅像会社を設立する計画を語りました。
 
当時の銅像というと、立体写真的なものでしかなく、功成り名遂げた者の自己顕示、もしくは周囲のごますりのため、景観などは無視して街頭のあちこちに乱立していました。いわば一種のブームで、光雲のプランは確かにタイムリーで十分に採算のとれるものでしたが、光太郎はそんな職人仕事は恥ずべきもの、という感覚でした。
 
この後、ロダンに代表される新しい彫刻を日本に根付かせるための、光太郎の苦闘の日々が始まります。

光太郎関連でいろいろといただきものがありまして、ありがたい限りです。ご紹介させていただきます 。

文芸誌『虹』 第4号

連翹忌にもご参加下さっている詩人無題の豊岡史朗氏主宰の文芸雑誌です。
 
光太郎関連として豊岡氏の「高村光太郎論 詩集『典型』」、同じく「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」が掲載されています。
 
「高村光太郎論 詩集『典型』」は、主に連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)にスポットを当て、敗戦にともなう光太郎の自己省察-戦争責任に関し-を剔抉しています。
 
曰く「「戦争詩」を書いたことにうしろめたさを感じた詩人たちも数多くいたはずですが、過ちを軍部や時代状況のせいにせず、自らを反省し、誤謬の真の原因を究明しようと孤独な思索の日々を送る光太郎のすがたは、際立って鮮烈な印象をあたえます。」
 
そのとおりですね。
 
「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」は安曇野碌山美術館訪問記。光太郎にも触れています。
 
ご入用の方はコメント欄等からご連絡下さい。仲介いたします。

 
もう1件。

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国際交流基金さん刊行の雑誌です。
 
日本の書籍等を海外に紹介するもので、英文で書かれています。ロシア語版もあるようですが、当方、入手したのは英語版です。
 
2ページにわたり「Takamura Kōtarō and Iwate」という記事が載っています。執筆はエッセイスト・独文学者の池内紀(おさむ)氏。
 
詩「報告」などをひきつつ、光太郎の花巻郊外での山小屋暮らしを紹介しています。外国の皆さんの眼には、光太郎の生き様はどのように映るのか、興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 7月2日003

明治35年(1902)の今日、東京美術学校彫刻科を卒業しました。
 
卒業制作は若き日の日蓮をモチーフにした塑像「獅子吼」。首席にはならず、第二席だったとのこと。
 
卒業はしたものの、9月からは研究科に残り(徴兵猶予の意味合いもあったようです)、さらに明治38年(1905)には西洋画科に再入学しています。

画像は光太郎令甥にして写真家・髙村規氏の撮影になるものです。

先週土曜日に開幕した千葉市美術館の「彫刻家高村光太郎展」。地元紙『千葉日報』さんに報じられました。

 
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右下の画像が今回の図録です。
 
A4判222ページ。巡回各美術館の担当学芸員さんと、名古屋のデザイン会社・株式会社アーティカルの小島邦康氏による力作です。
 
目次は以下の通り。003

ごあいさつ 主催者
伯父光太郎 思ひだすことなど 高村規
高村光太郎の造型―立体感と詩精神― 北川太一

図版
 Ⅰ 高村光太郎
 Ⅱ 周辺作家
 Ⅲ 高村智恵子
 
高村さんのこと 平櫛田中
高村光太郎の彫刻 木本文平
木彫家・高村光太郎 土生和彦
 
資料
高村光太郎自筆文献抄 藁科英也編
作家略歴
高村光太郎年譜
高村光太郎彫刻展覧会歴
高村光太郎総計関係文献目録
出品目録
 
これで1,800円ですので、非常にお買い得です。
 
ちなみに当方、年譜・展覧会歴・文献目録の部分を書きました。
 
それから館内で無料配布されている館の広報誌「C’n SCENE NEWS」第67号。こちらでは3ページにわたり今回の企画展の話と、同時開催の所蔵作品展「高村光太郎の周辺」についての記事があり、読みごたえがあります。
 
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会期は、8/18(日)まで。第一月曜日の今日と8/5のみ休館。金・土は20:00まで開館しています。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月1日

明治23年(1890)の今日、光太郎の弟で、後に鋳金の道に進んで人間国宝となった豊周(とよちか)が誕生しました。
 
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左から弟・道利、妹・しづ(双子です)、光雲、光太郎。光雲に抱かれているのが豊周です。

豊周は家督相続を放棄した光太郎、渡欧したまま音信不通となった道利に代わり、高村家を嗣ぎました。

というわけで、いよいよ昨日から千葉市美術館「生誕130年彫刻家高村光太郎展」が始まりました。
 
夕方からオープニングレセプションということで、関係者の顔合わせ的な会があり、行って参りました。もちろん早めに行って、実際に企画展も観て参りました。
 
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初日から(初日だから?)かなりの盛況でした。といって、展示物がよく見えないような混雑ではなく、じっくりと観て回ることができました。
 
久しぶりに観る木彫の数々(展示方法に工夫が凝らされており、「蟬」がずらっと3匹、「桃」や「柘榴」は真上から観ることもできました)、複製でない智恵子の紙絵(その数65点)など、やはり本物は違う、という感じでした。
 
ブロンズでも詩人尾崎喜八の結婚記念に贈ったミケランジェロの模刻の聖母子像や、光太郎の祖父・中島兼吉のレリーフなど、あまり展覧会に並ばないものも多く、大満足でした。まるで久しぶりに旧友に遭ったかのような感覚で、なぜか涙が出そうになりました。不謹慎なようですが、心の中で「兼吉さん(かねきっつぁん)、おひさしぶりっす。変わりはなかったかい?」みたいな(笑)。
 
光太郎智恵子と縁の深い作家……光雲やロダン、荻原守衛、佐藤朝山などの作品も並び、そちらも興味深く拝見しました。
 
会場の一角ではNHKプラネット中部が制作した15分の解説映像の放映も。的確な解説のあいまに、北川太一先生や高村規氏(光太郎令甥)が登場、それぞれの思いを語られていました。観に来られた方は皆、興味深そうに見入っていました。
 
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早速、ネットで調べますと他の方のブログやツイッター等で「良かった」的な記述がありました。ありがとうございます。
 
館の皆様、その他大勢の皆様のおかげで、実にいい展覧会が仕上がったと思います。当方も少しだけ力をお貸ししましたが、力をお貸しできたことを光栄に存じます。
 
来週、7月7日の日曜日には、北川太一先生と当方による講演が予定されております。花巻に出かける前に北川先生から送られてきた草稿を元にレジュメを作成、プロジェクタで投影する画像等も集め、準備万端です。
 
そちらの方もおかげさまで定員に近い人数のお申し込みがあったとのこと。当方からご案内差し上げた方々も、かなり申し込んでくださり、ありがたい限りです。ご期待下さい!
 
千葉市美術館。千葉市中央区役所の7・8階です。都心からは若干時間がかかりますが、ぜひぜひ足をお運び下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 6月30日

昭和27年(1952)の今日、河出書房から『現代短歌大系』第三巻が刊行され、光太郎短歌62首が掲載されました。
 
光太郎は短歌でも独自の境地に達し、味のある作品を数多く残しています。「蟬」などの木彫を包む袱紗(ふくさ)や袋にその木彫を歌った短歌を書くこともあり、今回の「彫刻家高村光太郎展」でも、それらが複数展示されています。

各地からいろいろご案内やら図書のご寄贈やらが続いております。ありがたいことです。順次ご紹介していきます。

まずは、福島・川内村からのご案内。高村光太郎と親交のあつかった詩人、草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」です。 

天山祭り2013

川内村には、過去から現在まで、さまざまな催しがおこなわれています。2011年3月の原発事故以来、催しの開催には困難が多くはございますが、川内村を愛していただいてる皆さん、村のみんなとともに、再び楽しい時間を持てるよう、今後も適時、イベント開催をしていく予定です。ご期待ください。 

今年も、天山祭りの日取りが近づいてきました。草野心平先生を偲ぶ川内村ならではのお祭りです。
48回目の、天山祭りとなります。
 
 時 : 平成25年7月13日(土) 
      午後2時開祭(終了時間午後4時30分)
 所 : 天山文庫前庭(雨天の場合はいわなの郷「体験交流館」)
 催 : 天山祭り実行委員会000
 催 : 川内村観光協会
 援 : 福島民報社・福島民友新聞社
 賛 : 行政区長会・婦人会
参加費 : 一人 500円
 
祭り次第(案)
(1)開祭の言葉
(2)実行委員長挨拶
(3)村長挨拶
(4)かわうち草野心平記念館館長挨拶
(5)献花
(6)詩の朗読・心平さんCDによる朗読
(7)鏡開き・献杯
(8)懇親会
(9)アトラクション
   子どもじゃんがら念仏踊り
    (いわき市小川町)
(10)おひらき
 
 
昨年のポスターです。          
 
会場の天山文庫は、以下のようなところです。川内村HPより引用させていただきます。
 
人間の誇り得る所産「天山文庫」
「蛙の詩」で知られる詩人・故草野心平氏「モリアオガエルの生息地があれば教えて欲しい」と、ある新聞に投書したのが、昭和25年のこと。それに応えて、長福寺の先代住職、故矢内俊晃和尚が早速招聘の手紙を送りました。
そして昭和28年8月、先生は川内村を初めて訪れました。以来、先生と村民との親交は深まり、先生の蔵書3000冊を村に寄贈されたのを機に文庫建設の話がもちあがりました。
そして村民一木一草を持ち寄り村あげての労働奉仕によって建てられたのが、今の天山文庫です。
天山文庫の名は中央アジアを越えて、東洋と西洋を結ぶ「シルクロード」にそびえる天山山脈になぞらえ、みちのくと中央の交流、人と人との出会いを大切にしたいという熱意を込めて、先生が命名したものです。
昭和35年、川内村名誉村民に推載された心平先生。85年という生涯を全うした今、そしてこれからも、先生の遺業は村民の心から消えることなく、語り継がれていくことでしょう。
昭和41年7月16日の文庫落成を記念して、毎年行われる天山祭り。この日は、村内はもとより、県内外から心平先生を偲んで多くの人々が集まってきます。
心平先生の写真を囲みながら青竹を二つに割った器に、色とりどりの山菜料理、今朝つりあげたばかりのいわなの焼魚を肴に盃を傾けます。
村の伝統芸能である獅子舞、浦安の舞、神楽舞が披露され、笛や太鼓で川内甚句も飛び出します。
 
足を運ぶのも復興支援。当方も行って参ります。みなさんもぜひお越し下さい。
 
ぜひお越し下さい、といえば今日から千葉市美術館において「彫刻家高村光太郎展」です。こちらもぜひお越しください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月29日

昭和32年(1957)の今日、東宝映画『智恵子抄』が封切られました。熊谷久虎監督、主演は原節子さん、故・山村聰さんでした。

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先ほど、2泊3日の行程を終え、花巻から帰って参りました。
 
昨日は、旧太田村の高村山荘近くにある旧高村記念館にこもり、まる1日、寄贈された図書等の分類整理を行いました。
 
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旧記念館の看板 草野心平筆です。
 
山荘近くにお住まいの方の蔵書だったもので、その方が脳溢血で倒れ、蔵書が花巻の記念会に寄贈されたのですが、かなり膨大な量で、リストもなく、入手経路等もほとんど不明のものです。
 
先月、新たな記念館のオープンの際に行ったときにも少しその作業をやったのですが、今回は完全に分類整理し、リストを作成するつもりで行きました。
 
調べてみると、かなり貴重なものも含まれていました。
 
まず光太郎から島崎藤村の三男、蓊助(おうすけ)にあてた葉書が4通。既に『高村光太郎全集』に収録されているものですが、貴重なものです。
 
さらに光太郎の識語署名入りの著書が2冊。これも珍しいもの。このあたりは新しい記念館に展示されてもおかしくないものです。
 
その他、光太郎の蔵書だったもの。光太郎宛の献呈署名が入っている書籍がけっこうありました。中には『念ずれば花ひらく』で有名な仏教詩人・坂村真民からのものもありました。
 
また、昭和20年から27年にかけての雑誌が山のようにあり、どうも光太郎の元に送られてきたものだと思われます。光太郎の山小屋にはこういう若い詩人の著書や雑誌類がたくさん送られていて、光太郎は、特に手元に残す必要がないと思ったものは村の人々にあげてしまったりしていました。
 
そういったもののの分類は終わり、リストまで作成し終わるつもりでいましたが、時間が足りませんでした。最後の頃は頭もクラクラしてきましたし。あと半日あれば終わっていたのですが、結局途中で断念、また近いうちに行って最後の仕上げをします。この書籍類、いずれは新しい記念館で何らかの形で活用されるとのことです。
 
ちなみに頭のクラクラ、かなりひどかったのですが、花巻の記念会の方に車で宿(大沢温泉)に送っていただき、ゆっくり温泉につかったら治りました。大沢温泉、すばらしい(笑)。
 
新しい記念館、といえば、先月の仮オープン以来、閑古鳥が鳴いていないかなどと心配していましたが、あにはからんや、けっこう団体のお客さんがお見えだそうです。実際、昨日もこちらの昼食休憩の時に大型バスが一台。なんと智恵子のふるさと・福島安達の農業関係の団体様でした。ありがたいことです。
 
さらに新しい記念館、といえば、ホームページがリニューアルされました。ご覧下さい
 
ご覧下さい、といえば、いよいよ明日から千葉市美術館において企画展「彫刻家高村光太郎展」が始まります。こちらもぜひご覧下さい。当方、明日は午後から観に行き、夕方から館主催のオープニングレセプションに出席いたします。
 
花巻から帰ってきましたところ、図録が届いていました。担当学芸員さん曰く「自分の葬儀の時には今回のポスターと図録を棺に入れてほしいほどの出来」。たしかに実に立派なものです。こちらもぜひお買い求め下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月28日000

昭和20年(1945)の今日、花巻市桜町に建っていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑を初めて訪れました。
 
碑文はかつて昭和11年(1936)に、花巻の関係者からの依頼で光太郎が「雨ニモマケズ」の後半を書いたもの。後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎が碑面に訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むというちょっと変わった訂正がされました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。そのことに是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎がその改変をした」という記述を見かけます。
 
光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。確かにこの碑でも「ヒリ」となっていますが、それは花巻の関係者から送られた原稿の通りに光太郎が書いただけで、光太郎はこの改変には一切関わっていませんのでよろしくおねがいします。

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昨日から花巻に来ています。

昨日はまず花巻病院内にある財団法人高村記念会さんにお邪魔しました。

花巻病院と言えば、宮澤賢治の主治医だった佐藤隆房医師が院長でした。佐藤医師は宮澤家ともども戦災で焼け出された光太郎の花巻疎開に関わり、さらに宮澤家が空襲に遭った後は、自宅の一室を光太郎に提供したりもしました。

光太郎が郊外の太田村に移ってからも何くれとなく世話をしたり、光太郎没後には財団法人高村記念会を立ち上げ、花巻での顕彰活動を推進したりしました。

そうした経緯で病院内に高村記念会の事務局があるのです。ちなみに事務局の外にある花壇は宮澤賢治の設計によるものです。

さて、事務局で最近花巻で新たに出てきた光太郎書簡を見せていただき、その後寄贈してくださったお宅のご婦人のもとに行き、お話を伺いました。

昭和21年(1946)のもので、原稿用紙二枚。封筒も残っていました。宛先は宮澤賢治の妹の婚家です。『高村光太郎全集』第12巻に収録されている光太郎日記と内容が一致し、貴重なものです。

来春刊行予定の『高村光太郎研究』内の当方の連載、「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。

その後、駅近くの 西公園へ。光太郎が講演を行ったこともある旧花巻町役場が移築されていたり、光太郎も利用した花巻電鉄の車両「デハ3」が静態保存されたりしており、興味深く拝見しました。
今日はこれから高村山荘方面に行き、寄贈された資料の整理、リスト作成です。

【今日は何の日・光太郎】 6月27日

昭和22年(1947)の今日、確定申告の書類を記入しました。

【今日は何の日・光太郎】 6月26日
 
昭和52年(1977)の今日、成田市の三里塚記念公園に、光太郎の詩「春駒」を刻んだ碑が建立、除幕されました。
 
碑陰記は草野心平、碑面のブロンズパネルは西大由氏の制作です。
 
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  春駒
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。
 
手元に当地の「高村光太郎詩碑建立委員会」刊行の『春駒』という冊子があります。この碑の建立の経緯や、除幕式当日の模様などが記録されています。
 
収録されている当時の成田市長による建立趣意書から。建立の前年に書かれたものです。
 
 成田市三里塚一帯は、近代畜産発祥の地として古くから牧場が開かれ、その広大な原野に数々の名馬をうみ、緑濃い自然、春の桜花の見事さは年ごとに多くの人々をひきつけました。
 詩人・彫刻家高村光太郎もまたこの地を熱愛した一人です。ことに「生涯かけたたつた一人の親友」と呼んだ小説家水野葉舟がそのはなやかな文壇生活をすて、付近駒井野に移り住んで以来いくたびかこの地を訪れ大きな自然の風物にみずからの詩心を養いました。
 大正十三年四月に書かれた詩「春駒」には、晴朗な三里塚の風景とそこに躍動する若々しい春駒の姿がいま目の前に見るようにいきいきと歌われています。
 しかし、その三里塚は新東京国際空港建設に伴い相貌を一変、かつて若草をけたてて馬たちが疾駆した牧場は大滑走路に変わり、緑深かった平原に巨大な建造物が建ち並び、ほとんど昔日の面影をとどめません。しかも歴史の焦点はここに結ばれ、長い歳月の中で数多くの紛争がくりかえされ、人々は試練の場をくぐりぬけてまいりました。
 いまこそ人間精神のみずみずしい回復を心から祈らずにはいられません。そのことの一つのささやかな着手として、成田市、地元有志はもとより想いをおなじくする者あい集い、ありし日の三里塚の自然とその自然を深く愛した芸術家の心に応えるとともに消えゆく三里塚の面影を未来に残す証として「春駒」詩碑建立を企てました。
 碑はかつての自然を最もよくとどめる旧御料牧場本部前の景勝の地を選び、詩は作者の筆跡を展大して青銅に鋳造、巨石にはめこまれる予定です。
 おそらく碑前にたたずみ詩を読むものは、この国のかがやかなりし自然と心篤かりし人々への限りない回想にさそわれ、未来への明るく力強いはげましを受け取るにちがいありません。
 この企てに多くの方々の御賛同を得、是非とも実現いたしたく別記ごらんの上、貴台の御力添えをお願い申し上げる次第であります。
 
  昭和五十一年十二月
 
高村光太郎詩碑建立準備委員会代表 成田市長 長谷川録太郎
 
なかなかの名文なので、結局全文引用してしまいました(笑)。
 
続いて除幕式での、当会顧問北川太一先生のご挨拶から。
 
 葉舟を「たつた一人の生涯かけての友」と呼んだ光太郎も、しばしばこの地を訪れましたが、詩「春駒」は葉舟がここに移った直後、大正十三年四月十日に作られ、十三日の朝日新聞に発表されています。おそらく、ここで新生涯を始めることになった葉舟とともに、この春のおおらかにもすがすがしい牧野に立って、深い感動にうたれたのでしょう。震災後最初の光太郎の詩が、このようにして生まれたのでした。詩を読み、眼を閉じると、たてがみをなびかせて野を駆ける若駒のひづめの音や、汗ばんだ馬のいきづかいまできこえてくる様です。
 この詩を契機に光太郎には動物に材料を得た猛獣篇をはじめとする力強い詩の展開が始まり、一方葉舟はさまざまな経緯はありましたが、結局後半生をここにおくって、細やかで美しい自然や人間の記録を残すことになるのです。
 
半月ほど前のこのブログにも書きましたが、この周辺、いいところです。ぜひお越しください。
 
今日から2泊3日で花巻に行って参ります。

「明治古典会七夕古書大入札会」。
 
昨年の今頃もこのブログに書きましたが、一種の年中行事です。7/5(金)~7/7(日)の3日間、神田の東京古書会館で、年に一度開かれる古書籍業界最大のイベントの一つです。
 
古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
さて、今年の出品目録がネット上にアップロードされました。
 
光太郎関連も毎年のように肉筆原稿や書簡、署名入りの書籍などが出品されており、今年はどんなものが出ているかな、とわくわくしながら見てみました。
 
すると、詩集『道程』のカバーなしが1点、詩稿が3点(全て複数の詩が書かれたもの)、色紙が一点、葉書が10枚で1組(既に存在・内容を知られているもの)、そして一番驚いたのが識語署名入りの著書2冊です。
 
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すべて詩人の高祖保にあてたものです。一冊は随筆集『某月某日』(写真中央)、もう一冊は詩集『をぢさんの詩』(写真右)です。ともに昭和18年(1943)の刊行。画像はおそらく表紙裏の見返しの部分でしょう。
 
葉書も1枚ついています。官製葉書の様式や住所氏名のゴム印などから判断し、おそらく同じ時期のものです。今のところ高祖宛書簡は滋賀の彦根市立図書館に収蔵されている1通(「光太郎遺珠」⑦所収)しか確認できていませんので、文面は不明ながら新発見です。
 
高祖は『をぢさんの詩』の編集作業をやってくれた詩人で、光太郎が書いた同書の自序には高祖に対する謝意が述べられています。また、戦後になって高祖の追悼文(昭和20年=1945・戦病死)も光太郎は書いています。
 
このあたりについてはいずれまた項を改めて書きます。
 
そして今回出てきたのがその高祖に宛てた長い識語入りの『をぢさんの詩』。その識語もなかなか味のある文章です。
 
ところで最低入札価格ですが、「ナリユキ」となっています。今年の明治古典会七夕古書大入札会では、このように最低入札価格を設定していない出品物が結構あります。どのくらいの値がつくのか興味深いところですが、できればどこかの公共機関で手に入れ、自由に閲覧できるようにしてほしいものです。特に光太郎に興味があるわけでもなく幅広く集めていて、自分の蒐集品は絶対公開しない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうおしまいですから……。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月25日

明治45年(1912)の今日、光太郎の手を離れた神田の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、田村俊子と智恵子による「あねさまとうちわ絵」展が始まりました。
 
数年前、神奈川近代文学館に特別資料として寄贈された木下杢太郎関連の資料の中に、この展覧会の案内が印刷された木下宛の書簡(「光太郎遺珠」②所収)が含まれていました。これを見つけたときの驚きは、新資料発見の五指に入ります。
 
曰く、
    ◎『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会
長沼ちゑの『うちわ絵』と田村としの『あねさま』の展覧会を来る二十五日から二十九日まで五日間琅玕洞で開催いたします
 ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。
 極りのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらしつて下さいまし。
(以下略)

一昨日から昨日にかけ、京都に行って参りました。無題1
 
目的は京都国立近代美術館さんで開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」の拝観でしたが、少しだけ観光もしてきました。
 
当方の乗った夜行バス、京都着は午前6時過ぎ。この時間ではさすがに美術館は開いていませんので、館の空く9時半までの時間をつぶさなければなりません。
 
さて、光太郎といえば智恵子。智恵子といえば福島。福島といえば今年は「八重の桜」。というわけで(強引ですが)、それ関係の場所を巡りました。
 
まず、現在「八重の桜」で展開中の戊辰戦争が終わり、明治になってから八重が暮らした新島邸
 
京都御所の裏にたたずんでいます。
 
こちらも内部の拝観には時間が早かったので、門の外から見ただけでしたが、趣のある建物でした。
 
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鴨川べりに出て、コンビニでパンとコーヒーを買って朝食。その後、まだ時間が早いので下鴨神社さんまで足を伸ばしました。ここは福島や光太郎との縁はないとは思うのですが、一度行ってみたかったので。
 
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さらに、京都国立近代美術館さんに近い金戒光明寺さんに行きました。ここは以前にも行ったことがあるのですが、幕末に京都守護職・会津藩本陣が置かれたところです。

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以前のブログにも書きましたが、「八重の桜」での金戒光明寺でのシーン(外観)は、当方の暮らす千葉県香取市にある観福寺さんというところで撮影されました。さすがに本家(笑)の方が立派です。
 
本堂に上がると、参拝者が自由に書くノー000トが。見ると、その前の日の日付で「福島から来ました。最後まで諦めなかった会津様を見習い、諦めずにがんばろうと思います」という書き込み。日本全体では被災の記憶が薄れつつあるようで、閣僚のトンデモ発言なども飛び出していますが、まだまだ被災地での被災は続いています。ほんとうにがんばってほしいものです。
 
金戒光明寺さんでは、以前に行ったときには足を踏み入れなかった会津藩士の墓所にも行きました。本堂でもここでも、手を合わせつつ心の中で「福島の復興を見守っていてください」とお願いして参りました。
 
ちょうど9時半くらいになったので、京都国立近代美術館さんに行き、「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観ました。
 
昨日書き忘れましたが、光太郎以外にも岸田劉生、清宮彬、バーナード・リーチ、石井柏亭・鶴三兄弟、硲伊之助、柳敬助、高村豊周など、光太郎の周辺にいた人物の作品も多く、興味深く拝見しました。
 
長谷川昇という画家の作品も一点。こちらは東京美術学校で彫刻科を卒業したあと西洋画科に再入学した光太郎の、西洋画科での同級生で、会津出身です。
 
というわけで、今回の京都行は、京都にいながら福島を偲ぶ旅でもありました。また近いうちに福島にも行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月24日

昭和14年(1939)の今日、銀座三昧堂ギャラリーで開催されていた、南洋パラオで暮らしていた異端の彫刻家・杉浦佐助の個展が閉幕しました。

光太郎は図録に推薦文を書いています。

昨夜、居住地域から夜行バスに乗って、京都に行って参りました。
 
京都国立近代美術館で開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観るためです。帰りは新幹線を使い、先ほど帰って参りました。
 
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今月初めのこのブログでご紹介しましたが、光太郎の水彩画とされる作品が一点、出品されています。光太郎顕彰の世界ではその存在が知られていなかったものです。
 
芝川照吉(明治4=1871~大正12=1923)は、企画展の副題にもあるとおり、青木繁や岸田劉生を援助した実業家で、そのコレクション総数は1,000点以上だったそうです。しかし、関東大震災や、没後の売り立て(競売)で散逸、最後に残った180点ほどが京都国立近代美術館に寄贈されました。今回の展覧会はそれを中心に、関連作品をまじえて構成されています。
 
絵画以外にも工芸作品が多く、同館自体が京都という土地柄上、工芸の収集、展示に力を入れているということもあり、館としてはうってつけだったようです。
 
さて、光太郎の水彩画。「劇場(歌舞伎座)」と題された八つ切りのあまり大きくないものです。制作年不明とキャプションに書かれています。「印象派風」というと聞こえはいいのですが、はっきりいうと何が何だかさっぱりわからない絵です。かろうじて歌舞伎の定式幕が描かれているのが判然とするので、「歌舞伎座」という副題が納得出来るという程度です。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、画像も送っていただいたのですが、本当に光太郎の作品なのか半信半疑でした。今日、実際に作品を見てもまだ半信半疑でした。

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数年前に大阪の阪急文化財団逸翁美術館でもそれまで知られていなかった光太郎の絵画が出ましたが、こちらは日本画で、与謝野晶子が自作の短歌を書き、絵を光太郎が担当したもの。来歴もはっきりしていましたし、絵も類例があるものなので、即座に間違いないと思いました。
 
しかし、今回の水彩画は、芝川照吉のコレクションという点で来歴は大丈夫だろうと思いつつ、類例がないことが気にかかっていました。
 
そう思いつつ、企画展会場の最後にさしかかると、芝川没後の大正14年(1925)に開かれた売り立て(競売)の目録がパネルに拡大コピーされて展示してありました。「おっ」と思い、詳しく観ると、最後の辺りに今回の水彩画と思われるものもちゃんと載っていました。
 
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上記はその売り立て会を報じた新聞記事です。

これで少なくとも大正末の時点ではこの作品が光太郎作と認定されていたことは間違いないのでしょう。また、売り立ての「後援」に、光太郎と親しかった画家・石井柏亭が名を連ねています。これはこの作品が間違いない一つの証左になりそうです。さらに、他の出品物はやはり岸田劉生やら青木繁やらのもの。いけないものはまざっていないようです。
 
というわけで、今回の水彩画も間違いないものだろうと思いますが、まだ確定はできにくいところがあります。もう少し調べてみるつもりではありますが。
 
明日も京都レポートを。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月23日

大正4年(1915)の今日、浅草山谷八百善で開かれた、北京移住のため離日する陶芸家・バーナード・リーチの送別会に出席しました。
 
今日観てきた芝川コレクションにもリーチの作品が多数含まれていました。

過日、昭和9年(1934)に智恵子が療養した九十九里を訪れ、帰ってからネットでその近辺についてもう一度調べました。
 
すると、智恵子に関しいろいろと情報を載せている「阿多多羅山」というサイトがあり、それにより意外な事実がわかりました。以下、抜粋させていただきます。

海岸通りの県道に面して「智恵子療養の跡地」と墨で書かれた白い標柱が立っています。ここに智恵子が療養していた「田村別荘」があったといわれています。精神分裂症が悪化した智恵子は、昭和九年一九三四)五月から十二月まで、転地療法のため母や妹家族と一緒にこの家に住んでいました。智恵子一家が去った後の「田村別荘」は、地元の人が買い取り、対岸の大網白里町へ移された後「智恵子抄ゆかりの家」として再築して保存されました。
 
しかし、年月が経ち、訪れる観光客も少なくなった一九九七年頃、前夜の強風雨で家屋が被害を受けたのを機に、取り壊わされて跡形もなくなりました。
 
「智恵子抄ゆかりの家」は取り壊わされましたが、「田村別荘」が本来あった真亀納屋の住居跡に、田村別荘跡を示す白木の標柱を建て、史跡を守ろうとする人がいました。
九十九里町役場に隣接する「九十九里いわし博物館」に勤める町臨時職員で学芸員の永田征子(元高校教諭)です。当時、智恵子が療養していた田村別荘跡は、現在プチホテル「グリーンハウス」とテニスロッジ「あぶらや」が経営するテニスコート場内にありました。テニスコート場の中間に残された低い土塁あたりが、当時智恵子の療養していた田村別荘のあった場所だそうです。当時、ここは黒松の防風林で、田村別荘から漁師の藁葺屋根の先に、九十九里の波打ち際が見えたと言われています。
 
永田征子は地主の了解を貰い、九十九里町教育委員会の協力を得て、記念の標柱を製作し建てることにしました。二〇〇四年七月二十九日夕方、地主に立ち会ってもらい、永田は「ここに建てさせていただきたいのですが」と、テニスコートの入口で県道に面した場所を決めました。その場で、教育委員会の係員の手で、「智恵子療養の跡地」と筆文字で書かれた木製の白い標柱が建てられたのです。
 
 その翌日の七月三十日朝、「九十九里いわし博物館」内で、ガス爆発事故がありました。博物館の一部が大破し、書庫で仕事をしていた永田征子はその事故で即死したのです。千葉県警の調べでは、爆発現場とされる文書収蔵庫の床下の数カ所からガスの成分が噴き出していて、爆発原因は地面から噴き出た天然ガスの可能性が高いとみられています。
 
  光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」や、「智恵子療養の跡地」の標柱などは、千鳥の遊ぶ浜辺と共に、今も九十九里町に人々に大切にされています。

 
驚きました。九十九里いわし博物館での爆発事故は、同じ千葉県内ということもあり、記憶に残っていましたが、その時亡くなった方が智恵子顕彰の活動をされていたとは存じませんでした。さらに、過日見てきた標柱ができた翌日に事故に遭われていたとは……。
 
ちなみに爆発事故を報じた当時の報道の抜粋です。 

千葉・九十九里のいわし博物館で爆発 1人死亡1人重体 

 30日午前8時57分ごろ、千葉県九十九里町片貝、町立の「九十九里いわし博物館」で爆発が起きた、と隣接する町役場から119番通報があった。山武郡市消防本部によると、鉄筋コンクリート平屋建て約800平方メートルの屋根の一部が吹き飛び、壁が崩れた。同館の臨時職員で、同町西野の川島秀臣さん(63)が全身に大やけどを負って旭中央病院に運ばれたが重体。同じく同館臨時職員で、同県東金市求名の永田征子さん(66)とみられる女性1人ががれきの下から発見されたが、全身を強く打っており死亡した。
  同町役場によると、開館は午前9時で、爆発が起きた時、館内には8時半に出勤した職員2人がいたという。
 現場は町の中心部。隣にある九十九里町役場では、「ドーン」という大きな音がして、席に座っていた職員たちもビリビリという震動を感じた。職員が驚いて見に行くと、博物館から白い煙が上がり、20センチほどのコンクリート片が駐車場などに散乱していた。
 
 
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最初は爆発の原因がわからなかったのですが、続報によれば……
 
爆発を引き起こしたのは、横浜・川崎の湾岸地域から千葉県にかけての関東平野南部地域に広がる「南関東ガス田」の天然ガス。千葉県警は、地表にわき出た天然ガスが文書収蔵庫のコンクリート床の亀裂から室内に入り充満、引火して爆発したとみている。
 
とのことです。
 
9年前の事故ですが、改めてご冥福をお祈りいたします。

ちなみに在りし日の田村別荘、こんな感じでした。最後の画像は取り壊された直後。この時点ではサボテンの木が残っていましたが、もうありません。


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【今日は何の日・光太郎】 6月22日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像建造のための十和田湖視察を終え、花巻郊外太田村山口の小屋に帰りました。

【今日は何の日・光太郎】 6月21日

昭和9年(1934)の今日、九十九里浜で療養していた智恵子のもとに、光雲から貰ったメロンを送りました。
 
『高村光太郎全集』第21巻に、以下の書簡(はがき)が掲載されています。
 
昭和9年6月21日 千葉県山武郡豊海村真亀 田村別荘内 斎藤様方 長沼せん子様 駒込林町二五より
 
 今日父の家からメロンを一個もらひましたので小包でお送りしました。包は大きいけれど中は一個だけです。二十三日頃が喰べ頃です。東京は又晴天となり真夏のやうです。それでも此頃はおかげで彫刻が出来るので助かります。
 
宛名の「千葉県山武郡豊海村真亀」は、現在の山武郡九十九里町。「斎藤様」は智恵子の妹・セツ夫妻。「長沼せん子」は智恵子の母です。
 
統合失調症が悪化した智恵子は、この年5月から12月まで、セツ夫妻が住んでいた九十九里で、斎藤一家、母・センと療養生活を送りました。光太郎はほぼ毎週、東京から九十九里に見舞いに訪れていたそうです。
 
そして79年前の今日、九十九里にメロンを送ったとのこと。
 
だから、というわけではありませんが、一昨日、九十九里町に行って参りました。隣接する東金(とうがね)というところに光太郎とは無関係の用事があり、それを済ませてからついでに行った次第です。
 
同じ千葉県内でも、九十九里町は生活圏ではありません。九十九里浜の北端あたりは時折行くのですが、九十九里町はかなり南の方なので、めったに行きません。考えてみると、数年前に二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行でガイド役をやって以来の訪問でした。
 
東金の台方ICから東金九十九里道路に乗り、東へ。まずは九十九里ICで下りる直前にある今泉PAに寄りました。ここには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。
 
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制作は日展作家の久保田俶通氏。光太郎・智恵子それぞれの単体の像は日本各地に結構ありますが、二人を群像にしたものはこれが唯一です。
 
今泉PAを後に、九十九里ICで下りると、目の前は国民宿舎・サンライズ九十九里です。その裏手に、昭和36年(1961)建立の「千鳥と遊ぶ智恵子」碑があります。
 
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光太郎の肉筆を拡大して石に刻んだもので、地元の文学愛好者や草野心平の骨折りで建てられました。建立当初はこの碑から九十九里浜が望める位置関係だったのですが、その後、碑と海岸線の間に九十九里波乗り道路が出来てしまい、残念な状況です。現在は碑の近くからトンネルをくぐらないと浜にたどり着けません。
 
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一昨日は風が強く、海もだいぶしけていました。
 
さらにサンライズ九十九里前の県道を南下し、真亀川にかかる橋を渡った大網白里町に、智恵子が療養していた「田村別荘」がかつて移築・保存されていました。しかし、地元でのさまざまな行き違いから、平成11年(1999)に突如解体されてしまいました。これも残念です。
 
さて、今回の九十九里行きは、この「田村別荘」が移築される前、もともと立っていた場所を探訪しようと思い立ってのことでした。恥ずかしながら、その元の場所をこれまで確認していませんでした。
 
少し前に、他の方のサイトで県道沿いのテニスコート付近、という情報を得ていましたので、碑の近くの適当なところに車を駐めて歩き、探してみました。民家の軒先では魚の干物制作中。さすが九十九里浜です。
 
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すると、サンライズ九十九里のはす向かい辺りにテニスコートがあり、そこに標柱が立っていました。
 
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以前は碑の近く、県道の東側を一生懸命探して見つからなかったのですが、逆に県道の西側でした。
 
ここだったのか……と、感慨深いものがありました。

平成30年(2018)追記 この標柱も無くなってしまいました。
 
その後、ちょうど昼時だったので、近くの海鮮料理店に行き、昼食。焼肉店のように各テーブルにコンロがあり、自分で頼んだものを焼くシステムになっている店でした。当方が頼んだのは本蛤(はまぐり)何とかセット(笑)。
蛤×4、イワシ2尾、ホタテとサザエが一つずつ。さらに別メニューで焼きおにぎりも注文しました。
 
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これで2,000円ちょっと。安くはありませんが、十分元は取れる内容です。とにかく美味。満足して帰って参りました。
 
帰ってから、さらにネットで調べたところ、他の方のサイトで意外な-ある意味感動的な-記述を見つけました。明日はそのあたりを書こうと思っています。

昨日、光太郎が足かけ8年暮らした花巻にある大沢温泉さんについて書きました。今日も関連するネタで行きます。

まず、大沢温泉さんの公式ブログから引用させていただきます。

高村光太郎ゆかりの温泉!

先日、5月15日高村祭がありました。今年は生誕130年ということで、新たに「高村光太郎記念館」が開館しました。
特別講演には女優の「渡辺えり」さんを迎えてのイベントもありました。

大沢温泉は高村光太郎ゆかりの温泉として知られており、山水閣の「牡丹の間」は高村光太郎が宿泊の際には必ずご指定されていたというお部屋です!現在は建て直しましたので復元した形となってますが・・・

そして今年の高村祭の特別講演渡辺えりさんに直筆の書を頂戴いたしました!
お忙しい中ありがとうございます!
館内に展示したいと思います!
 
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先月の高村祭の折、記念講演をなさった渡辺えりさん。牡丹の間にご宿泊でした。以前、お父様が高村祭記念講演をなさった際にも牡丹の間にお泊まりになったとのこと。現在、牡丹の間の床の間にはお父様の書かれた色紙が飾られています。
 
そのあたり、渡辺さんのブログに書かれています。さらに高村祭翌日の花巻市文化会館での講演会についても。
 
光太郎が暮らした小屋・高村山荘に隣接する高村記念館さん。リニューアルされて1ヶ月たちました。その後、現地の状況がどうなのか-閑古鳥が鳴いていないかなど-気にかかるところです。来週、また行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月20日

昭和16年(1941)の今日、16日から開かれ、委員として出席していた大政翼賛会第一回中央協力会議が最終日を迎えました。
 
光太郎は18日の教育文化に関する第六分科会で第185号議案として「芸術による国威宣揚について」と題し、提案しています。

来週、また花巻に出向くつもりで居ります。
 
そこで、定宿にしている大沢温泉さんで宿を取ろうと思い、ネットでアクセスしました。すると、以下のページが。

宿泊プラン大沢温泉 山水閣 【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!

部屋タイプ 和室 高村光太郎が愛用した 「牡丹の間」 トイレ付 ※バスなし
高村光太郎が愛用したお部屋を復元したものです。
10畳+6畳+3畳でさらに広縁があり非常にゆったりとしています。
光太郎の書画などあり、当時のままを復元しておりますのでクラシックな感じのお部屋です。
お部屋からは渓流「豊沢川」と四季折々の山々の景色を楽しむことができます。
洗浄器付きトイレ/冷・暖房/金庫/冷蔵庫(持ち込み可能)
 
[ プラン内容 ]
いつもと違った雰囲気を楽しみたい方おすすめ!10畳+6畳+3畳の3間つづきでゆったりくつろげる山水閣に1部屋しかないお部屋。高村光太郎が来館の際にはいつもご指名でご利用いただいていたお部屋を移転復元した記念のお部屋です。新館1階の一番奥にあり離れの様な佇まいの特別室となっております。

今回期間限定につき通常価格から1,575円(税込)引きで販売させていただきます。

豊沢川や四季折々の対岸の景色を堪能でき、高村光太郎お気に入りだったお部屋であなたも芸術家の気分となって過ごしてみませんか?

ご夕食はゆっくり過ごすお部屋食!
お食事は花巻産プラチナポーク(白金豚)を含め月替わりの会席膳 全11品
(4名様までお部屋にお持ちします。5名様以上はお客様だけの個室宴会場でのお食事となります。他のお客様とは一緒になりません)
朝は 朝食会場「松風」にて7:00~9:00までの和洋のバイキングとなります。

由来となった「牡丹」(絵画)は高村光太郎の作品でお部屋の入口にレプリカですが飾ってあります。
また、新築の際復元するにあたり当時の木材や格子などそのまま使用しておりますのでクラシックな感じのお部屋となっております。


大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、主に長期滞在の湯治客用の「自炊部」、築160年の離れ「菊水館」の三つに分かれています(当方、菊水館を定宿としております)。経営は一緒のようで、サイトのトップページは同じです。
で、山水閣のいわばスイートルームに当たるのが「牡丹の間」。建物自体は近代的にリニューアルされていますが、この部屋は昔、光太郎がよく泊まっていた部屋の部材や調度を随所に使い、当時の面影を残しています。当方、泊まったことはありませんが、中には入ったことがあります。
その部屋が、期間限定プラントいうことで、安くなっているそうです。
とはいってもやはりそこそこの値段ですので、今回も当方は料金の安い菊水館に泊まります。こちらも光太郎が泊まったことがあり、さらに当時の建物のままです。ただ、どの部屋に泊まったのかは定かではありません。
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菊水館
 
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左奥が山水閣・右手が自炊部
 
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混浴露天風呂・大沢の湯(3館共通)
 
さて、山水閣のプラン「【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!」。これから花巻にご宿泊予定の方、ぜひご検討ください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月19日

明治40年(1907)の今日、ニューヨークからイギリスに向け、ホワイトスターラインの豪華客船「オーシヤニック」に乗って、大西洋に出港しました。

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