今年も光太郎忌日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第58回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には郵送いたしましたので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。
 
第58回連翹忌の御案内
 

                                       
日 時  平成26年4月2日(水
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼
     〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 
 
申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
 当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。
 


ごあいさつ

 この一年は、オリンピックなどの世界をつなごうとする人々の真摯な努力もありましたが、猛暑や豪雪など荒々しい天候や、心痛む世情も続きました。いつも連翹忌にお出かけ下さる皆さん、ことにみちのくの被災者の皆さんには、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいましたか。

 その間にも各地で光太郎生誕百三十年を記念するメモリアルな展覧会が開かれ、十和田裸婦像建立から六十年になるという年にも遭遇して、たくさんの彫刻や智恵子の紙絵が展示されました。じかに二人の作品にふれることによって、心うつ創作、新しい感想や解釈も次々に寄せられています。        

 歴史がもういちど反転しそうな今こそ、その命の軌跡をかえりみ、繰り返し語り合い、語りつぐひと時を、思いを同じくするみなさんと一緒に過ごしたいと存じます。

 今年は更に加えて、最初の詩集『道程』が刊行され、光太郎智恵子が共に棲み始めた大正三年から百年になります。

 運営委員諸君の努力によって、たのしい試みやご報告もたくさんあることでしょう。

 春の一夜を今年も是非お目にかかりたく、お誘い申し上げます。

平成二十六年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一


 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月21日001

昭和28年(1953)の今日、詩人・編集者の池田克己の逝去に際し送る弔電のために短歌を詠みました。
 
ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト
 
(我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと)
 
池田は昭和22年(1947)に、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼し、戦後は花巻郊外太田村の山小屋を訪れたりもしました。
 
「ライカ」云々は、昭和23年(1948)7月の『小説新潮』グラビアに載った池田撮影の光太郎ポートレートに関わると思われます。

新刊です(といっても2ヶ月程経ってしまっていますが)。

江戸・東京のドラマを訪ねて 山手線沿線めぐり

2013/12/15 中島克幸著 文芸社発行  定価1400円+税
 
山手線全29駅を起点にぐるりとめぐる小旅エッセイ。歴史好きの著者ならではの視点で、44カ所の名所・旧跡を紹介する。高層ビルの狭間にこんな場所があったなんて……、ふだんよく通る場所なのに……と、知っているようで知らなかった奥深い東京の魅力を再発見。関連する人物や事柄を解説するMEMOやアクセスも掲載しているので、週末にでも訪れてみてはいかが。

 
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新橋から始まり、山手線をぐるっと内回りで有楽町、東京、神田、秋葉原……そして浜松町までの全29駅で、それぞれの近くにある名所旧跡、知られざる歴史スポットの紹介というコンセプトです。
 
「「僕の前に道はない」――触れた詩人の心 16・西日暮里① 高村光太郎記念碑」で、荒川区立第一日暮里小学校まえにある「正直親切」の碑が扱われています。
 
それから同じく西日暮里で「「女性は太陽であった」――女性解放運動の聖地 17・西日暮里② 青鞜社発祥の地」に、団子坂上の青鞜社跡(物集和子邸跡地)も。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月20日

昭和5年(1930)の今日、雑誌『カジノ・フオーリー』に詩「カジノ・フオリイはいいな」が掲載されました。
 
           カジノ・フオリイはいいな001
 
 カジノ・フオリイはいゝな
 わかくて、新らしくて、水々しくて
 みみつちくて、アンチイムで
 かうなると
 ヴイユ・コロムビエよりもいいな
 巴里にいるコレツトさん
 ちよいと此のアツカリアムをのぞきませんか。
 
「カジノ・フォーリー」は、昭和4年(1929)、浅草水族館2階の余興場を本拠として設立された軽演劇団です。エノケンこと榎本健一が所属し、同8年(1933)まで活動を続け、一世を風靡しました。川端康成も小説「浅草紅団」で取り上げています。『カジノ・フオーリー』は同劇団発行の雑誌です。
 
「アンチイム」(intime)は仏語で「くつろいでいるさま、親しいさま」。「ヴイユ・コロムビエ」はパリ6区のヴィユ・コロンビエ通りに立つフランス現代演劇の拠点となった劇場。「コレツトさん」はやはりフランスの女性作家シドニー・ガブリエル・コレット。「アツカリアム」(Un aquarium)も仏語で「水族館」。
 
浅草近辺は、その若い頃から光太郎のテリトリーで、カジノ・フォーリーにも足を運んでいたようです。昭和25年(1950)に書かれた散文「松木喜之七遺稿集「九官鳥」によせて―松木喜之七氏と私の鯉―」でも触れています。
 
何年のことだつたか忘れたが、まだ浅草公園水族館の階上に「カジノフオリ」などといふ汚い劇場があつて、今のエノケンがまだそこの小さな人気俳優であつた頃のことだから随分昔のことになる。
 
この詩は永らくその存在が忘れられていまして、筑摩書房の増補版『高村光太郎全集』に収録されていません。非常に特殊な雑誌に発表されたのと、光太郎が手元に残した手控えの詩稿の束にも入っていなかったのが理由です。書簡や散文、座談会記録などはまだまだたくさん出てきますが、詩が新たに見つかった例はほとんどなく、見つけた時は実に驚きました。
 
数年前、とある古書店の目録に『カジノ・フオーリー』が揃いで掲載され、執筆者として光太郎の名も載っていました。数十万円の値が付いており、とても手が出ないと思っていましたら、駒場の日本近代文学館に収蔵されていることがわかり、現物を見て参りました。見るまで詩だと知らず、ちょっとした散文か何かだろうと高をくくっていたのですが、全集未収録の詩だったので驚いた次第です。
 
短い即興的とも云える詩ですが、「わかくて、新らしくて、水々しくて/みみつちくて、アンチイムで」あたりには光太郎詩の特徴がよく表れています。たたみかけるように言葉を並列する技法ですね。
 
有名な「根付の国」(明治43年=1910)では、
 
頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
(略)
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

というふうに同じ技法が使われています。
 
さらに、これも有名な「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)では、「~ぢやないか」という表現が繰り返されます。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月19日

平成12年(2000)の今日、藍川由美さんのCD「「國民歌謡~われらのうた~國民合唱」を歌う」がリリースされました。
 
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このアルバムには光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)が収められています。故・小沢昭一さんやボニージャックスさんなども「歩くうた」を収めたCDアルバムをリリースされていますが、藍川さんは、当時の楽譜のままを忠実に演奏されている点が特徴です。
 
藍川さんは東京芸術大学出身の声楽家。ジャンルを超え、明治~昭和の日本歌曲をよく取り上げていらっしゃいます。藍川さんの公式ホームページはこちら
 
この他にも藍川さんには「華燭 藍川由美丘灯至夫をうたう」というアルバムもあり、昭和39年(1964)に二代目コロムビア・ローズさんが歌った「智恵子抄」が収められています。
 
丘灯至夫は作詞家。舟木一夫さんの「高校三年生」、テレビアニメ「ハクション大魔王のうた」等で有名です。

 
さて、来月、藍川さんのコンサートがあり、その中では光太郎作詞の「こどもの報告」が歌われる予定です。作曲は箕作秋吉です。 

「日本のうた編年体コンサート」⑫ 文部省『日本國民歌』と日本放送協會『國民歌謠』

日 時  2014年3月30日(日) 19:00開演
会 場  東京文化会館小ホール 東京都台東区上野公園5 上野駅[JR公園口]から徒歩約1分
出 演  藍川由美 (歌)/蓼沼明美 (ピアノ)/片山杜秀 (話)
入場料  3,000円(全席指定)/学生券:1,000円 (当日扱いのみ)
問い合わせ:オフィス小野寺  03-6804-8444
 
 
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作詞・作曲とも当時の錚々たるメンバーですが、現在では忘れ去られている歌が多いと思います。こうした歌曲が存在したということを、きちんと記録に残して行くことも大切なことではないでしょうか。ただし、「これぞ日本人の魂」的なアプローチは慎むべきかと思いますが。
 
「こどもの報告」については、当方刊行の冊子『光太郎資料』第41集(4月2日・連翹忌の日に発行予定)で取り上げています。ご希望の方はコメント欄等からご連絡下さい。

もう1件、やはり来月行われるコンサート情報です。

金田潮兒教授 歌曲コンサート ~定年退職記念~ 学芸の森より 愛etc…

日 時  2014年3月3日(月) 16:00開演
会 場  東京学芸大学内 芸術館 学芸の森ホール 東京都小金井市貫井北町4−1− 1
   東京学芸大学芸術・スポーツ科学系 音楽・演劇講座 作曲研究室
料 金 : 無料

司会進行:山内雅弘(作曲研究室主任)
歌:鎌田直純 大野徹也 横山和彦 嶋﨑裕美 小林大作 石﨑秀和(以上声楽研究室教員)
ピアノ:亀澤奈央 小田切舞美 守谷温子(以上本学卒業生 賛助出演)
尺 八:福田輝久(特別出演)
ヴァイオリン:濱川夏楠(本学学部4年)
女声アンサンブル:鈴木菜穂子 糸塚奈保子 川井愛梨 千葉なつみ(以上本学大学院生)

問い合わせ: 042-329-7569(作曲研究室・山内) 042-329-7572(声楽研究室・小林) 
 
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金田潮兒氏は作曲家にして東京学芸大学教授。
 
「高村光太郎詩集「智恵子抄」より『いやなんです』」という曲がラインナップに入っています。
 
こうした方面で光太郎が取り上げられるのも大事なことだと思っています。ありがたいかぎりです。

今秋の話なので、半年以上先の話ですが、報道が出ていますのでご紹介します

県北を重点開催地 県芸術祭

福島民報 2月15日(土)10時14分配信
 
 福島県芸術祭運営委員会は14日、福島市民会館で開かれた。平成26年度の県芸術祭の重点開催地を県北地区とし、開幕式典・開幕行事を9月13日に二本松市の二本松文化センターで催すことを承認した。 
  開幕行事のテーマは「智恵子の里に集う文化で深める絆」とする方針。開幕式典に続いて、文化団体・民俗芸能団体による発表を行うほか、県北地区の物産コーナーや展示コーナーも開設する方向で準備を進める。 
  今年度の県芸術祭の実施状況も報告された。主催行事は27件で、来場者は2万7712人だった。参加行事は46件で6万440人が来場した。合計の来場者は8万8152人となり、前年度を4081人上回った。 
  運営委員会には文化団体の代表ら約40人が出席した。運営委員長の高城俊春県芸術文化団体連合会長があいさつし、県芸術祭の成功を誓った。

二本松菊人形衣替え 地元に根差したテーマに

福島民報 1月30日(木)9時31分配信
 
 NHK大河ドラマを長年、主要テーマにしてきた福島県二本松市の「二本松の菊人形」は今秋、展示内容を一新する。今年は60回の節目で、二本松城築城600年にも当たることから、地元に根差した内容に衣替えする。運営する二本松菊栄会が29日、市役所で理事会を開き、企画内容を決めた。 
 
■「八重効果」追い風に
 二本松の菊人形は昭和50年からほぼ毎年、大河ドラマを主要テーマに開催してきた。59回目の昨秋は「八重の桜」をテーマに、北は北海道、南は沖縄県と全国から多くの観光客が訪れた。 
  60回の節目と、二本松城築城600年を迎える今年は、昨年の「八重の桜」効果を追い風に、二本松の良さを全国に発信する。二本松藩や二本松少年隊、結婚100周年になる高村光太郎・智恵子夫妻といった地元にゆかりある人物や歴史に焦点を当てた内容にする。 
  展示方法も変える。これまで一体となっていた会場を(1)菊花品評大会(2)菊人形観賞(3)菊花庭園-の3会場に分ける。庭園会場は菊本来の美しさを楽しんでもらおうと、初めて設ける。ガーデニングの専門家に監修を依頼し、見せ方を工夫する。 
  会期は10月11日から11月24日の45日間とし、前回から一週間延長する。料金は据え置き、大人500円(高校生以下無料)とした。 
  会長の新野洋市長は席上「今年は節目の年。先人から伝わる良き伝統を引き継ぎ、さらに充実させるために全力を尽くす」とあいさつした。

こうした活動が、智恵子や光太郎の遺勲を後世に伝えていくよすがとなってほしいものです。
 
菊人形は昨年初めて行きましたが、今年も行かねば、と思いました。

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現地を訪れることが大きな復興支援となります。みなさんもどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月18日

昭和29年(1954)の今日、リンゴの紙絵を作りました。
 
智恵子が、ではなく、光太郎が、です。
 
晩年の光太郎と親しく接した美術史家・奥平英雄の求めに応じ、この年1月から3月にかけて書いた、「有機無機帖」と題した30ページ余りの書画帖の中の見開き2ページです。
 
同じページには詩「リンゴばたけに」。昭和22年(1947)の作です。

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007

 リンゴばたけに008
 雨ふりて
 銀のみどりの
 けむるとき
 リンゴたわゝに
 枝おもく
 沈々として
 あかきかな
 
最後の「な」(那)の字を失敗して書き直しています。
 
光太郎日記には以下の記述があります。
 
二月十八日 木 
くもり、少雨、  ストーブ、 胸像、 奥平さんの帖に揮毫、リンゴの画を切紙でつくる、洋モク、ペルメルの赤い包紙でつくる、
 
「ペルメル」は「ポールモール(PALL MALL)」。アメリカのたばこで、現在でも日本で、ほぼ変わらぬ赤いパッケージで販売されています。「洋モク」という語に懐かしさを感じるのは当方の世代で最後ではないでしょうか……。
 
さて、紙絵。明らかに智恵子のそれの影響が見て取れますね。輪郭線を墨書している点は智恵子の作品にはない特徴ですが。

「十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会」さんの運営するサイト「十和田湖奥入瀬ろまん新聞」。「奥入瀬日記」という項目があり、こまめに更新され、現地の様子等がよくわかります。
 
今月7日に始まった「十和田湖冬物語2014」の紹介などで、ライトアップされた十和田湖畔の裸婦像(通称「乙女の像」)や、今年が100周年にあたる光太郎詩「道程」などについて触れてくださっています。ありがとうございます。
 
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それから、1週間ほど前の報道ですが、青森の地方紙『デーリー東北』さんで「十和田湖冬物語」開幕が報じられています。

北東北最大級 雪と光の祭典「十和田湖冬物語」が開幕

デーリー東北新聞社 2月8日(土)9時9分配信
 
 北東北最大級の雪祭り「十和田湖冬物語」が7日、湖畔休屋の特設会場で開幕した。さまざまな雪のオブジェがイルミネーションで彩られ、一面の銀世界ときらめく光が非日常的な空間を作り出している。3月2日まで。
 陸上自衛隊八戸駐屯地が約3週間かけて制作した雪像は、ねぶたと竿灯(かんとう)がテーマで、高さ8メートル、幅23・4メートルと圧巻の迫力。オープニングセレモニーでは、関係者が雪像に点灯して開幕を祝った。
 午後8時からは呼び物の「冬花火」が打ち上げられ、色とりどりの200発が漆黒の夜空を鮮やかに照らした。花火の打ち上げは期間中、毎日行われる。
 会場には、中に入って地酒やカクテルを楽しめるかまくらや大型すべり台、温泉を利用した足湯のコーナーも登場。出店が並ぶ「ゆきあかり横丁」では青森、秋田両県の郷土料理が味わえる。

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会期は3/2(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月17日001

昭和58年(1983)の今日、疋田寛吉著『書人外書伝』が刊行されました。
 
取り上げられているのは歌人の会津八一、陶芸家の北大路魯山人、そして光太郎。専門の書家ではない三人ですが、その書は独特の光彩を放ち、書道史上、無視できないものとなっています。
 
帯に印刷された詩人・大岡信の推薦文より。
 
 世を去ってのち、ますます強い魅力を放射しつづける三書人をあえて一堂に会さしめ、三者三様の書のうちに、互いの差異を超えて貫道する書の真髄を透視し、えぐり出そうとする。(略)まことに気持のいい書の本が誕生したものだ。
 
読売新聞社刊。

福井県鯖江市からのイベント情報です。

夢みらい館・さばえフェスタ ~女と男 つなげよう ひろげよう 新たな明日へ~

◆日時◆ 2014年2月23日(日) 8:30~15:00

◆内容◆
 8:30 開場
 9:30 オープニング
  式典
  各サークル・団体発表

13:30 講演「『智恵子抄』をめぐる物語」
講師 荒井 とみよ 氏   鯖江市出身、元・大谷大学教授
※詩人・高村光太郎は、狂った妻を介護した夫でした。
その記録ともいえる『智恵子抄』は今の私たちに何を語りかけるのでしょうか。

・パネル作品展示(終日)
・バザー(なくなり次第終了します。)
 
◆お問い合せ◆
 夢みらい館・さばえ(鯖江市三六町1丁目4-20) TEL 0778-51-1722  FAX 0778-51-7830
 
 
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お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻座でフランス映画を観ました。
 
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花巻座
 
日記の記述によれば、題名は明記されていませんが、キャストがシャルル・ボワイエとダニエル・ダリューだったとのこと。
 
ここから調べてみると、昭和11年(1936)制作の「うたかたの恋」ではないかと思われます。この映画は戦前の日本では検閲により公開禁止、戦後、昭和21年(1946)になって公開されました。
 
ちなみにこの時、賢治の弟で、光太郎と親しかった宮澤清六も一緒に映画を観ています。

1/4のこのブログでご紹介しました「谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ」が開催されます。
展示:2月28日(金)~3月9日(日)
文学さんぽツアー:2日(日)、8日(土)
営 業 15:00~22:00
休廊日 4日(火)・5日(水)
観覧料 無料
作 家 emi ogura 虚狐風雅 胡子 さつかわゆん 皇流那 高橋まや 田島綾
    東マユミ 連使
企 画 カフェギャラリー幻    笠原小百合(WEB文芸誌「窓辺」編集長)
 

谷根千ゆかりの文芸作品へのトリビュート美術展

カフェギャラリー幻のある谷中・根津・千駄木(略して谷根千)界隈は、夏目漱石・森鴎外・江戸川乱歩・川端康成など、多くの文人の旧居・旧跡がある「文豪に愛された町」です。そこで、谷根千にゆかりある文人・文芸作品をモチーフとした美術展を行います。

東京国際文芸フェス正式参加

本展は「東京国際文芸フェスティバル2014」のサテライト企画です。東京が本と文芸に染まるこの10日間、ぜひあなたも本とアートと地域について考えてみませんか?
 
以下の皆さんの作品で、光太郎が取り上げられるようです。 
 
emi ogura × 高村光太郎 『智恵子抄』 emi ogura / エミ オグラ(絵画・写真)
 
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虚狐風雅 × 谷根千の文人たち  虚狐風雅 / Kogitune Fooga(絵画)
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他の出品は以下の通り。
 
胡子 × 夢野久作 『ドグラ・マグラ』     胡子 / Coco(写真)
さつかわゆん × 江戸川乱歩 『人間椅子』    さつかわゆん / Satsukawa Yun(絵画)
皇流那 × 宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』    皇流那 / Sumeragi Runa(絵画)
高橋まや × 森鴎外 『舞姫』    高橋まや / Takahashi Maya(絵画)
田島綾 × 内田百閒 『冥途』    田島綾 / Tajima Aya(写真)
東マユミ × 夏目漱石 『虞美人草』    東マユミ / Higashi Mayumi(銅版画)
連使 × 幸田露伴 『ねじくり博士』    連使 / Renshi(立体造形)
 
なかなか面白そうです。時間を見つけて行ってみるつもりでおります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月15日

昭和14年(1939)の今日、雑誌『月明』第二巻第二号に、山崎斌の「追憶」が掲載されました。
 
山崎は染色工芸家。油絵制作を断念した後の智恵子と交流がありました。
 
「追憶」には光太郎短歌
 
 ソデノトコロ一スジアヲキシマヲオリテミヤコオホヂヲカマハズアリキシ
 
が引用されました。
 
これは、前年秋の智恵子の死に際し、山崎が送った
 
 袖のところ一すぢ青きしまを織りて
 あてなりし人今はなしはや
 
への返歌です。

テレビ放映情報です

美の巨人たち 荻原碌山(守衛)『女』

BSジャパン 2014年2月19日(水)  22時54分~23時24分
 
毎回一作品にスポットを当てそこに秘められたドラマや謎を探る美術エンターテインメント番組。今日の作品は荻原碌山(守衛)『女』。天才彫刻家が追い求めた芸術の境地とは?
番組内容
今日の作品は、“東洋のロダン"と呼ばれた彫刻家・荻原碌山(守衛)作『女』。高さ98cmのブロンズ彫刻。早世した荻原碌山の遺作であり、日本近代彫刻の幕開けといわれる作品です。両手は後ろに組まれ、地面に埋まるような足。顔は天を見上げ、苦悶の表情を浮かべています。この不思議なポーズが意図するものとは…?また苦悶の表情の正体とは…?二つの運命の出会いによって生み出された天才彫刻家の最高傑作をご紹介します。
ナレーター 小林薫
音楽
<オープニング・テーマ曲> 
 「The Beauty of The Earth」 作曲:陳光榮(チャン・クォン・ウィン) 唄:ジョエル・タン 
 <エンディング・テーマ曲> 
 「終わらない旅」 西村由紀江

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1/25に地上波テレビ東京系で放映されたものです。その折は直前まで気づかず、放映前にご紹介できませんでした。

紹介・解説の部分では、連翹忌ご常連の碌山美術館学芸員・武井敏氏がご登場。ミニドラマの部分は「親友 故人荻原を偲ぶ」という題で、光太郎と戸張孤雁、そして相馬良(黒光)が、守衛の没後、思い出を語るという構成で、光太郎役は俳優の大浦龍宇一さんが演じられています。
 
地上波テレビ東京系は全国的に系列局が少ないのですが、今回はBS放送ですので全国で視聴できます。ただし、BS放送視聴の加入契約をしていないと不可能ですが。
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月14日

平成6年(1994)の今日、テレビ東京系で「日本名作ドラマ 智恵子抄」が放映されました。
 
単発の2時間ドラマでした。キャストは光太郎役は滝田栄さん、智恵子役が南果歩さん、光雲役に昨年亡くなったすまけいさん、智恵子の母・センを渡辺美佐子さん、水野葉舟で中丸新将さんなど。「智恵子抄」の映像化は何度かなされていますが、この南さんの演じた智恵子は出色だったと思います。
 
この「日本名作ドラマ」、第1期(平成5年=1993 5~9月)と第2期(同10月~平成8年3月)に分かれ、第1期は前後編各2回にわけての連ドラ枠での放送でした。森鷗外「雁」に始まり、若き日の木村拓哉さん主演の川端康成「伊豆の踊子」、夏目漱石「門」、太宰治「斜陽」などのラインナップで、こちらはVHSテープで販売もされました。
 
「智恵子抄」は、樋口一葉「にごりえ」、織田作之助「夫婦善哉」などと同じ第2期で、こちらは不定期の単発2時間ドラマとしての放映でした。第2期に関しては残念ながら映像ソフト化がされていません。当方は当時のテレビ放映を録画したものを持っていますが。

十和田レポートの最終回です。
 
2/9(日)、蔦温泉をあとにし、最後の目的地である奥入瀬渓流館さんへ向かいました。
 
同館は、(財)十和田湖ふるさと活性化公社さんによる運営で、十和田湖や奥入瀬渓流のジオラマや年表、マップなどによる名所の紹介、スキーや電動アシスト付き自転車のレンタルなどを行っています。
 
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一番の目的は、大町桂月を紹介するコーナー。ここに光太郎作の彫刻「大町桂月メダル」が展示されています。
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昭和28年(1953)10月21日、「十和田湖畔の001裸婦像」(通称「乙女の像」)除幕式に際し、関係者に配布されたものです。直径は約12㌢。おそらく当時のものと思われるケースも付いています。
 
150個鋳造されましたが、大半は行方不明となっており、十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一さん曰く、地元では4個ぐらいしか所在が確認できていないとのこと。
 
昨年、全国3館で巡回開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」では、高村家に保存されている石膏原型が並びましたし、以前に開催された同様の企画展でも、やはり石膏原型が展示されています。当方、鋳造されたものはおそらく初めて見ました。
 
昭和28年(1953)の光太郎日記には、8月にこのメダルの制作を始め、9月には完成したこと、アトリエを訪れた桂月の子息が「亡父によく似ている」と語ったことなどが記されています。

ちなみに当方、青森市の青森県近代文学館さんに所蔵されていることは知っていました。

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この後に取りかかった「倉田雲平胸像」は未完のまま絶作となったため、完成した彫刻としては、このメダルが光太郎最後の彫刻作品です。そう思ってみると、改めて感慨深いものがありました。
 
ただ、光太郎作であるなどのキャプションが特についておらず、「そういう説明があった方がいいですね」と申し上げたところ、当方が書くことになり、早速昨日、メールにて送信しました。そのうちに添えられると思います。
 
その後、館内を見学。
 
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元プロレスラーという、起田高志さんがインストラクターを務めるコケ玉作り体験コーナー。親子連れがチャレンジしていました。起田さんは、昨年、それからつい最近も再放送でオンエアされたNHKBSのテレビ番組「発見!体感!川紀行」で紹介されていました。
 
また、奥入瀬渓流は非常に珍しいコケが群生しているとのことで、最近は「苔ガール」なる女性がたくさん出没しているそうです。
 
さらに館内で土産物を購入。
 
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土産物といえば、前夜、十和田湖冬物語の会場ではこんなものも買いました。
 
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十和田湖限定・乙女の像のご当地キティちゃんストラップです。
 
その後、山一さんの運転する車で七戸十和田駅へ。名残を惜しみつつ帰途に就きました。今回も非常に有意義な旅でした。お世話になりました山一さん、山田さん、吉崎さん、木村さん、小笠原さん、起田さん、山本さん、ありがとうございました。
 
ただ、豪雪のため行けなかった所もあり、また、他の季節の様相もじっくり見てみたいと思っています。また、十和田市としての事業のお手伝いもすることになりそうですので、また近々お邪魔することになりそうです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月13日

昭和28年(1953)の今日、各地に預けていた智恵子の紙絵のほとんどが、光太郎のもとに戻りました。
 
戦時中、空襲による被害を想定し、光太郎は智恵子遺作の紙絵千点余を、知人を頼って山形、花巻、茨城取手の三箇所に分けて疎開させました。中央公論社画廊で開かれた紙絵展に合わせ、各所に寄贈された若干の作品を除き、それらが再び光太郎のもとにもどったというわけです。

十和田レポートの3回目です。
 
一夜明けて2/9(日)朝、前日も御案内くださった十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが、やはり観光ボランティアの木村さんとともに、車で迎えに来てくださいました。
 
この日の目的地は2箇所。まずは蔦温泉さんに向かいました。
 
「十和田湖畔の裸婦像」(通称「乙女の像」)は、十和田湖周辺が国立公園に指定されてから15周年の記念に、当地の景勝を紀行文で広く世に紹介した作家の大町桂月、道路整備等に腐心した元県知事の武田千代三郎、同じく元法奥沢村村長・小笠原耕一の、いわゆる「十和田の三恩人」顕彰のために作られたものです。
 
蔦温泉さんはその「三恩人」と縁が深く、特に大町桂月は蔦温泉さんに長く逗留、その最期も蔦温泉で迎えました。そのため桂月の墓がここ、蔦温泉にあります。また、昭和27年(1952)6月、裸婦像制作のための下見に訪れた光太郎も、蔦温泉さんに宿泊し、桂月の墓に詣でたりしています。
 
この日は前日、東京に45年ぶりの大雪をもたらした低気圧が北上、当地が大雪に見舞われました。たどり着いた蔦温泉さんもすっぽり雪に覆われていました。
 
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旅館は臨時休業中、桂月の墓も豪雪のため行くことができませんでした。
 
旅館に隣接する蔦温泉売店さんは開いていました。後で思えば、もしかすると当方一行のため開けてくださっていたのかもしれません。予定の中に、こちらのご主人・小笠原哲男氏にお話を伺う時間が設けてありましたので。
 
小笠原氏は十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の会長さんで、青森在住の彫刻家・田村進氏のお兄様にあたられます。田村氏は光太郎忌日の連翹忌の集いにもご参加いただいたことがあり、昨年の連翹忌では、氏の近作・光太郎肖像レリーフの巨大画像を会場内に展示させていただきました。
 
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さらに最近は光太郎胸像の制作にもかかられているとのこと。また、氏は北津軽郡小泊村の「小説「津軽」の像記念館」さんにある太宰治と子守のタケの銅像を作られた方です。
 
小笠原氏には往時の蔦温泉さんや、裸婦像建立に関する貴重なお話を伺うことができ、ありがたいかぎりでした。旅館の内部や桂月の墓を見られなかったのが残念でしたが、また陽気のいい時に訪れようと思っています。
 
蔦温泉さんを後に、次なる目的地、奥入瀬渓流館さんへと向かいました。そちらについてはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月12日

昭和24年(1949)の今日、岩手県笹間村の高橋澄子からの手紙を受けとりました。
 
笹間村は花巻市に編入され、「中笹間」「北笹間」といった地区名にその名残をとどめています。光太郎が暮らしていた旧太田村山口ともそう遠くない場所です。
 
昭和24年(1949)の光太郎の日記は、その存在が類推されながら、失われています。ただ、日記とは別に「通信事項」というノートが残されており、『高村光太郎全集』第13巻に収められています。それによると昭和24年2月12日に「高橋澄子といふ人よりテカミ(笹間村)」という記述があります。さらに2月14日には「高橋澄子さんへ返ハカキ(笹間村)」とも。
 
この返信の方が、一昨年でしたか、高橋澄子のご遺族から花巻の財団法人高村記念会に寄贈され、昨年、当方編集の「光太郎遺珠⑧」に掲載させていただきました。
 
おてがみ拝見いたしましたが、どういふわけか大変遅れてつきまして 小生入手は十二日でありましたので、十三日といふお話の日までに御返事出来ず、失礼いたしました。
いつに限らずおいで下されば小生在宅の時にはどなたにでもお目にかかります。
 右おくればせながら御返事まで
            二月十四日
                        高村光太郎
 笹間村
  高橋澄子様
 
「通信事項」には「ハカキ」とありましたが、封書でした。現在、花巻の高村光太郎記念館に展示されています。
 
ただ、光太郎が受けとった方の書簡を見ていないので、どういった事情なのかがわかりません。ご遺族の方もわからないとのこと。
 
情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

十和田レポートの2回目です。
 
2/8(土)、夕刻、十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが運転する車で、十和田湖畔・休屋に到着しました。
 
こちらの多目的広場的スペースで、7日(金)から「十和田湖冬物語2014」が開催されています。
 
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一言で言えば、十和田湖の冬を愉しもうというイベントです。
 
この機会に光太郎作の彫刻、十和田湖畔の裸婦群像・通称「乙女の像」を久しぶりに見てみたいと思い、行ってみた次第です。「十和田湖冬物語2014」期間中は、夕方から夜にかけ、ライトアップがされているとのこと。
 
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会場の駐車場に車を駐め、十和田湖自然ガイドクラブ会長の吉崎明子さんと合流、乙女の像目ざして歩きました。
 
湖畔の波打ち際は、雪と氷で幻想的な雰囲気になっていました。
 
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歩くこと10分弱、乙女の像にたどり着きました。
 
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雪を固めて作ったたくさんの灯籠に電球がともされ、像には2方向からスポットライト。すっかり日の暮れた空に浮かびあがっています。
 
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この像と対面するのは約20年ぶり。感動しました。
 
この像には約2分の1スケールの中型試作があり、昨年、全国3ヶ所巡回で開かれた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に展示された他、花巻の高村光太郎記念館、福島二本松の智恵子記念館にも収蔵されており、昨年だけで10回以上見ました。
 
しかし、やはり2分の1スケールの中型試作とは、まったく迫力が違いますね。
 
この像を謳った光太郎の詩に、次の作品があります。
 
   十和田湖畔の裸像に与ふ001

銅とスズとの合金が立つてゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひがない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立つてゐる
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪へて
立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。
 
約20年前に初めて見た時も感動しましたが、その時は夏の昼間。今回、冬の黄昏に浮かび上がるその姿は、まさに「天然四元の平手打をまともにうけ」ているように見え、この詩句が実感できました。
 
ちなみに像のかたわらにはこの詩を刻んだ詩碑も建てられていす。
 
名残惜しいと思いつつ、心の中で再訪を誓い、乙女の像をあとにしました。帰りは十和田神社の境内を通って、「十和田湖冬物語」会場へ。
 
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札幌雪祭りと同じように、巨大な雪像が作られています。やはり札幌同様、自衛隊さんによるもので、雪を使っての築城訓練の一環という位置づけだと思います。
 
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会場内にはプレハブの飲食店が軒を並べ、最近、B級グルメとして注目を浴びている「十和田バラ焼き」などが売られています。当方、うどんにおでん、ヒメマスの塩焼き、さらに「乙女餅」なるものを食べました(お代は山一さん、吉崎さんにもって頂いてしまいました。ありがたや。)
 
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さらに天然温泉を引いてきての足湯(100円)もあり、冷えた体にありがたいものでした。
 
この日は7時30から特設ステージで津軽三味線や和太鼓の演奏などがあり、さらに8時からは花火。そのころになると、来場者も数百人、ことによると1000人近く集まっていたのではないかと思われました。

002

 
花火を見終わったところで、吉崎さんに別れを告げ、山一さんの運転で、奥入瀬の宿まで送って頂きました。ゆっくりと温泉につかり、就寝。
 
確かに寒いのは寒いのですが、雪国の人々のエネルギー的なものを感じました。「十和田湖冬物語」、3月2日まで開催されています。ぜひ足をお運び下さい。
 
続きはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月11日

明治22年(1889)の今日、大日本帝国憲法が発布されました。
 
宮中正殿での発布式のあと、明治天皇は青山練兵場で行われる観兵式に向かうため、馬車で市中に出ました。この日の東京も雪だったそうです。
 
その時のことを謳った光太郎の詩があります。
 
   土下座(憲法発布)007
 
誰かの背なかにおぶさってゐた
上野の山は人で埋まり、
そのあたまの上から私は見た。
人払をしたまんなかの雪道に
騎兵が二列に進んでくるのを。
誰かは私をおぶったまま、
人波をこじあけて一番前へ無理に出た。
私は下におろされた。
みんな土下座をするのである。
騎兵巡査の馬の蹄が、
あたまの前で雪を蹴つた。
箱馬車がいくつか通り、
少しおいて、
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手につよく押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした
――眼がつぶれるぞ――
 
この詩が発表されたのは昭和22年(1947)。太平洋戦争中、空虚な戦意昂揚の詩を大量に書き殴って、多くの前途有望な若者を死地へ追いやったという反省から書いた20篇から成る連作詩「暗愚小伝」の冒頭を飾る詩です。
 
この時、数え7歳の光太郎の頭を押さえつけ、「眼がつぶれるぞ」と言ったのは誰でしょうか。父・光雲、祖父・兼吉、あるいは光雲の弟子の誰かでしょうか。そうい具体的な人物、というよりは、この頃の光太郎を取り巻いていた「明治」の空気の象徴、と捉えた方がいいのかも知れません。

一昨日、昨日と、1泊2日で青森は十和田方面に行って参りました。今日からそのレポートを致します。
 
東京駅午前11:00発の東北新幹線はやぶさに乗り込み、七戸十和田駅に着いたのは午後14:12。新幹線が新青森まで延伸され、青森もぐっと近くなりました。
 
七戸十和田駅には、十和田・奥入瀬渓流認定ガイドの山一清一さんが待っていて下さいました。昨秋、青森テレビの皆さんと一緒に、千駄木の高村家、北川太一先生邸に御案内した際のメンバーのお一人です。
 
事前に、同じく千駄木に同行された十和田市役所民生部まちづくり支援課の山本課長補佐に、十和田に行く旨をお伝えしましたところ、詳細な行動計画を作って下さり、しかも現地での移動は山本氏の四駆のワゴン車、運転は山一さんというVIP待遇でした。当初予定では山本氏の運転で御案内下さるはずでしたが、氏がインフルエンザでダウン、変わって山一氏が案内役を買って出て下さいました。
 
まずは奥州街道沿いに十和田市街へ。
 
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当然と言えば当然なのですが、奥州街道は国道4号線です。国道4号といえば、都内では日光街道。当方の出身大学そばを走っているので、学生時代は車やバイクでうろついていましたし、最近も福島二本松でよく走る道でして、青森の方には怒られそうですが、「こんなところまで4号線がのびているのか」と、変な感動をしてしまいました。
 
さて、最初に寄ったのは、十和田市現代美術館さん。最近、十和田市は、この館を中心に現代アートの街としても徐々に有名になってきました。

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当方、美術館に行くことは多いのですが、やはり光太郎がらみで近代の作品に接することが多く、現代アートは不案内です。そういう意味では現代の作品の数々は新鮮でした。
 
その後、国道102号で奥入瀬方面へ。宿は焼山という地区にある十和田湖温泉郷内で、一旦チェックインし、荷物を置くために立ち寄りました。行くまで気がつかなかったのですが、すぐ近くに十和田湖温泉スキー場というのがありました。それだけに雪はやはり深く、山一さんがスキー場で借りて下さった長靴が役に立ちました。
 
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車は奥入瀬渓流沿いに十和田湖方面へ。途中、銚子大滝に寄っていただきました。ここには、昭和28年(1953)10月21日、光太郎の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)と同じ日に除幕された佐藤春夫の詩碑があります。
 
こちらの除幕式が午前中、午後が乙女の像の除幕式で、光太郎は両方に参加しました。昨秋、その時の映像をお送りいただき、非常に驚いたものです。
 
春夫の詩碑はすっかり雪に埋もれており、そうと教えていただかなければ、どこにあるのかも解らない状況でした。 

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ただ、たとえ雪に埋まっていなくても、現在では碑面がすっかり苔むしていて、ほとんど読めないとのこと。その苔も国立公園内の風物の保護を目的とした自然公園法の規定により、勝手にはがせないそうです。
 
そして車はいよいよ十和田湖畔に。子の口、宇樽部を過ぎ、休屋地区へと向かいます。こちらで先週金曜日から行われている「十和田湖冬物語2014」というイベントが、今回の十和田行きの大きな目的の一つでした。
 
そちらについては、また明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月10日

明治45年(1912)の今日、日本橋大伝馬町の三州屋で開かれた「パンの会」に参加しました。
 
明治42年(1909)に3年余の欧米留学から帰朝した光太郎は、『スバル』執筆者の面々を中心に巻き起こっていた「パンの会」の喧噪に巻き込まれました。
 
「パンの会」とは、フランスのカフェ・ゲルボア(サロンからしめ出されたマネを中心に集まった、若い文学者と美術家達のカフェ文芸運動)を模して始められたもので、東京をパリに、隅田川をセーヌ川に見立て、エキゾチシズムを求めた耽美主義的芸術運動です。その名称はドイツの総合雑誌『パン』を中心にして起こった芸術運動「パンの会」に由来します。「パン」とはギリシャ神話の牧羊神の名ですが、大逆事件で過敏になっていた日本の当局は「麺麭(パン)」を要求する社会主義者の集まりかと警戒したという逸話があるそうです。
 
その狂瀾も長くは続かず、徐々に退屈なものとなって「パンの会」は終焉します。

先程、十和田から帰って参りました。001
 
昨日の東京は45年ぶりの大雪ということで、心配していた「十和田にたどり着けるか?」という懸念はまったくの杞憂に終わり、予定通りに到着。現地では現地の様々な皆さんにお世話になり、非常に有意義な十和田紀行でした。

しかし、問題は帰りでした。東京駅までは東北新幹線、ほぼ時間通りに帰ってくることが出来ましたが、東京駅から普段使っている高速バスが今日は全面運休。しかたなく電車に乗ったのですが、途中で何度も立ち往生し、結局、千葉県香取市の自宅に着くまで、東京駅から5時間かかりました。普通なら往復してもおつりが来る時間です。
 
正直、疲れました。
 
十和田レポートは明日以降、詳しく掲載します。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月9日

大正3年(1914)の今日、詩「道程」の原型を執筆しました。
 
原型は翌月刊行された雑誌『美の廃墟』に掲載されました。その段階では、何と102行もある長大な詩でした。それが約7ヶ月後に詩集『道程』に収められる際に、ばっさり削られ、僅か9行に圧縮されました。
 
ここでは、ちょうど100年前の今日執筆された、102行の原型をご紹介します。コピペ等で使うのは結構ですが、勝手に表記を変えないでください。テキトーなところで一行空きを作ったり、書いていない場所にルビを振ったりなどはご遠慮下さい。
 
  道程
 
どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められたあの道
幼い苦悩にもみつぶされたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
支離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
このさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
僕をひき廻しては眼をはぢき
もう此処と思ふところで
さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
とうとう自分をつかまへたのだ
恰度その時事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光りを放射し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなっつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつてゐた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところに立ちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
僕はその時又父にいのる
父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程の為め

1/25のこのブログでご紹介した写真展「昭和初期の赤城山を見る」。先週開幕し、『東京新聞』さんなどで報道されています。

昭和初期の赤城山たどる 前橋で写真展 猪谷六合雄の孫 保管の95枚

 昭和初頭の赤城山の情景をモノ001クロ写真でたどる「昭和初期の赤城山を見る」が赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町)で開かれている。赤城山にゆかりが深く、日本スキー界の草分けとして知られた猪谷六合雄(いがやくにお)の孫が保管していた写真で、まとまった形で公開するのは初めて。 
 
 企画したNPO法人赤城自然塾の小林善紀事務局長は「撮影の時期や場所もはっきりした貴重な資料で、環境学習に生かしたい」と話す。
 
 写真は昭和五(一九三〇)年から同八年の撮影で、一冊の写真帳に九十五枚が収められていた。「早春残雪ノ小沼平 昭和六・五月初」などと、それぞれ台紙に場所、年月を記している。写真の一部に「IGAYA MT.AKAGI JAPAN」の刻印があるが、このころ六合雄は群馬を離れており、親族の撮影との見方もある。
 
 展示には、赤城大沼付近にあった軍馬を育成する牧場や、あちこちで起きていた「ゾロ」と呼ばれる山肌崩壊をとらえた写真がある。戦後、牧場が閉じられると樹木が覆い、砂防ダムの建設でゾロが抑えられた。写真展を監修した東京福祉大大学院の栗原久教授は「数十年で植生や環境が変わったことが分かる」と話す。
 
 旧赤城神社の立派な社殿の写真もあり、住民が赤城山を敬っていたことも読み取れる。
 
 写真帳は猪谷の孫でセンター職員だった小竹恵美子さん(66)=前橋市=が十五年ほど前、父猪谷孟夫さんの遺品から見つけた。小竹さんが自然塾での依頼講演で紹介すると、「多くの人に見てもらうべきだ」と勧められた。運用を任された塾が中部県民局中部行政事務所の協力で写真展にこぎ着けた。
 
 栗原さん、小林さんは「撮影場所をたどる環境ツアーの開催など展示以外でも生かしたい」と話す。
 
 写真展はセンターが七日まで、十二日~三月七日が県前橋合同庁舎(同市上細井町、土日は閉庁)、三月十~十七日が前橋プラザ元気21(同市本町)。二月十三日午後一時半から、同合同庁舎で栗原さんの講演会(先着百人、無料)がある。申し込みは中部行政事務所=ファクス027(234)9333、問い合わせは、同=電027(231)2765=へ。
 
 <猪谷六合雄> 1890~1986年。旧富士見村出身。赤城山で旅館経営に携わり、スキーを愛し指導に取り組んだ。国際オリンピック委員会委員も務めた息子の千春氏は、1956年のコルチナ・ダンペッツォ五輪(イタリア)のアルペン競技(回転)で日本人初の冬季五輪メダリストとなった。小説家の志賀直哉、詩人・彫刻家の高村光太郎らとも交流した
 
ちょうどソチ五輪が開幕しましたが、猪谷六合雄の子息・千春氏は日本人初の冬季五輪メダリストなのですね。ちなみに氏がメダルを獲得したコルチナ・ダンペッツォ五輪は昭和31年(1956)1月26日から2月5日までということで、光太郎は余命あと2ヶ月、ほぼ寝たきりの時期でした。光太郎、千春氏の活躍を知っていたのでしょうか。
 
この記事を書いている今、午前0時をまわって、日付が変わったばかりです。今日から1泊2日で十和田に行って参ります。雪の青森はどんなものなのだろう、と思っていましたら、今日明日と、関東でも大雪という予報。在来線の特急はもう運休が決まっているとのこと。十和田まで予定通りたどりつけるか心配です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月8日

明治44年(1911)の今日、実質的に光太郎が経営していた日本初といわれる画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、与謝野晶子の短冊が売れました。
 
値段は10銭。この日に限らず、晶子の短冊は琅玕洞の人気商品の一つでした。今も時折古書市場で晶子の短冊を見かけますが、中には琅玕洞経由で売られたものも含まれていると考えられます。

昨日は、スキーと智恵子について書きました。
 
それでは、光太郎とスキーの関わりは、というと、次のような記録が残っています。
 
昭和37年(1962)、筑摩書房から初版が刊行され、011花巻の高村記念会で増刷された『高村光太郎山居七年』という書籍があります。編集は佐藤隆房。題名の通り、昭和20年(1945)から同27年(1952)にいたる、光太郎の花巻生活を、当時を知る人々の証言などによって記録したものです。
 
その中で、旧太田村の山小屋近くに住んでいた駿河定見氏の証言を元に書かれた部分が、以下の通りです。
 
定見さんは、スキーが上手で県の代表になって東北大会に出場したこともあり、小屋に行く時も冬はスキーで出かけます。それをみて先生は
「僕もスキーをやりたいんだが」
「先生、はいてみませんか……先生、できますか。」
「イヤー、やったらできそうだが、だが僕は足が大きいから、足にあわせてその金具を作らなければだめなんです。」
「スキーの山歩きは、峯から峯へと跳びまわりますのでとても痛快です。」
「あすこの山の上から降りてみなさい。」
 定見さんは、上からかなりのスピードで木の間を自由にカーブして裾の方まで辷りました。
「うまいですね。見ていても自分が走っているみたいな気になりますよ。」
 先生はスキーが欲しいと思ったようでしたが、定見さんは体のことを心配してそれ程すすめはしませんでした。
 
これは昭和22年(1947)のことだそうですが、翌23年(1948)の日記では、光太郎自身が次のように書いています。
 
午后サダミさんスキーで来訪、暫時談話、ガンジー暗殺されし由、初めてきく。山口部落の高須需(モトム)さんといふ人は日本スキー界の第一人者の由、その人にスキーをなほしてもらつたとサダミさんいふ。九左衛門さん宅の隣家の由。来年は余もスキーを入手したき旨語る、
 
先日のブログにも書きましたが、光太郎の住んでいた山小屋周辺は、この季節、クロスカントリースキーの練習コースになっています。
 
そういう場所での生活の中で、レジャーというより、必要に迫られてスキーに取り組むつもりがあったようです。ただ、年齢的なこと、健康上の懸念、そして光太郎自身言っていたような足の大きさの問題などから断念したようです。それにしても、齢60代後半にして、スキーを覚えようと考えた意欲には敬意を表さざるを得ませんね。
 
さて、いよいよ今日はソチオリンピックの開幕です。すでに開幕前から各競技の予選が始まっています。日本代表スキー選手のみなさんにも、ぜひ活躍してほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月7日

明治42年(1909)の今日、パリから親友の水野葉舟に宛てた書簡が『読売新聞』に掲載されました。
 
一部抜粋しましょう。
 
 さて僕がLondonからParisに来て既に半年はたつた。仏蘭西といふ国の真価が外見よりも遙かに大なのにも驚いたし、一般の国民が他国に比して確かに一歩進んだ地盤に立つて居るのにも感心した。仏蘭西に斯かる文芸の出来るのも不思議は更に無い。よく人が仏蘭西の美術も漸く衰へて、此から遠からず世界の美術の中心が亜米利加の方へ移るだらうなどゝいふが、其の言の誤つて居るのは来てみると直ぐに解る。仏蘭西の美術は漸く衰へる所では無い。此れから益々発展しやうとして居るのだ。
 僕も国を出てから彼是三年近くになる。今日までの研究で漸く根本の研究に会得する所があつたと信じて居る。今年あたりから自分の製作を追々と製作して見やうと思つて去年から此の大きなAtlierを借り込んで居たのだ。

昨日のブログでは、明治末から光太郎がスケートに興じていたことについて書きました。
 
それでは一方、智恵子はどうだったのでしょうか。
 
智恵子はスケートではなくスキーに興じていたという記録が残っています。
 
平成11年(1999)、『新潟日報』に載った若月忠信氏による「新潟名作慕情 高村智恵子-新潟ゆかりの写真」を参照させていただきます。
 
時に大正2年(1913)1月から2月にかけ、智恵子は日本女子大学校時代の友人、旗野スミ(「すみ」「澄」あるいは「澄子」とも表記)の実家、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島に滞在していました。光太郎との婚約直前です。
 
スミの姉・ヤヱは日本女子大学校で智恵子と同期入学、のちに妹のスミも同校に入学、姉妹で智恵子と交友を深めていました。しかしヤヱは明治40年(1907)に急逝。以後も、スミと智恵子の交友は続きます。そうした中で、智恵子の旗野家逗留が実現しました。
 
ちなみに智恵子の祖父・長沼次助の出自は同じ新潟の南蒲原郡田上町。そのあたりの関わりもあったかも知れません。その後、大正5年(1916)にも智恵子は旗野家を訪れており、その際の写真が残っています。
 
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前列左端が智恵子、後列中央がスミです。
 
旗野家は地元の名家で、当主の美乃里(ヤヱ・スミの兄)は東京専門学校(現・早稲田大学)卒、欧米留学の経験もあり、当地の酪農の先駆者だったそうです。一族には歴史学者、地理学者の吉田東伍、政治家、随筆家の市島春城がいました。上記写真にも吉田や市島の子供が写っています。
 
雑誌『春秋』の昭和52年(1977)4月号に載ったスミの「智恵子回想」から。
 
冬は積雪の多いところで、何尺かはいつも積っておりました。高田に日本ではじめてスキーが来た頃で、兄は冬仕事の足のために男衆を連れて習いに行ってきたのです。もちろん女などやったものではありません。そのスキーを持ち出して、私達はずいぶん滑りました。モンペに赤いセーターを着て。大きな原っぱで人通りもありませんので、私たちの滑っている姿を見かけたあのあたりの人が、バケモノが出るといって騒いだというこっけいなお話もあります。あんまり熱心なので、朝起きると体中が痛み、首が動かないほどでしたが、それでも一冬よくやりました。
 
「高田」云々は、「フリー百科事典ウィキペディア」によれば、
 
1911年(明治44年)1月12日に新潟県中頸城郡高田町(現在の新潟県上越市)において、オーストリア陸軍少佐(オーストリア=ハンガリー帝国時代)のテオドール・エードラー・フォン・レルヒが陸軍第13師団歩兵第58連隊の営庭を利用し、堀内文次郎連隊長や鶴見宜信大尉らスキー専修員に技術を伝授したことが、日本に於ける本格的なスキー普及の第一歩とされている。(これが我が国におけるスキー発祥と言われている。)また、これにちなみ毎年1月12日が「スキーの日」とされている。
 
とのことです。
 
それから3年しか経っておらず、光太郎のスケート同様、智恵子のスキーも、日本人として先駆の部類にはいると思います。しかも女性。さすがにテニスや乗馬、自転車、バスケットボールなどにいち早く取り組んだ智恵子ですね。
 
ちなみに智恵子が新潟でスキーに興じていた頃、光太郎が新潟の智恵子に送った手紙が現存しており、光太郎から智恵子への唯一のラブレターとして、昨年の今日、NHKさんの「探検バクモン」で紹介されました。
 
旗野邸は、併設された吉田東伍記念博物館とともに現存しているとのこと。いずれ行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月6日

昭和29年(1954)の今日、未完のまま絶作となった彫刻「倉田雲平胸像」の制作を開始しました。
 
倉田はその当時既に故人でしたが、「つちやたび」という会社を興した人物です。同社は日華ゴム、月星化成と社名を変え、現在はムーンスター。運動靴メーカーとして有名ですね。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月5日

大正14年(1925)の今日、『東京朝日新聞』に詩「氷上戯技」が掲載されました。
 
まもなくソチオリンピックが開幕します。日本選手の皆さんの活躍に期待したいものです。

010

 
さて、先週土曜日の『長野日報』さんの一面コラム、「八面観」です。
 
 1998年の長野冬季五輪の会場にもなった長野市エムウェーブできょうから、全国中学校スケート大会のスピードスケート競技が始まる。ソチ五輪開幕が間近に迫り、冬季競技への関心は高い。五輪選手に負けない滑りを期待したい
 
▼全中スケート大会は2008年から長野市を会場に開いている。34回を数える今大会には県内42校から108人が出場する。世界のトップ選手が争った五輪施設を舞台に4日まで、将来の日本のスケート界を背負って立つ全国各地の中学生選手が熱戦を繰り広げる
 
▼先月の県大会では、女子の500メートルで平澤春佳さん、1000メートルで松本芽依さん(ともに伊那東部)が優勝した。昨季全中で短距離2冠に輝いた同じ宮田クラブの先輩山田梨央さん(伊那西高、諏訪西中出)に続く優勝を目指すという全国大会での滑りが楽しみだ
 
▼五輪期間の7~9日には茅野市運動公園国際スケートセンターでスピードスケートの全日本ジュニア選手権がある。国際舞台への登竜門となる大会。応援に来る子どもたちもレベルの高いレースを見て刺激を受けることだろう
 
▼〈たたけばきいんと音のするあのガラス張りの空気を破って、隼よりもほそく研いだこの身を投げて、飛ばう、すべらう、足をあげてきりきりと舞はう…〉。高村光太郎の詩「氷上戯技」の一節だ。オリンピックイヤーの今季は、冬季競技の観戦に一段と熱が入りそうだ。

引用されている「氷上戯技」、全文は以下の通りです。
 
   氷上戯技
 
 さあ行かう、あの七里四方の氷の上へ。
          ヽ ヽ ヽ
 たたけばきいんと音のする
 あのガラス張の空気を破つて、
 隼よりもほそく研いだ此の身を投げて、
 飛ばう、
 すべらう、
 足をあげてきりきりと舞はう。
 此の世でおれに許された、たつた一つの快速力に、
  かのこ
 鹿子まだらの朝日をつかまう、
 東方の碧洛を平手でうたう。
 真一文字に風に乗つて、
 もつと、もつと、もつと、もつと、
 突きめくつて
 見えなくならう。
 見えないところでゆつくりと
 氷上に大きな字を書かう。
 
89年前の今日、『東京朝日新聞』に掲載された時点では、最終行の句点が読点で、さらにもう一行ありました。
                               ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 
 誰にもよめる、誰にもよめないへへののもへじを。
 
その後、削除されています。
 
いったいに光太郎は一度発表した詩でも、自分の詩集に再録する際などにかなり手を加えることがあり、それだけ詩語にこだわりを持っていたことがよくわかります。
 
また、光太郎の詩は、多少の誇張や脚色はあるのでしょうが、基本的に実体験に基づいたものがほとんどです。
 
戦時中も、他の詩人はまるで見てきたように戦闘や軍隊生活を題材にした「軍歌」を書きましたが、光太郎にはそういった作品はほとんどなく、銃後の国民の立場で詩を書いていました。
 
となると、この「氷上戯技」も実体験なのでしょうか。おそらくその通りだと思います。「氷上戯技」の翌年、大正15年(1926)に雑誌『詩神』に掲載された談話筆記、『〔生活を語る〕』(原題「高村光太郎氏の生活」)には、以下の記述があります。
 
△運動は見るのが好きだが自分ではしない。やるのは氷滑りぐらゐ。
 
また、『高村光太郎全集』別巻所収の年譜では、明治41年(1908)の項に次の記述があります。
 
この頃光太郎はフランス語の勉強を急ぎ、マンドリンやピアノを習い、時にスケートに興じ、ビールの味を覚えたりする。
 
「この頃」は、留学でのロンドン滞在中を指します。残念ながら光太郎自身の書いたものに、ロンドンでスケートに興じていたという記述が見あたらないようなのですが、年譜を書かれた北川太一先生、おそらく光太郎から直接そういう話をお聞きになっていたのではないかと推定されます。
 
「フリー百科事典ウィキペディア」によれば、日本でスケートが広く行われるようになったのは、大正になってから。明治末には仙台あたりで、旧制第二高等学校(現・東北大学)の生徒がドイツ人教師にフィギュアスケートを教わったという話ですが、広まったのはもう少し後のようです。
 
そう考えると、光太郎が明治末にスケートに興じていたというのは、日本人の中ではかなり早いほうだと考えられます。
 
さらに言うなら、「氷上戯技」中の「足をあげてきりきりと舞はう。」「見えないところでゆつくりと/氷上に大きな字を書かう。」あたりは、スピードスケートよりフィギュアスケート系のように思われます。明治末にはフィギュアスケートは「描形氷滑」と訳されていたそうです。
 
さすがにトリプルアクセルとか四回転サルコーなどは出来なかったのでしょうが(笑)、光太郎の新進性には舌を巻きます。今ひとつ、イメージが結びつきにくいのですが……。
 
ちなみに「氷上戯技」、4年前のバンクーバー五輪の際には、『朝日新聞』さんの「天声人語」で引用されていました。
 
 どこの湖の冬だろう、彫刻家で詩人の高村光太郎に「氷上戯技」という短い詩がある。〈さあ行こう、あの七里四方の氷の上へ/たたけばきいんと音のする/あのガラス張りの空気を破って/隼よりもほそく研いだこの身を投げて/飛ぼう/すべろう〉

 昔の少年たちの歓声が聞こえるようだ。時代は違うが、この2人も冬には、氷雪と戯れる子ども時代を過ごしたのかと想像した。スピードスケート500メートルで銀メダルを手にした長島圭一郎選手と、銅の加藤条治選手である。
(以下略)
 
もうすぐソチ五輪。フィギュアもスピードも、日本選手の健闘を期待します!

年2回、当方が刊行している手作りの冊子、『光太郎資料』。その41集を脱稿しました。
 
以前にも解説しましたが、この『光太郎資料』、元々は昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、高村光太郎記念会事務局長の北川太一先生が第36集まで刊行されていたものですが、その名跡をお譲りいただきました。当方が刊行し始めた第37集から数えて5冊目の刊行ということになります。
 
昨秋、第40集を刊行した際には、『岩手日日』さんでご紹介いただきました。

毎回、6本ほどの記事を連載形式で載せています。
 
「光太郎遺珠」から
高村光太郎研究会から刊行されている別誌『高村光太郎研究』の連載として、筑摩書房から刊行された増補版『高村光太郎全集』補遺作品を「光太郎遺珠」の題でまとめていますが、そちらは新たに見つかったものをその都度出している形です。そこで、テーマや関連事項ごとに分類、再構築し、画像や関連資料を交え、紹介しているものです。
 
今回は「造形作家として(三) 昭和・戦時」と題し、光太郎の彫刻や絵画の造形作家としての側面を表すもののうち、太平洋戦争前夜の昭和16年(1941)から、戦時中のものを紹介しました。
 「文部省へ 美の問題の統一」 (遺珠⑦所収) 昭和16年(1941)
 「書簡三二一八 平櫛田中宛」 (遺珠②所収) 同
 「菊池寛・尾崎士郎・高村光太郎文化鼎談」 (遺珠⑤所収) 同
 「飛行機の美」 (遺珠⑤所収) 昭和18年(1943)
 「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひされ」 (遺珠⑦所収) 同
 「火を噴く“神州の怒り” 征け・不退転の道 逞しき素朴美で敵撃滅」 (遺珠⑦所収) 昭和19年(1944)
 「書簡三二五二 内山義郎宛」 (遺珠④所収) 同
 「書簡三一五四 清水房之丞宛」 (遺珠①所収)昭和20年(1945)
 「彫刻について」(遺珠⑨掲載予定) 昭和15年(1940)前号補遺
 
光太郎回想・訪問記 上田静栄歌文集『こころの押花』より
あまり多くない、大正初期の光太郎・智恵子回想です。
 
光雲談話筆記集成   浅草の話(上) 『漫談 江戸は過ぎる』より
 
昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第五回 福島高等女学校(福島)
先般、福島に調査に行つた際の成果も記しました。
 
音楽・レコードに見る光太郎 「こどもの報告」(一)
昭和14年(1939)、「文部科学省選定日本国民歌」の一つとして作られた光太郎作詞の歌曲に関しての論考です。
 
高村光太郎初出索引(五) た行(二)
 
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このあと、地元の印刷屋さんで印刷をしていただき、綴じ込みは自分で行います。上記はワープロソフトの画面をプリントスクリーン機能で取り込みましたので、カラーですが、印刷はモノクロです。
 
4/2の連翹忌にご参加いただける方には当日、会場でお渡しします。当会名簿に載っている方で、連翹忌にご欠席の場合はのちほど郵送します。
 
ご希望の方には送料のみ(80円)でお分けしています。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。37集からのバックナンバーも僅かながら残っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月4日

昭和2年(1927)の今日、書肆アルスの松本弘二に葉書を書きました。
 
この年4月にアルスから刊行された評伝『ロダン』に関わります。
 
お葉書及ゲラ刷落手、
今度は絶体絶命の気でやつてゐますが、まだ 三四十枚のこつてゐます、
今夜中にあぶない懸念が あります、
少し頭の運転が悪くなりました、毎日殆と徹夜です。
 
ゲラの校正に悪戦苦闘しているという内容ですが、この気持ち、よくわかります。上記の『光太郎資料』、プリントアウトしたものを校正したところ、7割方のページで訂正がありました。
 
「大政翼賛か異」→「大政翼賛」、「日本画経済的にも……」→「日本が経済的にも……」、「航空機による最初の飛行を実施した期待の一つが……」→「航空機による最初の飛行を実施した機体の一つが……」、「一行の部分」→「一行空きの部分」……。
 
まったく「少し頭の運転が悪くなりました」です。

青森の地方紙『デーリー東北』さんで、一昨日に掲載された記事です。

十和田市、湖畔休屋の遊覧船ターミナル取得を検討 観光拠点施設に

 昨年12月に破産した十和田湖観光汽船(青森市)が所有していた湖畔休屋の遊覧船ターミナルについて、十和田市が建物の取得を検討していることが31日、地元関係者らへの取材で分かった。地元の理解を得た上で建物を購入し、案内所機能を強化した上で、観光拠点施設として活用する方針とみられる。
 遊覧船ターミナルは桟橋前広場に面した国有地に建っており、2005年に完成した。鉄骨造りの2階建てで、総床面積は約695平方メートル。
 遊覧船乗客の待合所として定着し、運航する2社が昨年までチケット販売の拠点としていた。しかし、十和田湖観光汽船の破産で使用できなくなる可能性が指摘されていた。
 遊覧船は4月から休屋発着便のみとなり、十和田観光電鉄(同市)の単独運航に切り替わるが、ターミナルを引き続き使用するかどうかは決まっていなかった。建物が市の所有に移れば、建物の一部を借りて従来通りのチケット販売が続けられることになる。
 さらに市は、建物の改修も計画しているもよう。関係者によると、十和田湖に関連した歴史・文化を紹介するスペースを新たに開設し、大町桂月や高村光太郎といった湖ゆかりの文化人の資料を展示する予定
 近くで総合案内所を運営する十和田湖国立公園協会が、ターミナル内に移転する可能性もある。
 取得が決まれば、市は十和田湖観光汽船の破産管財人を務める岩谷直子弁護士(青森市)と売買契約を結ぶとみられる。
 ターミナルの取得について、市は取材に「現時点では答えられない」としている。
 
一昨年のこのブログで、十和田観光汽船さんに触れました。その時は民事再生手続きに入る、というものでしたが、昨秋、それも断念、破産ということになったそうで、残念です。
 
十和田湖で遊覧船を運航する十和田湖観光汽船(青森市)は15日、民事再生法による経営再建を断念し、年内にも破産手続きに入る方針を固めた。
 同社は青森地裁に提出した再生計画案に基づき立て直しを目指してきたが、見込んだほど業績改善が進まなかったため、14日付で地裁から再生手続きの廃止決定を受けた。このまま事業を続けても負債が膨らみかねず、「悔しいが、どうしようもない」(松橋泰彰社長)と再建断念を決めた。
 同社代理人の長谷一雄弁護士(東京都)によると、乗客8万5000人、約1億2000万円の売り上げ目標に対し、今年度の業績は「1~2割下回る状況」。運航本数の縮小や営業期間の短縮で経費を節減してきたが、肝心の客足の回復が鈍く、財務を抜本的に改善するまでには至らなかった。
 慢性的な経営不振に加え、東日本大震災による観光客の激減がダメージとなり、同社が約5億7000万円の負債を抱えて民事再生法の適用を申請したのは2012年8月。水面下で探ってきた同業他社との事業統合も不発に終わり、頼みの再生手続きが頓挫したことで再建への手立てを失った。松橋社長によると12月中旬にも破産手続きに入る見通しだ。
 期間限定で雇用していた従業員約35人は15日に退職したが、残る従業員で窓口業務は24日まで続ける。
 共同で遊覧船事業を手がけてきた十和田観光電鉄(十和田市)は単独で運航を続ける方針だが、慢性的な赤字部門をいつまで抱えていられるかは不透明で、「運航体制は今後の検討課題」としている。
 十和田市観光商工部の母良田篤夫部長は「少しでも乗客を増やそうと支援してきただけに、残念だ。十和田湖観光にとって遊覧船は欠かせない魅力。今後は残る1社に頑張ってほしい」と肩を落とした。
2013年11月17日  読売新聞)
 
一昨日の報道は、そのターミナルビルだった建物に、十和田湖に関連した歴史・文化を紹介するスペースを新たに開設し、大町桂月や光太郎といった湖ゆかりの文化人の資料を展示する計画があるらしいという報道ですね。
 
実現すればそれはそれでいいことだと思います004が、複雑な気持ちです。
 
さて、当方、今週末に1泊で十和田湖に行くことに致しました。7日の金曜日からスタートするイベント、「十和田湖冬物語2014」を観て参ります。
 
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そのための切符の手配で、昨日、自宅最寄りのJR佐原駅に行きました。窓口で切符を頼んでいると、ちょうど足下に「乙女の像」。驚きました。

JRさんで「青森・函館 津軽海峡紀行」というキャンペーンを行っているとのことで、その宣伝でした。
 
思わずケータイで写真を撮りましたが、駅員さんは「?」という表情でした(笑)。
 
そちらのものではなく、青森限定のパンフレットが置いてあったので貰ってきました。「十和田湖冬物語2014」が大きく扱われています。幻想的な感じですが、どう考えても寒そうです。過日の岩手もかなりの雪でしたが、今回も覚悟して臨みます。
 
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ちなみに自宅周辺では、既に先月末からオオイヌノフグリやホトケノザが咲き、蜂が飛んでいます。雪国の皆さんには怒られそうですね(笑)。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月3日

昭和29年(1954)の今日、日比谷公会堂でブダペスト弦楽四重奏団の演奏を聴きました。
 
クラシック音楽にも造詣の深かった光太郎、岩手太田村に住んでいた頃は、時折訪れた花巻の町でレコードを聴くくらいで、禁断症状でしょうか、山林を歩きながらバッハの「ブランデンブルグ」が幻聴で聞こえた、というエピソードがあります。
 
その意味では、帰京後、こうした機会が増えたのは幸いでした。
 
ちなみにこの時の曲目はバルトークの弦楽四重奏曲第6番、ミヨーの同12番、そしてバーバーの弦楽四重奏曲ロ短調。これは別名「弦楽のためのアダージョ」。映画「プラトーン」のテーマとして使われたものですね。
 
この夜の印象をもとに、ずばり「弦楽四重奏」という詩が書かれています。

福島県いわき市の山中にある、いわき市立草野心平記念文学館さんで以下の企画展が行われています。
 
気がつくのが遅れ、紹介するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。

冬の企画展 「草野心平コレクション展」

2014年1月18日(土)〜3月23日(日)  9時~17時 休館日/月曜日

 詩人・草野心平(くさのしんぺい 1903〜1988)は、詩、随筆をはじめ、書、画など多彩な創作活動を展開しました。それに伴い、高村光太郎(詩人、彫刻家 1883〜1956)をはじめ、朝井閑右衛門(画家 1901〜1983)、川端康成(小説家 1899〜1972)、高村豊周(鋳金家 1890〜1972)、辻まこと(画家、随筆家 1914〜1975)、棟方志功(版画家 1903〜1975)など様々な分野の芸術家と交友を結んでいます。
 本展では、それぞれの交流がきっかけで生前の心平が収蔵した絵画、書などの芸術品を中心に、いわば詩人の個人的コレクションを紹介し、そのかかわりと魅力にふれます。

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上記チラシの中央に写っている彫刻は、光太郎作の「大倉喜八郎の首」。大倉財閥を興した大倉喜八郎で、光雲が木彫で肖像を作るための原型として作りました。ただ、チラシのキャプションでは「老人の首」となっています。
 
他にも心平の手許には光太郎の書なども多数あったはずで、それらの中から展示品が選択されているのでしょう。それから館の公式サイトによれば、豊周の名も。鋳金作品でしょう。
 
さらに同館では、昨日からスポット展示「草野天平」も行っています。
 
天平は心平の弟にして、やはり詩人。明治43年(1910)の生まれですが、昭和27年(1952)に数え43歳の若さで歿しています。歿後に弥生書房から刊行された『定本草野天平詩集』により、昭和34年(1959)の第2回高村光太郎賞を受賞しています。
 
こちらは3月30日(日)まで。
 
時間を見つけて行ってこようと思っています。皆様もぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】2月2日

大正7年(1918)の今日、雑誌『美術』に「ロダンの死を聞いて」が掲載されました。
 
ロダンはこの前年11月に歿しています。
 
光太郎曰く、
 
私は今迄に経験した事のない淋しい鋭い苦痛の感情をしみじみと感じた。動乱と清粛と入りまざつた心の幾日かを空しく過した。さうしてロダンが立派にやり遂げるだけの事をやり遂げて、其の私的存在をかき消してしまつた事を思ふと、不思議な伝説的の偉大を感じる。ロダンの生きてゐた時代に自分も生きてゐたといふ事がまるで歴史のやうに意味深く、又貴く感ぜられる。

昨日の『日本経済新聞』さんの一面コラムです。 

「春秋」 

 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた――。世に知られた高村光太郎の「レモン哀歌」である。死の床の智恵子がその柑橘(かんきつ)をがりりと噛(か)むと「トパアズいろの香気」がわき立ち、しばし意識がよみがえる。レモンの刺激によって智恵子は「もとの智恵子」に戻るのだ。
 
▼理化学研究所などのチームが、常識破りの手法で新たな万能細胞作製に成功した。マウスの細胞を弱酸性の溶液に浸すだけで、さまざまな臓器や組織の細胞に育つべく「初期化」されるという。やはり酸っぱい刺激は生命を突き動かす……とは小欄の勝手な連想だが、目からウロコのこの大発見は全世界を興奮させている。
 
▼開発をリードしたのは理研の小保方晴子さんだ。哺乳類では木の枝やトカゲの尻尾みたいに簡単な刺激で細胞が再生することはない、という生物学の常識に挑んで実験を続けた。笑われもしたが、いろいろ試すうちに弱酸性の液がその力をもつことを突きとめたという。30歳の女性研究者の、しなやかな発想の勝利である。
 
▼白衣にかえて祖母にもらった割烹(かっぽう)着をまとった姿は自然体で気負いなく、新世代の活躍に心洗われる思いだ。もっともこの万能細胞がヒトでも作製可能か、再生医療に役立つようになるか、今後の研究は多難だろう。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。光太郎の「道程」を胸の底に、惜しみないエールを送る。
 
先日、あらゆる細胞に変化する可能性を持つ「STAP細胞」という万能細胞を作り出すことに成功した研究チームのリーダー、小保方晴子さんに関しての内容ですね。

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過日ご紹介した『朝日新聞』さんの「野茂の前に道はなかった」という記事でも、野球殿堂入りを果たした野茂英雄さんの業績にからめ、光太郎の「道程」が使われていました。
 
小保方さんにしても、野茂さんににしても、こうした様々な分野でのパイオニア的な皆さんへのエールとして、「道程」をどんどん使っていただきたいものです。
 
このところ、「道程」がらみのネタの日には必ず書いていて、しつこいようですが、今年は詩「道程」執筆100周年、詩集『道程』刊行100周年です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月1日

昭和2年(1927)の今日、雑誌『婦人之友』に智恵子の散文「画室の冬――ある日の日記――」が掲載されました。
 
書簡を除き、公表された智恵子の文筆作品の中で、最後のものです。
 
一部、引用します。
 
 朝の香はパパミンの花さく野の味がする。清らかな白い息をつく大空、新らしいマント、家々、水晶の装身濡れ雫する樹木、誰れかを待つ敷物を取かへた道路、オランジユの太陽がいま、熱い凝視をつづけながら、煙る梢を離れるところ。
 何もかも生々として、何もかもすつきりとのびあがつて、きりきりと裸形を寒風にさらす、辛烈な健康、冬。

本日も盛岡関連情報です。
 
盛岡市にある盛岡てがみ館さんで、以下の企画展が行われます。
開催期間:2014年2月25日(火)~6月16日(月)
 
彫刻家で詩人の高村光太郎は昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家を頼って疎開し、以後約7年間を花巻で過ごしました。岩手の人と風土をこよなく愛した光太郎は盛岡へも足を運んで講演会を行ったほか、昭和23年(1948)に創設された県立美術工芸学校の運営を援助するなど、岩手の文化発展にも貢献しています。光太郎の岩手における人々との交流と足跡を手紙や原稿を通して紹介します。
 
【開館時間】 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
【休 館 日】  毎月第2火曜日 展示入替のため臨時休館有
【入 館 料】 個人 一般200円 高校生100円  団体 一般160円 高校生80円 (20人以上)
▼中学生以下、及び65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。
【住  所】 盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階(地図・アクセス方法)
【電話・FAX】019-604-3302
 
 
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関連行事として、こちら。 
 開催日・期間:2014年3月9日(日)
 時間:14:00~15:00
 場所:盛岡てがみ館 展示室
 講師:大塚富夫(IBC岩手放送アナウンサー)
 料金:入館料が必要です。
 お申込み・受付方法:当日、直接当館にお越しください。
 
一通一通の手紙が織り成すストーリー。朗読を通して伝わる人間の心の機微にふれてみませんか?
☆テレビ、ラジオで活躍中のアナウンサー・大塚富夫氏を講師に迎え、著名人の手紙や第43回企画展に関連した高村光太郎の詩などを朗読していただきます。

 
盛岡てがみ館さんは、公益財団法人盛岡市文化振興事業団さんの運営で、公式サイトによれば、
 
盛岡市の中心部を流れる中津川河畔にある当館は、先人の書簡(てがみ)を中心に原稿・日記等を収蔵・調査研究・展示する、全国でもユニークな施設です。
郷土の発展には、先人の生きた知恵を学ぶことが大切だとよく言われています。 盛岡市には盛岡にゆかりのある著名人やその関係者の書簡(てがみ)、原稿、日記、ノート、筆墨など貴重な資料が数多く残されています。
個人のてがみは、執筆者の知られざる素顔をのぞかせながら、その時代の息吹きを鮮やかに伝える第一級の遺産です。これらの文化遺産を守りながら、多くの人たちに公開していくことが、私たちが未来に先人の知恵を手渡していくことになるのではないかと考えます。
  
とのこと。
 
当方、10年近く前に一度お邪魔したことがあります。こちらには『高村光太郎全集』等に収録されなかった光太郎の書簡がけっこうたくさんあり、その情報を提供していただいた関係です。宛先は石川啄木研究者の吉田孤羊、新岩手日報社関連などでした。
 
今回の企画展でも、『高村光太郎全集』等に収録されていない書簡が並ぶことを期待しています。
 
公式サイトから引用させていただいた011上記画像に写っているのは、詩人の故・宮靜枝。岩手県南部・江刺の出身で、昭和26年(1951)秋に、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れています。宮はその時の体験を元に、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』を上梓、第33回晩翠賞に輝いています。
 
上記の写真はその折のもの。これを含め、光太郎が写った写真20葉ほどを収めたアルバムが盛岡市立図書館に寄贈されており、そちらも見たことがあります。
 
光太郎の元にもこれらの写真が送られましたが、光太郎は宮宛の葉書に「写真はやはり小生の苦手で、気味が悪いと思ひました。」としたためています。
 
光太郎から宮宛の書簡は、『高村光太郎全集』に2通収録されており、今回も並ぶのではないかと思われます。
 
ちなみに宮が訪れた時、裁縫は得意でなかった光太郎、宮に遠慮がちにお願いしてカーテンを縫ってもらっています。ほほえましい交流ですね。
 
この企画展が開催されると知り、こちらから、岩手の公共施設等に収蔵されている光太郎書簡の情報を提供しました。先日、返答を戴き、それらの一部を展示する方向で考えているとのこと。少しはお役に立てたかなと想っております。
 
 当方、3月9日の関連行事に合わせて行ってみようと思っています。皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月31日

平成9年(1997)の今日、二元社から『智恵子その愛と美』が刊行されました。
 
智恵子の紙絵と文章、光太郎の詩文、自筆詩稿から採った文字で構成された美しい本です。
 
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気がつけば1月も明日で終わりです。そこで、来月行われるイベントをご紹介します。 
 
岩手は盛岡での演劇公演です。

宮沢賢治没後80年記念事業・畑中美耶子『モリーオ童話館』100回記念事業 第12回おでってリージョナル劇場  「泣きビッチョ光太郎」~昭和21年の星めぐり~

作:上田次郎 演出:坂田裕一、中村一二三 作曲:田口友善  
      
~あらすじ~      
時代は、昭和20年戦争末期から戦後。宮沢家に疎開していた高村光太郎を中心に、賢治を慕う大勢の人々が、「雨ニモマケズ」の教科書改ざん騒動を足がかりに、歌あり踊りありのドタバタな楽しい舞台を繰り広げる。      
      
【会 期】 平成26年2月21日(金)~平成26年2月23日(日) ◆4回公演      
                ①2/21(金)開場18:30 開演19:00
                ②2/22(土)開場13:30 開演14:00
                ③2/22(土)開場18:00 開演18:30
                ④2/23(日)開場13:30 開演14:00      
【会 場】 プラザおでって 3階おでってホール (盛岡市中ノ橋通1-1-10)
【入場料】 (前売)大人1,500円 大学生以下1,000円
        (当日)大人1,800円 大学生以下1,300円 (期日指定・全席自由)
【主 催】 盛岡市・公益財団法人盛岡観光コンベンション協会      
【提 携】 いわてアートサポートセンター      
【後 援】 岩手日報社、NHK盛岡放送局、IBC岩手放送、テレビ岩手、めんこいテレビ、 
      岩手朝日テレビ、エフエム岩手、岩手ケーブルテレビジョン、
      朝日新聞盛岡総局、
毎日新聞盛岡支局、読売新聞盛岡支局、
      産経新聞盛岡支局、盛岡タイムス社、 河北
新報社盛岡総局、岩手日日新聞社、
      ラヂオもりおか、月刊アキュート、 マ・シェリ、
情報誌游悠      
【プレイガイド】 プラザおでって、盛岡市民文化ホール、 盛岡劇場、都南文化会館、
         カワトク      
【お問い合わせ】 (公財)盛岡観光コンベンション協会 企画管理部 019-604-3300
 
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「泣きビッチョ」とは「泣き虫」といった意味でしょうか。
 
主演? の畑中美耶子さんという方は、盛岡で宮澤賢治作品の朗読等に取り組まれている方です。
 
明日詳しく紹介しますが、同じプラザおでって内の「盛岡てがみ館」さんでは、25日から「第43回企画展 高村光太郎と岩手の人」が開催されます。日程が重なっていればgoodだったのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月30日

昭和4年(1929)の今日、萬里閣書房から「光雲懐古談」が刊行されました。
 
光太郎の父・光雲が語った自己の半生、同時代の美術界の様相などをまとめたものです。
 
前半は「昔ばなし」。後書きによれば、大正11年(1922)に光太郎の朋友・田村松魚が、光太郎とともに光太郎アトリエや光雲邸で懐古談を聞き、それを筆録したとあります。
 
後半は「想華篇」。やはり光雲が、美術界の社交機関「国華倶楽部」で語った内容や、雑誌に発表された談話などの集成です。
 
前半の「昔ばなし」の部分のみ、その後何度も版を改めて刊行されています。
 
オリジナル萬里閣書房版の題字は光太郎、装幀は豊周。幕末から明治にかけての、当時の美術界の様子や、それにとどまらず、世相、江戸の街の様子などなど、多岐にわたる内容で、非常に貴重な回想です。また、光雲の軽妙洒脱な語り口も優れています。
 
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さて、前半の「昔ばなし」編。先述のとおり、後書きによれば、大正11年に光太郎の朋友・田村松魚が、光太郎とともに光雲の懐古談を聞き、それを筆録したとのこと。他に同席者は居なかったそうです。
 
その後再刊された各種の版についている解説等、すべてこれを鵜呑みにしていますが、どうも事実とは異なる部分があるようです。
 
『光雲懐古談』にさかのぼる昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍があります。「同好史談会」という団体の編纂ということになっていますが、中心は市島春城。春城による「はしがき」には以下のような記述があります。
 
 吾等は近年十数の同人と同好史談会と云ふを設け、折々会して維新当時の事につき互ひに知ることを語り合ひ、往々他から故老を招待してその談話を聴き、時には会員を諸方に派して故老の談話を筆記せしめたりして、其筆記が今は漸く積んで堆を為すに至つた。(略)春陽堂主人聞きつけてぜひ出版せよと勧めらるゝので、先づ明治十年頃までのものを選んで刊行することにした。
 
この『漫談明治初年』の中に、光雲の談話筆録も多数収録されているのですが、『光雲懐古談』の昔話と重複しています。部分によっては「国醇会講話」という説明も見えます。「国醇会」とは日蓮宗の運動家・田中智学を中心とする会でした。
 
光太郎アトリエや光雲邸で、田村と光太郎のみが聴いたはずの談話と、一字一句違わない談話が2年前に刊行された『漫談明治初年』に載っており、しかもそれが国醇会で語ったという説明がある。どう考えても矛盾していますね。
 
田村が光雲の懐古談を聞いて筆録したのはおそらく事実でしょう。しかし、刊行にあたって、田村が聴いた以外の談話も使用されていると考えるのが自然だと思います。あるいは『漫談明治初年』に収録されているのとほぼ同じ内容の話を聴いた田村が、それなら『漫談明治初年』に書かれている部分をそっくり引用してしまえ、と考えたのかも知れません。
 
または田村も「同好史談会」の構成員で、光雲に話を聴くのは会の事業だったのかもしれません。
 
いずれにせよ、「『光雲懐古談』の「昔ばなし」編は、田村松魚が、光太郎とともに光太郎アトリエや光雲邸で懐古談を聞き、それを筆録したものである」と断言するのは危険ですのでよろしくお願いします。

こんなものを手に入れました。
 
『日曜美術館新聞』新春特別号。A2判二つ折り、全4頁です。
 
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NHKEテレさんで、日曜日の朝(本放送)と夜(再放送)に放映されている「日曜美術館」のPR誌のようです。
 
同番組では昨秋、「智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」と題し、光太郎をメインで取り上げて下さいまして、当方もアドバイザーとして参加させていただきました。
 
最近も、1/19の放映で東京美術学校で光太郎と同級生だった藤田嗣治を取り上げて下さっています。
 
で、『日曜美術館新聞』。この中で、現在東京国立博物館で開催中の「人間国宝展-生み出された美、伝えゆくわざ-」が大きく取り上げられています。
 
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曰く、
 
工芸は時代に合わせて、伝統的な技の上に創作性や個性的なデザインが加わり、変化し広く受け入れられてきた。作家の創意工夫によって多様化した日本の工芸。“クラフト”でなく、世界に誇る日本の“コーゲイ”の奥行き有る美しさを再発見し、伝統の枠組みを超え未来へ託される可能性を展望する機会となるにちがいない。
 
まさしくその通りですね。
 
以前にも書きましたが、同展では光太郎の弟で鋳金家の高村豊周、その弟子で光太郎ブロンズ彫刻の鋳造を手がけた斎藤明の作品も展示されています。
 
会期は来月23日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月29日

明治44年(1911)の今日、智恵子の祖父・長沼次助が歿しました。
 
次助は新潟県南蒲原郡田上町の出身。郷里に妻子を残し、杜氏として二本松に来ていた際に、智恵子祖母の安斉ノシと所帯を持ち、長沼酒造を興しました。智恵子の母・センはノシの連れ子。したがって智恵子と次助に血のつながりはありません。それでも次助は智恵子をかわいがってくれたそうです。
 
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前列左端が次助、その後ろが智恵子。明治41年頃、長沼家の庭で撮られた一枚です。

一昨日、茨城県笠間市に、映画「天心」を見に行くと共に、日動美術館さんにも行って参りました。
 
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こちらは銀座の日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により創設された美術館で、光太郎の作品は収蔵されていないようですが、彫刻や絵画で、光太郎と深い交流のあった作家の作品がたくさん並んでいます。
 
一度は行ってみようと思いつつなかなか果たせず、一昨日、初めて行ってみました。
 
正面入り口を入ると右手に「パレット館」。名だたる画家達が愛用したパレット、さらにパレットに絵を描いたものが展示されています。
 
左手が「フランス館」。こちらに光太郎と親交のあった画家たちの作品が展示されています。具体的には岸田劉生、藤田嗣治、藤島武二、梅原龍三郎、安井曾太郎などなど。それらが並ぶ1階の展示室は「長谷川仁・林子記念室」という名前になっていますが、その室名を書いた扁額は草野心平の揮毫でした。意外なところで意外な人の名を目にしました。
 
2階展示室は、フランス印象派系の作品など。こちらも光太郎が評論で取り上げたり、知遇を得たりしていた作家の作品が多く並んでいました。ルノワール、ドガ、セザンヌ、モネ、マチス、ピカソ……。
 
やはり本物は違いますね。収蔵作品は3,000点ほどだそうで、展示替えもあり、下のパンフレットにある高橋由一「鮭」などは見られませんでした。
 
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「フランス館」入り口あたりから、奥の「野外彫刻庭園」にかけて、やはり光太郎と親交のあった彫刻家の作品もたくさん並んでいました。佐藤忠良、舟越保武、本郷新、菊池一夫などなど。
 
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これで、屋内展示でもいいので、何かしら光太郎の作品があればいうことなしです。
 
「野外彫刻庭園」を通り抜けると、「企画展示館」です。「世界文化遺産登録記念 東海道五十三次と富士山写真展」が開催中でした。富士河口湖町立河口湖美術館さんとのコラボ企画で、広重の「東海道五十三次」、そして公募入選の富士山の写真がずらっと並んでいます。富士山と、それを取り巻く四季折々の自然。やはり日本人の魂をゆさぶる風景ですね。 
 
同館には、徒歩20分くらいのところに「春風萬里荘」という別館がありますが、こちらには行きませんでした(映画「天心」を観る都合がありましたので)。こちらは陶芸家の北大路魯山人の旧居を移築したものだそうで、茅葺き入母屋造りの重厚な建築だそうです。
 
魯山人は光太郎と同じ明治16年(1883)の生まれ。今のところ、二人の間に直接のつながりは見いだせていませんが、どこかしらで接点はあったのではないかと想像しています。ちなみに「春風萬里荘」にも心平の書が展示されているそうです。また折を見て、こちらにも行ってみたいと思っています。
 
というわけで、日動美術館。都会の喧噪を離れた雰囲気も非常に好ましいと感じました。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月28日

昭和9年(1934)の今日、草野心平により『宮澤賢治追悼』が刊行されました。
 
光太郎は「コスモスの所持者宮澤賢治」を寄稿しています。歿後間もなく、まだ一般にはほとんどその存在を知られていなかった賢治に対し、光太郎は以下のように語りました。
 
内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する 。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。

昨日は、茨城は笠間に行って参りました。笠間といえば茨城県の中央部、笠間稲荷神社と陶芸の笠間焼で有名な街です。
 
一番の目的は映画鑑賞でした。他にも日動美術館というところに行って参りましたが、そちらは明日書きます。
 
当方が観てきた映画は、昨年、岡倉天心を主人公として製作され、全国各地で順次公開されている「天心」という映画です。ただ、大手配給会社によるものではないので、どこでも観られるわけではなく、当方生活圏内では公開されていません。昨年のうちに都内か横浜あたりで観ようと思っていたのですが、なかなか日程が合わず、昨日になってしまいました。
 
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岡倉天心といえば、明治新政府の文明開化政策の一環としての廃仏毀釈、西洋化による日本伝統文化の衰退を憂い、アーネスト・フェノロサともども仏教美術の保存に尽力した人物です。また、東京美術学校開設に奔走し、光雲を美校に招聘したほか、光太郎在学中には校長も務めていました。
 
昨年、福島二本松「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座’13」で講師を務めさせていただき、その辺りに関して講義をいたしましたので、ぜひ観たいと思っておりました。
 
天心は美校辞職(罷免)後、日本美術院を創立、日本伝統美術の保護とさらなる進化に取り組みます。しかし、天心とその薫陶を受けた画家たち―横山大観ら―の新しい試みは「朦朧体」と揶揄されなかなか受け入れられず、現在の北茨城市五浦(いづら)に「都落ち」し、苦闘の日々を送りました。
 
その天心を主人公とした映画、というわけです。公式サイトはこちら
 
キャストは天心役が竹中直人さん、横山大観に中村獅童さん、菱田春草の平山浩行さん、下村観山で木下ほうかさん、木村武山を橋本一郎さん、狩野芳崖には温水洋一さんなど。
 
美術学校時代のシーンで、光太郎や光雲が登場するかと期待していたのですが、残念ながらそれはありませんでした。美校時代のエピソードは少なく、五浦に移ってからの苦闘の日々がメインだったので、いたしかたありません。
 
ところでこの映画、「復興支援映画」と謳っています。東日本大震災では、天心が建てた五浦の六角堂が津波に呑まれてしまうなど、茨城県にもかなりの被害がありました。同作品公式サイト内には以下の記述があります。
 
本作品は、明治にあって日本の美を「再発見」し、新しい美を生み出そうと苦闘する天心と 若き画家たち - 横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山 - らとの葛藤と師弟愛をテーマとして描くべく、今から3年ほど前に企画がスタートいたしました。
 
そして忘れもしない 2011年3月11日14時46分18秒「東日本大震災」が発生。千年に一度とされる大地震と津波は、多くの方々の「家」や「命」を奪い去りました。
 
茨城県でも沿岸部を中心に甚大な被害を受け、天心が思索に耽った北茨城市・五浦海岸の景勝地にある貴重な文化遺産の「六角堂」も流出、海中に消失しました。
 
主なロケ地である茨城県の被災に、本作品も一時は映画化を危ぶまれましたが、一日も早い 復興を願う県内の行政・大学・企業・美術界・市民団体などで構成される「天心」映画実行委員会 が発足し、本作品映画化のプロジェクトが再始動いたしました。
 
2013年には生誕150年・没後100年を迎える岡倉天心が終生愛した茨城の美しい自然を織り込んだ 映画「天心」は、茨城を日本をそして世界を「元気」にすることをめざします。
 
そんなわけで、渡辺裕之さん(九鬼隆一)、本田博太郎さん(船頭)、キタキマユさん(菱田春草の妻)など、茨城出身の俳優さんが多く出演なさっています。他には神楽坂恵さん、石黒賢さんなどなど。

当方が観に行ったのは、笠間市のショッピングセンター内の「ポレポレホール」。笠間は木村武山の故郷です。現在、関東で公開されているのはここだけのようで、ロビーには映画で実際に使われた小道具類が並んでいました。
 
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忘れ去られつつある伝統を継承しつつ、さらに新しい美を生み出そうと苦闘する登場人物たちの描写には感銘を受けました。特に肺を病んでの病床で「仁王捉鬼図」「悲母観音」を描き続けた狩野芳崖、失明の不安を抱え、さらに生活の困窮にさらされながら「賢首菩薩」の制作に取り組んだ菱田春草のエピソード。それぞれを演じた温水洋一さん、平山浩行さんの鬼気迫る演技は白眉でした。
 
そういう意味では光雲や光太郎も苦闘の時代が長く、相通じるものがあるように思いました。
 
少し不満だったのは、春草の「黒き猫」や「落葉」といった当方の大好きな作品が扱われなかったこと、それからなぜか天心の盟友として日本美術院創設に関わり、春草や大観の直接の師だった橋本雅邦がまったく登場しなかったこと。まぁ、いろいろ権利の問題等も絡むのかも知れませんが。
 
映画「天心」、大規模ではありませんが、全国で公開が続きます。ぜひご覧下さい。
 
明日は同じ笠間の日動美術館をレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月27日

昭和27年(1952)の今日、『毎日新聞』で評論「日本詩歌の特質」の連載が始まりました。

最近放映されたテレビ番組のレポートを書きます。
 
まずはBS朝日さんで1/21(火)にオンエアされた「にほん風景物語 福島 川内村・いわき小川郷 ~詩人・草野心平が詠んだ日本の原風景~」。

 
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作家の島田雅彦氏が、光太郎と親交の深かった蛙の詩人・草野心平のゆかりの地を歩きました。心平の故郷・福島県いわき市小川地区、そしてモリアオガエルが縁で心平が愛した地・川内村。
 
川内村では、同村商工会長にして、天山・心平の会代表の井出茂氏が島田氏を御案内なさっていました。モリアオガエル生息地の平伏(へぶす)沼や、村人が心平のために建ててあげたという天山文庫、そして草野心平を偲ぶ集い「かえる忌」の会場となっている、井出氏が営む小松屋旅館さん。
 
その囲炉裏端で、井出氏が語られた、原発事故による全村避難を思い出して語られた言葉には、ぐっときました。村境の峠から川内村を振り返り、涙が止まらなかったというお話、「無くなっていい場所、無くなっていい故郷なんてどこにもない」というお言葉……。重たいものがありました。
 
それから、放映を見るまでまったく知らなかったのですが、昨秋の「かえる忌」の様子も映りました。テレビカメラが入っていたのには気づいていましたが、てっきり福島のローカルニュースか何かだと思っていました。当方の姿も約20秒。自分の姿をテレビ画面で見るというのは妙な気分ですね。それも映ると知らなかったのでなおさらです。


続いて、昨夜9時からBS-TBSさんで放映された「日本の名峰・絶景探訪 #32 雪煙舞う厳冬の安達太良山」。

 
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番組冒頭近く、俳優・津嘉山正種さん(やはり福島を舞台にした昨年の大河ドラマ「八重の桜」で会津藩家老・神保内蔵助役)による「安達太良連峰。その山の上に広がる空は、一つの詩によって、多くの日本人の心に刻みこまれた。」というナレーションのあと、「あどけない話」の後半部分が朗読され、智恵子生家裏の鞍石山に建つ「樹下の二人」詩碑から、ナビゲーター役の女優・春馬ゆかりさんのレポートがありました。
 
この番組は登山系の番組なので、そのあとは最後まで春馬さんの登山の様子のレポートでした。
 
昨秋、NHKさんで放映された「小さな旅 シリーズ山の歌 秋 ほら、空が近くに~福島県安達太良山~」では、やはり「智恵子抄」にからめ、錦秋の安達太良山が紹介されました。
 
今回は厳冬期。アイゼンを付けなければ登れないとか、樹氷ができていたりとか、同じ山でも季節が変わるとここまで違うのか、という感じでした。それが日本という国の良さでもありますね。
 


さらに連続して10時から、地上波テレビ東京さんの「美の巨人たち 荻原碌山(守衛)『女』」。

 
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実はこの放送があるというのは、朝、新聞のテレビ欄を見るまで気がついていませんでした。この番組はほぼ毎週欠かさず見ており、次週の内容を知らない、ということは滅多になかったのですが、たまたま先週の土曜日はテレビ東京系の局がない岩手県に逗留していたため、そうなったわけです。したがって、このブログで事前に紹介出来ませんでした。すみません。しかし、テレビ東京系BSジャパンさんで2/19(水)に再放送されますので、見逃した方はそちらをご覧下さい。
 
この番組、毎回、作品の紹介・解説の部分と、作品にまつわるミニドラマの部分が交互に進む構成になっています。紹介・解説の部分では、連翹忌ご常連の碌山美術館学芸員・武井敏氏がご登場。これも事前に知らされていなかったので、驚きました。そしてミニドラマの部分は「親友 故人荻原を偲ぶ」という題で、光太郎と戸張孤雁、そして相馬良(黒光)が、守衛の没後、思い出を語るという構成でした。
 
光太郎役は俳優の大浦龍宇一さん。実は昨秋、大浦さんのブログで「一日だけ高村光太郎さんになってきます。」という記述を見つけ、いろいろ検索したのですが、舞台、映画等の情報も引っかからず、「?」と思っていました。その疑問が氷解しました。オンエア情報も。
 
相馬良は夫の愛三とともに、新宿に、かの中村屋を開いた人物です。守衛は少年時代から良に惹かれ、しかし相手は人妻。その苦悶が彫刻「女」に表されているというのが通説です。そのあたりを武井氏は実にうまく解説されていました。また、光太郎は良に対していい感情を持っておらず、ある意味、守衛の夭折は良のせいだと考えていたふしがあります。ミニドラマでは、そのあたりの光太郎の複雑な思いもよく表現されていました。光太郎は写真を撮られるのが好きではなかった、という小ネタも「そのとおり」、という感じでよく調べているな、と感心しました。
 
先述の通り、BSジャパンさんで2/19(水)に再放送されますので、見逃した方はそちらをご覧下さい。22:54~のオンエアです。
 
短い間に光太郎に関わる番組がたくさん放映され、有難い限りです。もっともっと増えてほしいものですが。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月26日

大正15年(1926)の今日、築地小劇場で上演されていた、ロマンロラン作・片山敏彦訳の演劇「愛と死の戯れ」が千秋楽を迎えました。
 
初日は同月20日。公演期間中、毎日、光太郎を含む十人の講演者が、毎日二名ずつ交代で講演をしたそうです。

群馬発のイベント情報です。 

写真展「昭和初期の赤城山を見る」

(1)主催:中部行政事務所、NPO法人赤城自然塾
(2)写真提供:小竹 恵美子 氏
(3)写真監修:栗原 久 氏(東京福祉大学・大学院教授)
(4)協力:前橋市
(5)内容:
志賀直哉、高村光太郎らと交流があり、日本スキー界の草分けとして知られる猪谷六合雄(息子は日本人初の冬季オリンピックメダリストとなった猪谷千春氏)の孫である小竹恵美子氏のもとから、昭和5年(1930年)から昭和8年(1933年)の赤城山の写真が発見されました。これらの写真95枚を拡大して展示します。
(6)観覧料:無料
(7)会場、開催日など
  ●赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町赤城山1)
   開催日:2月1日(土)~2月7日(金) ※2月3日(月)休館
    時間:9:00~15:00
     ※2月1日(土)12:45~13:00は「ぐんまちゃん」がやってきます。
   ●群馬県前橋合同庁舎1Fロビー(前橋市上細井町2142-1)
    開催日:2月12日(水)~3月7日(金) ※土、日曜日閉庁
     時間:8:30~17:15
               ※2月12日(水)は13:00から。3月7日(金)は13:00まで
   ●前橋プラザ元気21 3F 中央公民館ホワイエ(前橋市本町二丁目12-1)
     開催日:3月10日(月)~3月17日(月) ※休館日なし
   時 間:9:00~22:00
               ※3月10日(月)は13:00から。3月17日(金)は13:00まで
(8)写真説明会
  日時:2月1日(土)13:00~  (「赤城山雪まつり」の開催日)
  会場:赤城公園ビジターセンター(前橋市富士見町赤城山1)
  内容:写真監修者で上毛新聞社刊「なるほど赤城学」の著者・栗原久氏による写真説明会
  料金:無料  ※事前の申し込みは不要です。直接会場にお越しください。
 
2 写真展を記念した講演会「赤城山の魅力を探る」
(1)日時:2月13日(木)13:30~15:00 (※前橋合同庁舎で写真展も開催)
(2)会場:前橋合同庁舎6F大会議室(前橋市上細井町2142-1)
(3)講師:栗原 久 氏(東京福祉大学・大学院教授)
(4)内容:
    赤城山の歴史、文化など意外と知られていない赤城山のいろいろについて、「なるほ
    ど赤城学」の著者が語ります。(※中部県民局県政懇談会の中で実施)
(5)参加料:無料
(6)定員:100名(先着順)
(7)参加方法:事前の申込みが必要です。
   開催日前日までにFAXで代表者氏名、電話番号、参
加人数をお伝えください。
   (様式はありません。)
 
3 問合せ、申し込み先  中部県民局中部行政事務所 
             電話:027-231-2765  FAX:027-234-9333
 
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光太郎の父・光雲は赤城神社を産土神として信仰しており、その影響で、光雲ともども光太郎自身も赤城山に何度も足を運んでいます。また、光太郎は赤城を舞台にした連作短歌「毒うつぎ」(明治38年=1905)なども書いています。
 
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こちらは昭和6年(1931)、赤城神社で撮られた光雲と光太郎です。
 
さらにその影響もあって、光太郎の朋友・水野葉舟や、与謝野鉄幹をはじめとする新詩社の同人も光太郎を案内役に、赤城に逗留しました。そうした際にこ光太郎らが定宿としたのが、猪谷(いがや)旅館、猪谷六合雄の実家です。光太郎や葉舟と、六合雄の姉・ちよとの間には、そこはかとないロマンスがあったとかなかったとか。
 
六合雄と光太郎も親しく交わり(光太郎の方が7歳年上)、明治37年(1904)に光太郎が猪谷旅館に逗留した折に描かれたスケッチ『赤城画帖』(昭和31年=1956、龍星閣より上梓)の解説を、六合雄が執筆したりしています。
 
その六合雄旧蔵と思われる95枚の写真が展示されるとのことで、ちょうど光太郎が足しげく通っていた当時の赤城山のものですね。当時とは赤城神社の位置が変わっていたりするので、貴重なものだと思われます。
 
ぜひ足をお運びください。
 
ちなみに当方も、同じ頃、猪谷旅館が発行した絵葉書セットなどを持っています。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月25日

昭和57年(1982)の今日、日本経済新聞社からバーナード・リーチ著『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳)が刊行されました。
 
リーチはイギリス留学中の光太郎とロンドンで知り合い、元々持っていた日本熱が更に昂じて来日し、陶芸家となります。本書には、光太郎に関する回想も書かれています。

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東北レポート最終回です。
 
1/19(日)、花巻を後にして、東北本線でさらに北に向かいました。次なる目的地は岩手郡岩手町。盛岡よりさらに北、青森との県境に近い地域です。
 
昨秋、その岩手町の川口公民館に、光太郎自筆の看板が2枚あるという情報を得まして、見に行ったわけです。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
また、同じく4月29日には
 
川口村立図書館、川口村公民館を板に揮毫、
 
の記述があり、同じく5月10日の日記は以下の通りです。
 
川口村の帷子氏看板2枚受け取りに来る、川魚クキ20尾程ヒエ一升もらふ。
 
ちなみに川口村は昭和30年(1955)には合併で岩手町となっています。
 
盛岡で第3セクターのIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、岩手川口駅を目指しました。途中、「渋民」という駅がありましたが、こちらは石川啄木の故郷です。
 
午前10時30頃、岩手川口駅に到着、そこから川口公民館まで歩きました。空は晴れていましたが、雪がちらついていました。
 
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あらかじめお伺いすることを伝えてありましたので、職員の方が待っていて下さいました。早速、木箱に収められた2枚の看板を出していただきました。
 
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上の2枚が「川口村公民館」、下006の2枚が「川口村立図書館」。墨で書かれたものですが、残念ながら、どちらも文字はほとんど読めなくなっていました。
 
裏面の碑陰記的なものは裏面なので墨痕鮮やかに残っていました。ただし、こちらは光太郎の筆跡ではありません。
 
実際に看板として屋外に掲げられ、風雨や雪に晒され続けたため、文字が薄くなってしまったのでしょう。最初の段階で墨ではなく油性の塗料で書くとか、透明なニスなどでのコーティングでもされていればこうはならなかったのだと思いますが、昭和27年当時ではそれも望むべくもなかったのでしょう。
 
しかし、実用されたた結果、文字が薄れたことについては、泉下の光太郎もかえって喜んでいるのではないかと思います。
 
逆に、文字が薄くなったからといって、誰かが上からなぞって濃くするというような乱暴な処置がされていないのは幸いでした。
 
ところで現在、同公民館の玄関には、下の画像の看板が掲げられています。こちらも結構年期が入っています。どうも書体の特徴から、もともとの光太郎の筆跡から「村」を除いて写し取ったもののように思われます。

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「関連する資料があればコピーをいただきたい」と、事前にお伝えしておいたため、2枚の看板を紹介する『岩手日報』さんの記事、公民館移転の際の行事に盛り込まれた故・帷子敏雄氏の談話筆録、昭和30年代に当時の公民館長が書き残した覚え書きなどをいただきました。有り難いかぎりです。
 
さらに、これが最も驚いたのですが、光太郎から帷子氏宛の自筆葉書のコピーもいただきました。4月29日付けで、揮毫が終わった旨の報告でした。『高村光太郎全集』等に未掲載のもので、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(今春発行のものには間に合いません)、当方刊行の『光太郎資料』にてご紹介します。
 
そしてこれも驚きましたが、たまたま公民館に帷子氏のご子息がいらしていましたので、お話を聴くことも出来ました。いただいた資料と合わせ、当時の経緯がよく分かりました。それによると、村の若者が集まっての炉端談義の中で、公民館、図書館の看板を立派なものにしようという提案が出、一流の文化人に書いてもらおうということになったそうです。そして同じ岩手県内に住んでいた光太郎に白羽の矢が立ち、花巻出身の村内教育委員の親類筋のつてで依頼したとのこと。こちらの経緯なども「光太郎遺珠」、『光太郎資料』にて詳述します。
 
かくて予定していた目的は全て終了。岩手川口駅の隣、いわて沼宮内から東北新幹線で帰りました。
 
1泊2日の東北紀行でしたが、いつにもまして実り多い調査行でした。今回も行く先々でいろいろな方々のお世話になり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月24日

昭和16年(1941)の今日、有楽町産業組合中央会間で開催された「講演と朗読-愛国詩の夕」で「詩人の魂」と題して講演を行いました。

東北レポート4回目になります。もうしばらくおつきあい下さい。
 
1/19(日)、花巻南温泉峡鉛温泉藤三旅館をあとにし、タクシーで太田地区に向かいました。目指すは光太郎が7年間暮らした山小屋「高村山荘」、そしてすぐ近くに建つ「高村光太郎記念館」です。この区間はタクシーを利用せざるを得ません。
 
以前は冬期間閉鎖でしたので、当方、この時期に行ったことはありませんでした。それが、記念館の方は昨年5月のリニューアルオープンを機に花巻市営となり、他の市営施設同様、通年開館となったので、雪に埋もれる様子を実際に観て、光太郎のいた冬を実感してみようと考えた次第です。
 
鉛温泉からタクシーで約20分、現地に着きました。やはり一面の銀世界です。
 
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記念館が開くのは午前8時30分。まだ少し間があるので、先に高村山荘を目指しました。駐車場から歩くこと数百㍍、途中までは道らしき形になっていましたが、あと百㍍くらいのところで、道は山荘の方から外れた山の上に向かっていました。後で聞いたところでは、道的なものはロスカントリースキーの練習コースだそうです。しかたなく、道から外れ、ほとんど道なき道を山荘に向かいました。地面の積雪は1㍍くらいでしょうか。晴れていたのが幸いで、吹雪いている時などはまず歩けないところです。
 
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奥の白い建物が山荘。ただし中尊寺金色堂のように、套屋(とうおく)というカバーの建物が二重にかぶせてあり、その外側の第二套屋です。通常は第二套屋の中に入って、第一套屋のガラス越しに山荘を見る形になります。しかし、この時期は錠をあけていないとのこと。ここに至るまでの雪かきが事実上不可能だからだそうです。ただ、記念館の方で頼めば開けてくれないでもないそうです。また、記念館で長靴を貸して下さるとのこと。
 
手前の小さな建物は、便所として光太郎が使用していたもの。草野心平の命名で「月光殿」というしゃれた名が付いています。こちらにもトタン板の簡素な套屋がついています。
 
さらに近づいてみるとこんな感じです。
 
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 月光殿の方は、ガラス越しに光太郎が彫った明かり取りのための「光」一字が見えます。
 
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「ミニかまくら」というか「雪見だいふく」というか、この丸いのは灌木です。
 
山荘の前を通り過ぎ、南西方向から撮ったショットがこちら。
 
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この套屋のないむき出しの山小屋で、光太郎は7回も冬を越したわけです。当時(今も)、一番近い民家まで数百㍍。日記を読むと、冬場には誰一人訪ねてこない日も珍しくありませんでした。どんな思いでここに住み続けたのか、その思いに少しでも近づけたら、と考えています。
 
ここからさらに奥に、光太郎の「雪白く積めり」石碑、佐藤隆房博士顕彰碑、智恵子抄泉、智恵子展望台などがあるのですが、さすがにそちらまで行くのは断念しました。遭難しかねません。
 
そろそろ記念館の開館時間なので、そちらに向かうと、女性職員の方が駐車場からの道の雪かきをなさっていました。さらに記念館のすぐ近くでは、小型除雪車が雪を吹き飛ばしています。と、運転していた方が当方に気づいて「や、どうも」と言いつつ降りてきました。何と、㈶高村記念会の高橋卓也氏でした。当方がうかがうことは事前に連絡してあったので、待っていてくださったわけです。
 
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二人で中に入り、現状をうかがいました。とりあえず来館者は毎日いるとのこと。「ワンコインタクシー」なるものが運行されていて、それを利用する方がけっこういらっしゃるそうです。
 
「ワンコインタクシー」。半日で一人500円とのこと。東北新幹線の新花巻駅を午後1:05に出発し、宮澤賢治記念館→花巻新渡戸記念館→高村光太郎記念館→花巻温泉郷→花巻空港→新花巻駅というコースで、最後は在来東北本線花巻駅に18:00着だそうです。
 
これで500円は確かに安すぎですね(各施設の入館料は別ですが)。しかも宿までいけてしまうというのも便利だと思います。「花巻温泉郷」というのは、鉛温泉や大沢温泉などを含む「南花巻温泉峡」とはまた別の、高級ホテルが並ぶ区域(そちらにも光太郎賢治ゆかりの宿等があります)ですが、南花巻温泉峡もまわるようです。
 
ただし、要予約、さらに基本コースは上記のとおり既定ということです。また、他のコースも設定されています。
 
さて、高村記念館を後にし、待っていていただいたタクシーに再び乗り込んで、在来の花巻駅に向かいました。結局、料金は6,000円ちょっとでした。当方のたどった南花巻温泉峡→高村光太郎記念館→花巻駅というコースを普通にタクシーを利用すると、このくらいはかかってしまいます。逆のコースでも同じでしょう。以前は「高村山荘行」という路線バスがあったのですが、今は廃線になっています。これから行かれる方、ご参考までに。
 
さて、在来の花巻駅から東北本線でさらに北を目指しました。次なる目的地は岩手郡岩手町。そちらはまた明日。
 

 
別件です。俳優の高橋昌也さんの訃報が出ました。
 
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高橋さんは、昭和51年9月、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の「智恵子抄」(北条秀司作)で、光太郎役をなさいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月23日

明治45年(1912)の今日、光太郎が扉の図案を描いた与謝野晶子の歌集『青海波』が刊行されました。
 
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東北レポートの3回目です。
 
1月18日(土)、午前中は福島市での調査、午后には新花巻駅近くの花巻市博物館の企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」を拝見しました。その後新花巻駅に戻り、そこから宿へと向かいました。
 
宿は花巻南温泉峡の鉛温泉藤三(ふじさん)旅館さん。当方、花巻での定宿は、同じ花巻南温泉峡の、光太郎、そして宮澤賢治ゆかりの宿大沢温泉さんですが、今回はそちらが取れませんでした。そこで、大沢温泉さんより少し奥地にある鉛温泉さんに宿を定めました。こちらも光太郎・賢治ゆかりの宿なので一度泊まろうと思っており、ちょうどよかったと言えます。
 
花巻南温泉峡に行く手段としては、タクシー、岩手交通さんの路線バス、そして温泉組合的なところで運行している無料のシャトルバスがあります。昔は花巻電鉄というローカル線が走っていましたが、廃線となってしまいました。
 
鉄道の駅は、新幹線の新花巻駅が温泉峡と市街地をはさんで反対側の東部なので若干遠く、アクセスしやすいのは在来の花巻駅からの方です。ただ、無料のシャトルバスは新花巻駅から出て在来の花巻駅を経由するので、当方、今回はこれを利用しました。下記が時刻表です。
 
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光太郎は、昭和31年(1956)2月、亡くなる2ヶ月前の談話筆記「花巻温泉」で、鉛温泉について以下のように述べています。
 
 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 
他にも賢治の童話「なめとこ山と熊」にも鉛温泉が登場しますし、昭和25年(1950)には作家の田宮虎彦が滞在、ここを舞台にした小説「銀心中」を執筆したそうです。
 
新花巻駅の観光案内スペースに置いてあった花巻市発行の情報誌『花日和』の2013年冬号を1冊頂きました。旧太田村の光太郎が暮らした山小屋付近の風景や、鉛温泉さんが大きく扱われていたためです。
 
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そちらによれば、藤三旅館は鉛温泉の一軒宿で、天明6年(1786)の開業。開湯はさらに古く、室町時代にさかのぼるとのこと。オーナーの先祖が、この地で白猿が傷を癒していた温泉を見つけたのが始まりだそうです。
 
名物は深さ約130㌢という、立ったまま入る岩風呂「白猿の湯」。上の2枚目の画像にうつっています。光太郎の談話筆記で「その様を小高い所から見下せる」とあるのが、ここのことだと思われます。現在は光太郎の時代とは異なり、また混浴に戻っています(女性専用の時間帯あり)。しかし、当方が入った時には残念ながら男性しかいませんでした(笑)。他にも男女別の露天風呂や内風呂がいくつかあり、24時間入浴可です。当方、1泊2日で3回入浴しました。
 
昭和16年(1941)竣工という本館は非常に趣がありましたし、何より料理が美味しく、手が込んでいました。また、夜は窓を開けると豊沢川の流れにライトアップが施され、幻想的な雰囲気でした。
 
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というわけで、温泉と料理を堪能し、翌朝、宿を出ました。手配して置いたタクシーに乗り、高村山荘・高村光太郎記念館へ。そちらについてはまた明日レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月22日

昭和26年(1951)の今日、花巻の靴屋で12文(約30㌢㍍)の長靴を買いました。
 
光太郎、身長もそうですが、手足が異様に大きかったことも有名です。
 
ちなみにこの時、昨日ご紹介した佐藤隆房宅に1週間ほど逗留していました。その後は大沢温泉に行き、10日ほど宿泊しています。

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