昨日に引き続き、女川ネタです。東京は芝の旅行会社・キッズワールドさんのパッケージツアーのご紹介です。 

宮城県女川町 復興視察ツアー 出かけよう東北へ!

世界遺産や歴史的名所、自然が育んだ多彩な山海の幸。
自然に恵まれ緑も海も豊かな東北は、これからが旅行のベストシーズンです。
今こそ行きたい魅力溢れる東北。
見て・食べて・泊まって・感じて、そして今を知ることが復興支援につながります。
今回は宮城県・岩手県のおすすめ観光スポットと、宮城県女川町の復興視察ツアーをご紹介!
 
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視察ツアースケジュール 仙台駅発着 / 専用バス / 日帰り / 仙台駅からの添乗員付
10:00 仙台駅発 ※1
12:00 昼食 約50分 女川温泉 華夕美(海鮮) 
12:50 女川町内視察(車窓)約30分 語り部ガイドによる震災当時や復興の様子、被災地に今必要なことなどについてのお話を伺います。 
13:25 復興まちづくり情報交流館 約40分 町の復興の様子を映像やパネルを用いて説明していただきます。
14:15 マスカー水産加工品冷凍冷蔵庫 約30分 水産加工冷凍冷蔵施設、津波を受け流す建物構造を見学します。また、マイナス30度の冷凍庫の中も体験できます。※女川魚市場休市の場合はマリンパル女川へご案内します。 
14:55 きぼうのかね商店街 約40分 震災後に設置された仮設の復興商店街にてお買い物。  
15:35 女川町発 
17:30 仙台駅到着、解散 ※2 
 
※1 ご希望に合わせ、JRや国内線の手配、仙台観光や宿泊手配も別途承ります
※2 当日の交通事情により、予定時間は変更になる場合があります
 

ツアー代金 仙台駅発着/5月~7月土曜日催行

15名様20名様25名様
小型バス1台お1人様あたり¥11,300
小型バス1台お1人様あたり¥9,400
中型バス1台お1人様あたり¥8,600
  • ※催行日程、曜日、人数に合わせて料金は変動いたします。まずはご希望をお聞かせください!
  • ※ツアー代金より500円を女川町へお渡しします。
    (うち200円は女川町の復興支援金として利用され、300円は訪れた皆様が現地のお買い物などにご利用いただける地域通貨としてお返し致します。)

女川町はこんな町

宮城県の東端、太平洋に突き出た牡鹿半島の基部に位置する女川町。
石巻市に隣接し、日本有数の漁港「女川漁港」をもつ海のきれいな港町です。
中でも秋の味覚「秋刀魚」の水揚げ量は、全国でもトップクラスの業績を誇ります。

2011.3.11 東日本大震災、そして・・・

東日本大震災の発生。海に広く面している女川町は、津波によって壊滅的な被害を受け、10名にひとりという多くの町民が犠牲になりました。
震災から3年経った現在、町の復興計画は着々と歩みを進め、大型重機による造成工事が行われています。

今しか見ることのできないこのまちづくりを、次の大災害への備えに繋げてほしいと願う女川町の方々が、今回このツアーに協力してくださいました!
 


というわけで、15名以上の団体様で申し込みというツアーのようです。
 
職場や町内会などなど、こうした旅行の幹事をなさっている方、いかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月25日
 
昭和25年(1950)の今日、帝国劇場で藤間節子舞踊リサイタルが開催され、「智恵子抄」第二集(「風にのる智恵子」「昇華」)が発表されました。
 
光太郎はパンフレットにエッセイ「再び村にて」を寄せています。

去る15日の日曜日に、二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんとともに、光太郎ゆかりの地・宮城女川を訪問しました。
 
その際のレポートに書きましたが、『朝日新聞』さんの宮城版に記事が載りました。で、昨日、記事を書かれた石巻支局の小野智美記者から当日の『朝日新聞』が届きました。
 
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以前にも書きましたが、ネットで見るのと、実際に新聞の紙面で見るのとでは、感じが違いますね。
 
それから、「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表からは、集合写真を送っていただきました。
 
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背景は女川港。小山ができていますが、ガレキではありません。この一帯は1メートル以上地盤が沈下しているとのことで、これを使って水際のかさ上げ工事を行うための資材です。
 
まだまだ東北は復興途上。ご理解とご支援をよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月24日
 
昭和18年(1943)の今日、千葉三里塚に住む親友の水野葉舟に手紙を書きました。
 
ミッドウェー海戦の大敗から1年、前月には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、アリューシャン列島のアッツ島で日本軍守備隊が総員玉砕、翌月には日本本土が初めて空襲を受けるなど、敗色濃厚となっていた時期です。
 
同時に物資欠乏も進んでいた時期で、71年前の今日の手紙も、そうした世相を反映しています。
 
今朝「食べられる野草」下巻ありがたくいただきました。一通り皆実験してみようと思つてゐます、
 
「食べられる野草」は葉舟の著書。月明文庫の一冊として、上巻は前年に、下巻はこの年5月に刊行されています。

近刊です。

『日本美術全集 17 前衛とモダン』003

小学館刊行
北澤憲昭著 
定価 :本体15,000円+税 
発売日 2014/06/25
 
判型/頁 B4判/320頁
 
 
美術「誕生」を経て、美術「変容」へ
明治末から大正にかけて、日本の近代美術は内面性と社会性に目覚めてゆきます。高村光太郎が芸術の絶対自由を叫び、荻原守衛は内的生命を高らかに歌い上げ、岸田劉生が内なる美を唱えます。
伝統派の絵画に、装飾性に満ちた清新な地平が切り開かれたのもこの時代でした。
そして、アヴァンギャルドたちは絵画や彫刻の枠から美術を解き放ち、民芸運動は美術と生活につながりを見出してゆきます。
関東大震災に見舞われたこの時代は、明治がつくりあげた美術が激しく揺さぶりをかけられた時代でもあったのです。
黒田清輝、青木繁から始まるこの巻では、明治が創り上げた美術が大いに変容していく時代に登場した作品を、「自己表現の自覚」と「社会性への目覚め」という新しい視点と数多くの作品で俯瞰します。

目次
 はじめに  北澤憲昭
 テクノロジーからアートへ ―― 制度史的なスケッチ  北澤憲昭
 「表現」の絵画  北澤憲昭
  (コラム)日本近代美術史にみるユートピア思想  足立 元
  (コラム)震災の記録画  ジェニファー・ワイゼンフェルド 
 図案と写真  森仁史
  (コラム)書の近代 ―― 「型」から造型へ  天野一夫
 偶景『狂った一頁』 ――日本映画と表現主義の邂逅  藤井素彦
 都市空間のなかの造型 ―― 建築・彫刻・工芸  藤井素彦
 いけばなの近代化と未遂の前衛  三頭谷鷹史
 前衛――越境する美術  滝沢恭司
 図版解説
 関連年表
 序文英訳・英文作品リスト
 
『日本美術全集』。小学館さんの創業90周年記念ということで、一昨年から全20巻の予定で刊行中です。刊行開始時、この手の全集ものの刊行は時代の流れに逆行しているという批判、「大丈夫か?」と危ぶむ声などがありました。そのあたりは、編集委員でもある美術史家の辻惟雄氏による「日本美術全集の刊行にあたって」に詳しく書かれています。
 
世界あるいは日本の美術史上の作品を網羅して、パブリック(一般読者層)に提供する大型の「美術全集」が日本で初めて刊行されたのは、昭和初期の平凡社版『世界美術全集』(1927〜30)が最初とされる。
第二次大戦後、平凡社から再び『世界美術全集』が出された。そのとき高校3年だった私は、父にねだって、黄色い布の表紙に皮の背表紙をつけた第1回配本を手に入れた。そのときの喜びは忘れられない。
以後、角川書店版『世界美術全集』を経て、小学館の『原色日本美術』(1966‐1972)が空前の美術出版ブームを巻き起こし、その余熱のなかで、学研版『日本美術全集』(1977-80)、講談社版『日本美術全集』(1990‐94)、小学館版『世界美術大全集(西洋編・東洋編。日本美術は含まず)』(1992‐2001)と続いた。しかし、このあたりで、美術全集の刊行は途切れてしまう。編集費の増加が定価を釣りあげた。テレビの美術番組や展覧会カタログが充実してきた。執筆内容がアカデミックで難解になった。大型本を置く場所がない、などの理由に加えて、コンピュータによるデジタル画像の普及が、紙に印刷する美術図書の存続を脅かしている、という見方もある。
だが、そのような状況にあっても、従来の大型版『美術全集』は引き続き必要だ。
美術作品の観賞には、大型の図版が必須である。将来それは、家庭に備えられた大型の液晶パネルに表示された画像に取って代わるかもしれない。だが決して簡単には実現しないだろう。版権など、ややこしい問題が控えているからだ。場所塞ぎとはいえ、大型本『美術全集』の役割はまだまだ続くだろう。ただ、古びた内容だけは御免だ。
今回の企画は、アカデミズムの世界からスタートしながら、あえて日本美術の広報担当者を目指す山下裕二氏の案に基づいて発足した。気鋭の若手美術史家の登場を促すと同時に、難解な論文をチェックする。最近の研究成果を反映させ、若者の美意識にも添った新たな作品の価値づけをする。新鮮で魅力ある図版を載せる。「東アジアの中の日本美術」(第6巻)、「若冲・応挙、みやこの奇想」(第14巻)「激動期の美術」(第16巻)、「戦争と美術」(第18巻)など、巻立てにも新しさを盛り込む――こうした様々の工夫がなされている。
20年ぶりの『日本美術全集』に、ご期待いただければ幸いである。
 
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あえてこの時代にこうした豪華全集を世に問う小学館さんの英断、出版社としての良心に敬意を表さざるを得ません。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月23日
 
平成7年(1995)の今日、テレビ朝日系「驚きももの木20世紀」で「愛の詩集「智恵子抄」の悲劇―高村光太郎と妻・智恵子―」が放映されました。
 
司会は三宅裕司さん、麻木久仁子さ005ん。スタジオゲストは斎藤慶子さん、故・池田満寿夫さん。ナレーションは伊東由美子さん、間宮啓行さん。
 
Vには北川太一先生、高村規氏、さらには、光太郎の親友・水野葉舟のお嬢さんで、やはり光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八と結婚した故・尾崎実子さん・栄子さん母娘、智恵子の姪・斎藤美智子さん、岩手時代の光太郎を知る宮森祐昭さんがご出演。犬吠埼、九十九里、二本松、花巻、そして今はなき不動湯温泉などでのロケ、その他資料の静止画像も豊富でしたし、俳優座の皆さんによる再現Vも素晴らしい作りでした。
 
翌年にはブックマン社から関連書籍『驚きももの木20世紀 作家、その愛と死の秘密』が刊行され、この回の内容も約30ページでまとめられています。

連翹忌ご常連で、詩人の豊岡史朗氏から、氏の主宰する詩誌『虹』の第5号を戴きました。
 
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豊岡氏による評論「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」が掲載されています。
 
題名にある北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』とは、平成21年(2009)に、北川太一先生の教え子の皆さん・北斗会の方々が出版にこぎつけたもので、平成19年(2007)11月、当時の文京区立本郷図書館鷗外記念室で開催された北川先生の講演に加筆修正されたものです。
 
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「観潮楼」というのは鷗外が団子坂上の自宅につけた雅号。ここが文京区立本郷図書館鷗外記念室だったところで、現在は文京区立森鷗外記念館となっています。駒込林町の光太郎アトリエとは指呼の距離です。
 
「一夜」というのは大正6年(1917)10月9日の夜。昨年、このブログの【今日は何の日・光太郎】の10月9日の項に書きましたが、この直前に、光太郎が鷗外の悪口を言いふらしている、という話を聞きつけた鷗外が、光太郎を呼び出したのです。会見の様子については、昨年10月9日の項をご覧下さい。
 
『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』は、この夜の出来事を中心に、光太郎と鷗外の交流を詳細に追っています。詩誌『虹』の「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」は、『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』の紹介、感想を軸に、さらに二人の留学体験、新たに開館した鷗外記念館などにも触れています。
 
ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月22日
 
平成3年(1991)の今日、徳島県立近代美術館で、企画展「日本近代彫刻の一世紀―写実表現から立体造形へ―」が開幕しました。
 
茨城県近代美術館と2館巡回での企画展。光雲の「観音像頭部」(明治28年=1895)、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916)、「手」(大正7年=1918頃)をはじめ、二人と関係する彫刻家の作品から現代彫刻までがずらっと並びました。

光太郎の詩などにオリジナルの曲を附けて歌っているモンデンモモさんから、来月のライヴのご案内をいただきました。

Gマジックライブ VOL8 2014

日 時 : 2014年7月6日(日) 15:00~
会 場 : Z.imagine 港区北青山2-7-17 青山鈴越ビルB1F
      東京メトロ銀座線 外苑前駅 神宮球場方面出口下車 2番・3番出口を出てすぐ
料 金 : ¥3,000(ドリンク別) 学割あり
 
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ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月21日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校校長・浅沼政規と、読売文学賞の賞金の使い道を相談しました。
 
当日の日記から。
 
学校の学芸会用の幕の為に2万円寄附せんと思ふ。校長さんに話す。
 
前の年に刊行した詩集『典型』が、第二回読売文学賞に選ばれたのが前月。その賞金をそっくり寄附してしまおうというわけで、下記の幕ができあがりました。
 
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描かれているのは山口小学校の校章。このデザイン案も光太郎です。
 
浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年 ひまわり社)より。
 
 昭和二十六年、高村先生が読売文学賞の賞金を寄付してくれ、そのお金で式場用の幕を新調することになり、校章の図案を高村先生にお願いすることにしました。高村先生は快く承諾して、図案を作ってくれることになりました。
 お願いしてから何日かあと、高村先生から
「いろいろ考えてみました。花の模様はどこでも採っているのですが、ここではあまり特徴になりません。文字の図案化もただそれだけの意味です。ここの名産とか、特に関係のあることを考えて見ました。その結果、栗の図案を考えてみましたが、どうでしょうか。ここは栗の産地で、たくさん栗の木があり、栗は大きくなり、木は丈夫で堅く強く、実は青いうちはいがで包まれていますが、熟すといがが開き、丸々とした実がつやつや美しく、食べると、なににもましてうまい。うまいものの代名詞ともなっているくらいです。栗の実の雌しべを上向きにし、それを円で囲み、山口と文字を入れます」
 と図に描いてくれました。
「なるほど栗はここの土地に合うし、堅実を表しますので、それにいたしましょう」
 職員とも相談し、図画の得手な菊池高雄先生が図案を描いて、小屋にいって高村先生に見ていただき、それを校章として決定し、幕に染めることになりました。
 式場用幕は五つで、ステージの前上方の垂れ幕の左と右に校章を大きく染めることになりました。
 
山口小学校は廃校となりましたが、この幕は大切に保存されています。

光雲の彫刻作品の展示がある展覧会情報を二つ。 

東日本大震災復興祈念・新潟県中越地震復興10年 法隆寺 祈りとかたち

期 日 : 2014年7月5日(土)~8月17日(日)
会 場 : 新潟県立近代美術館 新潟県長岡市千秋3丁目278-14
時 間 : 9:00~17:00  券売は16:30まで
休 館 : 
7月7日(月)、14日(月)、22日(火)、28(月)、8月4日(月)
  
  催 新潟県立近代美術館 新潟日報社 BSN新潟放送 UX新潟テレビ21
           「法隆寺 祈りとかたち」新潟展実行委員会 法隆寺
特別協力 朝日新聞社
協  賛  大伸社
協  力  日本通運/塩竃港運送
特別協賛  株式会社 福宝

 
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展覧会の概要
 法隆寺は、推古15年(607)に聖徳太子によって斑鳩宮(いかるがのみや)の近くに創建された日本を代表する古刹です。『日本書紀』によれば、天智9年(670)4月30日夜半に落雷によって全焼したとされ、再建には40年を費やしました。その間に、太子時代の優れた仏教美術が多数集められ、法隆寺は太子建立寺院から太子信仰寺院へと変貌を遂げました。現在では、日本で初めて世界文化遺産として指定を受けたことでも、世界中により知られるようになりました。
  本展では、法隆寺が太子信仰寺院として復興していった歴史を踏まえ、国宝《地蔵菩薩立像》をはじめとして、重要文化財18点を含む法隆寺の宝物と、東京美術学校との130年に渡る交流の歴史の証でもある、高村光雲、平櫛田中らの聖徳太子像や《法隆寺金堂壁画模写》、そして法隆寺信仰を示す近代日本美術作品など、一堂に紹介します。
  本年は東日本大震災から3年、そして奇しくも新潟県中越地震から10年にあたります。震災を乗り越えられた方々に、法隆寺再建という歴史を見据えつつ、「日本美術や日本人の精神文化の再発見」を供することは歴史的にも、そしてそれぞれの「復興」という意味においても意義深い展覧会であると言えるでしょう。

展覧会構成
第1部 美と信仰 法隆寺の仏教美術 
第2部 法隆寺と東京美術学校
第3部 法隆寺と近代日本美術

関連イベント
■講演会 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
 7月5日(土) 13:00~   「和の社会と日本文化」 講師:大野玄妙 氏(法隆寺管長)
 7月26日(土) 14:00~  「法隆寺の美術と聖徳太子」 
講師:水野敬三郎 氏(同館名誉館長・東京藝術大学名誉教授)

■関連講座 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
  8月2日(土)14:00~ 「金堂壁画と日本近代美術」 講師:長嶋圭哉(同館主任学芸員)
■映画鑑賞会 講堂 [無料] 申込不要・先着165名
  7月19日(土)14:00~/15:00~ (2回上映)    映画『聖徳太子』(1994年25分)

 
仙台東京(明後日まで開催中)と巡回され、最後の巡回先の新潟での展覧が始まります。
 
東京美術学校関係者の法隆寺に関わる作品、ということで、光雲の「聖徳太子像(摂政像)」が二体(明治44年=1911、昭和2年=1927)並びます。また、第三部には、法隆寺の103世管主であった佐伯定胤の像も。こちらも光雲作です(昭和5年=1930)。
 
仙台、東京とも好評でした。ぜひ新潟展も盛況となってほしいものです。
 

もう一点、詳細がよくわからないのですが、宮崎県からの情報です。既に始まっています。 

現代人気作家彫刻展

会  場 : 宮崎山形屋 本館6階 美術画廊 宮崎市橘通東3丁目4番12号
開催期間 : 2014年6月18日(水)~30日(月)
開催時間 : 午前10時-午後8時  ※最終日午後5時終了
 
こちらでも光雲の彫刻が並んでいるとのこと。
 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月20日
 
昭和59年(1984)の今日、『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』が刊行されました。
 
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編集・解説は北川太一先生。数百枚の写真を使い、さらに的確な解説で、光太郎の生涯を非常に分かりやすく俯瞰できる作りになっています。
 
刊行後30年経ちますが、まだ新潮社さんのサイトから、新刊で購入できます。

このブログでご紹介した阿部公彦氏著 『詩的思考のめざめ』厚香苗氏著『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』が新聞各紙の書評欄でも取り上げられていますので、ご紹介します。  

『詩的思考のめざめ』 阿部公彦著  

 かつて詩人は、黒いハンドバッグから現れた。
 
 地下鉄のベンチ、眠たい膝枕にことばが降る。やがてレールの削れる音がして、悲しい海底は消える。すぐそばで、見ているみたいだったね。人間の声にもどった母は、詩集を閉じ、子どもの手をひき、まぶしい電車に乗りこんだ。
 
 十年がひとむかしだったころは、そんなふうだった。ひとむかしがふた月ほどのいま、ハンドバッグには電話機がある。肉声は遠くなり、降水確率や星占いの画面を頼りにしている。
 
 阿部公彦さんは、詩の読解入門ではなく、むしろ門の外に誘うために、この本を書かれた。
 
 遠いありがたい「詩」の世界に一生懸命入っていかなくても、ふだんの日常の中に詩のタネは隠されている。
 
 だれかと抱きあうより、じぶんでじぶんを撫なでさすって、はやく安心したい。感じるより知りたい。美しいより正しいがえらい。読書に正解を求めるほど、詩とひとの通いあいは消える。
 
 けれども墓に追いやるには、詩はあまりに人間そのもの。詩というかこいの外にさえ、あたりまえにいる。阿部さんは、いまと昔のどちらにも中立に、ことばの外苑を案内していく。
 
 詩のことばは名を持たず、恥じらい、はずみ、反復し、連呼し、ときに隠れて黙りこむ。
 
 金子光晴、高村光太郎、宮沢賢治、萩原朔太郎、石垣りん、伊藤比呂美、田原でんげん、谷川俊太郎。
 
 詩人が刻む光陰に、どんなふうに腕をのばし、触れれば、めざめの扉を見つけられるでしょう。
 
 詩人と読者、ふたりきり。道行きを案内する阿部さんは、古い時計をなおすように、一語一句を分解し、作品のメカニズムをもみほぐす。
 
 礎だった詩はふたたび動き、新しい詩は朗らかな通訳者を得た。そして、この本を読むひとは、内容を解読しようとするこころの回路を切り、あどけない詩的身体を取りもどす。
 
 うごめくことばに触れてみる。張りつく熱と重い骨、耳もとの詩人の息を抱きしめる。
 
 ◇あべ・まさひこ=1966年、横浜市生まれ。東大准教授(現代英米詩)。著書に『文学を〈凝視する〉』。
 東京大学出版会 2500円
『読売新聞』
 
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『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』厚香苗〈著〉

◇洗練された相互扶助のシステム

 神社の縁日などで露店を連ね、綿あめやタコ焼きを売る「テキヤさん」。わくわくするようなムードを運んできてくれる、お祭りには欠かせない存在である。
 
 かれらはいったい、どこからお祭りにやってくるのか。映画『男はつらいよ』の主人公・寅さんもテキヤさんで、全国を旅している。そのイメージもあり、お祭りを追って旅から旅の毎日を送っているのかなと思っていたのだが、実はかれらは、基本的には近所(十二、三キロ圏内)から来ていたのだ!
 
 著者は実際にテキヤに同行し、関係者に取材をして、テキヤの縄張りやしきたりを調査する。また、近世・近代の文献や絵画を調べ、テキヤのあいだにどういう信仰や言い伝えがあるのかひもといていく。外部からはなかなか見えにくく、明文化されにくい、テキヤの日常や風習に見事に迫った一冊だ。
 
 縁日で、神社の境内のどこにどんな露店を配置するかを、だれが指示しているのか。縄張り以外の場所へ行って商売するときは、地元のテキヤにどう挨拶し、どこに泊まればいいのか。非常に洗練された、テキヤ間の相互扶助的なシステムが構築されていることがわかる。西国、東国、沖縄とで、それぞれ微妙にテキヤの慣習がちがうらしいというのも、興味深い。いろんな地域の縁日に行って、ちがいを見わけられるか試みたくなってくる(素人にはむずかしそうだが)。
 
 露店は家族経営で、女性も一緒になって働く。テキヤ界で、女性がどういう立ち位置にあるのかに光を当てたのも、本書の非常に重要な部分だろう。著者は取材対象者との距離感が適切で、それゆえに相手から信頼され、公正で充実した研究として結実したのだと思う。
 
 テキヤさんの生活や伝統を知ることができ、その存在にますます魅力を感じた。今年の夏祭りが楽しみだ。

 評・三浦しをん(作家)
     
 光文社新書・821円/あつ・かなえ 75年生まれ。文学博士。慶応大学、立教大学非常勤講師など。
 『朝日新聞』
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書評にはその文字が入っていませんが、光雲(というかその父=光太郎祖父でテキヤだった中島兼吉)についての記述があります。
 
ぜひお読み下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月19日
 
平成17年(2005)の今日、前橋市民文化会館小ホールで箏曲奏者・下野戸亜弓のリサイタルが開催されました。
 
光太郎詩に小山清茂が曲を附けた「樹下の二人」が演奏されました。同年、ライブ録音がCD化され、発売されました。
 
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    あどけない話 003
 
 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ、
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。
 
右の画像、以前も使いましたが、二本松の智恵子生家です。
 
東日本大震災後、この「あどけない話」に出てくる「ほんとの空」の語が、一種のキーワードのように使われています。派生的に「ほんとうの空」という語も。
 
いずれ光太郎智恵子の歿後年譜的なものの中に、「平成23年(2011) 東日本大震災発生。詩「あどけない話」中の「ほんとの空」の語が復興支援のキーワードとなり、広く使われる」といった記述がなされそうな気配です。
 
さて、近々あるイベント、テレビ放映から「ほんとの空」がらみをご紹介します。 

「ほんとの空☆星空を見上げてみよう!」

夏の夜空を見上げてみよう!福島市の街なかで005、星空観測会が開催されます。
参加は無料です。
綺麗な星空を眺めてみましょう(^O^)

「街なか観望会」
開催日:6月29日(日)雨天中止
時 間:19:00~20:30
会 場:街なか広場
・一番星を見つけよう/土星観察/火星観察/
 北極星をさがそう
 
「板垣公一氏 講演会」
開催日:6月30日(月)
時 間:13:00~14:30
    (先着100名 記念品もあります)
会 場:福島テルサ FTホール
演 題:豆と超新星発見のかかわり
講 演:山形大学名誉博士・超新星ハンター 板垣 公一氏
入 場:無料

【お問い合わせ】 福島市浄土平天文台
0242-64-2108

★日本で一番星空に近い天文台「浄土平天文台」。手を伸ばすと届きそうな満天の星空を楽しんでみては♪
 
昨秋も同様のイベントで「ほんとの空」の語が使われていました。
 

 
続いてテレビ放映情報ですが、ただし、高知県限定です。

「ほんとの空」

高知さんさんテレビ 2014年0066月22 (日)  15:25 ~ 16:05 (40分)
 
 高齢者や外国人に対する排除、不利益な扱い、同和問題や原発事故に伴う風評被害の問題、これらに共通する根っこの部分は、誤った考え方や思い込み、偏見という「意識」である。
誰もが他者の排除や差別がよくないことは理解している。その一方で、自分や身近な人に関わる出来事には敏感に反応するが、それ以外のことは他人事のように感じたりする。また、自分や家族の生活を守るために、あるいは誤解や偏見に気づかず、他者を排除したり傷つけたりしがちである。
誤解や偏見に気づき人と深く向き合うこと、他者の気持ちを我がこととして思うこと。すべての人権課題を自分に関わることとしてとらえ、日常の行動につなげていくようにと訴える。
 
出演 白石美帆 鳥羽潤 湯浅美和子   浦上晟周 石川大樹 他
 
兵庫県人権啓発協会さんが企画、県教委の協力で、東映さんが製作したものです。もともとは自治体主催のイベントや学校で上映するためにつくられたのではないでしょうか。
 
東映イー・ヴィ・エスさんでDVDを市販していますが、価格が80,000円+税。ちょっと高いですね。兵庫県人権啓発協会さんでは無料レンタルを行っているようです。ただ、個人貸し出しではなく、やはり自治体や学校、企業での使用に限るとのこと。


 そちらのページからあらすじを抜粋させていただきます。
 
 向井弓枝は、パート先のスーパーで、高齢の客のおぼつかない行動に不快感を持つ。自宅のマンションのエレベータでも、高齢の人や障害のある人に対してイライラを募らせる。弓枝は、面倒な人が多く住むこのマンションではなく、一戸建てや新築マンションに引つ越したいと、夫の勇に訴える。
 
 弓枝の一人息子の輝は、空オタクだ。いつも空や雲のことを考えていて友だちもいない。カメラを抱えた輝が自宅に帰つてくると、隣の部屋のドアが開き、見知らぬ外国人が引越をしている。外国人に対して偏見を持つている弓校と勇の話を聞き輝も「みんな不法滞在なんだから送り返せばいいJと言う。
 
 輝がマンションの屋上に行くと、同じ年頃の少年 龍太が空にカメラを向けていた。空好きの二人は意気投合し、輝は龍太を家に招く。夕食をいただいたお礼にと 龍太の母の美里が、故郷福島の草木染めの布を持つてくる。最初は喜ぶ弓枝だつたが、パート仲間の意見もあり 放射能への恐ろしさから布を捨ててしまう。そしてそれを、龍太がゴミ置き場で発見する。
 
 学校からの帰り道、輝は、龍太が同級生たちから放射能のことでいじめられているのを見つけ加勢するが、二人とも投げ飛ばされる。同級生を非難する輝に、「お前も同じだろ」と龍太は叫び、「草木染めをなぜ捨てたのか」と詰め寄る。それを同じマンションの高齢者、千代子とタイ人ロークが止める。帰宅した輝は母を責め、家を飛び出す。
 
 輝を探す弓枝と勇。輝は、隣のタイ人夫婦□―クとノイのところにいた。夫婦はタイ料理店で働いていて、店を持ちたいので試食してほしいと申し出る。皆で食卓を囲みながら、ノイの思いを知つた輝は、廊下の鉢植えを割つたことを謝り、勇も偏見を持つていたと告げる。握手をする勇と□―ク。その様子を笑顔で見つめる弓枝は ふと台所の隅に 自分が捨ててしまった草木染めがあることに気づく。
 
 ノイから 草木染めを譲つてもらった弓枝は 美里の家に。そして自分の気持ちを伝えようとするが……。
 
このたび高知さんさんテレビさんでオンエアされます(もしかすると以前にも全国どこかでテレビ放映されたかもしれません)。
 
高知の皆さん、ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月18日

平成6年(1994)の今日、青森十和田湖畔の裸婦像かたわらに、詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」を刻んだ詩碑が除幕されました。
 
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この年、損傷の目立った裸婦像の補修工事が行われ、それにともなって、光太郎肉筆原稿から文字を起こし、新たにこの碑が付設されました。
 
  十和田湖畔の裸像に与ふ

銅とスズとの合金が立つてゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひがない。007
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のやうに立つてゐる。
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪へて
立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。

土日で宮城女川を中心に動き回って参り003ました。昨日はメインの女川についてレポートしましたが、今日はその前後について書きます。
 
6/14(土)、東北へ向かう道すがら、まずは千葉県柏に立ち寄り、NPO法人エアロームかしわさん主催の公開講座 「光太郎と智恵子の愛」に参加して参りました。
 
会員の方々の勉強会的なおもむきで、一般の方も参加自由、というスタンスでしたが、会員外は当方のみ、全員で0057名でした。そのくらいの人数だろうと
ある程度は予想していましたし、そういう中に当方のような者が混ざるのも迷惑かな、とは思っておりましたが、やはり「光太郎智恵子」と冠したイベントがあると引き寄せられてしまいます(笑)。
 
いつも同じようなことをあちこちで言ったり書いたりしていますが、どんなに優れた芸術家、芸術作品でも、後世の人間がその業績なり作品なりをしっかりと正しく受け止め、さらに次の世代へと受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に埋もれ、忘れ去られてしまうものです。そういう意味では、こうして市民の方々がこうした講座で光太郎智恵子について勉強されるというのは、ありがたいかぎりです。
 
その後、一路、福島は二本松へ。
 
翌朝7時に旧安達町の智恵子の生家・記念館の駐車場からバスで女川に出発ということで、前泊しました。普段、二本松宿泊の際には安達太良山麓の岳温泉に泊まることが多いのですが、旧安達町までは少し遠く、7時出発ということで、智恵子の生家・記念館にほど近い「かねすい 智恵子の湯」さんに泊まりました。
 
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以前に昼食に立ち寄ったことはありましたが、宿泊は初めてでした。なかなかこぎれいな部屋で、鉄分多めの茶色い鉱泉もいい感じでした。窓を開けると智恵子の母校・油井小学校が見えました。
 
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翌朝、7時に「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんと共にバスに乗り込み、女川へ。女川のレポートは夢くらぶさんのサイト、それから昨日の当ブログをご覧下さい。
 
女川を出たのが正午近く。塩竃の大入寿司さんに寄って昼食。美味でした。
 
その後、仙台へ向かい、まず仙台文学館さんに。現在、企画展「仙台文学館・開館15周年記念特別展 石川啄木の世界~うたの原郷をたずねて」が開催中です。企画展といえば、こちらでは平成18年に「高村光太郎・智恵子展―その芸術と愛の道程―」を開催して下さいました。その時と、その後も調べ物で何度かお邪魔しましたが、久々の訪問でした。
 
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啄木と光太郎は与謝野夫妻の新詩社や『スバル』で顔見知り。ただ、それほど深い交友はなかったようで、直接、光太郎に関わる展示はありませんでしたが、それでも「新詩社同人名簿」「新詩社規則」、それから与謝野夫妻や北原白秋、吉井勇など、光太郎と縁の深い人物の資料も多く、興味深く拝見しました。
 
また、「銭形平次」シリーズの作者・野村胡堂に宛てた書簡類が数多く並んでいました。今年3月に岩手紫波町の「野村胡堂・あらえびす記念館」さんに行つたばかりなので、「ほう」と思いました。そのときのレポートにも書きましたが、胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
続いて宮城県美術館さんへ。昨年1月、大雪の中、企画展「生誕100年 追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を観に行って以来でした。
 
現在は企画展「手塚治虫 × 石ノ森章太郎 マンガのちから」を開催中でしたが、時間の関係でそちらは割愛、常設展と別館の佐藤忠良記念館のみ観て参りました。
 
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新緑の中で観る忠良彫刻もいいものでした。
 
その後、二本松に戻り、解散。更に当方は愛車を駆って千葉の自宅に戻りました。強行軍でしたが、有意義な旅でした。
 
昨日も書きましたが、まだまだ東北は被災中。足を運ぶことも復興支援になります。よろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月17日
 
昭和22年(1947)の今日、連作詩「暗愚小伝」の原稿28枚を小包にし、発送しました。
 
自らの戦争責任に思いを馳せ、生涯を振り返った20篇の連作詩です。花巻郊外太田村の独居生活も、この「暗愚小伝」執筆以前は無邪気に文化村の建設みたいなことを考えていましたが、この頃から「自己流謫(るたく)」―自分で自分を流刑に処する―という方向に転換していきます。

一昨日から昨日にかけ、二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行に混ぜていただいたりで、出かけておりました。そのレポートを今日明日で。
 
まず、メインだった女川訪問についてです。
 
昭和6年(1931)夏、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は女川を含む三陸海岸一帯を約1ヶ月旅して歩きました。それを記念して、平成3年(1991)、当時の女川港の海岸公園に光太郎の文学碑が建てられ、翌年からその碑の前で、女川光太郎の会の皆様により、「女川光太郎祭」が開催されています。
 
会の中心だった貝(佐々木)廣さんが津波に呑まれて亡くなり、繁華街は壊滅状態になるなど、東日本大震災による甚大な被害を乗り越え、今も「女川光太郎祭」は続いています。一昨年昨年は当方も参加して参りました。昨年からは講演もさせていただいております。
 
かつて「女川光太郎の会」の故・貝さんは二本松の智恵子追悼行事「レモン忌」にご参加なさり、「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表は逆に女川光太郎祭に行かれたこともあるとのことで、以前から交流がありました。「智恵子のまち夢くらぶ」さんでは、毎年この時期に光太郎智恵子ゆかりの地を訪ねる研修旅行を実施されていて、今年はそういうわけで女川に行かれたのです。双方と関わっている当方も混ぜていただきました。
 
さらに今年3月、東京は表参道で開催された「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」と、その関連行事としてのトークイベントがあり、そこでご縁を結ばせていただいた『朝日新聞』石巻支局の小野智美さんに、「「光太郎が取り持つ被災地同誌の縁」的な記事になりませんか」と、連絡を入れておいたところ、取材にいらしてくださり、早速、今朝の宮城版に記事が載ったようです。

女川の光太郎の碑に花束と涙 福島から21人

 女川港のそばに横たわる高村光太郎の文学碑2基に15日、花が手向けられた。光太郎の妻、智恵子の出身地、福島県二本松市で顕彰活動をしている「智恵子のまち夢くらぶ」の21人が持参した。福島第一原発事故に日々、向き合うメンバーは、津波被害の現実を目の当たりにして「私たちも頑張ろう」と涙をぬぐった。
 夢くらぶ代表の熊谷健一さん(63)は3基の文学碑ができた1991年以来、町で光太郎の顕彰活動を続けていた「女川・光太郎の会」事務局長の貝廣(ひろし)さんらと交流してきた。15日は、津波で命を落とした貝さんを思い、変わり果てた町で暮らす人々も思って「悲しみの中で一生懸命生きる方々に私たちが励まされます」と声を詰まらせた。
 1基の詩碑は津波で流されて行方がわからない。残った2基の復興後の置き場所はまだ決まっていない。(小野智美)
 
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「智恵子のまち夢くらぶ」の皆さんは、ほとんどが初の女川訪問ということでしたし、熊谷代表他、何度目かの訪問だという方も震災後は初めてということで、かつての繁華街が消滅してしまった女川に息を呑まれていました。
出迎えて下さった「女川光太郎の会」の佐々木英子さん、笠松弘二さん、そして小野記者を前に、熊谷代表は感極まって嗚咽しながらのご挨拶でした。
 
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現在残った2基の光太郎碑がこちら。
 
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上記記事の写真を撮る小野さん。
 
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その後、かつて地元住民の100円募金で建てられた光太郎文学碑の精神を受け継ぐ、女川中学生徒の尽力で建てられた「いのちの石碑」(4月に建てられた4号碑)、仮設商店街「きぼうのかね商店街」を廻り、女川をあとにしました。
 
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女川は訪れるたびに少しずつ復興が進んでいますが、ほんとうに「少しずつ」であるのがもどかしいところです。福島は福島で、昨日もバスの中での皆さんの会話に耳を傾けていると、「おらほの庭は今度ぁ、5センチの除染だない」といった発言が聞こえる状況です。
 
まだまだ「被災」は続いています。「復興」へのご協力を。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月16日
 
明治34年(1901)の今日、新詩社茶話会に出席しました。
 
弱冠19歳(数え)の光太郎、既に与謝野夫妻にその才を認められ、雑誌『明星』の「文芸雑俎」欄責任執筆者の一人に推されました。

昨日から一泊で出かけておりました。
 
千葉・柏、福島・二本松、宮城・女川と仙台を廻り、先程帰宅致しました。
 
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詳細は明日以降、レポート致します。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月15日
 
昭和26年(1951)の今日、龍星閣から『随筆 独居自炊』を刊行しました。
 
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『朝日新聞』のデジタル版に、以下の記事が出ました。御堂筋彫刻ストリートに関してです。よくわからないのですが、関西地区では紙面にも載ったのでしょうか。

(勝手に関西遺産)ほんまもん 29体どうぞぅ

彫刻ストリート
 オーギュスト・ロダンといえば、世界で最も有名な彫刻家ではないか。日本一は高村光太郎か。印象派の画家ルノワールが、病気で手が不自由になった後、彫刻に力を入れたなんて話、知ってました? そんな貴重な作者らの彫刻作品がそろって、御堂筋沿いにあるのです。
 どうせコピーでしょって? それが本物なのです。
 1991年、大阪市が音頭をとって寄付を募り、沿道の企業などがこぞって設置した。他にもヘンリー・ムーア、舟越保武(やすたけ)などなど。最近、個人から寄付されたものもあり、現在は29体が並ぶ。
 グレードを統一するため、専門家による設置検討委員会が、一流の候補作家リストを作った。テーマは「人間讃歌(さんか)」、モチーフは人体、素材はブロンズに絞った。
 委員長を務めた木村重信・大阪大名誉教授(88)は語る。「御堂筋は日本のシャンゼリゼ。人体という以上、等身大でなくては。小さかったら見栄えがしないですよ」。彫刻ストリートは、大阪の誇りなのだ。
 ただし。作品には、女性のヌードが多い。約半数がまったくの裸。シャツを脱ごうとしているようなポーズも。誰もの目に入る屋外に生(なま)っぽい裸があるので、正直言って、ちょっと引いてしまった。実際、これまでにそんな批判もあったようだ。
 市の都市計画局に尋ねると「人間讃歌がテーマなので人体が中心になり、優れた作品を選ぶと裸体が多くなる」との回答。「公共空間にあることには様々な意見があるかもしれないが、ご理解いただきたい」
 御堂筋の彫刻をめぐっては、3年前の夏、有名なある「事件」があった。一夜にして19体が赤い服を着せられていたのだ。犯人はいまだ不明。もちろん意図もわからないが、痛快な気持ちになる。
 余談だが、服といえば、着衣までブロンズでできた超リアルな彫刻が、御堂筋から西に300メートルほど離れた靱(うつぼ)公園にある。米国の彫刻家の作品で、布の質感まで再現し、着色までされているのは驚きだ。
 裸か着衣か。初めはそればかり気にして見ていたが、実は結局、一番気に入ったのは素っ裸の作品だった。ふくよかでおおらかな、ボテロの「踊り子」。頭でっかちで見ると、損をする。当たり前のことに気づかせてくれた彫刻群を、「関西遺産」に推したい。(安部美香子)
 
■大阪市のガイドツアー講師 伊藤義麿さん(76)
 20年ほど前、仕事で御堂筋の日本生命を訪れ、ブールデルの彫刻を見ました。ロダンの弟子だが日本では知名度が低い。コピーかと思ったら本物。極めて高い見識で選ばれたものだ、と驚きました。私の父は1920年代、パリに学んだ美術評論家の柳亮(やなぎりょう)です。父の親友で、ブールデルの弟子にあたる清水多嘉示(たかし)の作品もある。貴重さが意外に知られていないので、もっと大事にしてほしいですね。
 
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先月行われたまちあるき「御堂筋は名彫刻の宝庫だ(東側コース)~グレコも高村光太郎も~」を受けての記事らしく、その際にガイドを務められた伊藤義麿氏の談話も載っています。
 



 
新聞といえば、『伊豆新聞』なる地方紙に以下の記事が出ました。明日のイベントなのですが、掲載されたのが昨日で、もう間がありませんが、とりあえずご紹介します。

講演と朗読会15日に開催 熱海・起雲閣で、ピアノ、合唱も

 NPO法人地球環境フォーラムと文学と朗読の会・天海地が共催する「講演と朗読会」(エフエム熱海湯河原協賛)が15日午後1〜午後5時、熱海市昭和町の起雲閣で開かれる。入場無料。
 第1部(講演の部)は、独立行政法人・海洋研究開発機構の岩瀬良一さんが「地震について」を演題に講演する。
 第2部(朗読の部)は天海地の会員が「高村光太郎・智恵子・2人の愛のかたみ」 「源氏物語・桐壺・序編」などを朗読する。
 特別出演として朗読家飯島晶子さんが「恋する伊勢物語・初冠・筒井筒・東下りの段」を読み上げる。
 ピアノ演奏や合唱なども予定している。終了後は近隣の店で、懇親夕食会(有料)も開催予定。
 問い合わせは天海地の空麦秋代表〈携帯070(5543)6295〉へ。
 
 いろいろと光太郎智恵子を取り上げて下さり、ありがとうございます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月14日
 
昭和21年(1946)の今日、詩「雲」を執筆しました。
 
    雲
 
あの雲を見たまへ。
地面からたつ水蒸気の冷えてできた
小さな、小さな水玉の集団があの雲だ。
大空のあそこからあそこまで、006

なんといふ大きなかたまりだらう。
なんというりつぱさだらう。
見てゐるうちに形をかへて
ぐんぐんと進んでゆく。
太陽に色どられた空中のパレット。
光とかげとの運動会。
雲には雲の規律があり、
山にかかる形や位置まで
ちゃんと天気の予報をする。
小さな、小さな水玉が
あんな大きな力を出す。
あの雲を見たまへ。
雲はいいなあ。
おもしろいなあ。
 
画像は昭和6年(1931)、『時事新報』に連載した紀行文「三陸廻り」の挿画で「雲のグロテスク」。光太郎自筆のペン画です。

昨年から今年にかけて出版されたもののうち、ちらっと光雲について記述があるものを3点紹介します。 

戦争という見世物 日清戦争祝捷大会潜入記006

木下直之著
2013年11月20日
ミネルヴァ書房
定価 2,800円+税
 
 
日清戦争に勝利し、日本中が沸いた明治二七年一二月九日。上野公園不忍池付近で開催された、「日清戦争戦捷祝賀大会」にタイムスリップ。清国軍艦撃沈の劇、大きな凱旋門……その祝賀大会の様子を史実に沿い、日本の見世物研究の第一人者が生き生きと活写する。
 
[ここがポイント]
・明治27年12月9日、日清戦争戦捷祝賀大会の全
 貌が明らかに。
・貴重な写真を多数掲載。
・見世物研究の第一人者が活写する。
 
日清戦争祝勝記念ということで、異様に浮かれる明治27年(1894)の東京が描かれます。
 
光雲に関しては、その援助者だった実業家・平尾贊平の依頼で「分捕石鹸」なるものをデザインしたという話が紹介されています。打ち首にされた清国兵の首をモチーフにしたとのこと。ヘイトスピーチのような話です。
 
光太郎に関しても、昭和22年(1947)に発表した連作詩「暗愚小伝」中の「日清戦争」という詩で、平壌の戦いで玄武門突破の戦功を挙げた原田重吉一等兵について取り上げていることにふれています。
 
その他、光雲・光太郎ゆかりの人物がたくさん登場し、さらに当時のある意味狂躁状態だった世相を知るには、うってつけの一冊です。
 
ただし、苦言を一つ。せっかく巻末に「人名索引」が設けられていながら、光雲、光太郎ともに抜け落ちています。内容的には面白い書籍だけに惜しいミスです。


消された「西郷写真」の謎 写真がとらえた禁007断の歴史

斎藤充功著
2014年3月28日
学研パブリッシング
定価 1,800円+税
 
 
歴史上の人物として人気の高い西郷隆盛。だが彼が写っている真正写真はいまだに確認されていない。それはなぜか。本当に写真は存在しないのか……西郷の真正写真を追い求めた筆者による「歴史ミステリー・ノンフィクション」。
 
光雲が制作主任として携わった上野の西郷隆盛像の話-西郷本人に似ていない、とされている-から始まり、確実に西郷隆盛と確認できる写真が伝わっていないこと、そこに明治政府の意図を読み取り、「写真」という新たなメディアツールがどのように取り入れられていったのかまで論じる力作です。一時話題になった「フルベッキ写真」についても触れています。


にほんテキヤはどこからやってくるのか?008 露天商いの近現代を辿る

厚香苗著
2014年4月17日
光文社(光文社新書)
定価 760円+税
 
 
浮かれた気分の人びとが集まるところには、どこからともなく商人がやってくる。ヤキソバを焼くソースの匂いや派手な色彩の露店は、私たちをいつもとは違う心持ちにしてくれる。そんな祝祭空間で生計を立てている露店商たちが本書の主人公である。(「はじめに」より)
主な舞台は東京の下町。そのあたりでは伝統的な露店商を「テキヤさん」と呼んでいる。「親分子分関係」や「なわばり」など、独特の慣行を持つ彼ら・彼女らはどのように生き、生計を立て、商売を営んでいるのか――。
「陽のあたる場所からちょっと引っ込んでいるような社会的ポジション」を保ってきた人びとの、仕事と伝承を考察。
 
民俗学的なアプローチで、「テキヤ」の歴史的背景から現状までの詳細なレポート。光雲の父・兼吉(通称・兼松)が浅草のテキヤだったこと、光雲もその手伝いをしていたことなどに触れています。
 


 
以上3点、すべて光雲がメインではなく、少しふれられるだけではあるものの、いずれも当時の世相、社会的背景といったことを理解する上で、切り口は違いますが、それぞれ興味深いものです。
 
ぜひお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月13日
 
昭和30年(1955)の今日、ラジオで東京六大学野球の早慶戦を聴きました。
 
当時、同じ六大学の立教大には、かの長嶋茂雄が在籍しており、この年の秋季リーグから5シーズン連続でベストナインに選ばれるなどの活躍でした。

新刊雑誌情報です。

『いろは』 vol.4

2014年5月20日 六曜社 定価1,389円+税
 
特集=詩歌とめぐる東北の旅 前 福島
 
会津若松-春の城下町を訪ねて
磐梯高原-のんびり散歩
黛まどか 被災地でふれた日本のこころ
福島-夏の福島、東へ‐西へ
二本松-智恵子の故郷を歩く
高村智恵子-その生涯と作品
相馬-[あの場所]のいまを訪ねて
<文人が愛した湯> 東山温泉 向瀧 / 飯坂温泉 青葉
<私が好きな福島> 秋吉久美子 / 唐橋ユミ
福島の土産
 
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というわけで、智恵子にからめて二本松の紹介が9ページ、智恵子そのもののページが3ページあります。
 
その他、アナウンサー・唐橋ユミさんもコラムで智恵子の杜公園にふれてくださっています。
 
 
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さらに磐梯山、相馬の尾浜原釜海岸、東山温泉、福島市など、光太郎智恵子ゆかりの地の情報、そして東日本大震災後の現状などの記事が満載です。
 
こちらからお求めいただけます。
 
ちなみのこの『いろは』、一昨年刊行された創刊号でも、「『青鞜』創刊100周年記念特集」を組み、光太郎智恵子にも触れて下さっていました。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月12日
 
明治41年(1908)の今日、留学先のパリから光雲にあててはがきを送りました。
 
拝啓 昨夜六時半無事巴里着、「ホテル、スフロー」に一泊して、今日より兎も角も畑正吉君に同宿致す事と致し 今日此処に引移り申候。気候も倫敦と大差無之候。 又直ちに御便可申 今日は到着の御報知まで、 六月十二日 光太郎
 
文面にある通り、前日にロンドンからパリに到着、翌年までパリに過ごします。このパリで、光太郎の真の芸術開眼が起こります。

鎌倉から映画の上映情報です。

「智恵子抄」を上映

  映画「智恵子抄」(中村登監督・1967年)の上映会が6月20日(金)、鎌倉生涯学習センターホールで行われる。「鎌倉で映画と共に歩む会」が主催。午前9時15分開場、9時30分開映。入場料は前売900円、当日1千円。
 同作品は松竹大船撮影所でメガホンをとっていた中村監督の手によるもの。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子との30年に及ぶ愛を綴った詩集「智恵子抄」と佐藤春夫の「小説 智恵子抄」が原作となっている。第40回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。チケットは たらば書房などで販売中。予約や問合わせは【電話】0467・23・3237同会・木口さんへ。
(『タウンニュース』)
 
昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」です。主演は岩下志麻さん、故・丹波哲郎さん。
 
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以下、昭和63年(1988)刊行の雑誌『彷書月刊』第4巻第10号「特集 高村智恵子」に載った岩下さんの回想です。
 
 私が、高村光太郎さんの『智恵子抄』の智恵子を演じさせて戴いたのは昭和四二年ですから、もう随分昔になります。
 中村登監督のもとで、光太郎役は丹波哲郎さんでした。
 その時、はじめて智恵子の切り絵を見せて戴きましたが、優れた色彩感覚、繊細で巧妙な技術、その切り絵から智恵子の純粋な魂の叫びが聞こえてくるような感動で、長い間見とれていたのを今も鮮明に覚えています。又、精神に異常をきたしてしまった智恵子をうたった光太郎の詩の何篇かに心から涙しました。
 『智恵子抄』は、夫婦の愛のあり方、愛についてを改めて考えさせられた作品でもあります。今も、私は“智恵子”と聞くと、病弱で非社交的でやさしいが勝ち気で、単純で真摯で、愛と信頼に全身を投げだしているような智恵子が目の前にいる様で、なつかしさでいっぱいになります。
 それ程、『智恵子抄』は、私にとって心に残っている映画の一つです。
 
販売用のDVD等になっていない作品ですが、このようにポツリポツリとではありますが、上映され続け、ありがたいかぎりです。販売用DVDにしていただけるとありがたいのですが、かえってそうなっていないからこうして上映され続けているのかもしれません。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月11日
 
昭和16年(1941)の今日、詩「荒涼たる帰宅」を書きました。
 

  荒涼たる帰宅
 006
あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
 
この年8月に刊行された龍星閣版オリジナル『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されています。
 
右上はありし日の智恵子と光太郎。昭和3年(1928)、箱根での一コマです。

千葉は柏からイベント情報です。 

公開講座 「光太郎と智恵子の愛」

日 時 : 2014年6月14日(土) 13:00~16:00
場 所 : 柏市民活動センター2階会議室
      (柏駅東口・イトーヨーカドー筋向い 柏市柏1-5-18) 
参 加 : どなたでも。無料。申込不要です。
講 師 : 末永亮子さん
主 催 : NPO法人エアロームかしわ
                
『智恵子抄』に象徴される「高村光太郎と智恵子の愛」を取りあげてみました。
―あなたは私の半身です―
 というほどに智恵子を求めた光太郎と
―唯ひたむきに、芸術と光太郎とへの愛によって生きていた―
 という智恵子の「愛の生活」を考えてみましょう。
 もちろん、フェミニズムの視点も見逃せません。

当日直接会場へご参加ください。出入り自由です。
和気あいあいとした雰囲気の中で話し合い、情報交換もします。
 
同じ千葉県内ですので、行ってみようかなと思っています。ただ、その日はその足で福島は二本松に一泊、翌日、智恵子のまち夢くらぶさんの研修旅行で女川に行くことになっており、少々強行軍になりそうです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月10日007

平成6年(1994)の今日、明石書店から藤原牧子著『『智恵子抄』を訪ねる旅』が刊行されました。
 
藤原さんは兵庫で女性牧師を務めていらっしゃり、連翹忌にもご参加いただいていた方です。平成11年(1999)に亡くなられました。
 
題名の通り、『智恵子抄』及び『智恵子抄その後』の故地、二本松、九十九里、駒込染井霊園、岩手花巻などを歩かれたレポートです。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月9日006
 
大正12年(1923)の今日、有島武郎が歿しました。
 
光太郎と有島は、同じ白樺派の一員。手紙のやりとりなどもあったのではないかと思われますが、光太郎から有島宛の書簡は見つかっていません(武郎より弟の生馬の方が、より光太郎に近かったのですが、生馬宛も見つかっていません)。
 
右の画像、左が武郎、右が生馬です。
 
逆に武郎から光太郎に宛てた書簡は残っています。この年3月1日付で、光太郎の代表的彫刻の一つ、「手」に関わるものです。この日、光太郎から武郎に「手」が贈られました。
 
 今日は御制作『手』を態々お届け下さいまして有り難う御座いました。拝見して驚きました。手といふものがあんな神秘的な姿を持つてゐるものだとは今まで心付きませんでした。あれは又一箇の群像でもありました。見てゐれば見てゐる程それは不思議です。明日は面会日ですから早速部屋に飾つて見る人を驚かさうと楽しんでゐます。『手』といふ題で感想を書いてみたいと思つてゐます。何しろ本当にありがたう御座いました。永く永く襲蔵して御厚情を記憶します。
 
さらに詩「手」。こちらは3月9日に書かれました。
 
    
 (高村光太郎氏の製作にかかる左手のブロンズを見入りて)
 
孤独な寂しい神秘……
手……一つの手……見つめていると、肉体から、
霊魂から、不思議にも 遊離しはじめる手。
存在の荘厳と虚妄――神か無か。
おゝ見つめていると
凡てのものが手を残して消え失せて、
無辺際(むへんざい)の空間に、
ただ一つ残り在る手。
左の手を見つめろ。
今、おまえ自身の左の手を、これを読む時の光の下に、じっとみつめろ。
五つの指の淋しい群像、
何を彼らは考え、
彼らは何をするのだ。
指さすべき何が……握りしむべき何が………………
…………………………………
手は沈黙にまでもがいてゐる。
 
しかし、その僅か三ヶ月後、武郎は自らの命を絶ってしまったのです。
 
のちに昭和31年(1956)、秋田雨雀が書いた「『ブロンズの手』を中心として」という文章から。
 

 一九二三年(大正十二年)に不幸な出来事007が私たちの周囲にあった。あの自由思想家で、クロポトキンの哲学に強く影響された私たちの尊敬する有島武郎君は恋愛のつまづきのために、あの立派な生涯を終えてしまった。その不幸な出来事の少し前から、彼が彼の机の上で絶えず愛撫していた彫刻が一つあった。それは説明するまでもなく、高村光太郎君の『ブロンズの手』であった。
 有島武郎はこのブロンズの手を『虚空を指す手』と呼んでいた。そして、有島はあの追いせまった、短い生涯に絶えず、このブロンズの手の『人さし指』の『節くれだった』部分をほとんど毎日のように愛撫し、或は『哀撫』していたに相違なかった。
 なぜならば、ブロンズの手の『人さし指』のあの部分だけは、『黄銅色』にかがやいていたからであった。彼の死後、私は『二つの手』という詩を雑誌『泉』に掲載した。それは『一つの手』は机上にとどまり、『一つの手』は虚無に帰したという意味であった。
 私は有島生馬さんから送られたあの『ブロンズの手』と高村光太郎君のあの見事なホイットマンの『自選日記』を胸に懐きながら、あの惨虐無謀な侵略戦争の戦火の中を歯をかみしばりながら生き残って来た。
 
右の画像は、昭和14年(1939)、自作の「手」を見る光太郎です。もしかしたら亡き有島を偲んでいたのかもしれませんね。
 
ちなみにこの辺りの経緯を勘違いしたのか、「手」のモデルは有島武郎の手だ、などと書かれた噴飯ものの論文がまかり通っていますが、あくまでモデルは光太郎自身の左手です。

2021年追記 「手」に関わる新発見がありまして、以下もご覧下さい。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。

昨日、東京は日暮里サニーホールにて、仙道作三氏作曲のひとりオペラ「与謝野晶子 みだれ髪」に行って参りました。
 
連翹忌ご常連で、オペラ「智恵子抄」も作られているの作曲家・仙道氏の作品で、5年ぶりの再演とのことでした。
 
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当方、昼の部を拝聴しました。冒頭、晶子の令孫・元文部大臣の与謝野馨氏もいらしており、ご挨拶されました。ご存知の方も多いかと思いますが、氏は下咽頭がんのため喉頭を摘出、政界を引退されました。当初は声が出せなくなってしまいましたが、「気管食道シャント法」と呼ばれる手術を受けて、失った声を取り戻されたとのこと。昨日も、ゆっくりしたしゃべり方でしたが、きちんとご挨拶をなさっていました。
 
さて、演奏開始。狂言回し的な役割の(プログラムでは「朗読」)、矢島祐果さんの語りと、ソプラノ・山口佳子さんの歌で物語が進みます。晶子の代表的な短歌二十余首と、「君死に給ふことなかれ」や、智恵子がその表紙を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に載った「山の動く日きたる」(「そぞろごと」)などの詩文六篇にそれぞれメロディーがつけられ、不思議な世界が展開されていました。
 
伴奏はピアノトリオにパーカッションが加わった四人。仙道氏自身の指揮でした。通常、オペラというと伴奏はオケで、合唱も入り、というイメージですが、こういう少人数でも立派に成り立つのだなと、感心しました。
 
短歌をオペラに、ということですが、東洋的・日本的な情緒をふんだんに盛り込んだ作曲で、ある意味、能を髣髴とさせられました。
 
光太郎智恵子夫妻にも通じる、鉄幹晶子夫妻の鮮烈な生の営みがうまく表現されていたと思います。
 
文学作品は文学作品としてのみ命脈を保ち続けられるか、というと、なかなかそうでもありません。こうした二次創作――音楽、演劇、映像作品、美術作品など、いわゆるオマージュ、そうしたことも大切なのだなと、あらためて感じさせられました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月8日

昭和4年(1929)の今日、有楽町のレストラン「モンパリ」で開催された尾形亀之助詩集『雨になる朝』出版記念会に出席、スピーチをしました。

新潟から企画展情報です。

ドナルド・キーンの直筆原稿が語る『日本文学を読む』

会 場 : ドナルド・キーンセンター柏崎 新潟県柏崎市諏訪町10-17
会 期 : 前期 2014年3月10日(月)~7月21日(月)
    : 後期  同 7月25日(金)~12月25日(水) 
 間 : 10時~17時 月曜休館
料 金 : 大人500円 中高生200円 小学生100円
 
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ドナルド・キーンの直筆原稿『日本文学を読む』と直筆の手紙を、連載された雑誌「波」(新潮社)とともに一堂に展示。ドナルド・キーンが伝えたいと願う日本文学の素晴らしさ、面白さを評論で実感していただきたいと思います。
厖大な原稿が埋める展示空間やドナルド・キーンの直筆日本語に圧倒されることでしょう。
そして、直筆原稿が語りかけてくる言葉に眼を向け、耳を澄ませて近現代の日本文学の世界に浸っていただき、さらに、明治、大正、昭和に生きた各作家たちの素顔に触れ、日本文学の素晴らしさ、面白さに思いを巡らせてほしいと思います。
 
雑誌『波』に連載され、昭和52年(1977)に新潮社から単行書として刊行された『日本文学を読む』の草稿を展示するというものです。一回につき6~7枚だったそうです。
  
前後期に分かれ、前期では「高村光太郎」が含まれています。他の作家に関しては上記チラシをご覧下さい。
 
 
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キーン氏といえば、元はアメリカ人(平成24年=2012に帰化)ですが、元々の日本人以上に日本文学に精通されています。おん年91歳(今月で92歳)、まだまだお元気のようで何よりです。
 
今回の展示に関わる『日本文学を読む』は、当方、読んでいませんが、平成9年(1997)に中央公論社から刊行された『日本文学の歴史 17 近代・現代篇8』を持っています。四六判は品切れの可能性がありますが、現在は中公文庫版も発売されています。
 
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画像の帯文でもお分かりになるかと思いますが、近現代詩を扱った巻です。「高村光太郎」の項が約40ページ。図版も豊富で理解の助けになります。ぜひお買い求めを。
 
ところで、この企画展、先頃訪れた成田山書道美術館さんでたまたまチラシを発見し、知りました。ネットでは光太郎をキーワードに検索してもひっかかりません。こういうケースがあるので、怖いですね。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月7日006
 
平成20年(2008)の今日、大阪のいずみホールで開催された関西合唱団創立60周年記念・第73回定期演奏会で、西村朗作曲「混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌」が委嘱初演されました。
 
全3曲で、第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、第2曲「山麓の二人」、第3曲「レモン哀歌」です。
 
指揮は守谷博之氏、ピアノ伴奏は門万沙子氏でした。
 
楽譜は全音楽譜出版社から刊行されています(右記画像)。販売用CD等にはなっていないようで、CD化が待たれます。
 

過日のブログでご紹介した光太郎書簡に関する続報が、『朝日新聞』さんの岩手版に出ました。

光太郎の手紙寄贈 神奈川の縁者

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙を所有する神奈川県在住の進(しん)慶子さん(66)が4日、花巻市太田の高村光太郎記念館を訪れ、手紙を寄贈した。館を運営する光太郎記念会の高橋邦広理事は「貴重な資料をありがとうございました」と喜んでいた。
 進さんは、光太郎の実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の離婚した妻の故和田美和さんの縁者。その美和さんに光太郎が出した手紙1通で、書かれた日が1933年8月24日と確認した高橋さんは「よく81年も保管しておいてくれました」と感謝の言葉を述べた。
 手紙には「あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと、弟と離婚した美和さんをいたわる記載があり、進さんは「光太郎の優しい面がわかる内容でもあり、捨てないでいた」と話した。
 光太郎は、智恵子と1914年に実質的な結婚生活に入り、手紙が書かれた前日の8月23日に婚姻届を出した。これは精神的に不安定な智恵子を法的に守るための対応とされ、翌日には2人で旅行に出かける慌ただしい中で、弟の離婚した妻へ手紙を書いたのは、2人の女性の境遇に「いろいろ重なるものを見たのではないか」と記念会は推測していた。
 進さんは、豊周さんからの手紙も1通寄贈。「ともかくこれで手紙が落ち着くところに落ち着いた」とほっとしていた。
 両方の手紙は高村家のプライベートな部分も多く含まれており、展示について記念会は「関係者とよく協議して決めたい」と話している。
 
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ついでに第一報での誤りについての訂正記事も出ました。
 
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光太郎書簡は、現在までに3,400通ほど見つかっていますが、まだまだ埋もれているものがたくさんあるはずです。
 
筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っていますが、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、高田博厚、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。今回報道されたものもそうですが、 こんな人にも手紙を送っていたのか、というケースもあります。ここ数年で見つかって、『高村光太郎全集』に掲載されていないものとしては、伊藤静雄、谷川俊太郎、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)、稲垣足穂、マチスなど。また、あるべくしてあったという宛先のものもここ数年でけっこう見つかっています。永瀬清子、中山義秀、平櫛田中、石井鶴三、高祖保など。
 
それから、一通の手紙で、それまで特定できていなかった年譜上の出来事の日付が確定することもあります。
これも最近見つけた例でいうと、大正元年(1912)、智恵子と過ごした銚子犬吠埼から帰京したのが9月4日だったこと、昭和30年(1955)、花巻から東京中野に住民票を異動したのが6月1日であったことなどが、それぞれ1通の書簡の発見により判明しました。
 
幸い、最近、光太郎の新たな書簡が見つからない、という事態にはなっていませんが、本当にまだまだ眠っている書簡がたくさんあるはずです。ご協力をお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月6日

大正8年(1919)の今日、腸チフスで入院していた駒込病院から退院しました。
 
約1ヶ月の入院で、この退院の日付も最近見つかった6月14日付の田村松魚あての書簡により特定できました。
 
御手紙ありがたく拝見しました。六日にやつと退院しましたが筆をとるのがひどくおつくうだつたので まだまるで友達にもその事をしらせず失礼してゐました。

北海道からイベント情報を2件ご紹介します。

「モンクール読み語りライブ 〜「詩」を想い、そして 思い出す日。20」

日 時 : 2014年6月29日(日) 開場12時頃/開演13時
場 所 : 詩とパンと珈琲 モンクール 
       札幌市中央区北3条西18丁目2-4 北3条ビル1F(南向き)
料 金 : 投げ銭
特 集 : 高村光太郎・城理美子
主 催 : ヨミガタリを楽しむ会
 
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朗読系のイベントのようです。光太郎を取り上げてくださる由、ありがたいかぎりです。
 




高村智恵子紙絵複製展

日 時 : 2014年5月23日(金) ~7月28日(月) の土・日・月
場 所 : ギャラリー日の丘 北斗市三ツ石347 0138-75-3557
 
明治・大正期の詩人高村光太郎の妻智恵子の切り絵を貼り重ねた作品複製約40点を展示する。
 
『北海道新聞』さんのイベント情報で見つけました。「智恵子の切り絵を貼り重ねた作品複製」という部分、意味がよくわからないのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月5日

明治45年(1912)の今日、『読売新聞』に智恵子を紹介する記事「新しい女(一七) 最も新しい女画家」が掲載されました。
 
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前月に第1回与謝野晶子からはじまった連載の17回目で、他に田村俊子、相馬黒光、松井須磨子、長谷川時雨などが取り上げられ、翌年には単行本にもなりました。
 
かなり好意的に紹介されています。一部抜粋します。
 
『好きなのは、やはりゴオガンのです』話す時、その声は消えるやうに低くなる、『このごろ描きましたのは――』と立つて壁によせかけた小さな板を裏返して『ぢきこの近くなのです』、見ると、木立の間から畠を越えて夕空が明るくのぞかれる、木の葉といひ草の葉といひ、女とは思はれぬほどつよくそして快く描いてある、ふとセザンヌの雨の画を思ひだしたので、そのことをいふと『えゝセザンヌもほんとにようございますわね』と子どもらしく口を開いて目をほそめた、

テレビ放映情報です。 

遠くへ行きたい 旅人 竹下景子「奥入瀬の森と湖に遊ぶ 青森県十和田湖」

地上波日本テレビ 2014年6月8日(日)  5時30分~6時00分
 
「知らない街を歩いてみたい♪」の主題歌で有名な、歴史ある旅番組。旅人を通じて、『人・景色・食』など、訪れた土地の魅力を紹介する。
 
旅人 竹下景子
 
女優・竹下景子が、美しい自然に触れるため、青森県十和田湖を旅する。 まずは、廃線となった「南部縦貫鉄道レールバス」に体験乗車させてもらい、その魅力に感動。 世界遺産白神山地と並ぶブナの森「蔦(つた)の森」を散策し、大自然の雄大さを感じる。 「奥入瀬(おいらせ)渓流」では、ルーペを片手に苔の世界の神秘に感動し、苔玉作りにも挑戦。 最後は、パワースポットとして注目される十和田神社の「占い場」を訪れる。
 
<系列各局放送時間>
日本テレビ (日)5:30
札幌テレビ (水)26:04 006
青森放送 (金)10:25
北日本放送(金)15:55
中京テレビ(日)7:00
四国放送 (木)10:55
南海放送 (火)10:25
日本海テレビジョン (土)5:29
広島テレビ (日)7:00
福岡放送 (日)7:00
長崎国際テレビ (日)16:55
鹿児島読売テレビ (日)7:00
 
今年初めに当方もお会いした苔玉作りのインストラクター、起田高志さんがご出演。それから番組HPを見ると、観光ボランティアの方らしき画像があり、やはり当方の存じている方が出演されるかも、と期待しています。
 
十和田湖畔の裸婦像、通称「乙女の像」が少しでも紹介されればいいのですが……。
 


もう1件、先週オンエアされたものの再放送です。 

いにしへ日和 #107 福島県・二本松市・智恵子の空

BS朝日 再放送2014年6月5日(木) 21時54分~22時00分
 
時をこえ、小さな旅に出かけよう。今日は、いにしへ日和…日本の各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。
 
“あれが阿多多良山、あの光るのが阿武隈川 ここはあなたの生まれたふるさと…"二本松市は「智恵子抄」のモデルとなった高村智恵子が生まれた地。造り酒屋だった生家が今も残され、光太郎との結婚後も1年の半分をここで過ごしたといわれています。
 
智恵子は、この故郷の空を「ほんとの空」だと言いました。 彼女が愛した故郷を訪ねます。
 
出演 ナレーター キムラ緑子
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先週の本放送を見ました。5分間番組ですが、ゆるい感じが旅情を誘う感じでした。
 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月4日

昭和19年(1944)の今日、詩「たのしい少女」を書きました。
 
  たのしい少女007
 
 或たのしいたのしい大事なものが
 わたしの心の奥の方に
 世にも大切にお祀りしてあるので、
 それでわたしはいつでもこんなに
 みんながをかしがるほど元気で、
 みんなが不思議がるほどお人よしで、
 どんな事にも決してうろたへず、
 どんな時にも決してめげずくじけず、
 なんにも欲しいとおもはず、
 あればあるでいいし、
 なければないでいいし、
 心が勇んで毎日の勤労にも
 勉強にもお手伝にもお食事にも
 たとへやうもない張合を感じます。
 職場で叱られるのも気持ちよく、
 ひとりの時は尚更胸がせいせいします。
 そのたのしいたのしい大事なものを、
 申すもおそれ多いことながら、
 わたしは 天子様からいただきましたの。

金(キム)総統様、みたいですね。笑い事ではなく、70年前の日本はこんなだったのです。この時代に戻したがっている愚か者がいるというのも嘆かわしい限りです。

『朝日新聞』さんの岩手版に以下の記事が出ました。

光太郎の手紙見つかる

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙が、縁者の家から見つかった。実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の元妻に宛てた手紙で、悲しみを慰めるプライベートな内容となっている。近く花巻市の高村記念会に寄贈される予定で、同会は「第一級の資料」と喜んでいる。
 
 手紙は、豊周と離婚した故和田美和さんに宛てたもので、親類の神奈川県大磯町の進(しん)慶子さん(66)が、和田さんから預かっていた荷物の中から見つけた。高村記念会に連絡をとり、光太郎全集や豊周全集などにも載っていない新資料で、直筆だと確認された。
 
 内容は「ただあなたの未来の御幸福御健康を祈ります。あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと記され、離婚に関連していると推測される。
 
 手紙の冒頭に「おてがみ再読しました」とあり、和田さんの手紙を受けての返信とみられる。
 
 手紙の末尾に「八月二十四日」と書かれ、封筒の消印は翌日の昭和8(1933)年8月25日。光太郎は23日に、精神が不安定になった妻智恵子との離婚届を出し、24日夜には2人で旅行に出かけており、手紙はその直前に書かれ、投函(とうかん)されたことになる。
 
 忙しい中で書簡をしたためたとみられ、記念会では、光太郎の誠実さが読み取れるとしている。
 
 進さんは、子どもがなかった和田さんの世話をしており、没後約20年たった数年前、預かった荷物を捨てようと整理をしていて、手紙の差出人に「高村光太郎」という文字を見つけた。和田さんから生前、高村家との関係を聞いており、「自分で持っていてももったいないので活用できるならしてもらいたい」と寄贈を決めたという。
 
 光太郎は、「道程」「智恵子抄」などの詩集や、十和田湖畔のブロンズ像「乙女の像」などの作品で知られているが、見つかった手紙には、これらの制作過程にかかわる記載はなく、プライベートなものだけ。
 
 だが、新たな人となりが見えてくる可能性もあり、同会は「研究者の手で解明してもらいたい」とし、公開については「遺族などと協議をして決めたい」としている。
 
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この書簡の存在については、昨秋、花巻の高村光太郎記念会さんから情報を得ていましたが、予定では明日、記念会さんに寄贈されるとのことで、記事になったようです。
 
傷心の元義妹に宛てたもので、慈愛に溢れたいい文章です。ただ、公序良俗に反することが書いてあるわけでもないのですが、やはり家庭内のゴタゴタにからむ内容なので、記念会さんとしてもあまり大っぴらに公開はしない方向とのこと。それでいいと思います。
 
離婚の経緯などについては、豊周自身が自著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)の中で、かなり具体的に語っており、特に極秘事項というわけでもないのですが、ことさらに取り上げるべき事柄ではないと思います。
 
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売れば売ったでかなりの金額になるものです。ところが、現所有者の方は、全くの善意で寄贈してくださるとのこと。すばらしいと思います。
 
ところで記事の中で「光太郎は23日に、精神が不安定になった妻智恵子との離婚届を出し、」とあるのは大間違いで、正しくは婚姻届です。何をどう間違えたのか、全く逆になってしまっています。
 
昭和8年(1933)というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。昨年焼失してしまった福島の不動湯や栃木の塩原温泉などを巡っています。8月24日のことです。その前日に、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
その同じ日にこの書簡が書かれているということで、忙しい中に手間を厭わなかった光太郎の慈愛の念が感じられます。
 
ちなみに盛岡てがみ館さんでは、来週月曜まで、企画展「高村光太郎と岩手の人」を開催しています。まだまだ各地に眠っている光太郎書簡はかなりあると思われます(もしかすると智恵子書簡も)。こうした書簡類、死蔵されたままにならないことを祈ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月3日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外旧太田村の山小屋に、二間×三間の別棟が増築されました。
 
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右が昭和20年(1945)からの元々の小屋、左が増築された別棟です。ちなみによく見ると二つの小屋の間で光太郎が手を振っています。

現在、増築部分は少し離れた場所に移築、倉庫的に活用されています。
 
費用は詩集『智恵子抄』版元の龍星閣が持ちました。同社は明瞭な印税制をとらず、こういう形で光太郎に還元したそうです。

先週、大阪は堺で与謝野晶子の命日の集い、第32回白桜忌に行って参りまして、今週末には東京・日暮里にて「ひとりオペラ「与謝野晶子みだれ髪」」を聴きに行って参ります。このところ与謝野晶子がマイブームです(笑)。
 
そこで、一昨日、居住地の千葉県北東部で与謝野晶子巡りをしてきました。
 
まずは成田市の成田山書道美術館さん。今月15日(日)まで、以下の企画展を開催しています。

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「収蔵優品展 ―書における文学とは何か―」展

期 間 : 平成26年5月3日(土)~6月15日(日)まで
時 間 : 9:00~16:00(最終入館は15:30)
主 催 : 成田山書道美術館/千葉県書道協会
後 援 : 千葉県・千葉県教育委員会・千葉市教育委員会・千葉日報社・全日本書道連盟
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人500円(350円) 高・大学生300円(200円) 中学生以下無料 
         ※( )内は20名以上の団体料金
開催要項
 古来書の名品と仰がれる遺墨には、名家の書状や各種の銘文などとともに、文学作品の写本を挙げることができます。書と詩歌は、古来、不離の関係を保ってきました。尾上柴舟や松井如流のように詩歌の世界に足跡を遺した書の名家も少なくないとともに、夏目漱石や川端康成のように文学者であると同時に熱心に書に取り組んだ人物もいます。
 今回の特集展示では、文学者の書に注目するだけではなく、文学作品と書の関係についても俯瞰できる作品を出品します。両者の関係を改めて検証する機会となれば幸いです。
 また、 今回61回展を迎える千葉県書道協会展を同時開催致します。魅力あふれる千葉の書を存分にお楽しみください。
 
出品一覧的なものはサイトにも載っ006ていませんし、会場でも印刷物になっていないということでしたが、晶子をはじめ、尾崎紅葉、 島崎藤村、会津八一、夏目 漱石、 高浜虚子、河東碧梧桐、正岡子規、尾上柴舟、若山牧水、川端康成らの書が並んでいます。もしかしたら光太郎も、と思っていましたが、残念ながらありませんでした。
 
晶子の作品は、色紙に揮毫した短歌でした。

 しらじらと河原の見ゆる木のまよりかなしきはなし春の夕に
 
大正5年(1916)刊行の『朱葉集』に、初句が異なる
 
ほの白き河原の見ゆる木の間よりかなしきはなし春の夕に
 
という歌が載っています。
 
漱石あたりのキャプションに、近代の文人たちが、近代化、西洋化して行く世相の中で、自らの立ち位置を再確認するためにも進んで書に取り組んだのであろう、といった説明がなされていて、なるほど、と思いました。
 
続いて、当方居住地の香取市に戻り、利根川河畔に。同市津宮(つのみや)地区に晶子の歌碑があります。 
 
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明治44年(1911)初夏、晶子は銚子から船で利根川を007遡上、このあたりで宿泊したようで、その際に詠まれた歌が刻まれています。
 
かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋
 
この歌は、翌年に刊行された晶子歌集『青海波』に収録されています。この『青海波』、扉のデザインは光太郎です。
 
香取市の名称は市内にある「香取神宮」に由来します。全国に点在する香取神社の総本社で、歴史は古く、平安時代の「延喜式」には「神宮」の名がついた神社は、伊勢神宮、香取神宮、そして同一地域の鹿島神宮の三社しかありません。
 
津宮地区は、香取神宮に参拝するため水路で来た場合、上陸する地点でした。現在も晶子碑周辺には鳥居がありますし、市指定文化財の常夜灯が残っています。ただ、宿屋は現存しません。
 
 
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近くには昭和20年代に建てられた古い郵便局の建物。現在はその隣が普通の郵便局です。いい感じにレトロです。
 
歌に「かきつばた」とありますが、香取市は隣接する茨城県潮来市ともども、あやめ(かきつばた、花菖蒲)の名所です。先週末から市内の水生植物園を中心に「あやめ祭り」が開催中。
 
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晶子も歌に詠んだ佐原のあやめ、ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月2日

昭和48年(1973)の今日、文治堂書店から光太郎の実弟・高村豊周の歌集『清虚集』が刊行されました。
 
 
豊周は鋳金の分野で人間国宝でしたが、短歌にも大きな足跡を残し、昭和39年(1964)、歌会始の儀で召人を務めた他、生前に『露光集』(昭35=1960)、『歌ぶくろ』(同41=1966)、『おきなぐさ』(同44=1969)、の三冊の歌集を上梓しました。
 
『清虚集』は、豊周の一周忌を記念して編まれた遺稿歌集。光太郎・豊周兄弟と親交の深かった草野心平が跋文を書いています。

5月29日、大阪府堺市の覚応寺にて執り行われた第32回白桜忌。当日は報道関係者がいらしていたので、ニュース等になっていないかと検索したところ、翌日朝のNHKさんのローカルニュースで報道されたらしいことがわかりました。  

与謝野晶子 命日に法要

明治から昭和にかけて活躍した歌人・与謝野晶子の命日のきのう、出身地の堺市にある寺で法要が営まれました。
与謝野晶子は明治11年に現在の堺市堺区の菓子店を営む家に生まれ、当時の代表的な歌人として歌集「みだれ髪」など数々の作品を残しました。
ことしは没後72年にあたり、命日のきのう、晶子ゆかりの寺として知られる堺区の覚応寺で法要が営まれました。
晶子のファンなどおよそ80人が参列し、晶子に思いを寄せて詠んだ短歌や俳句を披露しました。
ことしは晶子が日露戦争に従軍する弟を思って作ったとされる詩「君死にたまふことなかれ」が詠まれて110年の節目で、地元のコーラス隊がこの詩を合唱しました。
このあと晶子の研究を続けている元大学教授の女性が講演し、「この寺には晶子が書いた手紙が残されており、晶子が若いころから情熱的な恋愛をしていたことがうかがえる」などと人物像について語りました。
法要の実行委員会の代表の阿部恵子さんは「晶子は堺が生んだ財産です。2度と現れないようなスケールの大きな自立した女性でした。
晶子のすばらしさを伝えていきたいです」と話していました。
 
 
暗いニュース、腹立たしい報道が多い中、花巻の高村祭などもそうですが、こうした文化活動、地域の地道な取り組みなどにももっともっと光を当てていただきたいものですね。
 
ちなみに本日発行の花巻市の広報紙『広報はなまき』に、高村祭の模様が報じられています。  

光太郎への思い いつまでも

本市ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する「第57回高村祭」が5月15日、太田の高村山荘詩碑前で開かれました。
光太郎の遺影に献花と献茶が行われた後、参加者全員で詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読。続いて地元小中学生や高校生などが楽器演奏や合唱、詩の朗読を披露し、訪れた市民など約700人とともに光太郎の生涯に思いをはせました。
特別講演では、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、光太郎との縁、命名のエピソードなどを語りました。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月1日
 
明治45年(1912)の今日、雑誌『青鞜』に、智恵子の散文、「マグダに就て」が掲載されました。
 
『青鞜』において、智恵子が描いた2種類の表紙絵が繰り返し使われましたが、意外なことに文章はこの1篇のみです。
 
「マグダ」とは、ズーダーマン作・島村抱月訳の戯曲「故郷」の主人公。文芸協会の第三回公演として、松井須磨子により演じられました。

5月29日、午後1時半。与謝野晶子ゆかりの堺市覚応寺にて、晶子命日の集い・第32回白桜忌が開催されました。
 
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昨年も書きましたが、やはり寺院での開催と言うことで、本格的な読経があったりと、仏教色の強い催しですが、地元の方々による献歌などやコーラスなどもあり、堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。われらが光太郎に関しては、東京出身とはいえ、東京都民に「おらが光太郎」という意識はほとんどないと思います。
 
後半は与謝野夫妻の研究者・逸見久美先生のご講演、「想い出すままに……与謝野晶子・寛の研究より」でした。失礼ながら、先生は大正時代のお生まれですが、まだまだエネルギッシュにご活躍なさっています。勉誠出版さんで編刊されている『鉄幹晶子全集』は、本文篇は完結したものの、まだ続くそうです。
 
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しかし、その先生がお若い頃には、与謝野晶子を研究対象にするなど、いかがなものかという空気があったそうです。まるで安藤緑山の牙彫などの明治工芸のようだな、と感じました。さらにそれより昔、それこそ『みだれ髪』のころには破廉恥極まりないといった評もされていたわけで、そう考えると、時代と共に評価が変わって行くのだなと実感させられました。光太郎智恵子の世界は、この後、どのように評価されて行くのでしょうか。
 
やはり周辺人物との関わりの中での光太郎像といった点にも、もっと目を向けなければ、と思うので、与謝野夫妻にももう少し目を向けようと思いました。
 
終了後、楽屋(?)で逸見先生にご挨拶、先月の連翹忌にご参加下さった御礼を申し上げ、来年もご参加下さるお約束を取り付けました。その後、高村光太郎研究会の西浦基氏にまた車を出していただき、南海線の堺東駅まで送っていただいて、帰路につきました。非常に有意義な大阪行きでした。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月31日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋の畑にキュウリの種を蒔きました。

昨日、大阪は堺市で行われました与謝野晶子命日の集い、第32回白桜忌に行って参りました。今日明日と2回に分けてレポートします。
 
一昨日、当方の住む千葉県香取市から夜行高速バスに乗って大阪を目指しました。千葉交通さんのバスで、銚子発大阪なんば高速バスターミナル行きです。この便は京都まで利用したことが3回ほどありますが、終点の大阪まで乗ったのは初めてでした。時間はかかるのですが、経費節減のためです。
 
事前に調べたところ、終点のなんば高速バスターミナルは御堂筋に近いことがわかりました。御堂筋といえば、つい先だってのブログでもご紹介しましたが、「御堂筋彫刻ストリート」ということで、内外の彫刻作品が多数設置されています。光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」も、通称の「みちのく」という名で並んでいます。約20年ぶりに見に行ってみました。
 
場所は地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅近く。高速バスターミナルからは、歩いていけない距離ではありませんが、時間の都合もあり、地下鉄を使いました。
 
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続いて鉄道を乗り継いで、JR阪和線堺市駅へ。次なる目的地は駅前にある堺市立文化館。こちらは「与謝野晶子文芸館」と「アルフォンス・ミュシャ館」が併設されています。こちらで高村光太郎研究会会員で、大阪在住の西浦基氏と合流、展示を拝見しました。
 
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晶子文芸館は3階。晶子の自筆資料、著書、遺品などが並び、パネルで年譜や解説がなされていました。
 
昨秋、山梨県立文学館さんの企画展「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を拝見して参りましたが、そちらと同一の出品物もあり、懐かしく感じました。
 
また、「コーナー展示」ということで、現在は「与謝野晶子と石川啄木」という一角もありました。啄木も光太郎同様、新詩社で与謝野夫妻に世話になっていますし、光太郎とも面識がありました。
 
啄木が早逝してだいぶ経ってから、昭和6年(1931)に啄木ゆかりの函館に旅行した晶子の歌「なつかしき函館に来て手に撫づる亡き啄木の草稿の塵」が展示されており、感動しました。
 
4階はミュシャ館。アルフォンス・ミュシャは、チェコ出身のアール・ヌーボーの画家で、日本でも根強い人気があります。当方、自宅兼事務所の執務室に複製を飾っています。
 
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調べてみたところ、『高村光太郎全集』で、一ヶ所だけミュシャの名が出て来ました。明治44年(1911)の『白樺』に載った「消息――『白樺に』――」と題する散文です。
 
 ――「白樺」毎号ありがたく存じます。世間の例にならつて「六号」を拝読しました。中にMuchaの事がありましたね。此はフランスの画かきで、重に装飾画をかく奴です。此奴の画いたサラ、ベルナアルのLorenzaccioやLa Samaritaineの「アフイシユ」は有名なものです。写生画や模様や図案を集めた本があります。かなり高価です。京都の田中喜作君が持つて居ませう。心づいたまま一寸。
 
光太郎、「此奴」呼ばわりしています(笑)。
 
続いて、晶子文芸館にほど近い堺女子短期大学さんに行きました。こちらには晶子の詩碑が建っています。
 
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智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に寄せた有名な詩「そぞろごと」の一節が刻まれています。『青鞜』主幹の平塚らいてうは、届いたこの原稿を読み、いたく感動したとのこと。もしかすると智恵子あたりも心揺さぶられたのではないかと想像されます。
 
さらに西浦氏に車を出していただき、晶子生家跡に行きました。
 
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晶子の生家、鳳家は紀州街道沿い、大道筋という昔のメインストリートにあった「駿河屋」という菓子店でした。建物は現存しませんが、跡地に碑が建っています。これも有名な「海こひし潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家」の歌が刻まれています。
 
さらに近くに大道筋の説明板もあり、何気なく見てみると、光太郎が在学中、東京美術学校の校長だった正木直彦の名が記されていました。正木もこの界隈の出身とのことで、それは知らなかったので、驚きました。
 
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白桜忌は午後1時半からということで、まだ時間があったため、光太郎とは直接関係ありませんが、堺市内の名所巡りを少し。
 
千利休の屋敷跡、面積的には世界最大の墳墓、大仙古墳(伝・仁徳天皇陵古墳)など。

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しかし、大仙古墳は上空からは見えないので、その規模がよくわかりませんでした。
 
函館五稜郭は近くに五稜郭タワーがあり、足下に五稜郭の全貌が見えるようになっていて、特徴的な星形がよくわかります。
 
そういう展望塔のようなものがあればいいのに、とも思いましたが、さすがに天皇陵を足元に見るというのは不敬、という考えなのかも知れません。
 
その後、昼食に「美々卯」さんという店でうどんすき、「かん袋」さんという甘味処で氷くるみ餅を御馳走になりました。どちらも凄いボリュームで、味もよし、大満足でした。
 
いよいよ白桜忌会場の覚応寺さんに向かいました。続きは明日。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月30日006

昭和25年(1950)の今日、朝日新聞社から木村艸太著『魔の宴』が刊行されました。
 
木村艸太(荘太)は武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家。光太郎とも親しかった画家・木村荘八の実兄です。明治末に吉原の娼妓・若太夫をめぐって光太郎と恋のさや当てから決闘未遂騒ぎまで発展しました。
 
『魔の宴』は木村の自伝的小説で、光太郎と三角関係となった「パンの会」当時の話など、当時を知る上で、一級の回想です。

今日は大阪に行っておりました。与謝野晶子の忌日、第32回白桜忌の集いが堺市の覚応寺というところで行われ、そちらに参加、また、その前に堺市を中心にいろいろと廻って参りました。
 
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詳細は明日以降レポートいたします。000
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】
 5月29日

平成10年(1998)の今日、郡山市民文化センター展示室において、企画展「智恵子 その愛と光彩 高村光太郎の彫刻と智恵子の紙絵展」が開幕しました。
 
この郡山展を皮切りに、翌年にかけ、岩手、広島、東京、北海道、島根を巡回し、好評を博しました。
 
当方、東京展(大丸ミュージアム)を観て参りました。

北海道文学の研究者、盛厚三氏から北方文学研究会発行の同人誌『北方人』第19号を戴きました。ありがたいことです。
 
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光太郎は、その度に頓挫しましたが、何度か北海道移住を企てており、北海道在住だった詩人等との交流もいろいろとありました。今号に掲載されている盛氏の「評論/釧路湿原文学史(2)」にも、そうした詩人のうち、更級源蔵、猪狩満直といったあたりが紹介されており、興味深く拝読しました。
 
また、以前のブログでご著書『序文検索―古書目録にみた序文家たち』をご紹介させていただいた、かわじもとたか氏も「書誌/個人名のついた雑誌―日本人編(3)」を寄稿されています。
 
当方、やはり北海道出身(と思われる)詩人・編集者の八森虎太郎にあてた光太郎書簡(ハガキ)を2通持っています。一通は昭和24年(1949)9月のもので、以前のブログでご紹介しました。
 
もう一通がこちら。昭和23年(1948)5月のものです。
 
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「落下傘」をいただき、又池田克己氏詩集をもいただき、何とも恐縮に存じました、 大変立派に出来てゐるので気持ちよく思ひました、 池田さんからは「法隆寺土塀」をもいただき、 この処詩の大饗宴です。
厚く御礼申上げます。
 
『落下傘』は金子光晴の詩集です。『池田克己詩集』『法隆寺土塀』とも、札幌にあった日本未来派発行所から上梓されたもの。こちらは雑誌『日本未来派』を発行しており、光太郎も寄稿しています。昭和23年(1948)7月刊行の第13号。「十年前のあなたは 十年後のあなたは」というアンケートへの回答です。
 
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ただし光太郎が答えているのは「十年前のあなたは」の項のみ。この時点では、健康に不安を抱え、十年後にはもうこの世にいないだろう、などと考えていたのでしょうか。実際、8年後に亡くなっています。
 
昭和23年(1948)の十年前は同13年(1938)、智恵子がこの年10月に亡くなりました。 
 
ちなみに上記ハガキに出てきた三冊、すべてこの号の裏表紙に広告が出ています。
 
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更級源蔵や猪狩満直、そしてこの『日本未来派』の面々、さらにマイナーな北海道詩人(島田正など)との交流、内地出身ながら北海道と縁のあった詩人(猪狩もそうですが、他に宮崎丈二など)との交流もあり、そのあたり、もっと掘り下げなければ、と思っているところです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月28日000

平成19年(2007)の今日、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の「知るを楽しむこの人この世界 ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心」第8回「「西郷さん」で会いましょう~童子のこころで」で、光雲作西郷隆盛像が取り上げられました。
 
ナビゲーターは彫刻家の藪内佐斗司氏。飛鳥時代の広隆寺弥勒菩薩像、天平期の興福寺阿修羅像、さらに定朝、運慶、快慶と、仏像彫刻の流れを追う番組でした。

その最終回で光雲作西郷像。渋谷のハチ公同様、ランドマークとして待ち合わせの場所に使われたことから、「「西郷さん」で会いましょう」というサブタイトルになっています。
 
日本放送出版協会からテキストも発行されました。

石川は金沢より、先月から開催されている企画展情報です。 

中村好文 小屋においでよ!

会  : 金沢21世紀美術館 石川県金沢市広坂1丁目2番1号
会  : 2014年4月26日(土) - 8月31日(日)  10:00〜18:00 (金・土曜は20:00まで)
料 金 : 無料
 
概要 (公式サイトから)
建築家・中村好文は、長年にわたってクライアントの暮らしに寄り添った普段着のように居心地のいい住宅をつくってきました。この展覧会は、中村が子供のころから心奪われ、同時に「住宅の原型」として位置づけてきた小屋に関する考察と展示を通じて「住宅とはなにか?」を問い直す企画です。会場は「長期インスタレーションルーム」と「光庭」ですが、光庭には、エネルギー自給自足を目指すひとり暮らし用の小屋「Hanem Hut」を原寸サイズで展示いたします。
3.11以降、エネルギー問題や環境汚染の問題は、ますます避けて通ることのできない重要なテーマとなってきています。この小屋の展覧会が、そうした問題解決への糸口となり、提案となることを願ってやみません。
 
関連書籍 『中村好文 小屋から家へ』 TOTO出版、2013年
 
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昨年、乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さんで開催された企画展の地方巡回です。古今東西の小屋の中から「7つの名作」を紹介するコーナーがあり、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋(高村山荘)も含まれています。 
 
先月から始まっているのですが、つい最近知りました。和歌山の田辺市立美術館で開催中の「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」同様、知ったのが遅く、面目ありません。
 
さて、知ったのが遅く、関連行事がいくつか終わってしまっていますが、これから開催されるもののみご紹介します。
 
つのだたかし「小屋に捧げるリュートの夕べ」
 日時:5月31日(土)19:00~20:00
 会場:金沢21世紀美術館光庭(雨天の場合、館内別会場)
 参加費:無料
 
「職人衆、Hanem Hutを語る」
 日時:6月14日(土)14:00~16:00(開場13:45)
 会場:金沢21世紀美術館レクチャーホール
 定員:先着80名(予約不要)
 参加費:無料

中村好文×皆川明対談「小屋から学ぶこと」
 日時:8月2日(土)14:00~16:00(開場13:45)
 会場:金沢21世紀美術館シアター21
 定員:180名
 チケット料金:1,000円
 チケット取扱: 金沢21世紀美術館ミュージアムショップ  TEL 076-236-6072
 
「Hanem Hut」内部公開 光庭に展示する「Hanem Hut」の内部を限定公開します。(予約制)
 公開日時:毎週土日 14:00〜18:00
 予約方法:当日13:00より、「Hanem Hut」のある光庭にて予約を受け付けます。
 ※天候等の事情で公開できない場合もございます。あらかじめご了承ください。
 
 
今回の「小屋においでよ!」は、たまたま中村氏のインタビューをネットで見つけて知りました。「高村光太郎」の語が入っていたので検索の網にひっかかりました。
 
毎日、「高村光太郎」「高村光雲」「智恵子抄」等のキーワードでネット上の新着情報を渉猟していますが、限界があります。美術館・文学館などの企画展の地方巡回(特に関東以外)に関する情報収集が今ひとつできていません。何かこの手の情報をうまくゲットできる(キーワード検索などで)いいサイトなどがあれば、ご教示いただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月27日

大正14年(1925)の今日、『東京日日新聞』に、談話筆記「悪趣味を排す」、さらに「自筆」カット「自画像」が掲載されました。
 
これを受けて5月30日に詩人の田内静三にあてた書簡が伝わっています。
 
此間の日日新聞のには全く閉口しました。 画は鉛筆でかいたものをペンか何かでなぞったらしく、記事は記者が勝手に書き上げて意味の正反対の事さへ書いてありました。友達ならば分かるでせうが、甚だ迷惑なものですね。取消正誤を出す程の事でもなし、尚更困ります。
 
こういうケースがあるので注意が必要ですね。

一昨日、浅草はアミューズミュージアムさんで、「東日本大震災復興支援チャリティ朗読会 届けよう笑顔!~東北に初夏の風~ レジェンド・太宰治」を聴いて参りました。
 
出演者の中村雅子様塙野ひろ子様須賀雅子様のブログにレポートがありますので、リンクさせていただきます。
 
浅草といえば、光雲・光太郎親子のホームグラウンドです。特に光雲は浅草の生まれです。そこで、朗読会が始まる前、少しだけ二人の足跡をたどってみました。
 
まず、浅草寺観音堂前の手水舎。光雲作の「沙竭羅龍王像」。
 
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明治36年(1906)の建立です。ただし、はじめは観音堂裏手にあった池に噴水があり、その噴水塔の上に鎮座ましましていたもので、のちに移転されています。
 
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こちらは当時の絵葉書。一見カラーですが、「手彩色」といって、色は手で塗ったものです。
 
像の迫真の表情、それから東韶光による天井画の龍も実に迫力があります。
 
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続いて観音堂の前を左折、奥山方面へ。奥山門を出ると「浅草花やしきさんがあります。
 
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光太郎、ここには美術学校時代によく通っていました。
 
動物をモデルにすればモデル代がいらないので、よく上野動物園や浅草の花屋敷に時間より早く入れてもらひ、檻のそばでお客の来ないうちに油土で作つた。(「モデルいろいろ」 昭和30年=1955)
 
そんな無理が通った背景には、光太郎の祖父・中島兼吉がこの辺りの香具師(やし)の組、花又組の親分だったことも無関係ではないでしょう。
 
花やしきの前を過ぎ、少し行ったアーケード街を北上すると、老舗の牛鍋屋「米久さんがあります。
 
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光太郎は大正10年(1921)、この店を舞台に「米久の晩餐」という長大な詩を書きました。
 
    米久の晩餐
 
八月の夜は今米久(よねきう)にもうもうと煮え立つ。
 
鍵なりにあけひろげた二つの大部屋に
べつたり坐り込んだ生きものの海。
バツトの黄塵と人間くさい流電とのうづまきのなか、
右もひだりも前もうしろも、
顔とシヤツポと鉢巻と裸と怒号と喧騒と、
麦酒瓶(ビールびん)と徳利と箸とコップと猪口(ちょこ)と、
こげつく牛鍋とぼろぼろな南京米と、
さうしてこの一切の汗にまみれた熱氣の嵐を統御しながら、
ばねを仕かけて縦横に飛びまはる
おうあの隠れた第六官の眼と耳とを手の平に持つ
銀杏返しの獰猛なアマゾンの群れと。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

室に満ちる玉葱と燐とのにほひを
蠍(さそり)の逆立つ瑠璃いろの南天から来る寛闊な風が、
程よい頃にさつと吹き払つて
遠い海のオゾンを皆(みんな)の團扇(うちは)に配つてゆく。
わたしは食後に好む濃厚な渋茶の味ひにふけり、
友はいつもの絶品朝日(ノンパレイユアサヒ)に火をつける。
飲みかつ食つてすつかり黙つてゐる。
海鳴りの底にささやく夢幻と現實との交響音。
まあおとうさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお坐んなさい……
おきんさん、時計下のお会計よ……
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
おいこら、酒はまだか、酒、酒……
米久へ来てそんなに威張つても駄目よ……
まだ、づぶ、わかいの……
ほらあすこへ来てゐるのが何とかいう社会主義の女、随分おとなしいのよ……
ところで棟梁(とうりやう)、あつしの方の野郎のことも……
それやおれも知つてる、おれも知つてるがまあ待て……
かんばんは何時……
十一時半よ、まあごゆつくりなさい……
きびきびと暑いね、汗びつしより……
あなた何、お愛想、お一人前の玉(ぎよく)にビールの、一円三十五銭……
おつと大違ひ、一本こんな處にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
まあすみません……はあい、およびはどちら……

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓樂をつくす群衆、
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平氣でまる裸にする群衆、
かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆、
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもんもんの群衆、
出来たての洋服を氣にして四角にロオスをつつく群衆、
自分でかせいだ金のうまさをぢつとかみしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。

わたしと友とは有頂天になつて、
いかにも身になる米久の山盛牛肉をほめたたへ、
この剛健な人間の食慾と野獣性とにやみがたい自然の声をきき、
むしろこの世の機動力に欺かる盲目の一要素を与へたものの深い心を感じ、
又随処に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、
老いたる女中頭の世相に澄み切つた言葉ずくなの挨拶にまで
抱かれるやうな又抱くやうな愛をおくり、
この群衆の一員として心からの熱情をかけかまひの無い彼等の頭上に浴びせかけ、
不思議な溌溂の力を心に育(はぐく)みながら静かに座を起つた。

八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。
 
ここで昼食、と考えていましたが、まだ開店前でした。
 
この界隈にはその他にも光太郎光雲ゆかりの場所がまだまだあります。ただ、花やしきさんや米久さんのように、今も続いているところはそう多くはないのですが。また時間を見つけて、古地図片手に足跡をたどってみようと思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月26日

平成12年(2000)の今日、俳優の山村聰が歿しました。
 
山村さんといえば、昭和32年(1957)封切りの東宝映画「智恵子抄」で光太郎役を演じられました。その時の智恵子役は原節子さんでした。
 
以前にも書きましたが、山村さんと光太郎の関連は、映画「智恵子抄」だけではありません。山村さんがまだ若手俳優だった戦前から戦時中、ラジオ放送で何度も光太郎詩の朗読をなさっていました。戦時中には「シンガポール陥落」「山道のをばさん」といった戦意昂揚の詩を朗読しています。
 
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画像は映画「智恵子抄」のパンフレットから。
 
山村さんご自身の言葉も載っています。
 
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