一昨日の国会図書館での調査で見つけた、『高村光太郎全集』等未収録の作品を御紹介します。
 
大正6年(1917)2月2日の『東京日日新聞』に載った談話です。内容はロダンに関して。ロダンはこの年11月に亡くなりますが、その前から何度か重病説が報じられ、これもその時のものです。
 
ロダン翁病篤し 大まかな芸術の主 作品は晩年に一転して静に成て来た
 
『ロダンは千八百四十年巴里の生れで本年十一月十四日で満七十七歳になる。工芸学校に入学し、昼はルーブル美術館に、夜は図書館に通ひ、尚動物彫刻の大家バリに学んで刻苦精励し十七歳で卒業し、一人前になつて芸術家といふよりは職人の生活に入つた。
 在学中三度まで美術家の登竜門なるボザー(官立美術学校)の入学試験を受けたが、三度まで素描で落第し終に断念したが、晩年この事を人に語つては「あの時落第したのは実に幸福だつた」と述懐した。彼の職人生活はかなり長く具に辛酸を嘗めた。
 其間の仕事といふのは噴水の装飾とか壁縁の装飾の石膏細工であつたが、その下らない仕事こそ後年立派な果実を結ぶ根を養つたのであつた。廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し翌年彼の有名な「鼻の潰れた男」をサロンに出して美事に刎られた。
 それは無論出来の悪い為では無く当時の審査官の固持せる美の標準からは醜悪極まる物に見えたのであつた。其の證拠には三年後のサロンで同じ物が立派に通過した、
 普仏戦争の最中白耳義に出稼ぎし白耳義にはその当時の作品が沢山残つてゐる。卅六歳の時までその国に滞在して、問題の作品「黄銅時代」を作り掛けたのも其頃だつた。「黄銅時代」は等身大の男の立像で、人間の精神の覚醒を象徴したので足一本に半年も費やした苦心の作だつたが、仏国へ帰つてサロンに出品すると一旦授賞を決定され間も無く取消された。といふのは余りに真に迫つてゐた為、生きてゐる人間の身体に型をあてて取つた詐欺的の作品といふ誤解を受けたからだ。
 其うち彼の真の技倆を認める人が多くなつて、四十歳の時同一の物をサロンに再び出して三等賞を受け先年の寃が雪がれた上政府に買上られ、今はルクサンブール美術館にある。この時代から彼の製作の速力は増大し、毎年多数の傑作を産んで其名声は漸次世界的になつた。続いて出たのが『聖ジヨンの説教』『アダム』『イヴ』ポルトロワイヤル庭園にあるユーゴーの記念像等である。
 装飾美術館のダンテの門を飾るべき『フランチエスカの群像』『三人の影』『思想』等をも作つた。ダンテの門は中止になり、『思想』は彼の希望に依りパンテオンの前に安置されたが、これはダンテの神曲の中の地獄へ落ち行く人から思ひ付いたもので彼の代表作と呼ばれてゐる。
 文豪バルザツクの記念像を頼まれ、似てゐないといふので刎ねられたこともあつた。その頃から彼の作風は一転化を来たして大まかな綜合的な芸術となりだんだん単純に静かになつて来た。彼には女弟子クローデル、男弟子エミール・ブールデルの他に余り有名な弟子はない。』
 

00311月にロダンが亡くなった際にも、光太郎の追悼談話があちこちに掲載されましたが、重病説の時に語った談話は今回が初めての発見でした。
 
ロダンの生涯が簡潔に、しかし押さえるべき点はきちんと押さえた上で語られています。途中に出てくる「ダンテの門」というのは「地獄の門」、「思想」というのが「考える人」です。
 
「廿三歳の時シヤンバーニユの田舎娘なるローズと結婚し」とありますが、それは事実婚ということで、その時点では入籍していません。もちろんそれは光太郎も知っていました。
 
二人が入籍したのは、この談話が掲載される直前の1月29日。その点に関する記述がないため、この時点では光太郎もそれは知らなかったようです。前年に軽い脳溢血を起こしたロダンは、以後健康に不安を抱え、同じく病気がちとなったローズとの入籍を果たしたのだそうです。しかしそれもむなしく、ローズは2月14日に歿し、ロダンの健康もすぐれません。結局、先に書いたとおり、ロダンはこの年11月に亡くなります。
 
事実婚というのは、フランスではさほど珍しいことではなかったようです。サルトルとボーボワールなどもそうでした。
 
実は光太郎と智恵子もそうです。結婚披露宴は大正3年(1914)の12月でしたが、入籍したのは智恵子の統合失調症がのっぴきならぬところまで行ってしまった昭和8年(1933)です。これは自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障といった意味合いもあったようです。光太郎、ロダンの真似をしたというわけではないのでしょうが、おそらく頭の片隅にはロダン夫妻の事はあったと思います。
 
光太郎とロダン、他にもたどった軌跡に奇しくも共通点があります。それは先の談話の最後に書かれている「女弟子クローデル」について。そのあたりを明日のブログに書きましょう。

昨日は久しぶりに国会図書館に行って参りました。久しぶり、といっても2ヶ月ぶりくらいですが。


001
 
国会図書館などに調査に行く場合には、「今日は○○と××について調べる」などと、あらかじめ計画を練っていかないと時間が無駄になります。
 
昨日はまず、昨日のこのブログで小沢昭一さんの訃報にからめて紹介した光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)、に関する調査から始めました。
 
今年4月から年2回、当方が刊行している冊子『光太郎資料』で、「音楽、レコードに見る光太郎」という項を設けており、まずは「歩くうた」を扱っているからです。今までに、当時出版された楽譜や、当時発売されたレコード(徳山璉などの歌唱)、戦後になって他の歌手がカバーしたレコード・CDなどについて紹介しました。
 
そうした調査の中で、当時の厚生省が歩くことを広く国民に呼びかけていたらしいことが判り、その裏付け調査をしておこうと考え、調べてみました。すると、確かにそういう記述のある書籍が見つかりました。また、大毎東日映画部が「歩け歩け」という映画を制作していたことも判り、そちらの調査もしてきました。
 
詳しくは来年4月刊行予定の『光太郎資料』第39集に書きますので、ご入用の方はお声がけください。
 
続いて、当たりをつけておいた光太郎の文筆作品-少し前のブログで長々と書いた「海の思出」のように、埋もれていた文筆作品-の探索。こちらについてはまた明日のブログでご報告します。
 
それにしても、国会図書館に行くと、いい運動になります。同館は図書館といっても、通常の図書館のように開架で本がずらっと並んでいるわけではなく、ほとんどが書庫にしまわれている状態です。古い資料はデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧する仕組みになっていますが、それほど古くない物は、現物を書庫から出してもらって閲覧する仕組みです。
 
雑誌以外の書籍の受け取りと返却、複写は本館2階、雑誌に関しては受け取り、返却は新館2階、複写は新館1階。デジタルデータの複写受け取りも新館1階。さらに昨日は新聞系の調査も行ったので、新館4階にも行き、合間に本館6階の食堂で食事、喫煙は本館と新館の間の2階喫煙室。本館も新館も広い建物で、さすがに4階や6階に上がる時にはエレベータを使いますが、1階と2階の間は階段を使った方が早いので、エレベータは使いません。昨日は朝から夕方までいましたが、おそらくキロメートルの単位で歩き回っているんじゃないかな、などと思いつつ過ごしました。当方は普段から犬の散歩で毎日歩いていますので大丈夫ですが、年配の方には優しくないシステムです。
 
しかし、国会図書館は進化しています。一番大きいのはデジタルデータで古い書籍をすぐに見られること。以前は古い物でも現物を書庫から出して貰って閲覧したり、マイクロフィルムやマイクロフィッシュで閲覧したりというのが中心でした。そうすると、出して貰ったり、必要なページを複写して貰ったりするのにも、1件あたり早くて十数分かかり、待ち時間が非常に長かったのです。カウンターの前に総合病院の薬局のような電光掲示板があって、自分の番号が点灯すると、書庫から目的の本が到着あるいは複写完了、というシステムでした。そこで、長い待ち時間の対策として、家から文庫本を持ち込んで読むということをしていました。図書館に自分の本を持ち込んで読書、考えてみると馬鹿馬鹿しい話でした。
 
現在は、やはりデジタル化されていない書籍の受け取りや複写にかかる時間は短縮されたわけではありませんが、待ち時間にパソコンでデジタルデータの調査が出来ます。そちらの複写はパソコンから申し込めます。また、調査しているうちにパソコンに「申し込んだ書籍が届きました」「複写が完了しました」といったメッセージが届くシステムにもなっており、非常に便利です。
 
ただし、あちこち歩き回らなければ行けない、というのは昔のままです。欲を言えば、すべての資料がデジタル化され、自宅にいながらにして閲覧も複写もすべて自分のパソコンで出来てしまうようになればさらに便利です。無理な話だとは思いますが……。

小沢昭一さんの訃報が報じられました。また一人、昭和の名優が逝ってしまいました……。
 
小沢さんといえば、俳優としての活動以外にも、歌の方面でも活躍なさいました。
 
当方、小沢さんのCDを1枚持っています。
 
「昭一爺さんの唄う 童謡・唱歌」 平成20年 日本コロムビア 定価2,000円
 
イメージ 1
 
昔なつかしの童謡、唱歌23曲が収録されており、その中に、光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」が収められています(もちろん小沢さんの歌で)。この歌が作られたのは昭和15年(1940)、オリジナルのレコードとしては「侍ニツポン」「隣組」なども歌った徳山璉(たまき)によるものなどがビクターから発売され、ヒットしました。
 
また、曲と曲の合間には、小沢さんの語りによるそれぞれの曲の解説など。「歩くうた」に関しては「しつこい歌」とおっしゃっています。たしかに、全部で4番まであり、その中で「あるけ」という単語がなんと48回も出てきます。
 
しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、このCDでは1,2番のみが歌われています。
 
光太郎自身、しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、後に詩集『をぢさんの詩』に収録した際、歌としての3番をカットしています。
 
何はともあれ、小沢さんのご冥福をお祈り申し上げます。

昨日紹介した『大正の女性群像』、大判の本で、写真等も豊富に使われ、大正の女性文化を目で見て理解するには格好の資料です。
 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
智恵子はどんな服装、髪型をしていたのだろうかなどと思いを馳せると、楽しいものがあります。
 
それにしても、「大正」というと、昨日も書いた通り、「明治」の閉塞性に風穴があいた時代ということはいえると思います。そのためこうした庶民文化的な部分も一気に花開いたように感じます。
 
それはそれでその通りなのでしょうが、それだけではなかったのが「大正」です。『大正の女性群像』、こうした華やかな部分だけでなく、「負」の部分も忘れていません。すなわち、「女工哀史」に代表される低賃金労働や搾取、「からゆきさん」と言われた海外での売春婦、そして関東大震災……。
 
昨日も書きましたが、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか。原発事故やら政治的空白やら、「負」の部分が強調される時代であってはならないと思います。

昨日のブログで、吉本隆明氏の著書『超恋愛論』を紹介しました。
 
その中の「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」という定義。やはり光太郎智恵子を想起せずにはいられません。
 
そこで思い出したのが、先月、生活圏の古書店で購入した以下の書籍です。
 
『大正の女性群像』昭和57年(1982)12月1日 坪田五雄編 暁教育図書
 
イメージ 1
 
 
内容的には主に二本立てです。「人物探訪」の項で、大正期に名を馳せた各界の女性を扱い、「女性史発掘」の項で女性一般についての説明。どちらも豊富な図版、写真が添えられ、ビジュアル的にも豪華な本です。
 
「人物探訪」の項で扱われているのは、もちろん智恵子、そして平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子、柳原白蓮、田村俊子、相馬黒光、九条武子、岡本かの子などなど。
 
それぞれに名を成した女性たちですが、程度の差こそあれ、それぞれの人生が激しい恋愛に彩られています。
 
ここにはやはり「大正」という時代の雰囲気がからんでいるのでしょう。ある意味閉塞的だった「明治」が終わって迎えた「大正」。「昭和」に入って泥沼の戦争の時代になるまで、束の間、新しい風が吹いた時代だと思います。
 
その「大正」に、光彩を放った女性たち。強引な考えかも知れませんが、彼女たちも一人では埋もれてしまっていたのではないでしょうか。吉本氏曰くの「男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」である激しい恋愛を経て、それぞれの輝きにたどり着いているような気がします。
 
その結果が決して幸福とはいえない人生につながってしまった女性もいるかも知れませんが……。
 
さて、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか……。

新刊を紹介します。 

吉本隆明著 2012/10/15 大和書房(だいわ文庫) 定価600円+税
 
イメージ 1
 
今年亡くなった評論家・吉本隆明氏の著書。2004年に同社からハードカバーで刊行されたものの文庫化です。
 
「男女が共に自己実現しようとして女性の側が狂気に陥った光太郎・智恵子の結婚生活」という項があり、光太郎・智恵子にふれています。
 
他にも夏目漱石、森鷗外、島尾敏雄、中原中也、小林秀雄らに言及し、「恋愛論」が展開されます。
 
いつも思うのですが、氏の論は決して突飛な論旨ではなく、ごく当たり前といえば当たり前のことを述べています。しかし、誰しもがそういうことを感じていながらうまく言葉で言い表せないでいたことを明快に言ってのけるところに氏のすごみを感じます。
 
例えば、恋愛に関しても「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」と定義しています。
 
そして一つ何かを論じると、その裏の裏まで掘り下げ、読む者を納得させずにおかないという特徴もあります。論とか文章といったもの、こうあるべきだといういいお手本になります。是非お買い求めを。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、大阪在住の研究者、西浦基氏から、写真その他の貴重な資料をいただきましたので御紹介します。
 
氏は精力的に海外にも出かけられている方で、以前の『高村光太郎研究』に、フランスのロダン美術館などのレポートを寄稿なさったりしています。今年はスイス、イタリア、フランスを廻ってこられたとのことで、そのうち特に、光太郎が海外留学の末期に旅行で訪れたスイスのルセルンでは、光太郎が泊まったホテル(ホテルクローネ)なども訪れられたそうです。詳細は恐らく『高村光太郎研究』に載ると思いますので、以下、氏からいただいた写真のみ紹介します。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4
 
光太郎、スイスでも船に乗っています。
 
 今日は滊船(サルウン ボオト)に乗つて十人余りの旅客と共に「キヤトルス キヤントン」の湖を縦断して、フリユウレンの村に上陸した。
(「伊太利亜遍歴」 明治45年=1912)

イメージ 5

「「キヤトルス キヤントン」の湖」は、ルツェルン湖。ドイツ語名はVierwaldstätterseeで、「4つの森の州(カントン)の湖」の意味だそうです。
 
光太郎のこの旅は、スイス経由でイタリア各地を約1ヶ月で回っています。昭和29年に書かれた「父との関係」によれば「帰国する前にイタリヤを見たいと思つて、クツク会社のクーポンを買つた。そしてクーポン通りにイタリヤを見物して歩いた。」とのこと。「クツク会社」はイギリスの旅行代理店、トーマス・クック・グループ。この旅行についても詳細を調べるようにと、北川太一先生から宿題を出されています。
 
当方、日本国内では光太郎の足跡を辿る旅をさんざんやりましたが、まだ海外では故地を巡るということをしていません。こちらもいずれ、とは思っています。

昨日まで全8回にわたり、11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にての当方の発表、「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」、昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号に載った光太郎の随筆「海の思出」の検証について書きました。
 
その間に、別件でお手紙をいただいたり、光太郎がらみのテレビ放送があったりしまして、今日はその辺を御紹介します。
 
11/17に福島・川内村で行われた草野心平の忌日・かえる忌に関し、かわうち草野心平記念館長・晒名昇氏から『読売新聞』さんの記事コピーが届きました。翌日の全国版に載ったそうです。
 
イメージ 1
 
また、川内村では来年から米の作付けを再開するという記事も同封してくださいました。明るい話題ではありますが、「農家がどれだけ作付けを再開するかは不透明」「作っても売れるのか、という不安が残る」という記述もあり、手放しでは喜べませんね。
 
さらに、福島在住のかつて草野心平が刊行していた詩誌『歴程』の伊武氏から、今年7月の天山祭(やはり心平を偲ぶ催し)について書かれた『歴程』のコピーをいただきました。ありがたいことです。
 
福島といえば、「智恵子抄」。
 
11/29には、テレビ東京系の「木曜8時のコンサート~名曲にっぽんの歌~」に、二代目コロムビア・ローズさんがご出演。昭和39年(1964)のヒット曲、「智恵子抄」を披露されました。ローズさん、アメリカ在住で、時々帰国なさるとのこと。連翹忌にもご参加いただきたいものです。
 
翌30日には、BSジャパンの「小林麻耶の本に会いたい<本に会える散歩道 日比谷>」。評論家・山田五郎さんのナビゲートで、日比谷界隈の文学散歩でした。その中で約7分にわたり松本楼さんでのロケ。大正元年にこの松本楼を舞台に作られた詩「涙」の解釈と、作品に登場する氷菓(アイスクリーム)のレポートでした。松本楼の小坂哲瑯社長もご出演なさいました。昔ながらのアイスは、山田さん曰く「正しいバニラアイス、This is vanilla iceだね」。ただ、毎年ここで連翹忌が開かれているという話がなかったのが残念でした。
 
同番組、明日12/7の22:30~23:00で、再放送されます。見逃した方は是非ご覧下さい。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にての当方の発表、題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号に載った光太郎の随筆「海の思出」の検証でした。その内容を延々紹介して参りましたが、今回で一区切りです。
 
「海の思出」、最後は「私は海が実に好きだ。私は船に乗ると急に若くなる。」の一言で締めくくられます。『海運報国』という船舶関連の雑誌に載った文章なので、一種のリップサービスかな、と思いましたが、既知の光太郎作品にあたってみると、どうもそれだけではなさそうです。
 
△東京の自動車は危険で、あれに乗るには戦闘準備をしてゐないとならないので嫌い。汽車は酔ふから嫌い。汽船は動けば動くほどいゝ気持になつてきて、ちつとも酔はないのです。
(「〔生活を語る〕」『詩神』第2巻第6号 大正15年=1926)
 
  若し此世が楽園のやうな社会であつて、誰が何処に行つて働いても構はず、あいてゐる土地なら何処に棲んでも構はないなら、私はきつと日本東北沿岸地方の何処かの水の出る嶋に友達と棲むだらう。そこで少し耕して畠つものをとり、少し漁つて海つものをとり、多く海に浮び、時に遠い山に登り、さうして彫刻と絵画とにいそしむだらう。船は私のなくてならない恋人となるだらう。私は今でも船のある処は時間の許す限り船に乗る。船と海との魅力は遼遠な時空の故郷にあこがれる私の生物的本能かも知れない。曾て海からはひ上つて来た私の祖先の血のささやきかも知れない。船の魅力は又闇をわけて進む夜の航海に極まる。其は魂をゆする。
(「三陸廻り」『時事新報』 昭和6年=1931)
 
『海運報国』の発行元、日本海運報国団は、光太郎がこういう考えの持ち主だと知って、執筆を依頼したのかもしれません。
 
さて、長々と「海の思出」に書かれた内容を検証して参りましたが、既知の作品や年譜に載っていない新事実は以下の通りでした。
 
幼少年期        ・小学校で蒲田の梅園に遠足に行ったこと
               ・十四歳頃、江ノ島に一人旅をしたこと
渡米(明治39年=1906)   ・ヴィクトリア経由であったこと
渡英(同40年=1907)    ・ホワイトスター社の「オーシャニック」に乗船したこと
渡仏(同41年=1908)    ・ニューヘブン~ディエップ間の航路を使ったこと
 
一篇の随筆を新たに見つけただけで、これだけの新事実が判明しました。ここまでたくさん判明するのは珍しいケースですが、新発見の短い書簡一つにも、新事実が含まれているというのはよくあるケースです。まだまだ埋もれている光太郎作品はたくさんあると考えられ、その発掘にさらに精を出したいと思います。
 
さて、以上、「海の思出」に「書かれていたこと」ですが、「書かれていないこと」にも注目してみたいと思います。
 
「書かれていた」思い出は、明治末の留学時代のことがメインで、ほんの少し幼少年期の話でした。たしかに留学の際には四年ほどの間にぐるりと地球を一周、その移動の大半が船に乗ってのことでしたので、いつまでも記憶に残っていても不思議ではありません。しかし、光太郎の人生に於いて、もう一回、長い船旅をしたことがあります。
 
それは昭和6年の夏。『時事新報』に載った紀行文「三陸廻り」の執筆のためのもので、宮城の石巻から岩手の宮古まで、少しは陸路を使っていますが、そのほとんどを船で移動しています(この旅で女川との関わりができたわけです)。しかし、「海の思出」では、この時の話には一切触れていません。
 
確かに留学時代のように、大洋を渡った001わけではありませんが、それなりに長い距離ですし、何より「海の思出」が書かれた昭和17年の時点から考えれば、11年しか経っていません。それなのに40年近く前の留学の話がメインなのです。これはどういうことでしょうか。
 
「書かれていないこと」についての考察は、とかく恣意的になりがちで、えらい学者先生には怒られるかも知れませんが、あえて考えてみると、三陸旅行中に智恵子の統合失調症が顕在化したという事実を無視できません。光太郎にとって、三陸旅行はつらい記憶を呼び覚ますものでもあったので、「海の思出」に書かなかった(または書けなかった)のではないか、と思えてしかたがありません。いかがでしょうか?
 
以上、「海の思出」に関するレポートを終わります。

明治42年(1909)、光太郎は、ニューヨーク、ロンドン、パリでの3年余の留学を終える決意をし、3月から4月にかけ、締めくくりにイタリアを旅行します。パリから陸路、スイス経由でイタリアに入り、ヴェニス、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどを廻ってルネサンス期の芸術作品などを見た光太郎、それらの持つ圧倒的な力に打ちのめされます。
 
先の高村光太郎研究会で、大阪在住の研究者・西浦氏から光太郎が廻った各所の写真等をいただきました(今年、行かれたそうです)。後のブログでその辺りも紹介しようと思っています。
 
さて、光太郎。5月にはいったんロンドンに渡り、テムズ河口から日本郵船の船に乗って、帰国の途に就きます。到着地は神戸港でした。「海の思出」には以下のように書かれています。
 
 日本に帰る時は盛夏の頃ロンドンから郵船の松山丸とかいふ小さな汽船に乗つたが、事務長の好意で愉快な航海をした。
 
この一節を読んで、「あれっ?」と思いました。既知の光太郎作品や年譜では、この時に乗った船の名が、「松山丸」ではなく、すべて「阿波丸」となっているからです。よくある光太郎の記憶違いなのだろうと思いました。「盛夏の頃」というのも間違いで、正確には5月15日です。同様に、船名も単なる間違いだろうと思いました。『高村光太郎全集』第21巻に収録されている、親友だった水野葉舟にあてた書簡は帰国の船中から書かれたもので、「阿波丸船上より」とか「五月十五日に倫敦からこの阿波丸にのり込んで今は地中海の上に居る。」と書いてあるので、まず「阿波丸」で間違いないと思ったのですが、一応調べてみました。
 
すると、この当時、日本郵船には「松山丸」「阿波丸」ともに就航していたことがわかりました。ただし、「松山丸」は3,099トンの小さな船で、一方の「阿波丸」は6,039トンと、「松山丸」の倍位の大きさでした。
 
明治34年(1901)10月、東洋堂刊の『風俗画報増刊乗客案内郵船図会』によれば、欧州航路の説明として、「此航路に供用する汽船は悉く六千噸以上の双螺旋大汽船にして。電気燈、煽風機等諸般の設備其の他の結構。総て最新式に拠れり。」とあります。「松山丸」は明治18年(1985)の建造ですから「最新式」とは言えませんし、何より「六千噸以上」の条件に当てはまりません。
 
また、昭和59年 海人社刊『日本郵船船舶百年史』によれば、欧州航路に就航した船の中に、「阿波丸」の名はありますが、「松山丸」の名はありません。
 
やはり「松山丸」と書いたのは光太郎の記憶違い、従来通り「阿波丸」に乗ったと断定してよいでしょう。
 
イメージ 1
 
この点を高村光太郎研究会で発表したところ、北川太一先生から「何もないところから『松山丸』という実在の船の名が出て来るというのも考えにくいので、もしかしたら、他の時に他の場所で『松山丸』という船に乗ったのかもしれないから、調べるように」と、宿題を出されてしまいました(さらにイタリア旅行についても宿題を出されています)。参りました(笑)。
 
ちなみに「阿波丸」。太平洋戦争中に米潜水艦に撃沈された有名な「阿波丸事件」の「阿波丸」とは別の船です。やはり船名使い回しで、光太郎が乗ったのはⅠ世、大戦中に撃沈されたのはⅡ世です。余談になりますが、明治45年(1912)、東京市長・尾崎行雄から贈られ合衆国ワシントンポトマック河畔に植えられた桜6,040本を運んだのが、光太郎の乗った「阿波丸」Ⅰ世です。同じ「阿波丸」でも、Ⅰ世は日米友好のシンボルを運び、Ⅱ世は米軍により撃沈。皮肉なものですね。
 
9/12のブログに書きましたが、現在、横浜港に保存されている「氷川丸」。「阿波丸」と同じく日本郵船の船です。ただ、「氷川丸」の方が20年ほど新しく、総排水量も11,622トンと「阿波丸」の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い見て来ました。なかなか面白いものがありました。皆さんも横浜にお立ち寄りの際にはぜひ行ってみてください。
 
「海の思出」、最後は「私は海が実に好きだ。私は船に乗ると急に若くなる。」の一言で締めくくられます。次回、この一言をめぐる考察を書き、このレポートを終えさせていただきます。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポート。あと少しです。
 
明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
「オーシャニック」での船旅でのエピソードを、「海の思出」に光太郎はこのように書きます。
 
私と同じ船室に居た若いフランスの男に君の住所は何処かとたづねたら、「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」と答へた。
 
まるで映画のワンシーンのようですね。「僕の住所は僕の帽子のあるところだ、」なかなか言えるセリフではありませんね。映画といえば、こんなエピソードも。
 
驚いたのはその船に乗つてから初めて知り合つた米国の男女が一週間の航海のうちに恋愛成立、上陸したらすぐ結婚式をあげるのだと一同に披露したことであつた。一同は大にそれを祝つた。
 
映画の「タイタニック」を彷彿させます。もっとも、あちらのディカプリオとケイト・ウィンスレットは例の氷山衝突事故のため、永遠の別れを余儀なくされましたが……。
 
さて、「タイタニック」といえば、光太郎が乗った「オーシャニック」と同じ、ホワイトスター社の船です。処女航海(結局、これで沈没してしまうのですが)は明治45年(1912)。光太郎が「オーシャニック」で渡英した5年後です。この2隻、単に同じホワイトスター社の保有というだけでなく、かなり密接な関係があります。
 
イメージ 1
 
すなわち、前回のこのブログで書いた「オーシャニック」の基本理念、「豪華な設備と乗り心地のよさ」を発展させていったものが「タイタニック」なのです。また、「タイタニック」のクルーの中に、「オーシャニック」のクルー経験者が4人います。マードック1等航海士、ライトラー2等航海士、ピットマン3等航海士、ムーディ6等航海士の4人です。特にライトラー2等航海士とピットマン3等航海士は、光太郎が乗船した明治40年の時点で、「オーシャニック」に乗っていたようです。
 
「タイタニック」は氷山との衝突による沈没という悲劇的な末路をたどりましたが、「オーシャニック」もその末路は哀れでした。
 
華やかな名声に包まれたこの客船には、短い寿命しかなかった。一九一四年、第一次大戦が勃発するや、仮装巡洋艦に改装され、第一〇巡洋船隊に配属されて作戦行動に出る。ところが、大型商船に無経験な海軍士官が艦長になっていたせいか、悪天候のなかでシェトランド諸島の島で座礁沈没、わずか一五年の生涯を閉じてしまう。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
諸行無常、盛者必衰ですね……。
 
「海の思出」、この後は明治41年(1908)の渡仏に関する短い記述が続きます。
 
 英仏海峡はニユウヘブン――ヂエツプを渡つた。至極平穏な数時間で、私はその間にドオデエの「サフオ」を読み了(おは)つた。海峡の現状を新聞で読むと感慨無きを得ない。
 
何気なく書いてありますが、ニユウヘブン(ニューへブン・英)――ヂエツプ(ディエップ・仏)間の航路を使ったというのも、今まで知られていた光太郎作品や年譜には記載されていませんでした。ちなみにここには現在も航路が通っています。
 
「海峡の現状」は、この「海の思出」が書かれた昭和17年(1942)に、「ディエップの戦い」という連合軍のフランスへの奇襲上陸作戦が行われたことなどを指していると思われます。
 
さらに「海の思出」は、留学の末期(明治42年=1909)にイタリア旅行に行って訪れたヴェニスの記述をへて、同じ年の帰国に関して記されます。そちらは次回に。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートの5回目です。
 
前回、明治40年(1907)の渡英の際、光太郎が乗った船がホワイトスター社の画期的な船「オーシャニック」(「オーシアニック」「オセアニック」とも表記)と判明したことを書きました。
 
イメージ 1
 
では、「オーシャニック」、どこが画期的だったのでしょうか。
 
この当時、大西洋を最速で渡った船に「ブルーリボン賞」という賞が与えられる制度がありました。ホワイトスター社の船も、何度か受賞しています。しかし、「最速」にこだわるあまり、乗り心地や乗客の利便性を後回しにする傾向も見られました。
 
当時、スピードが速いと人気のあったドイツ客船は、高速という誉れの蔭に、船体振動という恥部を隠していたわけである。船旅の快適さを考えた振動軽減への配慮よりも、とにかく海象のいかんにかかわらず、蒸気圧を最大に上げて、フルスピードで航海する。そして一時間でも早く目的地に到着するというのが、船会社側のやり方であった。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
2~3時間を短縮するために多大の犠牲を払い、その短縮された時間を到着したニューヨークやマージー川(※リバプール)で錨を降ろして(入港待ちをして)過ごすのは無駄なことだったのである。(中略)ニューヨークへの到着は、暗くなってからだと意味がなかった。乗客は入国手続きを待つために、翌日まで船内に留まることになったからである。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
ホワイトスター社のイズメイ社長は、こうした風潮に疑問を持ちます。また、コストの問題もありました。
 
ドイツのライバルに勝つためには、二三ノットを出す必要があるが、これには建造費が割高になることから計画を変え、機関の出力を二万八〇〇〇馬力(KWDG=ドイツ船籍の客船、カイザー・ウィルヘルム・ディア・グロッセは三万一〇〇〇馬力)に抑えた。こうして、スピードを犠牲にする一方、安定して快適な航海ができるような大型船、という新しいコンセプトに到達した。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
そうしてエンジンにかかるコストを抑えた分を、内装に回したのです。
 
上等級の船客設備などは、スケールの大きさと豪華さでは、当時で群を抜くと評判を得る。ドーム付き天井の一等食堂は、両舷の大スカイライトから採光されていたり、図書室は念の入った装飾で、人びとを驚嘆させるに充分なものだった。スティアレジ客室のスペースも、他社船よりゆったりしたものだった。(中略)オセアニックは、その豪華な設備と乗り心地のよさで、〈大海原の貴族〉と称えられるようになる。(『豪華客船の文化史』平成5年 野間恒 NTT出版)
 
速力の不足は、船室と公室の水準が非常に高いことで、補って余りあるものだった。(中略)2本の大変背の高い煙突は、優雅で堂々とした印象をかもし出した。そして速力を追求することだけが大西洋航路客船の目指す絶対目標ではなく、乗客は高水準の船旅や到着時間の確実性をも同じくらい熱望していることを、この船は示して見せたのである。出力に余裕があるために、単調ともいえるほどの定時運転で大西洋を横断できたのであった。ホワイトスター・ラインにおいては、この船は完全な「1週間船」だった。(『豪華客船スピード競争の物語』平成10年 デニス・グリフィス著 粟田亨訳 成山堂)
 
こうした「オーシャニック」の特徴は、「海の思出」や既知の作品「雲と波」に語られる光太郎の回想と一致します。
 
ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。これは又「アゼニヤン」の時とは雲泥の相違で毎日好晴に恵まれて、まるで湖水でも渡るやうな静かな海であつた。(「海の思出」)
 
 大洋を渡るのは二度目になるが、前の時とは違つて今度は出帆の日から今日まで実に静かな美しい海を見つづけた。前の時にはこんなにやさしいあたたかい趣が大洋にあらうとは夢にも思はなかつた。
(略)
 今度の航海の愉快な事は非常だ。全く此の大きな船が揺籃の中に心地よく抱かれてゐる様だ。此の親しむ可くして狎るべからざる自然のTendernessとCalmnessとは僕の心をひどく暖かにして呉れた。と共に又自然の力の限り無く窮り無い事を感ぜしめられる。(「雲と波」)
 
ホワイトスター社では、この船の成功に自信を得て、速度より乗り心地の追及をさらに進めます。その結果、ブルーリボン賞とはほとんど無縁となりますが、このコンセプトが船客には支持されました。特に富裕層は同社の船に好んで乗船したそうです。
 
ここで疑問に思うのは、渡米の際には特別三等の「アセニアン」で経費削減を図った光太郎が、渡英の際にはなぜこんな豪華客船に乗ったのかということ。その答えは昭和29年に書かれた「父との関係―アトリエにて―」にありました。
 
父の配慮で農商務省の海外研究生になることが出来、月六十円ばかりの金がきまつてくる事になつたので、六月十九日に船に乗つて大西洋を渡り、イギリスに移つた。
 
諸説ありますが、明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると60円は240,000円。そして光太郎が「オーシャニック」で利用したのは2等。1等は目玉の飛び出る様な金額だったようですが、2等ならそれほどでもなく、利用可能だったのだと思われます。
 
長くなりましたが、明日はもう少しだけ「オーシャニック」の話と、続く渡仏、さらに帰国直前のイタリア旅行中の話を。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。
 
幼少年期、渡米に続いて書かれているのは、明治40年(1907)に、アメリカからイギリスに渡った際の話です。
 
最大の収穫は、渡英の際に乗った船が判ったことでした。
 
これまでに見つかっていた光太郎の文筆作品では、明治40年、渡英の船内で書かれた「雲と波」という比較的長い文章があり、航海の様子などは詳細に記されていました。しかし、肝心の船名は書かれていませんでした。また、昭和29年(1954)に書かれた「父との関係-アトリエにて-」という文章でも渡英に触れていましたが、船名の記述はなし。ただ、「ホワイト スタア線の二万トン級」とだけは書かれていました。「ホワイトスター」は、イギリスを代表する船会社で、明治45年(1912)には、かのタイタニックを就航させています。
 
さて、「海の思出」。
 
大西洋を渡つたのは一九〇七年の晩秋頃だつたと思ふが、この時は二萬トンからある「オセアニヤ」とかいふホワイト・スタア線の大汽船で、ニユウヨオクから英国サウザンプトンまで一週間の航程であつた。
 
と、船名が書かれていました。やはり船会社はホワイトスター社とのこと。そこで早速調べて見ましたが、同社の船には「オセアニア」という船名はありませんでした。しかし、よく調べてみると、同社の主要な船は「タイタニック」(Titanic)のように、すべて「~ic」で終わる名前を付けています。これをあてはめると「オセアニア」(Oceania)ではなく「Oceanic」となるはず。こう思って調べてみると、「Oceanic」、確かにありました!
 
まず、明治4年(1871)に就航した同社最初の大西洋横断船。ところが、これは渡米の際に乗った「アセニアン」と同じくらいの3,707トンしかなく、時期的にも古すぎます。しかし、洋の東西を問わず、船名は同じ名前を使い回す習慣があり、「Oceanic」にもⅡ世がありました。こちらは明治32年(1899)の就航。光太郎が渡英した同40年(1907)にも現役で航行していました。総トン数も17,272トン。光太郎曰くの「二萬トンからある」に近い数値です。
 
イメージ 1
 
ところで「Oceanic」の片仮名表記ですが、当たった資料によって「オセアニック」「オーシアニック」「オーシャニック」といろいろでした。いずれにせよ、「Ocean=海」の派生語ですので、ここからは「オーシャン」に近い「オーシャニック」と表記します。
 
さて、「オーシャニック」。ホワイトスター社のみならず、大西洋航路全体として見ても、画期的な船でした。画期的ゆえに、同社では記念すべき大西洋航路の初船と同じ「オーシャニック」の名を冠したのです。その画期的な部分が、「海の思出」や「雲と波」の光太郎の記述と合致します。どこがどう画期的だったのかは明日のこのブログで紹介します。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」に関するレポートを続けます。少し長くなるかと思いますがよろしくお願いいたします。
 
昨日、明治39年(1909)の渡米について書きました。横浜からヴィクトリア経由でバンクーバーまでの船旅。乗ったのはカナダ太平洋汽船の「アセニアン」という船です。
 
高村光太郎研究会での発表に向け、改めて「アセニアン」について調べてみたところ、いろいろ面白いことがわかりました。
 
イメージ 1
 
まず、外洋を航海する船としては、非常に小さな船だったということ。
 
船のサイズは総排水量(船自体の重量)で表しますが、「アセニアン」は3,882トンというサイズです。これを他の艦船と比較してみればよくわかります。まず、明治42年(1909)、光太郎が留学から帰国する際に乗った日本郵船の「阿波丸」という船は、総排水量6,309トンと倍近く、同40年(1907)に大西洋横断に使った船は17,272トンと、およそ4倍です。
 
ちなみに世界の有名な艦船では、横浜港で保存されている「氷川丸」が11,622トン、かの「タイタニック」が46,328トン、大戦中の戦艦「大和」が64,000トン、先頃退役すると報道された米海軍の「エンタープライズ」が75,700トンです。
 
カナダ太平洋汽船では、6,000トン級の船も運航していましたが、そちらにはいわばエコノミークラスの「三等」がなく、「アセニアン」と姉妹船の「ターター」の2隻を「三等」と「特別三等」のみに設定していました。光太郎は「特別三等」を利用しています。「留学」とはいいつつ、経済的には余裕がなかったことがよくわかります。
 
それにしても、このトン数に関しては、光太郎の記憶がけっこういい加減だということが判りました。
 
・「アゼニヤン号はたつた六千噸の貧乏さうな船であつた。」(「遙にも遠い冬」 昭和2年=1927)
・「三千噸のボロ船にて渡米」(「山と海」 昭和5年=1930)
・「「アゼニアン号」という二千噸ぐらいの小さな船」(「青春の日」 昭和26年=1951)
・「「アゼニヤン」は四五千トンの小さな船」(「父との関係―アトリエにて―」 昭和29年=1954)
・「『アゼニヤン』といふ幾千トンかの小さい汽船」(「海の思出」 昭和17年=1942)
 
こういう点には注意したいものです。
 
また、「アセニアン」は、カナダ太平洋汽船の保有となる前に、イギリス海軍に徴用、明治33年(1900)の義和団事件に参加しています。
 
逆に智恵子に関わるほのぼのとした記述もあります。
 
西洋料理もろくに食べた事の無い私の船中生活は後で考へれば滑稽至極で、その時の日記を後年妻の智恵子と一緒によく読んで笑つた。(「父との関係―アトリエにて―」 昭和29年=1954)
 
たんねんにつけた日記があって、とても面白いものだったんだが焼いてしまった。毎日毎日びっくりすることばかり。まるで幕府の使者みたいなもので、あの頃は本当に一日がひと月位に相当した。
 食卓に出るものもはじめてのものばかり、ボーイに聞いては書いて置いた。あとで思うと何でもないものだったりして、智恵子とひっぱり出して、一緒に読んで、読みながら大笑いしたことがあった。(「高村光太郎聞き書」 昭和30年=1955)
 
明日は明治40年(1939)にアメリカからイギリスへの船旅についてレポートします。

昭和17年(1942)10月15日、日本海運報国団から発行された『海運報国』第二巻第十号に掲載された光太郎の随筆「海の思出」。
 
冒頭の幼少年期の思い出に続き、明治39年(1906)から同42年(1909)にかけての海外留学に関する話が続きます。まずは渡米。
 
これに関しては、既知の光太郎作品や年譜に書かれている以上のことはほとんどありませんでした。すなわち、
 
・明治39年2月に横浜を出航したこと。目的地はカナダのバンクーバー。
・カナダ太平洋汽船保有の「アセニアン」という小さな船に乗ったこと。
・荒天の連続でアリューシャン方面まで迂回し、長い船旅になったこと。
・波に揉まれ、船員まで船酔いになるほどだったこと。
 
などです。これらはくり返し色々な文章で述べられていることです。ただ、2点だけ、既知の作品や年譜に見当たらなかったことがありました。
 
一点目は「陸地近くなつた頃、流木が船に衝突して食堂のボオトホオルの厚ガラスを破り、海水が一度に踊り込んで来て大騒ぎした事がある」というエピソードです。
 
もう一点は、船がバンクーバー直行ではなく、ヴィクトリア経由であったことです。「程なくヴクトリヤを経て目的地へ無事についた。」という記述がありました。
 
イメージ 1
 
 
この点について調べてみたところ、明治34年(1901)9月13日の「官報」に以下のように書いてありました。「当港」はバンクーバーを指します。
 
新旧船共孰モ当加拿陀ヴ井クトリヤヘ寄港セル加拿陀太平洋鉄道会社ニテモ今船香港ヴァンクーヴァル線ニ向ヒテ従前ノ三「エムプレス」ノ外汽船「ターター」(総噸数四千四百二十五)及「アセニアン」(総噸数三千八百八十二)ノ二艘ヲ増航セシムルコトニ決定シ「ターター」は八月十四日香港ヲ、九月二十日当港ヲ発シ、「アセニアン」ハ同四日香港ヲ、十月十三日当港ヲ解纜スル予定ナリ
 
実際、カナダ太平洋汽船の航路はヴィクトリア経由でした。ただ、寄港したヴィクトリアで光太郎が下船したかどうかは不明です。したがって、これから論文、評伝等を書かれる方は、「光太郎はバンクーバーで初めて北米の土を踏んだ」といった断定的な書き方をすると誤りかも知れませんので気をつけて下さい。
 
それから、「アセニアン」、当方は勝手に横浜~バンクーバー間を航行する船だと思いこんでいましたが、実は香港~バンクーバーの航路で、横浜は寄港地の一つです。そこで、これもこれから論文、評伝等を書かれる方は気をつけてほしいものです。「横浜を出港したアセニアン」なら問題ありませんが、「横浜から出航したアセニアン」と書くと誤りです。細かい話ですが。
 
ちなみに「アセニアン」。スペルは「ATHENIAN」。光太郎の書いたものでは「アゼニヤン」となっていますが、現在では「アセニアン」と表記するのが一般的なようです。「イタリア」を昔は「イタリヤ」と書くこともあったのと同じ伝でしょう。
 
その他、特に新しい事実、というわけではありませんが、「アセニアン」についていろいろ調べてみて、「ほう」と思うことがいろいろわかりました。明日はその辺を。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、当方が発表を行いました。題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。その内容について何回かに分けてレポートいたします。
 
今年に入り、光太郎が書いた「海の思出」という随筆を新たに発見しました。そこには今まで知られていた光太郎作品や、『高村光太郎全集』所収の年譜に記述がない事実(と思われること)がいろいろと書かれており、広く知ってもらおうと思った次第です。ちなみに先月当方が発行した冊子『光太郎資料』38には既に掲載しましたし、来年4月に刊行予定の『高村光太郎研究』34中の「光太郎遺珠⑧」にも掲載予定です。
 
「海の思出」、掲載誌は昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号です。この雑誌は日本海運報国団という団体の発行で、翌昭和18年(1943)と、さらに同19年(1944)にも光太郎の文章が掲載されています(それらは『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に所収済み)。日本海運報国団は、その規約によれば「本団は国体の本義にのっとり海運産業の国家的使命を体し全海運産業人和衷協同よくその本分をつくしもって海運報国の実をあげ国防国家体制の確立をはかるを目的とす」というわけで、大政翼賛会の指導の下に作られた海運業者の統制団体です。
 
そういうわけで、昭和18年、同19年に掲載された光太郎作品はかなり戦時色の強いものでしたが、なぜか今回の「海の思出」は、それほど戦時に関わる記述がありません。まだ敗色濃厚という段階ではなかったためかもしれません。
 
では、どのような内容かというと、光太郎の幼少年期から明治末の海外留学時の海や船に関する思い出が記されています。
 
まず幼少年期。
 
 東京に生まれて東京に育つた私は小さい頃大きな海といふものを見なかつた。小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた時、品川の海を眺めたのが海を見た最初だつた。その時どう感じたかを今おぼえてゐないが、遠くに房州の山が青く見えたのだけは記憶してゐる。その後十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた事がある。この時は砂浜づたひに由比ヶ浜から七里ヶ浜を歩いて江の島に渡つたが押し寄せる波の烈しさにひどく驚いた。波打際にゐると海の廣さよりも波の高さの方に多く気を取られる。不思議にその時江の島の讃岐屋といふ宿屋に泊つて鬼がら焼を食べた事を今でもあざやかにおぼえてゐる。よほど珍しかつたものと見える。十六歳の八月一日富士山に登つたが、頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。
 
 この中で、「小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた」「十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた」というのは既知の光太郎作品や年譜に記述がありません。はっきり明治何年何月とはわかりませんが、記録にとどめて置いてよいと思われます。江ノ島に関しては「十四歳頃」と書かれていても、単純に数え14歳の明治29年(1896)とは断定できません。意外と光太郎の書いたものには時期に関する記憶違いが目立ちますので。ただ、場所まで記憶違いということはまずありえないでしょう。実際、明治三十年五月刊行の観光案内『鎌倉と江之島手引草』の江ノ島の項には「金亀山と号し役の小角の開闢する所にして全島周囲三十余町 人戸二百土地高潔にして四時の眺望に富み真夏の頃も蚊虻の憂いなく実に仙境に遊ぶ思いあらしむ 今全島の名勝を案内せん(略)旅館は恵比寿屋、岩本楼、金亀楼、讃岐屋を最上とす 江戸屋、堺屋、北村屋之に次ぐ」という記述があり、光太郎が泊まったという讃岐屋という旅館が実在したことがわかります。ちなみに「鬼がら焼」は今も江ノ島名物で、伊勢エビを殻のまま背開きにし、焼いたものです。なぜか14歳くらいの少年が一人旅をし、豪華な料理に舌鼓を打っています。

イメージ 1
 
つづく「十六歳の八月一日富士山に登つた」は、昭和29年(1954)に書かれた「わたしの青銅時代」(『全集』第10巻)にも「わたしは、十六のとき祖父につれられて富士山に登つた」とあるので、数え16歳の明治31年(1898)で確定かな、と思うとそうではなく、どうやら記憶違いのようです。祖父・兼松の日記(『光太郎資料』18)によれば、富士登山は翌32年(1899)です。こちらの方がリアルタイムの記録なので優先されます。こういうところが年譜研究の怖ろしいところですね。
 
いずれにしても既に東京美術学校に入学してからで、彫刻科の卵だった時期です。「頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。」こういった空間認識は、やはり彫刻家としてのそれではないでしょうか。
 
「海の思出」、このあと、留学時代の内容になります。以下、明日以降に。

国立西洋美術館の「手の痕跡」展にからめ、光太郎とロダンのかかわりについて述べてみます。
 
筑摩書房発行『高村光太郎全集』の第7巻には、単行書にもなった評伝「オオギユスト ロダン」をはじめ、ロダンについて書かれた光太郎の評論等が数多く掲載されています。それらを読むと、光太郎がロダンによって眼を開かれ、多大な影響を受けたことが見て取れます。
 
 ロダン程、円く、大きく、自然そのものの感じを私に起させる芸術家は、ルネサンス以降に無い。埃及(エジプト)や希臘(ギリシャ)には此の「大きさ」を感じさせる芸術が尠くないが、しかし神経がまるで違ふからわれわれ自身の悩みと喜びとを同じ様に分つてくれない。此点になると、ロダンの芸術は如何にも肉身の気がする。われわれの手を取つてくれる様だ。そしてロダン其人の生活が息のやうにわれわれにかかつてくる。あらゆる善い意味に於て特に近代的だと思はせられる。何千年の歴史がロダンの中に煮つめられてゐるのを感じる。皆生きて来てゐる。人類の歩みをまざまざと見る。(「ロダンの死を聞いて」大正7年=1918)
 
しかし、光太郎もロダンを頭から肯定しつくしているわけではありません。いったん受け入れた上で、自分なりに咀嚼し、そこから独自の境地を導き出さねばただの猿真似になってしまいます。
 
限りなく彼を崇敬する私も、彼を全部承認するわけにはゆかない。むしろ承認しない部分の方が多いかも知れない。私は彼と趣味を異にする。此入口が既にちがふ。彼の堪へ得る所に私の堪へ得ないものがある。美の観念に就ても指針が必ずしも同じでない。私の北極星は彼と別な天空に現れる。(「オオギユスト ロダン」昭和2年=1927)
 
たしかに光太郎の彫刻世界は、ロダンそのものではありません。しかし、光太郎が大見得を切った程にロダンを超えられたか、というと決してそうも思えません。ただし、それは才能の問題ではなく、光太郎に架せられたもろもろの制約のせいという気もします。
 
ロダンによって眼を開かされ、留学から帰国した明治末期は、父・光雲をはじめとする古い彫刻が主流で、新しい彫刻が受け入れられる素地がありませんでした。その後も生活不如意や智恵子の統合失調症発症、そして泥沼の戦争による物資欠乏、戦後には戦争協力を恥じての山小屋生活での彫刻封印。ようやくそうした制約から解き放たれた老境には、もはや身体がついてゆかなくなってしまいます。
 
もし光太郎に、自由に彫刻制作に専念できる環境が与えられていたら、と残念に思います。
 
最後に、今回の「手の痕跡」展の出品作の中から、光太郎と同じことをやっている、というより光太郎が同じことをやっているという手法を発見しましたので。それを紹介します。
 
下の画像は、今回の出品作のうちの一つ「説教する洗礼者ヨハネ」の足です。解説板には以下のように書いてありました。「歩くという動きにたいして身体の各部分の形は不自然に見える。開いた両足には体重の移動がなく、人間が前進する動きではない。」
 
イメージ 1
 
たしかに両方のかかとがべたっと地面に着いています。歩いている足としては、これではおかしいのです。
 
また、解説板には以下の記述もありました。「右肩の関節の位置は解剖学的に正確とはいえず、よく見ると腕も異常に長い。」。つまり随所が人体としてありえない形状なのです。しかし、この彫刻は一見してそのような感じを与えません。これはどういうことなのでしょうか。
 
答えはやはり解説板から。「部分的に見ると不自然な身体の各部は、統合されたときに美しいシルエットと強い説得力をもって観者に訴えかける。」ということなのです。
 
さて、光太郎。下の画像は最晩年の十和田湖畔の裸婦像です。
 
\¤\᡼\¸ 1
 
「説教する洗礼者ヨハネ」同様、両足のかかとがべたっと地面に着いています。ここには光太郎の意図があります。この点について、光太郎曰く、
 
あの像では後の足をスーツとひいているが、あの場合には踵が上るのが本当なんだけれども(立ち上がつて姿態を作り)こういうふうにわざと地につけている。彫刻ではそういう不自然をわざとやるんです。あれが踵が上つていたら、ごくつまらなくなる。そういうところに彫刻の造型の意味があります。(「高村氏制作の苦心語る ”見て貰えば判ります” 像の意味は言わぬが花」昭和28年=1953)
 
ロダンの意図と全く同じですね。これは意識してロダンの手法を取り入れたのか、そうでないのかは何とも言えません(光太郎は当然、「説教する洗礼者ヨハネ」は見ていますが)。また、当方は門外漢なのでよくわかりませんが、人体彫刻としてこういう手法はロダン、光太郎に限らず、お約束の基本なのかも知れません。詳しい方、ご教授願えれば幸いです。
 
彫刻も漫然と見るのではなく、こういう点などに注意して見ることも大切だな、と改めて感じた「手の痕跡」展でした。
 
以上、「手の痕跡」展レポートを終わります。

国立西洋美術館「手の痕跡」展をレポートします。
 
これは同館で所蔵するロダンの彫刻58点とブールデルの彫刻11点、素描や版画を展示している企画展です。当方、ロダン作品をまとめてみるのは初めてで、非常に興味深いものがありました。
 
11/24、9時半頃西洋美術館に着きました。まずは予習を兼ねて以前から前庭に展示されている屋外彫刻を見ました(これらも出品点数にカウントされています)。
 
イメージ 1  イメージ 2

 
イメージ 3
 
ロダン作、「考える人(拡大版」)、「カレーの市民」、そして「地獄の門」などです。ご存知の方も多いと思いますが、有名な「考える人」は、最初は「地獄の門」の群像の一部でした。他にも「地獄の門」から取り出して単体の彫刻になったものは数多くあります。

イメージ 7
 
そして館内地下の企画展示室へ。フラッシュを発光させない、シャッター音に気をつけるという条件のもと、撮影は許可されていました。
 
大半は松方コレクションですが、ロダン彫刻の中でも有名なものがいくつも含まれています。「青銅時代」「洗礼者ヨハネ」「鼻のつぶれた男」「考える人」「ヴィクトル・ユゴー」「接吻」などなど。ほとんどはブロンズで、数点、大理石が混ざっているという構成でした。
 
イメージ 4  イメージ 5
 
6/30前後のブログで紹介した日本人女優・花子の彫刻も2点。

イメージ 6
 
また、「バルザック」や「地獄の門」の習作もあり、完成作との比較という点で興味深く見ることができました。
 
ところどころにブールデルの作品。作風の似通った二人ですが、おもしろいことに、知らない彫刻を遠目に見ても「あれはブールデルだな」というのがほぼ間違いなくわかること。似通っていても個性がはっきり出ているのです。
 
それから素描や版画。光太郎はロダンの留守中にロダン宅を訪ね、夫人のローズからおびただしい素描を見せられ、圧倒されたという逸話があります。もちろん彫刻の数々も光太郎に大きな衝撃を与えたのはいうまでもありません。
 
さて、感想を。100年の時を経たものがほとんどですが、やはり素晴らしい、の一言に尽きます。「具象」の持つ即物性が圧倒的な力で迫ってきます。「質感」「量感」とでも言えばよいでしょうか。それから不動のものでありながら躍動感にも溢れています。光太郎は、彫刻というものは決して止まっているものではない、自分の方が彫刻の周りをぐるっと回ることで、変化して行く「辺相」=輪郭を楽しむことができる、といったようなことを述べています(すみません、ぱっと出典が思い浮かびません)。今回も展示の方法が工夫され(すべてを壁際に押し込められるとそういう見方ができません)、いろいろな角度から見ることができ、それが実感できました。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
明日は、光太郎彫刻との比較的な部分でレポートします。

国立西洋美術館の「手の痕跡」展、高村光太郎研究会のレポートに行く前に、近々放映されるテレビ番組の情報を載せておきます。  

「智恵子抄」001

衛星劇場 CS219 2012/12/5(水) 後06:30 12/8(土) 後02:45 
12/11(火) 後06:00  12/19(水) 前11:00  12/31(月) 深03:45
 
以前のブログで紹介しました松竹映画「智恵子抄」です。智恵子は岩下志麻さん、光太郎は故・丹波哲郎さん。
 
衛星劇場」は有料のCS放送で、松竹グループの衛星一般放送の映画専門チャンネルです。
 
これも以前のブログに書きましたが、冒頭近い部分、「パンの会」のシーンはどうやら当方の住まう千葉県香取市でのロケのようです。
  

木曜8時のコンサート~名曲!にっぽんの歌~

テレビ東京  2012/11/29(木)19:58~20:54
 
11/10のブログで御紹介した内容です。11/15にオンエアの予定だったのですが、急遽、森光子さんの追悼番組に変更、先送りになりました。二代目コロムビア・ローズさんがご出演、昭和39年のヒット曲「智恵子抄」を披露されます。
 
その追悼番組を見て知りました。森光子さん、当方は舞台「放浪記」やテレビのホームドラマなどのイメージしかなかったのですが、芸能生活の出発は歌手だったとのこと。クラシックもポピュラーもこなした歌手の関種子(明40=1907~平2=1990)のお弟子さんだったそうです。関種子というと、昭和14年(1929)、光太郎作詞、箕作秋吉作曲の「こどもの報告」のレコードをポリドールからリリースしています。こんな間接的なつながりもあったのですね。
 

小林麻耶の本に会いたい

BSジャパン 2012/11/30(金) 22時30分~23時00分     再放送12/7
 
本棚につまっているその人の「人生」。著名人を訪ね、その人柄や考え方、意外な素顔に小林麻耶が迫ります。
 
今回は文学ゆかりの場所をめぐる「本に会える散歩道」。東京の中心として明治時代から栄える日比谷を散歩します。

案内してくれるのは、評論家・山田五郎さん。

まずは、人気海外ドラマさながら24時間で謎発生から解決までが描かれている「魔都」の舞台となった東京會舘を紹介。 続いて案内してくれたのは、歴史深い日比谷公園で太宰治が自決する前に書いた作品「渡り鳥」の舞台となる日比谷公会堂、多くの文豪が愛したレストラン「松本楼」では智恵子抄に書かれた氷菓を頂きます。

その他、池波正太郎の銀座日記で登場する「慶楽」ではグルメとして名高い池波正太郎が愛した焼きそばを頂くなど、様々な文豪ゆかりの場所を紹介していきます。

出演者 
MC:小林麻耶 山田五郎
 
松本楼さんは毎年4月2日の光太郎忌日・連翹忌の会場です。

ちなみに11/30の放送では、同じBSジャパンで直前の放送枠(22:00~22:30)が千葉県香取市佐原地区を紹介する「百年の町なみ 千葉県・佐原 江戸の風情が薫る水の郷」です。併せてご覧下さい。
 
さらにいうなら、翌日12/1(土)では、昨年と今年、光太郎智恵子を扱った舞台「月にぬれた手」の公演をなさった渡辺えりさん主演の「100の資格を持つ女 風薫る水郷・佐原の醤油蔵に呪いの連続殺人!!」の再放送(本放送は数年前でした)があります。12:00~14:00、地上波テレビ朝日系です。光太郎とはからみませんが、ご覧下さい。
 
もう一件、光太郎とはからまないかもしれませんが紹介しておきます。 

ドラマ☆駅弁ひとり旅~東北編~ #10

BSジャパン  2012/11/27(火) 8時00分~8時30分
 
「漫画アクション」に連載中の人気紀行漫画をドラマ化。駅弁をテーマにした料理と鉄道を愛する主人公の中年男が美女と共に旅しながら日本全国の名物駅弁を食べつくす!
 
新花巻駅で駅弁を買い、宮澤賢治ゆかりの地を訪ねる大介(岡田義徳)と藤村咲子(須藤温子)はさっそく「山猫軒」へ。雄大な景色を見ながら「注文の多い料理店」というご当地弁当を満喫。宮澤賢治記念館を見学した後向かった先は、「銀河鉄道の夜」のモチーフになった釜石線のめがね橋。ライトアップされた橋を渡る列車は幻想的で、その美しさに大食漢の咲子も思わずうっとり…。

◆出演者
中原大介役…岡田義徳 中原優子(大介の妻)役…加藤貴子 大介が旅先で知り合うマドンナたち…山本ひかる、波瑠、須藤温子

今日は、11/20のブログで御紹介しました第57回高村光太郎研究会でした。
 
会場は湯島のアカデミア湯島。午後2時からということで、午前中は湯島にほど近い上野の国立西洋美術館に寄りました。11/14のブログで御紹介しました「ロダン ブールデル 手の痕跡」展を見るためです。こちらについてはまた後ほど詳しくレポートします。
 
そちらを見終わって、昼食をとりつつ歩いて湯島まで。東京も秋の風情がなかなかよい感じでした。
 
さて、研究会。この世界の第一人者、北川太一先生をはじめ、大阪から『雨男高村光太郎』の著者・西浦氏、花巻から花巻高村記念会の高橋氏、福島から元草野心平記念館の小野氏、地元東京で『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者・坂本女史など、見知った顔が集まりました。ありがたいことです。
 
まずは前座で当方の発表「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。つつがなく終わりました。発表内容についてはまた日を改めてこのブログでレポートします。
 
続いて國學院大學名誉教授の傳馬義澄氏によるご講演「高村光太郎『智恵子抄』再読」。

イメージ 1
 
昭和25年に刊行された光太郎の詩文集『智恵子抄その後』のあとがきに「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と光太郎は書きました。それをふまえ、単純に「純愛の相聞歌」的な捉え方をすることへの警鐘、『智恵子抄』収録の詩篇から読み取れる二人の生活の様子、そして今後の若い世代へどう広めていくのかといった部分にまでお話がおよび、ご講演のあとの参加者でのフリートークでもその辺りの話題で盛り上がりました。

002

 
その後、懇親会ということで、会場を移しました。そこでも高橋氏や坂本女史から新しい計画等のお話を伺い、そちらも非常に楽しみです。
 
今後、随時、「ロダン ブールデル 手の痕跡」展、当方の発表内容についてのレポート、そして新しい計画についての情報等アップしていきますのでお楽しみに。

追記 当初開設していたYAHOO!ブログ(2019年にサービス終了)での内容ですので、現在は実体に合っていませんのでよろしく。

昨日、こちらのブログで内容ごとに記事を読めるような設定にしたことと、「検索」機能についてお伝えしました。
 
他にもこのブログ、いろいろな機能がついています。例えばコメント欄。当方の住所やメールアドレス等ご存じの方はそちらでご連絡いただければ結構ですが、そうでない方は、コメント欄をご活用下さい。
 
各記事の下にこのような部分があります。
 
イメージ 1
 
ここの「コメント」をクリックすると下の画面が出ます。
 
イメージ 2
 
自由に文章をお書きいただいて、「投稿」ボタンをクリックすればOKです。
 
投稿したコメントを他の方に見られたくない場合には、文章を各欄の右の「内緒」というボックスにチェックを入れ、投稿していただければ、当方のみが読めるようになっています。
 
実際、この機能を使っていただいて、ご質問、ご依頼等がありました。他にも住所やメールアドレス、電話番号等をご存じの方からもいろいろとレファレンス(調査)のご依頼が来ています。
 
こんなご依頼等がありました。
 
・「光太郎資料」「高村光太郎研究」など、当方の関わっている冊子がほしい。
・光太郎の木彫作品を所蔵している美術館等を教えてほしい。
・戦時供出でなくなったブロンズの光太郎彫刻が他の彫刻家によって復元されているが、その経緯を教えてほしい。
・光太郎が作った俳句にはどんなものがあるか。
・日本全国で光太郎の筆跡を刻んだ石碑などはどのくらいあるか。
・光太郎の書(色紙、軸装、短冊など)はどこに所蔵されているか。
・自分が書いたもののチェックをしてほしい。
 
などなど。
 
それぞれ対応させていただきました。
 
出来る限りこうしたご質問やご依頼にはこたえますので、コメント欄等ご活用下さい。
 
申し訳ありませんが、迷惑メール対策ということもあり、メールアドレスや住所、電話番号はここでは公開しておりません。よろしくご寛恕の程。
 
 
出来る限り対応いたしますので、ご遠慮なく。

追記 当初開設していたYAHOO!ブログ(2019年にサービス終了)での内容ですので、現在は実体に合っていませんのでよろしく。

以前からご覧いただいている方はお気づきでしょうか。このページのレイアウトを少し変更しました。
 
この部分の左に広告があり、その下はプロフィール欄で光太郎智恵子の写真が出ています。さらにその下。ここは「書庫」の欄なのですが、ここで記事の内容ごとに見られるようにしました。フォルダのようなものです。昨日までは初期設定の通りすべての記事を「日記」に入れていましたが、カテゴリーで分けることが出来ることに気づき、変更しました。
 
イメージ 1
 
たとえばここで「彫刻/絵画」をクリックしてみます。すると主に彫刻や絵画について書いた最新の記事が表示されます。
 
イメージ 2
 
さらに左上の水色のバーのところにある「リスト」をクリックすると、主に彫刻や絵画に関する記事のタイトル一覧が出ます。
 
イメージ 3
 
「彫刻/絵画」以外のカテゴリーは、主に詩に関する内容の「詩」、音楽や演劇、テレビドラマや映画などに関わる「音楽/演劇等」、花巻や十和田、女川、福島関連が多いので「東北」、それから「智恵子」という項目も設定しました。分類不可能なものは「その他」に入れてあります。ただし、一本の記事でも詩に関して書いたり、彫刻にふれたりしている場合がありますので、あくまで目安です。
 
さらに細かく検索なさりたい場合は、画面左下に検索窓がありますのでご活用下さい(この機能は以前からありましたが)。
イメージ 4
 
ここに検索したいワード、たとえば「荻原守衛」と入力し、「検索」をクリックします。すると、まず記事のタイトルに「荻原守衛」が含まれている記事が出るはずです。ところが、タイトルに「荻原守衛」は使っていませんから、下のような画面になります。
 
イメージ 5
 
しかし守衛について書いていないわけではありません。すぐ上の「タイトル」の右にある▼ボタンを押して「内容」にしていただいて再び検索。すると、本文で「荻原守衛」の語が使われている最新の記事が表示されます。
 
イメージ 6
 
そこでやはり左上の水色のバーのところにある「リスト」をクリックすると、一覧が出ます。
 
イメージ 7
 
このページ、こうした機能もありますので、ご活用下さい。
 
さらに「コメント欄」がこの下にあり、こちらも活用していただきたいのですが、長くなりましたのでまた明日、そのあたりを書きます。

新刊を紹介します。

2012/7/27 小野智美編 羽鳥書店 定価900円+税
 
イメージ 1
 
津波が町を襲ったあの日から――2011年5月と11月に、宮城県女川第一中学校で俳句の授業が行われた。家族、自宅、地域の仲間、故郷の景色を失った生徒たちが、自分を見つめ、指折り詠んだ五七五。記者として編者は、友や教師や周囲を思いやり支えあう彼らの姿、心の軌跡を丹念にたどる。(裏表紙より)
 
宮城県の女川町。このブログでもたびたび紹介しています。昭和6年(1931)に光太郎がここを訪れたことが縁で、平成3年(1991)に詩碑が建てられ、以来、「女川光太郎祭」が開かれている町です。そして昨年の大震災では津波による大きな被害……。
 
その女川に暮らす中学生達の句集です。軽い気持ちで読めるものではありません。実はamazonなどでこの本が出ているのはだいぶ前から知っていたのですが、軽い気持ちでは読めないなと思い、手が出ませんでした。しかし、先日、八重洲ブックセンターに立ち寄ったら平積みで置いてあり、思い切って購入しました。
 
 逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて 
 
母親を亡くした生徒の作品です。「季語が入っていない」などというさかしらな批評をする人がいたら、人間じゃありませんね。
 
言葉にしても、音楽にしても、絵画や彫刻のような造型にしても、やはりそれを作った時の心境とは無縁でいられないのだと思います。そう考えると、「レモン哀歌」などの智恵子の死を謳った光太郎の詩篇も重みが違って感じられます。
 
それは表現する側だけでなく、受け取る側にも言えることだと、この本を読んで改めて気付かされました。「付記」という部分に、指導に当たった佐藤敏郎教諭が、今年の3月、3年生の最後の国語の授業で「レモン哀歌」を扱った話が書かれています。生徒は全員、身近な人の訃報に接しています。そういう体験を踏まえて読む「レモン哀歌」、そういう経験のない人間が読むのとはまた違うわけです。そしてそれを教える側の佐藤教諭も。
 
「この1年、みんなは死を考えたことが多かったと思う。今までおれは、死はどん底のような気がしていたんだ。暗闇に落ちていくような。だから怖いんだ。でも、ちがうかもしれない。たぶんね、ずっと登っているんだよ」
 そう言いながら、山の頂へ一直線に白墨を引いた。
「死っていうのは上。一番上なんだ。だから天に昇るんだ」
 そう言った瞬間だった。「おーっ」。教室に感嘆の声がわきあがった。
 なおも続ける。「智恵子は人生をふりかえって、ひとつの大きな仕事をやりとげた。最愛のだんな様への生涯の愛を一瞬に傾けたんだ。そういう登り切った達成感、満足感がある。だから『山巓でしたやうな』だ」。
 
この解釈には異論があるという人もいるかも知れません。しかし、あの過酷な体験を経て語られるこの言葉には、やはりさかしらな批評の立ち入る隙はありませんね。
 
この本、本当に軽い気持ちで読めるものではありません。しかし、多くの人に読んでほしいと思います。

今週土曜日、2012年11月24日に第57回高村光太郎研究会が開催されます。
 
この会、元々は昭和38年に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」に端を発します。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏。
 
ほぼ毎年、この世界の第一人者、北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。事前の参加申し込み等必要ありません。ただ、多人数の団体でご参加、というような場合にはご一報いただければ幸いです。
 
今年の研究会は今週土曜日、24日の14:00~17:00。当方の発表「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」と、國學院大にいらした傳馬義澄氏の講演「『智恵子抄』再読」です。
 
当方の発表は、新しく発見した主に海外留学(明治39年=1906~同42年=1909)の時の船旅に関する随筆をめぐってのもので、これまでの年譜等に記載されていない新事実がいろいろと新たにわかったことをレポートします。
 
会場は文京区湯島2-28-14にあるアカデミー湯島です。東京メトロ千代田線湯島駅、同じく丸ノ内線と都営大江戸線の本郷三丁目駅が最寄りです。
 
イメージ 1
参加費は五百円、終了後に懇親会があり、そちらは実費です。
 
ちなみに研究会に入会されると、年刊の機関誌「高村光太郎研究」が送られてきます。その中に当方の編集「光太郎遺珠」……光太郎の新発見作品集を連載させていただいています。研究会としての会費は年3,000円です。
 
入会しなくとも、年に一度の研究会のみご参加いただくことは可能です。こんな会なのか、と様子をご覧になってから入会するかどうか決めていただいてかまいません。どなたにも門戸を開いております。メンバーは大学や研究機関の先生ばかりでなく、文学館の学芸員や小中高校教員、学生の方、他のお仕事のかたわら執筆をなさっている方、そして当方のような自由人など、いろいろです。
 
はっきり言うと、このところ参加者が少なく、残念に思っています。是非ともこうした会も盛り上げていきたいので、よろしくお願いいたします。

イメージ 1

イメージ 2

東京駅22時20分発、最終の高速バスに乗りました。

今日は原宿、アコスタディオさんで、モンデンモモさんのコンサート「モモの智恵子抄2012」がありました。

二本松や川内村と違って、ほぼ全曲が光太郎の詩にモモさんのオリジナルのメロディーを付けた歌。さらにモノドラマ形式の凝った演出でした。

その上、光太郎と縁の深かった宮澤賢治、草野心平にも触れるという欲張りな内容でした。

そこで当方の出番。三人のつながりをレクチャーし、心平の詩「秋の夜の会話」をモモさんと朗読しました。

こういう形でも、光太郎智恵子の世界を一般の皆さんに広めていくことも大切なことだと思います。

今週は土曜日に「高村光太郎研究会」での発表もあり、我ながら八面六臂です(笑)

聴きにいらしていただいた皆様、ありがとうございました。それからモモさんはじめ、キャストとスタッフの皆さん、お疲れさまでした!

金曜の朝に東京・府中を出発し、福島・二本松、同じく川内村、そして府中まで、2泊3日、600㎞以上を運転しました。レンタカーのワゴン車、モンデンモモさん曰く「智恵子抄号」。
 
同乗者はモンデンモモさん、ピアニストの砂原ドルチェ嘉博さん、ヘアメイクの手塚祥子さん、モモさんのお弟子さんの茉那さん。当方、手塚さん、茉那さんとは初めてでした。道中、モモさん、砂原さんの業界の裏話やら、若い茉那さんの恋バナやらで盛り上がり、しっかり者の手塚さんがしっかり締め、楽しい珍道中でした。
 
行く先々でも新しい出会いがいろいろとあり、人の輪というのはこうやって広がってゆくんだな、と実感させられました。二本松信用金庫の皆さん、川内村天山心平の会の皆さん、お世話になりました。
 
イメージ 1
川内村小松屋旅館にある草野心平の書
光太郎の詩「晩餐」の一節です。
 
 
また、旧知の皆さんともお会いでき、さらにつながりを深められたと思っております。二本松では智恵子のまち夢くらぶの熊谷さん夫妻、詩人の木戸多美子さん、川内では元筑摩書房の編集者でかわうち草野心平記念館長の晒名昇氏、川内村教育長の石井芳信氏。
 
特に石井氏には、今朝、お宅にお邪魔して、奥様ともども川内の現状などに関する貴重なお話をお聞かせいただきました。津波の被害とはまた違う、目に見えない放射線の被害、しかし、あえて書きますがその補償を巡る金銭的などろどろした部分などなど……。
 
明日はまた上京して、原宿アコスタディオさんでのモモさんのコンサートです。なにやら当方にも出番が作ってあるとか。まぁ、光太郎智恵子の世界をひろめるためには労はいといません。
 
このブログをお読みの方で、「こういうことをやりたいのでてつだってほしい」という方、お声がけ下さい。

イメージ 1  イメージ 2

今日も携帯からの投稿です。

現在地は福島県川内村。高村光太郎と親交のあつかった詩人、草野心平ゆかりの地です。こちらの旅館、小松屋さんを会場に、第2回天山心平の会「かえる忌」が行われました。

草野さんの命日は12日ですが土曜日にあわせての開催のようです。天山心平の会代表で小松屋さんのご主人、井出氏、かわうち草野心平記念館長・晒名氏、川内村長の遠藤氏他のお話、福島県議団と一緒にチェルノブイリ視察に行かれた地方紙河北新報記者の中島氏のレポート、そしてモンデンモモさんのミニコンサートなどがありました。

ところでなぜ「かえる忌」なのかといいますと、いくつか理由があります。草野心平が蛙をモチーフにした詩をたくさん書いたこと。川内村は、モリアオガエルの生息地であること。ここまでは事前にわかっていましたが、他にもありました。

原発事故で全村避難を余儀なくされ、しかし今年に入ってそれも解除、みんなで村に「帰る」という意味。

さらに川内村より原発に近く、帰るに帰れない区域の人々を受け入れ、村を「変える」というメッセージも込められているそうです。
「蛙」「帰る」「変える」。深いですね。

明日は移動日で東京に帰り、明後日は原宿アコスタディオさんでモンデンモモさんの「モモの智恵子抄2012」です。

イメージ 1 イメージ 2

福島は二本松に来ています。

高村光太郎の詩に曲をつけて歌われているシャンソン歌手、モンデンモモさんのコンサートツアーに帯同、今、演奏中です。

今日は二本松信用金庫さんの主催で、パーティー/イベントホール二本松御苑さんでの開催です。「レディースコンサート」と銘打ち、定番のシャンソンやポピュラー系がメインです。光太郎詩の曲も「樹下の二人」「あどけない話」などもプログラムに入っています。

百人ちょっとの集客を見込んでいたそうですが、フタを開けてみれば二百近いお客様。被災地福島でも、平日の夜に音楽を味わえる余裕ができてきたということでしょうか。

明日は同じく福島の川内村に回ります。

野田首相が衆議院の解散を表明しました。ここはそういうサイトではないので、詳しい論評は避けますが、「何だかなぁ……」という感はぬぐえません。


000
 
明日からまた東日本大震災被災地の福島に出かけます。復興の進捗状況はどうなのか、この眼で見てきます。むろん、地元の皆さんは頑張っているのでしょうが、おおもとの国が政治空白では、せっかくの地元の努力の足を引っ張ることになるのではないかと思います。
 
たとえば自治体職員。友人の地方公務員から聞いたのですが、ひとたび選挙になると全然関係ない部署の職員までかり出されるとのこと。その間、本来の業務はどうしても遅滞するそうで、はっきり言って、被災地ではそれどころではないはず。もちろん、政府、日本という国としても同じ事ではないのでしょうか。
 
だからと言って、現状の永田町のままではどうにもなりません。また、政府と政治家の無能が暗殺とクーデター計画を連発させた戦前の日本のようになっても困ります。どこが政権をにぎるにしても、新体制が発足したら与野党一丸となって被災地の復興を最優先に進めてほしいものです。
 
そこで思い出したのが、大正13年(1924)5月に雑誌『女性』に載った智恵子の文章。「総選挙に誰れを選ぶか?」の問いに対するアンケートの回答です。『高村光太郎全集』別巻に収録されています。
 
  棄権 -総選挙に誰れを選ぶか?-
 
もしあったら……リンカーンのやうな政治家を選びませう。日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。しかしうまくその時までに、私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。
 
90年前の文章とは思えませんね。現在、街頭インタビューをしても同じような回答があるのではないかと思います。
 
今年は東日本大震災の翌年ですが、大正13年(1924)は奇しくも関東大震災の翌年です。ちなみにまだ普通選挙法も制定されていませんし、ましてや女性の選挙権は戦後にならないと与えられません。そうした時代に既にこういう事を言っていた智恵子の先進性をほめるべきなのか、90年前と変わらない日本の後進性を憂うべきなのか……。

さて、明日からモンデンモモさんのコンサートツアーにサポートスタッフとして帯同、被災地福島を回ってきます。

閲覧数が6,000件を突破しました。ありがとうございます。
 
紹介しようと思っていて忘れていた件がありました。現在、上野の国立西洋美術館で開催中の「手の痕跡」展です。
 
高村光太郎に多大な影響を与えたロダン001、そしてロダンの系譜を最も色濃く受け継いだ一人、ブールデル。国立西洋美術館ではロダン作品58点、ブールデル作品11点を所蔵しているそうですが、今までそれらをまとめて展示する企画展がなかったそうです。そこで今回の企画展が持たれることになりました。
 
会期は来年1月23日まで。
 
それにしても同館にロダン作品が58点もあったとは知りませんでした(無料で見られる前庭には「考える人」や「地獄の門」「カレーの市民」が据えられています)。大半は「松方コレクション」だと思われます。これは川崎造船所(現・川崎重工業)社長を務めた松方幸次郎が、明治末から大正初めにに商用でヨーロッパを訪れた際、イギリスやフランスで収集した多くの美術品です。 もともと国立西洋美術館自体が「松方コレクション」を中心に作られたという経緯があります。
 
このあたりがブロンズ彫刻の強みですね。同一の型から同じ物が作れるので、「考える人」は世界中に約20点、日本にも数点あるそうです。同館に58点あるからといって、ロダンの母国・フランスにそれが無い、というわけではないのです。
 
光太郎のブロンズ彫刻、有名な「手」なども日本中に散らばっています。このあたり、あまり突っ込むと微妙な問題になってくるので、今日はこれ以上書きませんが、いずれ書きます。
 
さて、「手の痕跡」展。当方も暇を見て行ってこようと思っています。会期が結構長いので、都合がつけやすいと思います。皆様も足をお運び下さい。

昨日のブログで、「古い物を000残す」ということについて書きながら、先月、歯医者の待合室で読んだ『週刊ポスト』の記事を思い出しました。イラストレーター・みうらじゅん氏のコラムです。
 
狙われる骨董コレクターの死 甲冑などには中東マネーも流入
 
老舗の古美術店主曰く。

「骨董病という言葉がありまして、一度はまってしまった人は、買い続けていかないと落ち着かない“中毒状態”に陥ってしまう人が多いのです」

 そのため、骨董集めをする人の中には家族に犠牲を強いてしまうこともあるらしい。「故人が収集したコレクションを見るのもイヤ! という遺族は珍しくありません。膨大なコレクションがあっても子供たちが興味を持つことは稀で、たいがいは処分されます」

 この連載の担当者Xが昭和50年代に発行された有名な神社の社史の中で、戦国武将ゆかりの赤備えを揃えた博物館があることを知ったそうだ。関心を覚えたXは、実物を見たいと、その博物館を検索してみた。ところが、全くヒットしない。あれ? と思って、所在地の役場に聞いたそうだ。

 すると、「昔は確かにありましたが、個人で収集したものを展示していたところで、その方が亡くなってから閉鎖されて、鎧もどこにいったのかわかりません」といわれた。せっかく一箇所に集められた「赤備え」は、離れ離れになってしまったのだ。

 同様の話は西日本の方でもあるらしい。これまた珍しい鎧のコレクターがいて、その人が亡くなった後、売りに出されてしまったそうだ。なんでもドバイの大富豪から引き合いがあったというのだ。

 そう。良質のコレクションは、虎視眈々と狙われている。

「親戚の中には、“これ、形見としてもらっていくね”なんて高価なものを狙う人もいるのです。価値のわからない遺族は狙われやすいですね」

 前出のように、甲冑などのジャンルは今や中東マネーも流入するほど活気づいている。だが、「骨董」というくらいだから「新製品」が売りに出されるわけではない。数少ない供給源である「コレクターの死」は狙われるってわけだ。

※週刊ポスト2012年10月12日号
 
いろいろ難しい問題をはらんでいますね。
 
個人の収集家が、家族を犠牲にして収集に明け暮れているようではやはりよくありません。まして個人が自分の収集欲を充たすためだけに収集し、公開も何もせず死蔵してしまったらそれは犯罪にも等しい行為です。

しかし、たとえ死蔵でも、きちんと物が残り、将来的にも保存されるということであればそれはそれで意義はあるでしょう。逆に「断捨離」ブームだからといって、何でもかんでも捨てられてしまっては困ります。
 
当方の自宅兼事務所にも数千点(と思われる……もはや数えられません)の光太郎関連資料が集まっています。幸い、甲冑とか焼き物とかと違い、単価が安いので家族に犠牲を強いるという状態にはなっていません。肉筆物などで単価の高い物も世の中には出回っていますし、まして彫刻作品となるととんでもない値になりますが、そういうものは収集の対象にしていません。そのため家族もある程度理解を示してくれているので助かっています。
 
そして「死蔵」にならないように、こういう物がありますよ、という情報の発信を出来るだけしていこうと考えています。そのためにもこのブログを活用していこうと思っていますので、宜しくお願いします。

↑このページのトップヘ