当方も所属している「高村光太郎研究会」という会があります。そちらの機関誌的な雑誌『高村光太郎研究』が、年刊で発行されています。発行日は毎年、光太郎忌日・連翹忌の日に設定しています。

こちらが昨年刊行の第35号です。

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第36号の刊行が近づいて参りまして、当方の連載「光太郎遺珠」、それから今年から担当することになった「高村光太郎没後年譜」の校正稿が送られて来、昨日、朱筆を入れたものを主宰の野末明氏に返送しました。そちらが2校ということで、これで校了です。

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以前にもご紹介しましたが、「光太郎遺珠」は、筑摩書房の『高村光太郎全集』が平成10年(1998)に完結した後、さらに見つかり続ける光太郎智恵子の作品を網羅するものです。

今回載せるものは以下の通りです。

まず、短歌が一首。昭和26年(1951)のもので、もともと与謝野晶子の没後十周年記念講演会に際し、電報として贈られた片仮名書きものが『高村光太郎全集』に収められていますが、雑誌『スバル』に漢字ひらがな交じりで掲載された形を見つけましたので、そちらを載せました。

それから戦後の談話筆記。花巻郊外太田村の山口小学校長だった浅沼政規が、PTAの会合、講演会などで語った光太郎の言葉を記録していたものです。浅沼は最晩年の光太郎に校閲を求め、活字にすることを希望していましたが、光太郎の健康状態がそれを許さず、その時点ではその話は流れました。平成7年(1995)に浅沼が花巻で私刊した『高村光太郎先生を偲ぶ』という書物に掲載されていますが、広く世に知らしめるため、子息の浅沼隆氏に承諾を得、掲載させていただきます。ただ、量が多いので、今年から3~4カ年計画です。

雑纂として、新聞記事に付された光太郎のコメントが3件。日本女子大学校創設者・成瀬仁蔵の胸像制作を依頼された際のものと、太平洋戦争直前、大政翼賛会第一回中央協力会議に出席する際のコメント、そして十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)除幕のため、昭和28年(1953)秋に青森入りした際の談話です。

乙女の像に関しては、制作にかかる前の構想スケッチ、その完成記念会での挨拶に用いたメモ書きも載せました。

書簡が13通。昨年開催された盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」、山形の最上義光歴史館さんの企画展「第6回 市民の宝モノ2014」、鎌倉の笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八詩と友情」に出品されたものや、『朝日新聞』さんの岩手版で発見が報じられたもの、などです。

さらに座談会が一篇。戦時中のものです。

書簡に関しては新しい発見をどんどん載せていますが、その他はページ数の都合により、数年前に発見したものを順次小出しにしている状態です。


「高村光太郎没後年譜」は昨年1年間の光太郎がらみの出来事――このブログでご紹介してきたようなこと――を時系列でまとめたものです。やはりページ数の都合があり、大きな出来事しか載せられないのが残念ですが、なるべく記述を簡潔にし、できるだけ多くの項目を設定しました。

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『高村光太郎研究』第36号、4月2日の第59回連翹忌の席上で販売開始、頒価は1,000円です。上記以外に北川太一先生の玉稿なども載るはずです。ご入用の方は、こちらまでご連絡下さい。後ほど郵送いたします。

併せて連翹忌の参加者も募っております。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月28日

昭和4年(1929)の今日、萬里閣書房から河野桐谷(こうのとうこく)編 『漫談 江戸は過ぎる』が刊行されました

540頁にわたる大冊ですが、「維新の巻」「江戸の巻」の二部に分かれ、30余人の談話から構成されています。

「はしがき」によれば「五六年前から、田中智学先生、高村光雲先生等の下に、江戸文化研究の座談会を月一回開いて、それが国醇会の名の下に今でも継続してゐる。」とあります。

光雲談話は「江戸の巻」の半分以上を占め、題目は「歳の市の話」「両国の夕凉み」「浅草の話(上)」「浅草の話(下)」「新落語 喜の字」。いずれも幕末から明治初年の回想譚ですが、その記憶力には舌を巻かされます。光太郎の生まれ育った背景、その思想上のバックボーンを 知る上で、貴重な記録です。

左の画像は函、右の画像は表紙と背です。題字揮毫は光雲です。

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上記の『高村光太郎研究』とは別に、当会で刊行している『光太郎資料』という冊子がありますが、そちらで「光雲談話筆記集成」という項を設け、こちらの内容も少しずつご紹介しています。

また、昭和44年(1969)には、新人物往来社から復刻版が出されています。

版元の萬里閣書房は本書以外にも、光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)、東野善一郎著『天誅組天誅録』(同)、篠田鉱造著『幕末百話』(同)、子母沢寛著『新選組遺聞』(同)など、江戸時代を回顧する内容の書籍をこの時期に上梓しています。これはこの当時、いわゆる「江戸ブーム」が起こったことが背景にあります。

福島から音楽イベントの情報です。

第8回声楽アンサンブルコンテスト全国大会-感動の歌声 響け、ほんとうの空に。-

平成27年3月19日(木)~22日(日)福島市音楽堂大ホール 福島県福島市入江町1-1

声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名の少人数編成の合唱団によるコンテストです。
 平成19年度の第1回大会から毎年、福島県で開催されており、全国から集まったトップレベルの合唱 団が、中学校、高等学校、一般の各部門で競います。各部門の金賞受賞団体(上位5位)は、最終日の 本選に出場。部門の枠を超え、総合第1位を目指して華麗に競い合います。



主 催
福島県 福島県教育委員会 声楽アンサンブルコンテスト全国大会実行委員会

共 催
一般社団法人全日本合唱連盟 全日本合唱連盟東北支部 福島県合唱連盟 福島市 福島市教育委員会

スケジュール
 3月19日(木) 部門別コンテスト(中学校部門)、表彰式
 3月20日(金) 部門別コンテスト(高等学校部門)、表彰式
 3月21日(土) 部門別コンテスト(一般部門)、表彰式
 3月22日(日) 各部門金賞受賞団体による本選
  フレンドシップコンサート、表彰式、海外団体合同コンサート
 3月23日(月) 海外団体との文化交流ワークショップ
 ※大会各日、開場9:30 開演10:00


一昨年の第6回大会から冠されるようになった「ほんとうの空に」というサブタイトルに、東日本大震災とそれに伴う原発事故からの復興を願う皆さんの祈りが込められています。

出場団体はやはり地元・福島からが最も多いのですが、全国、そして海外からも参加があります。高校の部では、昨秋の第67回全日本合唱コンクール高校部門で、光太郎作詞、鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」中の「亡き人に」を自由曲に選んでみごと金賞に輝いた神奈川の清泉女学院音楽部さんや、智恵子の母校・福島女学校の後身である福島県立橘高校さん(こちらも全国大会常連です)が出場します。

ただ、この大会、事前に出場団体の演奏曲目がわからないのが残念です。どこかの団体で光太郎作詞の曲をあつかっていただきたいのですが。

サブタイトルの通り、感動の歌声がほんとの空に響きわたってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月27日

平成8年(1996)の今日、芳賀書店から『智恵子紙絵の美術館』が刊行されました。

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智恵子の紙絵作品集です。全151ページで、紙絵のカラー写真が約250葉。この手の書籍の中では最も多くの作品が取り上げられています。北川太一先生の長文の解説付きです。

残念ながら絶版となり、中古市場ではかなりのプレミアが付いています。

昨日、NHK大阪放送局の「歴史秘話ヒストリア」ディレクター氏から、過日の「ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」のDVDが届きました。番組制作に関わった御礼と解釈し、ありがたく拝受しました。自分でもテレビ放映を録画しておいたのですが、やはりNHKさんで焼いてくださったDVDはひと味違うような気がしています。最近はデジタル放送なので、そんなことはないのかもしれませんが。

 放映後、しばらくは他の皆さんのブログ等で感想が随分アップされていました。おおむね好評だったようで、胸をなで下ろしています。

そんな中で、特に気になったのは、光太郎と知り合う前の智恵子が、太平洋画会研究所で、エメラルド・グリーンの絵の具を多用し、師(番組では名前が出ませんでしたが、中村不折です)に「エメラルド・グリーンは不健康色だからつつしむように」と、ダメ出しされるシーンについて。

このエピソードは、師が弟子に自分の感性を押しつけようとする古い画壇の体質の象徴のように描かれていましたし、世に出ている書物のほとんどでもそういう解釈がなされています。

皆さんのブログ等では、そのシーン、そしてその後、「自分の感性を大切にしなさい」という意味での、光太郎の「太陽を緑色に描いてもいい」という評論「緑色の太陽」を読んだ智恵子が光太郎に惹かれていく、という流れが非常に印象的だった、という書き込みが多数見られます。

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元ネタは智恵子と同じ太平洋画会研究所に通っていた小島善太郎の回想「智恵子二十七、八歳の頃」です。これは筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻(昭和33年=1958)の月報のため書き下ろされたものです。

その部分だけ抄出します。

 或る年末のコンクールの時であつた。終わりに近づいた日、中村不折師が彼女の絵の前に立つと、彼女とその描いた絵とを見比べて暫く黙つていた。人体の色を主に太陽六原色で描いたのである。特にエメラルド・グリーンが目立ち、彼女はその色が好きであつたのか、何時の場合でも愛用していた。そのエメラルド・グリーン色について不折師が語り出したのである。
「絵とした場合、例えば黄一色で描いてもよろしい。だが不健康な色はつつしまねばならない。エメラルド・グリーンは一番の不健康色であるから――」と。
 
 彼女は首をかしげたなり何も言わなかつた。不折師が去つた後でも猶エメラルドの色を増して行き、それが師に対する明らかな反抗にとれた。

なるほど、たしかに中村が自分の感性を押しつけているように読み取れます。

しかし、そうとばかりも言い切れない、という解釈もあります。

昭和56年(1981)に集英社から刊行000された円地文子監修『近代日本の女性史 第十巻 名作を彩るモデルたち』という書籍があり、その中で作家の金井美恵子さんが智恵子の章を約40ページ担当されています。その中で、エメラルド・グリーンについて興味深い記述があります。

 ところでエメラルド・グリーンという絵の具については、小島善太郎も画家なのだから、ちゃんと説明しておくべきではなかっただろうか。これは一八一四年に作られた人工顔料で、化学合成されたものだが、硫黄を含む空気や顔料によって黒変する性質がある、きわめて安定性の悪い顔料で、毒性があり取り扱いに危険が伴っていた、西欧の美術家は使用しない色で、専門的な絵画材料に対する知識を持っていれば、まず使用しない。

蛇足ながら、函に描かれているのは、日本画家、故・大山忠作氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」です。

改めてネットで調べてみたところ、確かにエメラルド・グリーンにはヒ素化合物が使われており、その毒性は顔料の中で最も強く、殺虫剤としての使用もあったほどだそうです。


つまり、色としての見た目が「不健康」なのではなく、毒性が強いので、使用する者を「不健康」にする顔料という意味での「不健康色」なのです。

中村がその点を知っていて智恵子にダメ出ししたのであれば、自分の感性の押しつけどころか、弟子の身体をおもんぱかっての純粋な忠言ということになり、大きく意味が変わりますね。

先述の金井美恵子さんは、また違った見方をしています。

 小島善太郎の記述が正確であれば、中村不折は、そうした事実を教えずに、不健康色という抽象的な言い方しかしなかったらしいし、当時の日本の美術界は西欧画の絵画材料に対する根本的な研究や知識をほとんど持っていなかったのだから、中村不折も単に、使ってはいけない色という曖昧な知識を理由も知らないまま留学中に身につけていただけなのかもしれない。ようするに、それくらい、日本の近代絵画というものは幼稚な段階のものにすぎなかったのである。
 それに、もし中村不折がエメラルド・グリーンという絵の具が質の悪いものであることを知っていたら、そう言って注意すべきではなかったろうか。このエピソードは、実は日本の美術界の、もったいぶった封鎖性、えらぶった寝言のような芸談は言うが、技術上の細かい方法を西欧から持ち帰った秘法とでもいうようにして、めったに人には教えないケチくささのあらわれのように読める。光太郎が嫌悪したのも、こうした封鎖的で排他的な日本の美術界だったのである。

今となっては、真相は闇の中ですね。

ところで「歴史秘話ヒストリア」中では、智恵子役の前田亜希さんがエメラルド・グリーンを多用していて、健康に影響はないのか、ということになりますが、現在使われているものは、毒性のないものだそうです。亜希さんのファンの方、ご安心を(笑)。

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「歴史秘話ヒストリア」を見て、光太郎智恵子の生涯を初めて詳しく知ったという方も多くいらっしゃいました。テレビの影響力というのは大きいな、と改めて思いました。若い世代の皆さんにも、光太郎智恵子の世界に興味を持っていただきたいものです。

若い世代、というと、過日、和歌山県立図書館さんで、「YAチャレンジ・ザ・POPワールド」というコンクールを開催されていました。「YA」は「ヤングアダルト」、「POP」とは「本を読みたい気持ちにさせる文章やイラストをかいたカード」という定義で、中高生を対象に行ったイラスト等の募集でした。

同館のサイトで入賞作が発表され、和歌山県立神島高等学校の鈴木美海さんの作品、「智恵子抄」が奨励賞に輝いています。

これが「例外的なものではなく、「智恵子抄」、若い世代の方の感性にも訴えるものがあるのだと思いたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月26日001

昭和8年(1933)の今日、駒込林町のアトリエで、詩人の尾崎喜八に写真を撮られました。

「写真を撮られました」というのも変ですが、現代より写真というものが手軽でなく、特に個人でカメラを持っている人が少なかった時代です。

その時の写真がこちら。『高村光太郎全集』第19巻の口絵に使われています。

こちらはその3日前にやはり尾崎が撮った光太郎アトリエの写真です。尾崎については昨日、少しご紹介しましたが、ハイカラな趣味を持っていました。

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3年後には2・26事件が起こり、この国は暗黒の時代へと突き進んでいきます。まだ平和だった頃の東京の面影です。

2・26事件といえば、昨夜の「歴史秘話ヒストリア」は、2・26事件がらみで鈴木貫太郎を中心に取り上げていまして、これまた感動的でした。蛇足ながら。

22日、日曜日の『読売新聞』さん翌23日月曜日の『日本経済新聞』さんに、光太郎の名が出ました。といっても、それぞれちらりとで、光太郎がメインではありませんが。

まず『読売新聞』さんでは、日曜版の「名言巡礼」という連載で、光太郎と深い縁のあった詩人、尾崎喜八がメインに取り上げられた中で、喜八の紹介文の中に光太郎の名が。

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曰く、

尾崎喜八 1892~1974年。東京生まれ、京華商業学校卒。会社員、銀行員を経て、高村光太郎の影響のもと、20代から主に雑誌「白樺」で文学活動を開始した。1922年、初の詩集「空と樹木」を発表。ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケなど欧州の作家の詩文の翻訳も手がけた。46年、長野県富士見村(現富士見町)に移住し、52年、東京に戻った。58年以降、それまでの作品を集大成した「尾崎喜八詩文集」(全10巻)を刊行した。富士見時代の作品を収めた詩集「花咲ける孤独」(55年)は、代表作とされる。

タイトルにある「名言」は以下の通り。

静かに賢く老いるということは満ちてくつろいだ願わしい境地だ(『春愁』より)

元になったのは、昭和30年代前半に書かれた「春愁(ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)」という詩の冒頭部分です。

   春愁 
    (ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)000
 静かに賢く老いるということは
 満ちてくつろいだ願わしい境地だ、
 今日しも春がはじまったという
 木々の芽立ちと若草の岡のなぞえに
 赤々と光りたゆたう夕日のように。
 だが自分にもあった青春の
 燃える愛や衝動や仕事への奮闘、
 その得意と蹉跌の年々に
 この賢さ、この澄み晴れた成熟の
 ついに間に合わなかったことが悔やまれる。
 ふたたび春のはじまる時、
 もう梅の田舎の夕日の色や
 暫しを照らす谷間の宵の明星に
 遠く来た人生とおのが青春を惜しむということ、
 これをしもまた一つの春愁というべきであろうか。


記事は喜八が戦後の7年間を過ごした(光太郎同様、戦争協力への反省です)長野県の富士見町を中心に書かれています。画像は八木です。

お嬢さんの榮子さん、お孫さんの石黒敦彦さんの談話なども。榮子さんは幼い頃、駒込林町の光太郎アトリエで智恵子にだっこして貰った記憶があるという方です。

当方、昨秋、鎌倉の光太郎縁戚の方が経営されている笛ギャラリーさんで、お二人にお会いしましたので、「ほう」と思いました。

ちなみにこの連載「名言巡礼」では、昨秋、光太郎をメインに扱って下さいました。

続いて、月曜日の『日本経済新聞』さん。

こちらはやはり光太郎と縁のあった画家、村山槐多を取り上げた記事です。

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光太郎の詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用があります。

   村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。001
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。それが「くしやくしやの紙」で、歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

記事にメインで紹介されている絵は、「尿(いばり)する裸僧」と題されたもので、村山の代表作の一つ。長野県上田市の信濃デッサン館に収蔵されています。


また、3年前には和歌山県田辺市立美術館で開催された「詩人たちの絵画」展に出品され、その時にも観て参りました。


先日も書きましたが、こうした新聞記事、公共図書館等で閲覧が可能です。ご利用下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、十字屋書店から歌集『白斧』が刊行されました。

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左は特製限定本(850部)、右は通常版です。明治期から戦後の光太郎短歌268首を収めています。編者は光太郎と交流があり、この時点では縁戚だった宮崎稔です。光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚していました。

奥付では前年11月刊行となっていますが、光太郎はこの歌集の刊行に同意せず、刊行がずれこみました。明治期の作品は鉄幹の添削ががっつり入っているので、自作と言い難いという光太郎の認識がそこにあります。

そこで、編者宮崎による「覚え書」を新たに印刷して巻末に貼り付け、漸く刊行にこぎ着けました。

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信州軽井沢からのイベント情報です。 

軽井沢町立中軽井沢図書館 ☆青木館長朗読会☆

   2015年3月14日(土) 14時00分から
  
 軽井沢町立中軽井沢図書館多目的室 軽井沢町大字長倉3037番地18

室生犀星 著  “我が愛する詩人の伝記より「高村光太郎」” を朗読します。

はじめにネットでこの情報を見つけた時は、図書館の館長さんというと、ステレオタイプの連想で胡麻塩頭の神経質そうなおじいさんだろう、そんなの聴きたがる人がいるのかな、と、勝手に思つたのですが、調べてみると、さにあらずでした。

「青木館長」は、元NHKアナウンサーの青木裕子さん。NHKを定年退職後の現在もフリーとしてNHKさんのラジオ番組「視覚障害ナビ・ラジオ」という番組に出演なさっているそうです。こちらは視覚障害者の方々向けのものだそうですが、その中で朗読を披露されることもあるとのこと。

さらに軽井沢に「軽井沢朗読館」を設立、朗読の活動無題にも取り組まれているそうです。

という方ですので、わざわざ「青木館長朗読会」と告知するのもうなずけますね。

お近くの方、ぜひどうぞ。

それにしても犀星の「我が愛する詩人の伝記」、オリジナルは昭和33年(1958)の刊行です。昨年は金沢の犀星記念館の市民講座で扱われましたし、なかなか色あせない魅力を放つものです。中公文庫で出ていた復刻版も絶版ですが、古書市場で手に入ります。ぜひお読み下さい。

軽井沢は犀星が昭和6年(1931)に別荘を建て、亡くなる昭和36年(1961)まで毎年夏にはそこで過ごしたそうです。その別荘が室生犀星記念館として公開されています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月24日

昭和57年(1982)の今日、東急百貨店日本橋店七階グランドホールで開催されていた「生誕100年記念 高村光太郎展 智恵子その愛と美」が閉幕しました。

2月19日からの会期でしたが、その前になんば高島屋で000の大阪展が1月21日~26日でした。いずれも6日間だけの開催でした。

そのわりには光太郎の彫刻が約50点、絵画が約20点、書が約40点、智恵子の紙絵も20点に油絵も1点、さらに光太郎智恵子それぞれの書簡約20点、光太郎詩稿約20点、著書も約30点と、大規模な展覧会でした。それだけの逸品が並んだのに、6日間ずつというのが信じられません。

ところで、この年は正確に言うと生誕99年ですが、もうすぐ100年ということで「生誕100年記念」と謳ったようです。

ちなみに来年、平成28年(2016)は、智恵子生誕130年、光太郎没後60年です。それを冠した企画展等をぜひ開催していただきたいものです。全国の美術館、文学館、イベント会社などの皆様、よろしくお願いいたします。

演劇の公演情報です。

テレビドラマ「北の国から」などを手がけた倉本聰氏の「ノクターン―夜想曲(2015)  -Nocturne 2015-」という舞台ですが、すでに全国各地で公演が行われています。東日本大震災による福島の原発被害を扱ったものですが、光太郎詩「あどけない話」が劇中で使われているそうです。

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倉本氏が原発事故に題を採った脚本を書かれていることは存じていましたが、光太郎詩が使われていることは存じませんで、紹介が遅れました。申し訳ありません。

ノクターン―夜想曲(2015)  -Nocturne 2015-

スタッフ  作・演出/倉本聰  音楽/倉田信雄  美術/横島憲夫
出  演     富良野GROUP
あらすじ
東日本大震災から数年後。原発事故避難区域となった海に程近い一軒家に、津波で二人の娘を亡くした中年の男 と同僚を亡くした新聞記者が入り込む。原発事故以来、時が止まったままのその家にあるのはほこりをかぶったピアノ、そして、地震で倒れた3体のピエロの彫刻。
二人はその家で、同じように津波で父親を亡くした彫刻家の女と出会う。


福島の地元紙『福島民友』さんから。 

県内5会場で演劇「ノクターン―夜想曲」

 福島民友新聞社は、創刊120周年記念事業として脚本家・劇作家倉本聰氏の作・演出による演劇「ノクターン―夜想曲」の公演を2015年、県内5会場で主催する。
劇は震災、原発事故で甚大な被害を受けた相双地域が舞台。家族の死など心に深い傷を負った被災者の苦悩や葛藤、放射線の影響に直面する姿を、被災地・福島で取材を重ねた倉本氏が書き下ろした。

 演劇「ノクターン―夜想曲」は福島民友新聞創刊120周年記念事業として、3月に県内4会場で上演される。各会場ともに前売り券の残券はわずかとなっている。問い合わせは福島民友新聞社「ノクターン」係(電話024・523・1248、平日午前10時~午後5時)へ。公演日程次の通り。
3月1日・會津風雅堂(午後2時)▽3月3日・郡山市民文化センター(同6時30分)▽3月5日・いわき芸術文化交流館「アリオス」(同6時30分)▽3月7日・県文化センター(同2時)
 

■問い合わせ 福島民友新聞社創刊120周年記念事業推進委員会  (電話024・523・1248)
■南相馬会場
 【主催】公益財団法人南相馬市文化振興事業団、福島民友新聞社
■会津若松、郡山、いわき、福島会場
  【主催】福島民友新聞社
  【共催】公益財団法人会津若松文化振興財団、郡山市教育委員会、いわき芸術文化交流館アリオス、公益財団法人福島県文化振興財団
■企画・制作 フラノ・クリエイティブ・シンジケート(F.C.S.)

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福島以外もふくめた全公演は以下の通りです。だいぶ終わってしまっています。申し訳ありません。

1月
10日(土)~18日(日) 北海道 富良野市富良野演劇工場
21日(水)                     士別市 あさひサンライズホール
23日(金)                     札幌市 教育文化会館大ホール
25日(日)                     美唄市 市民会館
27日(火)                     北見市 芸術文化ホール
30日(金)                     岩手県 西和賀町文化創造館
2月
1日 (日)       福島県 南相馬市市民文化会館
4日 (水)~8日(日)
   東京都 新国立劇場小劇場
10日(火)         岡山県 津山市文化センター
12日(木)       倉敷市 芸文館
14日(土)       大阪府 富田林市すばるホール
16日(月)       山口県 周南市文化会館
18日(水)        広島県 廿日市市はつかいち文化ホール
20日(金)・21日(土) 愛知県 名古屋市愛知県産業労働センター
23日(月)       三重県 鈴鹿市市民会館
25日(水)       静岡県 磐田市市民文化会館
27日(金)        裾野市市民文化センター
3月
1日 (日)        福島県 会津若松市會津風雅堂
3日 (火)        郡山市市民文化センター
5日 (木)        いわき市芸術文化交流館アリオス
7日 (土)        福島市福島県文化センター
10日(火)       北海道 七飯町文化センター
12日(木)        鷹栖町たかすメロディホール
14日(土)                        幕別町百年記念ホール

光太郎詩以外に、福島県南相馬在住の詩人・若松丈太郎氏の作品がモチーフとして使われているとのことです。

とりいそぎ、ご紹介いたしました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月23日

昭和24年(1949)の今日、出版社・養徳社から森於菟著『森鷗外』の寄贈を受けました。

於菟は鷗外の長男です。


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同館で所蔵している「特別資料」―近代作家の肉筆、稀覯本など―からセレクトした逸品が並んでいます。

二部構成で、第一部は「時代を代表する10名の文豪たち」。10名とは夏目漱石、高浜虚子、与謝野晶子、斎藤茂吉、光太郎、北原白秋、若山牧水、芥川龍之介、江戸川乱歩、太宰治です。それぞれについて、10点くらいずつの様々な資料が展示されていました。

第二部は「文壇で活躍したさまざまな文豪たち」。それぞれ先の10名よりは少ない点数ですが、やはり貴重な資料のオンパレードです。ラインナップは武者小路実篤、柳原白蓮、平塚らいてう、里見弴、室生犀星、西條八十、村岡花子、佐藤春夫、宮本百合子、井上靖でした。村岡花子と柳原白蓮が入っているのはNHKさんの朝ドラ効果ですね。

下記は図録に掲載された展示目録抄(あくまで抄録ですのでこれで全てではありません)。

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さて、光太郎に関しては、6点が出ていました。書簡が2通、同館初代館長の伊藤信吉宛と、武者小路実篤が創刊した雑誌『大調和』編集者の笹本寅にあてたもの。詩集『智恵子抄』の初版、『智恵子抄』巻末の短歌六首のうち三首のペン書き肉筆色紙、福島二本松霞ヶ城に立つ「智恵子抄」詩碑の拓本軸装、明治37年(1904)作の赤城山での短歌を揮毫した短冊です。

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それぞれ興味深く拝見しました。

同館の特別資料は約3万点だそうです。こうしたものがきちんと保管されているのはいいことですが、「死蔵」にならないよう、このように展示をするのは素晴らしいことだと思います。国会図書館さんや、駒場の日本近代文学館さん、いわき市立草野心平記念文学館さんなどでもこうした取り組みを行っています。そうした動きがもっと活発になってほしいものです。くれぐれも「死蔵」にならないように……。

さて、群馬県立土屋文明記念文学館さんの今回の企画展、来月22日(日)までです。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月22日

昭和20年(1945)の今日、詩「おほぞらのうた」を書きました。

   おほぞらのうた

おほぞらは よもをおほひて
かみつよの すがたのまにま000
けふのひも なほとこわかに
みづみづし いやうるはしし
あきつしま やまとのくにの
ひとみなの ふるさとぞこれ
おほぞらを みればかしこし
おほぞらを あふげばたふと
そのかみの みおやのみたま
くもがくり ふかくこもれり
おほぞらを うつろなりとは
なにしかも ひとのおもはむ
かぎりなき あめのみなかに
みなかぬし みかみぞいます
ものみなを しらすかみなり
ことわりを すぶるかみなり
ときのまも おきてはやまず
ただしきは つひにやすけく
あしけきは けがれはつべし
しきしまの やまとのくには
かんながら きよくさやけく001
まがごとを ゆるさぬくにぞ
よこしまは はらひぞやらへ
おほそらを わがふるさとと
あしたには ひいづるうみに
ゆふべには ひのいるやまに
もろびとぞ あふぎていのる
あめのした ひとつうからと
にぎたまの むつびあふよを
まのあたり うつつにはみむ
さばへなす しこのえみじの
さかしらを はらひつくさめ
またまなす わがおほぞらに
ちりひぢの けがれもおかじ
おほきみの みことかしこみ
あをぐもの むかぶすきはみ
あだなすは くゑはららかせ
あめのあらわし

太平洋戦争末期、もはや敗色は誰の目にも濃厚、という時期の作です。残された草稿に書かれたメモによれば雑誌『富士』のために書かれたものですが、出版事情もむちゃくちゃで、結局、この段階ではおそらく活字になりませんでした。

全篇仮名書き、長歌の形式。いったいいつの時代の作品だ、という感じですが、ここにある種の「狂気」を感じるのは当方だけでしょうか。

こういう詩のみをことさらに取り上げて、「大日本帝国臣民の鑑」と持ち上げるアナクロニストがいまだにいるのが不思議です。

一昨日の『日本経済新聞』さんの夕刊に、光太郎の名が出ました。

今月から始まった仏文学者小倉孝誠氏の連載「美術と文学―共鳴と相克」の第三回が、「国境を越えたロダンの魅力 リルケや白樺派も熱狂」で、日本に於けるロダン受容についても述べられ、光太郎に触れています。

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かなり長文ですので、全文は載せません。

「ロダンといえば彫刻、彫刻といえばロダンという感じで、近代彫刻の歴史における彼の地位は突出している。」にはじまり、ロダンの略伝、ヴィクトル・ユゴーやバルザック、ゾラ、ミルボー、そしてリルケら、文学者との交流が語られます。

そして日本に於けるロダン受容史的な話になり、白樺派とのかかわり、明治45年(1912)の与謝野夫妻によるロダン訪問、そしてわれらが光太郎がムードンのアトリエを訪ねたエピソードが紹介されています。

彫刻家にして詩人の高村光太郎は、08年ムードンのアトリエを訪ねた。ロダンは不在で会えなかったが、そこで彼の作品を前にした時、その量感と官能性に圧倒された、と後に回想している。

これはパリ留学中に有島生馬や山下新太郎らと共にムードンのアトリエを訪れたことを指します。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」でその際の様子が語られています。それ以前にも明治40年(1907)11月、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリに荻原守衛を訪ね、一緒にロダンのアトリエまで足を伸ばしていますが。2回とも正確に言うと、「会えなかった」というより、留守を狙って行ったふしがあります。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあり、邪魔をしないようにという配慮があったようです。ただ、内妻のローズ・ブーレは在宅で、彼女にロダンの彫刻やデッサンの束を見せて貰ったりしてはいます。

特に目新しいことが書かれているわけではありませんが、「入門講座」と謳う連載ですので、それでいいと思います。ちなみに第一回はドラクロワ、第二回はゾラと印象派を主に取り上げていました。

当方、日経さんは購読しておりません。ネットでも、有料会員登録をしないと読めない記事の扱いになっていました(後で別の入り口から入ると読めたのですが)。そこで、こういう場合どうするか、といいますと、地元の市立図書館に行き、コピーをしてきます。おそらく全国の公立図書館でそれが可能だと思います。図書館にはそういう使い方もありますので、ご参考までに。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月21日000

昭和57年(1982)の今日、岩手花巻で、佐藤隆房著『非常の時』が刊行されました。

佐藤隆房は、宮澤賢治の主治医にして、光太郎とも交流を持ち、光太郎歿後は花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めました。

題名の「非常の時」は、昭和20年(1945)の花巻空襲の際、身を挺して怪我人の看護に当たった、佐藤率いる総合花巻病院の職員一同に光太郎が贈った詩の題名です。題字は光太郎筆跡を転用しています。

内容的には、『花巻病院新聞』などに掲載された佐藤の随筆を集めたもので、光太郎に触れる箇所もたくさんあります。

この前年に亡くなった佐藤の遺稿集という形で、子息の進氏(現・㈶花巻高村光太郎記念会理事長)によって私刊されました。

2月も下旬となりましたので、そろそろ3月に行われるイベント等の情報を順次お伝えします。

京都からシンポジウムの情報です。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター京都シンポジウム 『ほんとの空が戻る日まで』―東日本大震災及び原発事故からの福島の闘い―

東日本大震災発生から4年。
震災からの復旧・復興への取組みを通して東北・福島の想いを関西につなぐとともに、住民レベルでの減災意識の啓発を図ることを目的として、「うつくしまふくしま未来支援センター京都シンポジウム『ほんとの空が戻る日まで』-東日本大震災及び原発事故からの福島の闘い-」(主催:福島大学、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター、共催:立命館大学、大阪大学 ほか)を開催します。

あの日から4年が経過しようとしています。
長い月日が経過した今でも福島県では約12万4千人の避難者(うち県外避難者約4万7千人)が原発事故の収束と地元帰還の見通しが立たない中、放射線被ばく、雇用喪失、生活再建、食の安全、子育てへの不安が重くのしかかり、借り上げ住宅、仮設住宅といった厳しい環境の下で生活しています。
そして、県民193万7千人が言われなき風評と闘いながら日々生活しています。
震災・原発事故で傷ついた東北は震災直後、関西から心強いメッセージ、そして支援をいただきました。それに感謝し我々の経験そして想いを関西に返す事により、減災意識を高めることができればと考えます。
そして歴史の繋がりの強い京都で開催し、皆様に今一度福島のことを考え、福島に寄り添っていただくことを目的に開催するものです。

日 時  平成27年3月8日(日) 12時00分~17時20分 ※同日10時00分~11時15分 開会前DVD上映(鑑賞自由)
場 所  立命館大学朱雀キャンパスホール (京都市中京区西ノ京朱雀町1)
参加募集人数  事前申込制 350名
※参加費無料
※2月28日(土)までに、チラシ裏面の参加申込書によりFAXまたはE-mailでお申し込みください。
申込み先 福島大学うつくしまふくしま未来支援センター
FAX:024-504-2865 E-mail:fure@adb.fukushima-u.ac.jp
参加対象者 一般市民、大学関係者、学生、行政職員、福島県から避難している方 他
問い合わせ先 福島大学うつくしまふくしま未来支援センター  TEL 024-504-2865
主催: 国立大学法人福島大学、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター
共催: 立命館大学、国立大学法人大阪大学
後援(予定): 文部科学省、復興庁、福島県、京都府、京都市、双葉地方町村会、公益社団法人経済同友会 他

プログラム
※10:00~11:15 開会前DVD上映(鑑賞自由)
OECD東北スクールの集大成 東北復幸祭〈環WA〉in PARIS
11:20~12:00 受付 
  12:00~ うつくしまふくしま未来支援センターの活動紹介
  12:10~ 開会
挨 拶 福島大学学長 中井勝己 立命館大学学長吉田美喜夫 大阪大学総長平野俊夫
12:25~13:25 Ⅰ部
基調講演「誰もが発信できる時代 福島の今を丁寧に世界に伝えるために」
堀潤氏 ジャーナリスト(元NHKアナウンサー)
 13:35~15:05  Ⅱ部
福島の現状報告
①「福島大学の活動状況」 中田スウラ  FURE*センター長
②「福島県における放射能の現状」大瀬健嗣 FURE*農・環境復興支援部門特任准教授
③「食の安全と農業の再生に向けた闘い」小山良太 FURE*副センター長、食・農復興支援担当マネージャー
④「こども支援を通して見えてきたこと」本多環 FURE*こども・若者支援部門特任教授
 15:20~17:10  Ⅲ部
パネルディスカッション『震災・原発事故からの福島の闘い』
[コーディネーター] 開沼 博 FURE* 地域復興支援部門特任研究員
[パネリスト]
・サトウタツヤ 立命館大学文学部教授
・久保 壽彦 立命館大学経済学部教授
・遠藤 勝裕 氏 経済同友会震災復興委員、日本学生支援機構理事長
・高橋 美奈子 氏 福島市飯坂温泉松島屋旅館女将
・佐藤 彰彦 FURE*地域復興支援部門特任准教授
 17:15 閉会
挨拶 FURE*センター長 中田スウラ
 
*FURE:うつくしまふくしま未来支援センターの略

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あの日からもうすぐ4年。当方、昨年は10回以上福島に足を運びました。行くたびに少しずつ復興が進んでいる様子が見えるものの、まだまだ道半ば、いや、半ばまでも行っていないかも知れません。安達太良山の山の上に毎日出ている青い空は、美しい「ほんとの空」ですが、ほんとの意味での「ほんとの空」とはまだ言えません。

現在、国会会期中ですが、安倍政権は脱原発というつもりはさらさらないようです。4年経っても12万人以上が避難生活を送っているのに、です。

先月は、阪神淡路大震災から20年ということで、いろいろな取り組みが報じられていました。ぜひ関西の皆さんにも、福島の現状と課題を知っていただき、今後の日本全体を考えるよすがとしていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月20日

昭和26年(1951)の今日、龍星閣から詩集『智恵子抄』が復刊されました。

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詩集『智恵子抄』。オリジナルは昭和16年(1941)8月に刊行され、同19年'1944)、版元の龍星閣が休業するまでの間に13刷まで版を重ねました。。

戦後、昭和22年(1947)の11月、白玉書房という書肆が、休業中の龍星閣に代わって『智恵子抄』を出版。オリジナルの龍星閣版に戦後の詩「松庵寺」「報告」を加えました。

光太郎は白玉書房社主の、「龍星閣の同意を得ているという言を信用して出版を許可したのですが、実は同意をきちんと得ていなかったことが判明、白玉書房版は絶版となりました。そして同26年(1951)になって、龍星閣からオリジナルの形に戻して復刊されました。

その後、昭和31年(1956)に、草野心平の編集で新潮文庫版が出され、そちらが広く流通したため、今日、『智恵子抄』というと、新潮文庫版を想起する人がほとんどです。新潮文庫版は、戦後の詩篇を数多く含みますが、オリジナルは昭和16年(1941)作の、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」まで。内容的には智恵子歿後の駒込林町のアトリエを舞台にした「梅酒」(昭和15年=1940)までです。

昨日に引き続き、芝増上寺さんの展示情報です。

『産経新聞』さんで大きく報道されています。 

2代将軍秀忠の墓所「台徳院殿霊廟」模型、日本初公開へ。

 徳川幕府の第2代将軍秀忠の墓所で、70年前の空襲で焼失した国宝建造物「台徳院殿霊廟(れいびょう)」の実像を唯一知ることのできる精巧な模型が英国で見つかり、徳川家康の没後400年目を機に4月から、霊廟のあった増上寺(東京・芝公園)で公開されることになった。
 模型は実物の10分の1(幅約4メートル、奥行き約5メートル、高さ約2メートル)で、1910年(明治43年)にロンドンで開かれた日英博覧会の展示品として当時、東京市が著名な彫刻家、高村光雲ら東京美術学校の専門家の監修で製作した。
 展示後、模型は英王室直属機関のロイヤル・コレクションに渡った。徳川時代の建築の専門家でもある同機関の現代表、ウィリアム・コールドレイク氏が20年前、埋もれていた模型を見つけ、修復に着手。作業が複雑で修復は未完了だが、家康没後400年目の今年、増上寺に貸与する形で公開することになった。
 霊廟は秀忠が没した1632年に建立され、霊廟建築のひな型ともなったが、焼失後はモノクロ写真でしか見ることができなかった。コールドレイク氏は「模型なら質感や色がわかり、当時の専門家の手による作品というだけでも国宝級だ」と話している。

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展示の概要は以下の通りです。

「増上寺宝物展示室」概要
【名 称】増上寺 宝物展示室
【日 付】平成27年4月2日(木)より一般公開
【時 間】10:00~16:00
【休館日】火曜日 *御忌期間中4/2~7は毎日公開。その他臨時公開日あり
【会 場】大本山 増上寺 大殿地下1階「宝物展示室」(旧三縁ホール)
【入館料】一般 700円(税込) *徳川将軍家墓所拝観とのセット券 1,000円(税込)


ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月19日

平成12年(2000)の今日、ソプラノ歌手藍川由美のCD『「國民歌謡~われらの歌~國民合唱」う歌う』がリリースされました。

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昭和15年(1940)に徳山璉の歌で発表された、光太郎作詞、飯田信男作曲の「歩くうた」が収められています。当時の楽譜通りの演奏です。

以前にもご紹介しましたが、藍川さんは歌謡史の研究も兼ね、忘れ去られつつある歌謡曲等の実演に取り組まれています。

東京は芝から、光太郎の父・光雲がらみの情報先の話のため、もうすこし後で記事にしようと思っていましたが、新聞報道がなされていますので、ご紹介します。

芝増上寺さんのサイトから。

増上寺宝物展示室2015年4月2日OPEN

 平成27年は、徳川家康公没後400年にあたります。その記念すべき年に、家康公によって徳川将軍家の菩提寺と定められ発展してきた増上寺では、本堂地下1階に宝物展示室を開設することになりました。

展示の中心となるのは、英国ロイヤルコレクション所蔵の「台徳院殿霊廟模型」です。台徳院殿霊廟は二代秀忠公の墓所として、1632年(寛永9年)、三代将軍家光公によって境内南側に造営された壮大な建築群でした。徳川家霊廟の中で最も壮麗とされる日光東照宮のプロトタイプとなった霊廟で、1930年(昭和5年)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)5月の戦災により焼失してしまいました。

この模型は、いまではモノクロ写真でしか往時の姿をしのぶことができない台徳院殿霊廟の主要部分が、10分の1のスケールで製作されたものです。

女王陛下より増上寺へ霊廟模型の長期貸与が決定

  模型の製作は、東京美術学校(現東京芸術大学)が行い、古宇田実教授(建築)、高村光雲教授(彫刻)両名の監修のもと、明治末期の最高の技術をもって、忠実に再現しました。
  英国側がこの模型を日本で展示し、ひろく一般公開する意向を持ち、英国大使を通じて徳川御宗家並びに増上寺への協力依頼により本計画が実現しました。
  展示室を開設し一般公開することは、日英文化交流にとって友好のしるしとなること、そして模型が持つ美術工芸品的、資料的、歴史的価値を多くの人に知っていただける好機だと増上寺では考えています。 

1910年(明治43年)ロンドンで開催された日英博覧会に東京市の展示物として出品。博覧会終了後に英国王室へ贈呈され、ロイヤルコレクションの一つとなり、現在まで英国にて大切に保管されてきたのです。


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英国大使館さんのサイトにも情報が掲載されています。 
明治期の台徳院殿霊廟模型が、こ004の春、日本で初公開されます。
東京の失われた国宝建造物の中でも重要な建築の一つに挙げられる台徳院霊廟の1/10スケール模型が、100年余ぶりに日本に戻りました。英国ロイヤル・コレクションの1つであるこの模型は、徳川家2代将軍、徳川秀忠公(1579-1632)の墓所である台徳院霊廟を再現したものです。エリザベス2世女王陛下のお許しで、日本の職人の手による12ヶ月にわたる丹念な修復作業を経て、当初霊廟が建造されていた東京(かつての江戸)の増上寺にて、長期公開されます。本模型は 徳川家初代将軍、家康公の没後400年を記念した展示(4月2日より一般公開)の中核をなすものです。
台徳院殿霊廟は、1632年、徳川家の菩提寺である増上寺の境内に建造され、その名は秀忠公の法名に因んでいます。本霊廟はその後の霊廟建築におけるひな形の一つとなっており、特にさまざまな場所に施された独特の装飾は大きな影響を与えましたが、1945年、東京への戦時中の爆撃により焼失しました。
模型は1910年にロンドンで開催された日英博覧会のために東京市(当時)が発注したもので、より小型の日本の歴史的建造物模型13点と共に展示されました。高名な彫刻家、高村光雲など東京美術学校(現・東京芸術大学)の専門家による監修の下、当時トップクラスの大工、漆職人、彫刻家らによるチームが製作を担当。幅3.6メートル、奥行き5.4メートル、高さ1.8メートルで、同博覧会のために依頼された大半の模型の5倍の大きさでした。
模型は、台徳院殿霊廟を構成する三棟、本(ほん)殿(でん)、拝殿(はいでん)、相之間(あいのま)を内外にわたり、色彩豊かに細部に至るまで再現しています。屋根は数千枚に及ぶ親指の爪サイズの銅瓦など、素材や技巧にも忠実です。
東京での修復作業は主に本殿部分で、屋根瓦や漆塗りの木の枠組みや扉、御簾、徳川家の家紋、金箔を施した阿弥陀浄土図などの壁画の修理や洗浄などが行われました。須(しゅ)弥壇(みだん)の両端に立つ来迎柱(らいごうばしら)は特に注意深く修復され、霊廟を取り囲む巨大な透(すき)塀(べい)の洗浄と再構築もおこなわれました。   日英博覧会は1910年5月14日から10 月29日までロンドンのホワイトシティで開催され、日本が参加した国際博覧会としては最大規模のものでした。発展を遂げる日本国のイメージを英国に発信し、両国の貿易関係を強化することを目的としていました。この博覧会では日本の工芸・音楽・スポーツ・娯楽のデモンストレーションも行われ、英国王ジョージ5世やメアリー王妃も訪問、来場者は800万人超に達しました。その後、霊廟の模型は国王に贈呈され、長年にわたり王立植物園(キューガーデン)にて一般公開されてきました。
駐日英国大使 ティム・ヒッチンズより:

“長い年月を経て、台徳院の模型が日本に戻ることを非常に喜ばしく思います。2008年に皇太子殿下が訪日された際、模型の来迎柱の一つを増上寺の副住職に贈りました。今回は模型全体が戻ります。英国と日本が協力することで、歴史的にも政治的にも重要かつ非凡な職人技を広く一般に届けることができるという、今後のあり方を象徴的する素晴らしい出来事です。この模型は、炎に消えて取り戻せないと思われた建物を甦らせます。”
ロイヤル・コレクション・トラスト 総責任者 ジョナサン・マースデンより:

“この類まれな模型の存在意義は、オリジナルの建物と敷地の消滅によってさらに高まっています。私はエリザベス2世女王陛下の代理として、ロイヤル・コレクションの一つであるこの見事な作品の管理責任を担っておりますが、ロイヤル・コレクション・トラストと増上寺の素晴らしい提携のおかげで、この模型が最高の職人によって修復され、東京の皆さんに江戸時代の最高建築を十分にご堪能いただけることを嬉しく思います。”
大本山増上寺 友田達祐 執事長より:

“エリザベス2世女王陛下のご好意により、台徳院殿霊廟模型が100年ぶりに里帰りし、4月2日から増上寺において一般公開できますことを、心より喜んでおります。徳川将軍家の菩提寺として発展してきた増上寺の、往時を偲ぶ貴重な資料でもあり、修復・展示実現のため、ご尽力いただきましたロイヤル・コレクション・トラスト、駐日英国大使館はじめ、関係皆様に感謝いたします。”


他にも新聞報道等がなされていますが、長くなりましたので、またご紹介いたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月18日

昭和27年(1952)の今日、光雲高弟の一人、本山白雲が歿しました。

本山は高知出身の士族。明治4年(1871)の生まれで、光太郎より12歳年長でした。旧主のとりなしで光雲に弟子入りし、さらに東京美術学校にも入学、卒業後はそのまま美校に奉職しました。幼い日の光太郎が、共に彫刻修行に励んだ一人です。

昭和4年(1929)に刊行された光雲の談話筆記『光雲懐古談』中の「谷中時代の弟子のこと」から。

 それから、やはり谷中時代の人で、今日は銅像制作で知名の人となつてゐる、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊(いはむらみちとし)氏の書生をしてゐて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参つて弟子になりたいといふことで、内弟子となつてゐました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮れには必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持つた人です。

「銅像専門」とありますが、代表作は郷里005の高知桂浜に立つ、有名な坂本龍馬像です。

ところで、今日、2月18日は、本山以外にも、奇しくも光太郎と関係のある人物多数の命日です。

明治36年(1903)、五代目尾上菊五郎。光太郎は彼のファンで、肖像彫刻も作りました(現存は確認できず)。

昭和14年(1939)、岡本かの子。彫刻科を卒業し、再入学した東京美術学校西洋画科での同級生・岡本一平の妻で、智恵子同様、『青鞜』のメンバーでもありました。

永禄4年(1564)、ミケランジェロ・ブオナローティ。言わずと知れたルネサンスの巨匠です。ロダンと共に、光太郎彫刻の血脈を形作りました。

こうした中で、やはり光太郎との縁の深さを考え、本山を代表にさせてもらいました。

最近放映されたテレビ番組で、光太郎智恵子、光雲に関わるものの再放送が何件かあります。

まずは今夜。 
NHK総合 2015年2月17日(火) 24:40~25:25 =18日(水)午前0:40~1時25分

(22:07追記)先程ディレクター氏から連絡がありました。東北地方の地震報道の影響で、10分遅れのスタートだそうです。

彫刻家・高村光太郎と画家を目指す妻・智恵子。二人は貧しさにも負けず、芸術への夢を追い求めるが、その行く手には、あまりにも悲しく切ない運命が待っていた…。命をかけて貫き通した二人の愛が生み出した奇跡とは?詩集「智恵子抄」で知られる、日本史上類を見ない究極の愛の伝説をお届けする。

今からおよそ100年前の1914年(大正3年)12月、彫刻家、詩人の高村光太郎と、画家の卵である長沼智恵子が、実験的な同居生活をスタートさせた。婚姻届を出さず、夫婦別姓。家事を分担し、対等な人間同士として、それぞれの創作に打ち込んだ。絶えざる戦争のわずかな合間、自由な文化が花開いた大正という時代を追い風にした「愛の試み」だった。光太郎と智恵子は貧しさにも負けず、芸術への夢を追い求めるが、その行く手には、あまりにも悲しく切ない運命が待っていた。命を懸けて貫き通した二人の愛が生み出した奇跡とは何か。バレンタインデーを前に、詩集「智恵子抄」で知られる、日本史上類を見ない究極の愛の物語を紹介する。

出演 前田亜季 鈴木一真
キャスター 渡邊あゆみ

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本放送は先週11日(水)でした。

その後、公式サイトに「バックナンバー」としてロケ地情報などがアップされています。智恵子の生家(二本松市智恵子記念館)、高村山荘(高村光太郎記念館)、十和田湖乙女の像……。


続いて明日。 本放送は地上波テレビ東京系で先月でした。 

美の巨人たち 森田藻己『竹の中の大工』

BSジャパン 2015年2月18日(水)23時00分~23時30分

毎回一つの作品にスポットを当て、そこに秘められたドラマや謎を探る美術エンターテインメント番組。今日の作品は、超絶技巧の根付、森田藻己(もりた・そうこ)作『竹の中の大工』。今ジャパニーズアートとして人気を博している、ひもの端に付ける留め具・根付。大正・昭和の藻己の活躍によって進化を遂げたといいます。手のひらに収まる大きさのこの根付は竹筒のような細工が施され、中をのぞくと大工さんの姿が…。ひとつの木片から彫り上げられたのですが一体どうやって彫ったのか?そこには伝説の根付師ならではのもくろみが。
 
ナレーター 小林薫
音楽 <オープニング・テーマ曲> 「The Beauty of The Earth」 作曲:陳光榮(チャン・クォン・ウィン) 唄:ジョエル・タン  <エンディング・テーマ曲> 「India Goose」 中島みゆき
 
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こちらも公式サイトの「バックナンバー」に内容紹介があります。そちらには書かれていませんが、光雲が森田の根付けを愛用し、絶賛していたエピソードが紹介されました。


さらに明後日。今月初めに放映されたもので、正確に言うと再々放送です。 

にっぽん百名山「安達太良山」

NHKBSプレミアム 2015年2月19日(木) 11 時~11 時30分

番組内容
福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉からブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。智恵子抄のエピソードや登山家の田部井淳子氏の誕生秘話も紹介。

出演 林千明
語り 山崎岳彦 吉川未来

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それぞれ見逃した方、または地上波で視聴できなかった地域の方、ぜひご覧下さい。

見逃した、と言えば、昨日、地上波テレビ東京系で放映された「昼めし旅~あなたのご飯見せてください~」という番組で、光太郎がちらっと紹介されたそうですが、当方、見逃しました。朝の段階で新聞のテレビ欄に「草津温泉へ 文豪愛したレトロ旅館」とあり、光太郎は草津を訪れたこともあったので、もしや、と思っていましたが、テレビを付け忘れました。悔しいですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月17日004

昭和20年(1945)の今日、日本橋三越で日本文学報国会、美術報国会主催の「愛国百人一首理念昂揚展覧会」が開幕しました。

「愛国百人一首」は、愛国の精神が表現されたとする名歌百首を選んだもの。光太郎が詩部会会長を務めていた日本文学報国会により、昭和17年(1942)に制定されました。古くは万葉時代の柿本人麻呂から、新しくは幕末の橘曙覧の作品が採られています。

選定は佐佐木信綱ら。光太郎は選者に入っていません。

三越での展覧会には、徳川吉宗の次男・田安(徳川)宗武の歌を光太郎が揮毫した書が展示されました。

歌は、

もののふの兜に立つる鍬形のながめ柏は見れどあかずけり

というものです。

十数年前でしたか、おそらくこの時のものと思われる光太郎の揮毫が古書市場に出ました。価格はなんと180万円。半切の大きなものですので、妥当な価格でしょう。

近刊情報です。

東京代官山のクラブヒルサイドさんからメールでお知らせ戴きました。

一昨年にクラブヒルサイドさんで行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」を書籍化されるそうです。

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以下、添付のPDFファイルから。 

読書会から生まれた本『少女は本を読んで大人になる』が発売されます。

~魅力的な10人の女性たちと共に読む、少女が大人になる過程で読んでほしい10冊の古典的名作~
東京・代官山クラブヒルサイドにて、2013年の5月からおよそ1年続いた読書会「少女は本を読んで大人になる」は少女が大人になる過程で読んでほしい世界・日本の古典的名作を、多彩なゲストと共に読んでいくというもの。この読書会を1冊の本にまとめました。

ご自身の人生とも重ね合わせながら読み進めていく名作は、作品の魅力にぐっと迫りながら、ゲストの人柄も楽しめる内容になっています。また、読書会に合わせてオリジナルで作った作品にちなんだサンドウィッチレシピも収録。豪華な一冊になりました。

 
本編は、各ゲストが1冊の本を読み解いていくという形で構成されています。

 少女の頃繰り返し読んでいた作品。思い出の作品。人生に影響を与えてくれた大切な作品など。どんな風にその物語を解釈して、読み進めていったのか、ゲストによってその捉え方はさまざまに異なることがわかってきます。発見がちりばめられている本編をお楽しみください。

ゲストと共に読んだ名作10点004
平松洋子・『女たちよ!』(伊丹十三)
阿川佐和子・『悲しみよこんにちは』(フランソワーズ・サガン)
角田光代・『第七官界彷徨』(尾崎翠)
鴻巣友季子・『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)
末盛千枝子・『智恵子抄』(高村光太郎)
中村桂子・『キュリー夫人伝』(エーヴ・キュリー)
小林エリカ・『アンネの日記』(アンネ・フランク)
竹下景子・『苦海浄土』(石牟礼道子)
湯山玲子・森本千絵・『赤毛のアン』(L.M.モンゴメリ)『放浪記』(林芙美子)

サンドウィッチレシピを紹介
読書会では、毎回作品とゲストにちなんだオリジナルサンドウィッチを作りました。作品とゲストの印象から、発想したサンドウィッチです。
すべてのサンドウィッチのレシピが、収録されています。サンドウィッチを片手に読書なんて、いかがでしょう。

読書会が本になりました
全10回開催された読書会は毎回2時間、参加者のみなさんもゲストが選ぶ本を片手に、共に読み進めていきました。
会の流れはゲストによってさまざまで、朗読するときもあれば、グループディスカッションをして話し合うときもあり。その空気感が丸ごと収録され、書き起こされた一冊です。

森本千絵さんによる表紙絵
ゲストの一人である、コミュニケーションディレクターの森本千絵さんによる作品を、表紙の絵に使わせていただきました。この作品は「赤毛のアン」をイメージして描かれたもので、一人の少女が明日に向かって歩みはじめるような印象が、本書のテーマに重なります。


書名:少女は本を読んで大人になる価格:1,500円(税別)
編集者:クラブヒルサイド・スティルウォーター
ブックデザイン:大西隆介(direcIonQ)
サンドウィッチイラスト:山口潤(direcIonQ)
発行日:2015年3月12日(木)
販売場所:全国書店にて
出版元:現代企画室

クラブヒルサイド 
〒150-0033 東京都渋谷区猿楽町30--‐2 ヒルサイドテラスアネックスB棟2F クラブヒルサイドサロン内
担当:菊池・西村  
info@clubhillside.jp phone:03-5489-1267


光太郎と交流のあった彫刻家の故・舟越保武氏のお嬢さんで、「千枝子」さんというお名前は、光太郎が名付け親だという編集者・絵本作家の末盛千枝子さんによる「智恵子抄」がラインナップに入っています。

末盛さん、その後、新潮社さんで発行している『波』というPR誌に、光太郎も絡むエッセイ「父と母の娘」を連載中ですし、昨年は5月15日の花巻高村祭でご講演くださいました(ちなみに今年は当方が講演をいたします)。

購入ご希望の方は、上記までお問い合わせ下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻町の、宮澤賢治の姻戚・関登久也邸で開かれた歌会に出席しました。

関は尾山篤二郎に師事した歌人。この時期の光太郎には、花巻郊外太田村での生活に題を採った短歌の秀作がけっこうあり、こうした機会に詠まれたものと推定されます。

ちなみにこの歌会は午前中。午後には賢治の弟・宮澤清六とともに映画を観に行きました。その件は昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】に書きました。

過日ご紹介しました登山系雑誌の『岳人(がくじん)』さんの最新号、2015年3月号が、昨日、発売になりました。

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表紙は畦地梅太郎の版画。いいですね。

特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」が、30ページほどで組まれています。

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そのうち、8ページが「高村光太郎と智恵子の上高地」。光太郎詩文と拙稿です。

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上高地は、大正2年(1913)の夏、光太郎智恵子が一ヶ月ほどを共に過ごし、ここで結婚の約束を結んだ場所です。その辺りの経緯と、のちに智恵子が心を病んでしまってから、光太郎がその当時を回想して書いた詩文などに触れてみました。

編集部からは、引用部分を除き2,000字程度という指定で、先日の「歴史秘話ヒストリア」ではありませんが、短い尺の中に収めるのに苦労しました(笑)。もっと書きたいことがたくさんあったのですが、その中の一部は他の方の記事に書かれていましたので、安心しました。

他に尾崎喜八や竹内てるよ、草野心平に北原白秋といった、光太郎と縁の深かった詩人も取り上げられ、また、現代の山岳詩人・正津勉氏の玉稿もあり、非常に読みごたえのある特集です。

大規模書店なら店頭に並んでいますし、アウトドア用品メーカーのモンベルさんのショップにも並びます。また、版元やAmazonなどのネット通販でも入手可能です。定価は680円+税。ぜひお買い求め下さい!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月15日

昭和54年(1979)の今日、書道雑誌『墨美』288号で、光太郎の特集「高村光太郎遺愛 黄山谷 子瞻帖(しせんじょう)」が組まれました。

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黄山谷は、中国北宋の進士、黄庭堅(こうていけん)の号。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。
 
光太郎は山谷の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁に黄山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。

「子瞻帖」は、黄山谷が師である蘇東坡の略歴を詩文にしたものです。光雲がその拓本を入手、光太郎がそれに惚れ込み、大切にしていたという品です。光太郎から書家の西山秋崖の手に渡りました。そうした経緯にも触れられています。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第59回連翹忌を開催いたします。
 
昨年の第58回連翹忌の様子はこちら

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。

3月30日追記 申し込みは締め切らせていただきました。

詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第59回連翹忌の御案内                     

記                                                        

                                       
日 時  平成27年4月2日(木
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円


御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(日)までにご送金下さい。
会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

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申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場入りしております。


当会顧問にて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生の玉稿も戴いております。


ご 挨 拶

 草野心平さんが「この日を連翹忌と名づけて今後ひきつづき高村さんの思い出を語りあいたいと存じます。」と最初の案内状に書いてから、今年はもう五十九回目になります。

 その間にたくさんの出来事がありましたが、高村さんや智恵子さんを敬愛する皆さんに支えられて、私たちの心の中のお二人の姿は、ますます強く、ますます大きく生き続けてきました。

 荒々しい自然現象や、異常な世界情勢のなかで、様々な困難を乗りこえて実現し、いまも企てられつつある出来事の詳細は、今年もそれぞれ親しく報告されるでしょう。

 お元気でお目にかかれるのを楽しみにしております。

平成二十七年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一

以上、よろしくお願い致します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月14日

昭和29年(1954)の今日、新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵が歿しました。

愛蔵は明治34年(1901)に、東大赤門前にてパン屋の中村屋を創業、のち、本店を新宿に構えます。同郷の彫刻家・荻原守衛を援助し、守衛を中心に光太郎を含む若き芸術家達が中村屋に集い、中村屋サロンが形成されました。

京都から企画展情報です。 
 場 清水三年坂美術館 京都市東山区清水寺門前産寧坂北入清水三丁目337-1
 期 2015年2月21日(土)~2015年5月17日(日)月・火曜日休館(祝日は開館)
 金 一般800円、大・高・中学生500円

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明治の彫刻が日本の美術館で展示されることは滅多にない。展示されるとしても せいぜい木彫や牙彫で、他の素材を使った作品は展示されない。明治の彫刻には、 木彫、牙彫以外に漆彫刻や貝殻、べっ甲、珊瑚などを彫刻して木や象牙に象嵌する彫嵌(ちょうがん)作品もある。
今回の展示では高村光雲や石川光明、安藤緑山らの牙彫・木彫 作品に加え、堆朱陽成や逸見東洋の堆漆作品、旭玉山、田中一秋らの彫嵌作品など、明治の多様な彫刻美術の全貌をご高覧いただきたい。


清水三年坂美術館さんは、幕末、明治の金工、七宝、蒔絵、薩摩焼を常設展示する日本で初めての美術館として平成13年(2001)に、京都清水寺近くに開館しました。平成23年(2011)には企画展「高村光雲と石川光明」を開催して下さっています。

また、昨年から東京日本橋静岡三島山口と、全国巡回中の「超絶技巧! 明治工芸の粋」展も、同館の所蔵品によるものです。

光雲の木彫がある程度まとめて見られる機会はそう多くありません。当方も桜の時期にでも暇を見つけて行ってこようかなと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月13日

昭和23年(1948)の今日、電車を乗り間違いました。

花巻郊外太田村の山小屋で暮らしていた時期のエピソードです。花巻の町に出、その帰途、花巻電鉄の西花巻駅から下り線に乗るはずが、間違って上り線に乗ってしまい、一時間半ほど無駄にしてしまいました。

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以前にもご紹介しましたが、こちらは当方手持ちの古絵葉書です。

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こちらは現在の花巻駅近くの 西公園で、静態保存されている車両「デハ3」。

「馬面電車」と呼ばれる非常に細長い独特の形状です。

昨夜オンエアされた、NHKさんの教養番組「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」を拝見しました。

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当方、制作のお手伝いをさせていただきましたので、御覧になった方々の感想が気になるところです。いかがだったでしょうか。

一昨年放映された、同じNHKさんの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」の際にもお手伝いをさせていただき、その時は渋谷の放送センターで司会の井浦新さん、伊東敏恵アナ、ゲストの作家・平野啓一郎氏によるスタジオ収録に立ち会い、VTRの部分もその時に拝見しました。

しかし、今回は事前に観ておらず、放映を心待ちにしておりました。実際に観てみて「こういう風に仕上がったのか」と、感慨ひとしおでした。

コンセプトとしては『智恵子抄』」の成立過程から智恵子と光太郎の生き様を探る、といったものでした。ある意味手前味噌になりますが、いい出来だったと思います。45分という短い尺で、光太郎智恵子の生の軌跡をあますところなく伝えるのは物理的に不可能ですが、ダイジェストとしては、あれでほぼ十分と思いました。

「日本人の純愛の代名詞とまで言われる『智恵子抄』」という紹介が為されていましたが、「そりゃ持ち上げすぎだろ」と思いました(笑)。

他にも細かな表現等で、「正確に言うとそうではない」「そう言い切るのは危険」「それは以前の定説」という箇所がありましたが、それはしかたがないでしょう。

「日曜美術館」の時にエゴサーチしてみましたところ、そういうところで揚げ足を取って、鬼の首でも取ったかのようにブログやツイッターの記事を書いている人物がいましたが、心の狭い人だなあと思います。その程度ならともかく、揚げ足を取るのでなく、足すら揚げていないのに「お前、今、足揚げたろ」と突っ込んでくる不届き者もいます。番組の中で一言もそういうことを言っていない、全くそういう内容になっていないことを「こういう内容だった、ひどすぎる」などと勝手に決めつけてブログで全世界に発信しています。その人物、とにかく上から目線で、自分以外の全ての人間はバカだと思っているようです(笑)。それが教育関係者だというのですから呆れます。よっぽど抗議しようかと思いましたが、そういう輩には何を言っても無駄と思うので、放置していますが。

閑話休題。昨夜の「歴史秘話ヒストリア」は、「episode1 智恵子と光太郎 運命の出会い」「episode2 智恵子と光太郎 理想と挫折」「episode3 智恵子と光太郎 愛が生んだ奇跡」そして「智恵子亡きあと 光太郎を支え続けたのは」の4部構成でした。鈴木一真さんと前田亜希さんのお二人による再現ドラマを軸に、要所要所でいろいろな方のコメントや関連画像、動画が入る構成です。

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お二人の演技もなかなかよかったと思います。いつもながらに渡邊あゆみさんの語りも。

過日ご紹介し濵口奈菜さんという方は、二人を取り持った柳八重の役でした。

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小説『智恵子飛ぶ』を書かれた作家の津村節子さん、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生、花巻郊外太田村時代の光太郎を知る高橋愛子さんなどのコメント、いちいちうなずけました。

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最後は花巻、そして十和田湖。

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なかなか感動的でした。

しかし、先程も書きましたが、45分という枠はあっという間ですね。その中で二人の生の試みをダイジェスト的に足早に紹介しなければならない、これは大変なご苦労があったと思われます。

ロケも、昨日の放映になかった場所でもいろいろ行われていますが、割愛せざるを得なかったのでしょう。智恵子が療養していた九十九里浜、京都の国立国会図書館関西館(智恵子が口絵を描いた雑誌『少女世界』)などの部分は使われていませんでした。また、実際にロケは行われませんでしたが、ディレクター氏は宮城女川や福島裏磐梯にもロケハンに行かれたそうです。

そういうご苦労がしのばれるので、何も知らない部外者が勝手に「ひどすぎる」とか書いているのを見ると、本当に腹が立ちます。今回はそういう事がないようにと願っています。

さて、地域によって違うかも知れませんが、再放送がありますので、見逃した方はご覧下さい。

NHK総合 2015年2月17日(火) 24:40~25:25 です。正確に言うと18日(水)未明の午前0:40~ですが、テレビ番組表の表記は翌日未明の分は前日の続きとして表記されます。録画予約等される場合、御注意下さい。

(2/17 22:07追記)先程ディレクター氏から連絡がありました。東北地方の地震報道の影響で、10分遅れのスタートだそうです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月12日

昭和28年(1953)の今日、詩人の宮崎丈二と、新宿中村屋レストランで夕食にカレーを食べました。

中村屋さんは親友だった荻原守衛の関連で、縁の深い場所でした。昨秋、中村屋サロン美術館が開館し、光太郎の油絵「自画像」も展示されています。昨夜の「歴史秘話ヒストリア」でも映りました。

一昨日の夜、NHK BSプレミアムで放映された「にっぽん百名山 安達太良山」を拝見しました。

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基本、登山系の番組ですので、福島県で山岳ガイドを務める林千明さんによる案内で進行。一泊二日の本格的な登山行をたどります。

途中、安達太良山ゆかりの人物ということで、麓の二本松出身の智恵子、そして光太郎が約2分間取り上げられました。

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智恵子生家とその周辺の映像も流れました。

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お約束の「あどけない話」が紹介されて、光太郎智恵子の紹介が終わります。

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撮影時期は秋。紅葉や秋晴れの「ほんとの空」が美しく広がる映像です。

同じNHK BSプレミアムで再放送があります。

2月15日(日)  6時30分~7時/2月19日(木) 11 時~11 時30分

見逃した方、ぜひご覧下さい。

ぜひご覧下さい、といえば、今夜10時からは、NHK総合で、「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されます。

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ぜひぜひ、ご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月11日

大正9年(1920)の今日、有楽座で上演されていた演劇「青い鳥」を観ました。

翌日、親しかった作家の田村松魚(智恵子の親友だった同じく作家の田村俊子の夫)に宛てた葉書から。

昨夜は畑中氏のプロダクションを見に行きました。初日の為め時間が遅れたので中途で帰つて残念でした。畑中氏の苦心がおもひやられました。
チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよいと抱いてやりたい気のする子でした。

「畑中氏」は演出家の畑中蓼坡。その妻、静栄は、田村俊子の弟子で、駒込林町の光太郎智恵子アトリエにも出入りし、レモネードを御馳走になったなどの回想を残しています。昭和15年(1940)に刊行した詩集『海に投げた花』の序文は光太郎が執筆しました。

「チルチルになつた子」は、初代水谷八重子。昭和28年(1953)には生前の光太郎と会い、北條秀司作の演劇「智恵子抄」上演の約束を取り付けましたが、実現したのは光太郎没後の昭和31年(1956)でした。

一昨日、昨日と、十和田湖ネタで攻めましたので、もう1日。

以前にご紹介した、光太郎作の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)をあしらった十和田市のご当地ナンバープレートが今月から交付開始という報道が出ました。 

ご当地ナンバー「十和田湖と乙女の像」/十和田市が交付始める

 十和田市は2日から、「無題十和田湖と乙女の像」をデザインした原動機付き自転車用オリジナルご当地ナンバープレートの交付を始めた。交付第1号となったのは、同市法量家ノ前の山一清一さん(61)。同市役所で小山田久市長から「十和田市 A・・1」のプレートを受け取った。
 市は昨年、新市10周年記念事業として、ご当地ナンバーのデザインを公募。全国から寄せられた31点の中から、十和田湖と外輪山、湖畔のシンボル「乙女の像」をあしらったデザインを決めた。
十和田湖や奥入瀬渓流でボランティアガイドをしている山一さんは、「乙女の像など、一目で十和田のことが分かる良いデザインだと思う」と話し、「どうせなら1番がほしいと思っていたので、ラッキーです」とにっこり。
小山田市長は「このナンバーを付けて、古里を誇りに思い、また愛してもらいたい」と話した。市納税課によると、初日は5人に6枚のプレートを交付した。

東奥日報 2月4日(水)

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十和田市がオリジナルナンバーを交付

 十和田市が合併10周年を記念して作製した原動機付き無題2自転車用オリジナルナンバープレートの交付が2日、同市役所で始まった。申請者第1号は、十和田湖や奥入瀬渓流でボランティアガイドを務める山一清一さん(61)。「1番が欲しいと思っていたのでうれしい」と喜んでいる。
 ナンバープレートは、十和田湖と湖畔を象徴する乙女の像をデザイン。全国から応募があった31件の中で、グラフィックデザイナーの塩崎榮一さん(大阪府)の案が選ばれた。
この日、同市役所では交付開始と同時に山一さんが申請書を提出し、小山田久市長からナンバープレートを受け取った。山一さんは「十和田湖や奥入瀬渓流のPRになるいいデザイン。このナンバープレートを付けることで、十和田湖などに関心を持つ人が増えれば」と笑顔。小山田市長は「いろいろな場面で多くの人の目に留まる。観光PRの弾みになれば」と、効果に期待を寄せていた。
6日までは市役所本館1階の住民税課で、9日以降は同課のほか十和田湖支所でも受け付ける。問い合わせは十和田市役所税務課=電話0176(51)6765=へ。

【写真説明】小山田久市長(右)からナンバープレートを受け取る山一清一さん=2日、十和田市役所


このナンバープレート、ぜひ欲しいものです(笑)。

ところで、交付第一号の山一清一さん。たびたびご紹介しています十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会のメンバーで、ベテランのガイドさんです。

一昨年にはテレビ東京系BSジャパンさんの「にっぽん原風景紀行 第230景 稲生川に息づく開拓の歴史~青森県・十和田市」にご出演、奥入瀬渓流や稲生川で、女優の西原亜希さんをご案内なさっていました。

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さらに当方、昨年の今頃、「十和田湖冬物語2014」にお邪魔した際に、2日間にわたって車であちこちご案内いただきました。その山一さんが第一号の交付ということで、いい意味で笑えました。

乙女の像ナンバープレートは、十和田市のサイト、さらにブログにも紹介記事が載っています。また、同じ十和田市のブログ、それから十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトでは、開催中の「十和田湖冬物語2015」の記事も載っています。リンクをはってありますので、ご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月10日

明治37年(1904)の今日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされ、日露戦争開戦となりました。

2日前にはロシア旅順艦隊に対する奇襲攻撃があり、実質的な戦闘状態に入っていましたが、正式な宣戦布告は10日です。

数え22歳の光太郎、東京美術学校の彫刻科を卒業した後も研究科に残って彫刻修行を続けていました。同じ2月にロンドンで刊行されていた雑誌『ステュディオ』でロダンの「考える人」の写真を初めて見て、衝撃を受けています(実物は数年後にパリで初めて見ました)。

戦後の昭和22年(1947)に書いた連作詩「暗愚小伝」の中では、この頃のことをこう謳っています。
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    彫刻一途

日本膨脹悲劇の最初の飴、
日露戦争に私は疎(うと)かつた。
ただ旅順口の悲惨な話と、
日本海々戦の号外と、
小村大使対ウヰツテ伯の好対照と、
そのくらゐが頭に残つた。
 私は二十歳をこえて研究科に居り、

夜となく昼となく心をつくして
彫刻修業に夢中であつた。
まつたく世間を知らぬ壷中の天地に
ただ彫刻の真がつかみたかつた。005
 父も学校の先生も職人にしか見えなかつた。
職人以上のものが知りたかつた。
まつくらなまはりの中で手さぐりに
世界の彫刻をさがしあるいた。
いつのことだか忘れたが、

私と話すつもりで来た啄木も、
彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
すつかりあきらめて帰つていつた。
日露戦争の勝敗よりも
ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。


「ロヂン」とは仏語表記の「Rodin」を英語風に読むとそうなるということで、この頃は正確な発音さえ判っていなかったということです。

この時期、というかしばらく後までの光太郎、この詩にある通り、社会問題にはほとんど関心を示さず、ひたすら芸術精進、という感じでした。後に、そうした態度が智恵子の統合失調症発症につながったという反省から、一転して社会と積極的に関わろうとするようになります。それが泥沼の十五年戦争の時期と重なっていたのが、大きな悲劇でした。

画像は掲載誌の『展望』から採りました。「対照」とすべき箇所が「対称」となっています。遺された詩稿でも「対称」となっており、もともと光太郎が間違っていました。このミスは昭和25年(1950)に刊行された詩集『典型』でも修正されず、同27年(1952)の『高村光太郎選集Ⅱ』でようやく訂正されました。

昨日、青森の「十和田湖冬物語2015」の報道について書きましたが、調べてみますと、もっと報道されていました。

まず、仙台に本社のある東北地方ブロック紙、『河北新報』さんです。

雪光照らす「乙女の像」 十和田湖雪祭り開幕

 十和田市の休屋地区で6日、雪祭り「十004和田湖冬物語」が開幕した。湖畔の会場を花火やイルミネーションが彩る。3月1日まで。
地元のバラ焼きなど青森、秋田の名物をそろえた屋台が並び、夜には地酒のかまくらバーが営業する。週末と祝日には、雪上でバナナボートに乗ったりホーストレッキングを体験したりできる。
乙女の像も期間中、毎日午後5~9時にライトアップされる。初日は風もなく、家族連れなどが穏やかな波音に耳を傾けながら冬限定の光景を楽しんだ。
イベントは17年目。期間中は約20万人の人出でにぎわう。連絡先は十和田湖国立公園協会総合案内所0176(75)2425。

こちらは光太郎作の十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を前面に押し出して下さいました。ありがとうございます。


続いて青森の地元紙、『東奥日報』さんから。 

十和田湖に大輪/冬物語開幕

 真冬の十和田湖を幻想的な光が包む「十和無題田湖冬物語」が6日、十和田市の十和田湖畔休屋地区の特設会場で開幕した。今年もメーンイベントの冬花火約200発が打ち上げられ、湖畔の夜空を鮮やかに彩った。

【写真説明】十和田湖畔の冬空を鮮やかに染めた花火=6日午後8時すぎ


さらに、『朝日新聞』さんのデジタル版。35秒の動画付きですが、会員限定で視聴可です。 

「十和田湖冬物語」が開幕 巨大雪像や冬の花火

 冬の十和田湖に観光客を呼び込もうという「十和田湖冬物語2015」が6日始まった。3月1日までの間、十和田湖畔休屋地区の特設会場では、巨大雪像やかまくらバー、乙女の像のライトアップが行われるほか、連日午後8時からは冬花火も打ち上げられる。

今年の巨大雪像は「ねぶたとなまはげ」で、青森・秋田両県を代表するイベントがテーマ。毎年の人気となっている「酒かまくら・かまくらバー」も今年は全長26メートルとビッグサイズになった。16万球のLEDを使ったイルミネーションや光のトンネルなどもあり、訪れた観光客たちは寒さも忘れ、幻想的な光景を楽しんでいた。

「冬物語」は今年で17回目。前身となる「冬紀行」から数えると26回目になるという。イベントの開催時間は平日が午後3時から同9時まで、土日祝日は午前11時から午後9時までとなる。

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ぜひ多くの皆さんに足を運んでいただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月9日

昭和16年(1941)の今日、翻訳家の菊池重三郎に葉書を送りました。

 御著「バンビの歌」ありがたくいただきました。御本をおくつて下さつた事をほんとに忝く存じました、いつもあなたがよい仕事をして居られるのに敬意を表します、小生はまが此の本をよんだ事がありません、それ故これを繙くたのしさを思つて非常に愉快です、
 略儀ながら御礼申述べます、

菊池重三郎は「チップス先生さようなら」などの翻訳で有名です。「バンビの歌」はオーストリアの作家、フェーリクス・ザルテン が大正12年(1923)に著したもの。ディズニーのアニメ映画「バンビ」(昭和17年=1942)の原作です。

当方、この記事を書く上で、「バンビ」が戦時中の公開だったと初めて知りました。日米の国力の違いがまざまざと表されていますね。どんなに「大和魂」を振りかざしても、勝てるわけがありません。

先週金曜日、過日ご紹介した「十和田湖冬物語2015」が開幕しました

地元紙、『デーリー東北』さんの記事から 

銀世界彩る光の競演 「十和田湖冬物語」開幕

デーリー東北新聞社 2月7日(土)004

 光の競演が銀世界を幻想的に彩る「十和田湖冬物語2015」が6日、十和田市の湖畔休屋特設会場で開幕した。雪像などが闇に浮かび上がる会場で、大輪の花火が夜空を焦がし、観光客を楽しませた。3月1日まで。

会場では、陸上自衛隊八戸駐屯地が制作した高さ8メートル、幅23・4メートル、奥行き14・3メートルの巨大雪像「ねぶたとなまはげ」が、大迫力で来場者を“お出迎え”。光のゲートやスノーランプが周囲を優しく照らした。

観光客は「ゆきあかり横丁(よこちょう)」で青森、秋田両県のグルメを味わったり、かまくらバーや足湯でくつろいだり、思い思いに祭り気分に浸っていた。

期間中は毎日午後8時から約10分間、花火が打ち上げられる。湖畔を象徴する乙女の像もライトアップされる。


また、青森放送さんからの配信で、日本テレビ系列のCS放送「日テレNEWS24」で取り上げられたようです。 

雪像に明かりともる「十和田湖冬物語」開幕

2月7日(土)13時7分配信

 冬の十和田湖を彩るイベント十和田湖冬物語が青森県十和田市で6日夜、始まった。

今年で17回目となる十和田湖冬物語は休屋地区を会場に6日、始まった。開会式では青森ねぶたと秋田のなまはげを描いた高さ8メートル、幅23メートルの大型雪像に明かりがともされた。会場には光のトンネルや色とりどりのイルミネーションが飾られ、幻想的な雰囲気を演出している。ステージでは津軽三味線やねぶたばやしが演奏され開幕を盛り上げた。そして200発の花火が凍(い)てつく夜空に大輪の花を咲かせ、訪れた観光客を魅了していた。

十和田湖冬物語は来月1日まで開かれる。

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ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月8日

昭和31年(1956)の今日、終焉の地となった中野のアトリエで、指圧の施療を受けました。

当日の日記です。

午后内田文子さん指圧の女性同伴くる、指圧を受ける、

また、2月13日の日記には、

午后内田文子さん指圧の人栗田夏子さん同道くる、指圧を受ける、来週月曜に又くる由、次から一度足とも300円とのこと、

さらに余白のメモにも、

指圧家世田谷区北沢4-487 青木方 栗田夏子氏 電(32)2541(青木) 31年二月十三日 二度目施療 日曜日毎、一回足共300円の由、 

との記述があります。

一昨日の『産経新聞』さんに、以下の記事が載りました。 

【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】吉本隆明 政治に流されない感受性

■東日本国際大教授・先崎彰容

 昭和43年のことである。

 一冊の書物が世間を震撼(しんかん)させた。

 吉本隆明『共同幻想論』である。国家の成りたちの起源を『古事記』と『遠野物語』を徹底的に読むことで明らかにしたこの書は、熱狂的な歓迎を受けた。たしかに難解である、でも読まざるをえない、理解できなくても読んだと言わざるをえない、そんな雰囲気が学生を中心に漂っていたのだった。

 だが忘れてはいけない、吉本隆明はそれ以前、まずは「詩人」として文壇に現れたことを。高村光太郎について、言語にとって美とは何かについて考えると同時に、共同体とは何か、私たちにとって国家とは何かが問われた。こうして『共同幻想論』は世にでたのである。

 これらの問題意識は、一点から始まっている。それは戦争の「あの瞬間」からである。戦争体験、これが吉本を詩人にし、かつまた国家を問い続けることを強いたのである。

 たとえば戦争中、少年吉本は、自分の全てを動員して今回の戦争とは何かを考えつづけていた。結論は出た、今回の戦争は正しいものであり、自分はそのために死ぬべきであると思った。

 だが敗戦のあの日以来、世間はガラリと変わってしまう。戦争は誤りであり悪であり間違っていたというのだ。だとすれば、あの時自分の全てを賭けて出した結論は不正解だったことになる。どれだけ真剣に真面目に出した結論であっても、人間は間違う可能性があるのだ。

 8月15日を境に、世間の価値観は百八十度転換した。にもかかわらず、人びとは何事もなかったかのように生きているではないか。戦後に配給された価値観になんら疑いをもたず飛びつき生きている。この事実を吉本は理解できなかった。昨日まで骨の髄まで正しいと思っていたことが崩壊する。なのに、人はなぜ傷つかないのか、つまずかないのか。

 激しい人間不信が、吉本を襲ってきた。社会全体は嘘で塗り固められている。しかも自分もまた、いくら真剣に考えてもその嘘にだまされてしまう。私たちはなんとつまらない存在なのだ-だから吉本は、人間を生への根源的違和感を抱えたもの、こう定義した。もっと分かりやすく言おう、つまずいて生きている不器用な人間にとって、人生は、吐き気を感じるような面倒くさい営みなのだ。

 だから吉本は詩を書いた。言葉を紡ぐことで、どうにかして世間に流されないようにしたかった。戦後民主主義はもちろん、政治的な自由を絶叫するスターリン的マルクス主義も、私は絶対に信じない。なぜなら彼らは、繊細な個人の心を全て政治運動にささげよ、こう言ってくるからだ。

 なぜ彼らはそんなに政治が好きなのか。スローガンに流されるのか。言葉が政治に敗れていることに気づかないのか。

 ある日、吹く風に顔を上げ春の到来を知り、生きようと思う。そんな感受性を棄(す)ててまで、政治活動にささげる自由を私は信じない-「元個人(げんこじん)とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうかとか政治的な立場など一切関係ない。生まれや育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を、自分にとって本当だとする以外にない」(『「反原発」異論』)。

 この感受性に注目すべきだ。

 小林秀雄と江藤淳さらには福田恆存(つねあり)、そう、わが国で批評家になるための必要条件は、この繊細で弾力ある感性の系譜にあった。政治的な左右は、批評家にとって重要ではない。批評家になったつもりで一家をなせば、そこにまた他者との比較、批判、排除がおきている。党派をなして、人を罵(ののし)る。これはもう立派な政治ではないか。

 感性とは不断の自己点検、自分が政治的になることへの警戒である。晩年まで主張した吉本の反原発批判も、こうした感性から読まれるべきなのである。


 次回「高坂正堯(まさたか)」は3月5日に掲載します。


 ■知るための3冊

 ▼『共同幻想論』(角川ソフィア文庫) 刊行当時、熱狂的な支持をもって迎えられたこの書は、一方で難解であることでも知られる。吉本が「詩人」として出発したことを念頭に序文を精読すれば、この書の問題意識が見えてくるはずだ。
 ▼『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫) 吉本が詩人として出発したことは、くれぐれも忘れてはならない。「エリアンの手記と詩」「固有時との対話」「転位のための十篇」など初期吉本を語るうえで欠かせない詩を全て収める。
 ▼『「反原発」異論』(論創社) 東日本大震災以前から、吉本は一貫して反核運動に批判的な立場をとり物議をかもした。本書は震災直後からのインタビュー記事などを含む、最晩年の遺著的著作。


【プロフィル】吉本隆明
 よしもと・たかあき 大正13(1924)年、東京生まれ。東京工業大卒業。工場勤務のかたわら私家版の詩集などを発表し、昭和30年代に本格的に評論活動を開始。既成左翼を批判しつつ、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』など独自の思索を発表、全共闘世代から熱烈な支持を得る。バブル期には大衆消費社会を肯定して注目された。平成24年、死去。


【プロフィル】先崎彰容
 せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。


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吉本氏が亡くなってもうすぐ3年。新たに全集の刊行も始まり、このところ、「結局、吉本とは何だったのか」という検証が活発になってきました。NHKさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」で取り上げられたりもしています。

その思想的源流の一つとなった、戦時中の光太郎についての検証。吉本を考える際に併せて考えていただきたい問題だと思いますし、吉本が出し切れなかった答えは、後の我々に託されたのだと考えたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月7日004

大正15年(1926)の今日、詩「象の銀行」を執筆しました。

   象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツバンク)にちやりんと入れる。

時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ、
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。

印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


明治39年(1906)から翌年にかけての、ニューヨーク留学中の記憶を元にした詩です。のちのロンドンやパリではそういうこともなかったようですが、最初に滞在したニューヨークでは、かなりあからさまな人種差別にあった光太郎、同じアジア産の動物園の象に、自らの姿を仮託しています。

以前にも書きましたが、この「象の銀行」、光太郎の詩の中では比較的有名な一篇であるにもかかわらず、初出誌が不明です。昭和4年(1929)に改造社から刊行された、いわゆる「円本」の「現代日本文学全集」第37篇『現代日本詩集/現代日本漢詩集』に収められていますが、それ以前にどこかの雑誌などに発表されているはずです。しかし、どこに発表されたのかが判っていません。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

新刊、といっても昨年12月の刊行です。
株式会社金曜日刊 発売日 2014/12/11 著者:  辺見庸・佐高信  定価:  1500円+税

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版元サイトより

「人間はここまでおとしめられ、見棄てられ、軽蔑すべき存在でなければならないのか」――辺見庸

侵略という歴史の無化。軍事国家の爆走と迫りくる戦争。人間が侮辱される社会・・・。二人の思索者が日本ファシズムの精神を遡り、未来の破局を透視。誰かが今、しきりに世界を根こそぎ壊している。日本では平和憲法を破棄しようとする者が大手を振っている。
喉元に匕首を突きつけて私たちは互いに問うた。なぜなのだ?あなたならどうする?呻きにも似た、さしあたりの答えが本書である。

目次
第1章 戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ
コンピュータ化と人間身体/資本と安倍ファシズム/もはや「どつきあい」は避けられない/スムーズに消してゆく装置/サブスタンスはあったのか/死ぬ気でやるのか

第2章 「心」と言い出す知識人とファシズムの到来
ジャーナリストのパッション/ジャーナリストとは、ゆすり、たかり、強盗/「心」と「美しい国」と同じ/どちらにも展望はない/ファシズムの情動的基盤

第3章 「根生い」のファシストに、個として闘えるか?
知性の劣化/訴えられる覚悟/共産党も巻き込んだ「祖国防衛論争」/なかったふりをするな/「禁中」と天皇利用主義者/決断を迫られる時がくる

 
第4章 日本浪曼派の復活とファシズムの源流
老いと夜/日本浪漫派の血脈/慰安婦問題を身体的なこととしてとらえる/日本思想史の中の免罪の歴史/実時間の表現

第5章 ジャーナリズムと恥
クーデター、三島由紀夫と安倍晋三/偽なるものの力能/書くことと自己嫌悪/特定秘密保護法とジャーナリズムの恥

第6章 とるに足らない者の反逆
魯迅のアナキズム/中国という圧倒的事実/とるに足らないものからの発想/絶望の深みから

第7章 歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか?
これから何が起きないかはわかる/歴史の転覆/否定的思惟がなくなった/徹底的な抵抗の弾け方/権力こそが非合法

第8章 絶望という抵抗
真実の不確定性、記憶のうごめき/自己申告する歴史と、見られた歴史/年寄りが鉄パイプを持って突撃する/身体を担保した抵抗

ジャーナリスト・辺見庸氏と、評論家・佐高信氏の対談集です。元々は雑誌『週刊金曜日』の連載でしたが、さらにそれをふくらませたものです。ともに左派の論客として知られるお二人だけに、今をときめく人々をバッサバッサと斬りまくっています。

斬られている主な人々は以下の通り。敬称は略します。

まず、安倍晋三、麻生太郎、百田尚樹、籾井勝人、曾野綾子、田母神俊雄、長谷川三千子、小松一郎といった右寄り(極右?)の人々。それでいて、元産経新聞社長の住田良能などには高い評価。そうかと思えば、御厨貴、池上彰、姜尚中、古舘伊知郎、五木寛之、吉本隆明、大江健三郎といった人々もバッサバッサ。そういう意味ではバランスは取れています。

その対象は歴史的な人々にも及び、保田與重郎、石原莞爾、三島由紀夫、渡辺一夫、唐牛健太郎、斎藤茂吉らもメッタ斬りです。

光太郎も俎上に登っていますが、好意的に扱われています。

佐高 藤沢周平を思い出しました。一見すると穏やかな人ですが、珍しく講演で、同郷の歌人である斎藤茂吉を痛罵しているんです。その際、斎藤茂吉に高村光太郎を対置している。高村光太郎は戦中に戦争協力詩を書いたことを自己否定し、戦後しばらく花巻に隠棲する。それにくらべて斎藤茂吉は何の反省もしていない、と。(略)自己批判というものがなかった戦後日本の風景の中では、高村光太郎の自己否定には胸を打つものがありますよね。
辺見 そうですね。吉本(隆明)さんも高村光太郎の自己否定から出発しているところがあると思います。光太郎の反省の深さはおっしゃるとおり、「個」として過ちを引きうけている点でこの国では例外的ではないでしょうか。

ただし、おさえるところはきちんとおさえています。

辺見 でもぼくは、高村が自己否定に至るまでに相当の戦争協力詩を書いていることを決して見逃したくないんです。高村にかぎらず、たいていの詩人や作家がそうなんですが、戦争詩となると呆れるほど下手になるのですよ。なぜか。一つは、結局プロパガンダにすぎないからです。もう一つは、個人として十五年戦争の根っこと未来を見通す知性がなかったからです。それは日本の誰一人としてなかったと思う。これは無惨なことですよ。

逆に光太郎の戦争詩だけをことさらに取り上げて、「これぞ大和魂」などともちあげる愚昧なヘイトスピーカー、ヘイト出版社がありますが、そういう輩にこそ、この書を読んでほしいですね。

しかし、惜しむらくは出版のスピードが、世の中のスピードに追いつかないという点。昨年暮れの大義なき抜き打ち解散総選挙や、昨今のイスラム国の問題などはこの出版に間に合っていません。そういう意味でも続編を期待します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月6日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術週報』に、智恵子のエッセイ「女流作家の美術観」が掲載されました。

 批評は要らない、是非の批評はすべての004専門家にある、たゞ私には、なくて叶はぬものとしてある、この芸術を、考へるさへ、身にあまる幸福を感じられる。
 さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。
 ロダンはあらゆる時代の魂の積畳であつて、又海山の自然の反映であるとおもはれる。暁のやうなその作品は、暗い魂に、鋭い光りと優しい温味とを、ほのぼのと投げかける。ロダンをおもふことは私の、栄光である。セザンヌもまた、親しく自分のいまの生活に、糧となつて輝いてゐる、たくさんの星のなかで、この二人をかぞへて、今は、うらみとはしまい、その一つも、どれ程大きなことであらう。古くから、又それぞれの世に、光りは輝くのだ。私は愛念をもつて、それ等を仰ぎみて、よろこびにあふれる。
 そして近くこの日本の芸術にも、私はそれ等の美しい魂を見ることの出来る幸をものべておかう。

明らかに光太郎の影響が見とれる文章です。

毎週水曜日の夜に、NHK総合で放映されている「歴史秘話ヒストリア」。昨夜の放映終了後、公式サイトが更新され、来週の予定が出ました。以前にも書きましたが、いよいよ光太郎智恵子をメインに取り上げる「ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されます。 

歴史秘話ヒストリア第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」

NHK総合 2015年 2月11日(水)22:00~22:43   再放送 2月18日(水)0:40~1:25

彫刻家・高村光太郎と画家を目指す妻・智恵子。二人は貧しさにも負けず、芸術への夢を追い求めるが、その行く手には、あまりにも悲しく切ない運命が待っていた…。命をかけて貫き通した二人の愛が生み出した奇跡とは?詩集「智恵子抄」で知られる、日本史上類を見ない究極の愛の伝説をお届けする。

今からおよそ100年前の1914年(大正3年)12月、彫刻家、詩人の高村光太郎と、画家の卵である長沼智恵子が、実験的な同居生活をスタートさせた。婚姻届を出さず、夫婦別姓。家事を分担し、対等な人間同士として、それぞれの創作に打ち込んだ。絶えざる戦争のわずかな合間、自由な文化が花開いた大正という時代を追い風にした「愛の試み」だった。光太郎と智恵子は貧しさにも負けず、芸術への夢を追い求めるが、その行く手には、あまりにも悲しく切ない運命が待っていた。命を懸けて貫き通した二人の愛が生み出した奇跡とは何か。バレンタインデーを前に、詩集「智恵子抄」で知られる、日本史上類を見ない究極の愛の物語を紹介する。

出演 前田亜季 鈴木一真
キャスター 渡邊あゆみ


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昨夜の放送の最後に、次週予告が25秒間放映されました。公式サイトでも視聴可能です。

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それが始まった瞬間、テレビ画面を指さして叫んでしまいました。「俺のじゃん!」と。

何が、と言うと、これがです。

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昨夏、岩手花巻の㈶高村光太郎記念会様を通じ、当方に協力要請があり、ここに写っている『智恵子抄』の初版をお貸ししました。20数年前に神田の田村書店さんで購入したものです。それがいきなり写ったので、驚いた次第です。

ちなみに画面左の方、扉のページが開けてありますが、影になっている左下の部分に、元の所蔵者の方の小さな蔵書印が押してあります。それが何ともうまく隠してあり、妙に感心しました。

ところで、昨日発行のNHKさんの番組ガイド誌『NHKウイークリーステラ』にも、写真入りで紹介が載っています。一般の書店で販売されています。

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再放送が17日(火)となっていますが、正しくは日付が変わって18日(水)になった未明です。テレビ番組の時間設定は、25時とか26時とカウントし、翌日の未明までは前日からのつながりで表記する習慣になっています。

「再現ドラマなどを交え、2人の足跡をたどる。」とありますが、光太郎役は鈴木一真さん、智恵子役は前田亜季さんが演じられます。また、濵口奈菜さんという方も出演されるそうで、彼女のブログにその旨の記述があります。察するに、智恵子の姪で、看護師として智恵子を看取った長沼(のち宮崎)春子あたりの役ではないかと思われます。違ったらすみません。

以前、ディレクター氏から戴いたスケジュール表によれば、九十九里、犬吠埼、東京、二本松、花巻、そして十和田湖と、東日本縦断のロケが敢行されていますし、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生や、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた作家の津村節子氏のインタビューも流れるはずです。

ご期待下さい!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月5日

平成12年(2000)の今日、光村図書から中学校3年生用の国語の教科書『国語3』が発行されました。

平成9年(1997)から使用されていたものの改版で、平成12年度用です。国語学者・宮地裕氏の随筆「言葉はどこからどこへ」が掲載されました。これは、昭和22年(1947)の夏、学生だった宮地氏が、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れた際の思い出を根幹としています。また、グラビアページには、関連してブロンズの「手」の写真も載りました。

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宮地氏の訪問は、「言葉はどこからどこへ」に、日付が明記されていませんが、8月19日でした。当日の光太郎日記は以下の通り。

花巻より青年二人(東京と黒沢尻の人)来る。宮澤清六さんより委托のトマト一個、金瓜一個、胡瓜、せんべい等もらふ。二時過ぎまで談話。辞去。宮澤賢治研究者。

宮地氏の名前は書かれていませんが、昭和22年の夏、さらに光太郎への手みやげ(紹介状代わりに宮澤清六が持たせてくれたそうです)の品目から、この日と断定できました。

「言葉はどこからどこへ」、平成14年(2002)から17年(2005)の教科書では掲載されませんでしたが、18年(2006)度版から「胸の底の人と言葉たち」と解題されて、1年生の教科書に復活し、23年(2011)まで載っていました。

山口県から企画展情報です。

昨年4月から7月に、東京日本橋の三井記念美術館さんで開催された企画展で、その後、10月から12月に静岡の佐野美術館さんを経て、三館めの巡回になります。さらに6月から富山県水墨美術館さんに廻るそうです。

※ 2015/5/2 追記 富山県水墨美術館さんの前に、郡山市立美術館さんが入りました。

光雲の木彫2点「法師狸」、「西王母」が展示されます。 

特別展 超絶技巧!明治工芸の粋―これぞ、明治のクールジャパン!!

2015年2月21日(土)〜4月12日(日) 山口県立美術館 山口市亀山町3-1
[開館時間] 9:00〜17:00 (入館は16:30まで) [休館日] 月曜日(ただし3月2日、4月6日は開館)
[観覧料] 一般1200(1000)円/学生・シニア1000(800)円
◎コレクション展セット券〈当日券のみ〉 一般1300(1100)円/学生1100(900)円

※シニアは70歳以上の方、( )内は前売りおよび20名以上の団体料金。※18歳以下および高等学校、中等教育学校、特別支援学校に在籍の方等は無料。
※前売り券はローソンチケット(Lコード66380)、セブンチケットおよび県内各プレイガイドでお求めください。
[主催] 山口県立美術館、朝日新聞社、yab山口朝日放送 [協力] 清水三年坂美術館 [監修] 山下裕二(明治学院大学教授)
[企画協力] 広瀬麻美(浅野研究所) [特別協力] 山口県職業能力開発協会、エフエム山口
[協賛] 公益財団法人やまぐち産業振興財団、一般社団法人山口県発明協会

思わず息をのむ、細密さ。目を疑うような、リアリティ。
近年、メディアでも盛んに取り上げられ、注目を集めている明治の工芸。激動の時代に花開いた、精緻きわまりない超絶技巧の数々は、眩暈(めまい)がするような衝撃をもって私たちを魅了します。しかしその多くは当時輸出用として制作されたため、海外で高い評価を得てきた一方、日本国内において全貌を目にする機会はこれまでほとんどありませんでした。忘れられかけた明治工芸の魅力を伝えるべく、長年をかけて今や質・量ともに世界随一と評されるコレクションを築き上げたのが、村田理如(まさゆき)氏です。本展では、村田氏の収集による京都・清水三年坂(きよみずさんねんざか)美術館の所蔵品から厳選した、七宝(しっぽう)、金工、漆工、牙彫(げちょう)など、多彩なジャンルにわたる作品を一堂に公開します。160点以上にのぼる優品を通して、明治の匠たちが魂を込めた、精密で華麗な明治工芸の粋(すい)をお楽しみください。

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関連行事

入門講座 初めての明治工芸
本展の担当学芸員による入門講座。
作品にまつわる背景と見どころを交えながら、展覧会と明治工芸の魅力をご紹介します。
[日時]3月7日(土) 14:00〜15:00
[講師]岡本麻美(山口県立美術館 専門学芸員)
[会場]山口県立美術館 講座室
[定員]80名(当日先着順)、聴講無料

トークイベント「日本美術応援団 明治工芸を応援する! in 山口」
「日本美術応援団」団長を務める本展監修者・山下先生と、NHK『日曜美術館』の司会者としてもおなじみの新・応援団員、井浦新氏。
一昨年の「五百羅漢図展」に引き続き、日本美術を応援する二人が明治工芸の魅力をあつく語ります。
[ゲスト]井浦 新氏(俳優、クリエーター)、山下裕二氏(本展監修者、明治学院大学教授)
[日時]3月21日(土・祝) 14:00〜15:30 
[会場]山口県教育会館 大ホール 
[定員]300名(先着順・要事前申込) 
[料金]トークイベントのみ:500円 
◎セット料金(トークイベント+展覧会観覧券):一般1500円/学生・シニア1300円
※18歳以下および高等学校、中等教育学校、特別支援学校に在籍の方等は無料。
【お申し込み】「明治工芸展トークイベント参加希望」として、
①代表者氏名 ②年齢 ③住所 ④電話番号 ⑤参加人数を明記の上、下記の申込フォームより、もしくは往復はがきにて、美術館までお申し込みください。当館より折り返しご連絡いたします。


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お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月4日

昭和22年(1947)の今日、明治末の新詩社時代からの親友だった作家、水野葉舟死去の報に接しました。

当日の日記から。

郵便物の中に電報あり。水野葉舟死去と見ゆ。(ヨウシウシス」シキ五ヒヒミヅノ)とあり電文脱字あれど死去確かなり。驚く外なし。肺か癌か。ゆきたけれど今はゆきがたし。

葉舟の死は2月2日。死因は肋膜炎でした。

テレビ放映情報です。 

にっぽん百名山「安達太良山」

NHKBSプレミアム 2015年2月9日(月)  19時30分~20時00分 
再放送 2月15日(日)  6時30分~7時/2月19日(木) 11 時~11 時30分

番組内容
福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉からブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。智恵子抄のエピソードや登山家の田部井淳子氏の誕生秘話も紹介。

出演 林千明
語り 山崎岳彦 吉川未来

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単に安達太良山の紹介だけでなく、「智恵子抄」がらみの内容になるというのがいいですね。


ちなみに同じ2/9の夕方には、再放送ですが、磐梯山の放映もあります。 

にっぽん百名山「磐梯山」

NHKBSプレミアム 2015年2月9日(月)  16時00分~16時30分

山旅へようこそ! 今回は福島県の磐梯山。ひとつの山で、ふたつの顔を持つ山。南側は、紅葉と溶岩が織り成す穏やかな光景。黒い岩肌を真っ赤な紅葉が彩る姿は、まるで日本庭園のよう。北側は、明治の噴火がもたらした荒々しい姿。切り立つ絶壁。噴火口の淵(ふち)、幅10mほどの山道を歩けば、両脇に山々を望む絶景が続く。磐梯山ならではの、ふたつの顔を存分に楽しむ山旅。

語り 鈴木麻里子

こちらは内容説明で「智恵子抄」の文字がありませんが、磐梯山といえば、昭和8年(1933)、統合失調症の昂進した智恵子を連れた光太郎が敢行した福島栃木などの温泉巡りの中で、その山麓を逍遥しています。


のちに昭和13年(1938)になって、その時の思い出を詩「山麓の二人」に記しました。

     山麓の二人004

二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡いて波うち
芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる途無き魂との別離
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむ此の天地と一つになつた


画像は磐梯山の後で訪れた栃木の塩原でのもの。現在確認されている智恵子最後の写真です。


さて、「にっぽん百名山」。安達太良山と磐梯山、ぜひ併せてご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月3日

昭和20年(1945)の今日、雑誌『美術』に談話筆記「回想録 二」が掲載されました。

前月の同じ『美術』に「一」が載り、二回で完結しています。聞き手は美術評論家の今泉篤男。筑摩書房『高村光太郎全集』の第十巻に掲載されていますが、「一」「二」併せて約50ページにもなる長大な談話筆記です。

主に幼少期から青年期の回想が主ですが、この時期にこれだけ長い回想が語られていることは、非常に興味深く感じます。もしかすると、長期化する太平洋戦争、次第に激しくなる空襲などにより、死の覚悟があったのかも知れません。

東京は杉並区からの情報です。 

郷土史講座2月例会 「高村光太郎と智恵子 愛の詩を読みましょう」

【開  催  日】 2015年2月15日(日) 午後1時30分から午後3時30分
【開催場所】  阿佐谷地域区民センター 第4・5会議室  阿佐谷南1丁目47番17号
                            TEL 03-3314-7211(地域区民センター) 03-3314-7435(地域活動係) 
【講        師】 元都立武蔵・三鷹高校教諭 上島光正 
【対        象】 区内在住の方
【定        員】 80名(先着順)
【参  加  費】 500円
【申  込  み】 当日、直接会場へお越しください。
【問合せ先】  杉並郷土史会 会長 新村康敏 電話03-3397-0908 

杉並区といえば、「阿佐ヶ谷文士村」と言われ、太宰治をはじめ、数多の文人の足跡が残っています。光太郎は昭和27年(1952)から、亡くなる同31年(1956)まで、お隣中野区に住んでいました。その間、杉並区内で直接関わる場所は、浴風園という老人病院。こちらで正式に結核の診断を受けています。その他はちょっとすぐには思い当たりません。

さて、こういう形でも、光太郎智恵子をどんどん取り上げていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月2日

昭和28年(1953)の今日、中央公論社画廊で「高村智恵子紙絵展覧会」が始まりました。

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東京では、光太郎帰京前の昭和26年(1951)に開催されたのに続き、2度目でした。

北海道函館からのイベント情報です。 

教科書の中の名作 朗読会

日時   平成27年2月11日(祝・水) 13時30分~(開場:13時)
場所   函館市中央図書館 視聴覚ホール (五稜郭町26-1)
内容
○プログラム
   * 一房のぶどう  有島武朗作
   * 雨ニモマケズ(群読)  宮沢賢治作
   * わにのおじいさんのたからもの   かわさきひろし作
   * 杜子春   芥川龍之介作
   * 道程・詩   高村光太郎作
   * ボッコちゃん   星新一作
   * 蝿   横光利一作
   * さんちき   吉橋通夫作
   * 狂言 ぶす
※ 入場無料,申込不要 直接会場にお越しください。
主催 マシュマロ朗読研究会「綾」(絵本読み語りグループ マシュマロ)

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光太郎作品、こうした機会でどんどん取り上げていただきたいものです。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月1日

明治45年(1912)の今日、雑誌『青鞜』第2巻第2号が発行されました。

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前月号から翌月号にかけ、智恵子が描いたスズランをあしらった表紙絵が使われました。

智恵子が描いた『青鞜』の表紙絵というと、前年の創刊号などに使われたこちらが有名ですが、このスズランのデザインのものも、なかなかいいと思います。

追記 この植物はスズランではなくアマドコロでした。

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智恵子が表紙を担当したのはこの2種類だけでした。のちの号では尾竹紅吉、そして平塚らいてうの「若いツバメ」、奥村博史などが担当することになります。

1/28、今週水曜日の『朝日新聞』さんの千葉版に、以下の記事が載りました。 

千葉)福島の詩を希望の歌に 松戸の市民合唱団

 松戸市を拠点に活動する「東葛合唱団はるかぜ」が、6月の25周年記念コンサートで、東日本大震災と原発事故で大きな被害を受けた福島県の子どもらの詩に曲を付けた音楽構成作品「僕らの出番がきっとくる!」を歌う。1月から記念コンサートに向けた練習を始めた団員たちは、「子どもや大人の心が響き合うやさしい曲で、南相馬との架け橋になるコンサートにしたい」と意気込んでいる。

 「はるかぜ」は1989年に発足。2年に1回コンサートを開いており、12回目となる今回を25周年記念と位置づける。

 東日本大震災後、合唱団は2012年3月から南相馬市の仮設住宅を訪れ、歌による交流を続けている。訪問は10回を超え、交流が深まるにつれ心の中を打ち明けてくれる人も増えてきた。母を一人仮設住宅に残し南相馬を離れて申し訳ないとわびる、娘からの手紙を見せてくれたお年寄りもいる。「はるかぜ」団長の太田幸子さん(68)は「まだまだたいへんなのに、私たちが逆に、福島の人たちに生きる力強さを教えられることも多い」と話す。

 そんな団員たちが、14年4月に紹介されたのが、福島県の子どもたちが17字の詩に家族や地域で経験したさまざまなこと、その時の思いなどを表現した文集。同県教育委員会が02年度から取り組んでいる「十七字のふれあい事業」で、子どもが五・七・五で作った詩に、家族や地域の大人らが返歌したものが一つの作品になる。手にした南相馬など相双(そうそう)地域の10~13年度の文集には、亡くなった家族や友人、離れて暮らす古里への思い、悲しみの中で希望を見つけてなんとか前を向こうとする気持ちなどを表現した作品が詰まっていた。

 家の跡涙をふいて手をつなぐ(中学3年) 大津波心の痛みも連れていけ(祖父)
 ほうしゃのうひなん先から祖母思う(小学5年) 大震災離れてわかる家族愛(祖母)
 十年後僕らの出番がきっとくる(小学4年) その笑顔明るい未来の道開く(母)

 記念コンサートでは団員たちが選んだ18作品を取り上げる。詩には合唱団の指揮者で作曲家の安藤由布樹さん(53)=東京都=が曲を付けた。

 1月18日、明市民センターでの第1回練習には団員や、作品を歌うために集まった市民ら約80人が参加。練習中、安藤さんは、高村光太郎の詩集「智恵子抄」を例に挙げ、団員たちに「古里の福島を自慢した智恵子がもしかしたら立ち、美しいと感じていたかも知れない場所に、今は放射線量を知らせるメーターがある。その思いを込めて歌おう」と呼びかけた。

 記念コンサートは6月7日、森のホール21(松戸市千駄堀)。合唱の参加者も募集中。問い合わせは太田さん(047・384・4759)。(小渕明洋)

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もうあと1ヶ月ほどで、「あの日」から4年になります。しかし、進まぬ復興、反比例して風化する記憶、被災地とそれ以外の温度差、逆行する政策……。そうした中で、こういう取り組みには頭が下がります。

同じ1/28の『朝日新聞』さんの、全国版社会面には、やはり福島の被災者の方々が作った詩について、以下の記事が載りました。

吉永小百合さんが朗読 原発被災者らの詩をCDに

 原爆投下と終戦の年に生まれ、広島・長崎004の原爆詩の朗読を続けてきた俳優の吉永小百合さん(69)が福島第一原発事故の被災者らの詩を朗読し、CDに収録した。「第二楽章 福島への思い」と題し、東日本大震災から4年になる3月11日に発売される。吉永さんは「今も故郷に戻れない福島の方たちの思いを私たちみんなで受け止め、寄り添えれば」と願っている。

 吉永さんは1986年、戦争や原爆の過ちを二度と起こさないために原爆詩の朗読活動を始め、97年に「第二楽章」(広島編)、99年に「第二楽章 長崎から」のCDを出した。2006年には「第二楽章 沖縄から」も作製。「第二楽章」の名には「戦後50年を経た今は第一楽章ではなく第二楽章。声高ではなく、柔らかい口調で語り継いでいきたい」との思いがこもる。

 3・11以降は、福島での被災後にツイッターで発信し続けた和合亮一さんや福島県富岡町を追われた佐藤紫華子(しげこ)さんらの詩も朗読。広島と長崎、沖縄、そして福島で起きたことを「忘れない、風化させない、なかったことにしない」とする吉永さんは、福島の人々の詩を「CDに」との思いを募らせていた。

 吉永さんはCD収録前の昨年末、帰還困難区域がある福島県葛尾(かつらお)村を訪れた。今月、東京都内で取材に応じた吉永さんは「一回行ってみないと本当の悲しみが分からないんじゃないかと思って。想像以上のショックでした。もうすぐ4年なのに何も変わってない」と語り、心を痛めていた。

 さらに「今3・11の事故後に思うのは、これだけ小さな国で、地震がいっぱいある風土で、原発というのはやめてほしい、と私は思いますね。人間が安全に暮らしていくためには、もっともっと私たちが工夫しなければいけないと思うんです」と強調した。
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 「第二楽章 福島への思い」の詩は23編。和合さんの詩や和合さんが指導する「詩の寺子屋」の子どもたちの作品など約300の最終候補から吉永さんが選んだ。音楽は尺八演奏家の藤原道山(どうざん)さん(42)に依頼した。CDはJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントから発売。挿絵はスタジオジブリ作品の美術監督を務めた男鹿和雄さん。

 3月10日には東京・千駄ケ谷の津田ホールで「吉永小百合朗読会」を開く。CDつき5千円。公演の問い合わせは日本伝統文化振興財団(03・3222・4155)、チケット予約は0570・08・0089へ。


もしかしたら光太郎がらみ、「智恵子抄」がらみの詩も含まれているかと期待しています。というのも、和合亮一氏が関係されているためです。氏はやはり光太郎ファン的なところがありますので、このブログにもたびたびご登場いただいています。


まあ、そうでなくとも素晴らしい取り組みです。吉永さん、ありがとうございます。

ちなみに3月10日の朗読会のチケットは既に完売しています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月31日

明治43年(1910)の今日、光雲が東京美術学校校長代理を命ぜられました。

正木直彦校長が英国出張ということで、その間の措置でした


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こちらに伺うのは、平成15年(2003)年に「高村光太郎・智恵子展」が開催されて以来ですので、12年ぶりでした。

一昨日は、当方の住む南関東でも朝方に少し雪が積もり、今日は雨です(都心では雪のようですが)。しかし昨日はよく晴れていたので、助かりました。

館内に入って、突きあたりの大きな窓にプリントされた心平の詩「猛烈な天」そのままの青空でした。

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     猛烈な天

 血染めの天の。
 はげしい放射にやられながら。
 飛び上がるやうに自分はここまで歩いてきました。
 帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。

 仮令無頼であるにしても眼玉につながる三千年。
 その突端にこそ自分はたちます。
 半分なきながら立つてゐます。
 

 ぎらつき注ぐ。
 血染めの天。
 三千年の突端の。
 なんたるはげしいしづけさでせう。

さて、「平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎 往復書簡にみる交友」。

タイトルに「往復書簡」とあるように、メインは光太郎と心平の間に交わされた約40通の書簡でした。期間は昭和23年(1948)から同27年(1952)、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に隠棲していた時期のものです。

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展示された光太郎から心平宛の書簡は、全て筑摩書房『高村光太郎全集』第15巻に収録されているもの。心平から光太郎宛の書簡は二玄社から刊行され、のち講談社文芸文庫で再刊された心平の『わが光太郎』に収録されています。

したがって、初めて読むものではないのですが、やはり一通ごとの細かな内容までは暗記していませんでしたし、何よりバラバラに読むのではなく、往復書簡として交互に読むことで、一連のドラマのように感じました。また、やはり活字で読むよりも、自筆の筆跡として読む方がはるかに両者の体温、息づかいといったものが伝わってきます。もっとも、見慣れた光太郎の筆跡はともかく、心平の字は達筆すぎて中々読めませんでした。しかし、パネルに活字で翻刻してあり、助かりました。

ちょっと驚いたのは、心平から光太郎宛の書簡の多くに、光太郎の筆跡で年月日がメモしてあること。ある意味几帳面な光太郎の性格が見て取れます。

自らの戦争責任を恥じて岩手の山中に隠棲する光太郎に、心平は繰り返し帰京を促しています。しかし光太郎は、何やかやと理屈をつけ(時には屁理屈も)、かわしています。最終的には十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、帰京することになるのですが、そこにいたるまでの光太郎の内面がよく読み取れます。読んでいて、涙が出そうになりました(笑)。

その他、両者がお互いのために手がけたりした書籍、雑誌の類、心平の自筆の日記、光太郎の彫刻も並んでいました。

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改めて二人のつながりの深さが実感できました。

その後、常設展を拝見。以前に訪れた時よりも凝った展示になっており、感心しました。

3月22日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月30日

昭和24年(1949)の今日、眞善美社から新日本文学会詩研究会編『近代詩人研究』が刊行されました。

岡本潤が概論を書き、光太郎、藤村、鉄幹、白秋、朔太郎、賢治、啄木ら10人の詩人について、秋山清、小野十三郎らが論じています。光太郎の項は、遠地輝武が執筆しました。

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まずは新刊紹介です。

YAMAKEI CREATIVE SELECTION Frontier Books 山小町 -恋-

やぎた 晴著   山と渓谷社刊   発売日:2014年12月19日   定価 1,900円+税

版元サイトより

雄大な山に抱かれて成長するひとりの女性の姿を描く山岳小説。

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京都在住の保母にして山ガール・佳子と、安曇野出身で現在は東京でサラリーマン生活を始めた春生。ともに思い立って単独行に入った北アルプスで出会い、恋に落ちるというストーリーです。

台風の接近に伴う暴風雨に見舞われ、ハラハラドキドキの展開になります。このあたり、「タイタニック」を髣髴とさせますが、貴族の娘とプータロー、大惨事といったケレン味はなく、あくまで現実にありそうな話です。

また、明記されてはいませんが、昭和40年代が舞台のようで、レトロ感もあふれています。「歌声喫茶」「ラッパズボン」「おさげ髪」etc。

上高地も舞台の一つとなります。そこで、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で上高地に1ヶ月程をともにしたことに、少しだけ触れられています。

ところで驚いたのは、オンデマンド出版であること。デジタル版と紙媒体があり、紙媒体の方は注文を受けてから製本、発送するというシステムになっています。楽譜などは以前からそういう形態で販売されていますが、通常の書籍もこうなってきたか、という感じです。

ところで「上高地」ということでもう1件。005

『山小町―恋―』版元の山と渓谷社刊行の雑誌『山と渓谷』と並ぶ有名な山岳雑誌に『岳人』があります。来月発行の3月号で、「言葉の山旅 山を詠う―上高地・北アルプス編―」という特集が組まれます。

今月号に載った次号予告には、「山を想えば人恋し、人を想えば山を恋し」。山々は時代を問わず人の心をひきつけてやまない。山を詠い、人を詠い、自らの心を詠う。詩人たちが綴る言葉の世界に導かれ、山へ思いを馳せてみませんか。」とあります。

この中で、光太郎智恵子も扱われます。実は、岩手花巻の㈶ 高村光太郎記念会さんを通じ、当方に執筆依頼がありました。光太郎詩文と拙稿とで8ページ程になります。

光太郎智恵子以外には、若山牧水を取り上げるそうです。

発売は2月14日。大きな書店なら店頭に並びますし、アウトドア用品メーカーのモンベルのショップにも並びます。また、ネット通販でも入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月29日

大正5年(1916)の今日、美術評論家の坂井犀水の慰労会に出席、彫刻「ラスキン胸像」を贈りました。

下記は当時の『読売新聞』です。

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「ラスキン胸像」は、ニューヨークで光太郎が師事したガットソン・ボーグラムの模刻です。

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