一昨日、横浜及び都内を歩いておりました。

まず、横浜の日本郵船歴史博物館さん。こちらでは、過日ご紹介した企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」が開催されており、雑誌『海運報国』には光太郎も複数回寄稿していますので、光太郎関連の展示も為されているのではと思って拝見に伺いました。

10年前にもお邪魔し、その際は常設展示のみだったように記憶していましたが、それにしても10年経つか、と、ちょっぴり感慨にひたりました。
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常設展示の一角に、企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」のコーナーという形でしたが、残念ながら、光太郎に関する展示はありませんでした。
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『海運報國』は文芸誌的な要素も含んでいました。このころ日本郵船の嘱託だった内田百閒の随筆をはじめ、船旅の思い出、海にまつわる掌編や、新造船披露航海の感想文など、作家や著名人による寄稿が誌面を飾りました。」という触れ込みだったので、そういうことなら光太郎は外せないだろ、と思っていたのですが……。

とりあげられていた文士等は、日本郵船さんの嘱託だった内田百閒をはじめ、宮城道雄、米川正夫、吉屋信子、岩田豊雄、津田青楓、西条八十、林芙美子、鈴木信太郎、辰野隆、小堀杏奴、深尾須磨子、田中貢太郎。それはそれで興味深く拝見しましたが……。

なぜここに光太郎の名がないのか、次のような理由が考えられます。

① 担当された方が光太郎の名を誌面に見つけたものの、「高村光太郎? 誰、それ? 知らん!」とスルー。
② 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけたものの、「こいつは3流だから」とパス。
③ 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけられなかった。
④ その他。


①、②であってほしくないものです(笑)。最も考えられるのは③かな、と。

ただ、④の可能性もなきにしもあらず。例えば、光太郎、『海運報国』には確認出来ている限り4回寄稿していますが、そのうち3回、「乏しきに対す」(第3巻第7号  昭18=1943 7/15) 、「決戦時生活の基礎倫理」(第4巻第1号  昭19=1944 1/15)、「神裔国民の品性」(第4巻第2号  昭19=1944 2/15)は、コッテコテの大政翼賛文。おそらく最初の寄稿の「海の思出」(第2巻第10号 昭17=1942 10/15)    は、戦争とはほとんど関係ないものの、日本郵船さんの船名を誤記していることなどが無視された原因かも知れません。

光太郎、明治42年(1909)5月、3年余に及ぶ欧米留学を切り上げ、イギリスのテムズ河口から日本郵船さんの「阿波丸」 に乗り込んで、帰国の途に就きました。当時書かれた文章にはちゃんと「阿波丸」と書かれています。ところが、約30年後に書かれた「海の思出」では「松山丸」と書いてしまいました。日本郵船さんには「松山丸」という船舶もありましたが、欧州航路で使われたものではありません。

ちなみに下記は光太郎が乗った「阿波丸」。最近手に入れた古絵葉書です。
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常設展示の方で、この手の昔の航路について、その歴史や背景などが詳しく説明されており、そちらも興味深く拝見いたしました。

上記絵葉書等、7月16日(土)から花巻高村光太郎記念館さんで開催される企画展「光太郎 海を航る」(仮称)で展示予定です。同展、今日付の『広報はなまき』で告知されているかな、と思ったのですが、ありませんでした。何だかなぁ……という感じですが……。また詳細が出ましたらご紹介します。

KIMG6381横浜を後に、都内へ。続いて向かったのは、九段下の昭和館さん。こちらは「昭和10年頃から昭和30年頃までの国民生活上の労苦を伝える実物資料を展示」ということで、主に戦時中のいろいろな品々を全国から寄贈を募り、展示している施設です。ただ、現在は映像、図書のみ寄贈を受け付けているそうです。

時間の都合もあり、展示は拝見しませんで、図書室に向かいました。こちらの図書室、なかなかのものです。開架でもかなりの数の図書がありますし、閉架(書庫)の蔵書数もすごいようです。そして、検索システムが素晴らしい!

特に利用者登録も必要なく、自宅兼事務所のPCからアクセスし、「フリーワード」の項に「高村光太郎」と入力、検索をかけると、目次に光太郎の名が記された資料がダーッと出て来ます。それだけなら他の館でもそうなのですが、こちらのシステムは、おのおのの図書の目次が詳細に表示されるのです。さらに「フリーワード」で入力した「高村光太郎」の文字がハイライト表示で、長い目次の中でもすぐに見つけられます。その意味では国会図書館さんの「デジタルコレクション」とよく似ています。ここまでやってくださると、研究者にとっては「ありがたい」の一言です。
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007ただ、国会図書館さんのそれとは異なり、デジタルデータでそのページを閲覧することは出来ませんので、出向いて閲覧するという訳です。そこで、事前に調べた結果、残念ながら『高村光太郎全集』未収録の光太郎本人の文筆作品等は見つかりませんでしたが、光太郎について書かれた諸家の文章等で未知のものがあり、閲覧、さらにコピーを取って参りました。

中には光太郎の似顔絵が入ったものも。昭和16年(1941)ですから、光太郎59歳。当時の光太郎にしては少し髪が多すぎるようにも思えますが(笑)。

昭和館さん、他にも映像・音響室なども充実しているようですし、通常の展示ももちろん拝見しようと思いますので、また機会を見つけて足を運ぼうと思いました。何かお調べになりたいという方、ぜひ当たってみて下さい。

一昨日は、もう1箇所廻ろうかとも思っていたのですが、またじわりとコロナ感染者数が上がってきましたし、加えて殺人的な暑さ。またの機会に致します。

【折々のことば・光太郎】

夜十時頃水谷八重子、草野心平、松竹の人三人くる、「智恵子抄」の事については再考を求める、十二時過辞去、承諾保留、


昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳

e28cae2a水谷八重子」は初代・水谷八重子。光太郎は遠く大正9年(1920)に、子役時代の水谷が出演した舞台「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ています。その後、友人の田村松魚に送った葉書には「チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよいと抱いてやりたい気のする子でした」と書いています。

智恵子抄」は、光太郎とも交流のあった劇作家・北条秀司の脚本。結局、光太郎生前には舞台化は実現せず、初演は光太郎歿後の昭和32年(1957)でした。光太郎、自分が俳優によって演じられるのに難色を示したようです。光太郎訳は新派の大矢市次郎でした。

北条の「智恵子抄」は、水谷/大矢の後、富司純子さん/故・高島忠夫さん有馬稲子さん/故・高橋昌也さんでも公演がなされました。そして昨秋、「朗読劇 智恵子抄」として、一色采子さん、横内正さんでも。

また後ほど詳しくご紹介しますが、「朗読劇 智恵子抄」は、今秋、再演が決定しました。光太郎役は松村雄基さんだそうです。

ネタがなければ足で探せ、というわけで、一昨日、昨日と、ふらふら出歩いておりました(笑)。

一昨日は、自宅兼事務所隣町の成田市へ。こちらでは、以下の展示が開催中です。

関東の山車人形と成田祇園祭展

期 日 : 2022年6月4日(土)~7月10日(日)
会 場 : 成田市文化芸術センタースカイタウンギャラリー 千葉県成田市花崎町828-11
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

 成田山奥之院の祭禮(成田山祇園会)について、文献では享保6年(1721年)には行われていたとの記載があり、これを起源とすると令和3年(2021年)に300年の節目を迎えました。昨年開催されました「関東の山車人形と成田祇園祭展」は盛況のうちに終了することができ、今年は3年ぶりに開催される成田祇園祭を盛り上げるため、昨年に引き続き、「関東の山車人形と成田祇園祭展」を開催いたします。
 前期(6/4~6/19)はスカイタウンギャラリー4階では歌舞伎をモチーフにした作品に加え、本展にちなんだ浮世絵を、5階では成田祇園祭の歴史を紹介したパネルやミニチュアの山車などの展示を行います。
 後期(6/25~7/10)は4階では関東各地の歴史ある作品と前期に引き続き浮世絵を、5階ではおとぎ話の主人公である桃太郎など魅力あふれる作品と前期に引き続き成田祇園祭に関する展示を行います。
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成田市で開催される山車祭り「成田祇園祭(成田山祇園会)」に合わせ、成田以外にも、関東各地の山車祭りで山車の上に飾られる人形などを借りてきて展示するものです。昨年も開催されていたそうですが、存じませんでした。
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このうち、8月上旬に行われる群馬県桐生市の「桐生祇園祭」では、松本喜三郎の生人形(いきにんぎょう)が使われているということで、その展示もあり、「これは見てみたい」と思って参上しました。
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4月に神奈川の平塚市美術館さんで開催された「市制90周年記念 リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」で、光太郎の父・光雲の木彫も出るというので拝見に行きましたが、その際、喜三郎の生人形も展示されていて、その迫力に圧倒されました。喜三郎は光雲も絶賛した生人形師です。そして同展の図録を兼ねた書籍『リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと』を拝読、明治になって西洋から伝わった写実表現とは別系統で、生人形などに日本独自の超絶写実の技法があったことにも注目すべし、的な内容で「なるほど」と思わされました。

その喜三郎の作品。
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なるほど、見事でした。

他の人形師たちの作品も、「ほう」と思わせられるものばかり。
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ただ、「生人形」と、「生」がつかない人形との区別はどう定義されるのだろうと、疑問が湧きました。手の表し方など、下記のように血管まで作っているものは「生人形」と言っていいのかとも思うのですが、どうなのでしょう。詳しい方、御教示いただければ幸いです。
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KIMG6353それから、意外だったのが、人形師たちの肩書き。上の方の画像にもありますが「法橋(ほっきょう)」を名乗っている者が複数いました。

これは、「僧綱(そうごう)」の一種で、本来は僧侶の位階なのですが、名誉称号として仏師にも与えられました。「法橋上人位(僧正階)」、「法眼和尚位(僧都階)」、「法印大和尚位(律師階)」などがあり、平安時代の仏師定朝が、仏師として初めて「法橋位」に補任され、のちに興福寺の復興の功績で「法眼位」に進みました。その弟子長勢は法勝寺造仏の賞として最高位の「法印位」に補任。以後、名のある仏師は僧位を叙せられる習慣となります。

実は光太郎の父・光雲も「法橋位」。国指定重要文化財の「老猿」背部に刻まれた銘には「法橋高村光雲」とあります。光雲の師・高村東雲、更にその師・高橋鳳雲は「法眼位」でした。ただ、江戸期や明治期、誰がその位階を授けたのか(自称ということは有り得ないと思います)、当方、寡聞にして存じません。この辺りも詳しい方、御教示いただければ幸いです。

そして、人形師にも光雲と同じ「法橋位」がいたというのがわかり、「へー」という感じでした。専門の方にとっては当たり前のことなのかも知れませんが(笑)。

その他。

「成田祇園祭(成田山祇園会)」過去のポスター、山車のミニチュア。
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かつて江戸の神田明神でも行われていた山車祭りなどの錦絵。明治期までは山車が出ていたそうで。
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今回の展示に人形を貸し出して下さった関東各地の各祭礼の地図。
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なぜか、隣町であるにもかかわらず、当方自宅兼事務所のある香取市の山車祭り(他の複数の山車祭りと一括でユネスコ世界文化遺産にも指定されています)がありませんでした。やはり光雲が絶賛したという三代安本亀八の生人形を乗せた山車が複数ありますし、他の人形も今回展示されている作品と較べても、勝るとも劣らないものばかりなのですが……。どうも何らかの「大人の事情」があったとしか思えません。

それにしても、こうした人形の系統、もっともっと評価されていいものだと思われます。成田での展示、7月10日(日)まで。会場はJR成田駅前、京成成田駅もすぐ近くです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大悟法利雄氏くる、講道館雑誌の事、断り、


昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳

大悟法利雄」は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

大悟法はこの日の出来事を含む戦前からの光太郎回想を書き残し、『文壇詩壇歌壇の巨星たち』平成10年=1998 短歌新聞社)に収められています。

 光太郎が青森県から委嘱されて十和田湖畔にブロンズの女人像をつくることになり、その制作の必要上東京に出て来たのは昭和二十七年の秋だった。私はその中野区桃園町四八の故中西利雄画伯のアトリエに初めて訪ねていったとき、しばらく逢わないうちに光太郎がひどく老衰していることにすっかり驚いた。その時私は講道館から出ている雑誌「柔道」の編集に関係していて、全日本柔道選手権大会の観戦に誘い出してその座談会に出てもらうつもりで、ちょっとそのことを話してみると、かなり心を動かしたらしいが、光太郎は制作の都合と健康状態とから躊躇しているらしかった。それでも、ぜひにと勧めれば出てくれそうに見えたけれど、なにかしら痛々しい気がして、ぜひにとまでは言い出しかね、光太郎が若き日の外遊中にアメリカで柔道の前田光世と外人拳闘選手の決死的な試合を見た話などを聞いて帰って来た。

柔道初段の当方としては、光太郎の全日本選手権観戦記をぜひ読みたかったところでしたが(笑)。

前田光世(みつよ)は、講道館黎明期の柔道家。ブラジルのグレイシー柔術の祖としても知られています。光太郎より1年早く、明治37年(1904)に柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために、ボクサーやプロレスラーなどとの異種格闘技戦を行いました。光太郎が見たというのはこうした試合の中の一つでしょう。

当会の祖・草野心平が愛した祭です。

第57回天山祭り

期 日 : 2022年7月9日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
         雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~12時
料 金 : 500円

 「天山祭り」について、今年度57回目の天山祭りを開催する運びとなりました。これもひとえに皆様方の御指導、御支援によるものと深く感謝申し上げます。
 今年度は、感染対策を徹底しつつ、村内外の方を招き、草野心平先生を偲ぶ祭りといたしますので、万障繰り合わせのうえ、御参加いただきますようご案内申し上げます。

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当方、4回ほど参加させていただきました。

蛙を愛した心平と、モリアオガエル繁殖地である川内村さんがマッチングし、村では心平を名誉村民に認定して下さり、さらに村に別荘まで建てて下さいました。それが会場となっている天山文庫。心平は厖大な蔵書をこちらに寄贈しました。こちらの建設委員には、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周も名を連ねました。

コロナ禍以前は、心平詩の朗読、郷土芸能の披露などが行われ、名物のイワナなどが饗されていました。また、東日本大震災後は、震災からの復興を確認するという意味合いも含まれるようになっています。

しかし、コロナ禍。一昨年は中止となり、昨年は福島県内にのみ参加者を募って、こぢんまりと開催。
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昨年の写真です。左は親しくさせていただいている遠藤雄幸村長。

そして今年は、ほぼ旧に復するようです。ただ、やはり感染対策の一環として、食事の提供はありません。

当方、最後に行ったのが令和元年(2019)でして、久々にお伺いしたかったのですが、先約(「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」)があり、残念です。まぁ、来年以降も続くと思いますので、次の機会を、と思っております。

天山文庫、そして川内村自体、実にいいところです。ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

一時頃NHKより熊谷さん、摩尼さん、写真班、録音技師等レコーダー持つてくる、九分づつ三回分録音、十三、十四、十五日朝六時40分より、


昭和28年(1953)4月11日の日記より 光太郎71歳

光太郎がかつて翻訳した「ロダンの言葉」についてのラジオ放送に関わります。内容等詳細が不明なのですが、光太郎が「ロダンの言葉」について語ったのか、もしかすると光太郎自身が朗読したのか、そんなところと思われます。残念ながらNHKさんに音源が残っていないようです。

昨日はデジタルアーカイヴサイトについてご紹介いたしました。同様にネット上でこんな動画も公開されているよ、ということで。公開は昨年だったのですが、最近のネタ不足を補う意味で、このタイミングでご紹介させていただきます。

2本ご紹介しますが、どちらも竹橋の国立近代美術館さん制作で、光太郎のブロンズ代表作「手」についてのものです。

まずは10月に公開された「高村光太郎《手》1918年頃|キュレータートーク|所蔵品解説006」。


7分余りの尺ですが、その中で、学芸員さんが「手」の魅力等につき、語られています。
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これは以前から指摘され続けてきたことですが、作品の制作背景として、ロダンの影響、それから仏像からのインスパイアがある、と。ただ、それが見る角度によって西洋的要素と東洋的印象とが変わる、という指摘には、なるほどそういう風に考えたことはなかったな、と思わされました。
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そのあたり、武蔵野美術大学美術館さんで平成27年(2015)に開催された「近代日本彫刻展」で、こちらの「手」と、朝倉彫塑館さん所蔵の「手」と、2点(どちらも光太郎の生前鋳造、台座の木彫部分も光太郎作)を同時に並べた際の発見だそうで。
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そして、最も驚いたのが……。
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動画で5:00頃からですが、何とブロンズの部分と、台座を分離。

当方、画像では見たことがありましたが、動画では初めて見ました。もちろん実際に見たこともありません。
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この作品を元々所有していた有島武郎の名が記されていることは存じていましたが、自殺した有島から受け継いだ秋田雨雀、さらにその後の所有者名も記されているとのこと。それは存じませんでした。
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ここまで公開するとは、実に素晴らしいと思いました。

ちなみに同じシリーズでは光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」篇などもありました。

もう1本、こちらの方が先にアップされたもので、「ガイドスタッフが選ぶイチオシ作品|#29 高村光太郎《手》」。こちらもなかなかのものです。


「手」を見た子供たちの声が紹介されていまして、笑ったり、感心したりでした。
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こういう取り組みも、一種のアーカイヴと言えましょう(特に台座を紹介した方など)。そして、実際に作品を見に行ってみよう、という契機にもなるのでは、と思います。そうした意味で、こういう取り組み、全国の美術館さん、文学館さん等で、もっともっと広がってほしいものだとも思います。

【折々のことば・光太郎】

中原綾子さんくる、夜食に東中野モナミといふフランス料理の御馳走になる、有島生馬氏に偶然あふ、

昭和28年(1953)4月4日の日記より 光太郎71歳

中原綾子」は歌人。昭和初期、光太郎が中原に宛て、智恵子の心の病の症状を詳細に記した書簡を複数送ったことで有名です。「有島生馬」は画家で、武郎実弟。光太郎とは留学仲間でした。

東中野モナミ」は、かつて存在したレストラン兼結婚式場。建物はフランク・ロイド・ライトの設計だったそうです。文化人の交流の場ともなり、主に光太郎より1~2世代下の岡本太郎、椎名鱗三、埴谷雄高、梅崎春生、野間宏、安部公房らが集っていました。

また、上記の秋田雨雀、小説「智恵子飛ぶ」を書かれた津村節子氏なども。

以前から書いておりますが、当方のライフワークの一つは、光太郎の書き残したものの集成です。

晩年の光太郎に親炙し、その没後、『高村光太郎全集』編纂をなさった故・北川太一先生曰く「高村さんという壮大な実験者、誠実な生活者の実験記録、高村さんがこの世に残したほどのものは、何一つ散逸させまい」(『高村光太郎』あとがき 昭和40年 明治書院)。

その北川先生のお手伝いをさせていただく中で、『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)後も、それまで知られていなかった様々な光太郎文筆作品等が見つかりました。平成18年(2006)には光太郎歿後50年記念を兼ね、『光太郎遺珠 2006.4.2』をハードカバーの厚冊として、北川先生と当方の共編で出させていただきました。さらにその後は見つかり続ける作品を、現在は高村光太郎研究会さんの機関誌『高村光太郎研究』に、「光太郎遺珠」の題で紹介させていただいております。

それらの調査は、インターネットの発展に伴い、全国の文学館さんや図書館さんの蔵書検索等が居ながらにしてできるようになって、飛躍的に進みました。「これは」と思うものがヒットすると、コピーを送っていただいたり、現地まで行って拝見したり、そういう作業は今も続いています。

それと同時に、資料そのものがネット上で公開されている、いわゆる「デジタルアーカイヴ」。

国会図書館さんでは10数年前に始められ、これにもだいぶ助けられました。以前は国会図書館さん内か、提携している公共図書館さんなどに行かなければ資料の閲覧が出来ませんでしたが、この春から自宅兼事務所でも閲覧可能となりました(利用者登録が必要ですが)。登録数も徐々にに増えています。ただ、あまりにヒットする情報が多く、その中から必要なものを探すのが大変ですが。

この手のデジタルアーカイヴが、他館や他組織で広がりを見せていまして、そんな中で新発見もありました。

まず、台東区立図書館さんのデジタルアーカイブ。こちらに最晩年の光太郎葉書が掲載されており、『全集』未収録のものでした。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため移り住んだ中野桃園町の貸しアトリエから、美術評論家・硲真次郎に宛てたものです。硲と光太郎は大正期から交流がありました。
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硲が訪ねてきた際、床に臥せっていて会えなかった(光太郎が歿する4ヶ月前でした)お詫びと、硲から清酒「花霞」の引札を贈られた礼状です。日記にも同様の記述がありました。
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清酒「花霞」。福島二本松の智恵子の実家・長沼酒造の銘酒で、大正12年(1923)の関東大震災後、東京ではとにかく物が不足していたことから、光太郎が東京に取り寄せ、自ら荷車を引いて売り歩いたとのこと。ラベルや引札も木版で作りました。引札は二本松の智恵子記念館さんに展示されています。その懐かしい次作の引札を硲が届けてくれたというわけです。

ところで台東区立図書館さんのデジタルアーカイブ。もう1件、光太郎の書簡なるものが登録されているのですが、残念ながらこちらは光太郎ではなく、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周のものでした。差し出し人名が「高村」としか書かれていませんので、仕方がないのかも知れませんが……。

この手のアーカイヴのリンク集的なサイトもいろいろありまして、少しずつ調査をしておりますが、なかなかはかどりません。やはりあまりにヒットする情報が多く(ほとんど既知の情報で)、必要なものを探すのが大変だというのが原因です。

国立公文書館アジア歴史資料センター
スタンフォード大学 Hoji Shinbun Digital Collection
Cultural Japan

「このアーカイヴで光太郎智恵子、光雲に関する珍しい資料が掲載されている」という情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

夜新宿地球座、巴里の空の下、セールスマンの死、 うな丼をくひ、タキシでかへる、

昭和28年(1953)4月2日の日記より 光太郎71歳

地球座」は現・新宿ジョイシネマさん。「巴里の空の下」は「巴里の空の下セーヌは流れる」。ブリジット・オーベール主演のフランス映画です。「セールスマンの死」はフレデリック・マーチ主演のアメリカ映画。どうも光太郎、邦画はほぼ見なかったようです。

まだ詳細情報が出ていないのですが、来月中旬の「海の日」に合わせ、花巻高村光太郎記念館さんで企画展示「光太郎 海を航る」(仮称)が開催されます。光太郎が明治末に約3年半の欧米留学をしたことに焦点を当てたもので、同館に寄贈された留学先から日本の家族に送られた絵葉書のお披露目的な意味合いもあります。詳細が出ましたら、またご紹介します。

そこで、光太郎の欧米留学(米英仏伊)、移動に使った船などについて、解説パネルを1週間で書けという依頼(半命令(笑))があり、鋭意執筆中です。10年前に高村光太郎研究会という学会で「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」という発表をさせていただき、翌年刊行の機関誌『高村光太郎研究』に同題の論考を載せていただいたので、そのあたりをベースに、という依頼でした。

10年前のこのブログにも要旨を載せてありますので、ご高覧下さい。

光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-③。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-④。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑤。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑥。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑦。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑧。


「新発見随筆「海の思出」」というのは、昭和17年(1942)の雑誌『海運報国』に載った比較的長いもので、筑摩書房『高村光太郎全集』には漏れていました。この中で光太郎、幼少期の海にまつわる思い出や、欧米留学時に載った船などについて、様々な事柄を語っています。これにより、それまでに知られていた文章等には記述がなかった様々な事実が明らかになりました。詳細は上記リンクから。

前置きが長くなりましたが(ここまで前置きだったのです(笑))、「光太郎 海を航る」の説明パネルを書くに当たって、またネットでいろいろ調べていましたところ、横浜の日本郵船歴史博物館さんでこんな企画展が先月から開催されていることを知りました。

企画展 郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-

期 日 : 2022年5月21日(土)~9月25日(日)
会 場 : 日本郵船歴史博物館 神奈川県横浜市中区海岸通3-9
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)
料 金 : 一般400円 65歳以上・中高生250円 小学生以下無料

『海運報國』は、郵船海運報国会という日本郵船と表裏一体の組織が刊行した機関誌で、現代の社内報と同じ位置づけであったと考えられます。創刊は昭和14(1939)年5月、月一回の発行で毎号100ページ前後にまとめられました。戦時色が深まる中、目次には社会情勢を反映したタイトルが並びます。一方、『海運報國』は文芸誌的な要素も含んでいました。
このころ日本郵船の嘱託だった内田百閒の随筆をはじめ、船旅の思い出、海にまつわる掌編や、新造船披露航海の感想文など、作家や著名人による寄稿が誌面を飾りました。社員による投稿も短歌、俳句、詩、研究論文や趣味の話まで、号を重ねるごとに賑わいを見せました。
本展は『海運報國』の特に文芸誌的な側面に焦点をあて関連資料とともに展観いたします。一見交わることがなさそうな「郵船」と「文芸」、この二つの接点を見出していただければ幸いです。
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船旅の思い出、海にまつわる掌編」には、光太郎の「海の思出」も含まれるわけで、もしかすると執筆者紹介的なコーナーなどで光太郎や「海の思出」に関するパネル展示があるかも知れません。

また、『海運報国』への光太郎の執筆は他にもあります。確認出来ている限りでは、以下の通りで、すべて散文です。

第2巻第10号 昭17(1942)/10/15  「海の思出」
第3巻第7号  昭18(1943)/7/15     「乏しきに対す」
第4巻第1号  昭19(1944)/1/15     「決戦時生活の基礎倫理」
第4巻第2号  昭19(1944)/2/15     「神裔国民の品性」

「海の思出」以外の3篇は、「戦時色が深まる中、目次には社会情勢を反映したタイトルが並びます。」とあるそのものです。

来週というか今週というか、3日後くらいに他にも都内で調査に訪れようと思っている場所がありますので、横浜まで足を延ばして来ようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方中西さん宅にスツポン問屋の村上氏料理人をつれてくる、柳沢博士らと会食、生血とキモをのむ、

昭和28年(1953)3月25日の日記より 光太郎71歳

中西さん」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借りていた貸しアトリエの大家で、同じ敷地内でした。

柳沢博士」は柳沢文正。医師で、柳沢成人病研究所の所長でした。「スツポン問屋の村上氏」は、おそらく現在も続く上野の「村上スッポン本舗」さんの関係と思われますが、詳細不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

ちなみに当方、一度だけスッポンの生き血、賞味したことがあります。生き血といっても血液をそのまま呑むのではなく、日本酒に溶かしたものでした。

あまり大々的な宣伝は為されていないようなのですが……。

劇団星今宵 第一回公演 売り言葉

期 日 : 2022年7月8日(金)・7月9日(土)
会 場 : 大阪大学豊中キャンパス 学生会館二階大集会室 大阪府豊中市待兼山町1-5
時 間 : 7月8日(金) 17:30〜 7月9日(土) 10:30〜/ 13:30〜
料 金 : 無料(カンパ制)

出 演 : 綾瀬ちい
脚 本 : 野田秀樹
演 出 : 古都

「新しい女」である智恵子は名家で知られる実家を飛び出し、芸術にのめり込む。そんな中、智恵子は憧れの高村光太郎と恋に落ち、2人は晴れて結婚する。
順風満帆な結婚生活に思えたが、智恵子は光太郎が「智恵子抄」に描く智恵子の姿と自分との距離を感じ始める。
夫婦として、そして芸術家としての2人の関係は徐々に変化していき…

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野田秀樹氏作の、智恵子を主人公とした一人芝居「売り言葉」。平成14年(2002)に大竹しのぶさんが智恵子役で、南青山スパイラルホールで初演されました。
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光太郎から智恵子へのモラハラ的な対応が続いたことで、智恵子が毀れてしまったという解釈で一本筋が通っており、この手の演劇等のうち、光太郎ディスり度が最も高いものの一つです。翌年に新潮社さんから出版された野田氏の脚本集『二十一世紀最初の戯曲集』に収められ、その後、プロアマ問わず全国で取り上げられています。

コロナ禍前の令和元年(2019)には、当会で把握したものだけで、全国で6つもの劇団/個人の方が上演して下さいました。この頃になると、レトロな古民家を会場にして公演を行ったり、本来一人芝居の脚本を二人で演じるという演出にしたりと、いろいろ工夫が見えました。

今回の公演は、変にいじくりまわず、ど直球で演(や)られるようです。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

毎夜朝日放送の「智恵子抄」をきく、


昭和28年(1953)3月26日の日記より 光太郎71歳

昨日もご紹介しました女優の故・村瀬幸子さんによる「智恵子抄」朗読のラジオ放送です。全9回だったそうで、各回の尺などは把握していないのですが、当時のラジオ番組表をあたればわかるかもしれません。

自作の詩がラジオから流れるのを聞く気持ちというのは、どんなものなのでしょうか。また、想像をたくましくすれば、「売り言葉」なり他の光太郎智恵子オマージュの映画演劇なり、光太郎が観たらどういう感想を持つだろうか、などと考えてしまいます(笑)。

都内から演奏会情報です。

CD発売記念コンサート in矢来能楽堂 癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い

期 日 : 2022年7月9日(土)
会 場 : 矢来能楽堂 東京都新宿区矢来町60
時 間 : 15:00~17:00
料 金 : 一般5,500円/CDつき7,000円(5,500円+CD発売記念価格1,500円)

出 演 : ゆきね(有機音)(和編鐘) はし本はるえ(箏) 
      菜月ひとみ・河崎卓也(朗読) まつながまき(モデルパフォーマー)


枠に吊るした大小さまざまの鐘を鳴らして奏でる和編鐘(わへんしょう)。由来はとても古く、3000年ほど前の中国にさかのぼります。6月8日にキングレコードより、CD発売。記念して皆様に和編鐘のコンサートをお届けいたします。ご都合の良い方は、感染対策のうえ、ぜひお越しくださいませ。

曲 目 :
 1部 鐘(和編鐘)シンフォニー  和編鐘 
ゆきね(有機音) 朗読 河崎卓也
  春と修羅 水の源 いくつもの出会いに育まれて ホタル わらべ歌 時つもりゆく
  万葉の歌
 2部 響きのあう  和編鐘 ゆきね(有機音)
  智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」 朗読 菜月ひとみ
  額田王歌物語より「煌めく歌人」 舞 まつながまき
  呂律の調べ 箏 はし本はるえ
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有機音さんによる和編鐘、昨秋、代々木能舞台で開催された「和編鐘コンサート in 代々木能舞台 響きにつつまれていのちの煌めきの中へ 智恵子抄 愛と絆の調べ」を拝聴して参りました。レポートはこちら
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中央が有機音さんで、その後にセッティングされているのが和編鐘です。3オクターヴあり、これをマレットで叩いて音を出します。残響が長く、不思議な響きでした。

今回のプログラムには「智恵子抄より「愛はすべてをつつむ」」という項が入っており、菜月ひとみさんという方が朗読をなさいます。当方、拝聴に伺うことに致しました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后朝日放送より村瀬幸子吹込の「智恵子抄」持参、試聴、承諾、夜九回放送の由、

昭和28年(1953)3月24日の日記より 光太郎71歳

朝日放送」はラジオ局、「村瀬幸子」は明治38年(1905)生まれの女優でした。

この頃から「智恵子抄」朗読、為されていたのですね。

まず『東京スポーツ』さん、6月19日(日)の記事。

劇作家、演出家、女優、歌手そして映画監督の夢 渡辺えり今明かす激動半生「70歳までに撮りたい」

003【直撃!エモPeople】劇作家、演出家、女優、歌手といくつもの顔を持つ渡辺えり(67)が次のステージへ向け情熱を燃やしている。昨年4月、所属事務所から独立し、先月には作品作りに影響を受けた最愛の実父を亡くしたばかり。個性派女優として知られる渡辺が半生を秘話で振り返った。
 渡辺が作・演出する舞台「私の恋人beyond」(30日~7月10日、東京・本多劇場)は、好評だった2019年の初演で共演した渡辺、小日向文世、のんの3人が再び顔を合わせる。芥川賞作家・上田岳弘氏の同名小説を原作に、原始時代のクロマニョン人、大戦中のユダヤ人、現代の日本人など、転生を重ねた主人公が時空を超えて運命の女性を追い求める物語だ。
 渡辺は「3人で30人の役を演じます。小日向さんの縦横無尽な演技は一つずつリアリティーがあるし、のんちゃんは純真でしたたかな演技。嫌なことは嫌と芯を曲げない強さがある」と話す。
 初演では役者が客席から登場するシーンがあったが、今回はコロナ対策ですべて舞台上で完結しなければならないため、台本を書き直した。渡辺とは40年以上の付き合いの小日向の歌が今回は聴けるのも見どころだ。
   女優、劇作家、演出家として精力的に活動する渡辺だが、周囲の状況は昨年来、大きく変化した。
 21年4月、12年間所属した事務所から独立。独立を決意したのは今後を見据え「反戦や反原発など政治的発言もちゅうちょしたくない。年1本は自分が影響を受けた作品の舞台の演出をしたい。70歳までに映画を監督として撮りたい。故郷・山形で演劇のワークショップをやりたい」などの夢を実現するためだった。
 強い反戦への思いは先月17日に死去した実父(享年95)の教えが根底にある。軍需工場で零戦のエンジンを作り、終戦後は教師をしていた父。涙を流し、こうしのんだ。
「私が大学進学をせず、上京して演劇に行くのを反対して、高3の時は毎日ケンカでした。父は高村光太郎に心酔し、格差や差別、戦争のない世の中を理想としていました。それが私の作品にも息づいています
 4年間務めた日本劇作家協会会長も今年3月で勇退。その間にはコロナ対策のほか、映画界で問題となったセクハラ・パワハラ問題にも取り組んだ。
「臨床心理士など第三者が公正に審理できるよう改革する道筋は作ったと自負しています」
 1987年に開塾した私塾「渡辺流演劇塾」はコロナ禍と様々な理由で休止中だが、その情熱は今も変わらない。
「私だって今も本業の演劇だけでは食えない状況ですが、苦労するところも面白い。芝居をやることは面白い。そのためには他の仕事などの苦労は苦労じゃない。全部体験したことが演技や戯曲を作ることにつながります。楽しいことをやるために苦しいことがあれば楽しくなる。毎日楽なことをやってても楽しくないですよ。演劇は本番まですごい大変。でも、初日にお客さんから拍手をもらえると、すべての苦労が報われるんです」
 演劇部に所属していた高校1年の時、地元山形で見た文学座の「ガラスの動物園」で号泣。出演していた長岡輝子の楽屋を訪ね、上京を決意した。
「アポなしで来たのに、長岡さんは会場から宿舎までの道まで付いてくる私たちに演劇学校を勧めたり、1時間くらい対応してくださった。楽屋裏では江守徹さんなどが道具箱をトラックに運んでるのを見て“これが演劇の世界なんだ”とさらに感動しましたね」
 東京・舞台芸術学院に進学し、おでん屋でアルバイトし、卒業後は「青俳」の演出部に入った。22歳から11年間、ホステスもやった。
「世間では時給400円の時代に日給8500円。お客さんとの会話に合わせるために政治やスポーツのことも新聞や雑誌で読んで、演劇だけやっていたら出会えないサラリーマンの愚痴を聞いて、後の戯曲の取材になりましたね」
 渡辺といえば、テレビ初出演した大人気ドラマ「おしん」(83年、NHK)でおしん役・田中裕子をいびる義姉役でブレークした。
「顔を真っ黒に塗って、爪も黒くして、ネーティブ山形弁。ある飲み屋でお客さんが『あの義姉役だけは本物の地元のお百姓さんを出しているよね』と聞いて、私が『あれは劇団3〇〇(さんじゅうまる)の役者なんですよ』と解説したこともありました。ドラマではメークしてたので普段の私と誰も気付かなかったんです」
 その出演料を渋谷のNHKの窓口でもらい、滞納していた家賃1万2500円×数か月分を払ったという。様々な経験は毎日新聞で連載中の「人生相談」にも生きている。円熟味を増した舞台人・渡辺の情熱はとどまるところを知らない。

☆わたなべ・えり 1955年1月5日生まれ。山形県出身。舞台芸術学院、青俳演出部を経て、78年「劇団3〇〇(さんじゅうまる)」主宰として旗揚げ。83年、岸田國士戯曲賞、ドラマ「おしん」の主人公の義姉役で注目される。87年、紀伊國屋演劇賞。演劇私塾「渡辺流演劇塾」開塾。96年、映画「Shall we ダンス?」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞。2013年、ドラマ「あまちゃん」出演。18年から日本劇作家協会会長(今年3月勇退)。19年戯曲集「月にぬれた手/天使猫」刊行。

生前の光太郎と交流があって、先月亡くなられたお父さまを引き合いに出されつつ、ドラマティックな半生を振り返られています。

そして最新の舞台「私の恋人beyond」にかける意気込みも。

詳細は以下の通りです。

私の恋人beyond

東京公演
 期 日 : 2022年6月30日(木)~7月10日(日)
 会 場 : 本多劇場 東京都世田谷区北沢2丁目10-15
 時 間 : 6/30(木)19:00  7/1(金)14:00 / 19:00 7/2(土)14:00 / 19:00
       7/3(日)14:00  7/4(月)14:00 / 19:00 7/5(火)休演日
       7/6(水)14:00 / 19:00 7/7(木)14:00 7/8(金)14:00 / 19:00
       7/9(土)14:00 / 19:00 7/10(日)14:00 
 料 金 : S席 8,000円/A席 4,000円 (全席指定・税込価格)

愛知県公演
 2022年7月13日(水)19:00 7月14日(木)13:00 会場:穂の国とよはし芸術劇場プラット
青森県公演
 2022年7月17日(日) 14:00 会場:八戸市公会堂
岩手県公演
 2022年7月19日(火) 19:00 会場:北上市文化交流センターさくらホール
北海道公演①
 2022年7月22日(金) 18:30 会場:北見市民会館
北海道公演②
 2022年7月24日(日) 14:00 会場:帯広市民文化ホール
北海道公演③
 2022年7月26日(火) 18:30 会場:カナモトホール(札幌市民ホール)
北海道公演④
 2022年7月28日(木) 18:30 会場:北斗市総合文化センター かなで~る
北海道公演⑤
 2022年7月31日(日) 16:00 会場:苫小牧市民会館 大ホール

出 演 : 渡辺えり のん 小日向文世 松井夢 坂梨磨弥 関根麻帆 山田美波
演 奏 : 三枝伸太郎
原 作 : 上田岳弘「私の恋人」(新潮社)
脚 本・演出 : 渡辺えり

 「私の恋人」は反戦と平和への熱望がテーマになっています。初演時から三年経ち、その間コロナの蔓延、ロシア政府のウクライナへの侵攻とますます平和がおびやかされる状況になってしまいました。この舞台の再演の意味がより濃く深くなっています。
 本作は上田岳弘さんの小説「私の恋人」から想を得て、八割がたは私の創作です。
 東北の震災で受けた傷と断捨離の意味を問うシーン、満州開拓の際に受けた日本人のアイデンティティー崩壊や日本の引きこもり青年が外人部隊、つまり傭兵として志願するといったグロテスクな欲望のシーン。これらは全く原作にはないシーンです。原作ファンの方も驚く展開を楽しんでいただけると思います。
 また小日向文世の縦横無尽な怪演、のんの唯一無二の純真でしたたかな演技。私の年齢を超えた挑戦も見ものです。
 以下は初演時のパンフレットに書きました私の文章です。

「混在する正義とエロチシズム」 渡辺えり
 小説「私の恋人」は何もない脳内の闇の中から一人の理想の恋人を作り上げ、「平和」と「正義」の象徴のような“私の恋人”に支えられ生き続けていく男の話と言っても良いだろうが、いない人物に命を吹き込み、生きた人を作り上げ、その虜になるというストーリーはまさに演劇そのもの。演劇の魅力の虜になってしまった私たちそのものなのである。
 これを生の舞台として表現できればと強く思った。
 小日向文世さんは昔からの同志のような演劇の仲間である。ゆるぎない信頼関係は、ゼロから夢を作る作業の大変さを共有してきた時代そのものをバックにしているからである。のんちゃんは8年前から一緒に何か作ろうと話し続けてきた気の合う友人である。二人とも複雑な役を悩みながらも楽しそうに演じてくれている。私も大変なのについ大笑いしてしまう。
 4回ものオーディションを受けてくれた天使の方たちも嬉々として頼もしい。スタッフの皆さんも本当に手のかかる大変な作業をやってくださり、本当に感謝です。
 お客様も楽しんで観てくだされば幸いです。故郷の皆様そしてお世話になっている各県の皆様にお会いできるのがとても楽しみです。
 考えてみれば、友人のお誕生会で発表する台本を書くようになってから56年くらいになる。中学高校でも書いたり演出したりを続けてきて64歳の今、改めて振り返るとあまり作風が変わっていない気がして呆れてしまう。
 高村光太郎に心酔した父の影響で絵画や音楽に子どものころから親しんできた。ボッスやブリユーゲルの絵画のような風刺の効いた猥雑さ。マグリットやポール・デルボーの絵のような胸を締め付けられる孤独の描写。ゴッホやピカソのリアルを超越した色彩に惹かれるのだ。
 「いろいろな角度から見える真実をそれぞれの立場から同時に描いて、それを見る人の立場からいかようにも解釈していただく」というのが私が生み出したと思っている手法だが、絵画の世界では昔から一枚の絵に収まっている手法でもある。見る者が絵画の中から自由に想像して好きなように捉えて楽しむように、私の作る舞台も好きなように観ていただき、主人公をも探していただきたい。観客自体が舞台の内容を自由に作り続ける楽しみもある。
 上田岳弘さんの作品を読んでいつも落ち着くのは、そんな私の演劇の手法に似た部分を感じてほっとするからなのかもしれない。
 上田さんの作品にはいつも今を生きる人間の孤独と苦しみがあり、どうしようもない、どうにもならないかもしれない社会の矛盾に対して抵抗しようとする人の心の中心部分、の、根っこのような種のような物が根底にある。
 そこにどうしようもなく私は惹かれるのだ。
 ぎっしり詰まった社会風刺と残酷で優しい人類愛。世の中を大きく捉えたかと思うと、瞬時に顕微鏡で見たような、異常に細かい描写に変化するタッチも、油絵と線描が混在しているようで好きなのだ。
 昨年の『肉の海』は上田さんの「塔と重力」から発想を得て、一人の女性を30人の役者が演じたが、今回は30の役を三人の役者で演じる。
 一人の人間の記憶が古来からの無数の意識の重なりであり、全宇宙の人類の脳が一つの大きな海となって空間に溶けて行く感覚。無数の悲しみも苦しみも一つに溶けあい、ならされていく感覚。みんなが一つになるという真の意味での平等へ向かう感覚。
 そして実在しない架空の理想のエロチシズムを追い求めるという一種の切ないユーモア。
 上田さんの作品の中のイメージと、私が40年間作品を通して問い続けてきた、テーマを重ね合わせ、新しい冒険に挑戦しました。
 今後もさまざまな冒険を続けたいと願っています。
 今回、そんな無謀な冒険を共にして下さった皆様、その冒険に力を貸して下さった皆様に心から感謝です。
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当方、令和元年(2019)の初演を拝見して参りました。もう3年経つか、という感じです。直接は光太郎智恵子等に関わる内容ではありませんでしたが、根底に流れているものには、上記プレスリリースにもあるように、光太郎に心酔していらしたお父さまから受け継いだイズム。

今回は地方公演も各地でありますので、お近くの会場でぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

五時頃より出かけ新宿にてライムライトを見る、


昭和28年(1953)3月18日の日記より 光太郎71歳

「ライムライト」はチャップリン主演のアメリカ映画です。前年に制作され、日本での公開はこの年でした。5日前には現在も健在の築地東劇さんに見に行ったのですが、前日までで公開終了。そこで新宿(おそらく地球座-現・新宿ジョイシネマさん)でリベンジ(笑)。

光太郎、青少年期から義太夫や歌舞伎に親しんでいましたし、長じてからは映画も結構見ていました。戦後も蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から花巻町まで出て来て、宮沢賢治実弟の清六らと映画鑑賞をすることも多く、さらに再上京後も健康が許していた頃は足繁く映画館に通っていました。

昨日に続き、花巻ネタです。

一昨日のNHKさん盛岡放送局のローカルニュースから。

街にベゴニアを 花巻農業高校の生徒と親が飾り付け

  まちを訪れる人を花で迎えようと、花巻農業高校の生徒と親などがベゴニアの花を駅や観光スポットに飾りました。
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花巻農業高校はこの取り組みを毎年、この時期に行っていて、まちの名物にもなっています。平成5年から始まり、ことしで30回目となりました。
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高校ではことしも3年生と親などあわせて50人余りが集まり、赤や白、ピンクの花をつけたベゴニアおよそ500株をプランターに植え、トラックに積み込んで市内の駅や観光スポットなどに運びました。
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ベゴニアは生徒たちが育てたもので、180個余りのプランターに植えられて市内の観光スポット13か所に飾られました。
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このうち「高村光太郎記念館」では、入り口にある案内板の下に並べられました。
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また観光客が多く利用するJR新花巻駅にも飾られました。花はこのあと11月はじめごろまで咲いて観光客を迎えます。
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3年生の女子生徒は「2月に種をまき、丁寧に育ててきた花を見て観光客が興味をもってもらえればと思います」と話していました。
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参加した父親の1人は「今まではコロナで外出を控える人も多かったですが、これから少しずつ外に出る機会が増えると思います。生徒が一生懸命、育てた花なので、きれいだなと思ってくれるとうれしいです」と話していました。
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頭が下がります。

花巻農業高校さんといえば、宮沢賢治が奉職していた花巻農学校の後身。そうした意味では賢治の没我利他的精神が根付いているのかも知れません。

また、コロナ禍前は、旧太田村で毎年5月15日(昭和20年=1945、光太郎が疎開のため花巻に向けて東京を発った日)に行われていた高村祭で、同校鹿踊り部の生徒さんたちが勇壮な舞を披露して下さっていました。
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またよろしくお願いしたいものです。

【折々のことば・光太郎】

盛岡の学校に祝電

昭和28年(1953)3月13日の日記より 光太郎71歳

盛岡の学校」は、岩手県立美術工芸学校。現在の岩手大学さん、岩手県立大学盛岡短期大学部さんなどにその流れが受け継がれています。光太郎と親交のあった美術史家・森口多里が校長を務め、同じく光太郎と親交のあった舟越保武、深沢省三・紅子夫妻などを教授陣に迎え(光太郎を名誉教授に、という話もありましたが光太郎自身が辞退しました)、岩手の美術教育振興に多大な足跡を残しました。

花巻郊外旧太田村在住時代の光太郎、たびたび同校を訪れて講演等を行ったり、都合が許せば卒業式などにも列席したりしていました。再上京後もそのつながりは続き、この日は卒業式へのメッセージの電報を送信しました。

現物が残っています。
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定期購読させていただいている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』の第31号が届きました。前号で5周年となったのを機に、今号からいろいろと変更が。

まず、判型。これまでA5判だったものが、一回り大きくなりました。下の画像、左が今号、右が前号です。
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それから、これまで隔月刊で年6回発行だったものが、年4回となるそうで、いわば季刊への変更ということでしょう。今号はタイトル(ロゴも変更され、サブタイトルも「花巻まち散歩マガジン」から「花巻散歩」になりました)の下に「2022.SUMMER」とあります。総ページ数は32ページ、これまでと変わりません。定価も500円で据え置きです。
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特集1は賢治関係、特集2は、先頃NHKさんの「ふるカフェ系 ハルさんの休日▽岩手・花巻〜宮沢賢治が愛した花壇をめでるカフェ」で紹介された、茶寮かだんさんです。
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創刊号から連載されてきた「光太郎レシピ」も健在。昭和20年(1945)から堂27年(1952)にかけて、光太郎が花巻及び郊外旧太田村に住んでいた間の日記や書簡、周辺人物の証言等から、光太郎が作ったメニューを割り出し、現代風にアレンジするというコンセプトです。

今号は「花わさびのおむすびとわらびと山菜の天ぷら」。
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天ぷらのレシピがこちら。
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天ぷらはこの季節、夏バテ予防にもいいかもしれませんね。

メニューの考案、調理等に当たられているやつかの森LLCさんは、同様に光太郎日記等からのアレンジで手がけられているのが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。道の駅テナントのミレットキッチン花(フラワー)さんの商品です。

今月分はこちら。
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ニラ炒飯、豆ご飯、豚肉とみず(山菜)の煮込み、鮭の昆布巻き、じゅんさい、塩麹卵焼き、抹茶饅頭、お新香だそうで。

少し前にはくり返しラジオ番組で取り上げて下さっていました。さらにテレビ等の取材も入るとありがたいところですね。

さて、『マチココ』さん、花巻市内各所の協力事業所等で販売されている他、最近は盛岡市、北上市の書店さんなどでも取り扱っているようですし、オンラインで年間購読申し込みもできます。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

朝北川太一氏余の誕生祝とてイセエビ3尾持参、


昭和28年(1953)3月12日の日記より 光太郎71歳

光太郎誕生日は明治16年(1883)3月13日。満70歳となりましたが、この項、慣例により数え年で表記し、年齢加算もその年の元日としています。そこで「光太郎71歳」です。

当会顧問であらせられた、故・北川太一先生、伊勢海老3尾とは豪勢な(笑)。グッジョブですね(笑)。

2件ご紹介します。

まず今朝の『朝日新聞』さん。一面コラム「天声人語」、枕の部分に光太郎の名。

(天声人語)ノーヒットノーラン

詩人室生犀星が若かりし頃、高村光太郎はいつも一歩先にいる存在だった。自分では手が届かないような高名な文芸誌に、常に詩が掲載されている高村という若者がいる。名前を見るたび嫉妬を覚えたという▼「誰でも文学をまなぶほどの人間は、何時(いつ)も先(さ)きに出た奴(やつ)の印刷に脅かされる」と『我が愛する詩人の伝記』に書いている。脅かしたその人は生涯の好敵手となった。詩の世界でも競い合いの中に成長がある。ましてスポーツの世界では▼オリックスの山本由伸投手(23)が四球を一つ許しただけのノーヒットノーランを成し遂げた。きのうの紙面によると、ロッテの佐々木朗希投手(20)が4月に達成した完全試合に刺激された結果でもあるという▼山本投手は国際試合でも日本代表を引っ張る存在で、もともとは佐々木投手の方が刺激や教えをを受ける側だった。シーズンオフに自主トレーニングをともにし、山本投手を質問攻めにしたと本紙デジタル版が伝える。チームを越えた切磋琢磨(せっさたくま)がある▼今期の無安打無得点はこれで4投手目となり、一つのシーズンとしては1943年以来の記録という。1人の偉業が次の呼び水になる。そんな現象は日本陸上界の100㍍走でも数年前に見られた。長年の課題だった「10秒の壁」を破る選手が1人、また1人と続いた▼刺激という言葉を解剖すれば、憧れや驚き、あるいは嫉(ねた)みなど様々な要素があろう。誰かの成功をエネルギーとするためには自分のなかに確かなエンジンがいる。

犀星の『我が愛する詩人の伝記』、元版は昭和33年(1958)の刊行です。元々は雑誌『婦人公論』の連載で、その際に添えられていた濱谷浩の写真(同年、『詩のふるさと』として刊行)を一冊にまとめた『写文集 我が愛する詩人の伝記』が昨年刊行されましたし、平成28年(2016)に出た講談社文芸文庫版も健在のようです。
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「天声人語」にあるとおり、無名時代の犀星は6歳年長の光太郎を過剰に意識し、嫉妬を覚えていたようです。近くの田端に住んでいた犀星が、駒込林町の光太郎アトリエの前を通るたび……

千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。

ただ、以前にも書きましたが、『我が愛する……』では光太郎をディスりまくりの犀星に、光太郎を手放しで称賛する文章もあり、光太郎に対する見方は一筋縄ではいきません。

「天声人語」では、「脅かしたその人は生涯の好敵手となった。詩の世界でも競い合いの中に成長がある。」としていますが、一方の光太郎の方は、犀星など歯牙にも掛けていなかった、というより、そもそも光太郎は詩でも彫刻でも、誰かをライバル視し、ともに切磋琢磨しようという姿勢はほとんど見られませんでした。「人は人、自分は自分」みたいな。唯一例外的だったのは、彫刻家・碌山荻原守衛。しかし守衛は早世してしまいました。

さて、山本投手と佐々木投手、今後とも活躍を続けていただきたいものです。

も1件、先週の『読売新聞』さん文化面。やはり光太郎が本題ではありませんで、こちらは例えとしての引用のような形でしたが、光太郎の名を出して下さいました。

[書 2022]2氏それぞれの「すごい線」

 コロナ感染が落ち着いてきたからか、4月ころから書道展が活発になり、関西ではトップクラスの書家2人の個展が相次いだ。「書はつまるところ線」とはよく言ったもので、2氏の「すごい線」を堪能した。
(略)
 もうひとつの個展は「吉川蕉仙の書 Ⅱ」(4~5月)で、京都で開かれた。7年前に続く2回目の個展で、前回個展以降、日展、読売書法展、現代書道二十人展などに発表してきた作品群と近作との2部構成。吉川さんは現代を代表する王羲之書法の実践者で、数種類に分けられる羲之書のなかでも芯が強く、無骨な気分のものを好む。蘭亭序ならさまざまな模本のうち欧陽詢(おうようじゅん)が臨模したとされる定武本が好みで、本欄で前回掲載した神龍半印本などは「表情や変化が過ぎる」と敬遠する。
 今回の展示は文字造型を締める羲之ベースの作品と、池大雅に学んだのか、字形を解き放ち、懐を広げてみせるおおらかな書風とに大別できた。ただ双方に共通するのは「すごい線」から生じる「力が内にこもっていて騒がない」(高村光太郎)気分だろう。「だからこそ王羲之を攻める。ごくあたりまえの字を書いて、深さを、あるいは確かさを出していく」と言う。これを本格の書と呼ばずして何だろう。
 ここでは「あたりまえの字」として韓愈(かんゆ)(唐)の詩の一節を書いた作品を掲載する。「朝に出でゝ耕し、夜帰りて古人の書を読む。尽日(じんじつ)息(いこ)うことを得ず」

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引用されている光太郎の言葉は、昭和14年(1939)の雑誌『知性』に寄せた「書について」という文章の一節です。光太郎の書論として、あるいは一人光太郎に限らず、近代を代表する書論として有名なものですね。

書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。悪筆は大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。

この一節、書道に限らずあらゆる芸術の分野にあてはまるような気がします。彫刻や絵画などの美術、いわゆる現代アート、建築、さらには音楽、文芸、演劇、朗読等々……。それから料理でも、「ナントカソース添え」などで、せっかくの素晴らしいであろう素材の味がまったく消されてしまっているものなども。「大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。」その通りですね。

ちなみに同じ「書について」の中で、光太郎、記事にある王羲之についても言及しています。

羲之の書と称せられてゐるものは、なるほど多くの人の言ふ通り清和醇粋である。偏せず、激せず、大空のやうにひろく、のびのびとしてゐてつつましく、しかもその造型機構の妙は一点一画の歪みにまで行き届いてゐる。書体に独創が多く、その独創が皆普遍性を持つてゐるところを見ると、よほど優れた良識を具へてゐた人物と思はれる。右軍の癖というものが考へられず、実に我は法なりといふ権威と正中性とがある。

偏せず、激せず、大空のやうにひろく、のびのびとしてゐてつつましく」。万事そうありたいものですね。

【折々のことば・光太郎】008

藤島さんきて写真撮影、これは骨組、土つけの順序を参考にのこすため、


昭和28年(1953)3月11日の日記より
 光太郎71歳

藤島さん」は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』の詩人・藤島宇内。写真撮影を趣味としており、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作過程をいろいろと撮影してくれていました。

おそらくこの日の前後に撮られたのが右の写真。レントゲン写真のように骨組みが映っていますが、定点にカメラを据え、別々の日に撮影した骨組みと本体の写真を多重露光して撮影したか焼き付けたかしたと考えられます。

どうもネタ不足に陥りつつありまして、昨日もご紹介した紫陽花ネタでもう1日、引っ張らせていただきます。

昨日は、紫陽花がモチーフの智恵子紙絵を原画とした神戸文化ホールさんの巨大壁画についてでしたが、光太郎詩にも紫陽花が謳われているものがあります。ただし、花が枯れてしまってからの様子ですが……。

   未曾有の時
戦時アトリエ前ピン
 未曾有の時は沈黙のうちに迫る。
 一切をかけて死んで生きる時だ。
 さういふ時がもう其処に来てゐる。
 迫り来るものは仮借せず、
 悠久の物理に無益の表情はない。
 吾が事なほ中道にあり、
 世の富未だ必ずしも餓莩(がへう)を絶つに至らず、
 人みな食へないままに食ひ
 一寸先きの闇を衝いて生きる日、
 枚(ばい)を銜んで迫り来るものは四辺に満ちる。
 既に余が彫蟲の技は余を養はず、
 心をととのへて独り坐れば
 又年が暮れて歴日はあらためられる。
 巷に子供ら声をあげて遊びたはむれ、
 冬の日は穏かにあたたかく霜をくづし
 紫陽花の葉は凋み垂れて風雅の陣を張り、
 山雀は今年もチチと鳴いて窓を覗きこむ。
 すべて人事を超えて窮まる処を知らない。
 さればしづかに強くその時を邀(むか)へよう。
 一切の始末を終へて平然と来るを待たう。
 悉く傾けつくして裸とならう。
 おもむろに迫る未曾有の時
 むしろあの冬空の透徹の美に身を洗はう。
 清らかに起たう。
 
昭和12年(1937)12月の作品で、翌年の『中外商業新聞』に発表されました。一読し、身辺に大きな変化が訪れているけれど、決意を新たに頑張ろう、的な内容に読めます。

この年は日中戦争が勃発した年なので、その意味では生活も大きく変わった部分があったと思われます。そして、そうした外的環境もさることながら、光太郎の内面も大きく変わりつつありました。その要因は、智恵子。この時期、智恵子は「値(あ)ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)となり、南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り続ける毎日でした。
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   値(あ)ひがたき智恵子

 智恵子は見えないものを見、
 聞えないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを為る。

 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

智恵子をこうしてしまった原因の一つは、「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交渉を絶つ生活にもあったのではないかと、光太郎は反省します。そしてそうした生活を続けていては、自分もおかしくなるかも、と考えた可能性もあります。

   美に生きる

 一人の女性の愛に清められてseisaku
 私はやつと自己を得た。
 言はうやうなき窮乏をつづけながら
 私はもう一度美の世界にとびこんだ。
 生来の離群性は
 私を個の鍛冶に専念せしめて、
 世上の葛藤にうとからしめた。
 政治も経済も社会運動そのものさへも、
 影のやうにしか見えなかつた。
 智恵子と私とただ二人で
 人に知られぬ生活を戦ひつつ
 都会のまんなかに蟄居した。
 二人で築いた夢のかずかずは
 みんな内の世界のものばかり。
 検討するのも内部生命
 蓄積するのも内部財宝。
 私は美の強い腕に誘導せられて
 ひたすら彫刻の道に骨身をけづつた。

こちらは戦後、戦時中の戦争責任を含め、自らの半生を省みて作られた連作詩「暗愚小伝」中の一篇。昭和22年(1947)の作です。

「これではいかん」というわけで……

   最低にして最高の道
 無題
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。

こちらは智恵子没後の昭和15年(1940)の作ですが、最初に引用した「未曾有の時」にも通じる内容ですね。しかし、「みんなと一緒に」という方向に梶をきったものの、その「みんな」が「戦争」という狂瀾怒涛に呑み込まれて行き、さらには光太郎自身、その旗振り役とならざるを得なくなってしまったというのが、大いなる悲劇でした。

さて、紫陽花。

昨日は、神戸文化ホールさんの巨大壁画に原画として使われた智恵子紙絵をご紹介しましたが、他にも紫陽花をモチーフにした紙絵が存在します。上の「値(あ)ひがたき智恵子」の脇に載せたもの(『紙絵と詩 智恵子抄』昭和40年=1965初版 伊藤信吉 北川太一 髙村規編 社会思想社現代教養文庫の表紙に使われました)も「おそらく紫陽花でしょうし、下記の紙絵も「あじさい」の題が付けられています。
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いい感じですね。

ところで紫陽花。

昨日、御朱印マニアの妻と共に、茨城県潮来市の寺院に行って参りました。近年、「あじさい寺」として有名になってきた「二本松寺」という寺院です。智恵子の故郷、二本松とは無関係のようですが、変わった寺号ですね。

平成20年(2008)ごろから、ご住職がコツコツ紫陽花を増やし、目標1万株を達成、「あじさいの杜」として有料公開を始めて、テレビ等でも紹介されるようになりました。昨日も盛況。当方らはまだすいていた午前中に訪れましたが、帰る際には駐車場待ちの車で渋滞が発生していました。
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1万株、たしかに見応えがありました。
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さらにすごいと思ったのは、近年開発されたと思われる、いろいろな紫陽花が多いこと。「こんな紫陽花があるのか」的な。
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本堂付近には、紫陽花を使ったオブジェ的なものも。
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流行りの花手水も紫陽花でした。
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智恵子が見たら、さぞ喜んだだろうと思いました。

都心からは遠いのですが、ぜひお越し下さい。

【折々のことば・光太郎】

篠田定吉氏くる、水野君碑の事、

昭和28年(1953)3月7日の日記より 光太郎71歳

水野君」は水野葉舟。明治中期、『明星』以来の親友でしたが、昭和22年(1947)に歿しています。その歌碑を、葉舟の移り住んだ千葉成田の三里塚に立てる計画が持ち上がり、その件でしょう。「篠田定吉」は三里塚にほど近い印旛郡宗像村(現・印西市)在住の人物で、戦前から光太郎と面識がありました。

のちに歌碑の建設が具体化した頃、光太郎に碑面揮毫の依頼がありましたが、折悪しく健康がすぐれず断念、代わりに久保田空穂が筆を執りました。

地方紙『福島民友』さん、一昨日の一面コラム。

編集日記 梅雨入り

神戸市の文化ホールは、花瓶に生けた青いアジサイを描いた壁画がシンボルになっている。市民の文化力を創造、発信する拠点の象徴として、市民の花にちなんで選ばれた▼原画となったのは、神戸市から遠い二本松市出身の洋画家高村智恵子が制作した紙絵「アジサイと花瓶」。智恵子は心の病を患い、静養先の病床で紙絵を毎日のように作った。花や野菜など、目に触れたものを何でも題材にし、はさみで色紙を切り、作品に仕上げた▼きっかけは、夫の光太郎が贈った千代紙だった。折り鶴から始まり、次第に色紙を用いて紙細工や切り抜き絵を作った。千数百枚に及んだ紙絵を、光太郎は「智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明」と表した(「智恵子紙絵」ちくま文庫)▼智恵子の古里でアジサイの開花の便りが届くようになった。「あじさい寺」として市民らに親しまれている高林寺でも咲き始めた。今月下旬にも30種、約5千株が見頃を迎えるという▼県内がきのう梅雨入りした。しばらくはうっとうしい空模様が続きそうだ。智恵子らも目にとめた色鮮やかなアジサイに心を癒やされ、少しでも明るい気持ちで過ごせるならいい。

神戸文化ホールさん、コラムにあるとおり、智恵子紙絵を原画とした巨大なモザイクタイルで彩られています。当方、二十数年前、これを見るために神戸に行って参りました。
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洋画家の故・田中岑(たかし)氏の手になるものです。

智恵子の原画紙絵がこちら。
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「なぜ紫陽花?」と思っていましたが、紫陽花は「神戸市民の花」という位置づけだったのですね。

文化ホールさん、昭和48年(1973)開館ということで、老朽化による移転計画が持ち上がっていましたが、ここにきてコロナ禍による財源不足で計画の見直しがなされているとのこと。どうなりますことやら、注意していたいと思います。

当方自宅兼事務所にも、紫陽花が四株、妍を競っています。もっとも、「世界に一つだけの花」ではありませんが、花々には「競う」という感覚はないのでしょうが(笑)。
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もう1件、同じ『福島民友』さんの一面コラム、6月14日(火)の掲載分をご紹介します。生前の光太郎を撮影され、今月初めに亡くなった写真家・田沼武能氏について触れられていました。

編集日記 田沼武能さん

坂本龍馬や徳川慶喜など、写真の黎明(れいめい)期に撮られたポートレートは一様にしかめ面をしている。昔のカメラはフィルムに十分な光を当てるのに時間がかかって、顔の表情が動くときれいに撮影できなかった▼近年の研究では、笑顔に似た表情をつくることで、脳内の快感物質が活性化され、楽しい気持ちが生み出されることが分かってきている。カメラマンから「笑って」と言われた時には、笑う理由がなくても、素直に口角を上げたほうがいい▼世界100カ国以上を訪れ、子どもたちの表情を撮り続けた写真家、田沼武能さんが亡くなった。こだわったのが笑顔。戦争や飢餓そのものではなく、そこで懸命に生きる子どもたちの表情にカメラを向け続けた▼震災の後に本県を訪れた際も被災地ではなく、仮設住宅の被災者を撮った。家と共にアルバムなども流されてしまった人たちに記念写真を持ってもらうため。2人きりでの写真は結婚式以来56年ぶりという老夫婦は身を寄せ合って、ぎこちないながらも笑顔を見せた▼笑顔は自分ばかりではなく、それを見た人の気持ちにも影響することも分かっている。田沼さんがあの日撮った作品は、きっと今も誰かを明るい気持ちにしている。

田沼氏と福島、こういうつながりがあったというのは存じませんでした。改めましてご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】009

小坂さんくる、七尺像の骨組にとりかかる、ひる小坂さんと近所でソバ、


昭和28年(1953)3月5日の日記より
 光太郎71歳

七尺像」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の本体です。これまで小型試作、手の試作、中型試作と作り続けてきましたが、いよいよ本体の制作にかかりました。

小坂さん」は助手を務めた彫刻家・小坂圭二。「骨組」とともに撮影された写真が現存しています。通常の胸像程度の大きさでしたら、あるいは光太郎が健康不安を抱えていなかったら、光太郎一人でも何とかなったでしょうが、七尺ともなると、小坂の助けなくしては無理だったでしょう。

6月13日(月)に初回放映のあった番組の再放送があります。

再 徳永ゆうきの一期一会はなうた旅 #12

BSJapanext 2022年6月20日(月) 02:30~04:30/12:30~14:30

実力派演歌歌手の徳永ゆうきが北海道・東北地方の7道県をおさんぽ! その土地にゆかりのある方と一緒に北国の絶景やグルメ・工芸品等を巡ります。旅先を訪れる際にはその場所にまつわる”はなうた”を歌いながら、別れ際にはお世話になった方々へ歌をお届けします♪ みるだけでなく、聞いても楽しい旅番組です!

今回は二本松市を徳永ゆうきがを旅します。絶景!二本松城から眺める安達太良山。名菓「玉羊羹」の製造工程を見学。世界が認める日本酒に大興奮!

出演者 徳永ゆうき 箭内夢菜

初回放映を拝見いたしました。
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まずは二本松城(霞ヶ城)址。光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる故・橋本堅太郎氏作の二本松少年隊像前から始まりました。
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ご出演は、まず番組の冠になっている演歌歌手・徳永ゆうきさん。
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ゲストにして案内役は、郡山ご出身の女優・箭内夢菜さん。
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天守台へと上って行かれました。
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ただ、この日は曇天だったようで、安達太良山は見えず。そこで資料映像的な。
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続いてお二人が向かったのは、城址からほど近い市街地の玉嶋屋さん。羊羹の老舗です。
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羊羹作りの工程をご覧になったり、名物の玉羊羹を賞味されたり。
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最近はハート型の玉羊羹も販売されているそうで、これは存じませんでした。
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そして、智恵子生家/智恵子記念館に近い、道の駅「安達」智恵子の里
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最初は「道の駅安達」としか紹介されず、「おいおい、「智恵子の里」はどうした?」と思っていたら、演出的に引っ張っていたのでした。
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施設内に入ってから、「智恵子の里」と、明かされました。

そして、レモン。
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レモン系の商品等、いろいろ紹介されました。
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それ以外に、郷土料理「ざくざく」系も。下記は「ざくざくカレー」。
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この番組、タイトルに「はなうた旅」とあるとおり、徳永さんが行った先々で歌をご披露。ご自分の歌だったり、他の方の曲のカバーだったり。道の駅では、「もしかすると二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」か?」と思ったところ……。
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「れもんコロッケ」を召し上がりつつ、まさかの米津玄師さん「Lemon」、演歌風(笑)。

この後は、同じ道の駅「安達」智恵子の里の和紙伝承館さんで、紙漉き体験。
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残念ながら、智恵子の生家/智恵子記念館には立ち寄られませんでしたが、さらに二本松市内のおすすめスポットへ。

岳温泉さん。
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奥の松酒造さん。
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尺が2時間の番組ですので、各所、詳しく紹介されていました。

次回放映は盛岡編だそうですが、今後また、光太郎智恵子がらみの場所等、レポートしていただきたいものです。

もう1件、初回放映がもう今夜なのですが、昨日になってネットに情報が出たもので……。

アプリで生判定!地域創生プレゼンバトル #10

BSJapanext 2022年6月17日(金) 19:00~20:00 
再放送 6月24日(金) 02:30~03:30/12:30~13:30


絶景、グルメ、伝統工芸など、日本全国、地域の魅力を東西に分かれて熱烈プレゼン! MCを関根勤と小堺一機が交代で担当。魅力たっぷりの映像と、熱のこもったプレゼンで、これまで知らなかった地域の魅力をトコトンお伝えします。プレゼンの勝敗を決めるのは、アプリを使った視聴者投票!家族みんなで奮ってご参加ください!!

今回の対決は…
▼絶景対決
 二本松城(福島)VS日御碕灯台(島根)
▼工芸品対決
 上川崎和紙(福島)VS薩摩切子(鹿児島)▼極上グルメ対決
 温泉ワインうなぎ(山梨)VS薩摩牛・極(鹿児島)

出演者 判定人:関根勤 プレゼンター西日本:みかん 東日本:たきうえ(流れ星☆)
進行:山中秀樹
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「徳永ゆうきの……」と同じ、BSJapanextさん(今春開局・全番組無料放映)の番組です。

併せてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

迎により車で一時頃中山太陽堂の講堂行、満員、井上女史ゐる、談話を2時間はかり、

昭和28年(1953)2月28日の日記より 光太郎71歳

はかり」は「ばかり」。光太郎、時々濁点の省略が見られます。

中山太陽堂」は、現・クラブコスメチックス。老舗の化粧品メーカーです。「井上女史」は、智恵子の母校・本女子大学校の第四代校長を務めた井上秀。この日は井上も一枚からんでいた「中山文化研究所婦人文化講座」の一環として、井上が旧知の光太郎の講演をお膳立てしました。前年までの花巻郊外旧太田村での山小屋生活、制作中の生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などについて語られています。

講演の筆録は、「美と真実の生活」の題で、この年発行の雑誌『婦人公論』第37巻第6号に載り、さらに古谷綱武編『暮しの美しさ』(講談社 昭和29年=1954)に再録されました。それをテキストに『高村光太郎全集』第10巻に収められています。

ところが、そちらは講演全体の7割程度の部分のみの筆録でした。全文は雑誌『女性教養』第173号(昭和28年=1953 6月)に「炉辺雑感」の題で収録されています。どうも何かしらの「大人の事情」があったようで、『婦人公論』等では、井上の名が出て来る部分がスパッとカットされています。当方編集の「光太郎遺珠⑧」(『髙村光太郎研究』第34号 平成25年=2013 髙村光太郎研究会)に全文を載せました。国会図書館さん、日本近代文学館さん等に所蔵されています。

また、『婦人公論』所収の際に生じた誤植が、そのまま『高村光太郎全集』に踏襲されてしまいました。農作物の種蒔きに関しての部分で、『婦人公論』では「今日は都合が悪いから明日まこうでは、決していい物をつくることができない。そんなずれは許されない。」となっていますが、本来は「今日は都合が悪いから明日まこうでは、決していゝ物をつくることが出来ない。そんなズルは許されない。」となっていました。「ずれ」と「ズル」では、かなりニュアンスが異なりますね。

こういうこともあるので、この世界、なかなか大変です。

また、やはり『婦人公論』でカットされている部分に、実に興味深い一節がありました。

 昔は詩の月評というのがあつて、僕の創つた詩なんか、そこで毎月といつていゝ程必ずやつつけられたものだ。こんなのは詩じやない、てんで詩になつていないといわれる。あんまりいわれるので、俺のはそんなに詩になつていないのかなあとふさぎ込んでしまう。考えてみる。と、やつぱり詩になつている。また書く。またやられる。書いてはやられ、やられては書く。こつちはそれよりほかどうしようもない、絶体絶命なんだから、そして人間はとにかく生きてゆく権利があるのだから、俺は俺のことをやるしかない。俺の道を行くしかないというんで、二年程続けていたら、向こうでも根負けしたのか、馬鹿は相手に出来ないとでも思つたのか、パツタリやめてしまつた。

詩の月評」というのがどういうものなのか、よくわからないのですが、「句会」や「歌会」のような催しだったのでしょうか、それとも投稿雑誌等に詩を投稿していたということなのでしょうか。いずれにしてもきちんと詩人としてデビューする前の話と思われます。後者であれば、「二年程」の間、知られざる光太郎詩がなにがしかの雑誌に載ったということになりますが、そうした作品群の存在が確認出来ていません。情報をお持ちの方、コメント欄等から御教示いただければ幸いです。

光太郎の父、光雲のからみで、見落としていた新聞記事がありました。『夕刊フジ』さん4月8日(金)掲載で、その後気づいたものの、紹介するタイミングを失っていました。

今日になって『毎日新聞』さん東京版にも同じ記事が出ました。どうも共同通信さんあたりの配信記事のようです。

東京舞台さんぽ 越後屋の歴史継ぐ日本初の百貨店「三越」 東京・日本橋室町

 江戸時代後期に歌川広重が描いた浮世絵「名所江戸百景・するがてふ」は、買い物客らでにぎわう呉服店「越後屋」と遠くに見える富士山を描いた作品。するがてふ(駿河町)は、現在の東京都中央区日本橋室町のことで、越後屋は日本橋三越本店として当時と同じ場所で営業を続けている。
 三井高利が1673年に江戸に開いた越後屋は、83年に駿河町に移転。現金掛け値なし、切り売りといった画期的な商売手法で大繁盛した。江戸庶民の憧れの地であり、富士山の眺望が良かった駿河町は、浮世絵の格好の題材だった。
 1904年に三越呉服店と屋号を改め、日本初の百貨店となった。堂々たるルネサンス様式の本館は35年に完成したもので、2016年に国の重要文化財に指定された。完成当時は国会議事堂、丸ビルに次ぐ大建築だった。
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 正面玄関で買い物客を迎え入れる2頭のライオン像は、三越の象徴的存在。内装は華やかで、本館1階中央ホールにそびえる高さ約11メートルの天女像は、まるでゲームの〝ラスボス〟のよう。壁面には大理石が張り詰められており、隠れたアンモナイトの化石を探すのも楽しい。
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 建物の屋上には三井家を守る三囲神社があり、商売繁盛と幸運をもたらすとされる活動大黒天の木像が祭られている。日本を代表する彫刻家、高村光雲が、1912年に手掛けた。
 越後屋が伝説の名工左甚五郎に大黒を彫るよう依頼する、古典落語「三井の大黒」とよく似た話であることに興味をかき立てられる。しかし三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からないという。
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【メモ】屋上には「漱石の越後屋」と刻まれた石碑がある。夏目漱石の作品に越後屋や三越が多く登場することを記念して、2006年に建てられた。

日本橋三越さん。実は当方(「実は」というほどのことでもありませんが(笑))、学生時代の4年間、冬休みはお歳暮の時期ということで、三越さんでアルバイトをさせていただいておりました。と言っても店舗ではなく、配送の方でしたが。バブル前夜の景気が上向いていた時期で、バイト代もけっこうなものでしたし、何と言っても老舗中の老舗だけあって、扱う品物も豪勢なものでした。当時のN首相宛のお歳暮、ウィスキー1本40,000円也とか(笑)。

閑話休題。

屋上に鎮座まします三囲(みめぐり)神社さんに納められているという光雲作の大黒天像。通常非公開でして、当方、画像も見たことがありませんでした。こういうものだったのか、さすが光雲、という感じです。

記事では「三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からない」とあり、残念です。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に「光雲に依頼した経緯や落語との関係」が載っていますので。もっとも、光雲が語っているのは落語ではなく講談との関わりですが、内容的には同一でしょう。

少し長くなりますが、関係する部分を引用します。「左甚五郎と其研究」という章の、まず冒頭「未だ曾て出会つたことがない」という項から。明らかな誤字は正しました。

 左甚五郎と其作の事に就いては、予も子供の時分からいろいろ聞ては居るが、真実甚五郎の作なるものには、未だ曾て出会つたことがない。思ふに左甚五郎といふ人は、机山系に属する左利きの彫物大工ではあるまいか。併(しか)し乍ら、何分にも其遺作が明瞭ならぬので、其人の有無さへも疑はれて只今の処では、未だ何れとも断言することの出来ないのは、甚だ遺憾とする処である。
 従来何処でも堂宮の彫物に、無銘の美事な作があると、其多くは甚五郎作と称せられ、また木像彫刻になると、拙劣極まる大黒天の像にも甚五郎作の名を附けて、巧拙ともに甚五郎にしてあるのは、実に不思議な訳であるが、考へて見ると、之れには相当の理由があると思ふ。
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 後者は左甚五郎が江戸に出て来て、大工の棟梁某の家に食客となつて居た時、小刀で彫つた不状(ぶざま)な大黒天の像を、越後屋(今の三越呉服店)へ持つて往つて見せた処、其大黒天が莞爾(につこ)と笑つたと云ふので、直ぐさま大枚百両に買つて呉れ、越後屋も此大黒天を買つてから、店が一層繁昌したといふ話から起つたもので、之れは講釈師が張扇に花を咲かせた作り話であるが、これから考へついて、大工彫の拙(まづ)い大黒天でさへあれば左甚五郎作と云ふ名を附けて、狡猾(ずる)い古道具屋などが担ぎ廻すのではあるまいか。
(略)


それに続く「三越の大黒天」という項。

 越後屋の大黒天の事に就て、三四年前の事、予は三越呉服店の日比翁助氏に、其実否を尋ねた処、氏は一向知らぬとあつて、更に同店の大黒柱と云はれて居る、藤村喜七老人へ、其事を問合せてくれられたが、藤村老人も、然(さ)う云ふ大黒天は全く無いと答へたさうだ。乃(そこ)で日比氏は此話を縁として店に大黒天を祀りたいと言出し、其製作を予に依頼されたから、随分念を入れて彫つたが、此大黒天には、予の銘を入れて置いたから、後世に至つて伝来の甚五郎作の大黒だなどゝ、間違へられる気遣ひはない。
(略)


日比翁助は三越専務、藤村喜七は常務です。このあと、藤村の還暦祝にと三越から贈られた黄金の大黒像原型も、光雲が依頼されて彫ったという話が続きます。

昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』は、700ページ超の分厚いものです。前半3分の2ほどが「昔ばなし」で、光太郎の友人だった作家・田村松魚が光雲宅に出向いて語ってもらい筆録した回顧談(一部はそれ以前に公の場で語ったもの)、後半3分の1ほどは「想華篇」と題し、国華倶楽部などさまざまな場で語ったさまざまな内容の話の筆録集成です。

「昔ばなし」の方は、後に中央公論美術出版さんと新人物往来社さん、日本図書センターさんからハードカバーの覆刻が出、岩波文庫さんでも『幕末維新懐古談』の題名で出版されました。さらにインターネット上の青空文庫さんにもおそらく全文が掲載れていると思われます。

とこらが「想華篇」の方は、その後の各種覆刻ではカットされており、そのため一般にはあまり知られていません。三越さんの大黒天像については「想華篇」で語れており、そこで「三越伊勢丹の広報担当者によると、光雲に依頼した経緯や落語との関係は分からない」ということになってしまったのでしょう。

「想華篇」部分も含めた覆刻、あるいは「想華篇」単独での覆刻がなされてほしいものです。三越さんの大黒天像以外にも、生人形の松本喜三郎や光雲の師・髙村東雲、さらにそのまた師・髙橋鳳雲、主に関東の寺社建築や装飾彫刻などについても語られており、貴重な記録です。

ところで余談というと何ですが、上の方の画像にもある、やはり日本橋三越さん所蔵の巨大天女像、正式な作品名は「天女(まごころ)像」といい、作者は佐藤玄々。佐藤は元々、光雲の高弟の一人・山崎朝雲の弟子で、「朝山」と号していました。従って光雲から見ての孫弟子に当たります。ところが、思うところあって朝雲門下を離れ、「玄々」と改名しています。

参考までに。

【折々のことば・光太郎】

午后新宿行、三越にてウドン等 二幸にて肉まん、タキシでかへる、


昭和28年(1953)2月25日の日記より 光太郎71歳

光太郎、三越さんの日本橋本店ではなく、新宿店でうどんを食べたか、あるいは自宅調理用に買ったかしたようです。「二幸」は現在の新宿アルタの場所にあった総合食品店。やはり三越さんのグループ企業でした。

3日前の日曜日、調べ物があって、隣町にある県立図書館の分館に行って参りました。その帰途、ふと立ち寄った道の駅的な(公的な「道の駅」ではないのですが、似たような)施設で、見つけました。
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グロキシニアの鉢です。ちなみに1鉢300円でした。

「智恵子抄」に複数回登場するので、光太郎智恵子ファンにはその名が広く知られていますが、一般には珍しい花の部類だと思います。当方、それほどフラワーショップ等に足繁く通っている訳ではありませんが、店頭で売られているのを見つけたのは初めてでした。もっとも、都会のシャレオツなフラワーショップさんなどでは、意外と普通に売られているのかも知れませんが。

かつて自宅兼事務所に1鉢あったのですが、残念ながら枯死してしまいました。そちらは平成28年(2016)、智恵子の故郷、福島二本松で開催された智恵子を偲ぶ「レモン忌」の際に会場内に飾られていて、それをいただいて帰ったものでした。平成30年(2018)までは元気に咲いていたのですが、その年の冬は越せませんでした。

なぜ「智恵子抄」にグロキシニアが出て来るかというと……。

まず散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)。

彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまひ、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰つてゆくのが常であつた。私は彼女の着こなしのうまさと、きやしやな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかつた。彼女は決して自分の画いた絵を持つて来なかつたのでどんなものを画いてゐるのかまるで知らなかつた。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらふ事になり、明治四十五年には出来上つて、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持つて此処へ訪ねて来た。

光太郎智恵子が出会ったのは明治44年(1911)末、翌年の6月に、駒込林町の光太郎実家近くにアトリエ兼住居が竣工し、その新築祝いにと、智恵子が持ってきたのがそもそもです。

その頃の光太郎は、欧米留学で身につけてきた新しい彫刻のありようが日本で認められない苦悩を抱え、荒んだ生活を送っていました。そこで、智恵子を受け入れるかどうかも、非常に逡巡。そんな時期に書かれた詩「あをい雨」に、初めてグロキシニアが現れます。長い詩なのでその部分だけ抜粋します。
無題2
寄席で、大川端で
そして
ミステリアスな南米の花
グロキシニアの花弁の奥で
薄紫の踊り子が、楽屋(フオワイエエ)の入口で
さう、さう
流行(はやり)の小唄をうたひながら
夕方、雷門のレストオランで
怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで
待つてゐる、マドモワゼルが
待つてゐる、私を――


この詩が書かれたのが明治45年(1912)6月21日。6月6日には新築なったアトリエに転居した通知を方々に出していますので、智恵子が鉢を持って訪れたのもおそらくこの月。貰ってすぐに詩に詠んでいるわけです。ただし、この詩は「智恵子抄」には収められませんでした。

「智恵子抄」でのグロキシニア初出は、巻頭の詩「人に」。同じ年7月作のもの。「大正」に改元となった9月、雑誌『劇と詩』への発表当初は「N――女史に」という題でした。大正3年(1914)の詩集『道程』に収められた際に「――に」と改題、内容もかなり改訂され、さらに最終的には昭和16年(1941)の詩集『智恵子抄』の巻頭を飾っています。最終詩形がこちら。

   人に
1013
 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 花よりさきに実のなるやうな
 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
 夏から春のすぐ来るやうな
 そんな理窟に合はない不自然を
 どうかしないでゐて下さい
 型のやうな旦那さまと
 まるい字をかくそのあなたと
 かう考へてさへなぜか私は泣かれます
 小鳥のやうに臆病で
 大風のやうにわがままな
 あなたがお嫁にゆくなんて

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 なぜさうたやすく
 さあ何といひませう――まあ言はば
 その身を売る気になれるんでせう
 あなたはその身を売るんです
 一人の世界から
 万人の世界へ0324
 そして男に負けて
 無意味に負けて
 ああ何といふ醜悪事でせう
 まるでさう
 チシアンの画いた絵が
 鶴巻町へ買物に出るのです
 私は淋しい かなしい
 何といふ気はないけれど
 ちやうどあなたの下すつた
 あのグロキシニヤ
 大きな花の腐つてゆくのを見る様な
 私を棄てて腐つてゆくのを見る様な  
 空を旅してゆく鳥の
 ゆくへをぢつとみてゐる様な
 浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
 はかない 淋しい 焼けつく様な
 ――それでも恋とはちがひます
 サンタマリア
 ちがひます ちがひます
 何がどうとはもとより知らねど
 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 おまけにお嫁にゆくなんて
 よその男のこころのままになるなんて

次にグロキシニアが謳われるのは、智恵子没後の詩「亡き人に」(昭和14年=1939)。

   亡き人に
無題
 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

書かれているシチュエーションがフィクションでなければ、おそらく智恵子没後に智恵子を偲ぶため、智恵子を象徴する花であったグロキシニアを購入したのだと思われます。

フィクションではないことを祈ります。というのは、同じ頃書かれた「レモン哀歌」はフィクションくさい部分がありまして……。

末尾の二行、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」とありますが、この詩が書かれたのは2月、桜など咲いていようはずがありません。雑誌『新女苑』への発表が4月になるということで、それに合わせたのでしょう。まぁ、「桜咲く4月にはそうしよう」と思っていて、実際、4月になったらそうしたのだとは思いたいところですが……。

ところでグロキシニア。以前にいただいたものは、悪い奴に囓られてほとんど丸坊主になってしまったことがありました。そこから復活して花を咲かせましたが、その時の無理がたたったのか、翌年は駄目になってしまいました。凶悪犯人ならぬ極悪犯猫(はんにゃん)はこいつです(笑)。
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今度は気を付けます(笑)。

【折々のことば・光太郎】

三宅坂にて下りモニユマンを見る、


昭和28年(1953)2月23日の日記より 光太郎71歳

モニユマン」は「モニュメント」。仏語で表すと「モニュマン」となる感じです。

具体的には、現在の最高裁前、内堀通りに青山通りがぶつかる丁字路のかたわらにある、菊池一雄制作の「平和の群像」を指します。
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昭和26年(1951)に設置されたもので、おそらく野外の公共空間に置かれた初めての裸婦像ではないかと思います。戦後の風潮の中で、裸婦像は平和や自由を象徴するものとして、これを皮切りに流行します。

同じ公共空間の裸婦像ということで、光太郎も生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の参考にするために見たのでしょう。菊池は「乙女の像」制作のための下見にも同行し、光太郎に助手として小坂圭二を紹介しましたし、健康に不安があった光太郎は、自分が倒れて制作不能になった場合の代わりの制作者に菊池を指名していました。

また、台座との関わりも、光太郎は参考にしたと思われます。

「平和の群像」、一見して、台座とのバランスが非常に悪いのですが、それもそのはず、この台座の上には、もともと北村西望制作になる、寺内正毅陸軍大将の騎馬像が乗っていました。寺内は戊辰戦争では長州藩士として箱舘戦争まで戦い、その後、陸軍大臣、朝鮮総督、そして内閣総理大臣も務めています。ちなみに尖った禿頭がアメリカ生まれのキャラクター「ビリケン」に似ており、さらに総理在任中は国民から国民無視の政権運営だと不評で、「非立憲(ビリケン)宰相」と揶揄されました。結局、第一次大戦後の米騒動がきっかけで政権の座を追われています。同じ長州の「でんでん宰相」は、いかに不評でも自分で投げ出すまで居座り続けましたが(笑)。

その寺内像が戦時の金属供出で無くなり、残っていた台座を「平和の群像」に転用したわけです。ある意味、象徴的なできごとですね。

光太郎、この像の台座と本体とのバランスの悪さが気になり、「乙女の像」では同じ轍を踏むまいと、この後、鋳造を担当した伊藤忠雄の工房の庭に、台座の雛形を木で作ってもらい、台座とのバランス、向かいあう二体の像の位置関係など、ああでもないこうでもないと、いろいろ試行錯誤しました。
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まず、先週の『毎日新聞』さん大阪夕刊記事から。

西洋近代画と民芸、所蔵品から厳選 カンディンスキーやリーチ作品 大山崎山荘美術館

 アサヒビール大山崎山荘美術館(京都府大山崎町)が「コレクション春」展を開催している。収蔵品の中核をなす、近代西洋絵画や民芸運動ゆかりの器を中心に構成。約100年前に同時代を生きた作家たちの作品とともに、その経歴や関わりにも迫る。
 フランスの画家、モーリス・ユトリロの母、シュザンヌ・バラドンの絵画「静物 果物」は1922年に描かれた。バラドンは自身も絵描きであると同時に、ルノワールやロートレックなどが描いたモデルでもあった。自由奔放な性格だったと伝わる。主任学芸員の中村祐美子さんは「意志の強さを感じる強い線が印象的」と評価する。ユトリロの絵も併せて鑑賞でき、画風の違いが面白い。20年ごろに描いた「田舎の村役場」、40年ごろに描いた「雪景色」が並ぶ。前者と比べて後者は色彩が華やか。しかし、空元気のような空虚さを感じる。中村さんは「自らの目と足でモチーフを探していた前者と絵はがきを見て描いた後者。描きたいものの差かもしれません」と指摘する。
 欧州では、20年ごろからドイツでナチスが力を持ち始め、40年にはフランスに侵攻した。ロシア出身の画家、ワシリー・カンディンスキーは22年にドイツの芸術学校「バウハウス」の教授に就任したが、ナチスから逃れるため33年からフランスに亡命。本展では、22年に制作した幾何学的な抽象絵画「コンポジション」が展示されている。「題名はさまざまな要素を組み合わせるという意味。色彩、空間、(音楽の)リズムを組み合わせている」と中村さんは解説する。リズムを含むのは自らも演奏するなど音楽を好んだため。音楽好きの画家、バウハウスの同僚という共通点がある友人、パウル・クレーの絵画「大聖堂(東方風の)」も並ぶ。
 今年生誕135年の陶芸家、バーナード・リーチは日本で暮らし、民芸の人脈とつながりがあった英国人。濱田庄司とともに20年に渡英。失われていた伝統的な陶器、化粧土を使ったスリップウエアの研究をする。同年、同国のコーンウォール州セントアイブスで東洋式の登り窯を築き、工房「リーチ・ポタリー」を設立した。今回は2人のスリップウエアを見比べられる。中村さんは「スリップウエアには2系統ある。飾り皿と実用皿。リーチは両方作り、濱田は実用品のみを作った」と特徴を紹介する。
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 同館が所蔵する民芸運動ゆかりの作品の多くは実際に使われた。元所有者のアサヒビール初代社長、山本為三郎(ためさぶろう)は民芸の草創期からの支援者。手仕事の日用品に美しさを見いだす民芸の考え方「用の美」に共鳴し、普段使いをしたと考えられる。広報の池田恵子さんは「どんな盛り付けをしたか想像すると面白いかもしれません」と視点を変えた楽しみ方を提案する。
 2人が英国生活中に出会った染織家、エセル・メレが20年代に作った上着とショール、服地も見られる。民芸にも影響を与えたとされる19世紀末にイギリスで起こった手工芸の復興運動「アーツ・アンド・クラフツ」の流れをくむ作家だ。羊毛の刈り込みから仕立てまで全て手作業で行う。展示品の状態の良さが驚きである。「大切に保管されたのも大きいが、丁寧に作られたからこそ」と中村さん。
  詩集『智恵子抄』で知られる高村光太郎の妻、智恵子もメレに魅せられた一人。「物をねだる性格ではなかったようですが、とても欲しがったそうです。高価だったために光太郎が頑張ってお金を工面したといいます」と池田さん。
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 「釉薬(ゆうやく)の魔術師」と呼ばれたオーストリア出身の陶芸家、ルーシー・リーの器なども含め全68点で構成。7月3日まで。月曜休館。同館(075・957・3123)。

イギリスの染織工芸家、エセル・メレの関係で、光太郎智恵子の名を出して下さいました。

記事にあるように、光太郎は智恵子にせがまれて、メレ作のブランケットを購入。それがおそらく大正末のことで、奇跡的に2度の空襲(東京駒込林町/岩手花巻)をくぐり抜けて現存し、花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。令和元年(2019)には盛岡で、翌年には花巻で公開されました。
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光太郎遺品等を突っ込んであった中からみつかったものですが、どうも伝統的毛織物のホームスパンらしいということで、岩手県立大学さんの菊池直子教授らに調査を依頼、その結果、メレかその工房の作で間違いない、と鑑定されました。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、これがそれである、ということです。

智恵子が欲しがった云々は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村にホームスパン制作指導に来ていた福田ハレ(岩手のホームスパンの祖・及川全三の弟子)の回想にありました。

 夫人が作った掛け布を見たのは戦後、稗貫郡太田村(現花巻市)の駿河定見氏宅である。駿河氏のめい・さつ子にホームスパンの紡織を教えてほしいという話があり、太田村に私が初めて行ったとき、駿河氏宅から五百メートルぐらい離れたお住まいから高村先生が持参して見せてくださった。幅五十センチ、長さ二メートルぐらい、地は平織り、両端の柄は筵織り、地色はよく覚えていないが白茶ぐらいだったか、ざっくりとした風合い、その布は驚くほど気楽に織ってあり、それでいて勘どころはちゃんと押さえてある。用途第一のあか抜けた出来栄えだった。
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 戦災で丸焼けになられた高村先生は、逃げる時それをかぶっていられたという。メレー作品展が銀座の資生堂か丸善だったかで催されたとき、智恵子夫人がこの一点だけは何としても欲しいと懇望された。結婚してから夫人自身が身につけるものなど一度も欲しいと言われたことがないので、望まれるようにしたいと思ったが、その時先生はお金がなくて困ったと笑いながら話された。
   後日、先生の山小屋に伺ったとき、座布団代わりに当てるようにと、小さく畳んで出してくださったが、もったいなくて敷くなどできず、ただなでさすって眺めていたのだった。
(「メレー夫人と高村光太郎」『岩手日報』平成14年)

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後の写真に、このブランケットが写っているものが複数枚ありましたが、最近、花巻郊外旧太田村の山小屋で撮られた写真の中にもそれを見つけました。
メレ毛布太田村
左の方に無造作に置かれています。

菊池教授、花巻のブランケット調査の際、国内でメレ作品を収蔵している数少ない施設の一つであるアサヒビール大山崎山荘美術館さんの、今回展示されているというショールなどと比較検討を行い、花巻のものもメレ(或いはその工房)作と結論づけられました。
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左が花巻、右がアサヒビール大山崎山荘美術館さんのもの。確かによく似ています。ただ似ているというだけでなく、花巻のものは、日本にいない種類の羊の毛を使っているというのも根拠でした。

アサヒビール大山崎山荘美術館さんでは、その際に花巻から調査が入ったことで、光太郎智恵子のエピソードを知られたのでしょう。そして『毎日』さんの取材でご紹介下さったと思われます。ありがたし。

そしてメレ作品以外にも、光太郎の盟友、バーナード・リーチの陶芸作品も展示されています。光太郎が件(くだん)のブランケットを購入したのは、大正末、銀座鳩居堂画廊でののリーチとメレの二人展の際のことと推定されています。

さて、アサヒビール大山崎山荘美術館さんでの展示情報を。実はもう開幕して結構たっています。

コレクション 春 ―所蔵作品による名品展

期 日 : 2022年3月19日(土)~7月3日(日)
会 場 : アサヒビール大山崎山荘美術館 京都府乙訓郡大山崎町銭原5-3
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般900円(団体:800円) 高・大学生500円(団体:400円)
      中学生以下無料 障害者手帳をお持ちの方300円

アサヒビール大山崎山荘美術館は、1996年春に開館しました。所蔵品の中核を成すのが、クロード・モネ《睡蓮》をはじめとする西洋近代絵画と、開館に際して寄贈された、朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長・山本爲三郎による民藝運動ゆかりのコレクションです。このたびは、当館のおよそ1000件の所蔵品から選出した、多彩な作家たちとその作品をご紹介する展覧会を開催いたします。
地中館では、モネ《睡蓮》をはじめ、シニャック《ヴェネツィア》など水の情景を特集し、「地中の宝石箱」の名にふさわしい小さくも見ごたえのある空間で皆さまをお迎えします。山手館は、カンディンスキー、クレーをはじめ印象派以降の主要な芸術運動に関わった作家を、本館では、生誕135年のバーナード・リーチと同じく120年のルーシー・リー、英国陶芸を代表する二人の作品をその関係性からひも解きます。
美術館の庭園に花々が咲き誇る春から、池が睡蓮で満ちる初夏のころ、遺された貴重な建築物や美しい風景とともに、珠玉の逸品をお楽しみください。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午前十一時過中央公論社より迎の車くる、出かけて、高輪「松」といふ料亭にゆく、リーチ、柳、濱田の三氏。他に石川欣一氏松下英麿氏あり、和、英の速記者4人、中食を共にしながらしやべる、


昭和28年(1953)2月23日の日記より 光太郎71歳

『中央公論』第68年第4号(この年4月)に載った座談会「敗けた国の文化-東西美術・工芸の交流-」です。2日後にはラジオ放送も為されました(録音音源が残っていないか探しているのですが……)。

」は「柳宗悦」、「濱田」は濱田庄司、「石川欣一」は翻訳家・ジャーナリスト、「松下英麿」は『中央公論』編集者です。

この座談で、メレの話題が出ました。

石川 織物のマダム・メアリーは?
リーチ 去年死にました。
柳 ぼくら訪ねたが、いいことしましたよ。それから何カ月目かに死んだんです。
石川 いいお年でしよう。
リーチ 八十以上です。
高村 どこでやつていたのですか。
柳 デイツチリングといつて、サセツクスです。
リーチ ロンドンからずつと南、四十マイルくらいです。
濱田 近くにブライトンという海水浴場がある。そのブライトンにも店がありましてね。今思うと、あの店へ行つて、品物がもつとほしかつた。僕達が訪ねたことを非常に喜んでくだすつて、いろいろいただきものをして、今私たちやつているのも、今度もらつて来たものですし、それから焼物なんかも、フイツシリーという人の英国の焼物で、最後の伝統的陶工ですが、そういうものをたくさん持つて来られたのです。どれでもいいから持つて行けといつて、みんな出してくださつた。
柳 一番いいのをもらつて来た。
リーチ 私の考えですが、夫人の仕事なんか日本で見せるために展覧会やりたいな。
柳 記念会をやろうよ。
リーチ 英国ばかりじやないのです。世界中の織物に影響を与えた人ですから。
石川 あとを継ぐ人はないのですか。
柳 ほんとうにいい後継者はないですね。


メレは、日本では名前の表記が一定していません。ファーストネームは「エセル」でほぼ統一されていますが、ファミリーネームの方は「メレ」「メーレ」「メーレー」「メイレ」「メレー」、そしてここにもあるように「メアリー」。

それが原因とも思えませんが、光太郎、自分の所有しているブランケットについて話しませんでした。リーチ、柳、濱田の三人は、光太郎がそれを持っていることを知っていたと思われますが。

現在、長野県立美術館さんで開催中の「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展について。

関連行事として、先月末には彫刻家・修復家の藤曲隆哉氏と東京芸術大学大学院小島久典助教によるご講演が行われましたが、一昨日は同大の藪内佐斗司名誉教授、山田修講師のご講演。地元紙『信濃毎日新聞』さんがその模様を報じています。

善光寺から文化財を考える 東京芸術大の2氏、県立美術館で講演

 県立美術館(長野市)で11日、善光寺(同)御開帳記念企画展「善光寺さんと高村光雲」(県、信濃毎日新聞社など主催)関連の講演会が開かれた。善光寺仁王門の金剛力士像を弟子らと共に作った彫刻家高村光雲(1852~1934年)や文化財のデジタル化に関する紹介があり、約30人が耳を傾けた。
 講師の一人で、東京芸術大名誉教授の藪内佐斗司(やぶうちさとし)さんは高村光雲について「日本伝統の木彫に西洋的な彫刻技法を取り入れ、写実的な彫刻表現を確立した」と説明。同時代を生きた思想家岡倉天心にも触れ「文化とは、その土地に根差す固有のアイデンティティーを深めることで生まれる美意識。普遍性や効率を求める文明とは異なる」とした。
 同大非常勤講師の山田修さんは、3Dスキャナーなどを活用した文化財のデジタル化を紹介。仏像の色や内部の形を緻密に再現することで制作当時の状態を知る手掛かりも得られるとし、「本物を超えた新たな見方を示してくれるのがデジタル技術だ」と力を込めた。
 企画展は26日まで。仁王像に関する同大の調査結果などを展示している。
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藪内氏、奈良県のゆるキャラ「せんとくん」の作者としても有名な方ですが、本来は仏像の保存修復がご専門です。平成19年(2007)、NHK教育テレビ(現・Eテレ)で放映されていた「知るを楽しむこの人この世界 ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心」(全8回、テキストも刊行)の中で、やはり光雲に触れて下さいました。
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もう1件、ご開帳記念グッズ情報です。

令和四年善光寺御開帳記念大判

善光寺で御祈祷を受けた令和四年善光寺御開帳記念大 判(本金メッキ〈24K〉仕上げ)。過去 2 回の善光寺御開帳 でも、家内安全・商売繁盛などを願って、多くの参拝 客の皆さまにお求めいただきました。縦約 7 センチ・横約 4.3 センチの大判を収める台紙は観音開き。中央の大判を護るように、左右に善光寺仁王 像が配置されています。SDGs の観点から、台紙には 牛乳パックを再生した厚紙を使用。台紙を開いて、お 仏壇など、お好きなところにお飾りいただけます。 

▼サイズ
パッケージ A4サイズ
台紙・・・縦 15cm  横 8cm (観音開き時 横20cm)
大判・・・縦    7cm  横 4.3cm

▼配送について
・配送方法:宅急便コンパクト
・送料:全国一律 ¥660
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大判はともかく、パッケージに光雲とその高弟・米原雲海作の仁王像があしらわれてしまっているもので(笑)、購入しようかどうか迷っております。

さて、「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」展、今月26日までの開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝九時頃谷口氏くる、一緒に駒場の民芸館にリーチ 柳氏をたづねる、久しぶりでリーチにあふ、中食御馳走になり、二時過辞去、


昭和28年(1953)2月21日の日記より 光太郎71歳

谷口氏」は建築家の谷口吉郎。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」を含む一帯の公園設計を担当しました。

過日もご紹介しましたが、「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治末、ロンドン留学中の光太郎と親しくなり、それが直接のきっかけで来日、柳宗悦(「柳氏」)ら、白樺派の面々とも交流を持ちました。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この時が18年ぶりの来日。翌年まで日本に滞在しました。

駒場の民芸館」は、日本民藝館さん。昭和11年(1936)の竣工で、当方、近くの日本近代文学館さんに行ったついでなどで何度か訪れましたが、光太郎もここに来ていたというのは見落としておりました。

地方紙『福島民友』さんと、ローカルラジオ局・ふくしまFMさんの番組「福島をあなたと知りたい3時間・福空間~フクスペース~」(金曜午後1時~)とのコラボ企画で、「これって福島だけ?」の投稿募集が行われました。

「福島に住んで当たり前のように思っていたけれど、もしかしてこれは福島だけのこと?と思うことはありませんか? 食べ物、風習、自然、言葉などジャンルは問いません。ずっと県内在住の方も、引っ越してきた方も、あなたの「福島で見つけたもの」「福島ならでは」を教えてください。」だそうで。

その報告的な記事。先月末の掲載でした。

【これって県内だけ?】行事や風景、魅力再確認

 県内では当然だと思っていた、あんなことやこんなこと、実は当たり前じゃなかった!? そんな「もしかして、これって福島だけ?」と思ったことを、読者やラジオ番組のリスナーに聞いた。
 まず、多く寄せられたのが食べ物に関するものだ。正月には欠かせない「いかにんじん」や、会津若松市では給食に出るほどポピュラーな「まんじゅうの天ぷら」、郷土料理の「ひきないり」「みそかんぷら」など、慣れ親しんだあの料理が、ここだけのものだったなんて、という驚きの声が続々と届いた。
 また、最近では県外でも知名度を上げている郡山市の「クリームボックス」や「酪王カフェオレ」などの"ニューフェース"も、県内だけのものとは思わなかったという回答が寄せられた。

児童の鼓笛行進
 同じテーマでメッセージを募集したラジオ番組で盛り上がりを見せたのが、小学校の鼓笛パレードの話題だ。
 鼓笛パレードとは、児童が楽器を演奏しながら市街地などを行進する華やかなイベントだ。福島市では新型コロナウイルス感染拡大を受け中止していたが、今年5月、3年ぶりに開催し、市内の小学校から約3000人の児童が参加した。例年は市街地をパレードしていたが、今年は感染防止のため、同市のとうほう・みんなのスタジアムで行われた。
 福島市以外にも県内各地で同様のパレードが行われており、交通安全啓発運動の一環として開催されることも多い。音楽活動に強い本県ならではの行事といえそうだ。
 同じく学校ネタでは、「福島県の小学校の出席番号は生年月日順」という回答が複数あった。調査を進めると、中学校以降は五十音順のところが多いが、小学校は生年月日順だったという人が多いようだ。本県独自のルールなのだろうか? 県教育委員会に問い合わせると、出席番号順について県では特に規定していないという。順番は学校単位で決めているようだ。また、過去には生年月日に加えて男女別だったという学校も少なくないようだ。
 そして、福島ならではといえば、外せないのが豊かな自然と美しい風景だろう。
 「安達太良山に『ほんとの空』がある」(南相馬市、ばぬらさん)をはじめ、「城や城跡が多い」(匿名希望)、「山に囲まれていると安心感を覚えます。都会だとビルだらけでとても不安になります」(福島市、フィヨンカさん)などの意見が集まった。
 記者の経験だが、東京の友人が福島に遊びに来た時「どの方向を見ても、突き当たりには山がある!」と感激していたことを思い出した。盆地に住んでいると当たり前の風景だが、遠くを見渡しても山がない都会の景色に不安を覚える気持ちはよく分かる。
 そして、最後にこんな意見も。
 「田舎だけど新聞社が2社あること。メディアが多いことで情報量が増え、1社独占ではなくけん制し合って良い情報が入ってくる」(ゆうすけさん)
 たくさんの情報をお届けできるよう、頑張ります!
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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」を挙げて下さって、ありがとうございます。これからも福島を象徴する代名詞の一つとして、末永く使われてほしい言葉です。

それにしても前半の「福島あるある」的な部分、笑わせていただきました。

いかにんじん」は何となく存じていましたが、「「ひきないり」「みそかんぷら」など、慣れ親しんだあの料理」。はっきり言って「何じゃ、そりゃ?」です(笑)。「まんじゅうの天ぷら」は、当方父方のルーツである信州でも、精進料理的に饗される一品ですが、「会津若松市では給食に出るほどポピュラー」というのには驚きました。

酪王カフェオレ」は、高速道路のサービスエリアなどでも販売されていて存じていましたが、「クリームボックス」は「?」でした。調べてみると「郡山市民のソウルフード」だそうで。今度、探してみます。

鼓笛パレード」。そういえば智恵子の母校・二本松の油井小学校さんでも「智恵子記念マーチングパレード」を行っていました。これは健在なのでしょうか? 逆に、福島県内各地で広く行われ、ラジオ番組が盛り上がるほどのネタだったというのは意外でした。

小学校の出席番号は生年月日順」。これは当方自宅兼事務所のある千葉県であるあるネタとしてよく使われますが、福島もそうだったのですね(笑)。

残すべき地方文化は残し、それを誇りとして発信できるようであれば、どんどん広めていっていただきたいものです。「小学校の出席番号は生年月日順」はどうでもいいような気がしますが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

午后上野アンデパンダン見学、館内で梅原龍三郎氏にあふ、久闊、


昭和28年(1953)2月19日の日記より 光太郎71歳

遠く明治42年(1909)、3年半におよぶ海外留学を切り上げて帰国の途に就く際、最後に滞在したパリ・モンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエを、光太郎から受け継いだのが梅原でした。

テレビ放映情報、2件ご紹介します。

まず、智恵子の故郷・福島二本松。

徳永ゆうきの一期一会はなうた旅 #12

BSJapanext 2022年6月13日(月) 19:00~21:00

実力派演歌歌手の徳永ゆうきが北海道・東北地方の7道県をおさんぽ! その土地にゆかりのある方と一緒に北国の絶景やグルメ・工芸品等を巡ります。旅先を訪れる際にはその場所にまつわる”はなうた”を歌いながら、別れ際にはお世話になった方々へ歌をお届けします♪ みるだけでなく、聞いても楽しい旅番組です!

今回は二本松市を徳永ゆうきがを旅します。絶景!二本松城から眺める安達太良山。名菓「玉羊羹」の製造工程を見学。世界が認める日本酒に大興奮!

出演者 徳永ゆうき 箭内夢菜
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4月に昭和42年公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)を放映して下さったBS松竹東急さん同様、この春に開局し、全番組無料放映のBSJapanextさんの番組です。

智恵子の名は番組紹介にありませんで、羊羹の玉嶋屋さん、酒蔵の奥の松酒造さんなどを訪れるようですが、2時間の番組ですので、どこかしらに智恵子がからむような気はしています。

ご出演は演歌歌手にして鉄道マニアとしても知られる徳永ゆうきさん、そして郡山ご出身の箭内夢菜さん。6月6日(月)放映の#11が、やはりこのお二人で猪苗代町編でした。同時期のロケだったのでしょう。
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ぜひご覧下さい。

もう1件、再放送です。

再 ふるカフェ系 ハルさんの休日▽岩手・花巻〜宮沢賢治が愛した花壇をめでるカフェ

NHK Eテレ 6月12日(日) 18:30~18:55  6月14日(火)13:30~14:00

岩手県花巻市の宮沢賢治ゆかりのカフェへ。それは庭にある花壇!賢治が晩年に設計した花壇には色とりどりの美しい花。賢治がよく訪れたという木々の建築をリノベーション。

宮沢賢治の世界を感じながら、素朴な味わいの郷土料理も堪能できる、くつろぎのカフェ。ここでしか見られない貴重なものが、賢治の花壇。不思議な文様のレンガの花壇は、賢治が晩年に設計したもので、○○仕込み。花を愛で、賢治を想う和風建築のカフェは、室内もすごい。賢治の妹ゆかりのオルガンや、さまざまな木々で作られた床の間の設えや意匠も見どころがいっぱい。そして若い人の感覚を取り入れたリノベーションも必見です!

【出演】渡部豪太 花巻市のみなさん

6月9日(木)の初回放映を拝見いたしました。
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宮沢賢治ゆかりのカフェということで、まずは賢治が命名したイギリス海岸からスタート。
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マルカンさんも登場。
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そして、今回の舞台、茶寮かだんさん。おそらく戦中戦後に光太郎も目にした建物です。
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まずは店主の一ノ倉さんのレクチャー。
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カフェですので、料理も堪能。
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その後、屋外に出、賢治設計の花壇を見ていると……
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なるほど。

再びカフェ内部に。
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当方、平成30年(2018)に訪れた際は、この部屋で珈琲を頂きました。

するとそこへ……
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マルカンさんのリノベも手がけられている小友氏。こちらのオープンの際にもアドバイザー的なことをなさったそうで。

最後は店主・一ノ倉さんの感懐。空き家となっていた豪邸、荒れていた花壇を改修し、カフェとして再生、さらにご自分で農業もされているというご苦労を……
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頭が下がりました。

渡部さん演じるハルさんも……
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本放送をご覧になっていない方、こちらもどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

羽田によかず、リーチ今日来たりしと見え、夜の録音ニュースにて声をきく、

昭和28年81953)2月17日の日記より 光太郎71歳

「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治末、ロンドン留学中の光太郎と親しくなり、それが直接のきっかけで来日、白樺派の面々とも交流を持ちました。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この時が18年ぶりの来日。翌年まで日本に滞在しました。

光太郎、この後、リーチの宿泊先を訪ねていきますし、中央公論社主催の座談会で、リーチ、柳宗悦、濱田庄司らと旧交を温めます。

京都から現代アート系の展覧会情報です。

京都精華大学ギャラリーリニューアル記念展「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」

期 日 : 2022年6月17日(金)~7月23日(土)
会 場 : 京都精華大学ギャラリーTerra-S 京都市左京区岩倉木野町137
時 間 : 11:00~18:00
休 館 : 日曜日
料 金 : 無料

​京都精華大学(京都市左京区、学長:澤田昌人)では、2022年2月に学内ギャラリーがリニューアルオープンしたことを記念して、企画展覧会「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」を開催いたします。

リニューアル記念展として開催する本展では、既存のジャンルや制度、価値観における「越境」をテーマとし、「ジェンダー/歴史」「身体/アイデンティティ」「土地/記憶」などのキーワードを参照しながら、11名のアーティストの作品を展観します。

過去から今日まで、世界中で地政学上の境界線をめぐる対立や抑圧、秩序の固定化とその崩壊が繰り返されてきました。現在、高度情報化・グローバル化によって人・物・情報の「越境」が日常化し、感染症や環境問題、貧困などの越境的な課題も顕在化しています。一方で、ある集団もしくは個人に固有の慣習や文化、記憶や価値観は、目に見えない境界によって繋ぎとめられ、アイデンティティの構築に結びついています。複雑で緊張に満ちた世界に生きる私たちにとって、時には境界のこちらとあちらを水のように自由に移動し、自分と世界を見つめ直す「越境」の態度が求められるのではないでしょうか。

見どころ①:日本~アジア、近代~現代を見渡す作家たちの眼差し
見どころ②:現代美術の最前線で活躍する作家たちと多様な価値観を発信する注目の表現者たちの協奏
 
本展では、京都精華大学が収蔵するシュウゾウ・アヅチ・ガリバー、今井憲一、ローリー・トビー・エディソン、塩田千春、嶋田美子、富山妙子の作品に加え、2000年代以降に活動を開始した5名のゲストアーティスト(いちむらみさこ、下道基行、谷澤紗和子、津村侑希、潘逸舟)の作品を紹介します。出身や世代、表現手法は多様ですが、個人と社会、自己と他者、想像と現実、ジェンダーなどにおける固定的な輪郭をしなやかかつ鋭く揺さぶる11名の表現者が織りなす本展が、私たちのこれからを予感させる複数のしらべが響く場所となること、そしてその響きが多くの方に届くことを願っています。
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今年3月、東京上野の森美術館さんで開催された「VOCA展2022 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」に、智恵子紙絵、『青鞜』表紙絵オマージュの「はいけい ちえこ さま」を出品され、VOCA佳作賞を受賞された谷澤紗和子氏が、同作を出品なさいます。
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谷澤氏、VOCA展と並行して大阪で開催されていた個展「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -」でも、智恵子紙絵、油絵インスパイア作品を出品されていました。ありがたし。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏くる、檜材の事、一緒に中村屋にてライスカレー夕食、別れてタキシでかへる、

昭和28年(1953)2月12日の日記より 光太郎71歳

宮崎丈二は詩人。同じく詩人だった西倉保太郎、西倉と同郷(北海道)出身の材木商・浅野直也と3人で、たびたび光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪れたり、光太郎を夜の街に連れ出したりしました。

「檜材の事」は、浅野の回想に語られています。

 お酒と木材のお蔭で高村先生にお逢いしお話の出来るようになつたのは本当に喜びでした。お酒の友で詩人の宮崎丈二氏が今日は高村先生を銀座に引張り出して一緒に飲もうと紹介されたのは新橋附近のマーケットの変な店でした。私は若い時から彫刻、詩共に先生の作品は好きでしたのでお逢いする迄はまるで恋人を待つような気持ですつかりあがつてお待ちしていたので、思うようにお話が出来なかつたように思います。その時の先生は、私が木材に関係を持つ者であつたので、木彫に使う木に就いて色々お話しされ、『近頃は良い木の入手が困難で思うようにゆかない。』と嘆かれておられました。お聞きすると、木曽檜の木が欲しいとの事でお送りすることを約束し、後日大阪からお送りした処大そうお喜びで早く元気になつて何か作りたいと話されていました。
(「高村光太郎先生の想出」昭和34年4月『政治公論』第35号)

宮崎は大正期から光太郎と交流がありましたが、浅野は光太郎との初対面が前年秋。この時に檜材の話をしたそうです。

さらにこの年6月、西倉宛の書簡。

檜材、とても見事なものおとどけ下さつて感謝してゐます。檜の膚の香りプンプンする大作をモニユマン製作後に張切つてやりたいと念願したくなりました。浅野直也さんに小さな木彫を作る心算ですので、お礼を言つて下さい。

おそらく浅野は出先の大阪で檜材を入手したものの、光太郎の住所がわからず、西倉宛に発送して転送して貰ったのだと思われます。

ただ、この時期に光太郎が木彫を制作した事実は確認出来ていません。浅野の回想にも木彫を作ってもらったとは書いてありません。結局、健康上の理由もあったりで実現しなかったのではないかと思われます。

中村屋」は、親友だった故・碌山荻原守衛が遠く明治期に世話になった新宿の中村屋さん、「ライスカレー」は今も名物の「カリー」でしょう。

通販サイト・フェリシモさんで販売している「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティー」。全4セット、月イチで1セットずつ届くシステムになっています。注文したところ、まず4月分として「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」が届き、続く5月分でお目当ての「高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」が届きました。予定では5月中旬には届くはずが、品切れ状態だったそうで、月末にずれ込みました。
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文庫本サイズのケースに、ティーバッグ17個入り(「Tバック」ではありません(笑))。
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早速、賞味。「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」は、青い紅茶(矛盾していますが(笑))で、ヴィジュアル的にインパクトがありましたが、こちらはいたって普通の色です。しかし、商品説明に「はじけるように香りが立ち上る、新鮮なレモンをトッピング」とあり、「ああ、確かにレモンティーだ」。最初からレモンピール(皮を粉末にしたもの)が混ぜてあるわけです。
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まぁ、それだけなのですが(笑)、それでも高級な茶葉を使ってはいるんだろうな、というのは分かりました。当方、基本的には珈琲党なのですが。ただ、もしかすると「ドイツ製」というのに惑わされているのかもしれませんが(笑)。

言わずもがなですが、『智恵子抄』に収められ、南品川ゼームス坂病院での智恵子の臨終を謳った「レモン哀歌」(昭和14年=1939)由来です。

  レモン哀歌 005
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう

レモンについては、翌年に書かれた随筆「智恵子の半生」の中で、このようにも書いています。

 私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。家のまはりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフエンの第六交響楽レコオドへの惑溺といふやうな事は皆この要求充足の変形であつたに相違なく、此の一事だけでも半生に亘る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであつたであらう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持つて行つたサンキストのレモンの一顆を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであつたらう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるやうに見えた。
(略)
 百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きてゐる。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしさうであつた。私がそれを見てゐる間、彼女は如何にも幸福さうに微笑したり、お辞儀したりしてゐた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した顔であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。昭和十三年十月五日の夜であつた。


これ以前のかなり早い時期から、駒込林町の光太郎アトリエではレモンが使われていました。詩人・歌人の上田静栄の回想から。上田は智恵子の親友・田村俊子の弟子でした。

 ひろい東京に田村御夫妻の他に知人もない私にとつて、あのアトリエの雰囲気と(高村)御夫妻の様子は東京のすべてを代表してゐるやうに魅力のあるものに思はれた。智恵子夫人をいたはりながら客の間をとりなされる高村先生の態度が、いかにも男らしく優雅なものに見えて深く心に残つた。(田村)女史のお相手に夫人は静かに椅子にかけられたまま、高村先生がアトリエの北のすみの水屋にたたれて、レモンの浮いた冷たい飲み物をつくつてみなにすすめられた。たけの高いハイカラなガラスのコツプで、散歩のあとなのでとても美味しく頂いた。
(未定稿「美しき思ひ出の人びと」昭和34年=1959頃 『歌文集 こころの押花』昭和56年=1981所収)

これが大正4年(1915)頃のことです。光太郎智恵子が結婚披露を行ったのが大正3年(1914)ですので、まだ新婚の時期です。レモンは明治の早い時期に日本へ輸入されていましたが、それにしてもシャレオツですね。

さて、「『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」。「室生犀星 著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶」、「江戸川乱歩 著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶」、「中島敦 著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶」との4点セットで、月イチでの送付(順番はフェリシモさん任せ)です。単価は1セット税込み1,980円。

先月、朗読イベントとコラボした企画で、大正浪漫喫茶­秋葉原和堂さんが『文豪達のティータイム -日本近現代文学の世界へ-』を開催し、オリジナルコラボフードとのセットでの販売も行われました。光太郎に関しては「高村光太郎のレモンケーキ~ざくろゼリー添え~」。そちらも結構な入りだったようで、一時、紅茶は品切れでした。そこで当方自宅兼事務所に「『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶」が届いたのは予定より遅れたのですが、品切れ状態も解消されたようです。

オンラインで注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

晴、 午前モデル、 午后石炭一トン来る、


昭和28年(1953)2月6日の日記より 光太郎71歳

石炭」はストーブ用です。

戦前、駒込林町のアトリエでは、粘土の凍結防止のためにストーブを焚き続け、それを詩「金」(大正15年=1926)では「工場の泥を凍らせてはいけない。/智恵子よ、/夕方の台所が如何に淋しからうとも、/石炭は焚かうね。」と謳っていました。「工場」はアトリエ、「」は粘土です。喰うものを喰わなくても石炭に「金」を使うのだという宣言です。「智恵子抄」が嫌いだ、という人の中には、こういう光太郎の身勝手さが我慢ならない、という意見もあるようです。

戦後のこの時期は、どちらかというと粘土の凍結防止よりも、モデルにヌードになってもらうためということで、ストーブをガンガン焚いていたようです。光太郎自身は七年に及ぶ花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居生活で、マイナス20度の世界に耐え抜いていましたので。

それにしても「トン」単位で石炭を買うというのも凄い話ですね(笑)。

注文しておいたDVDが届きました。

今年1月に公演があった、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会ライヴです。
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新実徳英氏に委嘱作曲の「愛のうた ― 光太郎・智恵子 ―男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」、初演が含まれています。
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楽譜が1月に全音さんから出版されており、購入。メロディーなどはこんな感じかというのは何となく分かっていましたが、実際の演奏を聴いてみるとやはりいろいろ発見がありますね。普通は「百聞は一見にしかず」ですが、音楽に関しては「百見は一聞にしかず」。楽譜を見ているだけではわからないことだらけでした。

ステージに上がった合唱団員は50名ほど。オケはオケの編成としては少なめで、サブタイトルに「フルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」とあるとおり、管はフルートとクラが1本ずつのみ。トランペットやらトロンボーンやらの金管は入っておらず、打も入っていません。合唱50人に対しては、この位の編成が適正なのでしょう。大編成でわちゃわちゃやる「第九」のような曲でもありませんし。もっとも、「第九」は合唱曲としてとらえるとかなり異端なのですが。
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全6曲中の1曲目、「山麓の二人」。通常、「智恵子抄」を組曲にする場合、最初は光太郎と智恵子が出会った頃や智恵子がまだ健康だった頃の詩(「人に」とか「あどけない話」とか)をテキストにする例が多いのですが、いきなり「わたしもうぢき駄目になる」。不安を煽るような曲想で、「この組曲全体で作られるのは、甘ったるい情調本意の世界観ではないんだぞ」と宣言しているかのようでした。
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2曲目、「千鳥と遊ぶ智恵子」。1曲目と較べると、九十九里浜の色鮮やかな初夏の風景、その一部と化した智恵子が描かれているだけあって、陽の光を感じさせるような明るい感じの部分も。それでもフルートやテノールのソロで表現される千鳥の鳴き声が、もの哀しさを湛えています。
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続く「値がたき智恵子」。もはや完全に夢幻界の住人となってしまった智恵子。ア・カペラの歌から始まり、すぐ歌なしのオケ。それが掛け合いのように繰り返され、やがて中間部では渾然一体に。終盤、またア・カペラの部分も。
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「間奏曲-悲しみの淵へ-」。歌詞はなく、歌が入るところはヴォカリーズです。言葉に出来ない光太郎の思い、というイマジネーションでしょうか。
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そして智恵子の臨終を謳った「レモン哀歌」。ドラマとしてはヤマ場の部分ですが、全体に抑制され、訥々とした光太郎のモノローグといった感がありました。ところどころ激しい部分もありましたが。高音二声が「智恵子はもとの~智恵子となり~」とやっている裏でバリトンとベースが「智恵子~智恵子、智恵子」と連呼するなど、「なるほど」と思いました。最後も「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の後にトゥッティーで「智恵子~」。同じ手法は最後の「元素智恵子」でも使われていました。
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光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていたイメージ。諦念も感じさせつつ軽快な8分の6拍子が基本。特にこの曲ではクラが効果的に使われているように感じました。最後は長いヴォカリーズのあと、やはり原詩にはない「智恵子智恵子智恵子ー」。この程度の詩の改変はありでしょう。
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作曲の新実氏がステージに上がり、指揮の佐藤正浩氏とのトーク。
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光太郎智恵子に関する話がほぼなかったのが残念でしたが……。

DVDとブルーレイ、送料込みで5,000円。映像無しのCDは同じく3,000円です。オンラインで注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

大宮工作所より回転台、心棒届く、板も届く、 小坂さんくる、とりつけ夕方になる、

昭和28年(1953)1月24日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために移り住んだ東京中野の貸しアトリエに、彫刻用回転台の部品が届けられました。部品は前年から届いてはいましたが、この日で全て揃い、組み立てたようです。

回転台は、平成30年(2018)、
十和田湖観光交流センター「ぷらっと」さんに寄贈された、戦時中の高射砲の台座を改造した大きなもの。手配をしたのは助手を務めた小坂圭二でした。
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久々にテレビ放映情報です。

まず、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手・花巻から。

ふるカフェ系 ハルさんの休日▽岩手・花巻〜宮沢賢治が愛した花壇をめでるカフェ

NHK Eテレ 2022年6月9日(木) 22:30~22:55  
再放送 6月12日(日) 18:30~18:55  6月14日(火)13:30~14:00

岩手県花巻市の宮沢賢治ゆかりのカフェへ。それは庭にある花壇!賢治が晩年に設計した花壇には色とりどりの美しい花。賢治がよく訪れたという木々の建築をリノベーション。

宮沢賢治の世界を感じながら、素朴な味わいの郷土料理も堪能できる、くつろぎのカフェ。ここでしか見られない貴重なものが、賢治の花壇。不思議な文様のレンガの花壇は、賢治が晩年に設計したもので、○○仕込み。花を愛で、賢治を想う和風建築のカフェは、室内もすごい。賢治の妹ゆかりのオルガンや、さまざまな木々で作られた床の間の設えや意匠も見どころがいっぱい。そして若い人の感覚を取り入れたリノベーションも必見です!

【出演】渡部豪太 花巻市のみなさん

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この番組、昨年は智恵子の故郷、福島・二本松の古民家カフェを取り上げて下さり、つい先日も再放送がありましたが、今回は花巻に出没。渡部豪太さん扮する古民家カフェブロガー・真田ハルが全国の古民家カフェを廻るというコンセプトです。一応、ドラマ仕立てではありますが、カフェのオーナーさんや地元の皆さんがご本人役で出演されたり、なぜか古建築等の専門家の方などが毎回都合よくお店にいたり……(笑)。

4月から新シリーズが始まり、だいたい毎回拝見していますが、それぞれの古建築はもちろん、建物を残そうとする地元の人々の思いなどが素晴らしいと思いますし、渡部さん演じるハルさんの「ゆるさ」もいい感じです。

今回取り上げられるのは、「茶寮かだん」さん。花巻の中心街に位置しますが、たまたま昭和20年(1945)の花巻空襲の被害を免れました。光太郎も戦中戦後によく歩いた一角ですので、おそらく目にした建物でしょう。ただし、光太郎がいた頃は普通の民家でしたが。

このブログでご紹介し続けている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』さんに連載されている「光太郎レシピ」の撮影にも使われましたし、当方も一度お邪魔しました。ただ、その際は真冬で、賢治設計の花壇は雪に埋もれていましたが。

さて、もう1件。「ふるカフェ系 ハルさんの休日」は「ゆるい」感じですが、こちらはどうも真逆で朝っぱらから「強烈」そうです(笑)。

おんがく交差点【熱唱!渡辺えり】

BSテレ東 2022年6月11日(土) 8:00~8:30

芝居が人生!ご飯は歌で食べた?
ゲストは渡辺えりさん!俳優・劇作家・演出家として有名だが、実は歌手としても活躍!
東京キューバンボーイズやアコーディオンのcobaと共演、ピアソラ生誕100周年公演も!
原点はコタツの上で歌う「荒城の月」!幼い頃は、近所で歌ってご馳走を食べて育った?
小学校に入ると、イジメに遭って『布団の中の王様』に…。救いになったのが…お芝居!
小学5年の時、自作の演劇「光る黄金の入れ歯」でブレイク!なのにズルいと言われた?
両親は役者の道に大反対!高校卒業後は家出同然で上京…でもお芝居で納得してくれた?
今回は『ひと味違う伴奏』で戯曲の歌を披露!大谷さんは「Shall we ダンス?」劇中曲!
そして、渡辺えりさんと『歌うヴァイオリン』がベット・ミドラーの名曲でコラボする!!

♪ゲストの1曲
「りぼんの歌」 作詞 渡辺えり 作曲 近藤達郎 
♪ヴァイオリンの小径
「ゴールドルンバ(ドニー青木のテーマ)」映画「Shall we ダンス?」より 作曲 周防義和 編曲 小林 哲
渡辺えり×歌うヴァイオリン コラボレーション
ベット・ミドラーの名曲を渡辺えりさんが日本語に訳した特別バージョンで共演!!
♪コラボレーション
「ザ・ローズ」 作詞・作曲 アマンダ・マクブルーム 訳詞 渡辺えり 編曲 萩森英明/山田武彦

出演者
【MC】 春風亭小朝(落語家) 大谷康子(ヴァイオリニスト)
【ナレーション】 加藤円夏
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先月17日に、光太郎と交流のあったお父さま・渡辺正治氏を亡くされたえりさんですが、収録はその前だったように思われます(違っていたらすみません)。

番組説明では山形のご両親のお話もされるやに紹介がありますので、どんなお話になるか、期待しております。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日、十和田湖彫刻に反対のテカミ始めてくる、

昭和28年(1953)1月20日の日記より 光太郎71歳

始めて」は「初めて」ですね。光太郎以外も含め、意外とこの時代の文章ではこの二つの混同が目立ちます。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」、既に報道等で裸婦像であることは明かされていて、そのため「そんなものはけしからん」ということだったのでしょうか。

或いは、考え過ぎかも知れませんが、次のようなことも考えられます。

「乙女の像」は元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年の記念として、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月と、道路整備等に腐心した元青森県知事・武田千代三郎および地元の村長・小笠原耕一の「十和田の三恩人」を顕彰するものでした。肝煎りは当時の青森県知事にして太宰治実兄の津島文治でしたが、津島がその構想を打ち出す前から、旧厚生省の外郭団体のドンと、地元のボス的な怪しげな人物がタッグを組んでそうした活動を進めていました。ドンは記念碑の碑文まで既に書いていたそうです。

そこへ持ってきて津島というトンビに油揚げをさらわれた格好になり、怒ったドン、あからさまな嫌がらせをしてきます。「乙女の像」当初予定だった子の口地区への設置は認められない、当時から繁華街だった休屋地区なら認めよう、というのです。青森県と光太郎を仲介した佐藤春夫はこれに激怒、昭和32年(1957)刊行の『小説高村光太郎像』には次のように書かれています。

勢力争ひの軋轢に得たりとばかり飛び込んだらしい半官半民の協会のボスが自分の権力を見せびらかす仕事だと思はれる節が歴々としてあつたので地方官庁がそれに対抗できないのも口惜しいし、高村氏には気の毒なと思つて怒は心頭に燃えた。

ところが光太郎自身は……

これは芸術の尊厳のために正しく大声叱呼して糾明すべきだとわたくしは心外に堪えないのに、当の制作者は、佐藤君ならさぞ怒るでせうねと人ごとらしくすまして、ロダンにもさういふ場合はあつたし、どこに置いても結局大して変わりもないのだからと、(略)事を好まぬこの人本来の和霊のせいで、当人の言ふとほり、終始行きとどいた配慮の下に制作者をいたはつた知事を、難局に立たせたくなかつたといふ心づかいであつたと見るべきであらうか。

結局、設置場所は休屋地区でも一番奥の、人気(ひとけ)のない浜辺となりました。休屋地区には当時、パチンコ屋などもあり、そんな所に建てられてはとんでもない、と、佐藤などは考えたようですが、それは杞憂に終わりました。

さて、話を戻しますが、光太郎の元に届いた反対の手紙。もしかすると、横槍を入れてきたドンなどの意を汲んだ手下からのものだった可能性も捨てきれないな、と思うわけです。考えすぎでしょうか。

地方紙『信濃毎日新聞』さん。4月から「上高地の1世紀 歩みとこれから」という連載が断続的に為されています。その中で、光太郎の名も。

【上高地の1世紀 歩みとこれから】⑧ 近代登山の礎「守る人々」 かつての表玄関 災害で荒廃進む「徳本峠」 第1部 観光地・上高地の軌跡② 

 かつて上高地へのメインルートだった徳本(とくごう)峠(松本市安曇)を通る登山道。5月16日、崩れた土砂が道を覆い、行く手を阻んでいた。有志の会「古道徳本峠道を守る人々」の会員ら10人が整備に汗を流し、倒木を切るチェーンソーの音が峡谷に響く。「われわれがやらなければ、本当の廃道になってしまう」。代表の高山良則さん(77)=松本市=は言葉を強めた。
 登山道は松本市安曇の島々地区から標高約2100メートルの峠を越え、上高地・明神に至る。釜トンネルが開通する昭和初期まで林業者や登山者が盛んに行き来した。明治期に上高地を訪れ「日本アルプス」の呼び名を広めた英国人宣教師ウォルター・ウェストン(1861~1940年)をはじめ、文豪芥川龍之介や詩人高村光太郎が歩いたクラシックルートとして知られる。
 登山道は現在、県が管理するが、大雨のたびに道や橋が流されてきた。2006年の豪雨では被害が大きく、約3年間通行止めに。徳本峠小屋の経営を長年手伝った高山さんらの呼びかけで11年に「守る人々」が発足し、整備を続けてきた。だが、20年、21年と続けて大雨に見舞われた古道は復旧が追い付かず、通行止めが続く。
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 「橋場(松本市安曇の橋場地区)から谷をのぼる途中、(中略)怪我(けが)をした例の調査官が災難の後で休養しているのに出会った」
 ウェストンが徳本峠越えの途中で出会い、著書「日本アルプス」の中でつづった調査官とは、日本陸軍参謀本部陸地測量部の館潔彦(たてきよひこ)(1849~1927年)。館は測量のため1893(明治26)年、山案内人の上條嘉門次(1847~1917年)とともに地図の空白域だった前穂高岳に登頂。一等三角点の位置を決めたが、山頂近くで転落して大けがを負ったとされる。
 測量の成果は1913(大正2)年、5万分の1地形図「焼岳」として日の目を見る。山行の際に手掛かりとなり、北アルプス登山が大衆化する契機ともなった。15年には焼岳が噴火し、大正池を形成。31(昭和6)年改訂の地形図には「大正池」「釜隧道(トンネル)」の表記が登場する。地形図の名称も「焼岳」から「上高地」に変わった。
 国土地理院広報広聴室主任指導官の中島最郎さん(62)=松本市出身=は、図名(地形図の名称)は、一般に広く知られた場所や山などの名称から選ばれるとし「図名の変化は、この時期に上高地が全国的に著名な場所になったことがうかがえる」と話す。
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 「道が寂しがってるよ」。松本市職員時代から登山道整備に携わり、「守る人々」副代表を務める奥原仁作(にさく)さん(72)は16日の作業後、そうつぶやいた。県自然保護課によると、市や環境省などを交えて復旧工事に向けた調整を進めているが、現時点で開通時期のめどは立っていない。
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 林業の終焉(しゅうえん)と釜トンネルの開通で、上高地の「表玄関」は移り変わった。利用しなくなった道は人の手が入らなければ荒廃が一層進む。「江戸時代から地元の人々が使い続け、近代登山の礎となった道。歩いてもらうことで後世につなげたい」。奥原さんらは先人に思いをはせ、登山文化を築いた道を将来に残そうと地道な作業を続けている。

大正2年(1913)、光太郎、そして智恵子も歩いた上高地のクラシックルート。現在は通行止めなのですね。存じませんでした。現在は上高地までバスで行けてしまうため、元々、歩いて通る人は少なかった道ですので、通行止めになっていることが大きく報道されて来なかったのでしょうか。

以前、NHK BSプレミアムさんが不定期に放映している「にっぽんトレッキング100」で「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」という回があり、光太郎智恵子にも触れられ、興味深く拝見しましたが、そちらは通行止めとなる前の平成29年(2017)の放映でした。

山道の場合、豪雨等による土砂崩れや倒木、さらに笹などの繁茂で、道が道でなくなってしまうことは往々にしてありますね。それが自然の姿だと言ってしまえばそれまでですが、文化史的な部分からも、古道保全というのは意義のあることだと思われます。画像にもある「古道徳本峠道を守る人々」の会員諸氏のご努力、頭が下がります。

さりとて大規模な林道を開鑿、というのでは自然保護の観点から矛盾しますし……。人間の叡智の見せ所のような気がします。

【折々のことば・光太郎】

村田勝四郎氏、土方久功氏くる、丸善に月曜午后ゆき陳列を見て何か書くこと約束、

昭和28年(1953)1月17日の日記より 光太郎71歳

村田勝四郎」、「土方久功」、共に東京美術学校での後輩彫刻家です。「丸善」は日本橋の丸善画廊、「陳列」は翌日始まった土方の個展です。土方は昭和初期から戦局が烈しくなるまで、日本統治下にあったパラオで勤務していました。帰国後、南方の民俗、風俗を題材とした彫刻を手がけています。

何か」は1月21日の『朝日新聞』に載った「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」という散文。のち、龍星閣刊行の土方著『文化の果にて』序文として転用されました。

この日は土曜で、光太郎が個展を見に行くと言ったのは月曜。しかし、土方は勘違いしたようで、翌日(日曜)に来ると思いこんでいて、光太郎が現れないのでやきもきしていたそうです。

地方公共団体の広報誌から2件。

まずは智恵子の故郷・福島県二本松市の『広報にほんまつ』今月号。表紙で先月15日に行われた安達太良山の山開きを大きく取り上げています。
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光太郎詩「あどけない話」由来の「ほんとの空」の語もちゃんと。

他のページでもう1箇所、「ほんとの空」の語が使われていました。
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平成27年(2015)に作られた「ほんとの空体操」について、ちらっと言及されています。

「ほんとの空体操」については、以下をご参照下さい。
 『広報にほんまつ』平成27年10月号。
 『佐賀新聞』「有明抄」/『福島民友』「朝礼で「ほんとの空体操」。
 『広報にほんまつ』No.123 平成28年2月号「ほんとの空体操で元気に」。
 二本松市「ほんとの空体操」。


続いて、栃木県那須町の『広報那須』、先月号です。同町出身で、光太郎や宮沢賢治と深い交流のあった佐藤隆房が取り上げられています。

那須の歴史 再発見 ! 那須町と近現代の人々vol.05 佐藤隆房 (1890 -1981)

 5月号は湯本出身の医者、佐藤隆房(たかふさ)について紹介します。
 佐藤隆房は、明治23年、那須村湯本の佐藤房之助の長男として誕生しました。父の房之助は寄居出身で、芦野・湯本・馬頭・親園の小学校で教壇に立ち、退職後は湯本で常盤屋を経営するなど、那須地区の教育、那須温泉の発展に貢献した人物です。
 隆房は、湯本尋常小学校、芦野尋常高等小学校、大田原中学校(後に川越中学校に編入)、千葉医科専門学校(現・千葉大学医学部)を卒業すると、大正6年、現在の岩手県花巻市に「佐藤外科医院」を開業します。より大きな病院の必要性を地元政財界の要人に働きかけると、同12年「花巻共立病院」を創設し、院長に就任。同14年には「花巻産婆看護学校」を創設し、5地域医療の近代化に貢献しました。
 また、隆房は宮沢賢治や高村光太郎との交流が知られています。隆房は宮沢賢治最後の主治医であり、賢治の詩「S博士に」に登場するなど、賢治の作品に多数登場します。また、アジア太平洋戦争中には、高村光太郎を自宅の居室に疎開させ、親交を持ちました。戦後、隆房は自ら佐藤郷志館(現・桜地人館)を開館し、賢治や光太郎らの資料や作品を展示するなど彼らの功績を現在まで伝えています。
 隆房は故郷への社会貢献も行っています。昭和10年、喰初寺再興の発起人となり、寺の再興を果たすと、昭和40年には、那須小学校創立90周年式典において、卒業生として記念講演を行い、多額の寄付をしたと伝えられています。
 故郷への思いを持ちつつ、宮沢賢治や高村光太郎を支えた佐藤隆房。残念ながら隆房を知る人は那須町民より花巻市民の方が多いでしょう。御用邸だけでなく、町民が隆房を入口として地域との交流を深め、文化や経済の振興を図ることを期待してやみません。
問合せ:那須歴史探訪館 【電話】0287-74-7007
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IMG_0004残念ながら隆房を知る人は那須町民より花巻市民の方が多いでしょう。」その通りですね。象徴的な出来事がありました。

昭和24年(1949)、隆房が故郷・那須町の、広報にも記述がある喰初寺に、父・房之助を顕彰するため、房之助作の短歌を刻んだ歌碑を建立しました。その揮毫を光太郎に依頼し、光太郎もそれに応じて筆を揮いました。光太郎本人の作ではありませんが、墓碑等を除き、光太郎の筆跡が刻まれた碑の中では最も古いものです。右画像は拓本です。

30年ほど前、この碑を見に現地に行ったのですが、ありませんでした。聞けば、新しく鐘楼を建立した際に「邪魔だから」撤去してしまったとのこと。唖然としました。

若くして那須を離れた隆房はともかく、父・房之助は広報にもあるとおり、「芦野・湯本・馬頭・親園の小学校で教壇に立ち、退職後は湯本で常盤屋を経営するなど、那須地区の教育、那須温泉の発展に貢献した人物」なのに、です。

幸い、光太郎の書いた書自体は花巻の佐藤家に軸装されて残っていますが……。

広報に載ったのを機に、那須でも隆房、そして光太郎の足跡(確認出来ている限り、大正9年=1920と昭和5年=1930の2回、訪れています)などを掘り起こして欲しいものですね。

【折々のことば・光太郎】103

午前モデル、三尺五寸のを始める、


昭和28年(1953)1月12日の日記より 光太郎71歳

三尺五寸の」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のための中型試作です。

完成像が七尺ということで、実物二分の一という想定で作られました。これより前に取り組んでいた小型試作は完成像と同じく2体作られましたが、中型試作及び完成像は1体のみでした。

この中型試作の顔が、智恵子の顔に最もよく似ていると言われています。

中型試作の完成は1ヶ月半後の2月27日。光太郎にしては異常に速いペースでした。やはり健康不安が背景にあったのでしょう。

光太郎と交流の深かった彫刻家・舟越保武の関連です。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。先月下旬の掲載でした。

パリから75年ぶり帰郷 彫刻家・舟越保武さん作品「女の顔」 「作家生活の岐路となった石像」 岩手県立美術館で公開

  岩手県一戸町出身の彫刻家、舟越保武さん(1912~2002年)が盛岡市で制作後、長く所在不明となっていた胸像「女の顔」が同市の県立美術館の新収蔵作品展で公開されている。昨年、パリで見つかって同美術館に渡り、75年ぶりの「帰郷」を果たした。
  大理石の「女の顔」は家族で盛岡市に疎開していた1947年の作品。長男の誕生を祝って作られたとされる。フランスの近代彫刻の影響を受け、女性のあでやかな表情が表現されている。
 東京の展覧会で当時の駐日フランス大使が称賛して買い上げた後、所在不明となっていた。昨夏、パリ在住の日本人がオークションに出品。現地の画廊が落札し、昨年12月に県立美術館が購入した。
 学芸普及課の吉田尊子課長は「舟越さんは『女の顔』が芸術の本場に渡ったことで自信を持ち、東京での制作活動再開を決心している。作家生活の岐路となった石像で、盛岡に戻ってきたことは非常にうれしい」と話した。
 舟越さんは高村光太郎賞をはじめ数々の賞を受賞した日本を代表する具象彫刻家。処刑された宣教師らの像「長崎26殉教者記念像」や、島原の乱から着想を得た「原の城」などで知られる。
 新収蔵作品展は7月24日まで。午前9時半~午後6時。月曜休館。一般410円、学生310円、高校生以下無料。「女の顔」は作品展終了後も常設展示される。連絡先は019(658)1711。
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後追い、同じ件で『朝日新聞』さん岩手版。

舟越保武の幻の「女の顔」 75年ぶりに里帰り 県立美術館に収蔵

 彫刻家の舟越保武(1912〜2002)が終戦直後に盛岡で制作し、長く所在が分からなくなっていた大理石の胸像「女の顔」が見つかり、岩手県立美術館で展示されている。75年ぶりに故郷へ戻り、家族は再会を喜んでいる。
 舟越は岩手県一戸町で生まれ、幼少期から東京美術学校(現東京芸術大学)に進学するまで、盛岡で過ごした。処刑されたカトリック信者を描いた「長崎26殉教者記念像」など、キリスト教の信仰をテーマにした作品で知られ、秋田県の田沢湖畔に立つ「たつこ像」も制作している。
 「女の顔」は、戦争末期に疎開して以来、盛岡で暮らしていた舟越が1947年、長男の誕生を祝って制作した。東京の展覧会に出品され、駐日フランス大使が買い上げて本国に持ち帰ったあと、所在が分からなくなっていた。
 ところが昨夏、作品がパリのオークションに出品されたことが判明。落札したパリの画廊から、東京の画廊関係者を経て、舟越の作品を収蔵している県立美術館が購入した。購入にあたって、パリに住む三女の茉莉(まり)さん(76)の協力を得たという。
 長女で岩手県八幡平市に住む末盛千枝子さん(81)は75年ぶりに作品と対面。父が戦後の混乱期に、穏やかな表情から静けさが伝わる作品をつくったことに改めて感銘を受けた。
 舟越は、高村光太郎が訳した「ロダンの言葉」を読んで彫刻家を志した。ロダンを生んだ国の大使に評価されたことに特別な意味があったという。
 「もう一度彫刻でやっていこうという時期に大使に買い上げていただき、どれほどうれしかったことか」と振り返る。
 次女で東京都内で暮らす苗子さん(79)も「父が若いころにあこがれていた芸術の街パリに父の作品が長い間あったこと、父の故郷・盛岡に帰ってきたことが、夢のように思えます」と話している。
 妻・道子さんの著書「青い湖」によると、舟越は大使の評価に力づけられ、制作活動を本格的に再開するため再び上京した。
 一方、作品をつくった翌年、長男が生後8カ月で病死。それをきっかけに洗礼を受け、キリスト教関係の美術に向かっていく。
 県立美術館の吉田尊子(たかこ)・学芸普及課長は「女の顔」について、舟越の人生において分岐点にある作品と指摘。「ほほえみの中に女性のつややかさがある。同時に、舟越作品の特徴である静かで内省的なものが感じられる」と話す。
 「女の顔」は7月24日まで開かれている新収蔵作品展で展示され、その後も常設展示される予定。
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003光太郎に名付け親になってもらった編集者・末盛千枝子さんの談話も載っていて、興味深いところでした。

舟越の「女の顔」、実にきれいな彫刻ですね。舟越が光太郎訳『ロダンの言葉』を通じて親しんだ、ロダンの「パンセ」(右画像)などを彷彿とさせられます。

それにしても、このように光太郎彫刻が海外でひょっこり見つかることもあるかな、という気もしました。ただ、光太郎の場合、生前に個展らしい個展は晩年の昭和27年(1952)に一度やったきりで、それも即売は行わなかったはずですので、可能性は低そうです。

木彫「栄螺」が、大阪の高島屋百貨店で昭和5年(1930)に開催された「木耀会木彫展覧会」という合同展兼即売会に出されて売れ、平成14年(2002)に約70年ぶりに見つかったことはありましたが。

【折々のことば・光太郎】

此頃少しやせたので、なるべく多くたべるやうに努める、出京以来食事の量不足せしかと思ふ、自炊時間不規則のためなり、


昭和28年(1953)1月10日の日記より 光太郎71歳

この時期の日記はかなり簡略になっていて、その日の出来事や訪問者等の事務的な記録がほとんどなのですが、この日には珍しくこういった記述がありました。

「帰京」ではなく「出京」としているところも興味深いところです。軸足は花巻郊外旧太田村に残しているよ、という感覚だったのでしょう。実際、住民票は昭和30年(1955)まで移しませんでした。

先日の渡辺正治氏に続き、またしても生前の光太郎をご存じの方の訃報です。

時事通信さんから。

田沼武能さん死去、93歳 世界の子ども撮影、文化勲章

100 世界の子どもや下町の風景などを長年記録し続けた写真家の田沼武能(たぬま・たけよし)さんが東京都内の自宅で死去したことが2日、分かった。93歳だった。東京都出身。葬儀は親族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妻敦子(あつこ)さん。
 東京・浅草の写真館に生まれた。東京写真工業専門学校(現・東京工芸大)を卒業後、木村伊兵衛に師事。月刊誌「芸術新潮」の嘱託写真家として小説家や美術家ら文化人の肖像を撮り、米タイム・ライフ社の契約写真家としてフォト・ジャーナリズムの世界でも活躍した。
 1972年に同社との契約が終了し、ライフワークとして世界の子どもたちを撮影。国連児童基金(ユニセフ)親善大使の黒柳徹子さんの各国訪問にも同行し、120を超える国と地域に足を運んだ。
101 日本写真家協会会長、日本写真著作権協会会長、日本写真保存センター代表などを歴任し、写真家の地位向上やフィルムの保存活動に尽力した。東京工芸大教授として後進の指導にも熱心に取り組んだ。
 長年の業績が認められ、85年に菊池寛賞を受賞。90年に紫綬褒章、2002年に勲三等瑞宝章を受け、03年には文化功労者に選ばれた。19年、写真家として初めて文化勲章を受章した。

氏が文化勲章を受章された際の投稿で詳しく書きましたが、氏は昭和27年(1952)、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後、複数回、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪れ、光太郎を撮影なさっています。残念ながら光太郎日記にお名前は記されていませんが。

また、光太郎令甥でやはり写真家だった髙村規氏とは、同じ木村伊兵衛門下ということで親しくなされ、平成26年(2014)の規氏のご葬儀では、弔辞を読まれています。当方、氏にお会いしたのはこの時が最初で最後でした。

今朝の『朝日新聞』さんでは、一面コラムで氏のご逝去に触れています。

天声人語

日本を代表する写真家、田沼武能(たけよし)さんが楽しそうに見せてくれたのは、1冊667円の薄い冊子だった。子どもの素朴な笑顔が満載。「こういう写真集を作りたかったんだよ。立派な表紙の高い本じゃなくてさ」と笑った▼生涯かけて子どもの表情を撮った。ソマリアの廃墟で遊ぶ男児たち。津波に襲われたインドネシアの少女。極限化でなお好奇心あふれる瞳を鮮やかに写した▼原点は東京大空襲にあった。浅草の自宅近くで黒こげの幼児の遺体を見た。防火水槽の中に立った姿だった。母親が炎の熱から「せめて水の中に」と入れたに違いない。幼児の表情は神々しく、地蔵のように見えたという▼「戦場はどうしても撮りたくない」。米誌「ライフ」との契約の際は、ベトナム戦争の取材を勧められても固辞した。報道写真家として名を上げる好機だったが、「空襲で死体をいやになるほど見た。戦争の悲惨を撮る気にはなれませんでした」▼そんな思いを直接伺ったのは3年前の春のこと。月給の16倍もするライカが欲しくて生活費を極端に切り詰め、「タヌちゃんは趣味倹約貯蓄」とからかわれたこと。南米アンデスを撮るため自宅を抵当に入れて出張資金を捻出したこと。欲や得にまどわされぬ人生談義に時のたつのを忘れた▼永遠のカメラ小僧が93歳で旅立ったと聞き、667円の冊子を読み返してみた。題は『地蔵さまと私』。焼け野原の街で見た黒こげの地蔵の記憶が、子どもに向けたやさしい言葉でつづられていた。

『朝日』さんは、氏がかつて会長を務められていた全日本写真連盟の後援に入っている関係もあり、社会面でも大きく取り上げていました。長いので全文引用しませんが、末尾の黒柳徹子さんのコメントのみ。氏はユニセフ親善大使としての黒柳さんの海外訪問等に同行し、125カ国以上を廻られたそうです。

黒柳徹子さん 「世界一上手」

 黒柳徹子さんは2日、コメントを寄せ、「子どもを撮ったら世界一というくらい、子どもの写真を上手に撮りました。秋ごろに、ユニセフの視察に行く約束をしていました。『93歳でも子供たちのところに行こうとなさっていたのか!!』と、改めて感動したのです」と追悼した。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】103

中央公論社より、栗本、松下、宮本氏三氏くる、紙絵展の事、


昭和28年(1953)1月8日の日記より 光太郎71歳

「紙絵展」は、智恵子の紙絵展。翌月2日から、丸ビル内の中央公論社画廊で開催されました。都内では光太郎帰京前の昭和26年(1951)に開催されたのに続き、2度目でした。


直接は光太郎とは関わりませんが……。

まず『スポーツニッポン』さん。5月24日(火)掲載分です。

アントニオ猪木氏 自身と同じ1メートル90の墓を青森に建立 亡き妻納骨 中央には「道」の刻印

107 元プロレスラーのアントニオ猪木氏(79)が青森県十和田市に「アントニオ猪木家の墓」を建立した。建立式を22日に行い、19年に亡くなった妻・田鶴子さんの納骨などを済ませた。墓は夫妻がよく訪れた蔦温泉旅館の近くにある。墓の高さは猪木氏の現役時代と同じ1メートル90。中央には「道」、さらに猪(いのしし)と木の絵などが刻まれた。
 関係者によると、全身性アミロイドーシスで闘病中の猪木氏は、式典で出席者らに謝辞を述べ、最愛の人を見送ったという。

蔦温泉は明治の文豪・大町桂月が愛し、晩年には本籍地も移し、さらに桂月の墓も建てられた場所です。

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々、十和田湖の景勝美を世に広めた桂月と、道路整備等に腐心した元青森県知事・武田千代三郎および地元の村長・小笠原耕一の「十和田の三恩人」を顕彰するものでした。そこで、光太郎は十和田湖に「乙女の像」制作のための下見に行った昭和27年(1952)、蔦温泉にも立ち寄って、桂月の墓参をしています。当方も一度、お参りさせていただきました。また、桂月の墓の傍らには、昭和9年(1934)に建立された武田と小笠原を顕彰する碑「両先醒芳躅記念碑」も現存します。

猪木氏、この一角にお墓を建てられたそうです。画像は十和田の観光情報サイト「とわこみゅ」さんから。
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左から「アントニオ猪木家の墓」、「両先醒芳躅記念碑」、そして桂月の墓です。

猪木氏、亡き奥様ともども蔦温泉を何度も訪れていたということで、蔦温泉を管理してきた小笠原家からこの場所を提供してもらったようです。現在、旅館は小笠原家の手を離れてしまったようですが。

スポーツ誌『Number』さんのサイトにも記事が出ていました。

アントニオ猪木79歳はなぜ青森に「墓」を建立したのか? 病との闘いと亡き“ズッコさん”への思い「まだ、お迎えが来てくれないよ」

 2022年5月22日、アントニオ猪木は青森県十和田市の蔦温泉にいた。周囲には八甲田の山々がそびえている。
 猪木には、やっておかなければならない一つの人生の行事があった。長いこと自宅の仏壇に置かれていた妻・田鶴子さん(通称ズッコさん)の遺骨を墓に収めることだ。
 青森県の山中の静かな温泉地にその墓は作られた。場所を決めたのは猪木だった。猪木の無類な世界観によって、あえて青森の蔦温泉に行きついたのかと、筆者は驚愕を覚えた。それは生まれ育った横浜でも、東京でもなく、ブラジルでもパラオでもアラビアの砂漠でもなかった。

「アントニオ猪木家の墓」の全貌とは
 新しい「アントニオ猪木家」の墓は蔦温泉の近くに建立された。渓流沿いの小路から少し歩いて20メートルほど続く不規則な階段を上がると、正面には愛する蔦温泉で56歳の生涯を終えた明治~大正期の文豪・大町桂月の墓がある。隣にはこの健脚の「酒仙」大町と共に十和田開発に貢献した武田千代三郎(元青森県知事)、小笠原耕一(元十和田村村長)らの記念碑もある。
 その奥にできたのが「アントニオ猪木家」の墓だ。石碑を覆っていた白い布が取り払われた。
 正面には「道」という大きな文字が見える。その左には縦に「アントニオ猪木家」。手前の右内側には「道」の詩の全文が刻まれて、左内側の墓誌には「猪木田鶴子」という名前が一つだけある。その次に刻まれる名前が「アントニオ猪木」なのか「猪木寛至」なのか、筆者は知らない。本人に聞いてみようかな、とも思ったが、あえて聞かないことにした。
 雪解け水を含んだ新緑の渓流のせせらぎに、カエルたちの合唱が重なる。豊かな自然を感じることができ、心安らぐ場所だ。
 午前11時過ぎ、暗くなった空から少し雨が落ちてきた。「猪木さんもズッコさんも、晴れ男・晴れ女なのに、雨?」という声も聞こえた。

「もう少し元気になった姿を」と猪木は言った
 ズッコさんが亡くなったのは2019年8月だったから、もう3年近く前になる。2人はこの温泉が気に入って、都会の喧騒から遠ざかるように、何度も静かな時をここで過ごしていたという。
 今の猪木は多臓器不全を引き起こすアミロイドーシスという深刻な病を抱えている。「まだ、お迎えが来てくれないよ」とか「もういいじゃないか、猪木」という古舘伊知郎さん的な言葉を自分に投げかけてもいる。でも、それは額面通りの言葉ではなくて、逆に「もう少し、生きてやるよ」という意思表示のように筆者には聞こえる。猪木は寡黙に戦っている。
 目の前には、瞳を閉じて悲壮感すら漂わせてリハビリを続ける猪木がいる。体調を示すさまざまな数字とも戦いながら、積極的にうまいものを食べようとする猪木がいる。
 車イスに乗った猪木に「元気ですか」という言葉はもう似合わないのかもしれない。「どうせ、よくはならないから」と猪木は自虐的な言葉まで発して、ちょっと笑ってみたりもする。それでいて「もう少し元気になった姿を皆さんに見せないとね」と相変わらずのサービス精神も忘れていない。
 あれだけの強靭さを誇った猪木の肉体が老人のものになったことは否定できない。人は誰でも歳を重ねる。なにせ79歳だ。でも、「闘魂」が猪木から消えうせることはない。それを「静かな闘魂」と筆者は呼ぶ。もし、不老不死の妙薬があるというなら、人体実験でもいいから真っ先に猪木に飲んでもらいたいと思う。「飲みますか」と聞いたら、「ああ、いいですよ」と猪木は言うだろう。生きたいからだ。
 今の猪木にとって東京から青森まで移動するということはある意味大きな戦いであり、挑戦だ。仙台でブレイクを挟んだとはいえ、長距離の移動はかなりの疲労とリスクを伴う。自宅やお気に入りの都内のホテルで過ごす日々とは違う。
 かつて飛行機に乗って地球の裏側のブラジルと日本を日常のように往復していた時代の猪木を知る人ならば、「青森なんてほんの数時間の距離でしょう」と言いたくもなるだろう。
 だが、自由に動かなくなった体という事実は、そんな言葉さえ打ち消してしまう。

かつて猪木が語っていた死生観「砂漠に消えるのがいい」
 蔦温泉旅館に入ると、壁に額がかかっている。「つたえ歩きで」という名の詩だ。
 「風呂場からゆぶねに浸かれば あつい熱が心地よく体のしんへと入ってくる 汗ばんだ体を水風呂につかれば 小さなことはふきとんで 気分は天国 杖をわすれて廊下を歩く 千年の温 蔦温泉」(原文ママ)
 猪木が詠んで自ら書いたものだ。
 波乱万丈の人生を歩んできた猪木もまたここにたどり着いたのか、と思ってしまった。
 かつて猪木は死を語るとき、「足跡を消したい。砂漠の砂の中に消えるのがいいな」と言っていたが、こうして「アントニオ猪木家」の墓を作ってしまった。それも青森の山中だ。
 しかし、猪木家ではなく「アントニオ猪木家」というのが猪木らしいかな、とも思った。お墓が好きな人はそんなにいないだろうが、ある年齢を迎えると、そういうことを考えるようになるのだろう。
 前日、筆者は蔦温泉から車で30分ほど離れたところにある八甲田山中の温泉宿・ホテル城ヶ倉に泊まった。この宿の廊下にも猪木の書いた文があり、また前の敷地にはズッコさんの記念碑があった。
 そこには「鶴」という大きな文字とズッコさんが使っていた小さな手鏡がレイアウトされていて、猪木の言葉が続いていた。
「花に嵐のたとえがあるように さくらの花のように散っていた ズッコ いつまでもいつまでも 皆んな心の中で生きてるよ」
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お墓には猪木氏の座右の銘的な「道」も。
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元は僧侶にして宗教学者の清沢哲夫が昭和26年(1951)に発表したものです。

この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし   
踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ

光太郎の「道程」(大正3年=1914)と通じるものがあると夙に指摘されています。清沢が「道程」を意識したのかどうかは、当方寡聞にして存じませんが。

もしかすると猪木氏、ご自身の愛された蔦温泉、大町桂月等十和田の三恩人、光太郎、「道」、「道程」、そのあたりの関連も考えられて、この地を選んだのかも、などと想像してしまいます。

いずれはここも十和田の新たな観光名所の一つとなるのかも知れません。そうなることで、大町桂月等十和田の三恩人や「乙女の像」、そして光太郎にもまたスポットが当たってほしいものですが、ただ、猪木氏にはまだここには入っていただきたくないものですね。

ちなみに奥様の納骨式の様子、YouTubeに上がっています。再生回数既に170万回超だそうで。



猪木氏の歌う「木蘭の涙」、泣けますね。

【折々のことば・光太郎】

昨夜雪ふる、うすい初雪、 あたたか、


昭和28年(1953)1月8日の日記より 光太郎71歳

「乙女の像」制作のため、前年秋に帰京して初の雪。それまで7年を過ごした花巻郊外旧太田村の豪雪とは較べようもありませんが、それでも岩手時代を思い出したことでしょう。

昨日、今月17日に亡くなった渡辺正治氏(劇作家・女優渡辺えりさん御父君にして、生前の光太郎をご存じでした)ご遺族から、香典のお返しが届きました。

同封されていたハガキ大二つ折りの「お礼の言葉」。通常、この手のものは葬儀屋さんに既成の雛形があり、その中から選ぶものですね。当方、昨年暮れに妻の母が亡くなった時にもそうしました。
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そう思って開いたところ、驚きました。何と、えりさんによる長文のご挨拶が。ご本名の「えり子」クレジットです。光太郎にも触れて下さっています。
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こういうことも可能なのですね。

もう一件、『山形新聞』さんに載ったえりさんの文章。「渡辺えりのちょっとブレーク」という月イチの連載、5月分で、一昨日の掲載です。

(204)父ちゃん、ありがとう

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 17日の夜、父親が亡くなった。ここ数年、介護施設のお世話になっていた父。先月、高熱が出て入院したが、良くなったので退院することになり安心していた矢先だった。
 毎月お見舞いに行っていたが、コロナ禍で直接触れ合うことができず、ガラス窓越しに10分だけの面会が続いていた。そんな中で逝ってしまった。新幹線で病院に着いたのが午後10時15分。すでに意識はなく、「父ちゃん、父ちゃん」と叫んで体をさすっても意識は戻らず、同36分に帰らぬ人となった。コロナ禍で面会は私と弟の2人きり。本当にコロナは残酷である。
 95歳でも父の肩は厚く、昔、湯野浜海水浴場で肩車をしてもらったことを思い出した。看護師さんに「何度も肩車してもらったんですよ」と話す。父がどれほどたくましかったか、ユーモアがあり優しかったか、誰かに伝えたかった。
 看護師さんに丁寧に体を拭いてもらったためか、父の頬はほんのり赤く色づいて少年のようにふっくらしてきた。見開いた目はどうやっても閉じない。お医者さんから「私が駆けつけるまで待っていた」と聞き、何とか目を開いていようと頑張ってくれたのだと思った。時間がたつにつれ、安心したように目を閉じて口角が上がり、仏像のような表情になってくる。神様か仏様かと、思わず拝んでしまうほどのありがたい顔に変化していった。
 病院の待合室には弟の奥さん、いとこたちが駆けつけていた。葬儀屋さんが父の遺体を運びに来てくれたが、黒いシートにくるまれている。病院の裏口から運び出そうとした瞬間、看護師さんが機転を利かせて父の顔を見せてくれた。親族たちが脱兎(だっと)のごとく駆けつけ、父の名を呼ぶ。
 お通夜の部屋が間に合わず、霊安室に一晩安置された。突然のことなのでお墓もなく、お寺も決まっていない。私も仕事の格好のまま、気が動転して頭がうまく回らない。
 翌日、葬儀屋さんの進行でお寺や葬儀について話し合い、19日にお通夜、20日に葬儀と日程が決まった。
 コロナ禍なので葬儀は親族だけで済まし、一般の方はお焼香だけ。何度説明を受けても理解できない。とにかく東京から喪服とアルバム、父のために書いた戯曲などを送ってもらい、何人かに父の死を伝えた。誰に伝えていいのかもよく分からない。コロナ禍で友人を呼べず、相談することもできない。しかも15日に足首を剥離骨折してしまったために自分で動くことができない。
 こんな時にけがをしている自分が情けなかったが、弟の立派さとその家族の親切さを改めて感じた。取り乱して感情的になっている姉と、周りの人たちに気遣い謙虚に仕切る弟。子供の頃、泣き虫でおねしょをしていた弟の成長に驚き、見直した。親族たちも昔から父を尊敬し慕っていたのだな、と改めて思う。
 お通夜に親族で集まっていると、東京からもたいまさこと光永吉江、元夫、元劇団員が来てくれた。コロナ禍、山形の友人には遠慮してもらっていたが、それを知らない東京の友人が駆けつけてくれたのだ。
 劇団員の元夫がみんなに知らせてくれたらしい。山形では葬儀の前に火葬するしきたりを知り、その前に父の顔を見に来てくれたのだった。劇団3〇〇の芝居が好きで俳優たちを常に応援し、山形公演の時はいつも実家で歓待してくれた両親。みんなが帰った後は、2人そろって寝込んでしまうほどもてなしてくれた。
 もたいと光永とは、3日徹夜で話しても話がつきないほど気が合う。2人の愉快な会話を戯曲に書いたこともあるが、お通夜の席でも大笑いするシーンがあった。私がボロボロのジーンズに赤い靴下をはいていたら、光永が「早く着替えなさい」と言う。「山形のお通夜は普段着なんだ」と答えたら、東京チームは全員驚きの声を上げる。東京からそのまま来た私は喪服がないのは当然だが、親族も全員が普段着。これは山形の風習であった。突然亡くなったのに、以前から準備していたように感じさせない配慮ではないか? 葬儀の当日には全員喪服を着るが、お通夜は昔から親族もわざわざ普段着を装う。
 ここまで書いてきたら、決められた文字数をとうに過ぎてしまった。おくりびとの話や葬儀屋さんの素晴らしさ、ひつぎに入れた愛用品、葬儀で歌った歌、山形新聞の父の記事、火葬場での話、父の教え子、父が戦時中に教員になろうと決意した話、私が演劇をすることに反対だった父が突然許した理由など、これらは次回に書きたいと思う。
 お忙しい中、お焼香に来てくださった皆さま、本当にありがとうございました。
 いつも明るく、人をほめ、会った人がみんな豊かな気持ちになるような温かい父でした。
(俳優・劇作家、山形市出身)

改めまして、正治氏のご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

揮毫書初、奥平さんの幅の箱に“うつくしきもの”宮崎稔氏の箱に“高村智恵子遺作紙絵”北川太一氏の「智恵子抄」特製本の扉に「われらつねにみちよ」“あれが阿多多羅山”を書く、

昭和28年(1953)1月2日の日記より 光太郎71歳

毎年1月2日には書き初めというのがこれまでの通例で、帰京してからもそのルーティーンは崩しませんでした。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の名が、日記では初めて登場しました(書簡では前年から)。前年、光太郎が帰京したと聞きつけて体当たり的に訪問された北川先生、面識もなかったため何度か追い返された後、貸しアトリエの大家だった中西夫人のとりなしで光太郎と会うことが出来、以後、親炙することとなりました。

渡辺えりさん、そのエピソードを舞台「月にぬれた手」で使われています。ただ、「北山」と名前を変えてですが。
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この日、北川先生が書いてもらった揮毫がこちら。
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ここから版を採って、複製の色紙や幅が作られ(それを「真筆」として展示されてしまうことがあり、閉口していますが)、さらに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城に建てられた詩碑のプレートも作られました。
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