5月2日(日)の『読売新聞』さん岡山版から。

田中美術館 スケール大きく 新館建設始まる 井原の彫刻家顕彰 アトリエなど検討

 「おとこざかりは百から百から」としたため、86歳で完成させた代表作「鏡獅子」(木彫彩色)で知られる井原市出身の彫刻家・平櫛田中(ひらくしでんちゅう 1872~1979年)を顕彰する市立田中美術館の新館建設工事が始まった。現在、休館中の同美術館敷地内で進められている。開館は2023年4月予定で、地元ファンは「田中のスケールの大きな生き方と作品は市民の誇り」と開館を待ち望んでいる。
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 新館は3階建て延べ3600平方㍍で、彫刻制作の体験教室を開催できるスペースや、プロの彫刻家が制作できるアトリエなどを検討している。休館中の建物(3階建て)も一部を改装して新館と接続し、使用する。事業費約14億円。
 手先が器用だった田中は、13歳まで後月郡(現・井原市)で育ち、大阪の小間物問屋に奉公に出た。やがて、大阪の人形師に師事。20歳代半ばで上京し、彫刻家・高村光雲に教えを請うた。
 鋭い観察眼で人間味あふれる作品を多く制作。1944~52年には東京美術学校(現・東京芸術大)の教授も務めた。
 現在、東京の国立劇場ロビーに飾られる「鏡獅子」(高さ約2㍍)は、六代目尾上菊五郎をモデルにした大作で、視線の向きなどを変えながら納得のいく形を追求し、制作に約20年を費やした。「2億円で買い取るという申し出を断り、国に寄贈した」とのエピソードも残る。
 故郷への思慕は強く、井原市内の学校に自作を贈るなどし、後に知られる「いま やらねば いつ できる わしが やらねば たれが やる」の書が掲げられた学校もあったという。
 小学校でこの言葉を学んだという井原鉄道・井原駅の市観光案内所勤務の北田利恵さん(56)は、「この言葉は、幼い頃から私たちを奮い立たせてくれました。私たちの誇りです」と話す。
 市立田中美術館は、田中が90歳で文化勲章を受章した後の69年に前身の田中館として開館。73年に現在の名称に改め、83年に今休館中の建物をオープンさせた。
 木彫や石こう像、ブロンズ像など所蔵作品は、ゆかりの品を含め約1000点で、年間約1万3000人が訪れる。老朽化が進んだことから、新館建設や改装が決まった。
 工事の安全祈願祭が4月14日にあり、くわ入れをした大舌勲市長は「新しい美術館が井原に生まれ育った人たちの誇りとして伝えられ、一度行ってみたいと言われる美術館にしたい」とあいさつした。
 井原駅のギャラリーでは、「鏡獅子」の原型となった石こう像など4作品が展示されている。同美術館学芸員の青木寛明さん(50)は「いいものを作る努力を惜しまず、107歳まで現役を貫いた。尊敬できる人物です」と話す。
 同美術館は昨年末から休館中。問い合わせは同館(0866・62・8787)へ。


岡山県井原市の市立田中美術館さん。光雲に師事した平櫛田中の作品群を常設展示するほか、やはり彫刻の企画展が多く、平成25年(2013)には「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」を他2館との巡回で、昨年には「没後110年 荻原守衛〈碌山〉―ロダンに学んだ若き天才彫刻家―」を単独で、それぞれ開催して下さっています。

新館の開館はまだまだ先のようですが、いずれはまた光太郎、それから田中の師である光雲がらみの企画展等が開催されることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

朝八時過、朝日新聞記者自転車でくる。中島橋渡れず、県道の報から来た由。今朝五時に起きて来たとの事。新岩手日報にたのまれて廿一日の賢治の命日の為に賢治について談話筆記したしといふ。三十分ばかり話す。


昭和22年(1947)9月17日の日記より 光太郎65歳

この談話筆記、『高村光太郎全集』には漏れていましたが、数年前に見つけました。
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「中島橋渡れず」は、この数日前までの豪雨のせいでした。

先月24日の『読売新聞』さん。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集智恵子抄 福島県二本松市 愛する妻思う青い空

 福島県二本松市は、詩人で彫刻家だった高村光太郎の妻・智恵子(1886~1938年)が生まれた土地だ。
 生家に近い鞍石山の周辺は「智恵子の杜公園」として整備され、光太郎の詩碑が建つ。4月上旬に訪れると桜がちょうど満開で、残雪を抱く安達太良山(標高1700㍍)が西の方角に見えた。頭上は雲一つない青空が広がっている。
 〈智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。(中略)阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。〉(あどけない話)
 高校の教科書にも掲載されている詩集「智恵子抄」に収められた作品の有名な一節。東京で妻が思いをはせた遠い古里の空を、光太郎はそう詠んだ。
 17歳で上京した智恵子は日本女子大学校(現在の日本女子大)に入学し、卒業後、洋画家の道に進む。知り合いの紹介がきっかけで光太郎と出会い、28歳で結婚した。
 ところが、東京の生活は順風満帆とはいかなかった。都会暮らしになかなか慣れず、展覧会に出した自身の絵画が落選したこともあって、気分はふさぎがちだった。年に数か月は二本松の実家で過ごし、たまに光太郎も一緒に滞在した。
 「智恵子の苦悩をよく理解した上で、光太郎はあえて直接書かずに『あどけない』と表現した。そのことが詩に深みを与えている気がする」。地元の市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」の代表、熊谷健一さん(70)はそう語る。
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 造り酒屋だった生家は現在、1階が一般公開されている。台所や居間のほか、少女時代に使用していた琴や、光太郎の影響でベートーベンの交響曲第6番「田園」を好んで聞いたという蓄音機を展示。戦前の瀟洒(しょうしゃ)な暮らしぶりがうかがえる。
 生家の隣には酒蔵をイメージした智恵子記念館がある。ここで目を引くのは、色紙を切ってつくる「紙絵」の作品群だ。心の病を患い、52歳で亡くなる智恵子が晩年に病室で創作にのめり込んだ。
 「千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない」と光太郎は随筆で書いている。
 智恵子の解説本の編さんに関わった二本松市教育委員会の元職員、根本豊徳さん(69)は「残された紙絵はどれも素晴らしく、やはり天性の才能があったことを思わせる。光太郎は詩で、智恵子は紙絵で、それぞれ夫婦愛を表現したのでしょう」と指摘する。
 作品に登場する智恵子は優しくて、はかない印象だった。だが、生まれ育った二本松を歩いてみると、自然豊かな土地で芸術家としての感性を磨き、生きることに最後まで無器用だった一人の女性の姿が浮かび上がってきた。
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心に残る詩「総選挙」
 「智恵子抄」は太平洋戦争が始まった1941年に出版された。明治から昭和にかけて高村光太郎が妻への思いを詠んだ詩29編のほか、短歌などが収められた。光太郎の研究で知られる文芸評論家・北川太一は「若者の心をとらえ、さまざまな形で絶えることなく読みつがれ、人々の心に浸みとおっていった」とつづっている。繰り返し映画やテレビドラマにもなった。
 二本松市ではさまざまな顕彰活動が展開されている。
 「智恵子のまち夢くらぶ」は、生家沿いの県道の名称を全国から募集し、「智恵子純愛通り」と命名。出版から80年となる今年は光太郎の詩から最も心に残った作品を決める「総選挙」を10月まで実施している。
 生家のそばにある「戸田屋商店」は30年前にスーパーを改装し、高村夫妻の著書や土産品を置くようになった。店主の服部弘子さん(75)は「せっかく二本松に来てくれた人に、少しでも智恵子さんのことを覚えて帰ってもらいたい」と話す。店内には客が持ち寄った智恵子の写真や新聞記事の切り抜きなどが並ぶ。
 市教委は「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を毎年開催している。福島県内と、光太郎ゆかりの地・岩手県花巻市の小学生が参加できる。

メモ
 智恵子の生家と智恵子記念館は、JR東北線安達駅から徒歩で20分。東北自動車道・二本松インターチェンジからは車で10分。
 生家では、智恵子の誕生日の5月20日に合わせ、「高村智恵子生誕祭」を毎年開催する。今年は4月24日からで、2階居室を特別に公開するほか、智恵子の紙絵をモチーフにした切り絵体験もできる。両施設の入館料は共通で、小・中学生210円、高校生以上410円。開館時間は午前9時~午後4時半。毎週水曜と年末年始は休館。
 智恵子の杜公園の入り口までは生家から歩いて5分ほど。2人が散歩した山道を30分ほど登ったところに、光太郎の詩碑「樹下の二人」がある。詩の描写そのままに、安達太良山や阿武隈川が眼下に望める。
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昨日ご紹介した「詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」と同じ、「とうほく名作散歩」という連載の一環です。同じ作家が続けて取り上げられるのは珍しいような気がします。もっとも、今回は光太郎より智恵子がメインですが。

「「智恵子抄」総選挙」に関してはこちら戸田屋さん小学生紙絵コンクール生家2階居室の特別公開紙絵の制作体験についても、それぞれリンクをご参照下さい。

【折々のことば・光太郎】20a98038

姉咲子の命日、 今日も雨やまず、ふつたりやんだり。


昭和22年(1947)9月9日の日記より
 光太郎65歳

光太郎の長姉・(さく/咲子)が亡くなったのは明治25年(1892)、咲は数え16歳、光太郎はその時同じく10歳でした。55年も前のことを、日記に記しているのですね。もっとも、母・わかの命日が翌日なので、セットで記憶していたのでしょう。わかが亡くなったのは大正14年(1925)でした。

狩野派の日本画を学び、将来を嘱望されていた咲。幼い光太郎にとっては自慢の姉でした。

牽強付会のそしりを受けそうですが、同じく絵画の道を志していた智恵子に、光太郎は咲の俤を見たのかもしれません。

先月2日の『読売新聞』さんから。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む

 12年に1度、岩手の人びとが持ち出す詩がある。高村光太郎(1883~1956)の「岩手の人」だ。
 「『岩手の人沈思(ちんしん)牛の如(ごと)し。(中略)地を往きて走らず、企てて草卒ならず、つひのその成すべきを成す。』牛は岩手の象徴であり、丑(うし)年は岩手の年です」
 1月4日、達増拓也知事が年頭訓辞に引用し、新型コロナウイルス対策や東日本大震災からの復興に力強く取り組む決意を述べた。
 宮沢賢治や石川啄木を生んだ岩手で、彫刻家で詩人の高村光太郎だ戦火を逃れ、晩年を過ごしたことはあまり知られていない。
 1945年、東京・駒込のアトリエを焼け出された光太郎は、賢女の弟・清六に招かれて疎開。太田村山口(現・花巻市太田)の山小屋で暮らし始める。
 「岩手の人」が収められ、読売文学賞を受賞した詩集「典型」の表題作や連作詩「暗愚小伝」などは、この山中で書かれた作品だ。
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 光太郎が住んだ山小屋は、「高村山荘」として現地保存され、当時の暮らしを伝えている。隙間風の吹き込む夜が容易に想像でき、「自己流謫(るたく)」(流刑)と言われる厳しい生活がしのばれる。
 一方、光太郎は地域の人びととも親しく交流した。当時、小学生だった高橋征一さん(78)は「近寄りがたい人ではなかった」と振り返る。小学校の運動会に参加したり、開校記念日にサンタクロースに扮(ふん)してお菓子を配り、一緒に踊ったり。「偉い人なんだなあと思っていたが、こういう先生だとは思わなかった」。典型で得た賞金は、同校に寄付した。
 光太郎の詩に、牛をモチーフにしたものが多いことについて、花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さん(44)は「牛歩の歩みであっても、『力強く確実に』という、県民気質を感じたのでは」と分析する。
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 八幡平市在住の絵本編集者、末盛千枝子さん(80)が生まれた時、父の彫刻家、舟越保武(1912~2002)は、光太郎に娘の命名を願った。
 光太郎の影響で彫刻家を志した岩手県出身の舟越が1941年、アトリエを訪ねて頼み込むと、光太郎は「(亡くなった妻の)智恵子しか思い浮かばないけれど、悲しい人生になってはいけないので、字だけは替えましょうね」と答えたという。その年「智恵子抄」が刊行された。
 末盛さんは長年、複雑な思いを抱えてきたが、「私は今やっと『(中略)本当に有り難(がた)く、とても大切に思います』と心から言える」と自著で述懐している。舟越は「日本二十六聖人殉教記念碑」で62年、高村光太郎賞を受賞した。
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 「岩手の人」はこう結ばれる。「斧をふるつて巨木を削り、この山間にありて作らんかな、ニツポンの脊骨岩手の地に 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。」。岩手に「日本のメトロポオル(中心)」を見いだした、光太郎らしい言葉かもしれない。
 連翹(れんぎょう)を愛した光太郎は、その黄色いかれんな花が咲く頃、静かに眠りについた。4月2日は連翹忌。

絵描いた温泉客室を移築
 高村山荘から北に8㌔、花巻市湯口の大沢温泉山水閣では、光太郎が愛用した「牡丹(ぼたん)の間」が今も宿泊客を受け入れている。
 大沢温泉は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)との戦いで受けた毒矢の傷を癒やしたとの伝説に始まる。宮沢賢治や光太郎も何度か訪れたが、その理由について、高田貞一(さだかず)社長は「やはり泉質でしょうね」と言う。
 「昔の温泉は治療の場でもあった。家で風呂に入るには井戸から水をくんで、薪(まき)でお湯を沸かさなければならなかったから、好きな時に入れる温泉はぜいたくでした」と高田さん。今も長期滞在者のため、大沢温泉には自炊部があり、布団を持ち込み、自分で料理や掃除をすれば、2000~3000円台で泊まることができる。
 牡丹の間は、10畳、6畳、3畳の三間続きの角部屋。豊沢川の流れに面し、光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。山水閣の建て直しを経て、現在は光太郎が宿泊した当時の床の間や欄間、床板などの内装を移築し、当時の雰囲気を残している。
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メモ
 高村光太郎記念館は、JR東北線花巻駅から12㌔、タクシーで15~20分。東北自動車道花巻南インターチェンジ(IC)からは11㌔。「道程」などの代表作4編の詩や、「少年の首」「十和田裸婦像試作」などの彫刻作品を展示しているほか、書や草稿、服や靴からは、当時の息づかいが感じられる。すぐ隣に高村山荘がある。
 両施設共に入館料は、小・中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。開館時間は午前8時半~午後4時半。年末年始休館。
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かなりスペースを割いていただき、花巻郊外旧太田村での光太郎を語って下さいました。

冒頭近くの達増知事の訓示、詩「岩手の人」などについてはこちら。当時の光太郎をご存じの高橋征一さんについてはこちらなど。平成30年(2018)の高村祭では、当方が聞き手となって、高橋さんほか4名の方々の、光太郎の思い出を語ってもいただきました。お元気そうで何よりです。

末盛千枝子さんについても、久しぶりにお名前を拝見しました。引用されている御著書は『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』。平成28年(2016)の刊行です。

一点、苦言を。大沢温泉さんの「牡丹の間」紹介の中で、「光太郎がこの部屋で牡丹の絵を描いたことから名付けられた。」とあるのは誤りで、この部屋に複製が飾られている光太郎の牡丹の水彩画は、昭和20年(1945)、旧太田村に移る前、最初に疎開した宮沢家で描かれたものです。光太郎、この時点ではまだ大沢温泉さんは未踏の地でした。
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003昨日も書きましたが、今月末から来月初めにあちらに行くことになりそうなので、彼の地の初夏の空気を堪能してきたいと思っております。

明日は同じ「とうほく名作散歩」、「智恵子抄」で。

【折々のことば・光太郎】

曇、涼、 トマト倒れたのを直す。実つきすぎて重く軸のもぎれかかつたのもあり。


昭和22年(1947)9月7日の日記より 光太郎65歳

上記「とうほく名作散歩」、花巻郊外旧太田村での光太郎が、このようにがっつり農耕にもいそしんでいた記述があれば、なおよかったと思いました。

昨日は、県立図書館さんに行っておりました。自宅兼事務所や近隣の図書館さんですと、ネット上のデータベースでの調査に限界があるためです。

『読売新聞』さんの地方版記事で、光太郎智恵子光雲がらみがいろいろありましたので、しばらくはそちらをご紹介します。

まず、4月2日、岩手版の記事。「うめえなっす」という連載の一環のようです。

うめえなっす 賢治の注文料理堪能 天ぷらそばとサイダー やぶ屋(花巻市)

002 天ぷらそばと三ツ矢サイダー。一見、珍しい組み合わせが「やぶ屋」の看板メニューだ。花巻市出身の詩人・宮沢賢治(1896~1933年)が好み、「賢治さんのセットをください」というファンが相次いだことから、いつからか「賢治セット」と呼ばれるようになった。 まずはサイダーで喉を潤してから、麺をすする。そばは、県産のそば粉のみを使った二八のひきぐるみで、香り豊かだ。かつお節で取っただしに、1923年(大正12年)に創業した時から代々引き継いでいる「かえし」を加えた、濃厚なつゆが麺によく絡む。
 エビと季節の野菜の天ぷらは、創業時からの衣の大きい「草履揚(ぞうりあげ)」を貫き、見た目も派手だ。つゆと油を堪能したところで、再びサイダーをグイッ。冷たい気泡が食道を通り、すっきりすると、更に箸が進んだ。
 やぶ屋は、創業者が仙台市の同名の店で修業したことにちなむ。賢治は、英語で「BUSH(ブッシュ)」と呼び、同僚や教え子と度々訪れた。賢治が「一杯やろう」と言えば、お酒ではなく、サイダーだった。彫刻家で詩人の高村光太郎が通った、という証言も残されている。
 営業部長の笹川博之さんは「全国からたくさんのファンが来る。賢治人気に驚くばかり」と話す。笹川さんによると、20年以上前、花巻でサイダーの売り上げが伸びていたため、生産するアサヒ飲料(東京)が店を訪ねてきた。理由を知った同社は、広告で賢治のエピソードを用いるようになったという。
 木造2階建てだった店舗は、現在4階建てになり、宴会場も含めて600席ある。新型コロナウイルスで席数を減らしたが、メニューは普段通り。苦難の中でも、伝統と味を守り続ける構えだ。
思い巡らせそばを食す
 宮沢賢治には筋金入りのファンが多い。笹川さんは客から「賢治さんはそばから食べたの? それともサイダーから?」と聞かれて戸惑った。記録は残っていないので、実際にどう食べたかはわからない。
 訪れるファンの世代や性別は様々だが、皆、賢治に思いを巡らせながら、そばを食べるのだろう。自分も想像しながら食べてみた。「うめえなっす!」と言う賢治の姿が、浮かんだ。
メモ
 「天ぷらそばとサイダー」は1000円。「わんこそば」は中学生以上3000円、小学生2500円、小学生未満2000円(いずれも税別)。仕出しや出前も可能。月曜定休。
 花巻総本店は、JR花巻駅から徒歩10分、JR新花巻駅から車で15分。JR盛岡駅の駅ビル「フェザン」にも店舗がある。問い合わせは、花巻総本店(0198・24・1011)へ。

花巻市のやぶ屋さん。賢治が天ぷらそばとサイダーをよく注文していたというエピソードは、比較的有名ですね。当方も何度か訪れ、このセットを頂きました。

魚乃目三太さん著のコミック『宮沢賢治の食卓』でも、当然のように紹介されています。
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賢治がまだ健康だった花巻農学校の教師時代、そしてやぶ屋さんが創業した大正12年(1923)頃のエピソードです。

ちなみに光太郎も登場する同じ魚乃目三太さん著の『続 宮沢賢治の食卓』でも、やぶ屋さん。
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002「雨ニモマケズ」を手帳に記す少し前、昭和6年(1931)という設定です。死も覚悟しつつ東京に向かう直前に、ふと、やぶ屋さんに立ち寄ったと描かれています。当方、寡聞にしてこれが史実かどうか存じませんが。

読売さんの記事に、「彫刻家で詩人の高村光太郎が通った、という証言も残されている。」とありますが、「証言」というより、戦後の光太郎自身の日記に、何度もやぶ屋さんで食事をしたことが記録されています。右は、昭和12年(1937)頃のやぶ屋さん。賢治が通っていた頃と、光太郎が足を運ぶようになった時期の、ちょうど中間くらいですね。「祝南京陥落」という幟(のぼり)が生々しい感じです。

それからこれも読売さんの記事にある、アサヒ飲料さんの「広告で賢治のエピソード」は、こちら。
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同社のサイトにも、賢治とサイダーのエピソード。
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光太郎が昭和20年(1945)に花巻に向けて疎開のため東京を発った日を記念して、毎年5月15日に行われてきた、高村祭。昨年に続き、今年もコロナ禍で中止となりましたが、当方、今月末か来月初めにあちらに行くことになりそうなので、機会がありましたらまた賢治セットを頂いてこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

竹内てるよさんとは初対面なり。大変肥えて丈夫さうに見える。しかしどこか病的なり。元気よき話いろいろ。此所の空気の甘さ、気圧のよさ、空気の乾き等述べらる。持参の五目寿司をいただき午食。

昭和22年(1947)9月6日の日記より 光太郎65歳

竹内てるよは明治37年(1904)生まれの詩人。突然、光太郎の山小屋を訪れました。

戦前には重度の脊椎カリエスにかかり、当会の祖・草野心平らが「竹内てるよを死なせない会」を作り、光太郎も加盟し援助しました。また、確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。そんなわけで、てっきり面識があったはずと思っていましたが、意外や意外、戦後になって初対面だったとのこと。

この際のてるよの回想も残っています。それによれば、この時、山小屋に蝉の彫刻があったとのこと。他にも目撃証言がありますし、きちんとした作品としてではなかったものの、手すさびや腕を鈍らせないための修練のような意味合いで、蝉の制作をしていたことは間違いないようです。


情報を得るのが遅れまして、始まってしまっている企画展示の情報です。

2021年 第1回企画展 -駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点-

期 日 : 2021年3月24日(水)~6月13日(日)
会 場 : 駒形十吉記念美術館 新潟県長岡市今朝白2丁目1番4号
時 間 : 午前10:00~午後5:00
休 館 : 月・火曜日
料 金 : 一般 500円 団体(1名様) 400円  ※団体は20名様以上
      大学・高校生 300円 中学・小学生 100円

1901年生まれの駒形十吉は本年生誕120年に当たります。そこで、1年を通して駒形コレクションを初期から順次ご覧いただきたいと思います。第1回展は、「駒形コレクションの原点」。駒形の美術への思いをお伝えできたらと考えております。

情報はTwitterを調べている中で得ました。同館の昨日のツイートでした。

新緑の美しい季節となりました。美術館の庭は、ツツジ、石楠花、ヤマボウシでにぎやかです。
高村光太郎氏が父高村光雲の遺作展の際長岡に来られた時の写真を展示いたしました。悠久山の風景を気にいっていたとか。この時駒形は、光太郎氏から色紙を書いて頂いています。
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「ありゃま」と思い、調べてみると、同展の情報に行き当たりました。そして「作品リスト」を拝見すると、光太郎の書も出ているとのこと。
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「父よ今日」、短歌を揮毫した色紙です。

当該の短歌は昭和12年(1937)の作。『高村光太郎全集』第11巻に掲載されています。

父よけふ子は長岡の初夏にいとどこほしくおん作を見し

こほしく」は古語で「こひしく」に同じ。漢字仮名交じりで書けば「恋しく」です。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生による「解題」には、

五月二十三日、長岡市で同地の風羅会が主催して「高村光雲遺作木彫展観」が催された時のもの。揮毫から採録。

とあります。どうも展示されている色紙はこれのようですね。そして、北川先生、かつて実物を御覧になったのでしょう。

高村光雲遺作木彫展観」は、光雲没後の昭和12年(1937)5月23日、一日限定で長岡市の常盤楼という料亭を会場に開催されました。光雲に関しては、生前に個展が開催された記録が見当たらず、確認できている限り最初の個展です。

その作品目録に光太郎が一文を寄せています。

父の遺作がどの位世上に存在するかは関東大震災があつた為にその調査が中々困難である。今度長岡市有志の方々が長岡市所在の父の遺作を一堂に集めて展観せられるといふ事を知つて喜びに堪へない。かねてから同市には父の第一品が多いと聞えてゐるので之は見のがし得ない催であると思ひ、感謝と期待とを以て其日をたのしみにゐる。

これも北川先生による「解題」によれば、

明治三十五年の「聖観音」から昭和九年の「木賊刈り」まで木彫二十六点、ほかに遺墨数点が展示された。次の主催者の言葉を添える。

余花さへも既に地に収まりて心やうやうにしづかなる折柄、明治大正昭和の三聖代にわたる彫塑の巨匠高村光雲翁、二重橋前の大楠公像、上野公園の大西郷像の作者光雲翁、更に上野帝室博物館に見る木彫の神品、老猿の作者光雲翁、この名人の制作のわが長岡の地に蔵せらるゝもの三十点に垂んとする喜びを翁逝いて三年の今日、一室に集ふて心ゆくばかり堪能せんとの念願に幸に大方の御意を得度吹聴すること如斯。


そして光太郎、この遺作展観を見に、長岡に行きました。上記ツイートにある光太郎の写真というのは、この時に撮影されたものでしょうし、展示されている短歌の色紙も、この際に揮毫されたものなのでしょう。同館は、長岡経済界の重鎮だった駒形十吉のコレクションを基幹とする美術館だそうですが、駒形は「高村光雲遺作木彫展観」主催の「風羅会」のメンバーでした。そういうことを考えると、色紙も間違いないものなのでしょう。当方、どちらも現物を見たことがありませんし、画像等も未見です。非常に気になります。

ちなみに、光太郎、昭和14年(1939)にも長岡を訪れています。この時は、やはり長岡の素封家だった松木喜之七を訪問しています。松木は光太郎に鯉の木彫を依頼。光太郎、制作にかかりましたが、どうにもこうにも自分で納得のいく鯉が作れず、その言い訳と、代わりに木彫「鯰」(現在・愛知県小牧市のメナード美術館さん所蔵)を贈るためでした。

光太郎はその後も鯉に挑戦し続けますが、結局、未完。そうこうしているうちに松木は出征し、南方戦線で戦死。光太郎は依頼に応えられなかったことを深く悔恨したようです。
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松木のもとを訪れた際には、長岡市内の悠久山にも足を伸ばしたようで、その後雑誌『改造』に「悠久山の一本欅」というエッセイを寄稿しています。そこで、上記駒形十吉記念美術館さんのツイートに「悠久山の風景を気にいっていたとか。」という記述があるのでしょう。

コロナ禍明けやらぬ中、なかなか難しいところがありますが、折を見て拝見に伺いたいものです。

【折々のことば・光太郎】

七時過出かけて圓次郎翁宅に行く。一緒に二ツ関に出て、余は郵便局にて小為替五〇〇円つくり、翁に案内されて観音山の多田等観氏を訪問。山の坂登り相当なり。汗になる。山上は涼し。 等観氏新宅ヰロリ辺にて談話、中食、酒、御馳走になる。

昭和22年(1947)9月5日の日記より 光太郎65歳

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

この日に先だって、等観が光太郎の居た太田村を訪れ、この日、逆に光太郎が等観のもとへ初めて足を運びました。当方も一度、麓から歩いて登りましたが、たしかにかなりの山道でした。

その分、山上からの眺望は良く、花巻の観光案内、テレビ番組等ではここからの眺めがよく使われています。
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地方紙の記事から3件ご紹介します。

まず一昨日の『福島民報』さん。

智恵子の居室特別公開 30日まで二本松

 高村智恵子生誕祭は二本松市油井の智恵子の生家・智恵子記念館で三十日まで開かれている。生家二階の「智恵子の居室」を特別公開し、繊細な美しさの紙絵の実物を展示している。
 五月二十日の智恵子の誕生日に合わせた事業。居室は光太郎と結婚後の帰郷の際などにも過ごしたとされ、当時の状態で保存されている。公開は一~五日、八、九、十五、十六、二十、二十二、二十三、二十九、三十日。
 紙絵は智恵子がゼームズ坂病院での闘病中に制作した「青い魚と花」などの実物十点を二十五日まで公開している。紙絵をモチーフとするカード、しおり作りを十五、十六、二十二、二十三、二十九、三十日に実施する。
 入館料は高校生以上四百十円、小中学生二百十円。
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少し前にご紹介した、智恵子生家の2階部分の特別公開、それから紙絵の実物展示と制作体験を紹介して下さいました。

続いて、ちょっと前になってしまいましたが、4月22日(木)付けの『中日新聞』さん。

蓮如像包む八重桜 あわらで満開

 浄土真宗の中興の祖・蓮如上人が道場を開いたとされる、あわら市の吉崎御坊跡(吉崎御山)で、八重桜が満開を迎えている。蓮如上人の肖像画「御影(ごえい)」が京都市の東本願寺とあわら市の真宗大谷派吉崎別院(吉崎東別院)を往復する御影道中が県内入りした二十一日も、美しいピンクの花々が咲き誇っていた。
 八重桜は毎年四月中旬から下旬にかけて見頃を迎えている。地元住民が植樹し、敷地内にはカンヒザクラやソメイヨシノも植えられている。
 蓮如像は、彫刻家の高村光雲(一八五二〜一九三四年)が造ったもので、一九三四(昭和九)年に完成。高さは台座部分も含め約十二メートルある。
 今年は吉崎御坊開山五百五十年の記念の年。二十三日には御影道中が吉崎東別院に到着し、法要が営まれる。 
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 光太郎の父・光雲作という蓮如上人像。福井県あわら市の吉崎御坊跡に建っています。

この像は、彼の地の観光情報等にいろいろ記述があって、名所の一つとなっているようなのですが、その成り立ち等、当方、寡聞にして存じません。

平成11年(1999)中教出版さん刊行の『髙村規全撮影 木彫 髙村光雲』、平成14年(2002)三重県立美術館さん他刊行の『高村光雲とその時代展』図録に掲載された光雲の年譜を見ても、一切、記述がありません。

福井の観光情報的なサイトでは「光雲四大傑作の一つとして有名」的な記述が目立つのですが、「光雲四大傑作」というのも、他では一切見たことがありません。「誰が決めたんだ?」という感じです(笑)。

また、像の除幕は昭和9年(1934)10月となっていますが、まさに光雲が亡くなったのがこの年、この月。2月には既に東京帝国大学病院に入院しています。まぁ、それ以前に原型を完成させていたとも考えられますが。それから、光雲最晩年は、高野山金剛峯寺さんから依頼のあった本尊薬師如来(阿閦如来(あしゅくにょらい)とも)の制作にかかっていました。同時にそんな大作の仕事を受けるものでしょうか?

さらに言うなら、福井の観光情報的なサイトには、蓮如像の除幕は大谷光暢が導師となって執り行われた的な記述がありますが、この時大谷は満で言うと30歳そこそこ。これも変ですね。

まぁ、ガセとは言いませんが、どうにもわからないことだらけです。ただ、高野山の如来像についても上記光雲年譜には記述が無く、どうも光雲の事績、まだまだ細かな点の調査が為されていないという感じです。

蓮如上人像と光雲の関わりについて、詳細情報をご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

最後に一昨日の『神戸新聞』さんから。直接、光太郎智恵子光雲には関わりませんが……。

街のモニュメントなぜ女性の裸体?「公共の場にこれほど多いのは日本だけ」

006 街角で目にするモニュメントについて、「中には理解できないものや、不気味なものもあるけど、誰がどのように決めて設置するの?」という疑問が、神戸新聞の双方向型報道「スクープラボ」に寄せられた。特に神戸の街には女性の裸体彫刻が多く、改めて考えると不思議だ。なぜ、公共空間に女性の裸体を置きたがるのか。取材を進めると、戦後日本の歩みに深く関わっていることが分かった。
 神戸・三宮のフラワーロード。三宮駅北側から東遊園地東側にかけて、35の彫刻作品が点在する。うち女性裸体像は13点で4割近い。男性裸体像は1点なので、明らかに多い。
 帽子をかぶり体をくねらせる女性、直立してこちらを見つめる女性、座って体を洗っているように見える女性…。いずれも全裸だ。
 神戸市文化交流課によると、市内にある銅像やモニュメントは500点以上。多くは1960年代後半以降の一時期に集中して設置されたという。戦災から復興し、「彫刻の街」を目指した同市は大規模な彫刻展を何度か開いて入選作を買い取り、神戸ゆかりの彫刻家からも寄贈を受けた。
 しかし、なぜ裸の女性なのか。担当者は「裸婦像には平和の象徴のような意味合いがあったと聞いています」と話した。どういうことなのか。専門家に取材することにした。
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 インターネットで「裸婦像 平和」を検索し、たどり着いたのが亜細亜大国際関係学部の高山陽子教授(文化人類学)だ。専門の記念碑研究の傍ら、15年ほど世界各地の銅像を見て回っている。
 「公共の場に、これほど若い女性の裸体像が多いのは日本だけ」と高山教授。数年前に「国内でも多いと聞いた」神戸も実地調査した。公共空間の女性彫像についての考察を2019年にまとめた。
 高山教授によると、いわゆる「銅像」が輸入されたのは明治以降。軍国主義が進むと軍人像が増えたが、戦中の金属供出や、戦後、軍国主義の排除を目指したGHQの政策で大半が撤去された。代わって登場したのが、歴史性、政治性の薄い「乙女の像」だという。
 日本で初めて公共空間に置かれた女性裸体像は東京・三宅坂の「平和の群像」(1951年)で、以前は陸軍出身の首相寺内正毅の像があった場所。高山教授は「ここで平和の意味付けがなされた」と指摘する。
 70年前後には地方自治体が都市整備事業の一環で設置を進め、高山教授は「駅前などに脈絡なく女性裸体像が立つことが増えたのではないか」と説明する。
 ちなみに、欧州では少女の裸体像は美術館などの屋内や庭園など私的空間に限られるというが、日本では少女と分かる像も公共の場にある。こうしたことから、90年代には公共空間への設置を批判する運動も起きた。
 高山教授は「裸体像は性的ないたずらで触られたり壊されたりすることが多く、そういう様子が見る人に嫌悪感を抱かせることもある。裸体だけに、清掃などの手入れも地域住民などに委ねづらい面もあり、厄介な存在になっている」としている。
 神戸市では銅像へのいたずらはあまり把握していないという。同市文化交流課は「数年前にTシャツを着せられた程度。手入れも、彫刻を学んだ女性たちがボランティアで磨いている」としている。

ここで言う「乙女の像」は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ではなく、「騎馬像」「仁王像」といったレベルでの普通名詞としての「乙女の像」ですね。

たしかに裸婦像の屋外彫刻、各地で見かけます。そしてそのほとんどが、記事にあるように「理解できないもの」、「駅前などに脈絡なく」立つもの、ですね。

光太郎の「乙女の像」は、十和田湖の荒々しい大自然の中に置かれ、人間の持つ原始の力の象徴として、必然的に着衣でなく裸体が選択されてます。あの場所に着衣像では、却って「脈絡」がありません。
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しかし、コンクリートとアスファルトに固められた空間に、突如として現れる裸婦像、たしかに違和感がありますね。元首相の女性蔑視発言への反発のうねりなど、ジェンダー格差を問題視する声が高まっている昨今(昨年は「美術館女子」とかいう頓珍漢なプロジェクトも立ち上がりましたが、早々にSNSで炎上し撤退に追い込まれましたね)、その点でも今後、批判が起きそうな気がします。

ちなみに記事にある「日本で初めて公共空間に置かれた女性裸体像」である「東京・三宅坂の「平和の群像」」の作者は菊池一雄。病を抱えていた光太郎が、「乙女の像」制作に際し、自分が途中で制作不能になった場合の代わりの作者として指名していた彫刻家です。光太郎は、菊池が都心に裸婦群像を作ったという情報を得ていたはずで、それも「乙女の像」制作の後押しになったと思われます。

また、裸婦像に限らず、公共の場に意味不明の彫刻(彫刻もどき)が多いのも、遺憾ながらこの国の現状ですね。「現代アート」という言葉が免罪符になってしまっているような……。「その場所にはそれしかありえない」ものの設置を望みます。すると、国民全体の審美眼の向上、といったことが求められるわけで、こうなると、100年前に光太郎があちこちで提言していたことでもあります。残念ながら、それがまだ果たされていないわけで……。

皆様は如何思われますか?

【折々のことば・光太郎】

仁太郎さん細君配給酒四合持つて来てくれる。(三五円六〇也札なく四〇円六〇さし上げる)

昭和22年(1947)8月26日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、蟄居とは言う条、酒好きの光太郎、禁酒まではしていませんでした。

1ヶ月程経ってしまいましたが『週刊新潮』さん、4月8日号。漫談の綾小路きみまろさんによる「実況中継 コロナ禍の中高年にエール 公演中止「綾小路きみまろ」が誌上漫談」という記事が載りました。
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インタビューを元に、ライターの方がまとめた記事なのでしょうが、コロナ禍の最中でも明るく生きようという提言が基本です。「自粛疲れに負けるな!」というわけで。

例えば「いまは飛沫感染とかで、中高年が声を出して思い切り笑うことすら憚られる状況でしょう。本当はステイホーム中でも笑えばいいんですよ。それこそ、自分の顔を鏡に映して「いやねぇ、こんなにシワが増えちゃって。ウフフ」ってね。それくらい気持ちを軽くしてもらいたいなぁ」。なるほど。

それから「公演が中止や延期に追い込まれた去年の3月以降は、ちょうど畑を耕す時期と重なった。山梨県の富士河口湖町に自宅があるので、そこにこもってカボチャやナス、ニンジン、大根、ニガウリにハーブまで育てるようになりました。(略)種を蒔いて、収穫する頃まで公演が止まっていたので、200坪近い畑を回って愛情込めて育てましたよ。濃厚接触じゃなく“農耕接触”ですね。ある意味で、コロナがそういう時間をもたらしてくれたとも感じます。あなたは十分に駆け足で生きてきたじゃない、ここらでひと休みしなさいよ、と。そう自分のなかで切り替えることができたのがよかった。「ローマの休日」ならぬ“老婆の休日”といったところです」。笑いました。しかし、きみまろさんの農耕生活、ある意味、戦後の光太郎の花巻郊外旧太田村での生活も彷彿とさせられますね。

その中で、光太郎もネタに使って下さいました。
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長い下積み時代を経て、50歳を過ぎてからブレイクしたきみまろさんの言葉だけに、実感がこもっています。

たとえ中高年でも、年齢を言い訳にしないで頑張れば……」。当方、きみまろさんと違ってブレイクはしていませんが(笑)、平成24年(2012)の3月、不惑を過ぎてから思い切って前職を辞し、この光太郎顕彰をメインにすることとしました。幸い家族の理解は得られたものの、周囲からは「何を考えているんだ?」という声も少なくありませんでした。しかし、自分の中ではそうすべきだという潮時でして……。

そして約1ヶ月後の5月3日、このブログを始めました。昨日で満9年、1日も休まずに書き続け、今日、10年目に突入。それまで日記などというものは、小中生の頃の宿題で仕方なく書いたことがあった程度でしたが、日記にこだわらず、好きな方面のことを書くのなら出来てしまうのだな、と思っております。誰もほめてくれませんので、自分で自分をほめたいと思います(笑)。まぁ、きみまろさん風に言えば「内容が無いよう」なので、出来てしまったのかも知れませんが(笑)。

さて、この後、何年続きますことやら(笑)。とりあえず引き続きよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

バケツ井戸に落ちる。引揚げられずに終る、


昭和22年(1947)8月25日の日記より 光太郎65歳

光太郎の「あ゙あ゙ー!」という声が聞こえてきそうです(笑)。

写真は蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋脇の井戸。昭和26年(1951)、カメラマンの阿部徹雄による撮影です。
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花巻から届きました。
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「光太郎の食卓カレンダー」。昨年も発行されましたが、新バージョンで、今月から来年4月までの1年間分です。

各月見開き2ページ、『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」に使われた写真を元に構成されています。

昨年との大きな違いは、まず、大きさ。昨年はA5判で、開いたらA4判でしたが、今年は倍のA4判、開くとA3判となりました。001

メニュー的には以下の通り。

5月 ウコギのホロホロかけご飯
6月 カフェドシトロンとサヤエンドウのサラダ
7月 アカシアの天ぷら
8月 アンチョビサンド
9月 支那料理風甘酢あんかけ
10月 カレイの青葉ソースとキガラチャ飯
11月 林檎とサツマイモのケーキ
12月 ラムチョップ
1月 豚肉とキャベツのケチャップ鍋
2月 イングリッシュブレックファスト
3月 そば粉ガレット
4月 チーズとフキノトウ入り茶碗蒸し

料理は、基本、花巻疎開後の光太郎の日記や書簡、随筆、周辺人物の回想文に出てくるものを、現代風にアレンジしたものです。レシピは載っていませんが、元にした文章が各月とも掲載されています。

販売は、昨年オープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんで店頭販売、それから発行元の「やつかの森LLC」さん(花卷高村光太郎記念会の元職員の方々で作った会社)のサイトから申し込めます。頒価税込800円、送料370円だそうです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起こされる。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。

昭和22年(1947)8月23日の日記より 光太郎65歳

故・田口弘氏は、のちに埼玉県東松山市の教育長を務められました。国内最大級の国際的ウオーキング大会「日本スリーデーマーチ」の東松山市への誘致・運営、東武東上線高坂駅前に延びる「彫刻プロムナード」(やはり光太郎と交流の深かった高田博厚の作品群)整備など、大きな足跡を残されました。

昭和19年(1944)、氏が南方に出征する際、駒込林町のアトリエで光太郎に著書や色紙を贈られました。しかし、氏の乗った輸送船がバシー海峡で撃沈され、氏は命からがらの目に遭います。貰った著書や色紙は海の藻屑となりました。

収容所生活を経ての復員後のこの日、光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村を訪れ、改めて揮毫をして貰いました。その後も交流は続き、氏が貰った品々、現在は東松山市立図書館さんで、「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」として無料公開されています。

昨年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生のご遺稿を含む書籍が刊行されました。

遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集

2021年4月30日 北川太一著 小山弘明/北川光彦監修 文治堂書店 定価1,500円+税

高村光太郎研究の第一人者、北川太一の遺稿。賢治「デクノバウ」と光太郎「暗愚」の思想的背景、両者の心の葛藤を独自の視点で書き留め、この文が絶筆となった。
太一ゆかりの人々による追悼・回想文も収める。
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目次
Ⅰ 遺稿をめぐって
 「デクノバウ」と「暗愚」(遺稿)  北川太一
  はじめに/光太郎と賢治「玄米四合の問題」/賢治――コスモスの所持者――
  光太郎、三陸の旅/「記録」の思想/心平と光太郎と賢治と智恵子
  「注文の多い料理店」/光太郎の「人の首」/「第二次大戦下の光太郎」
  花巻、そして太田村山口へ/「暗愚小伝」/「雨ニモマケズ」の反語性
  光太郎 その後 死

 「没我利他」の系譜 賢治・光太郎、そして北川太一  
                小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「雨ニモマケズ」の評価と受容について  
佐藤映二 (元宮沢賢治研究会会長)

Ⅱ 追悼 北川太一
 北川太一先生を偲んで         大島俊克(花卷高村光太郎記念会会長)
 あの日の言葉――北川太一先生への感謝の手紙――       服部剛(詩人)
 北川太一先生と父と光太郎             渡辺えり(劇作家・女優)
 「道しるべの恩」~北川太一先生を偲んで~   佐藤雅彦(文京区浄心寺住職)
 北川太一先生ご逝去の報に涙して         野澤俊之(詩人野澤一子息)
 月の人                          市川恵子(詩人)
 私の北川太一印象記                   前木久里子(詩人)
 うしよあゆめいのちもやし                 曽我貢誠(詩人)

Ⅲ 回想 北川太一
 先生に牽かれて――想い残るいくつか――   高原二郎(元都立向丘高校教諭)
 出逢いと別れ                     竹鼻倭久子(北斗会)
 北川太一先生の思い出             大島裕子(高村光太郎研究会)
 やがて光と――北川太一氏の思い出――     佐藤浩美
(高村光太郎研究会)
 北川太一先生から学んだこと           野末明
(高村光太郎研究会)
 出会いの頃             高松源一郎(美術企画「晴耕雨読」主宰)
 悲しみは光と化す―北川太一は生きている―わが北川太一先生のご逝去に際して
                           佐々木憲三(美術史家)
 北川先生を悼む                   本宮寛子(藤原歌劇団)
 北川様と私                  福田悠子(香川県丸亀市在住)

あとがき ――父、太一が伝えたかったこと――  北川光彦
 

北川先生、ご生前最後の著作集となった『光太郎ルーツ そして吉本隆明ほか』(平成31年=2019 文治堂書店)の「あとがきのごときもの」で、以下のように記されていました。

 それでも、まだ書き残したいくつものことが心に残る。その一番大きな残念は、宮沢賢治の「デクノボー」(「雨ニモマケズ」)と光太郎の「暗愚」(「暗愚小伝」)のかかわり方だ。賢治が「デクノボートヨバレ」たいと書いたのは昭和十二年、中国との戦争が始まったそんな時代だ。
 『雨ニモマケズ』を流布することによって、ここに表むきかたち作られたのは、そんな政治体制のなかで、とりあえず利用できる最も都合のいい人間像としての解釈だ。しかし賢治は、大正十二年の最初の童話集『注文の多い料理店』にそえた解説のパンフレットで、これらがその頃の政治体制にもっとも叛逆するはげしい社会思想に貫かれていることを自ら書き記している。そんな賢治が、死さえ予感しながら、このときにあえて「デクノボートヨバレ」たいと書いた意味は、なんだったのだろうか。
 光太郎が戦後、自らの生涯を、あえて「暗愚」と要約したのは昭和二十二年のことだった。しかしそこで光太郎は賢治没後の宮沢家を訪ね、はじめて「雨ニモマケズ」の草稿を見、筆写し、賢治の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」て生きる生活を痛切に批判して語った。その両者の関わりについても、どうしても書いておかなければならない、と思いながら、その時間がまだあるかどうか。九十四年近く使い古した肉体が、いま、このこのあとがきに近いものを、わずかに書かせる。


先生が亡くなった時、この一節を思い出し、「ああ、結局、これは果たされないまま終わってしまったんだなぁ」と思いました。

しかし、あにはからんや、その後、文治堂書店さんから、「賢治と光太郎に関する北川先生の遺稿を預かっている。そのまま一冊にして刊行するには短いので、解説のようなものを書き足してくれないか」との連絡。仰天しました。

ほどなく送られてきたのが、本書冒頭三分の一ほどの「「デクノバウ」と「暗愚」(遺稿)」。最後に附されたメモによると、「令和元年五月一日二十四時 初稿 擱筆 九十五枚 太一、数え年九十五歳也 前著『光太郎ルーツ そして吉本隆明』(平成三十年三月刊)「あとがき」に記した公約として。」。「先生、書いてらしたんだ……」と、万感の思いがこみ上げました。ちなみに「令和元年五月一日」、ちょうど2年前ですね。奇縁を感じます。

そこで依頼された「解説のようなもの」を書いて送りましたが、「まだ一冊にするには足りないから、ゆかりの人たちに自由に書いて貰う。それから、PR誌の『トンボ』に載せた各界からの追悼文も載せる。ついては史実などの明らかな誤り等を正して欲しい」とのこと。そんなこんなで当方、「監修」としてクレジットされています。表紙にある当方の名は帯に隠れて見えませんが(笑)。

「史実などの明らかな誤りの訂正」、意外と大変でした。何だかんだで一年近く関わったように記憶しています。実は、北川先生のご遺稿の中にもそれがあり、「先生、ここ、一年ずれてますよ(笑)」と、心の中で呟きながら朱筆を入れたり……。しかし、北川先生最後のご著書に、こんな形でがっつり関わらせていただけたのは、望外の喜びです。

ところで、「Ⅱ 追悼 北川太一」中の「北川太一先生ご逝去の報に涙して」を書かれた野澤俊之氏。光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息で、連翹忌にはほぼ毎回ご参加いただいていましたが、今年2月に亡くなったと、奥様よりご連絡を頂きました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』、文治堂書店さんのサイトから注文できると思われます。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小屋前の胡瓜一本生にてくふ。

昭和22年(1947)8月21日の日記より 光太郎65歳

念のため書いておきますが、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の自分の山小屋で栽培していた胡瓜です。泥棒ではありません(笑)。

当方、基本的に生野菜がダメで、特に胡瓜はその匂いからしてまったく苦手です。昨日の昼食、途方はカルボナーラ、妻は冷やし中華。その胡瓜の匂いが気になり、別々の部屋で食べました(笑)。

まずは再放送ですが、光太郎智恵子に触れられる番組から。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート〜長野・上高地」

NHK BSプレミアム 2021年5月1日(土) 15:57~16:26

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

【出演】仲川希良 【語り】渡部紗弓
無題
初回放映は平成29年(2017)1月。人気の高い回だったのか、その後、何度か再放送され、また久々に放映されます。
無題2
大正2年(1913)、上高地で一夏過ごし、ここで婚約を果たした光太郎智恵子が歩いた、上高地のクラシックルートが紹介されます。

続いて、地上波テレビ東京さんで2月に放送されたもの。系列のBSテレ東さんでの放映です。

開運!なんでも鑑定団【武田信玄の秘宝&巨匠の聖徳太子像に超ド級鑑定額】

BSテレ東 2021年5月6日(木) 19:49~20:49

■先祖がもらった<武田信玄>謎の書…ナゼ家康印が?衝撃値■近代彫刻の巨匠作…<聖徳太子>像に超絶鑑定額■昼の司会…<石井亮次>のお宝&声優も仰天…おもちゃ大会■

日本近代彫刻の巨人のお宝が登場。富山で造り酒屋を営んでいた祖父は大の骨董好きで、家にはいつもたくさんの骨董品が飾られていた。小学校高学年の頃、祖母がこのお宝を見せてくれ、「これは将来譲るからね。これを大事にすればご利益に恵まれるよ」と言われた。その後、祖父母の家に行く度、このお宝に手を合わせていたところ、第一志望だった東京大学に現役合格し、就職活動でも希望していた日本銀行に就職することができた。将来このお宝を受け継ぐことになる孫が小学校高学年になったので、改めて価値を確かめたい。果して結果は!?
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出演者
【MC】今田耕司、福澤朗  【ゲスト】石井亮次
【アシスタント】片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
【出張鑑定】おもちゃ鑑定大会 
【出張なんでも鑑定団レポーター】原口あきまさ
【出張なんでも鑑定団コメンテーター】西村知美
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

光太郎の父・光雲の木彫が出ました。依頼人は富山県ご在住の男性。
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このあと、光雲の紹介。国指定重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)はじめ多くの光雲作品画像が的確なコメントと共に使われていて、感心しました。
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京都知恩院さんの聖観音像(明治25年=1892)、元々は料亭の主人に頼まれて彫った「団扇に眠る猫」(昭和7年=1932)。
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オリジナルは皇居造営に伴い納められた「鞠に遊ぶ狆」(明治35年=1902)、徒弟時代の習作ながら光太郎が最も絶賛し、これだけは生涯手元に置いていた「洋犬の首」(明治10年=1877)。
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宮内庁三の丸尚三館さん所収の「矮鶏」(明治22年=1889)、パリ万博出品作「山霊訶護」(明治32年=1899)。
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さて、盛り上がってきたところで、鑑定。鑑定士は日本大学芸術学部教授・大熊敏之氏。
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依頼人の本人評価額は100万円。「一桁違うぞ、光雲なめんなよ!」と思いながら(笑)見ていましたが……
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さらに驚きの1,500万円。
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光雲作のものの中でも、傑作と言えるものという評価だそうで。

ちなみにこの番組、地上波テレビ東京さんでの4月20日(火)放送分でも、ちらっと光雲が取り上げられました。北海道小樽の似鳥美術館さんの紹介の中ででした。
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また、1月に亡くなった、光雲の孫弟子にして、二本松駅前の智恵子像「ほんとの空」、安達駅前の智恵子像「今ここから」の作者・橋本堅太郎氏の木彫が出ました。
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モデルを務められたのが、若き日、無名時代の高畑淳子さんだったそうで。
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鑑定額は700万円でした。

この回も2ヶ月遅れくらいでBSテレ東さんでの放映があるかと存じます。また近くなりましたらお知らせいたします。

さて、それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

三人来訪。一人は新潟よりの高橋康夫、他の二人は横スカ ヨコハマの水野富美夫、仝陽美といふ兄弟、富美夫氏は油画〻家の由。他は学生。三時頃まで談話。

昭和22年(1947)8月20日の日記より 光太郎65歳

水野富美夫は、後にアフリカの風景を描いて有名になった画家。弟の水野陽美は詩人になりました。演出家の蜷川幸夫の妹と結婚し、息女は女優の蜷川有紀さんです。

昨日のこの項でご紹介しましたが、前日には国語学者となった学生時代の故・宮地裕氏が来訪。二日続けてのちに各界で名を成す人物が訪ねてきています。彼等が各界で名を成すに到ったのは、光太郎との出会いによって受けた影響も、少しはあったのではないか、と言うと、身贔屓に過ぎますかね。

昨日、『広報にほんまつ』5月号を取り上げた中で触れた件などにつき、地方紙2紙でも記述がありましたので、ご紹介します。

まず、『福島民友』さん、昨日の一面コラム。

【4月28日付編集日記】智恵子抄

二本松市の小高い里山にある智恵子の杜公園を訪れ、高村光太郎と智恵子が肩を並べて散策したという山道をたどった。見晴らしが良い場所もあり、野鳥のさえずりが響く。2人は当時、どのような時間を過ごしたのかと、思いをめぐらせた▼光太郎が亡き妻への思いを込めて出版した「智恵子抄」にある詩「樹下の二人」は100年ほど前、現在の公園がある場所から眺めた安達太良山や阿武隈川の風景が題材とされる。真筆を刻んだ詩碑は、公園のシンボルとして全国のファンが訪れる▼光太郎と智恵子の顕彰活動を進める同市の市民団体が今月から、「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」と題し、好きな詩への投票を募っている。智恵子抄の出版80周年を記念し、「智恵子抄その後」も含め、作品の魅力と2人の生涯に理解を深めてもらう▼二つの詩集から候補作とした36編には教科書をはじめ、さまざまな機会に読んだ記憶がある作品が目に付く。初めて詩集を手にした10代のころ、純愛を貫いた2人に憧れたことが懐かしく思い出される▼公園内には石碑や彫刻作品も並ぶ。2人が思い出を刻んだ地に足を運び、今も輝きを放つ詩集の世界に浸り、心に響いた作品を選ぶのもいい。

同じ『民友』さんで、遡って一昨日の記事。

智恵子創作の紙絵展示 記念館で生誕祭、5月30日まで

 二本松市の智恵子の生家・智恵子記念館は、同市出身の洋画家高村智恵子が生まれた5月20日にちなみ、今年も生誕祭を繰り広げる。トップを切り24日、同記念館で、智恵子が病床で創作した紙絵の実物展示を始めた。展示は5月25日まで。
 智恵子はゼームズ坂病院に入院した2年間、千数百点の紙絵を制作した。同館は高村家から譲り受けた24点を収蔵する。
 ただ紙質が悪く、照明などで劣化しやすいために通常は複製を展示。このため年2回、収蔵品から10点を選び、実物を公開している。今回は「青い魚と花」や「菊」「小鉢」などを展示した。
 開館時間は午前9時~午後4時30分(最終入館は同4時)。水曜日休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。
居室を特別公開 
 智恵子の生家では、普段公開していない智恵子の居室の特別公開と、同市の伝統工芸品「上川崎和紙」を使った紙絵の制作体験を実施する。
 居室の公開は29日に始まり、5月30日まで大型連休中と土、日曜日など実施。紙絵体験は5月15~30日の土、日曜日に行い、智恵子の作品を題材にカードやしおりを作る。参加費は入館料に含まれる。開館時間は午前9時~午後4時。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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別件で、同じ二本松市の大山忠作美術館さん関係。

大山忠作美術館、5月1日から特別企画 絵はがきプレゼントなど

 文化勲章受章者で、二本松市出身の日本画家大山忠作の誕生日5月5日にちなみ、大山忠作美術館は5月1~5日、二本松市の同館でゴールデンウイークイベントを展開する。
 期間中、来館者に「智恵子に扮する有馬稲子像」や「遅日」「古壁群相」など大山作品をプリントした絵はがきをプレゼントする。また5日には、未就学児と団体以外の来館者に「鯉魚絵付飾大皿『游』」の絵柄をデザインしたマグネットを数量限定で贈る。問い合わせは同館(電話0243・24・1217)へ。
カーネーション販売会
 併せて同館を運営するNPOまちづくり二本松は1日午前10時から、二本松市市民交流センターで、安達東高生が栽培したカーネーションの販売会を開く。限定100鉢でなくなり次第終了する。問い合わせは同センター(電話0243・24・1215)へ。
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故・大山忠作画伯は、女優の一色采子さんのお父さま。同郷の智恵子をモチーフにした絵を複数描かれています。そのうち、記事にある「智恵子に扮する有馬稲子像」は、昭和51年(1976)、新橋演舞場で開催された「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の中で、北條秀司作「智恵子抄」の智恵子を演じた有馬稲子さんをモデルにして描かれたもの。同館の目玉作品の一つでもあります。

続いて、『福島民報』さん。以前にご紹介した「アマビエマスク」シリーズの新作だそうで。

新型アマビエマスク発売 富樫縫製と民報印刷 福島県内4市で

 ウイルス飛沫(ひまつ)などの微粒子を医療用マスク並みに防御できるフィルターを内蔵し感染予防機能を強化した地域限定デザインマスクの販売がいわき、福島、二本松、会津若松の四市で始まった。
 いわき市のいわき・ら・ら・ミュウでは、フラダンスを踊るアマビエ「フラビエ」、サーフ板を持つアマビエ「サーフビエ」の二種類を販売。福島市のラヴィバレ一番丁では、クロマグロを担ぐアマビエの「アドリアちゃん」を扱っている。二本松市の道の駅安達上下線では五月二十日に生誕百三十五年を迎える「智恵子抄」で知られる市内出身の洋画家・高村智恵子をモチーフにした「檸檬(れも)ビエhyper」、会津若松市のトラッドハウス「フキヤ」では、オリジナルデザインの赤べこの「ナノクラスブロッカー」を売っている。福島市の県観光物産館では、新型アマビエマスク「ナノビエブロック」のアマビエデザインとべこビエデザインの販売を開始した。
 富樫縫製(二本松市)と民報印刷(福島市)がフィルターの世界的な専門メーカー・ヤマシンフィルタ(横浜市)と連携し開発した。フィルターは一般財団法人カケンテストセンターによる微粒子捕集効率(PFE)試験で、0・1マイクロメートルの微粒子を99%カットした。一枚千百円(税込み)。
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「Hyper」ではないプロトタイプの「檸檬ビエマスク」は、既に昨秋、販売が開始されていたようです。「Hyper」はその名の通り、ウイルス等のシャットアウト機能が更にパワーアップしたものだそうで。デザイン的にはプロトタイプと同一のようです。
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泉下の智恵子は苦笑しているような気がしますが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

花巻より青年二人(東京と黒沢尻の人)来る。宮沢清六さんより委托のトマト一個、金瓜一個、胡瓜、せんべい等もらふ。二時過ぎまで談話。辞去、宮沢賢治研究者。

昭和22年(1947)8月19日の日記より 光太郎65歳

「青年二人」、氏名は書かれていませんが、「東京」の方は、のち、国語学者となった宮地裕(みやじゆたか)氏です。氏のエッセイが、以前、光村図書出版さん刊行の中学校用の国語の教科書に掲載されていて、この際のエピソードが記されていました。平成9年(1997)~同13年(2001)に「言葉はどこからどこへ」と題し3年生用、ほぼ同一の内容で「胸の底の人と言葉たち」の題で同18年(2006)~同23年(2011)の1年生用

それによれば、まず花巻町の宮沢家を訪れた宮地氏たち、郊外太田村の光太郎の山小屋にも足を運ぼうとしたところ、未知の人物が訪ねていっても光太郎に追い返されることがよくある、とわかっていた清六が野菜類などを持たせ、それを届けるという名目を与えてくれたとのこと。泣かせるエピソードですね。

ところで、この項を書くために調べていたところ、宮地氏、今年2月に逝去されていました。存じませんでした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

智恵子の故郷、福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』の5月号、智恵子の名が18回も出てきました(笑)。

まずは1月に亡くなった同市名誉市民にして、光太郎の父・光雲の孫弟子にあたられた彫刻家・橋本堅太郎氏の遺作となった智恵子像「今ここから」除幕について。智恵子の名がまず2回。
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次に、同市で智恵子顕彰にあたられている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子抄総選挙」の件で、7回。
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続いては、「高村智恵子生誕祭」。特に式典等があるわけではないのですが、智恵子生家で紙絵の制作体験と、裏手の記念館で通常は複製が展示されている紙絵の真作の展示と、これをもって「生誕祭」と称しています。このところ、それぞれ年中行事となっています。なぜか生家2階部分の限定公開は別枠です。
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005ここで「智恵子」が8回。ここまでで累計17回。最終18回目は、裏表紙のカレンダー欄に1回。これで18回です。

それから、ついでというと何ですが、「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」(「あどけない話」昭和3年=1928)と謳われた、日本百名山の一座・安達太良山の山開きの件も紹介されていました。

ただ、以前は必ずといっていいほど「ほんとの空」の語を配して下さっていたのですが、このところお見限りのようで(笑)。
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また、昨年に続き、コロナ禍のため山頂イベントは中止だそうです。残念ですが致し方ありませんね。

公式フライヤーはこちら。こちらも「ほんとの空」の語はなし。
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おそらく画像は一昨年のものと思われます。この中に当方もいるかも知れません(笑)。またこの頃のように、山頂での山開きがにぎわってほしいという願いが込められているのでしょう。まさしく当方もそうであってほしいと祈るばかりです。

【折々のことば・光太郎】

十一時頃分教場行、郵便物。 ひるかへると、あとからワタルさんに案内されて水沢の大川英八といふ(画家か)人子息と共に来訪、濁酒一升もらふ。フナ雀やき少〻、いろいろ話。

昭和22年(1947)8月11日の日記より 光太郎65歳

「ワタルさん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山小屋近くの住民、「大川英八」は画家で、橋本八百二の師にあたる人物。萬鉄五郎とも交流があったそうです。

「雀やき」の語で、「えっ?」と思いました。当方自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区の名産品だからです。ちなみに友人(地元の名士ですが)がこの手の店を経営していたりします。「雀やき」と言っても、雀を焼くわけではなく(京都伏見では本当に雀を焼いた料理があるそうですが)、川魚です。名の由来は諸説あるようですが、電線に並んでとまっている雀の姿に似ているためとか、江戸時代のお殿様が雀と勘違いしたからとか、いろいろ言われています。
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一度、青森の方にお送りしたことがあります。半分は「えっ、雀?」という反応を期待してのことでしたが、まんまとその通りのリアクションで、してやったり、でした(笑)。

それにしても光太郎の日記に出てくるということは、昔は意外と一般的だったのかな、と思いました。また、日記のこの部分をして、「光太郎は山小屋生活で雀まで食べていた」と勘違いしないで下さい(笑)。

状況をわかりやすくするために、KFB福島放送さんのローカルニュースから。

宮沢賢治直筆の手紙も展示 収蔵資料展「寺田弘」

福島県郡山市出身の詩人故寺田弘(てらだ・ひろし)さんの直筆の詩などを集めた資料展が開かれています。

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会場には遺族から寄贈された資料など140点が展示されています。
寺田さんは著名な詩人たちと交流していて16歳で同人誌を創刊するなど早熟な詩人として知られています。
中には宮沢賢治が、亡くなる16日前に書いた手紙や高村光太郎から贈られた掛け軸など貴重な資料も展示されています。
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資料展はこおりやま文学の森資料館で開かれています。
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一昨年、寄贈の際の報道があり、そのうちに展示があるだろう、と思っておりましたところ、おお、いよいよか、というわけでした。

しかし、報道の映像を見て、唖然としました。
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「高村光太郎から贈られた掛け軸」として紹介されたうち、向かって右、「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」と、詩「樹下の二人」(大正12年=1923)の有名なリフレインが書かれたもの、これは完全に複製です。

元は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、詩集『智恵子抄』の見返しに揮毫してもらったもの。
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上の画像は、平成28年(2016)、二本松市の歴史資料館さんで開催された「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」の際の展示です。
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光太郎歿後に、そこから版を起こし、色紙や軸装のものなどの複製が作られました。軸装の方は、やはり二本松市の智恵子生家の座敷にも、複製だと判った上で掲げられています。また、二本松霞ヶ城にある昭和35年(1960)建立の智恵子抄碑のブロンズパネルも、ここから文字を起こしました。
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もう1点の「いくら廻されても針は天極をさす」の方は、真筆であることを期待します。

光太郎、この短句を好んで書き、類例の画像がいくつか手元にあります。下のものが最も有名なもので、昭和44年(1969)、求龍堂さんから刊行された『高村光太郎賞記念作品集 天極をさす』の題字もここから採りました。こちらは「まはされても」のくだりが仮名書き。「針は」の「は」が変体仮名風にカタカナの「ハ」。
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郡山で展示されているものは、「廻されても」と、漢字、「は」は「は」で平仮名になっています。そこで、上記の書からの複製ではないことが判ります。

ただ、昭和55年(1980)に、六耀社さんから「いくら廻されても……」の書幅複製が販売されたという記録があり、「廻されても」と漢字になっているのが気がかりです。もしかすると、これなのかな、と。

近いうちに行って確認してみたいと思っております。

展示についての詳細は、以下の通り。

収蔵資料展「寺田 弘」

期 日 : 2021年4月24日(土)~6月13日(日)
会 場 : こおりやま文学の森 郡山文学資料館 福島県郡山市豊田町3-5
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 〈個人〉一般 200円 高校・大学生等 100円         
              〈団体〉一般 150円 高校・大学生等  70円
                中学生以下・65歳以上・障害者手帳をお持ちの方は無料

こおりやま文学の森資料館には数多くの文学資料が収蔵されています。収蔵資料展は、新たに購入したものや寄贈されたものなどの未公開資料を中心に選出し、普段目にする機会が少ない貴重な資料を広く市民に紹介するものです。
 
今回は、郡山市出身の詩人で平成 25年に死去した寺田弘の資料を、ご遺族からの寄贈により収蔵した原稿や詩集を中心に、宮沢賢治の書簡、高村光太郎の掛け軸などを紹介します。

【折々のことば・光太郎】

深澤さんに「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」揮毫を渡す。龍一氏よりたのまれしもの。
昭和22年(1947)8月9日の日記より 光太郎65歳

「深澤さん」は、画家の深澤紅子。この日、盛岡「婦人之友」友の会の女性陣40名程と共に、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村を訪れました。

「龍一氏」は、深澤紅子子息。東京美術学校彫刻科に在籍されていた昭和18年(1943)、学徒出陣に際し、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を三人の先輩方と共に訪れ、激励の言葉をもらったそうです。光太郎はその際の様子を、同年、詩「四人の学生」に綴りました。

海軍で各地を転々とされた龍一氏、最終的には人間魚雷「海龍」を擁する特攻隊に配属されたそうですが、出撃命令が出る直前に終戦となり、無事、復員しました。

龍一氏、平成27年(2015)の連翹忌にご参加下さりましたが、平成30年(2018)に亡くなられました
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こちらが深澤家に残されている光太郎の書。日記にある書か、或いはのち、昭和25年(1950)に光太郎が深澤家を訪問した際に書かれたものと思われます。

昨年、富山県水墨美術館さんで開催予定だった「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展にて、本邦初公開の筈でしたが、コロナ禍のため中止。展示作品の選択、借り受け交渉など、1年以上にわたって協力させていただいただけに、実に残念に思っておりましたところ、今年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。こちらも出品されるはずです。

昨日は、1月に亡くなった父親の納骨のため、茨城県の取手市に行っておりました。

時間を間違えまして、かなり早く到着。何を間違えたのか(時間を間違えたのですが(笑))、14時からの筈が11時からと思いこんでおり、お寺さんに着いてから気がつきました。

時間を潰すため、うろうろしました。まずはお寺さんの近くにある市立の埋蔵文化財センターさん。
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当方、そちら方面にも興味がありますし、ここは思い出の地でもあります。平成13年(2001)の8月に、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご講演が行われ、拝聴に伺いました。光太郎の書も展示された「取手ゆかりの人びとの書」という企画展の関連行事でした。
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すると20年ぶり。ついこの間のような気もしていましたが……。

現在は「取手の発掘50年史」という企画展で、市内各地の遺跡から発掘された縄文~平安の出土品のうち、特に珍しいもの、資料的価値の高いものをセレクトしての展示で、興味深く拝見しました。
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それから、入り口付近に、過去の企画展の簡易図録がずらっと並べられ、無料で配付されていました。大量に余らせても仕方がないし、リサイクルに出すのも……というわけでしょう。「ほう」と思いつつ、手にとって眺めていると、一昨年に開催された「大正時代の取手―明治と昭和をつなぐ時代―」という展示の簡易図録に、光太郎の名。
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画像は昭和23年(1948)に建立された「開闡(かいせん)郷土」碑。取手駅近くの長禅寺さんの石段脇に現存するものです。よくある郷土の開拓、発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑ですが、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。
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こちらは平成28年(2016)に当方が撮影したもの。この時点ではこの碑、繁茂する篠竹に覆われて、もはや普通に見ることが出来なくなっていましたが、竹をかき分けて撮影しました。

上記簡易図録に載っている画像は、おそらく建立当時ものと思われ、これは初めて拝見しました。

その後、玄関付近に「本日は旧取手宿本陣染野家住宅も公開中です。ぜひ足をお運び下さい」的な掲示が為されており、そちらにも行ってみることにしました。車で10分足らずの場所ですが、車を駐めにくいところでして、これまで未踏の場所でした。
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ここでいう本陣、旧街道沿いで、江戸時代、参勤交代等の際に、お殿様などが宿泊するための施設です。取手は旧水戸街道の交通の要所でしたので、本陣が設けられていました。
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意外と質素な表門。
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本陣母屋。萱葺きの屋根が特徴的です。
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脇には蔵。

無料で母屋内部の見学が出来ました。
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基本、殿様が宿泊するとはいえ、宿屋というわけではなく、土地の有力者の邸宅の一部です。福島二本松の豪商だった智恵子の生家と似ている、と感じる部分がありました。
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しかし、商家ではありえない造作も。例えば、床下には曲者の侵入を防ぐ工夫。
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そうかと思うと、竈も同じ棟にあったりしました。
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明治になって、本陣としての役目を終えてから、この家の持ち主の染野家が、一時、郵便業務を行っていたそうで、その名残。
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草創期の郵便配達夫は拳銃を携行していたと、これは意外と有名な話ですね。
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現物は先ほどの埋蔵文化財センターさんに展示されていました。

裏手の高台には、ここに宿泊した徳川斉昭(大河ドラマ「青天を衝け」では、竹中直人さんが熱演(怪演?)なさっていましたね)の書を刻んだ碑。
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母屋の玄関部分には、取手の古写真等もパネル展示されていました。その中で出典が『取手たより』となっていたものが複数在りました。どうも古い地方紙のようですが、当方、寡聞にしてその存在を知りませんでした。

「もしかすると」と思い、本陣近くの取手市立図書館さんへ。何が「もしかすると」なのかといいますと、「開闡郷土」碑と同じ長禅寺さんにある蛯原萬吉像に関して、情報が得られるかも、というわけです。

蛯原萬吉像、以前にも書きましたが、初代は昭和8年(1933)の建立。その後、戦時中に金属供出にあって喪われ、2代目が昭和50年(1950)に復元されました。その2代目の建立の際に付けられたプレートに、初代の像が光太郎の作であったと明記されていましたが、こちらではその像の制作に光太郎が関わったという情報は一切ありませんでした。

そこで、国立国会図書館さん所蔵の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』を千葉県立東部図書館さんのパソコンで拝見、それから、先月、父親の四十九日の法要の際に、やはり取手市立図書館さんで『取手市史』をあたりましたが、初代の像の作者名は不明のままでした。
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『取手市史』には、現在も刊行が続く『茨城新聞』(当時の紙名は『いはらき』)の記事が引用されていましたが、作者名は書いてありませんでした。

そこで取手の地方紙『取手たより』なら、と思い、探したところ……。
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やはり作者名は無し。

先述の『蛯原萬吉伝: 財界の偉傑』、遺っている初代の像のプレートも同様で、そうなると、この時期に一応彫刻家として名を成していた光太郎の作であれば、考えにくいというのが結論です。やはり、2代目の像のプレートに初代の像の作者が光太郎、とあったのはガセなのかな、という感じですね。もう少し調査は続けてみますが……。

ところで『取手たより』で、これまた長禅寺さんに建つ、「小川芋銭先生景慕之碑」の除幕(昭和14年=1939)に関しての報道を見つけました。
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「開闡郷土」碑同様、題字のみ光太郎が揮毫したものです。

そういう意味では収穫無し、という事態には成らずに済みました。

それから、昼食のために立ち寄った本陣のすぐ近くの蕎麦屋さん。注文したカツ丼(冷たいミニたぬき蕎麦付き)を待つ間、テーブルに置いてあった『茨城新聞』を読んでいると……。
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読者投稿欄です。奇縁に驚きました。

どうも取手に足を運ぶといろいろ奇縁があります。2月の父の葬儀の帰りには、それまでその所在地が不明だった光太郎揮毫の墓石(初代取手市長・中村金左右衛門の子息二人=共に戦死)を偶然に見つけたりもしました。

いずれ、不明である初代蛯原萬吉像の作者も判明することを祈っております。

以上、長くなりましたが、取手レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

雨つよし。終日雷鳴を伴ふ豪雨ふりつつき殆と止まず。到るところ水、水

昭和22年(1947)8月2日の日記より 光太郎65歳

上記『茨城新聞』の投稿句にもある、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の茅屋。元々は鉱山の飯場小屋を移築した粗末なものですし、山の麓で、おそらく斜面を滝のように水が流れ落ち、こうした豪雨の際は生きた心地がしなかったのではないでしょうか。光太郎は元々、幼少時から大の雷嫌いでしたし(笑)。

昨日は演劇公演を見に行っておりました。過日ご紹介した「ひなた村劇団第40回公演「青鞜の女たち」」。4月はじめに申し込んだ時点では満席とのことでしたが、一昨日になって、キャンセルが出たと連絡が入り、伺った次第です。
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会場は、町田市の「ひなた村」さんという、自然体験などのできる施設内に設けられたカリヨンホール。コロナ禍明けやらぬ中ですし、公共交通機関ではなく、愛車を駆って行きました。
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13:00と16:00の2回公演で、当方は16:00の方を拝見。

明治末、智恵子も参加した『青鞜』をめぐる群像劇ということで、同じ趣旨の二兎社さんの公演「私たちは何も知らない」などが頭にあって、女性だけの芝居なのかと思っていました。実際、フライヤーには以下のように印刷されていましたし。
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ところが、さにあらず。この女性たち以外にも、光太郎を含め、それぞれの周辺にいた男性陣もしっかり描かれていました。
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概ね史実に則りつつ、ただし時系列的にはいろいろ改変を加えながら(個々のメンバーの『青鞜』加入時期など)、それぞれの人生を描くといったものでした。
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左から、神近市子、智恵子、平塚らいてう、伊藤野枝。智恵子と野枝は入れ替わりに『青鞜』に参加しましたが、そういった細かな部分は考慮しない、というスタンスの脚本でした。

「ひなた村劇団」さんというのは、「町田市文化事業の一環として町田市青少年施設「ひなた村」で17年間に亘り開催された初心者演劇教室(講師:髙垣葵氏)の卒業生を中心に構成されている町田の市民劇団」(公式HP)だそうで、基本、アマチュアです。

そういうわけで、ちょっとしたトラブルもいろいろありましたが、皆さん、一生懸命演(や)られていました。「活動理念」として、「市民劇団として、子供から大人まで、今まで芝居を見たことのない観客にもわかりやすく楽しめる芝居を提供できるように取り組む」(同)という、それは達成できていたな、という感じでした。

ただ、ストーリー的には、少し手を広げすぎかなという感もありました。与謝野鉄幹と晶子に山川登美子、島村抱月で松井須磨子、岡本一平(東京美術学校での光太郎の同級生です)・かの子、大杉栄には神近市子及び伊藤野枝、平塚らいてう&奥村博史、そして光太郎智恵子……。それぞれのカップル(三角関係も含め)の愛憎や苦悩を細かなエピソードで描き、その分、2時間以上の長い舞台になっていました。

まぁ、それだけに、「新しい女」を目指しながら、皆、それを果たせず挫折した女たち、といった点は強調されましたが。

光太郎智恵子に関しても、大正元年(1912)の犬吠埼(具体的な場所は特定されませんでしたが)でのエピソード以外にも、智恵子が心を病んでからの九十九里浜(こちらも九十九里浜とは明言されませんでしたが)での様子も描かれました。
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まぁ、そうした中で、世間の偏見や因習と戦い続け、刀折れ矢尽きた女たち、的な感じが鮮明に描かれることにはなり、それを狙ったのだろうと思いました。
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8月には、「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」というイベントに参加なさり、再演されるそうです。
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また近くなりましたら、ご紹介いたします。

それにしても、東京都は新型コロナによる3度目の緊急事態宣言が今日からということで、昨日の会場のひなた村さんも今日から閉鎖だそうです。1日ずれていたために休演にならずにすんで、よかったと思いました。本来、この公演、一年前に予定されていたものでしたので……。まったく、いつまで続くコロナ禍ぞ、という感じですね……。

【折々のことば・光太郎】

井戸の水急にふえる。稍濁る。 後刻水汲みの時、鼠一匹井戸の中に溺れてゐるのを発見、引き上げて南瓜の肥料に埋める。多分薬をくつた鼠ならん。井戸の蓋を必ずする事にする。


昭和22年(1947)7月23日の日記より 光太郎65歳

蟄居していた花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、こうしたエピソードからも、壮絶なものだったことがうかがえます。







智恵子の故郷、福島二本松関連で2件。

まずは例年、春と秋に行われている、智恵子生家の2階特別公開について。二本松市さんの広報紙『広報にほんまつ』から。

智恵子の生家2階特別公開000

期 日 : 2021年4月29日(木)~5月30日(日)
     の土日・祝日
会 場 : 智恵子の生家
福島県二本松市油井漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
料 金 : 大人(高校生以上) 410円(360円)
      子ども(小・中学生) 210円(150円)
      ( )内団体料金 含智恵子記念館観覧料

智恵子を育んだ「生家」の2階を、特別公開します。智恵子が暮らした旧長沼家の雰囲気をご堪能ください。

建物内では係員の指示に従って下さい。

来館の際にはマスクの着用と検温の実施にご協力下さい。

平成27年(2015)から始まったこの企画、当方も何度かお邪魔しました。その年によって、「高村智恵子生誕祭」の一環として行ったり、そうでなかったりといろいろですが、昨年と今年はコロナ禍の影響もあって、生誕祭とは切り離しての実施のようです。

平成27年(2015)秋のレポートですが、こちら

コロナ感染にはお気を付けつつぜひ足をお運び下さい。

それから、やはり二本松がらみということで、昨夜、NHK Eテレさんで放映された「にっぽんの芸能 人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」を拝見しました。
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今年3月に国立能楽堂で行われた公演の録画です。

舞方は3人。
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シテ、ワキ、ツレ、そしてシテが「実は○○だった」と、伝統的な能の形式に則っていますが、面を付けない「素踊り」。
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久しぶりにこの手の番組を拝見し、新鮮でした。

遡りますが、本編の前に、イラストを使ってのあらすじ紹介。ここで物語の舞台としての二本松の紹介があればなおよかったのですが、残念ながらそれはありませんでした。
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結局、鬼女は、山伏の法力で折伏させられます。

意外に思ったのは、鬼女がなぜ鬼女になってしまったのかの説明が無かったこと。

二本松に伝わる伝説では、鬼女の名は「岩手」。元は京の都で公家に仕えていた女房だったのですが、その家の姫が重い病となり、それを治す薬は人間の胎児の生き肝と知り、それを求めて各地を転々。やがてカモとなる若い妊婦に出会って殺し、胎児の生き肝を手に入れたものの、殺した妊婦は自分の娘だった、というわけで、岩手は錯乱して鬼女に成り果て、殺戮を繰り返していたというのです。

当方、寡聞にして存じませんが、能の「黒塚」でもこの辺りの経緯は語られていないのでしょうか。

さて、「にっぽんの芸能「人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」」、4月26日(月)、やはりNHK Eテレさんで再放送があります。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

畑手入。草とりは暑熱と坊主蚊とに恐れて中〻出来ず。


昭和22年(1947)7月21日の日記より 光太郎65歳

草取りは本当に大変ですね。自宅兼事務所の庭も、芝生が芝生ではなく、雑草の方が多い状態で、このところ、夕方や曇りの日を狙って、電気式の草刈用バリカンで刈っていますが、中々進みません。意外と腕力を使いますし、かがんでの作業が腰に来ます。

本来、昨春に開催予定だった企画展ですが、コロナ禍のため1年延期となって、明日開幕です。

春の特別展「『白樺』創刊110年 文学の道」13年5ヶ月の軌跡

期 日 : 2021年4月24日(土)~6月13日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 (5月3日開館 5月6日(木)振替休館)
料 金 : 大人200円 小中学生100円

1910年(明治43年)、実篤や志賀直哉ら学習院の同窓生を中心に同人雑誌『白樺』が創刊され、1923年(大正12年)の関東大震災までの13年5ヶ月の間、刊行が続けられました。「他のものにあきたりないので、自分で、自分の要求する文学をうみ出さう」という若い情熱が集った『白樺』は、実篤、志賀に加え、有島武郎や里見弴、木下利玄、長與善郎など日本近代文学史に名を残す文豪たちの出発点でもあります。
本展覧会では『白樺』の足跡を辿りながら、この雑誌が当時の日本文壇に与えた衝撃と影響をご紹介するとともに、その個性豊かな同人たちの作品をご覧いただきます。
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関連事業 文学講座「『白樺』派評価の大きな転換点-本多秋五の批評を中心に-」
 講師 瀧田浩氏(二松学舎大学教授) 日時 5月30日(日) 13:00~15:00
 会場 調布市東部公民館 調布市若葉町1丁目29-21 参加費 220円

 申し込み 往復葉書で実篤記念館まで

光太郎も寄稿し、いわゆるその「人道主義」や、西洋美術の紹介などで注目を集めた『白樺』。昨年が創刊110年ということで、それを記念する企画展示です。

美術方面については、昨秋「秋の特別展 『白樺』創刊一一〇年 美術への情熱-一六〇冊に込めた思い-」が開催されました。で、今回は文学方面にスポットを当てています。

早速、同館から図録を頂いてしまいました。多謝。章立ては以下の通り。それがおそらく展示の構成にもなっているのでしょう。全23ページです。光太郎の名も散見されます。

・『白樺』創刊への道―学習院という空間―001
・『白樺』創刊への道―回覧雑誌の時代―
・『白樺』創刊
・『白樺』創刊―草創期―
・文壇変遷期―自然主義と新たな波―
・『白樺』同人達のあり方―“国民的”と“世界的”―
・『白樺』同人と演劇・脚本―旧劇と新劇―
・同人の変遷―人道主義―
・『白樺』同人―文壇での評価―
・『白樺』十周年
・大正12年『白樺』終刊―有島武郎の死―
・大正12年『白樺』終刊―関東大震災―
・同人の代表作
・『白樺』の文学―作家への影響―


ついでにというと何ですが、昨秋の「秋の特別展 『白樺』創刊一一〇年 美術への情熱-一六〇冊に込めた思い-」の図録も同封されていました。ありがたし。こちらは全34ページ。
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・挿絵と美術紹介
・『白樺』同人が見た美術
・白樺主催泰西版画展覧会
・ロダンからの贈りもの
・白樺主催第四回美術展覧会
・公共白樺美術館の設立に向けて
・第八回白樺美術展覧会
・為白樺美術館設立ヸリアム・ブレーク複製版画展覧会
・白樺美術館第一回展覧会
・若手芸術家の発表の場
・『白樺』の文学と美術
・作品にみる友情
・創刊一一〇年『白樺』表紙しおり


コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夜蚊帳を初めてつる。安眠。


昭和22年(1947)7月20日の日記より 光太郎65歳

蚊帳は、開拓で近所に入ってきた青年が配給で受け取ったもの。そちらには元々あったらしく、光太郎が譲り受けました。

智恵子の故郷、福島二本松に伝わる鬼婆伝説。能「黒塚」の原作となり、広く知られています。

舞台となった場所は、二本松市北部の安達ヶ原。現在は「安達ヶ原ふるさと村」という施設が出来、隣接する観世寺さんには、鬼婆が住んでいたという岩屋や、少し離れた場所には鬼婆の墓といわれる「黒塚」も残っています。

大正9年(1920)、智恵子の父・長沼今朝吉の三回忌法要のため、光太郎も智恵子の実家を訪れ、先に帰省していた智恵子と合流しました。この際に実家附近を二人で歩き回り、その体験が、詩「樹下の二人」(大正12年=1923)のモチーフとなったようです。歩いた場所は、智恵子実家の裏山や、安達ヶ原。「樹下の二人」には詩本体の前に「みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ」という短歌一首が附されています。また、最晩年の「高村光太郎聞き書」には、当会顧問だった故・北川太一先生の「「樹下の二人」も『明星』ですね。その頃のことをうかがいたいのですが」という問いに対し、「「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。」と答えています。光太郎智恵子が安達ヶ原を訪れたのは間違いありません。

光太郎、その折にでも、鬼婆伝説のことを聞いたのかもしれません。あるいは既に能「黒塚」を知っていて、予備知識があったとも考えられます。のちに智恵子の心の病が昂進してからの詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)では、「意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて/のがれる途無き魂との別離」と、唐突に「鬼」の語が現れますが、あるいは安達ヶ原の鬼婆が頭をかすめたのではないでしょうか。

さて、鬼婆関連。

まずはテレビ放映の情報です。

にっぽんの芸能「人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」

NHK Eテレ 2021年4月23日(金) 21:00~21:55
再放送   2021年4月26日(月) 12:00~12:55

福島県・二本松市、安達ケ原に伝わる鬼女の伝説を舞踊にした作品「安達ケ原」を、3月に行われた特別日本舞踊公演からお送りします。出演は花柳寿楽、若柳壽延、猿若清三郎ほか。シテ(老婆実は鬼女)を演じた花柳寿楽のインタビューを交えてお楽しみいただきます。歌詞や演出は能「黒塚」から取られており、振り付けは二世花柳壽楽。前半は改心を見せている鬼の姿をしっとりと、後半は怒りに満ちた様子を描いた、舞踊の大作です。

【司会】高橋英樹,【アナウンサー】中條誠子,
【出演】花柳寿楽,若柳壽延,猿若清三郎,杵屋勝四郎,杵屋巳之助,杵屋勝四助,
    杵屋栄八郎,松永忠一郎,杵屋勝十朗,福原百七,堅田新十郎,堅田喜三郎,
    住田長十郎
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物語の舞台としての二本松の紹介の中で、光太郎智恵子に触れていただければありがたいのですが……。

舞踊で「安達ヶ原」といえば、一昨年には、「にほんまつart fes」というイベントの一環で、親しくさせていただいている女優の一色采子さん(お父さまが二本松ご出身で智恵子の絵も複数描かれている故・大山忠作画伯)と、福島市出身の舞踊家・二瓶野枝さんによるコンテンポラリーダンス「妖艶 Bewitching」の公演があったりもしました。この際は、当方、これを観に行く途中で愛車が故障、泣く泣く引き返し、後に報道で様子を知った次第です。

また、平成28年(2016)には、現代アートの「福島ビエンナーレ」の一環として、智恵子生家を会場に、小松美羽さんによるインスタレーションが行われ、やはり鬼婆伝説がモチーフとされました。

平成30年(2018)には、二本松で公開収録されたNHKさんの「民謡魂 ふるさとの唄」で、「あまちゃん」や「八重の桜」、「いだてん」などにもご出演された大方斐紗子さんが鬼婆役でご出演。ただし、この鬼婆は智恵子と光太郎の仲を取り持とうとする、いい鬼婆(笑)でした。
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さて、「にっぽんの芸能」、ぜひご覧下さい。

さて、やはり鬼婆がらみの別件、地方紙『福島民友』さんから。

怖くて...うまい!「おにばばソフト」 「酪王いちごオレパフェ」も

007 二本松市振興公社は今月から、二本松市の安達ケ原ふるさと村と道の駅安達「智恵子の里」下り線で、独自商品の「酪王いちごオレ」ソフトクリームをベースにした新スイーツを発売した。
 ふるさと村は、「安達ケ原の鬼婆」伝説をモチーフにしたオリジナル商品開発の第3弾となる「おにばばソフト」(600円)。「怖くて...うまい!」をキャッチフレーズに、出刃包丁や骨の形をしたクッキーをトッピングし、血をイメージしたいちごソースを使った。食事処のよってっ亭で販売している。
 道の駅では、いちごオレのパフェを考案した。酪王いちごオレソフトに、カラフルな色合いのあられの一種「おいり」をトッピングし、かわいらしいスイーツに仕上げた。あられの食感がおいしさを引き立てる。道ナカ食堂で400円で販売している。
 同公社は「同じソフトクリームをベースにする商品のギャップを楽しんでもらいたい」としている。

同じ件、福島テレビさんでも報じられていました。

恐怖を覚えるおいしさ!?鬼婆伝説の地・安達ケ原に誕生したソフトクリーム

二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「安達ヶ原の鬼婆は、この土地ではとても有名で、この鬼婆伝説を皆さんに知って頂きたいと」
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福島県二本松市の『安達ヶ原ふるさと村』
この地に伝わる鬼婆伝説をPRし、コロナ禍で減少した観光客を呼び戻そうと令和2年8月8日に、「オニババプロジェクト」が立ち上がった。
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鬼婆のリアルさ怖さを、ありのまま売り出していこうというプロジェクトで、第1弾は、トートバッグや缶バッジを制作。第2弾は、出刃包丁を模したハンバーグがのっている「オニババ出刃ーグカレー」
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そして、第3弾。4月5日に発売されたのが…
黒い角に白い髪の毛、しわしわで牙のはえたこわ~い表情!血のついた出刃包丁や骨…その名も「おにばばソフト」。
◇「おにばばソフト」600円(税込)
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二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「ふるさと村で大人気商品の『酪王いちごオレソフト』を土台にして、鬼婆の顔をプリントしたクッキー、生クリームで表現した鬼婆の髪の毛、角、出刃包丁のクッキー、骨のクッキー、意味ありげに赤いソースがかかっています」
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試行錯誤を重ね、出来上がるまでに4ヵ月ほどかかったそう。
二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「鉛筆で何度もデッサンをして、クッキーに焼いたときにいかに簡単にきれいに顔にでるかっていうのを何枚も何枚もクッキーを作って、型を作ってプリントクッキーが仕上がりました」
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二本松市振興公社・吉清水朋子さん:「”おにばばソフト”を知って頂いて、鬼婆っているんだってこと、それがさらに二本松のPRにつながることが一番だと思っています。『怖くてうまい!』ソフトクリームを楽しんで頂けたらと思います」
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<二本松市の安達ヶ原に伝わる鬼婆伝説>
病を抱えるお姫様の乳母だった女性は、お姫様を助けるためには妊婦のお腹の中にいる子どもの生き肝を飲ませる必要があった。ある日やってきた妊婦のお腹を切りましたが、なんとその妊婦は自分の娘だったのです…ショックのあまり、鬼婆になってしまったという…
<安達ケ原ふるさと村> 福島県二本松市安達ケ原4-100

当方は「ちょっと、無理……」という感じですが、度胸のある方、ぜひどうぞ(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「展望」に原稿着の由にて臼井吉見氏より一五、〇〇〇圓小為替により送り来る。

昭和22年(1947)6月23日の日記より 光太郎65歳

「原稿」は、自らの生涯と戦争責任を綴った連作詩「暗愚小伝」です。「臼井吉見」は掲載紙『展望』の編集長でした。

「暗愚小伝」、18ページに亘る掲載ではありましたが、その稿料が15,000円というのは、当時の物価から換算すれば破格の金額のように思われます。当方、現代でも15,000円の原稿料を貰えることはほとんどありません(笑)。

宮城県から展覧会情報です。今日開幕だそうで。

島川コレクション 春の展覧会 『横山大観から現代アートまで』

期 日 : 2021年4月21日(水)~6月20日(日)
会 場 : 島川美術館 宮城県仙台市青葉区本町2-14-24
時 間 : 5/5まで10:00~16:00 5/6以後10:00~17:00
休 館 : 毎週火曜日
料 金 : 一般 1,200円 高校生 500円 小・中学生 300円 ※団体割引あり

2020年3月から臨時休館していました「島川美術館」は、今年から春と秋に約2ヶ月間の期間限定で開館いたします。

近代日本画壇の巨匠、横山大観が1936年、巨大な画面に描いた「霊峰不二」(131.9×200.3cm)。藤田嗣治の人気版画シリーズ「猫十態」の原画1点「猫」(1928年)、小磯良平がバレリーナを真上から描いた「踊り子」、加山又造「青富士」・「不二」(1984年)、森本草介「フランスパンのある静物」(1990年)、野々村仁清「色絵牡丹文中次」、他に、草間彌生「イエロースポット」など、現代アートの作品も多数、初展示いたします。

更に、高橋由一「江ノ島図」、青木繁「海」、岸田劉生「麗子像」、林武「薔薇」、安井曽太郎「立像」、梅原龍三郎「富士山図」、佐伯祐三「白い道」、荻須高徳「街角」、橋本関雪「玄猿」、田中一村「蓮上観音像」、速水御舟「芙蓉」・「八重椿」、東山魁夷「春梢」・「湖静寂」、加山又造「しだれ桜」・「猫」、前田青邨「春暖」、平山郁夫「マルコ・ポーロ東方見聞行」・「流沙浄土変」、中島千波「白牡丹」・「赤牡丹」、マルク・シャガール「サンポールドヴァンスの恋人たち」など。

陶器、樂茶碗、西洋ガラスも含め、合わせて150点程度展示いたします。
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002案内文にはありませんが、光太郎の父・光雲の木彫「聖観音像」も展示されています。光雲が最も得意とした図題の一つで、柔和なお顔のいいお作ですね。

島川美術館さん、健康食品販売メーカー「ジャパンヘルスサミット」という会社の島川隆哉社長のコレクションが根幹の美術館です。以前は同じ宮城県内の蔵王町の遠刈田温泉さんにありました。その頃の名称は「エール蔵王 島川記念館」。それが、一昨年、仙台市に移転して改称されたそうで、それは存じませんでした。

当方、平成29年(2017)に、遠刈田温泉さんを超えた先の青根温泉湯元不忘閣さん(昭和8年=1933、光太郎智恵子が逗留)に泊めていただきました。その際には「エール蔵王 島川記念館」さんが美術館だとは知らず、スルー。帰ってから程なく、そちらに光雲の聖観音像も展示されていたことを知り、「ぬがーっ」(笑)。

間抜けな当方の身には、時折そういうことが起こります。島根県の出雲に行った際も、帰ってきてから、出雲大社内の彰古館に光雲作の恵比寿様と大黒様の木彫が展示されていると知って、「ぐわーっ」(笑)。

閑話休題。島川さん、コロナ禍のため休館中だったのが、今日から再オープンだそうですが、当面は通年開館ではなく、春秋の期間限定開館だそうです。上記案内文を読むと、錚々たる顔ぶれの出品。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

晴れて、ますます痛快な好晴となる、風あり、青嵐の趣あり、


昭和22年(1947)6月22日の日記より 光太郎65歳

その前2日間は雨。貴重な梅雨の晴れ間でした。「青嵐」は青葉の頃に吹く少し強い風。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部、今朝もですが、このところ時折そんな感じです。

まずは4月14日(水)付けの地方紙『岩手日日』さんの記事。

賢治の世界観触れる 新入社員が施設見学 観光協会セミナー

  花巻観光協会主催の新入社員セミナーが13日、花巻市内で開かれ、会員企業に入社した新入社員らが市内の観光施設を見学。宮沢賢治の世界観や食文化など多彩な花巻の魅力に触れた。
 市内2事業所から22人が参加。宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、花巻新渡戸記念館、ワインシャトー大迫、成島毘沙門堂、高村山荘・高村光太郎記念館などを訪ね、花巻おもてなし観光ガイドの会の高橋孝子会長から、各施設の概要や見どころを聴き、昼食にはわんこそばも体験した。
  このうち宮沢賢治童話村では、賢治童話の世界が体感できる「賢治の学校」や、 賢治童話に登場する植物、動物、星、鳥、石について学ぶことができる7棟のログハウス「賢治の教室」などを見学。花巻温泉に今春入社した滝沢市の髙橋桃子さん(18)は「自分も楽しめたので、お客さまに聞かれたときには、この楽しさを伝えられるようにしたい」と話していた。
 セミナーは、花巻を訪れた人が必要とする観光情報などについて対応できる人材育成が目的。講師を務めた観光ガイドの髙橋会長は「花巻を訪れた観光客がまた来たい、行って良かったと思えるガイドを心掛けている。セミナーの参加者一人ひとりがその担い手になってくれればうれしい」と話していた。 19日と26日にも同様の日程でセミナーを開く予定。
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途中入社の方とかもいらっしゃるかも知れません。だから「新社会人」ではなく「新入社員」の語になっているような気がします。ただ、画像で見る限りは皆さんお若い方ばかりですね。

皆さんには、賢治や光太郎の世界について広める役割を期待したいところです。

花巻ではこんな取り組みも。花巻市さんのホームページから。

【令和3年4月1日から】教育旅行で花巻市内に宿泊していただくと、花巻市所管の対象施設を無料でご利用いただけます

花巻市外の学校が、学校行事の一環として花巻市内の宿泊施設での宿泊を伴う教育旅行を実施し、同教育旅行期間中に花巻市が所管する対象施設を利用した際、学校の児童、生徒、学生及びその引率者を対象とし、市施設入館料等を全額免除いたします。
 
実施期間 令和3年4月1日(木曜)から11月30日(火曜)まで
対象施設一覧(全10施設)
 宮沢賢治記念館 宮沢賢治童話村 花巻新渡戸記念館 萬鉄五郎記念美術館
 高村光太郎記念館 花巻市博物館 石鳥谷歴史民俗資料館 花巻市総合文化財センター
 大迫郷土文化保存伝習館 石鳥谷農業伝承館
ご利用の際の条件等
【利用対象者】学校行事の一環として花巻市内の宿泊施設での宿泊を伴う教育旅行を実施する花巻市外にある学校の児童、生徒、学生及びその引率者。(学校:小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学、高等専門学校及び専修学校)
【宿泊施設】市内の旅館業法第3条第1項に規定する許可を受けた者又は住宅宿泊事業法第2条第4項に規定する住宅宿泊事業者が営む施設に宿泊すること。
【その他】施設予約及び旅行日程表の提出が事前に行われていること。

▽手続きの流れ、連絡先等につきましては、下記チラシをご覧ください。
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ある意味、英断ですね。ダンピングのような気がしないでもありませんが、リピーターとして再度訪れてくれたり、口コミで各施設の評判を広めてくれたりすれば、採算は取れるのかな、とも思われます。

全国の学校関係者の皆さん、旅行業に携わる方々、ご一考を。

ところで、最近の高村光太郎記念館さん周辺の風景、4月13日(火)に送られてきた画像でご紹介します。
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例年5月15日(光太郎が花巻に向けて疎開に出発した日を記念して)に開催されてきた、高村祭は、昨年に引き続き、やはりコロナ禍のため中止となりましたが、感染防止に努めつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑に蟲多く、大根苗、ホウレン草その他半分以上くはれて消える。


昭和22年(1947)6月21日の日記より

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋前に開墾した畑の様子です。本格的に農業を初めて2回目の夏、それでもまだこんな状況だったのですね。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第25号が届きました。
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光太郎の日記等の記述を参考に、現代風にアレンジされた連載「光太郎レシピ」は「じゃがいものニョッキと蜂蜜レモン紅茶」だそうで。
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「蜂蜜レモン紅茶」は、まさにそのまま、花巻郊外旧太田村の山小屋で賞味していました。あのボロボロの小屋と、ハイカラな飲み物のギャップがすごいと思います。

巻頭の特集は、「桜の風景」。花巻の桜の名所がふんだんに紹介されています。岩手では、これから盛(さか)りでしょうか。
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他に、宮沢賢治の足跡を追う「賢治の散歩道」という連載では、花巻中心部の仲町にあった「精養軒」が紹介されています。
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こちらは北上市の中村邸とともに、賢治の「注文の多い料理店」のモデルの一つと言われているそうです。昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する光太郎の壮行会が、ここで開かれています。

マチココさん、オンラインで定期購読の手続きが取れます。ぜひどうぞ。

それから、毎月15日は、「光太郎レシピ」と関連する「光太郎ランチ」の日。昨年開業した道の駅はなまき西南さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで、豪華弁当「光太郎ランチ」が限定販売されています。

今月の光太郎ランチの画像等が、花巻から送られてきました。
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こちらでもジャガイモ。やはり新じゃがの旬だということでしょうか。

白玉団子までついていて、少しカロリー高めかな、という気がしないでもありませんが、これは満足の弁当ですね。

特に急な話題が入らなければ、明日も花巻ネタで。

【折々のことば・光太郎】

つゆをミヅにてつくる。ミヅは朝仁太郎翁が持つてきてくれたり。


昭和22年(1947)6月20日の日記より 光太郎65歳

「ミヅ」は「水」ではなく、山菜の名前です。以前のマチココさん「光太郎レシピ」で「山菜ミズのたたきとウコギのホロホロかけご飯」として取り上げられたりもしました。
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昨日の朝刊を開き、劇作家の清水邦夫氏の訃報が出ていて、驚きました。

劇作家の清水邦夫さんが死去 蜷川幸雄さんとコンビ

001 若者の苦悩やいら立ちを描いて人気を集めた劇作家の清水邦夫(しみず・くにお)さんが15日午後0時46分、老衰のため死去した。84歳。新潟県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。
 1960年代後半から70年代初めにかけて、演出家の蜷川幸雄さんとのコンビで「真情あふるる軽薄さ」「ぼくらが非情の大河をくだる時」などの作品を発表し、全共闘世代の熱い支持を得た。
 妻で俳優の故松本典子さんらと演劇企画集団「木冬社」を結成。戯曲の代表作に「タンゴ・冬の終わりに」「エレジー」「弟よ」などがある。
 岸田国士戯曲賞、泉鏡花文学賞などを受賞。小説も執筆し、芥川賞候補にも挙がった。
(共同通信)

清水氏、平成3年(1991)には、光太郎智恵子の物語「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」を、記事にもある木冬社さんの公演として実施されました。演出も同氏でした。
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平成5年(1993)には再演。
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その後、各地で巡回公演もされたようです。

いずれも光太郎役は小林勝也さん、智恵子役は清水氏の奥様だった故・松本典子さんでした。

脚本は、平成4年(1992)刊行の『清水邦夫全仕事 1981~1991』(河出書房新社』に掲載されています。智恵子が心を病んだ昭和初期のきな臭い世相を背景に、虚実の入り乱れた不思議な世界でした。

また、昭和58年(1983)初演の『いとしいとしのぶーたれ乞食』でも、光太郎智恵子に触れられていたようです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

サダミさん宅の幸子さん来て、ドンといふ米のアラレ菓子、鰯の生干などもらふ。廿三日節句の菖蒲湯に来よとの事。

昭和22年(1947)6月19日の日記より 光太郎65歳

「ドンといふ米のアラレ菓子」、「ポン菓子」という呼称が一般的でしょうか。圧力を掛けて開放、膨張させたものです。

当方、最近、朝食(パン食)には、これを欠かしません。グノーラ的に牛乳をかけていただいています。光太郎が食べたものと全く同じかどうかわかりませんが。
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一昨日、千葉東葛地区の柏市で「熱血の旅行作家 山本鉱太郎展」を拝見して参りましたが、先週は隣接する野田市に行っておりました。行き先は、茂木本家美術館さん。

続けて同じ地域に行ったのは、まったくのたまたまです。この日は、御朱印集めを趣味としている当方の妻が、「野田の櫻木神社さんに行きたい!」と言いだし(というか、前々から言っていたのですが)、じゃあ行くか、ということになって、では近くに茂木本家美術館さんというのがあるはずだから、そちらも、となった次第です。

同館、醤油メーカーのキッコーマンさんの創業家の一つ、茂木家の十二代目・茂木七左衞門氏のコレクションを根幹に、平成18年(2006)に創設された美術館です。光太郎の父・光雲の木彫も常設展示されているらしいという情報を得、以前から行ってみようと思っておりました。
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右下に変なものが写っていますが、気にしないで下さい(笑)。
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「ファウンダーズ・ルーム」という展示室に、光雲作の木彫が展示されていました。フラッシュをたかなければ撮影可。ありがたし。
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キャプションによれば、大正12年(1923)作の「孔子椅座像」。久しぶりに光雲木彫の現物を見ましたが、いつみても舌を巻くような精緻さです。

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隣り合わせで、光雲の高弟の一人、平櫛田中の木彫も。
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さらに、光雲の孫弟子・宮本理三郎。これも一つの材から彫り出した木彫です。
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他には、梅原龍三郎、小倉遊亀らの絵画等。

続いて、「ギャラリー1」という部屋。こちらは富士山を描いた日本画、洋画。
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やはり梅原や、中島千波氏らにまじって、親しくさせていただいている女優の一色采子さんのお父さま、故・大山忠作画伯の絵も。
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その奥の「ギャラリー3」では、「広重の富士 不二三十六景を中心に」展。
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北斎の「富岳百景」の、まあ、悪く言えばパクリ、よく言えばインスパイアされた広重の浮世絵です。基本、嘉永5年(1852)に出されたものだそうで、この年は光雲の生まれた年です。

途中途中で、光太郎と交流の深かった、舟越保武のブロンズ。
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この後、屋外の庭園へ。
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おそらく、隣接する茂木家の住宅の一角と思われる稲荷神社があり、受付のお姉さんが「江戸時代の彫刻があるのでご覧下さい」とおっしゃっていましたので、行ってみました。

まずは社殿。漆喰の鏝絵ですね。
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脇の手水舎には木彫。
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稲荷神社だけに、狐の嫁入り。洒落が利いています。いずれも作者は不明のようですが、名のある職人の手によるものと想像できました。もしかすると、木彫の方は光雲の系譜(高橋鳳雲、高村東雲など)に関連があるかもしれません。

美術館はこんな感じ。眼福でした。

ついでですので、妻が行きたがっていた櫻木神社さん。
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当方、その存在を存じませんでしたが、御朱印マニアの間では有名だそうで。

ご神木はその名の通り、桜の老木でした。それも珍しいのかな、と思います。
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ご神木の花や、境内各所のソメイヨシノ系は既に散ってしまっていましたが、種類によってはまだ満開の桜も。

それぞれ、コロナ禍には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

夕方血がのどから出る。わたのやうな形のものまじる。蒲団をしいて横臥。


昭和22年(1947)6月17日の日記より 光太郎65歳

明らかに結核の自覚症状があったはずなのですが、診療はかたくなに拒否。ある意味、自殺行為に近いようにも思えます。

題名に記しました「千葉東葛(とうかつ)地区」とは、千葉県の北西部、元は東葛飾郡と言っていた地域で、現在の松戸市、柏市、流山市、野田市などを指します(茨城県の一部も含むようですが)。「葛飾」という地名は東京都葛飾区が有名ですが、本来はかなり広いエリアで、北は埼玉県で「北葛飾郡」が現存していますし、東は千葉県の東葛飾郡だったわけです。

さて、その東葛エリアに、先週、それから昨日と、2回に分けて足を運びました。自宅兼事務所のある千葉県香取市からは車で1時間半くらいのところです。

時系列とは逆に、まず昨日。柏市に行っておりました。

きっかけは、一昨日の『朝日新聞』さん千葉版。「温泉本・グルメ…多彩な足跡 旅行作家の草分け・山本鉱太郎さん、柏で作品展」という記事が出まして、拝読し、「あっ、これは行かねば」と思った次第です。
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山本氏、平成元年(1989)初演の「オペラ智恵子抄」の脚本を書かれた方です。作曲は仙道作三氏、そして監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生でした。
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その山本氏の足跡を辿る展示がなされているということで、当方、仙道氏、それから智恵子役を演じられた本宮寛子さん、和田タカ子さんとも親しくさせていただいておりますが、山本氏とはお会いしたことがなく、おそらく会場にいらっしゃるのではなかろうかと思い、行ってみた次第です。

会場は柏市の花井山大洞院さんという寺院内の「大洞院ギャラリー」。柏でも古くから栄えていた地区、野田方面に延びる旧道から少し入ったところにあります。
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立派な本堂。
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その前には、イチョウの巨木。神社ではないのでご神木、というわけではありませんが、江戸時代には既にランドマークだったそうです。色づいたらさぞ見事でしょう。
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ギャラリーは本堂と繋がっていました。
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一室のみで、あまり広くはありません。その空間に、山本氏の足跡が、これでもかとてんこ盛り。
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「オペラ智恵子抄」関連の資料も複数、並んでいました。
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KIMG4966山本氏直筆の脚本原稿、何度か各地で公演されたその時々のパンフレットやチラシ、ポスターなどなど。

案の定、山本氏がいらしていたので、お話しをさせていただきました。まずは北川太一先生のこと。山本氏、千駄木の北川先生宅にも行かれたそうで、そうした思い出など。

それからもちろん作曲の仙道氏についても。山本氏、「オペラ智恵子抄」以外にも、仙道氏とタッグを組んでのお仕事をなさっています。

そして、話は宮城県女川町に。女川町でも「オペラ智恵子抄」が上演されたことがあり、その際、山本氏も女川に行かれていたそうで、勧進元だった故・貝(佐々木)廣氏のお話、オペラ上演のきっかけとなった女川町の光太郎文学碑の話などなど。

また、山本氏、最近は女川に行かれたことはないそうで、東日本大震災から10年経って、女川がどう変わったのかなども。スマホでこのブログから、最近の女川の様子をお見せすると、興味深そうにご覧下さいました。
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こちらが山本氏。

「オペラ智恵子抄」以外にも、山本氏の筆は光太郎に及んでいます。ご自身、流山ご在住で、やはり東葛エリアの手賀沼関連。ここには光太郎も名を連ねた『白樺』の面々が移り住み、一種の芸術村が形成されました。
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その関連の展示。

こちらは山本氏ご著書『白樺派の文人たちと手賀沼 その発端から終焉まで』
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特に、バーナード・リーチとのからみで、光太郎について詳述されています。

あつかましくもこの書籍を持参、サインしていただきました(笑)。
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「オペラ智恵子抄」の楽譜にも。

さて、展覧会の詳細をご紹介します。

熱血の旅行作家 山本鉱太郎展

期 日 : 2021年4月10日(土)~4月18日(日)
会 場 : 大洞院ギャラリー 千葉県柏市花野井1757
時 間 : 10:00~16:30
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

旅行作家山本鉱太郎の著作やそれに関連したものの展示をします。4月11日は「人生思い立った日が青春」の朗読と講演を行います。4月18日は山本さんの台本によるラジオ放送劇「宮沢賢治」の一部の朗読、趣味のハーモニカ演奏などを楽しみます。
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会期残り僅かとなってのご紹介で面目次第もありませんが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。


昭和22年(1947)6月15日の日記より 光太郎65歳

「花巻賢治子供の会」は昭和22年(1947)に結成され、第一回公演が光太郎の山小屋前の野外。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎だそうです。賢治実弟・清六息女の潤子さんなどもメンバーでした。

太田村での公演は、光太郎の慰問がメインの目的だった部分もあったようです。
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当方も加入している高村光太郎研究会発行の年刊雑誌『高村光太郎研究』の第42号が届きました。

今号は、昨年1月に逝去された、当会、そして高村光太郎研究会の顧問であらせられた故・北川太一先生の追悼号。
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研究会主宰の野末明氏をはじめ、7名の研究会員による追悼文等が掲載されています。当方も拙稿を寄せました。
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その他、盛岡大学教授・矢野千載氏による「高村光太郎と中村不折の書道観―明治・大正の六朝書道を中心として―」など、5本の「論文」。

盛りだくさんとなったため、当方が連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』に未収録作品の紹介)、「光太郎歿後年譜」はカット。原稿を送ってから、「今回は紙幅の都合で載せません」と返答があり、カチンときたのですが、まぁ、いたしかたないでしょう。

それから、追悼といえば、やはり研究会員であらせられた、群馬県立女子大学教授・杉本優氏。昨年9月に亡くなられたということで、その件にも触れられています。

当方、そうとは知らずに今年の年賀状を差し上げたところ、追って、奥様から亡くなったという報を頂き、驚いた次第でした。まだお若かったはずでしたので。
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杉本氏、平成27年(2015)刊行の『近代文学草稿・原稿研究事典』で、光太郎の項、4ページをご執筆なさったほか、共著の研究書、各種雑誌の光太郎智恵子特集にもいろいろ寄稿なさいました。
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平成9年(1997)刊行の『詩う作家たち 詩と小説のあいだ』(野山嘉正編)。
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平成10年(1998)発行の『国文学 解釈と鑑賞』「特集 高村光太郎の世界」。
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昭和63年(1988)発行の『彷書月刊』「特集 高村智恵子」。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『高村光太郎研究』。ご入用の方は、最上部に奥付画像を載せておきましたので、そちらまで。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」への追加詩二篇清書。「報告」「松庵寺」。


昭和22年(1947)6月5日の日記より 光太郎65歳

ここで言う「智恵子抄」は、戦後の一時期刊行されていた白玉書房版です。

都内から演劇公演の情報です。

ひなた村劇団第40回公演「青鞜の女たち」

期 日 : 2021年4月24日(土)
      東京都町田市本町田2863
時 間 : Aキャスト13:00~ Bキャスト16:00~
料 金 : 無料(要予約)

明治44年、日本初の女性の手による女性の為の雑誌「青踏」が発刊された。「元始女性は太陽であった」
中心となった人物が、フェミニスト、平塚雷鳥。そして、彼女の思想に賛同した、神近市子、長沼智恵子、伊藤野枝、物集和子らとともに活動を開始する。
そこに、目をつけたのが、評論家の生田長江。彼の紹介で、歌人の与謝野晶子、女優 松井須磨子、作家 田村俊子などを巻き込み、雑誌「青踏」は華々しく創刊するが…。
明治の後半、欧米ではフェミニズムが叫ばれていた時代、日本では、女性には良妻賢母の道しかなかった。
そんな時代に彼女たちは、何を感じ、何を考え立ち上がったのか。
社会の風に逆らいながらも強く光り輝く女性たちの物語。

《ご予約方法》
コロナ感染拡大防止の為、席数を制限しております。
観覧ご希望の方は、お手数ですが次のいずれかの方法で事前予約をお願い致します。
①ひなた村劇団員・舞台出演者に直接予約
②メールで予約 info.hinatamuragekidan@gmail.com
③電話で予約 050-5896-1376
尚、コロナ感染症の状況によってはチラシ記載事項に変更がある場合がございます。
ホームページ、ツイッターなどでご確認ください。
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というわけで、智恵子も登場。『青鞜』メンバーを描く舞台等の場合、その最初期だけ関わった智恵子はあまり登場しないのですが、今回はしっかりキャストに入っています。ありがたし。

この公演、元々は昨年5月に予定されていたのですが、新型コロナのため延期となり、1年越しで実現することになりました。ただ、客席数を減らす対応をなさるそうで、先日、予約の電話を入れた際には既にキャンセル待ち、ということでした。

とりあえずこういう公演があるんだよ、という情報としてご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「展望」へ十五日まで詩稿を送る旨ハカキ速達 分教場にゆきしが配達夫既に来てしまひたり。ハカキをあづける。


昭和22年6月1日の日記より 光太郎65歳

何気に書かれていますが、「詩稿」は、自らの生涯を振り返り、戦争責任を省察した連作詩「暗愚小伝」です。

001当会発行の冊子『光太郎資料』55集、完成し、各所には概ね発送し終えました。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたものです。平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として会報的に年2回発行しております。

北川先生の時代、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、そのあたりは受け継がせていただいております。表紙の「光太郎資料」の文字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。


その手作り感も踏襲し、現在はパソコンで原稿を作成、印刷(両面コピー)のみ地元の印刷屋さんに頼み、経費節減のため丁合(ページごとに紙をまとめること)、ホチキス留め製本は一冊ずつ当方が行っています。それでも一号分の印刷費、送料、ラベルや封筒などの消耗品で10万円ほどかかっています。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第十九回 音楽・映画・舞台芸術
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、明治大正期のものを集成しました。
 アンケート 初めて蓄音機を聞いた時(大正11年=1922)
 アンケート 我が好む演劇と音楽(明治44年=1911)
 散文 辞書を喰ふ女優(大正8年=1919)
 散文 外国映画と思想の輸入(大正9年=1920)
 書簡 田村松魚宛2通(大正8年=1919、大正9年=1920)
 書簡 吉村幸夫宛(大正11年=1922)

光太郎、サブカルチャー的な方面にもいろいろ興味があったようで、蝋管式蓄音機の話や、好きな芸能人の話など。長唄の六代目芳村伊十郎、ロシア人女優アラ・ナジモワ(光太郎はニューヨーク留学中に舞台を見ています)、フランスの女優メアリー・ガーデンとジョーゼット・ルブラン、子役時代の初代水谷八重子、音楽はフランス音楽、戯曲でメーテルリンク等々。

000・光太郎回想・訪問記  「千鳥と遊ぶ智恵子さん」  北条秀司
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、劇作家の北條秀司の文章から。戦時中、駒込林町のアトリエを訪れた際の回想、光太郎最晩年に「智恵子抄」舞台化を企画し、そのために智恵子役の初代水谷八重子が、中野の貸しアトリエに光太郎を訪れた件、結局光太郎が歿した翌年に上演された舞台「智恵子抄」の話などです。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 彰義隊
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』昭和4年(1929)1月『江戸文化』第三巻第一号。光雲を含む各界の著名人等による座談会筆録です。慶応4年(1868)、江戸城無血開城後の上野戦争で、薩長相手に奮戦した彰義隊に関する元隊士の回想等が語られます。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十九回  磯部温泉(群馬県)
現在も使われている温泉記号「♨」発祥の地とも言われる、群馬県の磯部温泉を紹介しました。確認できている限り、明治42年(1909)と大正15年(1926)の2回、光太郎がここを訪れています。
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・音楽・レコードに見る光太郎 「初夢まりつきうた」(その三)
昭和25年(1950)、当時あった地方紙『花巻新報』や、花巻商工会議所などから依頼されたと思われる、花巻商店街の歌的な「初夢まりつきうた」についての三回目。昨年、盛岡の岩手県立図書館さんで調査した結果、新発見がいろいろあり、それをまとめました。
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・高村光太郎初出索引(年代順 三)
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では明治44年(1911)から同45年(1912、大正改元前の7月)までに初出があったものを掲載しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーもご希望があれば)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお振り込み下さい。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい(このブログのコメント欄(非表示可)、当方フェイスブック等からでも)。
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他金融機関からの振り込み用口座番号 〇一九(ゼロイチキュウ)店(019)当座 0782139

【折々のことば・光太郎】

晴、朝もや美し。 坂上まで散歩。うぐひすしきりなり。アマドコロ、チゴユリなどとつて写生。

昭和22年(1947)5月28日の日記より 光太郎65歳

「坂上」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、光太郎歿後「智恵子展望台」と呼ばれるようになったところでしょう。「アマドコロ」は、遠く明治末、智恵子が『青鞜』の表紙にあしらった花です。この絵、以前はスズランと言われていましたが、どうみてもアマドコロですね。

光太郎、智恵子がアマドコロを描いていたのを知っていたのか、知らなかったのか、何ともいえないところですが……。左が智恵子のアマドコロ、右が光太郎のアマドコロです。
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詩人の宮尾壽里子さんから近著を頂きました。多謝。

詩集 海からきた猫 Un chat venu de la mer

2021年3月31日 宮尾壽里子著 夢月堂発行 定価2,000円+税

目次 
序詩 海から生まれしもの
Ⅰ 誰かが啄んだ夢のように
 片夢/午後/氷雨の記憶/水空/水の時間/遠雷/花闇/花刑/薔薇によせて/夜の魚
Ⅱ 風花のように 消えて
 絵の記憶/ピアノの時間/庭/楽茶碗/幼い日のオルゴール/そのうた/伴侶
 夢見坂ケアハウス/空の家/風鈴
Ⅲ どこかで砂の零れる音がする
 どこへ/羊の行方/蛾/残蝉/無題 あるいはオメガという猫
 無題 あるいはカーリーという小鳥/無題 あるいはマッキーという鼠/静かなとき
 そのとき/海からきた猫
あとがき

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「水空」という詩が、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュともなっています。

   水空002

 夕立のあとの 水溜り
 空を映して雲がゆっくりと流れていく
 水面から外れれば
 行き場を失い消える

 都会の片隅 刹那を映して
 水を囲う

 未来の形を映しても
 切り取られた時間のなかで漂白する
 行きつく先も知らぬまま

 早足に通り過ぎる命の切れ端に似て
 場所を失くすとまた音もなく消える

 果てなく彷徨う雲を千切り 千切り
  *智恵子は東京に空がないという
   ほんとの空が見たいという

 ほんとの空はどこにあるのだろう

 みあげても みあげても
 ビルの透き間の空ばかり

 乾くまでのひととき
 水溜まりに浮かぶ霞んだ空を抱きしめる

 水を掬えば 欠片のように壊れて
 指の透き間から乾いた今日が零れていく

   *高村光太郎『智恵子抄』より「あどけない話」部分


PV的な動画がYouTubeにアップされています。


各詩篇は、カバーデザインと同じように、透明感に溢れたセルリアンブルーのイメージ。失礼ながら、年輪を重ねられてきた中でのさまざまなご遍歴を両の手で掬い取り、「指の透き間」からこぼれ落ちた感情を、みずみずしい感性で宝石のように輝く言葉にし、紡いでいらっしゃる感じでした。

ちなみに、表題作が「海からきた猫」ですが、宮尾さんのフェイスブックを拝見しますと、時折、飼われている複数の猫ちゃんたちが登場します。

宮尾さん、詩人の他にもいろいろなお顔をお持ちです。

文芸同人誌『青い花』の同人として、同書に詩やエッセイを寄稿され、特にエッセイでは連翹忌のレポートや、光太郎が暮らしたパリの街の紀行などを書かれ、当会宛贈って下さっています。

それから朗読。都内等でたびたび朗読の公演に出演されているほか、平成30年(2018)には、福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」に出場され、みごと大賞に輝かれました。動画でもご自身で朗読されていますね。

さらには、女優として舞台にも立たれているそうで、そのマルチぶりには脱帽です。上記動画も、マルチなご活動の中でのお仲間を巻き込んで(笑)作られたもののようで。

上記、夢月堂さんサイトから連絡が取れそうです。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

南瓜追〻に出る、ジヤガイモもたんたん出てくる。

昭和22年(1947)5月26日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋前の畑の様子です。

当方自宅兼事務所のベランダでも、プランターにジャガイモの芽が出始めました。収穫して食べようという気もあまりないので(肥料などもほとんどやらないので大きく育ちません)、専ら薄紫の花の観賞用になってしまっています。光太郎に怒られそうです(笑)。
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お世話になっている福島県いわき市の草野心平記念文学館さんから、年報の第21号が届きました。多謝。発行が2020年3月31日ということで、1年前のものですが、なぜか毎年、この時期に1年遅れで届きます。
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内容的には平成30年度(2018年度)の事業報告的なところがメインです。そこで、当方も拝見に伺った、光太郎にも関わった企画展「宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」、「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」等について、詳述されていました。
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また、「火の車……」の関連事業として開催された、料理研究家の中野由貴さんによる「居酒屋「火の車」一日開店」について、4ページ。
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さらに、当方は欠礼しましたが、企画展の関連行事等ではなく単独で開催された、当会会友・渡辺えりさんによる「文芸トーク 東北の文学 光太郎・賢治・心平」の筆記録も、5ページにわたって掲載されています。
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渡辺さん、これまでも各地でのご講演や、テレビ番組等で、お父様の正治氏と光太郎の交流について語られてきまして、ここでもそうした内容の部分があります。ところが、ある程度の長さが活字になっているものはこれが初かな、という感じです。その他、スペイン・ゲルニカ平和博物館のレポート的な内容や、東京や花巻でのご体験、心平や賢治へのまなざしなど、興味深く拝読しました。

その他、栗原敦氏(実践女子大学名誉教授)、牛崎敏哉氏(宮沢賢治記念館学芸員)、和合亮一氏(詩人)、安斉重夫氏(彫刻家)のご講演や対談等も活字になっています。

ご入用の方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝八時頃阿部弘さんと瀬川孝蔵氏と同道来訪、クキの生きてゐるのを数尾持参。此所で料理されて朝食。生の石たたき。酢みそつけ。塩焼。ヰロリの火にかざしてやく。二尾生かしておく。クキの鱗に霰縞あり、美し。


昭和22年(1947)5月21日の日記より 光太郎65歳

「クキ」は川魚の「ウグイ」のことです。当方は「塩焼」が非常に美味しそうに感じます。

鱗の模様に美を見いだすあたり、光太郎の本領発揮ですね。

今年、2021年は詩集『智恵子抄』発刊80周年ということになり、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催で、さまざまな記念事業が計画されています。そのうちの「「智恵子抄」総選挙」について、今月3日の『読売新聞』さん福島版の記事。

「智恵子抄」推し作品求む 詩集出版80年を記念 二本松の団体

 詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子への思いをつづった詩集「智恵子抄」出版から今年で80年となるのを記念し、智恵子が生まれた二本松市の団体「智恵子のまち夢くらぶ」が、詩集の中から最も心に残った作品を決める「総選挙」を開催する。光太郎の命日の2日、募集を始めた。同団体代表の熊谷健一さん(70)は「多くの人に楽しんで応募してほしい」と呼びかけている。
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 同団体は、市内や関東圏などに住む50~80歳代の男女25人で活動。智恵子ゆかりの地を観光客に案内するツアーや、高村夫妻についての勉強会を開くなど顕彰活動に取り組んでいる。智恵子の生誕120年や没後70年といった節目には、朗読会やコンサートといったイベントも企画してきた。
 今年は「智恵子抄」出版から80年だが、コロナ禍で大勢の人が集まる活動は難しく、全国に投票を呼びかける「総選挙」を計画した。「おうち時間で詩集をゆっくり読んで、2人の波乱万丈の人生から、それぞれの生き方のヒントを得る機会にしてもらいたい」という。
 募集対象は、出版社・龍星閣の「智恵子抄」と続編「智恵子抄その後」の36作品。最も印象に残った1作品を選び、郵便はがきに〈1〉作品名〈2〉選んだ理由(100文字以内)〈3〉氏名〈4〉住所〈5〉電話番号〈6〉年齢――を書き、「智恵子記念館」(〒969・1404 二本松市油井漆原町36)に送る。二本松市本町の市民交流センターには、手作りの投票箱と用紙が置かれており、直接応募できる。締め切りは10月31日(消印有効)で、応募は1人1回まで。抽選で80人に、光太郎と智恵子の記念品を贈る。
   開票結果は、同団体が11月21日に開く予定の第2回全国「智恵子抄」朗読大会で発表される。熊谷さんは「応募してくれる方々がどのような作品を選ぶのか興味深い。まだ読んだことがない方にも、この企画をきっかけに作品のファンになってもらえたらうれしい」と話している。
 問い合わせは、熊谷さん(090・7075・6743)へ。
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龍星閣版の『智恵子抄』、それから『智恵子抄その後』の詩篇が対象で、新潮文庫版などには掲載されているものの、龍星閣版にはない「涙」、「からくりうた」、「松庵寺」などはエントリーされていません。

どの詩が第1位になるか、興味深いところです。何となく、「これかな、いや、こっちも有り得るな、待てよ、こいつも捨てがたい」という予想はできますが、明言は避けましょう。また、福島の団体が主催というのも、カギになるような気もしています。

夢くらぶさん主催の「「智恵子抄」出版80周年記念事業」、他にもいろいろ計画されています。
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また近くなりましたら詳しくご紹介しますが、10月には「「智恵子抄」安達太良キャンプ」(当方、パネルディスカッションのパネラーをを頼まれております)、11月には「第2回全国「智恵子抄」朗読大会」だそうです。

ともあれ、まずは総選挙。「投票された方から抽選で80名様に記念品をプレゼントいたします」だそうで、おそらく、結果如何に関わらない抽選でしょう(当方、勝手に便乗して胴元となり「3連単」とか「オッズ何倍」とかやりたくなってしまいますが(笑))。ふるってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前八時頃定見さん宅にゆき、ホームスパン見学。土沢の及川善三氏方に居らるる福田春子さんといふ女の人講師なり。織り終りあり。仕上げの縮絨といふ工作の見学、手伝ひ。
昭和22年(1947)5月20日の日記より 光太郎65歳

「及川善三」「福田春子」は、それぞれ正しくは「及川全三」「福田ハレ」。それぞれホームスパン作家として活躍しました。光太郎愛用の猟人服は、のちに福田が織った生地を使って作られています。

この日、光太郎が蟄居生活を送っていた太田村山口地区に、福田が講師として来、村人にホームスパン制作の講習を行ったとのこと。光太郎の興味深く見学、さらには「手伝ひ」とまで書かれていますね。

さらに講習終了後、福田に、智恵子遺品にして、イギリスの染織工芸家エセル・メレ作のホームスパン毛布を見せてあげています。

東日本大震災後、宮城県女川町で建設が続く、津波対策として避難の目印となるランドマーク「いのちの石碑」。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑を範とし、建設費用は募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。

先月中旬の『毎日小学生新聞』さんで、そのプロジェクトが大きく取り上げられました。

東日本大震災10年 「あの日」に学ぶ 国語<上> 悲しみや希望を言葉に/女川一中で俳句の授業 佐藤敏郎さん

 東日本大震災と防災について考える「『あの日』に学なぶ」第5回は、「国語」<上>、「被災者の心」です。震災の後、被災した人たちは、思いを俳句や作文などの言葉ことばで表現することで、「あの日」の出来事や大切な人との別れ、自分の内面と向き合いました。それらの言葉は、震災が被災者の心に刻んだ傷の深さと、人の強さを教えてくれます。【百武信幸】
 
五七五で向き合う
 宮城県女川町は、津波で町の建物の7割が完全にこわされ、ほとんどの人が被災者になりました。灰色の景色の中で新学期をむかえた町立女川第一中学校(現・女川中学校)の全校生徒は2011年5月、心にうかんだものを自由に詠む俳句づくりに挑みました。先生も生徒もおそるおそる取り組んだ授業でしたが、生徒たちはすぐに五七五の言葉探しを始めました。
 生まれた句の一つが「見上げれば がれきの上に こいのぼり」です。句を詠んだのは当時は中学3年生だった原泉美さん(24)。津波で家が流され、ショックや落ち着かない避難所生活で、体調をくずしていた時のことでした。
 その少し前、車の窓越しに見た景色が頭にうかびました。港の近く、父親がぎりぎり助かった観光物産施設「マリンパル女川」の上に泳ぐこいのぼり。教室には家族を亡くした同級生が何人もいて、かける言葉が見つからない日々が続いていました。自分もつらい。でも「家しかなくしていない私」が詠むならと考え、「見上れば」に「ポジティブ(前向き)に『上を向いて生きよう』との思いを込めた」と言います。
 自らを奮い立たたせる句でもあったそうです。その後、NHKラジオの国際放送で海外に発信され、はげましを込めた詩が世界中から集まりました。
 泉美さんは今、被災後の経験から体の健康について学び、東京都内の保育園で栄養士をしています。
句碑で避難呼びかけ
 その他の句も震災の年の5月か11月に詠まれたものです。「女川一中生の句 あの日から」(小野智美編)という本に、句が詠よまれた一つ一つの背景が書かれています。当時の中学生たちはその後、「1000年後の命を守りたい」と募金活動をして、町内全21地区に高台への避難を呼びかける石碑を建てています。地区によって違う俳句を選び、あの時、震災と向むき合った子どもたちの思いも未来に伝えようとしています。
▽見上げれば がれきの上に こいのぼり
▽ただいまと 聞きたい声が 聞こえない
▽夢だけは 壊せなかった 大震災
▽工事中 沈む私の 応援歌
▽うらんでも うらみきれない 青い海
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<イラスト・にしむらかえ>

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俳句が刻まれた「女川いのちの石碑」を見つめる中学生たち
=宮城県女川町で2013年11月
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津波の被害にあった宮城県女川町で、街を見つめながら歩く人たち
=2011年3月14日

004みんなで共有できる
 国語科教諭として、女川一中での俳句づくりの授業を担当しました。そのころはまだ東日本大震災の発生直後で、自分も次女を亡くしていたから「今の状況を言葉にさせていいのか」という思いがありました。けれどみんな、すぐに指を折り始め、ぴたっと合う言葉を探し出した。生徒が詠んだ句の中で、「見たことない 女川町を 受けとめる」は「受け入れる」ではちょっと違うし、「ありがとう 今度は私が 頑張るね」も「頑張るよ」ではないところに気持が表われている。言葉ってすごいなと思いましたね。
 震災後に気づいたのは、実は震災後にみつけようとした言葉は教科書にあった、ということです。「夏草や 兵どもが 夢の跡」も「国破れて山河あり」も、がれきだらけの女川の風景と同じ。当時使っていた中学3年ねんの教科書の始まりは、中島みゆきさんの「永久欠番」の歌詞で「どんな立場の人であろうと いつかはこの世におさらばをする」とか「順序にルールはあるけど ルールには必ず反則もある」なんて書いてある。被災した後、特別な授業をしなきゃ、なんてあまり考える必要はないのかもしれない。
 俳句は短いから、みんなで共有できるのがいい。彼らが高校生になった時に聞いてみると、俳句づくりの授業を通じて「1人じゃない」とか「こんなふうに考えてもいいのか」と思えたと言っていました。つらい経験は言葉にしてもいいし、しなくてもいい。ただ、言葉にしたい時にできる機会を作るのが学校の役割りです。
 ただし、これは震災が起きてからすることです。起きる前にどうするか。高知県でいっしょに防災教育の講演をした慶応大学の大木聖子准教授は、「防災小説」というユニークな取り組みをしています。防災小説は、子どもたちに災害が起きたと想像してもらい、自のがたりにするというもの。防災ぼうさいは「みんな助かってよかった」というハッピーエンドじゃなきゃだめなんです。
プロフィル
 1963年、宮城県石巻市(旧河北町)生まれ。震災で石巻市立大川小学校6年生だった次女を亡くしました。2015年3月に教員を退職。「大川伝承の会」共同代表として地元で語り部活動に取り組み、全国で講演をしています。

確かに、「言葉」というもの、不思議な力がありますね。悲しみや苦しみ、悩みなどを言葉として吐き出せば楽になることもあれば、逆に改めて言葉にして感情を確認することで、よりその感情が昂ぶることもあるような気もします。

記事で紹介されている『女川一中生の句 あの日から』についてはこちら。

【折々のことば・光太郎】

午前校長さん宅訪問、 大正屋にておみやげをかふ。


昭和22年(1947)5月18日の日記より 光太郎65歳


「校長さん」は佐藤昌。昭和20年(1945)の花巻空襲により、疎開先の宮沢賢治実家を焼け出された光太郎を、その直後から約1ヶ月、住まわせてくれた人物です。旧制花巻中学校の元校長でした。

「大正屋」は、花巻町中心街・若葉町にあった「大正屋果実店」。生前の宮沢賢治が、自分で作った野菜を買い取ってもらっていたのが、ここではないかという説があります。
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