福島から市民講座の情報です。

澤正宏先生の春の講座「与謝野晶子と高村光太郎」

期 日 : 2024年3月25日(月)000
会 場 : NHKカルチャー郡山教室 
      福島県郡山市麓山1-5-21 NHK郡山放送会館内
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 会員 2,519円 一般(入会不要) 2,860円

講 師 : 澤正宏 福島大学名誉教授 

歌人であり詩人でもあった二人は、晶子の新詩社を通してつながりがあった。二人の人間や社会や自然などの見方には対照的な特色があるので、詩歌を読みながらそれらの特色を詳しく見て行きたいと考えます。


澤氏、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰に当たられている智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。

最近ですと、昨年刊行された『草野心平研究資料集』(クロスカルチャー出版)の編集に当たられたりもなさっています。

今回は、光太郎の本格的文学活動の出発点たる雑誌『明星』主宰の与謝野鉄幹夫人・晶子との関わり。晶子は光太郎の5歳年上で、よき姉貴分でした。
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右上は雑誌『スバル』第2年第2号(明治43年=1910)の裏表紙を飾った光太郎の絵。口から蛇を吹き出すエジプトの女神ですが、モデルは晶子です。このシリーズで光太郎は森鷗外、北原白秋なども茶化して描いています。まぁ、親しみの表れですね。

他に、晶子の著書に挿画や序文を寄せたことも複数回ありましたし、晶子の有名な「百首屏風」と同じようなコンセプト(鉄幹の渡航費用捻出のための販売用)で光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も現存します。そうした交流は晶子が亡くなる昭和17年(1942)まで、断続的、不即不離に続きました。

そういった話プラス、作品面での2人の対比といったお話になるようです。興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨日にひきかへて今日は午后猛烈な風が吹き出し、ザラメ雪を交へてすごい吹雪風景となりました。風が積雪を吹き上げて煙のやうに空にまひ上げ、一望ただ白く、向うの森も見えなくなります。

昭和22年(1947)1月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「地吹雪」というやつですね。

この書簡には、イラストも附けてありました。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の雪上に見られる狐と兎と鼠の足跡です。
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地方紙2紙の記事から。

まずは長野県松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん。少し前の記事で、今月初めのものです。

笑顔と涙の巣立ちの日 高校卒業式

 松本市内の多くの高校で1日、卒業式が開かれた。本年度は新型コロナウイルスの5類移行に伴って制限がほとんどなくなり、会場にはマスクを外した笑顔と歌声が広がった。卒業生は友達や恩師との思い出を胸に、晴れ晴れとした表情で学びやを巣立った。
 松本美須々ケ丘高校は、近くのキッセイ文化ホールで式典を行った。4年ぶりに吹奏楽部の生演奏で卒業生276人が入場し、保護者や在校生の温かい拍手で迎えられた。久保村智校長は式辞で高村光太郎の詩「当然事」を紹介し、日常への感謝を忘れないよう呼びかけ「皆さんのかけがえのない人生が心身ともに健康であり、自分、他者、社会のために大いに活躍することを願っている」とはなむけの言葉を送った。
 卒業生が企画・運営する「第2部」では友達や恩師、後輩、家族に感謝の思いを伝えた。全校生徒の合唱では会場中に澄んだ歌声が響き、多くの卒業生の目に涙が光っていた。前生徒会長の3年・松山葉南さん(18)は「多くの人に支えられた3年間だった。高校での経験を生かして自分らしく頑張りたい」と決意を新たにしていた。
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光太郎詩「当然事」、少し長いのですが全文は以下の通り。
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  当然事

 あたりまへな事だから
 あたりまへな事をするのだ。
 空を見るとせいせいするから
 崖を出て空を見るのだ。
 太陽を見るとうれしくなるから
 盥のやうなまっかな日輪を林中に見るのだ。
 山へ行くと清潔になるから
 山や谷の木魂(こだま)と口をきくのだ。
 海へ出ると永遠をまのあたり見るから
 船の上では巨大な星座に驚くのだ。
 河のながれは悠悠としてゐるから
 岸辺に立つていつまでも見てゐるのだ。
 雷は途方もない脅迫だから
 雷が鳴ると小さくなるのだ。
 嵐がはれるといい匂だから
 雫を浴びて青葉の下を逍遥するのだ。
 鳥が鳴くのはおのれ以上のおのれの声のやうだから
 桜の枝の頬白の高鳴きにきき惚れるのだ。
 死んだ母が恋しいから
 母のまぼろしを真昼の街にもよろこぶのだ。
 女は花よりもうるはしく温暖だから
 どんな女にも心を開いて傾倒するのだ。
 人間のからだはさんぜんとして魂を奪ふから
 裸という裸をむさぼつて惑溺するのだ。
 人をあやめるのがいやだから
 人殺しに手をかさないのだ。
 わたくし事はけちくさいから
 一生を棒にふつて道に向かふのだ。
 みんなと合図をしたいから
 手をあげるのだ。
 五臓六腑のどさくさとあこがれとが訴へたいから
 中身だけつまんで出せる詩を書くのだ。
 詩が生きた言葉を求めるから
 文(あや)ある借衣(かりぎ)を敬遠するのだ。
 愛はぢみな熱情だから
 ただ空気のやうに身に満てよと思ふのだ。
 正しさ、美しさに引かれるから
 磁石の針に化身するのだ。
 あたりまへな事だから
 平気でやる事をやらうとするのだ。

初出は昭和3年(1928)、仲間うちで出していた雑誌『東方』の創刊号でした。翌年には新潮社から刊行の『現代詩人全集』に収められ、その際に若干の改訂が施されています。

光太郎詩としてはあまり有名なものではないのですが、ちりばめられたひと言ひと言にこの頃の光太郎の人生観等がよく表されていますね。そして万人にも共通するような部分も多いと思います。

式辞で取り上げて下さった校長先生、グッジョブです(笑)。

もう1件、宮城県の『石巻日日新聞』さんから。過日も取り上げさせていただいた、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」がらみです。

続けることで原動力に  「いのちの石碑」建立メンバー 母校の女川中で講演

 自然災害や津波から1千年先の命を守るため、女川町内に21基の「いのちの石碑」を建立した東日本大震災当時の中学生。そのメンバーが11日、女川中学校で震災を考える講演を開き、1―2年生70人が受講した。震災の記憶を風化させることなく、後世につないでいく大切さを学んだ。
 石碑建立は、発災直後、女川一中(今の女川中)の1年生(現在24―25歳)が取り組んだ伝承活動。町内21カ所の浜の津波到達地点より高い場所に石碑を建て「有事はこの石碑より高台に逃げてもらう」ことで未来の命を救う狙いがある。
   令和3年までに全て建立し、碑には津波から命を守るために生徒が考えた3つの対策①互いに絆を深める②高台へ避難できるまちづくり③記録に残す―と記されている。
 講演したのはメンバーの阿部由季さん、伊藤唯さん、鈴木美亜さんの3人。震災を知らない後輩に向け、阿部さんは発災直後の心境を「今の自分にできることは何と考える毎日だった」と回顧。「友人と一緒に卒業式で歌うはずの歌を避難所で歌い、皆さんが喜んでくれた。小さなことでも続けることで誰かの原動力になる」と訴えた。
 「町を襲う津波を思い出し、今も眠れない日がある」と打ち明けた伊藤さんは「伝承活動も最初は嫌々参加したが、今は充実感や幸せを感じる。一緒に活動してきた仲間のおかげ」と感謝した。
   「防潮堤を作らない女川の復興まちづくりをどう思うか」という中学生の問いに、鈴木さんは「高い防潮堤を作ってもそれだけでは不十分。津波から命を守るなら高台避難が大事」と強調。「女川は海と共存してきた。身近に海を感じられる今の女川が私は好き」と話した。
 聴講した生徒会長で2年生の高橋莉生さんは「講演を通じて普段から友人や家族、地域と絆を深めることが大事と学んだ。ありがとう、おはよう、おやすみなどのあいさつからしっかりと交わしたい」と語っていた。
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発災当時の出来事などを語った(左から)阿部さん、伊藤さん、鈴木さ

大震災の教訓など、「次世代に伝えるべきこと」の大切さが感じられます。

当方としては、光太郎智恵子、光雲らの事績、その精神を「次世代に伝えるべきこと」として伝えていこうと、改めて思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

堀辰雄氏の「風立ちぬ」雪の中のこの小屋で落手、どんなによろこんだかしれません。

昭和22年(1947)1月11日 角川書店宛書簡より 光太郎65歳

堀辰雄の代表作『風立ちぬ』。光太郎も読んだのですね。どちらかというと若い人向けのというイメージがありますが、数え65歳でこれを楽しめる感性、見習いたいものです。

新刊です。

えんぴつで心ときめく名作詩

2024年3月11日 書 大迫閑歩 イラスト イオクサツキ ポプラ社刊 定価1,400円+税

1日10分であなたの毎日をリフレッシュ! 珠玉の名作詩をなぞって朗読することで、心を整えてみませんか。

金子みすゞ、宮澤賢治、高村光太郎など、名作詩30篇をセレクト。書家による書き下ろしで、美文字レッスンの習慣を。えんぴつの柔らかな書き心地で、心を整え脳活効果も! 作品の背景、作家の生涯など、プチ文学講座として。
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【目次】
はじめに
1章 恋する思い
 島崎藤村「初恋」 立原道造「夢みたものは……」  竹久夢二「宵待ち草」 
 北原白秋「初恋」 横光利一「愛」 中原中也「湖上」      
2章 旅にあこがれて
 山村暮鳥「雲」  石川啄木「飛行機」  丸山薫「汽車に乗って」 村山槐多「二月」
 島崎藤村「小諸なる古城のほとり」 北原白秋「落葉松」 萩原朔太郎 「旅上」
3章 自然のなかで
 山村暮鳥「風景 純銀もざいく」 三好達治「雪」 萩原朔太郎「竹」
 木下杢太郎「梟」 佐藤惣之助「犯罪地帯」 田中冬二「青い夜道」 八木重吉「太陽」
4章 いのちの喜び
 金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」 千家元麿「秘密」 立原道造「眠りの誘ひ」
 堀辰雄「帆前船」 八木重吉「皎皎とのぼつてゆきたい」
5章 生を慈しむ
 中原中也「汚れっちまった悲しみに」 室生犀星「小景異情(その二)」
 高村光太郎「あどけない話」 宮澤賢治「永訣の朝」 
 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
おわりに
参考文献

【著者略歴】
大迫閑歩(おおさこ・かんぽ)
1960年鹿児島県生まれ。本名・大迫正一。筑波大学芸術専門学群卒業。同大学院修士課程修了。九州女子大学共通教育機構准教授を経て、現在安田女子大学文学部書道学科教授。漢字の古い書体を中心にした研究、作品制作を続け、後進の指導にあたっている。
著書に『えんぴつで奥の細道』『えんぴつで方丈記』『えんぴつで論語』などがある。

001B5のやや大きめの判、よくある「なぞって書こう」的な。類書として昨年ご紹介した『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』(コスミック出版)など。

なぞられるべき薄く印刷されている詩句が活字ではなく、書家の大迫閑歩氏が書かれているというところが一つのポイントです。

近代詩30篇が取り上げられ、光太郎詩は『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)を入れて下さいました。ありがたし。他に島崎藤村、北原白秋、八木重吉、中原中也、山村暮鳥、立原道造は2篇ずつ。村山槐多が入っていたのには「へー」でした。

キーボードやスマホ画面等でなく、やはり自分の手で文字を書くことによって、詩句が脳内に入って来るプロセスがより鮮烈となる気がします。そういう意味では電子書籍では成り立たない出版ですね。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のは真宗の和讃の中の文句「清浄光明」と「平等施一切」とを書きました。当地の農家は皆熱心な真宗の信者なのです。あとは半切に「牛はのろのろと歩く」、「満目蕭條」と書きました。


昭和22年(1947)1月15日 宮崎丈二宛宛書簡より 光太郎65歳

この年1月2日に行った書き初めに関わります。書いたものは世話になっている土地の人々にあげたりすることが多かったようです。

このうち「平等施一切」と「満目蕭條」の書は現存が確認出来ています。
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本日は栃木県で発行されている同人詩誌のご紹介。

詩誌 馴鹿 第80号記念号

2024年2月29日 頒価500円

目次
 特集Ⅰ・ゲスト作品
  かぎりないもの 菊地雪渓氏
  詩の宿題 久保田奈々子氏
  詩は間違った表現なのだ 小久保吉雄氏
  わたしの夢 杉本真維子氏
  短歌 磯笛 野上れい氏
  ボロ 深津朝雄氏
 同人作品
  公孫樹 吹木文音
  あはれちちのみの父よ、あはれははのそはの母よ 丕内七武
  橋 小太刀きみこ
  座ってる 矢口志津江
  黒部 三森弘之
  遊園地にて 大野敏
 特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」
  矢口志津江 吹木文音 小森谷章 三森弘之 小太刀きみこ 和氣勇雄 大野敏
 後記

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「特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」」の中で、連翹忌の集い等にもご参加下さっている同誌同人・吹木文音氏が光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)から象徴的なリフレイン『わたしもうぢき駄目になる』について書かれています。本冊、氏から頂きました。多謝。

   山麓の二人
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 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡なびいて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたくしは黙つて妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたくしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。

抜粋しますと「私が、この哀切極まりないフレーズに惹かれる理由は、絶望の向こうに広がる景色を望むから。そして、人の営みを超越するおおいなる自然に同化し、ちっぽけな自分を恕(ゆる)す心持ちになれるから。」なるほど。

詩の背景を少し説明いたします。

まず、描かれているのは、昭和8年(1933)8月末の出来事。前年に睡眠薬アダリンの大量摂取で自殺未遂を起こした智恵子の心の病を少しでも快方に向かわせようと、光太郎は智恵子を連れて東北、北関東の温泉巡りに出ました(右上画像はその一環としての那須塩原温泉でのショット)。その直前にはそれまで無視してきた入籍を果たします。万が一、自分が先に逝くことになってしまったら、「内縁の妻」では智恵子に遺産相続の権利がないと考えてのことでした。

智恵子実家・長沼家からの除籍の手続きも必要だったのでしょうか、智恵子故郷の福島県安達郡油井村(現・二本松市)にも立ち寄ります。その足で向かった最初の湯治先が裏磐梯川上温泉。この詩は檜原湖、五色沼などが広がる裏磐梯高原での一コマを謳っています。

詩の執筆は約5年後の昭和13年(1938)6月。このタイムラグの意味するところは、当方、戦争との関わりだろうとふんでいます。

終末部分の「わたくしの心」と「一つになつた」という「二人をつつむこの天地」がどうなっていたかというと、智恵子の心の病が誰の目にも顕在化した昭和6年(1931)には満州事変が勃発、智恵子が自殺未遂を起こした翌7年(1932)には五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、光太郎が智恵子を入籍し、裏磐梯をはじめとする湯治の旅に出た同8年(1933)に日本は国際連盟脱退、ドイツではヒトラー政権樹立、智恵子がゼームス坂病院に入院していた同11年(1936)で二・二六事件。そして翌12年(1937)には遂に日中戦争開戦。さらにこの詩が書かれた13年(1938)は国家総動員法が施行されています。

急坂を転げ落ちるように悪化していった智恵子の病状と軌を一にするように、日本も泥沼の戦時体制へと突き進んでいきました。

そして光太郎も。「芸術家あるある」の俗世間とは極力交渉を絶つ生活が、智恵子を追い詰めたという反省もあって、光太郎は自ら積極的に社会と関わる方に180度方向転換します。その社会の方が、先に見たようにおかしな方向に進んでいたのが光太郎にとっての悲劇でした。この頃から、翼賛詩の乱発が始まります。「山麓の二人」が書かれた昭和13年(1938)6月の前月、5月には「地理の書」という詩を書きました。日本列島の美しさを讃える内容で直接的に「聖戦完遂」などとは謳っていませんが、のちのちまで各種アンソロジー等に収録され続け、もてはやされた作品です。
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さらに8月には同じ趣旨の「日本の秋」、9月には「吾が同胞」、12月には「東亜のあけぼの」(後に「その時朝は来る」と改題)、「群長訓練」、「新しき御慶」……。

一方では「山麓の二人」や「レモン哀歌」(昭和14年=1939)など『智恵子抄』所収の珠玉の詩篇も書き続けています。まさに「わたくしの心はこの時二つに裂けて」だったわけで、光太郎もそれを自覚していたのだと思います。

智恵子が言った「わたしもうぢき駄目になる」。それまである意味一心同体のように歩みを共にしてきた二人のうちの一方が「駄目になる」ことは、もう一方も「駄目になる」ことにつながりはしないでしょうか。智恵子にとっての「駄目になる」は「夢幻界の住人になる」ことでしたが、光太郎も「大東亜共栄圏の建設」などという「夢幻」に踊らされた、否、積極的に加担してしまったという意味では、「駄目にな」ってしまったと云わざるを得ません。吹木氏のおっしゃる通り「哀切極まりないフレーズ」と、つくづく思います。

吹木氏の稿、こう結ばれています。

人間の愛や生を言葉で刻み、誇らかに命を謳い上げる「詩の力」にもまた、魂を揺さぶられるのだ。

同感です。

ところで『馴鹿』。目次に目を通して「ありゃま」でした。巻頭の「特集Ⅰ・ゲスト作品」で知った顔ぶれがずらりと並んでいまして。

001まず菊地雪渓氏。令和元年(2019)の第41回東京書作展で内閣総理大臣賞に輝かれた書家の方ですが、自作の詩を寄稿なさっています。そういえば詩も作る方だったっけ、でした。

続いて久保田奈々子氏。「詩」で「奈々子」と云えば、勘の鋭い方はそれだけでお判りですね、詩人の故・吉野弘氏のご息女にして吉野氏の詩「奈々子に」のモデルです。

さらに杉本真維子氏。昨年、詩集『皆神山』で萩原朔太郎賞を受賞なさいました。思潮社さんから刊行されている『現代詩手帖』の今月号は杉本氏の特集が組まれています。

菊地氏はコロナ禍前からでしたが、久保田氏と杉本氏は昨年から、当会主催の連翹忌の集いにご参加いただいております。先述の吹木氏も。そんな関係で当方も知る面々の玉稿が集結したというわけです。

光太郎を一つの機縁に、このように人々の輪が広がって行くこと、望外の喜びです。

さて、『馴鹿』、奥付画像を貼っておきます。ご興味おありの方、そちらまで。
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【折々のことば・光太郎】

この山の中にゐても外の事は何も不便を感じませんが古美術などに接する機会の無い事だけがもの足りません。花巻あたりに小美術館でもあるといいのですが。
昭和22年(1947)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の「美」への渇仰は、もはや「業(ごう)」のようなものだったのかな、という気がします。

「東京都同情塔」で第170回芥川賞に選ばれた九段理江氏の小説です。「東京都同情塔」より前に書かれたものですが、ある意味芥川賞受賞の尻馬に乗った感と言うと失礼かも知れませんが、単行本化されました。

しをかくうま

2024年3月10日 九段理江著 文藝春秋 定価1,500円+税

第45回野間文芸新人賞受賞作。
疾走する想像力で注目を集める新芥川賞作家が描く、馬と人類の壮大な歴史をめぐる物語。
太古の時代。「乗れ!」という声に導かれて人が初めて馬に乗った日から、驚異の物語は始まる。この出逢いによって人は限りなく遠くまで移動できるようになった――人間を“今のような人間”にしたのは馬なのだ。
そこから人馬一体の歴史は現代まで脈々と続き、しかしいつしか人は己だけが賢い動物であるとの妄想に囚われてしまった。
現代で競馬実況を生業とする、馬を愛する「わたし」は、人類と馬との関係を取り戻すため、そして愛する牝馬<しをかくうま>号に近づくため、両者に起こったあらゆる歴史を学ぼうと「これまで存在したすべての牡馬」たる男を訪ねるのだった――。

担当編集者より
2021年に小説家デビューするや、発表するすべての小説で文学賞を受賞してきた新芥川賞作家の、真骨頂とも呼べる、圧倒的想像力の爆発した一作です。
野間文芸新人賞選考会では、小説の放つあまりの疾走感から、この作品自体が“暴れ馬”に見立てられ、“暴れ馬”から“振り落とされた”と述懐する選考委員もいらしたほどです。
詩情豊かにギャロップする物語は、批評的射程も広く備えていて、優生思想や純血主義、アニマルライツ、果ては人類の知そのものに対する問いまでをも孕んでいます。
いま最注目の才能が送る、試みと企みに満ちた必読の書。
また、小説内には、実在の名馬名や名実況セリフもちりばめられており、競馬ファンにもおすすめいたします。
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それほど厚い本ではないので、ほぼほぼ一気読みしました。2時間弱でしょうか。

主人公の一人は、現代のテレビ局勤務のアナウンサー「わたし」。主人公といえば、数万年前に出会ったネアンデルタール人とホモ・サピエンスの二人組、さらに終末部分では「ニューブレイン」を埋め込まれた近未来の人類も登場し、彼らも主人公の一人と言えるでしょう。

タイトルの通り、「馬」が重要なモチーフ。「わたし」は情報番組のキャスター、そして競馬の実況中継を担当しています。太古の二人組は、おそらく人類史上初めて馬に乗った(高速の移動手段を手にした)という設定。近未来の部分には馬は描登場しませんが、「ニューブレイン」をoffにした状態での「オールドブレイン」による幻想の中には馬が現れます。

また、もう一つのモチーフは「詩」。ただ、ここでいう「詩」は、通常の意味の「詩」より広範な意味で使われていますが。

そこで、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が引用されています。しかも最終形の9行バージョンではなく、詩集『道程』上梓前に雑誌『美の廃墟』に載った102行の初出発表形。ただし、あまりに長いので冒頭部分だけですが。それ以外にも「道程」という単語は複数回使われ、その背後には光太郎の「道程」がちらつきます。

九段氏と言えば、作品執筆にに生成AIを活用したという点がクローズアップされていますね。本作でもおそらくそうなんじゃないかと思われる箇所が散見されます。例えば、およそ2ページにわたり、カタカナ10文字の人名が99名分羅列されている箇所があります。こうした作業は生成AIお手のものでしょう。ちなみに99名のほとんどは古今東西のうちの「西」。日本人は含まれません(後の部分で「タニカワシュンタロウ」が出てきますが)。「ウォルトホイットマン」や「アルチュールランボー」「レオナルドダヴィンチ」など、光太郎に影響を与えた人物も少なからず。そうかと思うと「フレディマーキュリー」や「マークザッカーバーグ」まで。個人的には「アーネストフェノロサ」「フランシスプーランク」や「ミッシェルポルナレフ」が欲しいところでしたが(笑)。「タカムラコウタロウ」は惜しくも9文字ですね(笑)。

それにしても本作、一昔前なら荒唐無稽な「SF」の範疇に入れられていたかも知れません。それほど情報技術等の進化(進化と言えるかどうかは別として)は、急ピッチです。常々思っているのですが、まるでy=ax²のグラフのx≧0の部分のように。x軸が時間、y軸が情報技術等の進化です。
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閑話休題、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

彫刻の構図もいろいろ作ります。智恵子観音の原型雛形もそのうち試みるつもりです。

昭和22年(1947)1月6日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として「智恵子観音」の構想が結実するのは、さらに約6年後です。

新刊です。

日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術

2024年3月7日 稲賀繁美著 末木文美士/中島隆博責任編集 東京大学出版会 定価5,400円+税

ヨーロッパの基準で日本文化を判断し、そこにいかなる「美」の存在、むしろ不在を認定するか、あるいはいかなる「藝術」の発見を認知するか、それとも否認するか、その闘争の場として「日本の近代思想」における「美/藝術」は「読みなお」しを迫られている。本書はその視角から美/藝術を活写する。
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目次
総論 「近代日本」の「美」と「藝術」の「思想的」「問い直し」――本書の前提と限界
 一 学術分野と担い手の問題
 二 実践者と研究者と
 三 輸入概念としての「美」「藝術」
 四 内と外との鬩ぎ合い
 五 海外発信の使命と蹉跌と
 六 「日本」固有の「美の本質」探求とその自己矛盾
 七 国際的評価基準と「美」や「藝術」の位相
 八 先行業績の瞥見と再評価
 九 「脱近代後」から回顧する「日本近代の美/藝術」
 一〇 本書の前提と限界
Ⅰ 「藝術」の「制度」と「近代」
 一 渡邊崋山「崋山尺牘」
 二 『國華』第一巻 第一号 序文
 三 九鬼隆一「序」『稿本帝国日本美術略史』
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea(一九〇六)
 五 高村光雲『高村光雲古譚』
Ⅰ 資料編
 一 坂崎坦「崋山椿山の学画問答」
 二 『国華』第一巻第一号序文/"Introduction to the New English Edition"
 三 九鬼隆一 序『稿本帝国日本美術略史』"Préface",Historie de l'art du japan
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea
 五 高村光雲『高村光雲懐古譚』
Ⅱ 東洋美学の模索
 一 橋本関雪『南畫への道程』
 二 園頼三『藝術創作の心理』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅱ 資料編
 一 橋本関雪『南画雑考』
 二 園頼三『感情移入より気韻生動へ』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良「結語」『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅲ 外からのまなざし、外への視線――内外の交差にみる日本の「美」と「藝術」
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô, Heinemann, 1913
 三 大西克禮『幽玄とあはれ』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe?”
「予は日本の建築を如何に観るか」岸田日出刀(訳)
 五 今村太平「日本藝術と映画」『映画藝術の性格』
Ⅲ 資料編
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」 高村光太郎「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô
 三  大西克禮『幽玄論』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe
ブルーノ・タウト「予は日本の建築を如何に観るか」(岸田日出刀譯)
 五 今村太平「日本藝術と映画」
Ⅳ 「日本美」の彼方への思索――伝統と創造との綻び目
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」『面とペルソナ』
 二 柳宗悦 “The Responsibility of the Craftsman”
Sōetsu Yanagi,Bernard Leach(ed.), The Unknown Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」『水墨画』
 四 丹下健三「日本建築における伝統と創造│桂」『桂:日本建築における伝統と創造』
 五 Taro Okamoto, L’esthétique et le sacré, Seghers, 1976,«L’énigme d’Inoukshouk», 
«le jeu de berceau »「イヌクシュックの神秘」、「宇宙を彩る」『美の呪力』
Ⅳ 資料編
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」
 二 柳宗悦「日本人の工藝に対する見方」 The Responsibility of the Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」
 四 丹下健三「桂にいたる伝統」 The Tradition leadung up to Katsura
 五 岡本太郎「イヌクシュックの神秘」 L’énigme d’Inoukshouk
   岡本太郎「宇宙を彩る――綾とり・組紐文の呪術」 le jeu de berceau
おわりに

日本の近代思想を読みなおす」という全15巻のシリーズ中の3巻目です。幕末から昭和の岡本太郎あたりまでの、いわばその時点でのエポックメーキング的な書籍、論文その他をピックアップし、その美術史的位置づけや背景、その後に与えた影響などをつぶさに検証しています。原文の抄録も「資料編」として掲載。非常に読み応えがあり、なるほどと目を開かれる部分が少なくありませんでした。

上記目次で色を変えておきましたが、第Ⅰ章で光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣)、第Ⅲ章で光太郎の『印象主義の思想と芸術』(大正4年=1915 天弦堂書房)から「ポール セザンヌ」、評論「触覚の世界」(昭和3年=1928 『時事新報』)が取り上げられています。

ただ、残念なのがありえないほどの誤植の多さ。目次からして『光雲懐古談』が『光雲古譚』とか『光雲懐古譚』になっています。そうかと思うと本文では正しく『光雲懐古談』となっている箇所もあったりします。また、光太郎の『印象主義の思想と芸術』は全ての箇所で『印象の思想と芸術』と誤記。「ポール・セザンヌ」と書かれている題名も正しくは「・」なしの「ポール セザンヌ」です。さらに本文中にやはり光太郎の評論集『造美論』(昭和17年=1942 筑摩書房)が紹介されていますが、これも『造美論』……。どうすればこうやって取り上げる書籍等の題名を誤記できるのかと呆れてしまいました。せっかくの労作なのにもったいないというか……。そうなると、当方の詳しくない他の作家の部分でも同様の誤記が少なからずあるのではないかと勘ぐってしまいます。当方も時々やらかすのであまり大きなことは言えませんが……。

ついでにいうなら、いちいち気になって仕方がなかったのが、旧字と新字の混交。なぜか「芸」の字、旧字の「藝」と新字の「芸」が混ざっています。何かこだわりがあるのかも知れませんが、使い分けている基準や意図が全く不明です。きちんと校正者の校正を経ていないのでしょうか(経ていれば『光雲懐古談』『光雲古譚』『光雲懐古譚』、「藝」「芸」が共存していることは有りえませんね)……。そういった部分では版元の姿勢も問われます。

まぁ、そういう点を差っ引いても日本近代の美術思想史を概観する上では良書といえます。誤植の多さには目をつぶってあげて、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

ミカンはまことに珍重、早速夕食後にコタツでいただきました。昔一晩に一箱たべてしまつたやうな時代のあつた事を思ひ出しました。


昭和22年(1947)1月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

昭和2年(1927)の『婦人公論』に載ったアンケート「名士と食物」に「果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。」と回答していました。それにしても「一晩に一箱」(笑)。ミカンに含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

最近ではミカンも貴重品のような気がします。一度に2つも食べると罪悪感に責めさいなまれます(笑)。

落語の公演情報です。

彌生・初演の会 =お楽しみ宿題三題噺=

期 日 : 2024年3月23日(土)
会 場 : 一般社団法人落語協会 東京都台東区上野1-9-5
時 間 : 開場 17:10 開演 17:30
料 金 : 1,500円

番組
|、宿題三題噺 林家たま平
|、名人傳   鈴々舎馬桜
|、相撲風景  林家たま平
|、心眼    桂右團治

馬桜:名人傳は、創作落語になるか?「浜野矩髄」に成ります。

@終演後、反省会を兼ねた懇親会が有ります。参加費:3000円前後 村役場です。

宿題三題は、2月24日の初演の会で題を頂きます。

メール予約:baorin@reireisha.com

鈴々舎馬桜師匠の「名人傳」が、光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)からのインスパイアだそうです。

『光雲懐古談』、真面目な話が根幹ですが、ユーモア溢れる話も多く、そうした意味では落語のネタとして格好の素材です。

平成27年(2015)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」。当時のプロデューサー氏が『光雲懐古談』を読み、その落語的面白さに惹かれて制作されました。ナレーションに俳優の石橋蓮司さんを起用し、落語っぽい語りが挿入され、いい感じでした。

元々、光雲は語り上手で知られていました。『光雲懐古談』中にまるまる一節が使われているところが複数箇所ありますが、「国華倶楽部」「国醇会」などで講話をする機会も多く、宴席などではその話芸があまりに巧みで、芸者衆などが光雲の周りにばかり集まり、美術学校の同僚たちが「高村さんとはもう飲みに行かない」とやっかんだというエピソードも伝わっています。

また、『光雲懐古談』以外に、同じ昭和4年(1929)に刊行された『漫談 江戸は過ぎる』(河野桐谷編 万里閣)などにも光雲による実に面白い談話が多数掲載されており、当方編集当会刊行の『光太郎資料』にて少しずつご紹介しています。

000今回は『光雲懐古談』中のエピソードを使っての新作落語。馬桜師匠のフェイスブック投稿から。

今日の一句
|、春深し面白すぎの懐古談
*はるふかしおもしろすぎのかいこだん

夕飯迄の時間を読書に当てる、拾い読みしていたものを始めからじっくり読む。
『高村光雲懐古談』面白い。そして為になる。
改めて感心する。幕末から明治維新の頃の浅草の様子が良く解る。
そして、仏師の修業過程が良く解ります。
噺の裏付けできちんと読み直そうと思ったのですが、違う題材でも一席出来そうな・・・。
初演の会で『高村光雲』と云う噺にこさえてますが・・・
皆さんのその目と耳で確かめて下さい!!
ご予約メール待ってます。

初演の会の準備。
高村光雲が作った上野恩賜公園の西郷隆盛の銅像を造る裏話を・・・
落語家から観たその騒動?を 探ってます。
ただ その裏付けとして、明治の歴史を改めて勉強のし直しです。
憲法発布で西郷が罪一等を減じられて、「維新の功績」を見直されて銅像を!
声が上がり、日本全国から募金をつのり出来上がった様です。
『高村光雲懐古談』を読み直しましたが・・・江戸っ子なんですね。
寄席に行って講釈や落語も聴いた。と云う前提で噺が出来上がりつつあります。

実際、光雲は(息子の光太郎もですが)三遊亭圓朝のファンでした。そこで、少なからず影響を受けていたのではないかと思われます。

ちなみにオリジナルの昭和4年(1929)版『光雲懐古談』には、「ふどう売りもの――落語になる話――」という、まさに落語を意識した項もあったりします。戦後の復刻版ではカットされていますが。

当方、予約いたしました。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も元気で新年を迎へました。現実の世情は目で見る通りですが、本来大いに好季節に向はねばならぬ次第、あとは国民一人一人の叡智如何による事です。

昭和22年(1947)1月5日 小盛盛宛書簡より 光太郎65歳

昭和22年(1947)となりました。この稿、慣例により年齢は数え年で表記していますので、年明けとともに光太郎65歳です。

001実は(実はと言うほどでもありませんが(笑))、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕141年となりました。

誕生日と言えば、光雲の誕生日。フェイスブックやX(旧ツィッター)上では、3月8日に「今日誕生日の偉人」的な書き込みで光雲の名が書き込まれていて閉口しております。実際には2月18日ですので。ではなぜそういうズレが生じているかというと、光雲の生まれた嘉永5年(黒船来航の前年です)は当然、旧暦だったわけで、それを新暦に換算すると2月18日は現在の3月8日になるとのこと。こういう換算はいかがなものかと思います。

たとえば「忠臣蔵」。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄15年(1702)12月14日。そこで現代でも12月14日前後にテレビ等で「忠臣蔵」関連の放映が為されていますが、これを新暦に換算すると1703年1月30日になります。そこで、1月30日前後に「忠臣蔵」特集を組んだとしたら「はぁ?」ですよね。

あくまで光雲の誕生日は2月18日でお願いしたいところです。

展示系の情報を2件、始まってしまっているものと、もうすぐ開幕のものと。

まず始まってしまっているのが、書道の作品展。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2024年2月23日(金)~3月17日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 午前9時から午後7時
料 金 : 無料

岩手ゆかりの近代詩文を題材とした書道作品の公募展です。併せて、岩手にゆかりのある書道家の作品も展示します。


先月、地上波IBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられていました。

啄木、賢治の作品やオリジナルの歌を書に 岩手ゆかりの近代詩文書作品展始まる 盛岡市

  岩手にゆかりのある短歌や詩を書道作品で表現した展示会が、盛岡市で開かれています。
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 もりおか町家物語館で23日始まったのは、「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」です。会場には、盛岡市と石川啄木記念館が所蔵するものと、一般公募で集められた書道作品合わせて36点が展示されています。
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 作品の多くが歌人・石川啄木の歌や詩人で童話作家の宮沢賢治の詩が個性豊かに書かれたものですが、滝沢市に住む書家・戸島魯休さんは自ら詠んだ歌を書にしたためたものを出品しています。造り酒屋の跡地に整備されたもりおか町家物語館を訪れた際、蔵の造りと資料展示を見て感じたイメージが筆で力強く表現されています。

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 この企画展は3月17日まで開かれています。
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「岩手ゆかり」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、花巻町と郊外旧太田村とに足かけ8年暮らした光太郎の詩句も。
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昭和4年(1929)の詩「人生」の一節。ただし「重いものを」の「を」が抜けていますが。

ところでこのフレーズ、フェイスブックやX(旧ツィッター)上で、光太郎の名言としてよく引用されています。それはそれで有り難いのですが、しかし「棄てると」が「捨てると」と誤記されているケースがほとんどでして、閉口しております。

他に啄木や賢治の詩句等を書いたものがずらっと。「女啄木」と称された西塔幸子の短歌もあって、「ほう」と思いました。幸子の実弟・大村次信は盛岡で「オームラ洋裁学校」を創設し、光太郎とも交流のあった人物です。

続いて今週末から始まる展示。福島は郡山です。

第7回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト作品展

期 日 : 2024年3月16日(土)~5月26日(日)
会 場 : 郡山市ふれあい科学館スペースパーク 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
時 間 : 平日 10:00~16:15 金曜 10:00~19:45 土・日・祝 10:00~17:45
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

コンテスト選出作品40点を展示いたします。 "ほんとの空"のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。
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昨秋、約3年ぶりに作品募集のあった「第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト」。審査結果が先月発表され、入選作が展示されます。フライヤー等に大きく出ているのが大賞に輝いた「蕎麦畑に白虹」。埼玉県の方が会津の下郷町で撮影されたものだそうです。日光が霧に当たって出来る「白虹」、当方、見たことがありません。一度見てみたいものですが。

その他、PDFで入選作が見られますが、サムネイル的な小さな画像でも、力作ぞろいというのがよくわかります。残念ながら智恵子の愛した安達太良山の風景はなかったようです。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

屋根の雪は一度学校の先生がおろしてくれました。寒さは雪の割にゆるく、まだ零下十度にもなりません。去年は〇下二十度になりましたが。


昭和21年(1946)12月30日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入って二度目の冬。このシーズンは雪が多かったそうですが、気温的にはそれほど冷え込まなかったようで、年明けには摂氏9℃とかになって驚いたとのこと。それにしても土壁一枚のあばら屋でしたから……。

今年もまた3.11がやって参りました。あの日から13年です。

昭和6年(1931)8月から9月にかけての約1ヶ月、新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、光太郎は宮城県石巻から岩手県宮古までの三陸海岸を主に船で旅しました。その行程に含まれていた宮城県女川町の海岸公園に、四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)。地元ご在住の画家・貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年8月9日(昭和6年に光太郎が三陸に向けて東京を発った日)、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。以来、毎年8月9日に貝(佐々木)氏を中心に女川光太郎祭が開催され続けていました。

そして平成23年(2011)3月11日。東日本大震災に伴う大津波が女川の町を呑み込みました。
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貝(佐々木)氏も還らぬ人となってしまいました。
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氏の奔走で建立された光太郎文学碑も被災。4基中の2基は海底に沈み、失われました。建立当時に日本一の大きさと言われたメインの碑は倒壊、何とか陸上に引き上げられたものの、その後長らくそのままでした。
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令和2年(2020)に、碑は再建。コロナ禍のため中止を余儀なくされていた女川光太郎祭も、昨年復活しました。

震災後の女川町での大きな動きの一つとして、「いのちの石碑」の建立が挙げられます。町内21箇所の津波到達地点より高い場所に避難の目印となるよう建てられたもので、震災の年に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちが発案しました。
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建立資金の1,000万円は、光太郎文学碑に倣い、募金で集められました。
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令和3年(2021)には予定の全21基が設置完了しました。
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今年3月6日(水)の『読売新聞』さん。全国の「自然災害伝承碑」を取り上げた記事の中で、「いのちの石碑」についてもご紹介下さいました。長大な記事ですので、抜粋で。

全国に2000基超…「伝承碑」から学ぶ大災害の教訓

 東日本大震災から間もなく13年になる。元日には能登半島地震があり、最近は千葉県東方沖でも地震が続いている。寒波の後に初夏のような陽気になり、大雪に大雨、雪崩も起きる。異常気象や災害の激甚化を肌で感じることが増えているように思えてならない。
 日本は昔から自然災害が多かった。われわれの先祖は災害を忘れないよう、その教訓を後世に残そうとしてきた。過去に災害が起きた場所の地名にも先人の教訓が込められていることは、過去にこのコラムでも取り上げたが、もっとわかりやすく災害の教訓を今に伝える遺産がある。全国各地に建つ、過去の風水害や地震を伝える伝承碑(自然災害伝承碑)だ。

きっかけは西日本豪雨で撮られた1枚の写真
  国土地理院は5年前から、新たな地図記号を制定して、自治体などに呼びかけて、伝承碑を地図に掲載する取り組みを続けている。登録された伝承碑は今年2月末で全国598市区町村の2085基に達した。
  どこに、どんな伝承碑があるのかは、誰でも見ることができる。
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地理院地図とともに全国の自然災害伝承碑を見る
  国土地理院がこの取り組みを始めたきっかけは、2018年の西日本豪雨の際、広島県坂町で撮影された1枚の写真だった。土砂に押しつぶされた家で災害救助活動を行う大阪府警の警察官を見下ろすように建っていたのは、高さ3メートルの伝承碑。明治40年(1907年)7月15日、旧坂村を土石流が襲い、「人々不暇逃避(人々は逃げる暇もなく)」46人の命が奪われたことを伝えていた。
 西日本豪雨では、碑が建つ坂町の小屋浦地区に避難勧告が出されたにもかかわらず、地区の住民の避難率は、坂町全体の半分程度にとどまった。多くの住民は石碑の存在は知っていたが、漢文で記された内容を把握していた人は少なかったという。
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 国土地理院で地図掲載の取り組みを進めている環境地理情報企画官の吉武勝宏さんは、「地元の伝承碑の存在を知ることは、身近な災害の危険を知る助けになる。ハザードマップなどと合わせて地図を見ることにより、さらに理解が深まる」と話す。地図を見ていくと、それぞれの伝承碑に込められた先人の警告や、われわれがそれを生かしているかどうかも垣間見ることができる。とても2000基は紹介できないが、伝承碑から何がわかるかを北から見ていこう。
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(略)
 繰り返し津波被害にあった東北地方太平洋沿岸には多くの伝承碑が建ち、岩手県田野畑村のように、明治29年(1896年)の明治三陸地震と昭和8年(1933年)の昭和三陸地震、そして東日本大震災の伝承碑が並び建つところもある。
 明治、昭和の三陸地震で2度とも集落が全滅した岩手県宮古市重茂姉吉地区の住民は、大津波記念碑に記された「高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、 此処ここ より下に家を建てるな」という教訓を守ってきたため、東日本大震災では家屋に被害が出なかった。
 東日本大震災関連では、東北地方の太平洋沿岸を中心に128基の伝承碑が建てられている。高さ14.8メートルの津波に襲われた女川町では、女川第一中学校(現・女川中)の生徒らが地域住民の協力を得て、町内で確認できた津波到達点21か所に「大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」などの教訓を記した「女川いのちの石碑」を建てた。
  全国の伝承碑で最も新しい災害に関する伝承碑は宮城県丸森町などにある令和元年の東日本台風に関するものだ。今後は地球温暖化の影響で、これまでは少なかった東北での豪雨・台風災害にも警戒が必要になるだろう。
(略)
 全国の伝承碑に込められた共通の思いは、過去の記録を継承していくことは防災意識を高め、忘れたころにやってくる天災への備えになる、ということだ。あなたの身の回りにも、まだまだ草むらに埋もれた伝承碑があるかもしれない。

ただ、逆に「「災禍を思い出したくない」「地価が下がってしまう」といった住民の声に配慮して、登録を見送っている自治体もある」とのこと。

難しい問題ですね。

難しい問題といえば、震災後の女川町での大きな動きのもう一つ、女川原発の再稼働。『朝日新聞』さん、今朝の「天声人語」。

(天声人語)311への手紙

宮城県女川町を見下ろす丘の上で、これを書いています。いかがお過ごしですか? あの日と同じように、さっきまで小雪が風に舞っていました。あなたたちを忘れぬようにという空からのメッセージでしょう▼東日本大震災の1カ月後に、ここから見た光景を思い出します。視界いっぱいのがれき。3階建てのビルの屋上に自動車が場違いに転がっています。あなたをさらった津波が残したのでしょう。街全体が沈み、道は海の中へ続いているかのようです。女川原発は、最悪の事態をなんとか免れました▼原発に重大事故が起きたら車で避難を。車のない人は、県や自治体が用意したバスなどが来るまで待って――。震災後につくられた各地の避難計画はそう言います。国も内容を了承しました▼計画を発動しなければならない時、どんな光景が目の前に広がっているか。そうした対応が可能か。自治体も、国も、裁判所も、知らないはずがありません。たった13年前のことです。能登半島でも道が崩れ、救援が立ち往生するさまを見ました▼なぜでしょう。あなたたちの命の代わりに学んだはずのことが、なぜこんなふうになってしまうのでしょう。女川原発は秋にも再稼働するそうです。復興の街を風がただ吹きぬけてゆきます▼いや問うべき相手はあなたでなく、遺(のこ)された私たち自身でしたね。震災後の社会をつくったのは私たちなのですから。それでは、またお便りします。この丘からならば、きっと届くと信じています。

またお便りします」の文面が、最悪の内容にならないよう、祈らずには居られません。

【折々のことば・光太郎】

二日には書初めをやりませう。廿九日には畠山さんに進呈するため半切大の紙に「天地寿」と書きました。


昭和21年(1946)12月31日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「畠山さん」は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村在住の日本画家・畑山崇山。子息の崇一は光太郎の影響で詩作にも取り組みました。
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3.11の今日、「天地寿」と本当に言える日が来ることを願って已みません。

まず都内から演奏会情報です。

朝岡真木子歌曲コンサート 第7回

期 日 : 2024年3月20日(水・祝)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演(13:30開場)
料 金 : 一般 4,500円 学生券2,000円(全席自由)

曲 目 
 「さくらの はなびら」 詩:まど・みちお 
 「風のこころ」 詩:大竹典子
 「影」「夢のわかれ」 詩:西岡光秋
 「冬が来た」 詩:高村光太郎
 「雪 詩」 詩:野原ゆき
 「わらううた」 詩:渡部千津子
 組曲「万葉の愛」 万葉集より
 組曲「きらめきの中へ」 詩:星乃ミミナ
 ソプラノとバリトンのための「薔薇の園」 詩:岡崎カズヱ
 他

出 演
 木内弘子(ソプラノ) 黒川京子(ソプラノ) 竹下裕来(ソプラノ)
 前澤悦子(ソプラノ) 清水邦子(メゾ・ソプラノ) 川出康平(テノール)
 馬場眞二(バリトン) 朝岡真木子(作曲・ピアノ)
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光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の作品集が演奏されるコンサートです。ピアノは朝岡氏ご自身。昨年の第6回もお邪魔しました。

今回は、昨秋開催された「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」で初演された「冬が来た」がプログラムに入っています。歌唱はバリトンの馬場眞二氏だそうです。

もう1件。こちらはサブタイトルに光太郎詩「あどけない話」由来の「ほんとうの空」の語を冠してくださっています。以前にも書きましたが、東日本大震災後、「ほんとうの空」の語が使われるようになりました。

第17回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会 - 感動の歌声 響け、ほんとうの空に -

期 日 : 2024年3月21日(木)~3月24日(日)
      3月21日(木) 中学校部門 
      3月22日(金) 高等学校部門
      3月23日(土) 小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月24日(日) 各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1
時 間 : 各日、開場9:30 開演10:00
料 金 : 各部門予選  前売り 2,000円 当日 2,500円 
      本選     前売り 2,500円 当日 3,000円
      4日間通し券 前売りのみ 8,000円

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第17回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。
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ただ、苦言を呈させていただければ、毎年そうなのでもうしょうがないのかも知れませんが、出演団体は事前に公表されるものの、演奏曲目が公表されません。それを出すとまずいということもないと思いますし、「あの曲が演奏されるなら聴きに行こう」と考える向きもいらっしゃらないとは限りません。ぜひこの点、改善していただきたいところなのですが……。

ちなみに出演団体といえば、今年は智恵子の母校・福島高等女学校の後身である県立橘高校さんが出演なさいます。かつてこの大会や全日本合唱コンクール等でご常連でしたが、最近あまり聞かないな、と思っていたのですが。

それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は大晦日でございますが此辺は旧暦の為め村の人も見えず、ひどく静かで、ただ雪が霏々と降つて居ります。小屋の周囲は三尺近くつもり、殆ど交通杜絶で郵便も自然遅れます。


昭和21年(1946)12月31日 三輪吉次郎宛書簡より 光太郎64歳

終戦直後の山村ではまだ旧暦でいろいろやっていたようですね。もっとも、現代でも年中行事等は旧暦で、というケースはまだ多いかも知れません。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の第一回連翹忌会場となった、中野の貸しアトリエ保存に向けての関係者会合でした。

そちらが夕方からということで、その前にギャラリー2軒をハシゴ。

まずは銀座のギャラリーせいほうさん。
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こちらでは「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」が開催中です。
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メインは光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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戸板に手をかける福の神と、扇形の地板の外に追いやられた邪鬼と。それぞれの部分での刀技の冴え、陽刻と陰刻のバランス、余白の取り方など、まさしく超絶技巧ですね。

他に光雲高弟の面々の作。

山崎朝雲。
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米原雲海。
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平櫛田中。
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孫弟子にあたる佐藤玄々。
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孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇。
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これは存じませんでしたが、高昇は光雲の高弟・山本瑞雲の系譜に連なるそうで、実の血縁と師弟の系譜と、かなり錯綜しています。息子の堅太郎氏が孫弟子、父親の高昇は曾孫弟子、逆転していますね。
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孫弟子までは概ね頭に入っていましたが、曾孫弟子となると誰が誰に師事したか存じませんで、こういう系図になるか、と、新鮮でした。ここに挙げられていない枝葉も多く存在するわけで、そうした部分での光雲の功績というものを実感させられました。弟子や孫弟子、さらにその次と、伝統的な技法をしっかり受け継いだ上でそれぞれの独自性を出し、そうやって袋小路に入らずに発展していくんだな、と。

続いて、原宿に。次なる目的地はデザイン&ギャラリー装丁夜話さん。こちらでは二人展というか三人展というか、「星センセイと一郎くんと珈琲」が開催中です。
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こちらはマンションの一室をギャラリー兼カフェとして使っており、なるほど、そういうのもありかと思いました。

香川県ご在住の山口一郎氏のドローイングが2種類。いずれも光太郎詩「レモン哀歌」オマージュです。ありがたし。

まずは「レモン」。
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アクリル絵の具で描かれたものだそうですが、ズラッと並ぶとものすごいインパクトでした。

それからずばり「レモン哀歌」。
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詩「レモン哀歌」が18行あるということで、その1行ずつが描かれています。面白い発想ですね。

今回の展示のサムネイル的に使われているこの絵もその中の1枚で、智恵子でした。詩句としては「ぱつとあなたの意識を正常にした」。
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画像は18枚を一冊にまとめて印刷したポストカードブックの表紙です。
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一冊2,200円也。デザイン&ギャラリー装丁夜話さんサイトでオンライン販売が始まりました。ぜひお買い求め下さい。

今回の展示、メインは山口氏の師・星信郎氏のデッサン。こちらはサマセット・モームからのインスパイアだそうで。
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こちらもいい感じでした。

ギャラリー2軒ハシゴの後、新宿へ。メインの目的、中野アトリエ保存に向けての関係者会合です。会場は新宿村CENTRALさん。
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PXL_20240308_070935608意外といえば意外な会場なのですが、会合メンバーのお一人、渡辺えりさんが、4月6日(土)開幕の舞台「さるすべり」の稽古でこちらを使われていて、稽古終了後にそのまま稽古場を使わせていただいたわけです。

ちなみに会合には参加されず、稽古終了後にお帰りになりましたが、「さるすべり」で渡辺さんとW主演の高畑淳子さんもいらっしゃいました。

高畑さんといえば、令和3年(2021)、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」にご出演。何と、高畑さんがモデルを務められた彫刻の鑑定でした。作者は先述の橋本高昇の子息にして、光雲孫弟子にあたる故・橋本堅太郎氏。高昇は智恵子と同郷の二本松出身、堅太郎氏は智恵子像を2点(二本松駅前安達駅前)作られました。意外なところでいろいろつながっているものですね。
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ちなみに鑑定額は700万円でした。さもありなんです。

高畑さん、公式プロフィールでは新潮163㌢だそうで、なるほど、シュッとした感じでした。別に渡辺さんがずんぐりむっくりなどとは申しませんが(笑)。

会合の方は、現状報告と今後の運営方針の確認や意見交換、情報交換。まだ具体的に皆様に「こうこうこうだよ」と提示できる段階ではありませんで、いずれこのブログにて詳細をご紹介いたします。

戻りますが、「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」は3月16日(土)、「星センセイと一郎くんと珈琲」は明日まで。それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

春子さん千葉真亀にゆかれたよし、真亀ときくとあの苦しかつた昭和九年頃の真亀訪問を思ひだします。一週間に一度づつ菓子や果物を持つて智恵子を訪れ、追ひすがる智恵子をすかしなだめて、後ろ髪を引かれる思で帰つて来た頃がまざまざと思ひ出されます。東京へ帰ると大学病院に入院してゐる父をたづね、まつたく寧日無かつた明け暮れでした。


昭和21年(1946)12月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「春子さん」は宮崎の妻にして智恵子の姪。さらに智恵子の最期を看取った元看護師でもありました。「真亀」は現在の九十九里町真亀。昭和9年(1934)に智恵子が半年あまりここで療養生活を送りました。その年には光雲が死去。たしかに光太郎にとっては実に大変な一年でした。

都内から朗読公演情報です。

天野まり単独公演 ソレを、私は恋と呼ぶ。/智恵子抄

期 日 : 2024年3月17日(日)
会 場 : 秋葉原コンシールシアター 東京都台東区台東3-5-10
時 間 : 14:00〜15:00 オンラインライブ配信公演、アーカイブ配信公演あり
料 金 : 会場生観劇チケット料金¥5,000 オンライン料金¥3,000

出 演 : 天野まり

劇団コンシールの専用イベントスペース「秋葉原コンシールシアター」での特別公演「天野まり単独公演」を開催致します。
・ソレを、私は恋と呼ぶ。
・智恵子抄

※演目は変更の可能性があります。

会場に足を運べないお客様の為のライブ配信公演と、公演期間が終わっても観劇できるアーカイブ公演もアリ!!
※演目は変更の可能性があります。
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詳細が今一つよく分からないのですが、とりあえず。

【折々のことば・光太郎】

食餌衛生を努めて合理的にやつて居り、七十歳以後の製作精力の涵養に心懸けて居ります。七十代こそ小生の製作最盛期と信じて居ります。


昭和21年(1946)11月23日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

実際、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を、中野の貸しアトリエで制作し始めたのは数え70歳の昭和27年(1952)でした。しかし、「最盛期」というにはほど遠く、蠟燭が消える前の一瞬の煌めきのような感じでした。

今日はまた、その中野の貸しアトリエ保存のための会合で上京して参ります。ついでというと何ですが、原宿で「星センセイと一郎くんと珈琲」、銀座で「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」を拝観して参ります。

都内から古書即売会の情報です。

この手の即売会、規模の大小はいろいろあって、以前よりぐっと減ったものの小規模なものまで含めれば常にどこかしらで開催されてはいる感じですが、今回ご紹介するのはそれなりに大規模、ネット上でも積極的に宣伝が為されています。ちなみに「ABAJ」というのは「日本古書籍商協会」さんだそうで。

ABAJ 国際 2024稀覯本フェア

期 日 : 2024年3月15日(金)~3月17日(日)
会 場 : 東京交通会館展示会場 カトレアサロンA・B 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 3月15日(金)12時〜19時 /16日(土)10時〜18時 /17日(日)10時〜16時
料 金 : 無料

 向春の候、皆様には益々のご健勝の事とお慶び申し上げます。いつも私共ABAJ(日本古典籍商協会)並びに会員各位に対して格別のご支援とお引き立てを賜り誠に有難うございます。
 今日、激動の国際情勢と変化を求められる世情の中で、書物の価値は益々高くなるものと確信いたしております。この度のフェアでは内外の有力書店28社の協力により精選された稀覯本を展示して皆様のご来場をお待ち申し上げます。
 2024年が皆様にとりまして大躍進の年となります様、心より祈念致します。

2024年2月吉日
ABAJ 会長(日本古書籍商協会)北澤一郎
ABAJ国際稀覯本フェア実行委員会一同
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出品目録に依れば日本の古典籍と洋書が中心ですが、日本近代ものもちらほら。

その中で、札幌の弘南堂書店さん(30年程前に一度お伺いしました)で、光太郎のそれを含む萩原朔太郎追悼文の直筆原稿25人分。
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昭和17年(1942)8月の雑誌『四季』第67号で、この年5月に没した朔太郎の追悼特集を組み、それに寄せられた原稿です。光太郎の稿は「希代の純粋詩人-萩原朔太郎追悼-」という題でした。下画像の右端です。
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一括で残っていたんだ、という感じでした。

さらに弘南堂さん、光太郎第一詩集『道程』もご出品。
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カバー欠ですが、識語署名入り。識語は聖書の一節です。

ご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それで「開闡郷土」の揮毫も思の外すらすら書けました。

昭和21年(1946)11月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「開闡(かいせん)」は「開き広める」の意。茨城取手の素封家だった宮崎の父・仁十郎らに依頼され、取手の長禅寺に郷土の開拓発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑を建てることになり、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。ところがこの時書いた揮毫を宮崎が列車の網棚に置き忘れ、のちに再度揮毫することになります。

碑は長禅寺参道石段右側に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。
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都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

今年ももうすぐ3.11、あの日から13年ですね。

智恵子の故郷、福島二本松の南、郡山でのイベントです。

光太郎智恵子に直接関わるものではないようですが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を冠して下さっていますので、ご紹介します。

3.11ふくしま集会 原発事故は終わっていない

期 日 : 2024年3月10日(日)
会 場 : 郡山市労働福社会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 13:30~
料 金 : 無料

2024年3月11日(月)、「3.11ふくしま集会 原発事故は終わっていない」を開催します。ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

講演 「福島原発事故は人々に何をもたらしたのか」
 講師  関礼子さん(立数大学社会学部教授)

パネルディスカッション 「原発事故から13年を語る」
 コーディネーター 関礼子さん
 パネラー 
  ふるさとを返せ津島原発所訟原告団、子ども脱被ばく裁判原告団、福島原発被害井護団

女川原発差し止め訴訟からの報告

福島の取り組みからの報告
 福島原発事故被害から暮らしと健康を守る会
 市民立法「チェルノブイリ法日本版」をつくる郡山の会
 小児甲状腺がん支援グループ あじさいの会
 請戸テントひろば
 汚染水の海洋投棄を止める運動連絡会

お問い合わせ
 3.11原発いらない福島実行委員会 080-6220-0996(藤井)
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13年が経ちますが、いまだに複数町村で「帰還困難区域」が存在する現状。これで「原発事故はもう終わった話」とは言わせないぞ、と思います。
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また、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町の原発再稼働に関しても議題に。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

遠くから見てゐると東京では随分無駄な動きに人々が喘いでゐるやうです。


昭和21年(1946)10月28日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住してからまる一年、花巻町疎開から数えれば約1年半。すっかり地方からの視点になっています。

先週、埼玉県越生(おごせ)町に行って参りました。県中央部やや西寄り、秩父山塊の麓です。

基本、光太郎とは関係なく、日頃さんざん世話になっている妻に女房孝行と申しますか、ご機嫌取りと申しますか、でした(笑)。

メインの目的地は、それなりに花好きの妻のために、越生梅林さん。梅といえば昨年は水戸偕楽園さんに行ったのですが、若干盛りには早く三分咲きといったところでしたので、リベンジの意味も兼ねて(笑)。

今回の越生梅林さんでは、ほぼ満開でした。
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やけに風の強い日でしたが、それだけに快晴、青空をバックにした梅花がいい感じでした。

それから温泉好きの妻のために(当方もですが)、日帰り温泉へ。さらに妻は御朱印マニアですので、寺社めぐりも。

事前にネットで調べたところ、大慈山正法寺さんという鎌倉時代開山の古刹に、複製ながら、光太郎の父・光雲作の大黒天像がおわすという情報を得まして、そちらに。

町の中心街から少し山に入ったところで、落ちついたたたずまいでした。
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よくある「七福神巡り」の一箇所で、御本尊は聖観音菩薩ですが、大正期の職人による大黒天像も鎮座ましましています。
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閻魔様もいらっしゃり、いつもそうしていますが、「後々お世話になりに行きますのでよろしくお願い申し上げます」と念じて参りました(笑)。

お寺の方にお話を伺うと、光雲原型の大黒天像、てっきり大きめの露座と思い込んでいましたが、そうではなく、像高一尺ほど、庫裡的な一角に納められているということで、わざわざ式台まで運んできて下さいました。七福神巡り大黒天のお寺ということで、寄進されたものでしょう。
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やさしいお顔をなさっていました。

御朱印もゲット。
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越生梅林さん、昨夕、NHKさんの関東甲信越ローカルニュースでも「見頃を迎えています」的な紹介が為されていました。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

空の美しさ、殊に夜の星空のうつくしさは言語を絶してゐます。夜明け未明の東の空に北上連山が暗碧に浮き出して来る刻々の変化には思はず見とれて朝の食事の事を忘れるほどです。


昭和21年(1946)10月25日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、光害などとは無縁の地で、明け方の空の美しさはまさに絶景だったことでしょう。

先月封切りの映画「風よ あらしよ 劇場版」に関し、新聞に載った評をご紹介します。

『北海道新聞』さん。

映画「風よ あらしよ」柳川監督 声上げる大切さ今も■女性の自由と自立 命懸けた伊藤野枝

005 大正期の女性解放運動家・伊藤野枝を描いた村山由佳の評伝小説が原作の「風よ あらしよ」が札幌・シアターキノで上映されている。2022年に放送されたNHKドラマの劇場版で、わずか28年の生涯を激しく生き抜いた野枝を演じるのは吉高由里子。吉高が主演した連続テレビ小説「花子とアン」でディレクターを務めた柳川強が演出を手がけた。
 家を支えるためだけの結婚を蹴り上京した野枝は、平塚らいてう(松下奈緒)の言葉に感銘を受け、青鞜社に入る。女学校時代の教員・辻潤(稲垣吾郎)と結婚するも、やがて関係は破綻。無政府主義者大杉栄(永山瑛太)と出会い、生涯のパートナーとして関係を深めていく。
 大杉の妻や愛人との四角関係など〝自由奔放〟な側面が強調されがちだが、原作では野枝が、困ったときに助け合う「共助」の思想を掲げていたことが描かれる。柳川は「彼女の思想は、新自由主義の台頭によって社会の分断が進み、人とのつながりが持ちづらくなっている現代社会にリンクする。映画でもこの点を大切にしたいと思った」と語る。
 大学時代に、宮本研による戯曲「ブルーストッキングの女たち」を見て以来、野枝にひかれ続けていたという。女性が声を上げることが今以上に難しかった時代に臆することなく貧困や男女不平等など社会矛盾に異を唱え、個としての自由や自立を訴えた野枝。彼女を演じるのは「吉高さんしか思い浮かばなかった」と明かす。かれんでキュートなイメージが強いが、「野枝を激情型の人物像にするのは簡単なんだけど、それは彼女の一面でしかない。人との距離感をすっと縮めることができる人という野枝のイメージが吉高さんに重なりました」。
 1923年(大正12年)の関東大震災直後の混乱に乗じて多くの朝鮮人や、社会主義者、アナキストらが虐殺された。大杉と野枝も、大杉のおいで当時6歳だった橘宗一とともに憲兵の甘粕大尉(音尾琢真)らに殺され、遺体は井戸に投げ込まれた。
 映画は井戸の底から空を見上げるシーンで始まり、終わる。柳川は「100年前の出来事だけれど、当時の空気感は今とそんなに違わない。個人の自由が権力や集団に阻害されるとき、個人として声を上げるのは確かに難しい。でも、そうありたいと思い続けることはできる。そのきっかけになればうれしい」と話す。
 2023年、2時間7分。脚本は矢島弘一。シネマアイリス(函館)、シネマ・トーラス(苫小牧)、大黒座(浦河)でも上映予定。
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『東京新聞』さん。

映画「風よ あらしよ 劇場版」 伊藤野枝の生涯描くNHKドラマを再編集 時代が野枝に追いついてきた

006 100年前の日本で女性解放運動の第一線に立ち、近年、再評価が進む伊藤野枝(のえ)(1895~1923年)。波乱の生涯を描くNHKドラマを再編集した映画「風よ あらしよ 劇場版」が公開中だ。
 手掛けたのは柳川強。沖縄返還やアイヌ民族といった骨太の題材をドラマにしてきた演出家は、野枝の魅力をこう語る。「今よりよっぽど男尊女卑の考え方が強かった時代に、世間の目をものともせず声を上げる。その奔放さに引かれた」
 野枝(吉高由里子)は福岡県の貧しい家に生まれた。「元始、女性は太陽であった」と男社会に疑問を突きつけた青鞜社の平塚らいてうに憧れ、親の決めた嫁ぎ先を飛び出す。無政府主義者・大杉栄(永山瑛太)のパートナーとなった末に、28歳の若さで憲兵に殺害されてしまう。
 映画はその歴史を追いつつ子育てや料理、掃除といった日常も丁寧にすくい上げる。「主義主張よりも、生活の中にこそ、にじむものがある」と柳川。「主義者」につきまとう先鋭的なイメージではなく、根底にある素朴な「助け合いの精神」に光を当てる。
 柳川と吉高は、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で組んだ。原作は村山由佳の同名小説。柳川は言う。「#MeToo運動など、『声を上げる』という動きは今とリンクしている。時代が野枝に追いついてきたのかもしれない」 

映画では村山由佳氏の原作にある光太郎智恵子登場シーンは残念ながら割愛されていますが、智恵子が表紙を描いた『青鞜』創刊号がモチーフとして随所に使われ、光太郎智恵子と交流のあった人々が多数登場、なかなかの見応えです。

公開終了してしまった上映館も多いのですが、これからというところもあります。まだという方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生は胎教を信ずる者です。もし赤さんが出来たのなら日常の精神と行ひとをつとめて清浄に、敬虔な日を送るべきです。


昭和21年(1946)10月24日 宮崎春子宛書簡より 光太郎64歳

春子は智恵子の姪にして、その最期を看取った元看護師です。前年に光太郎の仲介で、詩人の宮崎稔と結婚しました。翌年には男の子が無事誕生。宮崎夫妻は何と「光太郎」と命名してしまいました。

3月となり、そろそろ受験シーズンも終わりに近づきつつありますね。

そんな中、先月25・26日に行われた国公立大学の2次試験のうち、京都大学さんの前期日程文系国語の問題に光太郎の文章が出題されました。

昭和15年(1940)11月に書かれ、翌年元日発行の雑誌『知性』第4巻第1号に発表された「永遠の感覚」の全文です。
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小問が5問設定され、全て記述式。字数制限はありませんが、解答欄のスペースから適度な長さで書け、ということですね。

大手予備校河合塾さんによる解答例。

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同じく代々木ゼミナールさん。
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駿台予備校さん。
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来年度以降の受験生向けでしょうか、「問題分析」も。

駿台予備校さん。
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河合塾さん。
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ちなみにこの問題、随筆扱いで、文学的文章としての出題でした。筑摩書房さん『高村光太郎全集』では第5巻、すなわち美術評論の巻、それから光太郎生前にはやはり評論集的な位置づけの『美について』(昭和16年=1941、道統社)に収められているのですが。しかし同じくこの文章を収めた『高村光太郎選集 第Ⅴ巻』(昭和26年=1951)は副題が「随想 上」で、まぁ、どちらとも取れるかなというところです。

それにしても、泉下の光太郎、このような形で自分が書いた文章が俎上に乗せられていることに苦笑しているかもしれません(笑)。

【折々のことば・光太郎】

何か揮毫する事はいつでもしますが、紙が乏しいです。和紙が不自由ですから紙さへお送りあれば書きます。


昭和21年(1946)10月18日 寺神戸誠一宛書簡より 光太郎64歳

自身では書家を名乗ったことはありませんが、特に戦後になって花巻郊外旧太田村に移ってから、頼まれて書を揮毫する機会が大幅に増えました。そして書けば書くほど、その腕前が上がっていったようです。

しかし戦後の物資不足が解消していなかったこの時期、やはりきちんとした紙は不足していまして、時に粗悪なボール紙や障子紙に揮毫することもありました。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。000
■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

地方紙掲載記事から2件、ご紹介します。

まず、『長野日報』さん。

尾崎喜八、没後50年 その詩心を訪ねて

 山や自然を愛した詩人、尾崎喜八(1892~1974年)が亡くなって、今年2月で50年になった。喜八は1946年9月から7年間、富士見に滞在した。その縁で茅野市豊平小、岡谷南高校(岡谷市)、富士見町富士見小学校など諏訪地域をはじめ、県内の小中学校、高校を中心に生涯で40を超える校歌を作詞し、今でも多くの児童・生徒たちに歌われている。激動の20世紀を生きた詩人の心の変遷を、「自註 富士見高原詩集」などを手掛かりにたどってみた。

■自然や人間を賛美する詩人
 東京市京橋に生まれた喜八は、京華商業学校を経て中井銀行に就職。武者小路実篤や志賀直哉などが創刊した雑誌「白樺」の影響を受け、理想主義的な作風の下、自然や人間を賛美する詩人として出発した。
 30歳で最初の詩集「空と樹木」を刊行すると、「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎、フランスのノーベル文学賞作家ロマン・ロランとも手紙を通じて交流した。
 喜八は夏の暮らしを描いた「高層雲の下」から「クリスマス」、「大根」に至るまで、日々の生活の景色と心情を自由な形で歌った。第5詩集「行人の歌」に納めた「私の詩」では、素朴な魂の人びと、日々の悪戦を戦う人びとに自分の詩を贈りたいとし、〈私は自分の詩によって 彼らの楽しい伴侶でありたい〉と願った。
 自然観察の成果を集めた随筆集「山の絵本」、独学でドイツ語を習得してヘルマン・ヘッセの翻訳も刊行し、旺盛な文学活動を展開。大正期の自由主義的雰囲気が去り、昭和初年の世界恐慌、ファシズムと戦争のにおいが濃くなる中、配給の芋を題材にした「此の糧」、銃後の民衆を歌った「同胞と共にあり」を書名に選んだ詩集も出版した。

■敗戦で心に傷 生き直す決心
 しかし日本は1945年8月に敗戦を迎え、精神的に傷を負う。「慙愧と後悔」から世の中や過去から離れ、「全く無名の人間として生き直すこと」を願い、46年9月に元伯爵渡辺昭が富士見高原に所有していた別荘「分水荘」へと移り住む。〈人の世の転変が私をここへ導いた。 古い岩石の地の起伏と めぐる昼夜の大いなる国、〉(「土地」)へとやって来た。
 富士見の地で「春の牧場」「夏の小鳥が……」「或る晴れた秋の朝の歌」など高原の四季を折り込んだ詩を創作。厳しく美しい自然と、その中にあって貧しくもひたむきに生きる人びとの賛歌を詠んだ。自らの心情を書名に掲げ55年に刊行した詩集「花咲ける孤独」は、遅咲きの詩人の後期を代表する作品となった。
 一方で地元の人との温かい交流も生まれ、講演のほか校歌制作も依頼されるようになる。県内では旧岡谷南部中(49年制定)、信大付属松本中(51年)岡谷南高校(52年)茅野市豊平小(同)などを手掛け、今も多くの学校に歌碑が立つ。
 喜八は校歌作詞の思い出をつづった文章で、「書く前に必ず一度はその学校まで行って、そこの校庭のまんなかに立って周囲の風景だのを見ないと気が済まない」とし、北海道の1校を除き、「その他はどんな山間僻地へもすすんで出掛けた」と振り返った。
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■書く前に必ず訪れイメージ
 多くの校歌がそうであるように、喜八の詞も1番は山川草木など身近な自然の情景が歌われ、2、3番と続くにつれ、理想や希望への意志が込められる。豊平小の2番は〈清くけだかい白樺を 朝な夕なの校庭に 遠い古人の生活を しのぶ遺跡は村のうち 歴史と知恵のふるさとに うまれて学ぶうれしさよ〉とある。
 富士山、八ケ岳、校章のモチーフ駒草が詠われた岡谷南高の3番は〈真夏を山に鍛えては 氷に冬を楽しみつ 平和文化に国を成す 理想のもとに学ぶなる 見よや我等が愛する母校 岡谷の南高等校 月雪花の信濃路に 誉の其の名わが母校〉と結ばれる。
 52年11月に東京都世田谷区、66年12月に神奈川県鎌倉市に居を移すも、富士見高校(56年)、旧富士見高原中(60年)、茅野市永明中(63年)、岡谷南部中(64年)、そして40校目に富士見小(72年)の校歌を作った。
 富士見小の3番は〈理想は高い空の雲 心は広い地のながめ 両親、仲間、先生たちの 愛の思い出富士見高原 ここに学んで人と成る日も幼な心の帰るふるさと このふるさとを忘れまい〉。喜八によると、「詩は言葉と文字の芸術であると同時に作者の心の歌でもある」。校歌もまた詩の一つであると考えた喜八にとって、この連は富士見で過ごした日々を想起した”心の歌”であったかもしれない。

■言葉の探求は今もこの地で
 富士見町高原のミュージアムには喜八の自筆原稿、愛用のカメラ、自然観察に使用した双眼鏡、登山靴など寄贈資料から成るコーナーがある。島木赤彦や伊藤左千夫など多くの歌人や文人にゆかりがある同町では、毎年秋に詩の心を後世につなげる「富士見高原詩のフォーラム」が開かれる。自分の心を凝視し、自然と一致する瞬間を見つけようとする言葉の探究は、今も富士見の地で続けられている。

光太郎智恵子と交流の深かった、尾崎喜八。没後50年ということで、改めて脚光を浴びつつあるようで、昨年末には同趣旨の記事が『毎日新聞』さんにも。

令孫にあたられる石黒敦彦氏、光太郎と喜八に関する新刊書籍の刊行などを考えられているようで、来(きた)る4月2日(火)の連翹忌の集いにてその件をお話下さるそうです。ありがたし。

もう1件、『岩手日報』さんから。

「ぼくのほそ道」俳句大会選考会 

 岩手日報社「ぼくのほそ道」俳句大会の受賞句が決まった。対象句は応募句506句の中から一次選考を通過した60句。選考会は盛岡市内丸の同社で開かれ、俳人の白濱一羊さん、高野ムツオさん、文化部の戸舘大朗記者が作品を合評した。

入選 きらきらとぼくのほそ道雪踏めば 奥州・岩渕正力

高野 これは話題にしないといけないんじゃないですか。
戸舘 とてもうれしい一句です。ありがとうございます!
白濱 「挨拶句」ですね。連載名の言葉を詠み込んで、ちゃんと句になっている。
高野 雪を踏んだら、あるはずもないが、ぼくのほそ道が現れて、見えた気がした。発想がいい。
戸舘 自らの「ほそ道」を歩いているという句ではない?
高野 雪を踏む、でなく雪踏めば、だからね。この表現だと、踏んで現れた、という意味だろう。
白濱 高村光太郎みたいだね。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
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「ぼくのほそ道」俳句大会、「ぼくの」と冠されているので、若い世代対象の企画かと思ったのですが、さにあらずでした。

入賞句それぞれの評が載っていたのですが、光太郎がらみのもののみ抜粋しました。もっとも、句自体が完全に光太郎オマージュというわけではないようですが、おそらく審査員の方が評されたことを、作者の方も感じていたのではないかと思われます。

喜八の記事にしてもそうですが、光太郎を引き合いに出しても「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまいますと、成り立ちません。そうならないよう、今後とも顕彰活動に力を注いで参りますので、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今度詩碑には小生直接加筆して補正彫鏨する事になりました。多分十一月中には出来るでせう。


昭和21年(1946)10月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「詩碑」は昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑です。
まだ東京にいた最初の揮毫の際、花巻から送られてきた原稿の通りに揮毫したところ、賢治が手帳に書いた通りでなかった箇所が複数ありました。そこで、碑前に足場を組んで訂正箇所を光太郎が直接書き込み、石工の今藤清六が鏨(たがね)で彫りました。
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賢治が元々手帳に「ヒドリ」と書いていた箇所は「ヒデリ」のまま残されました。光太郎が最初に揮毫した昭和11年(1936)の時点で、遺族等の間で既に「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記だろうという説が半ば定説化しており、光太郎は花巻から送られてきた原稿が「ヒデリ」となっていたそのままを書いたわけです。

ところが、さる高名な宗教学者のセンセイが、この改変を光太郎の仕業と思い込み、あちこちで喧伝しています。「違う」と指摘が相次いでも改める風もなく、超迷惑です。脳が硬直化すると、一度こうだと思い込んだことは訂正できなくなってしまうのでしょうか。そうはならないように努めたいものです。

昨日は現代アート系で『智恵子抄』オマージュ、レモンの描かれた作品をご紹介しましたが、本日は智恵子の故郷・福島二本松からグルメ系で。

地方紙『福島民友』さん、2月21日(水)の掲載記事です。

高村智恵子にちなんだ「れもん味噌」 甘くてさっぱりした新商品

 二本松市振興公社は詩人・彫刻家高村光太郎の妻で、光太郎の詩集「智恵子抄」の「レモン哀歌」でも知られる二本松市出身の洋画家高村智恵子にちなんだ新商品「れもん味噌(みそ)」(350円)を発売した。
 防腐剤などを使っていない広島県安芸津町産のレモンを使用し、少し甘くてさっぱりとした味が特徴。とんかつやカキフライ、なす焼きや魚の塩焼きなどのほか、おにぎりに塗ってもおいしいという。
 二本松市の道の駅安達では、れもん味噌を使った新メニュー「れもん味噌添え大葉とチーズのチキンかつ丼」(800円)を上り線で、「れもん味噌添えアジフライとカキフライ定食」(800円)を下り線で販売している。問い合わせは二本松市振興公社(電話0243・61・3100)へ。
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同じ件でさらに一般社団法人にほんまつDMOさんのサイトにも告知が。

智恵子をイメージした、レモン商品第5弾が登場!

 道の駅安達で、高村智恵子をイメージさせるレモンを使った商品の第5弾が14日、登場しました。広島県産レモンと地元の味噌を組み合わせた「れもん味噌」で、ちょっと甘くてさっぱりした爽やかな風味が特長。上下線の食堂では同日かられもん味噌を使った定食もメニュー化しています。
 智恵子抄の「レモン哀歌」に智恵子と光太郎の純愛がつづられていることから、智恵子の里にある同駅はレモンサブレやレモンケーキ、レモンライスの素など、レモンにこだわったオリジナル商品を販売しています。
 れもん味噌は75g入り、350円。トンカツや魚フライをはじめ、おでん、青菜和え、おにぎりなどと相性抜群で、幅広いメニューに活用できます。また、食堂でもサービスが始まり、上り線は大葉とチーズのチキンカツ、下り線はアジフライとカキフライの各定食にれもん味噌を添えて提供しています。問い合わせは道の駅安達(電話0243-61-3100)へ。
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確かに揚げ物に添えるとさっぱりしそうですね。

他のレモン系グルメ商品はこちらをご参照ください。

【折々のことば・光太郎】

山林では今茸の出さかりで路傍の草むらにいろいろの食茸が面白いほど出て居り、それをとつて朝のみそ汁などに入れます。智恵子が居たらと時々思ひます。

昭和21年(1946)10月11日 秋広あさ子宛書簡より 光太郎64歳

もう少し経つと「智恵子はしかも実存する。/智恵子はわたくしの肉に居る。」(詩「元素智恵子」昭和24年=1949)という境地に達するのですが……。

昨日、『毎日新聞』さんの現代アート作家谷澤紗和子紹介記事を引用し、「谷澤氏に限らず現代アートの作家さんたちの中には、智恵子オマージュの作品等をご発表されている方が少なからずいらっしゃいます」と書きましたが、書いてるそばから都内で個展(三人展?)です。

星センセイと一郎くんと珈琲

期 日 : 2024年3月1日(金)~3日(日)、3月8日(金)~10日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

星信郎センセイ: デッサン 山口一郎くん: ドローイング 元明健二さん: 珈琲焙煎

東京渋谷区神宮前のギャラリー『 装丁夜話 』にて セツモードセミナー時代の先生 星先生と 山口一郎の絵の展示(販売)が始まります
星先生はデッサン 山口はレモンの絵(A5サイズ額装)です
星先生のデッサンのポストカードブック 山口一郎の、詩人 高村光太郎のレモン哀歌の詩の
装丁夜話オリジナルのポストカードブックの販売もあります
3月の同じ日に生まれた星先生と山口一郎の絵の展示です
セツ モード セミナーの皆さん 興味のある方 ぜひ見に来てください
初日 3月1日(金)星先生 山口一郎 在廊しています(山口は午後3時ごろ、1時間少し打ち合わせで居なくなります)

 ●星信郎 水彩画家 1934年 福島県会津生まれ 春日部たすく・長沢節・穂積和夫に学ぶ
元セツ・モードセミナー講師

●山口一郎 静岡出身。セツ・モードセミナー卒。卒業後、イラストレーターとして雑誌広告の仕事を始める。 1999年、チョイス展 入選、第6回CLSビジュアル・アート展 大賞
JACA展 入選、第5回ART・BOX展 入選、タンカレージン イラストデザイン 入選
2007より、東京青山DEE’S HALLにて定期的に個展を開催。
2011年、香川県人権問題ポスター・CMに作品「コルク人形」が採用される。
同年、香川県の保育所にて芸術士として活動。香川県在住。

●元明健二(がんみょうけんじ) 1955年宮崎県出身、所沢市在住
セツ・モードセミナー美術科研究科卒、ゲリラ
受賞歴-シェル美術賞入選、ターナーアワード大賞
SCAJ(The Specialty Coffee Association of Japan)コーヒーマイスター。
2016年リメナスコーヒー(Limenas Coffee)創業

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レモン、一枚一枚異なるようです。

来週、また中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、その際に立ち寄ってみようかと思っております。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此処にアトリエを建築、正式に御招待して彫刻に花を生けていただくやうな日がいつになるか、それは日本の社会事情の恢復次第と存ぜられます。


昭和21年(1946)10月11日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んで約一年。もう少し経つと、彫刻は完全に封印してしまいますが、この頃はまだ彼の地にきちんとしたアトリエを建設するつもりがまだあったようです。

現代アート個展(会期終了していますが)のレビューを兼ねた作家さん紹介が、昨日の『毎日新聞』さんに大きく掲載されました。

男性優位への疑念、アートに フィルター外した「女性像」を模索

 太陽をかたどった金色の紙の中心に、目と口が切り抜かれている。『智恵子抄』で知られる高村智恵子の顔だという。口を開き、こちらに何か伝えようとしているのか。古びた木枠の中の小さな顔を見つめていると、もどかしさに駆られた。
 タイトルは「はいけいちえこさま」。京都を拠点に活動する現代美術家・谷澤紗和子さんが、洋画家・紙絵作家の高村智恵子をオマージュした作品だ。自身も切り紙を手がける谷澤さんは智恵子の作品にひかれ、その創作について調べ始めたが、行き当たるのは夫・高村光太郎のフィルターを通した智恵子像ばかり。故郷を離れ大学に進み、親の反対を押し切って洋画家に。『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、病室では千数百点もの紙絵を作った。「一途(いちず)」や「純朴」といった世間のイメージとは違う、自立した個人・智恵子の声が聴きたい。小さな顔には、そんな思いがこもる。
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  「フェミニストとして、自身 ... 気づきになるような制作態度を示したいと考えています」。自身のサイトでこう宣言し、ジェンダーをテーマに作品を制作する谷澤さんだが、問題意識が明確になったのは数年前からという。
 それまでも、引っかかることはあった。京都市立芸術大で教わった教授陣はみな男性だったし、院試でフェミニズムに言及すると、「そういうのはもう飽きたんだよね」と返されたこともあった。卒業後は同世代の男性の方がいい仕事をもらっているとも感じた。ただ、大きな壁を感じるほどではなかった。
 2018年、出産。「親になるのは大歓迎だったのに、突然『母』という代名詞が舞い降りてきた」。保育園の申し込みで役所に行くと、来ているのは全員女性。指定された時間は夕刻で、赤ん坊たちは泣いている。谷澤さんも泣く子を抱いて職員とやり取りするが、泣き声にかき消されお互いの声が聞こえない。予算を割いて託児サービスさえ用意してくれていれば。そもそもなぜここに父親はいないのか。社会の仕組みに対する疑問や怒りが、あふれた。
 産後しばらくは時間と場所の制限から、大きな作品が作れない。発表するあてもなく、A4の紙に描き始めた。当時のファイルには、顔の中に「くそやろう」や「NO」といった言葉を配したドローイングが並ぶ。「女性が使うべきではない」罵倒や抵抗の言葉。抑圧をかいくぐり、やっと発せられた言葉だと表現したくて、うねる線で描いた。
 ジェンダー研究の文献にも目を通し思索を深めていた翌年、作家・藤野可織さんとの共作「信仰」を発表し、ジェンダーをテーマに据えることに手応えを感じた。智恵子について本格的に調べ始めたのも、この頃。「はいけい――」は冒頭の「太陽」のほか、智恵子による「青鞜」の表紙絵や産後のドローイングから生まれた「NO」などをモチーフにした6点組みで、木枠に日本家屋の廃材を用い、女性の足かせとなってきた家父長制度を象徴させた。金と赤の美しい造形の中に切実なメッセージを織り込んだ作品は、若手芸術家の登竜門「VOCA展2022」で佳作に選ばれた。
 昨年12月には、大阪で個展「矯(た)めを解(ほぐ)す」を開催。タイトルは社会や教育に矯正され、知らず知らず染まってしまった価値観を解きほぐす、という意味で付けた。同名の新作は、ぺしゃんこになったショベルカーやクレーン車に赤い線が絡む紙の作品。モチーフにしたのは子どものおもちゃだという。
 息子が好む重機のおもちゃ。何がかっこいいのか、正直わからない。ある時そんな話をしたら、男性作家が「かっこよさ、わかるよ!」と興奮気味に応答した。「それを聞いて、仕組みがわかった!と思いました」。自分が身を置いているのは「重機をかっこいいと思う」人たちが築き上げたコミュニティーではなかろうか。男性優位の世界で感じてきた不条理に、説明がついた気がした。「そこに一生懸命入ろうとするのではなく、別の仕組み、別の見方で考えていかなきゃいけない」
 会場で、白一色の作品に目が留まった。エンボスによる和装の女性と、切り紙のくしゃくしゃの塊。女性は智恵子で、塊は自画像だという。美術の歴史の中で男性によって客体化されてきた「女性像」の問題は、根深い。人間としての女性をどう描くか。今はまだ模索中だ。 いびつでくしゃくしゃな塊は、不思議と楽しそうに見えた。時空を超えた女性の連帯が放つ輝きだろうか。小さな作品を前に、空想にふけった。
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あえて切り紙で表現
 「はいけいちえこさま」は愛知県美術館所蔵。収蔵に関わった学芸員の中村史子さん(現在は大阪中之島美術館勤務)は、谷澤さんについて「以前からしっかりした技術でスペクタクルな面白い作品を作っていたが、20年ごろから作品にぐっと緊張感が生まれ、強く、クリティカルな表現になった」と評価する。美術界で等閑視されてきた女性や非西欧圏の作家を再評価する動きは、キュレーターや研究者の間では世界的潮流となっているが、「谷澤さんは同じ作り手という立場で、今まで軽く見られてきた女性作家を再考している点に特徴がある」と中村さん。谷澤さんは実際の制作を通じて、智恵子の高い技術や理知的な構成力に気付いたという。
 絵画や彫刻が美術の「王道」とされる一方で、女性が主に担った手芸などは一段下に見なされてきた。切り紙も絵画の周縁に位置づけられてきた手法の一つ。近年では歴史的背景を理解した上で、あえてそうした手法を取る現代美術家も活躍する。谷澤さんも、ヒエラルキーの上位に位置しない、紙とハサミさえあれば誰にでも開かれた切り紙という手法で、女性をはじめ、弱い立場に置かれた人たちの存在を表現している。010

昨年12月2日(土)~12月23日(土)に、大阪市のstudio Jさんで開催された「矯めを解す」(こちらについては情報を得られていませんでして、このサイトではご紹介していませんでした。汗顔の至りです)レビューから、谷澤氏の歩みをまとめられています。

なるほど、こういう背景があったのかという感じでした。

記事にもあるVOCA展など、谷澤氏に関しては以下もご参照下さい。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。
京都精華大学ギャラリーリニューアル記念展「越境ー収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座」展覧会評。
谷澤氏に限らず現代アートの作家さんたちの中には、智恵子オマージュの作品等をご発表されている方が少なからずいらっしゃいます。やはり100年前に智恵子が投げかけた問いは、現代にも重くのしかかっているということなのでしょう。

今後とも多くの方々に取り組んでいただきたいものですし、そこから発せられるメッセージをさらに多くの皆さんに受けとめてほしいとも存じます。

【折々のことば・光太郎】

十月五日には染井のお墓へおまゐりして下さる由、まことにありがたく存じます。墓もさぞ荒れ果てゝゐる事と推察してゐます。


昭和21年(1946)10月11日 秋広あさ子宛書簡より 光太郎64歳

秋広あさ子は遠く明治期、日本女子大学校の寮で智恵子と同室でした。故あって中退したため卒業生名簿に名が無く、学科までは不明ですが、当時の智恵子と最も親しかった一人で、貴重な智恵子回想文も残しています。

十月五日」は智恵子の命日、「染井のお墓」は現在の都立染井霊園の髙村家墓所。11日付の書簡で「おまゐりして下さる」は「おまゐりして下さつた」の誤記か、或いは秋広からの書簡に「毎年十月五日にはお参りしてゐます」的な記述があって、それへのいらえなのか、というところです。

テレビ放映情報、2件ご紹介します。

中学・高校で学ぶ文学作品の魅力を、朗読や映像資料を使い、コンパクトに解説します 第4回

地上波NHKEテレ 2024年3月2日(土) 02:55〜04:35

中学・高校で学ぶ文学作品の魅力を10分間でコンパクトに解説します。作品の朗読に加え歴史的な文書や絵画、再現映像などを豊かな映像資料を通じ、作品をより深く理解できる番組です。

朗読は、元NHKアナウンサーの加賀美幸子さんです。この番組は2006年から2008年にかけて制作されましたが、今回、最新の映像技術で、高画質のハイビジョン映像にリマスター、精細な映像でお楽しみください。今夜は、初恋・道程・サーカス(中原中也)・武蔵野・故郷(魯迅)・たけくらべ・明治文学史・日記・手紙・走れメロスの10本です。

出演者 【朗読】加賀美幸子

説明欄にあるとおり、平成18年(2006)~平成20年(2008)に制作された「10min.ボックス古文・漢文/現代文」全40本が、ほぼ作品の年代順で4回に分けて一挙放映されます。

2月28日(水)※27日深夜 午前3:05~4:45  Eテレ 
 ・竹取物語・土佐日記(紀貫之)・伊勢物語・枕草子(清少納言)・源氏物語(紫式部)
 ・説話・平家物語・徒然草(兼好法師)・狂言・漢文(1)故事成語

2月29日(木)※28日深夜 午前2:40~4:20  Eテレ 
 ・漢文(2)漢詩・漢文(3)論語・おくのほそ道(松尾芭蕉)・雨月物語(上田秋成)
 ・日本永代蔵(井原西鶴)・曽根崎心中(近松門左衛門)・落語・万葉集・大鏡
 ・古今和歌集

3月1日(金)※29日深夜 午前2:55~4:35  Eテレ
 ・羅生門(芥川龍之介)・トロッコ(芥川龍之介)・オツベルと象(宮沢賢治)
 ・山月記(中島敦)・短歌・俳句・戦争と平和の詩・坊っちゃん(夏目漱石)
 ・こころ(夏目漱石)・舞姫(森鴎外)

3月2日(土)※1日深夜  午前2:55~4:35  Eテレ  
 ・初恋(島崎藤村)・道程(高村光太郎)・サーカス(中原中也)・武蔵野(国木田独歩)
 ・故郷(魯迅)・たけくらべ(樋口一葉)・明治文学史・日記・手紙・走れメロス(太宰治)

個々の動画はNHKさんのサイトから試聴できてしまうのですが、40本の一挙放映ということで、録画しておけば永久保存版ですね。

それぞれの中で朗読をされているのは、元NHKアナウンサーの加賀美幸子氏。さすがの朗読ぶりです。
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加賀美氏、平成27年(2015)の「世界・日本名作集よりリーディング名作劇場「キミに贈る物語」~観て聴いて・心に感じるお話集~」、一昨年の「財団法人ロマン・ロラン研究所設立50周年記念 古都・京の記憶に残すべき 戦時の日仏交流―関西日仏学館―〈トークと詩の朗読〉」などでも光太郎詩文の朗読をなさいました。

後半では、雑誌『美の廃墟』に載った初出発表形102行の冒頭部分も。
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その他、制作の背景ということで、光太郎の人となりについてコンパクトに解説。
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さらに、複数の一般の方々による朗読も。なかなか見応え、聴き応えがある10分です。

全40本中には、「舞姫」(森鷗外)、「オツベルと象」(宮沢賢治)など、光太郎と交流のあった面々も。
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宮沢賢治といえば、こちらの放映もあります。やはり深夜というか未明ですが。

宮沢賢治の食卓【若き日の宮沢賢治の知られざる日々を鈴木亮平が熱演!】 #01◆幸福のコロッケ◆

地上波フジテレビ  2024年2月27日(火) 02:55~04:00

宮沢賢治の青春時代を描いた人気漫画をドラマ化!賢治の愛した食や音楽とともに贈る涙必至の感動作。

東京に家出をしていた質店の長男・宮沢賢治(鈴木亮平)は妹・トシ(石橋杏奈)の病気の電報を受け、岩手・花巻に帰郷する。母・イチ(神野三鈴)や弟妹たちには歓迎されるも、厳格な父・政次郎(平田満)とはなかなかうまくいかない。食、音楽、文学とあらゆることに興味のある賢治だが、自分を熱くするものを見つけられずにいた。そんなある日、農家の吉盛(柳沢慎吾)一家に出会う。

出演者 鈴木亮平 石橋杏奈 山崎育三郎 市川実日子 柳沢慎吾 井之脇海 神野三鈴 平田満
【原作】魚乃目三太(少年画報社刊「思い出食堂」より) 
【脚本】池田奈津子 
【音楽】サキタハヂメ 
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WOWOWプライムさんで平成29年(2017)に全5回で放映されたドラマです。ラインナップは以下の通り。

第一話 「幸福のコロッケ」 53分

第二話 「夢のシチュウビーフ」 49分
トシの計らいで稗貫農学校の教師になった賢治。意気揚々と学校に出勤するが勘助(犬飼直紀)をリーダーとするはねっ返りの生徒たちに手を焼いてしまう。女学校で出会った音楽教師・嘉藤治(山崎育三郎)やトシからアドバイスをもらい、生徒たちと少しずつ距離を近づけていく中、賢治は新しい農作物の可能性や西洋文化を感じてもらおうと、生徒たちをシチュウビーフが食べられる洋食店に連れ出す。

第三話 「恋の鶏南蛮蕎麦」 49分
小学校教員・ヤス(市川実日子)との運命の出会いをした賢治。彼女のことが気になる中、音楽を楽しむ機会に乏しい花巻の人たちのために、嘉藤治と一緒にレコードコンサートを開催する。そこに訪れたヤスも、賢治の純粋な感性と人柄に惹かれていく。ヤスの実家のそば屋で逢う瀬を重ねる2人。一方、次のレコードコンサートにはトシの過去の失恋相手・遠藤(竹財輝之助)が来ることが分かり、焦った賢治は……。

第四話 「別れの焼きリンゴ」 50分
逢う瀬には必ず焼きリンゴを一緒に食べて親密さを深めていく賢治とヤス。そんな矢先、ヤスに父・紀一郎(おかやまはじめ)から縁談の話が舞い込む。それを聞いた賢治は嘉藤治にも背中を押され、身を固める覚悟を決める。一方、空気のきれいな別邸・桜亭に居を移し体の回復に専念していたトシだが、その病状は日々悪化していた。そのことを知った賢治の心は千々に乱れ……。

最終話 「天上のアイスクリーム」 55分
トシの薄幸を思うがあまりヤスとの別れを決断した賢治だったが、そのことを知ったトシは、自分の犠牲にならないでほしいと賢治に詰め寄り、ヤスには翻意を願った。それでも決心を変えない賢治は、トシを少しでも励まそうと嘉藤治や生徒たちと協力をして町ぐるみの収穫祭の準備を進めていたが、無情なる天の差配に見舞われる。そしてトシの回復も、もはや見込めぬものへとなってゆき……。


第一話のみ無料放映でしたので拝見しました。鈴木亮平さんの賢治、なかなかでした。今回、地上波フジテレビさんでの放映。おそらく全5話を放映して下さるのではないかと期待しております。これも録画しておけば永久保存版ですね。

原作は魚乃目三太氏の描かれた漫画。の二篇があり、続篇では賢治と光太郎の出会いのシーンなどがありますが、正篇の方には光太郎は登場しません。ドラマは正篇の方からの抜粋で構成されており、光太郎は登場しないのですが、これを機にまた話題になって続篇もドラマ化されることを期待しています。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今十月十日は父の十三回忌日にあたりますので、今朝記念のため、先日宮崎さんのきた時、貴家よりいただきました栗の実の中で一番大きなのを数個保存してありましたので、それを小屋の西側の日当たりのよい所を掘り起こして播種し、棒杭を樹てて其旨墨書しました。数年後には此の栗が結実するかと思ふと愉快です。


昭和21年(1946)10月10日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳
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この栗の木、大木といっていいほどに育ったのですが、残念ながら枯死してしまい、倒壊の危険があるということで平成29年(2017)頃に伐採されてしまいました。

光太郎が墨書した標柱の現物は花巻高村光太郎記念館さんに現存、現地には石に文字を写したコピーが建てられ、これも現存しています。
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既に始まっている展示です。

状況をわかりやすくするため、『北海道新聞』さん記事から。

賢治、有島の初版本 100年の時超えて 道立文学館 特別展に200冊

015 道立文学館(札幌)で特別展「100年の時を超える」が開かれている。宮沢賢治の詩集「春と修羅」(1924年=大正13年)、有島武郎の訳した「ホヰットマン詩集」(2冊、21、23年)初版本など主に明治、大正期に出版された約200点を、外国文学、詩集、歌集・句集・川柳、小説など6項目に分けて展示している。
 すべて道立文学館の所蔵。ケースに入って手にすることはできないが、主な作者や本の概要、装丁などについて解説文を付けている。
 このうち外国文学では、米国の詩人ウォルト・ホイットマンの「ホヰットマン詩集」は、有島が翻訳と装丁を手がけた。表紙はホイットマンの手書きの原稿の写しの上に、表題を記した紙を斜めに貼っている。
 貴重なのは宮沢賢治の「春と修羅」で、賢治の生前に刊行された唯一の詩集。萩原朔太郎の初詩集「月に吠える」(17年)は54編を収録し、病的で奇怪な感覚を描いて反響を呼び、日本の近代詩を代表する詩集となった。高村光太郎の第1詩集「道程」(14年)は初版本と白布装の「異本」があり、異本には高村直筆の書き込みがある。
 このほか画家竹久夢二が装丁した吉井勇「源氏物語情話」(18年)、坪内逍遥の「新曲 浦島」(04年)、芥川龍之介の名作童話「杜子春」などを収めた豪華本「三つの宝」(28年)もある。
 苫名直子副館長は「100年前の本に込められた作り手の思いとともに、200点を超える書籍を見て日本の近代文学のバリエーションの豊かさを感じ取ってほしい」と話している。
 3月24日まで。月曜休館。一般500円、高大生250円、中学生以下と65歳以上無料。問い合わせは同館、電話011・511・7655へ。

開催情報を。

特別展「100年の時を超える ―〈明治・大正期刊行本〉探訪―」

期 日 : 2024年2月3日(土)~3月24日(日)
会 場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日等の場合は開館)
料 金 : 一般500(400)円、高大生250(200)円、中学生以下・65歳以上無料
      ( )内は10名以上の団体料金

 明治・大正――この時代、西洋の制度や文化を取り入れて世の中が大きく変わり、今の我々の社会や生活の基盤がつくられます。多くの混乱を伴いながら急速な近代化への道を進む中で、本の世界にも当時の文学の新潮流や社会情勢が反映され、多種多様な書籍が出版されました。併せて装幀も抒情的な感性を示すもの、色鮮やかでモダンなものなどが次々と登場し、魅力が尽きません。
 北海道立文学館では、貴重な初版本も含め、この時期に刊行された本を多数所蔵しています。1926年に大正が幕を閉じてから、100年が経とうとする今、近代日本の息吹を感じさせる本の数々によって、明治・大正という時代に思いを馳せていただければ幸いです。
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フライヤーには画像がありませんが、光太郎第一詩集『道程』の通常版と「異本」と、二種類が出ているとのこと。

通常版は当方の書架にも一冊ありますが、紺色の紙の表紙です。
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こちらと、さらに白い布装だという「異本」。おそらく献本として少部数作られた私家版と思われます。

この私家版『道程』に関しては、稀覯本研究家であらせられる秀明大学さん学長・川島幸希氏が、平成24年(2012)4月の『日本古書通信』さんの連載「私がこだわった初版本」で紹介され、さらに平成26年(2014)には同大の学祭・飛翔祭の際に展示なさいました。

今回展示されているという「異本」、これと同一のものか、あるいは川島氏が所蔵されていたものか(氏は入手なさったものも手許に置いておかないことが多いようなので)、という感じです。

ちなみに文語定型詩全盛だった当時の「詩集」という概念を突き抜けていた『道程』、売れ行きはさんざんで、光太郎曰く、きちんと版元から売れたのは七冊だけだったとのこと。現在残っているもののほとんどは光太郎から友人知己等に贈られたものと推定されます。

刊行翌年の大正4年(1915)以降、残本を改装して奥付を変えたものが何度か刊行され、国会図書館さんでデジタルデータとして公開されているものもこちらです。道立文学館さんで今回展示されているものは、同館の所蔵リストに依れば大正3年(1914)刊とのことですので、これではないでしょう。

他に宮沢賢治の『春と修羅』、北原白秋が『思ひ出』、薄田泣菫の『白羊宮』、吉井勇著・竹久夢二装幀『源氏物語情話』、萩原朔太郎『月に吠える』などが並んでいます。

文豪マニアの方など、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

この四日の朝山を降りて花巻に来ました、智恵子の祥月命日と亡父の十三回忌の法要を五日に当地の松庵寺といふ浄土宗のお寺で営みました。


昭和21年(946)10月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、敬虔な仏教徒というわけではなかったのですが、この手の法要はほとんど欠かしませんでした。 

紹介すべき事項が山積しておりまして、せっかく情報をご提供いただいても取り上げるのが遅くなってしまい、申し訳なく存じます。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に携わられ、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチンフラワーさんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分です。
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メニューは「ちらし寿司」「白米ご飯」「豚肉とじゃがいもの炒め」「焼き鮭」「切り干し大根とふのりの酢の物」「長芋の塩昆布和え」「塩麹卵焼き」「豆銀糖とりんご」「お新香」だそうで。

基本的には日記等から光太郎が実際に作った料理や使った食材を参考にし、現代風にアレンジしています。

やつかの森LLCさん、この他にもいろいろと活動に当たられています。

先月22日には光太郎が山小屋(高村山荘)で7年間の蟄居生活を送った旧太田村の上太田山関振興会館さんで、出前講座 「光太郎のハイカラ料理を知ろう」。

花巻市では、各種市民団体や、学校さんや企業さんなどで特定の内容の講座を受けたいという場合に「この人の、あるいはこのグループのこういう講座を開いてほしい」と要望を出せば、それが実現する「出前講座」というシステムがあるそうです。やつかの森LLCさん、昨年10月にもやられていました。

先月の様子がこちら。
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やはり光太郎グルメ系で実際に調理。
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「食」からのアプローチは、偉人を身近に感じる一つの手だてですね。

さらに今月16日には、花巻南高校さんを会場に行われた岩手県高教研国語部会中部支部の研修に呼ばれ、お話をなさったそうです。対象は高校の国語の先生方が中心で、他に南高文芸部の生徒さん、家庭クラブ顧問の先生も参加されたとのこと。
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タイトルは「こうたろう散歩道 山小屋暮らしの高村光太郎」。光太郎のプロフィール、宮沢賢治とのかかわり、旧太田村での生活などをお話しされたとのこと。

意外といえば意外でしたが、岩手の高校の国語の先生方の中にも、光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945 高村山荘敷地内に詩碑あり)をご存じなかった方がけっこういらしたとのこと。まぁ地元でも専門外であればそんなものなのかも知れませんが。

やけに長い尺を与えられたそうで、寸劇を入れたり、やつかの森LLCさんお得意の食事方面のお話をされたりもなさったとのことでした。
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今後とも多方面でご活躍いただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

小生多分来月三日か四日頃又お邪魔に参上、今度は七日頃まで御厄介に相成度存じ居ります。その間に一度お風呂もいただきたくお願申上げます。

昭和21年(1946)9月29日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

旧太田村から花巻町中心街に出る際には、山小屋に移る直前の前年9月から10月にかけ、厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房宅の離れ(潺湲楼)に宿泊するのが通例でした。

この頃は山小屋に風呂が無く、佐藤邸で入浴するのを楽しみにしていた部分も。佐藤邸が花巻の桜町なので、光太郎は巫山戯て「桜温泉」と呼んだそうです。

またしても紹介すべき事項が山積して参りましたので複数件まとめてご紹介します。無理くりですが「オンライン系」というくくりで。

まずは動画投稿サイトYouTubeさんに今月初めにアップされた動画。名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏作曲の「連作歌曲「智恵子抄」〜その愛と死と〜」です。


初演は平成25年(2013)ですから、もう10年以上経ちますね。その後、野村氏プロデュースで楽譜やCDが発売されたり、氏の地元・名古屋都内、智恵子の故郷・二本松などでの演奏会で取り上げられたりしました。さらにバリトン歌手の新井俊稀氏ドイツをはじめ各地で演奏なさったり、CD化されたりなさっています。

YouTube上ではこれまでも各曲ごとの動画はありましたが、今月、全曲まとめてのアップ。演奏は野村氏プロデュースの演奏会等でいつも担当されるお二人、森山孝光氏(バリトン)、康子氏(ピアノ)御夫妻です。

野村氏のお言葉。

 彫刻家で詩人の高村光太郎は、詩集「智恵子抄」で愛する妻、智恵子を詠い、「永遠の愛の姿」と賞賛されました。しかし、本当の愛は、智恵子を失った後に結実しました。
 智恵子を亡くした後の光太郎は、終戦後、岩手県花巻市郊外の山小屋にたった一人で篭って、7年もの間隠棲するのですが、心に智恵子を住まわせ、毎日智恵子に話しかける日々であったことが、詩「案内」に語られています。
 だんだんと智恵子の心が壊れていく様を悲しく見守る光太郎を表現した第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、「東京に空がないと言う」という有名な詩句を含む第2曲「あどけない話」、智恵子が病没する瞬間を描いた悲痛な絶唱、第3曲「レモン哀歌」、その後の歳月を表現した短いピアノの第4曲「間奏曲」、心に住む智恵子に話しかける晩年の光太郎を描いた第5曲「案内」の5曲を、連作歌曲「智恵子抄」として皆様にお届けいたします。
 特に、「案内」の最後の場面で、「智恵さん」と2度、歌われる部分に、私は自分の全ての想いを託しました。1度目はもう手の届かない智恵子に、2度目は心に住む智恵子に、万感を込めて呼びかけるのです。
 私はある日、この作品の録音を持って、光太郎が暮らした山小屋「高村山荘」にでかけました。山荘の裏山を登ると、光太郎が「見晴し」と称した小高い展望台があり、まさに「案内」の中で「智恵さん」と呼びかける、その場所でした。静かな晩夏の真昼。「智恵さーん、智恵さーん」と歌われる呼びかけは山麓にこだまし、やがて天にのぼっていくように思われました。
 願わくば、この作品に出会われた皆様の心にも、なにものか熱いものが届かんことを! 切に!

もう1件、というか2件というか、美術系のオンライン講座です。

知っておきたい!日本の美術 ~高村光雲「老猿」/~高村光太郎「手」

主 催 : NHKカルチャー梅田教室
配 信 : 2024年2月6日(火)~4月7日(日)
時 間 : 90分
講 師 : 大阪国際大学教授 村田 隆志
料 金 : 2,750円(税込み)

 本講座は録画済の動画を視聴する講座です。 
 美しい自然と四季折々の美に恵まれた日本は、長い歴史の中で多くの美術品を伝えてきました。特に、大阪を中心とする関西圏は古来文化の中心地だったために、多くの作品が伝えられています。この講座では、日本が世界に誇る「これだけは知っておきたい」日本美術の名品をご紹介しながら、鑑賞ポイントもお知らせします。
 「感動」は心を若く保つ、最良の方法です。日本美術の名品に大いに感動してください。
 この講座は、自宅でパソコンやタブレット、スマホなどで受講していただくオンライン講座です。Zoomを使ったもので、ご受講に不安がある方は、お問い合わせ下さい。

光太郎の父・光雲作の「老猿」篇と、光太郎の代表作「手」篇で2件です。
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「手」篇、なぜかサムネイル画像が光太郎ではなく川合玉堂の絵になっているのですが……。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「日本の山水」忝拝受しました。装幀が大変よいのと版画が美しいので、たのしく拝見いたしました。近頃もらつた本の中で一番美しい、注意の行届いた本と思ひました。

昭和21年(1946)9月22日 井上康文宛書簡より 光太郎64歳

『日本の山水』は冨岳本社から刊行された光太郎詩を含むアンソロジー。恩地孝四郎の装幀で、畦地梅太郎、前川千帆らの木版画が挿画として使われています。
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終戦から1年経ち、ようやくこうした出版も再び可能になったわけで、光太郎も喜んでいます。

光太郎の父・高村光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」関連で2件。

まずは今日から5日間限定で開催の展示です。

出張!江戸東京博物館

期 日 : 2024年2月21日(水)~2月25日(日)
会 場 : 東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室
      東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が江戸東京博物館に足を運んでくださいました。
 開館から約30年経過した現在、大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館の予定です。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。
 本展では、第4公募展示室のロビー階と1階のフロアで、常設展示室の一部をまとめた展示をご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。
 また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。
 本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。
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というわけで、現在改修工事中の江戸東京博物館さんから、展示品の出開帳。三の丸尚蔵館さんなどでも行っていた手法ですね。

かつての常設展からの出品と、会場が上野ですので「特集展示「上野の山」をめぐる」の二本立てのようで、後者の方で、西郷隆盛像を描いた錦絵が展示されます。
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楊斎延一が明治32年(1899)に描いた「上野山王台西郷隆盛銅像」。

平成30年(2018)、東京藝術大学大学美術館で開催された「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展」の際、ミュージアムショップでこちらをあしらったクリアファイルが2種類販売されていて、ゲットいたしました。
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ちなみに今回はこの絵を含む「入場者特典カード」が10種類作られ、無料配付されるそうです。ただし、日替わりで2種類ずつ、選べないとのことですが。
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錦絵の展示がもう1点、藤山種芳が描いた「上野山王台故西郷隆盛翁銅像」。こちらも明治32年(1899)です。
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他にも展示されるかもしれません。

当方もこの手の錦絵を何点か所持しておりまして、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。

ところで西郷隆盛像、テレビ番組でも取り上げられます。

カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」

地上波NHK総合 2024年2月25日(日) 04:15〜04:18

100年の間に震災と戦争によって2度焼け野原となり、そこから不死鳥のようによみがえった都市・東京。NHKは、東京を撮影した白黒フィルムを世界中から収集、現実にできるだけ近い色彩の復元に挑んだ。色を取り戻した東京は、どんな表情を見せるのか。今回は上野にしぼって、激動の歩みを、初公開フルカラー映像でたどる。

語り 塚原愛アナウンサー


平成26年(2014)に、やはり地上波NHK総合さんで放映された特番「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」から、都内の区域ごとに細切れにして放映され続けている番組の上野編です。昨年末にも放映があって拝見。西郷隆盛像が二つの時期で取り上げられました。

最初は大正12年(1923)の関東大震災。同じ動画は昨年放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」でも使われていて、これは予想していました。
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ところがこれだけでなく、なんと戦時中の動画も。昭和18年(1943)、早稲田大学海軍予備学生壮行会が西郷像の前で開催され、その際に撮影されたものでした。
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この手の動画だと、国立競技場で行われた雨中の出陣学徒壮行会のものが有名でよく使われますが、西郷像の前でこんな催しがあったというのは存じませんでした。
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つくづくこういう時代に戻してはいかんな、と思いました。こういう時代に戻したくて仕方のない輩が政権を握っている国ですが……。

館外展示「出張!江戸東京博物館」/カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」、それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の論難はすべて快くうけるつもりです。壺井さんのはよみましたが小田切さんのはまだ見ません。時間が一切を裁断するでせう。

昭和21年(1946)9月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

「壺井さん」は壺井繁治、「小田切さん」は小田切秀雄。ともに戦時中の光太郎の翼賛詩等を痛烈に批判しました。それに対し、弁解めいたことは言わないよ、と、こういうところが光太郎です。
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しかし、戦時中、特高に逮捕されていた小田切はともかく、自らも翼賛詩を書いていながら戦後になるとそれを無かったかの如く批判に転じた壺井は、まさに「おまいう」。そういう点などを後に糾弾され、詩壇からは葬られて行く感じです。

参加者募集型の朗読系イベント情報を2件。

まずは和歌山県から。

和み朗読サロン

期 日 : 2024年2月22日(木)
会 場 : カルチャーべルーム 和歌山市杉ノ馬場1-44ベルネットビル2F
時 間 : 14時40分~15時30分
料 金 : 1,500円

高村光太郎の「智恵子抄」を朗読します。和み朗読教室は、和み楽しく学べる教室です。朗読がはじめてという方、大歓迎! 聞き参加可能です。 高村光太郎の世界を一緒に感じてみませんか?
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「和み朗読教室」という団体さんがいろいろワークショップをなさっている中の一環のようです。ただし、朗読してみたいという方の参加申し込みは先週〆切りでした。それでもまだ空きがあるかもしれませんし、聞くだけの参加も可能とのことです。

もう1件、都内からこちらは朗読者とスタッフの募集。

4/19(金)上野水上音楽堂でイベント開催決定!出演者・スタッフ大募集!朗読の祭典を一緒に作りませんか?

募集要項
【ソロ部門】
 ・出演時の朗読時間は8分程度
 ・オーディション参加費:2,000円

【群読部門】
 ・2~4名のチームでお申し込みください
 ・出演時の朗読時間は15分程度
 ・オーディション参加費:4,000円

 ※オーディション参加者(チームメンバー)は、合否に関わらず当日イベントの入場無料!
 ※出演決定者には、当日スタッフとして簡単なお手伝いもお願いいたします。

【当日スタッフのみでの参加者】
 ・イベントを楽しみながら一緒に盛り上げてくださる方を募集します!
  (応募フォームからお申し込みください)
 ・入場無料でイベントをお楽しみいただけます。交通費支給(上限3,000円)。

応募方法
 ②このポストをいいね&リポスト
 ③課題3作品から1作品選んで朗読を録音
 ④応募フォームよりお申し込み&課題音源投稿
 ⑤お申し込みから1週間以内に参加費をお振込みください
【銀行口座】
 GMOあおぞらネット銀行(金融機関コード:0310) 支店名 法人営業部(支店コード:101)
 普通 1507296 口座名義 朗読らいおん合同会社 ロウドクライオン(ド

課題・審査基準
【課題】
 ①「月夜とめがね」小川未明(指定の抜粋部分)
 ②「走れメロス」太宰治(指定の抜粋部分)
 ③「人類の泉」高村光太郎
   (群読部門はチーム全員で群読してください)

【審査基準】
 ・本番を想定し朗読が聴こえる最低限の声量
 ・テーマ「いのち」への思いが伝わる読み
 ・ステージでの朗読経験の有無は問いません

【注意事項】
 ・課題音源は.wav形式または.mp3形式にてご提出下さい。
 ・本番で読む作品は青空文庫掲載作品に限ります。「いのち」というテーマから、
  ご自身(チームメンバー)の自由なイメージで2次審査開始時までに選書して下さい。
 ・出演者には、イベントで選書の理由についてインタビューします。
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本番は4月だそうですが、その参加者募集ということです。課題三作品に『智恵子抄』所収の光太郎詩「人類の泉」(大正2年=1913)が入っています。群読でやるというのも面白そうですね。

我こそは、と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

まつたく毎日訪問客に責められてゐます。一昨日一人、昨日一人、今日四人といふやうなわけです。そして一日中の一番よい時間を取られるのであとは何も出来ません。夜は早くねて朝四時頃起き、朝食を早くすませて、九時前に一仕事する外ありません。今さうやつてゐます。 一聯の長い詩が出来さうです。

昭和21年(1946)9月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村。光太郎は隠棲のつもりでも、光太郎を慕う人々が放っておいてくれないという状況、結局、厳寒期を除いてずっと続きました。

「一聯の長い詩」は、翌年の雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」でしょう。

昨年、コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を4年ぶりに開催いたしましたが、今年も下記の通り実行できる運びとなりました。お誘い合わせの上、ご参加下さい。


日 時  令和6年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線 京浜東北線 有楽町駅  地下鉄日比谷線 千代田線 三田線 日比谷駅下車
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会 費  12,000円(含食事代金)
           諸物価異常高騰の折、申し訳ありませんが改訂させていただきました。

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替
  「払込取扱票」にて郵便局よりお願いいたします。
   ATM、窓口にて取り扱い可能です。申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。
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  ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(土)までにご連絡頂ければ、
  後日、返金いたします。

  参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
  事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

  複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
  参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

  ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

配布物について
  会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
  4月1日(月) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
  残部は欠席の方等にお送りいたします。公序良俗に反するものでなければ
  特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
  当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
  書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

  当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いを
  お願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。
  当方、午後3時頃には会場入りしております。
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着席ビュッフェ形式で行います。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

作品は殆ど失ひましたが小生の内に生きてゐる彫刻はやがて姿をあらはして来るでせう。山に来てから準備はしてゐますがまだ資材が整はないので彫刻の仕事はちつとも進みません。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んでほぼ1年。まだこの時期は山小屋で彫刻制作をするつもりだったようです。しかし、その後、自らの戦争責任を悔悟する中で、自らへの最大の罰として、彫刻制作を封印するに至ります。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんで、書道展「東京書作展選抜作家展2024」を拝観。書家の菊地雪渓氏からご案内を頂いていたのですが、最終日前日となってしまいました。
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その菊地氏の作。
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杜甫の漢詩を書かれたものだそうで。相変わらず雄渾な筆遣いです。

この手の書道展、必ずといっていいほど、光太郎詩文を題材に書かれる方がいらっしゃり、今回も存じ上げない方でしたが、2点。ありがたし。

詩としての光太郎代表作の一つ、「道程」(大正3年=1914)。
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詩「潮を吹く鯨」(昭和12年=1937)。こちらは大幅でした。
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昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため船で訪れた三陸海岸での体験を元にした詩です。
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昭和14年(1939)、河出書房刊行の『現代詩集』に掲載されましたが、それが初出かどうか不明です。

その他、以前に光太郎詩文を書かれた皆さんの作なども拝見。眼福でした。

六本木を後に、中野に向かいました。次なる目的地は西武新宿線沼袋駅近くの新井区民活動センターさん。
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光太郎終焉の地・旧中野桃園町の貸しアトリエの保存運動が起きており、その会合に呼ばれて参上いたしました。
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戦後、水彩画家の中西利雄が建てたものの中西が急死し、貸しアトリエとなっていた建造物で、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)にここに入りました。像の完成後はまた花巻郊外旧太田村に帰るつもりで、実際に像の除幕後に一時帰村したのですが、健康状態がもはや山村での独居自炊に耐えられず、結局は再々上京、ここで亡くなりました。

利雄の子息・利一郎氏が昨年亡くなり、なるべくご遺族の負担にならないようにするにはどうすれば……というわけで、利一郎氏と交流の深かった文治堂書店さん社主・勝畑耕一氏、日本詩人クラブの曽我貢誠氏らが中心となって始まりました。文治堂書店さんサイト内に企画書リンクが貼ってあります。

お二人以外に他に利一郎氏と親しかった方、建築家の方、中野たてもの応援団の方などがご参加。
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やはり利一郎氏と親しく、アトリエにも足を運ばれた渡辺えりさんも。
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現状の報告と、今後、どうすれば八方丸く収まるのかについての意見交換など。

会場の使用時刻を過ぎてからは近くの喫茶店に移り、そちらでも。
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こういった件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールが以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

来月にも会合を持つこととなりました。また追ってご報告いたします。

【折々のことば・光太郎】

まつたくあなたの言はれる通り、戦争中は彫刻を護るために詩が安全弁乃至防壁になり過ぎたと思ひます。決していい加減ではなかつたのですが。この事はいまに書かうと思つてゐます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

翌年に雑誌『展望』へ発表した、幼少期から戦後までの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」全20篇の構想にかかっており、それを指すと思われます。

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