北海道から企画展示等の情報です。

来釧した文豪たち 「文豪とアルケミスト」も釧路に来た!!

期 日 : 2024年7月27日(土)~10月20日(日)
会 場 : 釧路文学館 釧路市北大通10丁目2番地(釧路市中央図書館6階)
時 間 : 9:30~19:30
休 館 : 毎週月曜日(祝日除く)・毎月最終金曜日
料 金 : 無料

石川啄木をはじめ、草野心平や河東碧梧桐、高浜虚子など釧路に訪れたことのある文豪のほか、里見弴に師事していた釧路ゆかりの作家・中戸川吉二、原野の詩人・更科源蔵と高村光太郎など釧路文学館が所蔵する関連史料を展示します。
なお、会期中はDMM GAMES配信のゲーム「文豪とアルケミスト」とタイアップし、記念グッズの販売や等身大パネルを展示します。

等身大パネル展示
◆釧路文学館:石川啄木(夜の散歩衣裳) 高村光太郎(平服) 草野心平(パーカー衣裳)
◆釧路港文館:石川啄木(平服) 釧路市大町2-1-12
◆北海道立釧路芸術館:石川啄木(作業着衣裳) 釧路市幸町4-1-5
◆釧路フィッシャーマンズワーフMOO:石川啄木(和装) 釧路市錦町2-4
◆釧路市生涯学習センター まなぼっと幣舞:石川啄木(制服)

記念グッズ販売
タイアップ企画開催を記念して、釧路文学館でポストカード、クリアファイル、缶バッヂを販売します。クリアファイルには来釧した文豪たちと釧路の風景がデザインされています。

スタンプラリー開催
会期中に釧路文学館・釧路港文館または道立釧路芸術館を巡ろう! スタンプを集めると、「オリジナルしおり」をプレゼント!

釧路市図書館合同展示開催!
会期中、釧路市内にある図書館と連動して関連展示を開催します。
◆釧路市中央図書館:各フロアの特色にあった展示をおこないます。
◆東部地区図書館:「文学と友情」
◆中部地区図書館:「文豪とその名作」
◆西部地区図書館:「文豪と食」

マンスリー朗読会
①7月27日(土)  18:00~19:00
 【会場】釧路文学館 【朗読者】ジスイズ朗読会 【作品】夏の夜咄~小泉八雲の怪談
②8月25日(日)13:00~14:00
 【会場】中央図書館 【出演者】釧路演劇協議会
③9月8日(日)13:00~14:00
 【会場】中央図書館 【朗読者】リーディングサービスコスモス

初心者向け短歌教室 コスプレOK!
 【日時】8月10日(土) 【会場】文学会議室 【講師】簑島智恵子(釧路歌人会会長)


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オンラインゲーム「文豪とアルケミスト」(文アル)とのコラボ企画です。釧路ということで、石川啄木がメインですが、啄木と交流のあった光太郎や、光太郎と親しかった道出身の更科源蔵、当会の祖・草野心平も取り上げて下さるそうで。

「文アル」関連では、先頃、光太郎も登場人物として名を連ねた舞台「文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)」が上演されましたし、岩手花巻では、宮沢賢治と光太郎を前面に押し出したスタンプラリーが一昨年開催され、それぞれ多くのファンの方々でにぎわいました。また、福岡の北原白秋生家・記念館さんでも一昨年「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」の際にタイアップ企画で光太郎が取り上げられましたし、このブログサイトではご紹介しませんでしたが、昨年には高知の吉井勇記念館さん開館20周年記念で香美市立図書館かみーるを会場に「『文豪とアルケミスト』にみる吉井勇と文豪たち」と題した座談会が開催され、やはり光太郎の等身大パネルが出たそうです。

遡れば平成29年(2017)には森田成一さんによる朗読CDもリリースされています。

文豪たちに親しんでもらう入口としてはこういう方向性もありだと思われます。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

六月中は五月から引きつづいて来客殆ど連日に及び、畑仕事を大いに邪魔されました。来る人は皆遠方から、相当の好意を以て来てくれるのですから、歓迎するのですが、あとで仕事の手遅れを取かへすのに大骨折です。多い日は来客八人に及びました。


昭和23年(1948)7月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での生活。自分では謹慎や蟄居のつもりでいても、世間が放っておかないわけで、痛し痒しでした。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、主に「食」を通じて光太郎顕彰をなさっているやつかの森LLCさんによる最近の取り組みを。

まず、同市土沢地区のワンデイシェフの大食堂さんで、7月13日(土)に「こうたろうカフェ」としてご出店。こちらのお店は様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗するというシステムです。
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やつかの森LLCさんでは、基本、日記等に書かれている実際に光太郎が自炊していた料理や使っていた食材などを参考に、現代風の料理に仕立てています。

メニュー的には以下の通り。

「自家製サラダチキン チリソース添え」
ボイル海老とスナップエンドウが添えられています。

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じゃがいもは新じゃがだそうで。

「夏野菜の揚げびたし」
朝採りの茄子とインゲンが使われています。

「小松菜のじゃこ炒め」
小松菜はゆずポン酢であえてじゃこと白ごまをかけて味を調えています。

「きゃらぶき」
蕗ですね。

「紫蘇巻き胡瓜と茗荷酢漬け」

「ズッキーニの冷製ポタージュ」
玉ネギ、ジャガイモの他にお粥が加えられているとのこと。

「黒米ご飯」
アントシアニンたっぷりでもっちりしているそうです。

「フルーツミルク寒天」
最近、彼の地で栽培が広まっているブルーベリーが使われています。

そして締めは「コーヒー」。

夏らしく、さっぱりとしたヘルシーな感じですね。

土曜ということもあり、事前に予約で完売だそうでしたが、初めての方もいらっしゃったとのことで、輪が広がっているんだなという感じです。

昨日は、毎月15日に道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで調理・販売を行っている弁当「光太郎ランチ」の販売日。メニュー考案はやつかの森LLCさんです。
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こちらのお品書きは「古代米入りご飯」「バターライス」「肉じゃが」「缶詰サンマの揚げ焼き」「いんげんのごま和え」「きゅうりの酢の物」「茄子田楽」「塩麹卵焼き」「水羊羹」。

「こうたろうカフェ」のメニューとかぶっていないところがすごいと思いました。なかなか2本立てでというのも大変かと存じますが、今後とも続けて行かれていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生もおかげで健康、毎日畑仕事にいそしんで居ますが、僅かばかり、力を入れると、比較にならぬほど豊かな酬いをかへしてくれる自然の恵みに感謝せずにゐられません。自然界の生命力は実に不思議です。


昭和23年(1948)7月11日 富谷武宛書簡より 光太郎66歳

青年時代から「自然」を讃美してきた光太郎にとって、農業はある意味天職に近いものがあったのかも知れません。

竹橋の東京国立近代美術館さん。有島武郎旧蔵の光太郎ブロンズ代表作「手」を収蔵なさり、常設展示で「所蔵作品展 MOMATコレクション」に出品なさることもしばしばです。現在も出ています(8月25日(日)まで)。
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光太郎生前に鋳造されたことが確認出来ている3点のうちの1点で、木の台座部分も光太郎の手になる木彫です。接着されていないブロンズ部分を取り外すと、芯ともいうべき部分に旧蔵者の有島、有島没後に受け継いだ秋田雨雀、そして戦時中に秋田から託された雑司ヶ谷本納寺の兜木正享の名が記されています。詳しくはこちら。動画で紹介されています。

戦後、光太郎の意向もあって、同館に寄贈されました。

さて、同館では、動画以外にも「水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアー」を制作され、このほどオンラインで公開されました。

高村光太郎《手》のオブジェクトVRコンテンツ公開

このたび当館では、日本文教出版株式会社と日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社との共同で、「オブジェクトVRコンテンツ」を制作いたしました。
高村光太郎《手》(1918年頃)を水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアーです。
ぐるぐる回したりぐっと近寄ったりしながら、美術館の外でも作品をじっくりお楽しみください。
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*高精細データのため表示されるまで時間がかかる場合がございます。
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光太郎自身、彫刻はぐるっと360度の方向から見るのが大事だと書き残しています。彫刻自体は動かないけれど、自分が動けば彫刻も動く、というわけで。

線の波動の面白味といふのは、空間を劃(かぎ)つた彫刻の輪廓の波動をいふのである。所謂曲線美といふのも此の辺を名づけたのであらう。一つの彫刻の前に立つて見ると、其の後ろの空間の中へはつきりと其の彫刻の「輪廓の影(シルエエツト)」が浮き上つて来る。大小緩急の入り乱れた弧線が端から端へと連続して人間の形や動物の形を成してゐる。そこで一歩横へ寄る。百眼鏡(ひやくめがね)を一転した様に、今までの輪廓の影の弧線は忽ち大活動を始めて変化する。其の変化の途中、大きな弧線が小さくなり、小さなのが大きくなり、縮んだのが伸び、迫つたのが開いてゆく所は、実に不思議な生理的快感を人間の神経に与へるものである。此の輪廓の変転は到底測る可からざる感を人に与へる。かうして、其の彫刻を一周してゐるうちに再び元の位置にかへる。ぴたりと以前の輪廓に復した時には、全く旧知に邂逅した刹那の感があるものである。(「彫刻の面白味」明治43年=1910)

こうした感覚を味わいつつ、ぜひ「《手》のオブジェクトVRコンテンツ」をご覧下さい。

なお同館では、光太郎の親友だった碌山荻原守衛遺作の「女」についても同様のコンテンツを公開するやに聞いております。

こうした動きがさらに広がってほしいものですし、どうせなら水平方向360度だけでなく、斜め上から真上からと、この場合、何度と表現したいいのか解りませんが、全方向から見られるようにもしていただけると、なお有り難いところです。

【折々のことば・光太郎】

先日窓の外の鼠の巣の子どもをのみに蛇が来て鼠を退治してくれました。


昭和23年(1948)6月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での一コマ。何気に書かれていますが、自然界の生存競争の厳しさが感じられます。その連鎖の中に光太郎も身を置いていたわけで……。

昨日は福島県川内村に赴き、当会の祖・草野心平を祀る第59回天山祭りに列席して参りました。

その模様の前に、一昨日。酒をこよなく愛した心平大明神に奉納するための一升瓶を買いに、自宅兼事務所から車で7~8分ほどの造り酒屋さんへ。
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かの勝海舟も逗留したことがあるという馬場本店酒造さん。創業は天保年間、奥に見える煉瓦造りの煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。
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テレビの旅番組やドラマ/映画のロケなどにもよく使われています。「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」代表をお願いした渡辺えりさん主演の2時間ドラマ「100の資格を持つ女 風薫る水郷・佐原の醤油蔵に呪いの連続殺人!!」(平成22年=2010)では、警視庁職員(刑事ではありません)のえりさんが、こちらに従業員として潜入捜査(笑)。
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ただしPXL_20240712_012829217、造り酒屋ではなく醤油蔵という設定でしたが。

一升瓶の箱詰めや包装をしていただいている間に、カウンターにあった芸能人の皆さんなどのサイン色紙をチェック。えりさんのものもありました。

千葉県香取市佐原地区、馬場酒造さんをはじめ、創業百何年という商家も多く、江戸時代から昭和戦前の建物が現役で活用されており、関東地方で初の伝統的建物群保存地区に認定されました。

ちなみに明日、7月15日(月)から7月19日(金)まで全5回、地上波テレビ朝日さん系の「じゅん散歩」で高田純次さんがレポートなさいます。ぜひご覧の上、足をお運び下さい。


さて、昨日の川内村。早速、持参した酒を奉納。
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このあとも数本の一升瓶が捧げられ、泉下の心平はウハウハだったことでしょう(笑)。

会場は村民の皆さんが心平のために別荘として建ててあげた天山文庫。光太郎実弟の豊周も建設委員として名を連ねました。
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昨年は雨のため村営体育館での開催でしたが、今年は天候の心配もなく、本来の会場での開催となりました。木漏れ日が実に爽やかでした。
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早めに着いたので、ひさしぶりに天山文庫内を見学。まずは一階の座敷。何気に心平本人や棟方志功、川端康成らの書などが掲げられています。
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心平寄贈の蔵書を収めた書庫。
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心平が題字を揮毫した書籍や、光太郎関連の心平編著も。
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二階の座敷。おそらく寝室として使われていたのでしょう。
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窓の下には「十三夜の池」。

午前10時、祭りの開幕。
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あいさつ、祝辞、献花と続き、川内村の小中学生の皆さん、かつて心平が主宰していた『歴程』同人の方々による詩の朗読、郷土芸能の披露などが行われました。
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「川内甚句」では、参列者の皆さんを巻き込んで、十三夜の池の周りを踊りながらぐるぐる。顔がわかってしまうような画像はアップしないで下さい的なお願いがありましたので、遠景を。

こうした和気あいあいの雰囲気にも、泉下の心平が眼を細めているような気がしました。

終了後、遠藤村長をはじめとする村の方々、天山祭り等で顔なじみになった県外の心平ファンの皆さん、そして『歴程』同人さんたちに、中西利雄・高村光太郎アトリエ保存のための署名をお願いし、30人分ほどいただけました。ありがたし。

この天山祭り、末永く続くことを心より祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

皆さんの帰つてゆくのが名残惜しいやうでした。又その節はお心をこめた御馳走のかずかずを頂戴してありがたうございました。前の晩おそくまでかかつて作られたといふおいしい今川焼きも幾年ぶりかで味はふ事とて無類でした。まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたいと思ひます。現世では数へるほどしか数の少い幸福です。かういふ幸福をつくり出すお仕事は何といふいいものでせう。大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふのでせう。


昭和23年(1948)6月8日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎66歳

光太郎の隠棲していた旧太田村で、照井夫妻が主宰していた児童演劇「宮沢賢治子供の会」の出張公演が為されたことに対する礼状の一節です。

まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたい」「大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふ」。昨日の天山祭りに列席し、当方も似たような感想を持ちました。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展、今日開幕です。

山口山(やまぐちやま)のなつやすみ

期 日 : 2024年7月13日(土)~8月31日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

木工房さとう(さとうつかさ氏)の制作した高村光太郎や宮沢賢治をモチーフにした木工のオブジェを展示します。

高村光太郎のやじろべえ
高村光太郎の山の暮らしをモチーフとした木工からくり作品
宮沢賢治の作品をモチーフとしたやじろべえ
宮沢賢治の作品をモチーフとしたオブジェ
その他オリジナルのオブジェなど

木工房さとうの作品は、ほっこりした雰囲気があり、見る人の心を和ませてくれます。また、木工からくり作品の細かな仕掛けや動きは、思わず見入ってしまうような魅力があります。この夏休み、木工房さとうの作り出す和やかな世界をお楽しみください。
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奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏の作品展。高村光太郎記念館さんでは昨年開催された「山口山の木工展」に続き、2回目となります。昨年のレビューはこちら

ちなみにさとう氏の作品、同館ロビーにも常設展示されています。
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ここは光太郎が暮らした旧太田村。この近辺で採れた木材等を使われているそうです。木材ならではの温かみと、佐藤氏の卓越した技倆による工夫を凝らしたからくり、しかし機械的でない手作り感。ほっこりします。

今回の展示では、さらにパワーアップなさっているのでは、と思われます。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

あれから急に春もたけなはとなり、今山桜の盛りにて美しく、地表も薄みどりを呈し、ゼムマイ、ワラビが出て来ました。


昭和23年(1948)4月30日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

山口山にもようやく遅い春が巡ってきました。

明日開幕です。いわゆるコレクション展で、光太郎木彫1点が出ます。

なつやすみ所蔵企画展 額縁のむこうのFRANCE -心惹かれる芸術の地-

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月23日(月・祝) 8/19に一部展示替え
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧5-250
時 間 : 午前10時から午後5時
休 館 : 月曜日(
祝休日の場合は直後の平日
料 金 : 一般 1,000円 (800円) 高大生 600円 (500円) 小中生 300円 (250円)
      ( )内は20名以上の団体

 歴史を感じる建物やおしゃれな人々、そして芸術。心惹かれるものが多くあるフランス。
 この展覧会は、メナード美術館のコレクションからセザンヌやマティス、ブラックといったフランスの美術作品、さらに藤田嗣治や佐伯祐三らフランスに学んだ日本出身の作家たちの作品を、絵画を中心に約80点ご紹介するものです。
 時代を力強く生きる女性たちとその装い、街や農村・避暑地の風景、また20世紀に起こったフォーヴィスムとキュビスムという美術革命などをテーマに、フランスという国とそこで展開された芸術をお楽しみいただきます。
 作家たちが、フランスのどこに惹かれ、いかに表現したのか。額縁を絵画の中と私たち鑑賞者をつなぐものとして、作品からフランスへと思いをめぐらせてみてください。

展示構成《Le paradigme de la transparence. 23. T. T. -1》
 Introduction アントロドゥクシオン この展覧会のはじまりに
  ブールデル/マイヨール/アーチペンコ/高田博厚
 Les Femmes レ ファム 憧れのフランス女性
  クールベ/マネ/ドガ/ロダン/ルノワール/マティス/ピカソ/シャガール/フジタ他
 Les Paysages レ ペイザージュ フランス各地の風景
  モネ/ルソー/ガレ/スーラ/ヴラマンク/ドラン/ユトリロ/佐伯祐三/荻須高徳他
 La Libération ラ リベラシオン フォーヴとキューブ:ふたつの解放
  セザンヌ/ゴーギャン/ゴッホ/マティス/ヴァン・ドンゲン/ピカソ/ブラック他
 L’Étranger エトランジェ 異国の地で出会った美術
  藤島武二/岡田三郎助/高村光太郎/安井曾太郎/梅原龍三郎/長谷川潔/舟越桂他
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光太郎彫刻は、木彫の「鯰」が出ます。
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元々は新潟の素封家・松木喜之七に贈られたもの。直接フランスとは関わりませんが、ロダン流のモドレ(肉づけ)をカーヴィングの木彫に取り入れたという点では、フランス式とも言えるでしょう。

同館では同じく木彫の「栄螺」もお持ちですが、今回は出ません。

光太郎木彫が出る度に書いていますが、木彫は出品が少なく、貴重な機会です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

二ツ堰から徒歩で観音山といふ山上の観音さまの縁日、お神楽見物にまゐり、多田等観さんに招かれて御馳走になり、更に夕方からは村長さん夫妻の案内にて鉛温泉に一泊。久しぶりに温泉に入浴して愉快でした。温泉の主人も挨拶に来ました。


昭和23年(1948)4月27日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

多田等観は僧侶にしてチベット仏教学者。戦時中、チベット将来の品々を花巻に疎開させた縁もあり、円万寺観音堂の堂守を務め、隣村に住む光太郎と意気投合してお互いに行き来していました。

鉛温泉は、現在も続く藤三旅館さん。深さ約1.3㍍の白猿の湯が名物です。

昨日は東京都中野区に行っておりました。光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になるの中西利雄アトリエ保存運動「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の4回目の会合でして。

少し早めに行き、中野駅南口近く、旧桃園町を歩きました。最晩年の昭和29年(1954)以降、外出もままならなくなった光太郎が貸しアトリエの大家さんだった中西利雄夫人に託した膨大な買い物などを頼むメモが残されていて、その中に下記の地図が含まれています。通常の地図と同じく北が上、右上の方が中野駅方面で、左下の「中西」と書いてあるところがアトリエです。
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現代の地図では下記の紫の枠内、左下の☆がアトリエです。
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およそ70年経って、書かれている様々なお店がどうなっているのか、地図を片手に歩いてみました。先月、「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」を拝見した折にも歩きましたが、その際は光太郎の書いた地図については失念していました。

さて、まず地図右上の「薬局」。瀟洒な会計学院の建物になっていました。
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昭和27年(1952)に中野に移ってから、常に健康を害していた光太郎。様々な薬品の購入を中西夫人に託しましたが、おそらくここで買われたものが多かったはず。
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薬局のはす向かいに「豆腐屋」。おそらくこちらが元は豆腐屋さんだったのではないかというお店(左下)。古民家カフェになっていました。
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右上は光太郎の地図で「果物」と書かれているお店。こちらのみ、光太郎の地図と同じ業種で存続していました。ただし、建物は建て替わっています。

そのお隣は光太郎の地図では「魚ヤ」ですが、現在はリサイクル着物店。光太郎メモに最も頻出する「神田屋肉屋」と「八百屋」、さらには「スワン」(洋品店だったそうです)、「松屋酒屋」、「時計屋」はまったく痕跡がありません。普通の民家になっていたりでした。
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そのあたりに古そうな和菓子屋さんがあったので、聞き込み調査をしましたが、こちらのお店は創業60年程だそうで、光太郎が居た70年前には未だ開業していなかったとのこと。
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光太郎地図で「フミヤ」となっているところは、現在はコンビニに。
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やはり70年という時間の経過を感じざるを得ませんでした。

逆に、光太郎の書いた地図やメモには記載がありませんが、古いものも。

公民館的な。
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それから、戦争遺跡と言えるでしょう。戦時中の昭和18年(1943)建立の石碑。
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ついでですので、中西アトリエにも行きました。
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PXL_20240710_084151737とにかくこの建物は残さにゃいかん、と、決意を新たに致しました。

その後、中野駅北口に回り、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合会場のスマイル中野さんへ。

代表の渡辺えりさん、実務の中心の曽我貢誠氏のもと、現状報告やら今後の活動についてやらのもろもろ。

会のメンバーその他があちこちでお願いしている保存に賛同するという署名はおよそ1,200名分集まったそうです。海外からも届けられているとのことで、感謝に堪えません。

今後、アトリエの所有者である中西家の意向確認、それから関係団体との交渉など、まだまだ課題が山積の状況です。
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署名につきましては、まだまだ受付中。このブログサイト内のこちらのリンク、それから下記画像等をご参照の上、ご協力いただければ幸いです。
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また、当方、今後も様々な場所に出没し、行った先々で署名をお願いいたします。そうした際にも快くご協力いただければ幸いに存じます。

さらに、健全な意図の元に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」で活動してみたいという方もウェルカムです。曽我氏までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡に於ける美術工芸学校の創設発足は本年を記念する最も意義ふかき事業と存ぜられます、幸に貴下の如き適任者が当県に居られてその創業の際に之が鞅掌にあたられる事此上なきよろこびです。この有望な岩手の美術工芸をどこまでももり立て育て上げて下さい。岩手は確かに日本のホープです。


昭和23年(1948)4月18日 森口多里宛書簡より 光太郎66歳

戦前から光太郎と交流のあった美術史家・森口は、この年開校した県立美術工芸学校の初代校長に就任しました。岩手で暮らし始めて丸三年近く経った光太郎、「岩手は確かに日本のホープです。」とまで書くようになりました。

一昨日の『福島民報』さん一面コラムです。

あぶくま抄 北帰行

残念なニュースが報じられて久しい。本県から首都圏などに出て行く若者が、入ってくる数を上回っている。いわゆる「転出超過」。女性は顕著で、全国上位のままだ。古里はそんなに魅力に乏しいのか▼首都圏在住の県内出身者(18~34歳)を対象に県が初めて実施した調査で、「福島県に戻る可能性がある」との回答が25%を占めた。4人に1人は多いか、少ないか。両論あろうが、都会へのあこがれと現実との落差に気付き、リセットを考える県人は確かにいるのだろう。高層ビルの乾いた林で思い探すは、懐かしい「ほんとの空」か▼若い世代よ、大いに語れ―。福島市は13日、初の「福島っ子ベース」を市内で開く。高校生から30歳未満が集う。進学、就職、結婚、子育てなどをテーマに、思いの丈を発する。寄せられた声は「市こども計画」に生かされる▼給食や医療費の無償化から、おむつの提供まで、自治体は懸命に「子育てファースト」施策を進める。最後のひと押しは、膝詰めで語り合える仲間がいるかどうかかもしれない。SNSファーストのお付き合いに疲れたならば、訛[なま]り懐かし古里へ。ほんとの空は翼を広げ、都会からの北帰行を誘っている。

コロナ禍の頃は東京一極集中が見直され、リモートワークであれば地方でも、と、地方へのUターンやIターンが話題となりましたが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でしょうか、またしても「転出超過」、光太郎が(智恵子が)謳った「ほんとの空」のある福島も例外ではないようで……。
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 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ、
 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。

詩の執筆は昭和3年(1928)5月11日、翌月、尾崎喜八らと一緒に出していた雑誌『東方』に発表されました。この年、智恵子は43歳(数え年です。以下同じ)。故郷の空に思いを馳せる、というと、やはりある程度の年齢になってからが多いのでしょうか。

明治40年(1910)に日本女子大学校を卒業した後、実家の反対を押し切って福島には帰らず、油絵画家として成功することを夢見ていた20代の頃は、「ほんとの空」を懐かしむ余裕もなく、がむしゃらに突っ走っていたのかも知れません。

大正3年(1914)、29歳で光太郎と結婚し(結婚披露は行ったものの入籍しない事実婚でした)、画家として行き詰まりを感じるようになると、「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎いた。」(光太郎「智恵子の半生」昭和15年=1940)。

しかし、恐慌のあおりや、父の死後、あとを継いだ弟の不行跡で実家の造り酒屋・長沼酒店はどんどん傾き、「あどけない話」が書かれた前日には、不動産登記簿によると長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けています。光太郎がこうした事情を知らなかったとは考えにくく、その苦悩を「あどけない話」で暗示しているのでしょう。ちなみに翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、家族は離散、智恵子は帰るべき故郷と「ほんとの空」を失います。

それが決定打となって、心の病がどんどん昂進していったのでしょう。誰の目にも智恵子の異状が明らかになったのは光太郎の三陸旅行中の昭和6年(1931)、智恵子46歳の時からと言われますが、夫妻と親しかった深尾須磨子の回想などによれば、それ以前のかなり早い段階から、智恵子には異様な行動やつじつまの合わない発言が見られていたそうです。

現代の人々にも、「ほんとの空」が失われないうちに、それぞれの「ほんとの空」のある場所へと「帰行」するのも一つの選択肢だよ、と言いたいところですね。

ちなみに最近、自宅兼事務所近くでこんな看板を見付けました。
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月極駐車場の看板ですが(笑)。
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以前に同様の画像が旧ツイッターにたびたび投稿されていて、「智恵子さん、東京にも空がありますよ」みたいなツイート。それを見て、自分でもこの手の看板を見付けたいものだと思い、主に都内に出た時に注意していたのですが、自分のテリトリーで見付けてしまいました(笑)。

自分もUターン組でして、都内や東京近郊に住んでいた頃には、あまり「空」を意識していませんでしたが、田舎に引っ込み、ある程度年齢を重ね、さらに智恵子の「ほんとの空」への思いなどにも触れると、都会には無いきれいな空が拝める幸せを感じるようになりました。
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戦後になって、花巻郊外旧太田村に隠棲した光太郎も、同じようなことを感じていたような気がします。

ところで、今日は『福島民報』さんから引用させていただきましたが、やはり最近、ある全国紙の読書欄でも「福島」「智恵子抄」といった紹介が為されました。しかし、それを書いているのが、とにかく批判ありきの薄っぺらなセンセイですので、黙殺させていただきます。記事が載ったのに気づいてないの? と言われるのも癪なので弁明しますが、そのセンセイ、事実確認もろくすっぽせずにあっちにもこっちにも噛みついてばかりのどうしようもない方ですので(かえって辛口だからともてはやされているようです)、紹介する価値を見いだせません。内容的にも「内容が無いよう」でした(笑)。過去にはこのブログでも、そういう方だと知らなかった頃の新聞寄稿を一度だけ紹介してしまいましたが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

まだ当分は山に引き籠つてゐて上京はせぬつもりで居ります。今日の不合理な旅をするのもイヤですし、東京の空気を考へると泥水の中へ行くやうな気がして気がすすみません。


昭和23年(1948)4月18日 西出大三宛書簡より 光太郎66歳

都民の皆さん、気を悪くなさらないで下さいね(笑)。

光太郎と交流のあった鬼才の画家・村山槐多をモチーフとし、昨年封切られたた映画「火だるま槐多よ」タイトルは光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)で使われている句です。公式パンフには詩の全文が掲載されていました。
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今月、Blu-rayディスクの販売が始まり、早速購入しました。

火だるま槐多よ

2024年7月3日 
発売・販売元 : 渋谷プロダクション/スタンス・カンパニー
販売代理 : オデッサ・エンタテインメント
定 価 : 4,800円+税
<Blu-ray仕様> カラー/本編102分+特典映像/アメリカンビスタ/音声:日本語/DTS-HDマスターオーディオ5.1ch/25GB


★監督・佐藤寿保&脚本・夢野史郎のゴールデンコンビ最新作!
天才“村山槐多”に取り憑かれた若者たちを描くエンタテインメント作品!
本作は、22歳で夭逝した天才画家であり詩人の村山槐多(1896~1919)の作品に魅せられ取り憑かれた現代の若者たちが、槐多の作品を彼ら独自の解釈で表現し再生させ、時代の突破を試みるアヴァンギャルド・エンタテインメント。タイトルの由来は、槐多の友人・高村光太郎の詩「強くて悲しい火だるま槐多」である。


CAST 遊屋慎太郎 佐藤里穂 工藤景 涼田麗乃 八田拳 佐月絵美 佐野史郎
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昨年暮れに劇場公開を観てから、約半年ぶりに拝見。
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随所に槐多の絵や詩が効果的に使われています。
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ラストには光太郎詩「村山槐多」も一部引用。
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背景は雑司ヶ谷霊園にある槐多の墓です。

ちなみに本編ではない特典映像中のメイキング部分には、クランクイン前に佐藤監督らが墓参をした様子なども。

というわけで、Blu-rayディスク、ぜひお買い求め下さい。また、U-NEXTさんでの配信も始まっていますので、どうぞ。

ただし「アヴァンギャルド・エンタテインメント」と謳われている通り、R指定はないものの、それに近い内容です。ご試聴には十分注意なさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

学校の校規等今日拝受、興味ふかき事に存じ、学校のよき進展を心から望んで居ります。小生美の世界に於いても岩手の人々に期待する事大です。

昭和23年(1948)4月15日 佐々木一郎宛て書簡より 光太郎66歳

「学校」はこの年開校となった岩手県立美術工芸学校。光太郎は名誉教授に就任して欲しいという要請は断りましたが、何度も足を運んで講演をしたり、作品展を観たりといった援助は惜しみませんでした。

朗読などでヴォイスパフォーマーと自称なさっている荒井真澄さん、箏曲奏者の元井美智子さんのお二人がコラボなさる公演が、東北地方で3件開催されます。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。

① 夏、花巻で奏であう 光太郎、賢治、箏と声

期 日 : 2024年7月18日(木)
会 場 : 賢治の広場 ハナマルカフェ 岩手県花巻市上町3-4 岩田ビル 1F
時 間 : 14:00~
料 金 : 無料 (要1ドリンク以上の注文)

プログラム
 高村光太郎「智恵子抄」より
  人類の泉、もしも智恵子が、メトロポオル など
 宮沢賢治作品より
  注文の多い料理店・序、星めぐりの歌 など
 箏曲ソロ演奏
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翌日には、荒井さんの本拠地・仙台で。

② 旅するお箏 となりのえんがわdeコンサート

期 日 : 2024年7月19日(金)
会 場 : となりのえんがわ 宮城県仙台市宮城野区銀杏町4-29 宮城野納豆製造所敷地内
時 間 : 13:00~ 12:30~(当初予定から変更だそうです)
料 金 : 1,000円

プログラム
 高村光太郎「智恵子抄」より
 箏曲演奏
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そして翌週、再び仙台で。

③ 夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄

期 日 : 2024年7月23日(火)
会 場 : Antique & Cafe TiTi 宮城県仙台市宮城野区鉄砲町中5-8
時 間 : 11:00~
料 金 : 1,500円

プログラム
 お箏の調べ 春の海、夜空へ など
 高村光太郎「智恵子抄」より レモン哀歌、人類の泉 など

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以前から賢治作品や「智恵子抄」系の朗読を繰り返しなさっていて、当会主催の連翹忌ご常連の荒井真澄さん。昨年、横浜で開催された「元井美智子自作自演コンサート2023」で、「智恵子抄」から「あどけない話」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」を、箏の調べに乗せて朗読なさった元井美智子さん。

元井さんが今年の連翹忌に初めてご参加下さり、ご常連の荒井さんと意気投合、コラボ公演開催の運びとなりました。

③→①→②の順で開催が決まったそうです。はじめ、③のみの予定だったのが、リハーサルも兼ねて花巻でもやりたい、ということになり、彼の地で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんのお骨折りで賢治の広場さんを借りられることとなって①が、さらに③があっという間に予約満席だそうで、追加公演として②が、それぞれ実現することに。

ところで元井さん、やはり連翹忌ご常連のテルミン奏者・大西ようこさんにも目をつけられ(ここの助動詞「られ」は「尊敬」ではなく「受身」の用法です(笑))、9月には大西さんの運営されている逗子のテルミンミュージアムさんで、箏曲とテルミンのコラボコンサートもなさるとのこと。ちなみにテルミンミュージアムさんと大西さん、7月6日(土)にテレビ東京さん系でオンエアがあった「モヤモヤさまぁ~ず2 【逗子・葉山】石原裕次郎さん生誕90年記念 一心同体!ろくなもんじゃない90分弱SP」にご出演。笑わせていただきました。
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さらには大西さん、今月初めには、荒井さんもご参加なさった千葉市川アトリエカフェ赤毛のアンさんでの「赤毛のアンの輪読会」でもテルミン演奏と、ご自身も朗読をなさったそうです。
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以前にも書きましたが、連翹忌、光太郎を偲ぶというのがメインの開催趣旨ですが、こうして人々の輪を広げていくことも目的の一つと言えるかな、と思っております。

さて、それぞれの公演、ご都合の付くところで足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

岩手の山で見る星の大きさは東京で見る星の二倍ぐらゐに思はれます。金星や、木星の光のつよさにびつくりします。


昭和23年(1948)4月12日 髙村規宛書簡より 光太郎66歳

実際、現代でもそれに近いのでしょうし、夜はほとんど真っ暗だった花巻郊外旧太田村、まさにそうだったのでしょう。また、賢治が「銀河鉄道の夜」などを着想したのも、花巻の美しい夜空あってこそだったはずですね。

昨日、福島県小野町さんで今年3月に刊行された『マンガふるさとの偉人 今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』についてご紹介しました。

「マンガふるさとの偉人」シリーズはB&G財団さんの助成により進められていて、7月1日(月)、他の自治体さん等で今年刊行された分、全40作品のネット上での無料公開が始まったのですが、昨年までに刊行された作品についても、今年4月から無料公開が為されていました。トータル百数十作品ほどになっているようです。
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そこで、昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんが刊行なさった、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』も無料公開されています。数ヶ所に光太郎が登場します。
また、同じく岡山県の井原市さんでは、同市出身の彫刻家にして光太郎の父・光雲門下の平櫛田中。題して「107歳の生涯を木彫に捧げた彫刻家 平櫛田中」。
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田中の終焉の地、東京都小平市さんでは、B&G財団さんの助成による「マンガふるさとの偉人」シリーズではなく、独自に『田中彫刻記』という同様の漫画を刊行なさいました。ご執筆は市職員の方だそうで。それが評判ということで、田中の出身地・井原市さんでも……ということでしょうか。

その他、光太郎とも親しかった北原白秋(熊本県南関町)、光雲を東京美術学校に招聘した岡倉天心(茨城県北茨城市)などもありますが、残念ながら光太郎や光雲は登場していないようでした。

B&G財団さんのサイトを見ると、このシリーズ、教育現場等での活用もかなり為されているようです。
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学校さんだけでなく、社会教育的な分野でも。
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全国の自治体さん、ご参考までに。

しかし「では、わが街でも××××のマンガを」となった場合、いろいろ難しい点もあるかと存じます。第一に人選。郷土の偉人としてその街で既に確たる地位が出来上がっている人物について、改めて取り上げても仕方がないでしょう。例えば花巻で宮沢賢治を、などというのは今更感がぬぐえません。実際、花巻市さんでは北海道大学総長などを務めた佐藤昌介が選ばれています。

それから、基本的に一人の人物が対象ですので(例外的に兄弟や夫妻で、という作品もありますが)、「何で××××が選ばれて、○○○○は採用されないんだ」というような、「あちら立てればこちらが立たず」というようなトラブルも無いとは言い切れません。

また、出身地と拠点にした場所や終焉の地が異なるという人物も多いので、どの自治体がその人物を取り上げるか(基本的に一人一作品でしょうから)といった部分も難しいでしょう。北原白秋など、てっきり福岡県柳川市さんだろうと思っていたら、さにあらず。出身地の熊本県南関町さんでした。平櫛田中の場合は前述の通り、後半生の拠点にし、終焉の地ともなった東京都小平市さんで既に独自で漫画を作成していたので、B&Gさんの助成による方は出身地の岡山県井原市で、と、すんなり行ったようですが。

そうしたもろもろがクリア出来るのであれば、実に効果的な取り組みだと思います。繰り返しますが、全国の自治体さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

此頃の酒はあぶなくて、「明星」の歌人として知られてゐた平野万里といふ人は先般急死しましたが、此頃になつて死んだのはヤミ酒のメチール中毒だといふ事の報告をうけ驚きました。メチールなどで死んだと思ふと気の毒でもありながら又一方何だかイヤシイやうな気がして尊敬出来なくなつて困ります。

昭和23年(1948)4月2日 宮崎春子宛書簡より 光太郎66歳

ヤミ酒のメチール」はいわゆる「バクダン」。メチルアルコールを使った粗悪な密造酒です。人間、死に様も大事ですね。

B&G財団さんが助成を行い、全国で刊行され続けている「マンガふるさとの偉人」シリーズ。昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんで、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』を刊行なさいました。

数ヶ所で光太郎が登場していました。
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今年、同じシリーズで、福島県小野町さんが、『今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』を刊行。丘灯至夫は作詞家。舟木一夫さんが歌った遠藤実作曲「高校三年生」、古関裕而作曲の「長崎の鐘」や「高原列車は行く」、さらにはアニソンで「ハクション大魔王」、「みなしごハッチ」などの作詞も手がけるなど、幅広く活躍しました。

そして昭和39年(1964)には、二代目コロムビア・ローズさんの歌唱になる「智恵子抄」がリリースされ、それなりにヒットしました。

智恵子の故郷・二本松にもほど近い小野町さんでの刊行なので、「智恵子抄」がらみのエピソードも紹介されているだろう、あわよくば現物をゲット出来ないものかと、今年5月、二本松に行った際に、小野町のふるさと文化の館内に併設された丘灯至夫記念館さんに立ち寄りました。予想通り「智恵子抄」が世に出る経緯が描かれていたものの、残念ながら販売はなされていませんで、コピーも不可ということでしたが、8月頃にはネット上で無料公開されるという情報を得ました。

しかし8月にではなく、前倒しで7月1日(月)から無料公開が開始されました。
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「智恵子抄」に関してはこんな感じ。最初からすんなりとはいかなかったそうです。
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当会の祖・草野心平が登場。当時、心平は高村光太郎記念会のメンバーでしたので、丘は心平を通して作品化の許可を取ろうとしたわけです。すると心平、「先ずこの酒を飲め」(笑)。無茶苦茶ですね。

過日も書きましたが、この頃、高村光太郎記念会としては、花巻の「一億の号泣」詩碑の問題「智恵子抄裁判」のゴタゴタなどで、神経を尖らせていましたので、むべなるかなですが。

それから、「高校三年生」や「智恵子抄」のヒットを受けての小野町凱旋公演。

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その他、丘の一生、興味深く拝読しました。当初、詩人を目指していた頃の西条八十や、のちに作詞家となってからの古関裕而や舟木一夫さんらとの出会い、数々のヒット曲制作の裏側など。

メインタイトルが「小さな巨人」となっていますが、大正6年(1917)、未熟児として生まれ、生涯病弱で、身体も小さかった(身長150㌢チほど、体重約33㌔、足のサイズは22㌢~23㌢)ことが由来です。そのため、日中戦争の始まった頃には一度は兵役免除になりましたが、太平洋戦争が激化した昭和18年(1943)には応召されました。そして虚弱な丘を何くれとなくかばってくれたりした戦友は戦死……。そうした経験が「長崎の鐘」などにも繋がっていくと思われます。

それからサブタイトルは「今も愛される名作を生んだ作詩家」。「作詞家」ではなく「作詩家」です。そこにはじめ西条八十に師事した丘のこだわりがあったのでしょう。

ちなみに来週、BSテレ東さんで「智恵子抄」が流れます。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年7月10日(水) 17:56〜19:00 放送時間 64分

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

 「大江戸出世小唄」合田道人/「東京音頭」香西かおり/「東京ラプソディ」大川栄策
「九段の母」塩まさる/「東京ブルース」淡谷のり子/「夢淡き東京」ボニージャックス
「東京の屋根の下」貴津章/「東京ブギウギ」森サカエ/「君の名は」青山和子
「東京ティティナ」生田恵子/「東京だより」三船浩/
「東京のバスガール」初代コロムビアローズ/「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「東京ドドンパ娘」渡辺マリ/「東京五輪音頭」福田こうへい/「あゝ上野駅」松原健之
「新宿そだち」津山洋子、高樹一郎

<司会>合田道人
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過去映像によるものですね。「智恵子抄」、どういう歌だかよくご存じないという方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

雪の下から葱が出てきて立ち上がりました。タンカルのおかげで農家であきらめてゐるハウレン草がもう食べられるほど育つてゐます。


昭和23年(1948)4月2日 宮沢清六宛書簡より 光太郎66歳

「タンカル」は、かつて宮沢賢治が推奨していた肥料・炭酸カルシウムですね。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第59回天山祭り

期 日 : 2024年7月13日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~11時35分
料 金 : 500円

「天山祭り」は、名誉村民となった詩人・草野心平が自身の3000冊もの蔵書を寄贈したことで、村の人たちによって贈られた「天山文庫」の落成を記念して始まりました。心平自身、この祭りが好きで、食べて飲んで、語り合い、住民や親交のあった人たちとの交流を時を忘れるほど楽しんだそうです。 現在もゆかりのあった人々が、心平の詩の朗読や、三匹獅子舞などの郷土芸能などを楽しみながら、心平を偲ぶ祭りとして毎年7月第2土曜に開催されています。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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心平は隣接するいわき市の出身ですが、川内村の名誉村民に認定していただいております。そもそもは昭和24年(1949)、蛙をこよなく愛した心平の「モリアオガエルを見たい」という発言に、村の長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルの棲む平伏沼(へぶすぬま)が村にあるので来てほしいと手紙を出して招いたことに始まります。心平の川内村訪問は4年後の昭和28年(1953)が最初でした。

村ではその後も訪れ続ける心平のために、昭和41年(1966)、別荘を建てて下さいました。それが天山祭り会場ともなっている天山文庫です。設立準備委員には、光太郎実弟で心平と昵懇の間柄だった豊周も名を連ねました。

その落成記念を兼ねて始まったのが天山祭り。以後、心平は出来る限り参加を続け、村人達と楽しいひとときを過ごしました。
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そして心平没後は、心平を祀る意味合いも付与して続き、さらに東日本大震災による福島第一原発の事故で余儀なくされた全村避難の解除後は、震災からの復興を確認するという目的も加わっています。

昨年の第58回は、光太郎生誕140周年ということもあり、当方に講演の依頼があって、べしゃくって参りました。主に最近見付けた心平と光太郎のエピソードの紹介でした。心平には『わが光太郎』(昭和44年=1969)という著書があり、光太郎と過ごした日々が色々と語られていますが、それも「余すところ無く」というわけではなく、調べれば調べるほど同書には割愛されている「こんなこともあったのか」の連続でして。

今年はいち聴衆として参加します。みなさまもぜひどうぞ。

ところで心平ついでにもう1件。いわき市の草野心平記念文学館さんから、先月末まで開催されていた企画展示「草野心平の旅 所々方々」の図録が送られてきました。多謝。心平がその生涯に、どんなところにどういう目的で旅をしたのか、という視点からの企画展で、留学や戦争の関係で長期滞在した中国をはじめとする海外、そして北は北海道から南は沖縄までの国内ほぼ全域(なぜか四国へは行く機会がなかったようですが)。

「あまり光太郎とは関わらない展示だろう」と思って、足を運びませんでしたが、十和田湖だけは光太郎とのからみが少し紹介されていました。
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昭和28年(1953)に除幕された光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の関係で、心平はその建設在京委員の一人でしたし、昭和27年(1952)の光太郎の十和田湖下見旅行や翌年の除幕式に同行しています。そして中野の貸しアトリエで像の制作に当たっていた光太郎を物心両面から支援もしました。

下記は図録には載っていませんが、除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。
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図録はオールカラーですが、全8ページの簡易的なもの。ご入用の方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

庭でもうぐいすが啼いてゐるとの事ですが、こちらの山の中ではまだ雪が消えず、少しづつ降つてゐます。鳥はセキレイ、キツツキ、ヤマバトなどが今はないてゐます。

昭和23年(1948) 高村珊子宛書簡より 光太郎66歳

故・珊子さんは昨日ご紹介した書簡の高村美津枝さんと姉妹。同じ日に姉妹それぞれに別々に葉書を出しました。文面で姉妹からの来翰に対する返信とわかりますが、それぞれに別々に返信するあたり、愛を感じますね(笑)。

ちなみに当方自宅兼事務所は千葉の田舎で、このブログを書いているたった今も、裏山ではウグイス、ホトトギス、その他名も知らぬ鳥の声(夜はフクロウ系)。さらに4、5日前から蟬も鳴き始めています。

東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、建立の中心メンバーだった元中学生と先生が、高知県の学校さんで特別授業という件。6月14日(金)には、いの町の伊野中学校さんで行われたことをご紹介しましたが、翌日、同県東洋町の中学校さんでも同様の防災授業を実施なさいました。

ミヤギテレビさんのローカルニュース。

<高知県で防災の講演>『震災』の教訓伝える<いのちの石碑>活動した宮城の中学校卒業生 『南海トラフ』の津波から命を守るためにー

『東日本大震災』後、宮城・女川町で避難の教訓を伝える<いのちの石碑>を建てる活動を行った中学校の卒業生が、高知県の中学校で防災の講演を行った。
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『南海トラフ』の津波から命を守るためにー。伝えたのは日ごろの備えと地域の絆づくりだ。

 宮城県から800キロ以上離れた高知県東部、徳島県との県境にある東洋町。海からすぐ近くにある全校生徒17人の甲浦中学校に、6月 震災の教訓を伝えるため宮城県から訪れた人がいる。
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 女川町出身・伊藤唯さん
「こんにちは。さっき紹介してもらいました伊藤唯と申します。よろしくお願いします」
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女川町出身の伊藤唯さんと、震災当時 女川町の中学校教員だった阿部一彦さん。

甲浦中学校の教員が防災研修で去年女川町を訪れた縁で、伊藤さんと阿部さんは地域の防災を考える講演会に招かれた。
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「机の下に潜ったんだけれど、揺れがすごいの。しがみついているのも必死だし、状況が理解できなくて。高台にある総合体育館に避難して、その時に津波を見たんだけれど、生き延びた後なんていったらいいかわからないけれど、必死だったので、何かを考えて行動することができない」
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『東日本大震災』の津波で、宮城・女川町は800人以上が犠牲となり、町は壊滅的な被害を受けた。
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一方の、高知・東洋町は『南海トラフ』の最大クラスの地震が発生した場合、5分後には最初の津波が到達し、最大19メートルの浸水想定となっている。
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津波避難タワーの建設など対策が進められているが、高知県の被害想定では東洋町の津波による犠牲者は人口の半分近く、1000人にのぼると推計されている。
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伊藤さんは、震災直後に入学した中学校で同級生と一緒に命を守る防災活動を行った。

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「1・絆を深める、 2・高台に避難できるまちづくり、 3・記録に残す。3つの対策を考えました」
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避難の教訓を、記録として1000年後まで伝えたい。
生徒自ら募金活動を行い、女川町の各浜の最高津波到達地点より高い場所に避難の目印として<いのちの石碑>を建てる活動を行った。
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女川1000年後のいのちを守る会 阿部一彦さん
「一番知っているのは、住んでいるみなさんなんです。自分たちの感覚で、こうしたいと言って絆とか高台とか記憶に残すことをやった。みなさんには、また別のやり方がある」

甲浦中学校では、大きな地震がきたら徒歩で10分ほどの小学校の裏山へ避難する計画だ。
津波到達まで時間が限られる中での避難行動。

震災当時の体験を聞いて、生徒たちは命を守るため自分たちにできることを考えた。

甲浦中学校の生徒
「地域の人と絆を深めて、どうすればいい?もし災害が起きて絆を深めていたら避難しやすいし…」
「(運動会などで)誰でも高齢者でも遊べるボッチャとかそういうゲームをしたらいい」
「高台に避難できるまちづくりをしたい」
「地域との交流活動をもっと増やして、もし災害が起きて避難した後も、交流があって助けてくれたりストレスが減ったらいいと思いました」
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生徒たちが考えたのは、地域の人と一緒に避難するための日ごろからの絆づくりだった。

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「いま私がやっているのは、みんなもやってほしいんだけれど、家族の安否がわからなくて3日も4日もわからないと、いろんなことを考えます。私は、今東京に住んでいるんだけれど、家族と離れているので、毎日連絡をとって明日どこにいるの、明日何をしているとか確認するようにしている。それを知っていると災害が起きた時に、今あそこにいると言っていたから大丈夫だなとかわかって安心できる」
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もしもに備えて日頃からできることをー。宮城・女川町から高知へ伝える教訓だ。

甲浦中学校 鶴和節子校長
「自分一人でできることは限りがある。まわりのひと、きょう来ている保護者の方、行政の方、地域のみなさんと一緒に進めたい」
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甲浦中学校 生松莉子さん
「自分の想像しているより地震がきたらつらいんだと思った。まだ家具の固定とか、夜地震が起こったときの対策もあまりしていないので、横にすぐ逃げられるように、靴を置いたりしておくとか対策をもっとしておきたい」

宮城・女川町の高台で津波避難の教訓を伝える<いのちの石碑>。
教訓が、全国の人の心の中に刻まれるように、これからも伝え続ける。
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女川1000年後のいのちを守る会 阿部一彦さん
「命は大事だよということは、もちろんだけれど、自分でやってみよう、何かできるのではと少しでも思ってもらえればそれでいい」

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「震災のこと、防災のこと、学ぶことを楽しんでもらえればいいと思う。一歩踏み出す勇気、自分にもなにかできるんじゃないかと思ってほしかった。実行してもらえれば嬉しい」

遠く高知まで出向かれてお話しをなさったお二人には頭が下がりますし、予想される南海トラフ地震に向けて対策を取ろうとされている高知県の学校さんも素晴らしいと思います。

ただ、ひっかかったのは、「高知県の被害想定では東洋町の津波による犠牲者は人口の半分近く、1000人にのぼると推計されている」という一節。言葉尻をとらえるわけではありませんが、「事前の対策が不十分であれば」的な但し書きを附け、「犠牲者ゼロを目指して万全の対策を行う」といった方向性でなければいけないのではないでしょうか。「言われなくてもやってるよ」ということかもしれませんが……。

こうした動きが全国に広まって欲しいものだと、改めて思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

鶏が卵を抱いてゐる由、たのしみでせう。こちらの山の中では鶏をかつても皆狐にとられてしまひます。狐は夜来てうまくとつてゆきます。


昭和23年(948)3月28日 高村美津枝宛書簡より 光太郎66歳

駒込林町の光太郎実家で暮らす令姪に送ったはがきから。まだ食糧事情の不安定だった昭和23年(1948)当時、都内の屋敷町でも鶏を飼うなどしていたのですね。光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村では養鶏は不可能という理由、なるほどね、という感じでした。

都内の古書籍商の皆さんで作る明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼、入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。「日本最大の古書市」という触れ込みで長年続いています。今年で第59回だそうです。

出品物を手にとって見られる「一般下見展観」が下記の要領で行われます。

令和6年 第59回 七夕古書大入札会一般下見展観

期 日 : 2024年7月5日(金)・7月6日(土)
会 場 : 東京古書会館 東京都千代田区神田小川町3-22
時 間 : 7/5 10:00~18:00  7/6 10:00~17:00
料 金 : 無料
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コロナ禍前までは確かに「日本最大の古書市」というに相応しい活況でした。令和2年(2020)にパンデミック対応で中止、翌年には大幅に規模を縮小して再開、令和4年(2022)からシステム的には旧に復したのですが、その年と昨年と、出品点数はコロナ禍前から比べると半減に近くなりました。今年もそれに近いようです。

光太郎がらみの出品物は、2点。かつては5~6点は必ず出ていた感じでしたが。まぁ、昨年はゼロでしたので、それに比べれば……とは思います。

戦後の色紙揮毫が1点。
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短歌で「吾山になか(が)れてやまぬ山みつ(づ)のやみかたくして道はゆくなり」。昭和24年(1949)前後のもので、複数の揮毫例が確認できているものです。「ま」を「万」、「み」を「ミ」と変体仮名的な文字の選択にする、光太郎書の特徴がよく表れています。

余談ですが、「み」を「ミ」と書くため、「美しきものミつ」と書かれた短句を「美しきもの三つ」と誤読し、「三つとは、第一に○○、二番目に××で……」と噴飯ものの解釈が為されていたりして困っています。

書簡五通が一括で。
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姻戚となった詩人の宮崎稔に宛てたもの。おそらく『高村光太郎全集』既収のものです。文面が短い葉書ではなく、封書ですので、これはこれで額装したり、或いは思い切って軸装したりすると味のあるものになりそうな気はしますが。

完全に光太郎のものは以上2点。あとは「おやっ」と思ったのがこちら。
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光太郎が詩部会長を務めていた、戦時中の日本文学報国会関係の印刷物。精査するといろいろ解るような気がしないでもありません。

他に様々な文豪らの肉筆ものや稀覯本のたぐい等々。

一般下見展観では、普段はガラスケース越しにしか目に出来ないこれらを、手に取って見ることが出来ます(色紙は壁に掛けられていて無理かも知れませんが)。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

来年の冬はことによつたら一月から三月一ぱいの三ヶ月間、大沢温泉に下宿しようかと今日考へつきました。温泉でも追々設備が整ふでせうし、それまでには小生にも経済上の余裕がいくらか出来るかと思つてゐます。さうすれば皆さんに御心配をかける事も少く、小生も温泉に温まつて越冬出来れば風邪もまづひかぬでせう。仕事も却つて出来るでせう。電燈もあるし、食事も賄つてもらへば時間が出来ます。四月に小屋へかへつて来て、畑にかかればいいと思ひます。配給品は学校か村の人にたのんで時々とりに来ればいいわけです。


昭和23年(1948)3月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

大沢温泉さんでの冬籠もり、なかなかいい思いつきのようでしたが、実現には至りませんでした。自炊部ではなく食事付きで、となるとやはり経済的に難しかったようです。ただ、昭和26年(1951)には2週間近く滞在したことはありました。

当方も家のことや経済的な部分などまったく考えなくていいのなら、自炊部でいいので大沢温泉さんで暮らしたいと思ったりもしています(笑)。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通して光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが、「こうたろうカフェ」として不定期に出店なさっている同市東和町のワンデイシェフの大食堂さん。日替わりで様々な団体さん(個人も?)がキッチンを使って料理を饗するというシステムです。

うっかり事前の予告をこのブログで失念してしまっていましたが、先月は25日(火)に出店なさったそうで、その画像をお送り下さいました。
6月ワンデイ
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紫蘇巻トンカツ
人参の白和え・ミズの辛子和え
よもぎ餅・抹茶玄米茶
メニューは「特注タレでいただく紫蘇巻きトンカツ」「ふんわり卵のニラ炒め」「ミズの辛子和え」「新玉と紅鮭のマリネ」「人参の白和え」「きゅうりの浅漬け」「つみれのおすまし」「ゆかりご飯」「黒蜜ときな粉のつきたてヨモギ餅」「お茶」だそうで。これで1,000円ですからお得感も満載ですね。

基本、光太郎の日記などから光太郎が作っていたメニューや使っていた食材などを参考に、現代風にアレンジしてというコンセプトです。山菜のミズは光太郎が暮らした旧太田村の山小屋近く、故・高橋愛子さんのお宅附近で採集された由。

固定ファンがいらっしゃるのでしょう、平日にもかかわらず、ランチタイムに48食分が完売だとのこと。
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今月は13日(土)に出店なさるそうです。

その際のメニュー予定が「自家製サラダチキン」「じゃが芋と牛肉のしぐれ煮」「夏野菜の揚げびたし」「小松菜のじゃこ炒め」「きゃらぶき」「お新香」「ズッキーニの冷製ポタージュ」「黒米ご飯」「フルーツミルク寒天」「コーヒー」だそうです。

ぜひご予約下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日は小生の誕生日だつたので、朝から赤飯を炊いたり、小豆を煮たり、いつかの上等の小麦粉でうまいバタ入り蒸しパンをつくつたりしました。其上折よく昨日新聞の日報社からもらつた一級酒があつたので、それをあたためて炉辺でやりました。山口市の人から揮毫の礼にもらつた下関の「うに」が何よりの肴となりました。


昭和23年(1948)3月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

光太郎、誕生日を迎えて満で65歳となりました(上記に「66歳」としていますが、この項、数え年で表記していますのでずれています)。この日の日記を見ると、夕方、村の娘さんが薬を届けに来たくらいで、他に来訪者はなく、寂しいと云えば寂しい誕生日でした。

それでも自分のためにいろいろ御馳走を作る光太郎、マメですね。もっとも現代のようにお総菜やら弁当やらがそこらで売っているという時代ではありませんでしたが。

6月29日(土)、杉並区阿佐谷の名曲喫茶ヴィオロンさんで開催された 「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」を拝聴して参りました。
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阿佐ヶ谷駅近くの路地に佇むヴィオロンさん、「名曲喫茶」と冠されているだけあって、外装、内装ともにレトロな感じでした。まさに「昭和」。
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片隅で着流しにハンチングの光太郎とロイド眼鏡の草野心平がコーヒーカップを傾けていても、何の違和感もないような(笑)。

藤澤由二氏のピアノ演奏に乗せて、MIHOE氏が歌われたり朗読されたりという構成でした。以前からお二人で、またはゲストの方が入り、この会場で光太郎詩朗読を含む同様の公演が複数回あったのですが、なかなか都合がつかず、今回初めて拝聴することができました。

手書きコピーのプログラム。これもいい感じです。
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午後7時、開演。
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ピアノはYAMAHAさんのアップライトでしたが、おそらくバーチ(樺)の艶出し化粧板タイプ。もしかするとヴィンテージものかも知れません。残響、余韻が美しく、この会場にぴったりでした。
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朗読はMIHOE氏オリジナルの詩、寺山修二、中原中也と来て、我らが光太郎。「智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」と「値ひがたき智恵子」。ともに昭和12年(1937)の『改造』に発表されたもので、連作詩「猛獣篇」中の「よしきり鮫」「マント狒狒」「象」とともに「詩五篇」の総題が付けられていました。心を病んで夢幻界に行ってしまった智恵子もある意味「猛獣」に近い存在だと認識されていたのかも知れません。「千鳥……」では「人間商売さらりとやめて/もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子」、「値ひがたき……」だと「智恵子はもう人間界の切符を持たない」と謳われ、そういう感が見え隠れします。
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さらに朗読は太宰治、宮沢賢治、村上春樹、そして再びMIHOE氏オリジナル。合間に「Sentimental Me」「蘇州夜曲」などの歌唱。
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プログラムを見つつ、取り上げられている人々、ほとんどみんな光太郎と何らかの関わりがあるなぁなどと思って聴いておりました。

寺山は『さかさま文学史 黒髪篇』という著書の中で、「妻・智恵子」の章を設け「智恵子抄」をかなりアイロニカルに論じました。中也は第一詩集『山羊の歌』の題字揮毫・装幀を光太郎に依頼、太宰の実兄・津島文治は光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を依頼、そして光太郎らが世に広めた賢治。「蘇州夜曲」を歌った李香蘭は光太郎の前に中野の貸しアトリエを借りていたイサム・ノグチの妻……。

終演後、お二人とお話しさせていただき、さらに中野アトリエ保存のための署名もしていただきました。ありがたし。

今後とも、お二人のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

霧ヶ浜に遊んだ遠い昔を思ふこと切。あの時怪物のやうに何処までも風にころげてとんでいつた智恵子の日傘は、今思ふと、後年の運命を暗示してゐたやうです。


昭和23年(1948)2月27日 関谷祐規宛書簡より 光太郎66歳

関谷は千葉銚子在住の詩人。光太郎と交流のあった黄瀛(李香蘭の帰国に尽力しました)とも親しい間柄でした。「霧ヶ浜」は現在では「君ヶ浜」と表記されるのが普通ですが、かつては確かに「霧ヶ浜」とも呼ばれていました。銚子犬吠埼の北側に広がる砂浜です。したがって「あの時」は遠く大正元年(1912)晩夏、画を描きに来ていた光太郎を追って智恵子が犬吠に現れ、愛を誓った「あの時」ですね。

このところ上京する機会が多いのですが、今週末も。

まずは六本木の国立新美術館さんで6月26日(水)に開幕した「日本教育書道芸術院 第43回同人書作展」を拝見しました。お世話になっている書家の菊地雪渓氏から「ぜひ足をお運びください」というご案内を頂きまして。
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菊地氏の出展作。杜甫の漢詩ですね。
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その菊地氏、師に当たられる方が光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)を書かれたとのことで、見に来てくれというお話。そういえば昨年、氏を通して「詩の文言はこれでいいのか?」的なレファレンス依頼があったことを思い出しました。「ああ、あの時の……」というわけで。

で、こちらが当該作。
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力強い光太郎詩そのままに雄渾な筆遣いの堂々たる大作でした。

他にも光太郎詩を書いて下さった方が複数。ありがたし。

「葱」(大正15年=1926)。
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光太郎詩の中ではマイナーな作なので、少し解説しますと、立川農事試験場の場長・佐藤信哉から贈られた葱の美しさを題材にした詩です。

佐藤の妻、すみ子(スミ 旧姓・旗野)は、智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在し、スキーや水泳に興じたりました。

「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。
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かなりの長詩ですので抜粋ですね。

詩集『道程』収録作「なまけもの」(明治44年=1911)。
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智恵子と知り合う半年程前、浅草雷門前のカフェよか楼の女給・お梅に入れあげ、通い詰めていた頃の日常が描かれています。

そして云わずと知れた「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。
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ありがとうございました。

古いものでは明治末から、もっとも新しいものでもこの「レモン哀歌」。100年前後経っています。1世紀を経てもまだ光太郎詩が現代人の琴線に触れていると思うと、嬉しい限りです。

7月7日(日)迄の会期です。ぜひ足をお運びください。

明日は阿佐谷の「名曲喫茶ヴィオロン」さんでの「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」の模様をレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

お茶たくさんと和紙、きざみなどいろいろ細かいお心づくしのもの忝く、たのしくいただきました。和紙は昔の雅邦紙のやうに見えるもの、どんな工合のものか、今度筆を染めるのがたのしみです。純粋な半紙も珍重です。


昭和23年(1948)3月6日 多田政介宛書簡より 光太郎66歳

光太郎自身もこの時期、彫刻封印の代わりといっては何ですが、書に強い関心を持ち、数々の優品を生み出しました。

戦後2年半ほど経ち、そろそろ物資不足も解消しつつあったようで、それなりの紙が贈られてきました。「雅邦紙」はその名の通り、画家の橋本雅邦(光太郎の父・光雲と東京美術学校で同僚でした)が愛用した種類の紙です。

戦後間もない頃には揮毫を頼まれてもちゃんとした紙が無く、粗悪なボール紙のようなものを色紙代わりにしていたこともありました。

百貨店さんのイベントを2件。

まずは三越日本橋本店さん。

木の呼吸 ー伝統と革新ー

期 日 : 2024年7月3日(水)~7月8日(月)
会 場 : 日本橋三越本店本館6階美術特選画廊 東京都中央区日本橋室町1-4-1
時 間 : 午前10時~午後7時(最終日は午後5時閉場)
料 金 : 無料

このたび日本橋三越本店では 木の呼吸 伝統と革新 を開催いたします。日本古来より受け継がれてきた伝統的技術「木彫」。自然の中ではぐくまれてきた木々との対話を通し、匂いや木肌を感じ取りながら作家それぞれの卓越した技術により、一つの素材が作品へと昇華されます。本展では近代巨匠作家の秀作から、俊英若手作家の作品 約30余点を展観いたします。
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プレスリリース等で使われているサムネイル画像は現代の作家さんの作品ですが(左・佐藤丹山氏、右・百々謙三氏)、光太郎の父・光雲の作も出展されます。最晩年の昭和7年(1932)作の「鬼はそと福はうち」。今年3月に銀座のギャラリーせいほうさんさんで開催された「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」でも展示されました。それから、同じく山崎朝雲の「仔犬」。
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近代はこの師弟二人ですが、他に現代作家でサムネイルのお二人以外に秋山隆、石川時彦、榎戸項右衛門、木村俊也、澤田志功、下山直紀、丸山達也の各氏。系譜を辿ると光雲や朝雲に連なるという方もいらっしゃるのでしょうか?

もう1件、同様の催しで、そごう千葉店さん。

近代木彫秀作展008

期 日 : 2024年7月2日(火)~7月8日(月)
会 場 : そごう千葉店 千葉市中央区新町1000番地
時 間 : 午前10時~午後8時 最終日は午後4時閉場
料 金 : 無料

近代木彫を代表する彫刻家 高村光雲、平櫛田中や、鎌倉時代の名佛師運慶・快慶の流れをくむ現代の大佛師 松本明慶氏の作品を中心にご紹介いたします。

こちらは先月、そごう大宮店さん、それから先月から今月にかけ、大和百貨店富山店さんで行われたものと同じ業者さんによる巡回のようです。それぞれ光雲の聖徳太子像が出ていました。今回もそうだろうと思われます。

ちなみに令和2年(2020)にも千葉そごうさんで同様の展示即売がありまして、その際は光雲の「孔子像」、「大国主命」、レリーフの「瑞雲」、それから光雲の師・髙村東雲の孫にあたり光雲に師事した髙村晴雲の「釈迦如来像」が出ていました。

光雲の木彫、じっくり見られる機会はあまり多くありません。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

送つて下さつた貴下の小説「塔」をまだ雪に埋まつてゐる小屋の中でいただきました。貴下の小説をよむのははじめてなのでひどくたのしみに思ひます。感謝。
昭和23年(1948)2月23日 福永武彦宛書簡より 光太郎66歳

福永は光太郎を尊敬していたようで、こまめに著書を贈っていました。前年にはボードレールに関する評論を贈っています。また、個人的な悩みの相談もしていたようです。

光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村で開催中の「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」につき、一昨日、NHK盛岡放送局さんが県内向けのローカルニュースでご紹介下さいました。

疎開先の花巻で描く 高村光太郎の草花のスケッチ展示

 詩人で彫刻家の高村光太郎が、疎開先の花巻で描いた花などのスケッチが、花巻市にある「高村光太郎記念館」で展示されています。
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 高村光太郎は1945年、62歳の時に東京のアトリエが空襲で焼け、花巻に疎開して7年間を過ごしました。
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 今回の企画展には光太郎が疎開中に描いた身近な草花のスケッチやスケッチしている最中の写真などが展示されています。
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 このうち湯治に訪れた西鉛温泉で描いたスケッチは、山菜のミズを描いています。昭和20年6月20日という日付ともに、「丈1尺5寸」などと観察したミズの大きさなどもつづっています。
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 今回の展示では「七月一日」と題された散文の直筆の原稿が初めて公開されました。この文章では山菜のミズを朝食のみそ汁に入れて食べたとし、珍味だと記しています。
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 秋田県横手市から訪れたという男性は「緻密な中にもほのぼのとしたスケッチを初めて見ました。自然を愛する心が表れているように思えました」と話していました。
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 東京から訪れたという女性は「光太郎が山野草をスケッチしているのに驚きました。精密に描かれていて感動しました」と話していました。
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 この企画展「山のスケッチ」は「高村光太郎記念館」で来月7日まで、開かれています。
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会期末に近くなってきましたが、かえってこのタイミングで紹介していただくと、「ああ、そんなのやってるんだ。あれ、もうすぐ終わりか、では行ってみよう」というニーズを掘り起こすことになりますので、ありがたいところです。

展覧会詳細情報はこちら

まだ行かれていない方(既に行かれた方もリピーターとして)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」は今年はものになるかと思ひますが「至上律」誌上の印刷では随分ひどい成績でしたが、果して印刷が出来るものでせうか。せめて鉛筆単色でも、その感じが印刷で出ればいいのですが。「花と実」はあくまでたのしい詩集に、「猛獣篇」はきびしい詩集にしたいと思つてゐます。


昭和23年(1948)2月19日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎66歳

「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」に展示されている山野草のスケッチを添えた詩集『花と実』、そして戦前から書きためていた連作詩「猛獣篇」をまとめ、鎌田の経営していた白玉書房から出版する計画がありましたが、いずれも実現しませんでした。

ネット上で情報を見つけました。三重県から朗読の公演情報です。

第3回文色草子朗読ライブ 詩人、四人。 高村光太郎×柴田トヨ 茨木のり子×東君平

期 日 : 2024年6月30日(日)
会 場 : 四日市市立図書館 2階視聴覚ホール 三重県四日市市久保田一丁目2-42
時 間 : 午前10時30分から
料 金 : 無料

文色草子朗読組(あいろぞうしろうどくぐみ)による、大人のための朗読会です。
高村光太郎×柴田トヨ 茨木のり子×東君平 この4人の作品の中から21作品を9人で朗読します。
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フライヤーによれば、光太郎詩は「当然事」(昭和3年=1928)、「象」(昭和12年=937)、「牛」(大正3年=1914)、「人類の泉」(大正2年=1913)、「道程」(大正3年=1914)。まだあるかも知れません。

「詩人、四人。」だそうで、光太郎以外には、満101歳まで現役であらせられた故・柴田トヨ氏、女流詩人の草分けの一人・茨木のり子、絵本作家の故・東君平氏。光太郎とこの3人の作品で、どのような化学反応が起こるかな、という感じですね。

お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ただの来訪なら構はないのですが、こちらに住み込まうといふ意図のあるのがイヤです。他の人の来訪とは性質が違ふので困ります。こんな人に来られてはやりきれず、北海道の奥へでもゆきたくなります。場合によつてはアメリカへ移住するのもいいなどと空想してゐます。

昭和23年(1948)2月16日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

光太郎、ストーカー被害に遭っていました。相手は戦前から知っていた老女。趣味で短歌などを詠んでいたようです。光太郎のアトリエがあった駒込林町に近い根津に住んでいて、そのころはどうということもなかったのですが、戦後、光太郎が花巻郊外旧太田村に隠棲をはじめると、「身の回りの世話をしたい」などと手紙を寄越し、実際に太田村まで押しかけてきたことも。

その被害は昭和27年(1952)、「乙女の像」制作のため太田村を後にして再上京したあとも続いたようです。

智恵子のソウルマウンテン、福島の安達太良山関連で2件。

まず、二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』来月号。5月19日(日)に行われた「第70回安達太良山山開き 絵になる、詩になる、ほんとの空。」について報じています。6月号には間に合わなかったようで。
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NHKさんのローカルニュース、地元紙での報道についてはこちら

続いて、クラウドファンディング。

ほんとの空がある安達太良山の登山道を整備して、安全で快適な登山を楽しんでほしい!

寄付募集期間:2024年4月26日~2024年7月24日(90日間)
目標金額:1,000,000円

寄付金の使い道
・道標修繕費:1,000,000円
※目標金額に達しなくても、本プロジェクトの事業費として全額を活用させていただきます。

【事業実施のスケジュール】
2024年8月~10月:修繕の実施

 安達太良山(1,700m)は、磐梯朝日国立公園の南端に位置し、南北約9キロにわたって連なる安達太良連峰の主峰で、日本百名山・花の百名山の一つに数えられています。
 彫刻家で詩人の高村光太郎の詩集「智恵子抄」に綴られた“ほんとの空”としても知られており、ロープウェイを利用すると約1時間半で山頂に到着するため、登山初級者でも気軽にトレッキングを楽しめる魅力の山です。
 しかし、登山道に設置してある道標は老朽化や風化による損傷が見られます。また、霧の発生や荒天時には、視界不良により登山道から外れてしまうことが心配されます。
 このプロジェクトでは、登山道の道標を整備し、安全で快適な登山道の環境整備に取り組みます。
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多くの登山者に愛される安達太良山(あだたらやま)
 安達太良山は、別名「乳首山(ちちくびやま)」とも呼ばれる標高1700mの山です。
 万葉集にも歌われ、また詩人・彫刻家として有名な高村光太郎は、「阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が、智恵子のほんとの空だといふ」(あどけない話)等を詠み、智恵子のふるさととしても知られています。
 ロープウェイを利用すると約1時間半ほどで山頂に到着するため、登山初心者や家族連れでも気軽にトレッキングを楽しめるのが魅力です。稜線に広がる景色は登山者を魅了します。
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 緑眩しい初夏(6月中旬~下旬)には、鮮やかなオレンジ色の「レンゲツツジ」が映えます。
 7月上旬~下旬には天然記念物(県指定)の「ヤエハクサンシャクナゲ」が登山者の心を和ませます。
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 紅葉の名所としても知られており、特に毎年9月下旬から10月中旬には多くの人で賑わいます。
 明治33年(1900年)の大爆発によってできた巨大な噴火口の「沼ノ平火口」周辺は、荒々しい山肌に囲まれ月世界のような景色が見られます。
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道標を修繕します
 登山者の安全な登山のため、分岐等に道標が設置されていますが、現在設置されている道標の中には、老朽化や風化により劣化が進み十分に機能していないものがあります。
 このような道標を修繕していくことで、霧の発生や荒天時でもしっかり確認できるようにし、より安心して安全に登山を楽しんでいただきたいと思います。
 また、近年増加している外国人観光客にもわかりやすいように、英語表記も記載します。
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二本松市長から皆さまへ011
 日本百名山、花の百名山としても知られる安達太良山は、春から夏には可憐に咲き誇る高山植物、秋には美しい紅葉、冬はスキーと四季折々を通して多くの方に親しまれています。初級者から上級者まで登山を楽しむことができるのも魅力で、登山地図アプリ「YAMAP」の登られた山ランキングでは、3年連続で第1位となっています。
 登山道の整備につきましては、地元自治体をはじめ、地元の山の会やボランティアの皆様の協力により登山道の整備を行っておりますが、登山道の一部や道標には老朽化により傷みが見られます。
 本プロジェクトを通して老朽化の見られる道標を修繕し、登山者の皆様にとって安全で快適な登山環境整備の一助になればと考えております。
 皆様のあたたかいご支援をよろしくお願いいたします。
二本松市長 三保恵一

「ふるさと納税」制度による寄附の受付だそうです。返礼品もいろいろ用意されています。

「ふるさと納税」というと何か書類を色々書いたりでめんどくさいのかな、と思い込んでいたのですが、オンラインでのクレジットカードや各種pay、現金によるコンビニ払いなどもできるようです。

実はまだ寄附していないのですが、検討の上、対応してみようと思っております。皆様も是非よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

今朝は去年八月二十三日に貴下からいただいた練乳の罐をあけ、あの大きい湯呑に紅茶をおいしくいれてのみました。久しぶりの味です。そして貴下を遠く偲びました。

昭和23年(1948)2月10日 田口弘宛書簡より 光太郎66歳

故・田口弘氏は元埼玉県東松山市教育長。この当時は市内の中学校に勤務していました。戦時中に光太郎の知遇を得、南方に出征する際には著書や色紙揮毫を貰って励まされたものの、乗っていた輸送艦が撃沈されて九死に一生。光太郎書などは海の藻屑と消えました。

復員後、花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の元を訪れ、戦時中に書いて貰ったのと同じ文言を揮毫してもらい、家宝としていたとのこと。それらは氏が「終活」の一環として亡くなる前年に東松山市に寄贈、現在、市立図書館さんで公開されています。

それにしても光太郎、あざといですね。「そして貴下を遠く偲びました」などと書かれては、「また何か贈らなきゃ」と思うでしょうから(笑)。

愛知県から演奏会情報です。

藤木大地(カウンターテナー)&佐藤卓史(ピアノ)リサイタル 白鳥の歌/智恵子抄

期 日 : 2024年7月6日(土)
会 場 : 宗次ホール 愛知県名古屋市中区栄4丁目5番14号
時 間 : 14:00~ 
料 金 : 指定席:4,500円(税込)
      ※学生、ハーフ60(後半のみ鑑賞の当日券):2,700円

愛する人の不在をテーマにした『白鳥の歌』と、愛する妻との出会いと別れを綴った『智恵子抄』。「あどけない話」は今回が世界初演です。藤木大地さんの唯一無二の歌声と、美しいディクションをご堪能ください!

出 演 : 藤木大地(カウンターテナー) 佐藤卓史(ピアノ)
曲 目 :
 シューベルト:最晩年の歌曲集「白鳥の歌」とピアノ・ソナタから
 『愛の使い』 Liebesbotschaft D957-1(詩:レルシュタープ)
 『兵士の予感』 Kriegers Ahnung D957-2(詩:レルシュタープ)
 『セレナーデ』 Ständchen D957-4(詩:レルシュタープ)
 ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958~第3楽章 [ピアノソロ]
 『漁師の娘』 Das Fischermädchen D957-10(詩:ハイネ)
 『海辺にて』 Am Meer D957-12(詩:ハイネ)
 『ドッペルゲンガー』 Der Doppelgänger D957-13(詩:ハイネ)
 ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960~第2楽章 [ピアノソロ]
 『鳩の便り』 Die Taubenpost D965A(詩:ザイドル)
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 中田喜直:鳩笛の唄(詩:清水みのる)
 石渡日出夫:汚れっちまった悲しみに(詩:中原中也)
 橋本國彦:お六娘(詩:林柳波)
 橋本國彦:三枚繪 [ピアノソロ]
  1.雨の道
  2.踊子の稽古帰り
  3.夜曲
 佐藤卓史:あどけない話(詩:高村光太郎『智恵子抄』より)[世界初演]
 加藤昌則:レモン哀歌(詩:高村光太郎『智恵子抄』より)
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カウンターテナーの藤木大地氏。昨年あたりから加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」をレパートリーの一つになさっていて、今回を含めあちこちの演奏会で披露なさっています。

こちらで確認できてご紹介したのは以下の通り。
藤木大地&みなとみらいクインテット マチネ(昼公演)/藤木大地&みなとみらいクインテット 「藤木大地&みなとみらいクインテット」ネットワーク・プロジェクト
合唱コンクール課題曲コンサート2023~藤木大地を迎えて~
Hakuju Hall 20周年記念 カウンターテナーの饗宴/藤木大地カウンターテナー・リサイタル
りゅーとぴあ室内楽シリーズNo.49 藤木大地&みなとみらいクインテット/ムジークフェストなら 藤木大地&みなとみらいクインテット

実は今年5月にも「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2024 藤木大地(カウンターテナー)+みなとみらいクインテットによる歌の豊穣〈ORIGINES(オリジン)―すべてはここからはじまった〉」というコンサートがあり、そちらでも加藤氏の「レモン哀歌」が入っていたのですが、こちらは当方が見落としていました。すみません。他にも見落としがあったかも知れません。

そして今回はピアノ演奏を担当される佐藤卓史氏の作曲になる「あどけない話」もプログラムに入っています。初演だそうで。また一つ新たな光太郎がらみの作品が誕生したかと喜ばしく存じます。

いずれ加藤氏の「レモン哀歌」ともども、藤木氏がCDをリリースされて収録され、さらに新曲も……などと勝手な希望を述べておきます(笑)。

さて、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

分教場にラジオが備へられる事になりました。


昭和23年(1948)1月25日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村、光太郎の山小屋にはまだ電線気が通じて居らず、当然、ラジオも聴けませんでしたし、灯りはランプでした。見かねた村人達が翌年、電線の延引工事をしてやりました。山小屋から1㌔㍍ほどの分教場にはさすがに電線が来ていたようですが、ラジオが入ったのがようやくこの頃。隔世の感がありますね。

ちなみに山小屋周辺、携帯の電波は未だに圏外だったりします(笑)。

公益社団法人日本写真家協会さん主催のイベントです。

第4回知っておきたい写真著作権&肖像権セミナー・名古屋

期 日 : 2024年7月6日(土)
会 場 : 電気文化会館 愛知県名古屋市中区栄二丁目2番5号
時 間 : 14:00~16:00 
料 金 : 無料(事前申込制)
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第1部 「写真家が守る著作権とフィルムデジタイズ」
講師:髙村達(写真家/日本写真家協会副会長/日本写真著作権協会理事)
髙村達は髙村光雲の曾孫にあたり髙村家の作品と共に著作権の継承者だが、自身の作品制作と並行しつつ作品鑑定やデジタル化によるアーカイブを進めている。本セミナーでは、高村智恵子の紙絵(オリジナル作品)と、フィルムのデジタルアーカイブの現状、そして経年における作品の退色に対して智恵子がさした色をどう再現するのか、写真原板のデジタル化の重要性をお伝えします。
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第2部「写真著作権とアーカイブ」-日本人写真家が捉えた1960年代のアメリカの日常
講師:棚井文雄(写真家/日本写真著作権協会常務理事/文化庁文化審議会著作権分科会委員)
「写真著作権」を保持すること、作品の利活用のための「アーカイブ」、その重要性を、1960年代アメリカを捉えた渡邊澄晴の作品の発掘から保存までのドキュメントとともに伝える。これらの作品は、1965年に三木淳によって写真集にまとめられ、半世紀を経てデジタルア ーカイブ化された。そのことは、著作権の重要性とともに、2018年に『アサヒカメラ』が見開きで紹介。写真家にとっての 「写真著作権」「アーカイブ」に必要なこととは?具体例とともに紹介します。

というわけで、光太郎実弟にして鋳金分野で人間国宝だった豊周の令孫・髙村達氏が講師としてご登壇。智恵子の紙絵を例にフィルムからのデジタルデータ化などについてお話しされるとのこと。

実は今月、都内で開催された「アート・ドキュメンテーション学会 第35回(2024)年次大会」でも達氏による同様のお話があったようなのですが、そちらは当日になって知った次第で、このブログではご紹介できませんでした。

智恵子の紙絵はその大半が髙村家に保管されており、達氏の父君で、やはり写真家であらせられた故規氏が撮影されたデータも残っています。ただ、そのデータがおそらくフィルムによるアナログデータなのでしょう。それをデジタル化することに関し、その意義、課題といったお話だと思われます。

規氏、智恵子の紙絵以外にも、伯父・光太郎や祖父にあたる光雲の彫刻作品、父・豊周の鋳金作品も撮影、各種展覧会の図録に使われ続けている他、写真集としても刊行されました。
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上画像は規氏ご葬儀の際に祭壇に飾られた三冊。左から『髙村豊周作品集 鋳』(昭和56年=1981 髙村豊周作品集刊行会)、『高村光太郎彫刻全作品』(昭和54年=1979 六耀社)、そして『髙村規全撮影 木彫 髙村光雲』(平成11年=1999 中教出版)。これらに収められた写真のデータ化も、子息の達氏によって進められているのでしょう。

ゆくゆくは彫刻作品等は3Dデータとの作成、しかるべき機関等での保存、そういった方向に進むことを望みます。竹橋の東京国立近代美術館さん等では、そういった取り組みも為されつつあるやに聞きます。下画像は同館インスタグラム、光太郎の親友・荻原守衛の「坑夫」に対しての作業の様子。
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そして今回のお話は、智恵子の紙絵に焦点を絞って。彫刻や鋳金とは違い、劣化の激しい素材を使っての作品でして、実際、二本松市の智恵子記念館さんで所蔵している紙絵はかなり褪色が進んでしまっています。元々が光太郎が智恵子の元に届けた千代紙や包装紙などが原材料ですから、いたしかたありません。

デジタルデータとて万全ではないのでしょうが、補完、保存、といった部分では大きく効力を発揮するでしょう。広く美術関係の皆さんに聴いていただきたい内容です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は日本の経済界が吉凶いづれかに決定しさうに思はれます。破滅も亦よささうです。一切が淘汰されてしまふのも。


昭和23年(1948) 鎌田敬止宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしも2年余りが過ぎ、ある種の「無常観」に包まれつつあるようです。

都内から朗読&ジャズのライブの情報です。

ノスタルジックな世界[]

期 日 : 2024年6月29日(土)
会 場 : 名曲喫茶ヴィオロン 
      東京都杉並区阿佐谷北2-9-5
時 間 : 19:00~
料 金 : 1,000円(1ドリンク付)

出 演 : ピアノ弾き 藤澤由二
      朗読、歌うたい MIHOE

宮沢賢治、中原中也、高村光太郎その他オリジナルなど

藤澤氏のJAZZ演奏 古い蓄音機に囲まれたヴィオロン店内 ノスタルジックな詩とJAZZの世界

お客様一人ひとりがゆったりと思いを馳せる時間 「ノスタルジックな世界」ライブです お待ちしております

MIHOE氏、藤澤由二氏、確認できている限り、一昨年昨年(2回)も同じ会場で光太郎詩を取り上げて下さいました。このスタイルに思い入れがおありなのでしょうし、繰り返しやられるということは好評なのでしょう。

当方、足を運ぶつもりでおります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「ブランデンブルグ」などおよみ下された由、小生の詩感は当然前時代的ですが、生きてゐる以上はそんな事を顧慮してゐる暇もなく、小生は小生なりに自己内面の世界を押し進める外ありません。小生まつたく一人は一人の世界となりましたので、山の中にゐて却つて遠い世界にまで心が解放されたやうな思です。

昭和23年(1948)1月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎66歳

ブランデンブルグ」は前年に書いた詩。この年元日号の雑誌『展望』に発表されました。同じ日の『群像』には「脱卻のうた」(「卻」は「却」の正字)を寄稿しています。

前年、懸案だった自己の生涯や戦争責任を振り返る連作詩「暗愚小伝」20篇を発表し、一つステージが上がったかな、という感じです。003

  脱卻の歌

 廓然無聖と達磨はいつた。
 まことに爽やかな精神の脱卻だが、
 別の世界でこの脱卻をおれも遂げる。
 一切を脱卻すれば無価値にいたる。
 めぐりめぐつて現世がそのまま
 無価値の価値に立ちかへり、
 四次元世界がそこにある。
 絶対不可避の崖つぷちを
 おれは平気で前進する。
 人間の足が乗る以上、
 けつきよく谷川のいっぽん橋も
 ブウルバアルも同じことだ。
 よはひ耳順を越えてから、
 おれはやうやく風に御せる。
 六十五年の生涯に
 絶えずかぶさつてゐたあのものから
 たうとうおれは脱卻した。002
 どんな思念に食ひ入る時でも
 無意識中に潜在してゐた
 あの聖なるもののリビドが落ちた。
 はじめて一人は一人となり、
 天を仰げば天はひろく、
 地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。
 見なほすばかり事物は新鮮、
 なんでもかでも珍奇の泉。
 廓然無聖は達磨の事だが、
 ともかくおれは昨日生まれたもののやうだ。
 白髪の生えた赤んぼが
 岩手の奥の山の小屋で
 甚だ幼稚な単純な
 しかも洗ひざらひな身上で、
 胸のふくらむ不思議な思に
 脱卻の歌を書いてゐる。

国全体、そして光太郎自身も道を踏み誤らせた天皇制の呪縛からの解放、ということになるでしょうか。

右上画像はこの詩の一節を揮毫した書。智恵子の故郷・福島二本松、岳温泉の「あだたらの宿扇や」さんロビーに飾られています。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、中野駅近くのテアトルBONBONさんにて上演中の「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」拝見。

そちらが午後2時開演でしたので、午前中に国会図書館さんに立ち寄りました。このサイトで何度か触れているデジタルコレクションリニューアルに伴う調査が未了でして、同館まで出向かないと引っぱり出せないデータがかなり多く、それらの閲覧です。『高村光太郎全集』等に漏れている光太郎の文章(日夏耿之介著書の書評)、生前の光太郎を知る人々の回想文、弘田龍太郎が戦時中に作曲した「ぼろぼろな駝鳥」の楽譜(レコードは持っていましたが、楽譜は未見でした)などを見つけることが出来ました。

その調査は予想外に時間が掛かり、気がつくと正午を廻っていて、慌てて6階に駆け上がって(実際にはエレベータですが(笑))食堂で「国会図書館カレー」を掻き込み、中野へ。

テアトルBONBONさん、光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中西利雄アトリエと指呼の距離です。中野駅から、おそらく光太郎が何度も歩いたであろう道を通って行きました。
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帰ってから気づいたのですが、中西利雄子息の故・利一郎氏からお借りしてコピーを取らせていただいた、かつて光太郎が氏のお母さま(利雄夫人・富江さん)に託した買い物を頼む膨大なメモの中に、この辺りの地図もあったはず。探してみたところ、ビンゴでした。
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この地図で左上の二股に分かれた道沿い、「時計屋」とある右上辺りが現在のテアトルBONBONさんでしょう。次に中野に行く時は、この地図など(駅北口の地図もありました)を片手に周辺を歩いてみたいと思いました。地図にある店舗、もしくはその名残くらいは現存しているかもしれません。

さて、ちょうど開場時間。
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PXL_20240621_044008043受付後、「夢のれん」さんを主宰なさり、今回の公演の演出も手がけられた大谷恭代氏とお話しさせていただきました。受付の脇にはアトリエ保存のための署名コーナーを設けて下さり、その御礼など。

アトリエ保存会のメンバーに、「夢のれん」さんのご所属ではないのですが、遠藤哲司氏という役者さんがいらっしゃり、「夢のれん」さんの方々とも親しくされているということで、同氏のお骨折りもあってこのような形でご協力を賜りました。まことに感謝に堪えません。5日間、全8回の公演で、多くのご署名が集まることを願って已みません。

客席へ。キャパ120だそうで、平日の昼間でしたがほぼ満席。「夢のれん」さんの固定ファンのような方々が多いのかな、という印象でした。あとはやはり清水邦夫という巨匠の作品である点も大きいのでしょう。


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物語の舞台は昭和11年(1936)の「ゼームス坂教会」。史実でその前年から智恵子が入院していたゼームス坂病院の隣、という設定です。教会の存在はおそらく清水氏の創作でしょう。登場人物は教会の牧師と4人の娘、それから境の塀を乗り越えてやってくる智恵子ら入院患者、そして光太郎や軍人たちなどの外部の人物。ちなみに2.26事件の約2ヶ月後というわけで、憲兵が当たり前に登場します。

智恵子は心を病んで入院しているのですが、これも清水氏の創作で、光太郎は既に死んでいると思い込んでいます。そこで見舞いに来る光太郎をニセモノだと認識。光太郎はそれに戸惑いつつも、話を合わせるという設定。しかし、観ているうちに、智恵子の方が正しいんじゃないか? と思えても来ました。史実では光太郎は存命だったわけですが、智恵子の中の「かつての光太郎」、光太郎自身の思う「あるべき自分」はもはやここには居ない、みたいな。

実際、この時期くらいから光太郎はどんどん変貌していきました。大正末から昭和初期には当会の祖・草野心平らの影響もあってアナキスト系に近い立ち位置だったのが、満州事変、そして今回の物語の舞台の翌年、日中戦争開戦ともなると、どんどん右傾化していきます。「芸術家あるある」の、俗世間とは極力交渉を絶ち、孤高の姿勢を貫くというライフスタイルが智恵子を追い詰め、心の病に至らしめたという反省、そしてそんな生活を続けていては自分もおかしくなるという危惧があったように感じます。そこで自ら積極的に俗世間と交わる方向に梶を切ったところ、世の中の方がおかしな方向に進んでいた、というわけで。

やがて智恵子が亡くなり、手向けの詩集『智恵子抄』刊行後は、光太郎は詩の中で智恵子を謳うことを止めてしまいます。それが復活するのは戦後。その間、詩と言えばほとんど愚にもつかない翼賛詩一辺倒、戦争とは直接関わらない身辺雑記的な詩もわずかに書かれましたが、そこに智恵子が謳われることはありませんでした。

「哄笑」、昭和11年(936)が舞台ですので、そこまで描かれることはありませんでしたが、そういう部分が暗示されているんじゃないかなと思って観ていました。

それから教会の一家、憲兵以外の軍人、入院患者たち、それぞれに苦悩や悔恨などを抱えています。複雑な人間ドラマです。それぞれの役者さんの熱量で、不思議な世界観が存分に表現されていました。特に智恵子役の槇由紀子さんという方、故・松本典子さんが乗り移ったかのような……。といっても当方、松本さんの智恵子を観たわけではないのですが……。
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ちなみに会場では脚本の冊子も販売されています。一部1,500円。河出書房新社さんから刊行された『清水邦夫全仕事 1981~1991』に載っているのですが、絶版となっており入手困難なので貴重です。

公演は明日まで。昨日の段階では残席状況、以下の通り。

 6/22(土)  ◆13:00🔺←あと数席💦
                 ◇18:00⭕️←オススメ🌸
           当日券あり☘️
 6/23(日)  ◇12:00🔺←残少々
                 ◆16:00⭕️←オススメ🌸

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

御書面中小生の現状を羨望し居らるる方々も有之由拝承候処、これは聊か他家の花紅しの類にて、その方々に小生と同じ生活が一ヶ月もつづけられ候や否やは疑問のやうに存ぜられ候へ共果して如何。


昭和23年(1948)1月13日 宮沢政次郎宛書簡より 光太郎66歳

賢治の父・政次郎宛の書簡から。候文を意訳すれば、「御手紙の中に、光太郎の生活っていいなぁ、憧れるよ、などという方々がいるというお話でしたが、「隣の芝生は青い」の例えの通りで、山の暮らしを甘く見ているのでしょう。この暮らしを1ヶ月も続けられるとは到底思えませんが、いかがお考えですか?」といった感じですね。

厳冬期はマイナス20℃、醤油や万年筆のインクが室内で凍り、寝ている頭に隙間から吹き込んだ雪が積もり、メートル単位で雪が積もる、そんな暮らしですから。下の画像はまだ初冬の雪が少ない時期のものです。
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004東日本大震災後、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町で建てられた全21基の「いのちの石碑」。津波対策として避難の目印となるランドマークです。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑に倣い、建設費用は当時の中学生たちが募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。

この活動、令和3年(2021)にオンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、令和元年(2019)にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。その他、防災の観点から、あちこちで紹介されています。

建設の中心メンバーの中には、女川町で毎年8月に開催されている「女川光太郎祭」に複数年参加され、光太郎詩文を朗読して下さった方もいらっしゃいます。

先週の『高知新聞』さん。

自分も、周囲の命も守ろう 「いのちの石碑」建立進める宮城・女川の被災体験者、いの町伊野中で授業

 宮城県女川町で東日本大震災の津波被害の教訓を伝える「いのちの石碑」を建立した元中学生と恩師が14日、いの町の伊野中学校で防災授業を行い、自身や周囲の命を守る大切さを生徒に訴えた。
 女川町は2011年3月に14・8メートルの津波に襲われ人口の約1割の827人が犠牲になった。発生直後に地元中学に入学した生徒らが、後世の人の命を守ろうと石碑建立を発案。募金活動を行い、13年から町内の高台21地点に建てた。
 今回は発案者の一人、伊藤唯さん(26)=横浜市=と共に取り組んだ教諭の阿部一彦さん(58)=現・石巻市立北上中校長=が来高。約220人を前に伊藤さんは「机の脚を持っていないと耐えられない揺れで、訳が分からなかった」「朝起きて『夢ではなかった』と気付く生活だった」と当時の体験を紹介。生徒から「生きているうちにやりたいことは?」と質問されると「震災後、小さな後悔が積み重なった。だからやりたいことは全部やります」と宣言した。
 阿部さんは「目的は石碑を建てるのではなく、絆をつくることだ」と説明。「隣の人にできることを何かやってと種をまきに来た。行動を起こすには勇気が必要だが、ぜひ一歩踏み出して」と呼びかけた。
 伊野中3年の岡田あんじさん(14)は「生きていることの大切さを実感した。絆を深められるよう、地域で交流できる場をつくりたい」と話していた。
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中心メンバーの皆さん、石碑を建てて終わりではなく、このように活動を紹介したり、防災への呼びかけを行ったりなさっています。今年3月には地元の母校での特別授業の様子が大きく報じられました。今回は遠く高知まで出向かれてのご活動。頭が下がります。

逆に各地の学校さんが校外学習修学旅行等で女川町を訪れて中心メンバーのお話を聞く、ということもありました。ただ、ごく最近、そうした報道を目にしなくなりまして、そうした機会が減ったからなのか、それとも当たり前に行われるようになって報道しきれていないのか、後者であればいいと思うのですが……。

いずれにしても、関係者の皆さん、今後ともこうした活動を続けられることを希望いたします。また、全国の学校関係者さんその他、ご参考にしていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

いただいたあの素晴らしい鮎はあれから二日間に亘つて見事な御馳走になりました。骨は夜間たづねて来る狐にやりました。


昭和23年(1948)1月13日 照井登久子宛書簡より 光太郎66歳

同じ書簡の終末部分には「兎と狐とキツツキとを友達にして雪の山もたのしい日がつづきます」としたためてあります。

画像は昨年、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)附近で撮影したキツネの足跡です。
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ムックの新刊です。

 BRUTUS特別編集 合本 本が人をつくる。

2024年6月13日 マガジンハウス刊 定価1,760円

どんな本を読んできたかを知ることは、その人の人生を知ること。恒例のブルータス「本」特集から、読書家たちが大切にしている100回読んだ本を紹介する特集「百読本」、本を愛する人たちが影響を受けた作品について語り合う特集「それでも本を読む理由。」、その2号分をまとめて1冊に。小説、絵本、ビジネス書、アートブック、ZINE……あらゆるジャンルの魅力をぎゅっと詰め込みました。「本」と「読書」の楽しみ方を考える、保存版です。

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百読本
 100回読んだ本はもうその人そのもの。なぜその本を何度も読み返すのか。それを考えることはその人を知ることと同じです。119人の本好きが語る、完全保存版の読書案内。

わたしの百読本。
 まずは、20人の読者家たちが何度も読んだ本の話から始まります。ジャンルも本との向き合い方も人それぞれ。特別な本だけが持つ引力について、彼らの言葉から探ります。
フワちゃん 皆川明 平野紗季子 熊木幸丸(Lucky Kilimanjaro) 乗代雄介 神田伯山 石沢麻依 按田優子 平野啓一郎 紺野真 小林エリカ 斉藤壮馬 佐藤健寿 白石正明 磯野真穂 佐藤亜沙美 岸本佐知子 前田司郎 渡邉康太郎 藤岡弘、

何度も読みたくなる絵本のひみつ。
 子供にとって、絵本は究極の百読本。なぜ繰り返し読みたくなるのか。ロングセラー本にヒントを探し、専門家と一緒に考えます。

それでも本を読む理由。
 今、本を読むことの意味とは。本を愛さずにはいられない、本好き、読書好きが語り合う、「本」と「読書」の魅力。
池松壮亮 藤井健太郎 TaiTan 幅允孝 Awich 吉岡秀典 川名潤 ロジャー・マクドナルド 中島佑介 前田晃伸 黒木晃 鳥羽和久 武田砂鉄 麻布競馬場 桜井莞子 森岡督行 黒島結菜 内山拓也 島口大樹 斎藤真理子 前田エマ 山本貴光 吉川浩満 山瀬まゆみ 紺野真 坂矢悠詞人 髙城晶平 蝶花楼桃花 井伊百合子 山本多津也 若木信吾 荒川晋作 川口瞬 菅原裕喜 前田和彦 二宮慶介 MCNAI MAGAZINE 友田とん 山本佳奈子 花田菜々子 熊谷充紘 三田修平 魚豊 児玉雨子 小泉義之 深津さくら 石黒浩 與那覇潤 ミヤギフトシ 秋草俊一郎 藤岡拓太郎 鈴木一人 室橋裕和 篠田真喜子 加藤幸治 キニマンス塚本ニキ

明日を生き抜くためのブックガイド70
 テクノロジーや社会、ビジネス、カルチャー、普遍的な概念まで、押さえておきたい14のテーマをリストアップし、それぞれに対して識者が選書しました。70冊の中から見つける、明日を生き抜くためのヒント。

「合本」と冠されており、これまでの雑誌『BRUTUS』に載った記事の再編です。「百読本」の項で、デザイナー・皆川明氏が『智恵子抄』を挙げて下さっています。この項は令和4年(2022)年1月1日・15日合併号に載ったものです。サイト上にダイジェスト版がアップされています。
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皆川氏、令和3年(2021)に同じマガジンハウスさんから発売されたムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』でも、『智恵子抄』をご紹介下さいました。ありがたし。

令和4年(2022)年1月1日・15日合併号をお読みになっていない方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐる小生の頭の上へ雪がつもりました。ひやひやしてむしろ爽快を感じました。

昭和23年(1948)1月13日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋は、元々は鉱山の飯場だった小屋をを移築した粗末なものでした。そのためあちこち隙間だらけで、吹雪の時などは雪が舞い込み、このような状態になりました。
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6月15日(土)のことですが、千葉県匝瑳(そうさ)市にある松山庭園美術館さんに行って参りました。

そもそもは先月末の地元のタウン紙に載った紹介記事。
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「第21回猫ねこ展」だそうで、こちらを拝読し、猫好きの妻を連れて行こうと考えました。

ちなみに妻に溺愛されているのはこいつです。子猫の時に娘が拾ってきて、今月で8歳になりました。
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あくまで溺愛しているのは妻であって、当方ではありません(笑)。

閑話休題。同館について調べてみると、光太郎とゆかりの作家達の作品も複数点が収蔵展示されていることが分かり、これは行かねば、と思った次第です。

自宅兼事務所から1時間弱。
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「庭園美術館」と謳うだけあって、なるほど、里山的な環境を取り入れた庭園。新緑がいい感じでした。
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楓の木が多いので、紅葉シーズンは見事でしょう。館のパンフレットも紅葉をあしらっていました。
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元々はアート作家・此木三紅大(このきみくお)氏がご自身のアトリエを美術館に改修されたそうで、開館25周年だそうです。

此木氏、猫好きなのでしょう。猫をモチーフとした氏の作品がお出迎え。
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氏の作品に混じって、氏が集められたと思われる年代物の猫アート、猫オブジェもあちこちに。
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既に「猫だらけ」(笑)。

さて、第一目的の常設展示室へ。
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まずは、何はなくともこれが観たかった、光太郎曰く「火だるま槐多」こと村山槐多のデッサン。4月に信州で見逃しましたので。
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右側に槐多自身の詩が書き込まれています。

われもし盲せば/この語程かなしく辛きはあらず、/われには更に二十年の艶麗なる視覚世界のまてるに、/大丈夫 天は俺を愛して居るぞ

いいですね。

他にも光太郎人脈。

光太郎が東京美術学校彫刻科を卒業してから入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二。ちなみにその際の同級生には藤田嗣治、岡本一平などがいました。ただし光太郎、そちらは卒業せず、中退の形で欧米留学に出ました。そこで卒業生名簿の西洋画科の項には名が無く、藤田や岡本と同級生だったことは意外と知られていないようです。
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大正初め、ヒユウザン会(のち、フユウザン会)で光太郎と一緒だった萬鉄五郎。
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主宰する雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いだ松本竣介。
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他に三岸好太郎、長谷川利行などのビッグネームも。
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これらを堪能したところで、第二目的の「猫ねこ展」。猫好きの妻は既にそちらに(笑)。
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プロアマ問わずの公募展で、何と350名、500点ほどの「猫」。絵画あり、彫刻あり、写真あり、クラフト系あり、モチーフ的にも写実にとどまらず、パロディあり、オマージュあり……。とにかく「猫づくし」です(笑)。
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右上の縦に2枚並んでいる絵は、お笑い芸人コンビ・U字工事さんのお二人の作。6月5日(水)にオンエアのあったBS-TBSさんの番組「ねこ自慢」で、お二人が同館をご訪問、「猫ねこ展」紹介の後、お二人も猫絵に挑戦、というコンセプトで描かれたものでした。
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ちなみに、観覧者を対象に展示作品の人気投票があり、当方が選んだのはこちら。
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こうしたメッセージ性もアートの重要な要素ですから。

展示室にはリアル猫も(笑)。
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同館、10匹の猫がいて、気ままに過ごしています。

「ねこ自慢」から。
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この日はこのうち7~8匹程と遭遇できました。

まず既に入場する前から。
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同一の個体かどうか、のちほどバックヤードでご飯中の黒猫も(笑)。
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下の画像の子は我々が到着してから帰るまで、ずっとこうでした(笑)。
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オッドアイの子も。
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まだまだ居ます(笑)。
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まさに「猫まみれ」(笑)。

「第21回猫ねこ展」、7月28日(日)までの開催です。ただし、金土日および祝日のみの開館ですのでご注意下さい。

帰途、回り道をして、隣接する旭市の「道の駅 季楽里(きらり)あさひ」さんに立ち寄りました。
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花卉の販売コーナーが充実しており、「あるかな?」と思って入ったところ、ありました。
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グロキシニアです。通常の花屋さんなどだとほとんど見かけません。明治45年(1912)5月末か6月初頭、竣工成った駒込林町の光太郎アトリエ兼住居の新築祝いとして、前年に知り合った智恵子が持参した花です。その後光太郎は、くりかえしこの花を詩文に謳い込みました。

かつて二本松でいただいたもの一昨年購入したものは枯れてしまい、またぜひ入手したいと思っていましたので、タイムリーでした。

というわけで、松山庭園美術館さん、道の駅 季楽里(きらり)あさひさん、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

鎌田さんから数日前に「智恵子抄」の再出版の見本を送つて来ましたが、貴下のおてがみによると、澤田さんと十分の諒解が無かつたことが分り、その当時澤田さんの許諾をうけたやうに申された鎌田さんの言を信じてゐた小生としては、何だかみんなイヤになりました。又当分出版に関係するのは止めようかと考へてゐます。


昭和23年(1948)1月11日 森谷均宛書簡より 光太郎66歳

オリジナル『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に澤田伊四郎の龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまっていました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田敬止が『智恵子抄』復刊を企図し、澤田から許諾を得たので、と光太郎に打診。光太郎もGOサインを出し、さらに戦後の詩「松庵寺」「報告」を追加して前年に刊行されました。

しかし、澤田が「鎌田に許諾した覚えはない」と言いだし(このあたり、真相は闇の中です)、昭和25年(1950)に龍星閣が復興すると、翌年から『智恵子抄』の再刊を始めます。

ここまでいかずとも似たようなトラブルが他にもあり、光太郎にとって受難の時期でした。

光太郎とも交流のあった詩人、永瀬清子。出身地の岡山県赤磐市では地道にさまざまな顕彰活動が続けられています。命日の2月17日には朗読会などを兼ねた「紅梅忌」の集いが開催される他、「永瀬清子展示室」が設けられ、さまざまな企画展示が為されていますし、研究紀要というか顕彰活動の記録というか、年刊で『永瀬清子の詩の世界』という冊子も発行されています。また、最近ではすごろく伝記マンガなども発行されました。

先週また、赤磐市教育委員会さんから冊子が届きました。題して『永瀬清子の光を受けて』。A4判50ページ程、3月31日(日)発行と奥付にありました。
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RSK山陽放送さん制作のラジオ番組「朝耳らじお5・5」「朝耳らじおGoGo」内のコーナー「永瀬清子の光を受けて」でオンエアされた内容を文字起こししたものを根幹に、永瀬の遺文なども収められています。

前者では、当会の祖・草野心平や宮沢賢治に触れられています。

後者のうち、昭和64年(1989)1月に雑誌『黄薔薇』に載った永瀬のエッセイ「(心辺と身辺)'88の秋」で、光太郎にも触れられていました。前年に亡くなった当会の祖・草野心平がらみの項の中でです。その年、福島県でのイベントに出席した永瀬が、そのついでに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城の智恵子抄詩碑に詣でた話。同碑は昭和35年(1960)、正式な光太郎詩碑としては2番目に建立されたもので、設計や詩の選定など、心平が骨を折りました。
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画像は先月、「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際に撮影したもの。

ここで永瀬は光太郎や、生前に会うことの叶わなかった智恵子、そして病床に臥せっていた心平に思いを馳せました。当方もまた行く機会があれば、永瀬もここに来たんだなぁと思い巡らせることに致します(笑)。

永瀬と言えば、やはり先週、『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で取り上げられました。

 天声人語

私が生まれ育った家には、風呂がなかった。だから隣家で、もらい湯をした。前掛けをしたおばあさんが薪(まき)をくべ、パチパチと焚(た)きあげる湯だった。かまどの前にすわる彼女の姿と、しわだらけの小さな手を今でも覚えている▼遠い記憶が蘇(よみがえ)ったのは、岡山県赤磐市にある永瀬清子の生家を訪ねたからだ。詩人が暮らした農家は、田畑のなかで朽ちかけていたのを支援者等が改修し、一般公開されている。五右衛門風呂も再生され、体験入浴できる▼明治に生まれた永瀬は大阪や東京での生活を経て、終戦の直後、39歳で古里に戻った。〈二反の田と五寸のペンが私に残った〉と始まる詩はこう続く。〈詩を書いて得たお金で私は脱穀機や荷車を買った。/もうどちらがなくても成り立たないのだ〉▼農婦であり、母として田園に生きた詩人である。苗を植え、風呂を焚き、家事をこなしてから、深夜にちゃぶ台の茶碗(ちゃわん)をのけて、むさぼるように詩作に励んだそうだ▼「この家は風が気持ちいいんです」。生家保存会の横田都志子さん(58)は話した。詩人が感じた夜明け前の山の色、風の香り、揺れる葉の音。そんな自然に触れ、「彼女の詩がより分かった気がします」▼私も五右衛門風呂に入らせてもらった。熾火(おきび)がじわじわと湯を温め、心地よい。ふわり白煙が青い空に泳ぐ。〈一日、昔の風が吹いて来て私を騒がせた。/どこに今までさまよっていたのか/おそらく世界の涯までも流れていたのか〉。無性に故郷が懐かしくなった。

永瀬の生家は令和3年(2021)に改修を終え、一般公開が為されています。当方、平成25年(2013)に足を運びましたが、その頃は「天声人語」にあるように「田畑のなかで朽ちかけていた」状態でした。それが建物内にギャラリーとカフェを作るなどし、活用されています。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の参考にもなるかも知れませんので、折を見てまた行ってみたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おたよりで松木といふところをも想像してゐます。小倉豊文さんにもお会ひの由、よろしくお伝へ下さい。あなたの詩は雑誌でいつも気をつけて読んで居ります。去年竹内てるよさんがこの山の中へ来たのには驚きました。今此辺はかなり雪ふかくなつてゐます。

昭和23年(1948)1月14日 永瀬清子宛書簡より 光太郎66歳

その永瀬宛の書簡の一節です。永瀬宛の書簡は『高村光太郎全集』では昭和27年(1952)にしたためられた1通のみの収録でしたが、その後、ご遺族から情報提供があり、新たに4通が確認できています。

「松木」は永瀬が暮らしていた豊田村松木(現・赤磐市)。「小倉豊文さん」は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、広島での被爆体験を綴った『絶後の記録』(昭和24年=1949)には光太郎が序文を寄せました。「竹内てるよさん」は詩人。確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。ともに永瀬・光太郎共通の知り合いでした。

光太郎第二の故郷・岩手花巻にある道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売される弁当「光太郎ランチ」。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは、鮭の塩焼き、豚肉とミズの煮物、スナップエンドウとニラのバター炒め、じゅんさいとイカの酢の物、伽羅蕗、グリーンピースご飯、白六穀ご飯、抹茶甘酒のゼリーだそうです。

「ミズ」はこの地でよく食べられている山菜、「伽羅蕗」はフキの佃煮ですね。意外と山菜好きの当方としては食欲をそそられます。

昨日もご紹介した6月1日(土)、NHK仙台放送局さん制作の東北6県向け情報番組「ウイークエンド東北」。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関して報じて下さいましたが、それにからめ、東北各地で光太郎や智恵子の顕彰に当たられている人々がご紹介され、やつかの森LLCさんの中心メンバーのお一人、井形幸江さんも。
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GW中の5月4日(土)、5日(日)に花巻で開催された「土澤アートクラフトフェア2024春」で取材が行われ、画像は上記の光太郎ランチと同様の、光太郎が実際に作ったメニューや使った食材などを参考にした「こうたろう弁当」制作の模様です。
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井形さんの「食」にかける思い。
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なるほど。

しかし、そこにとどまらず……。旧太田村の高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)に移動してロケ。
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同感です。

最近見つけた、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎の長い談話筆記の一節。

 美はどこにでもある。といふことは結局美は発見だといふことです。美をみとめようとしない人には、美はわかりませんよ。そのかはり、美は発見しようとすればどこにでもあるといふのです。美は先刻もいつた通り、人間にとつて、もつとも根源的な力だから、美をみとめる力は誰しももつてゐるはずだけれど、それが心のなかで眼ざめずに眠つてゐるのだといへます。さういふ美にはぐれた人たちは実に気の毒です。それは美を発見する土台が与へられなかつたからだと思ひます。さういふ人は救はねばなりません。
 だから心をそこに留めれば美は至るところにあるわけで、私は本郷から上野までの間の道路を映画化して毎日何気なく通つてゐる道すぢに、無限の美があることを示さうとしたことがあるのです。それは道の上に落ちた木の葉とか、生垣、足跡、プラタナスのもとに立つたお巡りさん……といつたやうな日常平凡なものですが、それらの中に事実無限の美があるのです。

旧太田村の山小屋に移って約1年後の昭和21年(1946)9月1日『婦人朝日』第一巻第九号がソースです。題して「山里に美を語る」。

「映画化」云々は、一時16㍉カメラでの動画撮影に凝っていたことに由来すると思われます。昭和9年(1934)には、九十九里浜で千鳥と遊ぶ智恵子の姿もフィルムに収めました。しかし、カメラもフィルムも、昭和20年(1945)の空襲で焼けてしまいました。

閑話休題、「食」を足がかりとした光太郎顕彰、末永く継続して行かれることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

東京では冬でも野菜が出来るのですが、ここの山の中では畠の上に雪が三尺近くかぶさつてゐて、雪のとける四月まではお休みです。村の人たちは雪の深い山へ炭焼に皆行つてゐます。その炭が東京の方へ行くのです。


昭和23年(1948)1月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎66歳

東京に住む令姪に宛てた葉書の一節です。何しろビニルハウスなども無かった時代ですから……。

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